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【トラベル】〜〜第二講座〜〜

6名無しさん:2024/11/26(火) 12:08:18
3.33 論理的構文論においては、記号の意義が何らかの役割を果たすことは決して許されない。論理的構文論は、記号の意義が話題にされることなど無しに、組み立てられ得るのでなければならない。それが前提とすることが許されるのは、ただその諸表現の記述だけだ。
3.331 この所見をもとにラッセルの「タイプ理論」に目を向けよう。ラッセルの錯誤は、その記号規則全般を立てる際に当の諸記号の意義について語るはめになった点に自ずと顕現する。
3.332 文が自らについて何ごとかを言明することなどあり得ない。文記号がそれ自体に含まれることはあり得ないから。(これが全「タイプ理論」だ。)
3.333 どんな関数も自らのアーギュメント〔いわゆる引き数〕ではあり得ない。関数記号はそのアーギュメントのプロトタイプをもう含んでいるのであり、自らを含むことはあり得ないから。
仮に関数 F (fx ) が自らのアーギュメントであり得たとしよう。そうすると「F (F (fx ))」という文が齎されるが、この文において、外側の関数 F と内側の関数 F は相異なる意義をもっているはずだ。内側の方は φ(fx ) という形式を、外側の方は ψ(φ(fx )) という形式をもっているのだから。両方の関数に共通するのは文字「F 」だけだが、しかし、それは単独では何も表示しはしない。
このことは、「F (F (u ))」に代えて「(∃φ ) : F (φu ) . φu = Fu 」と書けばただちに明らかになる。
これでラッセルのパラドクスは片がつく。

ーーーーーー

3.42 ひとつの文は論理的空間のただひとつの軌跡を規定し得るだけではあるものの、当の文によって論理的空間全体が既に齎されているはずだ。
(そうでなければ、否定、論理和、論理積等々によって、絶えず新たな要素が――座標系に〔in Koordination〕――導入されることになるだろう。)
(像を囲む論理的な足場が論理的空間を規定する。文は論理的空間全体に手を伸ばす。)
3.5 適用された、考えられた文記号は思考だ。
4 思考は有意味な文だ。
4.001 文の総体が言語だ。
4.002 人間は、それぞれの単語が何をどう指すのかについての漠然とした知識も無しに、諸々の言葉を組み立てる能力をもっており、それであらゆる意味が表現され得る。――ひとは、また、個々の音声がどうやって発されるのかを理解すること無く喋る。
日常言語は、人間という有機体の一部であり、それに劣らず複雑だ。
ひとつの言語論理〔die Sprachlogik〕を日常言語から直接取り出すことは人間には叶わない。

言語は思考を扮装させる。しかも、ひとが当のドレスの外形に拠っては覆われている思考の形を推論し得ないほどに。それは、そのドレスの外形が中身の形を認識させるためとは全く違う目的に随って形成されているからだ。
日常言語の理解のための暗黙の協定全体は度外れに複雑だ。
4.003 諸々の哲学的なものごとについて書かれて来た教義や問いの大部分は、誤りではなく、ナンセンスだ。我々は、だから、その種の問いにそもそも答えることなどできず、ただそれらのナンセンス性を確かめることができるだけだ。哲学者たちの問いと教義の大部分は、我々が自分たちの言語論理を理解していないことに基く。
(それらは、善は美と多少なりとも一致するか、といった類の問いだ。)
そして、最も深遠な諸問題が実は何の問題でもない、というのは驚くべきことではない。
4.0031 総ての哲学は「言語批判」だ。(ただし、マウトナーの意味でではない。)ラッセルの功績は、文の見かけの論理的形式が当の文の実際の形式だとは限らないことを示したことだ。

……「思考は有意味な文だ。」という意見もてきとうである。

「文の総体が言語だ。」、とは大雑把な言い方である。文の総体が文字をとしての言葉の群である、というならまだ理解できる。

しかしながら、文の総体が言語だ、とウィトは言いたかったはずなのだ。

ウィトは言語は思考可能なものであると考えた。そして、文の総体さえも思考できるのではないか、と。

7名無しさん:2024/11/26(火) 12:23:59
4.021 文は現実の像だ。文を理解するとき、私はそれによって表わされている状況を知るのだから。そして、私は当の文を、その意味が説明されたことが無くても、理解する。
4.022 文はその意味を示す。
文は、それが真なときには〔現実は〕どうなっているのか、を示す。そして、そうなっていることを述べる。
4.023 現実は文によって肯定か否定で捉えられているはずだ。
そのためには、現実は当の文によって完全に記述される必要がある。
文は何らかの事態の記述だ。
対象の記述が当の対象をその外的諸属性に随って記述するように、文は現実をその内的諸属性に随って記述する。
文は或る論理的な足場の援けによって何らかの世界を構成する。だから、ひとは文に、それが真なときには論理的なことがらの総てはどうなっているのか、を見て取ることもできる。ひとは偽な文から諸結論を引き出すことができる。
4.024 ひとつの文を理解するとは、それが真なときには何が成り立っているのか、を把握することを意味する。
(ひとは、だから、その文を、それが真であるかどうかを把握すること無く、理解することができる。)
その諸成分を理解するとき、ひとは当の文を理解する。
4.025 或る言語の別の或る言語への翻訳は、ひとが一方の個々の文を他方の文に翻訳するというように為されるのではなくて、ただ文の諸成分だけが翻訳される。
(そして、辞書は、名詞だけでなく、動詞や形容詞や接続詞等々も翻訳するのであり、それらを総て同様に扱う。)
4.026 単純記号全般(単語全般)の意義〔die Bedeutungen〕は、我々がそれらを理解するためには、説明される必要がある。
一方、文全般によって我々はコミュニケートする。
4.027 文が我々に新たな意味を伝え得ることは、当の文の本質のうちに在る。
4.03 文というものは諸々の古い表現によって新たな意味を伝えざるを得ない。
ひとつの文は我々に何らかの状況を伝える。だから、それは当の状況と本質的に関聯しているはずだ。
そして、それが当の状況の像であることこそが、その関聯だ。
文は、ただそれが像である限りにおいて、何ごとかを言明する。
4.031 ひとつの文においては、何らかの状況が謂わばサンプルとして構成される。
ひとは、この文はしかじかの意味をもつと言う替わりに、この文はしかじかの状況を表わしていると直截に言うことができる。
4.0311 或る名称は或るものを、別の或る名称は別の或るものを代表し、互いに結びつけられており、そうしてそれらの全体がひとつの状況を――活人画のように――表象する。
4.0312 文の可能性は、記号による対象の代理の原理に基いている。
私の根本的な考えは、「論理定数」なるものは代理をつとめないということ、事実全般の論理は代理され得ないということだ。
4.032 文は、もっぱらそれが論理的に組み立てられている点において、何らかの状況の像だ。
(「Ambulo」〔「私は歩き廻る」というほどの意味のラテン語の一語文〕という文さえ合成されている。その語幹は他の語尾とともに、そして、その語尾は他の語幹とともに、別々の意味を齎すのだから。)
4.04 文にはそれが表わす状況にとちょうど同じだけの区別がつけられ得るはずだ。
それらは両方とも同じ論理的(数学的)多様性をもっているはずだ。(動力学的諸模型については、ヘルツの力学を参照せよ。)
4.041 ひとは、もちろん、この数学的多様性そのものをさらに写すことはできない。写しの際にこの多様性の外に出ることはできない。
4.0411 我々が、例えば、「(x ) . fx 」によって表現していることがらを、「fx 」の前にインデクスを附けることで――例えば「Alg . fx 」というように――表現しようとしても、うまくいかないだろう――我々は何が一般化されているのか判らないだろう。それをインデクス「a 」によって――例えば「fxa 」というように――呈示しようとしても、うまくいかないだろう――我々は一般性表示の範囲が判らないだろう。
それをアーギュメントの座にマークを導入することによって――例えば
「(A, A ) . F (A, A )」
というようにして――どうにかしようとしても、うまくいかないだろう――我々は変数の同一性を確かめることができないだろう。以下同様。
これらの表示方法は何れも、必要な数学的多様性をもっていないため、十分ではない。
4.0412 同じ理由から、「空間眼鏡」による空間的関係全般の観取という観念論的説明は十分ではない。それは当の諸関係の多様性を説明し得ないのだから。
4.05 現実は文と比較される。
4.06 文は、もっぱらそれが現実の像であることによって、真ないし偽であり得る。

8名無しさん:2024/11/26(火) 12:48:44
4.1 ひとつの文は特定の諸事態の存立および非存立を表わす。
4.11 真な文の総体が全自然科学(あるいは種々の自然科学の総体)だ。
4.111 哲学は自然科学の一種ではない。
(「哲学」という語は、種々の自然科学に並ぶ何かではなく、それらより上か下かに位置するものを指すはずだ。)
4.112 哲学の目的は思考全般の論理的浄化だ。
哲学は教えではなく、活動だ。
哲学の作品というものは本質的に諸註解から成る。
哲学の結果は「哲学的教義」などではなくて、諸教義の明晰化だ。
哲学はそのままでは謂わば濁っていて曖昧な思考全般を明晰にし、はっきりと限定すべきだ。
4.1121 心理学が、何か他の自然科学よりも、哲学に類似しているなどということはない。
認識論は心理学の哲学だ。
私の記号言語研究は、哲学者たちが論理の哲学にとってあれだけ本質的だと考えた思惟プロセスの研究に相当するのではないか? 彼らは大抵ただ非本質的な心理学的諸探究に巻き込まれただけだったが、似たような危険が私のやり方にも存在する。
4.1122 ダーウィン理論が、何か他の自然科学の仮説よりも、哲学に関わりがあるなどということはない。
4.113 哲学は自然科学が反論可能な領域を限定する。
4.114 哲学は思惟可能な領域を劃定し、そして、それによって思惟不能な領域を劃定すべきだ。
哲学は、思惟可能な領域の内側から、思惟不能な領域を限定すべきだ。
4.115 哲学は、所述可能なことがらを明確に表わすことで、所述不能なことがらを暗示するだろう。
4.116 そもそも考えられ得ることがらの総ては明確に考えられ得る。言い表わされ得ることがらの総ては明確に言い表わされ得る。
4.12 文は全現実を表わし得る。しかし、文は、それが現実を表わし得るためには当の現実と共有する必要があるもの――論理的形式――を表わすことはできない。
当の論理的形式を表わし得るためには、我々はその文とともに論理の外に立ち得るのでなければならないだろう。つまり、世界の外に。
4.121 文は当の論理的形式を表わし得ない。それは当の文に反映する。
言語に反映するものを、言語は表わし得ない。
言語において自ずと現われるものを、我々が言語によって表現することはできない。
文は現実の論理的形式を示す。
文はそれを呈す。
4.1211 例えば、「fa 」という文は、その意味の中に対象 a が現われることを示しており、「fa 」と「ga 」というふたつの文は、両方で同じ対象が話題にされていることを示している。
ふたつの文が互いに矛盾する場合、そのことはそれらが成す構造を示しており、一方が他方から帰結する場合も同様だ。以下同様。
4.1212 示され得ることがらは述べられ得ない。
4.1213 我々の記号言語においてひとたび総てが調和しさえすれば、我々は正しい論理的見解をもつのだ、という自分たちの感じも、いま我々には解る。

9名無しさん:2024/11/26(火) 13:12:31
4.124 ひとつの可能な状況の内的属性の存立は、どんな文によっても表現されず、当の属性を表わす文において、その文の或る内的属性を通じて自ずと現われる。
文に何らかの形式的属性を認めることは、それを否認することと同じくナンセンスだろう。
4.1241 諸形式を、ひとは、一方はこの属性をもつが他方はあの属性をもつ、と述べることで区別することはできない。それは両方の形式について両方の属性を言明することが意味をもつことを前提としているから。

何を言っているのか不明。

ーーーーーー

4.12721 形式的概念はもうそのもとに収まる或る対象とともに齎されている。ひとは、だから、或る形式的概念の諸対象および当の形式的概念そのものを根本的概念として導入することはできない。ひとは、だから、例えば関数という概念およびそれに加えて特殊な関数を(ラッセルのように)根本的概念として導入することはできない。あるいは、数という概念と或る種の数を。

「根本的概念」というもの、形式的概念というものの具体的な説明が欠如しているようにうかがえる。

4.1274 形式的概念の存在についての問いはナンセンスだ。そのような問いに答え得る文など無いのだから。
(ひとは、だから、例えば「分析不能な主語述語文は存在するか?」と問うことはできない。)
4.128 論理的形式全般は無数〔zahllos 〕だ。
だから、論理には特別な数など存在しないし、だから、哲学的一元論や二元論等々は存在しない。
4.2 ひとつの文の意味は、当の文と特定の諸事態の存立および非存立の可能性との一致および不一致だ。
4.21 最も単純な文、基本的文〔der Elementarsatz〕は何らかの事態の存立を主張する。
4.211 基本的文のひとつの徴は、どんな基本的文もそれと矛盾し得ないことだ。
4.22 基本的文は諸名称から成る。それは諸名称の聯関、連鎖だ。
4.221 我々は、どんな文の分析に際しても、直接に結びつきあった諸名称から成る諸基本的文に到るはずであること、これは明らかだ。
ここで、文の脈絡〔der Satzverband〕が如何に実現するかが問題になる。
4.2211 たとえ世界が、あらゆる事実は無限に多くの事態から成り、あらゆる事態は無限に多くの対象から構成されている、というように無限に複雑であっても、それでもやはり諸対象と諸事態は存在するに違いないだろう。

論理的形式全般は無数だ。、とは何のことだろう。これをウィトに尋ねるとてきとうだ、てきとうだったと応えた。

「論理には特別な数など存在しないし、」とは何だろうか。

10名無しさん:2024/11/26(火) 13:30:13
4.242 「a = b 」という形式の表現は、だから、叙述の便法に過ぎず、記号「a 」、「b 」の意義については何ごとも言明しはしない。
4.243 我々は、ふたつの名称を、それらが同一のものを表示するのかそれともふたつの別々のものを表示するのかを把握すること無く、理解することができるか? ――我々は、そこにおいてふたつの名称が現われる或る文を、それらの名称が同一のものを指すのかそれとも別々のものを指すのかを把握すること無く、理解することができるか?
私が、例えば、或る英単語の意義およびそれと同義のドイツ語の単語の意義を知っているとき、それらふたつの語が同義であることを把握していないなどということはあり得ない。それらを互いに置き換え得ないなどということはあり得ない。
「a = a 」のような諸表現やそれらから派生する諸表現は、基本的文でもなければ有意味な記号ですらない。(このことはのちに明らかになる。)
4.25 ひとつの基本的文が真なとき、当の事態が存立しており、ひとつの基本的文が偽なとき、当の事態は存立していない。
4.26 総ての真な基本的文の陳述は、世界を完全に記述する。世界は、総ての基本的文の陳述プラスそれらのうちのどれが真でありどれが偽であるかの陳述によって、完全に記述されている。
4.27 n 箇の事態の存立と非存立に関しては 2^n 箇の可能性が在る。
それらの事態のあらゆるコンビネーションが存立し得るが、ひとつが存立すればその他は存立しない。
4.28 これらのコンビネーションには、n 箇の基本的文の真偽の可能性がちょうど一対一に対応する。
4.3 基本的文の真理可能性とは、当の事態の存立ないし非存立の可能性のことだ。

4.46 諸真理条件の可能なグループ全体のうちには、ふたつの極端なケースが存在する。
ひとつのケースでは、当の文は当の諸基本的文の総ての真理可能性について真だ。我々はそうした真理条件はトートロジカルだと言う。
第二のケースでは、当の文は総ての真理可能性について偽だ。つまり、そうした真理条件はコントラディクトリだ。
第一のケースにおける文を我々はトートロジーと呼び、第二のケースではコントラディクションと呼ぶ。
4.461 文はそれが述べることがらを示す。トートロジーとコントラディクションはそれらが何も述べないことを示す。
トートロジーは真理条件をひとつももたない。それは無条件に真なのだから。また、コントラディクションはどんな条件のもとでも真ではない。
トートロジーとコントラディクションは無意味〔sinnlos〕だ。
(そこからふたつの矢印が反対方向に岐れている点のように。)
(例えば、私は、雨が降っているか降っていないかのどちらかであることを諒解していても、当の天気については何も諒解していない。)
4.4611 トートロジーとコントラディクションは、だが、ナンセンスではない。それらは当のシンボリズムに属している。それも、「0」が算術のシンボリズムに属すのと同じように。
4.462 トートロジーとコントラディクションは現実の像ではない。それらは何の可能な状況も表わさない。トートロジーはあらゆる可能な状況を許容し、コントラディクションはひとつも許容しないのだから。
トートロジーにおいては、世界との一致の条件――表わしの関係〔die darstellenden Beziehungen〕――の総ては互いに帳消しにし合う。そのためトートロジーは世界に対してどんな表わしの関係にもない。

11名無しさん:2024/11/26(火) 13:37:44
5.11 幾つかの文に共通する真理根拠の総てが或る文の真理根拠でもあるとき、我々は、その文の真理性は件の諸文の真理性から帰結する、と言う。
5.12 特に、文「p 」の真理性が別の文「q 」の真理性から帰結するのは、第二の文の総ての真理根拠が第一の文の真理根拠である場合だ。
5.121 一方の真理根拠全体が他方の真理根拠全体に含まれており、p が q から帰結する。
5.122 p が q から帰結するならば、「p 」の意味は「q 」の意味に含まれている。
5.123 神のようなものが、そこにおいて或る種の文が真であるようなひとつの世界を創造するとき、彼は、そうすることで、さらに、そこにおいて当の諸文から帰結する総ての文が正しいような世界をもう創っている。また、彼は、そこにおいて文「p 」が真であるような何らかの世界を、その対象全体を創ること無く、創ることはできないだろう。
5.124 ひとつの文は、それから帰結するあらゆる文を肯定する。
5.1241 「p . q 」は、「p 」を肯定する文のひとつであるとともに、「q 」を肯定する文のひとつでもある。
ふたつの文は、それらをともに肯定する有意味な文がひとつも存在しないとき、互いに反対だ。
或る文に矛盾する文は何れもその文を否定する。
5.13 或る文の真理性が他の諸文の真理性から帰結することを、我々はそれらの文が成す構造から見て取る。
5.131 或る文の真理性が他の諸文の真理性から帰結するならば、そのこ、それらの形式をあらためて当の諸関係に据えるには及ばない。それらの関係は内的であり、当の諸文が存立するや否や、そしてそのことによって、存立する。とは、それらの文の形式が互いに対して立っている諸関係を通じて自ずと現われる。しかも、我々は、それらの文を結び合わせてひとつの文にすることによって、それらの形式をあらためて当の諸関係に据えるには及ばない。それらの関係は内的であり、当の諸文が存立するや否や、そしてそのことによって、存立する。

ーーーーーー

5.132 p が q から帰結するならば、私は q から p を推論することができる。q から p を導出することが。
その推論の方法はもっぱら両文から察知され得る。
ただそれらの文自体だけが当の推論を正当化することができる。
推論全般を正当化するとされる――フレーゲとラッセルのもとでのように――「推論法則」などというものは無意味であり、そして無用だろう。
5.133 総ての導出はアプリオリにおこなわれる。
5.134 ひとつの基本的文からは、他のどんな基本的文も導出され得ない。
5.135 何か或る状況の存立から、それとは全く異なる何らかの状況の存立が推論されることなど、到底あり得ない。
5.136 そうした推論を正当化するような因果連鎖なるものは存在しない。
5.1361 我々は、未来の出来事を現在の出来事から推定することはできない。
因果連鎖への信頼が迷信だ。
5.1362 意志の自由は、未来の行動が今現在は把握され得ない点に在る。我々が未来の行動を把握し得るのは、因果が論理的推論の必然性のような内的必然性であるとき、ただそのときだけだろう。――把握と把握されていることがらの関聯は、論理的必然性の関聯だ。
(「A は p が成り立っていることを把握している」は、p がトートロジーの場合、無意味だ。)
5.1363 ひとつの文が我々にとって明白であることから当の文が真であることが帰結しないならば、その明白さは、当の文の真理性への我々の信念に対する何の正当化でもない。
5.14 或る文が別の或る文から帰結するならば、あとの文ははじめの文よりも多くを述べ、はじめの文はあとの文よりも僅かしか述べない。
5.141 p から q が帰結し q から p が帰結するならば、それらは同一の文だ。
5.142 トートロジーは総ての文から帰結する。それは何も述べないのだから。
5.143 コントラディクションは、文全般に共通するもの、どんな文もそれを他の一切の文と共有していないものだ。トートロジーは互いに何も共有していないような文の総てに共通するものだ。
コントラディクションは謂わば総ての文の外に消失し、トートロジーは内に消失する。
コントラディクションは文全般の外的境界であり、トートロジーは実体の無い中心だ。

12名無しさん:2024/11/27(水) 10:31:00

5.152 ひとつの真理アーギュメントも互いに共有していない諸文を、我々は互いに独立していると言う。
ふたつの基本的文は互いに 1/2 の確率を与える。
p から q が帰結するならば、文「q 」は文「p 」に 1 の確率を与える。論理的推論の確実性は確率の一境界ケースだ。
(トートロジーとコントラディクションへの適用。)
5.153 文はそれ自体では蓋然的でも非蓋然的でもない。出来事は現実のものとなるかならないかだ。どっちつかずの出来事など存在しない。
5.155 確率文の単位はこれだ: 特定の諸シチュエーション――私が特によく知っている訳ではない特定の諸シチュエーション――は或るひとつの出来事の生起にしかじかの程度の確率を与える。
5.156 そんな訳で、確率は一種の一般化だ。
それは何らかの文形式の一般的記述を伴う。
単に確実性が無いために、我々は確率を用いる。――我々はひとつの事実を完璧には知らなくても、その形式については何ごとかを把握しているのだ。
(ひとつの文は、たしかに或る状況の不完全な像であり得るが、しかし、それは恒に一個の完全な像だ。)
ひとつの確率文は謂わば他の諸文の要約だ。
5.2 特定の諸文の構造は互いに内的諸関係にある。
5.21 我々はそうした内的関係を、我々の表現方法において、ひとつの文を、別の諸文からそれを生み出す或るオペレーションの結果として表わすことによって、際立たせることができる。(もとになる文のそれぞれをそのオペレーションの基底と言う。)
5.22 オペレーションは、その結果と諸基底の構造間の或る関係の表現だ。
5.23 ひとつの文から別の文を齎すために、その文に為される必要があること、それがオペーレーションだ。

5.25 オペレーションの存在が文の意味を特徴づけることはない。
オペレーションは何ごとも言明しはしないのであり、ただその結果だけが何ごとかを言明する。そして、このことは当のオペレーションの諸基底に依存する。
(オペレーションと関数が混同されることは許されない。)
5.251 関数は自らのアーギュメントではあり得ないが、しかし、オペレーションの結果は当のオペレーションそのものの基底になり得る。
5.252 もっぱらそうして、或る形式列における項から項への(ラッセルとホワイトヘッドのヒエラルヒーにおけるタイプからタイプへの)進展は可能だ。(ラッセルとホワイトヘッドは、この進展の可能性を認めていないにもかかわらず、繰り返しそれを使っている。)

5.2523 オペレーションのサクセッシヴな適用という概念は「以下同様」の概念と同等だ。
5.253 或るオペレーションは別の或るオペレーションの効果をキャンセルし得る。或る種のオペレーションは互いに帳消しにし合い得る。
5.254 オペレーションは消滅し得る(例えば「〜〜p 」における否定、〜〜p = p )。
5.3 総ての文は諸基本的文に対する諸真理オペレーションの結果だ。
ひとつの真理オペレーションは、特定の諸基本的文からひとつの真理関数が生じるその仕方だ。
特定の諸基本的文からそれらの真理関数が生じるのと同様の仕方で、ひとつの真理オペレーションの本質に随って、諸真理関数から或る新たな真理関数が生じる。どんな真理オペレーションも、諸基本的文の諸真理関数からまた諸基本的文の或る真理関数、或る文を生み出す。諸基本的文に対する諸真理オペレーションの結果に対するどんな真理オペレーションの結果も、また、諸基本的文に対する或るひとつの真理オペレーションの結果だ。
どんな文も諸基本的文に対する諸真理オペレーションの結果だ。

13名無しさん:2024/11/27(水) 11:19:07
5.32 総ての真理関数は、諸基本的文への諸真理オペレーションの有限回のサクセッシヴな適用の結果だ。
5.4 ここで、(フレーゲとラッセルの意味での)「論理的対象」、「論理定数」などというものは存在しないことが自ずと明らかになる。
5.41 というのは、諸真理関数に対する諸真理オペレーションの結果で、諸基本的文の同じ真理関数であるようなものは、総て同一だからだ。
5.42 ∨、⊃ 等々が右と左等々の意味での関係ではないことは明白だ。
フレーゲとラッセルの論理的「原記号」一般の相互定義可能性は、それらが原記号などではないことをまさに示しており、何の関係も表示しはしないことをいよいよもって示している。
また、我々が「〜」と「∨」を用いて定義する「⊃」は、「∨」を定義するのに「〜」とともに用いるものと同一なことは明らかであり、そして、この「∨」がはじめのものと同一なことも明らかだ。以下同様。
5.44 真理関数はマテリアルな関数ではない。
例えば、ひとが二重否定によって肯定を生み出し得るとき、否定は肯定のうちに――何らかの意味で――含まれているのか? 「〜〜p 」は 〜p を否定しているのか、p を肯定しているのか、それとも両方なのか?
文「〜〜p 」は否定をひとつの対象のように扱ってはいないが、しかし、肯定の可能性は否定のうちに予め定められている。
また、もし「〜」と称される対象が存在したとすれば、「〜〜p 」は「p 」とは別の何ごとかを述べるはずだろう。というのは、その場合、一方の文はとにかく 〜 を扱い、他方は扱わないだろうからだ。

5.442 ひとつの文が我々に与えられているならば、それとともに、それを基底にもつ総ての真理オペレーションの結果ももう齎されている。
5.45 論理的諸原記号が存在するならば、まっとうな論理学は、それらの相対的ポジションを明確にし、そして、それらの存在を正当化する必要がある。論理の諸原記号からの当の論理の構成が明確にならなければならない。
5.451 論理が根本的諸概念をもつならば、それらは互いに独立しているはずだ。ひとつの根本的概念が導入されているならば、それは、そもそもそこにそれが現われ得る総ての結びつきにおいて導入されているはずだ。ひとは、だから、それを、まず或るひとつの結びつきで、そしてまた別の或る結びつきでというように導入することはできない。


5.452 論理のシンボリズムにおける新たな便法の導入は恒にゆゆしい出来事なはずだ。論理においては、新たな便法が――謂わば全く無邪気な表情で――括弧の中や脚註において導入されることなど許されない。
(例えば、ラッセルとホワイトヘッドの『プリンキピア・マテマティカ』では、或る種の定義と根本法則は言葉において現われる。何故ここで突然言葉なのか? このことは正当化を必要とするだろう。それは欠けており、また欠けている他ない。そうした措置は実は不当なのだから。)
一方、或るところで或る新たな便法の導入が必要なことが明らかになっているならば、ひとはとにかくただちにこう自問しなければならない: この便法はそれにしてもいったい何処で適用される必要があるのか? 論理におけるそのポジションがとにかく説明される必要がある。
5.453 論理の総ての数は正当化される必要がある。
むしろ、論理においては数など存在しないことが判明するに違いないのだ。
特別な数など存在しない。
5.454 論理においては並存など存在しない。クラス分けなど存在し得ない。
論理においては比較的一般的なものに比較的特殊なものなど存在し得ない。
5.4541 論理的問題全般の解決は単純なはずだ。それらが単純さのスタンダードを設定するのだから。
人間はいつも、その答え全般が――アプリオリに――シンメトリカルであり、完結した規則正しい構成体に統一されているような、そんな或る問題領域が存在するはずだと漠然と感じてきた。
単純さは真理の印〔Simplex sigillum veri〕という格言が当てはまる領域。

14名無しさん:2024/11/27(水) 11:19:44
5.46 論理記号全般を適切に導入したならば、ひとはそれによってもう既にそれらのコンビネーションの総ての意味を導入し了えていることだろう。だから、「p ∨ q 」だけでなく「〜(p ∨ 〜q )」等々も既に。ひとはまたそれとともに既に可能な限りの括弧のコンビネーションの総ての効果を導入し了えていることだろう。そして、それとともに、本来の一般的原記号は「p ∨ q 」や「(x ) . fx 」等々ではなく、それらのコンビネーションがもつ最も一般的な形式であることが明らかになっていることだろう。
5.461 ∨ や ⊃ のような論理的な見かけの関係は括弧を必要とする――本当の関係とは対照的に――という一見ささいな事実は重要だ。
そうした見かけの原記号に対する括弧の利用は、それらが本当の原記号ではないことをまさに指し示しているのだ。それに、括弧が何らかの自立的意義をもつなどとは、きっと誰も考えないだろう。
5.4611 論理的オペレーション記号は一種の句読点だ。
5.47 総ての文がもつひとつの形式についてそもそもはじめから述べられ得ることがらの総ては、一挙に述べられ得るはずなのは明らかだ。
ひとつの基本的文には総ての論理的オペレーションがもう含まれているではないか。「fa 」は
「(∃x ) . fx . x = a 」
と同じことを述べるのだから。
合成性が在ればアーギュメントと関数が在り、アーギュメントと関数が在れば既に総ての論理定数が在る。
ひとはこう言うかも知れない: 総ての文が本性上互いに共有しているものが、唯一の論理定数だ。
それは、だが、一般的文形式だ。
5.471 一般的文形式は文の本質だ。
5.4711 文の本質を特定するとは、総ての記述の本質を特定することを意味する。したがって、世界の本質を。
5.472 最も一般的な文形式の記述は、論理の唯一の一般的原記号の記述だ。
5.473 論理は自らの面倒は自らでみるはずだ。
可能な記号はまた〔何かを〕表示し得るはずだ。論理において可能なことがらはまた許されてもいる。(「ソクラテスは同一である」は、「同一」と呼ばれる属性など存在しないため、何も意味しない。この文はナンセンスだ。それは、我々が何の恣意的な規定も為していなかったからであり、件のシンボルがもっぱらそれ自体で許されていないからではない。)
我々は、或る意味で、論理においては誤り得ない。
5.4731 ラッセルがしきりに語ったあの自明性は、言語そのものがあらゆる論理的誤りを阻むというただそれだけのことによって、論理においては不要になり得る。――論理がアプリオリであることは、何も非論理的には考えられ得ない点に在る。
5.4732 我々は記号に不適切な意味を与えることはできない。
5.47321 オッカムの標語は、もちろん、恣意的な、あるいはその実践的成果によって正当化されるような規則ではない。それは、余分な記号単位は何も指さない、ということを述べているのだ。
同じ目的を果たす諸記号は論理的に同等であり、何の目的も果たさない記号は論理的に無意義だ。
5.4733 フレーゲはこう言う: 適切に形成された文は何れも何らかの意味〔einen Sinn〕をもつはずだ。一方、私はこう言う: 可能な文は何れも適切に形成されており、もしそれが何の意味ももたないならば、それは我々がその成分の幾つかに何の意義〔Bedeutung 〕も与えていなかったせいでしかあり得ない。
(たとえ我々がそうしたと信じているとしても。)
例えば、「ソクラテスは同一である」は、我々が「同一」の語に形容詞としての何の意義も与えていなかったのだから、何も述べはしない。というのは、この語は、それが等号として現われる場合、全く別の仕方でシンボライズするのであり――それが表示している関係は何か別のものであり、――したがって、当のシンボルも両ケースで全く異なるからだ。両シンボルはたまたま当の記号を共有しているだけだ。
5.474 必要な根本的オペレーションの数は、もっぱら我々の表記法にかかっている。
5.475 大事なのは、ただ、特定の次元数をもつ――特定の数学的多様性をもつ――記号システムをつくることだ。

15名無しさん:2024/11/27(水) 12:09:16
5.511 総てを捉え、世界を映す論理が、こんな特殊な鈎と小細工をどうして用い得るのか? もっぱら、それらの総てが限り無く精緻なひとつのネットワークに、巨大な鏡に結びついていることによって。
5.514 何らかの表記法が定められていれば、そこには、p を否定する文の総てがそれによって形成されるような規則が存在し、p を肯定する文の総てがそれによって形成されるような規則が存在し、p か q を肯定する文の総てがそれによって形成されるような規則が存在し、以下同様。これらの規則は当の諸シンボルと同等であり、そして、それらには当の諸シンボルの意味が反映している。

5.5151 ネガティヴな文の記号はポジティヴな文の記号から形成されなければならないのか? 何故ひとはネガティヴな文をネガティヴな事実によって表現し得ないのだろう。(例えば、「a 」が「b 」に対して或るひとつの関係にない場合、そのことは aRb が成り立たないことを表現し得るかも知れない。)
だが、やはりその場合でも、ネガティヴな文はポジティヴな文を通じて非直接的に形成されているのだ。
ポジティヴな文はネガティヴな文の存在を前提とせざるを得ず、逆もまた成り立つ。

16名無しさん:2024/11/27(水) 12:09:51
5.525 文「(∃x ) . fx 」を――ラッセルがそうしているように――「fx は可能である」によって言葉に表わすのは不当だ。
或る状況の確実性なり可能性なり不可能性なりは、文によってではなくて、或る表現がトートロジーなり有意味な文なりコントラディクションなりであることによって表現される。
ひとがきまって引き合いに出したがるかの先例は、当のシンボルそのもののうちに既に在るはずだ。
5.526 ひとは完璧に一般化された諸文によって世界を完全に記述し得る。つまり、そもそも何か或る名称を特定の対象に対応づけるようなこと無く。
さらに通常の表現法に到るためには、ひとは「・ ・ ・ のようなただひとつの x が存在する」というような表現のあとに、そしてその x は a である、と言う必要があるだけだ。
5.5261 完璧に一般化された文は、他のあらゆる文と同様、合成されている。(このことは、我々が「(∃x, φ ) . φx 」において「φ 」と「x 」に別々に言及する必要がある点に自ずと顕現する。どちらも、一般化されていない文においてと同様、独立して世界との表示関係に在る。)
合成されたシンボルの徴: それは何かを他の諸シンボルと共有している。
5.5262 どんな文の真偽も世界の一般的構造がもつ何かを変えるのだ。そして、基本的文の総体によって世界の構造に許容される遊びの範囲それこそが、全く一般的な文全般が劃すものだ。
(或る基本的文が真であれば、それとともに少なくとももうひとつの基本的文が真だ。)
5.53 対象の同一性を私は記号の同一性によって表現する。等号なるものの援けにはよらない。対象間の相違は記号間の相違によって。
5.5301 同一性が対象間の関係ではないことは明らかだ。それは、ひとが例えば文「(x ) : fx . ⊃ . x = a 」を考察すれば顕著になる。この文が述べているのは、a だけが関数 f を充たすということに過ぎず、a に対して或る関係をもつようなものだけが関数 f を充たすということではない。
ひとは、もちろん、ここで、まさに a だけが a に対してこの関係をもつ、と言い得るだろうが、しかし、それを表現するためには、我々は等号そのものを必要とする。
5.5302 ラッセルの「=」の定義は十分ではない。ひとは、それに随えば、ふたつの対象が総ての属性を共有すると言うことができないのだから。(決して正しくはないにしても、やはりこの文は意味をもつ。)
5.5303 大雑把に言えば、ふたつのものについてそれらが同一だと言うことはナンセンス〔ein Unsinn〕というものであり、ひとつのものについてそれがそれ自体と同一だと言うことは全く何も述べていない。
5.531 私は、だから、「f (a, b ) . a = b 」ではなく、「f (a, a )」(あるいは「f (b, b )」)と書く。また「f (a, b ) . 〜a = b 」ではなく「f (a, b )」と。
5.532 また同様に、「(∃x, y ) . f (x, y ) . x = y 」ではなく「(∃x ) . f (x, x )」と、そして「(∃x, y ) . f (x, y ) . 〜x = y 」ではなく「(∃x, y ) . f (x, y )」と。
(したがって、ラッセル流の「(∃x, y ) . f (x, y )」に替えて「(∃x, y ) . f (x, y ) . ∨ . (∃x ) . f (x, x )」と。)
5.5321 したがって、「(x ) : fx ⊃ x = a 」に替えて我々は例えば「(∃x ) . fx . ⊃ . fa : 〜(∃x, y ) . fx . fy 」と書く。
また、「ただひとつの x だけが f ( ) を充たす」という文は「(∃x ) . f x : 〜(∃x, y ) . fx . fy 」だ。
5.533 等号は、だから、概念記法の本質的成分ではない。

17名無しさん:2024/11/27(水) 12:19:10
5.535 それとともに、そうした見かけの文に結びつけられていた総ての問題ももう片がつく。
ラッセルの「無限公理」に伴う総ての問題は、これでもう解かれ得る。
無限公理が述べているとされることがらは、相異なる意義をもつ無限に多くの名称が存在することを通じて、言語において自ずと現われることだろう。
5.54 一般的文形式では、ひとつの文がひとつの文の中に現われるのは、もっぱら諸真理オペレーションの基底としてだ。
5.541 一見、或る文は別の或る文の中に別の仕方でも現われ得るかのようではある。
特に、「A は p が成り立っていると信じている」や「A は p と考える」等々のような心理学の或る種の文形式において。
ここでは、表面的には、文 p が対象 A と或る種の関係にあるかのような訳だ。
(また、現代的認識論(ラッセル、ムーア等々)においても、こうした文は実際そう解されてきた。)
5.542 だが、「A は p ということを信じている」、「A は p と考える」、「A は p と言う」が「「p 」は p と述べる」という形式をもつことは明らかだ。そして、ここで問題なのは、或る事実と或る対象の対応づけではなくて、諸事実の対象間の対応づけを通じての、事実間の対応づけなのだ。
5.5421 このことは、また、今日の皮相な心理学において解されるような魂――主観等々――なるものは馬鹿げていることを示している。
合成された魂など、もはや魂どころではないだろう。
5.5422 「A は p と判断する」という文の形式のまっとうな説明は、ナンセンスというものを判断するのは不可能なことを示すはずだ。(ラッセルの理論はこの条件を充たさない。)
5.5423 ひとつの複合体を知覚するとは、その諸成分が互いにしかじかに係り合っているのを知覚することを意味する。
このことは、ひとが図形
画像を立方体として二通りに見ることができることおよび似たような現象の総てをたしかに説明しはする。我々はとにかく実際にふたつの相異なる事実を見るのだから。
(私がはじめに a の四角を見て、そしてほんのちらりと b を見れば、a が手前に見えるし、逆の場合も同様だ。)

18名無しさん:2024/11/27(水) 12:32:02
5.55 我々は、ここで、基本的文の総ての可能な形式についての問いにアプリオリに答える必要がある。
基本的文は諸名称から成る。ところが、相異なる意義をもつ名称の数を特定することはできないのだから、我々はまた当の基本的文の構成を特定することもできない。
5.551 我々の原則は、およそ論理によって判定され得る問いは何れもあっさりと判定され得るのでなければならない、ということだ。
(そして、我々がそうした問題に世界を観察することによって答えざるを得ないはめに到ったならば、それは我々が根本的な見当違いをしていることを示している。)
5.552 我々が論理の理解に必要とする「経験」なるものは、何かがしかじかとなっていることではなくて、何かが在ることだ。だが、これはとにかく経験ではないのだ。
論理はあらゆる経験――何かがそうあること――に先行する。
それは如何にに先行する。何にではない。
5.5521 もしそうでなかったならば、どうして我々は論理を適用し得るだろうか? ひとはこう言い得るだろう: たとえ世界が存在しなくとも何らかの論理は存在するのだとすれば、世界が存在するとき、どうしてさらに別の或る論理が存在し得るだろうか。
5.553 ラッセルは、色々な箇数のもの(個体)の間に単純な諸関係が存在すると言った。だが、どの箇数の間に? また、それはどう決まるというのか?――経験によって?
(特別な数などというものは存在しない。)
5.554 どんな特殊な形式の陳述も全く恣意的だろう。
5.5541 例えば、私が何ごとかを或る 27 項関係の記号によって表示せざるを得ないはめに到り得るかどうかは、アプリオリに特定され得るという。
5.5542 だが、我々はそもそもそう問うていいものなのか? 或る記号形式を立てながら、それに何かが対応し得るかどうかは諒解していないということが、我々にはあり得るのか?
何ごとかが成り立ち得るためには何が在る必要があるのか、という問いは意味をもつのか?
5.555 我々が基本的文を、その特殊な論理的形式とは別に、理解していることは明らかだ。
一方、ひとが或るシステムに拠って諸シンボルを形成し得るとき、そこで論理的に重要なものは当のシステムであり、個々のシンボルではない。
それに、論理において私は私が考案し得る諸形式に関わっているなどということがどうしてあり得るだろうか。そうではなくて、私は私にそれらを考案するのを可能にするものに関わっているはずだ。

19名無しさん:2024/11/28(木) 09:46:22
5.5563 我々の日常言語の文の総ては、実際、そのままで論理的に完璧に秩序づけられている。――我々がここで特定すべき最も単純なものは、真理の喩などではなく、十全な真理そのものだ。
(我々の諸問題は抽象的ではない。たぶん存在する諸問題で最も具体的なものだ。)
5.557 論理の適用がどんな基本的文が存在するかを決める。
その適用のうちに在るものを論理は先取りし得ない。
論理はその適用と衝突してはならない。これは明らかだ。
一方、論理はその適用と合致する必要がある。
だから、論理とその適用は互いに交叉してはならない。
5.5571 私が基本的文全般をアプリオリに特定し得ないならば、それらを特定しようとすることは明白なナンセンスを結果として齎すはずだ。
5.6 私の言語の限界とは私の世界の限界のことだ。
5.61 論理は世界を充たす。世界の限界は論理の限界でもある。
我々は、だから、論理においてこう言うことはできない: これこれは世界の中に存在し、あれは存在しない。
これはつまり我々が或る種の可能性を締め出すことを前提としているようだが、しかし、それは成り立ち得ない。もし成り立ち得たとすれば、つまり、論理が世界の限界を別の側からも観察し得たとすれば、論理は世界の限界を超えていることになるだろうから。
我々は、考え得ないことがらは考え得ない。考え得ないことがらを述べることも、だから、できない。
5.62 この所見は、独我論はどの程度まで真理なのかという問いの判定への鍵になる。
独我論が考えていることは全く正しいが、しかし、それは述べられ得ず、自ずと明らかになるのだ。
世界は私の世界であること、それは、この言語(私がもっぱら理解するこの言語)の限界とは私の世界の限界のことである点に、自ずと顕現する。
5.621 世界と生〔das Leben〕はひとつのものだ。
5.63 私は私の世界だ。(ミクロコスモス。)
5.631 思惟し表象する主観などというものは存在しない。
『私が見出した世界』という本を私が書いたならば、そこには私の体のこともリポートされ、そして、そのどのパーツが私の意志に随い、どれが随わないか等々が述べられることになるだろうが、これは、主観を分離する、というよりむしろ、或る重要な意味で主観など存在しないことを示す一方法なのだ。ただそれだけが、件の本で話題にされ得ないのだから。――
5.632 主観は世界には属さない。それは世界の境界だ。
5.633 世界の何処に形而上学的主観なるものが感知され得るのか?
この場合、眼と視野に関してと全く同様になっている、と君は言う。だが、当の眼を君は実際には見ていない。
また、それが眼によって見られることを推論させるようなものなど視野には何も無い。
5.6331 視野はこんな形式など全然もってはいないのだ。

20名無しさん:2024/11/28(木) 10:06:31
5.634 これは、我々の経験のどんな部分もアプリオリではないことに関聯している。
我々が見るものごとの総ては別様でもあり得たことだろう。
およそ我々が記述し得るものごとの総ては別様でもあり得たことだろう。
ものの間のアプリオリな秩序など存在しない。
5.64 ここで、ひとは、独我論は厳密に貫徹されれば純粋な実在論に一致することを見て取る。独我論の自我は広がりのない点にまで縮み、それと並べられていた実在が残る。
5.641 だから、実際、その意味では哲学で自我が非心理学的に話題にされ得るような、そんな意味は存在する。
自我は「世界は私の世界である」ことを通じて哲学のうちに入る。
哲学的自我は人間ではなく、人間の身体でもなければ心理学が扱う人間の魂でもなく、形而上学的主観、世界の―― 一部分ではなく――境界だ。

6.1 論理の文全般はトートロジーだ。

これは詭弁であろう。論理の文全般がみなトートロジーとは限らないはずである。
しかし「論理の文全般」という言葉の意味は、「トートロジー」という意味である。
意味を語っただけであるなら、嘘と断定することも難しい。


6.11 論理の文全般は、だから、何も述べない。(それらは分析的文だ。)

トートロジーは何も述べない、という説明であろうか。たしかにトートロジーは何も述べないものかもしれない。
しかし、「それらは分析的文だ。」というのは彼もてきとうと認めている。


6.111 論理の何らかの文を内容に充ちているように思わせる理論はきまって誤っている。ひとは、例えば、「真」および「偽」という語は諸属性のうちの或るふたつの属性を特に表示すると考えるかも知れないが、そうすると、どんな文もこれらの属性のひとつをもつことは奇妙な事実に思えることだろう。これは、もう自明どころではなく、例えば「総ての薔薇は黄色か赤かのどちらかである」という文はたとえそれが真だったとしても自明になど響かないだろうが、それと同断に見える。件の文はいまや或る種の自然科学的文のキャラクターをすっかり帯びているのであり、このことは、それが誤って理解された確かな徴候だ。
6.112 論理的文全般のまっとうな説明は、それらに総ての文のうちで或る比類ないポジションを与えるはずだ。
6.113 ひとは論理的文が真なことをそのシンボルだけで認識し得るということは、論理的文全般の特殊なメルクマールであり、また、この事実は論理の哲学全体を自らのうちに封じ込めている。そして、非論理的文の真偽は当の文だけでは認識され得ないということも同じく最重要な事実のひとつだ。

21名無しさん:2024/12/03(火) 09:31:55
6.121 論理の文は、諸文を結びつけて内容の無い文にすることによって、それらの論理的属性をデモンストレートする。
この方法をひとは零位法〔eine Nullmethode〕と呼ぶこともできるだろう。ひとつの論理的文において、諸文は互いに平衡にされ、そして、その平衡状態が、それらの文が論理的にどんな状態にあるはずかを呈示する。
6.122 このことから、我々は論理的文など無しにも済まし得ることが判明する。我々は、適当な表記法において、諸文の形式的属性を当の諸文の単なる外観を通じて認識することができるのだから。
6.1221 例えば、ふたつの文「p 」と「q 」が「p ⊃ q 」という結びつきでトートロジーになるならば、q が p から帰結することは明らかだ。
例えば、「q 」が「p ⊃ q . p 」から帰結することを、我々は両文そのものから察知するが、それを、我々は、また、それらの文を結びつけて「p ⊃ q . p : ⊃ : q 」とし、そして、これがトートロジーであることを示すことによっても、示すことができる。
6.1222 このことは、論理的文全般が経験によって反証され得ないのと同様確証もされ得ないのは何故か、という問いに光を投じる。論理の文は、どんな可能的経験によっても反証され得てはならないばかりか、そうした経験によって確証され得てもならない。
6.1223 いまや、「論理的真理」全般が我々によって「要請」されなければならないかのようにひとがしばしば感じたのは何故かが明らかになる。我々は、十分な表記法を要請し得る限りにおいて、論理的真理全般を要請し得るのだ。
6.1224 また、どうして論理学が形式の、そして推論の学と呼ばれることになったのかも明らかになる。
6.123 ひとつの論理法則そのものがまた何らかの論理法則に従属してはならないことは明らかだ。
(それぞれの「タイプ」にラッセルが考えたように固有の矛盾律が存在する訳ではない。矛盾律は、それ自体には適用されないのだから、ひとつで足りる。)

6.1231 一般的妥当性は論理的文の徴ではない。
一般的であるとは、たまたま総てのものに当てはまることを意味するに過ぎないのだ。一般化されていない文は一般化されている文と全く同様にトートロジカルであり得る。
6.1232 論理的な一般的妥当性を、ひとは、例えば「総ての人間は死ぬべきさだめにある」のような偶然的なものと対照的に、本質的と言うことができるだろう。ラッセルの「還元公理」のような文は論理的文ではない。そして、このことは、そうした文は、真だとしても、もっぱら都合のいい偶然によって真であり得ているだけなのではないか、という我々の感じを説明する。
6.1233 還元公理が通用しないような世界は考えられ得る。だが、論理は我々の世界が実際そうであるか否かという問いには何の関わりもないことは明らかだ。
6.124 論理的文全般は、世界の骨子を記述する、というよりむしろ、表わす。それらは何を「扱う」のでもない。それらは、名称が意義を、そして基本的文が意味をもつことを前提としているが、このことがそれらと世界との結びつきだ。諸シンボルの或る種の――本質的に一定の特徴をもつ――結びつきがトートロジーであることが世界について何かを呈示しているはずなのは明らかだ。この中には決定的なことがらが在る。我々が用いるシンボルには恣意的なところもあればそうでないところもあると我々は言った。論理においてはただ恣意的でないところだけが表現する。これは、だが、論理においては、我々が記号全般の援けによって望みのことがらを表現する訳ではなくて、もとより不可欠な記号全般の本性そのものが言明することを意味する。我々が何か或る記号言語の論理的構文論を知っているならば、論理の文の総ては既に齎されているのだ。

22名無しさん:2024/12/10(火) 10:17:58
6.125 最初から総ての「真である」論理的文の何らかの記述を与えることは可能だ。しかも、論理の旧い解釈に随ってさえ。
6.1251 だから、論理においてはまた思いがけないことなど決して起り得ない。
6.126 或る文が論理に属すかどうかを、ひとは、当のシンボルの論理的諸属性を計算することで、計算することができる。
そして、それを我々は論理的文を「証明する」ときにおこなっている。我々は、意味や意義など気にかけること無く、ひとつの論理的文を他の諸論理的文から単なる諸記号規則に随って形成するのだから。
論理的文全般の証明は、我々がそれらの文を他の諸論理的文から或る種のオペレーションのサクセッシヴな適用によって生じさせる点に在る。はじめの諸トートロジーから繰り返しトートロジーを生み出すような、そんな諸オペレーションの。(しかも、ひとつのトートロジーからは諸トートロジーだけが帰結する。)
もちろん、論理の文全般がトートロジーであることを示すこの方法は、論理には全く非本質的だ。なにしろ、そこから証明がはじまる当の諸文は、証明無しでそれらがトートロジーであることを示さなければならないのだから。
6.1261 論理においてはプロセスと結果は同等だ。(だから、思いがけないことはひとつも無い。)

>>論理においてはプロセスと結果は同等だ。

プロセスと結果、という言葉の意味は、ウィトゲンシュタインいい、という意味がある。
ウィトは自分に都合のいい言葉を意図的に加工して述べているのではないか。

6.1262 論理における証明は、トートロジーの認識を、それが込み入っている場合でも容易にするための、メカニカルな補助手段に過ぎない。

6.1263 もし、ひとが或る有意味な文を他の有意味な諸文から論理的に証明することができ、さらに何らかの論理的文まで証明することができたとしたら、それはあまりに奇妙というものだろう。有意味な文の論理的証明と論理における証明がふたつの全く別々のことがらであるはずなのは、はじめから明らかだ。
6.1264 有意味な文は何ごとかを言明し、その証明はそのとおりであることを示す。論理においてはどんな文も何らかの証明の形式だ。
論理の文は何れも記号において表わされたモドゥス・ポーネンス〔modus ponens〕だ。(そして、ひとはモドゥス・ポーネンスを文によって表現することはできない。)
6.1265 ひとはいつでも論理のことを、どんな文もそれ自体の証明であるように解し得る。
6.127 論理の文は総て同権だ。それらのうちには根本法則に派生的文など本質的に存在しない。
どんなトートロジーも自らがトートロジーであることを示している。
6.1271 「論理的根本法則」の数が恣意的なことは明らかだ。ひとは論理を、例えば単にフレーゲの諸根本法則の論理積をつくることによって、ひとつの根本法則から演繹することもできただろうから。(フレーゲは、そんな根本法則はもうストレートには理解できない、とおそらくは言うことだろう。だが、フレーゲのような厳格な思索家が、論理的文の基準として理解しやすさの程を引き合いに出すとはおかしい。)
6.13 論理は学説ではなく、世界の鏡像だ。
論理は超越論的だ。

6.2 数学はひとつの論理的方法だ。
数学の文一般は等式であり、したがって、見かけの文だ。

>>見かけの文だ。

見かけの文とはいかがなものか。

23名無しさん:2024/12/10(火) 10:41:23
6.21 数学の文は何の思考も表現しはしない。
6.211 我々が生活において必要とするのは、決して数学的文ではないのだ。我々は数学的文をもっぱら数学に属さない諸文から同じく数学に属さない諸文を推論するのに利用する。
(哲学において、「我々はそもそもあの語、あの文を何のために用いるのか」という問いは繰り返し貴重な洞察を齎す。)
6.22 論理の文全般がトートロジーの形をとって示す世界の論理を、数学は等式全般で示す。
6.23 ふたつの表現が等号で結びつけれらるとき、それは、それらが互いに置換可能なことを意味する。だが、それが成り立つかどうかは、両表現そのものに自ずと顕現するはずだ。
ふたつの表現が互いに置換可能なことは、それらの論理的形式を特徴づける。
6.231 ひとがそれを二重否定と解し得ることは、肯定の一属性だ。
ひとがそれを「(1 + 1) + (1 + 1)」と解し得ることは、「1 + 1 + 1 + 1」の一属性だ。
6.232 フレーゲは言う。これらふたつの表現は、同じ意義〔Bedeutung〕をもつが、相異なる意味〔Sinn〕をもつ、と。
等式で本質的なのは、だが、等号が結びつけるふたつの表現が同じ意義をもつことを示すのに当の等式は必要ではないということだ。それは両表現そのものから察知され得るのだから。
6.2321 そして、数学の文一般は証明され得るということが意味するのは、数学の文の正しさは、それが表現していることがらそのものがその正しさの点で事実と比較されるのを必要とすること無く、悟られ得るということに過ぎないのだ。
6.2322 ふたつの表現の意義の同一性は主張され得ない。というのは、それらの意義について何かを主張し得るためには、私はそれらの意義を知る必要があるが、それらの意義を知ることで、私はそれらが同じものを指すのかそれとも別々のものを指すのかを諒解するからだ。
6.2323 等式は、私がそこから当のふたつの表現を考察するその観点、つまり、それらの同義性という観点をマークするだけだ。
6.233 ひとは数学的問題一般の解決に直観を必要とするか、という問いに対しては、まさに言語がここで必要な直観を提供する、という答えが返されるはずだ。
6.2331 計算のプロセスこそがその直観をとりなす。
計算は実験ではない。
6.234 数学は論理の一方法だ。
6.2341 数学的方法の本質を成しているのは、それが諸等式とともにはたらくことだ。数学のあらゆる文が自明なはずであることは、この方法に基いているのだ。
6.24 当の諸等式を得るための数学の方法は、代入法だ。
というのは、等式全般はふたつの表現の置換可能性を表現しており、我々は幾つかの等式から、それらに随って諸表現を別の諸表現に置き換えることで、新たな諸等式へと進むからだ。
6.241 例えば、2 × 2 = 4 という文の証明はこうだ。
(Ων)μ'x = Ων×μ'x Def.
Ω2×2'x = (Ω2)2'x = (Ω2)1+1'x
= Ω2'Ω2'x = Ω1+1'Ω1+1'x = (Ω'Ω)'(Ω'Ω)'x
= Ω'Ω'Ω'Ω'x = Ω1+1+1+1'x = Ω4'x
6.3 論理の探求とは総ての法則性の探求のことだ。そして、論理の外では総てが偶然だ。
6.31 いわゆる帰納法則は、とにかく論理法則ではあり得ない。それは明らかに有意味な文なのだから。――したがって、それはアプリオリな法則でもあり得ない。
6.32 因果法則は法則ではなく、何らかの法則の形式だ。
6.321 「因果法則」、これは種名だ。そして、例えば力学に諸最小法則――最小作用の法則のような――が存在するように、物理学には諸因果法則、因果形式の諸法則が存在する。
6.3211 実際、ひとは、何らかの「最小作用の法則」が在るに違いないと、それがどういう内容なのかを正確に把握する前から、予感してきたのだ。(ここでも、例のごとく、アプリオリに確実なのは純粋に論理的な何かであることが判明する。)
6.33 我々は保存法則なるものをアプリオリに信じているのではなくて、或る論理的形式の可能性をアプリオリに把握している。
6.34 根拠律、自然における連続性の原理、自然における最小消費の原理等々のような命題の総ては、科学の文の可能な造形についてのアプリオリな洞察だ。

24名無しさん:2024/12/10(火) 10:55:30
6.341 例えば、ニュートン力学は世界記述にひとつの統一的形式を提供する。不規則な黒い斑点のある白い平面を考えよう。そこで、我々はこう言う: どんな図柄がそれによって生じようと、当の平面を適当に細かい正方形の網で覆い、そして、それぞれの正方形について、それが白いのか黒いのかを述べることによって、私はその図柄の記述に望むだけ近づくことができる。私はこの方法によって件の平面の記述にひとつの統一的形式を与えおおすだろう。この形式は任意だ。三角形や六角形の目から成る網を同様の成功裡に用いることもできただろうから。三角網による記述の方が簡単にいったということもあり得る。つまり、我々は、件の平面を、細かい正方網よりも粗い三角網を使った方が正確に記述できた(あるいはその逆)等々ということも。別々の網には別々の世界記述のシステムが対応する。力学は、世界記述の文の総ては幾つかの所定の文――力学の諸公理――から或る所定の方法で得られるのでなければならない、と述べることで世界記述の一形式を規定する。それによって、力学は、科学的建築物の建設に資材を供給し、そしてこう言う: どんな建築物を建てるつもりにせよ、それをお前はもっぱらこれだけの資材でもってどうにかしなければならない。
(数のシステムによってあらゆる任意の数を書下すことができるように、ひとは力学のシステムによって物理学のあらゆる任意の文を書下すことができるはずだ。)
6.342 そして、いま、我々には論理と力学の相対的ポジションが見える。(ひとは件の網を例えば三角形と六角形からというように種々の図形から成るようにすることもできただろう。)先に述べられたような図柄が或る適当な形式の網によって記述され得ることは、当の図柄について何ごとも言明しはしない。(そのことはその種の図柄の何れについても当てはまるのだから。)だが、その図柄が特定の細かさをもつ特定の網によって完全に記述され得ること、これは当の図柄を特徴づける。
同様に、世界がニュートン力学によって記述され得ることは、世界について何ごとも言明しはしないが、しかし、世界がかの力学によってこのことがまさに成り立つとおりに記述され得ることは、世界を特徴づける。また、一方の力学によっての方が他方によってよりも世界は簡潔に記述され得るということも、世界についてなにがしかを述べている。

25名無しさん:2024/12/10(火) 11:35:44
6.343 力学は我々が世界記述に必要とする総ての真な文をひとつのプランに随って構成する企てだ。
6.3431 論理的機構全体を通じて、物理法則全般は世界の対象全般について語るのだ。
6.3432 我々は、力学による世界記述が恒に全く一般的であることを忘れてはならない。力学で話題にされるのは、例えば、特定の諸質点では決してなく、恒に不特定の諸質点ばかりだ。
6.35 我々の図柄における斑点は何れも幾何学的図形ではあるが、もちろん、幾何学はそれらの実際の形や位置については全く何も述べ得ない。件の網は、だが、純粋に幾何学的だ。その総ての属性はアプリオリに特定され得る。
根拠律等々のような法則は網を主題としている。網が記述するものをではない。
6.36 因果法則なるものが在ったならば、その内容はこうかも知れない: 「諸自然法則が存在する」。
だが、もちろん、ひとはそう言うことはできない。それは自ずと明らかになるのだ。
6.361 ヘルツの口吻でひとはこう言うかも知れない: ただ法則通りの聯関だけが思惟可能だ。
6.3611 我々はひとつのプロセスを「時の経過」と較べることなどできない――時の経過は存在しない。ただ何か別のプロセスと(例えばクロノメーターの動きと)較べ得るだけだ。
だから、時間的推移の記述は、もっぱら我々が何か別のプロセスに拠る限りにおいて可能だ。
全く同様のことが空間にも当てはまる。ひとが、例えば、ふたつの(両立しない)出来事について、他方でなく一方が起るべきどんな理由も存在しないのだからどちらも起り得ない、と言うとき、実際に問題になっているのは、どんな非対称性も存在しないならば、ひとはそれらふたつの出来事のうちのひとつを記述することなど全くできないということだ。そして、そのような非対称性が存在する場合、我々はそれを一方が現実のものとなり他方がならないことの理由と解し得る。
6.36111 カント流の右手と左手の問題、それらをひとは重ね合わし得ないという問題は、平面でも、それどころか一次元空間でも存立する。そこでは、a と b のようなふたつの合同な図形でさえ、当の空間の外へ動かされること無く重ね合わされることはあり得ない。

右手と左手は実は全く合同だ。しかし、そのこととひとがそれらを重ね合わし得ないことは何の関わりもない。
右手袋を四次元空間で回転させることができたならば、ひとはそれを左手に着け得ることだろう。
6.362 記述され得ることがらは、また、生じ得る。そして、因果法則によって締め出されるものとされることがらは、記述されもし得ない。
6.363 帰納のプロセスは、我々が自らの経験と調和させ得る最も単純な法則を採用する点に在る。
6.3631 そのプロセスは、だが、どんな論理的根拠づけももたない。ただ何らかの心理的根拠づけをもつだけだ。
最も単純なケースがとにかくまた実際に生じるだろうと信じる根拠など存在しないことは明らかだ。
6.36311 太陽があした昇るだろうというのは仮説であり、それは、我々は太陽が昇ることになるのかどうか判らないということを意味する。
6.37 或ることが生じたということから別の或ることが生じざるを得なくさせるような、そんな強制は存在しない。ただ何らかの論理的必然性だけが存在する。
6.371 いわゆる自然法則全般は自然現象全般の説明だという錯覚が、近代的世界観全体の基礎を成している。
6.372 それで、ひとびとは自然法則全般のもとに、何やら不可侵のもののもとでの如く、立ち尽くしている。古人が神や運命のもとにそうしたように。
そして、どちらも正当性と不当性をともにもってはいる。しかし、新たなシステムのもとでは総てが説明されているかのように見えてしまうのに対して、はっきりとした断絶を認めている点で、古人の方が明晰だ。
6.373 世界は私の意志とは独立している。
6.374 たとえ我々が望むことの総てが生じたとしても、それはやはり謂わば運命の恩寵でしかないだろう。それを保証するような、意志と世界の間の論理的聯関など存在しないのだし、それに、我々は仮定された物理的聯関そのものをまた欲することなどできないだろうから。
6.375 論理的必然性だけが存在するのと同様に、論理的不可能性だけがまた存在する。
6.3751 例えば、ふたつの色が視野の一箇所にともに在ることは不可能、しかも論理的に不可能だ。それは色の論理的構造によって排除されるのだから。
この矛盾が物理学においてどう表わされるか考えてみよう。それは、おおよそこうだ: ひとつの粒子が同時にふたつの速度をもつことはあり得ない、つまり、ひとつの粒子は同時にふたつの場処には在り得ない、つまり、同じ時、色々な場処における諸粒子は同一ではあり得ない。
(ふたつの基本的文の論理積はトートロジーでもコントラディクションでもあり得ないことは明らかだ。視野の一点が同時にふたつの相異なる色をもつという言明はコントラディクションだ。)
6.4 総ての文は対等だ。

26名無しさん:2024/12/10(火) 11:59:09
6.41 世界の意味は世界の外に在るはずだ。世界においては総ては在るがままに在り、生じるがままに生じる。世界の中には何の価値も存在しない――それに、存在したとしても、それは何の価値ももたないことだろう。
価値をもつ価値なるものが存在するならば、それは総ての生起と相在〔So-Seins〕の外に在るはずだ。総ての生起と相在は偶然的なのだから。
それを非偶然的にするものは、世界の中には在り得ない。在り得たとすれば、そのことはまた偶然的だろうから。
それは世界の外に在るはずだ。
6.42 したがって、倫理の文なども存在し得ない。
文は高次のものを何も表現し得ない。
6.421 倫理は言い表わされ得ないことは明らかだ。
倫理は超越論的だ。
(倫理と美学はひとつのものだ。)
6.422 「お前は ・ ・ ・ すべきだ」という形式の倫理法則を立てる際の最初の考えはこれだ: だが私がそれをしない場合には? しかし、倫理が通常の意味での罰および賞とは何の関わりもないことは明らかだ。だから、或る行為の諸帰結についてのこの問いは重要ではないはずだ。――少なくとも、そうした帰結は出来事であってはならない。件の問題設定にも何か正当なところはあるはずなのだから。たしかに、或る種の倫理的な罰や倫理的な賞は存在するには違いないが、しかし、それらは当の行為そのもののうちに在るはずだ。
(また、賞が何か好ましいことがらで、罰が好ましくないことがらである必要があることも明らかだ。)
6.423 倫理的なものの担い手としての意志は語られ得ない。
そして、現象としての意志はただ心理学の興味を惹くだけだ。
6.43 善き志なり悪しき志なりが世界を変えるにしても、それは、ただ世界の限界を変え得るだけであり、事実全般を変えることはできない。言語によって表現され得ることがらを変えることはできない。
要するに、世界は、そのときそれによって、そもそも別ものになるはずだ。世界は謂わば全体として減るか増えるかするはずだ。
幸福な者の世界は不幸な者の世界とは別ものだ。
6.431 死の際にさえ、世界は変わらない。終わるのだ。
6.4311 死は生の出来事ではない。死をひとが体験することはない。
ひとが永遠ということを無限の期間ではなく、無時間性と解するならば、現在において生きている者は永遠に生きている。
我々の視野が限り無いのと同様、我々の生は果てし無い。
6.4312 人間の魂の時間的不死性、つまり、魂が死後にも永遠に生き続けることは、到底保証されない。そればかりか、この仮定は、とりわけ、ひとが恒にそれによって叶えようとしていることがらを全く果たさない。そもそも私が永遠に生き続けることによって何か謎が解かれるのか? それに、そもそもその永遠の生は現在の生と同様に不可解ではないか? 空間と時間の中の生の謎の解決は、空間と時間の外に位置する。
(解かれるべきは自然科学の問題などではないのだ。)
6.432 世界がどのようであるかは、高次のものには全くどうでもいいことだ。神は自らを世界の中には啓示しない。
6.4321 事実の総てはもっぱら課題に必要とされる。解決にではない。
6.44 世界がどのようであるかではなくて、それが在ることが神秘だ。
6.45 永遠の相のもとの〔sub specie aeterni〕世界の観想は、全体――限定された――としての世界の観想だ。
限定された全体としての世界という感じが神秘だ。

27名無しさん:2024/12/10(火) 11:59:57
6.5 言い表わし得ない答えについては、ひとは当の問いも言い表わし得ない。
当の謎は存在しない。
そもそも或る問いが立てられ得るならば、それはまた答えられ得る。
6.51 懐疑論は、それが問われ得ないことがらを疑おうとするのならば、論駁不能なのではなく、明らかにナンセンスだ。
というのは、懐疑は何らかの問いが存立する場合にもっぱら存立し得て、問いというものは何らかの答えが存立する場合に、そしてその答えは何ごとかが述べられ得る場合に、もっぱら存立し得るからだ。
6.52 我々は、たとえ総ての可能な科学的な問いが解答されても、我々の生の問題は全く触れられないままだと感じる。もちろん、そのときにはもう何の問いも残ってはいないのであり、そして、このことこそが答えだ。
6.521 生の問題の消失によって、ひとは当の問題の解決に気づく。
(或る種の人間、彼らにおいて生の意味が長い懐疑の末に明らかとなったような、そんなひとびとが、当の意味がどんな点に在るのかを述べることができなかったのは、このことに由るのではないか。)
6.522 それでも、言い表わし得ないことがらは存在する。このことは自ずと明らかになる。それが神秘だ。
6.53 哲学の正しい方法は本来こうだろう: 述べられ得ること以外は、したがって、自然科学の諸文以外は――したがって、哲学に何の関わりもないこと以外は――何も述べないこと、そして、他人が何か形而上学的なことを言おうとしたら、彼がそうした文における或る種の記号に何の意義も与えてはいなかったことを明らかにしてみせること。この方法はその者には満足がいかないことだろう――彼は我々が彼に哲学を教えているという感じをもたないことだろう――が、しかし、これが唯一厳正な方法だろう。
6.54 私の諸文は、私を理解する者が、それらを通じて――それらによって――それらの上へと昇ったあげく、それらがナンセンスだと認識すること、そのことを通じて解明する。(彼は、謂わば梯子を登ってしまってから、それを抛棄しなければならない。)
彼はこれらの文をのりこえなければならならず、そうすれば、彼は世界を正しく見て取る。
7 語り得ないことがらについては、ひとは黙らなければならない。


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