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俺の記録庫

1318考える名無しさん:2017/11/07(火) 09:46:28 ID:ZZVKU.B.0
内田氏のブログ記事から画像引用。

画像引用元
大学教育は生き延びられるのか?
blog.tatsuru.com/2017/11/03_092…

俺は、「人の人生」というものも、「まともなハードウェア」のサポートがなければ、実らない、と考えている。

自分の人生については、「ずっと使いにくいハードウェアと環境のために、実ることなく人生を無駄にしてしまっている」と思っている。

ここでハードウェアが社会システムを含み始める。

ここまでの「ハードウェア」の何たるかを踏まえた上で、
例えば「芸術家になりたい!」と思った若者がいるとする。

現行のハードウェアでは、芸大を出てないと無理。登竜門のコンペで入賞しないと無理。という回りくどい手続きが必要になる。
茂木氏の批判する日本の受験もこの回りくどさと思う。

「回りくどくても、その資格を得るためならば、頑張るのが(思い立った意思に対して直線的)だよ」
という言葉を、社会に穢された人々は言う。

実権を得る手段としては唯一の手段であるのだが、自己の発した意思に対しては、どこかずれている。
この「ずれ」に洗脳されると、当初の思いを無くす。

俺は、これらのことを、今引用した人々の様に博士や教授の立場から言えるようになりたかった。
そちら側から回り込めば、最悪の事態でも、自分の存在意義や価値について思い悩む必要がなくなるから。

俺は、その人達と同じことに気付きながら、回りくどい社会の階段登りを選ばずに生きてきた。

結果として、俺は自分自身というものを失わずに生きてはこれているが、その反面、「独自の基準で『全て』を規定する社会というもの」からは、喩えると「性同一性障害者」のようなアイデンティティ不明な存在として「無価値」と見做される構図にあると思う。

いわゆるトロッコ問題で犠牲にされる側に俺は居るわけだが、
犠牲になる側の視点から、そんな社会の問題点が見えるわけだ。

しかし、結局犠牲にしていく社会に対して、それらの問題点を解決していくための「手助け」を犠牲にされる身でありながらすべきなのか、とても疑問に思う。

人間の人生というのは、「社会」という擬人化された相手との「恋愛シミュレーションゲーム」だと思う。

この「社会」という相手に対して好意を抱いていなければ、バッドエンドしか訪れない。
恋愛ゲームでありながら、プレイヤーが相手を落とす形ではない。
如何に相手を好きになれるかのゲーム。


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