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Japanese Medieval History and Literature

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1 : Japanese Medieval History and Literature(7519)
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1 Japanese Medieval History and Literature (Res:7519)All First100 Last50 SubjectList ReLoad 1
1釈由美子が好き :2007/06/03(日) 21:01:22
快挙♪ 3
 本日の歴史学研究会総会・大会2日目、日本史史料研究会さんのお店、中島善久氏編・著『官史補任稿 室町期編』(日本史史料研究会研究叢書1)が、なんと! なんと!!

  41冊!!!

 売れたと云々!!
 すげェ!! としか言いようがない。

 2日で、71冊。
 快進撃である。

7513鈴木小太郎 :2022/06/04(土) 13:06:07
『感身学正記』に登場する「右馬権頭為衡入道観證」について(その1)
前回投稿で白毫寺(白毫院、東山太子堂、速成就院)は「称名寺の京都出張所程度の存在」など書きましたが、福島金治氏によれば「京都東山太子堂・伊勢大日寺は称名寺の西大寺への伝達及び用途支出の窓口」(『金沢北条氏と称名寺』、p156)とのことなので、まんざら冗談でもなかったですね。
そして、こうした特別な役割を担っていた以上、金沢北条氏が白毫寺に対して相当な資金援助をしていたと考えるのが自然で、福島氏の「貞顕が檀越であった京都東山太子堂」(同、p109)という評価も適切なのだろうと思います。
ただ、そうはいっても、白毫寺の「長老」が京極為兼の一味として六波羅に逮捕・拘禁されたような場合、金沢顕時も責任を負わなければならないような関係にあったかというと、そこははっきりしないですね。
ま、私の疑問もちょっと考えすぎだったかもしれませんが、為兼流罪の翌四月一日に顕時が幕府要職を辞したことは気になります。
さて、林幹弥氏は「金沢貞顕と東山太子堂」において、

-------
太子堂に関するもっとも古い記載は、その開山とされている忍性の師叡尊の『感身学正記』に見えている。それによると、叡尊は弘安二年十月三日に白毫寺で一一九人に菩薩戒を授けた。また彼は弘安七年二月二十五日に速成就院に着き、翌々日ここの金銅塔供養を行なっている。この二つの記事からすると、太子堂は葉室定然の浄住寺とともに、叡尊の京都に於ける活動の拠点となっていたものと考えることができよう。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/29518a7286cd072086e35b712e1ef4d9

と書かれていますが、当該記事を確認するために細川涼一氏訳注の『感身学正記2』(平凡社東洋文庫、2020)を見たところ、細川氏は些か奇妙な解説をされていました。
まず関連する部分の細川氏による読み下しを引用すると、弘安二年(1279)叡尊七十九歳のときの記事に、

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7514鈴木小太郎 :2022/06/06(月) 19:58:15
『感身学正記』に登場する「右馬権頭為衡入道観證」について(その2)
前回引用した『感身学正記』の弘安二年(1279)の記事、伊勢神宮に一切経を奉納する件に関して「右馬権頭為衡入道観證」が「叡尊と西園寺実兼の間を取り持っている」話の中に別の話題も入っていたので、少し分かりにくいところがあったと思います。
同年の記事は九月から始まっていて、最初に亀谷禅尼が西大寺に一切経を納入する話が出てきます。(p88以下)

-------
九月二日、一切経開題供養す。鎌倉亀谷禅尼法名浄阿弥陀仏、もと将軍家〔九条頼経〕の女房、摂津前司師員〔中原〕入道法名行厳の後家、予、関東下向〔弘長二年〕の時の新清凉寺宿所の亭主、越後守実時〔金沢〕朝臣の沙汰として借用し、去らしむ。それより以来、三宝に帰向し、所領〔下野国横岡郷〕の殺生を禁断し、菩薩の禁戒を受持す。時々の音信今に絶えざるの仁なり。にわかに六十人の人夫をもって一切経を当寺〔西大寺〕に渡し奉りて、開題し奉るべきの旨、慇懃の所望有り。黙止しがたき故、百僧を勧請して首題を礼さしむるなり。法会の事終わりて後、かの禅尼来たりて曰く、「摂津前司入道〔中原師員〕仏舎利を所持す。人に付嘱せず頸に懸けながら命終わりぬ。後家たるが故、年来奉持す。当寺に安置し奉らんと欲す。後日奉持してよく参詣すべし」と云々。すなわち領状し畢んぬ。
-------

幕府の評定衆であった中原師員(1185-1251)の後家・亀谷禅尼は、弘長二年(1262)、叡尊(1201-90)が金沢実時(1224-76)に招かれて鎌倉を訪問した際、新清凉寺を宿所として提供して以降、熱烈な律宗の信者となり、巨額の財政的援助もするようになったパトロン的女性です。
その亀谷禅尼が西大寺に一切経を奉納した後、夫の中原師員の遺品である仏舎利を西大寺に奉納したい、後で持参する、と言うので叡尊はこれを了承します。

中原師員(1185-1251)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%8E%9F%E5%B8%AB%E5%93%A1

この後、前回投稿で引用した部分となり、九月十八日に「右馬権頭為衡入道観證」が来たので、叡尊は「談話の次いでに大神宮に一切経安置の願い事を語り」ます。
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7515鈴木小太郎 :2022/06/08(水) 14:11:57
苅米一志氏「東山太子堂の開山は忍性か」(その1)
叡尊は建仁元年(1201)生まれなので、その事蹟を年表にすると、西暦の下二桁がそのまま年齢になって便利な人ですね。

叡尊(1201-90)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A1%E5%B0%8A

『感身学正記』の弘安二年(1279)、叡尊七十九歳のときの記事を見ると、奈良西大寺にいた叡尊のもとに九月十八日に「来臨」した「右馬権頭為衡入道観證」に対し、叡尊が一切経を入手する「秘計」はありませんか、と相談したところ、為衡入道が「方便を試むべしと答えて退出」した僅か三日後、二十一日に為衡入道から、西園寺家に「古書写の本一蔵」がありますよ、と書状が来ます。
為衡入道の京都への移動と京都から派遣した使者の移動の時間を考えると、殆ど即答ですね。
為衡入道は西園寺家の一切経を叡尊に寄進できる実際上の権限を持っていて、ただ、西園寺家当主の実兼の確認を得るために京都に戻り、直ちに了解を得て叡尊に連絡している訳で、この経緯を見るだけでも為衡が西園寺家の実力者であることは明らかです。
関東申次である西園寺家が大変な政治的権力を握っていた、という龍粛以来の「西園寺家中心史観」は誤りですが、西園寺家が経済的に極めて豊かであったことは確かで、「朝廷に不動の地位を築いた同家を支える驚くべき財力がいかにして形成されたか」については網野善彦氏の詳しい研究もあります。

網野善彦「西園寺家とその所領」(『國史學』第146号、1992)
http://web.archive.org/web/20081226023047/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/amino-yoshihiko-saionjiketo-sonoshoryo.htm

「右馬権頭為衡入道観證」は、いわば西園寺財閥の大番頭のような存在で、だからこそ叡尊も「よいお知恵はありませんか」と相談を持ち掛けた訳ですね。
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7516鈴木小太郎 :2022/06/09(木) 10:38:27
苅米一志氏「東山太子堂の開山は忍性か」(その2)
就実大学教授・苅米一志(かりこめ・ひとし)氏は1968年生まれとのことなので、「東山太子堂の開山は忍性か」を書かれたのは二十三歳くらいの時であり、ちょっと吃驚ですね。

http://www.yoshikawa-k.co.jp/author/a86010.html
【研究室訪問vol.001】第1回 苅米一志教授(日本中世史)研究室へ訪問
https://www.shujitsu.ac.jp/news/detail/1791
【WEB体験授業】古文漢文から日本史へ 総合歴史学科
https://www.youtube.com/watch?v=2iHIfqbzgE8

この論文を実際に読むまで、私は「東山白豪院長老妙智房」(『三宝院伝法血脈』)が出て来るのではないかと期待していたのですが、その名前はありませんでした。
ただ、「白毫寺妙智房」(『興福寺略年代記』)が京極為兼と一緒に六波羅に逮捕された永仁六年(1298)正月は東山太子堂にとってもなかなか微妙な時期だったようで、その構成メンバーが叡尊系から忍性系に移行する端境期だったように思えます。
そこで、その推移を細かく見て行きたいと思います。(p12)

-------
  一、叡尊と太子堂速成就院
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)


7517鈴木小太郎 :2022/06/13(月) 09:22:38
「白毫寺妙智房」の追跡はいったん休みます。
三日投稿を休んでしまいましたが、この間、律宗関係で「妙智房」が出て来ないかを探っていました。
暫定的な成果として、和島芳男氏の「西大寺と東山太子堂および祇園社の関係」(『日本歴史』278号、1971)に、それらしき人物がチラッと登場していたのですが、律宗関係だけでも手一杯なのに祇園社まで広げると収拾がつかなくなりそうなので、後日の課題としたいと思います。
私の目論見は、永仁六年(1298)正月、京極為兼と「八幡宮執行聖親法印」「白毫寺妙智房」(『興福寺略年代記』)の三人が同時に六波羅に逮捕された理由については、律宗関係を調べて行くと何か手がかりが得られるのではないか、というものでした。
こう考えた理由として、

(1)今谷明氏は「白毫寺妙智房」を南都の僧とされたが、この人物は「東山白豪院長老妙智房」(『三宝院伝法血脈』)であり、律宗の中でも相当な有力者の可能性が高いこと。
(2)石清水八幡宮寺は正元元年(1259)八月、石清水検校の招請により叡尊が一切経を転読して以降、特に元寇を契機として律宗との関係が強まり、大乗院という律宗の拠点も存在していたこと。
(3)京極為兼の母は西園寺家の家司・三善一族の三善雅衡の娘であり、叡尊が伊勢内宮・外宮に一切経を奉納するに際して尽力した「右馬権頭為衡入道観證」と親族関係にあって、為兼自身も律宗との相当な人脈を持っていた可能性が考えられること。
(4)京都の「白毫院は金沢貞顕を檀那とする律院」(福島金治氏)だったこと。
(5)金沢貞顕の父・顕時(1248-1301)は永仁六年(1298)四月一日に四番引付頭人を辞していて(『鎌倉年代記』)、これは同年正月に逮捕された京極為兼が三月に佐渡に流された直後であり、仮に白毫寺と金沢北条氏の関係が顕時の代に遡るのであれば、顕時も京極為兼に連座して実質的に責任を問われた可能性が考えられること。

といった事情があったのですが、白毫寺(白毫院)と金沢顕時との関係を裏付ける史料はなさそうなので、(5)は考えすぎだったかなと思っています。
それと、従来は東山太子堂・速成就院・白毫寺(白毫院)は同一寺院の異なる名前と考えられていたのですが、どうも速成就院と白毫寺は別の寺院の可能性が高そうです。
この点、法政大学准教授・大塚紀弘氏は山形大学名誉教授・松尾剛次氏の『鎌倉新仏教論と叡尊教団』(法蔵館、2019)の書評(『史学雑誌』129巻6号、2020)において、
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)


7518鈴木小太郎 :2022/06/15(水) 12:19:47
小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その15)
5月29日に、

小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その14)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/58fe1a0e555b518966af5e016849f79b

を投稿して以降、「白毫寺妙智房」を検討してきましたが、小川論文に戻ります。
「五 佐渡配流事件の再検討」は(その14)で紹介した箇所の後に若干の記述がありますが、省略して第六節に入ります。(p41以下)

-------
 六 鎌倉後期の公家徳政における「口入」の排除

 「事書案」には、「政道巨害及其沙汰者、前々如此関東御意見有之、今度東使沙汰之次第超過先規、已及流刑」とあり、伏見院自らが、朝廷の失政が取沙汰される時は前々から幕府の「御意見」があるもの、と認めている。つまり幕府による廷臣の処罰は、流罪は過酷であるにしても、起こり得る事態であったのである。幕府がこのような権利を有するに至ったのは承久の乱以後のことであるが、皇位継承の度に幕府が治天の君を推戴する実績が重ねられる中で生じてきた思考であろう。
【中略】
 それにしても幕府は持明院統の治世に対して、厳しい注文を付けることが多かったように思う。後嵯峨院に仕えた評定衆・伝奏は亀山院政・後宇多院政でも重用され、大覚寺統はその多士済々の遺産をそっくり受け継いだのに対して、雌伏の期間が長かった後深草院・伏見院の下には政務の実務に堪える人材が少なかった。また持明院統の治世においては公卿の官位昇進が総じて速やかで、また公卿そのものの員数も急増することが指摘されている。これは政権基盤の脆弱な持明院統の露骨な人気取り政策であり、任官政策の放漫さと受け取られた。
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)


7519鈴木小太郎 :2022/06/16(木) 11:20:01
小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その16)
小川論文で非常に気になるのは、まるで幕府が客観的・中立的立場から朝廷に正しい「政道」を期待したにもかかわらず、持明院統は人材不足・能力不足から幕府の期待に応えられなかった、という書き方になっている点です。
しかし、もちろん幕府も一枚岩でなく、その首脳部を構成する人々の考え方も様々であり、かつ時期によって首脳部の構成自体が変動しています。
弘安八年(1285)の霜月騒動で安達泰盛派を潰滅させた平頼綱が、その八年後の正応六年(永仁元、1293)、成長した北条貞時に亡ぼされるなど、幕府側も朝廷以上の激動の時期ですね。
そして本郷和人氏の『中世朝廷訴訟の研究』によれば、

-------
 亀山院政は弘安八(一二八五)年十一月十三日に、二十条の制符を発する。文書審理の徹底、謀書棄捐、越訴の文殿への出訴の規定、訴陳の日数制限など手続法に属する項目と、別相伝の禁止、後嵯峨上皇の裁定の不易化、年紀法の制定など実体法に属する項目とからなるこの制符は、朝廷におけるはじめての本格的な訴訟立法ということができるだろう。整備された機構を備え、訴訟の法を内外に示した亀山院政のもとで、朝廷の訴訟制は一応の完成期を迎えることになる。
【中略】
 朝廷で右の訴訟立法が行なわれるおよそ一年前の弘安七(一二八四)年八月、幕府は「手続法の集大成」と高く評価される追加法を発布した。この時期、安達泰盛の主導のもとで、幕府の訴訟制はその最盛期を迎えようとしていた。
 京都と鎌倉の動向が関連をもっていることにはこれまでも何度か言及しているが、近年の網野善彦氏、笠松宏至氏の業績によるならば、この時もまた幕府と朝廷とは「東西呼応して」徳政を推し進めていた。幕府と朝廷とで相前後して重要な制法が発せられたことは、それを象徴している。
-------

とのことですが(p141以下)、しかし、「弘安八(一二八五)年制符が発せられたわずか四日の後、霜月騒動によって泰盛派は滅亡」(p142)してしまいます。
すると安達泰盛の期待に応えて徳政を推進した亀山院の立場も微妙となり、二年後の「弘安十(一二八七)年十月十二日、東使佐々木宗綱によって理由もなく東宮の践祚が要求され、亀山院政は突如として終わりを告げる」(同)ことになります。
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)


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