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俺の記録庫

226考える名無しさん:2017/08/19(土) 03:43:35 ID:XqU6XZIM0
この俺の考えは、フロイトの「何でも男根」理論を、その「己の複数性」において肯定し、その「性器の絶対性」において否定するものだな。

俺は今までに己を「脳」とは表現せず、「目」と「手」と表現した。「私自身」という位置は、どこにも存在しない。
「私」は「目」や「手」を束ねているだけ。

「絵」というものに関して、
「手」を優先すべきか「目」を優先すべきか。

「絵を描くこと」が趣味な人は、「手」の好みを追求するしかない。その結果の絵柄が「へえ、自分の声ってこんななんだ」と録音した自分の声を初めて聞いたときのような恥ずかしさと違和感を感じながら受け入れていく方向。

「絵」を武器にする人は、

「目」の好みを優先、と言いたいところだが、ポストモダニズムと時期を同じくしてやってきたマーケティングが「他人の好み」を優先するように五月蠅く講釈している。

まずは他人は切り離し、自分の中だけでの一歩を進むには、「手」ではなく「目」の好みを優先だ。

しかし、「目」の好みだけしか見えてない「普通の人」は、「好きな画家・絵師」の絵柄を真似る・コピーする、だけで完結してしまう。
この作業が完了するまでの間に芸術的な営みは無い。

絵を記号と捉えると、手書きの文字と同じ扱いになるので、意味が伝わればそこで完了となる。

ここで今一度、「自分は一体何がやりたいのか?」を考える必要がある。

コミュニケーションツールとして(文字として)、絵を描きたいのならば、文字として完了する「作業」を習得すればいい。ただ、その「作業」の先に芸術は無いということも自覚しておくべきだ。変に混ぜると何も伝わらない。

文字で考えれば単純明快だ。
「ラブレター」を、ちょっと芸術性を持たせた手書きの文字で綴る。

何が書いてあるのかわからない。
結果、相手に思いは伝わらない。
一体、何がしたかったのか。

相手よりも自分のことが優先されるなら、恋文などを書く段階ではなかったのではないか?と。


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