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三國志新武将用の人物紹介スレ@避難&保管所
100
:
名無しさん
:2024/07/25(木) 22:00:14 ID:uFa07YNc0
趙夫人 チョウフジン (生没年不詳)
司隸河南郡の人。孫権の夫人。趙達の妹。『歴代名画記』『拾遺記』に名が見える。
書画や裁縫に優れた。孫権は常々「魏や蜀の山河の地形図を得たいものだ」と嘆いていたため、
夫人は絹の上に五岳や列国の地形を見事に縫取り、献上した。
また、紫糸の帷を裁断し「神膠」で繋ぐことで、涼しくまた中から視界が通るように作り直した。
孫権はこれを気に入って常用した。これらの事から宮中では「針絶」や「絲絶」と賞賛された。
後に、孫権の寵愛者の讒言で宮中を去ったが、評判が落ちたといえども彼女の技芸の記録は残ったという。
※ただし、『歴代名画記』などの記述は、身一つで来たはずの趙達の元になぜが妹いたり、趙達が丞相位に就いていたりするるなど『三國志』との記述に乖離があり信憑性に難がある。
101
:
名無しさん
:2024/07/25(木) 22:03:05 ID:uFa07YNc0
皇象 休明 コウショウ キュウメイ (生没年不詳 張温より一回り年上か)
統率:43 武力:15 知力:70 政治:64
徐州広陵郡江都の人。呉の八絶の一人。草書に巧みであった。
後漢の杜度に師事し、また張超と陳梁甫の書風をうまく取捨して書法を窮め、中原一の書家となる。
彼の書風は「梁をめぐる歌声、琴の奏者の如く」と評され、後世に「書聖」の名で知られた。
会稽の山陰県にいた頃、張温が皇象から学問を授かろうとした逸話が残る。『文武帖』『急就章』『文武将隊帖』などの作品が現存。
『梁書』や『書断』によると、呉で青州刺史を務め侍中に昇った。
天璽元年(276年)以降に建てられた「天発神讖碑」の筆者という真偽不明の説がある。
102
:
名無しさん
:2024/07/25(木) 23:25:16 ID:uFa07YNc0
曹不興 ソウフコウ (曹弗興とも) (生没年不詳)
揚州呉興郡の人。呉の八絶の一人。画に優れた。
赤烏元年(238年)の冬、清渓より立ち昇った赤龍を見ると、その場面を描いた絵を孫権に献上した。
後の宋代では、旱魃時にその絵を水上に置くと雨の日が続いた。
また、屏風に落とした筆の汚れを蝿に書き直すと、孫権は献上された屏風の蝿を本物と思って手で払ったという。
五千尺の絹に描いた際は、筆は素早く、人物の部位の尺度も誤らなかった。
北宋の『見聞志』によれば仏僧・康僧会のもたらした仏像の模写を行い、『名画記』によれば中国で始めて仏教図像を創ったと言われる。
103
:
名無しさん
:2024/07/25(木) 23:26:44 ID:uFa07YNc0
厳武 子卿 ゲンブ シキョウ (生没年不詳)
徐州彭城郡の人。呉の八絶の一人。囲碁に巧みであった。衛尉の厳畯から見て従兄弟の子に当たる。
晋の葛洪はその著書『抱朴子』の中で、「厳武と馬綏明は囲碁における最上位の「棋聖」として名が知られている」と紹介している。
宗寿 ソウジュ (生没年不詳)
呉の八絶の一人。夢占いに優れ、十に一つも外さなかった。
鄭嫗 テイウ (生没年不詳)
揚州呉郡烏程(菰城)県の人。呉の八絶の一人。人相見占いに長けた。
同郷で年少の吾粲の人相を見て、その母に「九卿・宰相の骨相」があると告げた。
※もしかしたら女性で、「嫗」は名前ではなく、「鄭おばさん」ぐらいの意味かもしれない
104
:
名無しさん
:2024/07/25(木) 23:30:01 ID:uFa07YNc0
魯芝 世英 ロシ セイエイ (190年〜273年)
統率:69 武力:48 知力:74 政治:71
司隷扶風郡郿県の人。晋の光禄大夫。豪族であったが親を郭汜に殺され、幼くして流離する。
十七の時に雍州に移住し父の喪を果たすと、郡や州に召され、228年の蜀の第一次北伐時には郭淮に請われて別駕となる。
後に曹真の掾に移り、蜀征伐では大司馬の軍事に参じた。天水太守に転じると蜀の侵攻を防ぎ城市を復興した。
曹爽の司馬の際、司馬懿が決起すると残された軍を率いて城門を突破、曹爽の元に馳せ参じる。
曹爽が出頭すると連座し、獄で死に掛けるが、その忠義を認められ晋朝で重用される。諸葛誕の乱では荊州軍を率いて先鋒を務めた。
105
:
名無しさん
:2024/07/26(金) 22:30:31 ID:Hy4HQRpk0
孫恩 ソンオン (?〜259年 生年は232年以後)
統率:55 武力:42 知力:54 政治:65
揚州呉郡富春県の人。呉の武衛将軍。孫綝の弟。
257年の諸葛誕の乱で、処断された朱異に代わりに援軍を率いたが間に合わなかった。
その後、立場を悪くした孫綝が朝廷に圧力をかけるため、孫恩は兄弟らと都周辺に軍勢を率いて駐屯する。
孫亮による暗殺計画が露呈すると、孫綝の命で首謀者の一人の劉承を青龍門外で殺害した。
孫亮廃位後、新帝・孫休を丞相代行として百官を率いて永昌亭まで出迎え、衛将軍・御史大夫、県侯に封じられる。
後に侍中を加官され丞相・孫綝と分担して公文書の決裁に当たった。孫綝が誅殺されると連座して処刑された。
106
:
名無しさん
:2024/07/26(金) 22:31:52 ID:Hy4HQRpk0
楊曁 休先 ヨウキ キュウセン (生没年不詳)
統率:51 武力:20 知力:69 政治:65
司隷河南尹滎陽県の人。魏の中領軍。楊肇の父。楊氏は戦国時代の晋の公子・伯喬の傍流といわれる。
率直な性格で曹叡に重んじられ、また劉曄と親交があった。
太和二年(228年)の頃は屯騎校尉を務め、魏帝・曹叡の命で、石亭の戦いで敗れた曹休の元へ慰撫の使者として向かう。
太和の末(233年頃)に公孫淵が反乱を起こすと、征討の適任者に悩む曹叡に田豫を推薦した。
蜀討伐の議論では常に強固に反対していたが、いつも相談していた劉曄が機密のため反対派を演じていたと気付かず、
迂闊な言動をして叱られた。諡号は肅侯。
107
:
名無しさん
:2024/07/26(金) 22:33:18 ID:Hy4HQRpk0
彭羕 永年 ホウヨウ エイネン (生没年不詳 享年36歳)
統率:25 武力:32 知力:71 政治:78
益州広漢郡の人。劉備の治中従事。
身の丈八尺、容貌魁偉にして驕慢な性格だが、秦宓には敬意を持ち、太守の許靖に推薦した。
後に州の書佐となるも讒言で髠刑を受ける。劉備が入蜀すると、葭萌の陣営を訪れ、龐統と既知の法正の推薦で劉備に仕える。
彭羕の知遇は徐々に増し、益州平定時には治中從事となった。
しかし、一躍大身となり傲慢に振舞ったことと、諸葛亮からの進言で疎まれ、江陽太守に左遷となる。
不快に思った彭羕が、馬超に「老兵が耄碌した」「貴方と内外を受け持てば天下を定められる」と不遜な言動をしたため処刑された。
※馬超訪問時に法正は生きていたので没年は217年ぐらいだろうか。『演義』では字が「永言」。孟達と親しく、関羽の救援に行かなかった孟達の立場が悪くなると、不安を覚え孟達に使者を出し、以下正史と同様の展開となる。『演義』の没年は220年。
108
:
名無しさん
:2024/07/26(金) 22:33:50 ID:Hy4HQRpk0
慈童 ジドウ (紀元前10世紀頃〜220年代頃)
周の穆王に寵愛された童子。ある時、王の枕の上を誤って越えた罪で南陽郡の酈縣山に流罪となる。
哀れんだ王は、釈尊より賜った法華経の妙文を授けた。
慈童は忘れないように菊の葉にその文言を記すと、葉を流れる露が霊薬へと変化し、それを飲んだため年も取らず千年以上の長寿を得た。
時は流れ魏の文帝の時代に、酈縣山の麓で霊水が湧き出たとの報告が入る。
曹丕が調べさせると、「彭祖」と名を変えた慈童がおり、帝の聖徳を讃えて長寿の術を捧げたという。
このことは「重陽の節句」の由来といわれ、日本では能の『菊慈童』として知られる。
※以上は日本の『太平記』などに由来する話。神仙「彭祖」が700年生きた伝説と、
『魏文帝與鍾繇書』に曹丕が鍾繇に「彭祖の術(長命の術)」として重陽の日に菊一束を贈った、という話と、
さらに仏教をアレンジして出来たと思われる。
109
:
名無しさん
:2024/07/26(金) 22:35:09 ID:Hy4HQRpk0
馮紞 少冑 フウタン ショウチュウ (?〜286年)
統率:66 武力:45 知力:76 政治:67
冀州安平国の人。晋の侍中。祖父に李孚。兄に馮恢。若くして広く経書、史書を学び、知力と弁舌に長けた。
魏郡太守を務めた後は歩兵校尉など近衛軍を率い、武帝・司馬炎から寵愛される。
賈充、荀勗らと親しく、賈南風の皇太子妃擁立には尽力した。
呉征伐の際は汝南太守として郡兵を率いて、王濬のもと秣陵に入城。後に御史中丞、侍中に遷った。
呉征伐には元々反対であったため、功を立てた張華の権勢を妬み「鍾会の再来」と讒言し、免官に追いやる。
太康三年(282年)から始まる司馬攸帰藩騒動では、司馬攸の声望を恐れて司馬炎に出鎮を勧めた。
※李孚との関係は資料で明言されていないが、『魏略』と『晋書』をあわせるとほぼ間違いないと思う。
ただし、李孚の本籍は鉅鹿郡で、孫の代に本姓の馮氏に戻っているあたり、乱世のごたごたで何かあったようだ。
また司馬攸帰藩騒動に関して『晋書』自伝に主犯のように書かれるが、要素の一つ程度の影響力だと個人的に思う。
110
:
名無しさん
:2024/07/26(金) 22:36:05 ID:Hy4HQRpk0
郤検 ゲキケン (生没年不詳 自称300歳)
豫州潁川郡陽城県の人。方士。
若い頃、狩りの途中で墓の中に落ちてしまい飢餓に苦しむと、一匹の大亀を見つける。
亀が移動しながら不思議な呼吸を繰り返していたので、それを真似てみると飢えが消え、
百日経ってまた苦しくなった頃、偶然救出された。
それからは茯苓の摂取だけで穀断ちが出来るようになり、曹操から他の方士らと魏国の宮廷に招かれた。
郤検が到着すると市場の茯苓の値段が数倍になったという。
曹植は郤検を試そうと思い百日ほど寝起きを共にしたが、不審な行動は見つけられず、少なくとも飢餓には役に立つと認めた。
※郤正の祖父とは別人
111
:
名無しさん
:2024/07/26(金) 22:40:01 ID:Hy4HQRpk0
丁廙 敬礼 テイヨク ケイレイ (?〜220年)
統率:10 武力:13 知力:66 政治:64
豫州沛国の人。丁沖の子で丁儀の弟。黄門侍郎。若くして学識と見聞があり、容姿が美しかった。
始め公府に召され、建安年間に黄門侍郎となる。曹植と親しく、魏国の後継者争いでは兄や楊脩と共に後援した。
また建安七子には含まれないが文学に優れ、いくつか作品を作るとその修正を曹植に依頼した。
曹植が遠慮すると、「文章の美しさは私の責任になるし、後世の人々は誰が手を加えたかなど分かりはしない」と主張し、
文章への悟りきった態度を感心された。黄初元年(220年)、曹丕が皇帝に即位すると兄や一族の男子ともども処刑された。
112
:
名無しさん
:2024/07/26(金) 22:41:03 ID:Hy4HQRpk0
丁謐 彦靖 テイヒツ ゲンセイ (?〜249年)
統率:21 武力:18 知力:68 政治:58
豫州沛国の人。魏の尚書。丁斐の子。沈着剛毅な性格で、若い頃は人と交流せず広く書物を読んだ。
太和年間は鄴で暮らし、一時皇族と揉めたが、後に度支郎中に任じられる。
曹爽とは親しく、明帝崩御後は尚書に抜擢されると、司馬懿の排斥を進言して政治から遠ざけた。
丁謐は猜疑心が強く曹爽以外を軽蔑して、しばしば他者を非難したため尚書台の機能は滞ったという。
また鄧颺とたびたび法律制度を改変した。
郭太后の別宮移動、司馬鑒(司馬昭の子)の鄴行き、文欽の淮南行きは丁謐の画策であり司馬懿に恨まれた。正始の変で三族誅滅された。
113
:
名無しさん
:2024/07/26(金) 22:41:56 ID:Hy4HQRpk0
孫阿 ソンア (?〜没年239〜254年の間)
魏の歌い手。曹芳の時代に西の太廟に勤めた。ある時、蒋済の死んだ子が母の夢枕に立ち、冥府での己の窮状を訴えた。
さらに太廟の孫阿は死期が近く、また死後に泰山の令となるので彼に自分の役職の異動の依頼を頼んできた。
蒋済は疑うも妻の訴えで孫阿を捜させると、息子の話した通りの容貌であったため、彼の事情を話した。
孫阿は死後に泰山令になれることを喜び、息子を楽な仕事に就けるよう請け負った。
蒋済から贈り物を受けてしばらく、孫阿は心臓に痛みを覚えて真昼に死んだ。その一ヵ月後、また息子が夢枕に立つと感謝を伝えたという。
114
:
名無しさん
:2024/07/26(金) 22:44:58 ID:Hy4HQRpk0
胡昭 孔明 コショウ コウメイ (162年〜250年)
豫州潁川郡の人。後漢の逸民。隷書に巧みで書聖と呼ばれた。初め戦乱から冀州に避難するも袁紹の召命を辞退して故郷に戻る。
後に司空・曹操から招聘された際は「忠誠だけ捧げるのみで去らせて欲しい」との言が許され、弘農郡の陸渾山に隠棲した。
年下の司馬懿とは旧知の間柄で、同郡の周生が司馬懿の暗殺を目論むと、涙ながらに訴えて止めさせる。
218年、県長の徴兵に反発して孫狼が蜂起を起こしたが、孫狼は胡昭に信服していたため伊水一帯での略奪は控えた。
正始年間には趙儼や荀顗、鍾毓などの推薦を受けたが、その後すぐに死去した。
115
:
名無しさん
:2024/07/26(金) 22:45:43 ID:Hy4HQRpk0
白虎文 ハクコブン (生没年不詳)
統率:72 武力:68 知力:64 政治:48
涼州の胡王。延煕十年(247年)に治無載(魏志だと翌年)とともに蜀漢に降伏する。
衛将軍の姜維はこれを迎えて慰撫し、彼らを蜀郡の繁県に居住させた。
後の泰始六年(270年)に、薬蘭泥あるいは樹機能と共に秦州刺史・胡烈を萬斛堆で、
翌年には涼州刺史・牽弘を青山で殺害した。
116
:
名無しさん
:2024/07/26(金) 22:46:54 ID:Hy4HQRpk0
杜恕 務伯 トジョ ムハク (198年〜252年)
統率:61 武力:25 知力:74 政治:79
司隸京兆尹杜陵県の人。魏の幽州刺史。杜畿の子、杜預の父。誠実で飾らず、政道の乱れには常に正論をもって直言した。
父の死後、太和年間(227年〜233年)に出仕して散騎常侍、後に黄門侍郎に就く。当時の同僚の李豊、袁侃、荀俁らとは仲が良かった。
その後、中央にあるときは性格のため周囲と合わず、たびたび地方に出され弘農、河東太守、趙国相など歴任する。
幽州刺史の頃には、征北将軍の程喜とそりが合わず、鮮卑の処遇をめぐって弾劾されて平民に落とされた。
暇になった杜恕は阮武の勧めで『体論』や『興性論』など著作に励んだ。
117
:
名無しさん
:2024/07/26(金) 22:48:05 ID:Hy4HQRpk0
王桃 オウトウ (生没年不詳)
統率:68 武力:80 知力:46 政治:32 (能力は11準拠)
蘆塘寨の女頭目。王令公の娘、王悦の姉。当時十八歳にして五万人を擁する蘆塘寨の頭目の一人であった。
関索の軍勢が関羽の元へ進軍中に、王桃らは寨の周辺に兵を展開して道路を封鎖していたため交戦することになる。
敵軍十万が門を囲んだため、関索に一騎討ちを仕掛けるが、十合ほどで敗れ捕らえられた。
その後は寨全体が降伏し、妹ともども関索の次妻となった。
王悦 オウエツ (生没年不詳)
統率:67 武力:81 知力:42 政治:35 (能力は11準拠)
蘆塘寨の女頭目。王令公の娘、王桃の妹。当時十六歳にして五万人を擁する蘆塘寨の頭目の一人であった。
関索の軍勢が関羽の元へ進軍中に、王悦らは寨の周辺に兵を展開して、道路を封鎖していたため交戦することになる。
姉の王桃が関索との一騎討ちに敗れ捕らえられると、寨をあげて降伏する。
その後は姉ともども関索の次妻となった。
118
:
名無しさん
:2024/07/26(金) 22:49:09 ID:Hy4HQRpk0
葛衡 思真 カツコウ シシン (生没年不詳)
呉の技術者。天文に詳しく機械作りに巧みで、渾天儀を作成した。
それは大地を中心において機械を動かすと、地が静止したまま天球が回転し、実際の星の運行と一致するものだった。
※呉の太史令・陳苗の「先賢は木で儀を作り、名を渾天いった。」という記録から葛衡の渾天儀は金属製と思われる。
また隋代の発明までは、水力とたまに人力の調整で稼動していた。
119
:
名無しさん
:2024/07/26(金) 22:50:34 ID:Hy4HQRpk0
禰衡 正平 デイコウ セイヘイ (173年〜198年)
統率:14 武力:21 知力:62 政治:55
青州平原国般県の人。後漢の処士。若くして文才、弁舌、記憶力に優れたが傲慢な振舞いで人々から憎まれた。
興平年間(194年頃)荊州に避難していたが、196年に許都を訪れる。
当時、荀彧などの人士を軽蔑する一方で、孔融や楊脩また趙戩のみは評価していた。
その後、曹操を罵倒した為、荊州に追いやられ、最終的に江夏太守・黄祖の元へ送られる。
子の黄射とは、一緒に旅行したり宴会では頼まれて『鸚鵡賦』を作ったりと仲がよかった。
しかし198年の十月、蒙衝船での大宴会で黄祖の不興を買い、鸚鵡洲で殺される。後に黄祖は悔いて厚く埋葬した。
120
:
名無しさん
:2024/07/26(金) 22:52:18 ID:Hy4HQRpk0
許劭 子将 キョショウ シショウ (生没年不詳 死去は195年以降 45歳で没)
豫州汝南郡平輿県の人。後漢の人物批評の大家。初め汝南郡の功曹となり、太守の徐璆から敬われた。
従兄の許靖とは不仲だが共に人物評を好み、汝南で毎月初めに開いた批評会は「月旦評」と呼ばれる。
その影響力は強く、袁紹は故郷へ戻る際に供回りを置いて一台の車で帰宅し、
曹操は許劭に無理やり迫って「清平の姦賊、乱世の英雄」の評を得て、劉繇は批判を恐れて太史慈の起用を躊躇ったほどだった。
楊彪などに僻されたが就かず、広陵へ避難するも陶謙の軽薄さを見抜き、劉繇に身を寄せた。
孫策が呉を平定すると劉繇と豫章に逃れ死去した。
121
:
名無しさん
:2024/07/26(金) 22:53:36 ID:Hy4HQRpk0
劉雄嗚 リュウユウメイ (生没年不詳)
統率:58 武力:51 知力:41 政治:35
司州京兆尹藍田県の人。覆車山の麓に住み薬草取りと狩猟を生業としていた。
濃霧の中を迷わず歩けたため当時の人からは霧を起こせると噂される。李傕らにより三輔が乱れると民衆は彼の元に身を寄せた。
建安年間は州郡に属したが、馬超の蜂起に従わず撃破された。
後に曹操の元を訪れると将軍位を与えられるなど厚遇されるが、部下達を説得できず結局反旗を翻した。
逃亡者などが集まり数千人の勢力で武関の街道口に拠るも、夏侯淵らに打ち破られ張魯の元へ逃れる。
最終的に降伏すると、曹操は罵りながらも彼の官位を戻して勃海に追いやった。
※『後魏風土記』には藍田山の頂に神仙の遊ぶ場所があり、劉雄嗚はそこで術を学んだという話もある。
122
:
名無しさん
:2024/07/26(金) 22:54:36 ID:Hy4HQRpk0
劉琰 威碩 リュウエン イセキ (?〜234年)
統率:31 武力:14 知力:72 政治:50
豫州魯国の人。蜀漢の車騎将軍。劉備が豫州刺史の頃(195年ごろ)に従事に召し出され、
同姓であるほか風雅で談論を好んだため厚遇された。
214年に益州が平定されると固陵太守に任命され、223年に劉禅が即位すると都亭侯に封じられる。
席次は李厳に次ぎ車騎将軍まで昇ったが、国政には参与せず、専ら諸葛亮に随行して批評や建議を行った。
232年に魏延と仲違いして妄言を吐いたため詰問を受け、元の官位のまま成都に送還される。
後に妻の胡氏が年賀から帰宅が遅いため劉禅と私通したと疑い殴って離縁する。結局、胡氏が訴え出たため処刑された。
123
:
名無しさん
:2024/07/26(金) 22:56:40 ID:Hy4HQRpk0
焦和 ショウカ (生没年不詳 ただし191年に田楷が、たぶん同時期に臧洪が刺史となってるので死去はその辺)
統率:21 武力:12 知力:43 政治:34
後漢の青州刺史。初平元年(190年)に青州刺史に着任。
当時、黄巾が跋扈し、英雄が次々に挙兵する中で反董卓同盟に参加し、黄河を渡って京域に進軍する。
しかし住民を保護する余裕もなく、袁紹、曹操が徐栄に敗れると黄巾が勢いを増して城邑を破壊した。
焦和は依然として武器や兵士を保有していたが対処ができず、また流言に惑わされて青州に逃亡する。
また賊軍が渡河できないように「陥冰丸」で氷を溶かしたり、巫祝を側において神々に祈祷させたりした。
室内では意気軒昂であったが屋外では混乱して命令を出せず、そのため青州は荒廃した。
※任官時期から恐らく劉備を平原の高唐令に任じている。
124
:
名無しさん
:2024/07/26(金) 22:57:22 ID:Hy4HQRpk0
孫瑣 ソンサ (あるいは孫璅ソンソウ)(198年〜?)
曹丕の妾。魏の守衛・孫世の娘。八歳の時に夢の中で神仙に出会い、目覚めると一人で溜息をつくようになり、
哀しみの声は切なく体は軽やかに飛ぶ仙女のようだった。
建安十七年(212年)、曹丕は北園で宴を開いたが名のある歌妓に歌わせるも満足しなかった。
そこで当時十四歳の孫瑣が呼び出される。彼女は歌と踊りが得意で、
その清らかな歌声と優美な舞いにはみなが立ち上がって賞賛した。また化粧直しの後、「清商」「白雪」という二曲の歌を奏でた。
彼女の姿と歌声を気に入った曹丕は良い日を選んで妾に迎え入れた。
125
:
名無しさん
:2024/07/27(土) 19:03:31 ID:SFUso4SM0
李譔 欽仲 リセン キンチュウ (?〜没年258- 263年の間)
統率:32 武力:26 知力:78 政治:54
益州梓潼郡涪県の人。蜀漢の太子僕。父は李仁。父から司馬徽や宋忠の学問を継承し、尹黙に師事して書物の道理を研究する。
また五経、諸子百家を読破し、算術、卜占、薬学、弩、ばね仕掛けの機械など思索の幅は多岐にわたった。
初め益州書佐、尚書令史となり、延煕元年(238年)、劉璿が太子となると太子庶子、太子僕を勤め、
後に右中郎将に転じるも引続き太子に近侍した。
太子からは博識を寵愛されたが、ふざけるのが好きな性格で世間からの評価は低かった。
彼の古文学の著述は賈逵、馬融に準拠し、魏の王粛の論と一致する部分が多くあった。
126
:
名無しさん
:2024/07/27(土) 19:04:02 ID:SFUso4SM0
刁玄 チョウゲン (生没年不詳)
統率:26 武力:15 知力:71 政治:68
揚州丹陽郡の人。呉の侍中。有名な儒者で、黄龍元年(229年)の孫登の立太子に伴い謝景、范慎、羊衜らと賓客に任じられる。
赤烏四年(241年)ごろに出された孫登の最期の上疏では「度量が広く、ひたすら道の真髄を踏み行っている」との評価を受けた。
太平元年(256年)、五官中郎将として蜀を訪問し、呂拠、滕胤の誅殺を報告した。
このとき司馬徽と劉廙による国家と帝位の運命に関する議論を得て、これを勝手に改竄して呉に広めた。
孫亮が在位中は侍中として仕え、孫覇の子・孫基の赦免を請い、恩赦の範囲に関して助言した。
127
:
名無しさん
:2024/07/27(土) 19:04:51 ID:SFUso4SM0
支婁迦讖 シルカセン(あるいは支讖) (生没年不詳)
月支国の人で「婁迦讖」は本名の「ローカクシェーマ」の音訳。後漢の訳経僧。若い頃に漢語を習い、大よそ通じるようになる。
また多くの経典を暗記し、仏法の宣揚を志して桓帝の末年頃(167年)に洛陽を訪れた。
霊帝期の光和二年(179年)、天竺の竺佛朔が『般舟三昧』を作る際は、竺佛朔が経文を読み上げ、
支婁迦讖が口語訳を行い、漢人の孟福、張蓮らが写筆を担当する。
他にも光和・中平年間(178〜188年)に胡文を伝訳して
『般若道行品』『首楞嚴』『阿闍世王』など大乗系の経典を多く作った。弟子に支亮。
128
:
名無しさん
:2024/07/27(土) 19:05:37 ID:SFUso4SM0
鄧颺 玄茂 トウヨウ ゲンボウ (?〜249年)
統率:22 武力:21 知力:56 政治:44
荊州南陽郡の人。鄧禹の後裔。初め都で名声を上げ、明帝期に尚書郎、洛陽県令に任じられるがある事件で罷免される。
人事に携わる際は、金銭を好み公平さを欠いたために悪評が流れた。
後に中書侍郎として復帰するも、諸葛誕や李勝らとの軽薄な行いや「四聡八達」などの売名行為が曹叡の怒りを買い232年に再び免官となる。
明帝崩御後は潁川太守から曹爽の長史、侍中尚書へと栄転し、何晏などと権勢を握った。
また曹爽に蜀討伐を勧めて興勢の役を起こすが結局失敗する。
正始十年(249年)に政変が起こると曹爽ともども処刑され三族皆殺しとなった。
129
:
名無しさん
:2024/07/27(土) 19:26:20 ID:SFUso4SM0
何祇 君粛 カシ クンシュク (生没年不詳 没年47歳)
統率:60 武力:56 知力:65 政治:74
益州蜀郡の人。蜀漢の広漢太守。若いころは貧しかったが、寛容で情に厚く、明るくて大柄だった。
しかし、節度を保たない態度から評判は良くなかった。
初めは門下書佐だったが、楊洪から才能を評価されて郡に仕え、後に督軍従事として牢の監督にあたる。
彼の放蕩三昧の噂を聞いた諸葛亮が不意に視察に来たが、事前にそれを知ると夜に牢を回り罪状を全て暗記して事なきを得た。
後に外に出て成都令、汶山、広漢、犍為太守を歴任し、民や異民族から信頼を受けた。
広漢太守の頃に病身の張嶷が旧縁を頼って来ると、家財を傾けてこれを助けた。
130
:
名無しさん
:2024/07/27(土) 19:27:33 ID:SFUso4SM0
張咸 チョウカン (生没年不詳)
統率:64 武力:54 知力:42 政治:34
呉の江陵督。鳳凰元年(272年)、西陵督の歩闡が反乱を起こし、晋に投降する事件が起きる。
張咸は陸抗の命で大きな堰堤を築いて、敵軍の妨害と投降者の防止のために江陵の平野を水没させた。
来寇した羊祜は糧食を船で運ぼうと考え、逆に「歩兵で堤を壊す」と宣伝して呉に堤を守らせようとする。
しかし意図に気づいた陸抗の命で、張咸は堰堤を切り壊して晋軍を疲労させた。
こうして張咸が将の任延と共に晋軍と対峙している間に、陸抗の本隊が楊肇を撃退したため羊祜も撤退した。
131
:
名無しさん
:2024/07/27(土) 19:28:42 ID:SFUso4SM0
劉猛 リュウモウ (?〜272年)
統率:73 武力:76 知力:35 政治:54
南匈奴の部帥、右賢王。去卑の弟、あるいは子。子に副崙。泰始七年(271年)正月に劉猛は反乱を起こし、長城を越えて孔邪城に拠った。
同年の十一月には并州を略奪したが并州刺史の劉欽に破られる。
翌年の正月、節を与えられた何禎の総指揮のもと、路蕃を先鋒に胡奮が後詰となって硜北に駐屯する。
劉猛の部隊はたびたび胡奮らに敗れたが、何禎は劉猛の凶暴さと兵の多さを危惧して、部下の将・李恪を利で誘って劉猛を暗殺させた。
息子の劉副崙は父が殺されると拓跋部に奔り、劉猛と兄弟の誥升爰が部族を統率した。
132
:
名無しさん
:2024/07/27(土) 19:30:39 ID:SFUso4SM0
和洽 陽士 カコウ ヨウシ (生没年不詳)
統率:33 武力:25 知力:71 政治:78
豫州汝南郡西平県の人。魏の太常。許劭に推挙されたが、何進や袁紹らの招きには応じず、荊州に逃れて武陵郡に移った。
曹操が荊州を得ると丞相掾属に召され、当時人事を司っていた毛玠と崔琰に、倹約のみを重視すると虚飾の害があると進言する。
魏国が建てられると杜襲らと侍中を勤め、毛玠の誹謗事件では彼を弁護し命を救う。曹操が漢中を落とした際は徒民を進言した。
後に曹操が死去すると司馬孚と協力して禅譲と曹丕の即位に尽力し光禄勲、安城亭侯に封じられる。
明帝期には太常に移り、234年に山陽公が亡くなるとその葬儀で霊を祭った。
133
:
名無しさん
:2024/07/27(土) 19:33:11 ID:SFUso4SM0
胡潜 公興 コセン コウコウ (生没年不詳)
統率:15 武力:18 知力:62 政治:73
冀州魏郡の人。蜀漢の博士。
広い学識はなかったが優れた記憶力を有し、祖先祭祀の方法、葬儀の規則、親疎による服喪の基準などを熟知した。
益州が平定されると胡潜と許慈は博士に任じられ、孟光、来敏らと慣例制度を受け持った。
しかし儀礼などに異論が出ると、許慈と胡潜は互いをやり込めようと声を荒げて非難しあい、
相手の持っていない書物を貸し借りせず、時には鞭で脅す有様だった。
哀れに思った劉備は、宴会で芸人に命じて二人の様子を滑稽に演じさせ反省させた。
134
:
名無しさん
:2024/07/27(土) 19:36:23 ID:SFUso4SM0
黎斐 レイヒ (生没年不詳)
統率:69 武力:73 知力:42 政治:35
呉の武将。太平二年(257年)、魏の諸葛誕が寿春に立て篭もり呉に降伏を申し入れる。
魏軍二十万がこれを包囲すると文欽、唐咨、全端らが城内に入り、朱異は別働隊を率いて城外で牽制をした。
しかし、朱異が州泰に敗れたため孫綝は大動員をかけ、丁奉と黎斐に五万の軍勢で包囲を切り崩すよう命じた。
丁奉は黎漿で力戦したが、諸葛誕は敗れ、朱異も再び州泰や石苞らに敗れ、また輜重も胡烈に焼かれたため撤退した。
『集解』李善注によると鍾離斐と同一人物で、その説を採れば黎斐は果敢な軍事行動で名声があった。
※『三國志』注は「鍾離斐」表記だが、『文選』「弁亡論」では「丁奉離斐以武毅稱」と「鍾」がない。
また「黎」と「離」の音が似る、丁奉と黎斐がセットで活躍しているなどが同一人物説の論拠。また鍾離斐は、鍾離牧の誤字説もあり。
135
:
名無しさん
:2024/07/27(土) 19:38:35 ID:SFUso4SM0
盧耽 ロシン (生没年不詳 死去年はだいたい210〜220年)
広州の人。呉が統治する広州に仕えて治中を勤める。若くして仙術を学び、飛行術を得意とした。
いつも家に帰るときは空を飛び、暁になると帰った。
ある時、年賀に赴いたが時間に間に合わず、白鵠に変化して楼閣の前に降りようとした。
しかし、儀礼官が石を投げてきたため、うっかり履物を片方落としてしまう。
驚いた盧耽は遠くに並んだが、集まった者達はみなこの事態に驚愕した。
当時の広州刺史であった歩隲は激怒して、すぐに事の顛末を聞くと盧耽を誅殺した。
136
:
名無しさん
:2024/07/27(土) 19:40:09 ID:SFUso4SM0
鍾離徇 ショウリジュン (?〜280年)
統率:68 武力:62 知力:75 政治:51
揚州会稽郡山陰県の人。呉の偏将軍。鍾離牧の三男。偏将軍の位を得て、西陵を守備した。
ある時、監軍使者の唐盛と西陵付近の地勢を論じた際に、宜城と信陵は建平郡の重要な後援地であるため、敵に先んじて城を築くよう主張する。
しかし唐盛は、施績や留平など、この地を預かった知将からそういった意見が無かった事からその計画を採用しなかった。
それから半年後に果たして晋が部将を使い信陵に城を築いてしまう。
天紀三年(279年)、晋が呉の平定に乗り出し、王濬が大船で長江を下ると、鍾離徇は水軍を率いてこれを迎撃し戦死した。
137
:
名無しさん
:2024/07/27(土) 19:40:42 ID:SFUso4SM0
楼異
曹操配下で呂布が濮陽を奪った時に火傷した曹操を助けた
138
:
名無しさん
:2024/07/27(土) 19:42:30 ID:SFUso4SM0
厳憲 ゲンケン (生没年不詳 65歳で没 生年は190〜200年あたりか)
司隷京兆尹の人。杜有道の妻。人の才能を見抜くことに長ける。
十二歳の時に嫁ぎ、十七歳で寡婦となるが再婚せず二子を教育し育て上げた。
子の杜植は後に南安太守となり、娘の杜韡は淑德があるとして傅玄から後妻に求められる。
当時、権勢を誇った何晏や鄧颺と傅玄は不仲なため皆反対したが、司馬懿の反撃を予測して婚姻を許した。
また甥の杜預が誣告を受け征還すると「諺に忍耐は三公に至るとあり、よく耐えれば高官に登れます」と書で戒める。
傅玄の連れ子の傅咸に会った際は「貴方は千里の駒、必ず大成します」と言い、姪を妻に与えた。
※杜有道は杜恕の弟。
139
:
名無しさん
:2024/07/27(土) 19:43:13 ID:SFUso4SM0
趙岐 邠卿 チョウキ ヒンケイ (亡命前の名を趙嘉・台卿) (?〜201年 90余歳で死去)
統率:61 武力:52 知力:76 政治:74
司隷京兆尹長陵県の人。後漢の太常。妻は馬宗姜。若くして経書に明るく才能があった。州郡に仕えて廉直さを畏れられる。
しかし、中常侍の親類を非難して恨みを買い、158年に甥を連れて各地を放浪した。
また敵対した宦官一族が滅び招聘されるも、党錮にあい禁固となる。
184年、黄巾賊の蜂起により再び抜擢され張温の西征に随行、長安遷都にも従い太僕に昇進した。
李?が天下を慰撫させるため馬日磾を派遣するとその副使となる。
趙岐は洛陽の復興のため劉表に援助を求め、老齢から自身は荊州に留まった。著述は『孟子章句』『三輔決録』など。
※妻は馬融の従妹か姪。甥は趙戩。宦官から逃げた後、一族はほとんど誅殺された。
亡命時は最終的に北海で利益の出ない餅売りをしており、孫嵩に匿われた。
何進のもとで敦煌太守に任じられたが、着任の途中で辺章に捕らえられ、何とか逃げ延びた。
副使として袁紹と公孫サンの停戦の使者となり、袁紹や曹操らと洛陽に献帝を迎える約束をしたがすっぽかされた。
荊州では恩人の孫嵩と再会できた、等、長生きからかイベントが多い人生をおくる。
140
:
名無しさん
:2024/07/27(土) 19:43:44 ID:SFUso4SM0
冬逢 トウホウ (生没年不詳)
越雟郡蘇祁の邑君。妻は旄牛族の王の娘。
一度、蜀漢に帰順したが、その後ふたたび反乱したため239年頃に張嶷に斬られた。
旄牛王女 ボウギュウオウジョ (生没年不詳)
漢嘉郡境の南夷。旄牛族の王の娘。弟に離、現王・狼路の叔母にあたる。
夫の反乱の鎮圧時に捕えられたが張嶷の計略で解放された。
隗渠 カイキョ (生没年不詳)
越雟郡蘇祁の南夷。冬逢の弟。剛勇敏捷で諸族に畏怖された。兄と共に蜀漢に反乱し、張嶷に敗れると西境に逃亡。
側近二人を張嶷への間者に送るも、離間計によってその二人に殺された。隗渠が斬られたことから諸族は服従した。
141
:
名無しさん
:2024/07/27(土) 19:45:09 ID:SFUso4SM0
狼路 ロウロ (生没年不詳)
旄牛族の大人。漢嘉郡の境に四千余戸の勢力を率いた。義叔父・冬逢の報仇のため、叔父の離を派遣するが張嶷に懐柔される。
後に郡旧道の復旧を打診されると妻子を伴って帰順し張嶷と誓いを結んだ。旧道が復旧すると旄牛㽛毗王に封じられ朝貢を行った。
離 リ (生没年不詳)
漢嘉郡境の南夷。旄牛族の王の子。狼路の叔父。姉は冬逢に嫁いだ。
狼路の命で冬逢の手勢を率いて張嶷の様子を窺うも、張嶷から慰労を受け、また姉も生きて戻ってきたため領民を率いて帰順した。
142
:
名無しさん
:2024/07/27(土) 19:47:22 ID:SFUso4SM0
魏狼 ギロウ (生没年不詳)
越雟郡の北境の捉馬族の指導者。捉馬族は勇猛な部族で、蜀漢の支配に抵抗したが張嶷に捕縛される。
しかし、張嶷が戒めを解き、残党への帰順を呼びかけたため反乱は平定された。
魏狼は邑侯に封じられ、三千余戸の部族は土地に落ち着いた。このことがあってから郡で諸族が帰順してきた。
李求承 リショウキュウ (生没年不詳)
越雟郡斯都県の渠帥。元越雟太守の龔祿を手ずから殺害した。
張嶷は太守に赴任すると李求承の捕縛者を募集し、捕えると罪を数え上げこれを斬った。
狼岑 ロウシン (生没年不詳)
越雟郡定莋県の渠帥。槃木王の舅。蛮夷に深く信任され、塩鉄を目的とした張嶷の侵入に憤り自ら出向かなかった。
張嶷は壮士数十人でこれを捕え鞭打って殺し、威恩を以って慰撫しため部族は帰順した。
槃木王 バンボクオウ (生没年不詳)
西南夷の一種の槃木族の王。狼岑の娘を妻とした。
143
:
名無しさん
:2024/07/27(土) 19:48:20 ID:SFUso4SM0
※訂正
李求承 リショウキュウ (李承之とも) (生没年不詳)
越雟郡斯都県の渠帥。高定の都督で章武三年(223年)に越雟太守の焦璜を攻め殺し、
後に同太守に派遣された龔祿も手ずから殺害した。
張嶷は239年頃に太守に赴任すると李求承の捕縛者を募集し、捕えると罪を数え上げこれを斬った。
144
:
名無しさん
:2024/07/27(土) 19:49:43 ID:SFUso4SM0
爨習 サンシュウ (生没年不詳)
統率:63 武力:51 知力:35 政治:51
益州建寧郡同楽県の豪族。後の「爨族」の祖。爨氏は建寧の大姓。妻は李恢の伯母。劉璋の時代に建伶県長を務める。
そのころ、法律違反で李恢も連座して免官となるところを、地方の豪族に配慮した董和の提言で不問とされた。
建興三年(225年)の南征が終わると諸葛亮は爨習などその地の豪族らに官位を与え、中央に召した。
建興九年(231年)の李厳の罷免の上奏文では行参軍偏将軍として名を連ね、後年、領軍将軍まで昇った。
※陶コウ伝に出てくる建寧の爨谷、爨能は恐らく同族
145
:
名無しさん
:2024/07/28(日) 19:26:11 ID:xGwwpohw0
孟琰 休明 モウエン キュウメイ (生没年不詳)
統率:67 武力:52 知力:45 政治:40
益州朱提郡の豪族。孟氏は南中の大姓。
建興三年(225年)の南征が終わると、諸葛亮は孟獲や孟琰などその地の豪族に官位を与え、中央に召した。
建興十二年(234年)、五丈原の戦いに虎歩監として従軍し、諸葛亮の命で武功水(河名)の東に進軍する。
その月の二十日、司馬懿が増水に乗じて一万の騎兵で攻め寄せると、諸葛亮は竹の浮橋を作って河越しに矢を射掛けた。
敵軍は橋の完成を見ると撤退した。のちに輔漢将軍にまで昇る。
※虎歩は蜀漢における中央軍の精鋭部隊
146
:
名無しさん
:2024/07/28(日) 19:27:27 ID:xGwwpohw0
焦璜 ショウコウ (生没年不詳)
南中の豪族(あるいは梓潼郡の人)。蜀漢の越雟太守。焦・雍・婁・爨・孟・量・毛・李氏は南中の大姓。
劉備が没した章武三年(223年)、越雟郡では叟夷が反乱を起こし、高定の都督・李求承によって斬られた。
龔禄 徳緒 キョウロク トクショ (生没年不詳)
統率:62 武力:42 知力:61 政治:59
益州巴西郡安漢県の人。蜀漢の越雟太守。龔氏は巴西の板楯蛮の大姓の一つ。父は龔諶、弟は龔衡。
郡内の士人として名声は高く、張嶷と親交を結んだ。214年に劉備が益州を平定すると郡の従事、牙門将となる。
建興三年(225年)に越雟太守となり、諸葛亮の南征に従った。
越雟では安全の為に郡から八百余里離れた安上県に治所を置いたが、後に叟人の李求承に殺害された。没年、三十一歳。
147
:
名無しさん
:2024/07/28(日) 19:28:33 ID:xGwwpohw0
龍祐那 リュウユウナ (佑那とも) (生没年不詳)
統率:60 武力:42 知力:34 政治:38
雲南西部・白崖の族長。漢の武帝に立てられた滇王・仁果の十五世孫。よく民衆を懐けて、その部族は白子国を号した。
建興三年(225年)、諸葛亮は南征時に白崖に立ち寄ると、龍祐那を族長に立て張姓を授けて民を統率させた。
その後は雲南に拠り、昆彌国、白国、建寧国など号した。
148
:
名無しさん
:2024/07/28(日) 19:29:09 ID:xGwwpohw0
火済 カサイ (済火とも) (生没年不詳)
統率:61 武力:67 知力:41 政治:57
益州牂牁郡の彝族の酋長。彝名(現地語)では妥阿哲。彫が深く長身で、肌は色黒、白い歯の持ち主。
戦場でも信義を尊び、民衆を良く慰撫したため諸蛮から推戴されていた。
建興三年(225年)の諸葛亮の南征時に兵糧を送り、軍を通行させ助けた功から、羅甸國王に封じられた。
貴州水西安氏の始祖とされる。
※1981年に大方縣城西響水柯家橋から妥阿哲紀功碑が出土。
149
:
名無しさん
:2024/07/28(日) 19:30:25 ID:xGwwpohw0
馬茂 バボウ (?〜245年)
統率:56 武力:37 知力:40 政治:37
元々は九江郡の鍾離の県長であったが、王凌の過失で呉に寝返った。
呉では征西将軍、九江太守、外部督のほか侯に封じられて、千人の兵士を率いた。
赤烏八年(245年)7月、馬茂は兼符節令の朱貞、無難督の虞欽、牙門將の朱志らと謀反を企てる。
それは孫権が御苑で射を行う際に、朱貞の節を使って公卿と部将を拘束し、先に御苑に入った孫権を馬茂が襲撃して、
宮中と石頭塢で魏の救援を待つというものだった。しかし、事が発覚したため関係者は一族皆殺しとなった。
※王凌が揚州諸軍事についたのは240年から。
150
:
名無しさん
:2024/07/28(日) 19:31:15 ID:xGwwpohw0
劉煕 成国 リュウキ セイコク (?〜建安末年221年ごろ卒)
統率:12 武力:10 知力:65 政治:57
青州北海国の人。後漢の安南太守。博覧多識で名を知られた人物で、辟召を断って交州に避難する。
交州では徴士(朝廷の招きを断った人物のこと)と呼ばれた。
劉煕は蒼梧や南海を往来して許慈や薛綜など生徒数百人を教え、また交州に来た程秉とは議論を重ね学門を深めた。
著作に『釈名』『諡法』『列女伝』『孟子注』などを残したが、『釈名』は事柄が多岐にわたることから誤りもあったため、
韋昭によって『官職訓』『弁釈名』がつくられる。建安末に亡くなると交州の崇山に葬られた。
※集解には、当時に安南郡はないので南安太守の間違いとも
151
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名無しさん
:2024/07/28(日) 19:31:54 ID:xGwwpohw0
李意期 リ イキ (生没年不詳)
益州蜀郡の仙人。漢文帝の時代(前180年頃)の人だが、謝元に師事して屍解により長命を得る。
御符や土塊をつかった術を使い、普段は成都城の片隅の土窟で単衣粗食で暮らした。
220年頃に劉備から呉征伐の吉凶を占うため招かれると、大量の兵馬や武器の絵を描いて、
その全てを破り地中に埋めて立ち去ってしまう。これは東征の失敗と劉備の病没を暗示するものであった。
李意期は無口であったため蜀の人が吉凶を相談する際は、彼の顔色を見て結果を占ったという。
後に琅邪山に入ると帰ってくることはなかった。
152
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名無しさん
:2024/07/28(日) 19:33:06 ID:xGwwpohw0
鄭宝 テイホウ (生没年不詳 没年は199年以降)
統率:58 武力:71 知力:32 政治:42
揚州の軍閥の首領。合肥近郊の巣湖で一万余を擁し、督将や精鋭数千を率いた。
揚州には幾つか軍閥があったが、鄭宝はその中でも勇猛果敢で実力があったため盧江の人士が多く身を寄せ、
また略奪で利益を上げたため地方で畏怖された。彼は民を駆り立て長江南岸へ渡るため、
皇族の劉曄に強要して旗頭とした。
その頃、曹操の使者が州の検分に派遣されると、劉曄は脱出の機会を探り鄭宝の暗殺を目論む。
鄭宝が使者へ挨拶に来たため宴で酔った隙を突こうとしたが、下戸であったため思い切った劉曄に斬り殺された。
153
:
名無しさん
:2024/07/28(日) 19:33:57 ID:xGwwpohw0
宋容華 ソウヨウカ (生没年不詳)
漢魏にかけての但歌歌手。「但歌」とは漢代から伝わる無伴奏の曲で、一人がまず唱え、三人が和した。
漢末には四曲が伝わり曹操がこれを好んだという。宋容華は清く透き通る声で、
善く但歌を歌ったため当時の人から賞賛された。しかし、晋代には但歌は伝わらず途絶えてしまった。
154
:
名無しさん
:2024/07/28(日) 19:35:46 ID:xGwwpohw0
鄭沖 文和 テイチュウ ブンワ (?〜274年 没時は60代)
統率:21 武力:13 知力:70 政治:78
司隷滎陽郡開封県の人。晋の大傅。寒門の出であったが、穏やかで私欲なく経書や史書など多くに通じた。
217年、曹丕が太子となると文学に任命され、尚書郎や陳留太守補佐など務める。
後に曹爽に引き立てられて従事中郎、散騎常侍、光禄勲に転じ251年には司空に昇る。
また曹髦にじかに尚書を教授するなど、賢者として重んじられたが世俗の事には関与しなかった。
司馬昭が蜀を平定すると賈充、羊祜らと礼儀、律令を定める。
司馬炎が即位すると続けて任用され、たびたび出された辞職要求も認められなかった。
諡は成。『論語集解』の著者の一人。
155
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名無しさん
:2024/07/28(日) 19:36:34 ID:xGwwpohw0
朱育 嗣卿 シュイク シキョウ (生没年不詳 没は263年以降)
統率:32 武力:24 知力:65 政治:62
揚州会稽郡山陰県の人。呉の東観令。若い頃より奇字を好み特殊な字を千字以上作り出した。
また占いが巧みで文芸百般に通じた。はじめ会稽郡に出仕して書記を務める。
太平二年(257年)の元旦、太守の濮陽興が部下を招いて宴会を開いた際に、
かつての王郎と虞翻の故事を知っている者はいないかと尋ねられた。
そこで朱育はその際のやり取りを詳細に語って聞かせ賞賛を受ける。
後に中央に移り東観令、清河太守、侍中を加えられた。
鍾離牧が濡須に駐屯していた頃、酒の席で鬱屈する彼を慰めた。著書に『会稽土地記』『幼學篇』『異字』など。
156
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名無しさん
:2024/07/28(日) 19:37:31 ID:xGwwpohw0
呂強 漢盛 リョキョウ カンセイ (?〜184年)
司隷河南郡成皐県の人。後漢の中常侍。若くして宦官となり、清く忠義を持って仕えた。
霊帝の時、宦官を侯に封じることが多発したが、功績が無いからと固辞する。
また公式に上奏して、宦官に高位を与えることや宮女の削減、豪邸建設などの問題のほか、
冤罪の蔡邕と段頴の妻子を徒刑から戻すよう諌めたが聞き入れられなかった。
黄巾賊が蜂起し霊帝から意見を求められると、党錮の解除と汚職者の排除を進言する。
それに焦った趙忠と夏惲らが讒言をなし、
強制召喚のため兵士が自宅に迫ると「我が死ねば乱が起こるぞ!」と激怒して自害した。
※集解曰く宦官で善人は東漢の呂強、唐の張承業、明の王安の三人のみ、とのこと。もしかしたら呂伯奢と同族。
157
:
名無しさん
:2024/07/28(日) 19:38:22 ID:xGwwpohw0
荀愷 茂伯 ジュンガイ ボウハク (生没年不詳)
統率:55 武力:75 知力:67 政治:72 (Ⅸ準拠)
豫州潁川郡潁陰県の人。晋の征西大将軍。
荀彧の曾孫、父は荀霬、母は司馬懿の娘で、外戚として高貴を自負していた。
景元四年(263年)の蜀攻めでは護軍として蒋斌の守る漢城を一万で攻囲する。
264年頃、父の功績から南頓子に封じられた。司馬炎の時代に侍中を務め、
司馬衷の観察を命じられると成長著しいと報告する。
永平元年(291年)の楊駿誅殺事件の際には、因縁のあった武茂や裴楷ら連座させ、武茂を死に追いやった。
また賈南風に同調して皇太后・楊芷を廃して庶人に落とした。『演義』では蜀将・盧遜を射て鍾会の危機を救った。
※恵まれた血筋から繰り出されるクズエピソードの宝庫が特徴。Ⅸの政治高すぎと思う。
158
:
名無しさん
:2024/07/28(日) 19:39:40 ID:xGwwpohw0
張機 仲景 チョウキ チュウケイ (生没年不詳 伝統的に150-219年とされる)
荊州南陽郡の人。後漢の長沙太守、医師。
幼くして何顒に医才を見出され、同郡の張伯祖に師事し医術を学んだ。
孝廉に上げられ長沙太守となったが、建安初期(196年)から十年と経たずに
二百以上いた一族の三分の二を失い、その内の七割が傷寒で死亡する。
そこで『素問』『九巻』『八十一難』『陰陽大論』『胎臚薬録』などの医書を元に、
症状を六段階に分けて具体的な処方を記した『傷寒雑病論』を著した。
後世、漢方医学の原典として重要視され、張機の名は早くも晋代には「医聖」と尊ばれた。
※他に見ただけで王粲の死期を悟った、餃子を発明した等の逸話が残る。
159
:
名無しさん
:2024/07/28(日) 19:40:33 ID:xGwwpohw0
趙韙(穎) チョウイ (?〜201年)
統率:70 武力:56 知力:61 政治:65
益州巴西郡安漢県の人。劉璋の征東中郎將。
初め中央で太倉令を務めたが、官を棄てて劉焉の入蜀に従い、王商の推薦で州帳下司馬となる。
劉焉没後は王商と共に劉璋を後継に立て、巴郡に駐屯し荊州を攻撃した。
また三輔流民の東州兵の狼藉が問題となると、劉璋からこれを預かる。
後に劉璋が諫言を入れないことを怨んで、劉表や益州の大姓と結び反乱を起こすと、蜀、広漢、犍為郡もそれに呼応した。
劉璋が成都で防ぎ、趙韙を恐れた東州兵も抵抗したため敗退。
翌年には江州まで攻め込まれ、配下の龐楽、李異の謀反で敗北し、斬られた。
※龐羲と並んで劉璋政権の双璧。
陳寿本文だと(劉備政権の正当性主張のためか)、謀反と噂されて殺され、それは劉璋の過失だと書かれる。
160
:
名無しさん
:2024/07/28(日) 19:41:19 ID:xGwwpohw0
趙媛姜 チョウエンキョウ (?〜200年)
益州犍為郡資中県の人。同郡の盛道に嫁いだ。
建安五年(200年)、夫の盛道は趙韙の反乱に呼応して劉璋を攻撃するが、軍が敗北して家族ともども捕縛され死罪となる。
その夜、媛姜は夫に逃げるように強く説得したが、従おうとはしなかった。
そこで彼の拘束を解き、糧貨を持たせ当時五歳の息子・盛翔を託して逃がした。
媛姜は見回りへ露見しないよう応対し、その後、時間を稼ぐと真実を告げて処断された。
盛道らは大赦で家に戻ると、媛姜の義に感じ入り生涯次妻を持たなかった。
※『華陽国志』だと若干ストーリーが異なる。
161
:
名無しさん
:2024/07/28(日) 19:42:12 ID:xGwwpohw0
楊駿 文長 ヨウシュン ブンチョウ (?〜291年)
統率:23 武力:20 知力:32 政治:48
司隷弘農郡華陰県の人。晋の太傅。若くして高陸令などを務め、
276年に娘の楊芷が皇后に立てられると外戚として車騎将軍、臨晋侯に封じられる。
当時、弟の楊珧、楊済らと朝廷の重職を占めたため合わせて「三楊」と呼ばれた。
289年、病に伏せた司馬炎が楊駿と司馬亮に後事を託そうとすると、
司馬亮を許昌に遠ざるよう計り、司馬衷即位後は中央で絶大な権力を握った。
しかし291年三月、賈南風による政変によって進退窮まり、厩に隠れているところを発見され殺害される。
楊氏三族は皆殺しになり、他に連座した者もあわせて死者は数千にのぼった。
162
:
名無しさん
:2024/07/28(日) 19:44:56 ID:xGwwpohw0
劉寔 子真 リュウショク シシン (220年〜310年)
統率:42 武力:23 知力:72 政治:68 (Ⅸ準拠)
青州平原郡高唐県の人。西晋の司空。漢皇族の末裔で弟に劉智。
家は貧しく牛の衣を売って暮らすが、学問を好んで古今に通じた。
計吏から出世して尚書郎、廷尉正、吏部郎、司馬昭の相国軍事など務め循陽子に封じられる。
蜀征伐の成否について「蜀は滅びるが、(鍾会らは)戻らないだろう」と予見した。
呉征伐では鎮南軍司を代行し、一時後妻の子の贈賄で免官となるも、
復位して司馬衷の子・司馬遹の師を務め、司空などに高官を歴任する。
司馬穎と司馬乂の争いで郷里に避難したが、司馬遹が即位すると太尉を授けられた。諡は元。
※他に身長7尺未満、兄弟で官を極めたが簡素な生活をつづけた、管輅を高く評価した、
著書に『崇讓論』『春秋左氏條例』十卷『春秋公羊違義』三卷など
163
:
名無しさん
:2024/07/28(日) 19:45:37 ID:xGwwpohw0
劉智 子房 リュウチ シボウ (?〜289年ごろ 生年は220年以降)
統率:38 武力:20 知力:71 政治:65
青州平原郡高唐県の人。西晋の太常。漢の済北恵王・劉寿の末裔で劉寔の弟。
家が貧しく薪を売って生活するも、読書を辞めず儒学に名声があった。
中書、黄門吏部郎を経たのちに潁川太守、入朝して秘書監となる。
同郡の管輅を高く評価し、兄や裴徽、鄧颺、何晏らと昼夜議論に及んだという。
また司馬炎の子・司馬柬の師となり、散騎常侍を加えられ、侍中、尚書、太常などを務める。
劉智は礼や暦法に詳しく、侍中の頃に斗歴を改め四分法を推薦し正暦と名付けた。
諡は成。著書に『喪服釋疑論』『正歴』四卷などがある。
164
:
名無しさん
:2024/07/28(日) 19:47:08 ID:xGwwpohw0
第五巡 文休 ダイゴジュン ブンキュウ (生没年不詳)
司隷京兆尹長陵県の人。第五種の子。
遠い祖先は斉の田氏であったが、園陵に移民する田氏が多かったためその順番を姓とした。
同郡の韋端(休甫)、金尚(元休)らと著名であり、あわせて「京兆三休」と並び称される。
京兆尹で上計掾(地方の情報を都に報告する官)を務め、最終的に太尉掾となった。
※鄭玄の師・第五元先は第五種か、上の世代の同族だろう。
165
:
名無しさん
:2024/07/29(月) 22:45:20 ID:Lci.MQiY0
劉詳 リュウショウ (生没年不詳)
統率:62 武力:45 知力:54 政治:53
荊州零陵郡烝陽県の人。後漢の江夏太守、盪寇將軍。劉巴の父。
初平元年(190年)、董卓打倒のため北上する孫堅が南陽太守・張咨を殺害するとこれに呼応した。
初平四年(194年)春、袁術が曹操を攻撃するべく兗州に侵攻するとこれに従う。
劉詳は匡亭に駐屯したが、曹操に攻撃され、また救援に訪れた袁術の本隊も大敗した。
後に劉詳は南陽に向ったが、張咨殺害の件を怨んだ郡民と戦い死亡した。
※明記されていないが、劉巴父と袁術の将である劉詳を同一人物ととらえた。
166
:
名無しさん
:2024/07/29(月) 22:45:53 ID:Lci.MQiY0
毛炅 モウケイ (?〜271年)
統率:73 武力:72 知力:64 政治:48 (Ⅸ準拠)
益州建寧郡の人。晋の鬱林太守。咸熙元年(264年)、呉の交趾太守・孫靖が配下の呂興に殺害され魏に投降すると、
霍弋は配下の爨谷を太守に据え、牙門将の董元、毛炅らを派遣する。
呂興、また爨谷などの死が続くも、楊稷率いる晋軍は呉の交州刺史・劉俊、脩則を攻め、
毛炅、董元らは合浦で呉軍を大破し二名を斬った。この功績で鬱林太守に任じられる。
泰始七年(271年)、呉の薛詡や陶璜に敗れて交趾に退いたが、そこで陶璜に包囲され食料も尽きて投降した。
毛炅は陶璜の襲撃を目論んだが察知され、陣にいた脩允に父の仇と腹を切られ死んだ。
167
:
名無しさん
:2024/07/29(月) 22:46:49 ID:Lci.MQiY0
黄昂 コウコウ (生没年不詳)
涼州酒泉郡の人。黄氏は郡の豪族であったが、建安年間に酒泉太守・徐揖によって一族が処刑された。
黄昂はなんとか城外に脱出すると、私財を投じて千人ほどの手勢を集め、徐揖を攻撃する。
このとき、龐淯や楊豊が張掖郡などに救援要請に向ったが、その前に城を陥落させ徐揖を殺害した。
また張掖でも反乱が起こったため二郡で連携したが、
羌族を率いた楊豊の計略によって酒泉の郡民は大軍を恐れて散逸する。
黄昂は一騎で逃れたが、結局捕縛され楊豊に殺された。
168
:
名無しさん
:2024/07/29(月) 22:48:57 ID:Lci.MQiY0
黄華 コウカ (?〜253年)
涼州酒泉郡の人。魏の兗州刺史。おそらく黄昂の同族。
延康元年(220年)五月、東方にいたが、黄昂が殺害されると酒泉郡に戻り郡を支配した。
黄華は反乱した張掖郡の張進と同盟し、また太守不在の敦煌郡とも手を結ぼうと実質的長の張恭の息子を捕らえる。
しかし白刃で脅しても息子は屈さず、また敦煌の軍が酒泉郡に侵攻したため張進の救援も出来ず、
麹演も敗れたため金城太守の蘇則の元に出頭した。
降伏後は兗州刺史にまで昇り、251年に王凌による皇帝廃立の陰謀を司馬懿に密告した。
169
:
名無しさん
:2024/07/29(月) 22:50:29 ID:Lci.MQiY0
張進 チョウシン (?〜220年)
涼州張掖郡の人。延康元年(220年)五月、太守の杜通を捕らえ郡を支配し、涼州刺史・鄒岐の着任を拒絶する。
酒泉の黄華や西平の麹演らもこれに呼応し、また涼州、雍州の豪族らも羌族を捕らえてこれに付き従った。
金城太守の蘇則は援軍を待てば事態が悪化すると速戦を主張。
郝昭や魏平らと武威太守の毌丘興を救援すると、その軍勢を合わせて張掖を攻撃する。
そのとき麹演が偽って援軍に来るとこれを誅殺し、
曹真が派遣した費耀らと共に張掖を破って張進とその支持者らを斬った。
170
:
名無しさん
:2024/07/29(月) 22:51:24 ID:Lci.MQiY0
張猛 叔威 チョウモウ シュクイ (?〜210年)
涼州敦煌郡淵泉県の人。後漢の武威太守。
父に張奐、兄に張芝、張昶。華陰県で暮らし、196年頃に郡に仕えて功曹となる。
雍州が新設されると、邯鄲商が刺史となり、武威太守に張猛が指名された。
しかし、道中で二人は諍いを起こし、着任すると相争って邯鄲商を殺害した。
209年、龐淯が張猛の禁令を破り邯鄲商の仇を討ちに訪れると彼を「義士」として殺さずにおいた。
また楊豊が逃れてくると仮の都尉に任じ黄昂への復讐を公認する。
210年、韓遂が上表して討伐に来ると、官民は恐れをなして逆に張猛を攻撃したため、二階にのぼり焼身自殺した。
171
:
名無しさん
:2024/07/29(月) 22:52:16 ID:Lci.MQiY0
靳詳 キンショウ (生没年不詳 演義では「鄞祥」表記で郝昭より年上)
并州太原郡の人。蜀漢の監軍。同郷の郝昭とは若いころ仲が良かった。
建興六年(228年)、諸葛亮が陳倉城を包囲すると、守将の郝昭を説得するために靳詳を遣わした。
しかし、「魏の法律やわしの性格を承知のはずだ。死を賭して戦う故、攻めてこい。」と追い返される。
諸葛亮が再び向かわせて「寡兵で無駄死にするな。」と説いたが
「わしは君を知るが、矢は君を知らないぞ。」と言い放ったため退いた。
『演義』でもほぼ同じ展開だが、郝昭とは共に隴西の出身で、兄や賢弟と呼び合う義兄弟のような関係。
※魏の法律云々から、成人してから魏で官職につき、後に蜀へ降伏したと思われる
172
:
名無しさん
:2024/07/29(月) 22:53:33 ID:Lci.MQiY0
薛夏 宣声 セツカ センセイ (生没年不詳)
涼州漢陽郡の人。魏の秘書丞。寒門であったが郡の大姓に迎合せず、東方に避難して曹操から礼遇される。
後に豪族らの陰謀で捕縛されるも、冀州にいた曹操の計らいで釈放され、軍謀掾に任じられた。
曹丕からも「薛君」と名を呼ばなかったり、終日議論したりと特別な扱いを受ける。
太和年間(227年〜233年)に公務で蘭台を訪問しようとすると、
蘭台側が秘書署を低く見て薛夏を脅迫すると、
「蘭台が外台なら、秘書は内閣で、台閣は一体である。移動に何の問題があるか。」と伝えると、
蘭台側は反論できず、その後、往来が慣例になった。
173
:
名無しさん
:2024/07/29(月) 22:54:45 ID:Lci.MQiY0
龍安 リュウアン (生没年不詳)
西域の焉耆国の王。太和元年(227年)十月に王子であった龍安は魏に入朝した。
その後、帰国して焉耆国王に即位する。
泰始六年(265年)九月に晋に献物を贈り、太康六年(285年)十月に王子・龍会を入朝させた。
龍安の妻は獪胡族の娘で、妊娠十二か月を経て、わき腹を割いて龍会を生んだという。
龍安は病が篤くなると龍会に
「我はかつて亀茲国王の白山に恥辱を受け、忘れたことはない。汝がこれを雪げ。」と遺言した。
勇猛であった龍会は亀茲国を征服し、西胡に覇を唱える。
しかし、自身の勇を恃んで軽率であったため、亀茲国人の羅雲に殺された。
174
:
名無しさん
:2024/07/29(月) 22:55:41 ID:Lci.MQiY0
白山 ハクザン (生没年不詳)
西域の亀茲国の王。亀茲国は白氏を王に戴き、三重の城郭に千の仏塔や壮麗な王宮を有した。
また姑墨国・温宿国・尉頭国を服属させていた。太康六年(285年)十月に王子を晋に入朝させる。
白山はかつて焉耆王の龍安に恥辱を与えたことがあったが、
その恨みから息子の龍会によって討たれ、亀茲国も服属させられた
175
:
名無しさん
:2024/07/29(月) 22:56:53 ID:Lci.MQiY0
藍庾 ランユ (生没年不詳)
西域の大宛国(フェルガナ)の王。泰始六年(265年)九月に晋に汗血馬を献じた。
また太康六年(285年)、司馬炎から楊顥が派遣され、藍庾を大宛王に封じた。
藍庾が死去すると息子の摩之が跡を継いだ。
176
:
名無しさん
:2024/07/29(月) 22:58:20 ID:Lci.MQiY0
那鼻 ナビ (生没年不詳)
西域の康居国の王。建興五年(227年)、侯の康植を蜀漢に派遣して誼を通じ、北伐に呼応する構えを見せる。
その後、咸熙二年(265年)に魏に名馬を献じ、泰始年間(265年〜274年)にも晋に名馬を献じた。
177
:
名無しさん
:2024/07/29(月) 22:59:29 ID:Lci.MQiY0
范熊 ハンユウ (生没年不詳)
林邑国(チャンパ)の王。永和二年(137年)、日南郡象林県で功曹の區憐が長吏を殺害し、その子・區連が林邑国王を称した。
區連の子孫のうち後継ぎがいなくなると、區連の外孫である范熊が王位を継ぐ。
226年頃、呂岱が九真を討伐し南方に役人を派遣するようになると、呉に使者を送り貢物を献上した。
泰始四年(268年)にも晋に金盤椀および金鉦などを献じる。
また、太康四年(284年)に紫水晶の唾壺、青、白水精の唾壺を、
陶璜経由でも縹紺水精盤を献上した。死去すると子の范逸が継ぐ。
※268年の朝貢は林邑王・胡達と書かれるが、陶璜の上表では夷帥として范熊の名がみられる。
178
:
名無しさん
:2024/07/29(月) 23:00:57 ID:Lci.MQiY0
范尋 ハンジン (生没年不詳)
扶南国の王。仕えていた王の范旃が従弟の范長に殺されると仇を討って王位に就く。
国内をよく治め、配下と闘鶏を楽しみ、象に騎乗して入出した。
牢獄はなく、罪人は城内で飼育している虎や鰐が食われなければ無罪とした。
国は豊かだったが、男子は裸、女子は貫頭衣を着る程度で、
呉から派遣された中郎・康泰、宣化従事・朱應らがその風俗を訝しむと、
范尋は国内の男子に服を着るよう命じる。
赤烏六年(243年)十二月、呉に楽人や貢物を献上したが、朝貢する一方で時折、反逆した。
泰始元年(265年)からはたびたび晋へ朝貢を行った。
179
:
名無しさん
:2024/07/29(月) 23:01:52 ID:Lci.MQiY0
莫護跋 バクゴバツ (生没年不詳)
鮮卑の渠帥。慕容部の祖。子に木延。魏のはじめに諸部族を連れて遼西に入居する。
238年、司馬懿による公孫淵征伐に功があり率義王を拝命すると、昌黎郡の棘城の北に国を建てた。
当時の燕、代の地方に歩揺冠という冠があり、莫護跋はこれを好んで付けていたため、諸部族から「歩揺」と呼ばれる。
これが訛って「慕容」という部名になったという。
或いは二儀の徳を「慕」い、三光の「容」を継いだ事が由縁とも言われる。
180
:
名無しさん
:2024/07/29(月) 23:02:49 ID:Lci.MQiY0
木延 ボクエン (生没年不詳)
幽州昌黎郡棘城の鮮卑。慕容部の大人。父は莫護跋、子に慕容渉帰、慕容耐。慕容部の左賢王に封じられる。
正始五年(244年)、魏の毌丘倹の高句麗征伐に従った功績で大都督を加号された。
181
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名無しさん
:2024/07/29(月) 23:04:36 ID:Lci.MQiY0
慕容渉帰 ボヨウショウキ (?〜283年)
幽州昌黎郡棘城の鮮卑。慕容部の単于。別名に弈洛韓。父は木延、弟に慕容耐、子に吐谷渾、慕容廆。
同じ鮮卑の宇文部とは因縁があった。柳城を全うした功績で鮮卑単于を拝命する。
後に遼東の北方に移住し、中華の風俗に倣うようになった。太康二年(281年)、十月に昌黎郡に侵略した。
翌年三月、晋の安北將軍・厳詢と昌黎で戦うも、敗北して数万が殺傷された。
翌年十二月に死去。生前に庶長子の吐谷渾に千七百戸を分割して与えた。
182
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名無しさん
:2024/07/29(月) 23:05:22 ID:Lci.MQiY0
柯迥 カケイ (生没年不詳)
涼州南安郡赤亭県の羌族の酋長。息子に後秦の祖・姚弋仲。
先祖は舜の末裔で、西戎に封じられ代々羌族の長を務めた。
酋長・遷那が漢に帰順してから赤亭県に住むようになり、柯迥はその玄孫にあたる。
魏から鎮西将軍、綏戎校尉、西羌都督に任じられた。
183
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名無しさん
:2024/07/29(月) 23:06:19 ID:Lci.MQiY0
祐鄰 ユウリン (生没年不詳)
乞伏部鮮卑の酋長。子に結権。子孫に西秦の乞伏国仁。
泰始の始め(265年頃)、五千戸を率いて夏縁に本拠を移すと、次第に勢力を増していった。
当時、鮮卑の鹿結部が七万ほどの部落で安定郡の高平川に駐屯していたが、祐鄰はこれを攻撃し南の略陽に追い払う。
祐鄰は残った群衆を合わせて高平県周辺に住み着いた。
184
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名無しさん
:2024/07/29(月) 23:09:39 ID:Lci.MQiY0
憂位居 ユウイキョ (209年〜248年)
高句麗の東川王。『三國史記』によると姓は高で父は高延優、子に高然弗。
227年に王位に就き、青龍二年(234年)に魏に使者を通じ、二年後の呉の使者・胡衛を処刑した。
また景初二年(238年)の公孫淵討伐に将兵を出し助力する。
しかし、後に遼東の西安平を襲撃したため、244年に毌丘倹の東征を受ける。
二万で迎撃したが大会戦の末に敗れ、首都・丸都も陥落し、妻子を連れて逃れた。
翌年も魏軍の征伐を受けると、沃沮を越えて北方の肅慎氏まで逃れる。
配下の密友、紐由らの活躍もあり帰還すると、廃墟の丸都の代わりに平壌に新都を築いた。
※中国側と朝鮮側で資料の混乱がある。『三國志』などでは上記に該当する王は「位宮」と記すが、
『三國史記』高句麗本記は高延優の別名が位宮であり、『三國志』の記事は憂位居と位宮と取り違えているとする。
また平壌は現在の平壌とは別の場所。
185
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名無しさん
:2024/07/30(火) 20:39:58 ID:rUc/SXvM0
普浄 フジョウ (生没年不詳)
司隷河東郡蒲東県の人。『演義』に登場する鎮国寺の僧。鎮国寺は沂水関付近にある漢の明帝の香火院であった。
建安六年(201年)頃、卞喜は劉備の元へ戻ろうとする関羽を鎮国寺に誘い出し、伏兵をもって襲撃しようとする。
関羽と同郷の普浄はそれとなく合図をしたため、関羽も警戒して卞喜らを返り討ちにした。
その後は全国を雲遊したが、普静と名を改めて、荊州当陽県の玉泉山の草庵で暮らす。
220年頃、黙座する彼の前に「我が首、返しに来たれ」と関羽の霊が現れたが、惑う関羽を教え諭し成仏させた。
186
:
名無しさん
:2024/07/30(火) 20:40:28 ID:rUc/SXvM0
成公綏 子安 セイコウ スイ シアン (231年〜273年)
兗州東郡白馬県の人。晋の中書郎。幼くして広く経書などを読み、口下手であったが詩賦や音律に優れた。
また寡欲で資産を営まず、家は貧しかったが常に穏やかだった。
評判を求めなかったが、成公綏が二十四歳の頃、張華からその才を絶賛され、太常に薦められて博士に徴される。
朝廷では秘書郎、轉丞、中書郎、騎都尉を歴任し、たびたび詔勅により張華と詩賦を献じた。
咸熙元年(264年)に司馬昭が晋王となると、賈充らと晋の法律制定に携わる。
著作に詩賦や雑筆が十数巻のほか、『正旦大会行礼歌』など。
※同郡の成公簡と同族かも
187
:
名無しさん
:2024/07/30(火) 20:41:05 ID:rUc/SXvM0
高納 孝才 コウノウ コウサイ (生没年不詳)
冀州勃海郡蓨県の人。魏の尚書郎や東莞太守を務めた。
高氏は遠祖・高洪が勃海太守となった頃から蓨県に住むようになる。
高納は後漢の太子太傅・高褒の五世孫で、父に漢中太守・高延、息子に江夏太守・高達。
後に勃海高氏は南北朝で活躍し、北斉を建てた。
※後世の『唐書宰相世系表』によるので信憑性は不明。
188
:
名無しさん
:2024/07/30(火) 20:42:22 ID:rUc/SXvM0
上官雝 ジョウカンヨウ (生没年不詳)
蜀漢の行中典軍・討虜将軍。
建興九年(231年)、李厳は長雨によって北伐の兵糧輸送が滞り、その件に関して責任逃れの発言を繰り返した。
そのため諸葛亮は劉琰、魏延、袁綝、呉壱、高翔、呉班、楊儀、鄧芝、劉巴、費禕、許允、丁咸、
劉敏、姜維、上官雝、胡済、閻晏、爨習、杜義、杜祺、盛勃、樊岐らと協議して李厳を解任した。
上官勝 ジョウカンショウ (生没年不詳)
涼州隴西郡上邽県の人。蜀漢の太尉。
先祖は戦国時代の楚・懐王の子である子蘭で、彼が上官邑の大夫となったことから上官を姓とした。
前漢の左将軍・上官桀の末裔でもある。子に上官茂、上官先。
上官顕 ジョウカンケン (生没年不詳)
来敏が愚痴を言った相手。(筑摩だと「上官に対してあからさまに〜」と訳しているが人名だと思う。)
189
:
名無しさん
:2024/07/30(火) 20:43:37 ID:rUc/SXvM0
薛霊芸 セツ レイウン (生没年不詳)
冀州常山郡の人。曹丕の美人。父は薛鄴、母は陳氏。
十五にして絶世の美女となり、曹丕が良家の子女を選出すると、谷習が貧しい薛家から買い取って献じた。
別れを悲しむ霊芸は豪華に飾られた車で丁重に迎えられ、
車の巻き上げた塵が星月を覆ったためその様子は「塵宵」と呼ばれる。
曹丕はこれを遠望し「故人は『朝には雲に、暮れには雨に(なって訪れる)』と言うが、
今は雲、雨、朝、暮れにあらず」と言い名前を「夜来」と改めさせた。
霊芸は裁縫が得意で暗くても仕立てができ、曹丕も彼女の服でなければ着ず、宮中で「針神」と呼ばれた。
※『朝為行雲,暮為行雨』は宋玉「高唐賦」に見える楚の懐王と神女との逢瀬の話が元。
「神女が来たけど、なんか暗いし故事と違うな」という感じ。
また原文で「靈藝」ではなく「靈芸」表記なのでレイウン読み。
190
:
名無しさん
:2024/07/30(火) 20:44:13 ID:rUc/SXvM0
曹泰 ソウタイ (生没年不詳)
豫州沛国譙県の人。魏の鎮東將軍。父は曹仁、弟に曹楷、曹範、子に曹初。
黄初三年(222年)九月、曹丕は洞口、濡須、南郡の三方に派兵し、曹仁は濡須を担当する。
翌年三月、曹仁は羨渓を攻撃すると宣伝する一方で、部将の常彫に五千と諸葛虔、王双を預けて中洲に渡らせ、
そこを足場にして曹泰に濡須城を攻撃させた。
濡須督の朱桓は羨渓に兵を分け少数であったが、曹泰の陣営に焼き討ちをかけ、
常彫も呉将・厳圭、駱統らに敗れて斬首、王双は捕虜となり、魏軍は撤退した。
その後同月に父が没すると陳侯を継ぎ、後に寗陵侯に国替えされた。
191
:
名無しさん
:2024/07/30(火) 20:44:57 ID:rUc/SXvM0
孫泰 ソンタイ (?〜234年)
揚州呉郡冨春県の人。呉の長水校尉。孫匡の子、母は曹操の姪(『演義』では曹仁の娘)、息子に孫秀。
嘉禾三年(234年)、合肥新城の包囲作戦に従事したが、満寵の襲撃で流れ矢にあたり死去した。
192
:
名無しさん
:2024/07/30(火) 20:45:48 ID:rUc/SXvM0
姚信 元直(あるいは徳祐) ヨウシン ゲンチョク(トクユウ) (生没年不詳)
揚州呉郡永安県の人。呉の太常。父は媯敷で後に姚氏に改姓した。
陸遜の外甥にあたる(陸遜の姉妹が母か)。呉に出仕し選曹尚書を務め、陸鬱生の節義を称賛する上表を行った。
赤烏八年(245年)、二宮事件では太子・孫和派であったため顧譚、顧承、張休らと流刑に処される。
(孫皓が即位したからか)宝鼎二年(267年)には太常として名が見え、
丞相代行の孟仁とともに孫和の魂を明陵から都の清廟へ迎えた。
建衡元年(269年)、今際の陸凱の上陳に、社稷の根幹の臣として筆頭に名が挙がる。
著作に『士緯十巻』『昕天論』『周易注』など。
※後漢の媯皓は呉郡餘杭県なのでたぶん同族。媯覽も呉郡太守・盛憲によって孝廉に挙げられたので同郡の同族だろう。
もしかしたら孫翊事件が切っ掛けで改姓したのかも。
193
:
名無しさん
:2024/07/30(火) 20:46:22 ID:rUc/SXvM0
虞忠 世方 グチュウ セイホウ (?〜280年)
揚州会稽郡余姚県の人。呉の宜都太守。虞翻の五男で、兄に虞汜、息子に虞譚。
節操を守り、行動力と人物眼に優れた。
幼い陸機の才を見抜き、また無名であった上虞の魏遷を高く評価して、二人とも評判の士となる。
同県出身の王岐は官界に後ろ盾のいるような家柄ではなかったが、親しく交際した。
そうして王岐が先に宜都太守になって、虞忠はそれを継いだ。
太康元年(280年)の二月、王濬ら晋の軍勢が攻め寄せると、
監軍の陸晏、水軍督の陸景らと宜都城に立て籠もって抵抗し殺害された。
194
:
名無しさん
:2024/07/30(火) 20:47:46 ID:rUc/SXvM0
劉碩 リュウセキ (生没年不詳 生年は138年以降で没年は206年か)
後漢の平原王。蠡吾侯・劉翼の子で桓帝の弟にあたる。兄弟に勃海王劉悝や姉妹が数人。
父の劉翼は讒言により平原王から廃されたが、146年に劉志(桓帝)が即位すると、
弟の劉碩は建和二年(148年)に平原王に建てられ、父の祭祀を奉じた。
元嘉二年(152年)、桓帝の生母である孝崇皇后・匽明が崩じるとその喪主を務める。
没年は不明だが206年に国が除かれるまで史弼、陽球、陳紀、荀爽、劉備、劉琬らが平原相として補佐した。
※仮に139年生まれでも206年まで68歳だからずっと現役だったか、あるいは途中で息子に代替わりしたか。
追記:酒癖が悪く過失が多かったため、帝が父の正室の馬貴人に平原王の家事を任せた、とある
また206年には済北国や清河国も除かれているため、その頃の生死は不明
195
:
名無しさん
:2024/07/30(火) 20:48:39 ID:rUc/SXvM0
令狐邵 孔叔 レイコショウ コウシュク (生没年不詳 220年頃から3年後に死去)
并州太原郡の人。魏の弘農太守。子に令狐華、族子に令狐愚。
建安の初め頃(196年頃)、袁紹が冀州を支配すると鄴に移り住む。
204年には武安県の毛城にいたが、四月に曹操が城を落とした際に捕縛される。
しかし曹操が令狐劭の父と面識があったため、処刑を許され軍謀掾に任じられた。
その後は郡太守を歴任し、丞相主簿の後に弘農太守を務める。
彼の政務は「氷雪の如く清潔」と評され、人を思いやり学業を推進した。
黄初の始めに中央に戻り羽林郎や虎賁中郎将に任じられる。
族子の令狐愚については「一族を滅ぼすだろう」と予見していた。
196
:
名無しさん
:2024/07/30(火) 20:50:32 ID:rUc/SXvM0
張奮 チョウフン (生没年不詳)
徐州彭城郡の人。呉の半州都督。張昭の甥にあたる。
十九歳の頃に攻城兵器の「大攻車(巨大な衝車か)」を造り、歩隲から軍属へ推薦される。
張昭はこの件に反対で「お前は若いのになぜ自ら軍旅に赴くのか?」と問うと、
「童子の汪錡は国難に殉じ、子奇は若くして阿を統治しました。私は不才ですが年は不足しておりません」と答えた。
その後、兵を預かって将軍になり、続けて功績をあげて半州都督に就任し、楽郷亭侯に封じられた。
※半州は蘄春郡尋陽県にある長江中流の重要拠点で、濡須や西陵と同じく都督が置かれた。
潘璋、甘寧、孫慮などが駐屯。
197
:
名無しさん
:2024/07/30(火) 20:51:43 ID:rUc/SXvM0
劉纂 リュウサン (生没年不詳)
呉の驃騎将軍。前妻に孫氏、後妻に孫魯育。235年、盧陵、会稽、南海郡の賊徒が蜂起すると、
孫権は呂岱に命じて劉纂と唐咨を率いて反乱を討伐させた。250年に朱拠が亡くなると孫魯育を継室とする。
256年に文欽の進言で孫峻は文欽、呂拠、劉纂、朱異、唐咨らに淮水、泗水流域に進出させたが、孫峻が病没し帰還した。
その後、孫綝が実権を握ると呂拠の討伐に出動した。
266年、司馬昭の弔問から戻った丁忠が防備の隙を報告すると、晋への侵攻を進言する。
書家としても著名で皇象、岑伯然、朱季平らと一代の絶手と呼ばれた。
※続けて孫権の娘が与えられたり、妙に官位が高いことから劉基の息子説がある
198
:
名無しさん
:2024/07/30(火) 20:52:16 ID:rUc/SXvM0
賈南風 カナンプウ (257年〜300年)
司隷河東郡襄陵県の人。司馬衷の皇后。父は賈充、母は郭槐。
271年、樹機能の乱で賈充は長安鎮護を命じられると、洛陽に留まるべく皇太子妃に娘の南風を立てるよう画策する。
楊艶、荀勗、馮紞、荀顗らの進言により司馬炎が折れて、翌年には賈南風が正式に皇太子妃となる。
その後、妬心からの離縁や、皇太子廃嫡の危機を免れ、290年に恵帝が即位すると皇后に立てられた。
翌年、楊駿一族を誅殺し、東安王を罷免、司馬亮、衛瓘を誅殺して朝政を掌握する。
そうして専横を極めたが、300年の司馬倫らの決起により、幽閉後に自害させられた。
199
:
名無しさん
:2024/07/30(火) 20:52:59 ID:rUc/SXvM0
呉氏 ゴシ (生没年不詳 生年は呉質が元城令の頃 217年ごろ?)
兗州済陰郡鄄城県の人。呉質の娘で、兄弟に呉応や呉夫人。父が元城の県令の頃に生まれ、平陵県の劉瑤に嫁ぐ。
しかし夫が罪を得て帰らず、寡婦として平原郡の長白山の西に葬られた。
時は流れて北斉の孝昭帝の頃(560年頃)、崔羅什という才子が州に召され呉氏の墓を通りかかると、
たちまちに目の前に朱門や楼閣が現れ、侍女から女主人の話し相手になって欲しいと彼を招き入れる。
崔羅什は人外と怪しみつつも語らいあい、十年後の再会を約して別れた。
そして十年後、堤防工事の最中に杏を食べながら「約束を果たす」と言うとそのまま死去した。
※志怪小説の類の《酉陽雜俎》が出典。
200
:
名無しさん
:2024/07/30(火) 20:53:41 ID:rUc/SXvM0
高通 コウツウ (生没年不詳)
呉の宦官。陸凱の二十の上表文(本人作かは真偽不明)によると、
孫皓の時代に高通、詹廉(センレン)、羊度らは宦官であったが、孫皓に寵愛され高い位と兵権を握ったという。
そのためで陸凱は有事の際に役に立たたず、桓帝、霊帝の愚を犯していると批判した。
ただし、征呉の際に宦官が兵を率いたという記録はない。
※孫皓が考えを改めたか、上表文が偽物でそうした事実は無かったかどっちか
201
:
名無しさん
:2024/07/30(火) 20:54:37 ID:rUc/SXvM0
孫慎 ソンシン (生没年不詳)
揚州呉郡の人。呉の鎮南将軍。祖父は孫河、父は孫俊、伯父に孫桓、兄に孫建、子に孫丞。
赤烏十三年(250年)に父が死去すると、爵位は長子の孫建が継いだ。
鳳凰三年(274年)に夏口督・魯淑が死去すると、後任として夏口督に就任する。
その後、天紀元年(277年)の夏、孫慎は江夏郡や汝南(弋陽)郡に侵攻して、千余家の住民を略奪した。
280年の征呉の役での動向は不明だが、王濬や胡奮、王戎らによって夏口は攻め落とされている。
※『晋書』では江夏への侵攻は12月とする。またこの件で羊コは司馬炎から詰問されている。
202
:
名無しさん
:2024/07/30(火) 20:55:17 ID:rUc/SXvM0
袁覇 エンハ (生没年不詳)
豫州陳郡扶楽県の人。魏の大司農。弟に袁徽、袁敏、子に袁亮、従兄に袁渙。
公正厳格な人物で、同郡の何夔と並んで名声があった。曹操の魏公就任を勧める群臣の中に長史として名がみえる。
そうした功績からか、魏の建国初期に大司農に就任した。
203
:
名無しさん
:2024/07/30(火) 20:55:59 ID:rUc/SXvM0
袁徽 エンキ (生没年不詳)
豫州陳郡扶楽県の人。後漢の隠士。兄弟に袁覇、袁敏、従兄に袁渙。
天下が乱れ動乱の兆しが見えると、袁渙は「道義と礼節を守れば、災いを避けられるだろうか」と嘆くと
「混乱を避けるためには、遠方に逃げるべき」と答え、交州に避難した。その後、司徒から召されたが行かなかった。
また、荀彧に交趾太守の士燮や、避難してきた許靖を称賛する手紙を送っている。
204
:
名無しさん
:2024/07/30(火) 20:56:52 ID:rUc/SXvM0
袁敏 エンビン (生没年不詳)
豫州陳郡扶楽県の人。魏の河堤謁者。兄に袁覇、袁徽、従兄に袁渙。曹丕の武芸の師の一人。
若き日の曹丕は二刀流こそ最も強いと考えていたが、
袁敏の片手武器で複数武器を攻撃する神業を見て、考えを改めたという。
また「武芸者が不意に隘路で袁敏と出会ったなら、即座に攻めるしか勝ち目がない」と言われた。
袁渙の死後、曹丕から袁渙の勇気のほどを問われると
「顔は柔和だが、危難に臨むと孟賁や夏育以上だった」と答える。
袁敏は武芸以外に、治水に精通し、河堤謁者を務めた。
※河堤謁者は7品、定員5人、主に池の灌漑と河渠の保全が任務
205
:
名無しさん
:2024/07/31(水) 19:05:57 ID:YilP9oZQ0
陳瑀 公瑋 チンウ コウイ (生没年不詳)
徐州下邳国淮浦県の人。後漢の揚州刺史。父に陳球、弟に陳琮、従弟に陳珪。
孝廉に挙げられ洛陽市長を務めたのち、189年に議郎となる。
初平三年(192年)、揚州刺史・陳温が病没すると袁術の命で後任となり、袁紹の送った袁遺を敗走させた。
翌年、曹操に敗れた袁術を寿春で拒絶したが、陰陵で兵を糾合した袁術軍が城に迫ると、怯えて下邳に逃亡する。
その後は広陵郡に駐屯し、孫策の背後を襲うべく、配下の万演を密かに遣わして、丹楊の賊や祖郎、焦已、厳白虎を扇動した。
しかし呂範らに大敗したため、袁紹のもとに逃れ、故安都尉に任じられた。
※洛陽市長は市場の長官のこと。
206
:
名無しさん
:2024/07/31(水) 19:06:56 ID:YilP9oZQ0
卞蘭 ベンラン (生没年不詳 233年頃までは生存)
徐州琅邪郡開陽県の人。魏の奉車都尉。卞秉の子で曹操の夫人・卞氏は伯母。子に卞暉と卞隆。
若い頃から才能と学問があり、奉車都尉・遊撃将軍に散騎常侍を加えられた。父の死後に開陽侯の爵位を継ぐ。
太子・曹丕の美徳を賛美する賦を献上すると、「内容が美化に過ぎるが、その行為は評価する」と牛一頭を送られた。
高堂隆が曹叡の大鐘の移送を諫言した際に、帝に変わって非難したが論破される。
卞蘭も明帝の奢侈を度々諫言したが、最期は酒精中毒と糖尿病で亡くなった。
人々は卞蘭が直言の士であったため、帝の面詰から自害したと噂した。
※『魏卞蘭贊述太子賦』などが現存。巫女とか迷信は信じなかった。
青龍三年に寿春の農婦が巫女の真似事して、水を与えたものを治癒することがあり、明帝はこれを厚遇した。
『集解』によると卞蘭の病床に送られた巫女の水は彼女のものとのこと。
207
:
名無しさん
:2024/07/31(水) 19:19:56 ID:YilP9oZQ0
火星 カセイ (?)
『捜神記』に記されている話。260年3月に呉に出現した、青い着物を着た子供の怪異。
軍の人質として送られた「保質童子」と呼ばれる子供の前に現れた。
自分は火星人だと名乗り、三国が司馬氏のものになる事を予言して空へ飛び去っていったという。
208
:
名無しさん
:2024/07/31(水) 19:20:45 ID:YilP9oZQ0
甄像 シンゾウ (?〜235年 生年は190年ぐらいか)
冀州中山郡無極県の人。魏の伏波将軍。父に甄儼、母は劉氏、子に甄暢ら四人、叔母に甄氏。
196年に父を亡くすと、甄像の養育を甄氏が手伝った。
太和元年(227年)、甄氏の故父が追封されるとその爵位を継ぎ、虎賁中郎将に任じられる。
230年に太常を兼任して甄氏の改葬を后土神に報告し、戻ると散騎常侍に昇進した。
青龍二年(234年)の春に亡父が安城郷穆侯の諡を受ける。
同年夏、呉が合肥、襄陽、広陵などに侵攻すると、曹叡は甄像を伏波將軍に任じ、節を持たせて東征する諸将を監督させた。
帰還すると射声校尉となるも翌年死去。諡に貞侯。
209
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名無しさん
:2024/07/31(水) 19:21:52 ID:YilP9oZQ0
朱熊 シュユウ (?〜256年頃)
揚州呉郡呉県の人。呉の虎林督。父に朱拠、兄弟に朱損、朱氏(孫休の皇后)、子に朱宣、孫魯育が生母かは不明。
五鳳年間(254-256年)に孫魯班の讒言で、孫峻によって孫魯育が殺害される。
その後、孫亮が魯育殺害の事件を調査すると、詰問された魯班は朱熊兄弟に罪を擦り付けた。
朱損の妻は孫峻の妹であり、また孫綝の専横を疎んでいた孫亮は、
孫峻を矯正出来なかったとして朱熊兄弟の誅殺を丁奉に命じる。
孫綝の助命嘆願があったが朱熊は虎林で、朱損は建業で殺害された。
※虎林は建業と柴桑の中間で、長江の東岸あたり。
210
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名無しさん
:2024/07/31(水) 19:22:30 ID:YilP9oZQ0
朱宣 シュセン (生没年不詳)
揚州呉郡呉県の人。呉の驃騎将軍。祖父に朱拠、父に朱熊、叔父に朱損。
太平年間(256年頃)、孫亮は孫魯育の死を、孫峻の側近であった朱熊、朱損の責任として彼ら兄弟を誅殺した。
しかし孫休の時代に名誉回復がなされ、朱宣は朱拠以来の爵位である雲陽侯を継承し、公主を娶る。
後の孫皓の時代には驃騎将軍まで登った。
211
:
名無しさん
:2024/07/31(水) 19:23:31 ID:YilP9oZQ0
趙五娘 チョウゴジョウ (生没年不詳)
『琵琶記』における蔡邕の妻。蔡邕と趙五娘は新婚夫婦であったが、両親の勧めで夫は科挙を受けるため上京する。
しかし、蔡邕は合格するも牛丞相に気に入られ、娘の牛氏を妻にと押し付けられてしまう。
一方、故郷の趙五娘は貧困の中で両親と死別したため、戻らぬ夫を探して都に向かった。
同じころ、境遇を嘆いていた蔡邕も牛夫人の働きかけで趙五娘と再会し、
天子から中郎将を、趙五娘は陳留郡夫人、牛氏は河南郡夫人にそれぞれ封じられた。
明代に完成した元曲『琵琶記』より。元々、夫の名は「蔡二郎」といったが、後に実在人物の「蔡邕」と結びつけられたという。
212
:
名無しさん
:2024/07/31(水) 19:24:11 ID:YilP9oZQ0
牛亶 ギュウタン (生没年不詳)
後漢の五官中郎将。建安六年(201年)の趙韙の反乱で益州が乱れると、
許昌の朝廷は劉璋を召還して九卿につけ、その後任に五官中郎将・牛亶を益州刺史として派遣したが応じなかった。
213
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名無しさん
:2024/07/31(水) 19:24:46 ID:YilP9oZQ0
高拔奇 コウバツキ (生没年不詳)
高句麗の王子。新大王・高伯固の長子で、弟に男武、延優、罽須、子に駮位居。
新大王の没後(179年)、長男であったが不肖として、次男の男武が王(故国川王)に即位する。
建安年間に公孫康が高句麗の集落を焼き払うと、王位に不服であった拔奇は
涓奴部の部族長や三万戸を率いて降伏し、沸流水の上流に居住した。
高句麗では拔奇らの離反や胡族の反乱もあったため、王は別の場所に国を建て直すことになる。
その後、拔奇は遼東に居住したが、息子は高句麗に置き影響力を残した。
『三国史記』の記述では故国川王の死後の争いで敗れて自害した。
214
:
名無しさん
:2024/07/31(水) 19:25:33 ID:YilP9oZQ0
皇甫隆 コウホリュウ (生没年不詳)
涼州安定郡の人。嘉平年間(249年〜254年)に趙基の後任として敦煌太守に任じられる。
皇甫隆は着任すると樓犂(牛犂に播種器を付けた農具)の作成や灌漑の方法を教授して収入を五倍に増やし、
また婦人の裾への贅沢な装飾を禁じた。こうしたことから現地民から倉慈に次ぐ評価を受ける。
他に『神仙伝』などに劉京から仙薬を教わり三百歳まで生きた、
道士・封君達から病気や諸毒、凶害を避けられる仙薬を伝えられ、曹操に与えた等の逸話が残る。
※おそらく皇甫嵩と同族
215
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名無しさん
:2024/07/31(水) 19:26:25 ID:YilP9oZQ0
関良 カンリョウ (?〜200年?)
日本の人形浄瑠璃『諸葛孔明鼎軍談』に登場する関羽の弟。
関羽と共に下邳を守備していたが、劉備の逃亡から曹操軍百万騎の攻囲を受けた。
搦手を固めていた関良は敵軍が攻撃の気配なく、
自軍の士卒や兵糧も僅かであったため突撃を進言するも、そうした短慮を関羽に窘められる。
その後、張遼の説得で関羽が苦渋の末に降伏しようとすると、兄の心情を理解できず張遼に撃ちかかった。
しかし、関羽に組み伏せられ、涙ながらに降伏の証として刺し殺された。
※実際の関羽投降は200年の出来事だが、物語の筋が、霊帝不慮の死→曹操即位→劉備脱出とかいう急展開なので死亡年は?付き。
216
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名無しさん
:2024/07/31(水) 19:27:46 ID:YilP9oZQ0
繁欽 休伯 バキン キュウハク (?〜218年)
豫州潁川郡の人。後漢の丞相主簿。若くして文才と機転の利いた弁舌に優れ、汝南、潁川で名を知られる。
同郷の杜襲、趙儼と荊州へ避難し、襄陽郡で生計をともに暮らした。荊州では劉表から目をかけられたが、
杜襲の意見で長沙へ移り、曹操が献帝を許に迎えると移住する。
繁欽は書や詩・賦を作ることに長け、建安七子に次ぐ名声を得た。『征天山賦』『定情詩』など多くの作品が現存する。
後に魚豢は、繁欽が重用されなかった理由を韋誕に問うと、
「慎みがまるで無かったためであったが、その才能は評価できる」と評した。
217
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名無しさん
:2024/07/31(水) 19:28:57 ID:YilP9oZQ0
車浚 シャシュン (?〜276年)
荊州武陵郡の人。呉の会稽太守。公務に清廉で忠義に厚かった。
名声を聞きいて引見した陸遜との問答から、呉人の賓客らは「蛮郡に奇人がいたものだ」と言い合う。
すると「呉郡も太伯が蛮習を改めた結果、聖主や賢人が集いました」と答え、陸遜に称賛された。
天璽元年(276年)、会稽郡が旱魃の被害にあうと民衆に食料を貸し与えることを上表する。
しかし、孫皓は車浚が民と私的に恩義を結ぼうとしていると疑う。
また、車浚と湘東太守の張詠らは算緡(税の一種)を上納しなかったため、
役人が遣わされて斬首となり、首が諸郡に晒された。
※出身地は「武陵蠻夷郡,乃有此奇人也。」から。曾孫に「蛍雪の功」で有名な車胤がいる。こっちは南郡出身。
218
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名無しさん
:2024/07/31(水) 19:29:36 ID:YilP9oZQ0
黄元 コウゲン (?〜223年)
蜀漢の漢嘉太守。章武二年(222年)十二月、夷陵で敗れた劉備が病になると、諸葛亮は永安まで見舞いに向かう。
漢嘉太守の黄元は諸葛亮と不仲であり、将来を憂いて郡をあげて反乱を起こした。
そうして黄元は漢嘉郡と成都の間にある臨邛城を焼き、手薄な成都に攻め入る様子を見せる。
しかし、楊洪の進言で派遣された将軍の陳曶、鄭綽によって軍は敗北。
その後、東に逃亡するも、楊洪の策で東方に通じる南安峡を封鎖されたため捕縛され、成都で斬られた。
219
:
名無しさん
:2024/07/31(水) 19:30:11 ID:YilP9oZQ0
栗成 リツセイ (栗攀とも) (?〜193年)
漢の魏郡太守。袁紹によって魏郡の太守に据えられる。
初平四年(193年)、袁紹が公孫瓚討伐の帰路の薄洛津で大宴会を開いていたころ、
魏郡の兵士たちが反乱を起こした。
彼らは黒山賊の于毒らと手を結んで数万で鄴城を攻撃したため、太守の栗成は殺害された。
220
:
名無しさん
:2024/07/31(水) 19:31:12 ID:YilP9oZQ0
虞松 叔茂 グショウ シュクボウ (生没年不詳)
兗州陳留郡の人。魏の中書令。辺譲の外孫で子に虞濬。若くして才能があり、
238年の司馬懿の遼東遠征に従軍して檄文や布告文を作成し、帰還すると司馬懿の掾に召された。
二十四歳で中書郎に、後には中書令や太守を務め、司馬懿亡き後は傅嘏と共に司馬師の参謀として活躍する。
253年に諸葛恪と姜維が同時に魏に侵攻してくると、双方の目論見を見抜いて堅守と急襲をそれぞれ献策した。
甘露元年(256年)に曹髦の宴の席で、荀顗、崔賛、袁亮、鍾毓らといにしえの皇帝の優劣を議論する。
官位は大司農まで登り、書家としても有名だった。
221
:
名無しさん
:2024/07/31(水) 19:31:55 ID:YilP9oZQ0
陸敬叔 リクケイシュク (生没年不詳)
呉の孫権の頃の建安太守。ある時、彼が大きな樟を伐らせると幹から血が噴き出し、
木が切断されると中から人面犬が出てきた。
『白澤図』によると「木精の名は彭侯といい、黒犬の姿で尾は無く、煮て食べられる」とある。
陸敬叔はそのことを知っており、煮て食べてしまった。
※字と思われる「敬叔」が、陸凱(敬風)、陸胤(敬宗)の兄弟と近しいため彼らの弟かもしれない。
222
:
名無しさん
:2024/07/31(水) 19:32:42 ID:YilP9oZQ0
岑述 元倹 シンジュツ ゲンケン (生没年不詳)
蜀漢の司塩校尉。諸葛亮に取り立てられて司塩校尉となる。
張裔とは不仲であり、諸葛亮は張裔にその件を窘めた。
建興九年(231年)、督運領として李厳のもとで北伐軍への兵糧輸送の任に就く。
しかし、長雨で輸送が果たせず諸葛亮が帰還すると、
問責を恐れた李厳は岑述に罪をかぶせ殺そうとしたという。その後の事績は不明。
223
:
名無しさん
:2024/07/31(水) 19:33:16 ID:YilP9oZQ0
路蕃 ロバン (生没年不詳)
諸葛誕の騎督。甘露二年(257年)に諸葛誕が反乱を起こすと、
偏将軍の路蕃と平寇將軍の龐会は共に脱出を図り反乱に加わらなかった。
こうした功績から曹髦より亭侯に封じられる。
泰始七年(271年)、匈奴の劉猛が反乱を起こすと、胡奮を監軍として路蕃は先鋒となり敵軍を打ち破った。
224
:
名無しさん
:2024/07/31(水) 19:33:49 ID:YilP9oZQ0
蒋子文 ショウシブン (生没年不詳 没年は190年あたり)
徐州広陵郡の人。後漢の秣陵郡の尉。酒好きの好色で、自ら「青骨」であり死後に神になると言っていた。
彼は鍾山の麓で賊軍と戦って戦死したが、孫権の初期、白馬に白羽扇を持って出現する。
蒋子文は「我は土地神なり。祠を建てなくば災禍を起こす」と言った。
報告を受けた孫権は妖言と取り合わなかったが、
災いが続いたため都中侯に封じ彼の廟堂を建てて、弟の蒋子緒を長水校尉に任じる。
彼の戦死した鍾山は蒋山と呼ばれ、霊地とされた。
225
:
名無しさん
:2024/08/01(木) 21:50:53 ID:8xWLv4IM0
夏侯纂 カコウサン (生没年不詳)
蜀漢の広漢太守。劉備が益州を治めると、秦宓を招聘して師友祭酒、五官掾に取り立てた。
夏侯纂は平素より秦宓を尊敬しており、彼を仲父(管仲のこと、後に偉人を指す)と呼んだり、
三度邸宅を訪問したりするなどの逸話が残る。
ある時、秦宓が病と称して臥せっていると、功曹の古朴と主簿の王普を連れて食膳などを持ち込んで見舞いに訪問した。
その際に益州について尋ねると、水流、人物、天文を絡めた秦宓の説明に感服して何も言えなくなってしまった。
※揶揄するニュアンスで益州のことを質問したため、おそらく益州外の人。
226
:
名無しさん
:2024/08/01(木) 21:51:37 ID:8xWLv4IM0
郭氏 カクシ (?〜263年)
涼州西平郡の人。曹叡の皇后。父に郭満、母に杜氏。
豪族の家系だったが、黄初年間の西平郡の反乱に連座し後宮に入れられる。
曹叡が即位(226年)すると寵愛を受け夫人となり、帝が危篤になると皇后に立てられ、後に皇太后、永寧宮と呼ばれた。
幼帝続きの魏では司馬氏が実権を握ったが、皇室の第一人者として尊ばれ、
曹芳廃位後、司馬師の意見を退けて曹髦を新帝に推薦する。
257年の諸葛誕の乱のおり、司馬昭は変事を恐れてか、曹髦と郭皇太后を連れ立って親征を行った。
没後は明帝陵の西に埋葬され明元郭皇后と諡された。
※西平郡の反乱とは、おそらく麹演(220年)か麹光の反乱。
227
:
名無しさん
:2024/08/01(木) 21:52:46 ID:8xWLv4IM0
劉闡(緯) リュウセン (生没年不詳)
荊州江夏郡竟陵県の人。呉の御史中丞。劉璋の子で兄に劉循。
人となりは慎み深く、財を軽んじ義を愛し、長者の風があった。
194年に伯父の劉範らが李傕に殺害された際、従兄弟らと共に龐羲に保護されて成都に避難した。
建安十九年(214年)に劉璋が劉備に降伏すると父と共に公安に移り、五年後に孫権が荊州を支配すると呉に帰順する。
223年、雍闓が反乱を起こすと、孫権によって益州刺史に任じられ交州と益州の境界に駐屯したが、
諸葛亮が南中を平定すると呉に戻され御史中丞を務めた。
※龐羲が保護したのは劉焉の諸孫なので含まれていないかも。一名に劉緯。
228
:
名無しさん
:2024/08/01(木) 21:53:19 ID:8xWLv4IM0
黄柱 コウチュウ (生没年不詳)
荊州南陽郡の人。蜀漢の光禄勲。建安二十四年(219年)、劉備が漢中王となると光禄勲に任命される。
翌年、許靖、糜竺、諸葛亮、頼恭、黄柱、王謀らは劉備に皇帝即位を促す勧進文を送った。
※黄忠と同族か
229
:
名無しさん
:2024/08/01(木) 21:55:16 ID:8xWLv4IM0
程喜 申伯 テイキ シンハク (生没年不詳)
魏の征北将軍。太和六年(232年)、反乱した公孫淵に対応するため田豫が青州諸軍の都督となったが、
青州刺史であった程喜は内心不満を抱いて、軍事の際に意見が対立することが多かった。
田豫は呉が遼東まで遣わした周賀らを待ち伏せして撃破したが、程喜の讒言で功績が取り消しとなる。
後に征北将軍に昇進し薊城に駐屯したが、249年に幽州刺史の杜恕が鮮卑族を処刑した際に朝廷に報告しなかった。
程喜は司馬の宋権を送り頭を下げるよう示唆したが、拒絶したため弾劾文を上奏した。
朱建平に人相見を受けたことがあるが珍しく当たらなかった。
※魏の引用が多い『唐開元占經』には(讒言の結果か)程喜が周賀を射殺し軍功を挙げたことが記されている。
230
:
名無しさん
:2024/08/01(木) 21:56:37 ID:8xWLv4IM0
朱誕 永長 シュタン エイチョウ (生没年不詳)
揚州呉郡の人。呉の建安太守。賢良に挙げられ議郎に累遷し、孫皓の頃には建安太守を務めた。
同郡の蔡洪からは「理物の至徳、清選の高望なり」と評される。
晋朝では淮南内史の後に光禄大夫に任じられた。
同郷の陸雲や孫恵と親交があり303年に陸雲らが誅殺されると、孫恵から死を嘆く手紙を送られる。
305年の陳敏の乱には賀循と同じく同調しなかった。他に、蝉や蝙蝠の妖怪変化に関わる逸話が残る。
231
:
名無しさん
:2024/08/01(木) 21:57:10 ID:8xWLv4IM0
馬斉 承伯 バセイ ショウハク (生没年不詳)
益州巴西郡閬中県の人。蜀漢の尚書。巴西郡の功曹であったが、
太守の張飛に推挙され尚書郎となる。
建興年間(223年〜237年)に従事丞相掾に任じられ、その後は広漢太守に昇進し、
また諸葛亮の参軍に戻った。諸葛亮の死後は尚書を務め、郷里からは姚伷に次いで信頼を受けた。
※地元の張飛廟には張苞と並んで張飛に侍っているとか。
232
:
名無しさん
:2024/08/01(木) 21:58:00 ID:8xWLv4IM0
扈瑁 コボウ (生没年不詳)
豫州潁川郡の人。後漢の益州刺史。194年に劉焉が没し劉璋が跡を継ぐと、
長安の李傕政権は扈瑁を益州刺史に任じて漢中に入らせた。
荊州別駕の劉闔や劉璋の將・沈弥、婁発、甘寧らはこの動きに乗じて劉璋を攻撃する。
しかし、勝利は得られなかったため、彼らは荊州に敗走した。
233
:
名無しさん
:2024/08/01(木) 21:59:12 ID:8xWLv4IM0
任嘏 昭先 ジンカ ショウセン (生没年不詳 同門の国淵と同世代)
青州楽安郡博昌県の人。魏の河東太守。父に任旐。幼くして賢く、善良な人柄を讃えられる。
十四歳で鄭玄に師事し、三年で五経を暗唱し、諸説に通じて神童と呼ばれた。
家は貧しくも利を貪らず、郷里では礼の規範に仰がれる。
曹操の初期に推挙され曹植の庶子、相国東曹属、尚書郎を務め、曹丕の頃には黄門侍郎となり、
東郡、趙郡、河東太守を歴任した。
彼は自らの美点を表に出さなかったため、生前の評価はさほどだったが、
死後に部下の東郡の程威、趙国の劉固、河東の上官崇らが行為や著述を上奏したため、詔勅により緒言が編集された。
234
:
名無しさん
:2024/08/01(木) 22:00:09 ID:8xWLv4IM0
賀景 ガケイ (生没年不詳)
揚州会稽郡山陰県の人。呉の滅賊校尉。賀斉の子、兄に賀達、子に賀邵。
兄と共に名声があり、良将であった。厳格と恩情をもって統率し、
装備を充実させること当代一であったが、早世した。
235
:
名無しさん
:2024/08/01(木) 22:04:38 ID:8xWLv4IM0
王沖 オウチュウ (生没年不詳)
益州広漢郡の人。蜀漢の牙門将軍。江州督の李厳のもとに所属したが、
李厳から憎まれて罪を恐れて魏に降伏した。魏では彼を冀州の楽陵太守に任じる。
225年頃、王沖が南から孟達を訪問した際に
「諸葛亮は孟達の妻子を誅そうとしたが、劉備に止められて果たせなかった」と
虚言を語ったが、孟達に「諸葛亮は公平であるゆえ間違いだろう」と否定された。
236
:
名無しさん
:2024/08/01(木) 22:05:24 ID:8xWLv4IM0
韓瑛 カンエイ (?〜228年)
演義の登場人物。韓徳の長男。弟に韓瑶、韓瓊、韓琪。兄弟で武芸に精通し弓馬に優れた。
太和二年(228年)に諸葛亮が侵攻を開始すると、韓徳率いる八万の軍勢で長安の夏侯楙のもとに参じる。
先鋒となった韓徳が蜀軍を罵ると趙雲が出てきたため、韓瑛が迎え撃ったが、三合と打ち合う前に槍に刺されて死亡した。
韓瑤 カンヨウ (?〜228年?)
演義の登場人物。韓徳の次男。兄に韓瑛、弟に韓瓊、韓琪。兄弟で武芸に精通し弓馬に優れた。
太和二年(228年)に諸葛亮が侵攻を開始すると、韓徳率いる八万の軍勢で長安の夏侯楙のもとに参じる。
蜀軍との対峙で兄が趙雲に討たれると、韓瑶は宝刀を揮って挑んだが、力及ばず、不利と見た弟らも出てきて三人で戦った。
しかし奮戦むなしく、韓琪は槍に突かれて落馬し、韓瓊は矢で射られ、
自身は一人で挑みかかったところを趙雲に生け捕られ陣まで連れていかれた。
237
:
名無しさん
:2024/08/01(木) 22:06:08 ID:8xWLv4IM0
韓瓊 カンケイ (?〜228年)
演義の登場人物。韓徳の三男。兄に韓瑛、韓瑤、弟に韓琪。兄弟で武芸に精通し弓馬に優れた。
太和二年(228年)に諸葛亮が侵攻を開始すると、韓徳率いる八万の軍勢で長安の夏侯楙のもとに参じる。
蜀軍との対峙で長兄が趙雲に討たれ、続いた次兄の不利を見ると、
方天戟をもって参戦したが、趙雲を崩せず結局兄弟三人で戦った。
暫くして弟が落馬すると、趙雲が馬を返したので、弓で射るも全て叩き落される。韓瓊は激怒して斬りかかったが趙雲に顔を射られて死亡した。
韓琪 カンキ (?〜228年?)
演義の登場人物。韓徳の四男。兄に韓瑛、韓瑤、弟に韓琪。兄弟で武芸に精通し弓馬に優れた。
太和二年(228年)に諸葛亮が侵攻を開始すると、韓徳率いる八万の軍勢で長安の夏侯楙のもとに参じる。
蜀軍との対峙で長兄が趙雲に討たれ、続いた兄達の不利を見ると一対の日月刀をもって趙雲を囲み三人で戦った。
しかし、しばらく後に槍で突かれて落馬し、味方に救出された。
238
:
名無しさん
:2024/08/01(木) 22:07:04 ID:8xWLv4IM0
薛永 茂長 セツエイ ボウチョウ (生没年不詳)
兗州の人。蜀漢の蜀郡太守。父に薛蘭、子に薛斉。
父が李整ら曹操軍に斬られたのち、劉備に従って入蜀。蜀郡太守に任じられた。
薛斉 夷甫 セツサイ イホ (生没年不詳)
兗州の人。蜀漢の蜀郡太守。父に薛永。蜀漢で巴郡、蜀郡太守を務める。
国が亡ぶと、五千戸を率いて魏に投降し、光禄大夫を拝した。
後に河東郡に移住したため、その地域の薛氏は「蜀薛」と呼ばれた。
『新唐書』宰相世系が出典。系譜では淮陽郡への移住までしか書かれていないが、
薛蘭が兗州別駕なことから、どこかで兗州に移住したのだろう。
239
:
名無しさん
:2024/08/01(木) 22:08:52 ID:8xWLv4IM0
孫鄰 公達 ソンリン コウタツ (202年頃?〜249年)
揚州呉郡冨春県の人。呉の威遠将軍。父に孫賁、子に孫苗、孫述、孫震、孫歆など。
雅にして聡く、幼くして評判が高かった。九歳で父を失うと豫章太守を代行し、都郷侯に封じられる。
その後、太守は顧邵に引き継がれたが豫章で二十年暮らし、賊を平定して功績をあげた。
武昌に召喚されると宿営軍を率いる繞帳督に任じられる。
当時、太常の潘濬が獄中の舒燮を処刑しようとしたが、先祖の功績を引き合いに出して助命した。
後に夏口督、沔中督を務め威遠将軍に任じられた。
※241年頃は沔中督なので朱然、呂拠、朱異らと共に樊城を攻囲した「孫倫」と同一人物かも。
また、9歳で太守は無理なので19の脱字との説もある。
240
:
名無しさん
:2024/08/01(木) 22:09:45 ID:8xWLv4IM0
李婉 淑文 リエン シュクブン (生没年不詳 没は300年以前)
雍州馮翊郡東県の人。賈充の妻。父に李豊、娘に賈褒、賈裕。
美しく淑やかで才能があり、賈充に嫁いだが、254年に父の罪で楽浪郡に徒刑となる。
265年に大赦で戻るも賈充は後妻・郭槐を娶っており、司馬炎から二人の正室を許可されるも、
郭槐に脅された賈充は固辞して別居となった。
郭槐は娘の賈南風が皇太子妃となると威儀を盛んにして会いに行ったが、
彼女の気品に思わず二度頭を下げてしまい、その後は夫が李婉と会わないよう警戒する。
娘らは母の帰還を懇願したが果たせず、賈南風の死後にやっと夫婦の合葬が認められた。著作に『女訓』。
241
:
名無しさん
:2024/08/01(木) 22:10:42 ID:8xWLv4IM0
王林 オウリン (生没年不詳)
蜀漢の武将。延熙七年(244年)、曹爽ら魏軍十万が漢中に侵攻する。
王林は夏侯玄の副将であった司馬昭の陣地を夜襲したが、
司馬昭は寝たまま動かず、兵に動揺が無かったため撤退した。
李広 祖和 リコウ ソカ (生没年不詳)
荊州南陽郡の人。方士。劉備が李広を得ようと軍を派遣すると、
李広は半天に霧を起こして惑わし、そのため兵士たちは同士討ちしてしまった。
その後、李広は呉に移った。
242
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名無しさん
:2024/08/01(木) 22:11:15 ID:8xWLv4IM0
胡威(貔) 伯虎 コイ ハクコ (?〜280年)
揚州楚国寿春県の人。魏の青州刺史。父は胡質、弟に胡羆、子に胡奕。
若くして志を持ち、父を同じく潔白の行いを貫いた。250年に父が死ぬと家督を継ぐ。
徐州刺史となり、安豊太守などを歴任して各地で名を上げた。
254年の諸葛誕の乱では石苞の指揮のもとで外敵に備える。司馬炎に謁見した際に、
父と己の清廉を問われると「父は行いを人に知られるのを恐れ、
私は知られない事を恐れるため、私は父に遠く及びません」と答えた。
中央では尚書として寛政を諫め、水陂の害を訴え、
外に出ては前将軍、監青州諸軍事、青州刺史まで昇った。諡は烈。
※石苞伝の諸葛誕の乱の記事で「徐州刺史胡質」の文が出るが胡威の誤記と思われる。
243
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名無しさん
:2024/08/01(木) 22:11:57 ID:8xWLv4IM0
羊琇 稚舒 ヨウシュウ チジョ (生没年不詳)
兗州泰山郡南城県の人。晋の中護軍。両親は羊耽と辛憲英、従兄弟に羊祜ら。
智恵と計略にすぐれ、若くして郡の計吏に任じられた。
263年の征蜀では鍾会の参軍事として同行し、鍾会の乱の際に与せず諫言したことで関内侯を賜る。
また昔から司馬炎と親しく、彼の立太子に貢献した功績から、晋朝が開かれると中護軍に任じられ厚遇された。
性格は奔放で奢侈を好み、法を犯して劉毅に弾劾されたが、免官だけで済み白衣(無官)で護軍を率いる。
282年の司馬攸出鎮には反対し、楊珧の暗殺を目論んだが、露見して太僕に左遷され病没した。
244
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名無しさん
:2024/08/01(木) 22:12:45 ID:8xWLv4IM0
杜軫 超宗 トシン チョウソウ (生没年不詳)
益州蜀郡成都県の人。晋の尚書郎。父は杜雄、子に杜毗、杜秀。
譙周に師事して経書に通じ蜀郡の功曹となる。263年、鄧艾の軍が成都に迫ると太守に逃走を勧め、
府に訪れた牽弘に高く評価された一方で、彼の元で功曹となることは固辞した。
268年に羅憲の推挙によって孝廉に挙げられ、建寧県令を任じられると徳政による教化で異民族からも敬服される。
池陽県令に移ると雍州で筆頭の成績を治め、昇進を繰り返し尚書郎となった。
杜軫は博学で同門の李驤と共に議論で優れたため「蜀に二郎あり」と称される。
後に犍為太守を務め、五十一歳で没した。
※征蜀時の蜀郡太守・南陽の張府君とは誰だろう?
張載の父の蜀郡太守・張収は河北の安平県出身だし、張存の一族だろうか
245
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名無しさん
:2024/08/03(土) 00:39:53 ID:ovZ96VPQ0
趙融 稚長 チョウユウ チチョウ (生没年不詳)
涼州天水郡の人か。後漢の西園八校尉の一つ助軍左校尉を務める。
後に曹操のもとで盪寇将軍や光禄大夫に任じられ、曹操や荀彧に並んで世に名高かった。
しかし、196年に許に来た禰衡は、彼の腹が大きい事から「厨房で接待するのがお似合いだ」と評した。
子孫に北魏の趙逸などがいる。
246
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名無しさん
:2024/08/03(土) 00:40:23 ID:ovZ96VPQ0
太鼓腹と西園八校尉は別人じゃないの?
247
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名無しさん
:2024/08/03(土) 00:42:00 ID:ovZ96VPQ0
許晏(沇) 孝然 キョアン コウゼン (生没年不詳)
豫州汝南郡平輿県の人。呉の丞相。同族に許靖や呉の光録勳・許光。
左右の丞相である陸凱、万彧の後任として呉の丞相となる。
史書には記載がないが、天璽元年(276年)に孫皓が建てた封禅国山碑に「丞相沇」と名が残る。
また、道教書『真誥』にある「許長史」の注釈に「呉丞相・許晏、字は孝然、四世代前の族祖」とある。
公孫淵に斬られた許晏とは別人。
※許晏の別名に「沇」があり(音が似てるし)、斬られた許晏はと別人と解釈した。
248
:
名無しさん
:2024/08/03(土) 00:42:39 ID:ovZ96VPQ0
孫丞(拯) 顕正 ソンジョウ ケイセイ (?〜303年)
揚州呉郡富春県の人。呉の黄門侍郎。孫河の一族で父は孫慎。
学問を好み文才があって、彼の『蛍火賦』は世間に流行した。
黄門侍郎に任じられ、顧栄と共に孫皓の側近として従事する。
孫皓の命で出来事の記録や問題点の諮問を受けたが、その働きぶりを称賛され、過失なく職務を全うした。
280年に呉が降伏すると、涿県令を務めて大いに治績をあげる。
303年、成都王・司馬穎に付いた陸機に招かれて司馬となったが、陸機が讒言を受け処刑されると獄中で死んだ。
249
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名無しさん
:2024/08/03(土) 00:43:32 ID:ovZ96VPQ0
顧栄 彦先 コエイ ゲンセン (?〜312年)
揚州呉郡呉県の人。呉の黄門侍郎。祖父に顧雍、父に顧穆。
黄門侍郎に任じられ、孫丞と共に孫皓の側近として従事する。
孫皓の命で出来事の記録や問題点の諮問を受けたが、その働きぶりを称賛され、過失なく職務を全うした。
後に陸機兄弟と晋に仕えると「三俊」と称され、郎中から尚書郎、太子中舎人、廷尉正を務める。
八王の乱では各王に仕えたが、後に災いを避けて故郷に戻り、陳敏の乱の平定に助力した。
元帝が江南に移ると軍司となり、重んじられ度々諮問を受けた。諡は元。
琴を好んだため、家人は霊座に琴を置いたという。
250
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名無しさん
:2024/08/03(土) 00:44:17 ID:ovZ96VPQ0
賀邵 興伯 ガショウ コウハク (226年〜275年)
揚州会稽郡山陰県の人。呉の中書令。祖父に賀斉、父に賀景、子に賀循。
若い頃に姚信と共に范平に師事する。
孫休の時代に散騎常侍、呉郡太守を務め、孫皓の時代には中書令と太子太傅を兼任した。
269年、陸凱は臨終の際に、国家の支えとなる臣下の一人として賀邵の名を挙げる。
賀邵は孫皓の暴政を諫めたが、孫晧の側近らの讒言で問責を受けた。
後に楼玄と異なり復職したが、病で口が利けなくなり退職する。
しかし孫皓はこれを疑い、酒蔵の役人に預け、拷問して殺してしまった。
家族は臨海郡に徒刑となり呉の平定まで故郷に戻れなかった。
251
:
名無しさん
:2024/08/03(土) 00:44:54 ID:ovZ96VPQ0
劉彪 仲雅 リュウヒョウ チュウガ (生没年不詳)
徐州広陵郡の人。晋の積弩将軍。前漢の広陵厲王の末裔。父に劉観、兄に劉頌。
279年に安東将軍・王渾の軍に参与し、楊荷橋の戦いでは張悌を捕縛し、積弩将軍に昇進した。
295年の冬に武器庫が火事になると延焼を防ぐため家屋を断ち切ることを進言し、
多くの宝物が救出される。官職は荊州刺史まで昇った。
252
:
名無しさん
:2024/08/03(土) 00:46:15 ID:ovZ96VPQ0
張尚 チョウショウ (生没年不詳)
徐州広陵郡の人。呉の中書令。祖父に張紘、父に張玄。俊才と評判で、孫皓の頃に侍郎となる。
弁舌により抜擢され侍中、中書令を務めたが、談論の際に常に孫皓を出し抜いたため恨まれた。
後に琴の練習を命じられ、ある時、私的な席で「晋の平公は徳が足りないため師曠は演奏を断った」
と琴の故事を語ったが、孫晧はこれを誹謗と取って捕縛し獄に入れる。
尚書の岑昏ら公卿らが助命を求めたため、建安郡で造船の労役を命じられたが、後に誅殺された。
253
:
名無しさん
:2024/08/03(土) 00:46:54 ID:ovZ96VPQ0
陸晏 リクアン (?〜280年)
揚州呉郡呉県の人。呉の裨将軍。陸抗の長男、弟に陸景、陸玄、陸機、陸雲、陸耽。
274年に父が亡くなると跡を継ぎ、陸耽を除く兄弟で軍兵を分割相続し、
陸晏は裨将軍、夷道監に任じられた。
天紀四年(280年)二月、王濬が来寇すると夷道城で抵抗したが、捕らえられて斬られた。
254
:
名無しさん
:2024/08/03(土) 00:47:36 ID:ovZ96VPQ0
陸景 士仁 リクケイ シジン (250年〜280年)
揚州呉郡呉県の人。呉の偏将軍。父は陸抗、母は張承の娘、兄に陸晏、弟に陸玄、陸機、陸雲、陸耽。
253年に諸葛恪が誅殺されると、その姪であった母と離別し祖母(孫氏)に育てられる。
孫皓の妹を娶ったことから騎都尉に任じられた。274年に父が亡くなると、
陸耽を除く兄弟で軍兵を分割相続し、偏将軍、中夏督となる。
天紀四年(280年)二月、王濬が来寇すると楽郷城北の江水で捕らえられて斬られた。
行いは清潔で学問を好み著作は数十編あった。
255
:
名無しさん
:2024/08/03(土) 00:48:12 ID:ovZ96VPQ0
田章(璋) デンショウ (生没年不詳)
魏、晋の将軍。263年、鍾会らの征蜀軍に参加する。
鍾会は本隊を剣閣に進める一方で、田章を西に迂回させ江由に向かわせた。
田章は江由の百里手前で蜀軍の伏兵三部隊を撃破する。また、鄧艾と合流するとその先方となった。
後に後将軍となり、泰始四年(268年)十月に施績や万彧が侵攻すると荊州刺史・胡烈と共にこれを撃破する。
泰始六年(270年)六月、秦州刺史・胡烈が万斛堆で白虎文、薬蘭泥に敗れると、
石鑒が都督秦州諸軍事に任じられ安西軍師・杜預、涼州刺史・牽弘、奮威護軍・田章らが集められた。
田章は秦州に進撃して薬蘭泥を破った。
※田続の親戚だろうか。また江由の守将は馬バク。
256
:
名無しさん
:2024/08/03(土) 00:49:25 ID:ovZ96VPQ0
司馬亮 子翼 シバリョウ シヨク (?〜291年)
司隷河内郡温県の人。晋の汝南王。司馬懿の三男、母は伏夫人で同母弟に司馬伷、司馬京、司馬駿。
257年の諸葛誕の乱での失策から免官されたが、後に復職し鎮西将軍となる。
晋朝が開かれると都督関中雍涼諸軍事となり西方の抑えとなったが、
270年に怯えた部下のために胡烈を救援できなかった。
その後、司馬氏の長老格として一族の風紀を取り締まるべく宗師に任じられる。
司馬炎没後、楊駿派が一掃されると洛陽に戻って衛瓘と重職に就いたが、楚王・司馬瑋と対立し殺害された。
※本人の伝だと四男、母の伏夫人の部分では司馬亮、伷、京、駿の順で書かれている(つまり三男)
257
:
名無しさん
:2024/08/03(土) 00:49:57 ID:ovZ96VPQ0
山濤 巨源 サントウ キョゲン (205年〜283年)
司隷河内郡懐県の人。晋の司空、竹林七賢の一人。父は山曜、妻は韓氏。酒豪であった。
幼くして孤児となったが器量を有し、老荘学を好んで嵆康・阮籍・呂安らと交流した。
四十歳で初めて出仕し、孝廉にも挙げられたが曹爽の専横から隠棲する。
張春華と親類であったため、司馬師の時代に出仕し尚書吏部郎を務めた。
司馬昭が鍾会の乱の後始末に出向くと鄴の留守を任される。
後に冀州刺史となると多くの賢才を抜擢し、民衆から慕われた。
中央では太子少傅・尚書右僕射などを務め、司徒に推されるも老齢から官を辞した。
258
:
名無しさん
:2024/08/03(土) 00:50:30 ID:ovZ96VPQ0
劉弘 和季 リュウコウ カキ (236年〜306年)
豫州沛国相県の人。晋の車騎将軍。劉馥の孫、劉靖の子。戦略と政治の才があった。
洛陽で同年の司馬炎と親しく学び、その縁から太子門大夫から太宰の長史を務める。
張華に評価され監幽州諸軍事として北方に駐屯すると、威光と恩恵により盗賊が途絶えた。
後に羊祜の参軍になり、荊州鎮護の後継と目される。
琅邪国相にうつると、279年の征呉戦では司馬伷配下として建業に迫った。
303年に江夏で張昌が反乱すると荊州刺史として討伐し、その後は荊州を統治して大いに治績があった。
八王の乱では中央の混乱を嘆き、安定に助力した。
259
:
名無しさん
:2024/08/03(土) 00:51:52 ID:ovZ96VPQ0
裴楷 叔則 ハイカイ シュクソク (237年〜291年)
司隷河東郡聞喜県の人。晋の侍中。祖父に裴茂、父に裴徽、従兄弟に裴秀。
高邁な気風と優れた容姿から「玉人」と賛美され、また博識で『老子』や『周易』に精通し、
王戎や王済、和嶠らと名声を等しくした。
吏部郎に欠員が出た際に司馬昭が鍾会に相談すると、「裴楷は清通、王戎は簡要」と勧めたため吏部郎に任じられ、
263年頃は相国掾に、後に尚書郎となる。
司馬炎の時代では、散騎常侍や右軍将軍、侍中を務めるなど側近の一人であった。
八王の乱では、楊駿や司馬亮、衛瓘らと縁戚で何度か危機に陥るも難を逃れた。
260
:
名無しさん
:2024/08/03(土) 00:52:52 ID:ovZ96VPQ0
李胤 宣伯 リイン センハク (?〜282年)
遼東郡襄平県の人。晋の司徒。祖父に李敏、父に李信、同母弟に牽嘉。
生まれてすぐに母は離縁され、数年で父も亡くなり孤児となるも、行方不明の祖父の位牌に仕えて孝行で知られた。
公孫淵が滅びた後に郡や州に仕えて孝廉に挙げられると鎮北将軍の軍事に参与する。
その後は地方や中央の職を歴任して清簡な政治を行った。
司馬昭が従事中郎に求め、蜀征伐時は西中郎将として関中諸軍を統括する。
司馬炎の治世では太子少傅となり、忠節を評価され司隷校尉を兼任した。
李胤は内外の重職を歴任したが、家が貧しかったため十万銭が贈られた。
※上司の鎮北将軍で該当しそうな人は許允・劉靖・呂昭・陳本
261
:
名無しさん
:2024/08/03(土) 00:53:40 ID:ovZ96VPQ0
夏侯咸 カコウカン (生没年不詳)
鎮西將軍・鍾会の司馬。景元四年(263年)、鍾会のもとで征蜀軍に加わった。
諸葛瞻が敗れ、姜維が剣閣から退き成都を目指すと、鍾会は夏侯咸と胡烈を派遣する。
二隊は広漢の新都に向かって姜維の進路を塞ぎ、句安らが追撃し、皇甫闓と王買は側面を突く形で進軍した。
さらに鍾会の命で、夏侯咸と皇甫闓は包囲網を広げ逃走を阻んでいると、劉禅からの命が届き姜維は降伏した。
262
:
名無しさん
:2024/08/03(土) 00:54:44 ID:ovZ96VPQ0
孫楚 子荊 ソンソ シケイ (?〜293年)
并州太原郡中都県の人。晋の馮翊太守。祖父に孫資、父に孫宏。
卓絶した才能を有したが、自尊心が高かった。四十歳で初めて石苞の参軍事となり、
孫晧への降伏勧告文を作成する。しかし、平素より石苞を軽んじたため不仲であった。
司馬駿が秦州方面を任されると、旧交から参軍に起用され、梁県令の後に今度は衛将軍・羊祜の司馬となる。
284年、武庫の井戸に龍が現れると凶兆と解した。
291年に楊駿が大権を握ると、その政治態度を諫めたが聞き入れられなかった。
また王済と親しく「漱石枕流」の逸話などが残る。賦を始め多くの作品が現存。
※40歳代で鎮東将軍(258年就任)に参与するので生年は218年ぐらいか
263
:
名無しさん
:2024/08/03(土) 00:55:29 ID:ovZ96VPQ0
李毅 允剛 リキ インゴウ (?〜306年)
益州広漢郡郪県の人。晋の益州別駕。祖父に李朝、父に李旦。
若い頃は品行を正さなかったが、二十歳にして『通詩』『礼訓』を学んだ。
言動を広漢太守の王濬に気に入られ、272年に張弘が益州刺史・皇甫晏を殺害すると率先して討伐を進言する。
王濬が益州刺史となると主簿から別駕を務め、何攀と共に呉征伐に従事して関内侯に封じられた。
その後は犍為太守、使持節、南夷校尉となり、南方の反乱を鎮圧して寧州刺史・龍驤将軍となる。
李特が益州で反乱すると羅尚に兵を送り、李雄が異民族と攻め寄せると城を堅守したが病没した。
264
:
名無しさん
:2024/08/03(土) 00:56:09 ID:ovZ96VPQ0
王含 オウガン (生没年不詳)
蜀漢の監軍。姜維の建議により漢中の防衛策が変更され、胡遵を漢寿、王含を楽城、蒋斌を漢城に配置替えとなる。
炎興元年(263年)、鍾会が漢中に至ると蒋斌と王含は各五千人で城を守備した。
鍾会は漢城に荀愷、楽城に李輔を一万人つけて包囲させた。
その後の動向は不明だが、劉禅降伏後は城を明け渡したと見える。
『演義』では258年の冬に姜維の北伐に従軍するが祁山で鄧艾に敗れる。
その後の征蜀戦では、漢中陥落の報を聞くと魏軍に降伏した。
265
:
名無しさん
:2024/08/03(土) 22:05:55 ID:ovZ96VPQ0
戴烈 タイレツ (生没年不詳)
徐州広陵郡の人。呉の左将軍。子に戴昌、孫に戴淵。
赤烏十三年(250年)、王昶や王基らが荊州を南下し夷陵、江陵方面に侵攻し、朱績がこれを防衛した。
孫権は将軍の戴烈と陸凱を援軍に派遣したため、魏軍は撤退した。
266
:
名無しさん
:2024/08/03(土) 22:06:32 ID:ovZ96VPQ0
鄧良 トウリョウ (生没年不詳 272年まで生存)
荊州義陽郡新野県の人。蜀漢の尚書左選郎。鄧芝の子。延熙十四年(251年)に父が亡くなると爵位の陽武亭侯を継いだ。
景耀年間(258年〜263年)に尚書左選郎に任じられる。
263年に綿竹で諸葛瞻が鄧艾に敗れると、劉禅は張紹、譙周、鄧良に印綬を持たせ降伏の使者とする。
鄧艾は彼らに引見すると、返書を持たせ成都に帰した。その後、晋朝では広漢太守に任じられる。
鄧良は遠郡に移るにあたって、「自分には兄弟がおらず、任地が遠いと老母の世話ができない」と変更を願うも叶わなかった。
267
:
名無しさん
:2024/08/03(土) 22:07:15 ID:ovZ96VPQ0
蔡貢 サイコウ (生没年不詳)
呉の武将。鳳凰元年(272年)、西陵督の歩闡が晋に投降すると、
陸抗は配下の左奕、吾彦、蔡貢に命じて西陵に赴かせ、戦わず包囲するよう命じる。
この時、諸将は陸抗に速戦を求め、また雷譚が強く請願したため一度だけ攻城を許したが、
何も成果を上げられなかったので包囲陣の構築に従事した。
その後は、陸抗の指揮で楊肇を撃退した
268
:
名無しさん
:2024/08/03(土) 22:07:46 ID:ovZ96VPQ0
李球 リキュウ (?〜263年)
益州建寧郡兪元県の人。蜀漢の羽林右部督。李恢の弟の子。
炎興元年(263年)の冬、鄧艾が綿竹まで侵攻してくると、諸葛瞻親子や張遵、黄崇らと迎撃に向かって戦死した。
269
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名無しさん
:2024/08/03(土) 22:09:10 ID:ovZ96VPQ0
孫述 ソンジュツ (生没年不詳)
揚州呉郡冨春県の人。呉の武昌督。孫鄰の子で、兄弟に孫苗、孫旅、孫震、孫諧、孫歆。
武昌督となり、荊州の統括にあたる。
天紀四年(280年)に征呉軍として王戎の軍勢が武昌に迫ると、将軍の楊雍、江夏太守の劉朗らと衆を率いて降伏した。
270
:
名無しさん
:2024/08/03(土) 22:09:53 ID:ovZ96VPQ0
張象 チョウショウ (生没年不詳)
呉の遊撃将軍。天紀四年(280年)に征呉軍として王濬軍が迫ると、孫皓は張象に水軍一万で防がせた。
しかし、張象は晋軍の旗を見るとすぐに降伏した。
『演義』では前将軍で、陶濬と共に迎撃に向かったが、
突然の大風で旗が維持できなくなると兵が四散し、数十人だけになってしまう。
王濬が至ると張象は降伏し、晋軍を石頭城に迎え入れた。
271
:
名無しさん
:2024/08/03(土) 22:10:36 ID:ovZ96VPQ0
劉俊 リュウシュン (?〜268年)
呉の交州刺史。宝鼎三年(268年)、前部督・脩則、荊州刺史・顧容らとともに交趾に侵攻した。
晋からは楊駿が毛炅と董元らを送り、合浦の古城で両軍は交戦する。
その結果、劉俊らは戦闘で敗れて戦死し、兵士は合浦に逃げ帰った。
272
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名無しさん
:2024/08/03(土) 22:11:10 ID:ovZ96VPQ0
孟幹 モウカン (生没年不詳)
益州建寧郡の人。晋の牙門将。晋に帰順した交趾太守・呂興の死後、
霍弋は楊駿以下、毛炅、董元、孟幹、孟通、李松、王業、爨能らを交趾に派遣した。
楊駿らは合浦で呉の脩則らを撃破したが、271年に陶璜に敗れ投降する。
その護送中に楊稷が病死し、孟幹、爨能、李松は建業に送られた。
孟幹らは処刑を免れるも臨海郡に送られるのを不安がり、竹弩の作成を志願して留まることに成功する。
273年、孟幹だけが脱出して爨能と李松は斬られたが、
伐呉の計略を司馬炎に進言して日南太守に任じられ、爨能と李松の子も関内侯に封じられた。
※孟獲などと同族か
273
:
名無しさん
:2024/08/03(土) 22:11:52 ID:ovZ96VPQ0
楊稷 ヨウショク (?〜271年)
益州犍為郡の人。晋の交州刺史。泰始元年(265年)、交趾太守の馬融が亡くなると後任となり、
毛炅、董元、孟幹、孟通、李松、王業、爨能らと交趾に派遣される。
268年、交州奪回に来た呉の脩則や劉俊を毛炅が撃破し、翌年には分水で陶璜を敗退させ配下の二将を斬った。
しかし、その後に董元が敗れ、楊駿や毛炅らも包囲を受けて食料が枯渇する。
霍弋は以前に「包囲を受けて救援が来ずに、百日過ぎて降った場合は私が罪をかぶる。」と約束したため、
陶璜から食料を与えられ、百日後に降伏した。楊駿は建業への護送中、合浦に至ると病死した。
274
:
名無しさん
:2024/08/03(土) 22:12:47 ID:ovZ96VPQ0
張儼 子節 チョウゲン シセツ (?〜266年)
揚州呉郡呉県の人。呉の大鴻臚。子に張勃、張翰。
幼い頃に張純、朱異らと朱拠を訪問した際に賦を作ることを求められる。
そこでそれぞれ犬、敷物、弩について立派な賦を作り朱拠から喜ばれた。
若くして名を知られた張儼は侍中など顕職を歴任し、博聞で多くに通じることから大鴻臚となる。
266年の正月、孫晧は外交の才を見込んで大鴻臚・張儼と五官中郎将・丁忠を使者として司馬昭の弔問に派遣した。
晋朝では賈充、裴秀、荀勗らがやり込めようとしたが果たせず、羊祜や何楨と友誼を結ぶ。
しかし、その帰路に病没した。著作に『黙記』など。
※朱拠の話から246〜250年の頃に子供なので生年は236年前後か。
275
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名無しさん
:2024/08/04(日) 22:09:30 ID:LGGJqu9c0
王買 オウバイ (生没年不詳)
鎮西將軍・鍾会の部将。景元四年(263年)、鍾会のもとで征蜀軍に加わった。
諸葛瞻が敗れ、姜維が剣閣から退き成都を目指すと、鍾会は夏侯咸と胡烈を派遣する。
二隊は広漢の新都に向かって姜維の進路を塞ぎ、句安らが追撃し、皇甫闓と王買は側面を突く形で進軍した。
276
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名無しさん
:2024/08/04(日) 22:10:08 ID:LGGJqu9c0
張喬 チョウキョウ (生没年不詳)
晋の城陽都尉。咸寧五年(279年)、王渾に率いられて征呉軍に従う。
王渾は参軍の陳慎と張喬を尋陽郡に送ると、呉の孔忠を破り、周興ら五将を捕らえた。
その後、張喬は七千で楊荷橋に陣を構えたが、張悌ら三万の包囲を受けて一時的に降伏する。
張悌は穴埋め案を退け、慰撫した後に周浚らの陣営に攻撃を仕掛けた。
三度攻撃して退くところを薛勝、蒋班が追撃して呉軍が崩れると、張喬はその背後から攻撃して版橋で大打撃を与えた。
※城陽郡は青州。尋陽は柴桑の対岸。312年に登場する劉琨の部下・張喬と同じか不明。
277
:
名無しさん
:2024/08/04(日) 22:10:41 ID:LGGJqu9c0
周浚 開林 シュウシュン カイリン (?〜289年)
豫州汝南郡安成県の人。父に周裴、妻に李絡秀、子に周顗など。
果敢で気性激しく、才知と道理に通じて名を知られ、人物眼があった。
初めは州郡の招聘に応じず、後に魏の尚書郎となり、御史中丞から折衝将軍、揚州刺史に任じられる。
咸寧五年(279年)に王渾と共に征呉軍に従う。沈瑩など呉の精鋭から三度攻められるが、
周浚や張翰の陣は動揺せず、退却するところを追撃して呉軍に大勝した。
その後は秣陵に移り、陸雲など呉人を召すなど威光と恩沢で鎮撫する。
朝廷では侍中から少府に遷り将作大匠を兼ね、外に出ては都督揚州諸軍事を務めた。
278
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名無しさん
:2024/08/04(日) 22:11:31 ID:LGGJqu9c0
羅尚 敬之 ラショウ ケイシ (?〜310年)
荊州襄陽郡の人。晋の益州刺史。父に羅式、叔父に羅憲。若くして父を失い羅憲を頼る。
蜀漢滅亡後は文章が得意なことから荊州刺史・王戎の参軍となり、劉喬と刺史の事務を担当した。
咸寧五年(279年)、王戎のもと征呉軍に加わり、劉喬と先鋒となって武昌に侵攻する。
その結果、武昌督の孫述、将の楊雍、江夏太守の劉朗らを降伏させた。
289年頃は梁州刺史となり、後に仮節、平西将軍・益州刺史・西戎校尉に任じられる。
蜀での評判は非常に悪かったが、李密の子や杜軫の子を取り立て、宗岱と協力して反乱した李特を討伐した。
279
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名無しさん
:2024/08/04(日) 22:12:22 ID:LGGJqu9c0
荀衍 休若 ジュンエン キュウジャク (生没年不詳)
豫州潁川郡潁陰県の人。後漢の監軍校尉。荀緄の三男で荀彧らの兄、息子に荀紹。
陳羣と孔融が汝南、潁川の人物を論じた際に、
陳羣は「荀彧、荀攸、荀衍、荀諶、荀悦らに並ぶ者は現代にいない」と評した。
曹操が袁尚の討伐に向かうと鄴の留守を預かり、河北の諸事を統括する。
建安十年(205年)に高幹が鄴に兵を繰り出して奇襲したが、
察知した荀衍はこれをすべで撃滅し、その功績で列侯に封じられた。
280
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名無しさん
:2024/08/04(日) 22:13:13 ID:LGGJqu9c0
陳俊 チンシュン (生没年不詳)
演義に登場する魏の武将。諸葛誕の乱に従軍した。
鍾会は「呉兵が諸葛誕を助けるのは利の為であり、利で誘えば必ず勝てる」と進言。
司馬昭はそれに従い、石苞らを伏兵とし、成倅に囮部隊を率いさせ、
陳俊には牛馬に軍の褒賞を乗せて、その陣中に散在させる。
諸葛誕が魏の動きが悪いと見て襲撃すると、成倅などは敗走し牛馬などが野に残った。
そうして部隊の呉兵が物資の奪い合いを始めた頃合いで、石苞らが諸葛誕を攻撃して大破した。
281
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名無しさん
:2024/08/04(日) 22:14:56 ID:LGGJqu9c0
袁隗 次陽 エンカイ ジヨウ (?〜190年)
豫州汝南郡汝陽県の人。後漢の太傅で、いわゆる袁氏の四世三公の一人。
父は袁湯、兄弟に袁逢ら、甥に袁紹、袁術など。若くして南陽太守や大鴻臚など顕官を歴任し、
兄の袁逢より先んじて172年に三公に任じられる。このころ、董卓や桓典を司徒府に招いた。
また太常、後将軍、太尉、太傅など務め、少帝が即位すると何進と共に政務を補佐する。
何進が謀殺されると、袁紹と共に宦官派の樊陵や許相を殺害した。
その後、少帝の廃立に協力的だったが、初平元年に袁紹が決起すると、
袁隗や袁基などの一族は董卓にまとめて誅殺された。
※南陽郡に赴任した際は、現地の山中に湧く霊水を取り寄せて飲んでいた。
282
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名無しさん
:2024/08/04(日) 22:17:01 ID:LGGJqu9c0
馬倫 バリン (122年〜184年)
京兆右扶風茂陵県の人。馬融の娘、袁隗の妻で、子に袁満来、袁懿達、袁仁達。
若くして弁才があり、実家が富豪であったので、袁隗との挙式は盛大に行われた。
式が済むと袁隗は馬倫に、支度が豪勢に過ぎること、姉より先に嫁いだこと、
父が金銭で悪評が立つ理由を問うと、そのすべてに巧みに反論しやり込めた為、
袁隗は言い負かせず黙ってしまった。帳の外で聞いていた者もまた恥じいったという。
当時、袁隗は重用され位も高かったが、馬倫もまた世に名を知られ、六十二歳で亡くなった。
283
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名無しさん
:2024/08/04(日) 22:17:44 ID:LGGJqu9c0
戴昌 タイショウ (生没年不詳)
徐州広陵郡の人。呉の太尉。父は戴烈、子に戴淵、戴邈。
太尉の頃、同郷で八歳の盛彦が訪ねてきたので詩を贈って様子を見ると、彼は傍らに座ってこれに答えた。
呉の滅亡後は武陵太守となる。任地で戴昌は談論を良くしたが、同席した潘京の才に及ばないことを悟ると息子の戴淵を呼んできた。
潘京と戴淵との対話は言論を極め、「才能は貸し借りできぬものだ」と親子共々感服する。その後は会稽太守を務めた。
284
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名無しさん
:2024/08/04(日) 22:18:24 ID:LGGJqu9c0
蔡睦 子篤 サイボク シトク (生没年不詳)
兗州陳留圉県の人。魏の尚書。祖父に蔡質、子に蔡広、蔡徳。
後漢末期、親族と別れて友人の王粲と共に荊州に避難していたが、後に故郷の陳留に旅立った。
王粲の『贈蔡子篤詩』はその時の離情を述べたものとして現存する。その後は曹魏に仕え、尚書を務めた。
※父は蔡質の子(蔡ヨウの従弟)の蔡谷だろうか。荊州への避難はおそらく王粲に同行したと思われる。
285
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名無しさん
:2024/08/04(日) 22:19:09 ID:LGGJqu9c0
祖武 ソブ (生没年不詳 没年は270年代か)
幽州范陽郡遒県の人。晋の上谷太守。子に祖該、祖納、祖逖、祖約など六人(祖逖から後妻の子)。
代々太守を輩出する北方では著名な家柄であった。晋王・司馬昭の掾を務めた後に、上谷太守に遷った。
祖武の死後、祖逖らの母は洛陽で暮らしていたようだが、304年頃には死去していたようだ。
後世、祖逖の威勢を恐れた石勒は、その父祖(あるいは母)の墓を修繕して友好を求めた。
286
:
名無しさん
:2024/08/04(日) 22:20:22 ID:LGGJqu9c0
何邈 カバク (?〜280年)
揚州丹陽郡句容県の人。呉の武陵監軍。祖父に何遂、伯母に何姫、父に何洪、叔父に何植。
孫皓が即位し、伯母が皇太后となるとその弟である何洪、何蒋、何植らは侯に封じられる。
父の何洪が没すると何邈は永平侯を継ぎ、武陵監軍として武林城に駐屯した。
天紀四年(280年)、征呉の戦いで杜預が江陵を落とすと荊南一帯はほとんど降伏する。
そうした中、何邈は何らかの抵抗をしたのか晋軍に殺害されている。
追記:別働の李毅が武陵方面に侵入しているのでここで交戦したかも
287
:
名無しさん
:2024/08/04(日) 22:21:27 ID:LGGJqu9c0
何都 カト (生没年不詳)
揚州丹陽郡句容県の人。伯母は何姫、父は何洪か何蒋、叔父に何植。
鳳凰三年(274年)、孫皓は張布の娘の葬儀を盛大に行い、その喪のため半年は姿を現さなかった。
そのため今回の葬儀は実は孫皓のものと民衆に勘繰られた。
また孫晧の従兄弟で顔の似ている何都が(何一族の悪評も相まって)かわりに帝位に就いたという噂もたった。
臨海太守の奚煕はこれを真に受け、挙兵して何都を討とうとしたが、叔父の何植によって撃退された。
288
:
名無しさん
:2024/08/04(日) 22:22:58 ID:LGGJqu9c0
馮朝 フウチョウ (生没年不詳 264年頃には死亡か)
呉の衛尉。息子の馮純は張布の長女を娶った。
五鳳二年(255年)七月、丞相・孫峻は広陵郡への築城を企図し、
(滕胤の不可能だという諫言を無視して)馮朝に実行を命じる。
また、呉穣を広陵太守に、留略を東海太守に任じるなど徐州方面への侵攻を図った。
同十二月、馮朝は監軍使者・督徐州諸軍事に任じられたが結局、
城の工事は完成せず、旱魃も相まって軍民の間で怨嗟が広がった。
289
:
名無しさん
:2024/08/04(日) 22:24:03 ID:LGGJqu9c0
王化 伯遠 オウカ ハクエン (生没年不詳 72歳で没)
益州広漢郡郪県の人。蜀漢の尚書郎。祖父は王商、父は王彭、弟に王振、王岱、王崇。
若くして兄弟ともに有望視され、『毛詩』『三礼』『春秋公羊伝』を治める。
広漢郡の功曹から州の従事、光録郎中、尚書郎を経て、閬中県令の際は清廉な治政で孝廉に挙げられた。
蜀漢が滅びると涼州酒泉郡の楽涫県令を務める。
胡族の反乱が起こると、孤立無援で七年に渡り官民を率いて堅守し、また隙を見て攻撃して関内侯に封じられた。
後に朱提や梓潼太守を務め賞賛を受ける。性格は謹重で言論は雅びやか、正否は妥当で人民から敬服された。
※弟が陳寿と同年代っぽいので生没は220年〜291年あたりか、また酒泉の反乱は樹機能の余波だろうか
290
:
名無しさん
:2024/08/04(日) 22:25:08 ID:LGGJqu9c0
王崇 幼遠 オウスウ ヨウエン (生没年不詳)
益州広漢郡郪県の人。蜀漢の東観郎。祖父は王商、父は王彭、兄に王化、王振、王岱。
若くして兄弟ともに有望視され、学業に広く通じ、雅びで粋な性格だった。
蜀漢では史官の東観郎を務め、滅亡後は梁州別駕に辟され秀才に挙げられる。
後に寿良、李密、陳寿、李驤、杜烈と共に都に入り、益梁二州の俊才と言われた。
彼らは次第に疎遠となったが、王崇だけは寛容な性格で付き合いを保った。
後に尚書郎や上庸、蜀郡太守を務め、劉禅の後継・劉恂が無道な振る舞いをすると何攀や張寅らと連名で諫めた。
著作に『蜀書』の他、詩賦が数十篇。
291
:
名無しさん
:2024/08/04(日) 22:26:18 ID:LGGJqu9c0
蒋珩 ショウコウ (生没年不詳)
荊州零陵郡泉陵県の人。祖父母は蒋琬と毛氏、父母は蒋斌と費禕の娘。子に蒋恭。
263年、蜀漢滅亡の際に父や叔父が死去すると、祖母の毛氏は三男と蒋珩を連れて、
同族の蒋瑜を頼って故郷の零陵郡に移住した。その後は呉に仕えて始興太守や広州都督を務める。
意気は英爽で誤りを糾し、行いは神の如く速かった。
呉が亡ぶと晋朝に仕え、揚州で仏寺を建立する。中原の民衆がこぞって帰依したのは彼の尽力によるものだった。
死去すると零陵城東に葬られた。
※集解注で趙一淸が「蒋琬の兄弟ではないか」とコメントがあるが、出身県や時代が異なる。
『永州府志』は同県出身で特に言及なし、『梅潭蒋氏世譜』では孫とする。
292
:
名無しさん
:2024/08/04(日) 22:27:13 ID:LGGJqu9c0
張芝 伯英 チョウシ ハクエイ (?〜190-193年 初平年間に没)
涼州敦煌郡酒泉県の人で後に弘農郡に移った。後漢の書家。張奐の長子で弟に張昶、張猛。
草書の改良者で「草聖」「書聖」と呼ばれた。若くして高い意思を持ち、名臣の子息として勉学に励み文武に秀でる。
朝廷からの辟召には応じず、草書を好んで杜度や崔瑗に書法を学び、家の白布には全て書の練習に用いた。
また、池に臨んで鍛錬して水が墨で黒くなった逸話は「臨池」の故事となる。
筆を下せば必ず手本となり、草書をする暇さえないと言われ、寸紙も残らなかった。
鍾繇や王義之と共に古今の三筆の一人。
293
:
名無しさん
:2024/08/04(日) 22:28:14 ID:LGGJqu9c0
韋誕 仲将 イタン チュウショウ (179年〜253年)
司隷京兆尹杜陵県の人。魏の光禄大夫、書家。父に韋端、兄に韋康、子に韋熊。
文才や墨の製法、印相に通じ、張芝や邯鄲淳の書法を学ぶ。
建安年間に郡の上計吏から郎中となり、227年頃に武都太守(能書家のため中央勤め)、
後に侍中や中書監を経て光禄大夫を務めた。
魏の宝物の銘文や洛陽、許昌、鄴の宮殿の題字は全て彼の手によるが、
明帝の時に凌雲台の題字を書くために、二十五丈(60m)の高さで作業した経験から子孫に書を戒める。
251年、司馬懿が王凌討伐から帰還すると、皇帝の使者として軍を慰労した。共著作に『魏書』『皇覧』など。
294
:
名無しさん
:2024/08/04(日) 22:29:16 ID:LGGJqu9c0
左伯 子邑 サハク シユウ (生没年不詳)
青州東莱郡の人。後漢末の書家、製紙家。
書の八分体に巧みで、毛弘らと並び称され、邯鄲淳とは趣が異なるが漢末に名高かった。
また紙造りに特に優れて、蔡倫の製紙技術を受け継いで改良を施す。
彼の製造した「左伯紙」は後に”妍妙輝光”と評され、
韋誕が「良い仕事には良い道具。張芝の筆、左伯の紙、臣(韋端)の墨が必要です」と奏上したほど珍重された。
295
:
名無しさん
:2024/08/04(日) 22:30:20 ID:LGGJqu9c0
崔巨業 サイキョギョウ (生没年不詳)
袁紹の武将。初平三年(192年)、界橋の戦いで公孫瓚が薊に敗走する。
その頃、袁紹は占星術に長けた崔巨業に(財貨を贈り寝食を共にするなど厚遇した上で)吉兆を占わせ、
期日を決めて涿郡故安県を包囲させた。崔巨業は数万の軍勢で向かったが落とせず、南に退却する。
しかし、公孫瓚が率いる三万の追撃部隊と巨馬水の辺りで戦闘になり、死者七千を超える大敗を喫した。
その後の詳細は不明だが、公孫瓚軍は勝ちに乗じて平原まで南下した。
※「巨業」を字とみると、崔琰の兄の崔覇と同一人物かもしれない(名+字で覇業)
296
:
名無しさん
:2024/08/04(日) 22:31:21 ID:LGGJqu9c0
胡羆(熊) 季象 コヒ キショウ (生没年不詳)
揚州楚国寿春県の人。晋の征南将軍。父は胡質、兄に胡威。父や兄と同様に潔白な行為で名を知られた。
才幹を有し、荊州刺史・征南将軍を務める(襄陽の山上に碑文があったという)。
呉の平定後(280年)は益州刺史・安東将軍に転じ、王長文を辟召しようとしたが果たせなかった。
また李密の『述理論』を評価した。
297
:
名無しさん
:2024/08/04(日) 22:33:45 ID:LGGJqu9c0
曹冏 元首 ソウケイ ゲンシュ (生没年不詳)
豫州沛国譙県の人。魏の弘農太守。曹騰の兄・曹叔興の子孫で、曹丕と同年代にあたる。
正始五年(244年)、魏の皇族は大きな制限と監視のもと不遇の生活を強いられており、
国家の藩屏の観点からも封建を行うよう上奏を行ったが(『魏分封論』)、曹爽には理解されなかった。
また著作の『六代論』は後世に曹植作と仮託されたため、司馬炎から曹志(曹植の子)に作者の諮問が行われた。
泰始八年(272年)、都督関中雍涼諸軍事である司馬亮の軍司を務め、
失態を犯した劉旂の助命を連名で上表したが拒絶された。
298
:
名無しさん
:2024/08/04(日) 22:34:52 ID:LGGJqu9c0
谷朗 義先 コクロウ ギセン (218年〜272年)
荊州桂陽郡耒陽県の人。呉の九真太守。幼くして両親を亡くすが、温和で道義に外れず、養父や弟と暮らした。
若くして郡に仕え、陽安県長の後に中央で郎中、尚書令史、荊州に戻ると郡の中正や長沙の県令などを歴任する。
その後、中央や広州で任用され、恩恵をもって人々を教化し、汚濁を一掃し人事は公正厳格であった。
また、呉では263年から呂興の反乱で交趾付近を失陥しており、晋軍とたびたび戦闘が行われていたが、
威信恩義で知らる谷朗が九真太守に抜擢される。
その後、薛珝、陶璜らの活躍で交趾などが回復したが、翌年の272年に没した。
299
:
名無しさん
:2024/08/04(日) 22:36:10 ID:LGGJqu9c0
柳伸 雅厚 リュウシン ガコウ (生没年不詳)
益州蜀郡の人。蜀漢の巴東太守。子に柳純。若くして同郡の柳隠や杜禎らと名を知られた。
また、杜禎と共に益州牧の諸葛亮の従事に辟され、杜禎が梁、益二州の都督となるとその補佐にあたる。
その後は漢嘉太守、巴東太守を務めた。蜀の滅亡後は杜禎の子・杜珍と共に秀才に挙げられた。
※梁州が設置されたのは蜀滅後なので時系列が多少前後しているかも
300
:
名無しさん
:2024/08/05(月) 22:07:28 ID:GLg5AJ.c0
鄒軌 スウキ (生没年不詳)
荊州南陽郡新野県の人。魏の左将軍。息子に鄒湛。
後漢末期から放置されていた雍州以西に対して、曹丕の時代に初めて涼州が設置されると、
安定太守であった鄒軌が涼州刺史に任じられる。
しかし、張掖郡で張進が郡守・杜通を殺害し、鄒軌の着任を拒むと、黄華、麹演らも太守を追い出して呼応した。
これらの反乱は張既、蘇則、郝昭、魏平、毋丘興らの活躍で鎮められるも、
盧水胡の伊健妓妾、治元多が反乱すると曹丕は「張既でなくば涼州を安んじられぬ」として刺史の位を交代させた。
後の徐州刺史の頃に桓範と屋敷を巡って小競り合いをした。
※「息子に鄒湛」までは鄒軌、それ以降は鄒岐の事績。両者を同一人物ととらえた。
301
:
名無しさん
:2024/08/05(月) 22:08:14 ID:GLg5AJ.c0
鄒湛 潤甫 スウタン ジュンホ (?〜299年頃)
荊州南陽郡新野県の人。晋の少府。父に鄒軌。
若くして才能と学識で名が知られ、魏に仕えて通事郎、太学博士を務める。
泰始の初め頃(265年頃)、尚書郎や廷尉平の後に征南将軍・羊祜の従事中郎となり重んじられた。
中央に戻ると太子中庶子となり、太康年間に散騎常侍、渤海太守、楊駿の長史や侍中を務める。
291年に楊駿が誅殺されると免官となったが、後に散騎常侍や国子祭酒、少府を務め、元康の末(299年頃)に没した。
著作は詩や論など二十五首の他に『周易統略』
302
:
名無しさん
:2024/08/05(月) 22:08:58 ID:GLg5AJ.c0
習温 シュウオン (生没年不詳)
荊州襄陽郡の人。呉の武昌太守。習珍の子。
十数歳の頃に潘濬から「この子は必ずや我が州の主導者になるだろう」と言われ、その子弟らと親しく付き合う。
父は潘濬に攻められ自害したが、習温は呉に仕えて長沙、武昌太守、選曹尚書、広州刺史などを歴任した。
彼は見識と度量が広く、三十年の官歴で名誉を求めず権勢と結ばず、長子の習宇が奢侈であると、
これを叱り杖で撃つなど慎重な処世をする。潘濬の子・潘秘が「貴方に次ぐ州の主導者は誰か」と問うと
「君以上はいない」と答えその通りになった。
303
:
名無しさん
:2024/08/05(月) 22:09:58 ID:GLg5AJ.c0
李伏 リフク (生没年不詳)
張魯の臣下。213年、曹操が魏公に就任したが、漢中では詳細がわからず、みな王になったと考えた。
しかし、武都の李庶と姜合は「公であり、まだ王ではない。
天下を平定するものは魏公の子桓であり予言に付随する」と李伏に告げる。
李伏はこの件を張魯に報告し、後に亡命者から魏国の詳細を得たが姜合の言と合致した。
こうした経緯から張魯と協議して曹操への帰順を望むようになる。
魏国では左中郎将となり、新参ゆえに躊躇っていたが、220年に曹丕の即位運動が起こると姜合による予言の内容を上奏した。
304
:
名無しさん
:2024/08/05(月) 22:10:56 ID:GLg5AJ.c0
李休 子朗 リキュウ シロウ (生没年不詳)
荊州南陽郡の人。張魯の司馬。李勝の父で知略を有した。
南鄭に住んでいた頃、漢中に甘露が降ると、張魯が数万の精兵を持ち四方を抑え、
赤気(漢朝)は衰え黄家(張魯勢)が隆興するとして張魯に尊号をとなえるよう進言したが、採用されなかった。
215年の曹操との戦いでは、張魯に降伏を進言しため関内侯を賜り、散官騎従となり鄴に移る。
黄初年間(220年〜226年)に上党、鉅鹿太守を務め、後に老年を理由に議郎に召し返された。
※同一勢力、名前が似ている、張魯の帰順に功績、予言系の逸話から李伏と同一人物かも
305
:
名無しさん
:2024/08/05(月) 22:11:46 ID:GLg5AJ.c0
謝承 偉平 シャショウ イヘイ (生没年不詳)
揚州会稽郡山陰県の人。呉の武陵太守。姉に謝夫人、子に謝嵩、謝勖。
博学で見識広く、一度知ったことは生涯忘れなかったという。
姉は孫権の夫人となったが、徐夫人との関係で寵愛が薄れて早くに死去した。
謝承はその十数年後に五官中郎将に任じられ、長沙東部都尉、武陵太守と昇進した。著作に『後漢書』百三十巻。
※257年に長沙東部は湘東郡に変更されたので着任はそれ以前。謝承『後漢書』は成立が最も早く、現行の『後漢書』とは別の書。
306
:
名無しさん
:2024/08/05(月) 22:12:30 ID:GLg5AJ.c0
劉寛 文饒 リュウカン ブンジョウ (120年〜185年)
司隷弘農郡華陰県の人。後漢の太尉。父に劉崎、子に劉松。
若くして『欧陽尚書』『京氏易』を学び、星官、風隅、算歴を極めて「通儒」と称される。
また権勢や利益で他人と争ったことがなく、温和でつねに寛容であった。
桓帝の時代に侍中、尚書、東海国相、南陽太守のほか二郡を歴任する。
任地では功績を譲り、責任をかぶり、巡察の際には経書を手に講義を行って広く人々を教化した。
霊帝の時代では請われて帝に経典を講義し、黄巾党の乱を予見し上奏した功績から侯に封じられる。
酒を好んだが手洗いや湯あみを好まなかった。
※星官は中華の天文体系、風隅は風向や言葉の音による占い、算歴は算術と暦法
307
:
名無しさん
:2024/08/05(月) 22:13:28 ID:GLg5AJ.c0
魏騰 周林 ギトウ シュウリン (生没年不詳)
揚州会稽郡上虞県の人。呉の鄱陽太守。剛直な性格で困難に遭っても行いを曲げなかった。
孫策の功曹の頃、譴責を受け処刑されそうになったが、呉夫人から「職務に尽くす魏騰どのを殺せば、
誰が付いてくるのか」という説得で助命された。
また、孫権の時代に罪を犯し、激怒した孫権から「助命を意見する者も同じく処刑する」との布告がなされる。
しかし、同郷で友人の呉範による決死の歎願によって釈放され、大いに感謝した。
職歴は、歴陽、鄱陽、山陰の三県令を務め、鄱陽太守まで昇ったという。
※陳琳の檄文に父の徳業を良く継承した者として魏周榮の名があるが同一人物か。
308
:
名無しさん
:2024/08/05(月) 22:14:00 ID:GLg5AJ.c0
殷基(興) インキ (生没年不詳)
揚州呉郡雲陽県の人。呉の無難督。父に殷礼、子に殷巨、殷祐ら三人。
才能と学問によって名が知られた。晋朝では尚書左丞を務め、著作に『通語』『春秋釈滞』などがある。
『通語』は父・殷礼が作ったものを殷基が補い完成させたとする説もある。
309
:
名無しさん
:2024/08/05(月) 22:15:04 ID:GLg5AJ.c0
殷巨 元大 インキョ ゲンダイ (生没年不詳)
揚州呉郡雲陽県の人。呉の偏将軍。父に殷基、弟に殷祐ら二人。
才幹を有し、偏将軍として家の部曲を率いて夏口城に駐屯した。
呉平定後は晋に属し蒼梧太守に任じられた。
※征呉の時は胡奮、王戎、王濬の軍勢に降伏したと思われる
310
:
名無しさん
:2024/08/05(月) 22:16:01 ID:GLg5AJ.c0
陳術 申伯 チンジュツ シンハク (生没年不詳)
益州漢中郡の人。蜀漢の上庸太守。博学でもって名が知られ、
彼のほか鄭厪、趙謙、祝亀、王商らは巴蜀の事績をまとめ『巴蜀耆旧伝』を著した。
後に陳寿はこれに加筆し『益部耆旧伝』十篇として編纂した。
著作はほかに『釈問』七編や『巴蜀耆旧伝』の志などがある。
業績は失伝したが、新城、魏興、上庸の三郡の太守を歴任した。
311
:
名無しさん
:2024/08/05(月) 22:16:48 ID:GLg5AJ.c0
王昌 公伯 オウショウ コウハク (生没年不詳)
揚州長沙郡の人。晋の散騎常侍。父に王毖、弟に王式のほか、面識のない兄がいた。
後漢末、父の王毖は妻子がいたが、呉の反乱(孫権政権)により生き別れとなり、後妻を娶って王昌らをもうける。
王昌は曹彰の長女を娶り、東平王・司馬楙の国相を務めた。
天下統一後の太康元年(280年)、司馬楙は「王昌が義母の服喪を行うべきか否か」を朝廷に上言し議論される。
論者の大半が行う必要はないと主張し、最終的に司馬炎が不許可の詔を下した。
王昌の官位は散騎常侍まで昇ったが早世した。
※『襄陽耆舊記』に彼の事績が残るため、父か、彼の代に長沙から襄陽に本籍を移したか
312
:
名無しさん
:2024/08/05(月) 22:21:30 ID:GLg5AJ.c0
袁忠 正甫 エンチュウ セイホ (?〜196年頃)
豫州汝南郡汝陽県の人。 .後漢の沛国相。祖父は袁彭、父は袁賀、兄に袁閎、弟に袁弘、子に袁祕。
党錮の禁で投獄された際は、病気の囚人より自分を尋問せよと同郡の范滂と先を争う。
初平年間(190年〜193年)、沛国相を務めて清亮と評判だった。
李傕らが台頭すると、陶謙と共に朱儁を盟主に建てようとしたが成らず、官を棄て会稽上虞県に逃れる。
現地では太守・王朗の従者が着飾るのを見て嫌悪し、病と称して関係を断った。
196年、孫策が会稽を落とすと交趾に逃れ、同年、献帝が許に遷ると、衛尉に徴されたが到達する前に死去した。
※曹瞞傳に「曹操が士燮に命じて袁忠ら家族を殺害させた」とあるが、兄や弟は自宅で死に、
息子の袁祕は黄巾に殺害されているなど、後漢書の記述とはなはだ一致しない。
313
:
名無しさん
:2024/08/05(月) 22:22:58 ID:GLg5AJ.c0
皇甫晏 コウホアン(?〜272年)
晋の益州刺史。正元二年(255年)頃は雍州刺史・王経の部下であり、
260年に彼が処刑されると、家財を売って葬儀を行った。
泰始八年(272年)頃は益州刺史を務めた。この年、汶山の白馬胡が他の異民族を略奪すると、
皇甫晏は討伐に出撃し、五月に都安県に至り観阪に駐屯した。
しかし、この出征には様々な不吉な兆候があらわれ、別駕従事・王紹や典学従事の何旅らがたびたび諫めたが、
皇甫晏は聞き入れなかった。また、夏の盛りの軍務で怨嗟が広がり、
六月に牙門の張弘と督の張衡の造反により殺害され、皇甫晏は謀反人と誣告され首が洛陽に送られた。
※雍州刺史の部下だったので、安定皇甫氏の一族と思われる。
314
:
名無しさん
:2024/08/05(月) 22:23:54 ID:GLg5AJ.c0
陳瑞 チンズイ (?〜277年)
益州犍為郡の人。益州の宗教指導者。
入信する際は酒一斗、魚一匹を捧げ、他の神々を祭祀せず、葬儀や出産に関わる者は百日間、
教区に近寄れず、父母妻子の葬儀でも入弔を禁じるなど、清潔であることを最も尊んだ。
信徒を導く者は祭酒と呼ばれ、陳瑞自身は天師を称し、
後に陳瑞が豪奢になると朱衣、素帯、赤幘、進賢冠を帯びるようになる。
彼の信徒は益州に千数百人おり、その中には太守も含まれた。
咸寧三年(277年)の春、益州刺史の王濬は、陳瑞が鬼道をもって民を惑わし、
また不孝であるとして祭酒を含め誅殺し、その伝舍を焼いた。
※清潔を除けば宗教規定が五斗米道と酷似しており、太平道の流れをくむものと思われる。
315
:
名無しさん
:2024/08/05(月) 22:26:03 ID:GLg5AJ.c0
鮮于嬰 センウエイ (生没年不詳)
晋の平州刺史。晋の時代、巴西太守の呉静が死傷者への補償で問題を起こし民心を失うと、
軍司であった鮮于嬰は太守の更迭を求めて上表した。
朝廷は呉静を免じると、代わりに鮮于嬰を巴西太守に任じる。
泰始七年(271年)、益州南部の四郡を分けて寧州が新設されると、鮮于嬰はその刺史に任じられた。
呉が平定された翌年(281年)は遼東の平州刺史を務め、遼西に鮮卑が侵入するとこれを撃破する。
翌年に平州が廃止されたが、護東夷校尉として襄平に駐屯した。
しかし、285年に慕容廆が夫余国を侵略した際、救援を送らなかったとして罷免された。
316
:
名無しさん
:2024/08/05(月) 22:26:38 ID:GLg5AJ.c0
武周 伯南 ブシュウ ハクナン (生没年不詳)
豫州沛国竹邑県の人。魏の衛尉。子に武陔、武韶、武茂。
206年頃は下邳県令を務め、徐州刺史の臧覇から尊敬を受ける。
後に張遼配下の護軍を務め、しばらくして関係が悪化したが、張遼は胡質から諫められると間違いを悟り関係を修復した。
220年に曹丕の禅譲問答では、侍御史として名がみえる。
武周には男子が三人いたが、みな有望で郷里や親でも誰が最も優れているのかわからなかった。
そこで同郡の劉昶に鑑定を頼むと「長男の武陔は宰相に、残りの二人も高官に登るだろう」と言われた。
後に光禄大夫や衛尉を務めた。
317
:
名無しさん
:2024/08/05(月) 22:27:27 ID:GLg5AJ.c0
李堅 リケン (生没年不詳)
後漢の鼓舞(つづみまい)の名手。霊帝の西園の鼓吹隊の一人で、小鼓の舞を得意とした。
後漢末期、天下が乱れると、李堅は関西に避難して段煨のもとに身を寄せる。
その後、曹操が伎芸者から李堅のことを聞くと手紙を送って召し寄せたが、
その時にはすでに七十歳を越え、舞も辞めてしまっていた。
また、李堅の知る古曲は誤謬が多く後世に伝えることができない為、
旧曲を下地に魏の時代に合わせた新曲を五篇作成した。
318
:
名無しさん
:2024/08/05(月) 22:28:07 ID:GLg5AJ.c0
阮炳 叔文 ゲンヘイ シュクブン(生没年不詳)
兗州陳留郡尉氏県の人。後漢の河南尹。父は阮諶、兄は阮武、子は阮坦、(次男)、阮柯。阮籍と同族。
阮炳は医術に精通し、『薬方』十六巻を撰した。
後世に『阮河南薬方』と呼ばれるこの薬学書は、大医を志す者ならば必ず暗唱できる必読書の一つに数えられた。
阮炳は死の間際、三男・阮柯を名指しで後継者に任命し爵位を継承させた。
これは長男・阮坦は兄の家を継いですでに亡く、また次男より三男を寵愛していたためであったという。
319
:
名無しさん
:2024/08/05(月) 22:29:00 ID:GLg5AJ.c0
呂広 リョコウ (生没年不詳)
呉の太医令。名は呂博や呂博望と記されることが多いが、
避諱によるもので呂広が正しいとされる(あるいは字が博望か)。
呂広は若くして医術で名が知られ、脈診を得意として著述が多くあった。
呉の赤烏二年(239年)に太医令に任じられる。
『玉匱針経』を撰し、『難経』に注釈をつけ、大いに世に広まったという。
320
:
名無しさん
:2024/08/05(月) 22:29:43 ID:GLg5AJ.c0
王熙 叔和 オウキ シュクカ (生没年不詳)
兗州山陽郡高平県の人。晋の太医令。生まれつき沈着冷静で、医書に詳しく、とくに著述を好んだ。
また摂生法に深い知識があり、常々節度ある食事の重要性を説いていた。
王熙は当時散逸していた張仲景の『傷寒論』や『金匱要略方』を収集、復元し、
また西晋期に至るまでに伝存した医書を編纂整理して『脈経』を撰する。
この『脈経』は漢方医学にとって最重要の医書の一つとして数えられた。
他の著作に『脈訣』四巻、『脈賦』一巻、『論病』六卷など。
※王粲らと同族か。
321
:
名無しさん
:2024/08/05(月) 22:30:35 ID:GLg5AJ.c0
牟子 ボウシ (生没年不詳)
交州蒼梧郡の人。後漢末の仏教学者。経書をはじめ凡そあらゆる書物に通じ、学識や弁舌で名が知られた。
後漢末期に母を連れて交趾郡に避難して、後に故郷の蒼梧郡に戻ると太守からは仕官を求められるが断った。
また荊州への使者を依頼されたが交州牧の招きがあり断った。
さらに州牧から零陵、桂陽への使者に求められたが母の死で取りやめとなった。
こうしたことが続いたため学問に打ち込むことを決意し、仏教や老子を深く研究して『理惑論』を著述した。
※名は未詳。牟子博や牟融とする記述もある。
322
:
名無しさん
:2024/08/05(月) 22:31:19 ID:GLg5AJ.c0
邢姣花 ケイコウカ (生没年不詳)
『三國志玉璽伝』の登場人物。邢彪の娘。宦官誅殺の混乱の中で新帝を探す劉備は、北邙山で玉璽を手に入れる。
その際、山賊の邢彪に宴に招かれ謀殺されそうになるが、邢姣花によって助けらた。
劉備は娘に玉璽を託して立身を薦めるが、父は捕吏に処刑され、
彼女も董卓から逃れ玉璽を持って井戸に身を投げた。
邢姣花は死後、仙女となるも罪を犯して呉懿の妹に転生する。
後に生まれ変わりを確信した劉備から婚姻を申し込まれると、貞節のため自害を試みた。
しかし、玉璽を見せられると前世の記憶がよみがえり、結婚を承諾したのだった。
※成立時期は『演義』が明代、『玉璽伝』は明末とされる。「姣」は字が出ないので、ほぼ同義の「嬌」で代用してもいいかも
323
:
名無しさん
:2024/08/05(月) 22:33:39 ID:GLg5AJ.c0
番苗 ハンビョウ (生没年不詳)
交州九真郡の人。兄に番歆。九真太守の儋萌は義父の周京のために、役人らを招いて宴を開いた。
酒もまわり宴もたけなわとなった頃、功曹の番歆が周京をしつこく舞いに誘ったため、
儋萌は怒って杖で撃ち、番歆は間もなく死亡した。
兄を殺された番苗は、衆を率いて治所の胥浦県に攻め寄せて、儋萌を毒矢で射殺する。
これを受けて交趾太守の士燮は軍を差し向けたが、勝つことは出来なかった。
朱符の死んだ頃(197年頃)には反乱は鎮圧されたのか、士燮が弟を九真太守としている。
※功曹は現地豪族の採用枠。また九真郡の都龐県では兄が死ぬと弟が兄嫁を娶る風習があった。
324
:
名無しさん
:2024/08/05(月) 22:35:47 ID:GLg5AJ.c0
梅敷 バイフ (生没年不詳)
柤中の夷王。柤中は荊州襄陽郡の西南150里にあたる地域で、
土地は開けて桑や麻が良く育つ肥沃な土地して知られた。
梅敷ら三兄弟は一万余家をもって、中廬、宜城県西方の谷間に勢力があった。
曹丕の禅譲などが行われた延康元年(220年)秋、魏に所属していた梅敷は、
配下の張倹を呉への使者に立てて、南陽郡の五県三千家が呉に帰属することになった。
しかし、その後は魏に戻ったようで、228年頃の周魴の手紙では陸遜、潘濬らによる討伐が計画されていた。
(241年に諸葛瑾らが柤中へ攻撃をかけているがその頃の生死は不明。)
325
:
名無しさん
:2024/08/06(火) 22:02:19 ID:vO5SGeaY0
脂習 元升 シシュウ ゲンショウ (生没年不詳 生年は140年頃か)
司隷京兆尹の人。後漢の太医令。中平年間(184-189年)に郡に仕え、また三公府に高第に挙げられ、太医令となる。
その後、献帝が長安や許昌へ遷った時も、常に付き従った。
友人の孔融の曹操に対する態度を諫めたが聞き入れられず、彼が処刑されるとただ一人、遺骸を撫でて哭する。
曹操は彼の素直さを認めて不問とし、後に脂習が陳謝すると
「元升殿は昔から気概があったからなあ」と親しく語りかけ穀物を贈った。
黄初にいたると起用する話も出たが高齢のため沙汰止みとなり、
「楽布」の節があるとして中散大夫を贈られて八十余歳で卒した。
※『魏略』では純固伝にまとめられていた。
326
:
名無しさん
:2024/08/06(火) 22:03:25 ID:vO5SGeaY0
劉伶 伯倫 リュウレイ ハクリン (生没年不詳 泰始年間265年〜は生存)
豫州沛国の人。竹林の七賢の一人。身長六尺で風采が上がらず物静か、感情を隠さず万物斉同に思いを馳せていた。
また無類の酒好きで泥酔しても機転が利き、妻から断酒を懇願されても聞き入れなかった。
人付き合いは少ないが、阮籍や嵆康とは親しく交流し、
また常に酒を携えて粗末な車に乗り、従者に鋤を持たせて「死んだ場所に埋めろ」と言うなど形式に拘らなかった。
かつて建威将軍の参軍となり、泰始年間に皇帝・司馬炎から下問があると無為の教化について盛んに主張したが、
無用のものとして却下された。著作に『酒徳頌』一遍。
※6尺は約146㎝。264年の征呉の際の建威将軍には、同じく竹林七賢の王戎が該当する。
327
:
名無しさん
:2024/08/06(火) 22:04:20 ID:vO5SGeaY0
斯従 シジュウ (生没年不詳)
揚州会稽郡剡県の人。県の豪族の出身で役人を務め、また侠を自任して悪事を働いていた。
県長に赴任した賀斉はこれを取り締まろうとすると
主簿に「彼は県の大族で山越も懐き、今日手を出すと明日には報復されます」諫められる。
これを聞いて怒った賀斉は斯従を斬り殺してしまった。
すると一族が勢力を集め千人ほどとなり、役所を攻め立てたが返り討ちにあった。
328
:
名無しさん
:2024/08/06(火) 22:05:21 ID:vO5SGeaY0
董重 トウチョウ (?〜189年)
冀州河間国の人。後漢の驃騎将軍。孝仁董皇后(霊帝の生母)の甥。
中平五年(188年)に衛尉から驃騎将軍に遷り、千余人を領する。
孝仁皇后は劉協を養育していた為、後継で何皇后と対立しており、
翌年に霊帝が崩御すると孝仁皇后と董重、何太后と何進の権力争いが激化した。
何太后は董氏を軟禁すると、怒った董氏は「汝は兄を当てにしているが、今に驃騎が首を持ってくるわ」と
罵ったため、何進らは上奏して董氏の遷宮の認可を得た。
董重は、挙兵した何進に驃騎将軍府を囲まれ、捕らえられて五月に獄で自害した。翌月には伯母も死去した。
329
:
名無しさん
:2024/08/06(火) 22:06:13 ID:vO5SGeaY0
鮑鴻 ホウコウ (?〜189年)
京兆尹右扶風郡の人。後漢の下軍校尉。
中平二年(185年)、張温率いる漢軍は辺章、韓遂らとの戦いで劣勢だったが、
流星に驚いた賊軍に対して董卓と共に攻勢をかけて大勝し、数千を斬首した。
188年、屯騎校尉だった鮑鴻は西園八校尉の一人として下軍校尉に任じられ、
4月から汝南の葛陂県で跋扈していた黄巾賊を討った。
しかし、軍の徴発と偽って官の物資を収賄したため、黄琬に糾弾され、翌年3月に獄死した。
※葛陂県には許チョの塢があり、黄巾はここも攻撃していたが、なんだかんだあって逃げた。
330
:
名無しさん
:2024/08/06(火) 22:06:58 ID:vO5SGeaY0
紫虚上人 シキョショウニン (生没年不詳)
三國志演義に登場する錦屏山の道士。人の生死貴賤を予知することができると言われた。
劉備を防ぐべく派遣された劉璝、張任、鄧賢、冷苞ら四人は、行軍中に銀屏山を通過するため彼に教えを乞うた。
初めは謙遜していた紫虚上人だったが、劉璝に再三請われたため、筆をとって八句で劉備軍の将来を記す。
また、劉璝から自分たちの今後について尋ねられると「運命から逃れられぬ。何を言うことがあろうか」と返答し、
再度問われても目を伏せて応じなかった。
※演義では錦屏山は成都にあるとされるが、実際は巴郡にある
331
:
名無しさん
:2024/08/06(火) 22:07:53 ID:vO5SGeaY0
陳羨 チンセン (生没年不詳)
豫州沛国の人。後漢の西海郡都尉。建安年間(196年〜222年)、陳羨の部曲の兵士・霊孝が逃亡する事件が起こった。
陳羨は彼を殺そうと探したが家にもおらず、その妻の話から化け物に連れ去られたと考えた。
そこで歩騎数十と猟犬で城外を探索すると、空の塚の中で霊孝を発見した。
しかし、彼は狐のような様相で「阿紫」と言うばかりであった。
十日ほど後に正気を取り戻すと「阿紫という名の美人に化けた狐に誑かされ、
妻として毎晩その家に通っていた」といったことを話し出した。
道士によると「古の淫婦は阿紫といい、後に狐に変化した」という。
※西海郡は涼州の西の果て
332
:
名無しさん
:2024/08/06(火) 22:08:48 ID:vO5SGeaY0
盛憲 孝章 セイケン コウショウ (?-204年からほどなく死去)
揚州会稽郡の人。後漢の呉郡太守。息子は盛匡。振る舞いが立派で孝廉に挙げられ、尚書郎に任じられた。
163年頃、外遊していた際に童子の孔融に出会うと、盛憲は下車して手を取り、
帰宅して語り合うと彼の非凡さを知って兄弟の契りを結ぶ。
その後、呉郡太守に遷り媯覽、戴員、高岱らを孝廉に挙げたが、許貢が郡に乗り込んできたため許昭の元に避難した。
197年頃、孫策は揚州の豪族を滅ぼしていたが、高名な盛憲が最も危険視されていた。
許都にいた孔融は彼の身を案じて曹操に助力を頼むも、騎都尉の招聘令が届く前に孫権に殺害された。
333
:
名無しさん
:2024/08/06(火) 22:10:01 ID:vO5SGeaY0
孫香 文陽 ソンコウ ブンヨウ (生没年不詳)
揚州呉郡富春県の人。袁術の汝南太守。孫策の族兄にあたる。
呉郡の主簿、功曹となり、孫堅に従って功績をあげ郎中を拝命した。
その後、袁術が揚州に至ると汝南太守に任じられる。
その時、袁術に任用されていた呉景や孫賁らは孫策の手紙で帰参したが、
孫香は遠方にあったため向かうことができなった。
『呉書』では、孫香は袁術のために奔走し征南将軍を加えられ、寿春で死亡した。
※袁術の頃、寿春で大きな戦いは起きていない。病死だろうか
334
:
名無しさん
:2024/08/06(火) 22:11:00 ID:vO5SGeaY0
司馬勝之 興先 シバショウシ コウセン (生没年不詳 55歳で死去)
益州広漢郡緜竹県の人。蜀漢の秘書郎。子に司馬尊、賢、佐。
『毛氏』『三礼』を修め、謙虚で清静、功名利殖を追わなかった。
初め郡の功曹となると綱紀を重視し、その後は州従事から尚書左選郎、秘書郎を歴任。263年頃に郡から孝廉への申請があった。
統一後は梁州別駕や秀才に挙げられ、(蜀郡)広都、新繁県で突出した治績を残す。
彼は秀逸清廉であったため晋朝から宗室待遇で散騎侍郎を拝命したが、後に病気から官を去った。
その後は自宅で漢嘉太守に任じられたが固辞する。司馬勝之は常々、世間が栄利を追及する様を非難していた。
335
:
名無しさん
:2024/08/06(火) 22:12:01 ID:vO5SGeaY0
卓恕 公行 タクジョ コウコウ (生没年不詳 252年に生存)
揚州会稽郡上虞県の人。卓恕は信義に篤く、一度約束したことを引き延ばしたりはせず、
期日を取り決めれば、例え暴風や落雷、氷雪があろうとも必ず到着した。
ある時、建業から会稽に帰る用事が出来た為、太傅の諸葛恪に挨拶に出向くと、
「いつ頃戻られるか?」と聞かれたため「某日に戻ります」と答えた。
その当日、諸葛恪は宴席の主人に卓恕が来るまで食事を待って欲しいと頼んでいた。
賓客らは「会稽から建業は千里ほど離れており、期日に間に合うのは難しいのでは?」と言っていたが、
しばらく後に卓恕は到着したため、みな驚愕した。
336
:
名無しさん
:2024/08/06(火) 22:12:47 ID:vO5SGeaY0
朴胡 フコ
益州巴郡の人。板楯蛮の七つの有力氏族一つ、朴氏の夷王。
板楯蛮は盾を持って剽悍に戦うことで知られ、歌舞も得意とした。
巴郡の人々は五斗米道を信奉しており、200年に劉焉勢力が劉璋に代替わりすると、朴胡らは張魯と共に離反する。
それから15年後、張魯が曹操に攻められた際にも、一時的な避難先に巴夷の勢力が頼られた。
その後は、張魯に先んじて杜濩や袁約らと共に帰順し、列侯に封じられ巴西太守となる。
しかし、張魯を迎えに来た黄権によって撃破され、部落は天水郡の略陽に移住した。この群衆の中に王平もおり、官位を授けられた。
杜濩 トコ
益州巴郡の人。巴郡の實邑侯。曹操から巴西太守に任じられた。以下経歴は朴胡と同様。(板楯蛮というわけではないのかも)
337
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名無しさん
:2024/08/06(火) 22:14:04 ID:vO5SGeaY0
雷譚 ライタン (生没年不詳)
呉の宜都太守。鳳皇元年(272年)、西陵督の歩闡が晋に投降すると陸抗の指揮で討伐に参加したが、
陸抗は到着しても包囲陣地の建設を命じて攻勢に移らなかった。
陸抗から「城攻めは長引く」との説明を受けたが、皆は納得せず、雷譚も請願したため一度だけ攻城を許された。
諸将らは西陵城に攻撃を仕掛けたが成果を得られず、以降は陸抗の命に従った。
※宜都は西陵から長江を挟んだ南側
338
:
名無しさん
:2024/08/06(火) 22:14:41 ID:vO5SGeaY0
柳浦 リュウホ (?〜238年)
公孫淵の臣下。景初元年(237年)、公孫淵は毌丘倹の侵攻を撃退したものの、これが毌丘倹の独断でないと知ると不安に感じた。
そこで大司馬長史・郭昕と参軍・柳甫および789人らの連名で、魏国に弁明の上書を送った。
翌年、公孫淵らは司馬懿の討伐を受けて襄平城で籠城していたが、
形勢不利となり和睦の使者として相国・王建と御史大夫・柳浦を派遣した。
しかし、司馬懿から論外として斬られ、「二人は耄碌していたのだろう、次は若く明晰なものを送れ」と言われた。
※柳浦=柳甫とした。
339
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名無しさん
:2024/08/06(火) 22:16:54 ID:vO5SGeaY0
袁邵 エンショウ (生没年不詳)
兗州東郡の人。晋の益州刺史。咸熙元年(264年)に益州刺史に任じられた。
その際、蜀滅亡時の態度が立派であった常勗と、段容を主簿に任じる。
翌年の春、城池を修復したことを咎められて朝廷から召し返されたが、
県令の常忌(常勗の従弟)は洛陽まで出向いて「地方長官をみだりに変更すべきではない」
「修繕は長官の本来の勤めである」と弁明した。
爰邵 エンショウ (生没年不詳)
晋の衛尉。息子に爰翰、爰敞、爰倩、孫に爰兪。263年の征蜀では殄虜護軍として従軍する。
これより以前、鄧艾から不可解な夢の意味を尋ねられると「功あれど帰れず」と答えた。
爰邵は事務方から昇進して衛尉にまで至った。
※『元和姓纂』爰氏の項目に「濮陽 晋益州刺史爰邵」とある。
征蜀の参加者は益州で要職に任命されており、爰邵と袁邵は同一人物かもしれない。
340
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名無しさん
:2024/08/06(火) 22:17:45 ID:vO5SGeaY0
句驪客 クリカク (生没年不詳)
魏の時代の医者。鍼術の名手で、十に切った髪を針で刺し貫くことが出来た。
彼が言うには「髪の中心は中空である」とのこと。
※『酉陽雜俎』による。句驪客は人名ではなく、(毌丘倹による句麗人の移住政策もあり、)高句麗の客?かも。
341
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名無しさん
:2024/08/06(火) 22:18:34 ID:vO5SGeaY0
靳普 キンフ (生没年不詳)
益州の学士、占師。274年、益州刺史・皇甫晏が汶山の白馬胡を討伐しようとした頃、
靳普は占星から「客星が東井(益州を指す)に入っており、益州に刺客が入ることを案じる」と言った。
また皇甫晏が暗殺された日、猛烈な逆風があり、これを占うと「もし軍が西行し観阪門に至ると、
人々は天井に向かうことになり、ますます危うい」と言った。
279年頃、王濬から征呉の時期の是非を聞かれると、
「客星が南斗、太白星が西方。これは東国が敗れる徴です。必ず志を果たせます。」と答えた。
靳普は学術で栄達を求めなかったため、平民のまま死んだ。
342
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名無しさん
:2024/08/06(火) 22:21:28 ID:vO5SGeaY0
劉容 リュウヨウ (?〜193年)
後漢の皇族、六代目の琅邪王。光武帝の子・劉京の末裔は代々琅邪王を拝命した。
父は劉據、弟に劉邈、息子に劉煕。中平二年(185年)、父が薨去すると順王であった劉容は琅邪国を継承した。
初平元年(190年)、弟を長安に派遣して貢物を献上しさせた。
またこの時、盛んに曹操の帝への忠誠を宣伝したという。
劉容は初平四年(193年)に薨去すると琅邪国は一時断絶したが、後に曹操が劉煕を立てて復興した。国相は陰徳など。
劉煕 リュウキ (?〜216年)
後漢の皇族、七代目の琅邪王。光武帝の子・劉京の末裔は代々琅邪王を拝命した。父は劉容、叔父に劉邈。
初平四年(193年)に父が亡くなると琅邪国は廃された。
しかし、建安十一年(206年)、曹操は旧恩から劉煕を琅邪王に立てた(一方で後漢の八つの封国を廃した)。
しかし建安二十一年(216年)、劉煕は呉に逃亡する謀議に連座して処刑され、国も除かれた。
※当時、曹嵩は琅邪国に避難しており、劉邈は曹操を称賛するなど琅邪王家と曹家とは縁がある。
曹昂の母や劉勳などは、あるいは彼らと同族か。なお断絶期間にも関わらず琅邪相として蕭建や臧覇の名がみえる。
343
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名無しさん
:2024/08/06(火) 22:22:45 ID:vO5SGeaY0
厳幹 公仲 ゲンカン コウチュウ (165年頃〜235年以前)
司隷馮翊郡東県の人。魏の漢陽太守。撃剣を好み、寒門であったが重厚な性格として郡の豪族らに一目置かれていた。
三輔が乱れた時、あえて故郷を離れず薪を取って生活し、またこの時に『春秋公羊伝』を学習する。
後に平穏となると孝廉に挙げられ司隷東郡の蒲坂県令に任じられ、その後は公車司馬令、議郞などを務めた。
また高幹捕縛や郭援討伐の功績から武郷侯に封じられ。弘農太守や漢陽太守を歴任。
黄初中は五官中郎将、明帝の時には永安宮(郭太后)の太僕を務めた。
訥弁のため鍾繇との議論でしばしば言葉に詰まることがあった。
※蒲坂県令は202-206年頃か
344
:
名無しさん
:2024/08/06(火) 22:23:38 ID:vO5SGeaY0
于氐根 ウテイコン (生没年不詳)
後漢の賊の首領。張角が黄巾の乱を起こすと、黒山や白波賊などが各地で賊徒らが蜂起した。
勢力は多くて二〜三万、少なくても数千人を下らず、朝廷は制御できなかった。
また首領達は身分の低い者が多く、自分たちで号や字を付けており、于氐根の名は髭が多いことに由来する。
193年に袁紹は朝歌で于毒を滅ぼすと、北進して左髮丈八らを斬る。
さらに劉石、青牛角、黄龍、左校、郭大賢、李大目、于氐根らを襲撃して砦を破壊して敗走させた。
345
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名無しさん
:2024/08/06(火) 22:25:23 ID:vO5SGeaY0
向挙 ショウキョ (生没年不詳)
益州漢嘉郡漢嘉県の羌族。漢嘉県の旧名「青衣」の夷族は「青衣羌」あるいは「青羌」と呼ばれ、向挙はその族長であった。
184年、馬相が天子と称し益州で蜂起すると、益州従事の賈龍は青衣を率いて鎮圧し、
192年、劉焉は趙謙や賈龍との戦いで青衣羌を用いた。
向挙は(おそらく217年頃に)青衣侯に封じられ、220年には劉備への即位の勧進文に名を連ねる。
劉備の告天文にある「蛮夷の君長」は向挙らを指すという。
また諸葛亮は南征後に、南中の強兵や青羌で構成される「飛軍」を編成した。
※向挙が青衣羌云々は任乃強『華陽国志校補図注』による。実際、当時青衣県は廃止されており、青衣侯が県侯とは考えにくい。
346
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名無しさん
:2024/08/06(火) 22:26:06 ID:vO5SGeaY0
顧容 季則 コヨウ キソク (生没年不詳)
揚州呉郡呉県の人。呉の荊州刺史。顧雍と同族で子に顧相。
268年、持節、鎮南将軍、荊州刺史の顧容は鬱林郡に侵攻したが毛炅に撃退された。
『資治通鑑』では呉の交州刺史・劉俊、大都督・脩則らと交趾を三度攻めるも敗退し、
毛炅、董元らに合浦を攻められると劉俊、脩則らが斬られ敗走した。
※あるいは顧徽の子・顧裕と同一人物か。
347
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名無しさん
:2024/08/06(火) 22:27:48 ID:vO5SGeaY0
張政 チョウセイ (生没年不詳)
魏の塞曹掾史。正始八年(247年)、王頎が帯方太守に赴任したころ、
倭女王の卑弥呼が載斯烏越らを遣わして狗奴国と交戦状態に入ったことを報告してきた。
そこで張政が使者となり、一昨年に難升米に仮授された黄幡と詔書と、女王への告諭文を携えて倭国へ派遣される。
しかし彼が到着したころには卑弥呼は死去しており、新たに宗女の壱与が後継者となっていたため、彼女に告諭した。
女王・壱与は掖邪狗らを付けて張政を送り届け、また奴隷や白珠などを魏国に献じた。
※黄海道鳳山郡文井面(北朝鮮沙里院)で出土した墓の「張撫夷」と同一人物なら、
漁陽出身で最終官位が帯方太守、撫夷将軍?、死去年288年となる。
348
:
名無しさん
:2024/08/06(火) 22:28:45 ID:vO5SGeaY0
李勗 リキョク (?〜270)
呉の少府。269年、孫晧は交州侵攻に際し、軍を陸海に分けて合浦で合流させようとした。
陸路には虞汜を監軍に薛珝と陶璜らを、海路には李勗を監軍として徐存らを派遣する。
しかし翌年、李勗は海路の進行が滞ったため、嚮導である馮斐を斬って撤兵してしまう。
李勗と遺恨のあった何定はこの件を孫皓に讒言したため、李勗と徐存らは族滅となり遺体も焼却された。
後年、陸抗からは王蕃や楼玄らと同じく当代一級の人物であると評された。
349
:
名無しさん
:2024/08/06(火) 22:30:21 ID:vO5SGeaY0
張津 子雲 チョウシン シウン (生没年不詳 死去は203-210年の間)
荊州南陽郡の人。後漢末の交州牧。初め袁紹の賓客の一人であり、何進に宦官討滅を進言した。
その後の197年、交趾郡が乱れると刺史として派遣され、士燮らと交趾一帯の州への昇格を運動する。
張津は曹操と繋がりがあり、袁紹死後は荊州刺史の劉表と対立するようになった。
しかし、連年軍事行動を起こすも、成果が得られず、また部将たちも辟易して持ち場から離れるようになってしまった。
そこで綱紀を正そうとしたが、威儀が足りず部下の区景に殺害された。
※同郡同姓の張羨との関係は不明。
350
:
名無しさん
:2024/08/07(水) 23:39:46 ID:Y69Gi4Y.0
諸葛果 ショカツカ (生没年不詳)
諸葛亮の娘。『歴代神仙通巻』等に記載される架空の人物。
仙女になった、朝真観という道教寺院で修行し雲に乗って昇天したなどとされる。
351
:
名無しさん
:2024/08/07(水) 23:40:16 ID:Y69Gi4Y.0
呂昭 子展 リョショウ シテン(生没年不詳)
兗州東平郡の人。魏の鎮北将軍。子に呂巽、呂安、呂粹。魏に仕えて才能と実績によって鎮北将軍に任じられる。
当時、冀州は鎮北将軍が統括していた。そのため呂昭の先輩であった桓範は冀州牧への異動話が出ると、
「三公に跪こうとも、呂子展に屈せようか」と病を理由に行かなかった。
後に明帝の頃、功績により鎮北将軍に加えて冀州刺史を兼任させる詔が下った。
しかし、杜恕から「政務と軍事の長官を兼任させると、どちらかが疎かになる。呂昭はまだましな方だが云々……」といった諫めの上表があった。
352
:
名無しさん
:2024/08/07(水) 23:40:57 ID:Y69Gi4Y.0
程曉 季明 テイギョウ キメイ (生没年不詳 40代で没)
兗州東郡東阿県の人。魏の汝南太守。程昱の孫で、伯父に程武、程延など。
黄初元年(220年)に曹丕が帝位に就くと程昱の封邑の加増に伴って、叔父らと列侯に立てられた。
嘉平年間(249〜254年)は黄門侍郎を務める。その当時、曹操が監視のために設置した職の校事の横暴が問題となっていた。
程曉は「武皇帝の頃は必要だったが、今は時世に合わない」として廃止を訴え、認可される。
その後は汝南太守に遷ったが四十代で亡くなった。著作は多かったがほとんどが散逸し、『女典』の数行のみ現代に残る。
※あるいは程延は父か。
353
:
名無しさん
:2024/08/07(水) 23:42:23 ID:Y69Gi4Y.0
呂常 リョジョウ (生没年不詳)
魏の将軍。219年、関羽は北上し曹仁の籠る樊城を囲み、襄陽は別将を送って包囲した。
荊州刺史の胡脩や南郷太守の傅方らが降伏する中、徐晃らの活躍もあり呂常は襄陽を守り抜いた。
『演義』では樊城におり、曹仁から兵二千を借りて渡河中の関羽を迎え撃った。
しかし、関羽の神威に当てられた兵士たちが逃走を始めたため、大敗を喫して城に戻った。
呂君 リョクン (161年〜221年)
荊州南陽郡博望県の人。魏の横海将軍。勇敢な人物で後漢末に天下が乱れると、南陽郡の雉県令に任じられた。
兵難からよく守り裨将軍、関内侯となり、曹操の荊州南征に従軍して章陵太守を十三年務める。
任地では倹約に勤め、戦闘では危機を顧みず古の良将に勝るものだった。
219年、関羽が北上すると荊北は動揺し離反者も出てきたが、呂君は威信を持って統御し、
十三城を連ねて守ったため民に被害は出なかった。
こうした功績から横海将軍に昇進し領地も加増されたが、黄初二年に亡くなった。
※呂君碑の指す呂氏の諱字が欠落しているためはっきりしないが、たぶん呂常。呂乂父とはたぶん別人。
354
:
名無しさん
:2024/08/07(水) 23:43:28 ID:Y69Gi4Y.0
劉邕 南和 リュウヨウ ナンワ (生没年不詳 没年は最大で241年)
荊州義陽郡の人。蜀漢の後将軍。子に劉式、劉武。篤実な性格であった。214年、劉備に従って蜀に入り、江陽太守を務める。
建興元年(222年)に諸葛亮が丞相府を開いた際に蒋琬を茂才に挙げようとすると、彼は劉邕、陰化、龐延、廖化に譲ろうとした。
建興八年(230年)の李厳の弾劾文には行前監軍・征南将軍として鄧芝の次に名を連ねる。
最終的には監軍・後将軍に登り、関内侯を賜った。『華陽国志』では輔匡と共に辺境で活躍した人物として挙げられている。
※江陽郡は四川盆地の南端あたり。李厳の弾劾文には劉巴とあるが官職が合わないため「邕」と「巴」の誤記ととらえた。
南陽の劉氏であるので皇族だろうか。
355
:
名無しさん
:2024/08/07(水) 23:44:23 ID:Y69Gi4Y.0
趙貞節 チョウテイセツ (?〜243年)
豫州潁川郡の人。孫権の妃。聡明で多くの書籍に通じた。初め桐鄉令の虞韙と婚姻する。
その娘が嫁ぐ際、「良い事はするなかれ!」と訓戒した。娘が「悪い事は?」と問うと
「良い事すらしてはならぬのに、どうして悪い事が認められようか?」と答えた。
夫が亡くなると孫権からその文才を買われて入宮し、列女伝の註釈や賦を数十万字著した。
233年、公孫淵の裏切りに激怒した孫権が親征を言い出すと、彼女もまた上疏して諫めたどいう。
※桐鄉は河東聞喜県の旧名。他に廬江舒県内の地域も該当する。
356
:
名無しさん
:2024/08/07(水) 23:45:04 ID:Y69Gi4Y.0
袁侃 公然 エンカン コウゼン (生没年不詳)
豫州陳郡扶楽県の人。魏の尚書。袁渙の子で兄弟に袁㝢、袁奥、袁準。娘は荀頵に嫁ぐ。
純粋閑素な人柄で父親の風があり、論は清正柔軟で道から逸れず、人と良い関係を築くのが上手かった。
同僚の杜恕、李豊、荀俁らと親しく、明帝期に許允の罪をかぶってやったり、249年頃には杜恕のために助言をなしたりした。
254年頃、王基は司馬師に正直な士として許允、傅嘏、袁侃、崔贊らを推薦している。
袁侃は政権が不安定な時期にあたって阿ることなく、郡太守や黄門選部郎を務め「清平」と称賛され、尚書に登ったが早世した。
357
:
名無しさん
:2024/08/07(水) 23:45:48 ID:Y69Gi4Y.0
范平 子安 ハンペイ シアン (生没年不詳 212-221〜280-289年の間)
揚州呉郡錢塘県の人。呉の臨海太守。子に范奭、范咸、范泉。先祖の銍侯・范馥は王莽の乱で呉に避難してきたという。
范平は三皇孔老諸子を研究し百家を遍く修めて、姚信や賀邵らは皆その教えを受けた。
呉の時代に茂才に挙げられて、臨海太守などを務めて政治に異能を示す。孫皓の初期に病で家に帰って儒学にふけった。
呉が平定されて、太康(280〜289年)に卒し、詔により文貞先生の号が贈られた。また賀循はその徳行を讃えた顕彰碑を建てた。
358
:
名無しさん
:2024/08/07(水) 23:46:43 ID:Y69Gi4Y.0
宝菓 ホウカ (生没年不詳)
百済の責稽王の夫人。晋の帯方太守の娘。286年に責稽王が即位した後に、高句麗が帯方郡を襲撃する。
百済に帯方郡から救援要請がくると、王は「舅の願いを無視はできない」として援兵を出した。
これによって高句麗に恨まれたという。
※原文では帯方王女とある
359
:
名無しさん
:2024/08/07(水) 23:47:25 ID:Y69Gi4Y.0
紐由 チュウユウ (?〜245年)
高句麗の順奴部の人。東川王の配下。子に多優。
公孫氏が滅亡した後、高句麗王は遼東を襲撃したため、244年に毌丘倹から討伐を受ける。
初め有利であったが、後に大敗した王らは千騎で逃亡し、十月に首都の丸都が陥落した。
王は東行して南沃沮に逃げるも、王頎の厳しい追撃に窮地に立たされる。
そこで紐由は魏軍に降伏の使者として出向き、食器に隠した刀で敵将の胸を刺し相打ちとなった。
王はその混乱を突いて襲撃したため、魏軍は楽浪郡まで撤退する。
戦後、紐由は功績第一として九使者を追贈され、息子は大使者に任じられた。
360
:
名無しさん
:2024/08/07(水) 23:48:09 ID:Y69Gi4Y.0
介象 元則 カイショウ ゲンソク (生没年不詳)
揚州会稽郡の人。南方で活動した道士。五経諸子百家に通じ、東嶽で道術の「禁止の術」を習得する。
また長生法である『九丹の経』の教えを求めて入山し、仙女から丹薬を授けられた。
その後は弟子の駱延雅のもとで暮らしていたが、書生たちの議論につい答えてしまったため、224年頃に孫権に武昌へ招聘される。
千金などを賜った介象は隠形の術を授けたり、庭の池で海の魚を釣ったり、成都に一瞬で買い物に行かせたりと道術を披露した。
その後も孫権に引き留められたが、介象は尸解を行って呉を去った。
361
:
名無しさん
:2024/08/07(水) 23:48:47 ID:Y69Gi4Y.0
杜契 広平 トケイ コウヘイ (生没年不詳 生年は170年代か)
司隷京兆尹杜陵県の人。後漢末の道士。建安の初期(196年頃)に江南に渡り、孫策に従って会稽に入る。
孫権の時代には立信校尉となるが、弟子の陳世京の手引きにより、孫賁の孫娘の寒華と密通した。
223年頃から仙道を学び始め、介琰から玄白の術(長生不死の法)を授かると、孫寒華や陳世京にも伝授する。
その後は、弟子二人や徐宗度、晏賢生らと大茅山に隠棲した。
※大茅山は鄱陽郡のあたり
362
:
名無しさん
:2024/08/07(水) 23:49:55 ID:Y69Gi4Y.0
壺寿 コジュ (?〜193年)
後漢の冀州牧。長安の董卓政権から冀州へ派遣される。
初平四年の三月、袁紹の支配下にあった魏郡で反乱が起こり、黒山賊の于毒も十万で攻め寄せた為、鄴城が陥落した。
しかし、六月に反撃に出た袁紹は、朝歌県の谷間で于毒を斬り、壺寿もその時に処断された。
※「壺」の字は「壼」とも。196年に曹操が献帝を得た際に斬った侍中・臺崇は「壺崇」とも書かれ、双方とも董卓政権下の人物なので同族かも。
363
:
名無しさん
:2024/08/07(水) 23:50:37 ID:Y69Gi4Y.0
卞粋 玄仁 ベンスイ ゲンジン(?〜303年)
兗州済陰郡冤句県の人。晋の中書令。父に卞統、妻は張華の娘。子に卞壼。
清弁明察な人物として知られ、兄弟六人がみな宰相府に召されると「卞氏六龍は玄仁が無双なり」と世間で賞賛された。
しかし、弟が地元の郡将に逆らったことから讒言を受け、長らく逼塞する。
恵帝の初め(290年)頃に尚書郎に就き、当時権勢を誇った楊駿に迎合せず、
彼が誅殺されると尚書右丞、成陽子に封じられ右軍将軍に至った。
張華が誅殺されると免官されたが、司馬倫、司馬冏政権下で中書令などを務める。
しかし、次に政権を握った司馬乂の襲撃を図ったため誅殺された。
364
:
名無しさん
:2024/08/07(水) 23:51:29 ID:Y69Gi4Y.0
潘勗 元茂 ハンキョク ゲンボウ (?〜215年 生年は160-165年あたり)
兗州陳留郡中牟県の人。後漢の尚書左丞。子に潘満、同族に潘岳など。初名は「潘芝」。
乱世に当たり、豪族などが蔓延る中で物資を公平に分配し、足りなくなれば己の分から補填して賞賛された。
献帝の元で尚書郎から尚書右丞を務める。潘勗は才敏にして古典儀礼に通じていることから、
詔勅により前職の二千石の役職と兼任することを認められた。
建安二十年に東海国相に遷るはずであったが、留め置かれ尚書左丞を拝す。
しかし、その年のうちに病没した。
潘勗は衛覬、王象と並んで文才に名高く、曹操の魏公や九錫の策命書も彼の作である
365
:
名無しさん
:2024/08/07(水) 23:52:17 ID:Y69Gi4Y.0
満偉 公衡 マンイ コウコウ (生没年不詳)
兗州山陽郡昌邑県の人。魏の衛尉。父は満寵、兄弟に満炳、子に満長武。
父と同じく身長八尺の偉丈夫で、人品の良さで名が知られた。
243年に父が亡くなると爵位を継承し、(254年には衛尉に登っており、)曹芳の廃位の上奏に衞尉・昌邑侯として名を連ねている。
257年、諸葛誕が寿春で反乱を起こすと司馬昭らに従軍したが、許都で病にかかりその地に留まった。
その際、息子・満長武の行動が司馬昭の恨みを買い、子は杖打ちで死亡し、満偉も庶人に落とされた。
366
:
名無しさん
:2024/08/07(水) 23:53:01 ID:Y69Gi4Y.0
劉廙 恭嗣 リュウヨク キョウシ (180年〜221年)
荊州南陽郡安衆県の人。魏の侍中。後漢の皇族に連なる。兄弟に劉望之、劉偉、甥に劉阜。
九歳の頃(189年)、司馬徽と知り合う。兄の望之が劉表に殺害されると、廬江の尋陽県まで避難した。
その後は曹操に帰順し丞相掾属となり、五官中郎将・曹丕の文学となり(211年頃)信任される。
219年、漢中遠征を企図する曹操を諫めるも果たせなかった。
同年、魏諷の反乱に弟が加担したため連座となるが、曹操が惜しんで不問とする。
翌年、侍中として曹丕に即位を求め、禅譲に貢献した。
著作は数十篇のほか、丁儀との「刑と礼」の議論は世に知られた。
367
:
名無しさん
:2024/08/07(水) 23:53:58 ID:Y69Gi4Y.0
王象 羲伯 オウショウ ギハク (生没年不詳)
司隷河内郡の人。魏の散騎常侍。幼くして孤児となり、牧羊の奴隷となる。
しかし、私的に勉学に励んでいたことから、楊俊に保護され独り立ちできた。
206年頃、并州刺史の梁習から名士として曹操に推薦され県長を任じられる。
建安中は荀緯らと太子の曹丕に礼遇され、王粲ら亡きあとは衛凱と当代最高の名文家と知られた。
魏国が建つと散騎常侍となり列侯に封じられ、秘書監を兼務して諸儒と『皇覧』を編纂した。
222年、曹丕の行幸の際の不手際で太守の楊俊が捕らえられると、
荀緯や司馬懿と助命を請うたが果たせず、後に無念から病で亡くなった。
368
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名無しさん
:2024/08/07(水) 23:54:32 ID:Y69Gi4Y.0
楽詳 文載 ガクショウ ブンサイ (生没年不詳 257年に90代なので生年は164ぐらか)
司隷河東郡の人。魏の学者。若くして学問を好み、建安初め、左伝に詳しい謝該を訪問し、疑問や難解な点をすべて解消してもらう。
郷里では河東太守・杜畿も学問を好んだため、文学祭酒に任じられ、郡では学業が盛んになった。
黄初年間、博士として太学の教員となると、五経すべてを教授する。また星辰にも通じて太史らと音律や暦の制定を行った。
楽詳は魏の三代に仕えるも実務が不得手で地方に出向することはなく、正始中に老齢のため故郷に戻ると門徒は数千人にのぼった。
甘露二年、杜畿の功績を上書した為、孫の杜預が亭侯に封じられた。
※『集解』には杜預の左伝癖は楽詳の影響かも、とある
369
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名無しさん
:2024/08/07(水) 23:55:17 ID:Y69Gi4Y.0
李秉 玄胄 リヘイ ゲンチュウ (生没年不詳 死去は274年以降)
荊州江夏郡平春県の人。西晋の秦州刺史。祖父は李通、父は李緒、子に李重など。
俊才として重んじられ、司馬昭に仕える。
ある時司馬昭は、地方長官らに「清潔、慎重、勤勉の三点を備えれば失敗などなかろう」と語った。
その後、侍臣らに「先ほどの三点、最も重要なのは何か」と問うと、李秉は「慎重さがあれば清潔さも併せ持つ」と答える。
近年の該当者を尋ねられると「荀景倩、董仲連、王公仲」と答えたが、司馬昭は「阮籍こそ至慎」と語った。
感じ入った李秉はこの話を『家戒』として記した。官位は秦州刺史、都亭定侯となるも、早世した。
※董仲連、王公仲らは、あるいは董養、王業らだろうか。
370
:
名無しさん
:2024/08/07(水) 23:56:01 ID:Y69Gi4Y.0
曹翕 ソウキュウ (生没年不詳)
豫州沛国譙県の人。魏の皇族、晋では廩丘公。祖父母は曹操と宋姫。父は東平霊王・曹徽。
正始三年(242年)に父が薨去すると爵位を継ぎ、景元年間(〜264年頃)までに加増を受け、併せて三千四百戸を領した。
晋朝が興ると(兗州済陰郡の)廩丘公に封じられ、魏・宗族としての名声は曹志に次いだという。
泰始二年(266年)に世子の曹琨を洛陽に送り、賀表の意を伝えた。
著作に医書『解寒食散方』があり、皇甫謐の撰書と並んで世に知られた。
371
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名無しさん
:2024/08/07(水) 23:57:22 ID:Y69Gi4Y.0
衛覬 伯儒 エイキ ハクジュ (168年〜229年)
司隷河東郡安邑県の人。魏の尚書。妻に陳氏、子に衛瓘。若くして才学を知られ、曹操の司空掾属に辟された。
茂陵令から尚書郎を務め、袁紹を支援する劉表対策に劉璋を動かそうと関中に向かう。
李傕没後の関中では帰還民の多くが軍閥に吸収されていたため、荀彧に塩官の利益から民を補助し、
司隷校尉に統括させるよう申請した。
211年頃の張魯討伐の際、鍾繇が武力で関中軍閥から人質を得ようとすると、これに反対する。
魏国では王粲らと典礼を整え、献帝禅譲にも多大な功績があった。
著作には『魏官儀』などがあり、名文家として知られた。
372
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名無しさん
:2024/08/20(火) 21:48:12 ID:dUnOfpz.0
陸喜 恭仲 リクキ キョウチュウ (?〜284年 従兄弟の陸抗は226年生)
揚州呉郡呉県の人。呉の吏部尚書。陸瑁の次男で、陸遜の甥にあたる。子は陸育。
若くして名声があり、学問と人との交際を好んだ。
孫権の時代に出仕して、地方長官を務めた後、文武の功績から会稽太守に任じられる。
その後は武昌に、都に戻ると侍中や選曹尚書、吏部尚書を務めた。
陸凱の遺言である「国家の柱石」の一人としても挙げられている。
孫皓の時代、薛瑩らの態度に思うところがあったのか、著書で厳しく非難した。
呉滅亡後、西晋朝廷から推挙され散騎常侍に任命されたが、ほどなくして死去。
373
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名無しさん
:2024/08/25(日) 22:46:04 ID:YFKs.2jE0
宋典 ソウテン (生没年不詳)
後漢の中常時で、いわゆる十常侍の一人。霊帝の時代に列侯に封じられ、子弟は州郡を害した。
郎中の張鈞が「黄巾の乱は十常侍の子弟の横暴が原因」として死罪を求めると、
帝に陳謝して不問とされ、逆に張鈞が誣告され獄死する。
中平二年頃、鉤盾令(少府官)として南宮玉堂の修繕をした。
霊帝が崩御すると何進を暗殺するが、袁紹らの襲撃で逃亡、河に身投げした(おそらく)。
374
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名無しさん
:2024/08/25(日) 22:46:44 ID:YFKs.2jE0
韓悝 カンカイ (生没年不詳)
後漢の中常時で、いわゆる十常侍の一人。霊帝の時代に列侯に封じられ、子弟は州郡を害した。
郎中の張鈞が「黄巾の乱は十常侍の子弟の横暴が原因」として死罪を求めると、
帝に陳謝して不問とされ、逆に張鈞が誣告され獄死する。
霊帝が崩御すると何進を暗殺するが、袁紹らの襲撃で逃亡、河に身投げした(おそらく)。
375
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名無しさん
:2024/08/26(月) 17:47:12 ID:9X39rkfs0
張恭 チョウキョウ (生没年不詳)
後漢の中常時で、いわゆる十常侍の一人。霊帝の時代に列侯に封じられ、子弟は州郡を害した。
郎中の張鈞が「黄巾の乱は十常侍の子弟の横暴が原因」として死罪を求めると、
帝に陳謝して不問とされ、逆に張鈞が誣告され獄死する。
霊帝が崩御すると何進を暗殺するが、袁紹らの襲撃で逃亡、河に身投げした(おそらく)。
376
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名無しさん
:2024/08/26(月) 17:48:27 ID:9X39rkfs0
高望 コウボウ (?〜189年)
司隷京兆尹の人。後漢の中常時で、いわゆる十常侍の一人。養子?に高進
小黄門であったころ、尚薬監となり皇太子・劉弁の寵を受ける。
その縁で息子を孝廉にあげ蹇碩の属官にしようとしたが蓋勳に反対された。
ほか十常侍同様、張鈞に弾劾されると、逆に誣告し獄死させる。
霊帝が崩御すると何進を暗殺するが、袁紹、王匡らの襲撃により明堂で殺害された。
377
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名無しさん
:2024/08/26(月) 17:49:21 ID:9X39rkfs0
栗嵩 リツスウ (生没年不詳)
後漢の中常時で、いわゆる十常侍の一人。霊帝の時代に列侯に封じられ、子弟は州郡を害した。
郎中の張鈞が「黄巾の乱は十常侍の子弟の横暴が原因」として死罪を求めると、
帝に陳謝して不問とされ、逆に張鈞が誣告され獄死する。
霊帝が崩御すると何進を暗殺するが、袁紹らの襲撃で逃亡、河に身投げした(おそらく)。
378
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名無しさん
:2024/08/28(水) 21:07:33 ID:Pphl9L1c0
畢嵐 ヒツラン (生没年不詳)
後漢の中常時で、いわゆる十常侍の一人。霊帝の時代に列侯に封じられ、子弟は州郡を害した。
郎中の張鈞が「黄巾の乱は十常侍の子弟の横暴が原因」として死罪を求めると、
帝に陳謝して不問とされ、逆に張鈞が誣告され獄死する。
中平二年頃、掖庭令(少府官)として銅人を東、北門に四列鋳造した。
霊帝が崩御すると張譲、段珪らと兵を率いて何進を暗殺するが、袁紹らの襲撃で逃亡、河に身投げした(おそらく)。
379
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名無しさん
:2024/08/29(木) 16:50:13 ID:SQqBdhUE0
孫璋 ソンショウ (生没年不詳)
後漢の中常時で、いわゆる十常侍の一人。霊帝の時代に列侯に封じられ、子弟は州郡を害した。
182年、火星と金星が異相をなし、中常時・趙忠、張讓、郭勝、孫璋らの姦乱を示した。
その後、郎中の張鈞が「黄巾の乱は十常侍の子弟の横暴が原因」として死罪を求めると、
帝に陳謝して不問とされ、逆に張鈞が誣告され獄死する。
霊帝が崩御すると何進を暗殺するが、袁紹らの襲撃で逃亡、河に身投げした(おそらく)。
380
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名無しさん
:2024/08/29(木) 16:50:44 ID:SQqBdhUE0
夏惲 カウン (生没年不詳 何進暗殺以前に没)
後漢の中常時で、いわゆる十常侍の一人。霊帝の時代に列侯に封じられ、子弟は州郡を害した。
黄巾の乱の折、呂強が党錮の解除と汚吏の一掃を求めると、
趙忠と夏惲は誣告して自害に追い込み、その後一族も捕らえ財産も没収した。
董皇后と繋がりが深く、州郡で珍品や賄賂を贈っていたという。
381
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名無しさん
:2024/08/29(木) 16:51:31 ID:SQqBdhUE0
郭勝 カクショウ (生没年不詳)
荊州南陽郡の人。後漢の中常時で、いわゆる十常侍の一人。霊帝の時代に列侯に封じられ、子弟は州郡を害した。
また、何進と同郷であり、何皇后ら兄妹の立身出世を支援する。
霊帝が崩御すると劉弁派の何進と劉協派の蹇碩の対立が深まり、蹇碩は趙忠に何進暗殺を提案した。
しかし、郭勝と趙忠は謀議を何進に知らせたため、蹇碩は誅殺された。
その後の何進暗殺時の動向は不明。
382
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名無しさん
:2024/12/10(火) 19:29:31 ID:BJ0SeL.I0
段珪 ダンケイ (?〜189年)
後漢の中常時で、いわゆる十常侍の一人。霊帝の時代に列侯に封じられ、子弟は州郡を害した。
小黄門の頃、済陰郡で大規模に農園経営をさせたが、彼らの従僕は百姓、旅人を略奪していた。
国相・滕延が犯人を処刑すると、逆に誣告し免官に追い込む。
霊帝崩御後、宦官誅殺計画を知った張譲は段珪、畢嵐、兵士らを伏せて何進を暗殺した。
袁紹らが反撃に出ると何太后、少帝、劉協らを連れて逃亡するが、武装した盧植を恐れ太后は開放する。
その後、北門から脱出するも盧植、閔貢の追撃で宦官らはあるいは斬られ、あるいは入水した。
383
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名無しさん
:2024/12/10(火) 19:30:11 ID:BJ0SeL.I0
趙忠 チョウチュウ (?〜189年)
冀州安平郡の人。後漢の中常時で、いわゆる十常侍の一人。
桓帝の頃は小黄門であり、梁冀誅殺の功績で都郷侯に、霊帝の頃は中常時、列侯となり、後に大長秋を領する。
霊帝から「我が母」と親しまれ、また曹節、王甫、張譲らと権勢を握り、子弟は州郡で害をなした。
黄巾の乱の際、皇甫嵩が(許可を得て)趙忠の屋敷を没収したため、報復で降格させる。
呂強から弾劾されると、夏惲と共に逆に誣告し自害に追い込んだ。
霊帝が崩御すると蹇碩を排除し、宦官討伐の気運が高まると何進を暗殺したが、
袁紹らの決起により朱雀門で捕らえられて斬られた。
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