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俺の記録庫

173考える名無しさん:2017/08/11(金) 05:40:03 ID:UzDke0GE0
先日はアニメ「グラスリップ」を全話通して「改めて」見たのだが、これを俺の「やまびこ現象」と呼ぶには少し説明が要る。
見るつもりではいた。しかし、タイトル以外の内容は一切憶えていない、という記憶から消えてる感が「また見たい」感を高めていた。

True TearsやTari Tariなどは内容を憶えているのに、なぜかグラスリップだけは憶えていない。

元来俺は記憶力が良く、一度見たものはまず忘れないので二度以降見ることが苦痛であった。
それ故に違う物しか見れなくなり困った。
そこで、「忘れる技術」を高めようとした。

1つの作品を忘れるために、10作品くらいの違う作品をそれぞれ集中してぶっ続けで見る。
これにより、記憶から薄れていってくれる「もの」が現われることを発見した。

先々日辺り、俺は「枠の外」から社会の城壁を見ている様子を描写した。
その頃から「次はグラスリップを見る」流れに入った。

「未来の欠片」を見るお話であったことすら忘れていた。
しかし、見ると同時に思い出すわけだが、そこで俺としては既知の事項である「未来に事項が繰り返される『やまびこ現象』は俺にとっての現実であること」が作品読解に絡み付き、「やっぱり「これ」もやまびこ現象の一環なんだよな」と身構える。

俺は「やまびこ現象」を考察する際に「妖精の存在」を仮定している。
この作品では、未来視の不可思議の追求の上で、その様な「君と僕」以外の「第三の加担者」については意識が向いていない。
暗に「木漏れ日が美しい森林」という場に、俺のいう「妖精」を無意識的に描いているとは解釈できる。

しかし、この作品として「理解されるべきこと」としてもっと前面に押し出されていることは、

「魔法使いは魔法をかけた後、自分の存在を相手から忘れられてしまう」「無自覚な能力者は、そのことに気付いてしまうと、魔法が使えなくなる」
という、
あくまで人物視点から得られる解釈だと思う。

そんな「解釈の志向性」を持った「作品自体」を俺が見たときに思うことは、
「この作品グラスリップにおける、俺の文脈で言う『妖精』は、駆(男主人公)だろう」。

シュールなギャグ作品なアニメ「坂本ですが?」の男主人公「坂本」も、同じ意味で『妖精』(神仏の類い)であると考えられる。

「作中に『妖精』が人物として登場」という形を、俺は「現実ではないフィクション」と考えている。

現実の妖精は、まじで人間が考える「存在」という概念に当てはめて「個」として認識し難い。


もう少し人間的(凡人的)な知性で作品を解説すると、
「夢オチ」という崩壊への危険すれすれで解釈。魔法使い「駆」が「駆に欠けている部分が欠けていない存在」=「透子」に現象学的還元をさせ駆の現実を透子に見させるという魔法を使ったことで、駆のいた夏休みは「一夏の思い出」として消えた。


まあ、作品解釈は、俺としては余り重要ではなく、
2話3話4話…と回が変わる度に「不幸になる人」「苦難に遭遇するキャラ」が移り変わっていくその描き方には、「運」というものの「存在」を有形的に受け取らせるところがある。
神社でお参り・神社で相談事シーンに意識的・無自覚な作為が見れる。

そういうのも全部ひっくるめて、更に別の、もっと薄っぺらい視点(歴史資料整理的な視点)から見ると、駿作品の「魔女の宅急便」と「耳をすませば」のシーン断片・オマージュが感じられないこともない。

こういう風に考えながら俺は「俺はたった一つの人格しか持っていないが、どうも常に視点が2つ以上ある様だ」ということに確信を抱き、
「どうやら、俺が、自分の人生で、ひとつのことだけに集中できない理由は、『必ず2つ以上を同時選択する』という俺としての絶対的原理があるためだ」と気付いた。

だから多分、紙芝居ゲーム(ギャルゲ・エロゲ)をやっていても、共通ルートが終わり攻略キャラ別の個別ルート選択肢の場所で、「強い抵抗感を感じ」、そのゲームはそこでやり辞めて別のゲームをやる、という形になりがちなのだろう。
個別ルートを選ぶというのが「嫌なことをやるのに付き合う」感じ。


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