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fleur de…
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前作では色々とアドバイスありがとうございました。
色々と考えた結果、現代物のプロットを採用することにしました。
内容的に書き方修正は難しいので小説形式です。
投下タイミングについてもアドバイス頂いたので気をつけていきたいと思います。
>>2からスタートします。
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「ねえねえこのぐらい? 青空と海のバランスはどう?」
一眼レフを構えた、俺――九川 真翔(くがわ まなと)に彼女である千田 珊瑚(ちだ さんご)は
自分の立つ危うい崖の上からアングルの具合を訪ねてくる。
「うん。今いる場所、すごく良い感じ。地面の岩肌もちゃんと入ってるし、看板もばっちりだよ。でも、その手摺り、
だいぶ老朽化してるみたいだから触れないようにね」
俺達は多分傍から見れば一見普通の記念写真を撮っているように見えるだろう。
だが実は少し違う。
俺が写真を撮っているが、実のところ珊瑚に付き合っているだけで、本来の主催は彼女だったりする。
彼女には少し変わった趣味があった。
その趣味のせいで、俺に出会うまで悲しい別れを何度もしたようでもあった。
彼女には……いわゆる“自殺名所”と呼ばれる場所に行く趣味があり、そこで自分が被写体になるのが好きだった。
場所が場所だけに誘ってきても着いてきてくれる友達もおらず、困っていたところで出会ったのが俺だった。
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俺は特にそういう事に偏見がなかったので、彼女の自己満足ツアーのおねだりを快諾した。
まあ、自分から告白した手前もあったのだが。
そして今彼女立っている場所も知ってる人の間では有名な“名所”の一つである。
こういう場所は、彼女に誘われるがままもう何ヶ所も行っている。
ちなみに今居る場所は通称『花芽岬』と呼ばれる場所。『鼻目岬』とも書くらしい。
言い伝えによると、昔美人と醜女の姉妹がいて、妹である醜女の妹に村一番の伊達男がなぜか惚れ込んでしまい、
それに嫉妬した美人の姉が策に策を重ねて略奪してしまったらしい。
それに怒り狂った醜女の妹はこの岬から姉を突き落として殺してしまい、姉の死体が見つかった時は狙いすましたかのように
彼女自慢の美しい目鼻を鋭い岩が貫いていたそうだ。
それ以降何故かこの岬では自殺者が絶えず、殺された姉が誘っているのでは?
と、言われている。
「ねえまだ? 風が強くて帽子飛ばされちゃう」
そう言って彼女は風にはためく薄黄色のワンピースとつばの広い同じ色の帽子を抑えた。
残暑の強い日差しに彼女の白い肌が映える。
同時に彼女の左手の薬指にはまる指輪に付いた赤い石がキラリと光った。
「今押すから待って」
そう言って俺は一回シャッターを押す。
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「あっ……髪の毛が顔にかかっちゃった。もう一回撮って」
「良いよ」
俺はこわれるがままもう一回シャッターを押すが……。
カッ。そんな小さな音と共に突然視界が揺らいで視界から彼女が消えた。
いや、揺らいだのは俺の視界じゃなくて――……。
俺はすぐに異変に気がついて錆びた柵が消えた崖を覗き込むと、
物凄い勢いで海に吸い込まれて小さくなって行く珊瑚の姿があった。
「珊瑚ーーーーー!!!」
気が付けば俺も彼女を追って崖を飛び降りていた。
そして次に俺が気が付く時。
海でも何でもない。白い天井を見つめていて、さっきまで聞いていたはずのさざなみの代わりに騒がしい人の声がざわめいていた。
「先生、患者さんが目を覚ましました!」
聞きなれない女性の声がそう叫ぶと、甲高い金属がぶつかり合う音やら車輪音が雑音に加えられた。
(俺は……一体……ここは……?)
――珊瑚は?!
海に落ちて行く彼女の姿を思い出して飛び起きようとするが、何故か丸で自由が利かず、身体は僅かに身じろいだだけに過ぎなかった。
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一旦ここまで
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もう始まったのか早いな
もし前の読み手も連れてきたいなら前のエルフのにここのURL貼るといいよ
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>>6
わかりました。
そうします。
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前作:エルフの夕暮れ
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/internet/14562/1409464212/
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日付が変わる頃投下しますね?
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早めに投下するのは内容的な問題です。
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>>1
トリップつけたら
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酉ってどうやってつけたらいいですか?
えっと、ちょっと調べてきます。
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テステス
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テステス
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で、できた。
やばい、ここではマジでエルフちゃん状態の私。
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よし、改めましてよろしくお願いします!
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>>1
おめ♪
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>>17
酉付くとそれっぽいですね♪
あざっす!
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それじゃ行きますかね……
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「それじゃあ、本当に心中とかではないんだね?」
「はい……ただ、彼女の趣味で写真を……撮っていただけで……ほんと、うです……本当です……」
気が付いた俺が居たのはとある場所にある警察病院で、俺が口がきける程度に回復しだい刑事がやってきて調書を取られた。
場所が場所だっただけに心中を疑われて、まだ心も身体も回復しきっていないしろくに喋れない状態だというのに
不躾な質問を長時間執拗に繰り返された。
更に言えば、言外に心中に見せかけて彼女を殺したのではないか? と言う響きさえあって俺を余計参らせた。
だが、現場にたまたま残されていた一眼レフのデータを検証した結果、俺の証言に齟齬はないという結果を導き出したらしく、
1週間程続いた事情聴取は幕を閉じ、俺はやっと回復に専念出来る事になった。
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そこで残り一つの謎である、俺の彼女珊瑚の事であるが。
彼女は悲しい事に――残念だが――落下した場所が場所なだけにこの世の人間では亡くなっていた。
珊瑚の死因は、落下時の全身打撲だった。
花芽岬が自殺の名所なのも、満潮になっても強力な崖下の岩の多さにあった。
岩場に行くから一応俺も止めたのだが、お気に入りのヒールのあるミュールを履くと言って聞かず、結果的に強風でバランスを崩し、
老朽化した柵では彼女の身体を支えきれずに崖から転落してしまったのだ。
俺は運良く岩場を縫った海面に落ちて一命を取り留めたものの、彼女は普通に岩の上に落ちて即死だったようだ。
そんな死に方をしたのだ。その遺体の状態はお世辞にも良いとは言えるモノではなかったようだ。
だが、彼女の死が受け止められない俺はそれでも良いから彼女の顔が見たいとしつこく言ったら、
霊安室に車椅子で連れて行かれて布まみれにされた彼女と対面する事が出来た。
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布まみれなのは病院側の配慮で損傷部分を出来るだけ見せないようにしたかったらしい。
顔に当たる部分に穴があけられていて、彼女の顔が見えたが、海水を吸った上で損傷した彼女の顔は生前の面影を僅かに残した程度のほぼ別人と化していた。
あの、愛らしい顔がここまで変わるものなのか。本当にこれが本人なのかと俺は目を疑ったが、所持品やDNA鑑定の結果、本人である事は明白らしい。
そもそもあの海域は潮流が特殊で、干潮時でもないのに自分含めて身体のパーツがほぼ揃った状態で回収された事事態が幸運だったと言われた。
ちなみに俺が助かったのは本当に奇跡としか言えないらしく、岩を縫った落ち方といい、干潮時にでも落ちていたら俺も彼女と同じく命はなかったらしい。
それと、たまたま通りかかった漁師さんがいて、漂流していた俺を素早く引き上げてくれたそうだ。
でも彼女の存在に気がついたのはずっと後だったため、助ける事は叶わなかったそうだった。
兎も角、悲しくも珊瑚は死体として地上に帰ってきた。
布だらけで細かい部分は見えないが、左腕だけを失って。
そう、指輪がはまっていたはずの左腕だけを失って。
それ以外は揃っているらしい。
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俺にとっては彼女が左腕だけ失ったという事実は、彼女の死の現実と向き合うに当たって更なる追い打ちとなって襲いかかって来る事になった。
その事実を知った時のショックは今でも忘れない。
もし、左手の薬指にはまった赤い石が付いた銀の指輪だけでも俺の所に戻ってきてくれたなら、
俺の立ち直りはもう少し短くて済んだかも知れない。
でも、そんな事を考えている余裕がなくなる事を、俺は知らない。
それはあの“花芽岬”に関わった人間の宿命でもある事を知るのも、まだ少し先の話である。
入院から半年。
リハビリも終えて俺は漸く退院を迎えていた。
病院を出ると色々な人達が俺を出迎えていてくれていた。
俺の家族、親戚、友人、そして――珊瑚の親御さんとその家族。
俺は家族達への挨拶もそこそこに真っ直ぐ珊瑚の御両親の元に向かって行くと、深々と頭を下げた。
「この度は、大変申し訳ありませんでした! 俺がついていながら彼女の事をっ……守れずっ……!」
途中から言葉にならず嗚咽に変わる。
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珊瑚のご家族は俺の親族ではないため、閉鎖病棟になっている警察病院での面会は許されず、顔を見るのは大分久しぶりだった。
二人共最後に見た時よりもやつれた顔をしていた。
それもそうだろう。大事な愛娘を失ったのだ。一応高校生の弟くんもいるが、そんなのは関係ない。
ちなみに葬式は俺の入院中に済まされており、俺は出席できなかった。
「まあまあ、顔を上げてくれ真翔くん。これは娘の自業自得みたいなものだ。君に責は無いよ……」
そう言ったのは珊瑚のお父さんだった。
「しかし……」
泣きながら腰を折る俺に珊瑚の母がそっと肩に手を置いて儚げに微笑むとゆっくり首を横に振った。
しかしそれで更に俺は涙が止まらなくなり、人目を気にした一同に抱えられるように車の中に押し込められた。
後で話を聞いたが、珊瑚の御両親は俺を責める気はないらしいが、老朽化した柵を放置していた花芽岬のある自治体を訴えているらしい。
当然だろう。
確かに、彼女の死に自身のわがままも一端はあるとしても、それを防ぐために設置された柵が機能していなかったのだから、
二人の気持ちを思うと俺も怒りでどうにかなりそうだ。
もし必要があるなら俺も出来る限りの事は手伝いたいと思う。
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こうして俺は久々に自分の住んでいるマンションへと戻っていった。
約半年振りの帰宅だ。
「ただいま」
あえて声に出してみる。
しかし返事はない。
いつもなら珊瑚が合鍵で勝手に入り込んでいて、仕事帰りの俺を……。
思い出しかけて頭を振る。
改めて部屋を一望する。
真っ暗な部屋に開けっ放しの扉から差し込む月の光が小奇麗な室内に光の筋を差し込む。
電気をつけようとしても反応がないのできっとブレーカーを落としてあるのだろう。
玄関上を探ってブレーカーを上げると、やっと明かりが点くが、やはりガランとした無人空間が広がっている。
俺は靴を脱いでゆっくり中に入る。
床に埃がないところを見ると、母さんが俺の居ない間掃除をしてくれていたのだろう。
そういえば病院では父さんと母さんにはろくに挨拶もしていなかったことに気が付く。
親戚や友人達にも。
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ただただ俺が泣き止むまで背中をさすって貰って、ここについた頃は昼が夜になっていた。
頬がガビガビになっている事にも気が付く。
みんなが気遣って俺をそっと送り届けてくれたのだろう。
後でお礼を言わないと。
そんな事を思いながら部屋をウロウロしていると、部屋の中心部に設置された黒い合皮のソファと、
白い起き毛のラグと、その上に置かれたガラステーブルに目が行く。
(そういえば、珊瑚はソファに座るよりラグの上に座る方が好きだったっけ……)
不意に彼女がいつものようにラグの上に座って笑顔でマグカップを抱えている幻を見たような気がする。
そして、再び涙が溢れ出て……。
俺はその場に突っ伏した。
そしてそのまま子供のように声を上げて泣いた。
珊瑚はもうこの部屋にやって来る事は無い。
キッチンでレパートリーの少ないメニューを振るう事も、子供みたいにトランプゲームをせがんでくる事も、
撮ってきた写真に心霊写真がないか写真を広げてはしゃぎ回る事も。
あの時は時にちょっとウザったいと思った一つ一つの仕草全てをもう、永遠に見る事は叶わないのだ。
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珊瑚との時間をもう少し大事にすれば良かった。
面倒くさがらないで付き合って上げても良いような事も沢山あった。
断った時のあの不満げな顔さえも、もう見れない。
失って初めて解る大切なモノ。
何よりも大切なモノ。
それが彼女だった。
ふと、自分の左手に視線が行く。
その薬指には赤い石が付いた銀の指輪がはまっていた。
彼女が付けていたものと同じデザインの指輪だ。
彼女にせがまれて作ったペアリング。
でも彼女は左腕ごと指輪を無くしているので、コイツも相方を亡くしてしまっている。
これを見ていると彼女のことを思い出すので思わず指輪を外そうと思って指輪に手をかけるが、第二関節まで抜いて元に戻した。
(だめだ……出来ない。これが最後の……彼女との思い出だ……)
諦めたように床に手を落とすと、ソファーの手すりに頬を乗せた。
合皮の表面が涙でヌルヌルして気持ち悪かった。
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今回はここまで
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乙
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あと>>1はage進行でもいいんじゃない?
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>>29
ありがとうございます
>>30
え ageで進行したほうが良いですか?
いいなら次からそうします
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また日付が変わる頃投下します。
何かありましたらそれまでか投下後ににコメントをお願いします。
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ageたほうがいいんだったかな?
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ageた方が続き来た時、気づきやすい
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>>34
了解です。
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>>34
了解です
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投稿がミスったっぽい表示出ても、実は投稿成功してるケースがあるから一回更新して確認することをオススメする
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>>37
はい
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>>15
今もエルフちゃん状態なら、SS速報VIP板にある「SS制作者総合スレ」のテンプレを一読するといいと思うよ。
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>>39
あそこへはちょくちょく足を運んで見聞を広げさせてもらってます。
しかしまだあそこはちょっと足が竦む状態ですね。
実は質問投下もしてみましたが、まだちょっと早そう……というのが感想です。
その板は見ておきます。
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とりあえず、緊張が途切れない内に投下します。
今回の投下を終えましたら、前以上に暫く書き溜め期間を取ります。
更新予定は未定です。
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珊瑚と付き合い始めて1年が過ぎて初めて迎える俺の誕生日の1週間前の事だった。
朝早くにマンションの戸が開く音で俺が目覚めると、彼女が俺が寝ているベッドの方に駆け寄ってきて「おはよう」と微笑んだ。
『こんな朝早くにどうしたんだ? 今日は俺、仕事だぞ?』
目を擦りながらベッドを抜け出すと、慌てて寝巻きのボタンに手をかける。
ついでに時計を見たらいつもの起床時間より1時間も早かった。
『んふふ……いやぁ、昨夜ちょっと良い物を手に入れたから、見せるの待ちきれなくって、来ちゃった』
そう言って彼女は着替える俺をいつもの白いラグの上で待っている。
『良い物? 何……こんな朝早くにまで押しかけてきて見せる程良い物なのか? ふわぁ……』
『えへへー』
珊瑚は意味ありげに笑う。
俺は欠伸混じりにスーツのスラックスを履いて仕事用のワイシャツに袖を通し、申し訳程度にボタンを掛けると、珊瑚の居る方へ行きソファに腰掛ける。
すると彼女はスッっと茶色い紙袋を俺に差し出してみせた。
俺はそれを受けとると、怪訝そうに訊ねた。
『何、これ……』
『開けてみて』
『・・・・・・・・・?』
促されるまま紙の茶袋を開けると、中から7cm四方のピンク地にチャイナ柄の小袋が入っており、俺はその袋のボタンを開けて覗き込むと、これまた1、5cmくらいのふっくらした楕円形の赤い石が二つ入っていた。
俺は訳が分からず、珊瑚に再び訊ねる。
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『これ何?』
『珊瑚よ』
『珊瑚? へー。随分赤い色をした珊瑚なんだな』
そう言って俺は二つの内一つを取り出して眺めてみる。
『血珊瑚っていうんだって』
『ちさんご?』
聞き慣れない単語に俺は聞き返す。
『血液の血に私の名前の珊瑚で血珊瑚。もう絶滅して取れない珊瑚だってお店の人が言ってた』
『店ってどこ?』
『骨董屋さん? レトロ屋さん? そんな感じのお店。何だか名前の響きとか運命感じて買っちゃった。だって、私の名前は千田珊瑚、貴方の名前は九川真翔』
途中から珊瑚の言っている意味が分からず、苦笑する俺。
『血珊瑚と千田珊瑚は解るけど、俺の名前関係ないだろ……』
『あるよー! 九川真翔の真の字と、苗字の九を並べて読んだら、“しんく”って読めるじゃない。“真九”で、”しんく”。それで“真紅”いや、
深い方の“深紅”? どっちにしても、“しんく”の“血珊瑚”……凄くない?!』
そう言って珊瑚は俺の膝の上に身を乗り出してくる。
『お、おお……。そうだな……』
珊瑚の勢いに押されて思わず仰け反る俺。
その拍子に珊瑚の大きく開いた襟元から彼女のふくよかな胸の谷間が見えて、
これは“ラッキースケベ”だと思った俺は一発殴られた方が良かったかもしれない。
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『でさでさ、もうすぐ真翔の誕生日じゃない? この珊瑚使ってペアリング造らない? 私がお金出すからさ……プレゼントだし。 ね、ね?』
ぺ、ペアリング……。
彼女の提案に俺は少々面食らい、迷った。
確かに一年付き合っているが、こんな貴重なものを使ってペアリングを造るという事はもう、
半分以上結婚を前提とした付き合いを承諾したとみなされてもおかしくない。
――結婚。
珊瑚と結婚なんて今まで意識してこなかったが、彼女はそれを解ってペアリング作成を提案しているのだろうか?
そりゃ彼女とはこの一年楽しくやってきた。それに珊瑚は家事も最低限できるし、職にもついているが、
性格上結婚という事になってもいきなり専業主婦になるとは言い出さないだろう。
だから生活に困る事も無いだろう。
でもこの先何十年も俺は彼女とやっていけるのだろうか?
確かに俺達は“いい歳”だが、初めて浮上する事案に不安を覚える俺。
というか、彼女にも普通に結婚願望があったのか? そんな事今まで考えもしなかった。
いや、俺が鈍感だっただけなのかもしれない。
この一見能天気な珊瑚が、実は俺が思うより計算高い女?
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しかしこのテンション。
あまり深い事は考えてなさそうで、とても断り辛い。
それも計算のうちなのだろうか?
一応、遠回しな牽制をかけた返事をしてみる。
『しかし、これ・・・・・・1個あたり大きさ1cm以上あるよな? 今時そんな石のついた指輪とか古臭くないか?』
俺の返事に珊瑚は暫しキョトンとすると、爆笑しながら俺の肩を叩いて言った。
『それなら心配ご無用! とっても素敵な創作アクセサリーのお店もちゃんと見つけてありますのよ!』
と言って一冊のパンフレットをバッグの中から取り出してみせた。
俺は一旦珊瑚を小袋に戻すと、パンフレットをパラパラと捲る。
(ほう……)
確かに。彼女が言うだけの事はあり、石の大きさなど気にせずに楽しめる色々なデザインがリーズナブルな金額で発注できるようで、
これなら普通にファッションリングとして付けておくのもアリかも知れないと思ってしまった。
『その顔は興味持った、って顔ね?』
珊瑚の指摘に俺は思わず頬を染めて頷く。
その反応に彼女は満面の笑みを浮かべると、「じゃあ決まりね! 仕事の帰りに落ち合いましょ」と言ってそそくさと帰ってしまった。
あれ、俺まだちゃんと返事してないんだけど……?
まいっか。
そう思えるくらいにはパンフレットのデザインは良いものが並んでいたし、珊瑚の事が好きだった。
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それから仕事帰りに二人で落ち合うと、件の店に行って発注する事になった。
費用は俺は折半でよかったんだが、珊瑚はやっぱり俺の誕生日用だから自分が持つと言って聞かなかった。彼女の矜持が許さなかったらしい。
店で指輪を作るにあたっていろいろ説明を受けることになったのだが、初めて知る宝石の知識。
宝石でアクセサリーを作る時にはそれぞれ石に見合ったグレードの金属を使うのだそうだ。
ダイアモンドなら金やプラチナ。エメラルドやルビー、サファイアなどもそうだ。高価な石には高価な金属を使うのが定番らしい。
などと色々と細々(こまごま)な説明をされたが、最終的に珊瑚には銀ぐらいの金属を使うのが丁度良いと言われた。
でも、今は合金でも良い物があるから、温泉に入る事での劣化を避けたり、金属アレルギーがあるなら別の金属も用意できるとも言われた。
俺は特にアレルギーも無いし、正直金属は何でも良かった。
珊瑚に聞いたら、手入れの手間はかかるが、銀の方が響きが良いから銀にするといったので俺はそれに合わせる事にした。
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ちなみにマメ知識だが、金属の価値は時代によって変わるので、アルミニウムが高価だった明治時代から昔にはダイアモンドが付いた
アルミニウムの簪(かんざし)なんて物も存在していたらしい。
アルミニウムとダイアモンドだなんて、今では考えられない組み合わせだ。
そして出来たのが俺のこの薬指にはまっているリングであり、彼女の腕ごと無くなったリングでもある。
ちなみにデザインは中華風の袋に入っていたので、そこから基本イメージを持ってきつつも男女関係なく使えそうな和風の龍をあしらったスタイリッシュな
シルバーの指輪が出来上がったのだった――……
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ふと気が付くと朝になっていた。
俺はソファに寄りかかったまま寝てしまったらしい。
なんだか懐かしい夢を見た気がする。
しかしどんな夢を見たかはよく憶えていない。でも、思い出そうとすると泣きそうになるのできっと珊瑚に関する夢だろう。
寄りかかった姿勢で眠っていたので目を開けてすぐ指輪が視界に目に入り、目を逸らす。
泣きじゃくったまま顔も洗わず寝てしまったので顔中が痛い。
とりあえず顔を洗おう。
俺は洗面台に寄らず流しで顔を洗うと、
タオルを用意してなかったことを思い出してビショビショのままタンスに向かってフェイスタオルを引き出す。
「痛っ……」
涙ですっかり荒れてしまった肌は柔らかなタオルの生地さえも受け付けてはくれず、俺は仕方なく慎重に優しく叩くように水気を拭うが、
床に零して来た水滴まで片付ける気にはなれず、そのまま寝室のベッドに移動して倒れ込む。
給料を叩いて買ったスプリングを使わないベッドマットは静かに俺を受け止めると、精神的疲れもあってかウトウトし始める。
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――珊瑚。
――珊瑚。
どうして居なくなってしまったんだ。俺がもっと強く靴の事を言っていればよかったのか?
そもそも風の強さを見て撮影自体を中止すればよかったのか?
後悔してもしきらず、目を瞑るとあの日の光景ばかりが浮かんでは消える。
崖から海へ吸い込まれるように小さくなっていく彼女の姿。
そして俺の意識は深い深い眠りの海へ落ちていった――……。
……――姉様ははいつ******して、妾(わらわ)から******なモノを奪っていきなさる?
い*****。妾は姉様のような美しさも才能もないのに、姉様はそれから更******から大切なモノを……あの方までも奪っていきなさる……!
――ええぃ何を*****。アレは元々我を******のじゃ。解らぬか。お前は******のじゃ。
************************だけじゃ!
――嘘! あのお方は妾を心から*********言っておった。それを嘘だと? あの*******妾に嘘を吐いている*******るか。姉様は本当に卑劣じゃ。鬼じゃ――……
何だ? 誰か喋っている……言い争っている? しかしよく聞こえない。
潮騒が五月蝿くてよく聞こえない。
一体何を言い争っているんだ?
夜――月明かり――海――どこかの崖――見覚えがある――? どこだ? ああよく思い出せない。
俺は今、一体何を見ているんだ?
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「……――と、なと。真翔! 起きなさい!」
(はっ……)
誰かに揺り起こされて俺の意識は急浮上する。
俺は訳も解らぬまま身体を起こすと、傍に母さんが居た。
「か、母さん……」
「ずっと寝てたの? 電話しても反応がないから心配して見に来たのよ。大丈夫? あら、すごい隈(くま)……」
そう言って母さんは心配そうに俺の顔を覗き込んだ。
「電話、していたのか。全然気がつかなかった。今何時?」
「もうあなたが帰宅してから一日半経ってとっくにお昼も過ぎてます! その様子だとご飯も食べてないんでしょ。持ってきたから食べなさい。
あなたの好きな煮込みハンバーグよ」
そう言って母さんは寝室からキッチンへと向かっていったが、俺は食事は正直いらない……何も食べていないはずなのだが、お腹が全く空いていないのだ。
しかし折角持ってきてくれた母の好意を無駄にも出来ないので、ノロノロと俺もキッチンに移動する。
リビングのガラステーブルの上に保温性のある陶器のタッパーが置いてあり、
フォークが並べてあったのでそのまま座ってタッパーの蓋を開ける。
(うっ……)
空きっ腹で嗅ぐ噎せ返る肉の匂いにその場で吐きそうになるが、母さんのいる手前それを堪えて恐る恐る一口食べる。
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うわぁ……恐ろしい程に味がしない……ただただ舌の上で崩れる……粘土でもない、味のないそぼろのような……何か。
またまた吐きそうになるが、それを堪えて嚥下する。
噛むと吐き気がするだけなので、水を汲んでもらってハンバーグをひたすら流し込む。
そして食べ終わると、母さんにタッパーを返して、まだ眠いからとサッサと追い返した。
母さんは俺を心配してもう少し看病していたそうだったが、一人にして欲しいと言うと、何も言わずに帰って行った。
おれは母さんの気配がなくなったのを確認すると直ぐにトイレに駆け込んで、たった今食べたハンバーグを全部吐き出した。
胃が、食べ物を全拒否している。
きっと暫くは母さんが心配して食べ物を持ってくるのだろう。
今は放っておいて欲しいのに。でも、そうもいかないだろう。
このやり取りを暫く繰り返す羽目になるのかと思うとうんざりする。
「珊瑚ぉ……」
トイレで崩れ落ちたまま帰って来ない愛しい女の名前を呟いた。
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それから2週間これを繰り返し、やっと少しずつだが吐かずに食事が出来るようになってきた。
母さんは俺が何を食べても吐いてしまっている様子には気が付いているようだったが、突っ込まず、
黙って食事をもって来続けていた。
だが、それにも漸く回復の兆しが見え始めた事に気が付いたらしく、険しかった表情が徐々に和らいでいった。
他にも仕事場からも心配の電話が定期的に入っており、俺は機械的に状況報告をしていた。
食事がまともに出来ない内は復帰はまだ難しいと答えていたが、食事が出来る様になってきた今は、
今はむしろ仕事に打ち込んだ方が何も考えずに済むのでは?
と考え始めていた。
そして、それから更に2〜3週間程。
俺はやっと、スーツを着て離れていた職場を久々に訪れていた。
何ヶ月も離れていたなんて俺としては嘘のようだが、実際俺がオフィスに現れた瞬間の皆の表情は今でも忘れない。
それを見て俺は一体何度一生忘れられない体験をすればいいのだろう? そんな事を思って苦笑した。
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いつもは俺に対し風当たりの強い上司まで寄っては来なかったが目を潤ませていた。
職場のみんなは大人だった。
皆、俺の体調の心配をしては声を掛けて来るが、珊瑚の事には一切触れず、俺が席に着くのを見ていた。
そして久々の仕事は肩慣らしにもならないただの書類整理だった。
まあ、俺自身現状それ以上のタスクを課せられても処理できる自信はなかったが。
ともかく、俺は事故から約7ヶ月程経って漸く職場復帰も果たしたのだ。
だが俺はこの時、自分が寝ている間に見ている夢の事は起きてる間全く記憶に無かった。
自分が『あの夢』に毎晩うなされてる自覚すら無かったのだ。
そして、少しずつ、少しずつ『アレ』は育っていくのだった。
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今回はここまでです。
それではではしばらく書き溜めたり色々してきます。
コメントのできる限り返信はいたします。
ではまた!
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乙
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乙です
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>>55
>>56
ありがとうございます
順調に書き溜めています
後 色々見て回っています
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sage忘れた 紛らわしくてすみません
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現状2回分くらい溜まってきたので今日辺り更新しようかと思いますが、ペース的にはいかがでしょうか?
アドバイスいただけるとありがたいです。
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特にコメントがなければ、今夜更新します。
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日々レスがあるのは有難い
このままよろしく
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>>61
わかりました
有難うございます
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今夜は9時頃更新します。
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今晩は。
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……――ねえ、アンタ。妾が居るんだからそんな顔はもうおよしよ姉*****だから、妾達がお家を守っていきましょう?
顔はよく見えないが、太ましい和服の女が親しげに身を寄せてくるのが見えて俺は思わず座ったまま後ずさった。
……――どう****の? 確かに姉様が****なったのは妾も悲し****れど、あれは事****じゃあないかい。妾も少しやりすぎたと*****てるけど、夫婦(めおと)*****のは妾達*****だから、前を向い******じゃないかぃ。
嘘を付け。お前には明らかに……。それに俺が必要なのはお前じゃない。
ふと女の手が持つ艶やかな赤い枝のような物が目に入る。
女はそれを持ったまま後ずさる俺に迫って来る。
それは赤い――紅い――……。
(止めろ、それを俺に近づけるな。それは*****の――……
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「はっ……!」
俺はハッと目を覚まして起き上がる。
自分の身体を触ってみると凄い汗を掻いており、身に纏う灰色のタンクトップもピッタリと身体に張り付き、身体に掛けていた羽根布団も、シーツも汗でじんわり濡れていた。
最近凄く夢見が悪い気がする。
珊瑚の事を思い出してるとか、そういうのとは違う感覚。
夢の内容はよく憶えてはいないが、何だかそんな気がするのだ。
(今何時だ……)
思わず時計を見ると、まだ夜中の2時を軽く過ぎたあたりだった。
まだ寝てからそんなに経ってないじゃないか。
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職場に復帰してから約3ヶ月。
最初の1ヶ月こそ様子見で新人の女子より軽い仕事をさせられていたが、俺が「もう大丈夫」と自己申告すると、もともと人手が足りなかった事もあってかすぐに仕事の難易度は徐々に上がり、
今では前と変わらない……いや、前以上に俺は仕事に打ち込むようになっていた。
本来ならやらなくて良い他人の残業も進んで引き受け、終電ギリギリまで作業する日も少なくはなく、休日出勤もして、休みはほぼ食事の時間と帰宅してからの就寝時間だけとなりつつあった。
そんな俺を見かねて、同僚から流石に無理しすぎではないかと声をかけられる事もあったが、今の俺には考える時間が無い方が有難かったので、
気に掛けてくれたお礼だけ言って仕事を続けた。
周りも俺の気持ちを察して、間も無く必要以上に声はかけて来なくなった。
少しでも余裕があると珊瑚の事を思い出してしまう。
それだけが本当に辛かった。
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それでもどうしても休まなくてはいけない日は、花束を持って珊瑚の眠る墓の前や珊瑚の御両親の家で時間を過ごした。
珊瑚の御両親は俺が来るととても喜び、もう珊瑚も居ないのに俺を本当の息子のように扱ってくれて、写真を交えて珊瑚の生前の話に花を咲かせた。
正直俺は辛かったが、墓にはついつい足が向いてしまうし、珊瑚の御両親も親である自分達がの知らない珊瑚のエピソードを話すととても喜んでくれるので偶に訪問させてもらっている。
弟くんも俺をとても慕ってくれていて、特に大学受験を控えている今は、顔を出すと俺に勉強を教えてくれとせがむ事もあった。
珊瑚の実家に顔出すように、自分の実家に帰る事もあったが、寧ろこっちの方が俺に掛ける言葉の無い両親の空気を感じて気まずさに直ぐに帰宅してしまい、
持て余した時間を睡眠に当ててしまう事も少なくなかった。
眠ってしまえば何も考えずに済むから。
まだまだ珊瑚に深く関わっていた人間の誰もが、その存在を失ってしまった心の穴を埋められずに戸惑っていたままだった。
-
それにしても何だろう、この違和感は。
少し前から感じていたが、ただの疲れだろうと思って深く考えない様にしていた。
だが、ここ1週間くらい前から特に強く感じるようになってきた。
例えるとしたら、どこか別の世界に行っていたような感覚……?
もっと言うならその世界の人間とリンクしていたかのような繋がりさえ感じる。
――誰と?
そんなの判るはずがない。
異世界。そんな発想が出た時点でなんだか馬鹿馬鹿しくなって再び布団に潜る。
寝床はまだじっとりとして気持ち悪いが、わざわざシーツを敷き直すような気力は無かった。
それから10分程まんじりとしていたが、矢張り疲れが溜まっていたのか俺の意識は崩れ落ちるように再び眠りの世界へと戻っていった。
-
それから2、3日後。
俺に明らかな異変が起きたのはその頃からだった。
「九川さん、コーヒー持ってきましたよ」
職場の女の子が昼休みになっても根を詰める俺を気遣ってコーヒーを持ってきてくれた。
「あ、ありがとう」
パソコンのキーを叩く手を止めて振り返り、それを受け取ろうとした瞬間……手が空を切り、受け取り損ねたコーヒーの入った紙コップが床に転がる。
(あれ……?)
「やだっ! ごめんなさーい! 今片付けますね!」
リノリウムの床にぶちまけられたコーヒーを見て、女の子は慌てて片付けるための雑巾か何かを取りに走り去って行った。
幸いコーヒーは椅子の前に落ちたので俺のスラックスには飛沫一つかからなかった。
おかしいな。今確実に掴んだと思ったはずだったのに。
俺は怪訝に思いながら自分の手を怪訝な思いで見詰めて、グーパーと握り直してみた。
-
それが始まりだった。
あのコーヒーを取り損ねたのをきっかけに、些細な仕草での失敗を立て続けに起こすようになった。
やっぱり物を取ろうとする度に遠かったり、今度は近すぎたりして、物を落としたり、指や手、頭をぶつけたり、足をもつれさせて転んだり。
そう、丸で遠近感が狂ってしまったようになってしまった。
そして、妙に右目がぼやけて見えるようになった。
(疲れ目……? 最近仕事ばかりしすぎていたからな……)
珊瑚の事を忘れたかったとはいえ、知らず知らずの内にオーバーワークになっていたのかもしれない。
しょうがないから眼鏡でも買おうか。そんな事を思い始めていた朝。
最近ぼやけてしょうがない右目がここ最近で一番妙にゴロゴロするので、なにかゴミでも入ったかと思いつつも、
ヒゲを剃るために洗面台に立ち、ふと鏡に映る自分を見ると、異変を感じる右目の光彩が深い緑色に変色している事に一目で気が付いた。
「な……何だ、これ……!」
俺は慌てて鏡に張り付いて顔を覗き込み、右目の状態を間近で確かめようとする。
すると右目のの光彩に薄く濁った深緑色をした半透明のゼリー状の笠の様な物が被さっているのが、
ぼやける右目とまだしっかりと見える左目で何とか確認できた。
そのまま色々な角度から確認するように瞼を捲って目玉をギョロギョロと動かしてみる。
間違いない。最近の右目の不調はこれのせいだ。
-
(しかし一体これは何だ? 入院中いろいろな検査を受けたが、緑内障になるような眼圧も確認されていなかったし、
そもそも耳に聞く緑内障とも何か違う……一応病院、行ったほうが良いのか?)
暫し考えて、急遽仕事場に休みを入れて素直に病院に行く事にした。
折角助かった命だ。無駄にしたら珊瑚が悲しむと思ったのだ。
だから少しでも異変があればちゃんと病院には行く。
(俺は生きるよ……お前の分まで……珊瑚……!)
ちなみに仕事場は嫌な声一つ出さず快諾してくれた。
あっちも口に出さねど、俺の事を相当心配していたのが電話越しにも伝わってきて申し訳なくなった。
そして俺は早速眼科に向かった。
-
医者は俺の右目を見るなり首を大きく傾げた。
その様子に俺は訊ねる。
「どうしたんですか? やっぱ変な病気にでも罹っていましたか?」
そうすると医者は暫く唸って。
「こんな症例は見た事無い」
と、断言した。
「見たことが無い? 緑色だから緑内障の仲間かと思いましたが……」
「緑内障は視神経に支障をきたす病気で、視野が狭くなる病気だが、全体的にぼけるという形での自覚症状やこんな笠が光彩に掛かる病気ではないよ。
もし、光彩に異常をきたすならもっと違う症状だ。これは何か違う」
「そうなんですか……」
俺に眼病の知識はほとんど無いので上手い返答できるはずもなく、珍しげに弄る医者のされるがままになっている。
医者はよほど頭を悩ませているのか、俺の右目の網膜に気を付けつつ謎の笠に横から光を当てたりと、色んな角度で精査していく。
そして言った。
「もし、嫌ではなかったら……この笠の細胞を少し採取させて貰って良いかな? もしかしたらここでは判らない希少な病気かも知れないから、もっと大きな機関に回して検査してもらおう」
医者の提案に俺は迷わず頷いた。
-
「お願いします」
そして俺は診察を終え、念のため点眼液を処方してもらって帰宅した。
と言っても何の病気か判らないのでただの抗生物質だ。
細胞採取のために表面を削ったので、雑菌を避けるために今は眼帯を付けている。
(大きな機関で検査か。何事もなければ良いんだけど……)
そう願って大きく溜息を吐くと、寝室に行って寝転んだ。
何だかんだやって帰ってきたが、まだ夕食を食べるには早い時間だった。
でも、昼も食べていなかった。
朝少し食べたきり。でも、食欲はほとんど湧いてこない。
正直、最近仕事で着ている持ち前のスーツは痩せてしまってとっくにダブダブになっていたが、
全部買い換えるにはお金がかかるのでベルトを締めたりして工夫し、そのまま使っている。
当然珊瑚と作った指輪もユルユルに――……
ふと左手を天井に掲げて指輪を見ると、指輪は相変わず設えたようにピッタリと薬指にはまっていた。
-
(あれ……? 俺、痩せたよな? でも何で、指輪は緩くなってないんだ?)
スーツや服があんなに緩くなっているし、見た目にも俺の指は明らかに細くなったと思う。
丸で女の指かと思うくらいに。
なのに何故、男サイズで作った指輪がピッタリはまっているのだろう?
俺は不思議に思って指輪に手を掛けるが、全くびくともせず、抜ける様子が無い。
(久々に帰宅した時は普通に指から外せそうだったのに……どうして?!)
俺は混乱する。
だが、少し考えてそれ以上考えるのを止めた。
(馬鹿馬鹿しい……指輪が何だって言うんだ。どうせ外す勇気なんか無いんだ……外れようが外せまいがどうだっていい……)
そして俺は指輪のはまった薬指を額に乗せて目を閉じた。
こうしていると、指輪を造りに行った日の珊瑚の笑顔と笑い声が聞こえてくる様だった。
-
あれから目の調子はどんどんとおかしくなっていった。
ずっと眼帯を付けていても、まぶたに眼球にできた突起が明らかに当たるのが判る様になってきたので、
異常をこれ以上他の人に悟られは心配が掛かるので眼帯はもう必需品となった。
そして俺は動揺を隠して何事も無いかのように仕事をし続けた。
周囲には物貰いか何かが悪化したようだと説明しておいた。
病院からの連絡はまだ無い。一体どうなっているのだろう?
目の異常はあの日以降変化は加速していったように思えた。
病院の連絡を待ってる間に膨れた眼球でまぶたが開いているのか閉じているのかさえも判らなくなってしまったくらいだ。
それから、俺が眼に異常を発見して病院に行ってから数週間後の朝。
携帯の音で俺は起こされた。
画面を見ると知らない番号。出ると電話の主は病院からだった。
『九川真翔さんの携帯でよろしかったでしょうか。国立××付属大病院、眼科研究室長の――……』
研究室? 俺の検査はそんな所まで話が及んでいたのか?
-
俺は研究室長を名乗る医師と思われる年配の男性の声を電話越しに聞き、驚きつつ生返事をする。
「え、あ……はい」
『朝早く済みません。検査の結果が出たのでお伝えさせていただこうと思いまして』
電話の向こうで色々と何か喋っている。
その声を聞きながら俺は仕事の準備のために洗面台に向かい、そして返事をしながらも鏡の前で呆然としていた。
「はい……はい……」
『――で、その結果、採取された細胞は人間の物というより、
植物に近いと思われるという結果が出まして……それでですね――……』
植物――? そんな事、言われないでも解ってる。
見れば判る。
俺は異常が大きくなって瞼が閉じにくくなってから寝る時は眼帯を外して寝ていたが、
鏡に映ったそれは真に『それ』としか表現できなかった。
目の当たりにしながらも俄かに信じられないでいた。
-
(一体――どういう――事――……なんだ?)
瞼の下でこんなものが育っていたなんて、誰が想像できようか?
鏡に映る俺の左側……つまり右目には、見事な真っ赤な花が咲いていた。
見た目を例えるならダリアのように花弁の多い花で、でもその一枚一枚自体は表面が滑らかで肉は薄い感じ。
それが、花だけがピッタリと肌に貼り付く様に瞳から開花していた。
それはそれは赤い、紅い、俺の左手の薬指にはまる血珊瑚の様に鮮やかでいて仄かに暗い、真っ赤な――真っ赤な花が。
『もしもーし? 九川さん? 九川さーん?』
ショックのあまり耳から外れて手でぶら下げているだけとなってしまった携帯から、暫くの間医者の声が垂れ流しになっていたが、
俺の耳にはもう届いてはいなかった。
-
今回はここまでです。
またしても何ヶ所か修正しそびれがあって悔しいです><
ではまたお会いしましょう。
-
そろそろ半分くらいの予定です。(ストック含めて希望的観測)
-
乙
-
>>81
有難うございます。
ちょっと数話息の詰まる展開が続くのでCM的に息抜き。
次作候補を2作程予告的に並べておきます。
A:僕のくるみちゃん(仮)※ラブコメ?
昔に考えて放っておいたら時代が追いついちゃった当時早すぎたネタを使っています。
「悠くん、引っ越しても私の事忘れないでね。絶対だよ!」
瀬尾胡桃はトレードマークのサラサラのツインテールを風に揺らしながら、セダンに乗る僕に向かって涙ながらに訴える。
「うん。僕も絶対忘れない……今はメールもあるし、時々でもまた会おうね!」
僕、及川悠は走り出す車を追ってくる胡桃ちゃんに向かって、その姿が見えなくなるまでいつまでも手を振った。
それから数年。
僕達2人は携帯メールを交わし続けたが、距離もあって小学校四年の時に別れたまま会えない日々が続いていたが、中学2年の夏休み、漸く再会の約束を取り付ける事に成功した。
(やった! 胡桃ちゃんにあえる!)
携帯メールに添付されてきた写真を手に、バスに揺られて幼い時代を過ごした町に向かっていた。
写真には私服の男女が数人写っている。
本当は胡桃ちゃん一人の写真が欲しかったけど、大勢で写真を撮る方が多くこういうのしか無かったという事。
画像の中心には超絶美少女のツインテールの女の子が写っている。
(胡桃ちゃん、あの時よりだいぶ大人びた感じだけど、何年たっても可愛いなあ……)
一緒に男も写ってるけど、彼氏とかじゃないよね?
右端に映るイケメンを見て、嫌な想像をしては打ち消す。
そんな事を考えている内に目的地に着いた。
昔通っていた小学校だ。懐かしいなぁ……。
(そろそろ待ち合わせ時間だけど……胡桃ちゃん先に来てたりするのかな?)
キョロキョロしていると、どこかから声が掛かる。
-
「おーい悠! こっちこっち!」
声に反応して振り向くと、見知らぬ少年が手を振っていた。
(誰だよ……でもあれ? どこかで見覚えが……)
おもむろに携帯を開いて画像を見ると、手を振っているのは添付画像に写っているイケメン少年だった。
少年が満面の笑みで駆け寄ってくる。
「よっ! 久しぶり!」
「えっ、誰?」
「誰って、約束してたのに冷たいなぁ……画像まで送ったのに」
僕の返事にぶーたれるイケメン。
「いや、僕あなたの事知らないですし。本当に」
「本当に? 俺だよ俺。オレオレ」
いや、俺と言われましても……どこのオレオレ詐欺ですか?
「あ、こう言った方が良いか。私よ私。あなたの可愛い瀬尾胡桃! 忘れちゃった?」
と、イケメンがキャピっとウインクした。
キモっ!
「って、胡桃ちゃん?! え、ええ?! えええええええええ?!」
携帯を開いて画像と見比べる。
じゃあ、このツインテの美少女は……。
口をパクパクさせながら指差していると。
それに気がついたのか。
「もしかして真ん中の女の子俺だと思ったの? それ、ナナだよ?」
-
「ナナ?! ナナってあのガキ大将ナナオって呼ばれていた?!」
「そーだよー? 小六の頃から変化し始めて、中学で開花した感じ? 今じゃ学園のアイドルだよ」
あの男っぽかったナナが美少女で、美少女だった胡桃ちゃんがイケメンで……。
一体どうなっているんだーーーー?!
こうして俺の夢は崩れ、謎の(多分性的)サバイバルな夏休みが始まった。
抜粋
「あの、当たってるんだけど……」
「当ててんだよ、って言った方が良い?」
次あたりはCM、Bバージョン入れてみようかと。
-
このペースで創作・執筆する強い立場を承認します。
引き続き作品を楽しみにしてます。
-
>>85
理解ありがとうございます!
-
ストック一本増えました。
ラストスパートに向けてへの目処も立ちました。
明日最新話更新します。
-
ついでなのでCM、1本おいていきます。
今回の作品終了後、興味ある方コメントいただけると嬉しいです。
更新の参考にします。
Aが良いとか、Bが良いとか気軽にコメントください。
-
B:リーゼロッテ姫の憂鬱(仮)
中世系ファンタジー物なのに、元ネタはおでん串とか次元超えすぎて意味不明。
私の名前はリーゼロッテ。とある国の姫よ。
立場を利用して一寸色々イケナイ遊びをしてるんだけど、男達は皆最終的には喜んで私のヒールを舐めてくれるから問題無いわね。
でも最近何だか退屈。
皆簡単に堕ち過ぎなのよ。
そう言えばお父様がまた一つ国を落としたって言ってたわね……。
折角だから新しい奴隷市場でも行って、良さそうな獲物でも物色してこようかしら?
そして私は護衛を連れて国境にある敗戦国民達が競りにかけられる市場までやってきた。
馬上から並べられ、品定めされている敗戦国民たちを眺めながら、あまりの退屈さに私は思わず欠伸を漏らす。
(今のところめぼしい獲物は居ないわねぇ……詰らないわ。もう帰っちゃおっかしら……ん?)
ふと視界の端に、一般敗戦国民とは別に纏められている男達を見付け、その中に混じって妙に瞳の死んだ男が目に入る。
私は何故かその男が気になり、馬を止めて眺めた。
男は他の奴隷とは違って檻に入っているでもなく、全裸でロープに繋がれているでもなく、複数の男達と鎖で連なるように並べられ繋がっている。
「ちょっと貴方達、そこの男は売り物?」
私は彼等の前で見張りをしている衛兵に声を掛ける。
-
「は! これは姫殿下。あれは敗戦国の捕虜で、次の戦の尖兵・前衛兵になる予定で、ただの売り物奴隷とは別枠となっております」
(ふぅん。一応軍人って訳ね……妙に体格が良いはずだわ)
目が死んでるのは、やっぱり戦に負けたから? 随分愛国心が強いのね。
面白い。たまには本当の意味で人間のプライドを踏みにじってみるってみるのも楽しそうね。
そんな考えが脳裏に浮かんだ。
「分かったわ。そこの、紫色の目をした男を一人私に寄越してくれる?」
「え、ですが姫殿下、彼等は……」
「私に口答えをするの?」
そう言って馬上から氷のような眼差しで見下ろすと、衛兵は黙って態度を変えて「解りました。ただ今連れてまいります!」と答えて男から手錠を外してロープを付け直した。
(ふふ、さて。これからどうやって遊ぼうかしら……)
様々な思考が頭を巡り、期待で口元が否が応にも綻んだ。
抜粋
「どうして?! どうしてあなたはずっとそんな目をしてられるの?」
私は感情のままに鞭を振るうも、男は沈黙を保ったまま顔色一つ変えはしない。
それが余計に私を苛立たせた。
抜粋:2
「それじゃあ貴方はずっと……それを……?!」
燃え盛る炎の中、男は剣を携えたまま背後に居る私をチラリと見た。
-
今晩は いつもありがとうございます
今夜更新します
-
日付越えたあたりです。
-
こんばんは。
-
取り敢えず、動揺が収まらないので職場には休みの連絡を入れた。
風邪とか適当な理由をつけようと思ったら、俺が言う前に何も言わず了承されてしまった。
拍子抜けである。
そして最近本当に働きすぎだと逆に怒られた。
これ以上は労働監督署も煩いから、出勤も暫くフレックスで良いくらいだとも言われて電話を切られてしまった。
俺は珊瑚の事を考えたくないあまり、少々やりすぎてしまったらしい。
とまあ、こういう訳で時間は出来た。
(さて、どうしたものか……一体全体、俺に一体何が起きているんだ?)
おもむろに右目の辺りを触ってみると、指に触れるのは確かに生の花の感触である。
花弁があり、細かな雄蕊(おしべ)や雌蕊(めしべ)がびっしり生えている。
病院からの電話は放置していたらいつの間にか切れていたが、掛け直す気にはなれなかった。
-
いや、掛け直して状況説明したところで信じてもらえないか、伝わったらむしろ大事になってしまう。
そんな事態は御免被りたい。
しかしどうしたら、この意味不明な状況を自分が理解し、納得し、打破できるというのだろう?
矢張り病院に――……。
(いやいや、最初から見た事が無いと言われ、聞いた事も無い大きな病院の研究室の室長から直々に電話を寄越すくらいだから、
下手な事をすれば俺はまた暫く病院詰めになってしまうかもしれないし、最悪モルモットにされるかもしれない……そんなの、絶対嫌だ。別の手段を考えよう……)
それから暫くリビングのソファに腰掛けて、どうしてこうなったのか、関係のありそうな事を片っ端から思い出そうと試みる。
だが、眼から花が咲くような事に繋がるような事がそうそう思い付いたりするはずも無く、時間だけが無駄に過ぎていった。
そして。
グ〜……。
不意にお腹が鳴り、久々に自分がお腹が空いている事に気が付いた。
-
時計を見ると昼はとっくに過ぎて2時を回ろうとしていた。
(もうこんな時間か。早朝から時間が過ぎるのが早いな……というか、自分でお腹が空いたって思うのって、何だか久しぶりだ……)
そう思って冷蔵庫を開けるが、最近ずっとまともに食事していなかったので、冷蔵庫の中にはほとんど食料は入っておらず、ビールの500ml缶が数本入っているだけだった。
「………」
日常の積み重ねって大事だな……と、切な気に思った。
しょうがないからコンビニにでも行こうか、とも思ったが、この花が隠れるような眼帯を付けたまま短距離とはいえ
外を練り歩くのは恥ずかしかったので宅配ピザを取る事にした。
そのくらいならそんなに恥ずかしくないし、あっちも気にしないだろう。
そう思ってパソコンから発注する。
(40分くらいか……じゃあ、30分くらいだな)
こういうサービスは苦情を避けるために大抵少し幅を取って宅配時間を表示してあるものだ。
で、問題に戻るわけだが。再びソファに座って考える。
そして右目の花に手を当て。
一体、何がキッカケでこんな物が眼から生えてきたのか。
チラリと膝に乗せた左手の薬指にはまる指輪に目が行く。
(血珊瑚の色――……)
どことなく……・いや、この花の色に酷似している。
-
もしかして何か関係があったりするのだろうか?
しかしこれはたまたま珊瑚が買ってきた物で、何か曰くがあるならもっと前から異変があってもよかったはずだ。
今更これが何かを起こしたとは思い難いが――……。
しかし何となく頭の隅に引っかかった。
何だろう。この妙な既視感めいた感覚は。
そんな事を考える内にインターホンが鳴った。
多分ピザ屋だろう。
「あ、ハーイ!」
俺はポケットから折りたたみの黒い革財布をつかみ出すと立ち上がった。
その時……。
――ザザッ!
目の前に不意にザッピングが走るように何かのヴィジョンが視界を横切る。
砂嵐に混じって誰かの手が赤い枝の様な物を持っているのが見えて、俺は思わずバランスを崩してよろける。
(……?……?)
何が起こったのか分からず、疑問符を浮かべたままへたり込む俺。
だが、またインターホンが鳴ったので慌てて玄関に向かい、ピザ屋からピザを受け取って戻ってきた。
ピザを受け取っている間に今見た光景の事は忘れ、久々に空腹に促されるままMサイズのピザを一枚平らげた。
-
空腹を満たしてひと心地着いていると、ビザ屋が来た時に見た謎のヴィジョンの事をふと思い出した。
(あの光景、どこかで見た気がするんだよな……)
夢で見ている事などはすっかり忘れ、どこで見たのか思い出そうと必死になる。
そして、何となく寝室に目が行く。
そこで最近夢見が悪かった事を思い出す。
その時、なぜそう思ったのか自分でも分からないが、寝室に――眠りに答えがあるような気がしてしょうがなくなった。
今思えば無意識に何度となく見続けていた夢の記憶が残っていたのかもしれない。
俺は満腹感もあってか、不意に眠気が押し寄せてきたのもあって一眠りする事にした。
眠れば何かヒントが得られるような気がしてしょうがないのもあった。
そしてその感は間違いではなかったと後で確信する事になる。
-
眠気のあまり寝巻きにも着替えないまま布団に潜り込むと、あっという間に俺の意識は遠のいて行った。
今までに感じた事の無い浮遊感が身体を包み込み、気が付けば俺は青空――空中を物凄い勢いで降下していた。
身体全体が風を切り地上に向かって落ちてゆく。
雲を抜けるとそこは崖のある海岸。
俺は海に向かって落ちて行っている事に気が付き、慌てる。
あの日、珊瑚と一緒に海に落ちた日の事を思い出して――……。
だが次の瞬間。俺は空から別の場所に移っていた。
時も変わったのか、空は青から漆黒じみた星の散らばる深い紺色に変わり、少し欠けた月がぼんやり浮いていた。
辺りを見回すとそこは白い砂の広がる浜辺で、見下ろすと草履を履いた男の足が見えた。
状況が飲み込めないまま立ち尽くしていると、背後から声が掛かる。
女の声だ。
-
『お待たせ。お待ちになった?』
顔はよく見えないが、自分より一回りは小さな女が口元を綻ばせて駆け寄ってくる。
女の声は妙に反響しているのと潮騒に混じっていて聞こえ難いが、言っている事は聞こえない事もなかった。
――いや、そんな事は無い。
これは俺の声か?
頭の中で喋っているように感じて何だか気持ちが悪い。
『あの子を誤魔化すのにちょいと時間がかかっちまってさ……あの人もね。ちょいと、ここは目立つから場所を移しましょ……いつもの祠に、ね……』
そう言って女は俺の袖――和服の袖を引いて更に人気の無い場所へと歩いて行く。
女に導かれるまま歩いて行くまま歩いていくと、しめ縄のかかった小さな鳥居のある岩場の多い祠にやってくる。
岩壁を削って造った様な祠には古ぼけた赤い前掛けを付けた、石で出来た兎の地蔵? の様なモノが祀ってあり、
兎地蔵の前には菊の花や花咲く野草、餅の様な白い塊が幾つか供えてあるのが見えた。
俺達は岩場の一番目立たない所に腰を下ろすと、女は岩越しに辺りを確認して漸く安心したように大きく溜息を吐いた。
――大丈夫か?
声をかけると彼女は小さく頷く。
そして女は火打石を打って手際良くもぐさで火種を作ると、蝋燭に火をつけて石の上に立て、
揺らめく淡い明かりの中でおもむろに着物の袖からあの赤い枝の様な物を取り出した――……
ザザッ――……!
-
砂嵐と共に不意に場面が変わる。
……――『****様、そんなお身体で雨の中お外に出てはまいりませぬ! あのお方の状態も良くないというのに、あなたまで完全に調子を崩されては、****様の居ない今、誰がこの家を守っていくと――……』
『ええい、離しておくれ! あのお方の調子が悪いからこそ、妾は行かねばならぬのだ! お百度参りは一日も欠かしてはならぬのだ。やり通してこそ神さん仏さんに願いが通じるというもの! いいから離せ! 離さぬかぁーー!!』
響き渡る女の怒号。そんな揉める男と女の声をぼんやりと聞いている俺が居た。
さっきまで浜に居たはずなのに、今は何故か布団に入って座っている。
そして俺の手には、赤い枝の様な物が握られていて――……
ザザッ――……!
また場面が変わった。
今度はよくわからないが、女と二人で合わせてお互いに赤い枝を持って向かい合っていた。
『主が持ってきてくれたこれ……この色は丸で血のようじゃ。だからほら、こうやって絡ませ合えば、我等の血が混ざり合ったかのよう……』
そう言って女は俺の持つ赤い枝に自分の持つ枝を絡み付かせた。
赤く艷やかなそれに対比するような女の白い手が印象的だった――……
-
その映像を最後に視界は歪み、俺はもっと良く見ようとするが、視界全体が虫食い状に燃え落ちるように暗闇に包まれ、俺は目覚めた。
そしてゆっくりと身体を起こすと、混乱しながらも初めてハッキリと自覚している夢の内容を整理し始めた。
今見た夢はかなり重要なヒントのはずだ。
でも決定的な何かが欠けている。それが何かは分からないが……。
多分それは過去に見た夢の分も遡らないといけないような気がするが、今は思い出せない。
とりあえず、共通していたのは『赤い枝』だ。
まずはこれを調べてみれば何か更なる手がかりが掴めるかも知れないと思った。
パソコンを立ち上げて検索をかけてみようと思ったが、肝心の検索ワードで躓く。
『赤い枝』なんて直球なワードで検索したところであの夢の謎が解けるはずが無い。
別のアプローチでの検索……どうすれば、あの赤い枝について調べられるのだろう?
少し考えて、あ……と気が付く。
そうか、見たまま検索しても良いんだ。
画像検索と言う手があった。
-
俺は早速大手検索サイトに『赤い枝』と打ち込んで、画像検索項目を押した。
案の定、無関係な画像が膨大に表示され苦笑する。
その殆どは自然やアート作品である。
それでも丁寧に、綿密に探っていくと、一枚の近似した画像に辿り着いた。
それはピンク色をしていて、色こそ大分違うものの、艶といい曲がり具合といい、確かにそれは夢で見た『アレ』そのものだった。
夢で見たそれは――多分『珊瑚の枝』だ。そうとしか考えられないくらい、よく似ていた。
(珊瑚……)
俺は思わず息を呑んで、左手の薬指にはまる指輪を見た。
指輪で禍々しく紅い光沢を放つ血珊瑚を凝視した。
-
とりあえず一旦手元に集まった情報を並べてみよう。
俺は最近ずっと同じ夢を見ていた。
それは随分昔の事のようで、登場人物は三人。女が二人と男が一人と思われる。
女のどちらかとは恋仲のような雰囲気があった。俺はそう感じた。
場所は崖のある浜辺の集落?
次に『赤い枝』の様な物が印象的に出てきていた。
それを調べたら珊瑚の枝らしい事が判った。
色からして、もしかしたら血珊瑚かもしれない。
そして俺の左手にも血珊瑚が付いている。
今のところ解っているのはこれだけだが、眼に花が咲いている事との関連性は特に見つけられなかった。
しかし、この血珊瑚に何かあるのは確かなのだろう。
-
俺は外れない指輪を撫でながらひたすら考え込んだ。
だが、今度は急にある一定の事柄より先を考えようとすると頭に靄が掛かったように思考が鈍ってしまう。
俺はしばらくそれと格闘した末に、その日は考えるのを諦めた。
仕方ない。
少々恥ずかしいが、明日からはこの花が見えないようにしっかりガーゼでもつけて出社しよう。
仕事場からはもう少し休んでいて良いと言われていたが、
家でジッとしているのも何なので出社時間だけずらして出勤する事にした。
周囲には心配されるだろうが、余計に考えたくない事が増えた今は仕事に逃げたかった。
ちなみに病院には連絡しない方向で意思は固まっていた。
眼から花が咲いただけでも面倒くさいのに、これ以上の大事は避けたかった。
それに多分、医者に掛かっても解決しないような気がしたのだ。
-
今回はここまで
ストックではラストスパートに入ろうとしています
また更新する日まで、さようなら
また お会いしましょう
-
更新まで閑話休題でもひとつ。
登場人物のキャラメイクについて。
作中で故人になってしまってる珊瑚ちゃんの話を少しだけしてみようと思います。
彼女を象るにあたって、私は掲示板に貼られている様々なコピペを参考にしました。
それでどういう女性像が男性受けするのか考えた末導き出した答えが、以下になりました。
変わり者だけど適度に自立していて、彼氏に上手く甘える事が出来る、どことなく子供っぽさを残した女性。
見た目は黒髪ロングで、肌は白い。顔つきは目が大きくて笑顔が可愛い良く笑う子。
現代っ子ぽく、家事の練度は嗜み程度に、女性としての仕草の愛らしさが魅力の子。
と言うイメージにしてみました。
自分なりに現代の理想的なアニマ的女性を目指したつもりです。
-
珊瑚ちゃんは真っ先に居なくなっちゃて、出番無くて何か可愛そうなのでこんな話してみました。
-
ちなみに名前の由来は 設定では父親が軽くアイドルヲタだったからです
青い珊g……ゲフンゲフン
母親は最初少し抵抗あったみたいですが 自分も嫌いな歌手じゃなかったので結局受け入れちゃったみたいな
作品イメージは赤なんですけどね
-
新婚旅行が沖縄だったのも……あるかな。(意味深)
-
ボリュームがあるから少し目を話すと読むのにエネルギーがいるな
それもそれでいいんだがな
-
>>111
あと少しで終わります
確かにボリュームあるので更新も二日くらい取ってますね
量的にはエルフちゃんとそんなに変わらない量で終わる予定です
今怒涛のラストスパート執筆中……と見せかけて私の悪い癖である、
書きたいけどラストに差し掛かると急にダルくなる症候群に襲われています
ここはコメントがゆっくりなので、そろそろ次作の参考アンケートをとりたいなー
なんて思っていたりもします
あくまで参考です
この作品の感想はもちろん 流したCM2本の内興味ある方
コメントしてもらえると興味傾向を把握しやすくて有難いです
-
おはようございます
ストックさっきまた一本書き終えたところですけど、ボリュームあるって意見ありますし
更新2日に1回から3日に1回くらいにしましょうか?
初読みから追いつくのに時間かかる人もいるでしょうし
今日はまだ更新しませんけど
更新までの時間を伸ばすなら伸ばすで私も別の事してますから
特にお気になさらず
とりあえず 読む方に負担がかかり過ぎてないかないか気になったので
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ボリュームの件なのですが 基本的にはこれでも簡略化に努めてるつもりです
しかしまだ私も未熟者ゆえ 手が回りきらない部分もあると思います
今回に関しましてはいろいろ考えた結果 ボリュームはありますが
このままのノリで行かせていただきたいと思います
出来上がりはどうであれ 最後の最後で妥協してしまったらこれだけの文字量が
全て無駄になってしまうので 全力を出し切って書き上げたいと思います
更新スピードのこともあり もう少しお付き合いいただくことになりますが
最後までよろしくお願いします
皆さんが満足していただけるようなラストが書けるように努力させていただきます
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おはようございます。
次作はB希望です。
三連休の方も多いと思うので、私は投下ペースを変えなくてもいいかなと思います。
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>>115
コメントありがとうございます 参考にします
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今夜あたり更新したいと思います
今日もひとつ閑話休題でも入れてみようかと
やっぱり キャラメイクのおはなしでもしてみようかと
今日は もう予定では出てくる予定の無いと思われる
チョイ役の主人公の先輩っぽい真田さんのおはなし
彼女はポジション的にはおぼっちゃまくんの「通りすがり聞く蔵」さんです
話を自然な状態で簡潔かつスピーディに進めるに当たって 主人公がぶちあたった
疑問を少しだけ手助けするキャラが必要でした
それにちょうど良かったのはやっぱり同じ会社の人間しか居ないと思いました
しかし それをどういうキャラにしようかと思った時 既に職場で腫れモノ状態の主人公に
気軽に話しかけられるような見極めの良さと キャラ立ちの両立を考えたときに
単なる同僚ではダメだし不自然だと思ったんです
そこで考えたのは主人公よりも経験値の高そうな面倒見の良さそうな人
→面倒見が良さそうっていうと女の人じゃないかなという連想的発展でキャラを膨らませていく形に
なっていきます
そして生まれたのが真田さんです
名前はぶっちゃけテキトーです 下の名前も考えていません これは多分主人公もちゃんと把握してないだろうと思って
深く掘り下げませんでした
そして女性としての真田さんですが 彼女もある意味私の中で理想的な女性としてイメージして象ってみました
面倒見のいいキャリアウーマンを文字場で表現するときに どうしたら良いかと考え まずオフィスコードを守った服装を
ビシッと決められるのは当たり前 でもそれだけじゃインパクトや説得力にかけるので 使い勝手の悪いおしゃれアイテムを
さりげなく自分のファッションに取り入れられられる女子力の高さ フレキシブルさで
彼女の人間としてのレベルの高さを表現してみました
そして 面倒見は良いのに誰のものでは無い部分で大人としての成熟度をさり気無く醸し出してみました
性格は誰にでも平等で コンサバティヴ でも 怒るときは怒るし 普段優しい分起こったらきっと怖い気がします
そんな女性です
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やべっ……読み返したら出演前のキャラのはなししてた……。orz
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長くて目が滑ったからノーカン
真田?誰だそれって思いながら飛ばした
本編はよ
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ちょうど次で出てきます
すみません
今回早めに投下します
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電話の音が鳴り響くオフィスで、今日も俺は仕事に没頭していた。
右目に生えた花を隠す大きなガーゼの眼帯。
最初こそ明らかに心配そうにする人は何人か居たが、黙々と出勤し続けていたら幾日か経つ頃には誰も何も言わなくなった。
多分本当は今でも心配されているのだろうが、きっと腫れ物的に触れられないでいるのだろう。
俺を少しでも知る者にとって俺は色々なモノを抱えすぎている人間となってしまった。
当然もう、俺を軽い気持ちで飲みに誘う人間も居ない。
昼休みになっても話し掛ける人間も皆無となった。
会社での会話は業務連絡のみ。
でも俺はそれで良いと思っている。
下手に深入りされるよりはずっと良い。
変に理解を示そうとされて付きまとわれても困るだけだ。
だから俺は今の状況は寂しくもないし、嫌いではなかった。
「おい……事業部の九川の奴、前にも増して仕事の鬼って感じらしいぞ……あいつのお陰であの部所の人間全員残業無しで帰れるようになったらしいじゃん。噂だけど……」
「へえ、ある意味羨ましいなそれ……俺なんか定時で帰れる事、稀だぞ? うちにも九川一人くらい欲しいな。……そこまで働けちゃってるならもしかしてこのまま昇進しちゃう系?」
「お前不謹慎! 昇進? いやぁ、理由的にそれは無いだろ〜……確かにスゲェ業績らしいけど、頑張ってる理由が理由だけに、昇進させても、急に正気に返って燃え尽きたりとかしたら悲惨だし」
「まあ、確かにそうだな。本当、散々だと思うよ。他人事ながら……」
「しっ! 九川が通るぞ」
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一息吐こうと思ってトイレに行く途中、廊下のあちこちから視線を感じたり話し声が聞こえた。
だが俺が通ると声は潜められるところを見ると話題は俺の事なのだろう。
当然の事ながら、他部所の人間にまで俺の噂は広がっているらしい。
でも俺はもうどうでも良かった。気にするのも面倒臭い。
もう、どうにでもしてくれ。
さっさとトイレを済まして席に戻ると、机の上にお菓子の箱が幾つか置いてあった。
名前が書いてないので立ったまま周囲を見回すと何人かが頭を隠したので、黙ってお辞儀をして席に着いた。
(本当、みんなに心配させてばっかりだな……俺は……)
みんなの優しさに思わず泣きそうになるがぐっと堪えてパソコンに向かい直した。
さて、話は戻って眼から生えた花の件に関してだが。
あれからまた、夢は見なくなった。
いや、正確は記憶に残らなくなったというのが正解だろう。
証拠はある。
朝の不快感と、涙の跡だ。
だが、花が咲いてからはただの不快感というより悲しみで目を覚ます事が多くなった。
何かを失った悲しみ、やるせない悲しみ、行き場の無い感情の渦。
そういったものが毎朝目覚めの時に涙と共に胸に溢れていた。
-
珊瑚を失った時の悲しみとは、また別種の悲しみだと思った。
俺は一体寝ている間にどんな夢を見ているのだろう?
ちなみに花は咲いてから暫く経つが、枯れる様子も無く、右目から瑞々しく咲き誇ったままだ。
会社で通うためにガーゼで抑えたりするが、そのくらいで特にへたれる様子も無い。
この花が現実にも存在する花なのか調べようともしてみたが、見た事も無い花なのでどう調べても良いか分からず、休みの日にパソコンや図書館で片っ端から調べているが、
今のところ類似した見た目の花すら見当たらない状況だ。
何だか全てがどん詰まり、と言った感じでうんざりする。
しかし、このままずっと放置しておくわけにもいかないので、せめて花の名前だけでも突き止めたいところだが、
この世には存在しない花という可能性も否めないので、謎の花をいつまで目に生やしたままにしなくてはいけないのか? と言う不安も抱えたままになっている。
まだ、珊瑚を失った悲しみからも立ち直っていないのに、全く散々だ。
そして俺は家に帰ると現実から逃れるように冷えたビールを一気に煽った。
でかい眼帯をつけたまま居酒屋とかには行けないので、もうずっと一人で晩酌をする日が続いている。
酒のつまみとかは特に無い。たまに用意する日もあるが。
基本的にはただ酔って、少しでも心の痛みが和らげば良い……それだけで酒を飲んでいた。
そしてしこたま飲み明かした後、俺はやっとスーツを脱ぎ捨ててシャワーを軽く浴びると、残った体力で寝巻きに着替えて布団に潜り込むのだ。
-
最近眠るのが怖い。
朝が来るのが怖い。
俺の知らない世界が寝ている間に広がっているのが怖い。
この謎の花を隠し通して生活していかなくてはいけないのが辛い。
そして何より、珊瑚が居ないこの世界が辛い。
珊瑚、珊瑚。
俺はどうすれば良い?
こんな謎の物体を目から生やしたまま一人でどう生きていけば良い?
お願いだ。そばに来て抱きしめてくれ。
どうして傍に居ないんだ? どうして居なくなってしまったんだ?
珊瑚、珊瑚。
会いたい。
そんな事を考えている内に俺は泣きながら眠りに就いた。
不思議な事に花に塞がれた眼も、涙を流すのだ。
-
……――潮騒の音が寄せては返し、それを聞きながら俺は砂浜を走っていた。何か約束があるようだ。
すると女の子の声が聞こえてきて、声を探るように浜辺の岩をよじ登る。
『姉様やめたげてよー、かわいそうだよー』
『良いじゃない。可愛いし』
二人の和服の幼い少女の後ろ姿が見えて、声を掛ける。
――どうしたんだ、お前ら。
『あ、*****様!』
『*****様!』
俺の声に反応して振り返った二人が、俺の姿を見てパァっと笑う。
『見て見て、*****様! ほら、これ!』
細っこい女の子が岩壁を指差す。
しかしその様子を少し太めの女の子が咎めるような顔で見る。
『だから、姉様ダメだって! お花いじめたらお花が痛いって思うよぅ?』
『でも綺麗だし良いじゃない! それより*****様! これを見て!』
俺は細っこい女の子に促されて岩壁を見ると、岩壁を削って作られたあの祠があり、兎地蔵が真っ赤な花に塗れていた。
-
――それは……。
兎地蔵を飾っていたのは、俺の目に生えている花にとても良く似ていた。
『うーさぎのお目目は真っ赤っかー! キャハハハハ!』
『もう、姉様ー! お花も可哀想だし、*****様にいたずらしたらバチが当たるよ? 姉様が隠してるおねしょもみつかっちゃうんだから!』
『ちょっと、*****様の前でなんてこと言うのよ!』
細っこい女の子が太めの女の子に掴みかかる。
――お前達やめろよ。俺は喧嘩する奴は嫌いだぞ!
俺がそう言うと細っこい女の子は拳を振り上げたものの渋々腕を下ろして、太めの女の子を恨めしそうに見詰めた。
その背後で兎地蔵に飾られた花が一つ落ちた。
花は何ヶ所にも飾られていたが、両目に飾られた内の、左目からポトリと一つ。
右目だけ花が残った兎地蔵の姿は、丸で俺の目から生えているかのようだった――……
-
「九川君、珍しくボーっとしてるね」
「うおっ?!」
急に声をかけられ、俺は身体をびくつかせる。
確かに考え込んでいてパソコンのキーボードを叩く手も止まっていた。
声をかけてきたのは同課のベテランOLの真田さん。
スタイリッシュな緑の太縁眼鏡と言う難しいアイテムを使いこなす、さり気無くオシャレなお姉さんだ。
今日もオフィスコードの派手すぎないブラウスとミニスカートとストッキングが品良く決まっている。
ちなみに気配りも出来て面倒見も良く、異性は勿論同性の同僚受けも良い。
なのにアラサーでまだ未婚なのが不思議なくらいだ。
急に声を掛けられたのもあるが、そもそも仕事中に声を掛けられた事自体凄く久しぶりだ。
ずっと腫れ物扱いを受けている俺に対してこんな自然に声を掛けて来るとは、流石真田さん。
「最近根を詰めてるみたいなのは知ってるけど、今日はまた、違った感じだね。何か変化でもあった?」
鋭い。俺が問題の糸口を僅かだが見つけて、その件について思わず考え込んでいたところだった。
今までなら「何でもありません」と機械的に答えて、コミュニケーション自体をシャットアウトしていたところだが、
今朝の気持ちの変化と真田さんのタイミングの良さもあって、俺はついつい訊ねてしまった。
「いやぁ、大した事は無いんですけど、友達が兎の地蔵ってあるのか? とか急に訊いてきたものだからつい考え込んじゃって。俺、そんなの聞いた事も見た事もないから……」
-
しまった、一段抜かした
すみません
読みづらくなります
夢のところから
-
「紅い、花……」
目覚める時、花の事だけを妙に憶えたまま覚醒する。
他の細かい事はあやふやだが、確かに夢で俺の右目に生える花を見た事だけは憶えていた。
久々の記憶のある夢だった。
そして、悲しくもなかった。
その代わり郷愁じみた感情と確信めいたものが生まれていた。
(この花はきっと存在する!)
ただの謎の花では無い。そう判っただけでも俺の心は少し軽くなった。
後、他に何か思い出せる事はないのか?
懸命に記憶を手繰る。
そして、祠の事を何となく思い出した。
ハッキリと見るのはあの時含めて二回目だから。
たしかあそこに飾ってあったのは、兎の地蔵?
俺は生まれてこのかた兎の地蔵など見た事は無かったが、
何度も夢に見るくらいなのだ、これももしかしたら実際に存在するという可能性は大いにある。
きっと手がかりになるかもしれない。
ちょっと調べてみようと思う。
後は……矢張り花の種類だな。
存在すると判れば、自信持って探せる。
俺は気持ちを持ち直すと、意気揚々と出勤の準備に入った。
-
「九川君、珍しくボーっとしてるね」
「うおっ?!」
急に声をかけられ、俺は身体をびくつかせる。
確かに考え込んでいてパソコンのキーボードを叩く手も止まっていた。
声をかけてきたのは同課のベテランOLの真田さん。
スタイリッシュな緑の太縁眼鏡と言う難しいアイテムを使いこなす、さり気無くオシャレなお姉さんだ。
今日もオフィスコードの派手すぎないブラウスとミニスカートとストッキングが品良く決まっている。
ちなみに気配りも出来て面倒見も良く、異性は勿論同性の同僚受けも良い。
なのにアラサーでまだ未婚なのが不思議なくらいだ。
急に声を掛けられたのもあるが、そもそも仕事中に声を掛けられた事自体凄く久しぶりだ。
ずっと腫れ物扱いを受けている俺に対してこんな自然に声を掛けて来るとは、流石真田さん。
「最近根を詰めてるみたいなのは知ってるけど、今日はまた、違った感じだね。何か変化でもあった?」
鋭い。俺が問題の糸口を僅かだが見つけて、その件について思わず考え込んでいたところだった。
今までなら「何でもありません」と機械的に答えて、コミュニケーション自体をシャットアウトしていたところだが、
今朝の気持ちの変化と真田さんのタイミングの良さもあって、俺はついつい訊ねてしまった。
「いやぁ、大した事は無いんですけど、友達が兎の地蔵ってあるのか? とか急に訊いてきたものだからつい考え込んじゃって。俺、そんなの聞いた事も見た事もないから……」
-
「兎の地蔵?」
「ええ、海沿いで見かけたそうで」
俺もよく言う。もう何ヶ月も友達らしい友達なんかと話してなんかいないのに。
でも、夢で見た何て言えるはずもないので咄嗟にそう言ってしまった。
それを聞いて真田さんは顎に手を当てて暫し考え込み。
「それって住吉様じゃない?」
と、答えた。
「すみよし様?」
「うん。海の守り神みたいなやつ。住吉神社っていうのもあって、神の使いって書いて神使(しんし)が兎なのよ。狛犬が兎になったと思えば解りやすいかも。何で住吉神社の神使が兎なのかは忘れたけど、海で兎って言えば因幡の白兎くらいしかあたしはわからないわねーあははー。あ、休み時間終わっちゃう。じゃあ、またね」
そう言って真田さんは去って行った。
彼女が去って行った後、俺は彼女の言葉を反芻する。
“住吉様”……本来なら初めて聞く名前だが、何だか懐かしい響きを持ってい俺の中に響いた。
花の前にその“住吉様”から調べた方が早い気がしてきた。
-
俺は帰宅するなりパソコンを立ち上げると、検索で“住吉様”を調べ始める。
するとこんな記述が出てきた。
大元は住吉大社とか住吉神社という所らしい。
これは住吉大社からの引用だが、
ご祭神の由来
※ご祭神とは神社に祀られている神様のことです
住吉大神御神影
「日本書紀」や「古事記」の神代の巻での言い伝え
伊邪那岐命 (いざなぎのみこと) は、火神の出産で亡くなられた妻・伊邪那美命 (いざなみのみこと) を追い求め、黄泉の国(死者の世界)に行きますが、妻を連れて戻ってくるという望みを達することができず、逆にケガレを受けてしまいます。
そケガレを清めるために海に入って禊祓いしたとき、住吉大神である底筒男命 (そこつつのおのみこと) 、中筒男命 (なかつつのおのみこと) 、表筒男命 (うわつつのおのみこと) が生まれました。
御鎮座の由緒
第十四代仲哀天皇の妃である神功皇后 (じんぐうこうごう) の新羅遠征(三韓遠征)と深い関わりを持っております。
神功皇后は、住吉大神のお力をいただき、たちまち強大な新羅を平定せられ、無事ご帰還を果たされます。この凱旋の途中、住吉大神のお告げによって、この住吉の地に祀られることになりました。
*御鎮座とは、神さまの土地を定めて、お祀りすることです。
(中略)
-
海港安全の神様
住吉大神は海中よりご出現されたため、海の神としての信仰があり、古くから航海関係者や漁民の間で、霊験あらたかな神として崇敬されてきました。
奈良時代、遣唐使の派遣の際には、必ず海上の無事を祈りました。
「住吉に斎く祝(はふり)が神言と行くとも来とも船は早けん」(万葉集)と詠まれるこの歌は、住吉 大神の言葉として、
遣唐使に対し無事の帰還を約束した神のお告げを伝えたものです。
このような海上安全の守護としての信仰は、江戸時代、海上輸送が盛んになるとともに、運送船業の関係者の間にも広がり、
現在境内にある約600基の石燈籠の多くは、運送船業の関係者から奉納されたものです。
(後略)
中々古くから崇め奉られている神社のようだ。
神使としての兎に関しての記述は以下のような感じ。
「(住吉大社と兎) 兎(卯)は当社の御鎮座(創建)が神功皇后摂政十一年(211)辛卯(かのとう)年の卯月の卯日である御縁により奉納されたものです」
そしてHPのいたる所に兎の置物の写真が貼ってあった。
なるほど。だから兎地蔵があそこに置いてあったのか。海だから“住吉様”という事か。
しかしそういう守護神を置くぐらいだからただの浜ではないのかもしれない。
事故が多いとか……でも記述から考えて普通に地元の漁とかの安全を願って置いていただけかもしれない。
一通り“住吉様”を解き明かしたところで俺は身体を伸ばす様に腕を頭の後ろに組んで椅子の背に背中を預けた。
(兎は兎でも、因幡の白兎全く関係なかったな……)
こうして謎がひとつ解けて、謎がひとつ増えた。
-
住吉様の知識を得る事は出来たが、俺の目に花が咲いた事との因果関係は未だ謎だからだ。
でも、夢にはこの花と一緒に住吉様は出てきていた。
もし仮だが……強引にこの2つを結び付けるとすれば、夢に出て来る人間誰かの感情や想いからくる怨念めいた非科学的な回答である。
(怨念って……まるで幽霊が存在してるとでも言わんばかりだな……珊瑚じゃあるまいし)
しかし、現実的に考えれば俺の目には花が生え、見覚えの無い記憶を延々見せ続けられている。
普通に考えればこれを非科学的と言わずして何と言おうか?
でもそれが俺に現実現象として起きているんだ。
珊瑚が生きていればきっとキャーキャー言って興奮するのだろうが、肝心の彼女は非現実な世界の住人になってしまっている。
(どうせ夢に見るなら、珊瑚との楽しい思い出なら良いのに……)
「あーーーーもう!」
何だか思考がグチャグチャしてきたのでビールを開ける事にした。
花――住吉様――二人の女――男――海――紅い珊瑚の枝。
そして俺の右目の花。これは夢にも出てきた花だった。
ビールを飲みながらいつの間にか鮮明になってきたパズルのピースを脳内でかき混ぜる。
一番最初よりは何となく核心に近づいてきてるような気がするのは気のせいだろうか?
でも、矢張りいまいち決定打に欠けている。
もう少し情報が欲しい。
-
せめて、何故俺があの夢を見続けさせられているのかくらいは教えて欲しい。
そして俺が夢を見る時は何故、あの『男』視点なのか?
(見る夢全部を憶えていられたなら、もっと話は早いんだけどなぁ)
記憶に残る部分がいつも断片的過ぎて話にならないんだ。
「ん……」
気が付けばビールの500ml缶は空になっていた。
視線をガラステーブルに移すと、手に持ってるので3本目。
そろそろ潮時かな。これ以上飲むと膀胱が朝に破裂する。
いい歳して寝ションベンというのも恥ずかしいからこれぐらいにしておこうか。
――*****様にいたずらしたらバチが当たるよ? 姉様が隠してるおねしょもみつかっちゃうんだから!
-
不意に小さな女の子の声が脳裏に響く。
そして夢の断片が一部だが鮮明に蘇る。
*****様。*****様。*****様……ああ、そうか……きっとあれは住吉様って言っていたんだな。
そうだ、探そう。
あの浜を探そう。
住吉様の祠がある、あの浜を見つけ出せばまた何か手がかりが出てくるに違いない。
(時間は掛かるが、こうやって一つずつ手掛りを手繰って行けば、俺の右目から花を取り除く手段もきっと見付かるはずだ!)
俺はそう心に決めると、何だか酔いがさめた気がして、バシっと気合いを入れ直すように両手で頬を叩いた。
「よし!」
そして小さくガッツポーズを決めた。
-
今回はここまでです
何か いろいろミスしちゃってすみませんでした
次回またよろしくお願いします!
-
乙
-
>>138
有難うございます
-
今夜更新します。
ちなみにエルフちゃんのスレに昨夜外伝投下しましたので宣伝。
なお、私が閑話休題をちょいちょい入れるようになったのは、自分が更新日時間違えてないかの
確認用だったりします。
なので、あえて改行もろくに入れずに投下したりしてたりします。
閑話休題の数で、今日は何日目か確認するのにほかと同じ書き方だと判りにくいので。
半分以上私の事情で入れさせてもらってます。
でも、やっぱり皆さんにも楽しんでもらえてたら嬉しいなって思うのが本音です。
-
ちなみに迷いましたがやっぱり書いておきます。
今ちょっと体調崩してます。
少し前から崩していてまずいな〜と思っていたんですけどね。
今はまだストックがあるので更新は問題ないのですが、今夜更新分と次回更新分で
手元から原稿がなくなります。
エルフちゃん外伝書いたのは自分の体調確認もありました。
うん、ストックがなくなる前には治りそうな感じ……ではありますかねぇ……。
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あまり無理をしないで、ゆっくり休養して下さい。
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>>142
ありがとうございます。
休養のために暫く前におっぱいばっかり落描きしていた反動でオス1匹(普通)「とメス男子2匹描いたら
大分回復しました。←
頭は軽くなりましたが、違うネジは飛んだようです。
ラストスパート、気張ります。
-
さて、更新行きます。
-
それから俺は会社での仕事の量を減らし、自宅で“住吉様のある浜辺”探しに力を入れるようになった。
俺が仕事の量を減らして家で休む時間を増やしたいと、上司におずおずと申告すると、上司は「やっと気持ちに余裕が出てきたみたいだな!」と、柄にも無く微笑んで快く承認してくれた。
それから俺は仕事の量を今までの3分の1程減らし、今までより1〜3時間は早く帰れる様にするようにした。
今までの様に他の人の残業分を前の様には負ってあげられなくはなるが、誰も文句は言わなかった。
そしてパソコンであの浜探しを始めたが、初っ端から困難に満ちていた。
とりあえず、“住吉様 祠 浜”だの“住吉様 祠 海岸”と言ったワードから検索を始めて見たが、どうしても関係無いただの町や、住吉様が納めてあるだけの場所が大量に引っかかってしまうし、
辛うじて条件に該当する海沿いの住吉様を見つけても、時が経っているとはいえ、夢で見た場所とは似ても似つかない、面影すらない場所ばかりしか見つからなかった。
(うーむ。夢の世界はどう見ても数百年前って感じだったからな……)
数百年あれば地形が変わるには充分すぎる年月でもある。
もしかしたら見た情報の中にあったのかもしれないけど、その数百年で変化してるとか……よく聞く話では海水に侵食され、海岸が浜ごと消えて変化してしまっているケースだ。
前者の場合は伝承の記述くらいは村や町のHPに記録として記されている可能性はあっても、後者の場合は調べ方を変えないとネットぐらいでは情報が載ってる事すら怪しいだろう。
他にしぼり込める情報……。
俺は記憶を巡らす。だが思い当たらない。
実はとっくにもう重要な夢をいくつも見ているのだが、この時の俺は欠片も思い出す事はなかった。
それに気がつかぬまま、ただひたすら膨大なデータと向き合うしかこの時の俺には手段が思いつかなかった。
-
会社での仕事は減らしたが、帰宅後の調べ物は深夜に及ぶ事があったので、俺は仕事にのめり込んでいた時より寝不足を覚える日が増えた。
しかも片目は花のために使えないので、ちょっとでもウトウトすれば目立つ目立つ。
更に言えば最悪な事に俺の席は役職的にお誕生日席かと言わんばかりに目立つ配置をしてある上、見える左目の方に上司がいるので、
欠伸を漏らすたびに上司の鋭い視線が飛んでくるのを感じた。
確かに前ほどの量の仕事はこなしていないが、それなりの量を減らしたため落差が気になるらしい。
それでも充分今も、人並み以上に仕事はこなしているはずだ。
(そんなに俺が気に入らないのか?)
元々彼は俺に対して風当たりが強かったが……なんだか釈然としない。
暫くは珊瑚の事や仕事の量で何となく雰囲気が優しくなっていた様に感じていたが、今の俺は仕事の量を減らして早めに帰宅しているので、
欠伸一つ堪えられない様子はとても気になるらしい。
俺も復職して数ヶ月経つし、喉元をすぎれば何とやら。前の様に厳しく当たる隙を狙っている様だった。
しかし前述した通り減らしてもまだ俺はこの部所の社員の中でも充分な仕事をしているため、何も言えないでいる……そんな感じだった。
(ああ〜……ウザったい。優しくなったと感じたのは幻想だったか……)
思わず珊瑚が俺の部屋に持ち込んだライトノベルの少年の決め台詞を呟きたくなった。
ネットではセリフの頭文字を取って三文字に略称されていた気がする。
細かい事は忘れたが……とりあえず不幸だ。
(っと、仕事仕事……)
気分を切り替えてボールペンを握り直して書類を左手で押さえ直した時に“妙な物”が視界に入る。
左手の甲に何か緑色の物が浮いているのが見えたのだ。
-
「?!」
何かの見間違いかと思い、恐る恐る手の甲をもう一度ゆっくり見てみると、浮き出る血管に混じって淡い緑色の突起が鱗のように皮膚から幾つも隆起していた。
そのおぞましい光景に思わず声を上げそうになり、咄嗟に右手で口を塞ぐ。
口を塞いだ拍子に椅子を倒しかけたので、その派手な音で電話のコール音と業務連絡会話以外の音のしないオフィスの人間は驚いて俺の方を見た。
電話に出ていた社員も一瞬会話を止めてしまったくらいだ。
当然上司からも待ってましたと言わんばかりに声が掛かる。
「どうしたのかね、九川くん。何か困った事でも?」
不愉快そうな表情で訊ねてくる。
「あ、あのっ……いえ、その……っ」
突然のこと過ぎて頭が真っ白で何て説明すれば判らず、言葉を詰まらせる。
(何て説明すればいいんだ? 手に変な物が生えていてびっくりしただけです。気にしないでください。(キリッ)
とかで誤魔化せるような事じゃない。どうすれば……どうすれば……)
そうして俺が挙動不審に言葉に詰まっていると、上司は大きく溜息を吐いて言った。
「九川くん。君、確か休職はしていても有給はほとんど消化していなかったはずだよね?
我が社の有給には期限があり、持ち越し期限にも限界がある。勿体無いと思わないか?」
彼の言葉の意図が微妙に汲めず、俺は吃り気味に訊き返す。
-
「ええっと、どういう、い意味でしょうか……?」
すると彼は大きく溜息を吐くと、少し間を置いて俺に対して決定的な宣告をした。
「君はどうも疲れすぎているようだ。ずっと見ていたが、君の意思がどうであれ、頭が休まろうが休まるまいが、
君の殺気立った空気はこの部の空気を乱すところまで来てしまっている。仕事に逃げたいのはわかるが、
君が頑張っても部所全体の仕事の生産効率が下がっては意味がないんだよ。しかし、君はクビにするには優秀すぎるし、決定的な理由も無い。
どうかね……ここで少し余らせている有給を消化してみては。私に一社員に対して強引に出席と取り消す権限を持っていないのでこれはお願い過ぎないのだが、
君が私のお願いを聞いてくれるだけで我が部所は大分助かるのだが。1週間でも良い。少し休養を取ってきてみてはくれないか? ただ休むだけは君が不利益を被るだけだろうし。
だから有給で、な。正直みんなも相当我慢してくれている。それは君だって解っていると思うが? 幸い、我が社の規定では一年以内の緊急を要する休職と有給は別の扱いになっている。
つまり君が入院してる間、君の有給は一切消化されてはいない」
その言葉に思わずオフィスを一望すると、顔を逸らす者も居れば、緊張した面持ちで俺を見つめ続ける者、泣きそうな者、様々な表情をした人達が見えた。
少なくとも、今この瞬間俺を安心させてくれるような表情や笑顔を向けてくれている人間は誰一人として居なかった。
(あっ……)
その瞬間、身体の奥で張り詰めていた何かが途切れたような気がした。
-
自分がどれだけ皆に精神的無理や負荷を掛けて居たかを。
みんな大人だから、傷ついた俺を仕事に逃がしてくれていた。逃げられる環境を作ってくれていたんだ。
俺はそれを理解すると、身体を震わせながら上司にこれまた震える声で行った。
「わ解りました……すこ少し暫く、休んできます。今日は……早退させていただきます……」
「そうしてくれ」
疲れたような呆れ返ったような上司の返事を聞くと、彼に深く一礼し、オフィスの皆にも深く一礼し、
居た堪れない気持ちと恥ずかしさでそそくさと帰宅の準備をして会社を離れて帰宅した。
帰宅すると、俺はスーツのまま寝室のベッドの上に身を投げ出した。
本当に恥ずかしさで死にそうだ。俺はどれだけ自己中心的だったんだ。
皆の気持ちを思いやる事も無く、自分の傷の事ばかり考えて……。
思わず枕を掴んで顔を埋めて暴れた。
上司の言い方はキツかったが、みんなの手前もあるし、あれでも最大限の優しさを示してくれたんだろうと思う。
今までに彼には怒鳴るように叱責された事が何度となくある。
もう帰れ! と肩をど突かれたことだってある。
理不尽な理由で細かいいちゃもんを付けられた事など数え切れないくらいだ。
なのに今回はあんなにも理路整然と諭してきた。
ずっと何も言っては来なかったが、生きる上において本当に大事なモノを失った俺の事を心配し、
見守り続けてくれていたのだろう。
-
考えてみれば復帰してから、仕事の指示はしてきても前の様に突っかかって来ることはほとんど無くなっていた。
それを勝手に目の敵にされてるだなんて、とんだ思い上がりをしていた。
何も解っていないのは俺の方だったのだ。
そういえば確か彼も妻帯者だったはず。
きっと愛妻家なんだろう。そんな気がした。
(それにしても……一体何だこれは……?)
普段着に着替えた後、リビングのソファで改めて左手の甲に出来た謎の物体を観察する。
大きさは直径も高さも1cmにも満たない小さなもので丸くてイボのようだ。
色は白っぽい緑色で水分を多量に含んだ感じでブヨブヨしている。
力を込めて押したら潰れてしまいそうだが、潰したら何が起こるか判らないので止めておく。
花の次は緑色のイボ……一体どうなっているのだろう?
本当に頭が痛い。
(次に外に出る時はこれも隠さなくてはいけないが、包帯で良いか? あ、そういえばゴルフのグローブがあったな……いやダメだ。布と擦れて潰れる可能性がある。
そうするとやはり包帯……って、右目眼帯に手に包帯……どこの中二病だ!)
自己ツッコミをして頭を抱えた拍子にソファから落ちる。
「って〜……」
床で腰を強かに打ってさすっていると、不意にパソコンラックの下に一眼レフが落ちているのが見えた。
珊瑚が生きている時に旅行で使っていたやつだ。
現像した写真はほぼ全て、日用品を含めた遺品と共に御両親に渡してしまったが、あの一眼レフだけは何となく手元に残して置いたのだ。
あれにはまだ珊瑚の画像データが多少残っていたはず。
立ち直るために珊瑚に関するデータは全て封印し、何ヶ月も見ていなかったが、何となく久々に見たくなった。
-
見ればまた辛くなるのは分かっていたが、会社での事や色々な事で精神的に参っていた俺は無性に過去の思い出に縋りたくなってしまった。
一眼レフがパソコンラックの下に落ちていたのは多分ぞんざいにしていたからたまたま転がり込んだだけだろう。
拾い上げると、レンズが割れていてカメラとしては致命的なのが一目で分かった。
割れたのはあの事故の時。
俺は岩場にカメラを投げ捨てて海に飛び込んだから、その時に割れたのだろう。
でも警察の検証で問題無くデータが見れたようだし、ここでも問題なく見れるだろう。
そう思って俺は引き出しからUSBを持ってきて、パソコンとカメラを繋いだ。
そしてマイコンピューターからフォルダを開くと、懐かしい画像が幾つも出てきた。
珊瑚と巡った自殺名所で撮った写真だ。
こうやってみると、彼女はつくづく変わった女だったと思う。
自殺名所を回るのが趣味だったなんて……。
俺も良くそれに疑問も持たずに付き合ったと思う。
そんな事を考えながらゆっくりと一枚一枚画像を古い順に見ていく。
(ああ、これ。自分で行きたいって言っておいて着る服間違えて寒いって騒いでた時のだ……俺、
ダウンジャケット奪われちゃったっけ。俺がどうすればいいかわからなくて困っちゃったっての……)
何ヶ所も巡っているので季節を幾つもまたいでいる。
自殺名所も巡ったが、行ったついでにほかの観光名所も巡って、写真をお互いに撮り合ったり、
通りすがりの人に頼んでツーショットを撮ったりもした。
通りすがりの人間にそんなお願いが出来る日本は、隣の海外事業部の人間から言わせれば物凄い平和らしい。
それもそうだと、俺も思う。
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(お陰で珊瑚と貴重な思い出が残せた……)
画像に残る珊瑚はどれも生き生きとしていて、笑顔に満ち溢れていて、
彼女がもうこの世の人間じゃないなんて嘘みたいだ。
思わず画面が涙で歪みそうになるが、それをグッと堪える。
そしてマウスをクリックし続け、画像は最後の思い出である花芽岬まできて、俺は息を呑んだ。
花芽岬で珊瑚を撮ったのは一枚だけ。
でも、強風で顔に自身の長い髪の毛が顔に掛かってしまったため撮り直しを要求され、
撮り直そうと思った直後に珊瑚は海に落ちた。
その唯一撮った一枚の写真に俺の眼は釘付けになった。
珊瑚が立つ岩場。
あの時は何て事の無い濃い赤茶けた岩石だけしかなかったはずなのに、この写真には……
珊瑚の足元には……あの紅い花がいたる所に這うように咲き乱れていた。
(どういうことだ?!)
思わず自分の右目に手をやる。
この右目に咲くのと同じ花が写真に写りこんでいた。
その事実に俺は激しく混乱する。
それはそれとして、毒々しいくらい真っ赤な花に囲まれて立つ珊瑚は、皮肉なほど純粋で美しく見えた。
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今回はここまでです
次の更新日までには本調子になっておきたいものです
怒涛のラストスパートを早く書きたい……
それではまたお会いしましょう
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乙
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>>154
乙ありです。
体調は順調に良くなってきてます。
さて、今日の閑話休題ですが、この作品で何故主人公達の詳しい年齢設定らしき記述が見当たらないのか?
という事について触れていきたいと思います。
一応、主人公達の年齢を推測できるような描写は入れていますが、厳密に特定出来るようにはしていません。
それは意図的です。
年齢を特定してしまうと、想像の幅を狭めてしまうし、その年齢から外れてしまった人は話に入り込みにくいのでは?
と考えたからです。
主人公の会社での役職もそうです。
読者になってくださってる方には色々な方がいます。
これも特定してしまうと一部の人が親近感を感じるような話になってしまうのでは?
と思ったので、描写から何となく想像できる程度に抑えてみました。
最後に時代設定。
現代だけど、ある程度時代が経って読んでも古臭くならないようにハイテクな小物は無駄に最新なものは出さないようにしました。
USBコードやフラッシュメモリはもう鉄板だと思ったので出しましたが、電話(携帯)はあえてスマートフォンとかの表記は避けました。
この手の物は多分上位版が出てくるような気がしたので。
既にマイナーですがフューチャーフォンとかあったりしますので。
何ていうか、星新一? 的発想を取り入れてみました。
時代の移り変わりに晒される繊細な描写の世界。
私のような人間の書く物語でも、少しでも長く楽しんで貰えたら嬉しく思います。
というところで、今日は一旦筆を起きます。
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>>155
>>1の近況報告とか閑話休題の作品の解説みたいのは不快に思って読むのやめる人もいるからやめた方がいいかもよ
俺も昔書いたssで近況報告とかやったことあるから気持ちはすごく分かる……
余計な内容は書かず、淡々とssを投下するだけのほうがいいと思うよ
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>>156
そう わかった
アドバイスありがとう
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おはようございます
今夜更新します
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俺は直ぐに珊瑚が写った花目岬のデータをコンビニで印刷できる形式に直すと、雑だが左手に灰色のハンカチを巻いて
コンビニに行って、一番大きなサイズの写真に現像する。
本当はDTPショップに出した方がもっと鮮明なんだろうけど、今日はもう店に行くには遅くて朝を待ちきれなかった。
機械にお金を入れて、データ挿入口にフラッシュメモリを差し込み、データが読み込まれるまでの僅かな時間も、
今の俺にとっては悠久の時間にさえ感じた。
そして漸くコピー機から吐き出されてきた写真を手にし、あの紅い花がちゃんと写っているかを確認する。
(よし、ちゃんと写ってる! 細かい花弁の様子も、葉も、クッキリしている!)
本来なら写っているはずの無い物が写りこんでいる時点で、
ちゃんと現像できるか不安だったので、出来上がった写真を手にホッとする。
今まではこの右目を誰かに見せる事が出来ずに一人で調べていたが、
この写真があれば花屋にでも何処にでも自然に見せに行ける。
こんなものがあるって判っていたなら、もっと早くカメラのデータを見てたのだが。
まあ知らなかったし、そもそもこんなものは本当に最初はデータに無かったのだから、
気付けという方が無理だろう。
そもそもあそこまで気が弱っていなければカメラのデータを開く事すら無かっただろう。
本当に皮肉なものだ。
(それにしてもこれ、何ていう花なんだろう? あっ……家に帰らないと……)
眼帯付けて手にハンカチを巻いた姿のままでは目立ちすぎる。
俺はそそくさと自宅に帰ると壁掛時計で時間を確認する。
時間はもう夜の8時半を回ろうとしていた。
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これはダメだと思った。時間によってはギリギリでも良いから花屋でも探して駆け込もうと思っていたが、
あの手の店は大体早ければ6時、遅くても8時前には閉まってしまう。
折角急いで現像してきたが、結局明日まで活動を待たなくてはいけないようだ。
俺は思わず舌打ちすると、現像してきた写真をガラステーブルの上にフラッシュメモリと一緒に置いてソファに腰掛けた。
早く明日にならないだろうか。
そして何処かに持ち込んで花の種類だけでも特定したい。
しかしそこで肝心の花屋の場所を一切調べていない事に気が付く。
持ち込もうにも場所が判らないのでは意味が無い。
そう思い立つと直ぐにパソコンで花屋を何件かピックアップする。
普通に生活しているだけでは、意外とそういう専門店には縁が無いものだ。
珊瑚の墓参りに使っている花は我ながら杜撰にもスーパーマーケットで買っているので、
こうやって調べるまで一件も最寄りの店を知らなかった。
というか、最近のスーパーマーケットが発達しすぎてるような気もしないでもない。
単なる菊だけじゃないそこそこ見栄えの良い花束が何種類も生花コーナーに並んでいるので、
それですっかり満足していた。
きっと珊瑚が生きていたら、こんな俺を見て「女心がわかってない!」と頬を膨らませていたに違いない。
次から墓参り用の花はちゃんと花屋で買おう。
店を検索しながらさりげなくそう心に決めた。
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次の日、俺は服装と右目のガーゼと左手の包帯を丁寧に整えると、
花屋の開店時間に合わせて家を出た。
自宅のマンションから徒歩で行けるのは3軒。
近い場所から訪ねて行こうと思う。
「いらっしゃいませー」
一番最初に来たのは土地の狭い都会らしい住宅街に雑じる様に佇む、
気をつけないと見落としてしまいそうな幅三間ほどの小さな花屋だった。
「すみません、ちょっといいですか?」
俺を見るなり真っ先に挨拶をしてくれた店員のお姉さんに、少し緊張気味に声を掛ける。
「はい、何でしょうか?」
「ちょっと花の名前を調べているのですが、これ……判りますか?」
そう言って例の写真を店員に渡す。
「この、花ですか?」
「はい」
彼女は写真を受け取ると、「うーん」と首を傾げる。
「この赤い花ですよね?」
「はい」
「えっとぉ……何か見た事あるんですけど……なんだったかしら……?」
どうやら彼女には岩を這う紅い花の事はよく判らないらしく、困った様に写真と俺をチラチラと交互に見ている。
-
「もしかして判りませんか?」
そう、軽くフォローを入れてみると彼女はホッとしたように返事をする。
「あ、はい! すみません。うちは店が小さくて、売れ筋の切り花しか仕入れてないので、
植えるタイプの花には弱くて……お役に立てずすみません」
そう言って写真を返してきた。
「そうですか。分かりました……お仕事中失礼しました」
俺は返された写真を受け取ると、肩を落として店を後にする。
背中の方で「またいらっしゃってくださいねー」とお決まりの挨拶が聞こえたが、
俺は気にしなかった。
次2軒目。
今度はホームセンター内の花屋だった。
日曜大工とかは今まで興味なかったので、最近は
花屋まで中に入ってるなんて昨日検索するまで知りもしなかった。
ホームセンターという場所に来る事自体、親父に付いて行った高校以来の気がする。
少なくとも自立してからは来ていない。
入居する時の家具類は家具屋でほとんど揃えたし、大抵の物はネット注文で済ませられるからだ。
親父とは何を買いに行ったのかさえ憶えていないくらいだ。
とりあえず店内に入ると、生花コーナーを探す。
ここならさっきの店より品数はあるだろう。
-
そう思って店内を歩き回って目的の場所に到達する。
案の定、そこには切花から鉢植えまで様々な植物が取り揃えてあった。
これだけあればこんな花の一つくらいはあるに違いない。
そう思って探し始めるが……?
(ええと、サンセベリア、幸福の木? こっちはスプレーカラーのカーネーション? ひまわり……うわ、
なんだこりゃ、こんな紫陽花もあるのか? っていうか紫陽花の季節はとっくに過ぎてるだろ)
俺は墓参りの花をスーパーマーケットで調達する男。
ただ見て回るだけでは俺にとってさっぱり訳の解らない世界が実質数メートル四方に広がっていた。
このままでは埒があかないのでコーナーの店員と思われる女性を捕まえて声をかける。
「すみません!」
花のコーナーってやっぱり女の職場なのだろうか。さっきの店も女が一人居るだけだった。
俺の声に反応して店員が満面の笑顔で振り返る。
「はい、何でしょうか」
「あの、こういう花……探してるんですけど……」
そう言って写真を差し出す。
店員は写真を受け取ると、ポカンとした顔を一瞬してやっぱり唸る。
(もしかしてここでもわからないのか? この花はそんなにマイナーな花なのか?)
「あー。うちでは取り扱いはないですけど、見た事はありますね。日本の花ですよねこれ」
「えっ、判るんですか?」
予想外の回答に俺は思わず色めき立つ。
-
「判るっていうか、うちでは取り扱ってないけど、個人的に見た事あるって感じで……」
「それで、何て言う名前なんですか?」
「何だったかしら? うちって店の性質的におまけで花も置いてるだけだから、鉢植えも売れ筋しか仕入れてないから、
ええと……隣の家のおばさんのプランターに生えているリビングストーンデイジーにも似てるけど、ちょっと違う感じよね。この写真の花の方が葉は細いし、
同じビビットカラーでもこんな単調なカラーリングじゃないし……ごめんなさい。やっぱりわからないわ。期待させちゃってすみません」
そう言って写真を返されてしまった。
「そうですか……」
俺は再び肩を落として写真を受け取る。
(ここも駄目だったか……となると、あと一件)
俺はホームセンターを離れて市街地の外れにある、古びた花屋を訪れていた。
(ここは建物はもあるが、どちらかというと民家? しかも裏手の方に随分木が生えているんだな)
キョロキョロと店の周りを見ていると、よく見ればそこは花屋の文字は無く、造園事務所と書いてあった。
おかしいな。地図上は花屋のマークが書いてあるのに……。
ネットの情報も正確でも万能でも無いということだろうか。
とりあえず造園事務所の周辺をウロウロしていると、一台の2tトラックらしき車がやってきて、俺を見つけて作業着姿の中年男性が声を掛けてくる。
-
「お兄さん、もしかしてウチに何か御用ですか?」
「あ、どうも……もしかして、造園事務所の方ですか?」
「そうだけど、何かウチに依頼でも?」
「依頼というか、調べモノなんですけど……」
俺がそう言うと、男は「とりあえず車仕舞うから待っててもらえますか?」
と言って車ごと敷地内に入っていった。
それから2〜3分程待っていると、車に乗っていた男が戻ってくる。
「それで、御用は何でしょうか」
「実はこの花を探してるんですけど……」
「花?」
男は写真を受け取り怪訝そうに眺める。
「急にお伺いして申し訳ないのですが、ご存知ですか?」
「あー。確かに見覚えはあるな。けどウチは木が専門だから鉢物の名前にはちょっと疎いんだよね。でもこの花を取り扱ってる業者は知ってるから、良かったら紹介しようか?」
男の申し出に俺は迷わず頷く。
「お願いします!」
最後の最後でやっと手掛かりに辿り着けた! 俺は気分が高揚するのを感じた。
そして造園事務所の男にこの花を取り扱ってるという和物の鉢植え業者の所在地を教えて貰い、
一旦帰宅する事にした。
-
何故ならこの業者の事務所があるのは
少々電車やバスを乗り継がないと行けない場所にあったからだ。
あの男から所在地を聞き出した時点で時間は既に昼をとっくに過ぎていた。
紹介してもらった場所に行くには遅すぎる時間だし、アポイントメントも取らなくてはいけない。
少々もどかしいが、一旦準備のためにも帰宅は避けられなかった。
帰宅して食事や風呂などを一通り済ませると、やっとひと心地着けた気がした。
花の名前を調べるアテも付いたし、もう一度情報整理してみようと思う。
場所は住吉様が祀られる浜辺で、夢にはいつも女が二人と男が一人が出てくる。
そして全員赤い珊瑚の枝を持っていて、ああそういえば
幼女時代と思われる二人があの紅い花で住吉様を飾っていたっけ。
それで――浜の近くには崖が……あれ?
(崖……?)
咄嗟に珊瑚の写る写真を手に取ると、動揺で呼吸を乱れさせながら写真を眺める。
紅い花で埋め尽くされた珊瑚の足元。彼女の立つ場所は何処だった?
――花芽岬。
自殺名所の『崖』である。
そして花芽岬の伝承は何だった?
-
“ 言い伝えによると、昔美人と醜女の姉妹がいて、妹である醜女の妹に村一番の伊達男がなぜか惚れ込んでしまい、
それに嫉妬した美人の姉が策に策を重ねて略奪してしまったらしい。
それに怒り狂った醜女の妹はこの岬から姉を突き落として殺してしまい、姉の死体が見つかった時は
狙いすましたかのように彼女自慢の美しい目鼻を鋭い岩が貫いていたそうだ。
それ以降何故かこの岬では自殺者が絶えず、殺された姉が誘っているのでは?
と、言われている。 ”
女が二人と男が一人じゃないか。
やっと、ようやっと気が付く。
何でこんな単純な事に気が付かなかったのだろう?
夢の登場人物と夢の断片を照らし合わせると、花芽岬の伝承に物凄く近似しているじゃないか!
(まだ夢では伝承と繋がるような核心部分は見ていないが、俺に異変が起こったのは花芽岬の事故の後……!)
いや、核心部分は見ていなくても、夢に出てきた花が本来写っていないはずの
花芽岬に写っているってだけでもう、関連してるって言ってるようなものだ。
花芽岬とこの花にどういう関係があるって言うんだ?
ふと、ホームセンターの女性店員の言った花の名前を思い出す。
「リビングストーンデイジー……」
この花そのものじゃなくても、参考にはなるかもしれない。
俺は急いでパソコンで画像検索をする。
すると確かに色は全く違うが、右目に咲いている物によく似た花がたくさん表示された。
-
(インターネットの検索は結構曖昧に設定されているから、もしかしたら曖昧検索的に実物出てくるんじゃないのか?)
そう思ってそのままゆっくりと画面をスクロールさせていくと、一枚だけ葉っぱの形が違う画像が混じっていた。
なんだろう。リビングストーンデイジーの葉は肉厚で平たく丸いが、その写真の葉は肉厚なのは一緒だが異様に細く、
珊瑚の足元に生えている花の葉を彷彿とさせた。
クリックしてサイトに飛ぶと、見覚えのある花が説明書きと共に表示された。
「これは――……」
オレンジ色だったが、まさに俺が探し求めていた花がそこにあった。
――マツバギク
南アフリカの砂漠などが原産の常緑宿根草です。日本には明治の初めに渡来し、
観賞用として栽培されています。
花径5〜6㎝で交雑種も出回り、赤、ピンク、黄、白、藤、橙と豊富な花色で、
細長い葉を密につけて地面を這うように広がります――……
マツバギク。初めて知る、俺の目に咲く花の名前。
これが珊瑚の足元に咲き乱れる花の正体……。
興奮のあまり俺は立ち上がって椅子を倒してしまう。
すぐに椅子を直して座り直す。
(ああ、やっとたどり着いた……やっとここまで来た。そうか、これはマツバギクっていうのか……)
思わず目頭が熱くなる。この花の名前一つ知るのにどれだけの時間と苦労が掛かったか。
でもやっと、やっとたどり着いた。
そして、バラバラだったパズルのピースが少しずつはまっていくのも感じた。
-
どうやら俺に起きている異変は花芽岬に由来するモノの様だ。
ほぼ間違い無いと考えて良いだろう。
(これはもう一度花芽岬に行かなくちゃいけないな。そして真実を確かめよう。花芽岬を調べれば俺が夢を見せられてる意味も、
珊瑚の枝の事も、目に花が生えてしまった意味もきっと判るはずだ)
もしかしたら珊瑚と俺が海に落ちて俺だけ生き残ったのも、全て繋がってるのかもしれない。
でも……だとしたら……珊瑚は本当に“呼ばれて”死んでしまった、ってことになるんだよな……。
俺と一緒に行ったのが悪かったのか、俺がたまたまあの岬の呪いを被ってしまったのか。
それは今のところ何とも言えないけれど、俺自身が夢の人物として夢を見せられてるってのも凄く引っ掛かってる。
兎に角、花芽岬に行こう。
それしか今は方法は無い……。
そして俺はどっと疲れた様に早めに眠りに就いた。
まだ夜の8時くらいだったと思うが、何だかもう限界だった。
-
今回はここまでです。
また次回お会いしましょう。
それではまた。
-
なるほど
乙
-
こんにちは。
今夜更新します。
-
こんばんは
-
花の名前が判ってから数日後、俺は花芽岬近くにある小さな民宿に宿を取っていた。
ここは珊瑚が生きている頃も使った宿なので本当は抵抗があったが、『名所』として名は通っていても観光地では無い花芽岬のある
自治体である花芽町には一軒も宿が無く、一番近くて隣町にある今俺が居る場所くらいしか宿を取れる場所が無いのだ。
正直俺は焦っていた。
目から花が咲き、そして左手に異常を発見して数日。
左手の『ソレ』は悪化の一途をたどっていた。
その変化は著しくも異常で、今となっては写真で見たのとほぼ変わらないマツバギクの葉が手の甲に鈴なりになっていた。
加えて言えば新たな蕾まで付けており、幾つかはもう咲くのは時間の問題の様に見えた。
そしてそれは徐々に肩に向かって腕を這い上がる様にその範囲を広げ、既に手首を超えて肘近くまで覆われようとしている。
丸でホラー映画の特殊メイクだ。
1本長さ5cm程に成長した葉は触った感じ表面は少々ざらついてはいるが滑らかで、
別名であるサボテンギクの名前そのままに、水分を内に含んだしっかりした感触が摘む指に伝わって来る。
(どんどん酷くなってる……)
グロテスクに変化した自分の腕を見て俺は不安気に顔を顰める。
上司には無理やり会社を休まされたが、結果的に良かった。
これではもう隠し通すのは難しいので出勤自体がもう困難だと言えよう。
あまりの酷さに深い溜息が出る。
俺は畳敷きにになっている床に身体を投げ出すように寝転がると、古びた色をした木目の天井を見つめる。
-
部屋はとても静かだ。
前来た時は興奮した珊瑚がひたすら喋りまくっていて、荷物持ちで疲れていた俺は放っておいて欲しいと思いながら
上の空で相槌を打っていたが、今はその声は聞く事は出来ないのだ。
あの時珊瑚は何を喋っていた?
(全く覚えていない……)
もう少しちゃんと聞いてあげれば良かった。
朝早いからってさっさと布団に入らないで、珊瑚の気の済むまで遅くまででも話に付き合ってやれば良かった。
今更後悔しても遅いが。
暫くボンヤリしていると、窓から西日が差し込んでくるのに気が付いた。
もうこんな時間か。
明日の予定を立てて、準備をしないと。
起き上がって荷物からメモ帳を取り出す。
この民宿から花芽岬までは距離もあり、移動には本数の少ない電車を利用しなくてはならないので事前準備はしっかりしなくてはいけない。
(電車は1時間1本……これの早朝のやつに乗って、大松駅で降りて、資料館は……)
珊瑚と来た時と同じ予定をおさらいするように立てるが、今回は変更点がある。
直ぐに花芽岬には向かわず、花芽町の歴史資料館などの施設を巡るのだ。
夢の情報とあの岬を繋げるためには、圧倒的に情報が足りないので、町の歴史から調べないと意味が無いからだ。
一応町のHPは見てきたが、町の名前の成り立ちなどの浅い歴史の情報しか無く、あまり参考にはならなかった。
-
矢張り本当の情報は自分の足で稼ぐしかないらしい。
しかしこれでもどこまで判るか分かったものではないので、徒労にならない事を祈るばかりだ。
現時点で気になる施設は数ヶ所ある。
花芽岬は勿論、特に気になるのは“花芽町歴史資料館”。
それと、曹洞宗兎海寺(“とうかいじ”と読むらしい)。寺なのに兎の文字が入っている。何だか住吉様を彷彿とさせる名前だ。
後、色々調べた結果、曹洞宗の寺というのは歴史が古い事が多いらしいので、
住職に聞いたら何か有益な情報が得られる可能性があるかもしれない気がするのだ。
他、細かい歴史的な施設や史跡があるので時間の許す限り調べてみたいと思う。
とりあえずこんなところだろうか。
そんな事をしていたところで襖をノックされ、慌てて露わにしていた左腕を隠すと、仲居さんが夕食の準備が出来た事を教えてくれた。
やっぱり食欲はそんなに無かったが、体力を使いそうな日が待っているので頑張って食べる事にした。
-
早朝、身支度をしっかり整えた俺は何とか電車を逃さず乗る事が出来、目的地である“花芽町大松駅”のホームに立っていた。
約一年振りの来訪だ。
前回は珊瑚と一緒だったのに……と思うと何ともやるせない。
もう一緒に来れない人間と訪れた場所なんて、本当は来たく無いに決まっているが、状況が状況なだけにそんな事も言ってられない。
無人駅の切符入れに切符を入れて外に出ると、地図を手に真っ直ぐ先ずは歴史資料館に向かう。
資料館は駅から歩いて10分程の場所にある、体裁だけで作りましたと言わんばかりのショボイ造りをした小さな建物だった。
(うわぁ……資料館って自治体に一つは置いてあるけど、天下りの塊みたいな感じだな……やる気ゼロすぎ……)
幸い、入館料は大人子供関係無しに100円程度と非常に安価だった。
眠たげに微笑む受付の男性に料金を払って中に進む。
確かにこの施設でこれ以上の金額提示されたら普通に迷わず帰る。
今の俺でも止めてそのまま寺に行く。
入館料は形ばかりで、足りない維持費は町が税金で賄っているんだろう。
きっと滅多に人が訪れないであろう館内は老朽化した外観に反して、古びてはいたが非常に小奇麗だった。
それを見て、一応税金対策でもやる事はやっているんだなと勝手に納得する。
ステレオな赤い絨毯と大理石風の壁の通路に沿って並べられたガラスの展示ケースには様々な物が展示されている。
-
どうやら入口から古い時代順に並べられているらしく、一番最初に目に入ったのはこの町の遺跡調査で発掘されたらしき品々だった。
しかし勾玉や銅鐸(どうたく)、鉄製品など比較的時代が新しめの古物から置いてあるあたり、この町の歴史の始まりはそんなに古くはなさそうだ。
それから室町時代、江戸時代に入っていき、そして俺はある一角で足を止めた。
思わずそこに目を奪われる。
そこには『大松屋コーナー』と大きく看板が掲げられてブースが組まれていた。
俺は咄嗟に解説ボードに目をやる。
そこには江戸中期から関東大震災まで続いていた大松屋の概要が書いてあった。
“菓子司大松屋
享保 9年(西暦1724)、第114代中御門天皇(なかみかど)の時代に和菓子屋として開店したこの店は、当時の流行りや最新技法、独自技法を常に取り入れる姿勢が
世間に受けて、あっという間に大松屋の名は周囲の国々に馳せ、行き交う行列の大名達がわざわざ立ち寄るほどの人気店となりました。
最盛期には“××に来たら大松寄らずば人生の損”とまで謳われ、時には江戸城や朝廷に大松屋の菓子が献上される事もあったそうです。
そういった背景もあり、力を付けていった大松屋は、幕末には時の動乱をものともしない磐石さを手に入れていました。
しかし幕末から明治にかけて世継ぎに恵まれず一時は廃店間際まで追い込まれますが、大松屋に従事していた職人達の頑張りによりその苦難を逃れます。
だが悲しくもそこで江戸から続いてきた大松屋創始者一族の血は途絶え、形を変えて今も我が町に残る『株式会社 大松屋』に創始者の血縁は一人も居ません。
ここに展示されているのは、関東大震災で建物が崩壊した際に回収されたものを、後に歴史的資料として町へと寄贈されたものです。
なお、この町唯一の駅である大松駅の名はこの店の名が由来となっております。”
昭和××年×月××日 寄贈 株式会社 大松屋
-
解説文を読んだ後、俺は何故は暫く動けなかった。
それから大きく深呼吸をしてからゆっくりと展示物を見渡す。
壊れた屋根から回収した意匠を凝らせた梲(うだつ)の一部、看板、店名が印字されたボロボロの布や、
住人の持ち物など、拾えるものは何でも拾ってきたかのように展示してあった。
きっとこのブースは歴史と時代資料両方の側面を持った場所なのだろう。
一応時代的には幕末から明治初期らしいが。
関心気に一つ一つ眺める中で、ふとある物に目が止まる。
江戸時代劇で見るような、男物の簡素な財布だった。
(あれ? これ……なんだか見覚えが……)
初めて見るはずの『ソレ』が妙に気になった。
……――ザザッ
一瞬、若い男の手が何かを握り締めているヴィジョンが見えた。
また、あのザッピングと既視感だ。やっぱりここには何かあるのか?
しかし俺は思わずよろけてガラスケースに手を付いてしまう。
(やばっ、思いっきり指紋付けちまった!)
慌てて辺りを見回すが幸い誰も見ていなかった。
急いでハンカチを取り出して痕跡を消す。
そして再び見ていると、一枚の写真ボートが飾られているのに気が付いた。
写真下に貼られた札を見ると『明治初期大松屋一同』と書かれてあった。
その写真は不鮮明だったが、店主らしき恰幅の良い男を中心に沢山の人が写っていた。
きっと大松屋経営者家族や従業員達だろう。
-
俺がその中でとりわけ目に付いたのは、恰幅の良い店主の男の右隣に居る少女2人と、左隣の少年だった。
何故かその3人がとても気になった。
娘2人はどちらも小柄だったが、細い子とその子より太めの子が居て、細い子は現代の目線で見ても可愛い子だと思った。
でも何だか性格がキツそうでもあった。
太めの子は細い子より遥かに凡庸な顔をしていたが、とても優しそうな子だと思った。
そして最後に少年。
少年は真面目をそのまま体現したかのような感じだったが異様に表情が硬かった。
昔の人は写真は魂を抜き取られるかもしれないと怖がったらしいと聞くからそのせいかと思ったが、その顔は『怯えてる』というより、
『思い詰めている』と言った表現が合うような気がした。
どうしてそう感じたのかは分からないが、写真越しに少年が目で何かを訴えているような気がして俺は何だか怖くなった。
(あ、そうそう……そういえば、この写真の人間配置図ってどうなってるんだ?)
そこに気がついて辺りを見回すも、それを解説するようなものは特に見当たらなかった。
資料館のくせに肝心なところで杜撰だ。
それとも地元ではそんなものがなくても誰が誰とかは常識的に知ってるから必要がなくて用意してないのかもしれない。
俺は試しに館内唯一の係員である受付係員を呼んで訊ねてみる事にした。
-
「あの、この写真の人達って誰がどうなってるのか判りますか? 興味あるんですけど」
すると受付係員は、ああ……といった表情をしてスラスラと解説してみせた。
「そういえば解説資料とか置いてないですからね。あまり人が来ないのでこうやって訊かれたら答えてるんですよ。……真ん中が、
当時の店主“大松屋新蔵”、右に居る女の子2人が娘の“さん”と“さと”です。細い子が『さん』、もう1人が『さと』です」
さん……さと……。
「じゃあ、この男の子は?」
例の左隣の男の子を指差すも、それは流石に係員は考え込むように押し黙ってしまう。
「……誰でしょう? この頃の大松屋に男児は生まれていませんから多分、従業員の1人だと思いますが、
位置的にただの従業員では無いとは思います。従業員名簿や日誌を解析したら判る事もあるかもしれませんが、
それができるほどの専門家を雇う程のお金は町にないのでそれらの品は展示だけになってますね……私に分かるのはここまでですが、よろしいですか?」
「わかりました。ありがとうございます」
そう答えると係員は受付に戻って行った。
係員の解説で納得する。やっぱりある程度は町の常識だったか。
でも手抜きするなよ……こうやって偶には人が地方から来るんだから。
何とも言えない中途半端感に肩を落とす。
でもこれでここではこれ以上の情報は手に入らないということは……あ、まだあった。
俺は『アレ』の事に気が付くと、帰りがてら受付の男にまた訊ねる。
-
「そうそう、最後に聞きたいんですけど、この町に住吉様ってありますか?」
「住吉様? ああー……あれでしょうかね? うさぎの置物じゃないですか?」
「そうです」
「それなら近くに寺がありますので、そこに行ってください。ここらへんでうさぎの住吉様って言ったら、あの寺の置物の事ですから」
男はそう、あっけらかんと答えた。
(寺? 寺なのか? 住吉様って神社の神様なのに?)
彼の返事に俺は疑問符をいっぱい浮かべながらも、寺の名前を聞けばそこは俺が行こうと思っていた
『兎海寺』だったので、男にお礼を言ってその足で寺に向かう事にした。
『曹洞宗兎海寺』は意外と大きな寺だった。
小さな町の寺だからそれなりだろうと思っていたが、立派な花崗岩の柱に寺名が彫られた門が構えてある、広い敷地を持った格式の高そうな寺だった。
しかし、見渡す限り今のところ視認出来る人影は無かった。
取り敢えずきれいに掃除された滑らかな石畳や白っぽい砂利の上をウロウロしてみる。
すると、幾つかある建物の中から窓が閉じられた寺務所らしき場所を見つけたので、そっちに向かってみる。
行ってみると引き戸の玄関らしきものが付いていたので、多分住職の住み込み住居にもなっているのでは?
と思って玄関の前に立ってみた。
しかし立ってはみたものの、いきなり声を掛けて良いものだろうか?
-
アポイントメントは取っていない。
と言うか、連絡先が判らない。
今すぐにでも地図で住所を調べてそこから電話番号を……。
などと色々やっていたら、その玄関がガラガラと開いて
頭にタオルを巻いた作務衣の男が現れて俺の姿に軽く驚いた仕草をする。
俺もいきなり戸が開いて吃驚する。
「うおっ……」
2人でそんな声にもならない声を漏らして固まり合う。
「こ、こんにちは……」
「こんにちは……」
お互い気まずそうに頭を下げ合う。
タオルを被った作務衣の男は見た目30代前半くらいの若い男だった。
少し間を置いて俺は思い切って訊ねてみる。
「あの、あなたはこの寺の方ですよね……?」
「はあ、まあ……そうですが……ウチに何か御用ですか?」
男は自分は寺田だと名乗ってきたので自分も自己紹介をした。
-
彼はこの(やっぱり)寺務所に住み込みで寺の雑務をやっているらしい。
しかしだからといって彼はまだ住職では無く修業中の身で、
詳しい役職は一般の人には難しいから普通に寺の小僧だと思ってくれれば良いと言って笑った。
(さいですか……て言うか、寺に住む寺田さん……なんだか出来過ぎてるような気も……)
そんな事を思っている横で寺田さんがふと俺の右目の眼帯と左腕の包帯を注視する。
「あの、その右目と左腕……間違ってたら申し訳ないんですけど、変なモノ憑いてませんか?」
「!!」
俺は彼の予想外の指摘にギョッとする。
(いきなり本題?! てっ寺生まれ……?!)
どうする。ここは正直に答えるべきか? でもこんなおぞましいモノ、指摘されたからといって簡単に見せていいのだろうか?
一気に脂汗が溢れ出るが、黙って突っ立っていると寺田さんが勝手に俺の左手を掴んで包帯を解き始めた。
「あっ……ちょ……っ」
心の準備が全然出来て……。
そう思ってる間に解かれた包帯の下から真っ赤なマツバギクの花が咲き乱れる
異形の腕が露わになり、寺田さんは厳しい表情でそれを見詰めた。
-
「右眼も見ますね」
眼帯も外され、右目の花も見られてしまう。
突然の事に頭が混乱して言葉が出ない。
「あ、ああ……あう……」
「……これのせいですか? こんな辺鄙な町にある、うちの寺に来たのは」
寺田さんの硬い声に俺は諦めたように頷く。
「お話、聞かせてもらえますよね?」
こうして有無を言わさぬ空気を放つ寺田さんに促されるように、俺は寺務所の中へと通された。
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今回はここまでです。
またお会いしましょう。
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流石小僧ではあってもTの名を冠するだけはある
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いい所で切りますね。
楽しみにしてます!
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すみません。
二日更新のつもりでしたが、
用事で書き上がりませんでした。
後日になります。
申し訳ありません。
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こんにちは
ちょっと用事の合間に書き込みしてます
しばらくこちらの方の更新は難しいのですが 過去に書いた遊戯王のSSとか興味ありますか?
申し訳ないというか ちょっとした場持たせみたいな感じです
少しBL臭い表現はありますが 獏良とバクラのお話です(シーズン4古代編)
10000文字無いやつなんですけど 需要あるなら後でスレ立ててうpします
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sageたままでした。
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余裕がおありでしたら過去の作品を投下して下さい。
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>>192
有難うございます
他に見たい方いらっしゃいます?
あと2、3コメント付くようだったら投下します
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いやでも 投下してしまいましょうか……
せっかくコメントいただきましたし
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ちょっとアップしてきますリンクもここに貼りますね
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上げてきました
暇つぶしにどうぞ
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/internet/14562/1411807659/
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乙
待ってるよ
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寺生まれに任せれば安心とレスしようとしたけど住み込みの沙弥か
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お久しぶりです。
最新話です。
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寺田さんに導かれて通されたのは、6畳ほどの部屋だった。
明らかに個人的な品物が置いてあると思ったら、案の定寺田さんの自室だったようだ。
折りたたみの茶色い小さなテーブルに煎れたての茶入った湯呑を置かれて勧められ、俺は先ず緊張で乾いた口を一口潤した。
それから俺はそれをテーブルに置くと、忙しなく周囲を見回す。
左手も右目も露わにされたまま人前に出るのは初めてなのでとても座りが悪く、寺田さんと目を合わせる気にもなれないでいると、
寺田さんの方から声が掛かった。
「それでは、単刀直入にご事情をお聞かせ願えますか?」
その言葉に俺は思わず姿勢を直して寺田さんを見ると、異形の左手と彼に視線を交互に飛ばす。
(一体どこから話始めれば良いんだろう?)
「ええと、そのぅ……この腕と眼の異変はまだほんの最近なんです。でも、調べてみたら花芽岬に辿り着きまして……」
「花芽岬に来たのは今回が初めてですか?」
「いえ、1年ほど前に死んだ恋人と……写真撮影に来ています」
俺がそう言うと、寺田さんはふと考え込んで、「ああ」と言う表情をした。
「もしかして今裁判が行われている千田珊瑚さんの死亡事故の関係者さんだったりしますか?」
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「知っているんですか?」
「地元じゃ知らない人は居ませんよ。自治体相手の裁判ですし、あの岬の柵は前々から町民から苦情が出ていまして、
その矢先の事故だったので……そうですか。さぞ、お辛かったでしょう」
「……恋人でした」
珊瑚を追いかけて海に飛び込んだ時の記憶が蘇り、思わず項垂れ、涙が膝を濡らした。
そうか。元々苦情が出ていたのか。
やりきれない……。
「では、あなたが九川真翔さん?」
名前を呼ばれて顔を上げる。
「そこまでご存知なんですか?」
「ええ、それなりにニュースになりましたし。私は地元民ですから。もしかしてあなたはニュースが流れた時の様子をご存知では無いのですか?」
「多分、入院していてそれどころでは無かったかと。意識を取り戻した時点で事故から数日経っていましたし、
退院したのは更にそれから半年後なので外の情報はさっぱり……」
いや、知ろうと思えば家族伝いに知る事やテレビルーム、看護婦に訊く事だって出来たはずだ。
多分あの時は俺に余裕がなかったのと、父さんも母さんもあえてニュースの事は言わなかったのだろう。
会社のみんなも実はニュースまで知っていたんだろうけど、言わないでいてくれていたんだと思う。
本当に、俺は色々な人に守られていたんだなと実感する。
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「そうですか。で、どういう経緯で再びこの町に?」
俺は促されるまま眼に異変を感じ始めてから一貫性のある『夢』を見る様になった事、夢の中で見た2人の女と男、
赤い珊瑚の枝や住吉様、花の名前を調べた事、持ってきたマツバギクに囲まれ岬に立つ珊瑚の写真を寺田さんに差し出したりと、話せる事は話せるだけ話した。
寺田さんは珊瑚の映る岬の写真を見ながら、ポツリと呟いた。
「その住吉様、この岬の近くにあったもので間違いないですよ」
「っ……!」
そして言葉を続けた。
「今は花眼岬周辺の砂浜は津波で消滅してしまっていますが、明治初期には確かにありました。でもこの事実を知っているのは本当に少ないと思います」
「では、寺田さんは何故それをご存知で?」
「簡単な事です。その住吉様を祀ったのは私の先祖だからです。実は私、親を早い内に両親を亡くしているのですが、母方がその住吉様を祀った神職の家系なんですよ。
資料館には立ち寄られましたか?」
「はい。しかし、あまりこれといった情報は得られませんでした」
「大松屋ブースがあったと思いますが、あそこに展示されている書物の中には多分創業に関わる記述があるとは思うんですけどね。ええ、残念ながらあそこでは、
そこまで詳しくは調べられてないのが現状です。ですが、母が亡くなる前に口伝ですが一族にまつわる話は小さな頃から聞かされておりまして、あの住吉様は
大松屋が創業する時に商売繁盛を願ってウチの先祖に依頼して作られたものだと聞かされています。住吉様には商売繁盛の意味も込められてますから」
「そうだったんですか」
寺で神職ゆかりの人間に出会うとは、また奇妙な事もあるものだとまたまた変な気分になる。
しかも大松屋とあの住吉様の関係者とは。
(こんな事ってあるものなのだな……)
ただただ驚く他無い。
-
「あ、私がこの寺に居るのは住職がご好意で引き取ってくださったんです。
私はそう言う経緯のある家系の人間だと言うのもありまして、
実家にはそのまま処分されるには惜しい文献が山ほどありましたし、私には
……その、何て言いますか。先祖由来の『力』があったのでそのまま親戚をたらい回しにされるのは勿体無いと……」
「“力”?」
訊き返すと寺田さんは照れくさそうに頬を染める。
「その、私があなたと最初に会った時に、ピンと来たあの感じです……わざわざ言うのもアレですが
……自分でもそう言う力を活かしたいし、その縁もあって今は住職資格を取る修行をしております」
「なるほど。寺の人間が目を付けるだけの事はある方だったのですね。お見それしました」
やっぱり寺育ちって凄い。俺はそう思った。
「ごほんっ、では、本題に戻りましょうか。どこまで話ましたでしょうか?」
「ああ、ええと。夢に出てきた人物の件ですが……何か思い当たりは?」
「先ず……女性の件ですが、特徴から考えて間違い無く大松屋の娘2人と考えて間違いないと思います。地元でも伝承の娘は大松屋の娘だというのが定番です。男の方は、
伝承にある伊達男の方でしょう。しかしウチはあくまで住吉様を祀った縁があると言うだけでその後の経緯には絡んでませんので、娘2人と男に何があったのか、
そこら辺の詳しい経緯までは存じ上げません。だから住吉様とこの写真であなたに起きた異常が岬由来なのは確実なのは分かるのですが、腕から生えてきたのが
何故マツバキクなのかまでは分かりかねます。……申し訳ありませんが」
-
「そうですか。でも、これを取り除く方法は何か無いでしょうか? このままでは俺、普通に生活も出来ません」
「ですよね……このまま暮らすのはどう考えても難しいでしょう。一応霊視してみますので、触ってみても良いですか?」
「お願いします!」
霊視……! 何だか段々本格的な雰囲気になってきた事に俺の気分は思わず高揚する。
寺田さんは俺の左腕を持ち上げて色んな角度から見始めたかと思うと、懐から数珠を取り出し、
目を瞑ってマツバギクを傷つけないように俺の手に指を絡ませてお経を唱え始めた。
「無常甚深微妙法 百千万劫難遭遇……」
ゆったりとした彼の声に眠気を誘われるが、そこは踏ん張って堪える。
そして数十分ほど経って漸くお経は止まった。
「九川さん、もう良いですよ」
「あっはい!」
ウトウトしていた俺は慌てて寺田さんを見る。
「お疲れ様でした。大体ですが、この花に残る残留思念的な念は読み取れました。このマツバギクからは悲しみとか、
無念とも言える思い残しみたいな感情が渦巻いています。それもかなり強い感情です。とても深く悩んでいるとも取れますね。
……あなたからこの花を取り除くには、それを解消しない事には解決しないかもしれません。多分、崖から落ちた時に拾ってしまったのでしょう」
「そんな! では、素性もしれない、歴史にも名前も残っていない人間の無念を晴らさないと、俺はずっとこのままという事になるんですか?」
絶望的な表情で寺田さんを見ると、寺田さんは困った様に眉根を寄せて唇を引き締めた。
-
「……そうですねぇ。とりあえず、津波の時に回収された住吉様でも見に行きますか? 何か手がかりがあるかもしれませんし……。ああ、そう言えば説明がさっきから中途半端でしたね。
さっきから津波と言ってましたが、実はあの花芽岬とこの村は一回津波の被害に遭っているんです。住吉様のあった砂浜も、やられた時に一回住吉様も海に持っていかれまったものの、
後日漁をしていた漁師によって住吉様は回収され、この寺に合祀されました。住吉様が寺に合祀されるって、今の人間にとっては何だか変な感じがすると思いますが、当時の人間には
そんなに不思議な事では無かったんです。時代が明治に変わって廃仏毀釈があったりしましたが、当時生活していた人間は廃仏毀釈の前に生まれた人間で、神も仏も大差ないと言う認識の時代の人間です。
そこで、ちゃんとした神社も無い、ただの祠に祀られていただけの住吉様を置くにはウチの寺が妥当だと判断されたんです。ウチの寺の名前が『兎海寺』なのも、住吉様を敬って改名されたなごりなんですよ」
彼の説明を聞きながらお互いにそれとなく立ち上がる。
寺田さんは住吉様の場所まで案内してくれるようだ。
-
例の住吉様は、一応見ればわかるが寺の目立たない場所に古びた木の祠と共に祀られていた。
多分人々の意識は変わらなくても明治政府の手前、表立って合祀するのは何となくはばかられたのだろう。
でも、祠自体は手入れは行き届いており、花などのお供えも新しい物が置かれている所を見ると、町の住民達に愛されているのが良く判った。
確かに、夢で見たものよりは大分劣化しているが、夢で見た兎地蔵の実物がそこにあった。
妙な懐かしささえ感じ、思わず手を伸ばす。
だがその瞬間、寺田さんが叫んだ!
「待って下さい九川さん、それに触っては……!」
「え?」
しかし声に反応した時には、住吉様の右目に当たる部分に左腕の指が触れ、俺の意識は途切れた。
-
……――『かーごめかごめ、かーごのなーかのとりーは、いーついーつでーやぁーるー……キャハハハハ!』
俺は不意に幼い子供達の童歌で意識を取り戻す。
(あれ? 俺、今何してたんだっけ……)
着物を着た人達が行き交う雑踏の中を見回して、自分が夕飯の買い出しに来ていた事を思い出し再び歩き出す。
幕府が無くなって明治政府が発足し、買い出しに使うお金は単位から変わった。
まだ銭とか円とかとか言うのには慣れないけれど、生きていかなくてはいけないのは変わらないので、
少しでも早く新しい生活に慣れていくしかない。
まあ、何だかんだで最初よりは上手くやってると思う。
俺も、皆も……。
山一つ離れた場所にある銀行で交換してもらった真新しい小銭を眺めながら、八百屋に向かう。
旗本の頃から既に生活が苦しかったウチは、幕府が無くなって更に生活は苦しくなった。
今は父上が祖父の代からやっている剣術道場で糊口を凌いでいるが、門下生もほとんど離れてしまい、父は足りない生活費に慣れぬ内職にまで手を出している。
ちなみに生活費に関しては比較的裕福な母の実家に頼る道もあったが、気位の高い父上は『侍が女の脛をかじる真似など出来無い』と言って、
自分も頑張るから別れたく無いと嫌がる母に三行半を突きつけて実家に返してしまったので、今は先祖代々の広い屋敷に俺と父の二人暮らしだ。
-
と、そんなことを考えている間に八百屋に着いてしまった。
「ヘイラッシャイ! お、佐上の旦那んトコの信之介坊じゃないかぃ!
旗本の坊ちゃんが今日も買いだしたぁ偉いねぇ、オマケしちゃうよ!」
「今日は茂兵衛さん。俺はもう旗本じゃないですよ」
「おう、そうだったそうだった! ガハハハハハ!」
うっかりといった感じで茂兵衛は笑う。
明治が始まってそれなりに経つのに、このやり取りはままにやってしまう茂兵衛。
「では、その大根とフキと、薩摩芋貰えますか」
「あいよっ!」
茂兵衛は俺が指定した野菜を紙に包んで寄越し、俺は小銭を渡した。
(次は魚屋だったな)
俺は茂兵衛に挨拶すると店を離れる。
魚か。ここは漁村だから魚は内地より比較的安く手に入るが、
野菜にしても今の食生活はいつまで続けられるのだろう?
いつも漠然とした不安の中で毎日を過ごしている。
俺が士族ではなければ、もう少し早く明治政府が始まっていたら、
どこかに丁稚にでも出られていたかと思うかと思うと歯がゆい。
そうしたら家計の足しくらい少しでも出来たと思うのに。
その前に、そもそも幕府が終わらなければ……?
いや、終りが無い事など存在しないのだから、幕府が終わるならさっさと終わってしまえば良かったのだ。
-
幕府が終わる時、旗本とは言え我々みたいな地方藩士に出来る事など殆ど有りはしなかった。
ただ伝聞でヤレ長州が暴れているだの、薩摩だの、江戸城が落ちただのと聞こえてきただけ。
父上はそれでも動乱に気を張って常に刀を手入れして有事に備えていたというのに、
肝心であるウチの殿様は藩に加勢するでも無く、呆けもいいところだった。
そして明治政府が始まった時点で丁稚に出るには遅かった年齢が、
ただでも苦しい生活を、父上の足を引っ張っている。
その事実が俺の心に重く伸し掛っていた。
そもそも元旗本の子ってだけで、丁稚としては使えんと門前払いだっていうのに。
悔しさに下唇を噛みながら歩いていると、背後にドンと軽い衝撃を感じて立ち止まる。
「っ!」
「だーれだ!」
野菜の入った包み紙を持ち上げると、腰に細い手が回っている事に気が付く。
この手は……。
「さん! またお前か。荷物を持っている時に背後を狙うなと前から言っているだろう!」
「えへへへ!」
振り向くと愛らしい少女が満面の笑みを浮かべて立っていた。
-
幼馴染で、ここら辺でも有名な豪商の娘の『さん』だ。
そして間も無く後ろから彼女より遥かに凡庸な顔をした太めの少女がやって来る。
「姉様ー。だから信様困らせるような事はしちゃ駄目だってばー」
後からやって来た彼女はさんの年子の妹でさとと言う。
こうやって並んでみると全く似てない2人だが、れっきとした姉妹だったりする。
因みに性格は見ての通り正反対で、さんはやんちゃで悪戯っ子。さとは大人しい心配性だ。
さとは面白ければ何でも良いと言う姉の姿勢を面白く思わない、規律を重んじる真面目な子だった。
俺はどちらかと言えばさとの方と気が合う。俺も面白さばかりで動いていては
世の中滅茶苦茶になってしまうと思うので、守るべき規律は守るべきだと思う方だ。
(さんとさとを足して二で割ったら良いと思うのだが)
でもこんな話をすると、さとは良いとしてさんが煩いので黙っておく。
「で、何か用か? 俺は買い物の途中なのだが」
「んーん。別に? 見かけたから来ただけ」
「…………」
さんの言葉に何とも言えない軽い頭痛が走る。
「ごめんなさい信様。姉様、信様見つけたら走り出しちゃって止まってくれなかったの……」
何故かさとが謝る。いつもそうなのだ。
何時も姉のさんが暴走し、妹のさとが謝る。
肝心の本人はどこ吹く風。
-
まあ、今は我らは子供だから。時と共にさんも大人の振る舞いを身に付けていくとは思うが、余り想像が付かなかった。
「まあ良い。俺は買い出し中故、失礼する。ではな」
俺が立ち去ろうとすると、さんが叫んだ。
「我も行くのじゃ!」
「姉様! 父様(ととさま)から頼まれた買い出しが妾(わらわ)達にもあったであろ? それを忘れてはなりませぬ!」
「それもやる。でもちょっとくらい遠回りしても良かろうて。信様は何処に買い出しに行くの?」
「さ、魚屋だが……」
さんの勢いに押され気味に答えると、さんがパァっと笑う。
「なんじゃ! これから行く反物屋の近くではないか。なら、一緒行くまいか」
「いや……反物屋の所の魚屋は高い。だから、金物屋の方の魚屋だ。残念だが正反対だな。悪いが、一緒には行けなさそうだな」
そう言ったが、半分は本当で半分は逃げだ。
夕飯の支度も待っている忙しい買い物時間をさんに付き纏われては、早く終わるものも終わらない。
「えー」
思いっきり不満げ気さんだが、さとが気を利かせてさんの袖を引っ張る。
「姉様。残念だけど、金物屋の方は妾達の様な女の童子がうろつくには物騒だよ。信様も危険な目に合わせてしまうかも
しれないから妾達はちゃんと反物屋行こう? 折角父様が好きな着物作ってくれるって言ってくれてるんだし、ね?」
「うーん」
さとの言葉にさんは唇を尖らせつつも、俺に手を振って二人で去って行った。
-
(ふう、毎度疲れるな。嫌いではないし、仲の良い友とは思ってはいるが……)
彼女達ともこうやって親しげに話せるのもそんなに長くはないだろう。
我々は後数年もすれば若くとも大人として扱われてもおかしくない年齢になり、彼女達は嫁に行くだろう。
彼女達の家の事だから許嫁の一人や二人くらい居るだろうし。
変化するのは時代だけではなく、人間もなのだ。特に我々の様な子供は特に。
士農工商が無くなった今、この村で確実に位が上なのはさんとさとの実家である『和菓子司大松屋』だろう。
世間ではまだ幕府の時代の名残が残っていても、幕府の時代から彼女達の家は侍も道を開ける勢いだった。
元旗本というだけの貧乏士族の出番など、何処にも無いのが現実だった。
-
今回はここまでです
またよろしくお願いします
-
乙
寺育ち凄い
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過去作投下しました
ブラックラグーンの双子ネタ
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/internet/14562/1412512297/
-
こんばんは。
-
「信様ーー!」
波打ち際でさとと遊ぶさんが砂浜に座る俺に向かって手を振ってきたので、俺も小さく微笑んで形ばかり振り返した。
つい一、二年前まで二人に混じって遊んでいた俺だが、年頃の自分を感じるようになってからは
強く誘われない限りは二人を見守るだけにするようになった。
さんとさとはまだ無邪気に遊んでいるが、俺と彼女達の間には徐々に溝が出来て来ている。
彼女達はもう、自分達が異性と気軽につるめる存在では無い事に気が付いているのだろうか?
さとの方は薄々気が付いているような気配を感じる。
さんが俺を遊びに誘うと嬉しそうな反面、どこか表情を曇らせる。
もしかしたら、もう許嫁の話でも聞かされているのかもしれない。
さとはとても利発で堅実家だ。
あの二人を見ていると、どっちが姉か妹か判らなくなってくる時があるくらいだ。
二人は正反対で気も合わないはずなのに、いつも一緒にいる。
多分さとがさんが心配で付いて回っている様な気がする。
(さんは一人にしたら何をしでかすか分からないからな……)
そんな事を考えながらはしゃぐ二人を見ていると、遊び飽きたのか二人が浜に上がってきた。
俺から見れば上等な生地で出来た着物を着ているはずなのだが、どちらもすっかりずぶ濡れだ。
「楽しかったか?」
そう声をかけると、さんは満面の笑みで、さとは気恥ずかしそうにはにかんで頷いた。
「あの、信様……」
手拭いで手足を吹いているさんの横でさとが話しかけてくる。
いつもはさんから話しかけてくる方が多いのに、さとから先に話し掛けてくるとは珍しい。
-
「何だ?」
「妾達身体が濡れてしまったので屋敷に帰るのですが、良かったら信様も一緒にいらっしゃいませんか? お見せしたいものがあるんです」
「見せたいもの?」
そう言ってクスリと微笑むさと。だがその様子を見てさんが悔しげに叫んだ。
「あーーーーさと、それ我から誘うつもりだったんに!」
「姉様忙しそうだったから。どっちにしても誘う予定だったんだから良いではないですか」
「むーー!」
さんが地団駄を踏む。
いつも控えめなさとが、さん相手に会話の主導権を握っている。こんな積極的なさとを見るのも珍しい。
「では、姉様も準備が出来たようですし、参りましょうか」
さとは頬をふくらませるさんを涼しい顔でやりすごすと、
俺ら三人はさんとさとの家である大松屋へと向かった。
店舗になっている正面は客の出入りが激しいので、遊び帰りの俺達は
大松屋の店舗横にある路地に入り、勝手口から屋敷の中に入った。
すると女中がやって来ると、ずぶ濡れのふたりを見て溜息を吐いた。
「あー! お嬢様方、またそのベベさきたまま海行きなはったんか。あんなぁ、何度も言うてはりますけど、水辺に遊びに行かはる時は、
かすりとか濡らして良えモノにして下さい言うてますやろぉ。……もぉう、手入れするのもタダじゃないんですえ? 取り敢えず
先に着替えしてきたって下さい。脱ぎはったら着物はいつも通り脱衣所に。あ、信之介様、良くいらしはりました〜。
お嬢様方が着替えて来はるまでお茶でも飲んでも待ちくださいやす」
さんとさとは女中に促されるまま屋敷の奥に消えてゆき、俺は京訛りの彼女に案内されて客間に通された。
-
(いつ来ても立派な客間だな。広いのはウチも一緒だが、畳がいつも新しいのが凄い……)
一体どんな頻度で交換しているのだろう? 香しい井草の香りに俺は目を細めた。
悔しいが、今のウチには傷んだ畳一枚交換する金も無い。 少しでもお金があれば食費などの生活費に回る。
しかしそのお金さえもギリギリで、日々をやっと凌いでいる状態だ。
間も無く五尺(150cm)はある客間の机の上に、
芳しい緑茶の入った湯呑が置かれた。
「どうぞ」
そう差し出される湯呑も傍から見るとただの白い湯呑だが、
中を覗くと見事な金箔入りの意匠が施されていた。
ウチにも昔はこう言う食器があったらしいが、全部質に入れてしまったと言っていた。
とことん落差を思い知らされる。
(ああ……本当、元旗本が聞いて呆れるな……)
思わず自嘲気味に笑うと、暖かな茶を口に含んだ。
そしてその味に唸る。
全く、良い茶葉を使っている……。
番茶を七回は煮出すウチとは大違いだ。
-
お茶が急須ごと置かれていたのでチビチビと飲んでいると、
衣装直しを終えたさんとさとが客間にやってきた。
「見て見て信様。先日作った新しい着物。余所行きを作らないか勧められたけど、
我は普段遣いの方を選んでみたのだが」
そう言ってさんは赤地のちりめんで出来た着物の袖を掴んでクルリと一周してみせる。
彼女の白い肌に赤い色は本当によく映えていた。
「中々良いじゃないか。でも、それで海には入るなよ? 折角のちりめんが台無しになる」
「流石にこの着物ではそんな遊びはしない! 父様に叱られてしまうからな」
叱られるからしない……さんらしい言葉だと思っって苦笑する。
「妾はお店の人に、珍しい小千谷縮(オジヤチヂミ)を勧められたので、これに」
次にさとが生成り色に茶の縦縞の入った着物で現れる。
さとも、彼女の柔らかな顔立ちに良く似合った良い着物を着ていると俺は思った。
「ほお、可愛い色を選んだな。さんが赤で、さとが生成りか。紅白姉妹で目出度いな」
「あ、本当じゃ。お互い好きに選んだつもりだったのに、そう考えるとまるで揃いじゃの」
「そうですね姉様」
そう言って二人は微笑み合った。
こうやって普通に仲良くしている二人を見ていると、こっちも嬉しくなってくる。
と、着物のお披露目が終わったところでさんがにっこり笑って俺の前に正座する。
-
「ん? どうしたんだ? 随分ニコニコとして……」
「えへへ。今日は信様に珍しいお菓子を振る舞いたくて屋敷にお誘いしたの」
「珍しい菓子?」
「ねえ、さと」
さんの言葉にさともニコニコと頷く。
「一体、何だって言うんだ?」
俺は訳が分からず、二人に尋ねる。するとさんが誇らしげに答えた。
「実は、貿易が前より自由にできるようになって、横浜に伴天連(バテレン)の菓子職人達がやってきたから、
ウチでも一人雇ってみたのじゃ。近々店にも品を出すから、その試食を信様にしてもらおうと思って、な」
「ば、伴天連の菓子職人? そんなの、簡単に雇えるものなのか?」
「いや? かなりの競争率だったが、うちが一番高い給金を提示して勝ち取ってきた。設備は一度に大量に作れるものを
用意したから、伴天連職人の給金を出してもちゃんと利が出るように父様が準備しておった」
その説明を聞き、流石天下の大松屋だと思った。
昔から時代の先取りの上手さや、腕利きの職人達に支えられて大きくなってきただけある。
ここら辺で働く菓子職人にとって、大松屋で働くのは職人として腕を認められたも同然だからな。
「たえー。たえ。信様にあれを……」
さんが女中に合図する。
すると、黄色い塊の載った小皿を載せた盆を持って女中のたえがやってくる。
-
『ソレ』の匂いは、襖を開けた瞬間にフワリと香ってきた。
いつも俺達が口にしている菓子とは全く別種の匂いだ。何というか、乳臭い?
目の前に黄色いフワフワしたどら焼型の塊が置かれ、俺はさんとさとの方を見る。
「信様。これは、『けいく』と言う菓子だそうです」
さとが説明してくれる。
「“けいく”?」
初めて聞く菓子の名に俺は関心げにその『けいく』を眺めた。
「食べてみてくだされ」
さんに促されて、恐る恐る手に取ってみる。
それはとてもフワフワしていて、ちょっと力を入れたら握り潰してしまいそうだと思った。
「ん、随分ボロボロろする菓子なのだな。少し食べにくい……それとこの香り、
牛の乳とか油みたいな匂いがする。醍醐(牛乳を煮詰めたもの)かもしれない」
「大体合っております。この菓子は、牛の乳と、その乳の上澄みの油(バター)と、
鶏卵、小麦粉、砂糖で出来ていると聞きました。さ、先ずはお食べ下さい」
促されるまま口にして、食べ慣れずに咽る。
「牛の乳と油、小麦粉を使った菓子……ほう、はむっ! ぐ、ゲホッゲゴッ……! 粉が、喉っ……に!」
「あら、大丈夫? さ、お茶を」
さんから茶を貰って一気に飲む。
「ぷはー! 苦しかった。ちょっと一度に食べ過ぎた。これは少しずつ食べた方が
良さそうだな。それにしても甘い! こんな甘い菓子、初めて食べた……」
俺は食べかけの『けいく』を眺めて目を白黒させる。
-
「作るところを見ましたが、白い砂糖をこれでもかと入れておりました。
この菓子には和三盆(和菓子の材料に使う高級な砂糖の一種)は風味が合わないので使わないそうで」
「我もびっくりしたぞ。しかも見た事のない道具をたくさん使っておった。
けいくを作るために、日の本では使わない特殊な釜まで必要でな、専用の部屋まで用意した」
そう言って二人は顔を見合わせる。
この豪商大松屋の娘である彼女達でも驚くような設備が用意されたのかと思うと、恐ろしいな。
「へえ、世界は広いのだな。知らない事が沢山ある。でも、けいくは悪くない。嫌いじゃないぞ。甘いし、乳臭いが、
それがまた変わっていて良いと思う……ただ、食べ方は気を付けないとな」
咽せた時の事を思い出し苦笑する。
俺の反応に二人は釣られる様に笑った。
「ねえ信様。折角だから、伴天連の菓子職人紹介しようかの? 我々とは全く違う顔付きをしているのだぞ」
「伴天連の職人……」
確かに、興味あるかもしれない。
「たえ、彼をここに」
「分かりました」
さんの指示でたえが退室し、間も無く戻ってきた。
するとそこには、見た事も無い白い職人衣装(古典的なパティシエ衣装)を纏った、
金色がかった茶色い髪に青みがかった灰色の目をした男が現れた。
頭には烏帽子にも似た白くて長い被り物を付けている。あれも衣装の一環なのだろうか?
顔の彫りはとても深く、小さな頃に見かけた戎夷(エミシ/アイヌ人)の行商人に少し似ていると思った。
-
「彼の名前はレオナルドと言う。仲良くしてやって欲しい」
レオナルドはニコリと笑うと、手を差し出してきた。
これは握手だが、欧米式の握手を知らない俺はポカンとしながら彼を見上げた。
「ハロー? グーテンモルゲン?」
レオナルドが英語と今で言うドイツ語で挨拶してくるが、この場に居る人間誰一人アメリカも英語の存在もよく知らない。
当然ドイツなどはもっと知らない。そもそもこの時点ではドイツは建国していない時期である。
(時間軸:東フランク/プロイセン/廃藩置県直前)
因みにレオナルドはゲルマン系で、アメリカには乳児の時に移住したので移民としては一世か二世か微妙な立場だった。
「え、はろ? ぐーて? さと、彼は何と言っているんだ?」
「ちょっと、何で我でなくさとに訊くのじゃ!」
「いや、何となく」
さんよりさとの方がまともに回答してくれそうだったので、とは言えなかった。
「“はろぅ”とは彼の国の言葉で『こんにちは』だそうです。彼が日の本の言葉を憶えるまでは
翻訳者兼指導員が付きますから、困ったらその人に聞いて下され」
「ふむ、伴天連の国の『こんにちは』か……」
俺は改めてレオナルドを見詰め直すと、ぎこちなく微笑んで「はろぅ?」と話しかけてみた。
するとレオナルドはとても嬉しそうに俺の肩を抱いて喜んだ。
男同士で抱き合うなんて滅多にしないので少し驚いた。伴天連は触れ合いが好きな人種の様だ。
その後、レオナルド専属翻訳者の男性の紹介も受けて皆で楽しく色々と雑談した後、俺は日暮れの気配を感じて帰る事にした。
今夜も夕飯の準備がある。
-
そして屋敷に帰ると、出入り打ちからウチの剣術道場に通う門下生が三人程擦れ違いに出てくるのが見えた。
彼らは俺の姿を見つけると、気安く挨拶をしてきた。
「よっ! 今日も元気そうだな。お前には急な話かもしれないが、
我等は今日でこの道場を失礼させて貰う事になった。いろいろ大変だろうけど、頑張れよ」
「じゃあな」
「またな」
そう言って三人はそそくさと去っていった。
(え、道場を失礼するって……辞めるって事か?!)
俺は駆け足で屋敷の中に入ると、土間のところで父上が渋面で座り込んでいるのを見つけた。
「父上、山下先輩達は!」
「……これからの生活のために始める新しい家業の手伝いをするから
辞めるそうだ。それに、もう幕府も無いのに剣の修行はもうそんなにしなくても良いだろうとさ……」
言いにくそうに父は俯いたままそう言った。
「そんな……刀は侍の命だっていうのに! その修行を怠ると?」
「時代がもう違うのだ。今は明治だ。幕府ではなく皇(スメラギ)が治める世になった。我らにはもう……守るべき主君は居ないのだから、山下達の言う事も一理ある。
……後に残る門下生は、後三人……だったか。これから益々キツくなるな。これはもういっそ道場自体閉めた方が良いかもしれない。そして屋敷は売りに出そう。
そして長屋に移れば屋敷を売った金と内職で我ら二人でも充分暮らしていける。この屋敷は造りが良いから、それなりの値段で売れるだろう」
そんな諦め混じりの父の言葉に俺は言葉を失った。
-
この人はどこまでやせ我慢を続けるつもりだろうか?
父上は、俺との生活を守るために……先祖代々から受け継ぐ家まで手放そうとまでしている。
(俺が、俺が父の食い扶持を減らしているのに、何も出来無い……!)
途轍もない無力感が俺を襲う。
何か、今の自分に出来る事は何か無いだろうか?
思い当たらない……丁稚にも職人修行にも行けず、大人の仕事にも就けない。
今ほど自分の中途半端な年齢を呪った事は無い。
俺は悔しくて悔しくてその場で涙を零した。
その時、いつもなら『男なら涙一つ流すな』と叱責する父が
何も言わず泣いている俺を戸惑った眼差しで見ていた。
そしてその晩、寝る前にこっそり文を書いた。
父が頼るまいと三行半を突きつけた母上宛に。
-
今回はここまでです。
ではまた。
-
乙
-
こんばんは
-
母に手紙を出して二日ぐらい過ぎた頃。
俺の母が住んでいる村はこの浜から普通に歩いて二日くらいだから、急ぎで行けば一日強くらいの場所だ。
飛脚に直接急ぎだと掛け合ったから、普通に出すよりはもう少し早く着いてるかもしれない。
送った内容は父と俺の今の窮状について。
もう、現状が俺達父子だけではどうにもならない事を訴える内容だ。
父なら絶対俺が書いた手紙を見つけたら、絶対取り上下ているであろう事を赤裸々に書いた。
勿論、俺の気持ちも書いた。
そして俺は手紙は出しだけじゃなく、本格的に仕事探しもしようと考えていた。
今の年齢でも、少しでも良いから稼げる仕事……何か無いだろうか。
この日はまたあの姉妹に誘われて大松屋を訪れ、住居部分にある縁側で自分が出来そうな仕事について一人で考えていた。
ちなみに姉妹は俺の後ろにある更にひとつ向こうの部屋でおはじきで遊んでいる。
無邪気な声が縁側にまで聴こえてくるのを聞きながら、色々な事をに思いを巡らせていた。
そうしていると、背後から声が掛かった。
「信之介君。今日も好い天気だね」
声に気がついて振り向くとそこには姉妹の父であり、大松屋店主の新蔵さんが立っていた。
恰幅の良い身体が景気の良さも表してるようだ。
「おじさん。こんにちは」
俺は縁側に投げ出していた足を慌てて廊下に引き上げて佇まいを正すと、正座して会釈する。
「いやいや、そんな畏まらなくて良いよ。ワシと君の間じゃないか。姿勢を崩してくれて大丈夫」
そう言って新蔵は縁側の、俺の隣に座った。
だから俺も再び縁側に座り直した。
-
「すみません……」
幼馴染の父とはいえ、豪商大松屋の店主に隣に座られ、俺は何だかドキドキしながら彼の次の言葉を待つ。
多分、彼は俺に何か用事か言いたい事があって来たのだろう。
(ああ、そろそろ娘に近づくなとか言われるのか?
許嫁でも居たら幼馴染でも異性とは余りつるませたくはないだろう……)
そんな事を考えていると、新蔵が口を開いた。
「娘達とは、小さな頃から本当に仲良くしてくれてるね。有難う」
「いえ、俺も楽しいですし、お礼を言われるほどでは……」
きた。案の定二人の話だった。
「いやいや、さとはともかく、あの気難しいさん相手に良く付き合ってくれていると思う。
あの子はああいう性格だから、友達が出来にくくてね。だから君が仲良くしてくれて本当に嬉しく思ってる。
しかし、さんも数えで十四、元服も近い。そろそろ婿をと考えていてはいるが、家事修行もそぞろで将来を
考えると頭が痛いよ。さとは結構てきぱきとやってくれるのだがね」
「……やっぱり、俺は邪魔ですか?」
「いやいや、そういう話をしに来たわけじゃない。君は昔から賢いね……幕府時代から幼くとも
侍としての誇りの高さにも感心していたが」
「あ、有難うございます……二人とはとても楽しく過ごさせていただきました」
褒められてもあまり嬉しくはない。だって、幼馴染との別れがついにやってきたのだから。
「まあまあ、半分は君の予想は当たっているが、そう気を落とさないでくれ。察しの通り、
さんには添って貰いたい男が居るのは確かだが。ウチの職人頭候補の一人なのだがね……」
半分? どういう意味だろう。でも、さんにはやはり許嫁が居たか。
-
「さんに許嫁ですか? おめでとう御座います。しかし、半分とは?」
俺がそう問うと、新蔵はにっこり微笑んで。
「さとの事を考えているところなんだよ」
と答えた。
「さと……?」
「信之介君。聞いたところによると、君の道場の門下生が三人も抜けてしまったそうだね。
抜けた分の収入の穴はどうするのか目処は立っているのかい?」
何故その話を? その話は少なくとも俺と父はまだ誰にも……あ、先輩達からかな?
(人の口に戸は立てられないからな。確かに秘密にするような話ではないが、
厳しい台所事情を他人に知られるのは恥ずかしい事極まりないな……)
思わず何も言えぬまま俯いてしまう。
そんな俺の様子を見て、新蔵は言葉を続けた。
「これは私の独り言なのだが、近々この屋敷の使用人を一人補充しようと考えている。性別は問わない。
もし……来たのが男でウチの娘と懇意になっても、人の心を縛る事は出来ないから、私は娘が望むなら
その使用人と添わせても良いと考えているのだよねぇ……? ただし、さんには許嫁にしたい男がいるが……」
そう言って俺の顔を覗き込んできた。
俺は彼の言いたい事が解った。
彼は俺をさとの許嫁にしたいと考えている。だが、体裁上
豪商大松屋が落ちぶれた元旗本の息子をそのまま迎えることは出来ないから、
先に使用人として受け入れようと考えているのだろう。
俺が仕事を欲しているのも、全て悟った上で誘っているのだ。
-
さんは長女で世継ぎだが、さとは次女だから、ある程度ちゃんとした家柄の人間が来てくれればそれで良いのだろう。
入婿にしてしまえば後はどうとでもなるし。
幕府の時代では侍が商人の家に入婿になるの難しかったが、時代が変わるとそういう事も可能になるのだな。
こんな話は聞いた事は無いが、一応位が無くなった明治の今なら物理的に不可能ではないのだろう。
だから、新蔵はこの話を俺にしているのだ。
長年の付き合いのある我ら父子の窮状に同情しての案なのだろう。
きっと新蔵なりの最大限の好意。
でも、それは必ず婿に……という訳ではなく機会を与えてくれるという事なのだろう。
機会もそうだが、使用人になれば給金が入る。
給金が貰えれば俺はもう、穀潰しではなくなる。
本当にありがたい。
ならば……。
「では、俺も独り言を……正直道場はもう、立ち行かないところまで来ています。だから俺は是が非でも仕事を見つけ出して
父上の穀潰しの状態から抜け出したいと考えています。使用人を募集してるんですか。俺がその枠を貰えたら、とても助かりますね……」
「そうか……では、覚悟は良いのだな? ワシの言葉の意味をちゃんと理解して言っている言葉と受け取って良いのか?」
その言葉に顔を上げると、真剣な顔をした新蔵の顔があったので、俺も真剣に見詰め返した。
「はい」
「解った。いま証文を用意するから待っていなさい。特にお父上の許可はいらないかな?」
「要りません。多分、反対されます」
「だろうな。あの旦那はそういうお方だ……」
そう言って新蔵は縁側から腰を上げた。
-
こうして大松屋の使用人としての手続きを済まして屋敷に帰ると、男女が言い争う声が聞こえた。
(この声は……)
俺は急いで屋敷に入ると父上と、久々に見る母上が居て、何か激しく言い合っていた。
「ですから、この屋敷を売りに出すなら当家で買い上げます。売りに出すなら誰が買おうと一緒じゃないではないですか!」
物凄い剣幕の母に圧倒されて玄関口に呆然と立っていると、俺の姿を見つけた父が「あっ」という顔をして怒鳴った。
「きさん、勝手にきぬに手紙を出しおって、何を考えている! お陰でややこしい事になっているではないか!」
怒鳴られて思わず肩をすくめるが、姿勢を正すと言い返す。
「お言葉ですが父上、幕府が無くなって厳しい生活を二人でずっと送ってきましたが、元はといえば、
時代が変わったというのに飯にもならぬ男の意地で母の好意を踏みにじり続け、先祖代々の家まで手放そうなどと
口走った父上に問題があるのではないのですか? 俺達だけではもう、どうにもならないのは父上も
わかっているのではないのですか? だから俺は母上に文を書きました」
「…………っ!」
信之介の言葉に彼は言葉を詰まらせ、顔を真っ赤にして表情を歪める。
「信之介の言うとおりです。下らない意地を張るのはもうお止め下さい。信之介……良く知らせてくれましたね……」
母はそう言って土間に降りると俺の方に来て抱き締めた。
-
久々の抱擁で懐かしい体温と、母が纏う品の良い柔らかな香の香りに鼻腔をくすぐられ、苦労していた分、思わず涙腺が緩くなりそうになる。
「お久しぶりです……母上。俺が手紙を出してからまだ二日くらいなのに、何故こんな早くここに居らっしゃるのですか?」
「信之介の手紙を読んで、直ぐ早駕籠を出してもらいました。もう安心なさい。今、当家では幕府時代の小作と組んで新しい事業に
取り組んでいます。貴方達をもう飢えさせたりはしませんよ」
そう言って母は微笑んだ。
母の話によるとその新事業は絹糸の海外輸出事業だった。
小作に養蚕をしている農家があり、その彼らに資金援助して規模を拡大し、紡績(糸を紡ぐ)設備も整えている真っ最中だそうだ。
準備はほとんど済んでおり、取引先もいくつか決まっているらしい。
「凄いですね母上!」
大松屋も外国人を雇っていたが、母の家も海外相手に仕事をしようとしている。
幕府時代では考えられない事だ。
「ですから、女工ももっと増やさなくてはいけませんし、工房の場所も足りません。この屋敷は道場をやるだけの広さががありますから、
改築すれば良い工房になるでしょう。だから当家でこの家を買い取っても何の不思議でもないのですよ。そうしたらまた親子三人一緒に暮らせますね……」
そう言って俺を抱えたまま母は父を見た。
すると父は何だか気恥ずかしそうにそっぽを向いた。
何だかんだ言って母の申し出は満更ではなかったし、父も助かったと思っていたのだろう。
そもそも嫌いで別れた訳でもなかったわけだし。
-
しかし、俺には言わねばいけない事があった。
「父上、母上。新しい事業、俺も本当に嬉しく思います。しかし、俺は一緒に住めません」
俺の申し出に二人共面食らった表情をする。
「どういう事だ」
問い詰める父に俺は静かに答えた。
「先程、大松屋の新蔵様と話し合って、使用人として雇ってもらう事になりました。住み込みになりますので、俺は……もう……」
「信之介、貴方……! そんな親に相談もせず!」
母も叫ぶ。
だが俺は動揺を表情に出さないように黙り込む。
「お前、まさか……いやでももうウチは……」
父は何故か少し察したようだ。
でも構わない。
「……母上の事業は素晴らしいと思います。先にその話を知っていたら違っていたかもしれませんが、
俺は……もう穀潰しで居るのは厭だったんです。それに、これからの時代外での社会勉強のほうが
大事になってきますし、俺が大松屋で地位を上げれば、父上母上の仕事にも貢献できるかも知れないではないですか。
風呂敷、菓子包、取引先が増えるんですよ? 多分!」
一生懸命笑顔でそう言うも、二人共呆然とするばかりだった。
「信之介……」
母がホロリと涙を零した。
-
「し、証文は……?」
父が震える声で訊ねる。
「もう交わしました。拇印もしっかりと」
「そうか……分った……頑張れ……新蔵殿には後で俺からも礼を言っておく……」
そう言いつつも顔が動揺していた。
でも俺は笑顔を崩さなかった。
俺はもう、誰の負担にもなりたくはなかった。
母上の事業でもうこの家は安泰は決まったようなものだが、本始動している訳では無い。
そもそも糸紡ぎは大体女の仕事だし、養蚕の知識の無い俺は結局この家に残ってもやれる事はほとんどないのでこのまま大松屋に行く方向で良いと思った。
この時の判断に、俺は悔いは無い。
あるとするなら、それはまだ先の話になる。
-
それから三日後。
俺は大松屋に行くための準備を終えて玄関に立っていた。
父と母が心配そうに旅立とうとする俺を見ている。
旅立つといっても、近所の店に行くだけなのだが。
「では……父上、母上。行ってまいります」
「ああ。新蔵殿に宜しくな。あまり迷惑かけるなよ」
「辛い時はいつでもウチに寄りなさいね……」
お決まりの台詞に俺は思わず吹き出すと、「ふざけるんじゃない!」と父が怒った。
そして俺は生まれ育った屋敷を離れたのだった。
それから大松屋に向かって暫し歩いていると、俄かに人集りが出来ている場所を見つけて歩みを止める。
(何だろう?)
歩み寄って人垣を覗くと、流れの行商人が店を道端に広げていた。
珍しそうな物が幾つも並べられ、俺は目を奪われる。
そこでふと考えた。
これから大松屋にお世話になるのに、さんとさとに手ぶらで会うのも何だと考えたのだ。
俺は袖から財布を取り出して手持ちを確かめると、並んでいる物から女の子が喜びそうなものを探した。
人形、手鞠、ベコ。色々置いてある。
ジーッと見ていると、その様子に気がついた行商人が声をかけてくる。
-
「お、坊ちゃん。興味あるかい? オマケするよ」
「ふむ、女の子二人分の土産を探しているのだが、オススメはあるか?」
そう訊ねると、行商人は西陣生地の様な着物を着た娘の人形を見せてくる。
しかし明らかに高そうだ。
俺は首を振る。
そして色々見せられるも、どうしても二つ買うとなると厳しいものばかり勧められるので、俺の手持ちを行商人に見せた。
すると明らかに落胆して一気にしょぼいものばかり見せられた。
「これはどうだい? これなら坊ちゃんでも買えるだろ」
その言葉さすがに頭にきた俺は。
「かもしれないが、おなごの土産に相応しくない物を勧めるのもどうか」
と言いながら視線を移すと、珍しい物が目に入った。
それは長さ五寸以上はある『真っ赤な枝』だった。
「お、坊ちゃんそれが目に入るたァ、好い目してるね。これは珊瑚の枝だ。それもとびきり珍しいやつ。これで簪(かんざし)でも作ればどんな女もイチコロだろうよ、どうだい、一本この金額で」
そう言って指で金額を示す。
その場に珊瑚の枝は3本あった。二本買えば、えーと。
手持ちを見る。買える。しかし三本あるなら全部買ってしまってもいいかも知れないと、ふと思った。
何となく、三人の親しみの象徴になる気がしたのだ。
でも三本買うとなると、少し金が足りない。
-
「おじさん、三本買うから負けてはくれまいか」
「これをかい? 坊ちゃん、冗談言っちゃァいけねぇな。これはかなり珍しい物なんだ。簡単には手に入らないのだぞ? それをその金額で売れと?」
お話にならない。そんな様子で肩を竦められる。
「確かに、銭はこれしかないが、一朱金を持っている、と言ったらどうする?」
「一朱金? 随分古い金持ってんだな。流通はとっくに終わってる奴じゃないか。寄越すなら新しい金を寄越しな」
「いや、よく考えてみてくれ。流通はしてないが、金だから質に持っていばそれなりの値段で引き取ってもらえるはずだし、この一朱金は一番出来が良い頃のやつだ。
お祖父様にお守りとして持っておけと言われたくらいに。それにこの珊瑚の枝、さっき『簪に加工すれば』と言っていたな。と言う事はこのままだとタダの珊瑚だ。
どんなに珍しくても。加工するには更に金も手間も掛かる。それに欲を張るつもりか? 適当なところで落としどころを見つけた方が良いとは思わないか?
次にこの珊瑚に興味持つ人間がいつ出るか分からない事だし」
そう言ってニヤリと笑うと、行商人は暫し考えた後に溜息を吐いて「負けたよ」と言って俺の提示した金額と一朱金一粒を受け取って、珊瑚の枝三本を寄越した。
「有難う。大事にさせて貰う」
そして俺はその場を離れて再び大松屋に向かって歩き出した。
なお、今の買い物で全額使い果たした様に見せかけたが、俺はそこまで阿呆では無い。
ちゃんと財布にはまだ金を残してあったりする。
さっき行商人に渡した一朱金もまだ在庫があったりするのだった。
(長く極貧生活やっているとこういう技能も付くのだな)
飄々とそんな事を思った。
-
そして買ったばかりの真っ赤な珊瑚の枝を見る。
あのふたりは人形なども好きだが、意外とこう言うのも好きだったりするのだ。
長年付き合っているからなんとなく解る。
(喜んでくれると良いな)
二人が喜ぶ表情を期待して唇を綻ばせる。
そして間も無く大松屋に着いたので、いつも通り勝手口に向かう。
すると激しく言い争う声が聞こえた。
「嫌じゃ嫌じゃ嫌じゃ! 我はまだ行かぬぞ!」
「しかし姉様、これはお家のためなのですよ。父様が一生懸命考えて……」
「うるさい、お前にはこの気持ち、解らぬよな。先に生まれたというだけで……」
「姉様、そろそろ信様がいらっしゃいますよ!」
良く分からないがまた喧嘩か。
あの二人が喧嘩しているのはいつもの事なので、俺は気にせず勝手口の前で叫んだ。
「たのもー! 只今佐上信之介、参上つかまつった!」
するとバタバタとした足音と共に勝手口が開き、さんとさとが飛び出してくる。
「「ようごそ、信様! これから宜しくお願い致します!」」
さっきまで喧嘩していた二人が一言一句違わず同じように挨拶してくる。
それに気が付いた二人は気まずそうに顔を見合わせ、俺はその様子に思わず大声を上げて笑ってしまった。
「はははははっ! やっぱり姉妹だな。調子がピッタリだ。可愛いぞ……」
そう言うと二人は各自恥ずかしげに顔を絡めた。
「もう、信様ったら!」
照れ隠しの声を上げるさんと、顔を無言で手で覆うさと。
-
「いや、すまない。馴れ馴れしすぎたな。これからはお嬢様と呼ぶべきだったな。それと、
俺は今日からここの使用人だ。信様ではなく、信之介と名前で呼んでくれ。それにもう幕府は無いのだから、家柄はとっくにお嬢様方の方が上になっていたしな」
俺がそう言うと、二人は更に真っ赤な顔で黄色い声を上げて屋敷の中に入り込んでしまった。
(一体どうしたのだろう?)
俺は正直朴念仁だった。
折角さっき買った土産を渡そうと思っていたのに。
二人が姿を隠してしまったので、仕方無く女中頭に付いて割り当てられた部屋に行き、
その後は仕事の説明を受けたりと、それなりに忙しくなってしまい、気が付けば食事も終えて就寝の時間になっていた。
ちなみに使用人と大松屋一家は別の場所で食事をするのであれから二人とは顔を合わしていない。
すっかり土産を渡す場面を失ってしまった。
だが、俺は特に焦っていなかった。
使用人として過ごしていればそれなりにどうにかなると思っていたから。
-
と思っていたらあっと言う間に一週間経ってしまった。
土産はまだ荷物の中。
使用人として大松屋に居ると結構忙しく、さんやさとと前ほど会話する機会も取れなくなってしまった。
新蔵さんは気楽にと言っていたが、初めて働く俺に
そんな気楽など判らないので、女中頭に教えを乞うて仕事に励んでいた。
『元侍にしてはやるじゃないか』先に働いていた丁稚の使用人達が俺をそう褒めてくれた。
女中頭もなかなか俺を気に入ってくれているようで、仕事が楽しい。
だが、気掛かりな事が一つ。
さんとさとの喧嘩の多さだ。
一緒に遊ぶ時も良く衝突していたが、家でも結構激しくやっている。
特に最近はさんに許嫁が決まった事でさんが荒れ狂っている。
(親が折角決めてくれた良縁に何の不満があるのだるか?)
自分の親も許嫁結婚だったため、さんが荒れ狂う気持ちが余り解らず溜息を吐く。
さんが何故そこまで嫌がるのか、さんが自分をどんな目で見ているのか気付きもせずに。
そんな時、休憩時間を貰ったので縁側で型落ちの饅頭を頬張っているとさんが通りかかった。
-
「あ、さん……じゃなかったお嬢様」
「いや、さんで良い。信之、介……さん」
お互いに呼びなれない呼び名に俯く。
「じゃあ、二人きりの時だけ……」
「う、うん! そういえば今休憩?」
さんは俺の言葉に興奮気味に頷く。
「まあな。あ、そうそう。土産、本当は初日渡したかったのがあるんだ。今取ってくる」
俺は急いで部屋まで行き、珊瑚の枝を二本取り出してさんの所に戻る。
「これ、珊瑚の枝だって。俺も持ってる。お揃いだぞ」
「珊瑚?! 随分赤い珊瑚じゃの!! 珊瑚……私の名前、さん……」
「そういえばそうだな」
言われて気が付く。
「嬉しい、大事にする……」
ウットリした表情で珊瑚を見詰めるさん。どうやら喜んでもらえたようだ。
でも俺はこの時、彼女に壮大な勘違いをさせてしまっていることに気が付いてはいなかった。
「喜んでもらえて嬉しいぞ。あ、そうそう。さとに無理言ってあんまり喧嘩するなよ。折角の可愛い顔がキツくなる」
「えっ……あ、うん。分った……」
そう言と、さんはぼんやりした表情で立ち去っていった。
(ふう、やっといっぽん渡せた。後はさとだな……)
そんな事を考えていると、今度はさとが通りかかった。
丁度良い事もあるものだ。このまま渡してしまおう。
-
「さとお嬢様」
「あら、信之介、様……」
そう言って頬を染めるさと。
「様はいらん。俺は使用人だ。ちょうどお嬢様に初日に渡したかった土産を持っているので、これ……」
そう言って、持っていたもう一本の珊瑚の枝を渡す。
「これ、珊瑚なんですか? 随分赤い色をしてるんですね……」
「うむ、珍しい物らしい。俺も持っている。揃いで持てたら良いと思ってな」
そう言ってニッと笑うと、さとが頬を染める。
「え、お揃い?!」
「ああ、お揃いだ」
「嬉しい〜!」
どうやらさとも喜んでくれたみたいだな。
しかし彼女にも壮大な勘違いをさせてしまった事に俺は気が付いていなかった。
「そう言えば一緒に暮らしてみて、さんとの喧嘩が目立つのが気になる。
あまり喧嘩しな方が良い。折角の優しい顔に苦労が滲み出るぞ」
そう言うとさとは静かに頷いてそそくさと立ち去っていった。
(ふう、これで二人に土産が渡せたな。良かった良かった。三人でお揃いの品……良いじゃないか)
――と思っていたのは俺だけ。
結果的に二人に別々に土産を渡し、三人で持っている事をこの時点で告げなかった事で、
これから全然良くない事が起きる事を朴念仁の俺がこの時予想できるはずもなかった。
そしてその日以降、彼女達が目立って喧嘩する事は無くなった。
俺はそれを単に土産を渡した時の忠告の効果だと信じて疑わなかった。
全然違うのに。
それから間も無く、俺は元服を迎える時期になった。
-
今回はここまでです
ではまた!
-
面白い。乙
-
朴念仁だな
乙
-
そろそろかな?
-
こんばんは
お待ちいただいた様で
恐縮です
やっと本題に入れました
祝(ことほぎ)と厄(わざわい)は隣り合わせでございます
-
とある秋口、俺は元服を迎える事になった。
元服は大人入りの第一歩。
ともなれば祝いの席だが、実家の屋敷は道場ごと母の実家の事業である絹糸の生産工房・工場に改装してしまったので祝いの席を開く場所が無い。
しかしどこか代わりの場所を借りるには近所に手頃な場所も無い。
あるにはあるが賃料が高く、絹糸取引でやっと回り始めたばかりの資金繰りでは厳しかった。
それで困った、どうしようかと新蔵に暇を貰った合間に昼間親子で話をしていると、屋敷の戸を叩く者があった。
「御免下さい」
女子の声だ。しかも聴き慣れた……。
「はい、ただ今ー!」
俺が玄関を開けると、さとが立っていた。
「今日は、信之介さん……」
やっと呼びなれた呼び名で俺を呼んで微笑むさと。
「これは、さとお嬢様。急に我が家に何用でしょうか?」
さとが来たと聞いて父と母も慌てて玄関までやってくる。
「これは、さと様。ご機嫌よろしゅうございます」
「いつも愚息がお世話になっております」
そう言って頭を下げる二人。
-
「いえ、そんなに畏まらないでください。確かに信之介さんは当家の使用人にはなりましたが、
私と皆様は幼き頃からの馴染み。そのような大層な者ではございませぬ」
さとの言葉に両親は「いえいえ」と言いながら頭を上げながら俺の傍らに立ち直した。
「で、どのようなご要件でしょうか」
俺が改めて訊くと、さとは少々はにかみながら。
「あの、もう直ぐ……信之介さんの元服でございましたよね? その件に付いて父様から伝言を預かってきたのです」
「新蔵様から? 一体、何でしょうか」
「ふふ……元服のお祝いをするなら、当家の屋敷を使われてはいかがかと、申しておりました。
今現在、この信之介さんの実家の屋敷は工房になっていて場所が無いだろうし、時代の変化のせいで信之介さんが
当家の使用人になったとは言え、昔馴染みなのは変わらないから私達にも祝わせて欲しい、それにあたって
祝いの場には当家の広間をお使いください、と申しておりました。私も、姉も、家族皆同じ意見です。如何でしょうか?」
彼女はそう言って俺達親子の顔を笑顔で見回した。
「新蔵殿が……そんな事を……」
さとの言葉に父上が神妙な表情でそう呟くと、母上の顔をチラリと見た。
母上は息を呑んで小さく頷く。
俺は親達が妙に緊張して目配せし合う意味、そもそも目配せし合っているとは気付かず、単に降って湧いたような好意に驚いているのだと思った。
そして母上が言った。
-
「そのお話、お受けします。今、二人でお礼の準備をしてまいりますので、
さと様は少々お待ち頂いても良いですか? 信之介、私達は着替えてきます。
その間さと様のお相手を……私達が戻ってきたら貴方も着替えなさい。さと様と一緒に大松屋まで参ります」
「分かりました、母上」
俺が返事をすると、父上と母上は屋敷の奥に消えて行った。
そして玄関口には俺とさとだけ残された。
さとはずっとニコニコしながら玄関のしきいの外に立っているので、中に招き入れる事にした。
「お嬢様。二人の着替えには少々時間がかかると思われますので、当家のものでよければ粗茶でも如何ですか?」
「あら、妾が屋敷の中に入っても宜しいの?」
ふと、親達が消えて行った廊下の方に目をやる。
(よし、大丈夫だな)
俺は『ある事』を確認したのだ。
「ああ、構わん。と言うか、昔はそんな俺の許可など無くてもこの屋敷で一緒に遊んでいただろう」
親の目が無くなったのを確認して口調を崩すと、さとは少々目を丸くして何かを察した顔をして屋敷に入ってくる。
「では、お言葉に甘えて」
「ここの土間で良いか? そこに腰掛けると良い。この屋敷は今、
殆どが工房に改装されていて、下手に人を上げる方が何だか失礼な雑多な場所しか残って無いから」
湯を沸かすために竈に火をくべながら玄関続きの土間にある、上がりにさとを誘う。
旗本時代は竈はちゃんと別の場所にあったのだが、改装にあたって場所が無いので今は一般の町民の家の様に玄関の土間に移したのだ。
さとが上がりにちょこんと座るのを背中で感じる。
-
「……信之介さんから、気軽に話しかけて下さるのは……とても久し振りな気がします」
ふとそんな言葉を投げかけられ、俺は竈を弄る手を止めて振り向く。
「そうか? あー……かもしれないな。大松屋ではちゃんとした使用人たろうと務めているからな」
「ええ、とても頑張ってますわよね。二人きりの時でも妾から言わないとずっとお嬢様ーお嬢様ーって、使用人口調のまま。
妾は、実はとても寂しかったのですよ? ついこの間まで名前で呼んでくれていた方が、謙って(へりくだって)喋っているのは……
何だか信之介さんを遠くに感じていました。私は信之介さん、って前よりも親しく呼んでいるのに。鬼ごっこみたい」
そう言って、さとは俯いて寂しげに溜息を吐いた。
「それが使用人の立場というモノだから仕方無い。正直、大松屋では『さん』も付けなくて良いのだがな。でも、鬼ごっこか……
確かに、名前で呼んでいた幼馴染を『お嬢様』と呼んでいる俺も、実はそれに近い感情を抱いていたりする」
「えっ……」
俺の告白にさとが顔を上げる。
「何というか、大松屋で働き始めた時は必死だったから細かい事は考えていなかったが、長く勤めるに連れて頭が冷えて行って……
お前達が天上の存在になってしまったかの様な気分にさえなった。幕府時代、無邪気に走り回っていた我等が、明治という世になって
この様な関係になるとは、誰が想像できようか」
「……ですわね。でも、妾は信之介さんと一緒に暮らせてとっても嬉しいのじゃ! 形はどうであれ、妾は……妾は……幼き頃から信之介さんと一緒に住む事を夢見ておりました!」
「ああ、俺も思った事がある。そうしたら毎日いつでも……」
――遊んでいられるのに。
と、言おうとしたところで声が掛かった。
-
「信之介、我々は着替え終わったから、お前も着替えて来い。できるだけ早くな。さと様を余り待たせてはいけない」
着替え終わった父上からだった。
「あ、はい! それじゃあお嬢様、俺も直ぐ準備してまいりますのでもう少々お待ちください」
「あっ……」
さとが何か言いたげにしていたが、俺は気付かず屋敷の奥へと駆けて行く。
そうしたらすれ違った母上に「廊下を走るとははしたない」と叱られてしまった。
俺達親子はさとと共に大松屋に赴き、新蔵に会うと元服祝いの礼を言い、当日の算段を立てた。
結果、新蔵がどうしても祝儀を出したいというので、場を借りることに関しては無償、
席の食費などの雑費は新蔵が一割負担してくれる事になった。
新蔵の寛大な処遇に俺達は重ね重ね礼を言い、屋敷に戻った。
屋敷に戻って居間に腰を下ろすと、父上が不意に溜息を吐いた。
「どうなさったのですか、父上」
俺が訊ねると、父上は数瞬間を置いて「いやな……」と口を濁しつつ言葉を続けた。
「お前がもう元服とは、時が経つのは早いと思ってな。幕府が終わった時も驚いたが、一番驚くのはやはり我が子の成長だな、と……」
「本当ですわね。私も乳母と一緒に信之介をあやしていたのがつい昨日の様なのに……
乳母に習って一緒に貴方のおむつも替えたのですよ」
父上の言葉に母上がクスクスと笑う。
「母上〜」
赤子の頃の話を出されて俺は頬を赤らめた。
-
「それから明治になって……お前が大松屋で働くと言い出した時は、居ないはずの娘を嫁に出す気分にさえなったな。
あれから数ヶ月、お前の評判は偶に聞こえてくるぞ。良く頑張っているようだな」
「アナタ!」
不意に母上が父上の袖を引っ張った。
「ん、ああ済まぬ」
父が母に謝った。一体どうしたんだろう?
良くは解らないが。俺は苦笑する。
「嫁って……まあ、幕府の時代なら俺が奉公に出る何て考えられなかった事ですしね。でも、俺……大松屋で働く選択をして良かったって思ってます。侍のままでは分からない事が沢山あるんですよ!
侍が丁稚じゃ使えぬと皆が言っている意味も良く解りました。侍の誇りや矜持も大切ですが、それだけに拘りすぎたり、立場に甘んじていてはいけないんだって、知りましたし、
今そう思って毎日が勉強と思って働いています。とてもやり甲斐がありますよ! あ、昨日話したように頑張って働くと格段上の仕事、良い役職がいただけるようになるのが嬉しいです。
まだ入ったばかりなのに先輩達優しくて、若輩者の俺を小突く事もありませんし、凄く楽しいです!」
世間に出て働くという事を知った俺は、侍では味わえない労働の魅力にすっかり魅せられていた。
嬉しそうに喋る俺を、父と母は優しい眼差しで見つめていた。
「そうか、それは良かった。俺も内職に手を染めた時にお前の様な感性を持っていたら、
もっと違う気分で仕事が出来たかも知れぬ。俺は落ちぶれた気持ちで一杯だった。お前の言葉を聞いていると自分が恥ずかしくなる」
「だったら、意地を張らずにわたくしにさっさと甘えていれば良かったではないですか」
父の言葉を聞いて母上が唇を尖らす。
侍として生活が成り立たなくなった時に、生活が立ち行くまで小作農家を抱えて生活に余裕のある母の実家に甘えるのも
アリではないかと提案して、その案を跳ね除けられた身としては、今の言葉は余りにも面白くない言葉だった。
-
「それはそれだ。男子がそう簡単に女の脛を……」
「父上……」
俺はまた意地を張った言葉を吐こうとする父の言葉を遮ると、じっとりと睨んだ。
母がその案を出した時、子供の俺は話し合いに参加できなかったが、母の案を支持していた。
侍の誇りは大切だ。
でも時と場合というモノがあると思う。それを口でははっきり言えぬが眼差しで訴えてみる。
「む、むう……」
母上と俺に挟まれ、父上は怯んだように押し黙る。
そして。
「信之介、お前は明日からまた奉公だろう。早く寝なさい」
と言って話を逸らした。
「はい」
俺はその言葉に従って居間を出る。
そしてほくそ笑んだ。
(今夜は母上の小言で眠れぬであろうな、父上は……)
新しい事業が始まってから父上は母上にすっかり頭が上がらなくなっていた。
母の提案が全て正しかったことが証明されてしまったからだ。
父上は良い嫁を持った、と我が親ながら思った。
(俺の元にもああいう良い嫁が来ると良いのだがな)
そんな事を思いながら、明日の仕事に備えて床に就いた。
-
そして迎えた元服の日。
支度を整えて大松屋まで行くと、一家総出で出迎えられた。
新蔵様、奥様、さん、さと。
「ようこそ、今日は元服を迎えるに相応しい秋晴れですな、旦那」
「これはこれは新蔵様、広間をお借りできるだけでなく、奥様、
お嬢様まで揃ってお我々を出迎えて下さるとは、恐悦至極、感謝が尽きませぬな」
父が新蔵に深々と頭を下げる。
「ああ、そんな。頭を上げてください旦那。それにワシを様付けなどしなくても、
幕府の頃と、二人で飲みに行く時の様にして下され」
「しっ新蔵殿……! 子供や嫁の前でその話は……! あっ……」
新蔵の言葉に慌てる父上。そういえば、この二人も幼馴染だった。
(ああ、今俺はとても血を感じています……!)
先日さとと交わした会話を思い出して生暖かい気持ちになる。
この二人も俺達と同じ葛藤とやり取りをしていた様だ。
娘達も父親達のやり取りを見て笑いを堪えている。
ちなみに遊びに来た訳では無いのでさんもさとも今は新蔵の後ろに控えており、俺を見てはいるが勝手に話しかけては来ない。
「まあ、取り敢えずお上がりください。話はそれからだね。……信之介くんはワシに付いて来て貰えるかな? 旦那と奥様はそこの女中に付いて行ってくだされ」
新蔵に促された方を見ると、女中が恭しく(うやうやしく)頭を下げた。
俺達は急な話にさっぱり訳が分からず、言われるがまま別れて俺は新蔵の後ろを付いて行った。
-
そして驚いた。
ある一室に通されて、新蔵に言われたのだ。
「信之介くん、元服おめでとう。これはワシからのささやかな気持ちだ」
そう言って指差すと衣紋掛けに立派な紋付が飾られていた。
「こ、これは……!」
俺は思わず恐る恐る衣紋掛けに寄り、造りや生地を見る。
幼い頃に家で見かけたような上等な造りをした紋付と袴だった。
「ふふ、当日吃驚させようと思って用意をさせて貰った。大きさは作業着から推定するしか無かったから、合うと良いのだが……そうそう。
旦那と奥様にも同様に晴れ着を用意させて貰った。折角の晴れ舞台だ。晴れ着は親子揃った方が良いだろう」
本当にびっくりしすぎて頭が真っ白になる。
昔馴染みとはいえ、いち従業員の元服にこんな立派な物を用意して、良いのだろうか?
俺は驚きで強ばった顔のまま壊れたカラクリ人形の様に身体を震わせながら新蔵の方を見る。
「こ、こんな凄い物……俺には勿体無いです! それに、俺はここの使用人ですよ? 他の先輩や同僚方に何と説明すれば」
そう青褪める俺に新蔵はホッホと恰幅の良い身体を揺らしながら笑うと、言った。
「今日の君は使用人では無く、ワシの愛すべき友の息子であり客人だ。ワシ達の関係は他の者も解っておろう。文句を言う奴など居やしない。
だから快く受け取ってはくれないか。それにもう、こうやって出来てしまっている。切った布は元には戻せぬからな」
「新蔵、様……」
「だから今日は君は使用人では無い。様付けもいらない。さ、袖を通したまえ。他の者も着替えを手伝ってやれ」
-
こうして、俺はあれよという間に俺は着替えさせられ、広間に連れて行かれた。
すると同様に立派な着物に着替えさせられて戸惑っている父と母が俺に気が付いた。
新蔵も一緒なので転がるように寄ってくると、二人で喚く様に礼を言っては、新蔵に窘められていた。
(そりゃ驚きますって。いや、本当に……俺がこんな晴れ着を着て元服を迎えられるなんて、幕府が終わって
明治になった時は想像も付かなかったし、新蔵様の力があってこそ。これはもっと仕事を頑張らねばなるまいな……)
背中で賑やかしい大人達の声を聞きながら、俺は遠い目で視線を泳がせた。
それから祝いの席でも驚かせられっぱなしだった。
新蔵の強い提案で席の費用は前払いさせられていたが、この祝いの席はどう見ても俺の家が出した金では賄いきれない出来事の連続だった。
食事は勿論、祝いの舞や詩吟、三味線弾きまで呼ばれていて、盛大に祝われた。
出席者は大松屋一家、俺達家族に加えてお言葉に甘えて類縁も呼んだが、親戚達も落ちぶれたはずの当家が
こんな立派な祝いの席が用意できるとはと、口々に褒め称えていた。
年嵩の従兄弟達にも祝いの席の後に「この幸せ者め」と笑顔で小突かれた。
(そうだな、俺は幸せ者だ)
苦しい時もあったが、この時ほど生きていて良かったと思った事はなかったと思う。
あの時まで……。
自分の取り返しのつかない失敗に気付くまでは。
-
祝いの席を終え、着替えも晴れ着から簡素な物に着替え終わった、夕の事。
この日は祝いの日なので仕事はしなくて良いと言われたので、俺は時間を持て余して大松屋の屋敷裏にある庭園を訪れていた。
この庭園はとても手間が掛かっており、四季折々で色々な表情を見せてくれるのでとても気に入っている。
仕事の休憩の時はこの庭園を望める縁側で時間を潰す事が多いくらいだ。
(今日は本当に良い日だった。一生分の運を使い果たしてしまったやも知れぬ)
そんな事を考えながらぶらついていると、不意に声かけられた。
「信之介さん……」
声の主を探すと、屋敷の影からさとが顔を覗かせていた。
俺は足早にさとの方に行くと訊ねる。
「ん、どうした? ああ、そういえば今日は世話になったな。お前達、と言うか新蔵さんには
本当に感謝している。良い祝いの席を本当に有難う」
「いえ、寧ろ妾が……祝いの席にウチの屋敷を選んでくれた事にお礼が言いたいくらいです。
こんな風に信之介さんの元服を祝えるなんて、妾は本当に幸せものです」
「はは……本来、来賓であるべき人間にもてなして貰った上にそんなお言葉を頂けるなんて……
嬉しいやら情けないやら……」
照れて頭を掻いていると、さとがフッと微笑んで袖から何かを取り出す。
「信之介さん、これ……憶えていますか?」
「ん? それは……土産に持ってきた珊瑚じゃないか」
さとの手には使用人として大松屋に入る時に土産に渡した真っ赤な珊瑚が携えられていた。
-
「先日元服祝いの言伝てを信之介さんのお屋敷に伝えに行った時、話が途中になってしまいましたが……この珊瑚とあの話を合わせて、
信之介さんの気持ちが良く解りました。妾達、今までずっと同じ気持ちを抱えていたのですね……私はてっきり、姉様の方を……でも、
違ったんですね。だから、信之介さんはウチに……」
「え、さんがどうしたって?」
急に話題にさんの存在が出てきたので聞き返したところで別の声が掛かった。
「さと様ー。さと様。何処にいらっしゃいますか? お父様がお呼びですよー?」
女中らしき女の声がさとを呼んだ。
「え、あ……はーい! ただいまー! 信之介さん、すみません、父様が呼んでるそうなので
行ってきます。話の続きはまた後で……」
さとは軽く会釈すると足早に去っていった。
また話が途中になってしまった。
さとは一体、俺に何を言いに来たんだろうか?
そんな事を考えて立ち尽くしていると、再び俺の名を呼ぶ声が聞こえた。
「信之介さん!」
「うおっ?!」
急に呼ばれて驚きつつ振り向くと、そこにはニコニコ満面の笑顔を浮かべる、さんが立っていた。
「えへへー。見かけたから声かけちゃった」
「ああ、今度はさんか」
「ん、今度はって?」
俺の言葉に怪訝な表情をするさん。
「今しがた、さとと会話していた。元服の話をしていた」
-
「ふーん。さととも、ね」
「どうした?」
「別に。元服祝いの言葉を二人きりで伝えるのは我が先にするつもりじゃったから、妹ごときに先を越されてちょっと悔しいだけじゃ」
そう言ってさんは唇を尖らせた。
「ハハ。姉妹揃って祝いの言葉とは、両手に花だな」
「む、でも良いのじゃ。言葉くらいなら……」
「え? どういう意味だ?」
さんの意味ありげな言葉に首を傾げていると、さんが身体をもじつかせてはにかみながら、
後ろ手に隠していた『見覚えのある物』を取り出した。
それは、また真っ赤な珊瑚だった。
ここで俺の陽気な思考が少し止まる。
「これ、憶えているかの。信之介さんがウチに来た時に我にくれた物じゃ。我だけに……くれた……」
えっ……?
今なんて言った?
とても嫌な予感がするのはなぜだろう。その言葉の先を聞きたくない気がする。
しかし俺の願いに反して、さんが言葉を続ける。
「幼き頃から我は、信之介さんを好いておった。一人の男子として。だからウチに使用人として来てくれた時は飛び上がる様な、
天にも舞い上がるような気持ちじゃった。でも、その気持ち……信之介さんも一緒だったのだと、この珊瑚を貰った時悟った。
良く伝わった。我の好きな赤い、我の名前そっくりの珊瑚を二人揃いで持とうと言われて……!」
な、何だって?
-
(ふ、二人揃い? いやいや、珊瑚はさとにもやったぞ? だからさっきもさとも持っていたし、だから三人……あっ……)
漸く俺は二人に珊瑚を渡した時の状況を思い出した。
『あの時』もこうやってすれ違いになって二人には別々に渡してはいなかったか?
そして、『珊瑚は三人で持っているという事』をちゃんと伝えたか?
(――つ、伝えてない。渡しただけで俺が勝手にその気になっていただけだ……)
そう自覚した瞬間、身体中から血の気がサーッと引いて行くのを感じた。
俺は、何という失敗を……!
結果、さんはこの珊瑚を俺からの愛の告白の証と受け取っていて、さとも持っている事を知らず、自分も俺の事が好きだと言っている。
では、さっきさとが言いかけたのは……さんと同様にこの珊瑚を俺からの愛の告白として理解したと言いたかったのか?
そう言えば新蔵さんは俺を雇う時に何と言っていた?
――さとと添う男の事を考えていてなぁ。
――使用人相手でも、人の心を縛ることは出来んから、ウチの娘と懇意になったらそれもしょうがないと思っている。
さとの許嫁候補――あれはその場の言葉面だけだと思っていたが、しかし……そうではなかったら?
新蔵様は本当に……それにさっきのさとの様子……ああ!!
(そんなさとに俺は珊瑚をあんな形で渡してしまったのか。さんのこの様子からしてさとも同様の勘違いをしてると考えて間違いないだろう……)
そこに今日の元服。
妙に手厚すぎると思ったのだ。昔馴染み相手とはいえ、あそこまでもてなすだろうか?
新着の晴れ着まで用意して。
-
世間を知らず鈍い俺でも、今解った。
新蔵さんは最初から路頭に迷う昔馴染みの窮地を同情し、単純に助くために
俺を雇った訳ではなく、本当に言葉のまま俺を引き寄せたんだ。
本当に俺なんかをさとの婿として。
(まずい。これはまずい。非常にまずい……)
俺は全くの考え違いをしていた様だ。
そして決定付けられた。
今日の元服のもてなしを受け入れたという事で実質、俺はさとの許嫁を容認したという事になる。
だって、雇われる時にあれだけ念押しされていたのだから。
それじゃあ、父上と母上の様子が時々おかしかったのも、元服のもてなしを受け入れたのも、全て解っていて……。
では、俺だけ蚊帳の外……? いや、理解していると思われていた?
でもそれだと色々辻褄が――……。
「信之介さん? どうしたのじゃ。ずっと黙って……」
脳内に一気に流れ込んできた恐ろしい事実に混乱し呆然としていると、さんが顔を覗き込んで来る。
「んあ?! ああ、何でも無い。いや、その……お前が俺の事を好きだとか言うから……」
「照れておったのか?」
さんがそう言ってからかうように微笑む。
-
「…………」
返事が出来ずに俯く。
状況としては、俺にとっては友達だと思っていた人間二人から突然同時に愛の告白を受け、
更に同時に二人に俺が各自俺から愛の告白をしたと勘違いをさせてしまってる事を知ってしまったというところ。
もっと言えば、さんには許嫁がいて、俺はさとの許嫁……のはず。
(最悪だ。とんだタラシじゃないか。この俺が……)
頭痛がする、を飛び越えている。
どうすれば良いか判らずそのまま黙っていると、さんがまた喋り始める。
「ふふ、信之介さんは昔から本当に奥手じゃのう。この屋敷に来て、告白までしておいて
今までもずっと何もしてこなかったしの。あ、そうそう。我の許嫁の件じゃが、父様を黙らせることに成功したぞ」
「えっ……」
さんの言葉に思わず顔を上げる。
「あまり煩いから、取り敢えず承諾してやったのじゃ」
「承諾したのか……」
じゃあ、今の話は気持ちだけは受け取っておくとかそういう話という事か?
少しホッとするが、それも束の間。
「難題を突きつけてやったわ。職人頭候補ならいくらでもいるから、しっかりと王手かけられるくらいになったら受けても良い、
そのぐらいの相手じゃないと納得出来無い、と言ってやったら、父様はその条件を飲んでくれた。これで少しは時間が稼げる。
その間に我と信之介さん……既成事実を……」
そう言って、さんは俺のやった珊瑚を握り締めながら鼠を狙う猫の目で俺を見た。
-
(ああああああああああああああああああああああああああああ)
矢張りさんは俺の事を思い出にする気は毛頭無く、必ず俺と添えるようにしたい様だ。
俺にはもう、さとが居るのに。
いや、そもそも今この瞬間までこの二人とそういう関係になると考えた事などほとんど無かったのだが。
良き幼馴染と思ってきて、父上と新蔵さんのような仲の良い将来を想像していたはずなのに、
それを飛び越していきなり二股男になってしまった。
(言えない。こんな状態のさんには言えない。さとにも珊瑚をやっていて、それは愛の告白ではなく
三人の友愛のつもりだったなどとは、この状態のさんには言えない!)
俺は、俺はこれからどうすれば!
「さん」
「何じゃ?」
名前を呼ぶと、期待に満ちた眼差しが俺を射すくめる。
「話の途中済まないが、便所に行きたい……」
「んもう、こんな時に? 信之介さんは本当に奥手じゃの。女心が解っていたら我慢するものじゃぞ?」
「しかし、もう限界で……」
本当限界だ。この状況。
-
「しょうがないのう。行ってまいれ……話の続きはまた後で……ふふ♪」
そう言って小首を傾げて微笑んだ。
俺はそんなさんから取り敢えず逃げた。
そしてそのまま全て投げ出してしまいたかった。でもそんな事は出来るはずはありはしない。
今のところ、この問題の解決策は思い浮かばない。
どうやったら誤解が解ける? 少なくともさんからは解かなくてはいけないのは確実だろう。
(一体どうすればいいんだ? でも解らない。解らない……俺の、馬鹿野郎ーーーー!!)
自分の鈍感さを激しく呪った。頭のおめでたさも。
元服気分はとっくにどこかに消えていた。
こうして、俺の伝説的女難地獄の幕は上がったのだった。
-
今回はここまでです。
軟派という単語から果てしなくかけ離れた彼の人生は
こうして意図せず難破していくのでした
またお会いしましょう
-
おつかれさまでした!
おかげで寝れなくなったよ。
次回を楽しみにしてます。
-
エルフとこちら一気に読みました。
すごく話に引き込まれます。
続きを楽しみにしてます。
-
伝説のモギリになればいいじゃないかな(すっとぼけ
-
……――違う、違うんだ! そういうつもりじゃなかったんだ! 俺はただ、お前らに純粋に喜んでよしかっただけで……下心も何もなかったんだよ!
あどけない面差しの少年が夕闇の中を彷徨うように疾走している。
(この気持ちは……感情は……)
俺はその姿を傍観しているだけのはずなのに、彼の気持ちが丸で自分の事の様に伝わってくるのを感じた。
そもそも傍観しているはずなのに少年は俺の前を通り過ぎる事無く、俺も一緒に風景ごと移動している。
いや、俺が少年の視点で動く風景を見ている?
二つの視点を同時に見せられている。
丸で映画でも見ているような気分だ。
でも、自分の事の様に胸が痛い。
どうしてだ?
どうしてだ――……。
「彼の様子はどうかね、誠座元」
社寺仏閣内の外陣(寺の建物内部手前の広い場所)に頭を剃り上げ、袈裟を着た痩せた壮年男性がやってきてお経を一心不乱に唱える寺田さんに声を掛ける。
お教を唱える寺田さんの前にはぐったりとしたまま意識を失っている九川真翔が横たわっている。
ちなみに誠座元とは寺田さんの事で、誠が寺田さんの名前で座元が寺田さんのこの寺における階級だった。
なお座元は、ほぼ住職一歩手前の階級だったりする。
話しかけてきたのは彼こそこの寺、兎海寺の現住職で、寺田さんの親代わりで、彼の力を見抜いて寺に連れてきた人物だった。
-
寺田さんは住職の呼びかけに反応せず、お教を唱え続けている。
恐らく反応出来無い、する余裕が無いのだろう。
「………」
住職はそれを察すると、寺田さんと真翔を交互に一瞥して無言で立ち去っていった。
-
感想ありがとうございます!
すごく嬉しいです!
-
すみません、ちょっと抜けました。
-
……――違う、違うんだ! そういうつもりじゃなかったんだ! 俺はただ、お前らに純粋に喜んでよしかっただけで……下心も何もなかったんだよ!
溢れ出る絶望にも似た悲しみの感情と共に、あどけない面差しの少年が夕闇の中を彷徨うように疾走している。
その感情の中には恐怖さえ混じっているように感じる。
(この気持ちは……感情は……)
-
……――違う、違うんだ! そういうつもりじゃなかったんだ! 俺はただ、お前らに純粋に喜んで欲しかっただけで……下心も何もなかったんだよ!
溢れ出る絶望にも似た悲しみの感情と共に、あどけない面差しの少年が夕闇の中を彷徨うように疾走している。
その感情の中には恐怖さえ混じっているように感じる。
(この気持ちは……感情は……)
-
これはこわい
-
波乱が起こると分かっていると読みたいけど読みたくないこの気持ち
あると思います
-
こんばんは。
-
――君には失望したよ、信之介君。信用していたのに娘達を弄び泣かせるとは……。
(違う、違うんです! それはまったくの勘違いで――……)
――お前は佐上家の恥晒しだ。女癖の悪い息子など、俺は知らぬ。
(父上、これは俺の本意ではありません! 俺の話を聞いて下さい!)
――信様の嘘吐き!
――嘘吐き!
見知った顔が次々に俺を責め立て、侮蔑する。
誰も俺の話など、聞いてはくれない。
くれない――……。
――珊瑚、何故死んでしまったんだ――……。
真っ赤な珊瑚の枝が暗闇で吹き出る血潮のように艶めいていた。
「わあああああ!!」
俺は夢見の悪さに飛び起きた。
(ああ、今のは夢か……)
起きた拍子に蹴飛ばした布団と肌寒さで現実を認識し、今見聞きした言葉は全て夢だった事に気が付いてホッとする。
しかし事態が解決した訳では無い。
あれからどのぐらいの時間が経っただろうか?
俺は未だ二人の誤解を解く事が出来ぬまま、俺は大松屋で過ごしてる。
-
元服式を境に俺の生活は一変した。
俺の痛恨の失態により、二人も単なる幼馴染だった頃とは打って変わって俺を異性として認識し、積極的に接触して来る様になったからだ。
二人して少しでも二人きりになる時間が出来ると、身を寄せてきたり、二人で偲んで出掛けたいとせがんで来たり、夫婦になった時の将来図を語る様になった。
勿論、互いに姉妹で俺とこんな会話をしてる事は知らない様だ。
どちらも珊瑚の事も『自分だけの秘密』と胸に仕舞って誰にも話してはいなかったようだ。
その時点では幸い新蔵様にも。
俺は二人両方と通じてるので具体的な返事が出来ず、彼女達の言葉に曖昧に返事をしてやり過ごして今は凌いでいるが、
二人の話を聞く内に色々な事が判ってきた。
そもそも二人に喧嘩が多かったのは俺を取り合っていたからだったり、珊瑚をくれてやったのを境に
喧嘩がほとんど無くなったのは、『自分の方が俺に愛されている』という自信と確信を持ったから争う必要が無くなっただけの事だったのだ。
決して、俺の言葉で友愛や和合に目覚めて矛を収めた訳で無かったのだ。
その事実を知って俺は酷く悲しい気持ちになった。
折角三人仲良く過ごせる日が来たと思ったのに、肝心の俺自身が争いの種だったとは。
ところで夢の最後に見知らぬ声を聞いた気をするのだが……?
(いや、単なる悪夢の幻聴だろう。それにしても、今は何時(なんどき)だ?)
部屋の窓から外を見ると、まだ空には月が出ていた。
月の高さから朝まではまだ時間がありそうだが、再び眠れそうな気はしなかった。
-
それから数日経った頃、気が重くなる事がまた一つ増えた。
相変わらず二人とどっちつかずの関係を過ごし、さとと話をしている時に聞かされた。
元服式の後にさとは新蔵様に呼び出されて言われたそうだ。
さんやさとが俺を好いているのは実は新蔵様もご存知だそうで(そりゃ子供の頃から喧嘩に至る程であれば親は普通に気付くだろう)、
俺も元服を迎えた事だし正式に許婚として告知やお披露目をしたいと思っていると言われたそうだ。
――さんは跡継ぎだから店や地位が約束されているが、さとは次女で立場も弱いし、さんの影で色々と苦労してきたさとは好きな男と添わせてやりたい――。
と、言ってくれたと、さとが喜んでいた。
元服式の後に俺の事をどう思っているか訪ねられた時に迷わず、さとは俺を好いている事を伝え、珊瑚を貰った話や元服式前の会話など、
愛の告白じみた事を言われた事も伝えた結果、新蔵様は俺達二人の気持ちに申し分無しと判断した様だ。
(あー……)
本当に嬉しそうに報告してくるさとの横で俺は頭が痛かった。
本当に痛かった。
正直さとの許婚になるのは別に悪い気はしない。しないはずだった。
何事も無くこの話を持ってこられたなら、俺も手放しで喜んでさとの手を握っただろう。
さとは優しく気立ても良いし、気も利く。
幼馴染だったが、嫁として考えて俺には勿体無いくらいだと思う。
そのぐらい俺はさとを評価している。
だが、今はまったく喜ぶ気にはなれない。
-
それは先に話した様にさとだけでなく『さんも』俺を好いていて、俺も自分を好いていると思っているからだ。
ここでさとと俺の婚約が発表されたら、さんは一体どういう行動に出るのだろう?
矢張りその場で俺を問い詰め、事が発覚して……夢で見たような事態に……?
(考えたくも無い……そんな、恩に泥を塗るような発覚の仕方だけは御免こうむりたい……)
そこで俺は一考した。
女心など解らぬ頭で考えた。
そして保身に走った。
結果、俺はさとにある提案をした。
「なあ……さと、その婚約のお披露目の日取りはもう決まっているのか?」
「え、いえ……まだ具体的には……」
さとはそう言って頬を赤らめた。
(よし)
「少し考えたのだが、婚約の発表は……やるなら俺達自らやらないか? 確かに新蔵様はさとの父君だし、俺の雇い主だが、
俺も一応元服を済ませている。俺に男気を見せさせては貰えないだろうか?」
俺がそう言ったその瞬間、さとの表情が明らかに煌いた。
本当は煌かせない方が良かったのに、俺は保身に走ったつもりで自ら死地への駒を進めてしまった事には気付かない。
「信之助さん……! 解りましたわ。でも、さすがに父様に何も言わず、というのは難しいので、体裁上はそういう形が取れるように父様に伝えておきます。
許婚になれるだけでも夢のようなのに、それを信之助さん 自ら申し出て下さるなんて! さとは、妾は、本当に幸せものですっ!」
そう言ってその場から駆けて居なくなってしまった。
-
「えっ……ちょ、ちょっと待ってく……」
新蔵様に伝えるって……二人だけの秘密にしてくれないのか?
さとの(信之介的には)思わぬ返事に俺は動揺する。
俺の予定では、俺から言うという事は俺次第で予定は未定で時間稼ぎが出来ると思ったのに。
しかもそのまま居なくなってしまった。
これではただ無駄に駒を進めてしまっただけではないのか?
(ど、どうしよう。自分から宣言するなんて、新蔵様からお披露目されるよりも質が悪いのではないか?! さんの怒りがどうなるのか……分かったものじゃない……!)
女心に疎くともそのぐらいは予想が付いて青褪める。
そのままどうしていいか分からずアワアワしていると、視界が急に暗くなった。
「だーれだ♪」
女の声が背後から聞こえた。
「んあっ?!」
目隠しか。今の俺にこんな事をする女は、今は一人しか居ない。
俺はゆっくりと目に張り付いた手を外すと、振り向いてニコニコ笑うさんの顔を見て溜息を吐いた。
(次はさんの相手か……)
俺がゲッソリしていると、さんが心配そうに顔を覗き込んでくる。
-
「どうした? 調子悪そうじゃの。休憩がもう終わるからか?」
「ん? 休憩が終わったらどうだというのだ」
「……」
俺がそう答えると、さんが唇を尖らせて脇腹に拳を入れた。
「ぐはっ?! 急に何をするのだ!」
「恋人が折角会いに来たのに、語らう時間が少ない事に気付かぬか」
「あ、ああ……そういう……確かにもう休憩が終わるから、お前とはそんなには話してはおられぬが、暴力で訴えるのは、あまり……良くない……」
軽くとはいえ、綺麗に鳩尾に拳が入ったため、俺は痛む腹を抱えながらさんを宥める。
「女心が解らぬ罰じゃ。でもまあ、この間まで単なる幼馴染だったのだからな。
仕方ないといえば仕方ないが……男女の関係になってそれなりに経つのに……我は不満ぞ?」
「な、何がだ……?」
身体をモジつかせながら色目で俺を見るさんの意図が解らず、俺は首を捻る。
「んもう、本当にイケズなんだから。おなごの口から言わせるなんて、男がすたるぞ? でもまあ良い。
そういう鈍いところも可愛いし、解らないのなら我が教えてやる。ちょっとこっちに顔を寄せて……」
「こ、こうか?」
言われるがままさんの方を向くと、襟首を掴まれ、強引に身体を引き寄せられ――……。
視界が暗くなり唇に柔らかいものが触れた。
(なんだ、この甘い匂いは……丸で母上の付けているお粉(おしろい)のような……って……)
そこでようやっと自分が唇を奪われている事に気が付く。
-
「!!」
さんは頭真っ白になって呆然と立ち尽くす俺の唇を暫しの間好き勝手に、不器用な仕草で啄むと、そっと俺を解放して言った。
「……本来接吻の一つくらい、男の方からするもの。今回時間が無くて口が利けぬ分はこれで勘弁する。次回もこういう時は……楽しみにしておるぞ……?」
そう言ってさんは立ち去っていった。
俺はそのまま膝を折って崩れ落ちた。
「初めての接吻……」
してしまった。
叫びだしたい気持ちが腹の底から湧き上がる。
接吻を好きな女子のためにとっておきたかったのに不意に奪われた驚きとかでは無く、
女子との初めての接吻に踊りだしそうな気分になった訳でも無い。
これで、これでさんとも引き返せない関係になってしまった事に頭を抱えた。
さととは結婚の約束、さんとは身体の接触。
絶望的な状況。
ますます誤解を解くのは難しい状況に陥っていていくのが解った。
(どうしようどうしようどうしようどうしよう……)
解らない。こういう時、どう動けば良いのか?
-
もういっそ二人に全てバラしてしまおうかとも思ったが、誤魔化していた期間と今日の事を考えると、
血を見るのは必至だし、新蔵様も父上たちも悲しませる事になってしまうかと思うと躊躇われた。
俺の事はどうでもいいつもりだったが。
でも本当に自分のことなどどうでもいいと思っていたら、ここまで悩まず抱え込まなかった気がする。
きっとまだまだ保身から抜け出せていなかったのだ。
この時本当に一人で抱え込まず、誰かに頼る頭や発想があったなら、この先起きる最悪の事態は
回避できたかもしれないが、元服を迎えただけの子供の俺はそんな勇気は持ち合わせていなかった。
そしてこの日、休憩後すぐ体調不良を理由に暇を貰って実家に帰った。
取り敢えず、さんとさとの居ない場所に行きたかった。
父上や母上に二人の事を相談出来る訳では無いが、困った時は家に逃げ帰るくらいしか子供の俺には出来なかった。
-
今回はここまでです。
それではまたお会いしましょう。
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ミスをしてしまったら被害が大きくなる前に報連相
仕事の常識やな
これは血を見るしかないな
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そろそろ投下してほしい
-
生存報告です。
少なくとも今月はちょっと立て込んでて更新できません
すみません
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age忘れました
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11月過ぎたらまたスケジュール見えてきますんで
すみません
-
実は地味に執筆スケジュールがあったりしまして……
今立て込んでます
倉庫があるので 僭越ながら貼らせていただきます
ここに掲載したものも修正して掲載してあったりします
絵もありますがグロ注意です
http://www.pixiv.net/member.php?id=12389193
-
h抜き忘れた……
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おつかれさまです。
生存報告ありがとう!
楽しみに待ってます。
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作業してる原稿は倉庫に掲載しても良いやつばっかりなので
倉庫の方は動いてると思います
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実はこっちに掲載したやつもそういう原稿が混じってたり
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スケジュール見えてきた?
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>>301
見えました。
申し訳ない。
非常に申し訳ない。
参加したいオンリーが今回逃すと大阪に行ってしまうので 英断させて頂き申した
残り原稿はあるから1ヶ月半以内に挿絵仕上げて 印刷所確保しなくてはならないので
そのスケジュールで動きます
とりあえず印刷所締切確認なう
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おつかれさま!
そのスケジュールだと1ヶ月半ほどは書けないんだね。
少し残念だけど年明けを楽しみにしてます。
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>>303
そう言っていただけるのが本当にありがたいし
嬉しいです
11月までのスケジュールは折角こなしたのに申し訳無い
我慢できませんでした
関東にイベント戻ってくるのきっと春になるかと思ったら……
今回の作業は 小説原稿はもうあるのでほぼ表紙と挿絵と
プラスアルファの特典作業なので目処が付き次第また戻ってきます
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了解しました。
その代わり、小説に見合うだけの納得のいく作品を作って下さい。
応援してます。
-
今更だから、こんな告知を……。
ttp://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=47426681
-
>>306
登録したもののうまくいきません
-
>>307
オープン投稿だから登録しなくても見れるはずなんですけどね。
難しければ上のプロフから見てみてください。
-
ありがとう
-
まとまったお金が欲しい人はこちらへ
http://www.fc-business.net/qgesw/
-
ながらく来てなかったから更新多いなと思ったら更新じゃなかったぜ
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メリークリスマス♪
-
メリクリ有難うございます!
私からもメリクリークリスマス!
待っていてありがとうございます!
ささやかながらプレゼント(?)
カンパーイ!
ttp://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=47694745
ttp://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=47717641
-
もう一つ、プレゼントになるのだろうか?
更新です
ちょっと待っててください
-
本当に、後悔する事ばかりだ。
二人が勘違いしていると判った時点で二人の父親であり、さととの許嫁を進めてきていた
新蔵様なり父上に相談しておけば良かったのだ。
過ちを犯したら直ぐに報告・連絡・相談。
大松屋に入ってから女中頭から先輩にまで耳にタコが出来る程言われていた事だったのに。
俺はそれをしなかった。
そのせいで俺は引き返す場所を見失ってしまった。
あれから俺は最初は戸惑っていたが、数ヶ月も経つ頃には平然と二人の間を
行き来出来るようになっていた。
-
彼女たちが望むと思われる甘い言葉も、さりげなくどっちとも取れる言葉で言えるよ言うになった。
まあ、その間に俺とさとの許嫁発表式のような告知のような催しがあったが、
さんには事前報告して「これは新蔵様からのお話で、幼少から懇意にさせてもらっている事もあって
断る理由が見つからなかった。お前にも許嫁はいるし」
と一言伝えたら、不服そうにはしていたが俺とさとの婚約は了承してくれた。
許嫁は形だけであくまで気持ちは自分にあると解釈したらしい。
俺も嘘は言っていない。
こうやって俺は場持たせをしながら少しずつ、少しずつ、大人の術を覚えると同時に自分の足元を泥沼に変えて行っていた。
ただ、あの時さんに唇を奪われた先だけはしないように気を付けている。
今は――……。
今は、さんに要求されても跳ね除け続けられている。
今後はまたあの時の様に強引に奪われないとも限らないが、今のところ俺はまだ生息子(きむすこ)でいられている。
-
それと、さとには俺から接吻した。
さんと密やかに通じている罪悪感もあるが、さんとはして許嫁であるさとと
そのような行いが一つもないのはおかしいと思ったからだ。
こういう状態のままさとと関係も一歩進めるのはきっと善く無い事なのだろうが、
何も知らずに俺を好いてくれているさとを愛しく思ったら接吻けていた。
俺達が許嫁である事が発表されてから1ヶ月くらい経ったあたりだったと思う。
仕事上がりの夕方の頃、庭園近くの屋敷の影でさんにされた接吻を思い出しながら
そっと抱き締めて接吻けると、さとは暫し呆けた顔をした後……ポロポロと涙を流した。
「信之介さんっ信之介さん! さとは、妾はっ……本当に信之介さんの許嫁なのですね……! 形だけじゃない、
気持ちが通じ合った、夫婦(めおと)になれる許嫁なのですね……!」
そう言って安堵の涙を零していた。
常にあらゆる面で秀でたさんの影に隠れて劣等感に苛まれていたさと。
そのさとが姉を制して競っていた想い人を手に入れられたという喜びも、この涙に含まれているのだろう。
-
その姿に俺は酷く心が痛み、何も言えず、黙って抱きしめる事しか出来なかったのを憶えている。
それからの今である。
もう接吻はどちらとも普通に行っている。
どちらとの逢引も密やかなものなので、従業員仲間には
さととの愛の語らいは何時(なんどき)行っているのだ? とからかわれるくらいだ。
そう言われても、さんの事もあるので許嫁とは言え大っぴらに肩を寄せ合うのは気不味い。
いや、さんの事が無くとも俺はそういうのはあまりひけらかしたくはない方なので
あまり変わらないかもしれないが、俺が逢引しているのがさとだけでなくさんにも手を出していると知られたらきっとでもなく、
タダでは済まないだろう。
時々、さんが許嫁になったさととはどう過ごしているのか訊いてくる事があるが、「手を繋いで語らう程度だ」と言ってある。
これも嘘では無い。
-
どちらとも接吻はするが、本当にたまにだし。
さとは俺と一緒に居る時は良く手を繋ぎたがる。
理由は良く解らないが、手を繋ぐぐらいで良くて喜んでもらえるならと、
差し出されるままに指を絡め合うのだ。
それを参考に直ぐに接吻をねだる、さんの手を繋いでみたら……驚く程静かになってしまった。
それ以降接吻をねだられたらそっと手を繋ぐ事で凌いでいる。
女にとってこの『手繋ぎ』は何か意味があるのだろうか?
解らないままその絶大な『効果』に頼り使っている俺は、
これで良いのかいつも迷うが……他の方法が解らないので手を繋ぐ。
ただ指を絡め合う。
心を繋がぬまま……戸惑いながら……。
本当に俺に絡まるのは違うモノだという事だけは知りながら――……。
-
「え、祝言ですか?」
二人との二股関係が一年を過ぎた頃、新蔵様からそんなお声がかかった。
そう、俺とさとの祝言である。
「本来なら長子である、さんが祝言を挙げぬ事にはお前達に祝言を挙げさせてやる事は出来ないのだが、さんは知っての通り
権太(ごんた)か卯兵衛(うへえ)が本当に店を持てるくらいになるまで祝言は上げぬと言い張っているだろう。
これではお前達の祝言も何時になるか判らない。さとももうすぐ十五……だから一足飛びにはなるが、
お前達を先に夫婦(めおと)にしてはと考えているのだ。
まあ、時代も変わったから長子の縛りにとらわれ続ける事も無いかもしれないと思ってな」
彼の提案に俺は内心頭を抱えた。
許嫁の内は誤魔化せた事も、本当に夫婦になってしまえば誤魔化せ無い事も色々出てくる。
ちなみに権太と卯兵衛がさんの許嫁である。
-
最初はもう数人いたが、許嫁の話が出てから仕事で目覚しい上達を見せたこの二人が、
現段階でさんの夫候補として絞られた精鋭である。
世継ぎのさん程になると夫側になる方が必死だ。
(天下の大松屋の世継ぎが嫁で、その夫になる条件が『店を持って然るべき職人である事』だからな。
これが達成されたらとんでもない事になるな……逆玉以上に……しかし……)
さんがそんな条件を出したのは俺が居るからだ。
俺以外とは添いたく無くて、でも許嫁の話も断りきれずに出した条件がこの大事だ。
アイツは後先考えずに感情で喋るから……。
そう、感情が先走る。何事も。
だから今の段階でさとと祝言など挙げたら、さんは何をしでかすか判らない。
(自分との関係の暴露か? それが一番困る。きっとやるなら盛大にやるぞ……さんなら……)
もう一年以上も続けてしまっているこの爛れた関係を世に出されては俺どころか大松屋にまで被害が及ぶだろう。
さんはきっとそこまで考えてはいまい。
-
ただ、自分が不愉快を被った怒った赦せない――そう言う感情だけで騒ぎを起こすだろう。
原因を作ってしまった俺が思うのも何だが、純粋な娘達の心も守りたいのもあるが俺としては
恩のある新蔵様の大松屋に被害を出したくない。
でも今思えば一年以上も二股をかけている時点でそんなのも自己保身の転嫁に過ぎなかったのかもしれない。
事情がややこしくなろうとも、恥を捨てて誰かに相談する時間はいつだってあるのにしてこなかったのだから。
でもこの時の俺は無意識でも恩義を建前に嘘の上塗り、保身に走った。
「……新蔵様、それは俺としても嬉しい話ですが……矢張りもう少し、さん様達の様子を見られてはいかがでしょうか?
親である新蔵様が一番よくわかってらっしゃると思いますが、さん様は気性が荒いお方です。こういう話はもっと慎重に……」
「ううむ……それもそうなのがなぁ……。確かに、さんの気性も入れてもう少しよく考えて見た方が良いかもしれん……」
-
「そうですよ……俺としても勿体無い話ではありますが……」
どの口が、勿体無いなどと言っているのだろう。
俺はこの場で二人の事を新蔵様に懺悔したくなった。
でも結局しなかった。
「そうだな。お前にも気苦労を掛ける……すまない……」
そして新蔵様は考え込んだ様子のまま俺の前から立ち去っていった。
「…………」
すまないのは、俺の方ですよ……新蔵様。
こんなていたらくな俺をさとの婿なんかに選んでしまって……。
(本当に、申し訳……)
不意な衝撃が背中から襲い、俺の思考は中断された。
慌てて振り向くと、さんが俺に抱き付いていた。
「信之介ぇ! 我のために良く頑張った!」
「え、ええ?!」
-
「今、父様(ととさま)とのやりとりを見ておったぞ? 良くぞ言ってくれた!
良くぞさととの祝言を退けてくれた! 我はとっても嬉しい……!」
そう言って俺に抱きついたまま、さんは潤んだ目で俺を見詰めてきた。
なお、さんは何時の間にか俺を呼び捨てにするようになっていた。
「さん……どこから話を聞いていたんだ?」
しまった、見られていた様だ。
「割と最初から」
あー……。
俺はまた頭を抱えた。
(余計な問題を避けるつもりでやったのに、また誤解される要素を増やしてしまった。
確かにさんからあの光景を見ればそういう風に受け取れる遣り取りだったな……)
-
「そうか、見ていたのか。まあ、そういう訳だ……不確定なお前の縁談を利用させてもらった……」
うん、これも嘘は吐いてない。目論見は違うが。
「うん。うん。……しかし、言い訳をするにも我の気性が荒いとはどう言う意味だ!
恋人を庇うならもう少し別の言葉選びは出来なかったのか!」
喜んでいたかと思ったら一気に不機嫌になる、さん。
今にも殴りかからんばかりだ。
「待て、待て。殺気が凄いぞ?! そういうところが荒いと言うのだ!
俺は乱暴は嫌いだと言ってるだろう。本当に、もう少し女らしく出来ないのか!
それにここは屋敷の中……誰の目があるかも判らぬのに俺達が揉めていては余計な憶測や問題を呼ぶぞ!」
そう言って俺はさんを身体から引き剥がす。
そして一間(いっけん/1.8m)程距離を取る。
すると今度はさんからさっきとは打って変わって弱々しい声が漏れる。
-
「……信之介。我はそんなに女らしくないか? 気が荒いか?」
「さん……?」
珍しく悲しげに泣きそうな彼女の声に俺は戸惑う。
「確かにいつも、我と接する時……信之介は我に殴るなって言ってくるし、我も良く手を挙げている。
そういう我は嫌いか? 我より明らかに穏やかで優しいさとの方が本当は好みだったり、
許嫁も本当は吝か(やぶさか)ではなかったりするのか?」
「それは……」
こういう時、何と答えたら良いのだろう。
この問はかなり繊細なものだ。さんにはずっと誤魔化し続けている事ばかりだ。
どう言ったらさんのこの追求を逃れられるのだろう?
――取り敢えず、嘘さえ吐かなければ良い。
本当の嘘だけは駄目だ。
思ってることをそのまま、言う。
-
「……俺は、すぐ手を挙げる女子はあまり好ましくないと思っているところがある。さんが嫌いな訳じゃない。
怒鳴られるのもあまり好きじゃない。さんが怒鳴るところも余り見たく無い。
確かにさとが怒鳴ったり手を挙げるところは見た事は無いな」
俺がそう言うと、さんは目をカッと見開き。
「そうか……」
と、蚊の鳴くような声で言って俺の前から消えてしまった。
そしてその日以降、さんは徐々に乱雑な振る舞いを減らしていった。
俺自身はあの時、さんに投げかけた言葉の事はすっかり忘れ、
妙に大人しくなっていくさんの姿に軽く首を傾げていた。
俺の言葉を受けて大人しくなってゆく彼女の中で反比例する様に
燃え上がる俺への情など、この時全く察する事は出来なかった。
-
とある夏の夜。
俺はさとと二人で人目を忍んで蛍狩りに出ていた。
俺たちが住む村は海沿いなので蛍を見るためには内地に向かって暫し歩く必要があったが、
さんが少し前から始めた舞踊の発表会に新蔵様と泊りがけで出掛けていたので、その合間を縫ってさとが
「季節だから二人きりで蛍が見たい」と言っていたのを思い出して誘ったのだ。
蛍が見れる、塩分を含まない水が流れる川までは片道で約一時(二時間)くらい。
それも均されていない草むらのある山道を通らなくてはいけない。
だからさんを見送ると、従業員達に夜釣りに出かけたいと言っておいた。
釣りは時間がかかるから、往復の時間を使ってもおかしくはない。
だが、さととでかけるのは見え見えだったらしく誰もがニヤつきながら俺の言葉を聞いていた。
-
「ねぇ、アンタ。どうしたの? さっきから黙ったままで」
不意にさとに声をかけられてハッとする。
さんが俺を呼び捨てにするようになったのと同じ頃くらい――許嫁が決まったあたりから、
さとは俺の事を祝言前だというのに時折夫を呼ぶように『アンタ』と呼ぶようになった。
よっぽど俺との結婚が楽しみらしい。
こんな俺のどこが良いのか自分ではさっぱりわからないが……。
しかも俺は二股を掛けるような汚い男なのに。
でも何も知らないさとは、俺と一緒に居る時、手を繋いで幸せそうにしている。
微笑んでいる。
俺はこの微笑みを汚すような行いを現在進行形でしてるというのに。
-
「…………」
思わず、夜道を歩きながら握る手に無言で力を込める。
するとさとが暗がりでも判るくらい頬を染めた。
正直とても愛らしかった。
さんは綺麗だが、さとは本当に愛らしいという言葉が似合う娘だと思う。
姉の美しさに劣等感を感じているようだが、綺麗さだけが女の全てではないと俺は思うのだ。
「……姉様、最近大人しくなりましたね。前みたいに妾にも怒鳴らなくなったし、舞踊の手習いや、
嫌がっていた家事の手伝いもするようになって……
急に変わって別人のようです。何故、なんでしょうね……?
ただでも顔立ちが美しくて、……妾など足元に及ばなかったのに……
これではますます妾の立つ瀬が無くなってしまいます……」
ふとそんな話をし始めるさと。
俺が戸惑うくらいだ。さんの変貌振りに一番戸惑っていたのはさとだったのかもしれない。
さとはヤンチャな頃のさんの尻拭いに駆けずり回っていたから。
-
「何を言っているんだ、さと。顔立ちは美しさだけが全てではない。美しいと呼ばれないものが全て醜いと思っているのなら
それは大きな間違いだぞ? さとには名前と通りの敏い頭と愛らしさがあるじゃないか。お前は猫を美しいと思うのか?」
「え、あ……いえ……。猫は美しいとか綺麗とかでは無く、愛らしいモノだと思います……」
「その愛らしい猫はみんなに醜いと煙たがられているか?」
「いいえ、愛されてます……」
「それと一緒だ。確かにさんは美しい顔立ちをしているし、振る舞いも変わってきたかもしれないが、
さんはさんだ。そしてさとはさと。お前の愛らしさがさんのそれで変わったり貶められるという事は無いぞ?
だからあんまり気に病むな」
そこまで喋って、思わず「俺もそばにいる」から……と言う言葉だけは飲んでしまった。
-
言わない方が無難な気がしてしまった。
この一年で俺は何も知らなかった幼子の頃のように「俺もそばに居る!」とか
安易に言えなくなり、玉虫色に染まりきっていた。
慰めの言葉一つ、相手の解釈頼りになるようになっていた。
「そ――そうですね。人は人ですよね。妾は妾……それに妾には信之介さんも居ますし……」
そう言ってまた、ほんわり微笑んだ。
「う、ん……」
その純粋な笑みが直視できず、俺は空に浮かぶ猫目月を仰いで視線を逸らした。
そしてそのまま他愛のない話をしながら歩いていると、間も無く川から水が流れる音が聞こえ、
一匹目の蛍に遭遇した。
ちゃんと小川に到着すると辺り一面蛍が乱舞しており、俺達から暗闇を奪った。
光を放つ花びらの様に舞う蛍に囲まれたさとは手に持っていたうちわで戯れ始め、
その姿は言葉にならぬほど愛らしかった。
-
その姿を見ながら俺は深く後悔した。
さっき、不安げに気落ちしたさとに「俺が居るから」と言ってやれなかった臆病な自分に。
そして未だに悲しませるのが怖くて(?)許嫁を持ちながら関係の精算を出来ずにいる不甲斐無い自分に。
でももうどこで踏ん切りをつけてしまえば良いのか解らなくなってしまった。
そう、解らなくて――でも目の前のさとは愛らしくて愛しくて――さんの気持ちも痛いくらいに伝わっては来てて。彼女も愛おしい。
俺は夜空を照らす蛍に囲まれていたら考えるのに疲れて、思わず足を踏み出していた。
-
「アンタァ! 蛍が綺麗だよぅ!」
「さと……!」
そしてさとの着物の袖を引っ張って懐に引き寄せると抱きしめていた。
「アンタ……信之介……さん?!」
きつくさとを抱きしめると、さとが黙って抱き返してくるのを感じた。
今それを見ているのは蛍だけ。
大松屋の誰も傍には居ないし、さんの影に怯える事も無いのだ。
そして暫くの間俺達は夜陰の中で抱き合い、唇を啄み合い、睦みあった。
でも、身体を離す時に「この事は誰にも内緒だぞ」と耳元で囁くのは忘れなかった。
俺は本当に汚くなった。
-
今回はここまでです
更新に間が空いてすみません!
また続きの時はよろしくお願いします
-
ありがとう!
-
もうみるに堪えない
早くこのパートが終わって欲しい
-
すみません
ほぼラストパートですのでもう少し耐えてください
取り敢えずHDDお陀仏絶望的なお知らせ
パソコンが業者からから戻ってきたら更新予定分書き直し予定です
-
ブルースクリーン……
-
この更新分がこのパートの実質伝説本編みたいな部分だっただけにくやしい
本当悔しい
何だよ!
ちょっと寝てたら画面青だよ! ふざけんなだよ!
やっぱ悔しいから予告だけでも書いておく
二股関係を続けていた信之助だったが、さんの祝言の話が本格化し、さんとの関係を
断つことを決意。
自分はちゃんと、さとと添っていく事をさんに告げるが?!
-
age忘れた
-
上がってない
-
頑張れ
-
なんてこったい…
おつかれさま…
-
頑張ったねコアデュオ こんにちはi5(貧しい買い替え)
さようならXP ああ……うん…… win7おまえか……クラシックモード決定だから
-
ボンソワール皆さん
温かいお言葉ありがとうございます
近日中に新しいパソコンが届きますお知らせ
色々考えて買い換えることにしました
既存の機体は使えなくもなかったのですが流石にスペックきついので止めました
新しいパソコンさんの活躍にご期待ください
そう 俺たちは登り始めたのさ小説道を……(画像略)
-
おつかれさま
-
パソコンは何でもいいが、差しやすい位置のUSBスロットと
バックアップ用メモリーは買っておくべき
-
今、立て込んでるので、書き途中の冒頭だけ載せておきます。
パソコンは無事にやってきました。
ご心配ありがとうございました。
バックアップは今後気をつけます。
-
「え、どういう……事?!」
荷物を運んでいると、居間の方からさんの声が聞こえた。
どうやらかなり動揺しているようだ。
俺は荷物を抱えたままだったが、こっそり息を潜めて様子を覗いてみると、新蔵様とさんが何かを話し合っているようだった。
「権太も卯兵衛も充分に仕上がった。歳の若さはあるが、それは店の立ち上げの際に熟練も一緒に行って貰うから足りない経験はそれで補える。
さあ、これで約束通り店が持てる腕前にまで育ったぞ。ここが年貢の納め時だ決めてもらうぞ。お前はどっちと祝言を挙げる?」
「父様……」
「さん……」
「でも我は……その……心の準備が……」
「時間なら今まで充分やっただろう。それでもまだ足りぬというのか。お前がまだ決めかねるというなら、それでも良いぞ」
「え、本当か?!」
新蔵の言葉に胸を撫で下ろした風な声を漏らす。だが。
「ああ。お前はお前で自由にするが良い。仕方ない。ワシは待たせているさとの祝言の話の方を進める事にする」
「はっ……?!」
「さとも信之介もお前に気遣って祝言をずっと我慢していてくれている。お前が我儘を通すなら、しかたあるまい」
そう言って新蔵は立ち上がると、居間を立ち去ろうとした。
するとさんが慌てて引き留めるように叫んだ。
「待って父様! する! 我は祝言をちゃんとする! さとの祝言は我の次にするのであろ?」
さんの言葉に新蔵は歩みを止めて振り返ると。
「まあ、そうだな」
と答えてじっとりとした視線を向けた。
「祝言、する。ちゃんとする……」
「そうか。やっとその気になったか。して、どちらと祝言を挙げる?」
「ええと……」
選択を迫られて押し黙るさんの様子を俺は物陰からジッと見詰める。
-
乙
-
期待されてなくても 一言書かせて欲しい。
今色々予定が狂っているけど 何一つ諦めて無いから。
一人でも待っている人が居るのなら ごめんなさい待たせて
必ず完結させるから
あと少しだから
-
頑張れ
-
待ってるよ〜♪
-
押し黙るスレの様子を俺は物陰からジッと見詰める。
-
お久しぶりです!
何とか用意してきました!
ちょっと力尽きました
予定の部分に少し到達できず無念
ですがこれで伏線の回収が進みました!
-
それから暫し口元をもごつかせた後。
「権太……権太で良い……」
まさに苦渋、と言った感じでそう言った。
「権太で良いのだな。もうそれで話を進めるぞ? これからはワシとお前だけの話では
済まなくなるから、もう急に止めたなどとは言えなくなるぞ。その選択で悔いは無いな?」
「ん……」
新蔵に視線も合わせず俯いたまま頷くさん。
「分かった。それではそのようにさせてもらう……」
そう言って新蔵は居間を去っていき、俺の目の前を通って行った。
そして間も無くさんも項垂れつつ立ち上がって居間から出て行こうとする。
(不味い)
俺は慌てて居間から離れようとするが直ぐにさんに見つかって呼び止められる。
「信之介! 何でこんな所に居るの?」
「えっ……?」
さんの声に一瞬抱えていた荷物を落としそうになり、抱え直してから恐る恐る振り返ると今までになく青褪めながら自分の着物の袖を掴む彼女の姿があった。
「もしかして、今の話……聞いていたのか?」
震えた声が問いかける。
「な、何の事だ? 俺はたまたま通りかかっただけだぞ? 何か、あ、あったのか?」
慌てて素知らぬふりを決め込むも、挙動の不審さは隠せない。
「嘘吐き。さっきから影に居たの、見えていたぞ。信之介は昔から隠れんぼが下手じゃの。……違うから」
「……何がだよ」
「祝言の話」
その言葉に思わずさんから視線を逸らす。
-
「何の事だよ」
「違うからね。これは形だけだから。我が頷かなければお前達が確実に祝言を挙げさせられてしまう。本当に心が繋がっているのは我とお前……
なのにお前とさとが結婚するなんて我には耐えられぬ!」
(…………)
そこで俺に『心無い結婚などさせたくない』と言わずさとと結婚させたくないと言うあたりがさんらしいと俺は思った。
「これは本当に形だけ! 形だけじゃからの!」
そう苦しげに叫ぶと、さんはバタバタと黙ったままの俺をそのままに逆の方へと消えて行った。
――そうか。何の形であれ、さんは祝言を挙げるのか。
目の前で会話を聞いて、本人からも話を聞いたのにどこか現実味を感じられぬまま心が靄つく自分が居た。
それから暫くさんの祝言が決まったと華やいだ空気が屋敷内を包んだ。
――当事者のさんを除いて。
屋敷の人間は勿論、訪問客に祝われても、浮かべるのは明らかな作り笑顔。
誰もがそれを感じ取っているが、緊張しているのだろうと苦笑して見なかった振りをする。
そして相方となる権太さんはと言えば。
多くの仲間を制してさんの夫の座を手に入れたのだ。さんが憂鬱そうであろうと関係無く機嫌良さげに振舞っている。
作業場を通りかかるたび権太さんが周りにやっかまれている声が聞こえ、複雑な気分になる。
そして……。
「姉様、遂に祝言を決めてくださいましたね」
暇を縫って交わすさととの逢瀬の時にもこの話題が出るようになった。
さんとは逆にさとは上機嫌だ。
当然だろう。俺との祝言はさんの祝言の後だとずっと言われてきたのだ。
さんが祝言を終えたらやっと俺と一緒になれると、さとは胸を弾ませているのだ。
ここまで、さとは俺がさんとも逢瀬を重ねていた事は知らない。
何も知らずに姉の祝言を祝い、自分の祝言を楽しみにしているのだ。
何も知らないのはさとだけ……。
「…………」
俺が黙って夕焼けを眺めていると、手に温かいものが触れた。
さとが俺の手を掴んで微笑んでいた。
-
「アンタ……」
「さと……」
思わず見つめ合うと指を絡めたまま俺はそのままさとに接吻けていた。
いつになく絡み合う吐息。さとを抱きしめ直して舌先を掠め合う。
こんな接吻けはさんともした事は無い。
何だろう、この昂ぶりは。
近くの寺の鐘が鳴る音が聞こえて、俺達はやっと接吻けを止めてゆっくり身体を仰け反らせ、
さとの顔を改めて眺めてみる。
(可愛い……)
「さと、俺はお前を好いているぞ……」
気が付いたらそんな言葉が口から零れていた。
言ってからハッとする。
さんの存在を思い出して。
だが時すでに遅し。さとが口元を押さえて目を潤ませていた。
そして一言。
「やっと、やっと私の目をちゃんと見て言ってくださいましたね!」
「――っ!」
さとの言葉に背筋が冷たくなる。
その瞬間走馬燈のように蘇るさととの逢瀬。俺はいつも後ろめたさを抱えていて、
まともに視線を合わせて会話をした記憶が無い。
(ずっと、気にしていたのか――……)
させていたのか。
さとは本当に嬉しそうに微笑んでいる。純粋に。
俺はその眼差しに耐えられなくなり。
「ごめん、そろそろ時間だ」
「あっ……」
そう言って振り向かずにさとを置いてその場を後にする。
俺は、本当に馬鹿野郎だ。
-
それから数日、俺はさとともろくに口を利かずに仕事に没頭した。
勿論さんとも挨拶くらいしかしていない。
作業中にお歯黒を入れるか入れないかで奥様とさんが喧嘩していたのだけは見た。
さんは汚らしいから入れたくないと抵抗していた。
そのぐらいなもので俺はなるべく二人の事は見ないように努めた。
自分のしてきた事の罪深さから目を逸らしたかった。
そんな時だった。
新蔵様からとんでもない話が出たのは。
「しゃしん?」
「ああ、写す真実と書いて写真だ。舶来の技術だがその場にある姿をそのまま紙に写し取れるらしい。
さんも結婚する事だし、折角だから結婚前と後に一枚ずつ取ってみようかと思って技師を呼ぶ事にした」
「へえ……」
聞いた事も無い技術に俺が普通に感心していると、先輩の寅吉さんがやって来て不安げに言った。
「でもさぁ……聞くところによると、写真って姿写し取る代わりに魂やら寿命持ってっちまうって話らしいじゃないですか。
俺、そんなんで死にたかないですよ……」
「え、そうなんですか?!」
寅吉の言葉にゾッとして新蔵の方を見ると、呆れた顔で。
「馬鹿を言え。そんな恐ろしいモノだったら舶来で広まるはずがないだろう!
聞くところによれば日の本以外では写真を撮るのは普通の事らしい。撮って死んでしまうくらいなら、
伴天連達はみんな死でいて、幕府も鎖国などしなくても済んだだろうに」
この時代から二百年は経った時代から見れば新蔵の言ってる事は至極当然の事だが、
この時点では大松屋店主という立場が無ければとんだ歌舞伎者の戯言と切り捨てられていた考えだろう。
何代も続く老舗を衰えさせる事無く経営する男の思考は、常に時代を先取っていた。
という訳で新蔵の鶴の一声でこの時代ではまだまだ珍しい写真撮影が決行されることになった。
(記念、か……俺がこの店に来て、どのぐらいの時間が経っただろうか? 多分、2年くらい)
ただの旗本崩れの餓鬼が、首も切られずに良くやってこれたと思う。
単衣(ひとえ)に周りの助けがあっての事だと思う。
後は、婿補正か……。
-
さとの婿と言う前提が無ければ切られていたであろう場面は思い返せばいくつもある。
だが同時にさんとも関係を持ってしまっていた。
そろそろ俺も腹を決めないといけないかもしれない。
そんな事を考えている内に写真の撮影日がやってきた。
撮影日は今後の商売繁盛を祈って大安吉日が選ばれた。
雨が降ったら延期という話だったが、そんな事も無く良く晴れた五月晴れが夏を感じさせる初夏の雲と共に広がっていた。
俺がこの店に来たのはこの店に来たのはこのぐらいの時期ではなかったか。そして元服を迎えたのはその年の秋で。
店の従業員全員が集められて撮影用に並ばされていく。
全員の顔が映るように特別な台座も用意し、新蔵様は椅子に座っていた。
俺は新蔵様の隣に並ばされた。さんとさとは新蔵様を挟んで二人並んでいる。
ふと。
(俺の隣に二人の誰も来なくて良かった)
と思ってしまった。
ここ最近ずっと口を利いてはいない。最初は話しかけたさそうにしていた二人も、最近は廊下で顔を合わせても諦めた顔ですれ違って行くだけになった。
「皆様撮りますよー! この砂時計(ほぼ30〜40分)が全部落ちるまで絶対に動かないでください! やり直しになります! 後、寿命も魂も取られませんので安心してください!」
そう言って技師は写真機の多いの中に消え、技師の声に皆固唾を呑んで臨む。
写真……一体どんな出来になるのだろう?
ジッと砂時計が落ちるのを眺めた。
そして砂の最後の一粒が落ちる頃。
「はい、おしまいです! 一発で大丈夫でした。皆様お疲れ様でした!」
特に問題無く終わり、俺達は解放されて各々ホッと安堵の息を吐く。
「出来上がりが楽しみだな」
不意に新蔵様に話しかけられる。
「あ、はい……」
「こうやってジッとしてるだけで良いなら、さん、さと達の婚礼写真も撮っても良いかもしれないな。後で皆で相談しあおう」
「……分かりました」
俺は簡潔に返事をして頭を下げると皆と一緒に屋敷の中に戻って行った。
そして歩きながら俺はある事をやっと、心に決めた。
-
その晩の事。
俺はさん部屋を訪ねて声を掛ける。
最初にさんの部屋。
「さん、ちょっと良いか?」
「信之介? どうしたの急に最近ずっと口もきいてくれなかったのに……」
「ちょっと宵の散歩でもしないか? 誰にも内緒で……」
ふっと微笑んでそう言うと、さんはパァっと表情を輝かせてうんうんと頷く。
しかし、次の瞬間何かを思い出したかのように表情を曇らせる。
「でも困ったわね。権太さんとも、散歩の約束をしてるのよ……一応、妻夫になる相手だからって、誘われて……」
そう言って辛そうに顔を伏せるさん。
「じゃあ、それが終わった後にでも。俺、あの祠のところで待ってるから」
「分かった。出来るだけ早く終わらせて行くから……」
「別に急がなくても良い……秋の夜は長いのだから……では、後で……」
そう言って襖を閉めると、俺は自室に戻って自分の荷物から『アレ』を久々に取り出した。
――俺がこの店に来る時に買ってきた、紅い珊瑚。事の発端でもある曰くの品。
二人と不義の関係になってからは見るのも嫌でしまいっぱなしにしていたが、これからと向き合うためには必要な品だ。
-
俺はその珊瑚の枝を手に、そっと屋敷を抜け出して浜辺へと向かった。
浜辺へ向かいながら、祠を目指しながら、何も考えず純粋に三人で戯れていた幼い頃に想いを馳せる。
あの頃、こんな未来が……今があるなんて、当時の俺には想像出来なかったし、出来ただろうか?
幕府が消えて、侍も消えて俺が小姓や丁稚としてさんとさとの店で働き、二人と男女の関係になるなんて。
(思いもしなかった。出来るはず、無いだろ……)
思わず鼻先が痛くなるのをこらえながら砂を踏みしめて岩場をくぐって、赤い前掛けのついた住吉様の納められた祠に辿り着く
祠の周りを擦って更に思い出に浸る。
この祠には不思議な力があると聞く。
そもそもこの祠は大松屋創立の時に商売繁盛を祈願して祀られたものらしい。
その大松屋と謂れ深いこの祠の前で遊んで育った俺が大松屋で働いている。数奇なモノだ。
この祠の不思議な所は他にもある。
いつの頃からだろうか。この祠の周りを覆うように見た事も無い花を咲かせる植物が生え始めた。
今持っているような珊瑚のような真っ赤な花を咲かせる。
花が咲くのは大体今頃……。
暗がりで手繰るように探ると、幾つかは咲いていて、今にも咲きそうな蕾もいくつも見つけた。
(この様子なら、明日か明後日には咲きそうだな)
一通り祠の周りを探ると、俺は適当に腰かけられそうな岩場を見つけて腰を下ろした。
ふと空を見上げると多少雲が棚引いてはいたが、基本的には満天の星空が広がっており、満月ではないが風情ある月も程良く浮かんでいた。
好い夜だ。
空気が澄んでいて、潮風も心地良い。
ほら、目を瞑って耳を澄ませば――懐かしい声も聞こえてきそうなくらい……。
――ゎぁぁ!
一瞬男のような叫び声が聞こえて俺はハッと顔を上げて辺りを見回すが誰も居ない。
(気のせいか……さんはいつ頃来るだろうか? 急がなくて良いとは言ったものの、待ってみるとソワソワする。
季節はもう夏なので寒くは無いが、一人で夜空の下に居るのは寒々しいとは思う。
すると間も無く、聞きなれた声が俺を呼んだ。
「お待ちになった?」
いつになくしおらしい口調のさんが岩を登ってやってくる。
綺麗な着物を着て、口元には紅を指していた。
-
「いや、そんな事は無いが……お前、またそんな恰好で浜辺を掛けてきたのか。転んで駄目にしたらどう言い訳をつもりだったんだ?」
俺の問いにさんは髪を整えながら。
「別に。気晴らしに浜辺に行って転んだって言うだけよ」
と、ケロリと答えた。
「…………」
俺はその返事に懐かしさと共に軽い頭痛を覚えて頭を押さえる。
「そんな事より、信之介も信之介よ。こんなところに座ってるから、すぐに見付けられなくて探しちゃったじゃないのさ」
「ここ、そんなに判りにくい場所か? 広くて昔も良く使っていた場所じゃないか」
「そんな昔の事忘れたわ。それより、あの子を誤魔化すのにちょいと時間がかかっちまってさ……あの人もね。ちょいと、ここは目立つから場所を移しましょ……いつもの祠に、ね……」
あの子? さとか。権太さんの他にさととも何かあったのか?
疑問がもたげるが特に口にせず、袖を引かれるまま移動する。
そしてまた祠の前に戻ってくる。
「あー懐かしい〜。我もここに来るのは久しぶりじゃな〜。どのぐらい振りじゃろ?」
子供みたいに祠のしめ縄や住吉様をベタベタ触ってはしゃぐさん。
「止めろよ、祟られるぞ。一応それはお前の家の守り神なんだから、もっと大事に扱え」
「別に良いじゃないの。信之介は相変わらず堅いの」
俺に咎められ、不満げながらも住吉様から離れて戻ってくると、懐から蝋燭を取り出して火打ち石でもぐさに火花を散らした。
さんが蝋燭を小さな岩の上に立てると、紅の指された美しい顔が一層際立って闇夜に浮かび上がる。
(本当にコイツは昔から、綺麗な顔をしてるよな……)
そうは思うが、この美しいさんをいくら眺めていてもあの夕暮れでさとに感じたような感情は湧き上がってこなかった。
やっぱり、『そうなんだ』と気が付く。
俺は時が時なら傾国になったかもしれない見目麗しいさんよりも、あの素朴なさとの方を好いていると確信した。
-
そのままボーっと蝋燭の火とさんを見詰めていると、さんが袖口からまた何かを取り出した。
あの、紅い珊瑚だった。
「信之介、これ覚えてる? お前がウチに来たときに初めてくれた我への贈り物……我だけへの贈り物じゃ……」
そうウットリと珊瑚の枝を眺める。
俺もおもむろに持ってきていた珊瑚の枝を見せると、さんが息を呑んだ。
「これ、俺も今夜持ってきていたんだ」
「信之介……! ああっ……! やっぱりお前は我の事を!」
そう言って嬉しそうに俺の手にある珊瑚に自分の珊瑚を絡ませる。
「…………」
俺は無言のままされるがままその様子を眺めていた。
「主が持ってきてくれたこれ……この色は丸で血のようじゃ。だからほら、こうやって絡ませ合えば、我等の血が混ざり合ったかのよう……。ねえ、これから私は権太と祝言を上げるけど、子供はお前の子が産みたい」
珊瑚を絡ませながら蛇のような色めいた眼差しが俺を捉える。だが俺はその言葉を聞いて背筋にゾゾゾと怖気が走った。
この女は何て恐ろしい事を言っているのだろう。
祝言を上げると決めたのに、この期に及んで往生際悪く……いや、俺が悪いのか? 俺が気を持たせたままでいるから……。
「さん……」
「なぁに?」
「明日、時間はあるか。俺丁度休みをもらっている。明日は昼間にここに来ないか? その珊瑚を持って」
「えっえっと明日……大丈夫……何時(なんどき)に出かけるの?」
ふと自分の予定に思いを巡らせて返事をするさん。
「午前中で良いと思っている」
「分かったわ」
「とりあえず今夜は帰ろう」
-
「もう? まだ我が来てそんなに経たないじゃないの」
「俺が眠いんだ。それにお前も色々ごまかしてるんだろう?」
「そう、まあ……確かに……わかった……」
さんは少し不満そうだったが、明日もあるせいか大人しく帰る準備をしてくれた。
一緒に帰るわけにはいかないので俺はさんを置いて一人先に帰って行く。
暫く背中にさんの視線が絡みついていたが、さんもその程度は弁えているのか追ってこなかった。
俺は屋敷に帰るとすぐにさとの部屋に向かう。
「さと、さと、起きているか?」
小声で声を掛けると既に布団に入っていたさとが気が付いて起き上がってくる。
「アン……タ……?」
眠た眼で這いずりながらそっと戸口までやって来ると俺の来訪が嬉しいのか微笑んだ。
「さと、暫く口を利かずに済まなかった。お詫びに明日散歩でもしたいと思うのだが、どうだろう。久々に浜辺へ行こう」
「え、本当に? 嬉しい、行く……絶対に行く……」
「明日の午前中勝手口の前で待っていてくれ。あ、そうそう。それと、俺がこの店に来た時にお前にやった珊瑚を持ってきてくれ。俺も持っていくから……久々に日差しの下で見たい」
「分かった」
さとはウキウキしながらコクコクと頷く。
何も知らずに。
(すまない、さと。明日で終わらせるから)
「それじゃあ、俺も寝る。お休み……」
「うん」
そして俺は障子を閉めて自室に戻った。
――そうだ、明日全て終わらせよう。
俺はそう心に決めて布団に潜って瞼を閉じた。
そして次の日、俺は身支度を整えるとあの紅い珊瑚を袖に仕舞って勝手口に出ると、待っていたさとに微笑みかける。
さとも俺の笑みに微笑み返してくれた。
さんは祠の前で待っている。
自分の不始末に蹴りをつける時が来た。
住吉様にちょっと見守ってもらっていよう。
俺はさとの手を取ると力強く前に踏み出した。
-
今回はここまでです。
予定立て直し中ですが 完走までよろしくお願いします。
-
乙!
-
ふむ
-
保守
-
お久しぶりですー!
書き途中ですがいまできてる分あげておきます
-
保守感謝します
-
ポトリ。
べしゃりと濡れた音を立てて何かが地面に落ちる。
俺はその気配に気が付いて振り向くと、真っ暗な空間に真っ白い腕が落ちていた。
(腕……? これは、ずいぶん細い……女の腕? 左腕……あ……!)
濡れたその腕をぼんやりと眺めるも、その手の薬指に嵌る見覚えのある指輪にハッと息を呑む。
そこには紅い珊瑚のを使った二人の指輪があった。
「珊瑚!」
血相を変えてその腕を拾い上げようと這いつくばって手を伸ばした。
お前の腕はここにあったのか! ずっと探していたんだ!
だが珊瑚の腕は俺の指が触れる直前に霞のように消えて、掴みかけた手は空を握っただけだった。
(あれ?! どうして……おい、珊瑚の腕を返してくれよ……! 大事な指輪を返してくれよ!)
身体をわなつかせながら腕の消えた場所をベタベタと弄っていると、不意に白い砂の地面が辺りに広がった。
「あ……?」
そして潮騒の音に顔を上げると、目の前にはあの兎の地蔵が鎮座していた。
(住吉様?)
暫く呆然とその住吉様を眺めていると、窪んだ石の眼窩からマツバギクが芽を出しあの真っ赤な花を咲かせ始めた。
花が咲き乱れるその姿は丸で、真っ赤な涙を流しているかのようだった。
そして、足元に転がる――紅い珊瑚の枝。
流れた血のように白い砂浜に3つ横たわっていた。
――珊瑚ぉ……!
-
さとを連れた俺は砂浜を歩いていた。
会話は特に無い。
彼女も俺のただならぬ様子に気が付いているらしく、強張った表情で俺の後ろを付いてくるだけだ。
間も無く岩場を抜けて住吉様が祀られる祠のあたりまでくると、待ちあぐねいた表情で立ち尽くすさんの姿を見つけた。
あの様子だと俺よりもずっと早く来て待っていたのだろう。
俺は深呼吸すると、笑顔を作って声を掛けた。
「さん、待たせたな!」
「信之介! 遅いぞ!」
そう呼び掛けると、気が付いたさんがパアッと笑顔になって振り向くが、俺の背後に控えるさとの姿に気が付いて表情を固まらせる。
「アンタ、どうしてここに姉様が?」
「ん、ああ……驚かせて悪かったな。今日は久々に三人で集いたかったんだ。驚いたか? 昔を思い出して少し悪戯してみたんだ」
さんと同様戸惑いを隠せないさとの問いに、俺は一見朗らかな笑顔で答えた。
「ふぅん、そう。さとも連れてきたんだ。……まあ良いけど。確かにもう、ずっと三人でここに来てはいない。たまには良いかもしれない……」
俺の言葉にさんは無表情にそう答える。
-
「ふふ……」
さとも苦笑しながら微笑んだ。
(…………)
二人とも自分が俺の一番だと思っているから、意外と殺伐とした空気は流れなかった。
俺が適当な岩場に腰を下ろすと、二人も程良い場所を見つけて腰を下ろした。
だが、二人が並んで座る事は無かった。
昔なら何だかんだ言いつつ肩を並べて隣り合って座っていたのに。
しかも今は関係を気にしてるのか、俺の隣にもどちらも座って来ない。
だから今は丁度三角形のような配置で座っている。
-
またきます!
-
乙
-
来てたー!
乙
-
このあとを考えたら怖いぜ
乙
-
高速ナブラ!! シャキーン
-
おはようございます
いつもありがとうございます
-
「皆、本当に大きくなってしまったな。俺は図体だけだが……」
そう苦笑すると、空を仰いだ。
いや、心も変わってしまった。
同じ場所で見上げる同じ空を見る目が変わってしまった。
あの広い空に無限の未来を描いていた俺はもう居らず、この眼に見えるのは戻らない過去への憧憬ばかりだ。
堪らず目を閉じればあの時の無邪気な声に耳を傾けてしまう。
「信之介、信之介!」
不意に名前を呼ばれて俺は現実に引き戻される。
「何だ、さん……」
呼ばれるがまま視線をやると、張り詰めたさんの表情があった。
「久々に語り合おうだなんて、ただの口実の茶番なんであろ? 我はそんなまどろっこしい事は良いからさっさと本題が聞きたい。今さらこの三人で仲良しごっこ何て出来ると思ってるの? ……ちゃんと言ってくれないかい?」
そう言ってさんはさとを一瞥した。
さんの眼差しにさとはビクリとして俯くと唇を噛みしめた。
どうやらさとも同じ意見のようだ。
「……そうか。最後にあの頃のような戯れを感じたかったが、……やはり難しいか」
俺が落胆交じりに肩を落とすと、さんの期待の眼差しが突き刺さるのを感じた。
この集まりは自分達の関係を詳らかにするもので、さとへの決別宣言を俺がするものだと確信しているようだ。
-
(だがそれは違うぞ、さん……。俺が決別するのは……)
大きく深呼吸をすると、俺はおもむろに立ち上がって名前を呼んだ。
「さと、ちょっとこっちに来てくれないか?」
「へ……? あ、はい……っ!」
不意に名前を呼ばれて、慌てて立ち上がるさと。
そして戸惑いがちに俺とさんを見ながらおずおずと俺の横にやって来る。
さとが傍に来たのを確認して俺は強張った表情でさんに向き直る。
「さん。お前に大事な話がある……のはお前も解っているようだが、さと……お前にも大事な話がある……」
「……はい」
硬い返事を耳にして、さとの表情を見るととても厳しい表情をしていた。
そして再びさんの方を見ればさっきよりも苛立たしそうに唇を引き締めていた。
早く言えと俺を急かしているのだろう。
膝に置かれた布を握る手は力を込めすぎて真っ白になっている。
俺は何度か深呼吸をして気持ちを落ち着けると、俯いたまま重たく引き攣る口を開いた。
「さと、お前に謝らなくてはいけない事がある……俺は、お前の許婚でありながら犯してはいけない罪を重ね続けてきた……」
「アンタ……」
動揺に震えるさとの声が俺を呼んだが、俺はそのまま言葉を続ける。
-
「俺はずっと……正しくは元服の時からだったかな……俺はお前がありながら……お前の婿としてあの家に迎え入れられながら……そのだな……」
肝心な事を言おうとするも怖くて言葉が滑ってなかなか言えず、口をパクつかせていると、さとが口を開いた。
「姉様の事ですよね……?」
「え……?」
「……さと? お前!」
さとの言葉に俺だけじゃなくさんも驚きの声を上げる。
俺は伏せていた顔を上げてさとの方を見ると、さとは俺達を前に落ち着いた様子で言葉を続ける。
「やっぱり……そうだったのですね。そうではないかとずっと思ってました……信之介さんと姉様が妾達の眼を忍んで密通なさっている事……」
「い、いつから?!」
「それは……そんなもの、見ていれば判る人間には判ります。特に……愛した人の事なら。それに信之介さんは嘘が下手すぎです。妾と一緒に居る時、あんな苦しい顔をされていたら勘ぐるなという方が無理です。それに、妾は見てしまいました。姉さまの部屋に珊瑚の枝が置いてあるのを……私が持っているものと同じ、真っ赤な珊瑚が……」
そこで言葉を切ってさとがさんを見やると、さんが青褪めた顔でたもとから珊瑚の枝を取り出して、身体を戦慄かせながら俺を見た。
「信之介! さとも珊瑚を持っているって、どういう事?!」
「さん……これはだな……」
さんは鬼の形相でいきり立って俺の方にやって来る。
(怖い……!)
さんが俺の胸倉を掴もうとした瞬間、俺は咄嗟に彼女を避けるように突き飛ばしてしまっていた。
「へっ……?」
突然の事に不意打ちだったのか、さんはポカンとしながら体勢を崩して砂浜に尻餅を着いた。
ドサリと座り込んだまま状況が掴めぬと言った表情で俺の方を見ている。
「す、すまない……お前が余りに恐ろしい顔をしていたから……」
俺も思わず後ずさると岩に突っかかって転びかけるが、さとが俺の身体を支えてそれを防いでくれた。
だがそのまま足が笑ってしまって力が入らず上手く立てなくなってしまい、さとに縋るようにしてしか立てなくなってしまう。
「アンタ、大丈夫?」
「有難う、さと……あわわ……」
暫し体勢を直そうとする俺と、支えようとしてくれるさとが縺れていると再び甲高い怒声が背中から飛んできた。
-
「信之介、さとから離れろ……! さとも信之介に触れるな! 何で我が突き飛ばされて、信之介とお前が抱き合っているのじゃ! それは我のモノぞ!」
その声で漸くハッとした俺はスッと立ち直すと、さんに向き直って言い放った。
「……お前はいつもそれだな。気に入らない事があれば直ぐに怒鳴り散らし、駄々をこねて事を荒立てたり、力づくで自分の都合良い方に持っていこうとする……俺はそんなお前が昔から怖くて……今までずっとお前を突き放せずにいた……確かに良い幼馴染でもあったが……好意だけじゃなく恐怖も強かった……」
「何を言っている?」
「やっと解った……俺がお前の事を強く拒否できないのは、勘違いさせてしまった後ろめたさもあったが、お前そのものが怖かったんだ……」
あれ? 俺は何を言っている?
確かに俺が今喋っている事は常々感じていたが、こんな事言ったらさんが何をしでかすか解らないのに。
もっと穏やかに話をするつもりでいたのに。
しかし口は止まらなかった。
さとは黙って俺の様子を、言葉を見守っている。
「だから何を言って……お前の恋人は我じゃろ? その恋人に向かって何を……」
「違う。それは違う! 俺はただお前を突き放せずにいただけで、そう思っていたのはお前だけだ。良く思い出せ……俺がお前にちゃんと『愛してる』と言った事、あったか?」
そう問うと、さんは言葉を詰まらせて泣きそうな声で「……無い」と答えた。
「殆ど無いだろう。俺は好きとかは言うことはあっても、そういうのはなるべくはぐらかしてきたからな……勘違いであっても嘘はなるべく吐きたくなかったから……」
「はぐらか……し……」
「ああ……そして今日お前をここに呼んだのは、そのはぐらかしから決別するためだ。もう俺は嘘を重ねたくはないんだよ。それにお前にも……嘘を重ねさせさせたくは無い!」
「嘘? 嘘ってどういう事じゃ……? お前の嘘とか、我の嘘とか……さっきからずっと何の話をしてるのじゃ? さっぱり訳が解らぬ……」
「解らぬか?」
「解らぬ……我には何が何だか……解らぬよ……」
呆然とそう呟いて紅い珊瑚の枝を胸元で握り締めた。
-
「なら、ハッキリと言おう。そもそもお前が握っている珊瑚も、さとが持っている物も、愛の告白のつもりでは無く友愛の印として買ってきたものだった。だから俺も持っている! 俺とさんとさとで三本。そう、三人の絆になればとっ……想って……俺はあの日買ってきたつもりだった……だがこれは俺の落ち度だ。気付かずうっかりとは言え、別々に渡してしまい、それを誤魔化そうとしてこんな大事にしてしまった。あの時点では俺はさとの婿に選ばれていたという自覚もなかったが、今は違う……俺はこれからちゃんと、さとの傍でさとの夫として生きて行きたいと思っている。それをお前に告げに来たんだ……」
言ってしまった。
俺の言葉が終わってもさんはポカンとしたまま固まっていて人形のように動かない。
「アンタ、アンタ……」
立ち尽くしてさんを見つめているとさとが俺の袖を引っ張った。
「さと……今まで本当に済まなかった。騙していて……嘘を吐いていて……」
泣きそうになりながら振り向いてそう言うと、さとは俯きがちに首を振った。
「良いんです……それに信之介さんは妾に嘘なんかついておりません。姉様の事はあったかもしれないけれど、信之介さんが本当に『愛してる』と言ったのは妾だけなのでしょう?」
「ああ、そうだ……お前にだけだ……」
「なら、それでもう結構です。心が籠った言葉を言ったのは妾だけなら、少なくとも妾に嘘を吐いてはおりませんよ」
「さと……!」
そのまま俺がさとを抱きしめると、漸くさんが言葉を漏らした。
「だから、何でお前達が抱き合っておるのじゃ……その腕……信之介の腕の中は我の居場所だと言っておろうに……信之介も早くこっちに来て我を抱き起こしてたも……?」
「それは出来無い」
「何故?」
「お前に触れて良いのは、お前の夫になる権太さんだけだ。さとの夫である俺はしてはいけない」
「だから権太は形だけだと言っておるだろ?」
「……お前の気紛れとは言え、死ぬ気でお前の夫の座を掴んだ権太さんに失礼な事をするな。俺は元々お前の気持ちに応えたわけじゃなかった。そしてお前は最初からあの家の跡取りで婿が俺以外に用意されてると解っていながら俺と通じていただけじゃないか。全て元通りにするんだ。……俺達の関係は元に戻らなくとも、お前の本来の役目を果せ。大松屋の跡取りとして権太さんと一緒に葵の羽織と赤袴を受け継いで守るんだ。俺達も……出来る事は何でもするから。……お前の兄弟として」
そう言って俺は傍らのさとを引き寄せて抱きしめた。
-
「きょう、だい……?」
「行こう、さと……用事は終わった……」
「は、ひゃい……!」
俺がそう声を掛けて手を取って歩き出すと、さとが上ずった声で返事をした。
去って行く達に悲痛な声が飛ばされる。
「待って、待ってよ……信之介ぇ! 我のモノを持って行くなさとぉ……!」
気にせず去っていこうとするも子供のように喚くさんの声にさとは不意に歩みを止めると言い放った。
「姉様、いい加減にして下さい。信之介さんの言葉をお聞きになったでしょう? 信之介さんは妾の夫です。これからちゃんと選び選ばれた妻であり夫になるのです。子供のように喚いて欲しいモノが何でも手に入るわけではありませんし、そもそも信之介さんは物ではありません。お聞き分け下さい……姉がそんな様では妹の妾の立場がありません」
いつになくはっきりとし厳しい言葉をさんに投げ掛けるさと。
さとがさんに向かってこんな言葉を向けたのを見たのは俺の知る中では無い。多分初めてじゃなかろうか?
「…………」
「行きましょう、信之介さん」
「あ、ああ……分った……」
再び二人で歩き出す頃にはさんは押し黙っていた。
そして岩が転がる白い砂浜に蹲るさんの横には、俺のくれてやった紅い珊瑚が零れて落ちていた。
-
それはさんの纏う赤い着物が乱れ千切れて血潮のように飛び散った様にも見えたし、顔を真っ赤にして泣きじゃくる彼女の血涙の様でもあった。
それから俺達はすぐには店に戻らず遠回りをしてから帰った。
緊張が途切れたのか、さとも泣きじゃくり始めてしまったのでそれが落ち着くまで岬の近くの松の下でやり過ごしたのだ。
開けているので人が通らないかと気になりはしたが、さとがすっかり歩けなくなってしまったので仕方が無かった。
幸い俺達が居る間に近くを通る者は居なかった。
さとを宥めながらふと、住吉様に思いを馳せた。
(住吉様、俺はちゃんと片を付けられたでしょうか? 見守っていてくださいましたか?)
余裕が無くてあのまま一礼も出来ぬまま浜を去ってしまったが……。
あの赤い花も最後に三人で見る事も出来無かった。今日が咲き頃だったはずなのに。
そして今後も三人であそこに行く事はもう無い。
非常に残念だ。でもこれが……大人になるという事なのだろう。
これからもっと気を引き締めていかねば……。
俺はこの、さとのの夫になるのだから。
「アンタァ!」
「さと!」
決意を新たに俺はさとを抱き寄せて頭に頬を押し付けた。
-
その晩。泣き腫らしたさとを気遣い、思い切って二人だけで夕餉を食べさせてもらった後の事。
漸く床に就いて寝ていると不意に誰か俺の部屋の襖を開ける気配があった。
俺はすぐそれに気がついて目を覚ますと、眼前にさんの顔があった。
「わあああああ!」
思わず叫び声を上げるも直ぐに口を噤んでしまう。
俺に伸し掛るさんの手に薪割り用の鉈が握られている事に気が付いたからだ。
その様子に悲鳴すら上げる事が出来ぬまま固まっているとさんがニッと笑って言った。
「なぁに? 丸で我を鬼か化物を見るみたいな目で見て……何か怖い事でもあったの? 折角、恋人が夜這いに来たというのに……」
「はぁ?! 一体、何を言って……」
一体何を言っているんだ?
そう言おうとするも首元に鉈を突きつけられて押し黙る。
今、夜這いと言わなかったか?
聞き間違いだろうか?
「ふふ……我は信じぬよ……ちゃんと解っておる。お前はお家を守るために我から身を引いただけだって……。朝の事は気にしておらぬ。お前の本心ではないと、ちゃんと察しておる。あんな苦しい事を恋人に言わなくてはいけなかったなんて辛かったろう? だから慰めに来た。頑張った信之介にご褒美じゃ……」
そう言ってさんは立ち上がると羽織っていた襦袢の紐を解いて真っ白な身体を窓から覗く月明かりに曝した。
-
「ひっ……」
初めて見る女の素肌。
美しい球をした二つの胸元、艶かしい身体の線、細っそりとした足とその根元にある淡い茂み……。
「ふふ、初めて見る我の身体はどうじゃ? 綺麗かえ? よもやさとの身体の方を先に見てるという事は無かろ……まあ、律儀なお前達なら間違いなどあるはずが無い。あって堪るか。お前の全ては我のモノ……だから我の事も好きにして良いのじゃよ? さ、触って……?」
さんは擦り寄るとおもむろに俺の手を取って己の乳房に触れさせた。
俺は初めて触れる柔らかな乳房の感触に驚きつつも、しかし味わっている余裕は無かった。
瞬間的にさんの手を弾くとそのまま突き飛ばす。
拒まれたさんはキョトンとして俺を見返すと、起き上がって無表情に鉈を振り上げた。
「何をする!」
「騒ぐな。いや、騒がぬ方が身の為じゃぞ? 今人が来ればどちらが問われると思う? どちらが有責と思われると思う?」
「そりゃ、どう見てもお前だろう! 俺はさとの夫だぞ? お前とは決別した!」
「本当に、そんなこと言ってるの?」
さんは振り上げた鉈を下ろすと、俺の手に無理矢理その鉈を握らせた。
「なっ……?!」
「さて、ここで誰かが来たら何と思うだろう? 裸の女と向かい合う、鉈を持った男……さて、どっちが危なく見えるのか? お前が我と決別したのどうの言っとるが、それを我ら三人の他誰が知っておる? ……我はお前に夜中、ここに来るように言われて来てみれば鉈で脅されて裸になるように言われてしまった。これは困った……妹の許婚とは言え脅されてはどうにもなるまい。我は仕方無くこの姿になった……」
「ふざけた事を言うな! いい加減にしろ! そんなの、俺から人を呼んでしまえば……んっ!」
「んん、ん……っ! はむ……っ!」
俺の口が塞がれて滑った生温かい物が口の中に入り込み、乱暴に蹂躙する。
驚いてしまい暫しされるがままにされてから自分は接吻している事に気が付く。
そこでやっと慌てて顔を背けて逃れるも、今度は押し倒されている事に気が付く。
-
「や、めろ……! こんな事をしたら俺だけでなくお前にも傷が付くぞ。婚礼前の女子が男と寝るなんて許される事では無い。俺は権太さんにどんな顔をすればいいんだ!」
「権太? そんな事は知らぬ。我の恋人は、つがいはお前一人。お前の相手はさとでは無く我。これは揺るがぬ宿命なのだ。だからこれで良い……そう、お前と我は今宵ひとつになる……」
「さん! 駄目だって!」
暴れて抵抗しようとするも、今まで女に手を上げた事の無い俺は暗闇に浮かぶ白い身体に戸惑って怯んでしまう。
そうこうしている内に俺は文机の脚に縄で腕を絡められており、すっかり押さえ込まれてしまっていた。
「ふふ……そのままジッとして居れ。我が全てやってやる。やり方なら春画で学んでおいた。おていの奴が買い込んでおったのを数冊くすねさせて貰っていた。奥手なお前と身体を重ねる時に困らぬ様に……いざとなれば我が先導してやろうと思って、な……」
そう言って自由を奪われた俺の着物の帯に手を掛けた。
「さ……っ!」
抵抗の悲鳴を上げようとするも気付けば再び眼前に鉈が突きつけられており、冷たいモノが背筋を這い上がる。
「騒ぐな。我の邪魔をするなら、我がお前と遂げるのを拒むなら、我とてお前を殺す。この願いが叶わぬ人生などどうでもいいからお前を殺して我も死ぬ……」
「ぐっ……」
その狂気に満ちた眼差しに俺は何も言えず息を呑むと、さんの白い身体が再び蠢いて俺の身体を弄り始めた。
生暖かい人肌の感触が身体を這っている。
俺は一体何をされているのだろう?
暗闇の中、髪を振り乱しながら揺らめく白い肌を呆然と眺めていると……その内俺が聞いた事も無い艶かしい声をさんが漏らし始めた。
「ん……ああっ、信之介ぇ……!」
後の事は良く覚えていない。
気が付けば部屋が明るくなっていた。
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今回は以上です。
また来ます。
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乙!!
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チュンチュン、チュン
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ゆうべは おたのしみでしたね
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支援
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保守
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