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【憑依選び必須?悪魔か聖霊】【霊界暴露VS半端】【4書VS外典】…?
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:
破壊数を持った章節“神の法への目覚め”…???
:2015/04/06(月) 23:02:57
。
>このようにバビロン捕囚の期間は神の民が神の律法のすばらしさに目が開かれて神の民としての機能を回復していきます。その霊的なエネルギーは「ユダヤ教」と呼ばれる新たな神の民としての形をなしていきます。これが回復へと向かう第三の区分です
>しかしながら、神の統治としての「領土」が回復されなかったことと、もうひとつは神の律法が人間的解釈によって本来の意味をゆがめたことなどによって、回復の道はとどまってしまっていたのです。そこに回復の最後の切り札としてイエス・キリストが誕生してくるのです
>つまり、イエス・キリストの誕生はイスラエルのまことの王(メシア)として国を再興するために来られた方であるというのがマタイが最も強調したいメッセージと言えます。マタイはユダヤ人向けに書かれた福音書です。ですから、神の民として選ばれたユダヤ人が優先です
>とはいえ、このマタイの系図には異邦人の女性たちが組み込まれており、神の国の支配がやがて異邦人にまで及ぶことを示唆しています
>マタイが14代、14代、14代とその数にこだわって三つの区分に分けたのは、イエス・キリストがダビデ王の子孫として来られた王であること、ダビデに勝るまことの王であるという象徴的メッセージが込められています
>イエスは王として何をされ、何を語った(教えた)のか
>イエスが公の生涯へと入られた時、最初に語ったことはなんだったでしょうか。それは「悔い改めなさい。天の御国は近づいたから」でした。イエスは機能不全に陥ってしまった「天の御国」を回復するために来られました。マタイの福音書はユダヤ人たちに向けて語られましたので
>「神」ということばを使わずに「天」ということばを代わりに使いました。ですから「天の御国」とは、「神の国」と全く同じことを意味します。「天の御国が近づいた」とは神の統治、神の御支配が本来の形でなされる時が近づいたことを示す呼びかけの表現です
>神の統治には三つのことが必要です。民の存在、そして王が民をご自分の民として治めるための法としての「律法」、そして、領土―この三つです
>最後の領土は、イエスの時代には奪回されませんでしたが、神の回復のわざとしては、イスラエルの民をご自身の民として整えることから始められました。具体的には、神が回復する新しい王国に住む民の持つべき法から教えられました
‥‥
>イエスは律法を廃棄するために来たのではなく、その正しい解釈を語りました。「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためでなく、成就するために来たのです。まことにあなたがたに告げます。天地が滅び失せない限り、律法の中の一点一画でもけっしてすたれることはありません。全部が成就されます
>だから、戒めのうち最も小さなものの一つでも、これを破ったり、また破るように教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で偉大な者と呼ばれます。」と語られました
‥‥
>関心を持つ者に神はさらに多くの深いことを教えられるからです。反対に、関心のない者に対しては神の国の奥義は閉じられているのです。ですから、「求めなさい、求めつづけなさい。探し続けなさい。叩き続けない」という求道心を煽っておられるのです
>そして求める人には、神の恵みによって、さらに多くの霊的な光が与えられ、「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、You shall love God. あなたは神を愛するようになる」者としてくださるのです
>「心を尽くして」とか、「思いを尽くす」とか、「力を尽くす」というのは、命令されてできることではありません。命令にはむしろ恐れが先立ちます。愛の関係は強制や義務としてできることではありません。愛には自発性、主体性が不可欠です
‥‥
>そこに王としての神の権威が注がれ、この世において私たちは王である神をあかしするようになります。そして私たちは神にとって「宝の民、祭司の国、聖なる国民」となることができるのです。「聖なる国民」とはこの世の基準やこの世の価値観によって生きる民ではなく、どこまでも王である神の与える法、律法によって生きる存在です
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