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891WS:2022/01/27(木) 19:01:35
>>890
家斉の子・妻妾
・特定されるだけで16人の妻妾を持ち、男子26人・女子27人を儲けたが、成年まで生きたのは半分(28名)だったと言われる。また長命の男子は他家の養子となったが、養子先に選ばれた諸国の大名家の中にはすでに実子が誕生していた例もあった。(播磨明石藩など)
・子女の多くは大藩の大名に関係することから、血縁関係による大名統制をとったとも考えられる。また、将軍の子を迎える大名に、それに伴う儀礼などによる経済的負担を課していたとも考えられる。一橋宗尹以来の一橋家の養子戦略の延長でもある。
・成人した家斉の子のほとんどは子供(家斉にとっての孫)がなく、あるいは早世して血筋が途絶えることが多かった。現代まで血筋を残しているのは、斉民・斉裕・溶姫の3人だけで、このうち男系は斉民の系統だけである。
・家斉の子を養子もしくは正室として迎えた(続柄)大名家に対しては特別な待遇が与えられた。文化8年(1821年)に禁じられた、幕府から大名への拝借金が、続柄の大名家に対しては家斉の子女のためという口実で下された。さらに津山藩には5万石、明石藩には2万石、福井藩には2万石の加増が行われ、尾張藩には知行替と称して経済上の要地(表高より実収入がはるかに多い)近江八幡が与えられた。官位の面でも便宜を受け、将軍の子や娘婿として本来の家格よりも上位の官位が授けられた。従って家斉と姻戚関係にある大名家は、それまで同格とされてきた他家に対しても優位となった。そして天保7年(1836年)・同11年(1840年)の2度にわたって三方領知替えが行われた。最初は竹島事件における浜田藩の処分に乗じて、館林藩を浜田に移封させた。しかし、2度目の川越藩の庄内藩への移封計画は、庄内藩領民の激しい抵抗に遭遇した上、家斉と姻戚関係にある大名家への厚遇に対する諸大名の不満をも噴出させた。このため、家斉が死去した天保12年(1841年)7月には庄内藩などの三方領知替えの中止が決定され、12月には家斉時代の官位の上昇は以後の先例とはならないと宣言せざるを得なくなった[1][2]。

人物・逸話
在職期間50年は、江戸幕府将軍だけでなく歴代の征夷大将軍の中でも最長記録であるが、その生涯で一度も日光社参はしなかった。
「俗物将軍」と渾名されたが、これは幕政をほとんど主導せずに松平定信や松平信明らの幕閣に任せ、自分は大奥に入り浸っていたことに由来すると言われる。また多くの子女を儲け、彼らを多くの大名家に縁組させたことは、幕府財政を大きく揺るがせることとなった。
多くの子を作ったのは、15歳で将軍職を継ぐ際に、子女を多く儲けるように実家・一橋徳川家より訓戒を受けたためであり、徳川家の天下を一橋家の系統で押さえるためでもあった。
このため、水戸徳川家を除く御三家・御三卿には家斉の弟や甥、もしくは実子が養子入りしている
(ただし家斉の出身・一橋家は徳川昌丸で家斉の血は絶え、水戸徳川家から徳川慶喜が養子入りし、後に将軍となっている)。
「白牛酪(はくぎゅうらく)」という今日で言うチーズのような高タンパク乳製品を大変好んだ。医者に『白牛酪考』といった本まで書かせている。
生姜も大好物で、一年中毎日欠かさず食べていたという。これが並外れた精力増強に作用していたとも言われる。息子の家慶も生姜好きであった。
また、精力増強のためオットセイの陰茎を粉末にしたものを飲んでいたので「オットセイ将軍」とも呼ばれた。




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