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メモ

221天才tinko:2011/09/23(金) 03:04:32
痛覚は、外的要因によって自身のエントロピーが増大しないよう(身体が傷つかないように)するためのもの。
これは、精神にも適用できる概念かもしれない。

これを、精神にも適用するとしたら、こうなる。
まずは物理世界があり 次に外的精神世界があり、 最後に内的精神世界がある。

物理世界からの外的刺激は、そのままの通り、物理的なダメージだが
外的精神世界からの外的刺激とは、自分が「これは外の世界だ」と認識しているものに影響をうけて、自分の内的精神世界に相反する認識が共存した時に起こる、精神的なダメージではなかろうか。

つまり、外的精神世界(他者の意見や思想といった、自分から切り離された情報)によって痛みを覚えることがある。
この痛みとは、内的精神世界に、矛盾する存在が成り立ってしまう事である。

これらの矛盾を解消しようとする心の働きがある。
それは、積極的な無視や、積極的な差別化といった
理由の正しい間違いに関係のない、積極的な切り捨てによって、矛盾を解消する、という心の働きがある。

外的精神世界による痛みで、内的精神世界に矛盾する認知がうまれた時、
自分にとって都合の良い認知を優先させ、都合の悪い認知を消すために、外的精神世界に対して牙を向き、スマートではない受け答えをする。
これによって、微妙な不和を感じることができる。


ここでいう外的精神世界は、情報そのものを解釈、あるいは認識する事のできる自分の思考の事であるとすれば、
内的精神世界とは、自分の価値観そのもの、という事になる。
つまり、外的精神世界によって内的精神世界(価値観)が変わる事もある。

言い方を変えれば、外的精神世界を認知する能力が低ければ、内的精神世界(自分の価値観)に全能感を感じて、他者を受け入れられなく成る。
こういう状態に陥ると、そもそも「理解できないものが腹立たしい」という理屈が成り立ってしまう。
なぜなら、外的精神世界と内的精神世界の差を検証して、外的精神世界をつぶさに理解しようという態度がそもそもないにもかかわらず、
外的精神世界には、とりあえず内的精神世界(自分の価値観)とは違うものが存在するらしい、というレベルの認識をする。
これによって、とにかく自分と違う存在を認識した時点で、それは外的精神世界からのダメージと等しくなり、「理解できない事が痛い」状態となり、その「痛い原因である他者が嫌い」という理屈に落ち着いてしまう。


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