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親日国ポーランド

1名無しさん:2015/07/28(火) 07:32:26
「『日本は良い国、人道的、サムライ精神に溢れる国だ』と、こちらが気恥ずかしくなるような(絶賛した)表現をする。彼らはポーランド社会における親日感の語り部。それがいまだにずっと残っている」 後に大統領になる「連帯」のワレサ氏は、1981年に「ポーランドを第二の日本にしたい」と語り、ポーランドでは誰でも知っている名言になっているという。

2親日国はたくさんいる:2015/07/28(火) 07:34:52
1919年、ポーランドはロシア革命により独立を果たしたがロシア・ポーランド両国は戦闘状態に入りました。

当時、シベリアのウラジオストクには10数万人のポーランド人が取り残されていました。

3親日国はたくさんいる:2015/07/28(火) 07:35:51
特に親を失った子ども達がいたのです。そんな子ども達を「ポーランド救済委員会」のアンナ・ビエルキエヴィッチ女史とユゼフ・ヤクブケヴィッチ氏が助けようと働きかけました。

ロシア脱出はシベリア鉄道の陸路は交戦中で使えず、たとえポーランドに戻っても家が無かったのです。

委員会は欧米諸国に孤児たちの輸送と援助を頼みましたが、国際関係の緊張から各国は冷淡なものでした。

そこで委員会は日本に助けをもとめました。

アンナの叔父は日露戦争で捕虜になり、日本人に親切にされていた。
また、日本はソヴィエト赤軍に敗れたチューマの義勇軍のために船を出し、ポーランドへ帰れるようにしていた。
日露戦争で勝利した日本なら助けてくれるかもしれないと淡いながらも期待をしたのです。

しかし、当時日本とポーランドに正式な外交関係はなく、その上、祖国と分断された在シベリア民間人の費用と手間がかかる依頼を実行したのは異例だった。

1920年7月下旬、56人の孤児がウラジオストクから敦賀を経て東京へ入り、渋谷の宿舎に収容されました。外務省が動いたのはわずか17日後の事です。

4親日国はたくさんいる:2015/07/28(火) 07:37:36
この後、1921年7月までの1年間で5回、1〜16歳の375人が日本へ渡りました。

日本に到着した孤児は痩せて病気で弱り、敦賀に入港したら、服を脱がし消毒し浴衣を着せました。

日本全国に孤児たちのことが報じられ、寄付金、玩具、お菓子などが送られ、歯科治療、理髪、慰問演奏、慰安会などがボランティアによって行われました。

1921年4月6日には貞明皇后が行啓され、子ども達を励まされたりもしました。

帰国事業は1920年9月から翌年7月にかけて行われたのです。

しかし、その時にもまだシベリアにはまだ200人以上孤児が残されていたのです。

1922年3月、日本政府は2度目の救済事業を行い、390人の孤児が大阪に運ばれ、この孤児達は日本船でポーランドに送られました。

5親日国はたくさんいる:2015/07/28(火) 07:38:29
日本を出航する時には、バナナやお菓子が配られたが、親身に世話をした日本人との別れを悲しみ、泣きだす子もいたそうです。

子ども達は船のデッキから日本語で「アリガトウ」と叫び、日本の歌を歌って感謝の心を表してくれたのです。

1980年、民主化の動きが起こり、立役者となったレフ・ワレサ氏は初の外国訪問先に日本を選び、1981年5月に来日し、「日本は大きくて平和で偉大な可能性に満ちた国だ」と評し、帰国し「ポーランドを第二の日本に」と言うスローガンを掲げた。
そして、1989年、ポーランド共和国となった。

日本ではそのことは歴史の渦に埋もれていき、ほとんどの日本人はポーランドとの出来事を忘れていった、しかし、ポーランド国民は違っていたのです。

1993年からポーランド大使を勤めた兵藤長雄氏はポーランドの親日を不思議に思い、原因を調べ広めた。

1995年10月、8人のシベリア孤児の公邸訪問が実現した。
すでに孤児は80歳を過ぎていたが、当時の思い出は鮮明に残っており、感謝の気持ちを語った。兵藤氏は任期を終える年まで交流を重ねました。

極東委員会の副会長ユゼフ・ヤクブケヴィッチ氏は礼状を送りました。

「ポーランド国民もまた高尚な国民であり、いつまでも恩を忘れない国民であることを日本の人たちに知っていただきたい。ポーランド国民は日本に対して、最も深い尊敬、最も温かい友情と愛情を持っていることをお伝えしたいと思います。」

とあった。


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