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◆森田療法 書籍より

1名無しさん:2021/04/22(木) 22:01:18
「けっきょくは、「そのまま恐怖に当面しなさい。いたずらに恐怖を恐怖しないようにしてはならない」ということに帰着する。で、ある場合には、たとえば、「君の病気と考えているところは病気ではない。私の診断は、確実に君の予後を見とおすことができる。けっして恐怖を起こさないようにしようとか、忘れようとか、一時のがれの方法をとってはいけない。そのまま恐ろしいままに、自分の実際生活上やるべきことをやらなければならない。そのために神経衰弱が起こるとか、精神錯乱することはけっしてない」と教えて、直ちに実行させるのである。」(森田先生


2名無しさん:2021/04/22(木) 22:10:14
えーつまり、頭がつっぱらかるようなら、症状をまあ、恐れてる?
症状に対して気を向くから気になるのかな?
ほっとくのがええかな、あーつっぱらかる、こんだけ

4名無しさん:2021/04/22(木) 22:37:32
まあ元は書籍やし
「わかったという人がわからず、わからぬという人がわかる

 井上氏 入院中、僕は「雑念の大家」といわれました。雑念が起これば、必ずどちらかに決めなければ、気がすまないというのが、神経質の癖です。これを、気になり放題に出しっ放しにして置くと治る。僕は読書恐怖で、本を読むとき雑念が起こって困った。倉田氏は「忍受せよ」という事をいいますが、苦しみは、ことさらに忍受する心構えはいらない。ただ放ったらかしにしておけばよい。
 入院中、何か仕事をしている時に、先生からほかの仕事を頼まれる。やりかけの仕事が気になってしかたがないけれども、そのまま気にしながら一方の仕事をすると、それがしまうとともに前の仕事もできて、かえって両方ともよく能率があがる。雑念が起これば、その反対観念を両方ともそのままに ▲肯定して、対立させておくとよい。
 僕等の西洋歴史の先生の本多先生の書かれたものは、この雑誌へも出ましたが、この先生のいわれる事に、「自分は、中学から、西洋歴史を習い、大学を出て、今日まで研究したが、結局何もわからず、失望落胆しか得られぬ」と常にいっておられる。わかったという人がわからず、わからぬという人が、最も達観している人である。
 香取さんは、いつも能率があがらぬといわれながら、ますます盛んに事業を発展させておられる。神経質は、頭が悪い悪いといいながら、いつもよい成績をとっている。(森田先生)」

5名無しさん:2021/04/22(木) 22:40:55
肯定と否定

 森田先生 今ちょっと倉田さんの肯定という事について、言葉の詮索をしてみます。肯定と否定とは、相対的の言葉で、単に物を如実に、あるがままに見るという時に、このような言葉を要しない。ただ特別の場合にこれを用いる事があるのみである。例えば太陽は東から出て西に入る。これが我々の常識的の判断である。これが地動説によって否定されるのである。
 いま思いつくままに、科学と宗教とを比べてみると、科学は物を如実に見る工夫をするのと、宗教は人はかくあらねばならぬと意志的に努力するという事が違う点ではあるまいか。ここに物事をいやでも肯定しなければならぬという考えが起こって来るのではないかと思う。
 苦痛は苦しい。努力は骨が折れる。これは花は紅・柳は緑というのと同様で、あるがままの如実である。しかるに苦痛や努力は人生の当然であるから、これを肯定して、これを苦しいと思わず、満足としなければならぬという時に、柳は紅に、花は緑に感じなければならぬという様に、そこに私のいわゆる思想の矛盾が起こって、事実唯真という事がなくなり、強迫観念の発生条件ができるのであります。
 なお、ここの治療の実際について、この肯定という言葉を応用して見れば、例えば飯炊きをする。自分は頭が悪い、不器用で人のように上手にできないと思う。自分で誠にその通りに信ずるならば、その通りにこれを肯定してかかる。もしそうかも知れぬと自分を疑うならば、まず仮にその通りと肯定して、これを仮定として置く事にする。もし我々が仮にでも誠にでも、その心になりきった時には、自分の心の働きは、ただ炊く事の工夫一途になって来る。すなわち米の水加減や燃料の材料の整理・選択などに適切に気がつくようになり、三日も経たぬうちに「日に新たに、また日々に新たなり」という風に、上達してしまうのである。
 これに反して、自分の頭の悪いのを悔しい、残念と思いこれを否定し、もしくは気を紛らせて、そう思わないようにし空元気をつけようとするから、いたずらに自分の手付きの不調法や火の燃えつかぬ事ばかりが気になり、独りでますますじれったくなるばかりである。実は焚物の濡れているのも乾いているのも、見当がつかなくなるようなものである。ここでも心の自然のあるがままでなく、▲肯定の語を一つ誤って用いると思想の矛盾になる。かえって間違いやすい語は、なるたけ用いない方がよいのであります。ここの患者が早くよくなるのと、ならないとの相違は、ほんのちょっとしたところにあるのであります。

6名無しさん:2021/04/22(木) 22:42:25
苦痛という意識が消滅すればすなわち心頭滅却である

 なお肉体的苦痛の事について、ちょっと自分の経験を申してみます。私があるとき、横浜で支那料理を食べて、まもなく胃痙攣を起こし、非常に苦しんだ。ようやくに電車に乗って、ただ腹を押さえて、こごんだまま、ジッと耐えて、どうする事もできない。「先生、東京駅ですよ」と同伴の瀬下君に声をかけられた時は、ハッと気がついてみれば、横浜から東京までの時間は、実に瞬間であった。まもなく痛みも落ち着いて治りました。また妻も私も前年、肺炎をやりましたが、これは確かに苦しいものです。しかし治った後には、まもなく忘れて、その苦痛を充分に追想する事ができないほどに忘れている。
 さて苦痛という事は、意識である。無意識のところに苦痛はない。癲癇の痙攣などは、側から見ては、随分苦しそうであるけれども、本人は意識がないから苦痛とはいわない。それでわずかの時間の軽い苦痛でも、これが絶えず身にさいなまるれば、したがってその苦痛は大きい訳である。これに反して、赤ん坊のように痛む時のみ泣き、過ぎ去れば直ちに忘れてしまえば、その苦痛は取るにも足らぬものである。すなわち私の胃痙攣でも肺炎でも、その苦痛が瞬間になり、あるいはその場限りで直ちに忘れてしまうという風であれば、詮じつめればこれが心頭滅却という事になり、苦痛という意識が消滅してしまうという風になるのであります。心頭滅却とはなんの工夫も手だても全く尽きて、苦痛そのものになりきる事である。感受性が強いとか、肉体的とか精神的とかの区別はないのである。
 ここの治療法の主眼も、このなりきるという事が、最も大切なる条件になっている。初めの絶対臥褥療法も、終日戸外に出ているという事も、患者が従来迷ってきたすべての治療的という手だてを患者から奪ってしまって、患者自身で、どうする事もできない様にしむけてある訳であります。つまり患者も、自身で姑息なやりくりをやめて、ここの療法にまかせきって、絶体絶命になった場合に、随分早く短時日で治るものであります。

7名無しさん:2021/04/22(木) 22:43:04
正岡子規が泣き叫びながら原稿を書いた。子規は七年も寝返りも思うようにできないで、寝たきりになっていた。たしか脊椎カリエスで痛んだ事もあったとか。その間にも絶えず書く事はやめなかった。その心境は誠に有り難いものである。
 私がいま自分の事について考えてみるに、私がもし子規のような場合であったら、泣きもしよう。また人のいるところでは耐えもしよう。私が一昨年肺炎をやったとき、私は酒は飲むし、身体は弱いから、今度は助からないかと思った。しかし決して死んではならぬと頑張った。なお広瀬君から肺炎の診断のついた時に、もし危篤になった時には、どんな気持ちになるかわからぬから、今のうちにと思って、もし死んだら大学へ送って解剖をするように頼んだ。この時は自分も泣き出したいように空恐ろしい。しかし平然を装って、ニコニコしながら広瀬君に話している。私の死んだ子供は、私のこの言葉を聞いて、身体に悪寒がしたとの事である。すなわち私は卑怯というか虚偽というか、泣きたいのを笑ったりして、心の表裏のあるものと、自分自身をそのままに肯定しているのであります。ただ私は私の心の事実を認めるのみです。解剖の事もただ必要の事をいうのみです。このような事は、縁起恐怖患者の四の字をいうのも恐ろしいというのとは、大分相違のあるところであります。
 人間の死の時は、卒中のように無意識で死ぬのもあれば、衰弱しきって、火の消えるように死ぬのもある。一般にまだ生の力の強盛であるものは、多くは死のアゴニーといって、非常に苦悶するものである。さて私の死ぬ場合は、どの死に方をするのか、その時と事情とになってみなければわからない。私には宗教家や英雄豪傑のいうような死の心掛けや準備というものは少しもない。すなわち私は恥さらしのように死ぬか、あるいは大往生か。私はその時に当たっていずれをも▲肯定するのであります。これが私の理想を捨てた理想であります。(森田先生)

8名無しさん:2021/04/22(木) 23:27:06
肯定 肯定 肯定 肯定 肯定 肯定 肯定 肯定 肯定 肯定 肯定 肯定


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