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148天才tinko:2011/08/30(火) 20:27:34
大体いいよ!

>主観がある程度集まったとき、その共同体の内部でそれは「客観」と呼ばれるようになるが、それもあくまでも原理的には主観である。

ここが、ちょっと違う。
「我思う故に我あり」って考え方があって、それは今見えているこの世界の全ては私の主観だから本当に存在するかどうかわからない、って考える。
つまり「自分が見えているモノが、自分以外から見たら存在していないかもしれない」っていう意味だ。

こういう考えを突き詰めて行った時
「そもそも自分自身は本当に存在するのか?」っていう問題にぶつかる。

自分を証明できる「主観ではないもの」を証明できない限り、自分が本当に存在するかどうかを証明できない、っていう事になってしまう。
でも自分は他人になれないので、「自分以外から見た自分が存在するかどうかがわからない」
もちろん他人に「いまオレ存在してるかな?」と聞いた所で、オレが見ているその他人が本当に存在するかどうかがわからないので意味がない。

すると結論は「自分自身は存在しない」になってしまう。
だけどそれじゃあ矛盾だ。
だって「この世は全て”私”の主観だから証明できない」という事を根拠に、結論が「”私”は存在しない」だと、明らかにおかしいでしょ?
”私”が存在しないのながら、じゃあ主観はどこからやってきたの?
そう考えた時、「自分自身は本当に存在するのか?」と「疑っている何者か」は絶対に存在するわけだ。

つまり客観とは、主観(人)が多数集まり、その多数の仲で共通して「これを客観としよう」と決めたものではなくて、
客観とは「主観(自分の信じている現実)から切り離せるもの」が客観なわけ。それは他人との合意以外にも「主観から切り離す」という作業を行うことができる。
その1つが「我思う故に我あり」なわけ。

「主観は証明にならない」だから「主観は存在しない」とすると、「主観を疑う何者か」の存在が説明できない。
主観が証明できない、ゆえに主観を見ている”私”は存在しないのだとしたら、そもそも主観を疑う何者かなどは存在するはずがないからだ。
つまり、これらの考えは「主観を疑う何者か」という存在を「主観(自分の信じている現実)から切り離すことができる」という事であり、これこそが「自分自身」の存在を証明できる、自分の中にある主観から切り離すことのできる”目線”であり、これこそが自分自身の始まりだ。と考えるわけやね〜〜

この本当の”目線の違い”を意味する所の「主観と客観の違い」を理解できてる人は、実は少ない。
根拠なく簡単な事だと思われてるけど、簡単に理解できるものじゃないんだよ。

最近は、この違いが理解できていない事の連鎖に思えるような出来事が多い。
例えば、物事を主観から切り離した評価軸で語ることが出来ない人がとても多い事だったり、
自分が何について話そうとしているのかを、自分以外の目線に伝えるにはどうしたりいか?という事をそもそも考えられない、
自分が見えている世界をくり返し述べるだけという人も増えてる。こういうのはとても頭が悪い。


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