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三國志新武将用の人物紹介スレ@避難&保管所

1名無しさん:2024/07/21(日) 15:32:33 ID:1yvcHOrw0
三國志シリーズで新武将を作成する際に、参考になるように人物を評価・紹介していくスレ

※「人物名」はもとより、「どんな人物なのか」という説明はなるべく書いてください
  統率などの能力値の記載は自由
  紹介する範囲は史実、創作を問いませんが、三國志関連(せめて中国史)に限定してください
  最近のシリーズで登場が干され気味の人物も可

元スレ
http://medaka.5ch.net/test/read.cgi/gamehis/1449974140/

基本的に現行スレの有意な記事を転載していきます。
13.14.新規登場者は省略。

334名無しさん:2024/08/06(火) 22:11:00 ID:vO5SGeaY0
司馬勝之 興先 シバショウシ コウセン (生没年不詳 55歳で死去)

益州広漢郡緜竹県の人。蜀漢の秘書郎。子に司馬尊、賢、佐。
『毛氏』『三礼』を修め、謙虚で清静、功名利殖を追わなかった。
初め郡の功曹となると綱紀を重視し、その後は州従事から尚書左選郎、秘書郎を歴任。263年頃に郡から孝廉への申請があった。
統一後は梁州別駕や秀才に挙げられ、(蜀郡)広都、新繁県で突出した治績を残す。
彼は秀逸清廉であったため晋朝から宗室待遇で散騎侍郎を拝命したが、後に病気から官を去った。
その後は自宅で漢嘉太守に任じられたが固辞する。司馬勝之は常々、世間が栄利を追及する様を非難していた。

335名無しさん:2024/08/06(火) 22:12:01 ID:vO5SGeaY0
卓恕 公行 タクジョ コウコウ (生没年不詳 252年に生存)

揚州会稽郡上虞県の人。卓恕は信義に篤く、一度約束したことを引き延ばしたりはせず、
期日を取り決めれば、例え暴風や落雷、氷雪があろうとも必ず到着した。
ある時、建業から会稽に帰る用事が出来た為、太傅の諸葛恪に挨拶に出向くと、
「いつ頃戻られるか?」と聞かれたため「某日に戻ります」と答えた。
その当日、諸葛恪は宴席の主人に卓恕が来るまで食事を待って欲しいと頼んでいた。
賓客らは「会稽から建業は千里ほど離れており、期日に間に合うのは難しいのでは?」と言っていたが、
しばらく後に卓恕は到着したため、みな驚愕した。

336名無しさん:2024/08/06(火) 22:12:47 ID:vO5SGeaY0
朴胡 フコ

益州巴郡の人。板楯蛮の七つの有力氏族一つ、朴氏の夷王。
板楯蛮は盾を持って剽悍に戦うことで知られ、歌舞も得意とした。
巴郡の人々は五斗米道を信奉しており、200年に劉焉勢力が劉璋に代替わりすると、朴胡らは張魯と共に離反する。
それから15年後、張魯が曹操に攻められた際にも、一時的な避難先に巴夷の勢力が頼られた。
その後は、張魯に先んじて杜濩や袁約らと共に帰順し、列侯に封じられ巴西太守となる。
しかし、張魯を迎えに来た黄権によって撃破され、部落は天水郡の略陽に移住した。この群衆の中に王平もおり、官位を授けられた。


杜濩 トコ

益州巴郡の人。巴郡の實邑侯。曹操から巴西太守に任じられた。以下経歴は朴胡と同様。(板楯蛮というわけではないのかも)

337名無しさん:2024/08/06(火) 22:14:04 ID:vO5SGeaY0
雷譚 ライタン (生没年不詳)

呉の宜都太守。鳳皇元年(272年)、西陵督の歩闡が晋に投降すると陸抗の指揮で討伐に参加したが、
陸抗は到着しても包囲陣地の建設を命じて攻勢に移らなかった。
陸抗から「城攻めは長引く」との説明を受けたが、皆は納得せず、雷譚も請願したため一度だけ攻城を許された。
諸将らは西陵城に攻撃を仕掛けたが成果を得られず、以降は陸抗の命に従った。

※宜都は西陵から長江を挟んだ南側

338名無しさん:2024/08/06(火) 22:14:41 ID:vO5SGeaY0
柳浦 リュウホ (?〜238年)

公孫淵の臣下。景初元年(237年)、公孫淵は毌丘倹の侵攻を撃退したものの、これが毌丘倹の独断でないと知ると不安に感じた。
そこで大司馬長史・郭昕と参軍・柳甫および789人らの連名で、魏国に弁明の上書を送った。
翌年、公孫淵らは司馬懿の討伐を受けて襄平城で籠城していたが、
形勢不利となり和睦の使者として相国・王建と御史大夫・柳浦を派遣した。
しかし、司馬懿から論外として斬られ、「二人は耄碌していたのだろう、次は若く明晰なものを送れ」と言われた。

※柳浦=柳甫とした。

339名無しさん:2024/08/06(火) 22:16:54 ID:vO5SGeaY0
袁邵 エンショウ (生没年不詳)

兗州東郡の人。晋の益州刺史。咸熙元年(264年)に益州刺史に任じられた。
その際、蜀滅亡時の態度が立派であった常勗と、段容を主簿に任じる。
翌年の春、城池を修復したことを咎められて朝廷から召し返されたが、
県令の常忌(常勗の従弟)は洛陽まで出向いて「地方長官をみだりに変更すべきではない」
「修繕は長官の本来の勤めである」と弁明した。


爰邵 エンショウ (生没年不詳)
晋の衛尉。息子に爰翰、爰敞、爰倩、孫に爰兪。263年の征蜀では殄虜護軍として従軍する。
これより以前、鄧艾から不可解な夢の意味を尋ねられると「功あれど帰れず」と答えた。
爰邵は事務方から昇進して衛尉にまで至った。


※『元和姓纂』爰氏の項目に「濮陽 晋益州刺史爰邵」とある。
征蜀の参加者は益州で要職に任命されており、爰邵と袁邵は同一人物かもしれない。

340名無しさん:2024/08/06(火) 22:17:45 ID:vO5SGeaY0
句驪客 クリカク (生没年不詳)

魏の時代の医者。鍼術の名手で、十に切った髪を針で刺し貫くことが出来た。
彼が言うには「髪の中心は中空である」とのこと。

※『酉陽雜俎』による。句驪客は人名ではなく、(毌丘倹による句麗人の移住政策もあり、)高句麗の客?かも。

341名無しさん:2024/08/06(火) 22:18:34 ID:vO5SGeaY0
靳普 キンフ (生没年不詳)

益州の学士、占師。274年、益州刺史・皇甫晏が汶山の白馬胡を討伐しようとした頃、
靳普は占星から「客星が東井(益州を指す)に入っており、益州に刺客が入ることを案じる」と言った。
また皇甫晏が暗殺された日、猛烈な逆風があり、これを占うと「もし軍が西行し観阪門に至ると、
人々は天井に向かうことになり、ますます危うい」と言った。
279年頃、王濬から征呉の時期の是非を聞かれると、
「客星が南斗、太白星が西方。これは東国が敗れる徴です。必ず志を果たせます。」と答えた。
靳普は学術で栄達を求めなかったため、平民のまま死んだ。

342名無しさん:2024/08/06(火) 22:21:28 ID:vO5SGeaY0
劉容 リュウヨウ (?〜193年)

後漢の皇族、六代目の琅邪王。光武帝の子・劉京の末裔は代々琅邪王を拝命した。
父は劉據、弟に劉邈、息子に劉煕。中平二年(185年)、父が薨去すると順王であった劉容は琅邪国を継承した。
初平元年(190年)、弟を長安に派遣して貢物を献上しさせた。
またこの時、盛んに曹操の帝への忠誠を宣伝したという。
劉容は初平四年(193年)に薨去すると琅邪国は一時断絶したが、後に曹操が劉煕を立てて復興した。国相は陰徳など。


劉煕 リュウキ (?〜216年)

後漢の皇族、七代目の琅邪王。光武帝の子・劉京の末裔は代々琅邪王を拝命した。父は劉容、叔父に劉邈。
初平四年(193年)に父が亡くなると琅邪国は廃された。
しかし、建安十一年(206年)、曹操は旧恩から劉煕を琅邪王に立てた(一方で後漢の八つの封国を廃した)。
しかし建安二十一年(216年)、劉煕は呉に逃亡する謀議に連座して処刑され、国も除かれた。


※当時、曹嵩は琅邪国に避難しており、劉邈は曹操を称賛するなど琅邪王家と曹家とは縁がある。
曹昂の母や劉勳などは、あるいは彼らと同族か。なお断絶期間にも関わらず琅邪相として蕭建や臧覇の名がみえる。

343名無しさん:2024/08/06(火) 22:22:45 ID:vO5SGeaY0
厳幹 公仲 ゲンカン コウチュウ (165年頃〜235年以前)

司隷馮翊郡東県の人。魏の漢陽太守。撃剣を好み、寒門であったが重厚な性格として郡の豪族らに一目置かれていた。
三輔が乱れた時、あえて故郷を離れず薪を取って生活し、またこの時に『春秋公羊伝』を学習する。
後に平穏となると孝廉に挙げられ司隷東郡の蒲坂県令に任じられ、その後は公車司馬令、議郞などを務めた。
また高幹捕縛や郭援討伐の功績から武郷侯に封じられ。弘農太守や漢陽太守を歴任。
黄初中は五官中郎将、明帝の時には永安宮(郭太后)の太僕を務めた。
訥弁のため鍾繇との議論でしばしば言葉に詰まることがあった。

※蒲坂県令は202-206年頃か

344名無しさん:2024/08/06(火) 22:23:38 ID:vO5SGeaY0
于氐根 ウテイコン (生没年不詳)

後漢の賊の首領。張角が黄巾の乱を起こすと、黒山や白波賊などが各地で賊徒らが蜂起した。
勢力は多くて二〜三万、少なくても数千人を下らず、朝廷は制御できなかった。
また首領達は身分の低い者が多く、自分たちで号や字を付けており、于氐根の名は髭が多いことに由来する。
193年に袁紹は朝歌で于毒を滅ぼすと、北進して左髮丈八らを斬る。
さらに劉石、青牛角、黄龍、左校、郭大賢、李大目、于氐根らを襲撃して砦を破壊して敗走させた。

345名無しさん:2024/08/06(火) 22:25:23 ID:vO5SGeaY0
向挙 ショウキョ (生没年不詳)

益州漢嘉郡漢嘉県の羌族。漢嘉県の旧名「青衣」の夷族は「青衣羌」あるいは「青羌」と呼ばれ、向挙はその族長であった。
184年、馬相が天子と称し益州で蜂起すると、益州従事の賈龍は青衣を率いて鎮圧し、
192年、劉焉は趙謙や賈龍との戦いで青衣羌を用いた。
向挙は(おそらく217年頃に)青衣侯に封じられ、220年には劉備への即位の勧進文に名を連ねる。
劉備の告天文にある「蛮夷の君長」は向挙らを指すという。
また諸葛亮は南征後に、南中の強兵や青羌で構成される「飛軍」を編成した。

※向挙が青衣羌云々は任乃強『華陽国志校補図注』による。実際、当時青衣県は廃止されており、青衣侯が県侯とは考えにくい。

346名無しさん:2024/08/06(火) 22:26:06 ID:vO5SGeaY0
顧容 季則 コヨウ キソク (生没年不詳)

揚州呉郡呉県の人。呉の荊州刺史。顧雍と同族で子に顧相。
268年、持節、鎮南将軍、荊州刺史の顧容は鬱林郡に侵攻したが毛炅に撃退された。
『資治通鑑』では呉の交州刺史・劉俊、大都督・脩則らと交趾を三度攻めるも敗退し、
毛炅、董元らに合浦を攻められると劉俊、脩則らが斬られ敗走した。

※あるいは顧徽の子・顧裕と同一人物か。

347名無しさん:2024/08/06(火) 22:27:48 ID:vO5SGeaY0
張政 チョウセイ (生没年不詳)

魏の塞曹掾史。正始八年(247年)、王頎が帯方太守に赴任したころ、
倭女王の卑弥呼が載斯烏越らを遣わして狗奴国と交戦状態に入ったことを報告してきた。
そこで張政が使者となり、一昨年に難升米に仮授された黄幡と詔書と、女王への告諭文を携えて倭国へ派遣される。
しかし彼が到着したころには卑弥呼は死去しており、新たに宗女の壱与が後継者となっていたため、彼女に告諭した。
女王・壱与は掖邪狗らを付けて張政を送り届け、また奴隷や白珠などを魏国に献じた。

※黄海道鳳山郡文井面(北朝鮮沙里院)で出土した墓の「張撫夷」と同一人物なら、
 漁陽出身で最終官位が帯方太守、撫夷将軍?、死去年288年となる。

348名無しさん:2024/08/06(火) 22:28:45 ID:vO5SGeaY0
李勗 リキョク (?〜270)

呉の少府。269年、孫晧は交州侵攻に際し、軍を陸海に分けて合浦で合流させようとした。
陸路には虞汜を監軍に薛珝と陶璜らを、海路には李勗を監軍として徐存らを派遣する。
しかし翌年、李勗は海路の進行が滞ったため、嚮導である馮斐を斬って撤兵してしまう。
李勗と遺恨のあった何定はこの件を孫皓に讒言したため、李勗と徐存らは族滅となり遺体も焼却された。
後年、陸抗からは王蕃や楼玄らと同じく当代一級の人物であると評された。

349名無しさん:2024/08/06(火) 22:30:21 ID:vO5SGeaY0
張津 子雲 チョウシン シウン (生没年不詳 死去は203-210年の間)

荊州南陽郡の人。後漢末の交州牧。初め袁紹の賓客の一人であり、何進に宦官討滅を進言した。
その後の197年、交趾郡が乱れると刺史として派遣され、士燮らと交趾一帯の州への昇格を運動する。
張津は曹操と繋がりがあり、袁紹死後は荊州刺史の劉表と対立するようになった。
しかし、連年軍事行動を起こすも、成果が得られず、また部将たちも辟易して持ち場から離れるようになってしまった。
そこで綱紀を正そうとしたが、威儀が足りず部下の区景に殺害された。

※同郡同姓の張羨との関係は不明。

350名無しさん:2024/08/07(水) 23:39:46 ID:Y69Gi4Y.0
諸葛果 ショカツカ (生没年不詳)

諸葛亮の娘。『歴代神仙通巻』等に記載される架空の人物。
仙女になった、朝真観という道教寺院で修行し雲に乗って昇天したなどとされる。

351名無しさん:2024/08/07(水) 23:40:16 ID:Y69Gi4Y.0
呂昭 子展 リョショウ シテン(生没年不詳)

兗州東平郡の人。魏の鎮北将軍。子に呂巽、呂安、呂粹。魏に仕えて才能と実績によって鎮北将軍に任じられる。
当時、冀州は鎮北将軍が統括していた。そのため呂昭の先輩であった桓範は冀州牧への異動話が出ると、
「三公に跪こうとも、呂子展に屈せようか」と病を理由に行かなかった。
後に明帝の頃、功績により鎮北将軍に加えて冀州刺史を兼任させる詔が下った。
しかし、杜恕から「政務と軍事の長官を兼任させると、どちらかが疎かになる。呂昭はまだましな方だが云々……」といった諫めの上表があった。

352名無しさん:2024/08/07(水) 23:40:57 ID:Y69Gi4Y.0
程曉 季明 テイギョウ キメイ (生没年不詳 40代で没)

兗州東郡東阿県の人。魏の汝南太守。程昱の孫で、伯父に程武、程延など。
黄初元年(220年)に曹丕が帝位に就くと程昱の封邑の加増に伴って、叔父らと列侯に立てられた。
嘉平年間(249〜254年)は黄門侍郎を務める。その当時、曹操が監視のために設置した職の校事の横暴が問題となっていた。
程曉は「武皇帝の頃は必要だったが、今は時世に合わない」として廃止を訴え、認可される。
その後は汝南太守に遷ったが四十代で亡くなった。著作は多かったがほとんどが散逸し、『女典』の数行のみ現代に残る。

※あるいは程延は父か。

353名無しさん:2024/08/07(水) 23:42:23 ID:Y69Gi4Y.0
呂常 リョジョウ (生没年不詳)

魏の将軍。219年、関羽は北上し曹仁の籠る樊城を囲み、襄陽は別将を送って包囲した。
荊州刺史の胡脩や南郷太守の傅方らが降伏する中、徐晃らの活躍もあり呂常は襄陽を守り抜いた。
『演義』では樊城におり、曹仁から兵二千を借りて渡河中の関羽を迎え撃った。
しかし、関羽の神威に当てられた兵士たちが逃走を始めたため、大敗を喫して城に戻った。


呂君 リョクン (161年〜221年)
荊州南陽郡博望県の人。魏の横海将軍。勇敢な人物で後漢末に天下が乱れると、南陽郡の雉県令に任じられた。
兵難からよく守り裨将軍、関内侯となり、曹操の荊州南征に従軍して章陵太守を十三年務める。
任地では倹約に勤め、戦闘では危機を顧みず古の良将に勝るものだった。
219年、関羽が北上すると荊北は動揺し離反者も出てきたが、呂君は威信を持って統御し、
十三城を連ねて守ったため民に被害は出なかった。
こうした功績から横海将軍に昇進し領地も加増されたが、黄初二年に亡くなった。

※呂君碑の指す呂氏の諱字が欠落しているためはっきりしないが、たぶん呂常。呂乂父とはたぶん別人。

354名無しさん:2024/08/07(水) 23:43:28 ID:Y69Gi4Y.0
劉邕 南和 リュウヨウ ナンワ (生没年不詳 没年は最大で241年)

荊州義陽郡の人。蜀漢の後将軍。子に劉式、劉武。篤実な性格であった。214年、劉備に従って蜀に入り、江陽太守を務める。
建興元年(222年)に諸葛亮が丞相府を開いた際に蒋琬を茂才に挙げようとすると、彼は劉邕、陰化、龐延、廖化に譲ろうとした。
建興八年(230年)の李厳の弾劾文には行前監軍・征南将軍として鄧芝の次に名を連ねる。
最終的には監軍・後将軍に登り、関内侯を賜った。『華陽国志』では輔匡と共に辺境で活躍した人物として挙げられている。

※江陽郡は四川盆地の南端あたり。李厳の弾劾文には劉巴とあるが官職が合わないため「邕」と「巴」の誤記ととらえた。
  南陽の劉氏であるので皇族だろうか。

355名無しさん:2024/08/07(水) 23:44:23 ID:Y69Gi4Y.0
趙貞節 チョウテイセツ (?〜243年)

豫州潁川郡の人。孫権の妃。聡明で多くの書籍に通じた。初め桐鄉令の虞韙と婚姻する。
その娘が嫁ぐ際、「良い事はするなかれ!」と訓戒した。娘が「悪い事は?」と問うと
「良い事すらしてはならぬのに、どうして悪い事が認められようか?」と答えた。
夫が亡くなると孫権からその文才を買われて入宮し、列女伝の註釈や賦を数十万字著した。
233年、公孫淵の裏切りに激怒した孫権が親征を言い出すと、彼女もまた上疏して諫めたどいう。

※桐鄉は河東聞喜県の旧名。他に廬江舒県内の地域も該当する。

356名無しさん:2024/08/07(水) 23:45:04 ID:Y69Gi4Y.0
袁侃 公然 エンカン コウゼン (生没年不詳)

豫州陳郡扶楽県の人。魏の尚書。袁渙の子で兄弟に袁㝢、袁奥、袁準。娘は荀頵に嫁ぐ。
純粋閑素な人柄で父親の風があり、論は清正柔軟で道から逸れず、人と良い関係を築くのが上手かった。
同僚の杜恕、李豊、荀俁らと親しく、明帝期に許允の罪をかぶってやったり、249年頃には杜恕のために助言をなしたりした。
254年頃、王基は司馬師に正直な士として許允、傅嘏、袁侃、崔贊らを推薦している。
袁侃は政権が不安定な時期にあたって阿ることなく、郡太守や黄門選部郎を務め「清平」と称賛され、尚書に登ったが早世した。

357名無しさん:2024/08/07(水) 23:45:48 ID:Y69Gi4Y.0
范平 子安 ハンペイ シアン (生没年不詳 212-221〜280-289年の間)

揚州呉郡錢塘県の人。呉の臨海太守。子に范奭、范咸、范泉。先祖の銍侯・范馥は王莽の乱で呉に避難してきたという。
范平は三皇孔老諸子を研究し百家を遍く修めて、姚信や賀邵らは皆その教えを受けた。
呉の時代に茂才に挙げられて、臨海太守などを務めて政治に異能を示す。孫皓の初期に病で家に帰って儒学にふけった。
呉が平定されて、太康(280〜289年)に卒し、詔により文貞先生の号が贈られた。また賀循はその徳行を讃えた顕彰碑を建てた。

358名無しさん:2024/08/07(水) 23:46:43 ID:Y69Gi4Y.0
宝菓 ホウカ (生没年不詳)

百済の責稽王の夫人。晋の帯方太守の娘。286年に責稽王が即位した後に、高句麗が帯方郡を襲撃する。
百済に帯方郡から救援要請がくると、王は「舅の願いを無視はできない」として援兵を出した。
これによって高句麗に恨まれたという。

※原文では帯方王女とある

359名無しさん:2024/08/07(水) 23:47:25 ID:Y69Gi4Y.0
紐由 チュウユウ (?〜245年)

高句麗の順奴部の人。東川王の配下。子に多優。
公孫氏が滅亡した後、高句麗王は遼東を襲撃したため、244年に毌丘倹から討伐を受ける。
初め有利であったが、後に大敗した王らは千騎で逃亡し、十月に首都の丸都が陥落した。
王は東行して南沃沮に逃げるも、王頎の厳しい追撃に窮地に立たされる。
そこで紐由は魏軍に降伏の使者として出向き、食器に隠した刀で敵将の胸を刺し相打ちとなった。
王はその混乱を突いて襲撃したため、魏軍は楽浪郡まで撤退する。
戦後、紐由は功績第一として九使者を追贈され、息子は大使者に任じられた。

360名無しさん:2024/08/07(水) 23:48:09 ID:Y69Gi4Y.0
介象 元則 カイショウ ゲンソク (生没年不詳)

揚州会稽郡の人。南方で活動した道士。五経諸子百家に通じ、東嶽で道術の「禁止の術」を習得する。
また長生法である『九丹の経』の教えを求めて入山し、仙女から丹薬を授けられた。
その後は弟子の駱延雅のもとで暮らしていたが、書生たちの議論につい答えてしまったため、224年頃に孫権に武昌へ招聘される。
千金などを賜った介象は隠形の術を授けたり、庭の池で海の魚を釣ったり、成都に一瞬で買い物に行かせたりと道術を披露した。
その後も孫権に引き留められたが、介象は尸解を行って呉を去った。

361名無しさん:2024/08/07(水) 23:48:47 ID:Y69Gi4Y.0
杜契 広平 トケイ コウヘイ (生没年不詳 生年は170年代か)

司隷京兆尹杜陵県の人。後漢末の道士。建安の初期(196年頃)に江南に渡り、孫策に従って会稽に入る。
孫権の時代には立信校尉となるが、弟子の陳世京の手引きにより、孫賁の孫娘の寒華と密通した。
223年頃から仙道を学び始め、介琰から玄白の術(長生不死の法)を授かると、孫寒華や陳世京にも伝授する。
その後は、弟子二人や徐宗度、晏賢生らと大茅山に隠棲した。

※大茅山は鄱陽郡のあたり

362名無しさん:2024/08/07(水) 23:49:55 ID:Y69Gi4Y.0
壺寿 コジュ (?〜193年)

後漢の冀州牧。長安の董卓政権から冀州へ派遣される。
初平四年の三月、袁紹の支配下にあった魏郡で反乱が起こり、黒山賊の于毒も十万で攻め寄せた為、鄴城が陥落した。
しかし、六月に反撃に出た袁紹は、朝歌県の谷間で于毒を斬り、壺寿もその時に処断された。

※「壺」の字は「壼」とも。196年に曹操が献帝を得た際に斬った侍中・臺崇は「壺崇」とも書かれ、双方とも董卓政権下の人物なので同族かも。

363名無しさん:2024/08/07(水) 23:50:37 ID:Y69Gi4Y.0
卞粋 玄仁 ベンスイ ゲンジン(?〜303年)

兗州済陰郡冤句県の人。晋の中書令。父に卞統、妻は張華の娘。子に卞壼。
清弁明察な人物として知られ、兄弟六人がみな宰相府に召されると「卞氏六龍は玄仁が無双なり」と世間で賞賛された。
しかし、弟が地元の郡将に逆らったことから讒言を受け、長らく逼塞する。
恵帝の初め(290年)頃に尚書郎に就き、当時権勢を誇った楊駿に迎合せず、
彼が誅殺されると尚書右丞、成陽子に封じられ右軍将軍に至った。
張華が誅殺されると免官されたが、司馬倫、司馬冏政権下で中書令などを務める。
しかし、次に政権を握った司馬乂の襲撃を図ったため誅殺された。

364名無しさん:2024/08/07(水) 23:51:29 ID:Y69Gi4Y.0
潘勗 元茂 ハンキョク ゲンボウ (?〜215年 生年は160-165年あたり)

兗州陳留郡中牟県の人。後漢の尚書左丞。子に潘満、同族に潘岳など。初名は「潘芝」。
乱世に当たり、豪族などが蔓延る中で物資を公平に分配し、足りなくなれば己の分から補填して賞賛された。
献帝の元で尚書郎から尚書右丞を務める。潘勗は才敏にして古典儀礼に通じていることから、
詔勅により前職の二千石の役職と兼任することを認められた。
建安二十年に東海国相に遷るはずであったが、留め置かれ尚書左丞を拝す。
しかし、その年のうちに病没した。
潘勗は衛覬、王象と並んで文才に名高く、曹操の魏公や九錫の策命書も彼の作である

365名無しさん:2024/08/07(水) 23:52:17 ID:Y69Gi4Y.0
満偉 公衡 マンイ コウコウ (生没年不詳)

兗州山陽郡昌邑県の人。魏の衛尉。父は満寵、兄弟に満炳、子に満長武。
父と同じく身長八尺の偉丈夫で、人品の良さで名が知られた。
243年に父が亡くなると爵位を継承し、(254年には衛尉に登っており、)曹芳の廃位の上奏に衞尉・昌邑侯として名を連ねている。
257年、諸葛誕が寿春で反乱を起こすと司馬昭らに従軍したが、許都で病にかかりその地に留まった。
その際、息子・満長武の行動が司馬昭の恨みを買い、子は杖打ちで死亡し、満偉も庶人に落とされた。

366名無しさん:2024/08/07(水) 23:53:01 ID:Y69Gi4Y.0
劉廙 恭嗣 リュウヨク キョウシ (180年〜221年)

荊州南陽郡安衆県の人。魏の侍中。後漢の皇族に連なる。兄弟に劉望之、劉偉、甥に劉阜。
九歳の頃(189年)、司馬徽と知り合う。兄の望之が劉表に殺害されると、廬江の尋陽県まで避難した。
その後は曹操に帰順し丞相掾属となり、五官中郎将・曹丕の文学となり(211年頃)信任される。
219年、漢中遠征を企図する曹操を諫めるも果たせなかった。
同年、魏諷の反乱に弟が加担したため連座となるが、曹操が惜しんで不問とする。
翌年、侍中として曹丕に即位を求め、禅譲に貢献した。
著作は数十篇のほか、丁儀との「刑と礼」の議論は世に知られた。

367名無しさん:2024/08/07(水) 23:53:58 ID:Y69Gi4Y.0
王象 羲伯 オウショウ ギハク (生没年不詳)

司隷河内郡の人。魏の散騎常侍。幼くして孤児となり、牧羊の奴隷となる。
しかし、私的に勉学に励んでいたことから、楊俊に保護され独り立ちできた。
206年頃、并州刺史の梁習から名士として曹操に推薦され県長を任じられる。
建安中は荀緯らと太子の曹丕に礼遇され、王粲ら亡きあとは衛凱と当代最高の名文家と知られた。
魏国が建つと散騎常侍となり列侯に封じられ、秘書監を兼務して諸儒と『皇覧』を編纂した。
222年、曹丕の行幸の際の不手際で太守の楊俊が捕らえられると、
荀緯や司馬懿と助命を請うたが果たせず、後に無念から病で亡くなった。

368名無しさん:2024/08/07(水) 23:54:32 ID:Y69Gi4Y.0
楽詳 文載 ガクショウ ブンサイ (生没年不詳 257年に90代なので生年は164ぐらか)

司隷河東郡の人。魏の学者。若くして学問を好み、建安初め、左伝に詳しい謝該を訪問し、疑問や難解な点をすべて解消してもらう。
郷里では河東太守・杜畿も学問を好んだため、文学祭酒に任じられ、郡では学業が盛んになった。
黄初年間、博士として太学の教員となると、五経すべてを教授する。また星辰にも通じて太史らと音律や暦の制定を行った。
楽詳は魏の三代に仕えるも実務が不得手で地方に出向することはなく、正始中に老齢のため故郷に戻ると門徒は数千人にのぼった。
甘露二年、杜畿の功績を上書した為、孫の杜預が亭侯に封じられた。

※『集解』には杜預の左伝癖は楽詳の影響かも、とある

369名無しさん:2024/08/07(水) 23:55:17 ID:Y69Gi4Y.0
李秉 玄胄 リヘイ ゲンチュウ (生没年不詳 死去は274年以降)

荊州江夏郡平春県の人。西晋の秦州刺史。祖父は李通、父は李緒、子に李重など。
俊才として重んじられ、司馬昭に仕える。
ある時司馬昭は、地方長官らに「清潔、慎重、勤勉の三点を備えれば失敗などなかろう」と語った。
その後、侍臣らに「先ほどの三点、最も重要なのは何か」と問うと、李秉は「慎重さがあれば清潔さも併せ持つ」と答える。
近年の該当者を尋ねられると「荀景倩、董仲連、王公仲」と答えたが、司馬昭は「阮籍こそ至慎」と語った。
感じ入った李秉はこの話を『家戒』として記した。官位は秦州刺史、都亭定侯となるも、早世した。

※董仲連、王公仲らは、あるいは董養、王業らだろうか。

370名無しさん:2024/08/07(水) 23:56:01 ID:Y69Gi4Y.0
曹翕 ソウキュウ (生没年不詳)

豫州沛国譙県の人。魏の皇族、晋では廩丘公。祖父母は曹操と宋姫。父は東平霊王・曹徽。
正始三年(242年)に父が薨去すると爵位を継ぎ、景元年間(〜264年頃)までに加増を受け、併せて三千四百戸を領した。
晋朝が興ると(兗州済陰郡の)廩丘公に封じられ、魏・宗族としての名声は曹志に次いだという。
泰始二年(266年)に世子の曹琨を洛陽に送り、賀表の意を伝えた。
著作に医書『解寒食散方』があり、皇甫謐の撰書と並んで世に知られた。

371名無しさん:2024/08/07(水) 23:57:22 ID:Y69Gi4Y.0
衛覬 伯儒 エイキ ハクジュ (168年〜229年)

司隷河東郡安邑県の人。魏の尚書。妻に陳氏、子に衛瓘。若くして才学を知られ、曹操の司空掾属に辟された。
茂陵令から尚書郎を務め、袁紹を支援する劉表対策に劉璋を動かそうと関中に向かう。
李傕没後の関中では帰還民の多くが軍閥に吸収されていたため、荀彧に塩官の利益から民を補助し、
司隷校尉に統括させるよう申請した。
211年頃の張魯討伐の際、鍾繇が武力で関中軍閥から人質を得ようとすると、これに反対する。
魏国では王粲らと典礼を整え、献帝禅譲にも多大な功績があった。
著作には『魏官儀』などがあり、名文家として知られた。

372名無しさん:2024/08/20(火) 21:48:12 ID:dUnOfpz.0
陸喜 恭仲 リクキ キョウチュウ (?〜284年 従兄弟の陸抗は226年生)

揚州呉郡呉県の人。呉の吏部尚書。陸瑁の次男で、陸遜の甥にあたる。子は陸育。
若くして名声があり、学問と人との交際を好んだ。
孫権の時代に出仕して、地方長官を務めた後、文武の功績から会稽太守に任じられる。
その後は武昌に、都に戻ると侍中や選曹尚書、吏部尚書を務めた。
陸凱の遺言である「国家の柱石」の一人としても挙げられている。
孫皓の時代、薛瑩らの態度に思うところがあったのか、著書で厳しく非難した。
呉滅亡後、西晋朝廷から推挙され散騎常侍に任命されたが、ほどなくして死去。

373名無しさん:2024/08/25(日) 22:46:04 ID:YFKs.2jE0
宋典 ソウテン (生没年不詳)

後漢の中常時で、いわゆる十常侍の一人。霊帝の時代に列侯に封じられ、子弟は州郡を害した。
郎中の張鈞が「黄巾の乱は十常侍の子弟の横暴が原因」として死罪を求めると、
帝に陳謝して不問とされ、逆に張鈞が誣告され獄死する。
中平二年頃、鉤盾令(少府官)として南宮玉堂の修繕をした。
霊帝が崩御すると何進を暗殺するが、袁紹らの襲撃で逃亡、河に身投げした(おそらく)。

374名無しさん:2024/08/25(日) 22:46:44 ID:YFKs.2jE0
韓悝 カンカイ (生没年不詳)

後漢の中常時で、いわゆる十常侍の一人。霊帝の時代に列侯に封じられ、子弟は州郡を害した。
郎中の張鈞が「黄巾の乱は十常侍の子弟の横暴が原因」として死罪を求めると、
帝に陳謝して不問とされ、逆に張鈞が誣告され獄死する。
霊帝が崩御すると何進を暗殺するが、袁紹らの襲撃で逃亡、河に身投げした(おそらく)。

375名無しさん:2024/08/26(月) 17:47:12 ID:9X39rkfs0
張恭 チョウキョウ  (生没年不詳)

後漢の中常時で、いわゆる十常侍の一人。霊帝の時代に列侯に封じられ、子弟は州郡を害した。
郎中の張鈞が「黄巾の乱は十常侍の子弟の横暴が原因」として死罪を求めると、
帝に陳謝して不問とされ、逆に張鈞が誣告され獄死する。
霊帝が崩御すると何進を暗殺するが、袁紹らの襲撃で逃亡、河に身投げした(おそらく)。

376名無しさん:2024/08/26(月) 17:48:27 ID:9X39rkfs0
高望 コウボウ (?〜189年)

司隷京兆尹の人。後漢の中常時で、いわゆる十常侍の一人。養子?に高進
小黄門であったころ、尚薬監となり皇太子・劉弁の寵を受ける。
その縁で息子を孝廉にあげ蹇碩の属官にしようとしたが蓋勳に反対された。
ほか十常侍同様、張鈞に弾劾されると、逆に誣告し獄死させる。
霊帝が崩御すると何進を暗殺するが、袁紹、王匡らの襲撃により明堂で殺害された。

377名無しさん:2024/08/26(月) 17:49:21 ID:9X39rkfs0
栗嵩 リツスウ  (生没年不詳)

後漢の中常時で、いわゆる十常侍の一人。霊帝の時代に列侯に封じられ、子弟は州郡を害した。
郎中の張鈞が「黄巾の乱は十常侍の子弟の横暴が原因」として死罪を求めると、
帝に陳謝して不問とされ、逆に張鈞が誣告され獄死する。
霊帝が崩御すると何進を暗殺するが、袁紹らの襲撃で逃亡、河に身投げした(おそらく)。

378名無しさん:2024/08/28(水) 21:07:33 ID:Pphl9L1c0
畢嵐 ヒツラン  (生没年不詳)

後漢の中常時で、いわゆる十常侍の一人。霊帝の時代に列侯に封じられ、子弟は州郡を害した。
郎中の張鈞が「黄巾の乱は十常侍の子弟の横暴が原因」として死罪を求めると、
帝に陳謝して不問とされ、逆に張鈞が誣告され獄死する。
中平二年頃、掖庭令(少府官)として銅人を東、北門に四列鋳造した。
霊帝が崩御すると張譲、段珪らと兵を率いて何進を暗殺するが、袁紹らの襲撃で逃亡、河に身投げした(おそらく)。

379名無しさん:2024/08/29(木) 16:50:13 ID:SQqBdhUE0
孫璋 ソンショウ  (生没年不詳)

後漢の中常時で、いわゆる十常侍の一人。霊帝の時代に列侯に封じられ、子弟は州郡を害した。
182年、火星と金星が異相をなし、中常時・趙忠、張讓、郭勝、孫璋らの姦乱を示した。
その後、郎中の張鈞が「黄巾の乱は十常侍の子弟の横暴が原因」として死罪を求めると、
帝に陳謝して不問とされ、逆に張鈞が誣告され獄死する。
霊帝が崩御すると何進を暗殺するが、袁紹らの襲撃で逃亡、河に身投げした(おそらく)。

380名無しさん:2024/08/29(木) 16:50:44 ID:SQqBdhUE0
夏惲 カウン (生没年不詳 何進暗殺以前に没)

後漢の中常時で、いわゆる十常侍の一人。霊帝の時代に列侯に封じられ、子弟は州郡を害した。
黄巾の乱の折、呂強が党錮の解除と汚吏の一掃を求めると、
趙忠と夏惲は誣告して自害に追い込み、その後一族も捕らえ財産も没収した。
董皇后と繋がりが深く、州郡で珍品や賄賂を贈っていたという。

381名無しさん:2024/08/29(木) 16:51:31 ID:SQqBdhUE0
郭勝 カクショウ (生没年不詳) 

荊州南陽郡の人。後漢の中常時で、いわゆる十常侍の一人。霊帝の時代に列侯に封じられ、子弟は州郡を害した。
また、何進と同郷であり、何皇后ら兄妹の立身出世を支援する。
霊帝が崩御すると劉弁派の何進と劉協派の蹇碩の対立が深まり、蹇碩は趙忠に何進暗殺を提案した。
しかし、郭勝と趙忠は謀議を何進に知らせたため、蹇碩は誅殺された。
その後の何進暗殺時の動向は不明。

382名無しさん:2024/12/10(火) 19:29:31 ID:BJ0SeL.I0
段珪 ダンケイ (?〜189年)

後漢の中常時で、いわゆる十常侍の一人。霊帝の時代に列侯に封じられ、子弟は州郡を害した。
小黄門の頃、済陰郡で大規模に農園経営をさせたが、彼らの従僕は百姓、旅人を略奪していた。
国相・滕延が犯人を処刑すると、逆に誣告し免官に追い込む。
霊帝崩御後、宦官誅殺計画を知った張譲は段珪、畢嵐、兵士らを伏せて何進を暗殺した。
袁紹らが反撃に出ると何太后、少帝、劉協らを連れて逃亡するが、武装した盧植を恐れ太后は開放する。
その後、北門から脱出するも盧植、閔貢の追撃で宦官らはあるいは斬られ、あるいは入水した。

383名無しさん:2024/12/10(火) 19:30:11 ID:BJ0SeL.I0
趙忠 チョウチュウ (?〜189年)

冀州安平郡の人。後漢の中常時で、いわゆる十常侍の一人。
桓帝の頃は小黄門であり、梁冀誅殺の功績で都郷侯に、霊帝の頃は中常時、列侯となり、後に大長秋を領する。
霊帝から「我が母」と親しまれ、また曹節、王甫、張譲らと権勢を握り、子弟は州郡で害をなした。
黄巾の乱の際、皇甫嵩が(許可を得て)趙忠の屋敷を没収したため、報復で降格させる。
呂強から弾劾されると、夏惲と共に逆に誣告し自害に追い込んだ。
霊帝が崩御すると蹇碩を排除し、宦官討伐の気運が高まると何進を暗殺したが、
袁紹らの決起により朱雀門で捕らえられて斬られた。


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