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【もうひとつの】豊原県スレ【北の果て物語】
3
:
大津和敏
◆nxeJRz9KX6
:2008/01/29(火) 08:14:29
今回は戦前から戦後に渡っての豊原県成立の経緯について、
簡単に年表にまとめてみました。
1855年 2月 7日 日露和親条約締結。樺太島を日露混住の地とする。
1875年 5月 7日 樺太・千島交換条約締結。樺太全島がロシア領となる。
1905年 9月 5日 ポーツマス条約締結。北緯50度以南の樺太島が日本に割譲される。
1907年 3月15日 南樺太の行政組織として、樺太庁が発足。
1945年 8月 9日 ソ連軍、日ソ中立条約を破棄。南樺太に侵攻する。
同 8月14日 日本、ポツダム宣言を受諾する。翌日、終戦。
同 8月28日 南樺太全域がソ連軍の占領下に置かれる。
同 9月17日 ソ連軍政下の元、南サハリン住民管理局が設置される。
1946年 6月 1日 国家行政組織法の施行により、樺太庁が廃止される。
1948年 3月 5日 ソ連、スターリン書記長死去。フルシチョフ書記長就任。
同 3月28日 ソ連軍が南樺太から撤退を決定。
同 4月 1日 GHQの指導により、南樺太行政執行局設置。
同 6月 3日 ソ連軍が撤退を完了する。
1951年 9月 8日 サンフランシスコ講和条約調印。
南樺太を含む日本の内地の領有権が認められる。
1952年 1月28日 南樺太行政執行局が発展的解消。豊原県が発足する。
1956年10月19日 日ソ共同宣言署名。日ソ両国、北緯50度線を国境と確定。
1948年に、スターリンに批判的なフルシチョフが就任したことに伴い、
前政権への反動が大きくなったことと、
北海道侵攻の可能性も大きかったソ連に対し、極東のパワーバランスが崩れることを恐れた
アメリカが牽制したことが原因で、ソ連軍が南樺太から撤兵。
日本は南樺太の支配権を放棄せず、サンフランシスコ講和条約に望んだ…という設定です。
(※実際のスターリンの死去は1953年)
戦後の自治体の名として「樺太県」を使わなかったのは
撤兵したソ連に考慮し、「樺太」という言葉が島全体を指す用語として
全島領有の意思があるという誤解を避けたため…というのはどうでしょうか?
いかにも日本らしい対応の仕方だと思うのですが。
以後、公的には戦前戦中のイメージが強い「樺太」という言葉は使われないようになり、
「南樺(なんか)」「樺州(かしゅう)」という言葉が使われるようになります。
…とまあ、何だか虚実織り交ぜているので、
事例の前後関係などがおかしいところもあるかもしれませんが、
一応はこれを仮設定とします。
それにしても架空歴史スレみたいになってるなここ…
次回は県のシンボル等の詳細について考察してみます。
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