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イ結ぶ這鏡のようです

159名無しさん:2019/01/09(水) 23:36:39 ID:LnuxV94A0



「おおぼんず、今日も来たんかぁ」

「……ええ、まあ」

「いつもお使いご苦労さまだのう。
 ほれ、どうじゃ、菓子でも食っていかんか? 甘いのもあるぞ?」

「すみませんが、急いでますので」

「そうか、それは残念じゃのう……」

そう言って荒巻は、予め紙袋に用意しておいてくれたそれを、
売り台の裏から取り出した。俺はそれを受け取ろうとする――が、
それの取っ手が俺の手へと触れる前に、荒巻が受け渡しのために伸ばした手を、止めた。

「しかしのう、こんな商売やっとるわしが言えた義理じゃないが、
 どうせなら完全に断っちまったほうがええんじゃないかのう」

「……それは、先生の判断だから」

「それじゃ。お前さんみたいに小さな子を、
 よりによってあんな奴の所へ向かわせるなど……
 あのお医者先生も何を考えておるのか」

「言うほど、小さくも……」

「なんじゃ?」

「いえ」

160名無しさん:2019/01/09(水) 23:37:02 ID:LnuxV94A0
身を伸ばし、荒巻のしわだらけの手から紙袋を奪う。
そうして必要な文だけの金を手早く売り台に置いて俺は、
そのままこの場から立ち去ろうとした。

「なあお前さん……お前さん何か、
 悪いことでも企んどるわけじゃあるまいな?」

売り台に置いた小銭に触れそうなほど顔を近づけながら、
荒巻が問いかけてきた。小銭と小銭がかち合う金属音が、店内に響き渡る。

「お前さんは……」

重く、歳に相応しい深みを感じさせる低い声――。

「ところで……どなたじゃったかのぅ?」

が、とぼけたそれへと一変。
俺は――そのまま無言で、すえた臭いのするこの店を後にした。
「わからんのぅ……」などというつぶやきが、ゆっくりと背中を追いかけてきた。


.

161名無しさん:2019/01/09(水) 23:37:33 ID:LnuxV94A0



紙袋を持ち、向かう。先は、一軒。
この六日、欠かさず、毎日、通った場所。
這ナギの外れにある、草臥れて、廃屋と見間違えてしまいそうな家屋。

しかしここには確かに、人が住んでいる。
あいつが、住んでいる。

いつものように、ノックもせず、扉を開ける。
木々の腐った臭いが、こぼれ出る。

その中心に、男が、一人。
男は背中を向けたまま、こちらを一瞥すらしなかった。

“今”は健常である片目が、うずく。

162名無しさん:2019/01/09(水) 23:38:01 ID:LnuxV94A0
「これ、今日の分です」

言って、俺は紙袋に収められた中身を取り出す。
俺の腕より遥かに太い胴回りを持つ、酒瓶。
俺はその酒瓶を、空のまま放置された他の瓶を遠ざけつつ、
直に床へと置いた。男はまだ、背中を向けたままだった。

男は、動かなかった。
動かないままでも、その頑健で暴力的な空気を発する肉体からは、
近寄りがたい驚異を感じさせた。


男の名は、ギコ。
“今日の夜”。
『日鏡巻山』にて。
“俺”を『蜷局の溝』へと突き落とす者。

でぃの兄であり――お姉ちゃんの、叔父に当たる男。


.

163名無しさん:2019/01/09(水) 23:38:25 ID:LnuxV94A0



話は六日前まで遡る。

這ナギ診療所に、一人の男が訪れた。
シャキンという名のその人物は、村内でも外れ者であるギコと口論になり、
末には空になった瓶で強か頭を打たれた。

頭を打たれたシャキンは二、三日の間
目眩などを感じたらしいが、いまは平気で働いている。

問題はむしろ、シャキンを打った側――ギコにあった。
ギコは重度のアルコール中毒者であり、
シャキンと口論になった時も酔いが回っていたらしい。
というよりも彼は基本、酔っていない時がなかった。

この村で唯一のお医者先生である内藤も、ギコの状態は知っていた。
それが生命に関わりのある状態であることも。

彼は己が責務に則って、ギコが酒を飲めなくなるよう、
物理的な処置を施した。つまり、ギコに酒を売らせない、という処置。

164名無しさん:2019/01/09(水) 23:38:53 ID:LnuxV94A0
「んー……お医者先生、そんなふうには
 言っておらんかったがのぅ……」

這ナギの西には、酒屋が一軒しかない。
荒巻という半ば正体を失いつつ有る老人が一人で経営している、荒巻酒店がそうだ。
毎日毎日酒を飲み続けているギコも当然、この酒屋の常連だ。

「考え直したんです。まったく売らないと言えば、
 ギコは店の中で暴れるかもしれない。だから一本だけ。
 一日一本だけ、売ってやる。そうして少しずつ飲酒量を減らしていく。
 そういう方針に、変えたんです」

この村にも一応、居酒屋などは存在する。
だが、ギコは人とは飲まない。まず、人の集まる所へ来ない。
ほとんど家から出ることもなく、いつも一人で、
廃屋のような家の中心で飲み続けていた。

だから勘案すべきは、この荒巻酒店のみ。
先生も、俺も、そう考えた。

165名無しさん:2019/01/09(水) 23:39:21 ID:LnuxV94A0
「そんなもんかのぅ……」

荒巻はどこか腑に落ちない様子だったが、
それ以上突っ込んでくることはなかった。
俺が直接持っていくと言った時も、訝しみつつ、結局は任せた。
そしてこの老人の脳は、昨日も明日も今日も、曖昧に混ざり合っていた。

そうして俺は毎日、ギコの家へと通い続けた。
逐次課される母からの題を完遂した後の夕に、
うそを吐いて奪取し続けた一本の酒瓶を持参して。


すべてが計画通りに進行していた。
俺がギコの下へ酒を運ぶという行為が、“当たり前”であるという形へと――。


.

166名無しさん:2019/01/09(水) 23:39:47 ID:LnuxV94A0



「蓋、開けておきますね」

転がったままの栓抜きをつかみ、瓶の蓋を開ける。
これもまた、“当たり前の行為”の一環だった。
怪しい所は、なにもない。ギコもそれを理解している。

二、三日の間は不思議そうに俺を見てもいたが、いまや振り向きもしない。
ギコにとって俺のこの行動は既に、日常の一部と化したのだ。

それこそが、俺の狙い。

懐に潜ませていたそれを、静かに取り出す。剥き身の薬剤。
錠剤型のそれは水溶性で、水中に投入すると瞬く間に溶けて消える。

水は、真水である必要はない。
茶でも、果汁でも、水分が含まれるものであれば何にでも溶ける。

酒にでも。

167名無しさん:2019/01/09(水) 23:40:17 ID:LnuxV94A0
錠剤を、二本の指でつまむ。
気をつけるのは、音を立てないことだけだ。
不要な音は、それが何であろうと、立てない。
あくまで俺は、“当たり前”の渦中にいるのだから。

疑われ、ギコのその背が、肩が、頭が、
わずかにでもこちらに向いたならば、俺の計画は破綻するのだから。

縁にも接触させてはならない。波音を立ててもならない。
静かに、慎重に、しかし焦らずに、“当たり前”を遂行する。
問題ない。練習ならば、一○○を超える程に、行った。
俺は、できる。俺には、できる――。


錠剤は、音もなく瓶底へと沈み込み、過たず、その痕跡一切、霧消した。
ギコは変わらず、背を向けたままだった。


――勝った。

168名無しさん:2019/01/09(水) 23:40:45 ID:LnuxV94A0
「じゃあ、俺はこれで……」

立ち上がる。もうここに用はない。
ギコは俺が家から出たと同時にこの酒を、コップも使わずに飲み始めるだろう。
その行動パターンも既に、この六日感で確認済みだ。問題はない。
後は怪しまれない内に退散するだけだ。

ギコの背に向けて一礼し、俺はそのまま、
この廃屋が如き這ナギの外れから立ち去ろうとした――。


「待て」

 
全身の血液が、凝固する。
不自由なほどに固まった身体が、動くことを拒絶している。
だが、このまま立ち尽くしていては、不自然だ。
自然に、あくまでも自然に、俺は、ギコの方へと、振り向きなおする。

ギコが、俺を見ていた。
真っ直ぐに、座ったまま、俺を見上げていた。
俺は始めて、ギコの顔を、目を、この時始めて、正面から、捉えた。

暗い、闇い、瞳。


――あの子を、想起する。

169名無しさん:2019/01/09(水) 23:41:19 ID:LnuxV94A0
「俺は、惨めか……?」

ギコの手が、酒瓶へと伸びた。

「仕方ないんだ」

酒瓶が、ギコの口へと運ばれる。

「囚われてしまった者は、
 こうするより他にないんだ。こう生きるより……」

口の端から、黄土色の液体が溢れる。

「俺達はもう、“今”を生きられなくなってしまった……。
 “今”は、もう、遠く……」

ギコが、酒瓶から、手を離した。
「お前は、なるなよ……。俺のように……」

支えを失った瓶が、横倒しに、倒れた。

「俺や――内藤の、ように……………………」

床を転がる瓶が、壁にぶつかり、止まった。
そして、ギコもまた、止まった。

睨むことも、しゃべることもなく、
座ったまま、止まっていた……眠っていた。

170名無しさん:2019/01/09(水) 23:41:47 ID:LnuxV94A0
睡眠薬が、効いていた。
診療所からくすねた睡眠薬が。

今の夜、ギコが目を覚ますことはないだろう。
いつの間にか抑えていた片目から、ゆっくりと手を離す。


今度こそ、ギコの家から出る。
これで布石は、整った。
後は“決行”するだけ――。


身体をつかまれ、乱暴に、地面へと叩きつけられた。

.

171名無しさん:2019/01/09(水) 23:42:08 ID:LnuxV94A0
「ねえ、どういうこと……?」

何かが、俺の上へと伸し掛かってきた。
なんだ――と思うよりも先に、無警戒な顔面へと衝撃が走った。
首がよじれ、地面とこめかみがこすれる。

と、思えば今度は逆側から、同様の衝撃が発生した。
首が一八○度回転する。

「どういうことって聞いてるの……!」

脳髄に障るヒステリックな叫び声が、直上から響き渡る。
女の声。よく知った、その声。俺が――“ぼく”が、最も恐れる、その声。

ほほを打つ衝撃は止まっていた。
唯一自由に行えたまぶたを閉じるという防御行為を解いた俺は、
俺にまたがるその女を、見た。


女は、やはり、母だった。

172名無しさん:2019/01/09(水) 23:42:32 ID:LnuxV94A0
「どうして……」

「酒屋のじーさんに、言われた。嘘だと思った。
 だけど本当に、あんたはここにいた」

ここに――という言葉を言うより先に、母が答えを述べた。
最悪だった。荒巻。侮っては、ならなかった。

「ねえ、どうして……?」

「……」

「私、言ったよね? 誰とも付き合ってはダメって、言ったよね?
 ギコに近づくなって、“命令”したわよね……?」

「……」

「ねえ、ドクオ、どうして? どうしてここにいるの……?」

「……」

「答えなさいよ!」

鼻の頭に、衝撃が走った。
開かれていたはずの母の手は、今や硬く、きつく、握りしめられていた。

拳が再び、俺へと落ちる。

173名無しさん:2019/01/09(水) 23:42:56 ID:LnuxV94A0
「“命令”したじゃない!」

歯が砕ける。

「どうして裏切るのよ!」

目玉が潰れる。

「どうしてみんな、私を裏切るのよ!」

頭蓋が割れる。

「どうしてよ、どうしてよ!!」

頭が、ぐちゃぐちゃに、粉になって、液体になって、
原形を、失っていく。溶けて、溶けて、消えていく。
溶けて、溶けて、溶けて――。

「どうして、どうして、どうして、どうして――」

死――。
 



 
「おやめなさい」

174名無しさん:2019/01/09(水) 23:43:29 ID:LnuxV94A0
加撃が、止まった。声が、聞こえた。
母のものとは、別の声。女の、年老いた、声。

「お義母さん……」

「ぺ、ペニサス……」

三人目。今度は男。俺が最も、嫌う声。
遺伝子以外に、つながりなどない存在。

「……なによ。また私を悪者にするの……?」

「そ、そんなこと……」

「あるじゃない! いつだってあんたは、私ばっかり悪者にして!」

「黙りなさい」

「か、母さん……」

「デミタス、あなたもです」

唾液を飲む音が聞こえた。
遠く離れて、その光景も目に見えないはずなのに、俺にはあいつが――
デミタスの奴が祖母の後ろで縮こまっている姿を、ありありと見て取ることができた。

そうだよな。お前はいつでも、そうやってきたんだもんな。
そうすることでしか、生きていけなかったんだもんな。
解るよ。俺にも、解る――。


だからお前も、死ねばいいのに。

175名無しさん:2019/01/09(水) 23:43:52 ID:LnuxV94A0
「私が愚かでした。下手な温情など出さず、息子の嫁は私が決めるべきだった。
 そうしていれば、あなたのような他所者が私達の這ナギに紛れ込むことも、
 半端な混ざり物が生まれることもなかったのに」

視線を、感じた。
感覚の薄れた五感にすら伝わる冷えた、血の通った感じのしない、視線だった。

「二○○○万あります」

俺の上に乗った重みが、わずかに軽減した。

「これが最後の温情です。これを持って、
 “あなたの”息子と共に這ナギから出ていきなさい。
 そして二度と、私達の土地に足を踏み入れないでください」

重みが、更に、遠のいた。

「さようなら。あなた方は私達親子の汚点でした」

176名無しさん:2019/01/09(水) 23:44:24 ID:LnuxV94A0



つんざく悲鳴が、鼓膜を破った。
空に、紙束が、散らばった。

紙束は一つが二つに、二つが四つに分裂し、
鋭利な刃物となって空を裂き、分断し、色を、粒子を、光を、
全部、全部、全部、細かく、細かく、細かく、細かく、
切って、切って、切って、切って、切って、なにも、かもが、なにも、なく、なって。



そして、後には、闇――




.

177名無しさん:2019/01/09(水) 23:45:11 ID:LnuxV94A0
本日はここまで。つづきは後日

178名無しさん:2019/01/09(水) 23:48:03 ID:LnuxV94A0
あ、>>125はミスです。失礼しました

179名無しさん:2019/01/09(水) 23:56:45 ID:yi.mSZC60
なげえw
乙です、続き楽しみにしてます

180名無しさん:2019/01/10(木) 00:36:16 ID:IQTdRoAA0
乙!

181名無しさん:2019/01/10(木) 09:17:03 ID:dytgSWEs0


182名無しさん:2019/01/10(木) 16:26:34 ID:rYCM7ihg0

輝きをかかやきと呼ぶのは単なる方言かはたまた……気になる。

183名無しさん:2019/01/10(木) 18:03:42 ID:x7pW61gY0

やべえ作品が来た

184名無しさん:2019/01/12(土) 14:51:28 ID:Mwo13yTw0
            四



「先生、私、先生を信じたいの」

どうした、藪から棒に。

「だって昨今は、色々騒がしいじゃない?」

……耳を貸すな、人は勝手なことを言うものだ。

「そうよね。私は、治るのよね」

ああ、もちろんだ。

「お薬はちゃんと、効いたのよね?」

ああ。

「“失敗”なんかじゃ、ないのよね?」

……ああ。

185名無しさん:2019/01/12(土) 14:52:10 ID:Mwo13yTw0
「……ふふ」

どうした?

「だって、おかしいもの」

おかしい? 何が?

「先生の顔が」

……俺の、何が。

「笑ってる」

……笑うと、おかしいのか?

「だってそんなに辛そうな笑顔、見たことない」

……元から、こんなだよ。

「うそ」

うそじゃ……。

186名無しさん:2019/01/12(土) 14:52:32 ID:Mwo13yTw0
「ねえ先生、私、先生を信じたいの」

ああ。

「だから本当のことを言って」

……ああ。

「私はもう、助からないのよね?」

…………。

「ねえ、どうして笑うの?」

笑って、なんか……。

「笑ってるよ」

そんなこと……。

「笑って、ごまかそうとしてる」

…………。

「先生、こっちを見て」

……………………。

「逃げないで」

187名無しさん:2019/01/12(土) 14:52:58 ID:Mwo13yTw0
や、やめろ……。

「逃げたって、誰も“助けて”はくれないよ」

やめてくれ……。

「ねえ先生、私、ダメなの」

見るな……。

「私、もう、ダメなの」

そんな目で、見ないでくれ……。

「もう、耐えられないの」

頼む――。

「ねえ先生――」

誰でも、誰でもいい――。

「私――」

俺を……ぼくを――。

「もう――」

助け――。


.

188名無しさん:2019/01/12(土) 14:53:22 ID:Mwo13yTw0




     楽になりたい。


.

189名無しさん:2019/01/12(土) 14:53:47 ID:Mwo13yTw0



「…………ぁああぁぁぁっ!!」

「わ、わっ!」

口を塞がれた。頭を振って逃れようとする。
さらに圧が強まった。全身をよじって、跳ね飛ばそうとする。
身体の上に何かが乗りかかり、拘束された。

そこで始めて俺は、自分ののどが焼け付くように痛むことに――
叫び声を上げていることに、気付いた。気付き、それを止める。
振動が止まる。縛めが、解かれた。

「……えぇと、おはよう?」

暗がりの部屋の中、俺を見つめる者の顔。

「……なんで」

お前が。

「えっと……なんて、いうか……」

ここに。

「放っておくわけにも、いかなかったから……」

いる。

「だから、かな?」

どうして父が、ここにいる。

190名無しさん:2019/01/12(土) 14:54:20 ID:Mwo13yTw0
意識が、朦朧としている。
そもそもここは、どこだ。

「……ああ、ここは母さんの……お祖母ちゃんの家だよ」

首を振り、周囲を確認していた俺の動向からその意図を察したのか、
デミタスは訊かれるよりも先に答えを述べた。祖母の家。
そう言われてみると、どことなく見覚えがある。
以前に訪れたのはもう、“何十年”前になるか。

片目に触れる――。

「あ、あんまり触らないほうが良いよ。
 一応手当はしたけど、軟膏を塗った程度だし」

言われて、顔面にいびつな盛り上がりができていることに気付く。
同時、痛みを覚える。

そうだ、俺は母にしこたま殴られ、
そのまま意識を失い、そして――。


あっ

191名無しさん:2019/01/12(土) 14:54:43 ID:Mwo13yTw0
「しー、しー!」

「いま何時だ!」

口の前で立てられたデミタスの人差し指をつかみ、詰め寄る。
デミタスは困惑した様子で、答えない。
俺は使えないデミタスから離れ、四つん這いの格好で障子戸まで近づき、
そして、それを開けた。


外では既に、夜の帳が落ちていた。

まずい。


「あ、危ないよ! まだ安静にしてなきゃ……」

デミタスが後ろで何か言っていたが、気にしている余裕はない。
手遅れだろうか。いや、そんなはずはない。一週間――いや、
この“一五年間”、ずっと、ずっと待ち続けてきたチャンスなのだ。
無為になど、できるか。急げ。急げば間に合う。間に合うはずだ。

立ち上がる。歩を踏み出す。
そして、そのまま、勢いよく――地面へと、転倒した。

192名無しさん:2019/01/12(土) 14:55:21 ID:Mwo13yTw0
「ほ、ほら……。言わんこっちゃない」

頭がぐるぐる回っていた。上下も左右も定かでない。気持ち悪かった。
身体の中身がぐちゃぐちゃの液体で、動くごとにそれが波打って、
ちょっとした刺激でそれら全部口からこぼれ落ちてしまいそうな感覚だった。

それに、痛かった。母に殴られた箇所――だけでは、ない。
指先や足の先が、鋭利な刃物で傷つけられたかのように、痛かった。
痛さと気持ち悪さで、身体が思うように動かなかった。

「何処に行くつもりか分からないけども、
 せめてもう少し休んでからにしたらどうだい? ね?」

193名無しさん:2019/01/12(土) 14:55:44 ID:Mwo13yTw0
倒れた俺に、父が手を差し伸べてきた。
視界に、その手を捉える。存外、大きな手だった。
もしかしたら、こんなに間近で父の手を見たのは、
生まれて始めてのことかもしれなかった。

俺の世界は常に、母で満たされていた。
そこに、父の隙間はなかった。

ここに母はいなかった。いるのは俺と、父だけだった。
その父が、俺に向けて、手を伸ばしていた。
だから、俺は、自らの手を、父の、その手に向けて、伸ばし――。


「それに、ドクオのことは母さんに内緒にしているんだよ。
 母さんはまだ起きているはずだし、
 ドクオを連れてきたことがもし母さんにバレたら……」


払い除けた。

194名無しさん:2019/01/12(土) 14:56:11 ID:Mwo13yTw0
表皮に包まれた液体<内部>が、小刻みに振動する。

「は、は、笑える。はは、ほんとに、
 こいつは、傑作だ、はは、はは、は……」

「ど、ドクオ……?」

「いやんなる程そっくりだって言ってんだ」

笑う度、気分は悪化した。
デミタスは息子である俺を、実の息子である俺を、怯えた顔をして、見ていた。

「あんたの母さんが言ってただろ。俺は“ペニサスの息子”だ。
 あんたの息子じゃない。俺とあんたは、赤の他人だ。
 親子でも何でもない、他人だ。だから、だから――」

デミタスが、俺の中の母を、見ていた。

「どうぞ末永く、御母上とお幸せに」

195名無しさん:2019/01/12(土) 14:56:35 ID:Mwo13yTw0
立ち上がる。今度こそ。身体が左右に揺れる。
それでも、意識を確固たるものとすれば、問題はない。
そうだ、俺は、違う。そうだ、俺は、やり遂げられる。
そうだ、もう、やるべきことはわずかだ。


そうだ。後は、殺して、殺すだけだ。


転がるように、“他人”の家を出る。目指すは一点。
やつの下。やつのいる場所。俺は、そこへ、行く。

人を殺す為に、走る。


.

196名無しさん:2019/01/12(土) 14:56:59 ID:Mwo13yTw0



ギコという男はかつて、成り上がりを目指してこの這ナギから上京した。
噂ではヤクザ紛いの悪行を繰り返した末に
生命の存続すら脅かされる状況へと陥り、
逃げるようにして這ナギへと帰ってきたと言われている。

噂はあくまで噂。真偽の程は定かでない。
ただ。彼が働きもせず日長一日酒浸りの生活を送れていることは、事実だ。
そして彼がその潤沢な懐から援助を施すことで、妹でぃの生活が成り立っていることも。

ギコとでぃは、仲睦まじい兄妹であったそうだ。
でぃが這ナギの東の男と恋仲となり東へ嫁ごうとした時も、
難色を示す両親を押しのけ妹自身が選び求めた人生の門出を、ただ一人祝福した。

そして這ナギの東が滅び、夫を病で失い、
西へと戻らざるを得なくなったでぃにも、
よそものとして白眼視を取る村の者とは異なり、
あくまでも兄としての態度を取り続けていた。

酒に溺れ、自制が効かなくなっても、
妹にだけは手を挙げなかったそうだ。

ギコにとって、妹でぃは大切な存在であった。
でぃにとっても兄ギコは、なくてはならない存在であった。
そして、でぃが最後に頼るのは、兄であるギコになるはずであった。


事実、“かつて”も、そうだった。

197名無しさん:2019/01/12(土) 14:57:22 ID:Mwo13yTw0



家の中は静まり返っていた。
話し声一つ、寝息の一つ、聞こえてはこない。
閑として冷え固まった空気に余計な振動を及ぼさぬよう努めて足音を殺し、
明かり差さぬ虚下を這い進む。目的の場所へ、目的の人物の下に向かって。

襖がわずかに開いていた。開いたそこから、明かりが漏れている。
ここだ。物音を立てぬよう襖と壁との隙間に身体を滑り込ませる。

そこには――ギコの姿は、なかった。
本来ここにいるはずのギコの姿は、影も形もなかった。
睡眠薬の導入は、成功した。


“今”この場にいるのは俺と――でぃのみとなった。


“かつて”の“ぼく”も、でぃの“あの”発言を聞き、
お姉ちゃんを助け出そうとした。だが“かつて”の“今”、ここにはギコがいた。
お姉ちゃんを外へと連れ出すことはできたが、その試みはすぐに明るみとなり、
“ぼく”はお姉ちゃんを連れて追手から逃げざるを得なくなった。

そして、最後には――。

198名無しさん:2019/01/12(土) 14:57:51 ID:Mwo13yTw0
お姉ちゃんも、この場にはいなかった。“手はず通り”だ。
お姉ちゃんはおそらく、キュートが既に連れ出している。
今頃は診療所で、キュートとお姉ちゃんは、内藤と共に三人でお茶でもしているはずだ。
……そう、そのはずだ。計画通りに、進んでいるなら――。

考えるな。

後はもう、やるだけだ。逃げるな。逃げても、解決しない。
かつての“ぼく”の過ちは、お姉ちゃんを連れて逃げ出そうとしたことだ。
所詮子供の足で、何処まで逃げられるというのだ。
“かつて”のように追い詰められ、最悪の結末を迎えるのがオチだ。
係る悪因は、根から排除しなければならない。


つまり、でぃの殺害。

199名無しさん:2019/01/12(土) 14:58:18 ID:Mwo13yTw0
でぃはこの一週間、一人でいる時間がなかった。
四日目、這ナギに帰郷して後は、あの都会から連れてきた集団が常に周囲にいた。
彼らが帰郷する七日目まで、手出しをすることはできなかった。

そして本来の歴史ではこの七日目の夜、でぃがお姉ちゃんを殺そうとした夜、
でぃの側にはギコがいた。ギコの目をかいくぐってでぃを殺害することは、困難だった。

だから俺はまず、ギコの排斥を目指した。
その準備として酒屋の店主荒巻を騙し、ギコの下へと酒を抱えて通い続けた。

加えて、キュートの存在。
キュートの存在によってこの計画は、更に完成度を高めた。
お姉ちゃんはキュートに連れられ、いまは内藤と下にいる。
“完全な”アリバイがある。お姉ちゃんに疑いの目が掛かることはない。

お姉ちゃんは孤児となり、そしてその後は、内藤が引き取る。
他の孤児同様に。恐らくはいようたちも、
“大好きな”お姉ちゃんが家族の一員になることを歓迎するだろう。

あと一手だ。
お姉ちゃんを助けるための計画は、あと一手で結実する。


でぃを殺せば。

200名無しさん:2019/01/12(土) 14:58:46 ID:Mwo13yTw0



診療所から拝借したメスを、懐から取り出す。
包を剥がし、刀身を顕とする。薄暗がりに怪しく灯る光が、
メスの薄い刃先に反射する。片目を押さえる。健常な片目を。

抑えたまま、垂れ下げた逆の手にメスを握り閉め、
音なく、息なく、地を這う者となる。地を這い、這い進み、
にじり寄り――そして俺は、対象の背を、取った。



でぃ。
俺は、お前を、殺す。
殺して、“今度こそ”、終わらせてやる――!





振りかぶり、対象の首筋目掛け、それを――。



.

201名無しさん:2019/01/12(土) 14:59:21 ID:Mwo13yTw0






       ドクオさん!




.

202名無しさん:2019/01/12(土) 15:00:16 ID:Mwo13yTw0



空気の流れが変わった。
家の中を、冷たい風が通り過ぎた。誰かが叫んでいた。
誰かの名を――俺の名を。俺の名を叫んだ声が、
家の外から家の内へと、空気を揺らして駆け抜けた。

でぃが、顔を上げた。振り向いた。
凶器を握りしめ、いま正にそれを振り下ろさんとする少年を認識した。
少年を、見上げた。

俺は、彼女の瞳を見た。
瞳が語る言葉を、見た



楽になりたい。


.

203名無しさん:2019/01/12(土) 15:00:46 ID:Mwo13yTw0
「う、ぁ……」

動悸がする。(やれ――)。眼の前が白に染まる。(振り下ろせ――)。
立っていられなくなる。(殺せ――)。殺さなければならないのに。(殺せ――)。
終わらせなければならないのに。(殺してしまえ――)。
ぼくは――。(お前は何のためにここにいる――!)。


ぼくは、いったい、何のために――。


.

204名無しさん:2019/01/12(土) 15:01:21 ID:Mwo13yTw0



助けて。


お姉ちゃん。


助けて。


ぼく。


人殺しなんて、したくない。


したくないよ。


人殺しになんて。


なりたく。


なかった――。


.

205名無しさん:2019/01/12(土) 15:01:43 ID:Mwo13yTw0



「どうして殺してくれないの……?」


.

206名無しさん:2019/01/12(土) 15:02:11 ID:Mwo13yTw0



ぼくは止まっていた。世界だけが高速で動いていた。
でぃが遠ざかっていった(ああ、殺さなきゃいけないのに……)。
バベルが如く遥かな高みへそびえ立つ空廊を、
上天下土に落下した(終わらせなきゃいけないのに……)。
振動が世界に遅れて一周し、加速した光の矢と化したそれは
鼓膜ごとぼくの脳髄を貫いた(逃げてはいけないのに……)。

叫び声が聞こえた。
それは、ぼく自身の喉から出ているものだった。


ぼくは、逃げた。


.

207名無しさん:2019/01/12(土) 15:02:39 ID:Mwo13yTw0



「ドクオさん!」

「……きゅー……ろ……?」

キュートがいた。
キュートが俺の下へ駆け寄ってくる。
伸ばした手を――俺は、振り払う。

「……め、“命令”、したらろうが……!」

「で、でも……」

「うるさい!」

キュートが小さな悲鳴を上げる……上げた、おそらく。
世界が遠く自分を隔てていて、音が、視界が、はっきりしない。

「なんれ、ここに、いるんら!」

「ど、ドクオさん、ずっと来なかったから、
 何かあったんじゃないかって……」

「よ、余計な……」

「それに、先生もいないんです。診療所の何処にも。しぃさんも――」

「お姉ちゃん!」

208名無しさん:2019/01/12(土) 15:04:08 ID:Mwo13yTw0
意識が一気に覚醒する。
現実と自己とが和合する。
ぼやけた景色が輪郭を取り戻す。

俺の叫びに、キュートが振り返った。
キュートの視線の先には、木製の荷台が置かれていた。
未だ不自由な肉体を左右に揺らしながら、俺はその荷台に近づいていく。
そこに収められたものを、覗き込む。

お姉ちゃん。
しぃお姉ちゃん。

お姉ちゃんは荷台の中に丸まって横になっていた。
お姉ちゃんの瞳、水鏡のように愁い澄んだ瞳は、見えなかった。
お姉ちゃんは目をつむっていた。
目をつむって、静かに、微動だにすることもなく、そこにいた。

まるで『この世のものではない<常世のものである>』かのように、
お姉ちゃんは、眠っていた。

「ずっとこうなんです。揺すっても何をしても起きなくて……
 ボク、どうしたらいいのか……」

209名無しさん:2019/01/12(土) 15:04:38 ID:Mwo13yTw0

そうだった。

“いつか”の“今”も、そうだった。

お姉ちゃんはぼくの背で、動くことを止めた。

そして――。


キュートに、掴みかかる。

「お姉ちゃんは……お姉ちゃんは何か、言っていなかったか。
 何か、お姉ちゃんは……!」

「ドクオさん! あの、い、痛いです……いたっ……」

キュートが身体を振って逃れようとする。
ぼくは逃さないよう、指先に更に力を込める。

「教えろ、教えてくれ、お姉ちゃんは言っていたはずだ、
 絶対に、何か、言っていた。そうだろう、そうだ、そのはずだ……!」

210名無しさん:2019/01/12(土) 15:04:58 ID:Mwo13yTw0
「いた、痛い、よ、離して……」

キュートは抵抗を止めた。抵抗を止め、ただ、震えている。
俺は更に、更に、力を込める。

「隠すな! 隠すなよ! お姉ちゃんは――お姉ちゃんはぼくに、
 なんて“命令”をくれたんだ……!」


何かが折れるような音が、響き渡った。
絞り出すような声が、吐息と混じって、吐き出された。



『日目見<ヒメミ>湖に』って――。


.

211名無しさん:2019/01/12(土) 15:05:42 ID:Mwo13yTw0



“かつて”ぼくは、お姉ちゃんを連れて逃げた。
でぃから、ギコから、お姉ちゃんを殺させないために。
お姉ちゃんに生きていてもらうために。ぼくはお姉ちゃんを連れて逃げ出した。
アテなどなかった。

ただ、でぃからお姉ちゃんを遠ざけなければならないと、それだけを考えていた。
どこへ行けばいいのかなど、解らなかった。誰かを頼るという発想はなかった。
棄却したのではない。端から頭に浮かばなかった。ただ、走った。
どうにかなるとも、ならないとも、考えなかった。


日女巳<ヒメミ>湖に――。

212名無しさん:2019/01/12(土) 15:06:07 ID:Mwo13yTw0
走るごとにその足を鈍らせ、
遂にはその場に倒れてしまったお姉ちゃんが、最後に発した言葉。
それがこの「ヒメミ湖に」だった。この言葉を残してお姉ちゃんは、
深き幽世の眠りへと落ちていった。

それはお姉ちゃんからの“命令”であると、ぼくは受け取った。
良いも悪いもなかった。“命令”には従わなければならない。
それも、お姉ちゃんからの“命令”。断る理由などなかった。
縋る理由は、山程あった。

お姉ちゃんを担いで、ぼくはヒメミ湖へ向かった。
ヒメミ湖へ向かうため、日鏡巻山を登った。
ずり落としそうになるお姉ちゃんを絶対に落とさぬよう支えながら、
一歩一歩、登っていった。“かつて”のぼくは、そうしていた。


そして、“今”も、また。

213名無しさん:2019/01/12(土) 15:06:41 ID:Mwo13yTw0



キュートの用いた荷台を使って、お姉ちゃんを運ぶ。
日鏡巻山は山頂の、ヒメミ湖に向かって。
“かつて”通った道を、“かつて”と同じように、お姉ちゃんと、ぼくで、登っていく。

ただひとつ違うのは、キュート。

キュートは腕を抑えながら、俺の後に付いてきた。
何故付いてくるのか解らなかった。
これはもはや、ぼくとお姉ちゃんの問題なのだから。
キュートとはもう、関係ないはずだった。だから、解らなかった。

しかし、追い返そうとも思わなかった。
ぼくにはもう、キュートについて深く考える余裕などなかった。

キュートはそこにいた。けれど意識が編集した視界には、
その影も形も存在しなかった。付いて来たいなら勝手にすればいい。
俺の知ったことじゃない。それはそう思った。

214名無しさん:2019/01/12(土) 15:07:14 ID:Mwo13yTw0
無言で、登っていった。苦しかった。
呼吸が、酸素が、足りない気がした。
一度は覚醒した意識が、再び混濁し始めていた。

ぼくは何をやっているのだろうか。疑問が頭をよぎった。
同じことを繰り返している。“かつて”と。
逃げて、逃げ切れなかった、あの時と。そして、その先に待ち受ける結末も――。

だが、それは、ありえない。
同じ結末を辿ることだけは、決してない。
“かつて”と“今”とでは、決定的に違う点があるから。
お姉ちゃんは、“あの場”で、殺されない。


けれどその場合、“未来”は一体どこへ行き着くのだろうか。


「……ここは」

見覚えのある場所。
カカ山三大禁忌がひとつ、屍溜まりの『蜷局の溝』。
俺が落ちていった場所。片目を失った場所。
――お姉ちゃんが、死んだ場所。ギコに突き落とされた場所。

だが、ギコは、ここにはいない。既に無力化した。
診療所からくすねた睡眠薬によって。
片目のうずきはただの幻肢痛に過ぎない。
未来は、変わった。もはやここに用はない。

俺は『溝』の最下から目を逸らし、
ヒメミ湖を見上げ、お姉ちゃんを乗せた荷台を押そうとし――。

215名無しさん:2019/01/12(土) 15:07:39 ID:Mwo13yTw0



「……え?」


.

216名無しさん:2019/01/12(土) 15:08:06 ID:Mwo13yTw0

軽く、本当に軽く、背中を、押された。
それだけでぼくは、姿勢を維持することができなくなった。
足に力が入らなかった。よろけて、つんのめって、そのまま転がった。
転がった先に、地面はなかった。『溝』に向かって、ぼくは倒れた。

あ、これ、落ちる。

手だけは、離さなかった。強く、握りしめていた。
取っ手を。荷台の取っ手を。

必然、荷台はぼくへと引きずられ、重力に従い降下を始める。
お姉ちゃんを載せて。ぼくと共に、落ちる。


また。



まぶたを、閉じる。


.

217名無しさん:2019/01/12(土) 15:08:32 ID:Mwo13yTw0



「んぎぃ!!」


.

218名無しさん:2019/01/12(土) 15:08:59 ID:Mwo13yTw0
くぐもった悲鳴が聞こえ、ぼくは、まぶたを開いた。
ぼくは、宙に浮いていた。いや、正確には、落ちかけた荷台の上で、倒れていた。
荷台は崖の端を支点に、てこの原理を利用した形で落下の寸前に留まっていた。
ふらふらと、危うい均衡の下で、それでもなんとか落下を免れていた。

キュートが、荷台を支えていた。

「はや、ぐ……」

考えるより先にお姉ちゃんを抱えたぼくは、
揺れる身体を唇を噛む痛みで制して、あらん限りの力を込めて
荷台の外へと転がりでた。当然その先にあるのは、地上。
地上に、身体を、打ち付ける。


ぼくはどうやら、生きていた。
そして、お姉ちゃんも。


「……しぃさん、ですから……」
ぼくとお姉ちゃんが地面へと転がりでた直後、
荷台が『溝』に向かって落下していった。
落下の途中で山肌にぶつかったのか、
木材の派手に割れる音が山中に轟き渡って木霊していた。

「助けたのは、しぃさんですから。セーフ、ですよね……?」

219名無しさん:2019/01/12(土) 15:09:21 ID:Mwo13yTw0
キュートが尻もちをついた。
両腕が、だらんと垂れ下げられている。
全身が小刻みに震えているのが、夜の暗がりの下でもはっきり見て取れる。

空を仰いだキュートは、笑みと笑みではない何かの混じった
複雑な表情を浮かべ、そしてその顔を、頭を、ゆっくりとへそに向かって下ろした。


「泣いてなんか、ないですよぉ……」


へへへ……と、力のない笑い声が、乾いた山中の空気に溶けた。



死なせてはならない。そう思った。


.

220名無しさん:2019/01/12(土) 15:09:48 ID:Mwo13yTw0

「お前が……!」

立ち上がる。“敵”に向かって。
俺を突き落とそうとした、そいつに向かって。

眼の前には男がいた。頭巾を被っているせいで、顔は見えない。
誰かは解らない。体格から男であると推理できるだけだ。

ギコがいるはずはなかった。
しかし事実として、俺は突き落とされかけた。
俺を突き落としたのは、ギコのはずだ。
だからこいつは、“ギコ”のはずだ。


一五年前の因縁が、目の前に存在していた。


「ギコォ!」

221名無しさん:2019/01/12(土) 15:10:13 ID:Mwo13yTw0

飛びかかる。メスを持って。
本来の役目を果たせず、血の一滴も浴びることの叶わなかった
真新しい刀身を備えたそれを持って。俺は一直線に、真っ直ぐに、
真正面から、“ギコ”に向かっていった。

“ギコ”は俺の行動に意表を突かれたのか、
抵抗らしい抵抗もせぬまま、懐への侵入を簡単に許し、そして――
その太ももに、鋭利な刃物を、突き立てられた。

“ギコ”の身体が前傾する。
俺は更に、逆側の腿にも引き抜いたばかりのメスを突き込んだ。
“ギコ”は立っていることができなくなったのか、両膝を地面に付いた。
俺は更にメスを引き抜き、高く振りかぶり――。

222名無しさん:2019/01/12(土) 15:10:41 ID:Mwo13yTw0

「……その顔、最後に拝んでやる」

振り下ろすことなくそれを放り投げ、“ギコ”の被る頭巾に手を掛けた。
しかし“ギコ”は先程までとは打って変わって、強い抵抗を示してきた。

頭巾に手を掛けた“ギコ”は、亀のように身体を丸めていた。
太ももを踏みつける。しかし“ギコ”は、手を離さなかった。
逆の太ももも蹴りつける。それでも“ギコ”は、手を離さなかった。
俺も、手を離さなかった。

一枚の頭巾に、脱がせようとする力と、
脱がせまいとする相反する負荷が、かかり続けていた。
そしてその現象は、当然の帰結として発生した――頭巾が破け、裂けた。

亀のように丸まっていた“ギコ”の身体が、頭が、反動で跳ね上がった。


隠されていた“ギコ”の顔が、星夜の下で顕となった。


.

223名無しさん:2019/01/12(土) 15:11:07 ID:Mwo13yTw0





「………………………………内藤?」




.

224名無しさん:2019/01/12(土) 15:11:33 ID:Mwo13yTw0

「……」

「なん、え、な、なに、が……?」

「……ギコなら今も眠っているお。きみが盛った薬によってね」

「どうしてそれを――」

言葉にすると同時、線がつながった――気がした。
お姉ちゃんを見た。揺すっても、声をかけても、
荷台の落下があれだけ派手な音を立てても、まるで目覚める気配のない、お姉ちゃん。
深い深い、死のような、眠り。強制的な、意識の沈滞。

それは、まるで――。

「……盛ったのか。あんたも。お姉ちゃんに……!」

「……せめて痛みは与えたくなかったからね」

「なんだよそれ……なんなんだよ、
 そんな、だって、そんな言い方、まるで……」

 
「しぃには今日、死んでもらうということだお」

225名無しさん:2019/01/12(土) 15:12:01 ID:Mwo13yTw0

落下する感覚。

片目を抑える。“今”は無事な、
潰れることなくその機能を十全に果たしているはずの目。
健常な目。それが、濁って、うつろになった。何も見えなかった。
何も見えていなかった。『どうして』という言葉が、暗闇を埋め尽くしていた。

どうして、どうして、どうして――

「どうして、あんたが……」

「それが必要なことだからだ」

「そんなことを聞きたいんじゃない!」

「もうそれしかないんだ!」

内藤が吠えた。
ぼくはその吠え声に気圧されて、立っていられなくなってしまった。
座り込んで、両膝を付いた内藤よりも更に、頭を下げていた。

「解らない……ぼくには、解らないよ……」

「これはしぃ自身の願いでもあるのです……」

226名無しさん:2019/01/12(土) 15:12:27 ID:Mwo13yTw0
女の声。キュートではない。お姉ちゃんでも当然ない。
しかし、その声はどことなく、お姉ちゃんのそれに似ていた。
闇夜の山道から、女がぼうっと現れた。

女はお姉ちゃんによく似て、
しかしはっきりと異なる空気をまとって、内藤の背後に現れた。


でぃが、そこに、現れた。

そして――頭を、下げた。


「ありがとうございます」

顔も見えないくらいに深い、深いお辞儀だった。

「娘のために、ここまでしてくれて」

お辞儀を終え、でぃは頭を上げる。

「きっと娘も惑うことなく――」

顔が見える。目が見える。

「ヒメミ様の下へ、お帰りになることができるでしょう」

お姉ちゃんのものとは、似ても似つかない、瞳が見える。


暗い、闇い、瞳が。
“生”に疲れ果てた、瞳が。

227名無しさん:2019/01/12(土) 15:12:50 ID:Mwo13yTw0
「どういう、ことだよ……」

「東に蔓延した疫病。それが、ここにも感染ってきたんだお」

「這ナギを救うには、娘を“送る”しかないのです」

内藤を、見る。暗がりに膝をつく、かつて憧れたその人を見上げる。

「だって、あんた、神様なんていないって……」

内藤の顔が、苦しげに、歪んだ。

「やれるだけのことは、やったんだ。けれど、どうしようもなかった。
 昔のツテを頼ってはみたけども、それも無意味だった。
 それでもぼくには、見て見ぬふりはできなかった。

 ……例えそれが人道に悖る行為であろうと、
 大勢の生命を救うことにつながるなら、ぼくは……」

228名無しさん:2019/01/12(土) 15:13:16 ID:Mwo13yTw0
「だから、殺すのか……? お姉ちゃんを。
 何の罪もないお姉ちゃんを。奪うのか、未来を……
 お姉ちゃんの、未来を……!」

「それは違います」

でぃが、歩き出した。内藤の脇を過ぎ、俺の脇を過ぎ、
後方で座り込んでいたキュートの脇をも過ぎて――そして、止まった。

「しぃは私達が手を下さずとも、遠くない将来、必ず死にます」

「どういう……」

眠るお姉ちゃんの脇に立って、でぃは、止まった。


.

229名無しさん:2019/01/12(土) 15:13:49 ID:Mwo13yTw0





「しぃは、疫病に感染しています」





「そしてそれは、ドクオ、お前もだ」




.

230名無しさん:2019/01/12(土) 15:14:23 ID:Mwo13yTw0
でぃがしゃがみ、横たわるお姉ちゃんのほほに触れた。

「いずれにせよ死んでしまうのなら、
 疫病が蔓延る前に今度こそヒメミの姫としての役割を果たしたい……。
 これは、あの子自身が望んだ結末でもあるのです」

右のほほを撫で、左のほほも、同じように撫でる。

「一人では逝かせません。私も共に、ヒメミの湖へ沈みます。
 それが母としての、この子を産んだものとしての、
 せめてもの責務だと思うから」



「……うふ」



「……ドクオ?」

「うふふ……は、はは……」

231名無しさん:2019/01/12(土) 15:14:55 ID:Mwo13yTw0
ぼくが死ぬ?

「お、おい……」

なんだそれ。

「ははは、あはっはっはは」

どんな皮肉だよ。

「あ、あの、ドクオさん?」

笑える(何がおかしい)。

「ははっは、ははは、あははは」

傑作だ(最悪だ)。

「あははは、はははは、ははは」

涙が出る(涙が出る)。

「ははっはっはっは、はは」

だって、そうだろう?

「ははは、はは……」

だってぼくは、ぼくは――。



『ぼく』を殺すために、ここまで来たんだから。
 

.

232名無しさん:2019/01/12(土) 15:15:22 ID:Mwo13yTw0
でぃを、お姉ちゃんから、引っ剥がした。

「それは、あんたの、役目じゃない」

そうだ、ぼくは知っている。
ヒメミの姫を送る者は、姫を大切に思っていなければならないんだって。
だから、あんたは、違う。あんたじゃ役者不足だ。
誰よりも、何よりも、お姉ちゃんを思っているのは、ぼくだ。
ぼくだけが、お姉ちゃんを思っているんだ。


お姉ちゃんだけが、ぼくを、見つけてくれたんだ。


眠るお姉ちゃんを、背負う。

「ドクオさん!!」

キュートが、ぼくの道に、立ちふさがった。

「だ、ダメですよ!
 だって、そんなの、そんなの、ボク……」

広げた両手を震わせて、キュートがぼくの、邪魔をする。
ぼくは、お姉ちゃんが背から落ちないよう気をつけながら、キュートに接近した。
たじろぎ、後退しかけたキュートの足を踏み、その額に、自分の額を、ぶつけた。

至近で、視線が、交差する。

233名無しさん:2019/01/12(土) 15:15:44 ID:Mwo13yTw0
「“命令”だ。お前はそこで、笑ってろ」

「ドクオさ――」

「“命令”だ」

キュートから離れる。視界が広がる。
キュートの表情が、目だけでなく、顔全体で、認識できるようになる。

キュートは、笑っていた。

ぼくは、キュートの脇を、通り過ぎた。

ぼくは、お姉ちゃんを背負って、歩き始めた。

ぼくは、山頂を――ヒメミ湖を目指して、山を登った――。


.

234名無しさん:2019/01/12(土) 15:16:13 ID:Mwo13yTw0



これはきっと、一五年前の続きなんだと思う。
間違った“かつて”を本来の“今”にもどすための続き。
“かつて”死ぬはずであったぼくという存在を、“今”“この場”で葬るための続き。

「お姉ちゃんは、どう思う?」

返事はない。けれどそこに居て、生きてくれていることだけで、充分だった。
それも、もう、後僅かだけれども。

「お姉ちゃん、あのね、ぼく、わかったんだよ」

ぼくもきっと、神様になりたかったんだ。
お姉ちゃんのように。内藤のように。

お姉ちゃんがいなくなったあの日から。
お姉ちゃんと一緒にジョルジュを埋葬したあの日から。
ずっとぼくは、神様になりたかったんだ。


人を、助けたかったんだ。



人殺しになんて、なりたくなかった。


.

235名無しさん:2019/01/12(土) 15:16:57 ID:Mwo13yTw0
「ぼくが、お姉ちゃんを殺した」

ギコに――いや、内藤に突き落とされた時、
お姉ちゃんは薬によって深い眠りに落ちていた。
揺すっても、呼んでも目覚めない、深い眠りに。

けれど、お姉ちゃんは目覚めた。
ぼくの『助けて』という呼び声によって。
お姉ちゃんは、落下するぼくを抱きしめて、
『蜷局の溝』へと落ちていき、そして――死んだ。


ぼくの『助けて』によって、お姉ちゃんは死んだ。
ぼくが、お姉ちゃんを殺した。


「ぼくが、大勢の人を殺した」

内藤のようになろうとして、
お姉ちゃんのようになろうとして、
ぼくは人を助けようとした。
けれどぼくは、二人のようにはなれなかった。

ぼくのせいで、大勢の人が死んだ。
大勢の人を、ぼくが殺した。その時、ぼくは、思った。
思ってしまった――。


ぼくは、何よりも先に――『助けて』と、思ってしまった。

236名無しさん:2019/01/12(土) 15:17:42 ID:Mwo13yTw0
ぼくはきっと、人を殺し続ける。お姉ちゃんを殺し続ける。
『助けて』と叫んで、自分の死を、他者に押し付ける。生き続ける限り。
ぼくという生き物は、そのようにデザインされてしまっているから。
そう決まっているから。

だからぼくは、『お姉ちゃんが生き残る未来』を築いた後、
『ぼくを殺す』為の計画を立てた。ぼくによって殺される多くの人を、
ぼくを殺すことによって、助けたかった。お姉ちゃんを助けたかった。
お姉ちゃんに、ぼくが奪った生を返したかった。


でも、お姉ちゃんは、死ぬらしい。

.

237名無しさん:2019/01/12(土) 15:18:12 ID:Mwo13yTw0


「楽になりたい……」

お姉ちゃん。

「ぼく、もう、楽になりたいよ……」

生きるのは、つらいよ。

「これ以上、生きていたくないよ……」

生きることにぼくは、向いていなかったよ。



どうしてみんな、そんな当たり前に生きていられるの?


.

238名無しさん:2019/01/12(土) 15:19:06 ID:Mwo13yTw0



ヒメミ湖が、見えた。

「お姉ちゃん」

お姉ちゃんを、背から下ろす。

「お姉ちゃん」

手をつなぐ。

「お姉ちゃん」

罅割れ、血が溢れ始めた互いの手を。

「お姉ちゃん」

あの時みたいに。

「お姉ちゃん」

重ね合って。

「お姉ちゃん」

彼岸と此岸の境に向かって。

「お姉ちゃん」

“生”のない場所に向かって。



そして。

239名無しさん:2019/01/12(土) 15:19:31 ID:Mwo13yTw0








          お姉ちゃん。
          今度こそ、一緒に――。







.

240名無しさん:2019/01/12(土) 15:19:58 ID:Mwo13yTw0
本日はここまで。次で最後です

241名無しさん:2019/01/12(土) 16:22:55 ID:xFt5AKkg0
乙!

242名無しさん:2019/01/12(土) 19:58:10 ID:MWN3qbwI0
どうなるのか気になるところで…
今すぐにでも続きがほしいな

243名無しさん:2019/01/12(土) 21:07:41 ID:QQWEsfZo0
どうなんだよこれ……続きはよ!
はよ!!

244名無しさん:2019/01/13(日) 00:55:05 ID:.cR7Fq520
はやくーはやくー

245名無しさん:2019/01/15(火) 20:46:40 ID:losd25xM0
              五



ぼくは、夢を見ていた。

とある少女の夢。

とある少女として生きる夢。

愛し合う男女の間に生まれ、ありふれた家庭で育った少女の夢を。

夢の中のぼくは、始め、胎児だった。
羊水の海をぐるぐると回り、まぶたを閉じても解る
この暗闇から抜け出すその日を今か今かと、
母の鼓動に安らぎながらも待ちわびていた。

そしてその日が、訪れた。

光はまばゆく、余りの刺激の強さに驚いて
思わず泣き出してしまったけれど、そのかかやきはまるで生命のようで、
ああぼくは、今、生まれたんだ。今、生きているんだと、原初の実感を与えてくれた。
この痛いほどの刺激こそが、“生”なのだと感じた。

246名無しさん:2019/01/15(火) 20:47:06 ID:losd25xM0
「愛しい子……愛しい愛しい、ぼくらの子……」

両親は胸いっぱいの愛をぼくへと注いてでくれた。
明るくて朗らかで、いつも笑顔の絶えない母。
少し気弱で母に頭が上がらなかったけれど、
誰よりも家族を大切に思ってくれていた父。

二人に見守られて、ぼくは育った。
二人はぼくを愛してくれた。ぼくも、二人が好きだった。

「きみは、どうして……? そんな、まさか……」

村の中で、病に伏せる人が急増した。
指から血が溢れ、不調を訴え、体中が蛇の鱗のように割れてしまう死の病。
突如として発生した流行病に村の人は怯え、彼らの信仰する神へと祈りを捧げた。

ぼくは、その光景を見ていた。その光景を見ていたら、解った。
よそから病の原因となっているものが、運び込まれていたことに。
それがこの地を、この地そのものである神を汚染していることに。
ぼくにはそれが、解った。

247名無しさん:2019/01/15(火) 20:47:35 ID:losd25xM0
「違う! きみは神様の子供なんかじゃない!
 きみはぼくの、ぼくたちの……」

原因を排しても、病の進行は止まらなかった。
地が、神が、まだ穢されたままだったから。
この穢れを浄化しない限り、病を根絶することはできなかった。

そのためにぼくが出来ることは、ひとつしかなかった。
そしてそれは、ぼくにしか――。

「……いやだ、いやだ! 絶対に、絶対にそんなこと認められるもんか!
 例え何人死んだって、ぼくは、ぼくにとっては……」

ぼくが神様の子であることは、いつの間にか村中に知れ渡っていた。
村の人達は私を敬い、崇め、そして、救いを待ち望んでいた。

滅びから、生命の終わりから、遺われることから、
早く助けてほしいと、縋っていた。

けれど父は、それを許さなかった。

248名無しさん:2019/01/15(火) 20:48:04 ID:losd25xM0
「きみのせいなんかじゃない。きみのせいなんかじゃ、ないよ……。
 だから、気にしないで。きみと出会えて、ぼくは幸せだった。
 だから、お願いだ。きみにも幸せになって欲しい。
 ぼくの、ぼくの愛しい、愛しい…………。

 勇気のないお父さんで、ごめんね……」

ぼくはぼくだけの力で還ることはできなかった。
愛する人の、本当に心から愛する人の思いが、神の下へ還るには必要だった。
けれど父はその思いによってこそ、ぼくを送れなかった。
やがて村からは、生命の殆どが遺われていった。父の、生命も。

ぼくは生きた。ぼくはぼくを生きた。
生命が遺われていく光景を見ながら何もできず、生き続けた。
人としての生を生きた。

けれど僅かに生き残った人々は、ぼくを人とは見なかった。
ぼくは“救わない”神であり、“殺す”神とされた。



“人殺し”と、ぼくは呼ばれた。


.

249名無しさん:2019/01/15(火) 20:48:31 ID:losd25xM0



ぼくは夢を見ていた。

神の子として生まれ、人の子として生きた少女の夢を。

少女の半生を。

少女の想いを。

夢に、見ていた。


だから、俺は……ぼくは――――


.

250名無しさん:2019/01/15(火) 20:49:04 ID:losd25xM0



「お母さんはお父さんのことを、心から愛していた」

……ここは?

「どことも言えない場所。神様の中とも言えるし、外とも言える場所。
 常なる世とも言えるし、現なる世とも言える場所。曖昧で脆弱な境界。
 どちらにも転びうる、不安定な世界」

……なんだか苦しい……ううん、悲しい、寂しい……?

「それはきっと、神様<私達>の気持ち。
 穢された膚によって外界から隔絶された神様が、つながりを求めてる。
 想いを求めてる。私達と、同じに……」

神様も、寂しいの……?

「うん、だから私、神様のことも助けてあげたいの」

でも、それって……。

「……うん」

251名無しさん:2019/01/15(火) 20:49:28 ID:losd25xM0

……いやだ、ぼくは、離さない。
お姉ちゃんの手を、絶対に離したりなんかしない。
ずっと一緒に、二人でずっと、ここに……。

「……おんなじだね」

おんなじ……?

「私のお父さんもね、同じように、私の手をずっとつかんでくれたの」

……あの、人。

「うれしかったよ。とてもうれしかった。
 だけどそのせいで、みんなが死んでしまった。
 お父さんも、死んでしまった。私が私を生きてしまったせいで」

そんなの、お姉ちゃんの責任なんかじゃない!

「……ありがとう。きっとほんとは、そうなのだと思う。
 でも、どうしても、これは自分のせいだと考えてしまう気持ち……
 あなたなら、解ってくれると思う」

……。

252名無しさん:2019/01/15(火) 20:49:53 ID:losd25xM0
「お母さんはね、お父さんのことが大好きだった。
 誰よりも、何よりも。だからね、お母さんは、
 私を愛することができなくなってしまったの」

……お姉ちゃんは、でぃ<お母さん>を、恨んでるの?

「ううん。お母さんもね、私を愛そうとはしてくれたんだよ。
 でも、どうしても、できなかった。それが理屈にそぐわないことだと解っていても、
 そう思い込まばければ、心が耐えられなかったから。
 お父さんが、ただ理不尽に死んだなんて、耐えられなかったから……」

……勝手だよ。母親なんて、みんな……。

「そうかもしれないね……。でもそれはたぶん、私もおんなじ」

……お姉ちゃんも?

「神様のね、穢された膚を完全に脱ぎ祓うには、
 心からの親愛を持って送られなければならないの。
 お母さんには、それができなかった。
 愛そうとしても、どうしても赦すことのできない蟠りがあったから。

 だから“あなたの未来”では、病は根絶されなかった。
 あなたを含むいくらかの人は救えたけれど、
 這ナギそのものから疫を祓うことはできなかった。
 不完全な脱皮にしかならなかった」

253名無しさん:2019/01/15(火) 20:50:29 ID:losd25xM0

どうしてそれ<ぼくの未来>を……?

「見ていたから」

見て……?

「あなたが私を見てくれたように、私もあなたを見ていたの」

ぼくの未来……。

「あなたがどんなに苦しんで、どんなに懸命で、どんなに生きてきたか……」

ぼくの過ち……。

「どんなに私を思ってくれていたのか……」

ぼくの罪……。

「全部、見ていたよ」

254名無しさん:2019/01/15(火) 20:51:01 ID:losd25xM0

……ぼくは、何もできなかった。
お姉ちゃんを助けることも、みんなを助けることも。
ぼくには何もできなかった。

ぼくはただ、殺しただけだ。みんなを、お姉ちゃんを、殺しただけだ。
ぼくはただの――人殺しだ。

「そんなことない」

そんなこと、あるよ。

「あなたが人を殺めてしまったことは、
 “あなたの意味世界”において事実かもしれない。
 でも、“ただの”人殺しだっていうのは、違う」

だけど、ぼくは――。

「だって私は、幸せだもの」

…………幸せ? 

「こんなにも私を思ってくれる人と出会えて、私はとっても幸せだよ」

255名無しさん:2019/01/15(火) 20:51:39 ID:losd25xM0

……うそだ。

「私は、好きなの」

お姉ちゃんは、ぼくを慰めようとしてくれてるだけだ。

「お母さんのことが、先生のことが、
 キュートやいようやりりちゃんたちのことが。みんなのことが好き。
 ……あなたのことが、好き」

強がって、つらくないふりをしているだけだ。

「この愛おしく思う気持ちは、あなたがくれたものなんだよ」

だって、でなきゃ……。
ぼくはお姉ちゃんすら終わらせてしまう……!

「生命は終わらないよ」

生命……。

「私は還るだけ。私は私でなくなるけれど、
 でもそれは、何もかもが遺われてしまうわけじゃない。
 私は神様となって、這ナギとなって、ずっと、ずっとここにいるの。
 ずっとここから、みんなを見守るの。でも――」

256名無しさん:2019/01/15(火) 20:52:20 ID:losd25xM0

……ああ、それは。

「お別れは何時だって寂しいよね」

ジョルジュと……。

「……だけど……だからこそ、ドクオくん――」

お別れした時も……。

「お願い、その手を離して……」

ぼくは、ぼくは……。

「あなたの意思で、私<常なる世のもの>から手を離して。
 あなたの世界<現に在る世>で生きて。お願い――」

最後には、この手を――


.

257名無しさん:2019/01/15(火) 20:52:48 ID:4V.M7ya.0
きたーーー

258名無しさん:2019/01/15(火) 20:52:49 ID:losd25xM0






     「私に生命を結ばせて――」





.

259名無しさん:2019/01/15(火) 20:53:21 ID:losd25xM0





      ――ありがとう。




.

260名無しさん:2019/01/15(火) 20:54:06 ID:losd25xM0



「あ……い、いやだ……」

大丈夫だよ

「一人ぼっちはいやだよ……寂しい、寂しいよっ!」

一人なんかじゃないよ

「一人だよ……ぼくは、人殺しのぼくは、
 みんなにとっての“よそもん”なんだ……!」

あなたを大切に思っている人が、待っているから

「そんな人いないよ! ぼくを見てくれたのは、
 お姉ちゃんだけだったんだ! お姉ちゃんだけがぼくを
 “よそもん”にしないでくれたんだ!」

だからあなたも、気付いてあげて――

「いやだ、行かないで! 一人にしないで!」

あなたを見てきたあの子に――

「お姉ちゃ――」

あの子の想いに――――


.

261名無しさん:2019/01/15(火) 20:54:43 ID:losd25xM0











     薄桃色にかかやいた、まばゆい光<生命>が――









.

262名無しさん:2019/01/15(火) 20:55:14 ID:losd25xM0



















.

263名無しさん:2019/01/15(火) 20:55:56 ID:losd25xM0



落下する感覚。
光から遠ざかり、遠ざかり、やがてはその痕跡すら
信じられなくなるほどの長い長い落下。

上下も左右も前後も曖昧で判然としないのに、
ただ落ちていることだけは解る。

一切の灯りが根絶された暗闇の裡をぼくはいま、落ちている。
そして、上昇してもいる。

自由落下。しかし、上昇は意識によって。
遅々として進まず、時の経つにつれ耐え難き重みをいや増していく“自己”。
落ちれば楽になる。それは解っている。それが解る。

なのに、それなのにぼくは、昇っている。

なぜ?

もう、諦めてしまってもいいはずなのに。

264名無しさん:2019/01/15(火) 20:56:27 ID:losd25xM0


生命。
逝ってしまった人の言葉。
それがぼくを、昇らせる。
留まらせる。
落ちることを、阻ませる。

願われたから――?
“命令”だから――?


いや……。



「そっちは、辛いよ……」


.

265名無しさん:2019/01/15(火) 20:57:11 ID:losd25xM0



声。

誰かの。

何かの。



「苦しいよ、痛いよ、悲しいよ……」



上下左右のないこの場所から。

ぼくが抗うその先から。

落ち行く向こうのその底から。

揺れる、声。

誘う、声。



「寂しいよ……」


.

266名無しさん:2019/01/15(火) 20:58:08 ID:losd25xM0



上は、寂しい。

世界は、寂しい。

知っている。

そんなことは、知っている。

ぼくは、ずっと――。

一五年間。

寂しかった。

一人で、寂しかったんだ。


.

267名無しさん:2019/01/15(火) 20:58:44 ID:losd25xM0



「ここにいようよ……」



――そうだ。

どうして抗う必要がある。

ずっとここにいればいい。

落ち続けていればいい。

振り返ってしまえばいい。

それがきっと、ぼくにとって、一番――


.

268名無しさん:2019/01/15(火) 20:59:10 ID:losd25xM0



「いい子――」



聞こえる――



「大丈夫だよ、そのまま、そのままおいで――」



ぼくにも、聞こえる――。



「ドクオくん――」



お姉ちゃんの声が、聞こえる――。


.

269名無しさん:2019/01/15(火) 20:59:37 ID:losd25xM0







     ドクオさぁぁぁぁぁぁぁん!!






.

270名無しさん:2019/01/15(火) 21:00:14 ID:losd25xM0



空が、開いた。
光が、かかやきが、空から差し込んできた。
それは腕となって――手となって、伸ばされていた。
指の一本一本が、その先の先まで、伸ばされていた。


ぼくに向かって。


しかし手は、指は、ぼくへと届かない。
探り、動かし、どんなに伸ばしても僅か、もう僅かが、届かない。


ぼくから掴まなければ、届かない。


.

271名無しさん:2019/01/15(火) 21:00:36 ID:losd25xM0



「いいんだよ……」



お姉ちゃんの、声。



「もう、無理しなくて、いいの……」



やさしい、やさしい、声。



「楽になって、いいんだよ……」



大好きな、声。



でも。


.

272名無しさん:2019/01/15(火) 21:01:27 ID:losd25xM0



「“命令”、したんだ」



命令……?



「来るなって。そこで、笑ってろって」



彼女は“笑う”わ。
いまも、これからも、ずっと――。



「そうかもしれない。だけどあいつ、ここまで来たんだ。
 来るなって言ったのに、でも、来たんだ」



来たから、どうするの……?


.

273名無しさん:2019/01/15(火) 21:01:59 ID:losd25xM0



「……お姉ちゃんは、どう思う?」



あなたは、どうしたいの……?



「……ぼくには、解らない。ただ――」



ただ――?



「いまは、あの手を、払いたくない。だから――」



だから――?



「……だから、ぼく、行ってみるよ」


.

274名無しさん:2019/01/15(火) 21:02:34 ID:losd25xM0



……そう。



それじゃあ……。



気をつけて、ね……?



「……うん」


.

275名無しさん:2019/01/15(火) 21:02:58 ID:losd25xM0



声が、消えた。
お姉ちゃんはもう、“いなかった”。


手を伸ばす。
空に向かって。
光に向かって。
あいつの伸ばしたその手に、指に向けて。
“生命”を、つかむようにして――


.

276名無しさん:2019/01/15(火) 21:03:29 ID:losd25xM0





   最後に一度、お姉ちゃんがいるはずの場所を顧みて――




.

277名無しさん:2019/01/15(火) 21:03:53 ID:losd25xM0



















.

278名無しさん:2019/01/15(火) 21:04:38 ID:losd25xM0



「ボク、大家族の生まれなんです。
 ひいおじいちゃんがいて、ひいおばあちゃんがいて、
 おじいちゃんもおばあちゃんも、お父さんもお母さんも、
 お姉ちゃんも三人いて。末っ子なので、下はいませんでしたけど」

空が、見えた。

「みんな、疫病に罹って死にました。ボクだけを残して。
 誰よりも頭の良かったシューねえちゃんも、
 男の子にも負けなかったヒーねえちゃんも、
 とっても綺麗だったクーねえちゃんも、みんな最後には、
 元気だった頃の面影もないくらい酷い有様になって、死んじゃいました」

地面に、横たわっていた。

「ボクも、同じように死ぬんだと思いました。
 でも、ボクは死にたくありませんでした。
 あんなふうになって死ぬのはいやだって、思っちゃいました」

全身が濡れていた。

「どうしたら死なないでいられるだろう。
 どうしたら神様のお怒りを受けないで済むだろう。
 幼いながらも真剣に、考えて考えて、考えました。
 それで、思ったんです。いい子にしていれば、死なないで済むんじゃないかって」

隣の女も、濡れていた。

279名無しさん:2019/01/15(火) 21:05:21 ID:losd25xM0
「ボクは、いい子になろうとしました。大人の――いいえ、
 誰の言うことも聞いて、機嫌を損ねないで、いつも明るく笑顔を振りまく、
 そんないい子になろうとしました。――気付いた時には、こんなになってました」

女が隣に、座っていた。

「死ぬのが怖かったから。でも――」

女がしゃべっていた。

「ドクオさん、覚えていますか?
 お姉ちゃんが亡くなった一週間後、ドクオさんが這ナギから引っ越される時、
 “元の歴史”であなたがみんなに言ったこと」

知らない女。

「『神なんていない。病気なんてぼくが治してやる。
 全部、全部、治してやる。誰一人、誰一人だって、
 死なないですむようにしてやる』」

どこか懐かしい女。

「この言葉を聞いた時、ボクは救われた思いが……ううん。
 大袈裟でなくあの時ボクは、救われたんです。
 それは、内藤先生の言葉の受け売りだったのかもしれない。

 けれどなんでもできて、誰よりも頼りになった先生が言うのではなく、
 ドクオさんが……ボクよりちっちゃかったドクオさんが、そう言ったこと。
 それがボクにとって、どれほど衝撃的だったことか」

280名無しさん:2019/01/15(火) 21:05:58 ID:losd25xM0
泣きそうな顔をして。

「ドクオさんがいなくなって暫くしてから、
 ボクも這ナギの外から来たご夫婦に引き取られて行きました。
 そこでボクは、ボクにはもったいないくらいのご厚意を受けて、
 勉強すること、大学に通うことを許してもらいました。

 その甲斐あって看護師の資格を取ることもできて、
 勤め先を見つけることもできました。
 這ナギに居た頃には想像することもできないくらい、大きな病院でした」

けれど泣かない女。

「そこでボクは、あなたに再会しました」

笑う女。

「ドクオさんは気が付いていない様子でしたが、ボク、
 ドクオさんと同じ所で働いていたんです。失敗ばかりで、
 毎日先輩に叱られていますけど……けど、ドクオさんのことは、見てました。

 あの時の言葉通り医者になっているあなたを、
 自分のことみたいに誇らしい気持ちで、勇気をもらうつもりで、見てました。
 だけど――」

281名無しさん:2019/01/15(火) 21:06:32 ID:losd25xM0
空は、静かだった。

「よからぬ噂を耳にしました。
 “あの事故”の責任をあなた一人に押し付けるつもりだという噂。
 押し付けて、非難を集中させて、それで、それで――自殺させて、
 責任の所在をうやむやにしてしまうつもりだっていう、噂」

女の声だけが、聞こえていた。

「本当のところは、ボクにも解りませんでした。
 ボクは一介の看護師に過ぎませんし、病院としてもこの話題は禁句扱いでしたから。
 でも、ドクオさんがお休みを取ったこと、身辺の整理をしていることは、現実でした。
 ここへ――這ナギへ、帰郷してきたことも」

身体を起こした。

「迷いました。ボクにそんなことをする権利なんてないと思いましたし。
 ぎりぎりまでずっと、迷っていました。あなたを“助けよう”だなんて、
 そんな大それたこと、ボクなんかがしていいはずないって。
 でも……あなたが湖に身を投げた時、身体が勝手に動いて――」

282名無しさん:2019/01/15(火) 21:07:00 ID:losd25xM0
手を少し、上げた。

「だ、だからですね、その……えへへ、なんて言えばいいのかな……。
 ボク、ドクオさんはすごいと思いますし、あれは仕方なかったんだと……
 いや、それも違うかな。え、えと……えへ、えへへ、どうしよ、
 だ、だからですね、ボクが言いたいのは――」

「キュート」

女の手に、触れた。

「ぼくは、生きても、いいのかな……?」


.

283名無しさん:2019/01/15(火) 21:07:24 ID:losd25xM0






o川*゚ー゚)o「生きましょう?」




.

284名無しさん:2019/01/15(火) 21:07:45 ID:losd25xM0



ヒメミの湖が“愁い澄んだその瞳”に、
かかやく太陽を映し出していた――




.

285名無しさん:2019/01/15(火) 21:08:18 ID:losd25xM0
本編はここまで。後ほどエピローグも投下します

286名無しさん:2019/01/15(火) 21:56:39 ID:losd25xM0
              生



ドクオさんはVIP市へもどるとすぐに、
ボクたちの勤める病院へ向かいました。
係るあらゆる批判の、その矢面へと立つ為に。

ドクオさんは当時、あるプロジェクトチームのリーダーを務めていました。
官民一体で行われたそのプロジェクトは、
免疫不全によって一般的な生活を送れない人々を快癒、
社会復帰させる目的で発足されたものでした。
国外の製薬会社とも協力し、新薬の開発に日夜勤しんでいたそうです。

新薬の開発は慎重の上にも慎重を期して行われました。
ですが上層の方々は開発チームのやり方に難色を示し、
逸早く結果を出すことは求めたそうです。

これは後から知ったことですが……
ドクオさんが協力したという国外の製薬会社というのが国営色の強いもので、
その国の政府筋が更に周辺諸外国に対して新薬にまつわる
諸々の契約を既に締結してしまっていたようです。

契約の日時までに実物がなければ困る。
たぶん、そういうことなのだと思います。

287名無しさん:2019/01/15(火) 21:57:09 ID:losd25xM0
そして新薬は充分な臨床実験を経ぬまま実用化され、
国内外へと広まり――結果、大勢の人が、亡くなってしまいました。

亡くなってしまった人々の数は、
二○○○人とも、三○○○人とも言われています。

もともとの症状が症状だけに正確な数を図ることは困難ですが、
少なくともこの数字を下回ることはありえず、実際はその二倍、三倍……
もしかしたら五倍にも、一○倍にも及ぶかもしれないそうです。

ボクみたいな浅慮な者は、この国外の製薬会社や、
実用を急かした人々が責任を負えばいいのではないかと思ってしまいます。
けれど実際は、そうなりませんでした。この会社や会社が在する国を
表立って批難することは、両国間の関係性を悪化させる危険がありましたから。

マスコミにとっても、それは同様でした。
緊密な貿易関係を築いているこの国との関係を悪化させる報道を行えば、
必然的に国内の経済を停滞させることにもつながりかねません。

288名無しさん:2019/01/15(火) 21:57:33 ID:losd25xM0
それは、各マスコミを支えるスポンサーにとっても
浅からぬ痛手を負わせる行為になってしまうのです。
彼らにとって大切なのは真実よりも、自分たち、会社でした。

ボクたちが勤める病院でも、状況は似たり寄ったりでした。
病院そのものを潰す訳にはいかない。被害は最小限に食い止めなければならない。
医師一人を切り捨てることでこの難局を切り抜けることが出来るならば――

考え事態はきっと、おかしくはないのだと思います。
何が大切であるかなんて、そんなの、人それぞれですから。


けれど、ボクにとっては――。

.

289名無しさん:2019/01/15(火) 21:58:10 ID:losd25xM0



『あれでしょ? 両親が離婚して、引き取ったその母親に
 毎日暴力振るってたらしいじゃないですか――』

『母親が死んだ後引き取られた先では禄にしゃべんなくて、
 何考えてるのかさっぱり解らないような子供だったとか――』

『子供の頃から動物の死骸を持ってうろついてたって――』

『コンプレックスだよ、コンプレックス。
 コンプレックスがあるから他人を見下したくって、
 医者になったのも結局ステータス目当てでしょ?』


.

290名無しさん:2019/01/15(火) 21:58:47 ID:losd25xM0



テレビのキャスターや識者と呼ばれる人たちが、
勝手気ままにドクオさんのことを語ります。
それは事実である部分もありますし、全くの虚構も混じっています。

いずれにせよニュースでの論調は一貫して、
ドクオさんが如何に悪人であるか知らしめることに腐心していました。

ドクオさんの扱いは完全に、犯罪者に対するそれでした。
子供の頃から今に至るまで、プライベートなんて一切考慮されずに全部、
あまさず、公にされてしまいました。

連日連日ドクオさんの悪名は、全国中で報道されました。
それはきっと、大切なものを守りたい人々の攻撃性が、
過剰に発露された結果だったのだと思います。

彼らの考えは、ボクにもよく解りました。ボクだっておんなじだから。
知ったふうなことを口にする人々の顔面を、思いっきりパンチしてやりたい。
そう思ったことも、一度や二度ではありませんでしたから。

こんなことを思うのは、生まれて初めてでした。
ですが不思議だとは、思いませんでした。

291名無しさん:2019/01/15(火) 21:59:17 ID:losd25xM0



「亡くなってしまった方、その遺族の方々には本当に申し訳なく……」

これだけ苛烈な攻撃を、痛めつけを、いじめを受けてもドクオさんは、
一度だって反論することはありませんでした。投げやりな態度になったり、
怒りを顕にすることもありませんでした。ドクオさんはきっと本心から、
これらの非難が正当なものであると考えていたのだと思います。

だから最後までドクオさんは、生贄の羊<スケープゴート>をやり通しました。
やがてこの事件も風化して、一分も、一秒も報道されることがなくなる、
最後の最後まで。ドクオさんは、やり遂げました。


そしてドクオさんはその役目を終えた直後、入院しました。心の病を患って。

.

292名無しさん:2019/01/15(火) 21:59:44 ID:losd25xM0



「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいっ!!」

入院してからしばらくの間は、見ているこちらがつらくなる程でした。
不眠と拒食によって元々痩せ型だった彼の身体は骨と皮だけにまで痩せ細り、
その身体のどこから力が出ているのか暴れまわって自傷を繰り返しました。

「ドクオさん聞いて! ボクがここに居ますから、ここに――!」

ドクオさんが入院したのはボクが勤める病院の系列に当たる所でしたが、
所詮は部外者であるボクには、自由にドクオさんと会う権利はありませんでした。
それでも何度か無理を言って中に入れさせてもらいましたが、
当初ドクオさんはボクをボクと認識することもできない様子でした。

二、三ヶ月が経った頃からでしょうか。
ドクオさんの状態が、比較的安定してきたのは。
この頃からボクをボクと認めて話をしてくれるようになって、
とてもうれしかったのを覚えています。

もしかしたらこのまますぐによくなるかもしれない。
そう思いもしたのですが、現実はやはり、そう容易いものではありませんでした。

293名無しさん:2019/01/15(火) 22:00:12 ID:losd25xM0
ドクオさんは、断続的に発作を繰り返しました。
些細な出来事が切っ掛けとなってドクオさんは、
悲痛な声を上げながら謝り始めてしまうのです。

ドクオさんが誰に、何に謝っているのかは、担当医の先生にも、
看護師の方々にも、ぼくにも、解りませんでした。
きっと、ドクオさん自身にも解らなかったのではないかと思います。

発作の確とした切っ掛けが解らず、退院の許可は先へ先へと伸ばされていきました。
そのまま半年が経ち、三つの季節が過ぎ去り、そして、一年が経過しました。
この時にはもう、発作は殆ど見られなくなっていました。
担当医の先生は、ドクオさんに、仮退院の許可を下さいました。


ドクオさんは、外に出られるようになりました。

だから、ボクは――。


.

294名無しさん:2019/01/15(火) 22:00:39 ID:losd25xM0



「おい、看護師」

「あ、はい! なんでしょうか、先生」

帰りの支度をしている所で、声を掛けられました。
ツン先生。うちの病院でただの一人の女医さんで、とても背が高い方。
声をかけられると思わず、見上げてしまいます。

「お前、休みを取ったんだってな」

「え、えと、はい……」

「このクソ忙しい時に」

「そ、そうですねー……」

「一ヶ月も」

「え、えへへ……」

いつも若々しくてとても綺麗な人だけれど、
ちょっとだけ威圧的な所があって、正直少し、苦手な方。

295名無しさん:2019/01/15(火) 22:01:11 ID:losd25xM0
「まあ、いい」

背の高いツン先生が、長く揃えられたまつげを開いてボクを見下ろし、言います。

「あの男の付き添いだろ」

「……はい」

ボクがドクオさんの下へ通っていることは、院内でも周知の事実となっていました。
そのせいで多少肩身の狭い思いをすることもありましたが、
基本的には問題なく、暮らせていました。おそらくは彼の名前を口にすることが、
この病院において一種のタブーになっていることも関係していると思います。

「行き先は這ナギか?」

「ご存知なんですか?」

「一年前に覚えた」

「あ、あはは……」

「……」

296名無しさん:2019/01/15(火) 22:01:40 ID:losd25xM0
それは、ちょっと、不名誉な覚えられ方かもしれません。
郷土に対するバツの悪さと、先生の無言で見下ろす圧が相まって、
ちょっと、いたたまれない心地でした。

「あ、あのボク、これから寄らなきゃいけない所がありますのでー……」

「待て」

そそくさとこの場から退散しようとしたボクを、先生が呼び止めました。
そのまま脱兎するわけにもいかず、ボクは笑顔を浮かべ、再び先生を見上げます。

「内藤という男を知っているか?」

意外な名前が飛び出してきました。

「内藤先生、ですか?」

「先生、ね……」

含みのある笑いを、先生が浮かべます。
バカにしているような、昔を懐かしんでいるような。
その心の裡に何が浮かんでいるのか、ボクに解るはずもありませんけれど。

297名無しさん:2019/01/15(火) 22:02:32 ID:losd25xM0
「まあいいさ。その先生様に会ったら、こう伝えてくれ」

先生のよく通った鼻が少し、上向きました。


「『答えは見つかりましたか』……とな」


遠くを見るような目つきで、先生はおっしゃいました。
その姿がなんだかまるで舞台俳優さんのように決まっていて、
ボクは一瞬、先生への苦手意識を忘れてしまいました。

「あの、先生は、先生――内藤先生と、どういう……」

「いちいち全部話さなきゃ、頼み事ひとつ聞いてもらえないのか?」

「い、いえ、そんなことは! へ、へへへ……」

ああでもやっぱり、ツン先生はツン先生です。怖い。

「私は現実主義者<リアリスト>で、
 あいつは理想主義者<ロマンチシスト>だった。それだけの話だよ」

と思っていたら、以外にも先生は、ボクの質問に答えてくれました。
はぐらかされただけのような感じもしますけれど……。
それから先生は、続いて、ぼそりとつぶやきました。

「ドクオのやつも、ロマンチシストだったんだろうな……」

298名無しさん:2019/01/15(火) 22:03:00 ID:losd25xM0
「あ」

「おっと」

先生がとっさに、口元を手で押さえました。
そしてその直後、共犯者にでも送るような笑みを、ボクへと投げかけてきたのです。
……確かツン先生は、女性に人気があったと聞いたことがあります。
ファンも大勢いるのだとか。たぶん、こういう所が原因となっているのでしょう。

「ま、あの男と付き合うつもりなら、覚悟はした方がいいぞ。
 ロマンチシストは御せないからな」

「つ、付き合うって、そんな……」

「アホ、そういう意味で言ったんじゃない」

お前さんはそれを望んでいるみたいだけどな。
先生は意地の悪い口調で、上から言葉を振り下ろしてきます。
ボクは、まともに顔を上げることもできなくなってしまいました。

「一ト月の休暇、せいぜい骨を休めるんだな」

言って、先生は部屋から出ていきました。
ぼくも急いで帰りの支度を終え、病院から出ていきました。
なんだか落ち着かない気持ちを、指先をいじることでごまかしながら。


.

299名無しさん:2019/01/15(火) 22:04:15 ID:losd25xM0



「やあやあこれはドクオさんにキュートさん! お久しぶりですよう!」

「い、いようさん……ですか!?」

這ナギについて一番に出迎えてくれたのは、いようさんでした。
ぐいっと身を乗り出して握手をしてくる姿に、思わず一歩引いてしまいました。
しかし、なんというのでしょう……。昔の、面影が……。

「な、なんだかずいぶん逞しいことになりましたね……」

「はっはっは! ちょっと鍛えたらいつの間にかこんな事になってしまいましてね!
 いまでは這ナギのクックル<筋肉男>なんかと呼ばれておりますよう! はっはっは!!」

「あ、あは、あはは……」

「ドクオさんも、よく来てくれましたね!」

「……うん」

いようさんがドクオさんのても握ります。強い力。
ボクは少し発作のことが頭をよぎって、心配になりました。
けれどドクオさんは何事もなく、いようさんの手を握り返しました。

留まった息を、吐き出します。

300名無しさん:2019/01/15(火) 22:04:36 ID:losd25xM0

「では、行きますよう!」

いようさんに従ってボクたちは、這ナギの道を歩き始めました。
這ナギの様子は一五――一六年前と然程変わらず、よく言えばのんびりしているような、
あえてネガティブな言い方をするなら時代に取り残されているような、
そんな空気のままでした。

それでも一年前に比べると、どこかが違うような、
何かが変わっているような、そんな印象も受けました。
どことなく、村全体が明るい――ゆるやかな中にも
活き活きとしたものを感じる――そんな具合に。

確証はありません。ありませんけれど、もしかしたら。もしかしたらですが。
ドクオさんの一年前――“一六年前”の行動が、
この村に大きな影響を及ぼしたのではないか。
大きく変えたのではないか。そんなふうに、思いました。


ドクオさんが、這ナギの大切な何かを救ったんじゃないかって。

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301名無しさん:2019/01/15(火) 22:04:59 ID:losd25xM0

「さあさ、着きましたよう!」

ボクたちが案内された先で待っていたのは、やはりというべきか、
これ以外にないと言うべきか、這ナギで唯一の医療施設、這ナギ診療所でした。
中に入ると待合室には暇を持て余したお元気なご老人だけが屯していて、
実に平和な……ボクの知っている這ナギ――といった光景が、広がっていました。

一応は診察の体を成しているはずなのに、扉は開放されていて、
診察の様子が丸見えになっているのは、
なんだか少し、抜けすぎている感じもしますけど。

「なーにを言っとる、こんなの病気じゃないわい。
 あんたはあれだ、一○○まで生きるよ」

あれ、と、思いました。診察室から聞こえてくる声に。
その声は、ボクの知っている内藤先生のものではありませんでした。
奥の居住スペースに案内してくれたいようさんに、道すがら、疑問を尋ねてみました。
いようさんは少し困ったような顔をして、言いました。

「いや……内藤先生は一○年ほど前に、亡くなりましてね」

「え」

「あ、いや。癌でね」

302名無しさん:2019/01/15(火) 22:05:29 ID:losd25xM0
いようさんはきっと、気を使って下さったのだと思います。
久しぶりに帰郷した(去年のことはおそらく、いようさんは知りませんから)家族に、
いやな思いはさせないであげようと。疫病ではない、ぼくたちから感染ったわけではないと、
そのことだけを告げて、安心させてくれようとしたのだと思います。

けれどボクは、困惑していました。
“あの”内藤先生が亡くなったことに。
明るくて、朗らかで、時々微妙なキザさにみんなの顰蹙を買っていたけれど、
でも、やっぱりほんとは慕われていたあの内藤先生が、亡くなってしまったことに。

それに、ツン先生のこともありましたから。

「それじゃお二人とも、ゆっくりしてくださいな!」

ボクたちを部屋まで案内してくれたいようさんは、
最後に意味深なウインクを送って退室していきました。
……たぶん、なにか勘違いされているのだと思います。

303名無しさん:2019/01/15(火) 22:05:53 ID:losd25xM0
「び、びっくりしましたねー……内藤先生、亡くなってただなんて……」

「……うん」

「……なにか、見えますか?」

「……這ナギが」

「……なるほどなるほど、これは見事な這ナギですねー!
 ……なーんて、えへへ」

「……」

「へへ、へへへ……」

口を閉ざしました。

ドクオさんは窓辺の椅子に腰掛けたまま、
ボクが笑うのを止めてからもそのまま、外を眺め続けていました。
昼が過ぎて、夕日が差し込み、完全に外の景色が夜闇に隠れてもずっと、そうしていました。

お夕飯の誘いを受けた時にようやくドクオさんは窓の外から目を離して、
誘いを断り、そのすぐ後にはもう、床に入って眠ってしまいました。
彼が無事に眠りにつけたことを確認して、その日はボクも早くに眠りました。


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304名無しさん:2019/01/15(火) 22:06:13 ID:losd25xM0





  這ナギ行きを決めたのは、ドクオさんでした。




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305名無しさん:2019/01/15(火) 22:06:42 ID:losd25xM0



「こんなとこに来てまで働きたいだなんて、
 キューちゃんてほんと、変わってるよねー」

「そ、そうですか? へへ……」

「ミセリが怠惰なだけです。世界人類がみな
 あなたのようになってしまったら、それはこの世の破滅です」

「な、なにおう!?」

這ナギを訪れてからもう、一週間が経過していました。
何もしないでいることに耐えられなくなったボクはいようさんと、
内藤先生の代わりにここへ赴任してきたシラヒーゲ先生に頼んで、
看護師としてのお仕事を手伝わせてもらっていました。

懐かしい顔ぶれとも再会しました。
ミセリさんに、トソンさん。東からこちらへ移り住んできた孤児の仲間――家族です。

306名無しさん:2019/01/15(火) 22:07:10 ID:losd25xM0
ミセリさんはなんと、画家さんになっていらっしゃいました。
原色を多用したサイケデリックな絵で……絵心のないボクには解りませんでしたが、
きっと、すごいことなのだと思います。

「キュートさん、正直に言っていいんですよ。
 『なにこのゴミ、意味わかんない』と」

「い、いえ、そんなことはー……」

トソンさんはボクと同じ――つまり、看護師になっていました。
この診療所で今現在、唯一の看護師さんです。幼い頃からとても敏い方でしたが、
大人になって会ってみてもその印象は変わりませんでした。
年上のはずのボクなんかよりもずっと、しっかりしていらっしゃいます。

「し、失敬な!? これでもちゃんと生活できるくらいには売れてるんだぞ!」

「なんて極悪なことを。目の不自由な方々に詐欺まがいの
 ゴミクズを売りつけるだなんて。これ以上の被害が出る前に
 あなたの絵を買ってしまった方々には、腕利きの眼科医を
 紹介してあげなければなりませんね。可能な限り早急に」

「ひっど!!」

307名無しさん:2019/01/15(火) 22:07:36 ID:losd25xM0
昔と変わりのないやりとり。孤児たちの中でも二人は特に、
それこそ本物の姉妹のように仲良しでした。

大人になってもその関係が変わっていないこと、なぜかそのことが、
ボクにはとても、嬉しいことのように感じられました。
涙腺が刺激されてしまう程に。

「……キュートさん?」

「い、いえ、泣いてなんかいませんよ?」


.

308名無しさん:2019/01/15(火) 22:08:12 ID:losd25xM0



一六年ぶりに再会したのは、この二人とだけではありませんでした。
這ナギ診療所には、意外な人も訪れていました。

「いまは、事情があって学校に通えない子供や、
 子供の時に学ぶことのできなかった大人に勉強を教えているのです。
 ……あの子が、していたみたいに」

記憶の中の顔つきよりも幾分かやわらいだ表情で、そう、でぃさんは言いました。

「むずかしいものですね、人に物を教えるというのは。
 かれこれもう一○年以上やり続けてきましたが、
 未だに正解が解らないままでいます」

そう言って微笑んだでぃさんの顔には、
ああ、やっぱり、親子なんだなぁと、
自然にそう感じられるものが確かに存在していました。
とても懐かしい気持ちになりました。

309名無しさん:2019/01/15(火) 22:08:38 ID:losd25xM0
「私がここで働くようになったのは、兄への恩返しでもあるのです」

でぃさんは、“あの日”からの自分のこと、
お兄さん――ギコさんのことを話してくれました。
ギコさんは“娘との別れ”の整理がつけられず
ふさぎ込んでいたでぃさんに、こう言ったそうです。

「お前があの子を想うなら、生き残った事実を無駄にしちゃあいけないよ」って。

そして、自分の罪を告白してくれたそうです。
違法に横流しされた医薬品を、更に独自の配合が施されて
幻覚作用と常習性を持つに至ったそれを、その正体も解らないまま
所定の場所から所定の場所まで配達するお仕事。

ギコさんは都会で、このお仕事を数年間し続けていたそうです。
医薬品の出処が明るみになったことと、
その行き着いた先で起こった現象を知るまでの間。

直接の上役から薬の一斉処分を命じられたギコさんは、
その命令に従わなければ殺されることが解っていて、
ほうぼうを巡り、そして最後には仕方なく、その薬を這ナギに、
日鏡巻山に投棄しました。そして、薬を横流ししていた医師と共に這ナギへと帰郷しました。

310名無しさん:2019/01/15(火) 22:09:11 ID:losd25xM0
「兄のせいで苦しんだ人は、大勢いるのだと思います。
 いえ、おそらくは、今でも……。でも――」

でぃさんは、“あの人”と良く似た瞳で、言いました。

「それだけじゃないって、兄には知ってほしかった。
 私はあなたに救われたって。だから私はここで、物を教えているのです。
 兄の為にも、あの子の為にも……けれどたぶん、本当の所は、自分の為に」

ギコさんは既に、亡くなっているそうでした。
酩酊したまま意識を失って、そのまま帰らなかったと。でぃさんは言います。
自分の気持が、果たしてどこまで兄に通じていたか解らないと。

「暗い話をしてしまってごめんなさい。でも――」

けれど、と、でぃさんは続けます。
亡くなったギコさんの側には、カカメ石があったそうです。大切な人へと贈る石。

まだ未加工なままのそれを、ギコさんがどのような意図で側に置いていたのかは、
本当の所は解りません。でもでぃさんは、ギコさんに死ぬつもりはなかった、
生きようとしていたんじゃないかと思うと、そうお話して下さいました。

生きて、磨いて、大切な人にこれを贈るつもりだったんじゃないかって。

「ドクオくんは少し、兄に似ている気がして。
 出来ることなら伝え“続けて”あげて欲しい。そう思ったんです」


.

311名無しさん:2019/01/15(火) 22:09:33 ID:losd25xM0



「キュートさん!」

「わ、りりちゃん! そ、その子は!?」

「私の子供です!」

ちょっとだけ……ほんのちょっとだけふくよかになったりりちゃんは、
とっぷりとまんまるな赤ちゃんを抱っこしていました。
赤ちゃんはぱっちりと開いたお目々で、物珍しげにボクのことを見ています。
なんだか不思議な感じがしました。

「この子が何かを知りたいと思った時、
 一緒に考えてあげられるお母さんになりたいですから」

りりちゃんはいま、子育てに励みながらでぃさんの所へ通っているそうでした。
子供やご老人に混じって勉強することに恥ずかしさなくはなかったそうですが、
子供のことを考えたららそんな恥ずかしさなんて気にしていられないと思ったそうです。

母は強し、です。

312名無しさん:2019/01/15(火) 22:10:00 ID:losd25xM0
「あら、この子、キュートさんに抱っこしてもらいたがってるみたいです」

「え、えぇ!?」

「抱っこしてもらえませんか?」

「え、でも、えぇ……」

「試しに、ね?」

すっかり母親になってしまったりりちゃんは
記憶の中とは違いずいぶんと押しが強くなっていて、
昔と変わらないボクは押し切られるまま赤ん坊を手渡されてしまいました。

職業柄人を持ち運んだりした経験は少なくありませんが、
このように小さな赤ん坊を抱えるのは始めてのことです。
これで、いいのかな? 安定してる? 本当に大丈夫? 
不安はつきません。緊張します。

たぶんその緊張は、抱かれている赤ちゃんにも伝わるのでしょう。
赤ちゃんは居心地悪そうに身体をよじり、
それでも不満が解消されないことが解ると、ついには泣き出してしまいました。

313名無しさん:2019/01/15(火) 22:10:32 ID:losd25xM0
「あらあらあら」

「あ、あ、あの、ご、ごめんね、ごめんね……!」

「この子はもう――」

ボクの手から赤ちゃんが、りりちゃんの胸へと帰ります。
ほっとした気持ちと、泣かせてしまってごめんねという気持ちが、同居しています。

けれどりりちゃんは手慣れたもので、
胸の中の赤ちゃんをなだめながら、歌を歌い始めました。

その歌は、ボクにも聞き覚えのあるものでした。
やさしくて、暖かくて――母から子へと贈る歌。
そう、この歌は、“あの人”が歌っていた――。

赤ちゃんが寝静まりました。
その寝顔を愛おしそうに見つめながらりりちゃんは、小声で話し出しました。

314名無しさん:2019/01/15(火) 22:11:02 ID:losd25xM0
「この歌、昔お母さんも歌っていたんです。
 どうしてお姉ちゃんも知っていたのか不思議だったけど、
 でも、もしかしたら当たり前のことなのかもしれません」

「えと、どういう……?」

「この歌は母から子に……“這ナギの母”であるヒメミ様が、
 私達に教えてくださった歌なんだそうです。
 元気に、健やかに……あなたの瞳がいつまでもかかやきを失いませんようにって」

“お母さん”は、とても幸せそうでした。

「お姉ちゃんは、私にとっての神様でした」

“赤ん坊”は、とても幸せそうでした。

「私はこの歌を、この子に歌います。
 それでこの子が自分の子にこの歌を歌ってくれたら、
 それがどんどん続いていったら……それってとても、素敵なことだと思いませんか?」

「……うん、思う、ボクも、そうなったらいいなって、思います」

「キュートさんならそう言ってくれると思いました」

そういうりりちゃんの顔は、昔の面影を残しつつ、
けれどやっぱり、子を持つ母の顔をしていました。


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315名無しさん:2019/01/15(火) 22:11:27 ID:losd25xM0



「あー、それにしても、男が欲しい!」

「ミセリはモテませんからね」

「そういうトソンだってずっと一人じゃん!」

「私は今の環境に満足していますから」

「ぐぬぬ……」

「あはは……」

三人でおしゃべりするのがすっかり
定番になってしまった、這ナギでの三週間。
頂いたお休みも、半分を過ぎてしまいました。

トソンさんにやり込められて悔しげにするミセリさんも、見慣れたものです。
それでもトソンさんの下へ訪れてくるのはいつも
ミセリさんの方からなのですから、やはりお二人は、仲良しなのでしょう。

316名無しさん:2019/01/15(火) 22:11:47 ID:losd25xM0
「あーもー、あたしこのままじゃ、
 独り身のままおばさんになっちゃうよー」

「現実を認めましょう。あなたはもうおばさんです」

「な、し、失礼だぞ! それにあたしがおばさんなら、
 キューちゃんはどうするのさ!」

「キュートさんはいいんです。
 あなたと違って可愛らしいですし、お相手もいますし」

トソンさんの言葉に、飲みかけていたお茶を
思わず吹き出してしまいそうになりました。

「ど、ドクオさんとは別に、そういうのでは!」

「そうなのですか?」

トソンさんが、変化に乏しいその顔を疑問を抱いた表情に変えて、
ボクを覗き込んできます。……ついつい、目を背けてしまいます。

「最近はずっと、外に出かけているんですよね?」

「は、はい……」

317名無しさん:2019/01/15(火) 22:12:30 ID:losd25xM0
そうなのです。ドクオさんは最近と言わず、
ここへ来てからずっと、外出し通しでいました。
それも驚いたことに、昔はあれほど仲の悪かったプギャーさん方と一緒に。

もしかしたら弱みを握られて脅されているのかもしれない――
なんて考えも初めはありましたが、どうやらそれは杞憂のようで、
ドクオさんの身に特段容態の変化や、悪化というものは見られませんでした。

ドクオさんは毎日毎日外へと出かけて、それはやはり心配ではありましたが、
何事もなく夜には無事に帰ってきましたから、ボクにはそれ以上何も、
言ったりやったりすることはできませんでした。

ボクはただドクオさんに付いてきただけで、
何かの権利を有しているわけでもありませんでしたから。

「なら、ヒメミ湖の参拝にでも誘ってみては如何ですか?」

「そうそう! ヒメミ様って、縁結びの神様でもあるんだって!」

「そうなんです?」

それは初耳でした。

「蛇は多産の象徴ですからね。交尾も長く激しいものですから、
 そこからあやかって意味付けられたのでしょう」

「情緒〜」

「事実です」

318名無しさん:2019/01/15(火) 22:12:56 ID:losd25xM0
「いえ、あの……ほんとに、その、そういうのではないんですよ」

二人が、ボクを見ます。

「ドクオさんはボクの憧れ……というか、
 雲の上、みたいな、そういう人ですから……」

「じゃあ、あたしが狙っちゃおうかなー?」

「え、え……!?」

思わず、どきりと、してしまいました。

「やめなさい。ドクオさんが可哀想です」

「ど、どういう意味だ!」

「それに、あなたにあの人は荷が重い」

「……それは、そうだねー」

319名無しさん:2019/01/15(火) 22:13:16 ID:losd25xM0
きっとミセリさんの発言は、冗談のつもりだったのでしょう。
ですがボクは、自分でも驚くほどに心臓がバクバク言っているのを自覚しました。
何にそんなに驚いているのか自分でも解りませんでしたが、
とにかく心臓が、痛いほどに胸打っていました。

――もしかしたらボクは、思い上がっていたのかもしれません。

「キュートさん、いる?」

扉を開けて、いようさんが顔を覗かせてきました。
ミセリさんがノックもなしに開けるなんて変態、痴漢と冗談を言っていましたが、
これもいつものことなのかいようさんは気にする様子無く、ボクを呼びました。

ボクは――これ幸いと、お二人に頭を下げてからいようさんに付いていきました。


.

320名無しさん:2019/01/15(火) 22:13:46 ID:losd25xM0



「うちの先生、もうとっくの昔に還暦を越えているんですよう」

いようさんのお話はドクオさんのこと――
そして、この診療所のこれからについてでした。

いようさんが言うにはシラヒーゲ先生には無理を言って
ここに勤めてもらっているのだけれど、
できることなら別の先生をお迎えして、早く休ませてあげたいのだそうです。

「なのでドクオさんにここに居てもらえたら、すごく助かるのです」

「でも、ドクオさんは……」

「もちろん、事情は理解しているつもりです。
 “お身体”のことについても。ですがだからこそ、
 我々なら支えることができる。そう思いませんか?」

「それは、とても魅力的な話だと思います……でも」

「なんでしょう?」

「なぜ、ボクに?」

「なぜって……ドクオさんがここに残るなら、
 キュートさんもここに残るでしょう?」

321名無しさん:2019/01/15(火) 22:14:07 ID:losd25xM0
「えっ」

「違うんですか?」

「……ボクは」

ドクオさんにとっての、ボクは――。

「ただの、付き添いですから……」

「そうなのですか?」

ボクは、うなずきます。

そうです、ボクはただの付き添いです。
やっていることはきっと、看護師としての仕事の延長なんです。
そしてもし、もし……ドクオさんがボクの手を必要としなくなったなら、
ボクだってきっと、ドクオさんの側にいる必要はなくなるのです。
それはきっと、歓迎するべきことです。喜ばしいことです。

喜ばしいことの、はずなのに……。

322名無しさん:2019/01/15(火) 22:14:34 ID:losd25xM0
「キュートさん……?」

「あ、いえ、なんでもないです、ごめんなさい……泣いて、ないです」

「無理していませんか?」

「……へへ、そんなこと、ないですよー」

「ならいいのですが……」

「あの、それよりもですね! ボク、ちょっと、訊きたいことだあって」

「なんでしょう?」

「あの……内藤先生の、ことなんですけど」

いようさんの態度に、硬いものが混じりました。
この話題は、ずっと避けていたのでしょう。
それを感じ取っていたからボクもこれまでこの話題を、先延ばしに延ばしてきました。

ですが休みの終わりが近づき、そろそろもどることを考え始めたら、
やはり頼まれたことは聞いておかなければならない気がしたのです。
でなければあのツン先生のことです、どんなお叱りを受けるか解ったものではありません。

323名無しさん:2019/01/15(火) 22:14:56 ID:losd25xM0
「……それで、訊きたいこととは?」

「あの……ボクが這ナギを出てからどうしていたのか、
 とか、癌で亡くなったと聞きましたけれど、治療はしなかったのか、
 とか、あと、えと、それから……」

ボクは思いついたことを思いついた端から口にしていきました。
次から次に言葉にしながら、でも何か違うようなと思いつつ、
それでも口を開くのを止めませんでした。

そうしていい加減何も出てこなくなった時、
そういえば、と、思い出しました。

そうでした。ボクはこれを聞くように、先生から言われたのでした。


「『答えは見つかったか』……とか」

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324名無しさん:2019/01/15(火) 22:15:22 ID:losd25xM0
いようさんが、目を開いてボクを見ました。
何か、おかしなものでも見るように。

「あ、ごめんなさい。変なこと言ってしまいました、忘れて下さい――」

「いや……」

とっさに質問を打ち消そうとしたボクに向かって、
いようさんはその打ち消し自体を打ち消しました。
そしてその大きな手を顔へと当てて、くつくつと笑いだしたのです。

「まさか、キュートさんだったとは……」

「……あの?」

「……そうですね。先生は、癌の治療はされませんでした。
 見込みがないことを理解されていたようです。だから最後まで医師として、
 人を、這ナギの人々を助けることに力を注ぎたいとおっしゃっていました
 ……先生は、疫病の根絶と戦いました」

「疫病!?」

325名無しさん:2019/01/15(火) 22:15:54 ID:losd25xM0
予想だにしなかった、恐ろしい単語が飛び出してきました。
先ほどとはまた別の意味で、心臓がどきりとします。

「キュートさんが這ナギを出ていった直後くらいから、
 這ナギに疫病が蔓延しました。そうです、おいらたちの東側を襲った、あの疫病です」

「そんな……」

「いえ、悲観しないで下さい。この疫病では、誰も死なずにすんだのです」

「……だれも?」

あの、疫病で?

「先生はそれこそ寝食を惜しんで、疫病と戦いました。
 一年、二年と、疫病が這ナギを襲っている間、先生が休んでいる姿を、
 おいらは一度も見たことがありませんでした。

 周りがどんなに心配しても、先生は戦うことを止めませんでした。
 そして……勝利しました。疫病を、根絶させたのです。誰一人、死人を出さず」

「ほんとに……?」

それはとても、信じられないことでした。
あの疫病が、ボクたちを襲ったあの疫病が、本当に、根絶された……?
それも、唯の一人の死人も出さずに?

326名無しさん:2019/01/15(火) 22:16:14 ID:losd25xM0
「キュートさんの疑問も最もです。おいらにも……おいらたちにこそ、
 それは信じられないことでしょう。でもこれは、事実です。
 先生は、成し遂げたのです。けれど先生は、こう言いました」

いようさんが、遠い目をして言います。

「這ナギが山の土と水のおかげだと」

思わずボクも、いようさんが見つめる方を見てしまいました。
そこには壁がありましたが、壁を越えたその向こうには、
這ナギの中心、日鏡巻山が泰然と鎮座しているはずです。

「そして最後の患者の治療を終えて三日後、
 亡くなる前日の夜、先生はおいらに言い遺しました。
 ある事を尋ねに来る人がいたら、こう返して欲しいと」

「……まさか」

いようさんが、首を縦に振りました。
そして彼<内藤先生>は、こう言ったのです。


「『賭けはきみの勝ちだ。神様は、本当に存在していたよ』」


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327名無しさん:2019/01/15(火) 22:16:34 ID:losd25xM0





「キュート、ヒメミ湖へ行こう」




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328名無しさん:2019/01/15(火) 22:17:16 ID:losd25xM0



お休みも残すところ後一日といった時に、
ドクオさんからお誘いを受けました。山登りです。
ドクオさんの身体は山を登るのには適していませんでしたので、
ボクが肩を貸して、時間を掛けて二人で登っていきました


“あの日”から、ドクオさんの身体は半身不随となっていました。


下半身はまだ、ある程度の自由が利きます。
ひきずりながらでも歩行することは可能でした。
けれど上半身は完全に麻痺していて、
症状の表れている左側の手は指の先ほども動かすことはできないそうでした。

耳も目も左側は完全に機能しておらず、ドクオさんは常に、
麻痺した半身を残された半身で補いながら生きていかなければなりませんでした。

けれどそのことについて、ドクオさんがなにか不平を
言っているのを耳にしたことは、少なくともボクは、ありません。
彼は自分の身に起こったことを、ただ事実として受け容れているようでした。


ドクオさんは、逞しく快復しました。
たぶん、もう、ボクの存在なんて必要ないくらいに。

329名無しさん:2019/01/15(火) 22:17:49 ID:losd25xM0



カカ山の山道はゆるやかですが、
それでもボクたちにとっては大変な行軍になりました。
ですが大変でありながらも、カカ山の匂いや、音や、
光を目にしながらの登山は大変に気持ちがよく、
土や水が、記憶の中よりも明るくかかやいているようにすら思えました。

ボクたちはひぃひぃ息を切らしながら、でも楽しみながら、
会話らしい会話もないまま登り続けて、そして、山頂にたどり着きました。


日目見湖。あるいは、日女巳湖。
蛇の瞳のように、陽の光を反する、水鏡。


ボクたちはヒメミ湖の側で、座りました。“あの日”みたいに。

330名無しさん:2019/01/15(火) 22:18:12 ID:losd25xM0
「あの、ですね……その、ドクオさん、ボク……」

ボクは、この一ヶ月で起こったこと、
出会った人たちのことを、ドクオさんに話しました。
ボクは話がうまくないですし、記憶力もよくないので、
上手に話せている自信はありませんでしたが、
ドクオさんは何も言わず、聞いてくれました。

「ミセリさんとトソンさんがですね、いまも仲良しで――」

ボクはとにかく、話し続けました。
些細なことでも、くだらないかもしれないことでも、なんでも。
だって、たぶん――。

「りりちゃん、お母さんになったんですよ!」

たぶんこれが、ドクオさんと一緒にいられる、最後の時間になるはずですから。

ドクオさんは、もう、ボクがいなくても生きていける。
だったらボクは、こんなボクはきっと、枷にしかならないから。だから――。

331名無しさん:2019/01/15(火) 22:18:46 ID:losd25xM0
「……いようさんが、あなたの力を頼っているんです」

ボクは、話しました。いようさんの頼み事を。
それが一番、ドクオさんにとっても、這ナギにとっても、
綺麗に収まる結果だと思いましたから。
だからボクは、ドクオさんに、話しました。

「……き、急でしたよね、ご、ごめんなさい!
 もっと早くに話せばよかったな、え、えへへ……」

ドクオさんは、ずっと無言のままでした。
ヒメミの湖を見つめたまま、動きませんでした。
ボクは、意味もなく笑ってしまいます。
間を持たせるためだけの、心から浮かび上がってきたわけではない、笑み。
癖になってしまった、処世術。

ドクオさんが、ぽつりと、つぶやきました。

「親父と会った」

「……デミタスさんと?」

332名無しさん:2019/01/15(火) 22:19:09 ID:losd25xM0
風が吹きましたが、ヒメミの湖は、
鏡のように空を反射し続けていました。

「親父は若い頃に一度、這ナギを出たことがあるらしい。
 そこで、無学であることを理由に惨めな思いをしたのだとか……
 母と出会ったのは、その頃だ」

「ペニサスさん……」

「母は父のことを、唯一バカにしないでくれたそうだ。
 そして、バカにしてきた奴らを一緒に見返してやろうと。
 父は、母に恋をした。そして生まれて初めて母親――
 祖母に逆らい、母と結ばれたそうだ」

「そう、だったんですか……」

「結局父は祖母に逆らい続けることが出来ず、
 味方を失った母は精神的に不安定になってしまった。
 そのことを父は悔いていた。

 ……しかし、母と出会ったこと、ぼくの父になったことを
 後悔したことだけは一度もないと、そう、言っていた」

ドクオさんの、健常な側の瞳を、ボクは見つめます。
まるで光を映す鏡のようだと思いながら。

333名無しさん:2019/01/15(火) 22:19:32 ID:losd25xM0
「聞けてよかったと、思う」

「うん……うん、そう、ですね」

「おかげで、答えに辿り着けた」

「答え?」

ドクオさんの顔が、ボクの方を向きました。
ドクオさんのことを見ていたボクの目と、
ドクオさんのそれとが、向かい合います。どきりとします。

「一年間、考え続けていたんだ。お前の言われたことを」

「ボ、ボクに、ですか……?」

「『生きましょう』」

「あ……」

確かに、そんなことを言った覚えは、ありました。
あの時は一杯一杯だったので、記憶も朧気ですが。

334名無しさん:2019/01/15(火) 22:19:58 ID:losd25xM0
「なんだか、あの、偉そうなこと言っちゃって、へへ、その……」

「“生きる”。それがどういう意味なのか、
 ぼくはずっと考えていた。だから――」

「だ、だから?」

「いようの誘いは、受けられない」

どうして――ボクがそう口を挟むよりも先に、ドクオさんは話を続けます。

「ぼくは、先生に憧れていた。お姉ちゃんに憧れていた。
 二人のようになりたいと思っていた。けれどぼくは、二人になれなかった。
 なれないと悟った。だから――死ぬしかないと、思った」

「それは……」

「ああ、そうだ。それは、間違いだった」

ドクオさんの瞳が、ボクの瞳を、ぎゅう……っと、見つめます。

「ぼくはきっと、死ぬまで二人にはなれないだろう。
 どんなに望んでも、焦がれても、なれないものには、なれない。
 それは厳然たる、ひとつの事実だ」

「そんなこと――」

「だが」


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335名無しさん:2019/01/15(火) 22:20:29 ID:losd25xM0





「例え“なる”ことはできなくとも、
 なることを目指す行為を“する”ことは、できる」


「這いつくばってもかかやきを見上げ、目指すことは、できる」


「“生きる”とは、そういうことなのだと、思う。そして――」


「ぼくが“生きる”ことが、その姿が誰かの“生きる”力となれるなら。
 それはきっと、それこそが――」
 

「“生命を結ぶ”ということなのだと、ぼくは、思う」




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336名無しさん:2019/01/15(火) 22:20:51 ID:losd25xM0



「キュート、手を出してくれ」

言われて、手を上げました。
ドクオさんの手が、ボクの手に載せられました。

「ぼくはこれからきっと、大変な道を歩んでいくことになると思う。
 “なろう”と“する”為に、多くの人の顰蹙を買うことになると思う。
 物理的な危険だってあるかもしれない。だから無理強いはできない。
 だけどもし、もし……きみが、良いと言ってくれるなら――」

何かを、渡されました。
 

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337名無しさん:2019/01/15(火) 22:21:24 ID:losd25xM0





('A`)「他ならぬきみの瞳で、ぼくを見続けていてもらいたい」




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338名無しさん:2019/01/15(火) 22:21:58 ID:losd25xM0



ドクオさんの手が、離れました。
そこに置かれたものを、ボクは見ました。

「あの、これ……」

「ダメか?」

「だって、これ……」

ボクはドクオさんと、てのひらに置かれたものを交互に見ました。
そしてもう一度、てのひらに置かれたものを凝視しました。
だって、そこに置かれていたのは――。


カカメ<蛇目>石。ピカピカに、磨かれた。


何故だか涙が、溢れてきました。

339名無しさん:2019/01/15(火) 22:22:43 ID:losd25xM0
「ごめんなさい、でもボク……ボク、
 泣いてないですから、泣いてなんか……」

泣いてはいけないと思うと余計に、
涙はこぼれ出ていきました。

「ごめんなさい、ごめんなさい……」

「いいんだ」

「……うぇ?」

手を、握られました。

「泣きたいなら、泣けばいい」

ぎゅっと、握ってもらいました。

「笑いたければ、笑えばいい。怒りたければ、怒ればいい。
 ……愛したければ、そうすればいい」

鏡<瞳>そのもののように光を映し出すカカメ石を中心に、
ドクオさんとボクの手とが、結ばれていました。
ボクたちの手と手とが結ばれている様が、映し出されていました。


「ぼくたちが教わったのは、きっと、そういうことなんじゃないかと、思う」


ドクオさんの手のぬくもりが、伝わってきました。


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340名無しさん:2019/01/15(火) 22:23:15 ID:losd25xM0



――ボクは、心の何処かで、大人になってはいけないと思っていました。
“こんなふうになりたくない”と思ってしまったボクに、
お姉ちゃんたちがなれなかったものになる資格なんてないと、そう思っていました。
泣いたり、怒ったりする権利なんて、ボクにはないと思っていました。


でも、もう、いいのかもしれません。

自由に、思うままに振る舞っても、いいのかもしれません。

ボクたちはそうして“生きて”も、いいのかもしれません。

いっぱい泣いて、いっぱい怒って、いっぱい笑って、それで、それで――



ボクは……“私”は、これからも、ずっと、ずっと――――


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341名無しさん:2019/01/15(火) 22:23:41 ID:losd25xM0










     かかやくあなたを一番側で、見続けていたいです!









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342名無しさん:2019/01/15(火) 22:24:07 ID:losd25xM0



















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343名無しさん:2019/01/15(火) 22:24:41 ID:losd25xM0






            遍く衆生は不日に散ず
   (生きとし生けるものはみな遠からずこの世を去ります)
 




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344名無しさん:2019/01/15(火) 22:25:07 ID:losd25xM0





 
            ――なればこそ
           (――だからこそ)
 




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345名無しさん:2019/01/15(火) 22:25:38 ID:losd25xM0
 





          其瞳に映ずる万事一切
       (あなたの瞳に映るあらゆる物事が)
 




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346名無しさん:2019/01/15(火) 22:26:09 ID:losd25xM0
 
 




            何時何時迄も
        (終わり始まるその時までも)
 




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347名無しさん:2019/01/15(火) 22:26:37 ID:losd25xM0
 





        かかやき続けますように――
    (どうかどうか、輝き続けてくれますように――)





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348名無しさん:2019/01/15(火) 22:27:04 ID:losd25xM0



















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349名無しさん:2019/01/15(火) 22:27:43 ID:losd25xM0





【結】
・閉じる、締める、終わる
・結びつける、つなげる、つなぐ





【遺】
・失う、忘れる、終わる、終わり



【生】
・生きる、生まれる、始まる、始まり、




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350名無しさん:2019/01/15(火) 22:28:24 ID:losd25xM0









             イムス   ハイガミ
     o川*゚ー゚)o生(遺)結ぶ這鏡のようです('A`)  結








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351名無しさん:2019/01/15(火) 22:30:52 ID:losd25xM0
これにて完結です。めったら長くなってしまったこの物語をここまで読んで頂けたこと、本当に感謝しています
この物語があなたの琴線の端っこにでも触れたなら、なによりでございます。ありがとうございました!

352名無しさん:2019/01/15(火) 22:34:36 ID:JMM4eEMs0
乙!

353名無しさん:2019/01/15(火) 22:36:16 ID:4pWHE8i.0
心からの乙を
降りかかる絶望からのこのラストはマジで感動した

354名無しさん:2019/01/15(火) 22:58:59 ID:4V.M7ya.0
乙でした!

355名無しさん:2019/01/16(水) 18:50:48 ID:/D2Eh/ZY0


356 ◆y7/jBFQ5SY:2019/01/18(金) 19:23:16 ID:P19kqvPI0
一応こちらでも酉出し証明を
重ね重ね、お読み頂きありがとうございました!

357名無しさん:2019/01/21(月) 16:58:05 ID:TDCsOhFo0
凝った良い話だった乙

358名無しさん:2019/01/21(月) 22:55:07 ID:C9TEP3Fc0
最後が爽やかで安心してしまった
毎回投下がすごく楽しみでした
おつおつ

359名無しさん:2019/01/31(木) 23:02:16 ID:03he9IE.0
読ませる文章だ、めっちゃ楽しかった
ただAAの生首が一切出て来ないの、作者の持ち味ならゴメンだけど折角のブーン系なんだしちょっと勿体無い気もするな

360名無しさん:2019/02/19(火) 16:25:17 ID:VOQ6F5iU0

心情の描写が上手くて読むのが止まらなかった
ブーン系なのにドクオ達の顔を使うのが必要最低限だけだったのもいい演出だった


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