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俺の記録庫

1430考える名無しさん:2017/11/17(金) 19:43:03 ID:rP5sRNts0
逆に言うと、ファッションとして芸術を体得しようという現代社会の風潮、これは偽物のアートで世間を埋め尽くす原因にもなり、つまり、「あらゆるカルマを知らないまま何不自由なく生きている人が、鑑賞した後も何不自由ないままでいられる作品」を社会的に「これが芸術である」と定義する方向にある。

社会というのは、それぞれぞれなりにカルマ・苦悩を持つ個々人がそれらカルマに目を向けていないときの「今なら体調良いし皆のお手伝いできるよ」という側面部分だけを切り取って寄せ集め、人数で割った平均値だ。

とはいえ、未だに俺は「性器露出アート」を主張する人間達には批判的だ。
公共の場としてのモラルについて、というのが今までの俺の見解だったが、今はその先がある。

性器露出で停止する中途半端さが偽物臭い。
それを主張する奴は、結局性欲の虜なのか?レイプされてもその主張のままか?

「なら、レイプされてからもう一度、その性器露出アートの正当性を主張しろ」
事態の悪い面、奥に潜む本質、そのままにしておくと到達してしまうそれ自体が持つ方向性を理解していない。
という意見になる。
「その性器露出アート主張者が抱えるべきカルマを抱えてから、出し方を考えろ」となる。

これは、「肌の露出の多い服をファッションとして着て歩きたい女性」が「ひとのファッションを性的に見る側が悪い」と責任を押しつけながら自分のしていることを自覚していない、ということに繋がる。

異常性犯罪者にレイプされたり最悪殺害されないと、理解しない「ものわかりの悪さ」だ。

この「知らないままのワタシ」の方向性で発達させられる「アート」は、その「何不自由なく生きている人達用の似非アート」の部類であり、

即ち、麻酔を打って、去勢して、部位欠損しまくりの身体を仮想現実端末に接続したうえでの五体満足感で自己の臨場感を初期化して、という現実感のうえにある。

つまり、どこかとてつもなくダブルスタンダードなわけだ。

このダブルスタンダードさが「公私」という概念により、その有効範囲が分けられている感が現代社会にはあるのだが、「誰かの都合」でその境界線を広げたり狭めたり、そういうことを人権屋的アーティストは飯の種にしている。


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