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説教オヤジ・大いに語る 第二章

522説教オヤジ:2009/10/11(日) 13:41:03 ID:9mtw3rzk0
もったいなくも、大聖人が、三大秘法の南無妙法蓮華経を弘通せられた道程を拝するに、
まず建長五年四月二十八日の、宗旨建立のとき、初めて題目を唱えられ、その後、幾多の苦難を経られつつ、
題目の流布に当たられたのである。
その後、佐渡流罪のとき、ようやく御本尊をおあらわし遊ばし、その後は、御本専の流布に、お力をお注ぎ遊ばされたのである。
しかして、弘安二年十月十二日に、戒壇の御本尊を建立遊ばされた。この御本尊は、一閻浮提総与の御本尊であり、
大聖人の極説中の極説であるゆえに、日寛上人の観心本尊抄文段の御本尊についていわく、
『(御本尊においては)弘安元年已後は、究竟の極説なり。就中弘安二年の本門戒壇の御本尊は究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり。
既に是れ三大秘法の随一なり、況んや一閻浮提総体の本尊なる故なり』と。
これをもってみるに、本門の題目の建立は、建長五年四月二十八日、本門の本尊の建立は、弘安二年の十月十二日で、本門の戒壇の建立は、
一期弘法書にみるがごとく、後世の弟子に残されたのである。
(昭和31年4月号大白蓮華巻頭言)

翻って、大聖人滅後の広宣流布の様相をみるのに、題目は一日一日と全国にひろまり、現今は、日本国中、題目を知らぬ者がないまでになったのである。
かくしてみれば、題目の広宣流布は、既になされえたと、一応は考えられるのである。
 さて、本尊の広宣流布においては、どうなっているであろうか。各宗各派は、互いに勝手な本尊をつくりあげ、
正邪混とんとして、いずれが邪か、いずれが正かは、一般民衆には判定のつかない状態である。
すなわち、佐渡御書において『釈教の中に、小乗大乗権経実経・雑乱して明殊と瓦礫と牛驢の二乳を弁へざる時は、天台大師・伝教大師等の如く
大小・権実・顕密を強盛に分別すべし』とあるごとく、大聖人のご真意の御本尊と、ご真意にあらざる本尊とを、しゅん別しなければならぬときがきている。
 しかして、正しい御本尊をもって民衆に付与して、大聖人が観心本尊抄に、『一念三千を識らざる者には仏・大慈悲を起し、五字の内に此の珠を表み、
末代幼稚の頸に懸けさしめ給う』とおおせられた、ご聖意を徹底すべきである。
 これがためには、正しき御本尊を判定して、大聖人のおおせのごとく、身命を賭して、随力弘通をなさなければならない。
さて、そのご聖意の御本尊は、いずれにあり、いかなる御本尊であろうか。 それは、先に述べたごとく、日寛上人のご断言のごとく、
かつは確固たる証拠のある、弘安二年十月十二日の、一閻浮提総与の御本尊であることは、いうまでもない。
(同年同月巻頭言)


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