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俺の記録庫

1881考える名無しさん:2018/01/19(金) 20:38:43 ID:5d6FeLLM0
何気なく私見を。
「リテラシー」「常識」みたいに空気を制圧する目的で使われる色がある「論理的」という語。それでも日常で「論理的」と活用する理由と根拠を考えた。

「あらゆる文章は修辞的な言い回しとして解釈されうる」と初期化する。
そこで「ある表現の根拠を遡ったときに自明となる場合」、

その「自明となる根拠部分へ遡る解説」を「修辞としても解釈される日常言語表現上」において「提示を不要とする」として話を進める場合、
「論理的に言って」等の文章上の表現をすることによって、話者が主張を言い切るまでの字数・時間を短縮できる。但し、その短縮箇所が自明ではない時、誤謬となる

誤謬の部分。ある人が「この部分は解説不要」と思い込んで「論理的に」と言った。そこを精査すると、どうも最終的には自明な論理構造には行き着かない事柄について「論理的に」という語で短縮した疑いが生まれる。このとき、この人は誤謬を犯した、詭弁を言った、という状態なのだと思う。

ここまでの自分の考えにおいて核となっているのは「論理は自明である」という定義と思う。
ここが覆る場合、自分の主張は全て崩れる。

「論理とは何か」という問いを、あらゆる角度から「こうだ」と言える普遍的な形を何とするか、という共通認識を育成・形成しなくては、成り立たないかもしれない。



論理の自明性に気付いてしまった後に、社会の中で、特に法学・政治学・経済学・その他文系分野、そして士業が携わる業務内容、そういうものの「中の」議論で

「エビデンスは?」

というのが目に付くのだが、これらエビデンス(根拠)は論理の自明まで遡らないし、そこまでの絶対的説得力を持たない。

そこで、
「この人達は、その人達が没頭する分野の「中の」ルールの範囲内で許可される有効性について確認しあってるんだな」っていうのを感じるわけだが

同時に、論理よりも弱い説得力により支えられるそれらは、何かあったら「世界の終わり」的に価値が覆る危険性を常に孕んでいることに気付く。

自明性が内在する箇所というのは、絶対にパラダイムシフトが発生しない箇所、とも言い換えられる。

その「自明ではない根拠」により支えられる体系や分野の「不確かさや生ものっぽさ」に、「絶対の忠誠を誓うことはできない」という心情が個人的には発生する。ここは個人差がある。


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