[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
1-
101-
201-
301-
401-
501-
601-
701-
801-
901-
1001-
1101-
1201-
1301-
1401-
1501-
1601-
1701-
1801-
1901-
2001-
2101-
2201-
2301-
2401-
2501-
2601-
2701-
2801-
2901-
3001-
3101-
3201-
3301-
3401-
3501-
3601-
3701-
3801-
3901-
4001-
4101-
4201-
4301-
4401-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
俺の記録庫
2929
:
考える名無しさん
:2018/05/14(月) 23:23:04 ID:feJh5RWI0
先の著者の「こだわりを物差しに独自の世界を作る」ことで身を守る(整合性・一貫性を保つ)方法のバリエーションとして、
唯物論者、そして一般的な科学信仰の無神論者というものを描写する。
「目に見えるか否か」を物差しに「独自の世界を作る」ことでリアリティを保つ。
「目に見えるか否か」を物差しに「独自の世界を作る」ことでリアリティを保つと、
霊とか宇宙人という言葉が現れると、「自分の世界に含ませてはいけないもの」という判断回路ではじく。
先の著者は「こだわり」という目に見えない身体感覚を物差しにしていたが、この唯物論者は視覚を物差しにする。
「声が聞こえた?幻聴だ。病院行け」
「自分の世界」に合わせた現象の解釈をし始める。
ここに認知的不協和(届かないものを酸っぱい葡萄と認定)
例えば、天才科学者の功績が、「積み重ねの賜」であるなどと盲信している場合、「天才ではない科学者」はコツコツ努力によって天才になろうとする。
出だしの一歩の向きで全てが決まるというのに、歩いた距離で我が身が変身するとの思い込みが、いわゆる癌を発病して死に至る、的な「取り返しのつかない歩み始め」に見える。
最初の最初からの世界の認識の仕方の違いが、力の違い=異なる色となる。
武士道とか、その辺の差違を議題にしてると思う。
わかりやすい事例で喩えるなら、
「論理とか科学とかわかんないから、自分はアートをやろう」
みたいな「挫折そして逃避の結果としての進路」は、しばらく進むと打ち止まるか、結局「挫折と逃避」を示すように歪曲してくる。
大局として、学問としてのアート自体がねじ曲がってきている気もする。
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板