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喧嘩  vsあくろ

1あくろ ◆bSYQluFdZQ:2013/06/12(水) 10:47:43


2あくろ ◆bSYQluFdZQ:2013/06/12(水) 11:46:16
相手募集〜

3囚人番号774番:2013/06/12(水) 12:20:16
喧嘩相手欲しいならネタになるようなこと書けよ雑魚

4あくろ ◆bSYQluFdZQ:2013/06/12(水) 12:44:58
>>3

ネタが思い浮かびません

5あくろ ◆bSYQluFdZQ:2013/06/12(水) 13:27:19
だりーーー

6あくろ ◆bSYQluFdZQ:2013/06/12(水) 13:51:52

皆さんは何のために、
こうして喧嘩(と称される建設性よりも知的ゲームとしての論述合戦)や議論をするんでしょうか

7囚人番号774番:2013/06/12(水) 13:57:08
オペラント条件付け

8囚人番号774番:2013/06/12(水) 13:59:27
>>6
自分が迷子じゃないなら自説を説けよ
俺なんのためにこんなことしてんだ?って不安にでもなったのか?
スレまで立てて

9囚人番号774番:2013/06/13(木) 14:51:01
「何のために喧嘩(と称される建設性よりも知的ゲームとしての論述合戦)や議論を行うのか」

『自身の知的向上のため』

目の前に嘘・でたらめ・間違い・詭弁・誤謬がある
「自分」は嘘・でたらめ・間違い・詭弁・誤謬と判断した

それが、嘘・でたらめ・間違い・詭弁・誤謬であると合理的に説明できる、と「思い込んでいる」

「自分は思い込んでいる」しか断定出来ないのだから、そのままにしておいたら単なる馬鹿だ。

自分の思い込みである「判断でき、説明できる」は事実なのかどうか、
客観的である、と確認するたった一つの術、それが「説明を成立させる」こと。

自分は馬鹿(知的に成長しようとしていない)ではないと思うのなら、説明せざるを得ない
説明しなくても、出来なくてもいい、そう諦めてるのなら「自分は馬鹿です」と自認しているというだけの話で。

そしてその説明が他人にとっても正しいものなのかどうか
やはり確認する手段は一つで、

自分の説明をより多くの他人に開陳し、より多くの他人に論駁を試みさせること。
ここであらゆる他人が有効的な論駁に失敗したのなら
反証主義に基づいて「論駁されるまで『暫定的に正しい』」といい得る。

そして、逆に論駁されたとする
これこそ自己の知的成長が約束される瞬間。
自分の間違いがハッキリしたのだから、そこを修正すれば知的に向上するのは明らか。

自分の説明を開示することで、運が良ければ、「自分では気付かない自分自身の間違い」を見つけてくれる素晴らしい知性と出会えるだろう。
ということ。

10あくろ ◆xZoAWcBm3s:2013/06/13(木) 14:52:09
↑俺ね

11囚人番号774番:2013/06/13(木) 15:03:40
つまりあくろにとっては、知的な建設的な行為だと言いたいわけだな

そんでもって
>「何のために喧嘩(と称される建設性よりも知的ゲームとしての論述合戦)や議論を行うのか」
と「建設性よりも」とさくっと前提で否定しておいて「皆さん」の動機を自分と同じではないと想定しているわけか

ふーん

12ゴミ:2013/06/13(木) 16:37:11
9
10
なにおまえキモっ

13ひより:2013/06/13(木) 17:20:17
それ喧嘩のお題なんだよね?

喧嘩する目的が、誤りであるという判断を主観的なものから客観的なものへと昇華させることだとするなら、オマエの自説は何のためのものなの?
どこに誤りがあり、どこに説明がされているの?


こっちはメモ程度

当たり前だけど、喧嘩する者が築く客観性は必ずしも真実の正しさを保証するものじゃない。

極端な例を言えばオマエが世界の真理を説いたとし、それに喧嘩相手の誰もが納得したからといって世界の真理を解き明かしたことにはならない。
同様に事実間違っていることを主張し、誰もが論駁できないからと言って、事実間違いであることを覆したことにはならない。

纏めると、喧嘩において主張される事とは
それらの主張が何処かで相手と対立あるいは逸出する点から
ほとんどが普遍的・暫定的に正しいとされていることではないと言え、
それによって個人の「主観的な正しさ」であることから抜け出す事はできない。

すなわち誰もが論駁できなくなるとは、単に他者も自説を認めてくれたという保証に過ぎず
自説の正しさの、自身における信憑性を補強するだけなのだ。

従って知的レベルが上がるのではなく、自身の自説に関する知的レベルがある特定の範囲において保証されるだけであるといえる。


加えていうなら、その保証にもレベルがあるだろう。
簡単な例を挙げるなら1+1=3と幼稚園で主張し、誰もが論駁できなかった場合と
同じ主張を東大の然るべき場で行い、誰もが論駁できなかった場合とでは
保証されるレベルに違いがあることは誰もが納得できることかと思う。


それでは自説に論駁され、逆に自身が論駁できなくなった場合はどうだろうか?
それは一見、今までの正しさの認識を間違いとし、新たな正しさの認識をすることで知的レベルが上がる

・・・かのように思えるが
前述を踏まえるとそれは間違いだと分かるだろう。

何故かと言えば喧嘩における正しさとはあくまでも主観的なものであり
それはただ、正しいと思うAがA'あるいはBに変化しただけに過ぎず、結局「主観的な正しさ」の保有量は変わっていないのだ。

つまり単に知的レベルが上がった気になるだけで知的レベルは上がったとは言えないだろう。


では最後に、喧嘩の目的とはなにか?をこの観点から説明すると
私は「主観的正しさの補強のため」だと言えるのではないかとおもう。

14KRM ◆y7iOHha2ro:2013/06/15(土) 00:01:04
>>9
相手の主張によって自分の主張の欠陥が露呈され
それを修正することで知的成長に繋がる。
これはある意味で言えば正しいけど、
もう一方では正しくない結果をまねきかねないね
何故なら論理の破綻は一見して普遍的なものに見えるけど
それは主観的であるかもしれないから
確かに自分の間違いを発見してより正確な知恵を獲得することができる場合もある
けどたとえば「明日地球が滅びる」ことをいかにも理路整然と主張され、
「滅びない」と主張している人間が答えに窮して、
主張が破綻したと思い込み「明日地球が滅びる」に持論を修正した場合
これは果たして知的成長といえる?
否これは自分の「説明、思考能力の無さ」を利用され言いくるめられているだけ
自分の知力のなさを自分の知力によって認めているだけ
「間違いを見つけること」と「間違いだと思い込まされること」は主観上違いが無い
それを素晴らしい知性であると一般化して言い切ることは難しいよね
喧嘩にはそのような場合もありうる
だが間違いを見つけること自体が知的向上になりえない場合があるとしても
「正しいことを主張する能力」と「間違いを正当化する能力」
このうちの後者を研くチャンスだと考えることもできる
そのためには逆に、相手の瑕疵や未熟さにつけ込むために
相手を観察する能力が必要になる
論理の構造についてではなく相手の癖や性格やウィークポイントなどをみぬき
両者間で限定的に理屈を正当化する能力を発達させることで
「自分では気付かない自分自身の間違いに気づくこと」が喧嘩において普遍的な価値になる
持論の脆弱性をカバーする立ち回りができるってことね
まちがいを見つけるだけでは恒真式のように
自分の低い知力を循環させているだけになるかもしれない
それを多角的な反証可能性をみつける踏み台にする、
その能力を磨けるのが喧嘩の意義のひとつと思う
どうかな?

15囚人番号774番:2013/06/17(月) 09:12:38
>>13
>>喧嘩する目的が、誤りであるという判断を主観的なものから客観的なものへと昇華させることだとするなら、


>>9『自身の知的向上のため』

このために「説明」をする、ってこと。

16あくろ ◆r7Odi93SjI:2013/06/17(月) 09:15:09



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