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俺の記録庫

225考える名無しさん:2017/08/19(土) 03:17:50 ID:XqU6XZIM0
例えば、「絵」について、気がついてしまった新事実がある。

自分の「手」が好む絵柄と、自分の「目」が好む絵柄は【違う】。

ここを、どう一致させるか。

手というのは、実際の実技を行っている身体部位であり、この手は、触れた感じ、描く勢い、強さ、そういう点での好みを持っている。

仮に、この自分の「手」の好みの絵柄を自分の絵柄としてしまうと、
出来上がった絵を見て、自分の目が喜ぶ、という風には、ならない。

多分、これが、「手癖」というものを根源的に解明して、それが発生している状況を、それを理解したい人が知りたい形で解釈したかたち。

楽器演奏でも同じなわけだ。自分の「手」が「これがいい」と感じる「弾き方」がある。
絵だとそこが絵柄になる。

現状の認識レベルでの音楽教育者は、「そういうもの」を「悪い癖」という言葉で指し、演奏時の姿勢や手の動かし方を型通りにたたき込む。このままだと思考実験「中国語の部屋」状態。

まず自分が知るべきことは、「自分が」「好きであること」が存在した、という事実を認識すること。
次に、何を好きであるのかを認識すること。その前に、「自分が」を「自分の手が」と認識する。

自分という統合思念体を、それぞれの個(好みを発する根元)に切り分けて、「一体自分は何をしたいのか?」という乱暴にひとつの主語に纏められた問いを、それぞれの個に分解しながら「本当のところ」を知る。

本当のところに気付く感じは「実技」系なので、理屈と体感の両方揃えないと掴めない。

自分が(この自分は、手であったり、目であったり、耳であったり)好きである、ということに気付かないままの場合、何が起きるか?
その場合、「他のスタイルを取れない」。

自分は、自分が好きであると気付いていない一つのスタイルに固執し離れることができない。その存在を認識していないから。

世の中では、その「離れられないスタイル」のことを「その人の個性」と呼ぶ。

これは個性じゃない。
克服できていない「盲点の認識」だ。その個性は盲点だ。その盲点を己は未だに認識していない。

これを認識しないと人は自由になれない。自分が何を「やってしまうのか」を制御できない。


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