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雑談スレッド
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>>1318
その無我を超えてというか、無我を経験した先に、悟りの境地があるんだろうね
無邪気なころってさ、俺は思い返せないけれど、やっぱりあったんだろうし、その経験が身について、理性も身についたら、悟ってるのかも
受け入れないというのには程度があって、究極的には受け入れているとか、受け入れていないとか、そういうのがあるんじゃないかなって思った
だから、並行してたくさんの世界があって、その世界では平行世界だとか、この世界では交わってる世界だとか、そういう並行世界
それはすごく分かる。「自分は何々のために生まれてきた」とか、そういう奴だよね
そうやって自分を決め付けないと、自分は語れないのかもしれない
そのレッテル貼りも、一種のキャラ付けだと思う
キャラを付けることによって、複雑な自分を単純にして、方向を定めるんだ
そうすると、進むべき道も自ずと決め付けられるから、それが原動力になるんじゃないかな
言葉は言葉でしかない、と思わない人達の会話は、きっと、断絶を生み出さないのだろうと思う
なんていうか、できるだけ伝えようとして、分かり合おうとすれば、断絶もなくなるんじゃないかなって
そういうのが、理解しあえたときなのかな そういうの、できたらいいな
悪魔の囁きに惑わされて踊らされる人間が、ふと閃いて、逆転する物語も好きだなー
これ違うのかもしれないっていうか、こういう境地で語ったら、その道の人達に失礼なのかもしれないけどさ、
僧侶が修行をして悟りを開こうとするのも、科学者が実証できると信じたものを解き明かそうとするのも、まぁ、そういったものって、
妄想というか幻想というか、追い求めた先にある多幸感を求めているのかな、って思った
事実というのは確認できた確かに起こった出来事で、真実と言うのは確認できてなくても確かに起こった出来事、みたいなのじゃないの?
確認できたっていうのは、目の前で確かめられたってことで、確認できてなくてもっていうのは、目の前では確かめられてないけどってことね
思ったんだけど、理屈よりも前に感情が根付いているんじゃないかな
つまり、感情があってこそ理屈が生じるから、感情が根本にあるからこそ、感情を触発させる文章文脈は、納得抜きというか理屈抜きで受け入れられるんじゃないか、って
だから感情は分かりやすくって、批判の対象に挙げられがちだけど、本当は結構難しいものなんじゃないかな、とも思う
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