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三國志新武将用の人物紹介スレ@避難&保管所
1
:
名無しさん
:2024/07/21(日) 15:32:33 ID:1yvcHOrw0
三國志シリーズで新武将を作成する際に、参考になるように人物を評価・紹介していくスレ
※「人物名」はもとより、「どんな人物なのか」という説明はなるべく書いてください
統率などの能力値の記載は自由
紹介する範囲は史実、創作を問いませんが、三國志関連(せめて中国史)に限定してください
最近のシリーズで登場が干され気味の人物も可
元スレ
http://medaka.5ch.net/test/read.cgi/gamehis/1449974140/
基本的に現行スレの有意な記事を転載していきます。
13.14.新規登場者は省略。
2
:
名無しさん
:2024/07/21(日) 15:34:12 ID:1yvcHOrw0
馬元義 バゲンギ (?-184年)
統率:60 武力:40 知力:70 政治:60
黄巾党の大方。洛陽に往来し、中常時の封諝、徐奉らを内応させ決起を準備するが、
張角の弟子の唐周に密告され車裂きの刑になった。
3
:
名無しさん
:2024/07/21(日) 15:34:54 ID:1yvcHOrw0
王越 (生没年不詳)
桓帝・霊帝の時代の虎賁(皇帝直属の近衛士官)。剣術の名手として名高かった。
弟子の史阿は曹丕に剣術を指南している。
統率:62 武力:89 知力:36 政治:28
4
:
名無しさん
:2024/07/21(日) 15:35:24 ID:1yvcHOrw0
童淵 ドウエン
字は雄付。荊州襄陽出身。槍の達人で、蓬莱槍神散人の異名を取った。張繍、張任、趙雲が三大弟子とされる。
出典は元曲(元代に流行した雑劇と散曲)。貂蝉、周倉、関索らと同じく、三国志演義成立より前に
民間で語り継がれる「物語としての三国志」の中で生まれた人物だが、彼らと違って演義には採用されなかった。
中国では近年ブラウザゲームなど影響で急速に人気・知名度が高まっているらしい。
統率:53 武力:87 知力:58 政治:21
5
:
名無しさん
:2024/07/21(日) 15:36:02 ID:1yvcHOrw0
高寿 コウジュ (生没年不詳)
統率:65 武力:79 知力:42 政治:22
孫韶配下の将。黄武四年(225年)、曹丕は先年に引き続き十万を率いて出兵し広陵に侵入したが、
河川の凍結のため船が使えず撤退を開始した。高寿は孫韶の命で決死隊五百名を率いて曹丕の帰路を奇襲し、
皇帝の副車と羽蓋を奪う戦果を上げた。
6
:
名無しさん
:2024/07/21(日) 15:37:41 ID:1yvcHOrw0
施明 シメイ
あるとき官物の盗難事件があり、兵士の一人であった施明に疑いがかかった。施明は強情な男で、拷問を受けても口を割ろうとしなかった。
孫権は陳表が兵士たちの心をつかんでいることから、施明を陳表に預けたところ、陳表は施明を手厚く待遇し、それに感激した施明は自分の罪を認め、共謀者たちの名を自白した。
孫権は陳表の手柄を喜び、また陳表が施明を騙したことにならぬよう、施明の罪を許しそれ以外の共謀者を処刑した。
施明はこれ以後行動を改めるようになり、後にはその勇猛さで将軍の位まで昇って活躍した。
7
:
名無しさん
:2024/07/21(日) 15:38:43 ID:1yvcHOrw0
張奕(ちょうえき)
呉末期の武将。
辺境の地である交州を守っていた身分の低い武将で、
呉の重臣であった楼玄が孫皓の怒りを買って交州に流された際、
楼玄は張奕の指揮下に入って賊討伐に従事し、一方で張奕は
楼玄暗殺の密命を受けていた。
しかし、楼玄の節度ある態度に心打たれた張奕は楼玄を殺す事が
出来ず、張奕が急死した後に楼玄は密命を知って自害した。
江表伝の記述では同じく楼玄の暗殺に躊躇するが、楼玄は張奕の生前に
密命を知り、張奕が持っていた自らを毒殺する為の薬を飲んで自害する
という結末となる。
統率:56武力:64知力:37政治:25魅力:61
8
:
名無しさん
:2024/07/21(日) 15:39:18 ID:1yvcHOrw0
吉太 称平 キッタイ ショウヘイ (? - 200年?)
演義の登場人物。洛陽の人。人々から吉平と呼ばれる後漢の名医。
董承の病を治すため献帝より差し向けられる。董承の寝言から曹操への害意を察すると暗殺計画に賛同する。
翌日、曹操の頭痛のため呼び出すと毒薬を隠し持って赴く。
しかし事前に計画が露見していたため捕えられ、拷問を受ける。最後は黙秘を貫いて自害した。
正史では太医令・吉本として登場。218年に許昌で乱を起こすも鎮圧された。
9
:
名無しさん
:2024/07/21(日) 15:40:03 ID:1yvcHOrw0
盧遜 ロソン (?-263年)
統率:69 武力:54 知力:66 政治:30
三国志演義に登場する南鄭関を守備する蜀漢の将。
魏の鍾会率いる蜀征伐軍の動きを早々に察知し、
関の前の木橋の左右に兵を潜ませ、連弩で魏の先鋒の許儀を撃退する。
逃げ戻った許儀の報告で、鍾会が数百騎を率いて攻め寄せてくると、
盧遜は連弩の一斉射撃で後退させ、五百の軍勢を率いて追撃する。
鍾会は逃げようとするが、橋のくぼみに馬の蹄がはまり込んで動けなくなり、
馬を棄て徒歩で橋を駆け下りようとした所に盧遜は追いつき槍で突こうとする。
その時、魏兵の中にいた荀ガイが放った矢が盧遜に命中して落馬、死亡する。
10
:
名無しさん
:2024/07/21(日) 18:20:31 ID:1yvcHOrw0
全緒 ゼンショ (生年208〜213年? 没年252〜257年?)
全琮の長子。若くして名を知られ鎮北将軍などに就く。
芍陂の戦いで魏軍を退け、東関の役で丁奉と謀り、魏を破るなど活躍した。享年四十四歳。
全氏 ゼンシ (生年242年頃? 没年301〜302年)
全尚の娘。従祖母の孫魯班に気に入られ、孫権への謁見時は常に伴に連れられた。
孫権の寵が潘夫人に向くと孫魯育の薦めで孫亮の夫人となる。孫亮即位後は皇后に引き上げられた。
太平3年(258年)、孫綝暗殺計画が露見したため、孫亮が廃立されると候官に住んだ。
密告者は全夫人とも全尚の妻(孫綝の姉)とも言われる。
呉が平定されると帰郷し、永寧年間(301〜302)に死去した。名は「恵解」か。
11
:
名無しさん
:2024/07/21(日) 18:21:14 ID:1yvcHOrw0
馬斉 承伯 バセイ ショウハク
統率:45 武力:30 知力:61 政治:65 魅力65
巴西郡ロウ中県の人。
張飛の功曹であったが、張飛によって劉備に推薦される。
郷里の人の信頼こそ姚チュウに及ばなかったが、心映えが良く、
自らの能力で出世し、諸葛亮死後に尚書に任命された。
馬勲 盛衡 バクン セイコウ
統率:44 武力:31 知力:62 政治:63 魅力66
巴西郡ロウ中県の人。
益州の書佐であったが、劉備が蜀を平定すると左将軍属に任命される。
郷里の人の信頼こそ姚チュウに及ばなかったが、心映えが良く、
自らの能力で出世し、後に州の別駕従事に転任した。
12
:
名無しさん
:2024/07/21(日) 18:22:54 ID:1yvcHOrw0
祖郎 ソロウ (生没年不詳)
丹陽郡陵陽の人。涇県を根拠地とした軍閥指導者。
孫堅死後、呉景の元にいた孫策は祖郎討伐を準備するが、襲撃を察知し先手を打って攻撃をかける。
その際に、孫策を単騎にまで追い詰めるも程普に阻まれ、最終的に孫策軍に敗走した。
建安二年(197年)、孫策が袁術と絶縁すると、袁術は祖郎や山越などに印綬を送り孫策を攻撃させようとする。
しかし、先に討伐に出た孫策軍と戦い、敗れて捕虜となる。
以後は許され配下となり、軍の帰還の際には太史慈とともに軍の先導役を務めた。
13
:
名無しさん
:2024/07/21(日) 18:24:12 ID:1yvcHOrw0
楊宗 ヨウソウ(?〜280年)
蜀の武将。蜀滅亡時に羅憲が永安城にて呉の侵攻を防いだ際に羅憲の配下として呉の包囲を突破して魏の陳騫の元へと援軍を求めるのに成功した。
後に晋に仕えて安蛮護軍となり、266年には巴東の南浦に侵攻した呉軍の撃退に成功し、その功で名目ながらも武陵太守に任じられて南浦に駐屯し、現地の蛮族を上手くまとめ上げた。
統率:71武力:67知力:70政治:62魅力:70
段灼 ダンシャク (生没年不詳)
魏・晋の臣。字は休然。敦煌の出身で、当初は鄧艾の部下であった。
後に議郎となり、267年に皇帝司馬炎に対して反逆者扱いで殺害された鄧艾の名誉回復を嘆願し、273年に鄧艾の名誉回復が叶って孫の鄧朗が取り立てられた。
統率:37武力:35知力:72政治:58魅力:65
14
:
名無しさん
:2024/07/21(日) 18:25:44 ID:1yvcHOrw0
張敞 チョウショウ (生没年不詳)
公孫康の配下。204〜220年の間、公孫康は屯有県の南の荒地に帯方郡を設置した。
張敞は公孫模と共に派遣され、その地の漢系移民を結集し韓やワイを討伐した。
その結果、他の移住民も少しずつ戻り、倭や韓は帯方郡に属するようになった。
15
:
名無しさん
:2024/07/21(日) 18:26:40 ID:1yvcHOrw0
宿舒 シュクジョ (生没年不詳)
公孫淵の配下の校尉。太和六年(232年)、呉が遼東の名馬を求め周賀らを派遣すると、
宿舒や孫綜らは公孫淵の命で貂や名馬を持ち周賀に同行し呉へと向かう。
途中の田豫の待ち伏せで周賀が討たれたが、宿舒らは無事に辿り着き、孫権に謁見して呉の藩国になりたいと申し出、名馬などを献上した。
喜んだ孫権は太常の張弥らを使者に一万の兵を連れさせ、宿舒らを帰還させた。
公孫淵がこの呉兵や財宝を得ようとすると、兵士は実際には七、八千人程度だと報告した。
王建 オウケン (?〜238年)
燕の相国。景初二年(238年)、公孫淵は司馬懿の討伐を受け籠城していたが、
襄平城の西南から東北に白い彗星が落ちたことで城内は大混乱に陥った。
公孫淵も大いに懼れたため、王建と御史大夫・柳甫が降伏の使者に立った。
しかし、降伏と言いつつ「攻囲を解き軍を後退させろ」という条件を提示したため、司馬懿によって皆斬られた。
司馬懿の檄によると老齢だったという。
16
:
名無しさん
:2024/07/21(日) 18:28:18 ID:1yvcHOrw0
劉恂 リュウジュン (?〜311?)
劉禅の六男。259年に新興王に封ぜられた。蜀滅亡後に幽州安楽県の安楽公となった父の劉禅より他の兄らを差し置いて後継者に指名されたが、
旧臣の文立らには反対されていた。劉禅の死後に安楽公となるが、道義を失う振る舞いが目立って旧臣らから度々諫言されていた。後に劉禅の一族は永嘉の乱に巻き込まれて死亡した。
統率:3武力:7知力:5政治:6魅力:4
劉林 リュウリン 生没年不詳
劉封の子。父が処刑された際に罪に連座せず、後に牙門将に任じられた。蜀の滅亡後は河東に移住した。
統率:57武力:54知力:36政治:42魅力:51
17
:
名無しさん
:2024/07/21(日) 18:29:36 ID:1yvcHOrw0
檀石槐(だんせっかい) 生133-139年 〜 没178-184年 あたりにか
統率:90 武力:85 知力:72 政治:64
鮮卑の大人。一代で広大なモンゴル高原を統一した鮮卑の英雄。
後漢朝廷をあいてに連戦連勝。45才で亡くなるまで脅威を与え続けていた。
18
:
名無しさん
:2024/07/21(日) 18:30:18 ID:1yvcHOrw0
禿髪樹機能(とくはつじゅきのう)
統率:85 武力:82 知力:51 政治:32
鮮卑の禿髪部の族長。三国時代末期に涼州を荒らし回り、晋の皇帝・司馬炎をして「蜀・呉よりもやっかい」と言わしめた。
270年、反旗を翻すと涼州に攻め込み、胡烈、牽弘を相次いで討ち取った。
司馬炎は衛瓘、文鴦を派遣して鮮卑を討伐し、樹機能も277年にいったんは降伏。2年後に再び反逆したが晋の馬隆によって打ち破られ、禿髪部の10年近い反乱は鎮圧された。
19
:
名無しさん
:2024/07/21(日) 18:31:11 ID:1yvcHOrw0
石徳林(せきとくりん)
統率:3 武力:2 知力:45 政治:39
現代の「素寒貧」という言葉の語源であるとも。
若い頃は学問に励んでいたが、方術に興味を持ち、そのことから隠遁することを始めた。
20
:
名無しさん
:2024/07/21(日) 18:32:24 ID:1yvcHOrw0
周処(しゅうしょ)字は子隠(しいん)
統率:78 武力:80 知力:70 政治:72
呉、次いで晋に仕えた将軍。周魴の子。京劇「周処除三害」として知られる。若い頃は無頼漢で乱暴狼藉を働き人々に恐れられた。
あるとき、周処は長老に「今年は平和で豊作だったのになぜ村人は喜んでいないのか」と尋ねた。すると長老は「南山の虎、長橋の蛟、そしてお前の三害が無くならない限り、喜ぶことはない」と答えた。周処はそれを聞くと、三日三晩の格闘の末、川に流されながらも虎と蛟を殺した。村人たちは周処も死んだと思い、三害が一度に除かれたと喜んだ。
無事に帰った周処はどれだけ自分が憎まれていたか悟り、ようやく改心した。呉滅亡後、晋でも頭角を現し、太守を歴任して多くの業績を上げた。
296年、斉万年が反乱を起こすと、周処は夏侯駿の副将として討伐を命じられた。夏侯駿はかつて周処が弾劾した人物であり、親しい人々はこれは罠だからと辞退するよう勧めたが、周処は
「忠と孝の両方を全うすることはできない。今こそ私の死に時なのだ」と断り、出陣した。はたして周処はわずか5千の兵で、7万の敵と戦うこととなった。斉万年は「周処が大将なら勝ち目はないが、副将であれば生け捕るまでだ」と喜んだが、周処は奮戦の末に1万もの敵を討ち取ったうえで戦死を遂げた。
21
:
名無しさん
:2024/07/21(日) 18:44:38 ID:1yvcHOrw0
張益(ちょうえき)
統率:84 武力:89 知力:30 政治:20
全相平話三国志の登場人物。劉璋配下の猛将。
演義以上に荒唐無稽な平話において、特に超人的な強さを持つ張飛を相手に一騎討ちで1000合打ち合うこと互角の豪傑。
22
:
名無しさん
:2024/07/21(日) 18:45:15 ID:1yvcHOrw0
張牛角 ちょうぎゅうかく
盗賊団の首領。黄巾の乱に呼応(便乗?)して博陵で仲間を集めて兵を上げ、将兵従事と自称した。
同じく黄巾の乱時に決起した褚燕(張燕)率いる盗賊団と合流。張燕によって頭目に推し立てられた。
エイ陶を攻撃した際に流れ矢にあたって死亡。いまわの際に「必ず褚燕を頭目にせよ」と言い残した。
褚燕は後を継ぎ、姓を張と改めた。なお、張牛角は黒山賊の初代首領、張燕と共に黒山賊を組織したとも書かれる
こともあるが、厳密に言えば、黒山賊と号したのは張牛角の死後、張燕率いる盗賊団が諸山谷の賊徒とよしみを通じ、
軍勢が百万に達した後のことである。
統率:74 武力:82 知力:41 政治:28 魅力:66
23
:
名無しさん
:2024/07/21(日) 18:46:47 ID:1yvcHOrw0
宗宝 ソウホウ (?〜192年?)
統率:55 武力:68 知力:22 政治:32
演義の登場人物。孔融配下の武将。初平二年(192年)頃、黄巾残党の管亥が数万を率いて北海城に押し寄せると孔融と共に出陣する。孔融に罵倒された管亥が突撃してくると迎撃に向かったが、数合で斬られ落馬した。
桓治 カンチ (?〜226年?)
統率:65 武力:73 知力:52 政治:40
士燮、士徽の武将。交趾の人。弟の桓鄰は士燮に取り立てられ吏となる。黄武五年(226年)に士燮が没すると、後継の士徽は交州刺史として呉から派遣された戴良の着任を阻む。桓鄰がそれを強く諌めると士徽に殺された。桓治はその仇を討つため甥の桓発と共に士徽を攻めたが、堅く守られたため数か月たっても降せずついに和睦した。そのすぐ後、呂岱の騙し討ちによって士徽兄弟が謀殺されると、士徽の将であった甘醴と共に官民を率いて呂岱に攻撃をかける。しかし、呂岱の奮戦で返り討ちに遭い撃破された。
24
:
名無しさん
:2024/07/21(日) 18:47:18 ID:1yvcHOrw0
胡母班 季皮 コボハン キヒ (?〜189年) (姓が胡母)
後漢の執金吾。太山郡の人。若い頃は任侠の人で張バクらとともに「八厨」と呼ばれた。
反董卓連合が結成されると、連合の解散を命じた詔書と共に董卓から派遣され、河内太守の王匡の元に赴いた。
胡母班は王匡の妹を娶った親類であったが、王匡は袁紹の命に逆らえず胡母班を捕えて殺した。
後に王匡は胡母班の遺児と曹操によって殺された。
『捜神記』によると若い頃、泰山府君や河伯(水神)に招かれ会ったことがあるという。
25
:
名無しさん
:2024/07/22(月) 18:35:39 ID:SgnGki8I0
文立 ブンリツ 生没年不詳
蜀・魏・晋の政治家。字は広休。巴郡臨江の出身でショウ周に師事し、顔回になぞらえられた。
費イに見いだされて蜀に仕えて尚書まで登り、蜀の滅亡後は梁州別駕従事となった。
晋の成立後は済陰太守や太子中庶子となって、旧蜀の人材を始め数多くの人材を推挙し、
忠実清廉な人柄で知られた。劉禅が安楽公の後継に六男の劉恂に決めた際には反対したが、聞き入れられなかった。
咸寧年間の末期(280年頃)に死去した。
統率:39武力:32知力:78政治80魅力:83
26
:
名無しさん
:2024/07/22(月) 18:36:49 ID:SgnGki8I0
李密 リミツ (224〜287)
蜀・晋の政治家。字は令伯。蜀の牛建為郡武陽縣の出身で幼少時に父を失い、母は再婚した為に祖母の劉氏の元で育てられた。
蜀においては従事尚書郎・大将軍主簿・太子洗馬を歴任し、呉の孫権の元へ使者として赴いた際には「人の兄となるよりも弟になった方が良い」と主張する
孫権に対し、李密は人の兄である方が親の面倒を長く見れると反論した。
蜀滅亡後は司馬炎に招かれたが、九十歳を超える祖母の面倒の為に応じることが出来ず、
その事を上奏した「陳情事表」を表し、これに感心した司馬炎は州県に李密と祖母を手
厚く保護するように命じた。
祖母の死後に晋に仕えて晋皇室所縁の温県令として治績を挙げたが、張華に疎まれて
漢中太守に左遷され、後に蜀を賛美した疑いで職を失った。
しかし、後に大中正として復帰し官吏の人選に関与した。
統率:35武力:39知力:76政治:71魅力:80
27
:
名無しさん
:2024/07/22(月) 18:37:54 ID:SgnGki8I0
何攀 カハン (244?〜301)
蜀・魏・晋の政治家。字は恵興。蜀郡の出身で、蜀においては若くして郡主簿・上計吏となり州に招かれて従事になった。
蜀の滅亡後は益州刺史皇甫晏により王佐の才があるとして主簿に抜擢され、後に王濬が益州刺史となった際には王濬の命で呉攻略の為の軍船建造に従事し、さらに洛陽に赴いて呉攻略の作戦を献策した。その事が認められて郎中及び王濬の参軍事に任じられ、当時の司空である裴秀の娘を妻とした。
呉討伐後は関内侯に封ぜられ、太傅楊駿の殺害に功績を挙げて東羌校尉・揚州刺史を歴任した。
統率:64武力:56知力:89政治:84魅力:77
28
:
名無しさん
:2024/07/22(月) 18:38:28 ID:SgnGki8I0
費立 ヒリツ 生没年不詳
蜀・晋の政治家。費詩の子。蜀の牛建為郡南安県の出身で、蜀の滅亡後はあらぬ噂を立てられて再仕官できずに
不遇の身であったが、同じ蜀の旧臣である何攀の弁護によって晋に仕官し、散騎常侍にまで出世した。
後に名声を得た牛建為郡の費姓の人物達は費立の子孫であると伝わる。
統率:27武力:30知力:63政治:58魅力:64
29
:
名無しさん
:2024/07/22(月) 18:39:40 ID:SgnGki8I0
李驤 リジョウ 生没年不詳
蜀・晋の政治家・学者。字は叔龍。梓潼郡フ県の出身で、蜀で尚書僕射を務めた李福の子。
ショウ周に師事し、同門の陳寿と親しかった。238年に父が死去した際に家督を継ぎ、孝廉に挙げられて尚書郎・建平太守となり、程なくして病気で辞職するが後に広漢太守となる。
蜀滅亡後は陳寿と仲違いし、陳寿が晋への李驤の仕官を妨害したとされて郷里に帰ったが後に尚書郎となり同じ尚書郎の杜軫と共に「二郎」と称された。
統率:27武力:15知力:68政治:60魅力:57
30
:
名無しさん
:2024/07/22(月) 18:40:44 ID:SgnGki8I0
羅尚 ラショウ 生没年不詳
羅憲の兄・羅式の子。字は敬之。幼少の頃に父を失って叔父の羅憲を頼った。晋に仕えて荊州刺史・王戎の参軍を務め、太康年間の末年には梁州刺史となる。
300年の益州刺史趙キンの反乱にて平西将軍・益州刺史に任じられて鎮圧に赴いた。
その後は趙キンに属していた李特と争い、成都にて策略で李特を追いつめた末に殺害し、その後は李特の子である李雄と争うが、急死した。蜀の人々からは鎮圧に赴く前から貪欲で決断力の無い人物と酷評されており、反乱を起こした趙キンの方がまともであるとまで云われた。
統率:72武力:64知力:75政治:43魅力:18
費恭 生没年不詳
蜀・晋の政治家。費イの次男。劉禅の娘を妻とし、蜀滅亡後の268年に羅憲によって他の蜀旧臣と共に推挙され、尚書郎となるが早世した。
統率:25武力:21知力:56政治:61魅力:60
31
:
名無しさん
:2024/07/22(月) 18:42:01 ID:SgnGki8I0
李球 リキュウ ?〜263年
蜀の武将。李恢の甥で、羽林右部督を務めた。263年の鄧艾率いる魏軍の侵攻に対して諸葛瞻や張遵、黄崇らと共に綿竹で抵抗したが、戦死した。
※三国志Ⅸの能力値を参考にもう少し抑えめに
統率:60武力:63知力:55政治:48魅力:56
32
:
名無しさん
:2024/07/22(月) 18:44:01 ID:SgnGki8I0
向充 ショウジュウ ?〜?
蜀の軍人・政治家。向寵の弟で、射声校尉・尚書を歴任した。
蜀の滅亡後は魏・晋に仕えて梓潼太守となる。
統率:55武力:46知力:56政治:63魅力:58
向条 ショウジョウ ?〜?
蜀の軍人・政治家。字は文豹。向朗の子で、博学多識であった。
父の死後に爵位を継ぎ、景耀年間に御史中丞になった。晋の時代には江陽太守、南中軍司馬となる。
統率:53武力:28知力:71政治:65魅力:62
33
:
名無しさん
:2024/07/22(月) 18:45:02 ID:SgnGki8I0
鄭玄 康成 ジョウゲン(テイゲン) コウセイ (127年〜200年)
後漢の儒学者。北海郡高密県の人。身長八尺で容姿の優れた偉丈夫。郷里の小役人を務めつつ学問に打ち込んだ。
その後、太学へ進み第五元先、張恭祖に講義を受け、盧植と共に馬融に師事した。
家に戻ると大勢の弟子を教えていたが党錮の禁が起こると門を閉ざし儒学に専念した。
何進や袁紹から招かれることもあったが長居はしなかった。192年、青州で黄巾の残党が乱を起こすと徐州に避難。
建安元年(196年)に帰還し、途中で黄巾賊に遭遇したが崇拝されて危害を受けなかった。
建安五年(200年)に死期を悟り、薄葬を遺言して六月に死去した。
当時の儒教のほとんどの書籍に注を作成しており、また自らも多くの著作を残した。
主な弟子はチ慮、王基、崔エン、孫乾などで、劉備にも学問を教えている。
ちなみに息子の鄭益は、192年に黄巾残党が孔融を包囲すると、推挙された恩に報いるために救援に向かい殺された。
34
:
名無しさん
:2024/07/22(月) 18:48:21 ID:SgnGki8I0
苟安 コウアン ?〜?
蜀・魏の武将。三国志演義の創作人物。李厳配下の都尉で諸葛亮の北伐の際に李厳が兵糧の輸送を任された際、実際に兵糧を送る役目を担っていたが、酒に浸って輸送が遅れて諸葛亮の怒りを買い、処刑されそうになるが、李厳の反発を考慮した楊儀の進言によって罰棒80回に減じられた。
しかし、その後に苟安は魏に降った上に司馬懿の命で諸葛亮が謀反を企てていると朝廷の宦官らに吹聴する任務を行い、これを信じた劉禅は諸葛亮に帰還命令を出してやむなく成都へ戻った。実在の蜀将である句安とは別人。
統率:25武力:45知力:35政治:27魅力:13
謝雄 シャユウ ?〜229年
蜀の武将。三国志演義の創作人物。北伐での陳倉城攻略の際に魏の先鋒である王双の軍を迎え撃ったが、あっさりと王双に討たれた。
統率:54武力:66知力:30政治:27魅力:48
35
:
名無しさん
:2024/07/22(月) 18:49:15 ID:SgnGki8I0
爨習 サンシュウ ?〜?
蜀の武将。南中の豪族。建寧郡の有力な豪族として劉璋の時代には建伶県長を務めていたが、不法な振る舞いが多かった事で同じ建寧郡の名士で妻の甥である李恢も連座する危機に立たされたが、董和の取り成しによって事なきを得た。
後に劉備に属して劉備死後は孟獲らと共に反乱を起こしたが、諸葛亮の討伐軍により降伏、蜀に仕えて行参軍・偏将軍となり最後は領軍になった。李厳罷免の際にも名を連ねている。
統率:68武力:64知力:43政治:48魅力:45
36
:
名無しさん
:2024/07/22(月) 18:57:21 ID:SgnGki8I0
李穀 リキ ?〜306年
晋の武将。字は允剛。広漢郡三台の出身で、蜀に仕えた李朝の孫。
王濬によって見いだされて主簿となり、274年に張弘が益州刺史皇甫晏を殺害した際は
王濬に張弘の討伐を進言し、その功積によって州の主簿・別駕となった。
呉征伐では王濬の参軍として従軍、戦後に関内侯・雲南太守となり、王濬の死後は南夷校尉となった。
306年に牛建為で反乱が起きた際は寧州刺史として討伐にあたったが、反乱軍に拠点を包囲され、程なくして城中にて死去した。
統率:67武力:65知力:76政治:64魅力:68
37
:
名無しさん
:2024/07/22(月) 18:57:56 ID:SgnGki8I0
梁鵠 孟黄 リョウコク モウコウ (生没年不詳)
後漢、魏の書家。安定郡烏氏県の人。後漢有数の書家・師宜官(シギカン)は字を書くと
いつも簡札を削ったり焼いたりして書体を秘密にしていたが、梁鵠は彼を酒に酔わせて簡札を盗み、書法を研究した。
選部尚書の官にあるとき洛陽令を望んでいた曹操を洛陽北部尉に任命する。
乱がおこると荊州に避難していたが、曹操が荊州を得ると賞金付きで捜索令が出された。
恐れた梁鵠は自縛して出頭したが、曹操は彼を秘書に登用し、彼の書をいつも手元に置き愛玩した。
魏の宮殿の題字はすべて梁鵠の手によるものだという。
ちなみに烏氏県の梁氏なので梁冀と同族と思われる
38
:
名無しさん
:2024/07/22(月) 18:58:43 ID:SgnGki8I0
孔桂 淑林 コウケイ シュクリン (?〜220年)
涼州天水郡の人。楊秋配下。建安初期(196年〜205年頃?)、楊秋の使者としてたびたび曹操のもとに派遣され騎都尉に任命される。
媚びへつらいが得意なほか、博奕や蹴鞠が上手だったため、曹操に気に入られいつもお供をしていた。
孔桂は曹操の機嫌の良い時をみはからい話のついでに提案を述べたため、その意見の多くは採用され、また金品も多く得た。
曹丕や諸侯らとも親交を得て贈り物も多く得ていたが、曹操の態度から後継は曹植であろうと推察し、曹丕との関係は疎遠にして曹植に接近した。
その後、曹丕が即位してもまだ断罪しなかったが、黄初元年(220年)、西域から賄賂を受け取り、人事問題に便宜を図ろうとしていたことが発覚したため処刑された。
39
:
名無しさん
:2024/07/22(月) 18:59:21 ID:SgnGki8I0
孟他 伯郎 モウタ ハクロウ (生没年不詳)
扶風郡の人。孟達の父。孟他は権力を握っていた中常時・張譲に取り入るために一計を案じる。
彼は張譲の家の家事を取り仕切っていた奴隷頭をはじめとする奴隷たちに家財を傾けて賄賂を贈った。
奴隷頭が「何をお望みなのか」と聞くと「ただあなた方の拝礼のみ」と答えた。
張譲の屋敷の門は常に来客で溢れていたが、孟他が到着すると奴隷たちによって丁重に屋敷に通されたため、
来客たちは彼が張譲と親しい間柄だと考え、互いに競って多くの贈り物をした。
孟他はその贈り物をすべて張譲に贈ったため張譲に喜ばれた。また一石の葡萄酒を贈ると即座に涼州刺史を拝命した。
40
:
名無しさん
:2024/07/22(月) 22:02:50 ID:SgnGki8I0
蔡方 サイホウ (?〜225年?)
青州?利成(利城)郡の兵士。黄初六年(225年)六月、蔡方は仲間たちとともに郡を挙げて魏に反乱を起こした。
また、太守の徐箕(徐質)を殺害すると唐咨を頭目に立てた。
曹丕は校尉の任福、段昭を派遣し、青州刺史・王凌と協力させこれを平定させた。
蔡方の最期は不明だが、唐咨は呉へ逃亡した。
41
:
名無しさん
:2024/07/22(月) 22:04:45 ID:SgnGki8I0
郭脩(循) 孝先 カクシュウ コウセン (?〜253年)
統率:42 武力:63 知力:22 政治:25
魏の中郎。西平郡の人。姜維が西平郡へ侵入した際(249年か)、捕えられて蜀に連れて行かれた。
蜀では左将軍に任命されたという。郭脩は蜀に降った後、劉禅暗殺の機会を常々狙っていたが、容易に接近できずにいた。
そこで暗殺対象を大将軍の費イに変え、253年の酒宴で彼がしたたかに酔ったところを刺殺した。
42
:
名無しさん
:2024/07/22(月) 22:07:09 ID:SgnGki8I0
盧氏 ロシ (?〜194年?)
張衡の妻。張魯の母。年を経ても若い頃の容姿であった。
190年頃、劉焉が益州牧として赴任すると巫術師として劉焉の屋敷に出入りした。こうした縁もあってか、
益州での独立を図る劉焉は、張魯を督義司馬に任命すると漢中を攻略させ漢との連絡を断ち切らせた。
194年、劉焉が没すると子の劉璋が後を継いだが、劉璋が惰弱であったため張魯は命令に従わなくなった。
そこで劉璋は(恐らく成都で人質になっていた)張魯の母や弟を殺した。
正史には姓の記載はなく「盧氏」は道教書が出展。
また、『歴世真仙体道通鑑』によると光和二年(179年)正月二十三日に夫とともに陽平山で道術を会得し、羽化昇天で仙人になったという。
43
:
名無しさん
:2024/07/22(月) 22:18:17 ID:SgnGki8I0
応余 子正 オウヨ シセイ (?〜218年)
南陽の人。生来、剛毅で義に篤い性格であった。建安二十三年(218年)、南陽郡の功曹となる。
当時、関羽が樊城を攻め南陽郡はその後方支援を行っていたが、その賦役が重かったため宛の大将・侯音が反逆した。
応余は宛太守の東里袞とともに宛を脱出したが、侯音が追撃に出した騎馬隊に追いつかれてしまう。
東里袞めがけて矢が射かけられると応余は身を盾にして守り、敵追撃隊に向かって
「侯音はすぐに破滅する、善へ立ち戻れ!わしは死ぬが主が生き残ることができれば悔いはない!」と言い放った。
敵は応余の気迫と忠義に感嘆し東里袞らを見逃した。敵が去ったのちに応余は絶命した。
応余の死後、彼の事跡は曹仁、曹操、曹髦らによって称えられた。
44
:
名無しさん
:2024/07/22(月) 22:18:48 ID:SgnGki8I0
董奉 君異 トウホウ クンイ (生没年不詳)
揚州会稽郡侯官県の人。仙人であり医師。妻は豫章郡内の県令・丁士彦の娘。
交州刺史の士燮が病死してから三日後、交趾にいた董奉は丸薬と水を士燮に飲ませ頭を揺すったところ、彼は蘇生し数日で回復した。
その後、一年ほど滞在したが死んだふりをして旅立ち、豫章郡へ帰って盧山のふもとに居を構えた。
董奉は患者から金銭は受け取らず、ただ自宅の周りに杏の苗を植えさせたため、数年で杏林が出来上がった。
医師の別称の「杏林」はこの故事に由来する。この杏林には虎が棲みつき、董奉一家を守護した。
董奉は人間界にいること三百年、容姿は三十代から変化しなかったという。
45
:
名無しさん
:2024/07/23(火) 18:56:26 ID:K3R2DxrA0
裴茂 巨光 ハイボウ キョコウ (生年?〜没年226-239年?)
統率:74 武力:56 知力:55 政治:76
司隷河東郡聞喜県の人。裴潜の父。裴秀の祖父。名家の出で、県令、郡守、尚書、尚書令を歴任した。
初平四年(193年)、長雨が二十日余り続いたため、献帝の勅により裴茂が使者となって罪科の軽い者を赦免した。
この中には李傕によって捕えられた無実の者もおり、李傕は裴茂の逮捕を上奏したが献帝は拒絶した。
建安二年(197年)、謁者僕射・裴茂は段煨ら関中諸将を率いて李傕を討伐し三族を皆殺しにした。この功によって列侯に取り立てられた。
建安十九年(214年)、献帝は魏公・曹操の位を諸王より上位に置き、赤いひもを付けた金璽、遠遊冠を下賜し、その使者に裴茂が使わされた。明帝の時代に死去した。
46
:
名無しさん
:2024/07/23(火) 18:57:09 ID:K3R2DxrA0
去卑 キョヒ (生没年不詳)
統率:68 武力:66 知力:52 政治:64
匈奴の右賢王。興平二年(195年)、於夫羅の死後、呼廚泉が単于に立つと叔父である去卑は右賢王となった。
同十一月、献帝が長安から脱出し洛陽へ向かう際に、楊奉らの招きで護衛に就く。
李カクらと一進一退の攻防を繰り広げたのち、追っ手を振り切って安邑まで辿り着く。
その後は献帝を許県まで送ると河東郡平陽に帰還した。
建安二十一年(216年)7月、去卑の勧めもあって単于・呼廚泉が漢に入朝しギョウに留め置かれると、去卑が代わりに南匈奴諸部を監督した。
47
:
名無しさん
:2024/07/23(火) 18:59:30 ID:K3R2DxrA0
徐胤 ジョイン (生没年不詳)
統率:72 武力:23 知力:61 政治:52
晋の武将。泰始五年(269年)、羊祜が都督荊州諸軍事として襄陽(?)に赴任するとその軍司(軍監・戦目付)となる。
軍中での羊祜はいつも軽装で鎧もつけず、護衛も十数人で狩りや釣りを好んだ。
あるとき羊祜が夜中に外出しようとすると、徐胤は割符を手に営門に立ちはだかって「万里を統括する御方が、軽装で出掛けて良いものでしょうか!
今日、私が死なない限りこの門は開きませんぞ!」と言った。すると羊祜は謝罪し外出も稀になった。
その後、羅憲の後任で巴東監軍として益州へ赴任する。
泰始八年(272年)の西陵の戦いでは、歩闡を救援するため羊祜は江陵へ、楊肇は西陵へ、徐胤は水軍を率いて永安方面から建平郡へ進軍した。
陸抗は水軍督・留慮と鎮西将軍・朱琬を派遣し徐胤を防いだ。楊肇が敗れると(おそらく)徐胤も撤退した。
48
:
名無しさん
:2024/07/23(火) 19:00:26 ID:K3R2DxrA0
周不疑 元直 シュウフギ ゲンチョク (194年?〜208年?)
統率:32 武力:19 知力:83 政治:60
荊州零陵郡の人。劉先の甥。幼くして異才があり、聡明で理解力に優れた。
劉先は彼の師を劉巴に依頼したが「甥御の教師として、自分は力不足である」と辞退した。
建安九年(204年)、曹操が面会すると娘を嫁がせようとしたが断ったという。
建安十二年(207年)、烏丸征伐の際の柳城攻略に手間取った曹操は、絵図を書き周不疑に計略を訪ねると十通りの策を献策した。
曹操がこれを用いると柳城はすぐに陥落した。
曹操はもともと曹沖の友として周不疑が釣り合うと考えていたが、曹沖が死ぬと「他の息子では制御できまい」と考え刺客をやって殺した。
49
:
名無しさん
:2024/07/23(火) 19:01:23 ID:K3R2DxrA0
鄧展 文穎(古今圖書集成より) トウテン ブンエイ (生没年不詳)
統率:51 武力:67 知力:63 政治:41
魏の奮威将軍。南陽の人。建安十八年(213年)、魏公就任をたびたび辞退する曹操に対して、
拝命を勧める群臣の中に鄧展も名を連ねている(劉展の誤字で)。
また、鄧展は矛や戟など五種の長柄武器に精通し、無手であっても白刃の中で戦えるといわれた。
あるとき曹丕、劉勳らと酒の席で撃剣の議論をしている際に、曹丕と意見が対立して試合で武法の是非を証明することとなった。
戯れの試合であったため干蔗(砂糖キビ)の剣で戦ったが、二回とも曹丕に完敗した。
鄧展は武だけでなく、『漢書』の注釈を残しており、「鄧展曰く」の注が現在でも残っている。
また『孝子傳』に、蚊の多い季節に窓の下で眠る父母のため、床に伏せて蚊を自分に吸わせた、という逸話がある。
50
:
名無しさん
:2024/07/23(火) 19:02:34 ID:K3R2DxrA0
宋建 ソウケン (?〜214年)
統率:65 武力:70 知力:44 政治:32 (統率以外Ⅷの宋揚に準拠)
涼州隴西郡の人。別名に宋揚? 涼州の独立勢力の主。
中平元年(184年)冬、北地郡の羌族や枹罕、河間の群盗は北宮伯玉、李文侯らを将軍に立てて反乱を起こした。
宋建も王国と共に賊軍に加わり、金城太守・陳懿を殺害。辺章・韓遂を拉致し、無理やり頭目に擁立した。
反乱軍は、張温や董卓ら討伐軍との戦いでも優勢であったが、流星を不吉に感じ金城に撤退した。
その後、宋建は隴西郡の枹罕県で河首平漢王を自称し、改元や百官を設置して国家として三十年ほど自立した。
建安十九年(214年)冬十月、曹操から派遣された夏侯淵、張コウらに包囲を受け、一ヶ月余りで陥落し、配下共々斬られた。
51
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名無しさん
:2024/07/23(火) 19:03:23 ID:K3R2DxrA0
成済 セイサイ (?〜260年)
統率:31 武力:68 知力:19 政治:17 (統率以外はⅧのステータスに準拠)
魏の太子舎人。兄に成倅。甘露五年(260年)五月七日、司馬昭の専横に対して、魏帝・曹髦は下僕など数百人を連れて決起した。
司馬昭側は王業、王沈から密告を受けていたが、東止車門で遭遇した司馬チュウ勢は一喝され敗走。
賈充も南闕門で曹髦を迎撃したが部隊が逃げ腰になり劣勢となる。
成済は賈充に「如何すべきか」と問うと、賈充は「お前たちを養ってきたのは今日のためだ!後から咎めたりしない!」と答えた。
そこで成済は前進し曹髦を刺殺した。しかし、事態が収まると成済は皇帝弑殺の大罪人として罪を押し付けられ一族諸共処刑された。
52
:
名無しさん
:2024/07/23(火) 19:05:31 ID:K3R2DxrA0
劉寵 リュウチョウ (?〜197年)
統率:57 武力:77 知力:34 政治:54
漢の陳王。後漢二代皇帝・劉荘の玄孫。熹平二年(173年)、国相の師遷から「天神を祭り、即位の野望あり」と弾劾される。
しかし、霊帝が誅殺を躊躇い、結局不問とされた。劉寵は弩が得意で、十発射れば十発とも同所に命中した。
中平元年(184年)、黄巾の乱により郡県はみな城を捨て逃亡したが、劉寵は強弩数千を揃えて都亭に駐屯した。
陳国の人は劉寵の武威を恐れて反乱に加わらず、そのため十万人が他から避難してきた。
反董卓連合時は陽夏県に駐屯し輔国大将軍を自称。後に袁術が兵糧を求めてきたが、これを断ったため刺客に殺された。
53
:
名無しさん
:2024/07/23(火) 19:06:24 ID:K3R2DxrA0
駱俊 孝遠 ラクシュン コウエン (?〜197年)
統率:51 武力:42 知力:62 政治:68
揚州会稽郡烏傷県の人。駱統の父。文武の才を有し、若くして郡吏となる。
孝廉に挙げられると尚書郎に就き、後に(師遷の誅殺で空いた)陳国の相(宰相)に遷った。
当時、袁術の僭称や袁兄弟の争いで天下が混乱し多くの賊が跋扈した。
そのため駱俊は武威を増強し、国境警備に重点を置いて賊を防いだ。
国内では百姓を養い助け、また災害も起きず作物の実りも豊かだった。
建安二年(197年)、飢餓にあった袁術軍が兵糧の提出を求めてきたが、袁術を不快に思っていた駱俊はこれを無視する。
これに怒った袁術は刺客を放って駱俊を殺した。陳国の人は父母を亡くした時のように哀しんだという。
54
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名無しさん
:2024/07/23(火) 19:07:30 ID:K3R2DxrA0
司馬駿 子臧 シバシュン シゾウ (232?年〜286年)
統率:83 武力:52 知力:73 政治:62
晋の扶風王。司馬懿の七男で母は伏夫人。孝行で学問を好み、文筆に優れた。曹芳即位時は散騎常侍・侍講となる。
その後は各地の都督を歴任し、任地では農業を推し進めた。晋朝成立後は汝南王となる。
泰始四年(268年)に丁奉が芍陂に侵攻すると司馬望と共に撃破した。
270年に都督雍涼等州諸軍事に昇進し、免官となった兄・司馬亮の代わりに関中を守備。
咸寧元年(275年)に羌族の樹機能の反乱を鎮圧し、277年に再び背くと平虜護軍・文俶を派遣しこれを鎮めた。
この年に入朝し扶風王に遷る。讒言により司馬攸が領国行きとなると武帝を強く諌めた。
55
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名無しさん
:2024/07/23(火) 21:59:21 ID:K3R2DxrA0
劉淵 元海 リュウエン ゲンカイ (251-253年〜310年)
統率:80 武力:87 知力:78 政治:75
匈奴単于、漢皇帝。并州新興郡の匈奴。劉豹の子で母は呼延氏。幼くして学を好み、また武芸にも秀でて弓を得意とした。
咸熙中(264年頃)に人質として洛陽に送られる。王渾・王済親子とは親しく付き合い、司馬炎に謁見すると高く評価された。
父が死ぬと左部帥を継ぎ、後に匈奴五部全体の都督として十年間部族を治めた。
八王の乱では、ギョウで司馬穎の配下として活躍したが、機を見て胡地に帰還し永興元年(304年)に漢王に即位。
司馬騰などを破り并州を制圧して皇帝に即位した。生前に洛陽攻略こそ果たせなかったものの、後の前趙の基盤を築いた。
56
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名無しさん
:2024/07/23(火) 22:01:46 ID:K3R2DxrA0
曹志 允恭 ソウシ インキョウ (?〜288)
統率:31 武力:53 知力:72 政治:32
曹植の末子。若くして学を好み、騎射に優れ、才能と品行を称えられた。
曹植から「家をよく保全する者」として後継に立てられ、父の死後に王位を継ぐ。
甘露五年(260年)の曹髦の死後、次期皇帝・曹奐を迎える使者として鄴に派遣される。
その前夜に司馬炎と会見したが、翌日まで語り合い高く評価された。
晋建国後は鄄城公に立てられ、各地の太守を歴任したが政務にはあまり熱心ではなかった。後に博士祭酒に遷る。
司馬攸の領国行きの件では父の不遇を思い起こし強く諌めたが、これが武帝の怒りに触れて免職となる。後に散騎常侍に復した。
57
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名無しさん
:2024/07/23(火) 22:03:08 ID:K3R2DxrA0
何夔 叔龍 カキ シュクリュウ (?〜220年頃?)
統率:65 武力:47 知力:73 政治:77
豫州陳郡陽夏県の人。子に何曾。八尺三寸の偉丈夫で慎みと威厳のある容貌だった。
戦乱を避け淮南に避難したが袁術に引き留められる。何?は袁術への協力を拒み山中に隠れたが、親戚にあたるため見逃された。
建安二年(197年)、秘密裏に袁術の勢力圏からの脱出し、曹操の属官として召し出された。
後(199年頃)に地方に出て青州の長広郡の太守を勤め、その地で跋扈する賊を説得や討伐によって鎮圧した。
魏が建国されると太子・曹丕の少傅(もりやく)に就いた。
何夔は正道を重んじたが、倹約の時代にあってもっとも贅沢をしていた。諡は靖侯。
58
:
名無しさん
:2024/07/23(火) 22:04:19 ID:K3R2DxrA0
邢顒 子昂 ケイギョウ シコウ (?〜223年)
統率:12 武力:23 知力:60 政治:75
冀州河間郡鄚県の人。孝廉に推挙され司徒に招聘されたが行かず、右北平で田疇の客となった。
建安十年(205年)、曹操が冀州を平定すると故郷に戻り、柳城遠征の先導を志願した。
後に冀州従事や各地の県令を歴任し、徳行や法律制度の通暁を称えられた。また、任地では農業養蚕を勧め教化が行き渡った。
後に曹植の家丞に取り立てられたが、礼を持って取締り言いなりにならなかったため曹植から疎んじられた。
後継に悩む曹操から質問を受けると、嫡子の正統を説き曹丕の太子少傅となった。
曹丕が即位すると侍中・尚書僕射となり関内侯を賜った。
59
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名無しさん
:2024/07/23(火) 22:05:58 ID:K3R2DxrA0
楊豊 伯陽 ヨウホウ ハクヨウ (?〜240年頃?)
統率:56 武力:78 知力:65 政治:23
涼州酒泉郡の人。幼名を阿若。若い頃から侠客で仇討の代行を生業とした。
当時の人からは「東市で相い斬る楊阿若、西市で相い斬る楊阿若」と称された。
建安年間、一族の報復として黄昂が酒泉郡を攻撃した。
これを不義と感じた楊豊は、張掖に救援を求めたが張掖でも反乱が起こり、二郡から賞金首として狙われる。
楊豊は単騎で南羌に入ると千人ほどを手に入れ、大軍に見せかけ賊を散らし、黄昂を捕えて斬った。
220年、同族の黄華が郡を支配すると逃れたが、蘇則の活躍で帰還する。
州から義と勇と上奏され、詔勅により駙馬都尉に任命された。
60
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名無しさん
:2024/07/23(火) 22:13:09 ID:K3R2DxrA0
孟節 モウセツ (生没年不詳)
演義の登場人物。孟獲、孟優の兄。両親の死後、孟獲らは悪行を繰り返し王化に帰さなかった。
孟節が諌めても聞き入れなかったため、万安渓に隠棲して万安隱者と号した。
建興三年(225年)南征のおり、毒泉の対処に困った諸葛亮が山の神の導きで草庵を訪れると、解毒の泉や瘴気除けの薬草を与える。
その際、諸葛亮から南蛮の王となるよう勧められたが、「功名を嫌って隠棲している」と言い断った。
61
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名無しさん
:2024/07/23(火) 22:14:56 ID:K3R2DxrA0
闕宣 ケツセン (?〜193年頃?)
徐州下ヒ郡の人。『論語』にみえる「闕党の童子」や縦横家の闕子の一族と言われる。
初平四年(193年)、数千人の軍勢を集め天子を自称する。
徐州牧の陶謙と共に挙兵し、泰山郡の華県、費県を攻略し任城を略奪した。
陶謙とは初めは連合していたが、後に陶謙に殺され勢力を吸収された。
62
:
名無しさん
:2024/07/23(火) 22:17:16 ID:K3R2DxrA0
支謙 恭明 シケン キョウメイ (?〜252年以降 享年59歳)
統率:5 武力:10 知力:71 政治:34
西域の月支国の人。一名に越。在家の訳経僧。霊帝期に漢に帰化した月支の末裔。
若くして漢書、胡書を学び六ヶ国語に精通。支婁迦讖の弟子・支亮に師事して経典の研究をきわめた。
支謙は長身の色黒痩躯、目は三白眼で瞳は黄色、
当時の人からは「支郎の眼中に黄あり、体は細くも知恵袋」と言われた。
後漢末の乱で呉に避難し、孫権に才能を認められ博士に任命されると、韋曜らと孫和の教導にあたった。
三十年にわたり『維摩詰経』『阿弥陀経』『法句経』『太子瑞応本起経』など四十九経を漢訳する。
孫亮即位後は穹隆山に隱居した。
63
:
名無しさん
:2024/07/23(火) 22:21:22 ID:K3R2DxrA0
唐姫 トウキ(姫は官名) (生没年不詳 生年は少帝誕生の173年付近だろうか)
豫州潁川郡の人。父は会稽太守・唐瑁。少帝・劉弁の妻。
初平元年(190年)に反董卓連合が挙兵すると、董卓は廃位した弘農王の存在を危惧し、李儒を差し向けて謀殺を図った。
劉弁は李儒の態度から殺意を悟り官女たちと最期の宴を催すと、唐姫に別れの言葉を告げて自害した。
劉弁死後、故郷に戻った唐姫は父から再婚を勧められるも拒絶し続ける。
後の192年に李カクが関東を略奪すると捕えられ、李カクから妻に求められたが無言を通した。
賈クから事情を聴いた献帝は唐姫の境遇を悲しみ、詔によって迎え入れて園陵に置き、侍中を遣わし弘農王妃とした。
信憑性の低い『宰相世系表』によると祖父の兄は中常時・唐衡。
64
:
名無しさん
:2024/07/23(火) 22:22:31 ID:K3R2DxrA0
伏寿 フクジュ (?〜214年 生年は献帝誕生の181年付近だろうか)
徐州琅邪郡東武の人。父は伏完。初平元年(190年)に長安で献帝の貴人となり、興平二年(195年)に皇后に立てられた。
同年の献帝帰還時に持っていた絹を董承に奪われ、安邑県に着いた時には服は穴があき擦り切れていた。
その後は献帝と共に許都で暮らすが、董貴人の事件で父に曹操の残虐を訴える書状を密かに出す。
しかし、父の死の五年後の建安十九(214年)にこれが露見し、曹操の命により暴室へ幽閉され死去する。
王嘉の『拾遺記』には、興平二年の逃亡時に献帝を背負い急流を渡河する、兵禍から庇う、献帝の傷を癒すといった神秘的な逸話が残る。
65
:
名無しさん
:2024/07/24(水) 18:34:30 ID:9Oz/eSVY0
杜夔 公良 トキ コウリョウ (生没年不詳 188年から220年までは活動が確認できる)
司州河南尹の人。優れた音楽感覚を持ち、八種の楽器を全て演奏できたが舞と歌だけは苦手だった。
雅楽郎に任命されたが中平五年(188年)に病のため官を去った。
その後、州や司徒から招聘があったが全て断り、戦乱を避け荊州に避難する。
劉表から孟曜とともに天子のための楽団作りを命じられこれを完成させる。
曹操が荊州を平定すると宮中の音楽制定に携わり、技芸の研究や芸能者を育成して古代の音楽を後世に伝えた。
後に曹丕の不興を買い獄に繋がれると、曹丕はその音楽を左願らに習わせようとしたが拒絶したため、官を免ぜられた。
※左願は正確には左〔馬眞〕(サテン)
66
:
名無しさん
:2024/07/24(水) 18:35:16 ID:9Oz/eSVY0
尉仇台 イキュウダイ (生没年不詳)
統率:58 武力:42 知力:43 政治:45
夫余族の王。父は夫台だろうか。公孫度が遼東を支配し、異民族に畏服されるようになると夫余族もこれに従った。
この当時(190年〜204年ごろ)高句麗と鮮卑の勢いが強かったため、
公孫度はその二族の間にいる夫余を味方につけるべく一族の娘を尉仇台に娶らせた。
120年に夫余王子として尉仇台の名が出てくるが、年代から考えて別人であると推測される。
また、百済の王と同一視されることもあるが、年代や周辺国の記述があわないため関係性は薄いと考えられる。
67
:
名無しさん
:2024/07/24(水) 18:36:07 ID:9Oz/eSVY0
弓遵 キュウジュン (生没年不詳)
統率:62 武力:57 知力:37 政治:48
魏の帯方太守。劉夏に代わって帯方太守となり、
240年に朝貢への返礼として梯儁らを倭に派遣して詔書、 印綬、宝物などを女王卑弥呼に下賜する。
245年、濊が高句麗の支配下に入ったことから楽浪太守・劉茂と共に濊を攻撃し降伏させた。
部従事の呉林は過去と同様に辰韓の八ヶ国を楽浪郡に組み入れようとしたが、
役人や通訳の間で話しがまとまらない間に 韓族の臣智(大酋長)が諸部族の怒りを煽って反乱を起こした。
これに対し弓遵と劉茂は討伐軍を起こしたが、弓遵はこの戦いで戦死する。しかし、劉茂と残った部隊によって韓は滅ぼされた。
68
:
名無しさん
:2024/07/24(水) 18:37:24 ID:9Oz/eSVY0
司馬衷 正度 シバチュウ セイド (259年〜306年)
統率:6 武力:18 知力:28 政治:13
司隷河内郡温県の人。司馬炎の次男で母は楊艶。西晋二代皇帝。兄の司馬軌が夭折したため皇太子に立てられた。
暗愚であることを疑われたが、聡明な子・司馬イツの存在や賈南風の策により廃嫡を免れ、
太熙元年(290年)に司馬炎の死によって皇帝に即位した。
しかし、即位しても外戚や皇后、または八王達が政治を壟断したため、主権を握ることはなかった。
また八王の乱の混乱によりギョウや長安に連行されたり、一時は廃立されたりと波乱の人生を送る。
光煕元年(306年)、長安から洛陽に帰還を果たし同年十一月に崩御した。
69
:
名無しさん
:2024/07/24(水) 18:37:55 ID:9Oz/eSVY0
鄭氏 姜氏 テイシ キョウシ (?〜217以前)
後漢の女賊。あるとき劉楨が「四本足の蛇が門の中に住み着いている」という夢を見て、その内容を周宣に占わせた。
周宣は「この夢は国家に関わるものであり、おそらく女の反乱者が誅殺されるだろう」と解釈した。
その後、はたして女賊の鄭氏と姜氏がそろって撃ち滅ぼされた。
70
:
名無しさん
:2024/07/24(水) 20:34:04 ID:9Oz/eSVY0
趙戩 叔茂 チョウセン シュクボウ (生没年不詳 享年59歳)
統率:12 武力:20 知力:62 政治:65
京兆郡長陵県の人。学問を好み、『詩経』『尚書』の言葉をよく用いた。また、人を労わり公平であった。
三公府に召されると、尚書選部郎として官吏の起用を担当する。董卓が気に入りの人間のみで尚書を満たそうとしたが、これを拒絶。
激怒した董卓から詰問を受けたが、厳しい態度で是非を述べたところ董卓から謝罪された。
王允が殺害されると危険を冒して遺体を収容し、その後は荊州に避難した。曹操が荊州を平定すると丞相掾に取り立てられる。
劉備の蜀侵攻は失敗すると予想した。その後は、曹丕の司馬、鍾繇の長史を勤めた。
71
:
名無しさん
:2024/07/24(水) 20:36:20 ID:9Oz/eSVY0
習氏 シュウシ (生没年不詳)
荊州襄陽郡の人。習禎の妹。龐林に嫁ぎ娘を産んでいたが、
建安十三年(208年)に起こった曹操の荊州侵攻に際して夫と生き別れになる。
その後は魏で生活し一人で娘を養育していたが、222年に龐林が魏に投降してきたため再び夫婦で暮らせるようになった。
魏皇帝・曹丕はこの件を知ると、習氏を賢婦と称えて寝台、帳、衣服を下賜しその節義を顕彰した。
72
:
名無しさん
:2024/07/24(水) 20:37:15 ID:9Oz/eSVY0
任安 定祖 ジンアン テイソ (124〜202)
益州広漢郡緜竹県の人。若くして太学で学び、董扶らと楊厚に師事した。
図識を極め、時の人から「疑問があれば楊厚は任安に問う」と言われる。
後に故郷で学問を教え、名声は董扶と同等であった。
郡や州からの要請で官に就くも長くは在任せず、その後は推挙や招聘を断り隠棲する。
また、秦宓の推薦により劉焉が朝廷へ上奏したが、戦乱のため招聘の命は下らなかった。
弟子に杜微、杜瓊、何宗がおり、彼が死去すると碑銘が建てられた。
後年、諸葛亮が秦宓に任安の長所を聞くと「人の善行を記憶し、人の過失を忘れること」と答えた。
73
:
名無しさん
:2024/07/24(水) 20:38:05 ID:9Oz/eSVY0
左思 泰沖 サシ タイチュウ (生没年不詳 死去は303年の数年後)
青州斉国臨淄県の人。父は左熹、妹に左棻。妻は翟氏。寒門出身で容貌は醜く吃音だったが、学問に励み文章に優れた。
『斉都賦』の作成後、三国の賦の作成を決意。妹が宮中に入ると洛陽に移住し、各都の資料を得るため秘書郎に就く。
その後、構想から十年を経て『三都賦』を完成させるも、世間の評価は低かった。
しかし、皇甫謐など著名人から序文や注釈を得るにつれ評価が高まり、
多くの人々が筆写したために洛陽の紙価が高騰するほどの人気を博した。
後に賈謐の招きに応じ『漢書』を講じ、賈謐が誅殺されると隠棲して冀州で病没した。
※『晋書』では字が太沖、父が左雍、妹が左芬と表記されるが、同時代の墓碑である『晉左貴人棻墓誌』の記述を優先した。
74
:
名無しさん
:2024/07/24(水) 20:38:57 ID:9Oz/eSVY0
左棻 蘭芝 サフン ランシ (?〜300)
青州斉国臨淄県の人。父は左熹、兄に左思。司馬炎の妃。若くして学を好み文章を良く綴った。
兄に次ぐ名声があったため司馬炎から宮中に迎えられる。
泰始八年(272年)に修儀(後宮の位)を拝し、後に妃の最高位・貴嬪に昇った。
容貌が醜いため寵愛はなかったが、その文才により厚遇される。
また、病弱で常に病室にいたため、司馬炎は華林園で遊ぶときは(気を使って)部屋を過ぎると車を返した。
帝からたびたび文章作成を命じられたが、完成するとその都度恩賜が下された。
書や賦、頌は数十篇におよび、代表作に『離思賦』などがある。
75
:
名無しさん
:2024/07/24(水) 22:37:09 ID:9Oz/eSVY0
董恢 休緒 トウカイ キュウチョ (生没年不詳)
荊州襄陽郡の人。蜀漢の巴郡太守。
若い頃、董允が費イらと宴会に出ようとした所に折り悪く訪問したが、董允は予定を取りやめ、そのまま引き止められた。
その後、費イの副使として呉を訪問する。
ある日、泥酔した孫権が「楊儀、魏延の重用は後の災いを招く。これは良い計画かな?」と尋ねたところ、
費イは返答に詰まってしまう。そのとき董恢が「楊儀、魏延に反逆心はなく、統一事業に必要不可欠。
これを捨てることは良計とは言えません」と答えたため、孫権は大いに笑った。
帰国後、報告を聞いた諸葛亮は丞相府属とし、巴郡太守に任命した。
76
:
名無しさん
:2024/07/24(水) 22:38:30 ID:9Oz/eSVY0
公仇称 コウキュウショウ (生没年不詳)
後漢の零陵太守。孫堅の長史。初平元年(190年)、魯陽城を拠点とした孫堅から、兵糧の督促のため荊州に派遣されることとなった。
送別の宴が東門の外で行われたが、董卓の軽騎兵に襲撃される。
しかし、孫堅が落ち着いて行動したため、兵も混乱せず無事入城でき、また董卓軍も動きを警戒して撤退した。
『古今姓氏書辯證』によると晋の文侯・姫仇の後裔とされる。
77
:
名無しさん
:2024/07/24(水) 22:40:58 ID:9Oz/eSVY0
楊琁 機平 ヨウセン キヘイ (生没年不詳)
統率:62 武力:10 知力:82 政治:78
揚州会稽郡烏傷県の人。父は楊扶、兄は楊喬。初め孝廉に推挙され、霊帝期に零陵太守となる。
光和三年(180年)、蒼梧や桂陽の住民が反乱を起こし郡県の役所を攻撃した。
楊琁は、馬車に石灰を積んで煙幕を張り、次に馬の尾を繋いだ布に火をつけることで馬車を敵陣に突撃させ、
最後に戦車に乗った弓弩兵の攻撃によって賊軍に大勝し首領を討った。
一時、荊州刺史・趙凱の誣告で投獄されるも、血で記した訴えにより無実を勝ち取る。
議郎から勃海太守に遷ると業績を上げた。後に尚書僕射を拝するが、病気で隠居を乞い家で没した。
※補足
先祖の楊茂は元々河東郡の人で、光武帝に従い烏傷に封じられたが罪を経て国は除かれた
父は有能な交趾刺史として名が知られた
兄は容儀偉麗で桓帝から才能と風貌を愛された 公主を妻にと詔が下ったが拒否し断食で死亡
賊の攻撃あったとき、賊は数が多く、楊琁は「力が弱いため」役人は恐れおののいた、とあり、なめられてた様なので、統率、武力の評価は低くした
戦功偽装の罪で投獄され、牢屋は警備が厳しく自由に訴えもできなかったため、
肘(?)を噛んでその血を使って服に詳しい戦況や趙凱の誣告の罪を書き連ね、密かに親族に渡してお上に訴えた。
張温が尚書令であるとき(184年以前)に尚書僕射に推薦された
78
:
名無しさん
:2024/07/24(水) 22:44:52 ID:9Oz/eSVY0
公沙廬 コウサロ (?〜196年以前)
青州北海郡膠東県の人。後漢の方士・公沙穆の同族か。
公沙氏は県下で有力な豪族で、自ら防備を固め租税を払わなかった。
しかし、膠東令に就いた王脩は数騎で屋敷に突入すると公沙廬兄弟を斬り、他の一族を慰撫したため県内は落ち着いた。
79
:
名無しさん
:2024/07/24(水) 22:46:18 ID:9Oz/eSVY0
裴儁 奉先 ハイシュン ホウセン (生没年不詳)
司隷河東郡聞喜県の人。裴茂の子。裴潜の弟。蜀漢の政治家。
裴儁が十余歳のとき、姉の夫が蜀中長史になったため任地まで送っていった。
しかし、そのとき天下が乱れ治安が悪化したため、蜀にそのまま留まった。成長すると評判を上げ周囲から重んじられる。
劉備政権では光禄勲に就き、孟光が煙たがられていたこともあって、彼より若年であったが位は高かった。
80
:
名無しさん
:2024/07/24(水) 22:48:52 ID:9Oz/eSVY0
裴徽 文季 ハイキ ブンキ (生没年不詳)
司隷河東郡聞喜県の人。裴茂の末子。裴松之の六世祖。魏の政治家。
高い才能と遠大な見識を持ち、よく玄妙の理について語った。
傅嘏と親しく、太和初年(227年)に傅嘏と荀粲が互いに重視する理論の違いから口論することがあると、裴徽は両者の間を取り持ち和合させた。
正始(240〜249年)の頃は吏部郎を勤め、年少の王弼が訪ねて来ると一目で高く評価し「無」について質問をした。
冀州刺史の頃(244年)、趙孔曜の推挙により管輅を文学従事の官に招聘する。
実際に彼と会ってみると意気投合して友誼を結んだ。傅嘏の伝によると早世したとある。
81
:
名無しさん
:2024/07/24(水) 22:49:48 ID:9Oz/eSVY0
皇甫謐 士安 コウホヒツ シアン (215年〜282年)
涼州安定郡朝那県の人。皇甫嵩の曾孫。皇甫叔侯の子。西晋の学者。
叔父の家で二十歳まで放蕩三昧を尽くしていたが、叔母の説得で発奮し勉学を始める。農業の合間に経典を読み、また著述に励んだ。
仕官はせず寝食を忘れて典籍に取り組む様子から、当時の人から「書淫」と言われる。
嘉平六年(254年)、生母の喪に服するため帰郷。その後は司馬炎などから度々招聘されたが、風痺を患っていたため皆断った。
著作は多岐にわたり『帝王世紀』、『年暦』、『高士伝』、『列女伝』などの他、当時の鍼灸の書を整理した『鍼灸甲乙経』などがある。
82
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名無しさん
:2024/07/24(水) 22:51:16 ID:9Oz/eSVY0
許允 士宗 キョイン シソウ (?〜254年)
統率:61 武力:20 知力:57 政治:67
冀州高陽郡の人。妻に阮氏。魏の官吏。名門出身で李豊や夏侯玄と親しく、印鑑の鑑定法に長けた。
明帝の頃、尚書選曹郎であったが罪を犯し袁侃と投獄される。刑期を終えた後は出世して侍中・尚書・中領軍となる。
正始十年(249年)、司馬懿の政変では陳泰と共に曹爽に投降を進言する。
251年に司馬師が政権を握ると王基は「許允らは正直の士で政治に参画させるべき」と文書で推薦し用いられた。
しかし、李豊逮捕の件で慌てた様子から司馬師に怪しまれ、
また劉靖の後任で鎮北将軍となった送別の席で横領罪が告訴され、流刑の途上で死去した。
83
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名無しさん
:2024/07/24(水) 22:52:20 ID:9Oz/eSVY0
阮氏 ゲンシ (生没年不詳)
兗州陳留郡尉氏県の人。父は阮共、兄は阮侃。阮籍と同族か。魏の許允に嫁いだが、許允は阮氏が醜いため部屋に入らなかった。
許允が桓範の説得で仕方なく入室すると裾を掴んで引き止める。
そのときの問答で「色を重んじて徳を重んじない」と言われた許允は自らを恥じ、互いに尊敬する仲となった。
許允が官吏の推挙の件で詰問を受けると、弁明の助言して窮地を救った。
後に反司馬氏であった許允が流刑となり途上で没すると、阮氏は墓所に居を移す。
司馬師の意を受けた鍾会が許允の息子を偵察に来ると、息子たちに助言して誅殺を免れさせた。
※許允の死について裴松之やカン丘倹は司馬師に誅殺されたと言い 晋書の司馬炎の紀には司馬昭に殺されたとある
84
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名無しさん
:2024/07/24(水) 22:53:28 ID:9Oz/eSVY0
劉緯台 リュウイダイ
後漢の元占い師。公孫瓚から寵遇されたが、凡庸であった。
なかでも劉緯台、李移子、楽何当らは特に重んじられ義兄弟の契りを結ぶ。
公孫瓚は自ら長兄の「伯」と称して、劉緯台ら三人を「仲」「叔」「季」と呼んでいた。
また、三人とも巨万の富を持つ大金持ちであったことから、娘を公孫瓚の息子に嫁がせていた。
公孫瓚はつねずね彼らを(貧民や絹商人から功臣となった)前漢の酈商や灌嬰の仲間と喩えていたという。
李移子 リイシ
後漢の絹商人。以下略
楽何当 ガクカトウ
後漢の商人。以下略
85
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名無しさん
:2024/07/25(木) 21:35:13 ID:uFa07YNc0
張世平 チョウセイヘイ (生没年不詳)
冀州中山郡の大商人。184年の黄巾の乱以前のこと、
張世平は商人の蘇双と千金の資本を持って、馬を買うために涿郡を行き来していた。
そこで劉備を見ると傑物だと思い、彼に多くの金財を与えた。
その資金のおかげで劉備は手勢を集めることが出来た。『演義』でもほぼ同様。
86
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名無しさん
:2024/07/25(木) 21:35:58 ID:uFa07YNc0
王烈 彦方 オウレツ ゲンホウ (141年〜218年)
并州太原郡の人。後漢の名士。陳寔に師事し、邴原や管寧よりも名声があった。
郷里が飢饉の際には私財を投じ、また教育のために学校を建設した。
地元では悪事や諍いがあると王烈に知られるのを最も恐れ、みな正道を歩んだ。
孝廉や三公府から招聘を受けたが応じず、董卓の乱が起きると管寧と共に遼東に逃れる。
公孫度から兄弟の礼で遇され長史に求められたが、商人に身を落として拒絶した。
また、民が横暴や不正を働かないよう遼東の地を導いた。
曹操は何度も彼を招聘しようとしたが、公孫康は王烈に代わって言い訳をして彼を行かせなかった。
87
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名無しさん
:2024/07/25(木) 21:37:00 ID:uFa07YNc0
秦論 シンロン (生没年不詳)
大秦(ローマ)の商人。大秦の行商は扶南(現在のタイやカンボジア)、日南、交趾といった経路を通って往来していた。
秦論は黄武五年(226年)に交趾に到着し、交趾太守・呉バクにより孫権の元へ送られる。
孫権からは土地の風俗について質問された。時に諸葛恪が丹陽郡への討伐から帰還すると、黒い矮人を捕らえてきた。
秦論が「大秦にも稀にこのような者を見かけます」と言ったところ、
孫権は秦論に男女各十人を与え、また劉咸に秦論を送らせた。
劉咸は途上で亡くなったが秦論は本国へ帰還できた。
※補足
秦論の本来の名は、月支国のローカクシェーマ=支婁迦讖=支讖の例から
「lun」に近い音のルーキウス・ロリウス・ロングスのような感じかも。
秦論の記述は『梁書』によるもの。『三國志』では、226年は士燮の死んだ年で、そのときの交趾太守は薛綜?
88
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名無しさん
:2024/07/25(木) 21:37:40 ID:uFa07YNc0
陳勰 太和 チンキョウ タイワ (生没年不詳)
統率:80 武力:54 知力:74 政治:41
魏、晋の武官。才能と軍令への理解があったので、司馬昭が晋王の頃は兵事を任された。
蜀滅亡後、司馬昭の命で諸葛亮の軍法を修得し、旗信号の制度に精通したため殿中典兵中郎將、後に将軍に遷る。
太康五年(284年)、宣帝廟が損傷すると新たな廟の造営を任される。また、都水使者として洛陽の河南に千金堤を築いた。
司馬炎の出入りの際には白獣の旗を持って車に近侍した。
太康末年(289年頃)、司馬炎が雉狩りの帰路に、護衛を夜間用の陣形に変更させたが手間取った。
そこで陳勰に命じると素早く隊列を変更させたので司馬炎から信任された。
※おそらく『晋書』の陳勰が正しいが他書では陳協や陳狼とも表記される
白は晋国のシンボルカラー
89
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名無しさん
:2024/07/25(木) 21:38:25 ID:uFa07YNc0
董元 トウゲン (?〜271年)
統率:63 武力:58 知力:59 政治:52
益州建寧郡の人。晋の武将。景耀六年(263年)に呂興が呉から離反し交趾郡を掌握した。
その後、呂興が死ぬと九真太守の董元は毛炅、孟幹らと共に交趾太守・楊稷に付き従って交州に着任。
泰始四年(268年)、呉は劉俊、脩則らを派遣したが楊稷らにより撃破される。
翌年、薛詡、陶璜が派遣されると一度は勝利を得たが、董元は陶璜の夜襲を受け宝物を奪われた。
271年に陶璜が虞汜をつれて交趾を急襲すると、陶璜を迎撃したが伏兵を見破られ敗北。
城内に籠るも陶璜の策略で配下の勇将・解系を処断してしまい、最後には虞汜に敗れて死んだ。
90
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名無しさん
:2024/07/25(木) 21:39:47 ID:uFa07YNc0
封諝
後漢の中常侍。
馬元義の調略に応じて蜂起を約束したが、唐周の密告により失敗した。
徐奉
後漢の中常侍。
馬元義の調略に応じて蜂起を約束したが、唐周の密告により失敗した。
唐周
張角の弟子。
馬元義が中常侍の封諝と徐奉を調略すると、宦官に計画を密告した。
甘洪
吉川英治版三国志に登場する馬元義の部下。
李朱氾
吉川英治版三国志に登場する馬元義つきの副頭目。
劉備から茶や剣を奪うが、張飛に投げ殺された。
丁峰
吉川英治版三国志に登場する李朱氾の部下。
91
:
名無しさん
:2024/07/25(木) 21:40:19 ID:uFa07YNc0
彭脱
豫州方面の黄巾の将。
184年6月、西華で皇甫嵩に討ち破られた。
黄邵
汝南・潁川に割拠した黄巾の将。
劉辟・何儀・何曼らと共に行動していたが、曹操に討伐されて戦死した。
何曼
汝南・潁川に割拠した黄巾の将。鉄棒の使い手で、刹天夜叉と称した。
黄邵・劉辟・何儀らと共に行動していたが、曹操に討伐されて降伏した。
孫夏
荊州方面の黄巾の将。韓忠が秦頡に討ち取られると大将になった。
184年10月、宛で朱儁に討ち破られ、南陽黄巾軍は壊滅した。
卜己
兗州方面の黄巾の将。
184年8月、東郡で皇甫嵩に討ち破られた。
王度
東阿の県丞。
黄巾の蜂起に同調したが城を維持できず外に駐屯し、県令を呼び戻した程昱によって退けられた。
司馬倶
済南・楽安に割拠した黄巾の将。
徐和と共に行動していたが、夏侯淵に討伐された。
徐和
済南・楽安に割拠した黄巾の将。
司馬倶と共に行動していたが、夏侯淵に討伐された。
92
:
名無しさん
:2024/07/25(木) 21:41:35 ID:uFa07YNc0
呉桓
会稽に割拠した黄巾の将。
留賛に討伐されて戦死した。
馬相
趙祗と共に緜竹に割拠した黄巾の将。
数千人の民衆を集めて県令の李升を殺し、軍勢は一万余りに膨れ上がった。
次いで、雒城を攻撃して刺史の郤倹を殺し、天子を自称した。
しかし、私兵を募った益州従事の賈龍に数日で討伐されてしまった。
趙祗
馬相と共に緜竹に割拠した黄巾の将。
数千人の民衆を集めて県令の李升を殺し、軍勢は一万余りに膨れ上がった。
次いで、雒城を攻撃して刺史の郤倹を殺した。
しかし、私兵を募った益州従事の賈龍に数日で討伐されてしまった。
杜遠
演義のみに登場する黄巾の将。
廖化と共に行動していたが、劉備の妻をさらおうとしたため、関羽を敬愛する廖化によって討たれた。
梁仲寧
黄巾の将。
傅燮によって討伐された。
張伯
黄巾の将。
傅燮によって討伐された。
呉覇
黄巾の将。
李通によって討伐された。
陳敗
万秉と共に割拠した黄巾の将。
朱治によって討伐された。
万秉
陳敗と共に割拠した黄巾の将。
朱治によって討伐された。
93
:
名無しさん
:2024/07/25(木) 21:42:17 ID:uFa07YNc0
張牛角
黄巾が蜂起すると張燕と共に黒山賊を結成し、その頭目となった。
張方
張燕の子。平北将軍。
孫軽
黒山賊の将。
張燕が勢力を拡大すると、王当と共に黒山賊に加わった。
王当
黒山賊の将。
張燕が勢力を拡大すると、孫軽と共に黒山賊に加わった。
杜長
黒山賊の将。
袁紹への援軍として派遣されたが、曹操に敗北した。
94
:
名無しさん
:2024/07/25(木) 21:44:10 ID:uFa07YNc0
白繞
黒山賊の将。
191年、眭固や于毒と共に東郡太守王肱を討ち破ったが、援軍に駆け付けた曹操に濮陽で討ち破られた。
壺寿
董卓に任命された冀州牧。
冀州牧を自称した袁紹が薄洛津において大宴会を催すと、隙をついて魏郡の兵を扇動し于毒と同盟して鄴を襲撃、太守の栗成を殺害した。
しかし、朝歌の鹿場山の蒼厳谷で袁紹に敗れて于毒と共に斬られた。
張白騎(張晟)
黒山賊の将。河内の人。
黄巾の蜂起に乗じて、一万余りの軍勢を集めた。
後に弘農の殽山・澠池に割拠し、劉表と通じていた。
205年8月、高幹が蜂起すると同調したが、杜畿に阻まれた。
劉石
黒山賊の将。
袁紹に討伐されるが、逃走には成功した。
于羝根
黒山賊の将。
袁紹に討伐され斬られた。
左髭丈八
黒山賊の将。
袁紹に討伐され戦死した。
青牛角
黒山賊の将。
袁紹に討伐され戦死した。
李大目
黒山賊の将。
袁紹に討伐され戦死した。
郭大賢
黒山賊の将。
袁紹に討伐された。
張雷公
黒山賊の将。
左校
黒山賊の将。
黄龍
黒山賊の将。
95
:
名無しさん
:2024/07/25(木) 21:47:44 ID:uFa07YNc0
習英習 シュウエイシュウ (生没年不詳)
襄陽出身。父は習竺で李衡の妻。李衡が丹陽太守の頃、郡役所にいた孫休をしばしば法によって圧迫したが、習氏はそれをいつも諌めていた。
永安元年(258年)に孫休が即位すると、咎を心配した李衡が魏への亡命を相談すると
「謹んで出頭すれば逆に厚遇されます」と助言。言う通りにした李衡は罪を許され、
威遠将軍の加官や棨戟の使用を許可される。
また、李衡はつねづね家産の経営を目論んでいたが習氏は許さなかった。そこで密かに武陵に柑橘を植えさせた。
習氏は荘園のことを夫の死後に知ったが、小作人が減ったことや夫の口癖などから柑橘畑だろうと息子に語った。
96
:
名無しさん
:2024/07/25(木) 21:54:48 ID:uFa07YNc0
胡赤児 コセキジ (生没年不詳)
牛輔の側近。胡族か。初平三年(192年)の董卓の死後、陝に攻め寄せた李粛を牛輔が返り討ちにした後のこと。
夜に牛輔の陣営で反乱が起きると、牛輔は軍営全体が寝返ったと勘違いした。
そこで財宝を持って、日頃から厚遇していた胡赤児ら四、五人を連れて城の脱出を図る。
胡赤児は「城の北に馬を用意してある」と言って牛輔を城壁から縄で吊り下ろす振りをして途中で落としてしまう。
そうして怪我で動けなくなった牛輔を斬り、財宝を奪って首は長安に届けた。
『演義』では呂布に首を届けたところ、裏切りを嫌悪され処刑された。
97
:
名無しさん
:2024/07/25(木) 21:56:15 ID:uFa07YNc0
王表 オウヒョウ (生没年不詳)
揚州臨海郡羅陽県には神がいて自ら王表と名乗った。
民間をうろつき飲食する様は人と変わらなかったが、人前に姿を現すことはなかった。
太元元年(251年)五月、孫権は中書郎の李崇を派遣し、王表に輔国将軍・羅陽王の印綬を授け都に迎える。
道すがら李崇や郡主らと議論したが言い負かされることは無かった。
また、紡績をいう側仕えの女に途上の山河の神々に対して挨拶に向かわせた。
都に着くと建業の東門近くの屋敷に住み、日照りや水害など小さな予言をよく的中させた。
翌年、孫権が危篤になり群臣から福を請われると、逃亡した。
98
:
名無しさん
:2024/07/25(木) 21:56:47 ID:uFa07YNc0
陳焦 チンショウ (生没年不詳)
揚州丹陽郡安呉県の平民。
永安四年(261年)に死去し埋められたが、六日後に復活し自ら穴を掘って生還した。
99
:
名無しさん
:2024/07/25(木) 21:58:40 ID:uFa07YNc0
劉惇 子仁 リュウトン シジン (生没年不詳)
統率:15 武力:8 知力:74 政治:32
青州平原郡の人。呉の八絶の一人。天文や太乙の術に明るく、占いに通じた。
世の混乱から揚州廬陵郡に避難し、200年頃から太守の孫輔に仕えた。
孫輔の元では災害や賊の侵入などを予知したため軍師に任じられ、将兵からも「神明」と尊称された。
建安年間(196年〜220年)に豫章にいた頃、星の予兆から丹陽における異変を察知し孫権に告げた。
果たして建安八年(204年)に孫翊が部下の辺鴻に殺害される事件の知らせが届いた。
著書百余篇、呉の侍中で儒者の刁玄からも賞賛を受けた。劉惇は自らの術を秘したため世間には知る者はいなかった。
100
:
名無しさん
:2024/07/25(木) 22:00:14 ID:uFa07YNc0
趙夫人 チョウフジン (生没年不詳)
司隸河南郡の人。孫権の夫人。趙達の妹。『歴代名画記』『拾遺記』に名が見える。
書画や裁縫に優れた。孫権は常々「魏や蜀の山河の地形図を得たいものだ」と嘆いていたため、
夫人は絹の上に五岳や列国の地形を見事に縫取り、献上した。
また、紫糸の帷を裁断し「神膠」で繋ぐことで、涼しくまた中から視界が通るように作り直した。
孫権はこれを気に入って常用した。これらの事から宮中では「針絶」や「絲絶」と賞賛された。
後に、孫権の寵愛者の讒言で宮中を去ったが、評判が落ちたといえども彼女の技芸の記録は残ったという。
※ただし、『歴代名画記』などの記述は、身一つで来たはずの趙達の元になぜが妹いたり、趙達が丞相位に就いていたりするるなど『三國志』との記述に乖離があり信憑性に難がある。
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