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俺の記録庫
2085
:
考える名無しさん
:2018/02/08(木) 21:29:48 ID:hWzIBjVE0
マンガ絵の難しさは、「如何に生々しさを出さないか」にあると思うんだよな。
だから記号が前提(結果論的に記号の範疇)となる。
美術的描画の生々しさ(グロテスクさ。視覚的だけでなく感情的伝達も含め)の敷居ギリギリの、記号側に分類される表現力豊かな線画が、洗練されたマンガ絵と俺は思う。
この「生々しさ」というのは、音楽で言えば、コンプレッサーで粒(強弱・アタック/リリース)を揃えない生の音、ということであり、
例えば、ファミコン音源の電子音楽などは頭から生ではない。
最近のループを多用したプロデューサーレベルで制作する商業音楽は、全部コンプで[記号化]されている。
映画的表現、ってのがある。
俺は、映画的『大げさ』表現があまり好きじゃないのだけど、
映画やアニメ映画に観られる壮大さ(スペクタクル)は、「生々しさではない」のだよね。
映画表現のダイナミクスは、
・一旦記号化して粒を揃え
・その粒を理論的にスタイルとして大きく強調する
というものだ。
ここからVR(仮想現実)に繋がるのだけど、
それら「デジタル」(ここでの意味は前ツイート参照)な映画誇張表現世界に放り込まれたオーディエンスは、果たして本当にそれを「現実」と錯覚しているのか?という疑問がある。
現実よりもスパイシーなのは確かだが、それは「現実ではない」自覚でもある。
なぜ文字だけで描かれる小説が、どうしてもあらゆる物語の原作になってしまうのか。
現実感を規定する視聴覚に直接作用する誇張表現が使われないから、常に「現実」と錯覚できる鮮度(生々しさ)にまで立ち戻ることができるから、と俺は考える。
解釈を固定しないから、と単純に言うことも出来る。
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