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よくわかるグラスリップ概論

156名前なんか必要ねぇんだよ!:2016/08/08(月) 17:38:58 ID:vsKtQpQs
夫婦のエピソードトークの数からして「出会ったとき」とは二十年前、麒麟館での出来事だろう。
つまり2話時点でも、会話に参加しなかった朝のときも、きちんと覚えていて、とぼけていたわけだ。自分から言うのは良いが、相手からだと恥ずかしい、というような心理だろうか。
模写で二時間遅刻の話をしたとき「初心ね」と言っているあたり、照れ屋というか恥ずかしがり屋というか、そういう一面が真理にはあるらしい。
ダメっぽくてもきちんと父親ができていたり、しっかりしていても女子中学生だったり、深水家に限らずに実際の人間と同じような多面性を登場人物たちは持っている。

かつての真理は今以上にマイペースで、周囲から浮いていたことは明らかだろう。そこに上記のような繊細な精神があり(おとぼけシーンから言えば、この内面を隠すためにマイペースを強調している可能性もある)、透子のように視覚的な芸術に身を置いていた。
未来の欠片を見る条件は整っていると言える。

そんな少女が、一生懸命に自分と向き合ってくれる男の子と出会い、大人になっていった。未来の欠片が見えなくなったのは、精神が落ち着いたからなのか、不要になったからなのかはわからないが、夫、健との出会いが鍵であろうことは言うまでもない。
「いま精一杯やらないとね」は、かつての自分たちを踏まえての発言だろう。


で、未来の欠片を感じ、孤独がちな人間といえば、沖倉駆とぴたりと一致する。そして深水透子は「一生懸命なのが取り得」だと言われる人間だ。
一生懸命に駆の孤独を理解しようとした透子に、彼は絆された。

つまり深水夫妻はほとんどギャグパートでありながら、主人公2人の歩んだ道の先にいるという図式になる。この先、深水夫妻のようにずっと一緒にいるのか、沖倉夫妻のように片方が飛び回ってもう片方が落ち着いているのか、はたまたまったく別の形になるのか、それはわからないが、グラスリップはそういう世代によらず、他人と向き合うことを描いた作品だといえる。


ところで余談にはなるが、真理が健に絆されたと言うシーンでは、二人が流れ星を見上げているので、お互いの顔を見ていない。そういえば花火にしろ流星にしろ、みんなが同じ方向を見るものだ。
一話においてみんなで(病欠含む)花火を見ているが、それぞれがばらばらに違う物を見ていた少年少女が、誰かと向かい合ったり逃げ出したりしながら成長し、お互いのギャップを埋めていき、ランニング、読書、アウトドアなどを通じ特別な誰かと同じものを見て、おそらく花火の頃よりも近い距離、気持ちで、流星を見上げている。
というのが、グラスリップのあらすじなのではないだろうかと思う。

おわり


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