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俺の記録庫

2929考える名無しさん:2018/05/14(月) 23:23:04 ID:feJh5RWI0
先の著者の「こだわりを物差しに独自の世界を作る」ことで身を守る(整合性・一貫性を保つ)方法のバリエーションとして、
唯物論者、そして一般的な科学信仰の無神論者というものを描写する。

「目に見えるか否か」を物差しに「独自の世界を作る」ことでリアリティを保つ。

「目に見えるか否か」を物差しに「独自の世界を作る」ことでリアリティを保つと、
霊とか宇宙人という言葉が現れると、「自分の世界に含ませてはいけないもの」という判断回路ではじく。

先の著者は「こだわり」という目に見えない身体感覚を物差しにしていたが、この唯物論者は視覚を物差しにする。

「声が聞こえた?幻聴だ。病院行け」
「自分の世界」に合わせた現象の解釈をし始める。
ここに認知的不協和(届かないものを酸っぱい葡萄と認定)

例えば、天才科学者の功績が、「積み重ねの賜」であるなどと盲信している場合、「天才ではない科学者」はコツコツ努力によって天才になろうとする。

出だしの一歩の向きで全てが決まるというのに、歩いた距離で我が身が変身するとの思い込みが、いわゆる癌を発病して死に至る、的な「取り返しのつかない歩み始め」に見える。

最初の最初からの世界の認識の仕方の違いが、力の違い=異なる色となる。

武士道とか、その辺の差違を議題にしてると思う。

わかりやすい事例で喩えるなら、

「論理とか科学とかわかんないから、自分はアートをやろう」

みたいな「挫折そして逃避の結果としての進路」は、しばらく進むと打ち止まるか、結局「挫折と逃避」を示すように歪曲してくる。

大局として、学問としてのアート自体がねじ曲がってきている気もする。


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