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喧嘩 vsあくろ
13
:
ひより
:2013/06/13(木) 17:20:17
それ喧嘩のお題なんだよね?
喧嘩する目的が、誤りであるという判断を主観的なものから客観的なものへと昇華させることだとするなら、オマエの自説は何のためのものなの?
どこに誤りがあり、どこに説明がされているの?
こっちはメモ程度
当たり前だけど、喧嘩する者が築く客観性は必ずしも真実の正しさを保証するものじゃない。
極端な例を言えばオマエが世界の真理を説いたとし、それに喧嘩相手の誰もが納得したからといって世界の真理を解き明かしたことにはならない。
同様に事実間違っていることを主張し、誰もが論駁できないからと言って、事実間違いであることを覆したことにはならない。
纏めると、喧嘩において主張される事とは
それらの主張が何処かで相手と対立あるいは逸出する点から
ほとんどが普遍的・暫定的に正しいとされていることではないと言え、
それによって個人の「主観的な正しさ」であることから抜け出す事はできない。
すなわち誰もが論駁できなくなるとは、単に他者も自説を認めてくれたという保証に過ぎず
自説の正しさの、自身における信憑性を補強するだけなのだ。
従って知的レベルが上がるのではなく、自身の自説に関する知的レベルがある特定の範囲において保証されるだけであるといえる。
加えていうなら、その保証にもレベルがあるだろう。
簡単な例を挙げるなら1+1=3と幼稚園で主張し、誰もが論駁できなかった場合と
同じ主張を東大の然るべき場で行い、誰もが論駁できなかった場合とでは
保証されるレベルに違いがあることは誰もが納得できることかと思う。
それでは自説に論駁され、逆に自身が論駁できなくなった場合はどうだろうか?
それは一見、今までの正しさの認識を間違いとし、新たな正しさの認識をすることで知的レベルが上がる
・・・かのように思えるが
前述を踏まえるとそれは間違いだと分かるだろう。
何故かと言えば喧嘩における正しさとはあくまでも主観的なものであり
それはただ、正しいと思うAがA'あるいはBに変化しただけに過ぎず、結局「主観的な正しさ」の保有量は変わっていないのだ。
つまり単に知的レベルが上がった気になるだけで知的レベルは上がったとは言えないだろう。
では最後に、喧嘩の目的とはなにか?をこの観点から説明すると
私は「主観的正しさの補強のため」だと言えるのではないかとおもう。
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