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◆ものの命をたつもの此の地獄に堕つ螻蟻蚊蝱等の小虫を

1名無しさん:2021/04/14(水) 17:40:36
https://bit.ly/3dgl2aD
0443〜0460 顕謗法抄 0443:03〜0444:01 第二章 等活地獄の因果を明かす

第一に八大地獄の因果を明さば、第一に等活地獄とは此の閻浮提の地の下・一千由旬にあり此の地獄は縦広斉等にして一万由旬なり、此の中の罪人は・たがいに害心をいだく若たまたま相見れば犬と猨とのあえるがごとし、各鉄の爪をもて互につかみさく血肉既に尽きぬれば唯骨のみあり、或は獄卒手に鉄杖を取つて頭より足にいたるまで皆打くだく身体くだけて沙のごとし、或は利刀をもつて分分に肉をさく然れども又よみがへり・よみがへりするなり・

(第一に八大地獄の因果を明かせば、第一に等活地獄とは、この閻浮提の地の下、一千由旬の所にある。この地獄の広さは、縦と横が等しく一万由旬である。この中の罪人は、たがいに殺害心を抱いている。もしもたまたま互いに見ることがあれば、犬と猿とが出会ったようなものである。おのおの鉄の爪で互いに身をつかみ裂き、血肉がなくなってただ骨だけが残る。あるいは獄卒が手に鉄杖を取って、罪人の頭から足にいたるまで皆打ち砕く。身体は砕けて砂のようになる。あるいは利い刀で細かく肉をさく。しかし、そのたびにまた身体はよみがえり、よみがえりして同じ苦しみを繰り返すのである。)

2名無しさん:2021/04/14(水) 17:42:27
此の地獄の寿命は人間の昼夜五十年をもつて第一・四王天の一日一夜として四王天の天人の寿命五百歳なり、四王天の五百歳を此れ等活地獄の一日一夜として其の寿命五百歳なり、此の地獄の業因をいはば

(この等活地獄の寿命は、人間の昼夜五十年を六欲天の第一の四王天の一日一夜として、四王天の天人の寿命は五百歳であり、四王天の五百歳をこの等活地獄の一日一夜として、その寿命は五百歳である。 この地獄に堕ちる業因をいえば、)

3名無しさん:2021/04/14(水) 17:45:05
ものの命をたつもの此の地獄に堕つ螻蟻蚊蝱等の小虫を殺せる者も懺悔なければ必ず此の地獄に堕つべし、譬へばはりなれども水の上にをけば沈まざることなきが如し、又懺悔すれども懺悔の後に重ねて此の罪を作れば後の懺悔には此の罪きえがたし、

(生き物の命を断つものがこの地獄に堕ちる。螻・蟻・蚊・蝱等の小虫を殺した者も、懺悔しなければかならずこの地獄に堕ちるのである。譬えば針のような軽いものであっても、水の上に置けば必ず沈むのと同じである。また懺悔しても懺悔した後で重ねてこの殺生罪を作れば、その後の懺悔ではこの罪は消えがたい。)

4名無しさん:2021/04/14(水) 17:46:37
譬へばぬすみをして獄に入りぬるものの・しばらく経て後に御免を蒙りて獄を出ずれども又重ねて盗をして獄に入りぬれば出ゆるされがたきが如し、

(譬えば盗みをして牢獄に入れられた者が、しばらくしてから後に許されて牢獄を出たとしても、また重ねて盗みをして牢獄に入れられたならば、今度は容易には許されがたいのと同じである。)

5名無しさん:2021/04/14(水) 17:48:29
されば当世の日本国の人は上一人より下万民に至まで此の地獄をまぬがるる人は一人もありがたかるべし、何に持戒のをぼへを・とれる持律の僧たりとも蟻虱なんどを殺さず蚊蝱をあやまたざるべきか、

(それゆえ今の日本国の人は、上一人から下万人に至るまで、この地獄をまぬかれる人は一人もないであろう。どれほど持戒の評判をとった持律の僧であっても、蟻や虱等を殺さず、蚊や蝱をあやめないことがあろうか。)

6名無しさん:2021/04/14(水) 17:49:04
況や其外山野の鳥鹿・江海の魚鱗を日日に殺すものをや、何に況や牛馬人等を殺す者をや。

(ましてその他の山野の鳥や鹿、江や海の魚を毎日殺す者や、それにもまして牛や馬や人等を殺す者がこの地獄に堕ちないことがあろうか。)

7名無しさん:2021/04/14(水) 17:49:54
懺悔

 懺は、梵語クシャマ(kṣama)の音写「懺摩」の略で「忍」の意。自分の犯した罪過を許してくれるよう人に向かって請うこと。悔は、過去現在の罪過を仏・菩薩や大衆・師長の前で告白して謝ること。

8名無しさん:2021/04/14(水) 17:53:54
たとい凡夫であっても、終窮究竟の大法を持てば、懺悔することによってその罪を消すことができる。それゆえ、最高の妙法を持つことが肝要となるのである。

一念三千(いちねんさんぜん)
天台大師智顗が『摩訶止観』巻5で、万人成仏を説く法華経の教えに基づき、成仏を実現するための実践として、凡夫の一念(瞬間の生命)に仏の境涯をはじめとする森羅万象が収まっていることを見る観心の修行を明かしたもの。このことを妙楽大師湛然は天台大師の究極的な教え(終窮究竟の極説)であるとたたえた。
ttps://bit.ly/3spJGKl

9名無しさん:2021/04/14(水) 18:05:34
>>8
光日房御書では「小罪なれども懺悔せざれば悪道をまぬがれず、大逆なれども懺悔すれば罪きへぬ」(0930:06)と仰せである。しかも、その具体的な例として、光日房の子の弥四郎の殺生罪はかならず消えるといわれているのである。いったい、どこにその相違があるのであろうか。それは、何に懺悔するかが問題なのである。つまり懺悔の対象によって、罪の消滅・不消滅が決定することを知らなければならない。

▲たとい高潔な持戒の僧であっても、持つ法が低級であれば、どんなに懺悔してもその犯した罪は消えない。▲その反対に、たとい凡夫であっても、終窮究竟の大法を持てば、懺悔することによってその罪を消すことができる。それゆえ、最高の妙法を持つことが肝要となるのである。


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