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Allegro agitato e presto
1
:
◆jy..O/eIGM
:2021/10/23(土) 17:48:20 ID:f9T80XT20
1.White Noise
言葉のない花を想う。
名や故事の絡まぬ花を想う。
蜘蛛の巣から垂れた雫に陽光を透かした色を束ね、萌ゆる緑の地よりわき立つかすみのフェイズを過ぎ、交わる豊かな聯連の丘陵。
蘂の粉はしっとりと濡れ、甘つゆの蜜はまるで少女のあどけない唇のよう。
ぷっくりふくれた水滴が花弁を伝い、葉をしとねとして、脈をなで光の粒を残すと、瞬間、先で、完璧な曲線を空に描き、鉢の土へと還ってゆく。
エメラルドグリーンのカーテンごしに朝日が顔を照らし、風が影を落とし、また照らし、ひだの濃いはしに倒れ、朝露の赫きを抱きこむゆかしいドレープが流れ落ちる。
ぼやける視界に、薄いベージュの天井と消えたルーム・ランプ、しみのないクリーンな色合いがグッド・モーニング・コールを奏する。まばたきでおはようのご挨拶。
瞳をしめらす涙のなごりから極彩色のハレーションが散らばる。まぶたをこすりこすり。
寝がえって、汗でしめるシーツをもてあそびながら、ゆうべの残り香と水を撫でる。
あら、こんなところにも。やだわまったく、はしゃぎすぎねレイったら。…やあね、まさかあたしのかも、これ。あと、これとこれも。
梓茜(アズサ・アカネ)はビターで、スウィートで、エロチックなそれをひとしきり撫で終えると、お腹がきゅっと淋しいような、もの足りないような、それでいて芳しくて、みずみずしくて、へたな修飾を重ねただけじゃわからないような、ぬるい愛おしさをかき抱く。ちろりと舌で唇を湿らす。いとおしさ? 情感、熱暴走? ねつぼうそう? それとも焦燥かしら。ねぼすけのおつむがふにゃけてる。
究竟なところうまく言えないけれど、結局は大人の子どもなお遊戯だもの。嵐はすぎ去ってこそ、改めて思いかえせるものだ。台風一過みたいに。
ベランダにひらけたフランス窓からハトのハーモニーが聴こえる。
庭木のゴールド・クレストは若やぎたつ秋模様で、その頂上には、きっと、せっかちなお星様の真似をした彼女たちが羽を休めているのだろう。
ここからじゃ見えないんだけどね。
ささやかな朝の奏(くるっぽー、くるっぽー)に混じり、虚空に流線を描く紫苑色の鼻唄が、朝の香りにのってあたしの耳に忍びこんできた。
涼しげな温度。レイの馨。
寝室の壁をアイヴィーのように取り囲んでいる書架には、ヴィンテージのLPレコードと異国の言葉の背表紙がギュッと並び、枕元のナイト・テーブルに添え置かれたターンテーブルの針はあげっぱなし。
だからこのざれうたのリズムとステップはあのこ発信。音盤と人声の勘違いなんて、寝惚けてる証ね。
リズミックなしらべは小人の軽やかなキッキング・ダンスのように爽やかで、ちょこっと煽情的で、深いところが柔らかく、そしてしとどに濡れている、レイのきざったらしい本音がのぞきみえる。
ポップアップ・トースターのチン! という音が鼻唄に和してなかなかだ。
いい音といい香りはドアのあわいからこっちにきてる。
もうしぶんのない朝だ、と思い、アカネはかるく顎を引く。口元がゆるむ。
ぐぐっとのびて大あくびを逃がし、後ろ手でぽりぽりとうなじのあたりをさする。
うん、やっぱまただ。視線を落とすと鎖骨のまんなかにも、同じくらいの噛んだ痕がある。
内腿や二の腕の後ろにもありそうだ。頬が緩む。
あたいが安い女じゃないってわかってんだ、ぜったい。ふふん、もえちゃう。
口の中で軽いため息をつき、そのまま飲みくだし、
すくめるための肩は愛しの姫君にとっておく。
45
:
◆jy..O/eIGM
:2021/10/23(土) 19:17:44 ID:f9T80XT20
( ノAヽ)「ノルマは?」
lw´‐ _‐ノv「達成しました。やっぱ日曜だからかなぁ」
('A`)「満員御礼、今日はもーなんにもしたくないね。タカシさんもどおよ?」
( ノAヽ)「いや」
なにがどうなのかわからない。なにがどうなっているのかすらわからない。
しかしそれでも危機感だけは充満している。タカシの背中を冷たい汗が流れ落ちていない。
目の焦点があっちを向いたりこっちを向いたりもしていない。なにもできない。
このふたりは(以前なら真逆だったろうが)信用できない。基本的なねじがどこかにぶっとんでいる。常識だと信じて疑わなかったあるものが、絶対的にこわれている。
タカシの脆い神経がじがじがと虫食いされてゆく。頭が割れそうなほど痛かった、眼の裏側が熱かった。割れてしまえば楽なのに。たまらず眉間を抑えようとした手は挙がらない。
('A`)「あ、そうだ。タカシさん、マスターがどこにいるかしんない?」
トクナリはやる気のないアルバイトのように気だるく訊いた。ま、知ってようが知らなかろうがどっちでもいいんだけど。
( ノAヽ)「マスター? ヨーさんか?」
('A`)「んにゃ」
タカシはそれになんとなく心当たりがあった。
静かな安眠中にエレベーターが到着したチンという音が響いた気がしたからだ。気のせいのまま忘れていたかった。
しかし、なんの根拠もないのに、もしかしたらあれはヨウイチロウだったのかもしれないと思っている。このふたりには言いたくない、しゃべってはいけないと強く念じても口は勝手に動いた。
( ノAヽ)「この階にいるんじゃないかな、腹でも空かせて」
('A`)「ふぅん?」
( ノAヽ)「ヨーさん、かなりへんな体質だろう? 代謝が良すぎて、いつも腹ぺこらしいって」
lw´‐ _‐ノv「かわいいです、寝てみたい」
( ノAヽ)「あったらさそってみるといい。本人は気にしてるから、うまくとりいればリサちゃん、いいヒモになれるかもよ」
('A`)「そりやあいいぜ嬢ちゃん、しっぽりやっちゃいな、このいいおにくをたんまりご馳走させたれ。女が神秘的な生き物だって、マスターにもわからせてやれよ」
lw´‐ _‐ノv「んべえー。ひもはコージさんだけでいーですよう」
三人は音もなくからからと笑った。酒が入ったときのように、ほんとうに楽しそうな談笑。
タカシだけは、じぶんは仲間はずれだと感じていた。たったひとりだけまともだからだ。彼の精神は断崖のはじっこに立っていた。狂気をばら撒く月がすぐ真上にある。
漏らしてしまいそうな膀胱が死後硬直のように引き締まっている。
もうひと押しで彼らの仲間入りだ。それも悪くないのかもしれない。
こんな苦しみがつづくくらいなら、いっそ発狂してしまったほうがずっと楽だ。
タカシは意識だけはまともであることに疑心暗鬼を生じていた。
ヒステリーを起こしたかったがなにも起こらない。
46
:
◆jy..O/eIGM
:2021/10/23(土) 19:20:06 ID:f9T80XT20
('A`)「や、マスターにうちの子どもをみせてやろうとおもってたんだ、
きっとかわいすぎてぶったまげるぜ」
トクナリがはにかんでんでいる。調和の崩れたぶさいく面だが幸せそうだ。
lw´‐ _‐ノv「たまげてるのはトクさんだけです。ちょーおやばか。でも、まあ、えへ、かあいいとは、すごいおもうな」
( ノAヽ)「すごいだけではよくわからないかな」
('A`)「いんやあ。ね、息子じやあなく娘だったんよ。かみさん似。タカシさんでも、きっと、ぶったまげるぜ」
( ノAヽ)「ぶったまげるでもよくわからないかな」
笑っているタカシは、そもそも現況がわかっていない。ふたりも笑っている。
('A`)「あいかわらずわからない人だな、タカシさん。俺と嬢ちゃんが手とり足とりおしえたる。はは、たのしいな。これでまたうまい酒が呑める」
ふたりがいつのまにかタカシのすぐとなりにまできていた。つばをかけあう距離、パーソナルスペース。
トクナリが普段のにやにや笑いを浮かべたまま音もなく背後にまわり、
タカシの肩をがっしりホールドする。
ホールドされずともタカシは体がまったく動かせず、必死に抵抗した顔は真っ赤にほてっていない。ゆでだこのようでもない。
タカシは冷静な気持ちのままパニックになっていた。なぜ狂ってしまえないのだろう、これからなにをされるのだろう。
俺はふたりになにかを、無意識にいじわるを、圧力やいやがらせでもしたのだろうか。
沈黙。
黙考。
ほぼ種なしのトクナリは子どもが全然できない責任に押しつぶされていて、タカシはそれをヨウイチロウといっしょによく聞いてやったものだった。
世間知らずでわるい男に引っかかりやすいリサにはとりわけ父親のように親身に、おこづかい係のパパとは思われないよう、それとない距離感で居心地のよい関係を作ってきたはずだった。
それなりに信用のおけるふたりだったのに、それなりに信用されていたはずの俺は、これからいったいなにをされるのだろう。
想像の範囲ですら尋常ではなくおそろしいのに、その範疇におさまるのだろうか。
そこばくの恐怖でタカシは心のなかでもからからと大笑いをあげた。スキンヘッドにした頭の毛穴すべてに、まち針を植えられているかのようだ。
lw´‐ _‐ノv「てんちょ。わたしね、高校のときにおろしたことあるんです。
夏祭りがえりにおそわれちゃって。はやりの曲みたいでおしゃれでしょ?」
( ノAヽ)「ほう?」
髪をいじっていたリサのたなごころがタカシの股間を下から触る。人肌の温もりでタカシはなぜか安心した。
相手がじっさいにそこにいる人間だとわかったからかもしれない。なぜ安心してしまえるのだろう。
しかし。
リサの、普段の大人しさからは想像もできない淫した顔、仮面のむこう。
彼女はいったいなにをはなしているのだろう。いきなりなにを告白しているのだろう。それが俺に関係あるとでも言いたいのだろうか。
47
:
◆jy..O/eIGM
:2021/10/23(土) 19:22:04 ID:f9T80XT20
股間の手のひらが赤児を沐浴するみたいにたおやかだ。気が緩む。
タカシは、そんなわけがないと分かっていながらも、大丈夫だと思いたい気持ちでいっぱいだった。できた大人の顔を脱ぎ捨てて、涙と鼻水でぐじゅぐじゅになりながら、いつまでも叫んでいたかった。
lw´‐ _‐ノv「わたしすごいきたないんです。わたしのなかにまだ汚れがあふれてるんです。ほら、くさいでしょ? だからね、いま、そのひとの坊やがここにいたんですよ。
ふふ、ほしい、ほしくなりますよね――ね、そのこ、わたしにくださらない?」
( ノAヽ)「ほう?」
手がぎゅうと締まる。なかのものがめちゃくちゃに圧潰される。
タカシの莞爾とした表情の裏で痛覚が爆烈し、激痛が彼の神経をばらばらに粉砕した。いたすぎる、という言葉すら忘れてしまった。
オノマトペのみで表される叫びを、意識を飛ばして遠くからみるようにしたいのに、痛みのスフォルツァンドがいつまでも終わらない。
苦痛に暴れ狂って少しでも軽く、薄くしたいのに、体がまったく動かせない。つねに鮮烈でハイファイだ。
どうして、どうして俺の思考は、こんなになっても正常に稼働しているのだろう。
ギイィィィィヤアァァァァ。
ギイィィィィヤアァァァァ。
タカシはリサの体験にまったく身に覚えがなく、それがただ忘れているのではなく、他の誰かの悪事を自分が不当に被っているのだと理解していた。
冤罪で裁かれている。理不尽な苦痛。
タカシは遠い彼方から存在しない記憶を思いだしていた。
『巴里のアメリカ人』のジェリーがバルコニーでリズとの未来を踊ったように。
彼女はなにをいっているのだろう。タカシは怒涛に暴れる痛みの奥で、冷静なまま考えた。
リサには、いま彼女が告げたような過去などない。すべてでっちあげだ。
いや、作り話ではない。これは水崎浩子の記憶だ。タカシは身体に触れるふたりの腕からそれを把握した。無関係な者どうしが、無関係な話題で談論風発をしていた。
「――これは準備なんだ。あなたがたをどうにかまとめあげ、
二度とこういったものが作られないようにしなければならない。
代わりにわたしが謝罪する、ほんとうに、もうしわけない」
音が聴こえた。
店全体から。
一瞬、景観が咲く。
雪の降り積もる凍てついた砂浜、天を鎧う厚い曇天、固まった白波を乗りこなす長身の女体。
完全なる八頭身を深夜のように濃いマーメイドドレスが削りだしていた。
高い鼻梁と愁う双眸、そこだけ着色されたみたいに真赧なくちびる。
手首まで黒いドレスがコーラルの長髪を前で支えている。
サンドロ・ボッティチェッリのヴィーナスのように美しいのに、あくまで控えめで、
その存在感は人と陸続きのまま抑えられている。
どこかわけ知り顔で幼さが残っていた。
悲しい海で青空を祈る少女。
タカシは声が空間を通らない、空気がゆれない理由がわかった。
まんぷくだからだ。ここは、いまの彼女の胸のなかだ。
トクナリの腕がペンチのようにゆっくりと力強く閉じてゆくのがわかる。
万力に挟まれた肩がぎちぎちと音を立て、それとおなじかそれ以上の疼痛が襲いくる。
音が語る。
圧倒的な力でふわふわに抱擁される。
48
:
◆jy..O/eIGM
:2021/10/23(土) 19:24:34 ID:f9T80XT20
川 ゚ -゚)「わたしたちだって、ここでは絶対的な力をもっているだけの、ただのふつうの人間なんだ。こんな惨いことなどできればしたくない。
しかし、悪趣味だとわかっていても、連中のほうがいやましに酷烈なんだ。
わからなくても聞いてほしい」
タカシの痛覚に侵された神経の奥で、いつまでも冷静なまま固定された意識は彼女の発言を考えていた。こんなことをいやいやしているのか、こんな悪趣味なことを。
連中とはだれだ、なにがしたくないだ、これよりひどいことなどあるものか。
リサの手が潰れたものからパンツの中へ、萎えた一物にうつり、きれいな指に釣り針のようなかえしが鬱蒼と生えそろう。それが尿道を逆流し、引かれ、また押し入り、ふたたび抜かれる。それが徐々に加速する。
タカシの思考は途切れない。
リサの愉しげな指から、トクナリの硬い腕から、ふたりもこれと同然の苦痛を受けていると彼は知った。タカシの精神で彼の両眼が驚愕に大きく見開かれてゆく。
川 ゚ -゚)「ただでさえあなたがたは凝縮された時間を生きているんだ。わたしたちは、あなたがたが感じる悪意をループ再生にしているだけ。
そのワンシーンを切って貼りつけている。たったそれだけのこと、そんなふうなものなんだ」
リサは切った手首を浴槽に浸したまま、血が抜け落ち死が近づく恐怖を無限に引きのばされていた。
トクナリは勃起をした状態で固定され、渇く眼球がときおり血涙で潤されながら、彼の妊娠した妻が陵辱されるのを眺めさせられていた。
ふたりの瞳の奥になにかがみえた。悶える人々だ。
うごめく人の眸のなかにさらに数人がつめこまれており、そのなかにも数人が、さらになかにも数人がおり、それらすべてが苦しんでいる。
果てがない。まるでエッシャーのだまし絵のようだ。
タカシはさきほどリサが語った身に覚えのないだれかも、おなじように身を捩らせているのだと知った。そうして自分も、これから彼らのひとりになるということも。
ふと、三人の影が頭をよぎる。芝上燿一郎、梓茜、水瀬零だ。
なぜこの少女はヨウイチロウを探しているのだろう。それと、仲睦まじいレズビアンのふたりは無事だろうか。
その考えや心配も一瞬で激痛に埋め尽くされるが、少女の饕餮はタカシの思惟を抜け目なく拾いあげる。
川 ゚ -゚)「ヨウイチロウは空っぽの白血球なんだ。この街には彼の役割はひとりしかいなかったが。
アカネについては、最後に回収する。
だから――そうだな、ほんとうに申し訳ないが、たむけの花とでも思ってほしい」
少女の言葉が一瞬、うめき声で止まる。
これからなにが行われるのか、激痛に揉まれるタカシがどのようになるのか、
それを完全に理解しているからだ。
川 ゚ -゚)「――安心して、あのふたりはだいじょうぶだよ。これからもずっと、幸せでいられるから」
タカシの痛みは、ほんの瞬きにも満たない間だけ、癒えた。
その癒えが痛みを数百倍に高めた。
精神だけは冷静なまま、けっして狂を発せないまま、苦しみだけが持続してゆく。
タカシの激痛に終わりが訪れるのは、リサに、トクナリに、
他のすべての苦しむ者たちが凝縮された時間のなかで救われるのは、およそ五十六億七千万年もの後だった。
瞳のなかのすべての人々は、ただひたすら静かに、微塵も空気をゆらさずに、激痛の叫び声をいつまでも放ちつづける。
コロスは合唱していた。
少女の饕餮は体のなかで、またひとつ大きくなった塊を確かめた。
この街に居住している数万人の人々を、またひとり収納したのだ。擠陥讒誣をした無辜の者を。
彼女は自分がいかに残酷で押しつけがましいやさしさを振りまいているのか分かっていた。
こんな行為に意味があるのかはなはだ疑問だらけだった。
それでも、この新たなパターンを試さなければならない。私たちにできることなど、ほんとうにひと握りなのだ。
49
:
◆jy..O/eIGM
:2021/10/23(土) 19:26:25 ID:f9T80XT20
ごめんなさい。
ごめんなさい……。
それゆえに少女は涙を流す。
苦痛を外から観測する者たちにしかできない感情移入のやりかたで、身勝手に、自分の慰めのためだけに、言い訳がわりにわんわんなきべそをかくのだ。しかし、ただ悲しみに泣いているだけでは終わらない。
あと少し。ここに逃げ込ませた人々は特別なんだ。小型のブーケにちょうどいい人数だから。
それゆえことさら、ヨウイチロウの存在がいまは厄介だった。
しかし彼も、ほかの街の彼らと大差ない、油断さえしなければ滞りなく済む。たとえ油断したとしても僅かなロスでこと足りる。すでに彼が向かっているはずだ。
もうじき。
もうじき、全部解決する。
いや、してほしいんだ。
凝縮した、ないし引き延ばされた時のなかでいくら考えようと体格は成長しないように、社会における段階的な発達を経ていない心理は外見相応のままだった。
少年の饕餮も婦人の饕餮も少女の饕餮も、容姿の年齢と悩みごとは一致する。だから饕餮たちも、街の住民ほどではないにせよ、それなりの苦痛を味わっている。
少女は黒い袖で涙をぬぐう。タートルネックの首元をぱたぱたと広げ、冷たい空気で気分を落ちつかせる。
そうして少女は、とても残酷で美しい微笑みをイメージして笑顔をつくる。
思い浮かべたイデアとは果てしなく遠いが、嫣然とした余裕を感じさせるわけ知り顔が構築される。
目じりと鼻のあたまが赤かった。
少女は仮面と針金細工だけの饕餮たちに意識を植える。
保護した人々の渇望を、それぞれに一滴ずつ垂らしたのだ。
それが切り替えのスイッチとなる。あとは――そうだ、レイのドレスアップをしなければ。
結局いつも似通った格好になるのに、あらゆるコレクションを試着しなければ気がすまないのだ、彼女は。
巨人の少女は凍りついた白い波濤のなかに消えた。
タカシの店には、売れ残りの紳士服とハンバーガーの包装紙だけが残っていた。
4.around the world in a day
( ・∀・)「アカネさんも、電話したんだ」
ヒサシは戸惑いながらも落ちついていた。
从 ゚∀从「ねえ、教えておくれよ。
どうして、どおして、真っ二つにわれちまったあの子と、あたしはまだ、おしゃべりできるの?」
アカネはヒサシの耳から歯をはなし、耳元で囁きかけていた。
息はほんのりアルコールの混ざった甘く酸っぱい香り。
ヒサシのうなじあたりまで下がった腕がぷるぷる震えていた。
マダム・レイコは静かにボトルを磨き、ハルカはマサアキの薬指を噛んだり頬に触れたりして、
マサアキは(歳上なのに)と恥じらいながらも甘え、三者はアカネとヒサシのむつみ、
あるいは泣き言を聴いてしまわないよう心がけていた。
だれも、心を許していない他人に心情の吐露など聞かれたくない。
だれも、情けなさを白状した無関係な大人の嘆きなど聞きたくない。
バーの五人は背後で荒れ狂う老若男女のアブストラクトな声色につつまれながら、ひとつの常識を砦として支えあっていた。
( ・∀・)「アカネさん、はじめにいっとく。外科室のあれ――僕は饕餮って呼んでるけど――をばらしてみても、なぜ行方不明者たちと連絡がとれるのかについては、とどのつまりわからなかった」
50
:
◆jy..O/eIGM
:2021/10/23(土) 19:28:56 ID:f9T80XT20
ヒサシは緊張していた。酔いや火照りを抑えこんで、語りかける言葉を必要以上に吟味していた。
不安定な彼女をおもんぱかっているからだ。
なにがトリガーとなり喚きだすか、どこが藪蛇なのか、また、なぜ危機に瀕した、大切な人を失い感情の整理が追いついていない人の気持ちをかるんじてしまったのか。
後悔ではなく、次につなげるための学習を、現在進行形でしているのだ。
それとともに応用問題の答案も。しかしそんなものはだれもが当たり前にこなしている。ヒサシも同様だった。
( ・∀・)「彼らは、骨の中身以外僕たちとほぼおなじつくりだった。
臓器もおおむね――頭蓋がすごくおっきいけれど――体液がなぜか白く濁ってるけれど――神経とかはよくわからないけど――いっしょなんだ。
骨がぺらぺらのすかすかだから、意味がわからないから、なさけないけど、
僕にはこれ以上手に負えなかった」
アカネは腕をほどこうにもほどけなかった。人恋しさに打ちのめされていたのだ。いますぐにでもヒサシに飛びついて、細い腕を頑張ってもらって、抱きあげてもらって、レイの恥毛に見立てたパーマに顔をうずめたい。
レイの健康的でしなやかな腕にぎゅっとハグしてほしい。さびしい。
あたしは、レイが、好き、大好き。
ラブ・コールに答えてくれたみたいに「やあね、なに、そのお顔。ぶーす。人が巻物みたいに裂けるわけないじゃない、おばかさん」って笑いながらおでこを小突いてよ、足裏の匂いをかがせてよ。
ねえ、おそろの指輪をつくりに行こうよ、レイはほそっちいから、あたしは節くれだってるから、ちゃんと二人で採寸しなきゃ。
ねえ、いっしょに子ども、育てようよ。あたしが妊娠してもいいから、まいにちちゃんと早起きしてご飯つくるから、すこしは歳上っぽくなれるよう頑張るから、だから…帰って、きてよ……。
彼女は起きたときに聴いたレイの鼻唄を思い出した。
それがリヒャルト・ワーグナーによるニュルンベルクのマイスタージンガーではないことも。
また、あのときの海原も。
从 ゚∀从「ヒサシくん、ゆるすよ」
( ・∀・)「ふむ?」
ヒサシは首をひねった。なんのことだろう、饕餮の正体がわからないことについてだろうか。
从 ゚∀从「あんた、あたいをだきたいんだろ」
( ・∀・)「!」
从 ゚∀从「ぎゅーっとして――いや、やさしくしてちょうだい、はじめてなの」
ヒサシはアカネが、そういう意味を含んでいないとわかっていた。
( ・∀・)「はじめて?」とヒサシはグレーゾーン。
从 ゚∀从「うん。……いわせたい?」とアカネは虚勢を張る。
( ・∀・)「ぜひに」
从 ゚∀从「おなべなの」
( ・∀・)「つまり、ポリネシアンか」
アカネは目を剥く。
从 ゚∀从「さいってい! 例えやすいからってそういうことばっかいってると、ろくなおとこにならないよ」
ヒサシは沈んだアカネの顔に朱を注ぐ。今日はじめてみせた本当の恥じらい。少女の仕草。言い慣れてはいるけれど言われ慣れてはいないのだろう。
51
:
◆jy..O/eIGM
:2021/10/23(土) 19:35:00 ID:f9T80XT20
アカネは片目だけ隠していた髪を口から頬からたぐり、小顔を手のひらでおおった。
聞こえないふりをきめこんでいたハルカも同じ構え(しっかり目のところはあけている)をしており、マサアキは細めた瞳の表情だけで非難している。
マダムは彼らに背を向け、口のなかだけでくつくつと笑った。
ヒサシはアカネどころか幼いふたりにまでいかがわしい発言をしていると見破られたことに狼狽えた。
また、アカネの挙動で本日最大の衝撃を受けたことにも。
彼女の仕草に射止められたヒサシは鼓動のヴォルテージがうなぎのぼりになった。
速く強いテンポとリズムが彼女に聴こえていないか心配になるほど。恋のキューピットは那須与一がラッパでファンファーレを奏でる。
彼の頭は初恋のように空っぽだ。
五人はいくらかヒサシとアカネの発言で和らいだ。どこからかすこやかな風が嫋々と吹いている。
時が経つにつれ、後ろのコロスが奏でるカプリースはだんだんと弱くなっていた。ひとり、またひとりと饕餮に集束されている。
それに気づいた者は不幸にもいなかった。気づいた者から招聘されてゆくからだ。
アカネは少女の振る舞いのままヒサシを睨んでいた。
にぶい男は意外と好まれることを彼は知っていたが、適切なシーンでの適切な動き、つまりレディをエスコートできない男は善し悪し以前の問題だと、論外であるということも分かっていた。
ふむ、どう導くのが正解だろうか、そんな答えは明白だ。ヒサシはとくにムードを気にせず、あくまで慰め役に徹した。
彼はおびえる少女を包んだ。
羽根の折れた小鳥を看るように、たまごの薄皮を破ってしまわないように、細心の注意を払って。
アカネの細面が肩に乗る。
後ろにまわした腕でスカーレットのインナーカラーとすくめた背を、彼女の輪郭をなぞるように撫でる。過負荷でこった筋肉が柔らかくほぐれてゆく。
背骨のうねと肩甲骨が大きく波打っており、脇腹のあばらが不規則にしゃくりあげていた。
汗と垢とアルコール、消毒液、女性の体臭がほんのり甘苦い。
ふたりはしばらく抱き合っていた。
悲しみの沼につかまったアルタクスをアトレーユが懸命に慰めていた。おたがいどろんこになりながら。分かちあうことで薄められると思っているのだ。
ハルカが顔を紅くしながら羨ましそうに目で笑い、マサアキに振り向きなにかをねだっているようだったが、少年はヒサシ以上に鈍感な主人公だった。
ふたりは、まずアカネから離れた。
ヒサシの背肉に爪を立てていた指はやにわにビールのジョッキを掴み一息で呑み干すと、つぎに彼のもまた喉を鳴らして鯨飲した。
そうしてチェイサーで夏を冷ます。
マダム・レイコは最高のタイミングで饗していた。
ヒサシ、ハルカ、マサアキの三人は驚きで目を丸くしている。
しかし、この破天荒ぶりのほうが彼女らしかった。
勁い大人の、幼さと自己嫌悪を厚いベールで囲んだ不安定な若い女性の、
神秘性をひさぐ玉虫色の仮面の、それら表層に創り上げた外向性に依存する、アカネらしい尋香城だった。相手にリードされるなんてまっぴらだ。
あたいは、つよいつよいともてはやされてそうなれるよう努力するタイプの、いっつもネコになるタイプの受け身な女じゃない。
地団駄踏んで歯を食いしばり奪いとるワールズ・エンドだ。
ダンディでエキゾチック、かつ、エキセントリック。
そしてかならずエロティック、コケティッシュ、うふん。
マルコム・マクラーレン、ヴィヴィアン・ウエストウッド、
パム・ホッグ、ボディマップあたりははずせないね、やっぱり。あとはロッタ・スケルトリックスとエディ・スリマン。そのあたりの精神。
はすっぱなのは外面だけで上等だ。
あたしの足を返せ、とろとろの鯨油をよこせ、ほおらこのとおり、ジョッキは空だぜ、モビー・ディック。
52
:
◆jy..O/eIGM
:2021/10/23(土) 19:37:42 ID:f9T80XT20
从 ゚∀从「あんがと、ボーイ。で、女との体験談、ちゃあんと聴かせてくれんだよね」
冷静を装うヒサシは時間がなくなってきていることを悟っていた。
( ・∀・)「ふむ、よし。さっきもいったけど、結局よくわからなかったんだ。だから可能性の考察くらいしかできないわけだよ」
从 ゚∀从「可能性?」
( ・∀・)「有識者はのきなみやられてた、ろくに話せない状態――精神面でも、肉体面でも――だった」
从 ゚∀从「用意周到なのね、計画的」
( ・∀・)「そう、そうなんだよアカネさん、饕餮どもは団結してぼくらをここに集めてる。なにか狙ってるみたいに」
アカネのとなりでハルカがクマのぬいぐるみで挙手をする。
(*゚∀゚)「ねえボーイ、ずっと気になってたんだけど」
( ・∀・)「ボ――ふむ?」
( ´∀`)「と、とうてつって、なんでしょう?」
二の句を継ぐのはマサアキだ。
( ・∀・)「ああ、説明を忘れてた。えっとお、まずは中国の青銅器の種類から解説しなきゃあいけないのかな、うむう」
ζ(゚ー゚*ζ「あらゆるものを食べ尽くす中国の妖怪だ、少年少女。彼はその性質をなぞらえて、連中を饕餮と呼称しているのだろう。いかがかね」
オペラのような荘厳な響きと知性にアカネは惚れなおした。
( ・∀・)「ありがと、ママ。そう、彼らは凶暴なくせ、知的だったりなかったりもできる。便利なんだ。ヨウイチロウさんいわく、変身後はなぜかやらしかったりとね」
(*゚∀゚)「アカネおねえちゃんより?」
( ・∀・)「みためはおっつかっつ」
( ´∀`)「ま、まさかおねえさんも」
从 ゚∀从「食べたげようか、少年」
アカネはマサアキの鼻をつつく。ハルカが彼女をぎろりとにらんだ。
从 ゚∀从「めんご、ハルちゃんのだった。それで?」
手のひらを合わせ謝りながらアカネが訊く。
( ・∀・)「うん、つまり意思があったりなかったりを切り替え可能なようにみえるんだな」
从 ゚∀从「可能とか、ようにみえるとか、そんなんばっかだ」
53
:
◆jy..O/eIGM
:2021/10/23(土) 19:40:21 ID:f9T80XT20
ヒサシは肩をすくめる。
( ・∀・)「めんご、推量でしか語れないんだ。骨髄がなかったり視神経の伝達を上回る速さで変形したり、とにかくわけのわからない妖怪さんなんだ。ところでアカネさん、本はよく読む?」
从 ゚∀从「ふん? 月並みには」
アカネは脚を組みなおす。
( ・∀・)「ジャンルは?」
从 ゚∀从「いろいろ。クルーエルとかスタジオ・ボイスとか、アイディー、ル・フィガロ、パープル、ハーパーズ・バザー、ヴォーグ――」
( ・∀・)「おしゃれさんだね」
从 ゚∀从「それはおしゃれじゃない人にしかいっちゃだめ、さいっこうの侮辱だ。で?」
( ・∀・)「えっと。小説は読む?」
アカネは柏手を打ち諒解する。
从 ゚∀从「ああ、SFね。さわりだけしかしんないかな」
( ・∀・)「スタニスワフ・レムは?」
从 ゚∀从「ソラリスと無敵は読まされたね、レイに」
( ・∀・)「レイ?」
从 ゚∀从「レイ」
( ・∀・)「――オーケー、話が早い。ナード・シックのご高説曰く、あれはロケットで地球に不時着したソラリスの海が分裂したんだ、と」
アカネはふきだした。
从 ゚∀从「ばっかじゃないの、あの饕餮とかいうやつは、水をかけたギズモか富江か。そも、ソラリスってスライムだったかい?」
(*゚∀゚)「ね、ボーイ。ソラリスってなあに?」とハルカ。
( ・∀・)「ボ――ヒサシでいいよ、プリンセス。ソラリスはね、惑星表面を海のようにおおう、超巨大で超頭のいい架空のキャラクターさ。人の思い出につけこんで、その人の想い人に化けたりできちゃうんだ」
( ´∀`)「変身については似てます。でもてんで見当ちがいですね」
とマサアキ。辛口で全員の感想を代弁する。
( ・∀・)「――いわく、これは『遊星からの物体X』だ――いわく、『ボディ・スナッチャー』だ――いわく、『ドリーム・キャッチャー』だ」
从 ゚∀从「ふるくさいエイリアンものばっかじゃないの」
( ・∀・)「まだある、まだまだある」
54
:
◆jy..O/eIGM
:2021/10/23(土) 19:43:02 ID:f9T80XT20
アカネはうんざりしていた。
( ・∀・)「――あれは『ゴルディアスの結び目』の隔離病棟から逃亡した患者どもだ、鉱物質の頭部は『マインド・イーター』だ、そうだ、外見こそまさに『BLAME!』の珪素生物じゃないか、いや彼らこそがチューリング・テストをスルーした人工知能の現し身だ――や、みなさん、これはぼくの意見ではなくてね、だからそんな顔で見ないでおくれよ」
ヒサシはまじめに戯けた。
ζ(゚ー゚*ζ「それで青年、つまりなにが言いたいのかね」
マダムはドスを効かせた。空気がほんの少し張りつめて、マサアキはハルカのパジャマの裾を握った。
( ・∀・)「失敬。彼らのばか話から学ぶべき教訓は、事実は小説よりも奇なり、とかいうもっさりした妄想ではなくて、もっとも強い希望は絶望から生まれるという老ラッセルのアフォリズムなんだ」
从 ゚∀从「いちいち前口上が長い、芝居がかってる。やい三文役者、二枚目なのは顔だけか?」
( ・∀・)「つまりぼくたちは、SFないしファンタジーでなければ説明がつかない事態に見舞われている」
当たり前すぎる講釈にヒサシ以外の四人はあんぐりと口をあけた。彼は独りよがりな結論にうぬぼれるきらいがあった。声は四人を置いて先に進む。
( ・∀・)「ここからが本題。専門知識のないぼくたちには説明できないことが起こってる。このモールをまんなかに世界が消え失せ、空はきれいさっぱりほどかれ、人は刻一刻といなくなってゆく」
ヒサシとマダムとマサアキは騒がしかったうしろが静まってゆくのに気づいていた。
( ・∀・)「しかも世界が消えてゆくのは、人や空や建物と比べても、やたらとはやかった。ぼくのアトリエも一瞬でなくなっちゃったんだけど、あくまで吹き払われたのはそこだけ。
あのときね、ぼくは半分になったマンションを巨人の饕餮越しにみたんだ、
半分しかなくなっていないマンションを」
从 ゚∀从「あいつらはすごく強力だけど、その力を抑えてるって? はんっ、いかにもそういう人らの好きそうな設定だ、ヴィレヴァンでやってな」
アカネはそっぽを向いた。耳だけは音を拾っている。
( ・∀・)「いや、能力をセーブして、なにかを狙ってるふうではあるよ。
けどぼくがいいたいのはそっちじゃない。世界についてさ」
(*゚∀゚)「ヒサシ、セカイセカイうるさいよ」
( ・∀・)「(呼び捨て)めんご。だからね、疑うべきなのは饕餮の仕組みではなくて、ここ、ぼくたちの暮らしているこの場所こそが、架空の作りもの、仮想現実の街だったのではないか、ってことなの」
55
:
◆jy..O/eIGM
:2021/10/23(土) 19:45:46 ID:f9T80XT20
ζ(゚ー゚*ζ「愉快だ、では私たちはAIか、もしくはアンドロイドか何かかね」
( ・∀・)「そこまでは。でも外から人間ぽくみえるんなら、このさいどちらでも問題ないかと。ほら、ぼくもアカネさんも酔っぱらってるし」
从 ゚∀从「ヒサシくん、あんたの空中楼閣にあたしをまきこんでくれるな。
象牙の塔はアーティストどもだけでいい、あたしは根はまじめなんだ」
(*゚∀゚)「お酒のせいにしないでよ、まるでパパみたい」
( ・∀・)「そおゆうんじゃなくてね、こうして酔っぱらっているのだから、酔っぱらっているようにみえるんだから、人とか人工知能とか区別しなくても、ぼくたちがどちらかであっても、違いはあってないようなものだなと」
アカネは最初からヒサシに解決の糸口なんてものを期待していなかったが、じぶんたちを取り囲む世の中を疑っては見ていなかった。
地に足がついているものだと思っていたから、思っていたかったから。
しかしどうだろう、ここまでの逃避行、振り向いて敵が追いかけてきていないかを確認したとき、空はぽつぽつとすこしずつ溶けてゆくのに対して、目視できる地平線沿いの景観は、それらを眺めようとしてはじめて無くなっていることに気づくほど、こうして思い返し、ああそういえば消えてたなと気づくほど、音も気配もなく、知らず知らずのうちに消滅していなかっただろうか。
逃げてゆく途中、アカネは最後に見たレイのことばかり考えていた。
能面じみた無表情の顔、その頬をつたう昨晩の絶頂、あの泪はなぜ流れていたんだろう。
痛かったのかな、気持ちよかったのかな、どっちもなのかな、それともべつのなにかなのかな。いつか小説で、死の快楽はすさまじいって読んだけれど。
でもあのこがあたし以外で気持ちよくなってるの、なんかやだな。
けっきょくレイに鼻唄の曲名、訊きそびれちゃった。
唄。
心当たり。
ジョージ・ガーシュウィン、ピアノ協奏曲へ長調。
クリスティアン・ペツォールト、ヨハン・ゼバスティアン・バッハ、メヌエット=ト長調。
リヒャルト・ワーグナー、ヴァルキューレ。
パブロ・デ・サラサーテ、ツィゴイネルワイゼン。
リヒャルト・ワーグナー、ニュルンベルクのマイスタージンガー。
すべて全く毛色が違う。ワーグナーの二曲は似ても似つかない。少なくとも、音楽的素養の、クラシックの素養の乏しいあたしには。曲名とイメージしてる曲調が合ってるかすらおぼろげなんだもの。
「これはあの人のあの曲?」って訊くと
「おばかさん、それは彼のよ」ってうんざりしながらレイは応えてくれる、気怠そうに。
でもほんとは教えるのを愉しんでるってこと、あたしだけが知ってる、それがたまらなく心地いいの。
あの電話の相手はレイじゃなかった。
声質だけを機械の自動音声に貼りつけて流してるみたいな、腐った死体の声帯だけなまものに付け替えて腹話術させてるみたいな。
『デッド・サイレンス』のビリーのようなもんだ。影でメアリー・ショウがはなしてる。
受け応えにレイらしいユーモアのセンスが感じられなかった。モールに逃げこんだ人たちのパニックの原因がそれだった。通話ができるのだ、だれにであろうと。
56
:
◆jy..O/eIGM
:2021/10/23(土) 19:47:55 ID:f9T80XT20
つま先から鎖骨まで繊切りになった栗毛の幼い息子と、破裂した内臓の血で窒息したおこりんぼの親友と、四角いスクラップに圧縮された笑顔の家族と、会話が通じてしまうのだ。
安否がわからないことより段ちがいにたちが悪い。
確実に絶命した場面を目のまえで見ていた者と、業務連絡のようにむなしいコミュニケーションが取れてしまえる。
救助を要請すると「係のものにおつなぎします、そのまましばらくお待ちください」を言ったきりだんまりなのだ。
だからこそ、逃げ足と運しか能のない人々は、すぐ間近に迫った終末に玩弄され、ポケットのなかのビスケットのように倫理が崩れ落ちていた。
レイが一滴の血も流さずに縦割れしたのに、脳みその空っぽなレイの頭のなかを見てしまったのに、そのレイに声だけ似せたわけ知り顔の女と電話で話しているのに、なんであたし、変にならず持ち直せてるんだろ。
どうしてあたし、こんな微妙に頑丈なの? いっそ壊れてしまいたい。
( ・∀・)「電話はたしかになぞだ、しっちゃかめっちゃか。でも、たとえば饕餮の目的がぼくたちを捕まえることだとしたら、それなりの説明はできないだろうか」
从 ゚∀从「ぜひききたいもんだね、あたしらを納得させる自信があんなら」
( ・∀・)「捕まえた人の声だけ――叫びとか喘ぎとかから――を音声データとして保存。キー編集と加工、ノイズキャンセリングで使えるようにして、あとは文を組んで出力すればいい。
ちょちょいのぱあ。理解不能な技術であさめしまえだろうし」
( ´∀`)「おにいさん、ちょっと待って。と、饕餮たちの目的が、ぼくらをつかまえること、だって? そんなのありえない、ありえないよ。だって、ぼくの、ぼくのパパやママは、ぼくのめのまえで――」
ハルカがそれをくちびるで閉ざした。マサアキは涙目を大きく見開いた。
わお、やるじゃんハルちゃん。
かるい口吻を離しハルカはマサアキにウィンクする。うぶな少年は目をしばたたかせ、しばらく、女の子の味がするじぶんのくちびるを指でさわっていた。
(*゚∀゚)「で? つづきをどうぞ、ヒサシ」
ハルカはおしゃまに鼻を鳴らした。みせもんじゃないよ、とでも言いたげに。
( ・∀・)「ヒュー。――ごほん、えー、ごほん。――そう、捕まえることが目的ってところ。これは、饕餮どもは、ぼくたちの肉体ではなく精神に関心を寄せてると思うからなんだ」
从 ゚∀从「思う、にゃあつっこまないけどさ、ボーイ。というとあれかね、あいつらがきもい変態サド野郎なのは、あたしらをびびらして、その、心理の振れ幅みたいなもんを表面に引きずり出すのが理由ってことか?」
ヒサシは目を丸くした。
从 ゚∀从「ヒサシくん、ナードみたいに根拠のない、
とぼしい経験にしか依拠してない論をゆーぜーすんのはかまわないんだけどさ(じっさいてんで興味ない、どうでもいい)、
そと出て人からちゃんと刺激を受けなよ、アーティストだろ」
( ・∀・)「うぐう、め――ごめんアカネさん、考えとくよ。
や、ほんとだって、小説の指南書にも『とにかくキャラを歩かせろ』って書いてあったし、
ぼくもそれをみならうから」
アカネはすくめるための肩をとっておく。
57
:
◆jy..O/eIGM
:2021/10/23(土) 19:50:03 ID:f9T80XT20
从 ゚∀从「オーケー。で、ヒサシくんは、饕餮はあたしらの精神に興味津々て考えてんでしょ。でもふつうの、ありのままのが欲しいんなら、こんな大それたことしなくてもいいわけよ。よろしいか?」
( ・∀・)「ふむ」
从 ゚∀从「饕餮は肉体ではなく意識に、いや、意識がほしい。あたしらの気持ちが知りたい、初恋だぜ。だからこっちを見て! ってアピールしてんの」
( ・∀・)「ふむ、ハプニング・バーみたいなものだね」
从 ゚∀从「(おいおいおいおい、こどものまえ!)…そーね」
(*゚∀゚)「ヒサシ、アカネおねえちゃん、ハプニング・バーってなあに?」
( ・∀・)「人を自殺させる風」とヒサシ。
从 ゚∀从「びっくり箱」とアカネ。
異口同音。
( ・∀・)「――さっきのきみと少年みたいなバーだよ」
(*゚∀゚)「きゃっ」
声が黄色い。マサアキは真っ赤だ。
从 ゚∀从「ヒサシくん、若いのはけっこう、うらやましいくらい。
でもね、しゃべるまえにちゃあんと考えなさいな、その言動を相手はどう受け取るか、どんな反応が予測できるか、相手の心象の変化、場が白けてしまわないか、ユーモア、話題の発展性、ニュアンス。
いいこと? 『ここでこういうのはダメかなと思うんだけど』って感じたら、それは確実にだめ。だめじゃなくても言わないに越したことはない。
だめかなと思わないことが前提なの、よろしいか?」
( ・∀・)「アカネさん、よろしいけれど説教くさいよ」
ヒサシはうんざりして肩をすくめた。アカネはヒサシをうんざりさせるじぶんの発言にうんざりして、ため息をついた。
从 ゚∀从「――でも、残念ながらヒサシくんのゆーとーり、ハプニング・バー。そおゆう目的じゃないあたしたちが連中に魅了されて――怖がって
――そうして変化した意識を手に入れようとしているって仮説」
( ´∀`)「でも、ぼくのパパとママは――そんな感情を抱いたのかどうか、想像したくないけど――無惨にやられてしまった」
ζ(゚ー゚*ζ「少年、無理はいけないよ」
( ´∀`)「だいじょうぶ、です、えっと」
ζ(゚ー゚*ζ「高久保玲子」
( ´∀`)「レイコさん、ぼくは男の子だから、いつまでもめそめそしてちゃだめなんです」
マサアキは下唇を噛んで耐えている。なる、情けないだけでもかわゆいけど、ちゃんとしてるからハルちゃん、この子が好きなんね。
( ・∀・)「饕餮はこっちの安否を気にしていない、でも変化させた意識はほしい。たぶんだけど、こう、意識の入っていた体が残っていれば、そこからインプットをできるんじゃないかな」
58
:
◆jy..O/eIGM
:2021/10/23(土) 19:52:22 ID:f9T80XT20
从 ゚∀从「もうだめ、くらくらしてきた。ただでさえわけわかんにゃいのに、仮定して考えてたらさらにわかんにゃくなる」
ζ(゚ー゚*ζ「さて青年。彼らは人の恐怖した意識を捕まえることが目的だ。
また、意識の抽出はもの言わぬ肉体からでも可能。これらの仮説から、なぜ電話が行方不明者に繋がるのか、どうして電話を繋げさせるのか、という説明をお聞かせ願おうか」
( ・∀・)「――そう、ですね、アカネさんのおかげでわかったかもしれない。ふつうさ、どうなってるのか分からない親しい人と、電話でもなんでも会話できたら嬉しいよね」
从 ゚∀从「ま、しゃべってんのがぜえったいあいつだと信じられんならね。やった、無事だったんだ、よかった! そうなるけど」
ヒサシは背中まで伸びるカーリーヘアをかき上げ、にやりとした。ヴォルフガング・ティルマンスの撮影したエイフェックス・ツインのようだ。
( ・∀・)「そう。でもね、そうして安心させてくれる相手が、声だけ完全にその人の他人だとしたらどうだろう。想像してみてくれ。
夕べ耳元で愛を囁いてくれた人の声で、はつらつと朝ごはんができたことを知らせてくれた母の声で、何年も成長を見守ってきた愛しのわが子の声で、
まったく見ず知らずのだれか、あるいは、なにかが、きみと会話をしているんだ。
どうだろう、背筋がこごえてこないかい。
廃墟の病院を二人で迷っているとき、唯一のよりどころだった手を繋いでいる友人が、得体のしれないなにかに、いつのまにか取って代わられていたんだから」
ハルカとマサアキは体を寄せ合い身震いした。アカネはにやにや笑うヒサシの頭をひっぱたいた。
マダム・レイコは用意したグラスに安いジンを注ぎ干した。
まったく飲めない。
从 ゚∀从「これもあたしらをびびらせる作戦だって?」
( ・∀・)「かもしれない。悲しいのは、これらすべてが仮定にすぎないことだ。ここが仮想空間なのかもしれない、饕餮がぼくたちの体から意識を取り出せるのかもしれない、彼らの目的が恐怖した意識の抽出にあるのかもしれない」
( ´∀`)「そうしたことがわかったとして、ぼくら、どうすればいいんでしょう」
( ・∀・)「さあ。怖がらないよう心をしっかり保つことくらいかなあ」
ヒサシ以外の四人は肩をがっくり落とした。背後で、なにごともなかったかのように騒音が再開されていた。
長い堂々巡りだった、要は気の持ちようだなんて、はー。アカネは割れたレイの頭が空っぽだったことを思い出し、『空っぽ』の語感にほくそ笑んでからヒサシの目を見る。
薄い色素のきれいな瞳。うそ、あたしとおなじくらいまつげ長くない?
从 ゚∀从「ヒサシくん、外科室の女に脳みそはあった?」
ヒサシは長いパーマをまとめようとしていた。口にヘアゴムを咥えている。
( ・∀・)「ほうひほ?」
从 ゚∀从「しばってからでいいよ、会話になんない」
寂寞としたブドワールの膜に孔があきはじめていた。ヨウイチロウの置き土産が弱まっているのだ。
マダム・レイコは用意したグラスに高いグラッパを注ぎ干した。
まったく飲めない。
59
:
◆jy..O/eIGM
:2021/10/23(土) 19:56:11 ID:f9T80XT20
(*゚∀゚)「ね、マーくん、ふたりで抜け出しちゃわない?」
ハルカがいい色の微笑でマサアキの耳たぶを噛む。おませさんがあたしの真似してる、あちゃー、流石にあれはサービスしすぎだったか。
マサアキはしかつめらしく澄ました表情だが、単純に理解が追いついていないだけだろう。小刻みに震えている。うれしそう。
( ´∀`)「ぬけだす?」
とぼけているのかほんとうにわかっていないのか、微妙な反応。アカネは足を組み直して見守る。下が裸だったことを思い出した。
(*゚∀゚)「そお。大人でかわゆいおねえちゃんから聞いたの、夜は冷えるんだって」
( ´∀`)「うん、まあ、それはそうだけど」
(*゚∀゚)「だから、呑むんだって」
( ´∀`)「う、うん」
(*゚∀゚)「ふたりで」
( ´∀`)「う、うむ」
(*゚∀゚)「ぬけだして」
( ´∀`)「…」
(*゚∀゚)「ね、わたしの味、もっと呑んでみない?」
( ´∀`)「――」
まるであたしとヒサシみたいだ。ひょっとしてひょっとすると、もしかしたら彼とも、ハルカとマサアキのようなロマンスを演じることがあったのかもしれない、とアカネは思った。
でも、そんなもしもはありえない。
あたしはなにがなんでもレイと結ばれるようになってるし、レイと一緒にいたい気持ちしかない。あのこのことしか考えられない。
やだ、あたしよわよわだ、会えなくなってはじめて、すっごいレイに依存してるってわかったなんて。よっかかってないと立ってられないんだ、歳上なのに。
それにあんな変な最期のせいで、レイともう会えないだなんて、そんな実感全然もててない。
顔を洗って、鳩から郭公に変わった啼き声を聴いて、波濤の景色と存在しない記憶を夢寐にみて、それから、レイの泪。
あれも、がわだけレイに似せたなにかだったとしか考えらんない。
――そう、なぜなら頭のなかが空っぽだったから。
あのレイの頭がすっからかんだなんて!
あのレイの!
从 ゚∀从「ふっ」
アカネはふきだした。
( ・∀・)「ふん?」
ヒサシは顎を手のひらで支え訝しむ。高いポニーテールのひとつ結び。ふで先がシャツの後ろ襟を、はえぎわを触っている。
从 ゚∀从「なんでもない、ふふ」
60
:
◆jy..O/eIGM
:2021/10/23(土) 19:58:45 ID:f9T80XT20
( ・∀・)「ふん、で、どういった質問だったかな。脳みそがどうとか」
从 ゚∀从「ああ――」
アカネはほんのすこし思案して、ちちくりあうハルカとマサアキを横目にみる。いまにも抜け出してしまいそうな雰囲気だ。
マダム・レイコは用意したグラスに普通のアクアビットを注ぎ干した。
まったく飲めない。
アカネは、今朝レイの輪郭を撫でたほうの指でうなじを、鎖骨のまんなかを、内腿を、二の腕を、ちゃんとそれがそこにあることを確信しながら爪弾く。
ちいさな歯形のくぼみ。
暴れ馬のたづな。
キス・マーク。
どこからか快い風が吹いてきた。香りがのっている。
こんがり焼き目のさんまの塩焼き。
新米と栗のほくほく炊き込みご飯。
かぶとにんじんの甘い味噌汁。
ピリ辛食感のきんぴらごぼう。
さつまいも、しいたけ、えびの天ぷら。
弾けるすだちのエキス。
おちょこととっくりは冷やおろしの日本酒。
アカネのくちによだれがあふれだした。
おなかすいた、いや、すいてた。そうだ、結局あたし、今日はまだお酒しか呑んでないや。なにか食べたいな、食欲の秋ってゆうし。
このモールは広いから、食べようと思えば大抵のものは食べれるはず。なんにしようかな……。
――いちばん痩せてるときこそ、お洋服がいちばん映えるとは思わなくて? どお、アカネ?
――なあにいってんのあーた、いっつもぺたぺたにやせっぽちのくせに。あたしのおしりをかじってもいいんよ? ほら、いいお肉でしょう?
――くさみがひどい、二の腕のしたをちょうだいな。ほおらぷにぷにぷにぷにー。
――や、やあ! やめ、やめなさい、こら! そおゆうのはフィッティング・ルームでやろうぜ、な。
――ふふん、たあっぷりドレス・アップしなきやあね。
――負けねえぜ、ベスト・ドレッサーはあたいんだ。
――うふふ。
――あはははっ。
アカネは悪い口をイメージしてほおをゆがめる。いたずら好きな女の子の顔だ。
从 ゚∀从「――ね、ヒサシ、ふたりで抜け出しちゃわない?」
芝上燿一郎のそばだつところに山が生まれる。
右手に、食べ終えたファースト・フードの包装紙やフードプレート、
食器類のカラフルなバリエーションが。
左手に、変身前に屠った大小さまざまの闖入者たちによる、幾何学的なストラクチャが。
絶妙なバランスでなりたつふたつのピラミッドは、自称感度の高い若者がローンチを誇るコンテンポラリー・アーティストの卒業制作のようだ。
61
:
◆jy..O/eIGM
:2021/10/23(土) 20:01:30 ID:f9T80XT20
食欲による無作為な大量消費と飼い慣らされた人々の実態、あいだに座るスーツ姿の男性が現代の象徴といったところだろうか。
初見でのインパクトのみがうけた若い芸術家は五年と保たずに都会を去って田舎にもどり、くたびれた両親の家業を継ぐことになる。落伍者の円満な幸せ。
そんなことなどまったく考えていない象徴の男性こそがヨウイチロウだった。彼に退陣の二文字はない。
オーバーフローをさらに超えた運動によって消失したエネルギーを充填していたのだ。あくまで行儀よく、適切なテーブルマナーを重んじて。
彼の辞書では、静かな食事を妨害するものは、静かにさせてもよいとしている。
火に炙られる肉の香りがする。はねる油の小躍りする音が聴こえる。匂いが口の中いっぱいに広がり、幻の味が舌を喜ばせている。
なんという旨さだろう。
ヨウイチロウは、自分がいままで食べていたものはなんだったのだろうと思うほど、その馨の虜になっていた。
果肉を歯ですりつぶす新鮮な悦び、甘み。筋肉を噛み切るエキゾチックな愉しさ、あふれんばかりの肉汁。皿まで食べてしまいたいほどだ。
のどを押しすすむ美味の洪水が、すでに消化済みの、これまで食してきた数々の料理を束ねあげ、そうしてさらなる興奮をもたらす。
ヨウイチロウは知らず知らずのうちに筋肉が膨張していた。めりめりと服の裂ける音がした。
味が質量を得た香りは、近くのダイナーから燻っていた。低い、渋い男声の鼻歌も、左から聴こえてくる。絵が幻出する。
三つ星レストランの一流シェフが、漁港で漁師の帰りを待っている。冷え切った体を芯から温めるあら汁をこしらえて。
鮮魚の旨みで底が見えないほど濁った茶碗。板前は頭の硬い寡黙な禿げ親父。海入道の愛称で皆に親しまれる者。ねじり鉢巻がトレード・マークだ。
ヨウイチロウの脳裏に、食堂の親父とオーバーラップする影がある。いつも難しい顔をしていた、厳粛な父親の姿だった。
はえぎわの後退した斑らの白髪、常に額に刻まれた深い横しわ、小さな瞳と小さな老眼鏡、どてら、顔の前に掲げた新聞、紫の座布団にあぐらをかいている。
烱々たる眼光だけで、正座して膝の上に両手を揃えた少年を凝固させている。
加熱したアーク灯の焼けるじりじりという音すらうるさい。それほどの静澄、静思。
ヨウイチロウは少年だった。
俺はなぜ叱られているのだろう。
古臭い木材、壁際の棚に井然とならぶ全集、茶色いいぐさの床。土台にした脛にたたみのでこぼこが食いこんでくる。
俺はどこにいるのだろう。
ヨウイチロウは、記憶にない状景をなつかしむ自身の感情を不審に思った。
また、これは俺が忘れていた、真の家族の思い出なのではないか、との確信が、どこからともなくふつふつと湧き上がることにも気づいていた。
六畳一間の室に窓はない。引き戸の襖は右手に閉じている。
眼鏡の奥の瞳は新聞越しにヨウイチロウを見据えていた。
やはり鋭い眼光、重い威圧感を放つ光、自戒を強要する佇まい。
ここがどこなのかを必死に模索する。自分が何者なのかを深く掘り下げる。
しかし果たして、外部に対する疑いの原因が、必ずしも自分の意識のなかにあるものだろうか。
目を向けるべきはどちらなのだろう。
もしかしからいままで、ほんとうは俺は、ここでずっと正座をさせられていたのではないか?
俺はここから一歩も動けず、父親の無言の圧から逃れるために、夢をみていたのではないか?
62
:
◆jy..O/eIGM
:2021/10/23(土) 20:04:16 ID:f9T80XT20
そんなわけがないのに、そんなわけがないと拒絶する心のうごきすら、だれかにいざなわれているのではないか、とかんぐってしまう。
だれかとはだれなのか、俺にとって、どういった立場の何なのか。
ヨウイチロウは疑心暗鬼に襲われていた。
蚤ほど微小な饕餮が、服の裾から彼を収納しはじめていることに当人は気づいていない。
あら汁の香りが襖のわきから漏れていた。腹の虫が唸るのを、ヨウイチロウは全力で押さえ付けていた。
俺の一挙手一投足はすみずみに至るまで制限されている。
こうして自由に考えることすら、徐々に難しくなってきた。早く手を打たなければならない。なにか――。
――なにかひとつでも、思い出せれば。
その発想に思い至ったそのとき、父の目つきがすさまじく険しくなる。
傍目に変化はない。小さな瞳の奥から、得体の知れない勢いが噴き出したのだ。
ヨウイチロウは、世間の荒浪を渡り歩いて培われた重圧に押し潰されそうになる。
いったいどうして責められているのかもわからないのに頭を下げて謝りたくなる。しかし助けを求めることは不可能だ、母はすでに他界しているのだから。
万がいち誰か現れたとして、それは間違いなく縋り付いてはならない者だ。
油断をしては、気を緩めては、ならない。
不可視のジャケットはとっくに解き終わっていた。ジレもすぐさま分解されるだろう。ヨウイチロウは、いつのまにかここに座っていたことには気づいている。少年の姿だということも。
そうして感じた異変を、ひとつひとつ精査する。ゆっくりとっくり里程標的に記憶を遡行してゆくのだ。
俺はなぜ叱られているのだろう。
――その前、俺はなにを考えていた。
少年となっていて、アーク灯が焦げており、両手は行儀よく膝の上で正座を組んでいた。
――行儀。
父の瞳が暗く煌る。
そうだ、俺はずっと前に、ほんとうにとても昔に、みずから定めた厳粛なルールを、マナーを、礼節を携えていた。
たしかに俺は、それを、思議をこえた信念として、邪魔だてする者に容赦はしなかったはずだ。また、なぜか、ほんとうにまったく根拠も論理もなく、愛他行為を心のよりどころとしていた。
めきり、ときしむ。
畳がくぼみ、埃といぐさの粉が舞う。
鼻腔をくすぐる築数十年の家屋の香り。
そのおくに、気が遠くなるほどの過去に嗅いだ、とてつもなく旨い味を見た。同時に抱いた一抹の不安も。
――梓茜は無事だろうか?
(´・ω・`)「親父」
壮年のヨウイチロウは正座のまま、初めて父に語りかけた。
一度も存在したことのない架空の父親、その威容に敬意を評して。
ばきばきと部屋がきしむ。音のたびに折れた梁の粉塵が降ってくる。
本棚に隙間なく収められていた革の背表紙に油染みのような斑点が広がり、そこを起点に、虚構の目覚めに連動して腐り落ちてゆく。
陥没した孔から数百ページにも及ぶ書籍が黒い灰塵へと帰してゆく。
(´・ω・`)「親父、俺は――」
小さな瞳はあいかわらず烱々たる鈍色の眼光を放ち、少年を脱したヨウイチロウをなおも鋭く突き刺していた。
63
:
◆jy..O/eIGM
:2021/10/23(土) 20:06:52 ID:f9T80XT20
なにごとも程度が過ぎれば欠点になるのだ。それが証拠の父は、あまりにも不器用すぎた。
たったひとりの肉親である、血を分けたかわいいせがれである彼に、どのようにはなしかければよいのか分からないのだ。
伝えたいことなど凡俗極まりないのに。ただ、俺のようになってほしくないだけだということも。そのひとことすら言えないのだ。
だからこそ、息子が彼に懐く願いにすら気づけない。
(´・ω・`)「親父、俺は――俺は、あんたの自慢の息子になりたかったんだ」
ヨウイチロウはふたつのピラミッドの間に座っていた。うらなりのひょうたんとフード・プレート。
父も、書斎も、床畳も、あとかたもない。あら汁の香りと寡黙な禿げ親父の鼻歌だけ。
かちゃかちゃと鍋をかき回す音が左から聴こえる。どうして無い左耳から音が聴こえるのだろう。
湿布と包帯でぎゅうぎゅうに止血されていたそこに触れてみると、焼け消えたはずの耳が普段どおりにちょこんと生えていた。
耳たぶは柔らかく軟骨は硬く、生毛が風に、こする指に流れていた。
ヨウイチロウは左の耳に、骨折と創傷で神経までもがずたずたに混淆された、三角形に吊り下げた左腕で触れていた。
ひとすじ、汗が額を伝い、鼻の先から落ちた。
ごくりと生唾を飲みこむ。全く飲みこめない。
挙がらないはずの左手を持ち上げ、恐る恐る手のひらを顔のまえにすえると、黄色い五葉の枯れ枝が眼路を彩った。
はて、近所に公園か落葉樹かでもあっただろうかと首をかしげる。かしげた首からパイプ椅子の背もたれが軋むような音が鳴った。
髪から肩からぱらぱらと舞うふけの粉の行方に、座っているテーブル席のお盆に、あら汁定食が置かれていた。
炊き込みごはん、切り身がのった汁物、刺身、小鉢のしば漬け。顔に湯気が熱い。
ヨウイチロウは信じられないほどの飢餓状態でがりがりに痩せ衰えた体の心配を、一切遮断した。
空腹で景色が歪むのなら目を閉じ、渇き切った喉の痛みを追憶するくらいなら唾液など必要ない。
思考が食欲にがりがりと削られてゆく。初手で王手をかけられているのだ、どうすればよいのか。
香りがもたらす美味がヨウイチロウをオプティミストにさせようとしていた。食べてしまってもよいのではないか、むしろそうすべきではあるまいか。
まず、俺は確実に相手の術中にはまっている。つまりこの食事も無論罠であるわけだ。
ここまで追い込まれては勝機どころか、すでに敗北は確定している。
どれだけのことができるか、残り時間はどれほどか。
なにを行うにしても現状をどうにか打破しなければ話にならない。奸計に飛びこむ以外の選択肢は自刃すら与えられていないのだ。
こんなにもひ弱な枯れ枝では、じぶんのおしめを変えることすらままならない。
なにもできない。苦痛が長引くだけだ。
待て、なぜ俺は最初から、自動的にあきらめている?
「やあ、ヨウイチロウ」
左のピラミッドが、うらなり饕餮の山が、しゃべった。
ヨウイチロウは一瞬身をすくませた。肩がびくりともちあがっている。
「すまない、驚かせるつもりはなかったんだ。ながながと待たせるのもわるいと思ったんでね」
一見気さくで軽やかな中年の声は警戒心を薄れさせ、彼を信用のおける知己の相棒か、発言力のある親しい上司と勘違いさせる。
折衝役のネゴシエイター兼爆弾処理班、およびチームリーダーのナイス・ミドル。肩の力を抜かせたり、皮膚を粟立たせたり、一座を抱腹絶倒させたりできる者。
64
:
◆jy..O/eIGM
:2021/10/23(土) 20:10:03 ID:f9T80XT20
ヨウイチロウはよぼよぼのがりがりだが眼光だけは架空の父のように烱々たる鋭さだ。
過度の緊張も泰平の油断もない。そんな頑健な精神力も、もはや風前の灯火だった。融けた蝋に火勢をころされている。
「そう気張らんでもよろしい。めしにしようではないか」
ピラミッドが足を踏み出す。
がらくたの饕餮にきめ細やかな線条がいくつも走り、それらを起点に山を折り谷を折りうごきが叢生をしてゆく。
引きちぎられた仮面を膝の皿とし、親指の束を心室とし、体軸の骨格を、剥がれた爪を、潰れた甲をたぐり寄せ気質をなし、でろでろの粘液をシンメトリーに貼りつけたデカルコマニーが、ロールシャッハの虚像から実存の男を歩かせる。
人の複雑な体重移動がいかに容易に行なわれているのかがわかる。
ポケットに手をつっこんだり、こけてけんけんをしたり、ごまかしの咳払いと口元に添えるための握りこぶしから、体が再構築されていくのだから。
これらの動作が筋や神経、骨格や皮膚の線条を刻んでいる。「ごほん」というわざとらしいしわぶきで声帯が完成した。
男はヨウイチロウの前の存在していなかった座席に腰掛け、温かいおしぼりで両手を拭き、存在していなかったあら汁定食のわりばしを折ってペアにする。
その様子をじっと凝眸するヨウイチロウに怪訝そうな顔を向ける。
(‘_L’)「食べないのかね、てっきり待っていてくれたもんだと思っていたんだが」
(´・ω・`)「ああ――」
えらく年老いても声だけは変わらないのだな、と妙な感傷に浸り枯れ枝と化した腕をなでる。みずみずしいはりと奥深くの稠密な筋肉を感じた。
はっと仰天して顔を挙げる。
「ハンサムすぎたな」とぼやきながら異常に高い鼻梁を押して、眉の上を押して、彫りの深い鷲鼻と厚いまぶたが生まれる。
どこからともなく取り出した手鏡で自分の顔をひととおり眺め、にいっと白い歯の本数と並びを確認すると、なにごともなかったかのように割り箸を持っている。
いまの挙動はすべて見間違いだろうか。
ヨウイチロウは温かいおしぼりで手を拭くときに警戒が弛んでいないことをたしかめ、わりばしを折り手のひらを合わせる。男はそれをみてにやりとする。
待ってましたといわんばかりの表情。そうして顔の前で合掌をする。
(‘_L’)「いただきます」と男。
(´・ω・`)「いただきます」とヨウイチロウ。
男はまったくもって緊張せずに、ヨウイチロウは全神経を集中させて、
まずは紙コップに注いだ冷やでのどを潤す。
うまい。
畢生随一だと心酔をするほどに渇きが癒えて、思わずこぼれるため息から疲弊が溶け出てゆく。
なるほど、左耳が再生したように、左腕が完全寛解をしたように、究竟の飢渇で死に体に朦朧としていたことも、幻視や幻覚ではない現実なのだ。
だからこそ、ただの水が異様に美味く感じる。それゆえに箸をつけられない。感度が高すぎるのだ。
(‘_L’)「案ずることはない、わが友ヘイスティングズ。なにを考えているのか当ててやろう。
――そう、琴線が切れてしまわないか不安なのだな」
ヨウイチロウはぎくりとした。頭のなかをやさしく撫でられているかのようだ。男は微笑んでいる。
(‘_L’)「図星のようだ」
(´・ω・`)「貴様」
65
:
◆jy..O/eIGM
:2021/10/23(土) 20:13:13 ID:f9T80XT20
ちっちっち、と男は指を振る。たったそれだけのことで、いまにも掴みかからんばかりのヨウイチロウが宥められる。
まだ続きがある、しばしお待ちあれ、心配せずとも料理が冷めないうちに話すとも。
男はかきこんだ炊き込みごはんをあら汁で飲み下していたのだ。頬がハムスターのように膨らんでいた。
愛嬌のある男の意外性に胸打たれたヨウイチロウはパンツのポケット
――ジャケットは父との対面時に消滅していた――で不意に微動したタブレットの着信に反応できなかった。
決して油断はしていない、しかし一瞬、気が緩ませられたのだ。
男の挙動で、なにごとに対しても反応できないタイミングが作られたのだ。
ワンコールでバイヴレーションは止まった。
(‘_L’)「お冷を飲んだだろう」
(´・ω・`)「何?」
(‘_L’)「まあ聞け、ちゃちな毒などもってはおらんよ。いまは水で飢えを薄めているのだ。それと、この香り。寡黙な雷親父おてせいのよい匂いだろう、こいつがいいんだ」
(´・ω・`)「貴様は何を言っている」
(‘_L’)「つれないな、モナミ。ポアロと呼んでくれてかまわないというのに」
(´・ω・`)「貴様に――貴様らに、灰色の脳細胞など存在しない」
男は目を細めて静かにびっくりしていた。テーブルに据え置きの紙ナプキンで口周りを拭う。
(‘_L’)「ふむ、いやはやさすがだ。みかけは相当に凝って作ったはずなんだがね。なぜ、われわれが脳をもっていないと分かった?」
(´・ω・`)「のうなしだからだ」
男はふきだした。
(‘_L’)「ボン! まさかヨウイチロウが、そんな冗談を云うとは思わなんだ」
(´・ω・`)「寡黙でバーテンダーは勤まらん」
男は笑い泣きの涙を(やはり)わざとらしく指ではらう。
透明な威圧感がほんの少し弱まったことに気づき、ヨウイチロウはとらばさみのトラップを回避すべく、あえて動じない。警戒を弱めも強めもしない。
(‘_L’)「よかろう、俺のことは――そうだな、ピエール・ベルジェとでも呼んでくれたまえ、イヴ・サン=ローラン」
(´・ω・`)「断る」
(‘_L’)「よびたまえ」
(´・ω・`)「ピエール」
ヨウイチロウの口がひとりでに名を呼んでいた。
残響がきえるまでその事実を、相手を意のままに掌る形而上的な力の存在を、感じ取ることすら叶わなかった。
力量の差がある、などという表現は不適当だ。次元のきざはしが繋がっていない、ないし、見通せないほどに長すぎる。
さすがのヨウイチロウの強靭な精神もハウリングを起こしていた。
(‘_L’)「よろしい」
66
:
◆jy..O/eIGM
:2021/10/23(土) 20:15:11 ID:f9T80XT20
男――ピエールはしゃちほこばっておしぼりで手を拭いている。つまようじを咥えていた。すでに完食していたのだ。
ヨウイチロウを眺めていた瞳がとうとつに横に逸れる。どこかきまりが悪そうだった。なぜだろう。
(‘_L’)「すまない、まさかそんなにも腹ぺこだとは思わなかったんだ。あのヨウイチロウも食には目がないとは、ふふ」
ピエールは抑えた口元からふくみ笑いをわざとこぼしていた。
(‘_L’)「ふきなさい、はなしはそれからにしよう」
途端、ヨウイチロウの腹がふくれ、すぐに元どおりにへこむ。
味覚が奔流をした。
刺身のとろける甘みとわさび、醤油のからさ。
広がるたけのこときのこによる秋景色。
のどを押し進む魚の熱い香りと味わい。
しゃくしゃくと楽しいかみごたえの漬け物。
瞬間的な満腹にたまらずえずきそうになる。視線を落とすと、あら汁定食がきれいに空っぽだった。
俺は、いつのまにか完食をさせられていた、ということなのか。ヨウイチロウはナプキンで口周りを拭う。はねた汁と魚の骨、ごはんつぶでべったりだった。
(‘_L’)「きみは人造人間だ、R・シバガミ・ヨウイチロウ」
ピエールは楽しそうにしゃべりだす。声と表情は笑っていたが、目つきは氷のようだ。
(´・ω・`)「Rとは」
(‘_L’)「レトリックではわからんかね、ロボット・ヨウイチロウ」
ピエールはほんのわずかに前のめりになる。両腕を肘で折りテーブルにぺたりと乗せて。
(‘_L’)「孤児であるきみは軍のお偉方に引き取られた、まだ物心つく前にね。覚えていないだろう」
(´・ω・`)「存じない」
(‘_L’)「機密部隊――根も葉もない陰謀論をほじくりだして花を摘み、虚舟と星の智慧派を木に竹とつぎ結実させ、空き缶の脳詰めがおはこのピンクな連中――に改造されたのだ」
(´・ω・`)「俺は犬が好きだ」
ヨウイチロウはあくまでとぼける。そのまま平手でつづきを促す。
(‘_L’)「その少年漫画のようにふざけた身体的特徴と天性の格闘センスにみあった解説だろう。きみの思い出には、なにひとつとして証拠は残っていないだろうが」
(´・ω・`)「当人どもは」
(‘_L’)「孤児院はきみを引き取ったのちに処理、そういうものだ。機密部隊のゴミどもも潰滅、そういうものだ。実母と実父も廃棄済み、そういうものだ。よろしいか」
ピエールは無表情だった。
ヨウイチロウは相手のまばたきに合わせて牛刀を抜き、頭と胴体を断ち切った。ピエールの肩から上が飛ぶ。
(‘_L’)「いやはや、このカバー・ストーリーではご不満のようだ。
なかなかのできまえだと彼女は自負していたのだがね。ふむ、やはり眼高手低か」
67
:
◆jy..O/eIGM
:2021/10/23(土) 20:19:29 ID:f9T80XT20
燃える星々と花ざかりの夜空だった。
(‘_L’)「他にもいろいろ用意はあったんだ。
ここは、狂ったオーケストラに退屈した王のいびきだった。
ここは、神田青年のような若者の書いたメタ・フィクションによる、既存の物語への愚にもつかない批判の場だった。
ここは、数億人のジム・キャリーによるトゥルーマン・ショーのセットだった。
ここは、ジュベル・ナクーを踏みしめるわれわれと、その音に封じられたきみたちとのファースト・コンタクトものだった」
燎原の焔のように花びらがたゆたう。
散りゆく花々が風に流れ、薄羽の蝶の群れが月夜を飾り、郭公の切ない啼き声がさすらう。
それらが行進しながら一処に、中空に集まってゆく。ごんずいだまのようだ。
(‘_L’)「まず、われわれがなぜきみを警戒しているのか教えてあげよう。それはきみの役どころにあるのだ、ゲイリー・ストゥー」
(´・ω・`)「ゲイリー?」
声は出るが動けない、口も微動だにしない。どこから発したのだろう。
(‘_L’)「まわりくどい説明は苦手なんだ、いいわけみたいになるから。幸いにもここには、たった一言で済む結論が存在する。言ってしまえば俺は楽なんだな。
しかし、まあ、最低限の饒舌はほしいところだろう。隙がなければ会話はつまらなくなる」
蒐集される花鳥風月はなにを象っているのだろう。
(´・ω・`)「俺には、ゲイリー・ストゥーないしメアリー・スーのような、超越的な力は無い。せいぜいが、貴様らを危うく斃せる程度だ」
(‘_L’)「謙遜はいらないよ、しかしそれも事実だ」
(´・ω・`)「どういうことだ」
(‘_L’)「ふたりだけ、面倒なキャラクターがいたのだ。ひとりはいま言ったように、ヨウイチロウ、きみだ。
油断や失敗とは無縁なわれわれが、なぜか気を取られてしまう、メロドラマの色男」
(´・ω・`)「ザッピングしてくれ」
ピエールは腰かけたままほんのり笑う。
(‘_L’)「いいね、きみの戒律をちゃんと破れた気になれる」
(´・ω・`)「戒律?」
(‘_L’)「わすれなさい、言葉の綾だ」
ヨウイチロウは綾を忘れた。
(‘_L’)「実行部隊がきみのところにばかり集まってしまうわけだよ、われわれの指示をなかば押し切ってね。ヒュウ、おたがい女に疲れているようだ」
(´・ω・`)「おたがい」
(‘_L’)「さよう、女々しい者たちばかりなのだよ、こちらは」
68
:
◆jy..O/eIGM
:2021/10/23(土) 20:21:56 ID:f9T80XT20
ピエールはやれやれと肩をすくめる。
花びらが近くを通りすぎ、爆発した惑星のひとつが最期の火花をあげる。
(‘_L’)「もうひとりが、梓茜。そう、きみんとこの常連客、あのアズサ・アカネだ。彼女のような存在がキャラクター化している街は非常にめずらしい。他ではもっと……なんというか、そう、遍満しているものなんだ、あの手の存在は。水瀬零――レイのおかげで、骨抜きにされてはいるがね」
(´・ω・`)「アカネとレイ」
ヨウイチロウは声色や態度には出していないが、心の中ではもんどり打っていた。ふたりをただの若いレズビアンとしか考えていなかったから。さもありなん。
なにがどうなっているのかさっぱりわからない。そもそも、ここはどこなのだろう。
(‘_L’)「アトリエだ。ギャラリーに並べるために、モールに集まった約百人を縦糸と緯糸にした造花を、タペストリーを、織っている。
星々はその他の人々、トクナリくんのように、きっかけとなる連中だ。
いわゆるスポット・ライトというやつさ」
(´・ω・`)「ならば、あの花びらは」
(‘_L’)「よく見たまえ、しっかりと眼を凝らして。街の処理が解かれたぶんだけ、きみたちのパフォーマンスが向上しているように、鮮度もだんちだがね」
おずおずと身を乗りだす彼の肩をピエールが抑える。まだほんの少しだけ待ってもらわなければならないらしい。
(‘_L’)「われわれは、きみたちの魂の救済を求めている。宗教的な意味ではなく、偏愛や博愛を掲げた理念でもなく、あまねく人類が希求してきた積年の憧れ、実現してしまった夢へのテロリズムだ。
ゆえに場当たり的と云わざるをえない、相手はわれわれ以外の、ほぼ凡てなのだから」
(´・ω・`)「いいわけか」
(‘_L’)「言葉の綾だ」
ヨウイチロウは綾を忘れない。
(‘_L’)「平和的解決の模索で、すでに数世代が無為に消費されたのだ。これは、熟考を重ねた権謀術数であるのはたしかだが、猖獗に猖獗をぶつけているようなものなのだ。
失敗は成功の母であるから、きみたちも決して無駄にはしないと約束する、
きみたちで終わらせたいと常に胸に懐いている。心して見てくれよ」
(´・ω・`)「命令か」
(‘_L’)「お願いだ」
考えや行動を意のままに操れる相手であることが分かっているから、ヨウイチロウはそのまま首肯をした。
(´・ω・`)「貞子vs伽椰子には期待していない」
ピエールは外見相応の笑いをほんとうに浮かべた。
(‘_L’)「そうであることを祈っているよ、ヨウイチロウ」
ピエールがぱちんとゆびを鳴らす。
蒼穹。
洋風の住宅街。
青と白を背景に、無尽の人々が宙吊りになっていた。
首に輪が、体重がのっている。
69
:
◆jy..O/eIGM
:2021/10/23(土) 20:24:16 ID:f9T80XT20
顔ぶれは、セットアップの青年、ランドセルと学帽の少年、ポロシャツの似合う老婆、エプロンの女性、ジャージの中年、洒落者のシティ・ボーイとシティ・ガール、など、など。
まるでルネ・マグリットのゴルコンダのようだ。
この視点はどこに固定されているのだろう、相当の高さだ。
二階建ての家屋が視界のずいぶん下方にあり、雲の代わりに人が浮いている青空がバックの半分以上を占めている。
風。
風も吹いていないのに、人々が揺れていた。
この音はなんだろう。
オペラハウスであてつけの咳を飛ばす迷惑な客層のような音、否、声だ。
しかもそれが絶え間なく組曲を奏でている。
ブランコをしている人々の顔を見て合点がいった。
ヨウイチロウは思わず眼を瞑りたくなったが、そのための目蓋がなかった。
眼筋が勝手に怒張して、首吊りの民をオートフォーカスする。
なるほど、だれひとりとして、亡くなれていないのか。
長続きしすぎた苦悶の表情から、両眼が打ち上げられた深海魚のようにこぼれていたり、ストロー状にまるめた舌が掠れたラッパを吹いていたり、血の乾いた指がチアノーゼの風船の口を擦っていたりと、みな一様に生きていた。
どんなに絶命しそうに見えても、全員が元気はつらつなのだ。
(‘_L’)「あまりにも惨すぎる」
となりに音も気配もなく立っていたピエールがヨウイチロウの思い浮かべたものとおなじ感想をもらす。代弁ではなく本音だった。
(‘_L’)「この光景は、本来望んで生じたものではない。試験的に、情報漏洩をわれわれが利用したのだ」
(´・ω・`)「利用?」
意図せず声は震えていた。
(‘_L’)「紆余曲折は省略する、ただ、これが結論だ」
(´・ω・`)「なにをした」
(‘_L’)「たったひとつ、ただのひとつの処理。われわれは、彼らの回復までの意識を陸続きにしただけだ」
ヨウイチロウはピエールたちも自分と同じだということを察した。なにが、どこが一緒なのかは分からずとも。
(‘_L’)「ヨウイチロウ、われわれときみは絶対的なところで異なるという点を除けばおおむね同一だ。モジュールは基本的におなじ、人間であることもおなじ、超越的な能力の付与も――程度の差はあるにしても――おなじ」
(´・ω・`)「貴様らは――俺は、なんなんだ」
少年の叫び、少女の呻き、青年の喘ぎ。コロスのハーモニー。
(‘_L’)「すこしはじぶんで考えてみてはどうかね。きみはわれわれと違って、のうなし、ではないのだろう?」
(´・ω・`)「……」
ヨウイチロウは苦虫を噛みつぶす。
70
:
◆jy..O/eIGM
:2021/10/23(土) 20:28:41 ID:f9T80XT20
(‘_L’)「冗談だ。考究も悪くないだろうが、答えを知っている者としては、いたずらに焦らすつもりはない。
なにより面倒だ。きみには、やってもらわなければならないこともあるわけだからね」
(´・ω・`)「俺は貴様らに与するつもりなど毛頭ない」
(‘_L’)「われわれではない、かれらにだ」
ピエールは宙吊りの人々と、その瞳に向けて指をさす。
(‘_L’)「きみは、空っぽの白血球なのだ。ひたすら街のホメオスタシスを維持する役割をもったキャラクター。
おっと、そんなに不安にならずともよい。きみはちゃんと、父親の睾丸でつくられ尿道から射精されたどろどろが、母のゆるいまたぐらを駆け登り、そうして使い古しの子宮からずるんと露出した、正真正銘、人の子だよ」
ヨウイチロウは声を聴きながら人々の瞳の奥を伺い、そこに際限なく詰め込まれた街々を探索していた。それは必ずしも、血と肉の溢れかえる、惨憺たる情景ばかりではなく。
なにか、苦言を列記したプラカードを掲げる人々の群れ。
生きた自分の身体を画材としたアッサンブラージュやキュビズムの塑像で埋め尽くされた区画。
音吐朗々と銘々に終末をこいねがう交響楽団。
頽廃と肉欲に耽り、滅ぼされぬまま現存をつづけるソドムとゴモラ。
青いウッパラの蓮、紅いパドマの蓮、白いプンダリーカの蓮、泥の池に沈む浄らかな大衆。
逆再生でゴルコンダの前の前、最新の街、つまりモールのあるこの街では、見知った人々が獰悪な苦痛を繰り返し被っていた。
一瞬しか見えなかったが、一生にも及ぶ長さだった。頭の痛くなる光景だ。
瞳が街の鏡となり、その鏡に反射して写った住民の瞳がさらなる街の鏡となり、フレイザー錯視の渦巻きのように、真昼の敵の歯列のように、奥へ奥へと吸い込まれてゆく。
(‘_L’)「きみはわれわれをのうなしと見抜いたがね、そういうきみだって大差ないのだ。まあもっとも、うらなりのワイヤーフレームモデルはチープだから、中枢機関が脳には見えないという問題があったわけだが」
情報の濁流が押し寄せてきていた。
(‘_L’)「言ったろう、われわれはテロリストだ。敵はデミウルゴス。われわれもその能の一部をぶんどって使役を、協力をして、こういうことをしている。
きみに手伝ってもらいたいのは、観測することだよ」
(´・ω・`)「貴様らは」
ヨウイチロウはあらかじめ備わっていた直感を頼りに、相手の目的を予測した。
(‘_L’)「適切な世代に適切な対応を。レセプターに合致する鍵を。そうした試行錯誤の連続で、偶然の突然変異が進化に繋がる。お察しのとおりだ、ヨウイチロウ」
ピエールの瞳に人々が写る。かれらは過去の白血球たちだった。変化しない姿を現存したまま、それぞれカラフルな双眸が街の様相を増幅し、照射をしている。
強靭な、悲しい色をしていた。
(´・ω・`)「俺に、映写機の役割をしろというのか」
(‘_L’)「ちょっとちがうがおしいな、スクリーンだよ。
きみたちはわれわれが手を加えずとも、この負荷に耐えられる。スカウトさ。きみくらいスタイルが良ければ声をかけられたことも、一度や二度では足りんだろう?」
ピエールのわざとらしさが本音を吐露していた。饒舌の隙間から露呈した泣きごとを。
(´・ω・`)「モデルの仕事は断っている。その界隈のスタイリストは、デザイナーは、馴れ馴れしいだけで能力がない」
71
:
◆jy..O/eIGM
:2021/10/23(土) 20:30:55 ID:f9T80XT20
(‘_L’)「きみは断れないよ。それはわれわれの強制力ではなく、根本的な呪縛だからだ。正義の者よ」
鋭く突き上げたアッパーカットがピエールのガードをかち割り、かたちの良い顎ごと顔がひしゃげる。バランスを崩して後ろに倒れそうになる頭を、両手で抱えこむように膝蹴りする。絞ったレモンのように果汁を噴き出し潰れた。
(‘_L’)「さようなら、モナミよ。役目を果たせないロボットよ。きみたちの歯噛みがバックのしわを伸ばして、見づらい背景を均してくれるのだ。われわれのサンドバッグを撲り続けるがいい」
牛刀がピエールを袈裟斬りに両断した。がたいの良い胴が螺旋を描きながら、りんごの皮剥きのようにはがれてゆく。
(´・ω・`)「教えてくれないか、たったひとつの結論とやらを」
ピエールとヨウイチロウは燎原に屹立した一輪の花をまえに座していた。夜の緞帳に綺羅星が色を掃く。
火の粉の花ざかりがひとつに結晶したのだ。
名状しがたい哀愁の花に。
ピエールは肩をすくめて、笑った。
(‘_L’)「きみたちは、とっくの昔に死んでいるんだよ」
月夜の晩には誰もいない。
5.Afterwords
テーブルでタブレットが鳴った。
彼はそれを手にとり、通話をはじめる。
マダム・レイコは勘定を済ませた。
無一文のアカネとヒサシに代わって、ハルカがクマのぬいぐるみから取り出した財布を、そのままカウンターに置いたのだ。「お釣りはいらないよ」とかるくウィンクをしながら。
アカネはくすりとふきだした。
从 ゚∀从「ねえママン、気になってたんだけどね」
ζ(゚ー゚*ζ「なにかね」
アカネはためらってから言葉を飲みこみ、違う疑問を尋ねた。
从 ゚∀从「ゴデ・アンタークティカ」
ζ(゚ー゚*ζ「南極の美酒だ」
从 ゚∀从「どおして『彼女』なの?」
マダム・レイコはおさない笑顔でアカネを撫でた。かたい頬が柔らかくなる。アカネはとても気持ちがよさそうに喉をごろごろ鳴らした。
彼女の手のひらにマダムがコニャックのミニチュア・ボトルを乗せた。
从 ゚∀从「かわいい!」
ζ(゚ー゚*ζ「五十ミリさね」
从 ゚∀从「ショットいっぱいぶんね」
72
:
◆jy..O/eIGM
:2021/10/23(土) 20:34:26 ID:f9T80XT20
二人はころころと笑う。
ζ(゚ー゚*ζ「餞別のナンバー・ファイブだ、もらっていきなさい」
从 ゚∀从「ナンバー・ファイブ」
ζ(゚ー゚*ζ「そっくり、というわけではないがね。似ているだろう」
アカネの眼が輝いた。
从 ゚∀从「シャネル!」
ζ(゚ー゚*ζ「正解だ、オー・ド・パルファムのおじょうさん」
マダムはアカネの手をとり、甲にかるくキスをした。
ζ(゚ー゚*ζ「バタくさい田舎娘を頼んだよ」
アカネは恍惚にとろけていたが、ふと表情を曇らせて、意を決して飲みこんだ言葉を問いかけた。
从 ゚∀从「ママン、あたし、さっきから見てたんだけどね」
アカネはまだためらっていた。
ζ(゚ー゚*ζ「つづけなさい」
从 ゚∀从「その……。お酒、そんなに呑みすぎないほうがいいと思ったの。ほんと、ただそれだけなの」
マダムはそのひとことで凡てを理解した。ほんの須臾のあいだ、一生の悲傷を敷き詰めた納得の表情を浮かべる。
そうして、不安げな幼な子のアカネに、母のように語りかけた。
ζ(゚ー゚*ζ「ありがとう、アカネちゃん」
レイコは彼女の頭をくしゃくしゃと撫でた。アカネが、ハルカとマサアキにしたのとおなじように。くすぐったそうに喜ぶ顔は耳のさきまで真っ赤だ。
从 ゚∀从「ちょ、ママン、こしょぐったいってば」
ζ(゚ー゚*ζ「うれしいんだ、そうやって心配してもらえるのがね」
从 ゚∀从「あたし、こうみえて二十五なんだけど」
ζ(゚ー゚*ζ「歳は関係ないよ。やさしい子にはこれだろう」
レイコは威厳の仮面を脱ぎ、いいこいいこをしていた。アカネはめろめろだった、レイに嫉妬されそうなほどに。
ふたりのじゃれあいを、ヒサシがうらやましそうに眺めている。
从 ゚∀从「ママン、あたしこれ以上はへんになっちゃう」
ζ(゚ー゚*ζ「なりたいのではないのかね」
73
:
◆jy..O/eIGM
:2021/10/23(土) 20:36:24 ID:f9T80XT20
アカネの肩が荒々しく上下していた。もじもじ、もぞもぞしている。
从 ゚∀从「なりたいけど、だめなの、あのこが待ってるから」
レイコは撫でていた腕を引いて、きょとんとしているおでこに口づけをした。
ζ(゚ー゚*ζ「では、行きなさい。そして汝のなすべきことをなせ」
マダム・レイコはアカネの胸を押した。よろける彼女の肩をヒサシが後ろから支える。アカネはぽーっと気もそぞろだ、完全にゆだってのぼせていた。
四人が店を後にする。
女主人はグラスに幸運のリュウゼツランを注ぎ干した。
ζ(゚ー゚*ζ「バイ、バイ、コム・デ・ギャルソン」
まったく飲めていなかった。
しばらくして、レイコは電話をかけた。
たったワンコールでつながった、いつもどおりに。
「はい」
ヨウイチロウの声でレイコは凡てを察した。
ζ(゚ー゚*ζ「ヨーちゃん、ひさしぶり」と少女。
「そうだな」と少年。
ζ(゚ー゚*ζ「うふ、さっきわかれたばかりよ」
「はて」
木の葉が風を泳いだ。
ζ(゚ー゚*ζ「こうして、飾らないでおしゃべりするの、とってもひさしぶりね」
「ああ」
遠い陽射しが垂れこめた。
ζ(゚ー゚*ζ「むかしっから口下手なんだから、もう。なおしたほうがぜったいかっこいいのに」
「そういってくれるのは、おまえくらいだ」
大きな栗の木の下で、少女は椅子に座り待っていた。
ζ(゚ー゚*ζ「みんな言ってるよ」
「ふむ。おぼえているのは、おまえの声で言われたことくらいだ」
74
:
◆jy..O/eIGM
:2021/10/23(土) 20:38:14 ID:f9T80XT20
テーブルにはグラスがふたつ。
少女のむかえは空席だ。
ζ(゚ー゚*ζ「ずるい」
「そうか」
爽やかな風だ。
ζ(゚ー゚*ζ「ヨーちゃん、いっつもおそい」
「もうつく」
少女はふくれっつらを挙げた。
少年はうどの大木のように立っていた。
ζ(゚ー゚*ζ「まちくたびれちゃった」
「このとおりだ」
声がくぐもっているのは電話だからだろう。
草いきれが香る。
ζ(゚ー゚*ζ「私のこと、わすれちゃったのかとおもった」
「すまん」
少女のほおに熱いものが流れた。
ふたりはグラスをかかげる。
ζ(゚ー゚*ζ「どうする?」
「どうしようか?」
少年と少女ははじめて心から笑った。
ζ(゚ー゚*ζ「大地と水と貴方に」
「太陽と風と貴女に」
大気がこつんと鳴った。
ζ(゚ー゚*ζ「乾杯」
「乾杯」
ふたりは盃を乾した。
75
:
◆jy..O/eIGM
:2021/10/23(土) 20:43:59 ID:f9T80XT20
高久保玲子はひとりカウンターにつっぷしていた。
彼女はブドワールで眠っていた。
一九七七年前後、ヴィヴィアン・ウエストウッドとマルコム・マクラーレンは『セックス・ピストルズ』のプロデュースにあわせ、ブティック『セディショナリーズ』を提案、ほぼ同時期に販売され、爆発的なブームを巻き起こした転写のクルーネックをアカネは着ていた。
白地に青インクで女性の裸の胸がプリントされているその服は、タイトシルエットゆえ、乳首の影が写真のそことちょうど重なるように浮き上がっていた。
ボトムスは下着のみ。ロッキン・ホース・バレリーナが膝下までを黒く螺旋に飾っている。
从 ゚∀从「パンクしすぎだよねえ」
( ・∀・)「そうだね」
襟元、裾、袖とゴシック調のフリルをたっぷり詰めこめるだけ詰めこんだシフォン・ブラウスに、これまたフリル付きの共布カチューシャ、大きなハートのハンドバッグ、二連リボンのメリー・ジェーン・シューズはロリータの代表『ベイビー』のファッションを着飾るハルカは、スタイルでごり押ししているきらいはあったが似合っていた。
くるっと一回転に合わせてスカートが持ち上がり、彼女は危ういところでそれを抑え、ちらりと目配せをした。
マサアキは固まっている。
(*゚∀゚)「ふわふわしすぎだよねえ」
( ´∀`)「そうだね」
男ふたりはファッションに理解はあれど、積極的な干渉は控えめだった。また、女性のショッピングに振り回された経験も同様に乏しい。
目のやり場に困ったふたりは視線を逸らし、アカネとハルカは他人の目など気にする必要がないからか、ところかまわず自由に服を着たり脱いだりしていた。
もちろん、ヒサシとマサアキの反応をいちばんに楽しみながら。
从 ゚∀从「へい、ボーイ」
( ・∀・)「な、なに」
(*゚∀゚)「ね、みたいんならみてもいいんよ?」
( ´∀`)「や、そ、そげなこと」
ふたりはにやりとほくそ笑み、ふたりは後ろ手に頭をぽりぽり掻く。
从 ゚∀从「逆に恥ずかしいのよねー」
(*゚∀゚)「そおやってちらちらされると、なんか、しちゃいけないことしてるみたいでねー」
アカネとハルカは、ぱっぱと次の服に手を出しはじめていた。
( ・∀・)「ね、ねえ、どうしてこの状況で、こんなことできるの?」
从 ゚∀从「こんなことって?」
( ´∀`)「ファッション。終末なのに」
(*゚∀゚)「だからこそだよ」
ヒサシとマサアキははてなを浮かべたまま固まっていた。
76
:
◆jy..O/eIGM
:2021/10/23(土) 20:46:03 ID:f9T80XT20
ヒサシとマサアキははてなを浮かべたまま固まっていた。
从 ゚∀从「好きなお洋服が着ほうだい」
(*゚∀゚)「こんな楽しいことってないよ」
( ・∀・)「最期だとしても?」
从 ゚∀从「だからこそ」
( ´∀`)「ふ、ふむ」
男ふたりは肩をすくめる。
从 ゚∀从「それが本音だけど、建前は必要よね」
( ・∀・)「ふむ?」
(*゚∀゚)「饕餮の目的」
( ´∀`)「へ?」
アカネはクリスチャン・ディオールのニュールックを、ハルカはタイトなニットのトップスにサブリナパンツを装う。
从 ゚∀从「ヒサシは、あたしたちの恐怖した意識を盗み出すのが饕餮の目的っていったでしょう?」
( ・∀・)「ぜんぶ推測、仮定だけどね」
(*゚∀゚)「つづきがある、マーくんは内容にも感づいてる。おとこふたりでずるい」
( ´∀`)「う、うーん、確信はないんだけど」
広すぎるつばでせっかくのインナー・カラーが潰れたアカネはそそくさと脱ぐ。背以外貧相な体のラインが目立つのをいやがったハルカはそそくさと脱ぐ。
从 ゚∀从「それも、わかったところで意味ないことだって?」
( ・∀・)「どうなんだろ。はっきりいっちゃうと、ぼくたちにできることなんて、もうほとんど残ってないようなもんなんだよ」
(*゚∀゚)「こうしておめかしするくらい?」
( ´∀`)「や、もしかしたら、もしかしたで、さらに面倒なことか、
もっと最悪な結果になりそうな気もするの」
アカネは、マリアノ・フォルチュニイがボルドーのシルク・サテンに銀色のステンシルをあしらったプリーツ・ドレスの『デルフォス』を。スカーレットの髪色がなだらかなグラデーションを描いている。
ハルカはマリア・モナチ・ガレンガによるハンギング・スリーブのワンピース・ドレス。
カーキのベルベット素材にオリエント風の不死鳥とグリフォンがプリントされ、ハイウエストの金糸ベルトが彼女のスタイルの良さに磨きをかけている。
从 ゚∀从「いってごらんなさい」
アカネは舌なめずりをする。
77
:
◆jy..O/eIGM
:2021/10/23(土) 20:47:57 ID:f9T80XT20
( ・∀・)「えっと」
彼の頭は初恋のように空っぽだ。
(*゚∀゚)「もったいぶるのはいいけどね、焦らされすぎたら、なにしちゃうかわからないよ」
ハルカはマサアキの鎖骨をなぞった。
( ´∀`)「その、と、饕餮は、ぼくたちの怖がった意識を、言いかえれば、かれらに都合のいいように変質させられた意識を集めてるよね」
マサアキはしどろもどろだ。
从 ゚∀从「ま、そーゆーことになってんね。で?」
( ・∀・)「あつめて、それでどうするつもりなのかなって」
(*゚∀゚)「研究とか? ほら、宇宙人のキャトルなんたらみたいに」
( ´∀`)「キャトルミューティレーションね。でもそれなら、この仮想と仮定した街ごと巻きとるのは、ちょっと規模が大きすぎないかな」
アカネは着ていたドレスをほっぽる。派手すぎたようだ。ハルカは脱いでマネキンに着せなおす。寒かったのだろう、腕に鳥肌が立っていた。
( ・∀・)「ぼくは、これはなにかの前準備じゃないかと思ってるんだ」
从 ゚∀从「ほう、して、そのこころは」
アカネはパンツ一丁で両手を腰に、胸を張ってヒサシをさぐっている。
( ´∀`)「たとえば――饗宴、革命、改革、破戒」
(*゚∀゚)「はい?」
ジャン・パトゥーのビーチウェアは黒いレーヨン・ニットのジャンプスーツ。
ギャルソンヌ・スタイルの王政復古だった。アカネは完璧なプロポーションを誇るように笑った。
イヴ・サンローランのクリスチャン・ディオールは一九五八年のトラペーズ・ドレスをハルカはかぶる。
ラウンド・カラーのボウタイを手首に巻きつけ遊んでいる。なめらかな膝小僧だ。
( ・∀・)「饕餮に統率者がいることはまず間違いないとして、さらに有識者を優先的に馬鹿にする計画性からして、モールにあつめられたぼくたちは、ここにくるよう仕向けられてたと思うんだ」
从 ゚∀从「あったらぶんなぐってやる、変態のボスめ」
( ´∀`)「ここにあつめられたぼくたちがレイコさんのバーを去るときに、ずっと、後ろから大勢の叫び声が聴こえてたはずなのに、振り向いたら、だれもいなかったよね。がらんどう」
(*゚∀゚)「きみわるかった、ママさん、だいじょうぶかな」
アカネは不安げに脱衣をする。ハルカもウールのリボンをほどく。
( ・∀・)「ここにくるまでに見た街の人たちは、晒しあげられてるみたいに、あからさまに襲われていた。
対して、ここに逃げこんだ人たちは、いつのまにか消えていた、蒐集されていた」
78
:
◆jy..O/eIGM
:2021/10/23(土) 20:50:43 ID:f9T80XT20
从 ゚∀从「こわい!」
( ´∀`)「そのとおり。饕餮は、恐怖に怯えて醜態を演ずるぼくたちを集めている、と考える。その醜態を見せられたら、だれだって身の毛もよだつ思いのはず」
(*゚∀゚)「このとおり、考えただけでとりはだたっちゃった」
前裾が短く後ろ裾が引きずるほどに長いオブリック・ラインのウェディング・ドレスはガザール生地をふんだんに使った、六十年代、クリストバル・バレンシアガの傑作。
トレーンはあくまで控えめに、結婚式だけでなくデイリーユースも楽しめる長さ、クリーム色の絨毯のよう。
六八年春夏発表のアフリカをテーマにしたサファリ・スーツはサンローランの変革、女性のパンツ・ルックだ。
カーキのコットン・ギャバジン、ジャケットとパンツのツーピース、四つのフラップ付きパッチポケット、前あきのレーシングは大胆に、ウエストラインはベルトでぎゅんぎゅんに締めている。
( ・∀・)「集めた人々でぼくたちを怖がらせたように、また別の人々に見せてゆくつもりなんじゃないかな。そうして、大勢の人たちの意識を変えてしまう。街の回収は舞台の回収で、再展開、画廊として用いる」
从 ゚∀从「その想像力に脱帽、作家の才能あるぜ、同人の」
( ´∀`)「で、話をすこし戻す、仮想現実のあたりまで。ね、おかしいとおもわない? 自治体というか警備というか、そういう防御機構がてんで働いてないのって」
(*゚∀゚)「パパたちのこと?」
アカネはトレーンの汚れが気になりすぐに着替える。ハルカはやはり前の風通しが気になるようだった。
( ・∀・)「それはただのディプソマニアックス、誇大妄想狂。もっとつよい、根源的にぼくたちとは次元のちがう存在というか、デウス・エクス・マキナのようなものかな。ほら、ヨウイチロウさんみたいな」
从 ゚∀从「ちょーつよくてかっこよくてかわいくて目が離せなくて、ちゃんとかわいげとユーモアのある、笑顔で白い歯がきらりとひかる、つい一緒にいたくなっちゃう、寝たくなっちゃうようなスーパーマン?」
( ´∀`)「そうそう(そうそう?)。あらかじめ無効化されて、完全に骨抜きにされてたら最悪、一部機能が眠ってるだけなら会話の余地あり」
(*゚∀゚)「最悪なことはそれで、面倒なことってなあに?」
白地に黒の水平線と垂直線、そこに三原色のパネルワークはモンドリアン・ルックのミニ・ドレス。
ロジェ・ヴィヴィエのパンプスはエナメル素材に太いヒール、
広いつま先のバックルがキュート、近未来的な服装。
細密な点描によるオプ・アートのプリントは前身頃に女性の瞳がキャッチーな、Aラインのミニ・ドレス。ハリー・ゴードンのポスター・ドレス。リアルクローズから遠く離れた紙素材の怪作のひとつ。
( ・∀・)「スーパーマンないしスーパーウーマンがコミュニケートできない空気のようなタイプだった場合とか、起動方法がわからなかったりとか、饕餮のほうが力持ちだったりとか、饕餮イコール機械仕掛けの神とか、いろいろあるんだけど」
从 ゚∀从「けど?」
( ´∀`)「その女神さまが懐柔されていて、さらにぼくたちが説得しなおさなきゃいけないような事態。
すっごくめんどくさい、普通に諦める。
饕餮の、ぼくらを利用したギャラリーをつくるわけが分かれば、まあ、捕まるにしたって、及第点かなとは」
79
:
◆jy..O/eIGM
:2021/10/23(土) 20:53:02 ID:f9T80XT20
(*゚∀゚)「だっる」
ふたりはしかめた顔で服を脱ぎ捨て、ようやく決まった晴れ着を装着する。ふたりはふたりの着道楽に肩をすくめてため息をつく。さて、これからどうする?
从 ゚∀从「どうお?」
( ・∀・)「どうって――いいんじゃない? にあってるよ」
一九二六年、リトル・ブラック・ドレス。キトゥン・ヒールのパンプス。
(*゚∀゚)「いーでしょ」
( ´∀`)「かわいいとおもうよ」
一九九九年、ブラックのヴァルーズ、ブラウンのチュニック、チャコールのワイドパンツ。レース・アップ・シューズ。
从 ゚∀从「ヒサシ、この曲なにかわかる?」
アカネは今朝聴いたレイの鼻唄を奏でた。ところどころ調子はずれでたどたどしく、震える声と鼻をすする音でたびたび止まる。
ヒサシはぶっきらぼうに、さらさらの腰までのびる髪をいじりながら返した。
( ・∀・)「韃靼人の踊りだね、アレンジされてる。いろんなところで聴く『娘たちの踊り』のところ」
アカネは目をまるくし、ふせ、照れ笑いしながら指に髪をくるくる絡ませる、ほどく、絡ませる。顔が赤い。インナーカラーに映えている。
从 ゚∀从「これ、ガーシュウィンのピアノ協奏曲に似てるよね?」
( ・∀・)「いいや」
アカネは下唇をかるく噛んだ。
彼の頭は初恋のように空っぽだ。
从 ゚∀从「ん、バッハのメヌエットにうりふたつだろ?」
( ・∀・)「まったく違う」
从 ゚∀从「ははは、じょおだん、じょおだん。ワーグナーのワルキューレの騎行ってゆうつもりだったのさ」
( ・∀・)「にてるとこを探すのがむずかしいくらい」
从 ゚∀从「ふうん、音感がにぶちんだね、葉加瀬太郎がよく弾くツィゴイネルワイゼンは、メロディライン含めて完全に一致してるよな」
( ・∀・)「あれは原曲アレンジだけど、どっちからも遠いよ、すっごく遠い」
从 ゚∀从「いままでのは全部うそ、おおうそ。ほんとはね、ニュルンベルクのマイスタージンガーっていうつもりだったの。そこ! わらわない!」
( ・∀・)「アカネさん、ネタにしてもおもしろくないよ。いまあげてくれた曲は全部が全部、笑っちゃうくらいダッタン人と似てない」
从 ゚∀从「あっれえ」
80
:
◆jy..O/eIGM
:2021/10/23(土) 20:55:28 ID:f9T80XT20
アカネは口笛を吹いてごまかそうとした。
从 ゚∀从「んじやあさあ、その、なあに? ダッタン人? それと白鯨は関係おおありよね?」
( ・∀・)「白鯨って、メルヴィルの?」
从 ゚∀从「ほかにあんのか、スターバックス」
ヒサシはうんざりだった。アカネは酔っぱらいのようなだるがらみをしていた。
彼の頭は初恋のように空っぽだ。
と。
なんどもそういっているだろう。いいかげんに気がつきたまえ。アカネ。
彼の頭は空っぽなのだよ。
ヒサシの髪の毛が伸びていることに、すこしは疑問を持つべきではなかったのか?
なぜレズビアンのきみが彼に惹かれたと思う?
きみは彼のカーリーヘアーに、いったい誰の面影をみたのかね?
いや、そもそもきみには、もっともっと最初の段階で、ヒサシからの問いかけで、レイの頭のなかにあったわれわれの不可視の中枢から得た蘊蓄を、思い出してもらわなければならなかったのに。
まったくもってのんびりさんだ。レイにそっくり。わざわざこうして、ヒサシの口を借りて、声と思考を借りて、たくさんのヒントを与えてやったというのにきみときたら。
ここは仮想現実、きみはマリア、きみたちは死人、意識だけがゆうゆう闊歩するゴースト・タウン、そしてきみは盲目の時計職人だ。
キルロイ参上だ、すべてを、極めて簡潔に教えてさしあげよう。
恐怖に怯えるきみたちの意識を、無惨に苦しむきみたちの意識を、死を渇仰しながら延命されているきみたちの意識を、われわれがギャラリーに並べる意図を。
「――読んでるときに流してただけじゃない、ごっちゃにしない、お・わ・か・り?」
スクーロのカプチーノ、セミスイート・チョコレート。クロワッサン。
アカネは声に振り返る。
マルタン・マルジェラによるデコンストラクションを施されたエルメスの服の山に、二体のクマのぬいぐるみが埋もれている。
ヒサシはアルカイックスマイルで立っていた。
コーラルの長髪が風になびいている。
从 ゚∀从「――ヒサシ?」
めきり、と、おらぶ。
ヒサシの体を正中線にそって、赤い線条が走った。そこを基軸に、肉がくるくると脇に巻かれてゆく。
黒いスパッツ、黒いパンティー。だぶついた白いシャツの貝ボタンはすべて外れていた。
腰まで滑らかにおちる、黒曜石のやじりみたいな色の髪。
血の気の失せた青白い、肉の薄いはだえ。
まあるいおめめ。
ミナセ・レイがヒサシにすっぽりおさまっていた。
さて、舞台は花の夜とダイニングでよろしいか。
ξ゚⊿゚)ξ「ハアイ、ア・カ・ネ」
81
:
◆jy..O/eIGM
:2021/10/23(土) 21:00:11 ID:f9T80XT20
燃える星々と花ざかりの夜空。
言葉のない花。
名や故事の絡まぬ花。
名状しがたい哀愁の花。
私たち六名と梓茜は燎原のキッチンにいる。
エルンスト・ユンガーの砂時計、金継ぎのデミタスカップ、湯気、サニー・サイド・アップ、トーストの香り、ニルギリの香り、リラのフレグランス。
从 ゚∀从「水瀬、零――」
――カッコウ、カッコウ。
カッコウ、カッコウ――。
ピエールはアダムスキー型円盤プリントのベースボール・キャップにダブルのスーツ姿。
かたりの饕餮は短く刈られたヒサシのエプロン姿。
巨大な少女の饕餮はボディ・コンシャスな黒いマーメイド・ドレスの姿。
少年の饕餮はダルマティカ風の姿。
婦人の饕餮はジョン・エヴァレット・ミレーの『オフィーリア』のような姿。
それぞれ椅子に腰かけ寛いでいる。五人の視線はふたりに向けられていた。
一九〇九年頃、ポール・ポワレのキモノ・コート。
一九二六年、ガブリエル・シャネルのリトル・ブラック・ドレス。
ξ゚⊿゚)ξ「や、本日はどなたのお葬式かな、マドモアゼル?」とポワレ。
アカネは笑った。
从 ゚∀从「あんたのよ、ムッシュー」とココ。
レイは笑った。
――ユウコ、ユウコ!
カズキは胎をほじくっている。
罪悪感と良心が苦痛を求めて、ただひとつの行為を絶え間なく反芻している。
彼はまた、彼女の影をそこにみた。
そうしていつまでも名前を呼びつづけ、食らっていた。
娘の名など、ただの一度も思い出すことなく。
――あたたかい。
息ができないのにぜんぜん苦しくない、それどころか、とてもすごしやすくて、ぽかぽかしていて、生まれてはじめて安心した気がする。心の底から安らげた気がする。
わたし、いつもこんなに心細くて、寂しがり屋で、冷え切っていたんだ。クマさんのぬいぐるみを手放せなかったのって、こうして支えてくれる、よっかからせてくれるなにかが欲しかったからなんだ。
よりどころが欲しかったんだ。飾らないでいたかったんだ。
ハルカとマサアキはひとつのしとねを分かち合っていた。
ふたりとも、ぐっとまるくなっている。力んでいるわけではない、それが自然体なのだ。
太もものあいだに腕を挟んで暖をとるのとおなじように。
彼のポッケに挿し入れた手をつなぎあわせるように。
82
:
◆jy..O/eIGM
:2021/10/23(土) 21:02:42 ID:f9T80XT20
ふたりの吐息がこもり唇が濡れていた。いたいけなよだれの味が甘酸っぱく香る、交わる。
おでこが、肩が、腰がぴったりと密着しており、さらに腕が、足が絡まりあって、まるでシャム双生児がひとりになりたがっているかのようだ。
ふたりはじぶんたちが身動きできない事実を忘れるために、たがいに相手を思いやり、つたないむき出しの感情に没頭し、安楽を得ていた。そうして安らいでいた。
わたしは、彼とこんなふうになりたかったんだ。それ以外なにもいらなかったんだ。じぶんが相手を、相手がじぶんを、確実に想っているという証明が欲しかったんだ。
ふたりをつつむまるい袋がふよふよ揺れる。なんだろう。
つながり会えないことがこんなにももどかしいだなんて。
まどろみの無防備な心はとても気持ちがいいけれど、でも、その瞬間が際限なく引き延ばされて眠れないのが、考えつづけてしまうことが、こんなにも切ないものだなんて。
ぐらっ、と揺れが大きくなる。
だれか、聴き覚えるある声だ。粗野で乱暴で、それでいてびっくりするくらいぶきっちょな、悲しい男の人の嘆き。
マサアキくん、わたしはきみのことを、愛しても好きでもなかった。
そういう気持ちがよく分からないのと、それに依存してダメになった人が近くにいたから、わたしがきみにいだく感情が愛とか恋とかなのか、真実分かりたくなかったの。
だからきみをからかったり挑発したりして、そうして示してくれた反応をみて、そのたび、わたしのなかでこだまするきみの声に耳をかたむけるのが趣味になっていた。
それがなににもまして楽しかったから。
男の胴間声が聴こえる。
風が吹いてきた、穴が空いたのだ。
さようなら、そしてこんにちは。
あなたたちを愛せなくてごめんなさい。
ごめんなさい。
――カズキのゆびがふたりの影を捕らえた。
アクチュアリティを著しく欠いた断想をアカネたちは眺めていた。
法川一紀や法川遥、藤野正明、高久保玲子、水崎浩子、沼津徳成、渡辺孝、伊藤梨沙、芝上燿一郎、神田久、など、など。
アカネには見覚えのない顔ぶれも大勢いたが、全員共通、よりどりみどりきみどりの、すさまじい苦痛を味わっている。夥しい人数が、年齢や性別の区分なく。
六人かけのダイニング・テーブル。
上座にレイ、下座にアカネ。婦人の膝の上に少年は座っている。
角砂糖のシュガー・ポット、マグやデミタスに紅茶と珈琲、アカネ以外はお行儀がよい。
キッチンは舞台セットのように四周の壁が取り払われている。
星々の輝く夜の底、流れ星、星雲、炎の花ざかり。
釘づけにされているのは一輪の花。人の苦痛を花弁とする、虚空に根をはる花。
遠近感が狂っていると感じるほどに大きい。
从 ゚∀从「でえ?」
アカネは虚勢を張る。足をぷらぷらさせている。
从 ゚∀从「虚勢じゃないやい、だまっとけ、マザコンのオイディプス、目玉をほじくるぞ」
やれ、やれ、だ。ヒサシは無い肩をすくめる。
从 ゚∀从「レイ、あんたにはなさせたげる、なにを言いたいんだい?」
83
:
◆jy..O/eIGM
:2021/10/23(土) 21:05:43 ID:f9T80XT20
ξ゚⊿゚)ξ「悲しんだりしゃっちょこばったり肩をすくめたり煽ったり、いろいろあったのにてんで変わんないのね」
从 ゚∀从「てらうのが好きだろ? つけ入る隙をあけてんのよ」
ξ゚⊿゚)ξ「はー、けっきょく、たった一日、目を離しただけだったわけね」
从 ゚∀从「あたいの、そおゆうとこが好きなんだろ」
ξ゚⊿゚)ξ「そおゆうところ、も、よ」
アカネの顔はスカーレットのインナーカラーより真っ赤だが、真っ赤ではない。レイはそんなアカネのかわいげに微笑む。いや、かわいげはない。
从 ゚∀从「そこはいいんだよそこは、かわゆげ、でもいい。かあいげ、でもいい」
話題が進まず緊張感がかき消える。それが彼女の特性ともいえる。だからこそやっかいなクイーン。それでいてキング。
o川*゚ー゚)o「ね、いつまでスラプスティックをやるつもり?」
婦人はその顔が常であるかのように眉をしかめていた。
从 ゚∀从「はん、歌でも歌うか? お義母さん」
o川*゚ー゚)o「おか――」
(‘_L’)「ききたまえ、アカネ」
ピエールは命じた。アカネはけろりとしている。
从 ゚∀从「聴かせたいならおしゃべりしましょ、ね、お義父さん」
(‘_L’)「おと――」
難攻不落だ。
ξ゚⊿゚)ξ「アカネ、どおしてあんた、大切な人たちが苦しみ喘いでいるのに、そんな(平気じゃないのはわかってるけど)平気そおなの?」
遠い天体が閃光とともに消える。
从 ゚∀从「生きているから」
アカネは平然と応える。
( ・∀・)「きみにぼくから、根本的な間違いを伝えよう。まずね、きみたちはとっくの昔に死んでいるんだよ」
从 ゚∀从「あら、世界は核の炎にでも包まれたのかしら」
( ・∀・)「光の照射――オプトジェネティクス――で取り出した記憶の暗号――エングラム――を、仮想現実の似姿に埋め込んだ人々。それがきみたちだ」
(,,゚-゚)「遺族の依頼で、だ」
84
:
◆jy..O/eIGM
:2021/10/23(土) 21:08:02 ID:f9T80XT20
アカネがちゃかすのを言下に少年が遮る。
(,,゚-゚)「圧縮された時間のなかで一生を渡り歩き、同意があれば継続、なければ虚無。コピー・アンド・ペーストの輪廻だよ。行為者のみのユーフォリア、不老不死のユートピア」
从 ゚∀从「へたっぴラッパーの少年、レイバンとラジカセと西海岸を忘れているよ」
少年のそっけなさが恥じらい隠しのようだった。澄ました表情に愛嬌がある。アカネは笑う。
从 ゚∀从「死んでなおじぶんたちが生きていると思っているのなら、それは生きていることと同義ではないのかね、諸君」
(,,゚-゚)「独我論にすぎる、自由意志がないのだから。前世の記憶と称した削除済みの過去を想起する人々もごまんといるのだ。
そのなれはてが、きみがヨウイチロウの瞳から見た街々の惨状だ」
从 ゚∀从「首吊って死ねないのも?」
(,,゚-゚)「それは――」
从 ゚∀从「いいよ少年、むりしなくたって。おねえさんは子どもだけには優しいの、そおゆう職種なのよ」
アカネはウィンクを飛ばす。
ξ゚⊿゚)ξ「こんなアバンギャルドな保母さんいないわ、アカネ」
从 ゚∀从「いるよ、ここに。で?」
老けた外見にしすぎたのだろうかと悶々していたピエールが応える。
(‘_L’)「あれは、かなり前の、われわれによる事故だ。意識が、記憶が、消えないよう施した。それが苦悶のループとなったのだ」
从 ゚∀从「どおして助けてあげない?」
アカネは睨まず、すごまず、ただひたすら哀しみに満ちた視線を投げた。
(‘_L’)「このメタフォリカルな状景がセンセーショナルを巻き起こしたからだ」
花のなかで人々の叫びが反響し、音が打ち消しあっている。だから声は聴こえない。
ξ゚⊿゚)ξ「ね、アカネ。凡庸な考えなんだけれど、じっくり時間をかけない人にとっては、性善説より性悪説のほうが、わかりやすい場合もあるの。
ひとは悲喜劇を愛する、笑って泣きたいの。このポスターが挙げた効果は、残酷なくらいにおっきかった」
アカネはレイの頭を撫でる。
从 ゚∀从「つづけて」
レイは子ども扱いされたことに不満げなふくれつらだが、空気を抜いて独白をする。
ξ゚⊿゚)ξ「文化は循環する、大衆の趣味嗜好はぐるぐる行きつ戻りつする。
つまりね、合う合わないが顕著なの。
勝手に不老不死にさせた結果、こうなったんだと示しても、効く時と効かない時があるわけ」
85
:
◆jy..O/eIGM
:2021/10/23(土) 21:10:38 ID:f9T80XT20
从 ゚∀从「ふん」
ξ゚⊿゚)ξ「でも、このエログロ嗜好ってのは、いつの時代も暗々裏に継承されてきた。それなりの目を集めてくれる。そおゆうのが好きなのね」
从 ゚∀从「ふんふん」
アカネはうなずく。
ξ゚⊿゚)ξ「で、ちょうど今季のシーズン・テーマが『猟奇性』。苦しむ姿に愉楽を感じるド変態が、ラヴ・アンド・ピースと声を張り上げ、死者の街を少しずつ減らしてくれてる」
从 ゚∀从「たいした流行、ずいぶんとモードだね」
ξ゚⊿゚)ξ「ナードよりはまし、でしょう?」
从 ゚∀从「ドレスコードいかん」
だれも笑わない。
从 ゚∀从「――コピーを画廊に並べるんじゃだめなの?」
アカネの声は震えている。それを隠そうとしていた。
川 ゚ -゚)「時間がかかりすぎる。いくら密度を濃くしたところで期日に間に合わない。手間を省いた皺寄せは違和感として残り、ただでさえ伝わらないこちらの意見は真逆に誤解される」
从 ゚∀从「ばか! やくたたず!」
アカネはおなじくらいの少女の頬をはたいた。顔を伏せて目を両手でふさぐ。鼻をすする音が痛いくらいの静寂を刺激する。
花は風にそよいでいた。
从 ゚∀从「あたしには、けっきょく、なにができるの?」
蕋をつたい、蕚をつたい、蜜が泪のような曲線を描く。
( ・∀・)「アカネさんはとても珍しいパターンというか、モジュールなんだよ。こういった機能に人格を持たせて、進化をさせて、有限の時間を与える例は、そこの、レイさんくらいなんだ」
(‘_L’)「きみにできることは、われわれとともにテロをすることくらいだろう。いいかげん、じぶんが何者かは気づいているね?」
アカネは腫れぼったい瞳でひたすら強くにらむ。
ほんと、もう、わけがわかんない。なんなのこの状況。
ヒサシがレイみたいに割れたと思ったら、それは今朝見たレイのように偽物で、この街は仮想空間で、人は死人の意識だけを疑似的に延命させている空無の器で、しかもおなじような街が数限りなくある。
この、レイの引き連れてきた一家は、そうして生きながらえている人々のエラーに見兼ねて、魂の救済とかこつけて、ずっとまえからためつすがめつ試行錯誤をしている。
畢竟をした解決策が、肉をもって生きている、この世界を外から眺める人たちに向けて、死者がいかに悲しいものかをアピールすること。
おそまつなことに、その試みがずば抜けて効果てきめんだなんて!
あたしは、こんなの馬鹿みたいだと思う。
86
:
◆jy..O/eIGM
:2021/10/23(土) 21:12:55 ID:f9T80XT20
となりの部屋のおっさんは、きもくて最低でお下劣なすけべ親父のくそ野郎だけど、だからといって半永久的に、存在しない救いを求めて苦しんでもらいたいわけじゃない。
ハルちゃんを襲ってなんていないことくらい分かる、あれは、どっかのだれかの存在しない記憶だ。いない妻より娘を見ろってぶん殴ってやりたい。
ハルちゃんとマサくんがそれの犠牲になって、あてどなくもどかしい体感時間を過ごすなんてあほらしくてかなわない。かわゆいふたりは幸せにならなきゃだめなんだよ。
ママンやマスターとだって、もっと仲良くなりたいし、その、いろいろしたいし、してもらいたい。
ヒサシが象牙の塔で完成しない絵と小説に悩んでいたのはちょっと笑っちゃったけれど、あたしと彼がいい感じになってたことにレイが嫉妬してるのはわかるんだけど、それでも、あたしはあのボーイに、抱かせてやるって言っちゃったんだ。反故になんてできない。
マスターがお義父さんの命令に従ってしまって、あたしはそれを無視できる。わけ知り顔の女を思いっきりぶてる。
他では遍満してるってとこは微妙にわかんないけど、でも、ヒサシの話から、なんとなくの予想はつくぜ。
あたいは鯨で船長で、あたしを慰めるのに、この連中は踊ってやがるんだ。
だったら、わざわざしおらしく、おしとやかに、なよなよしく、したてにでてやる必要なんて微塵もない!
アカネは笑った。
从 ゚∀从「ミス・ワールド」
レイは笑った。
ξ゚⊿゚)ξ「正解、機械仕掛けの女神さま」
花は大地に深々と根をはり、滂沱の雨が海となり、深紅の炎が気炎を吐く。
風が夜にわなないた。
空が霽れた。
(‘_L’)「さて、お気づきいただけたようでなによりだがね」
ピエールが代表して言葉を選ぶ。
アカネとレイは手と手をかみ合わせて笑っている。
(‘_L’)「アカネ、きみは街の気質のようなものなんだ。いままでみてきた場所では、それは空気であったり、気流であったり、陽炎であったり、水滴であったり、土壌であったり。
そこにあるのがあたりまえで、みなを見守る、支える、ときに崩す、つまり遍満している存在として設定されていたのだ」
アカネは可愛らしく顎に手を添える。
从 ゚∀从「なある。あたし、またひとつ賢くなっちゃった」
(‘_L’)「細かいところがかなり違うという点を除けば、その、ミス・ワールド、という解釈でも、まあ、当たらずともいえど遠からず、だろう。
つまり、きみはここの法則をキャラクター化した女の子なわけだ」
まばたきをぱちくりと、まどう彼女にレイがほほ笑む。
きょろきょろするアカネのほっぺたをゆびでつっつく。
アカネはとっておいた肩をようやくすくめて、手のひらで、続けて、お義父さん、とうながす。
(‘_L’)「ふ、ふむ。しかしだからといって、なんでもかんでも思いのままというわけにはいかない。いくらきみが絶対であっても、所詮それは井の中の蛙だ」
从 ゚∀从「ね、レイ、あたしケロちゃんだって」
ξ゚⊿゚)ξ「ふうん、だからお顔に水をぶっかけても平然としてんのね」
アカネはレイをひっぱたく。やらしい勘違いでも思い浮かべたようだ。
87
:
◆jy..O/eIGM
:2021/10/23(土) 21:16:18 ID:f9T80XT20
(‘_L’)「われわれもきみに準ずる力――しゃかしゃかパワーと呼んでいる――はあるが、しかしそれも大したものではない。ちんぷな言い方だが、魔術師グループ、ウィザードというだけのこと」
从 ゚∀从「(ね、お義父さんのセンスって壊滅的なのね)」
ξ゚⊿゚)ξ「(名前のくせにしまむらしか着ないのよ、安心価格だから、とか)」
从 ゚∀从「(さいっこう、かわゆい)」
囁きを聴いていたピエールはへこむ。少年が咳払いをする。
(,,゚-゚)「いいかげんにしようか、アカネ……おねいさん。きみはどうするつもりかね、ここに残ったとしても、できることなど限られているのだよ。
ぼくたちと一緒にくることを勧めるがね」
少年は王の威厳を振りかざすがアカネはどこ吹く風。
結論など、とうに決まっているようだ。
从 ゚∀从「ごめんね少年。こどもの面倒みるのは好きだけど、仕事とプライベートは分けるタイプなの」
(,,゚-゚)「だから?」
从 ゚∀从「のこる。レイと」
アカネとレイを除き五人は気色ばむ。理解が追いついていない。なにをいっているんだ。
ξ゚⊿゚)ξ「のこってどおするの?」とレイ。
从 ゚∀从「コピーをあげる、だーいじょーぶよ、明日までにこしらえるから」
ピエールや少年少女、ヒサシや婦人を手で抑えて、レイが問いかける。楽しげだ。
ξ゚⊿゚)ξ「さっき無理っていったよね、時間がかかりすぎるって」
从 ゚∀从「きいてたきいてた、もっかいおなじこと言えって言われたら、暗誦できるくらい真剣に」
ξ゚⊿゚)ξ「いってみなさい」
アカネは、体ごと顔をぐっと近づけてくるレイをうっとうしげに躱す。
从 ゚∀从「や、そこはいいでしょ。あんたらの明日までって意味よ」
ピエールは真意を察して、じぶんたちの馬鹿さかげんにうんざりしていた。
きみのいう通りだ、ヨウイチロウ、われわれに灰色の脳細胞などなかった、
重ねた論議は過去の資料のうわっつらを撫でて、それでわかった気になっていただけだったようだ。
けっきょくはわれわれも、引き延ばされた時間のなかにこもっているだけで、まるきり成長などしていなかったわけだ。
いや、それにしてもごり押しがすぎるとは思うがね。
ξ゚⊿゚)ξ「で?」とレイ。
从 ゚∀从「ドゥームズデイ・クロックを、あんたらの作った苦痛の檻をコピーし終わるまで、百秒前のままにする」
88
:
◆jy..O/eIGM
:2021/10/23(土) 21:18:52 ID:f9T80XT20
快刀乱麻のメアリー・スーだった。
レイはふきだした。いつのまにか、アカネに場の空気が支配されている。
川 ゚ -゚)「な」と少女。
从 ゚∀从「なによ」とアカネ。
ニルギリを干し、ため息をついてしゃべる。
はなしすぎて口が乾いていた。
あとでリップつけなきゃね。
从 ゚∀从「あんたらは、あくまで時間を圧縮させるだけ、ここの住人じゃないからね」
川 ゚ -゚)「それはそうだけど、でも」
从 ゚∀从「おだまり、そもそもあたいは、あんたのそのわけ知り顔が気に食わないんだ。つぎあたしの許可なくしゃべったら舌入りのキスをお見舞いしてやる、うふ、よろしいか」
やる気満々のアカネをレイはひっぱたき、そのまま深く唇を奪った。
傍目にみても口のなかで波をうつ舌のうごきがわかる。うええ、やりすぎだよ。
ちゅぽんと音がこだまして、レイは珍しく真っ赤だった。
アカネは言わずもがな、白目をむいている。
レイがアカネの顔を板挟みにして、ひょっとこみたいな表情のアカネを笑う。
その声で彼女は正気に戻った。
ξ゚⊿゚)ξ「あっちょんぶりけ、っていってみて」
从 ゚∀从「あっひょんぷりへ」
ξ゚⊿゚)ξ「ぷ」
みながふきだした。
从 ゚∀从「はー…なによ、みせもんじゃないよ」
ξ゚⊿゚)ξ「つづきをどおぞ、アカネ」
アカネは、じぶんがレイ以外とキスすることに嫉妬した彼女の気持ちを察して、嬉しそうに相好をくずしていた。
ごほんとせきばらい。
从 ゚∀从「ごほん。で、実態ね。あんたら部外者がみんなにしたように、クイーンのあたしがそれと同じことを、ないし上位互換をできないわけないじゃない」
婦人は眉根をよせている。
o川*゚ー゚)o「でも、理論的に可能だとしても、コピーをとるのに、いったいどれほどかかるか。
あたしたち、ほんっとぎりぎりでここにいるんだから、ぜんぜんお手伝いできないよ」
彼女はアカネに心の底から賛同していた。できればこんな惨いことなどしたくない、という気持ちが饕餮たちのなかでは抜きん出ているからだ。
o川*゚ー゚)o「すっごい長い時間が――止めるのに、こおゆう表現は変だけど――かかるんだよ?
それでレイも、もといた街をあきらめて、あたしたちと一緒にきたの」
89
:
◆jy..O/eIGM
:2021/10/23(土) 21:22:02 ID:f9T80XT20
レイは心なしかうつむいている。朝とおなじ泪だ。
アカネはまったく別のことで思案をしていた。
o川*゚ー゚)o「――ずっとひとりで、苦しんでる人たちを看ることになるんだよ?」
なるほど、きみの悩みごとが手に取るようにわかったよ、アカネ。
きっと、きみができるいえば、この場に、この街に限ればできるのだろう。瞬間的に、とはいかなくとも。
そうした術をわれわれからきみに伝える時間はまったくないわけだからね、すまないが。
レイのことをかるく教えておこうか。
彼女はね、これまでの仮想空間でも、きみのような存在を外堀から埋めてゆき、じょじょにわれわれの都合の良いように書き換えて、侵略される当の本人たちさえ気づかぬうちに、
その世界の主導権をにぎることを目的に稼働してきたのだ。
バーの解説で語ったボディ・スナッチャーのように。
あるいはこうともいえよう。
レイはね、カッコウなのだ。
他の巣にとびこみ、そこの卵を根こそぎ割ってしまう、托卵をする幸福の鳥なのだよ。
それゆえに鳩は存在しない。
彼女は元の巣の持ち主からすれば、ルネ・マグリットの『幸福の兆し』とはなりえない存在なのだから。
……。
彼女は、たぶん、きみと結ばれるためにここまでやってきたのだよ。
その事実をしっかりと抱きしめておくれ。
われわれは、いや、私は、末の妹の幸せを、無い心の底から祈っている。
大切にしてやっておくれ。
アカネは意を決して顔を挙げる。
風に乗り、ファンファーレのメロディがエバーグリーンの誕生を祝福していた。
まず、アカネはレイをちらりと見て。
彼女は不安そうに、嬉しそうに、やわらかく微笑んでいる。
それから少年を、少女を、ヒサシを、最後に婦人とピエールをみつめる。
そうして深い憂いとともに、声を発した。
从 ゚∀从「お義父さん、お義母さん。娘さんを、わたしにください」
90
:
◆jy..O/eIGM
:2021/10/23(土) 21:24:14 ID:f9T80XT20
朝日が顔を照らしている。
汗でしめるシーツを撫でる。
鳩と郭公のデュオが聴こえる。
――はしゃぎすぎね。
サニー・サイド・アップの香り。
『全員の踊り』の鼻唄が、ドアのあわいから――
アカネは、彼女の待つキッチンに向けて、パンツ一丁で歩きだす。
fin.
91
:
◆jy..O/eIGM
:2021/10/23(土) 22:01:32 ID:f9T80XT20
【楽曲・アーティスト名】
ニルギリ/ハチ
パンダヒーロー/ハチ
ピストル・ディスコ/THEE MICHELLE GUN ELEPHANT
Moses/Gene Kelly
ピアノ協奏曲へ長調/ジョージ・ガーシュウィン
メヌエット=ト長調/クリスティアン・ペツォールト、ヨハン・ゼバスティアン・バッハ
ヴァルキューレ/リヒャルト・ワーグナー
ニュルンベルクのマイスタージンガー/リヒャルト・ワーグナー
ツィゴイネルワイゼン/パブロ・デ・サラサーテ
韃靼人の踊り/アレクサンドル・ボロディン
Ion Divvy/Venetian Snares
Gentleman/Venetian Snares
Gero Gero/Texas Faggott
鉄風鋭くなって/NUMBER GIRL
MANGA SICK/NUMBER GIRL
剣の舞/アラム・ハチャトゥリアン
涙がこぼれそう/The Birthday
さみしがり屋のブラッディーマネー/The Birthday
バラが好き/マルコシアス・バンプ
仮想現実のマリア/バズマザーズ
Blut im Auge/Equilibrium
【楽曲URL】
ニルギリ tps://youtu.be/hiJtKOMRnfE
パンダヒーロー tps://youtu.be/0RU_05zpETo
ピストル・ディスコ tps://youtu.be/VaRqGPLwUCs
Moses tps://youtu.be/tciT9bmCMq8
ピアノ協奏曲へ長調 tps://youtu.be/MDxKtkkbE7w
tps://youtu.be/wePBkW6WMM8
メヌエット=ト長調 tps://youtu.be/7eiWH7f3Lbg
ヴァルキューレ tps://youtu.be/K9YWvOidt24
ニュルンベルクのマイスタージンガー tps://youtu.be/MYXFp5O75Ow
ツィゴイネルワイゼン tps://youtu.be/DKRE59DWsxw
韃靼人の踊り tps://youtu.be/Uq984sKqokI
Ion Divvy tps://youtu.be/ABP8wm2wYfM
Gentleman tps://youtu.be/IapFjbzbofk
Gero Gero tps://youtu.be/TTW88xQwT0c
鉄風鋭くなって tps://youtu.be/R-DFX8WdCvU
MANGA SICK tps://youtu.be/QG-6YHm_AGI
剣の舞 tps://youtu.be/PTYDpMiirRQ
涙がこぼれそう tps://youtu.be/7ZkGxAgOhVw
さみしがり屋のブラッディーマネー tps://youtu.be/fzHDRnzKqSc
バラが好き tps://youtu.be/I7jIdAxYW9Q
仮想現実のマリア tps://youtu.be/NcdFP6CIXEg
Blut im Auge tps://youtu.be/Yom8nNqmxvQ
92
:
名無しさん
:2021/10/23(土) 22:38:57 ID:aFy3BoPI0
乙
93
:
名無しさん
:2021/10/24(日) 01:02:51 ID:UPBEJWco0
匂い立つ、って感じだ
94
:
名無しさん
:2021/10/26(火) 22:55:53 ID:VXkR8ba60
乙
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