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270名馬コラム番外編:2005/04/19(火) 21:16:29
   ダービーを勝つために天から降りてきた馬 ●トキノミノル(番外)

トキノミノルは最初「パーフェクト」という名でデビューした。いかにも、”永田
ラッパ”を吹きまくった永田雅一(まさいち)オーナー(大映社長)らしい強気
な命名だ。その名のとおり10戦全勝(レコード勝ち7回)のパーフェクトな成
績をあげた同馬は、2戦目から「トキノミノル」と改名した。

トキノミノルは文豪・菊池寛(きくちかん)が他界した昭和23年3月6日直後、
5月2日に生まれた。菊池寛は長い馬主時代に、帝室御賞典(現在の天皇
賞)はトキノチカラで勝ったものの、ダービーを勝てなかったことに未練をの
こしたまま世を去った。大映の初代社長(4年間)だった菊池の遺志をつぎ、
2代目社長の永田は、先代の没後入れかわるように生まれた馬がダービー
を狙える勝ちっぷりで鮮烈なデビューを飾ったとき、この馬に菊池の愛馬の
名に共通の「トキノ」をつけることを決めたのだった。

けれどもトキノミノルは健康面では必ずしも旧名のようにパーフェクトではな
く、それどころか、つねに不安をかかえて走っていた。慢性のヒザの疾患と
烈蹄のため四肢が完調だったことは一度もなく、ダービーの2日前には急性
腱炎をおこし「トキノミノル出走断念説」が流れたほどだ。

永田の大映経営も、またけっして順風満帆ではなかった。戦後ウナギ昇りの
映画産業だったが、昭和25年は前年比入場者数が減少、26年は封切り本数
が25年より減った。ダービー後の『週刊朝日』誌上で永田は、トキノミノルと改
名以後「大映は税金に苦しみ、馬のことなど忘れていた」と述懐している。内
部ではワンマン体制も批判されはじめていた。

出否も決まらないまま、岩下密政騎手と村田厩務員が2日間厩舎に泊まりこ
み不眠不休で看護につとめた結果、トキノミノルは奇跡的な回復をみせた。
そしてみごとに人々の期待にこたえるのである。

ダービーのスタートからゴールインまで永田は「南無妙法蓮華経」を唱えどお
しだったという。
永田はトキノミノルを海外に遠征させようと決意したが、その夢もむなしくダー
ビーの17日後、破傷風がもとでトキノミノルは短い生涯にピリオドを打つ。菊池
寛の紹介で馬主になった作家の吉屋信子さんが「ダービーを勝つために天か
ら降りてきた幻の名馬です。・・・・また天に還っていきました」と毎日新聞に書
いて以来、トキノミノルは「幻の馬」と語り継がれ、大映は『幻の馬』を製作する。

トキノミノルでは実現しなかった海外進出だが、同年9月、大映は『羅生門』で
ベネチア映画祭グランプリを獲得。その後、『雨月物語』『地獄門』『山椒大夫』
が続々と海外の映画祭で受賞し、永田雅一の名は世界に響き渡っていた。


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