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俺の記録庫
2488
:
考える名無しさん
:2018/03/20(火) 21:09:52 ID:rlEOoSEQ0
かつおのたたきをおかずに飯を食いながら、今一度算命学の辰巳天中殺について考えていた。
天上(精神世界)が欠け、努力よりも才能を与えられ生じる命。なぜ現実だけに生きなければならないのか。
ショッキングな仮説が思い浮かんだ。
辰巳は、場が擬人化した存在であり、個として存在していない。
これについて考えるには、丁度正反対の存在である戍亥天中殺(現実(今)が欠ける)について並列して考えると導きやすい。
戍亥天中殺は「幽霊」だ。時を超えてそこにぼんやり存在しているようだが、現実上に実体を持っていない。
他の星については今回は考えずにおく。
いや、午未天中殺だけ含めるか。家系の最後であるという存在。
午未の人という存在は、その家系の歴史全ての人の意識だか魂が形となった存在、という感じか。
こういう理解の仕方をしているが、それらのビジョンを思い浮かべるのが怖い。
虚しさと儚さしか無い。
戻って辰巳天中殺。場が擬人化した存在。
別の喩えだと、魔術師の作った人工生命。
物質的身体が朽ちたとき、本当の無に帰す存在。
そこから理解できる「最も縁遠い行為」は「所有すること」。
「所有者」が居ない。
そんな設定のセカイ系物語は多くありそうだ。これが辰巳天中殺の現実だった。
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