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もりたの在る。追究スレ

1もりた:2015/10/20(火) 00:10:03 ID:e1/n9SF2O


閲覧ありがとうございます。

引き寄せのメカニズム分かったかも!というスレを立てた、もりたです。

そのスレの中で、「在る。」と「在り方。」について、俺なりに仕組みを書いてきたのですが、最終的に在り方。の話ばかりをしてしまって、在る。の話をほとんどしていませんでした。

在り方。の話を、引き寄せのメカニズム分かったかも!2に委ねるとして、こちらのスレでは、在る。を集中的に取り上げて話したいと思います。

宜しくお願いします。

324200:2015/11/09(月) 23:02:37 ID:QPZ/rhhA0
流れを切ってメンドクセーこと書くから、スルーしてもらって全然構わない。

俺の理解をまとめていく。
①まず、始めに「大きな意図」がある。
この「大きな意図」とは、太陽を燃やしている意図であり、地球を自転・公転させる意図であり、川の水を上流から下流へと流す意図であり、生命を進化させてきた意図であり、俺達の心臓を動かしたりする、総括的な「大きな意図」である。

②それに対して、俺達には「自我の意図」がある。
この「自我の意図」は「願望」として認識される。
また同時に「現状への不満」としても認識される。

さて、ここでもりたさんは2つの道を示した。「在り方」と「在る」だね。

まず在り方。
これについて、もりたさんは「思考による意図の変更」と表現したね?
これは、俺的には「自我の意図を大きな意図に組み込む」ということになる。自我の意図が自我の意図のままならば、それはいつまでも願望を願望のまま保持していることになり、「ずっと願い続ける」という立場に立ち続けるということだ。あるいは現状への不満足を不満足のまま固定させ、そこから不満足な経験を受け取り、さらに不満感を募らせる。
この板で言われるループとは、まさにこのことだろう。
「ずっと願っているのに、色々やってるのに、叶わない」「現状をみるとヘコむ」という不満感、不足感としての認識される。

ここで、もりたさんの言う「在り方」の登場だ。
自我の意図を大きな意図に組み込む。自我の意図から、「意図」だけを抜き出し、自分という「存在」に組み込む。このとき意図は現状から切り離されている。
現状とは全く無関係の「意図する存在」になる。(呪いとは、現状とは無関係の「呪われた存在」になるということ。呪われているわけだから、もはや自我ではどうすることもできない。意図(願望)は自我の元を離れている)

そして「存在」には当然、大きな意図が流れているわけだから、その存在性に気づいていくことで、大きな意図に組み込まれた願望を、現実に経験できることになる。
「決定したら、それで終わり。後は何もしない」ってのも、決定したらもう既にそれは、自我の意図ではなくなっていることを意味してる。自我にはその願望に対してできることが無くなっている。
大きな意図に組み込まれた意図(願望)は、俺たちが水を飲むように、飯を食うように、呼吸するように、自然の流れで経験できる、という具合だ。

ところが在り方には、自我の反発がある。
「現状こうである」という確信度と、「叶わないかも」という難易度が高ければ高いほど、その反発は大きいものになる。

自我との付き合い方がポイントになりそうだ。
そう考えていくと、もりたさんの提案するメソッドの数々がとても面白く読める。

これが俺の在り方に対する理解だ。

続ける。

325200:2015/11/09(月) 23:04:54 ID:QPZ/rhhA0
続き。

次に、在る。
在るにおいては、自我の意図は必要ない。
自我の影響を少なくしていく方向性になる。

もりた式理論では、自我を経験・情報・感情に分けてそれぞれを意識の力で手放していくというプロセスが紹介されている。
意識の力で、つまり集中して離れるという手順で、自我の核心部に迫っていく、というものだね。

自我の影響が減っていくと、元々俺達に流れている「大きな意図」が姿を表す。前述したように大きな意図とは俺達の臓器を動かしたり、生命活動を維持させる意図。この意図のお陰で、俺達がどんなにしにたいって考えていてもしなずに心臓を鼓動させ血液を循環させることができる。

この大きな意図にコミットすることが「在る」だと、俺は考えている。
この在る(大きな意図)は拡張と収縮という性質を持っている、と説明してたね。輪になっていると。
これには充分納得がいった。
そしてその本質は喜びである、と。
しかし、在る、神、宇宙、別の領域、大きな意図等々、
というようなものを概念的に自我的にとらえようとするのは、本来の無限の可能性を閉じてしまうような気もする。ただ、無限の創造性という意味においては喜びという表現でもいいのかな。
俺も大きな意図なんて簡単に書いてるけど、あくまで便宜的にそう書いてるだけだからね。名前なんて付けられるようなものでもないのかな、と思ってる。
本当は大きな意図などでもなく、ひとつの意識にすぎないのかもしれないし、その意識こそが本当の自分なのかもしれないし、まぁその辺はかなりフワフワした話だから置いておこう。

だから、俺なりに端的に表現するならば、
今を生きろ。自然であれ。“それ”とつながれ。
ということでいいかな?

「そしたら、自我なんて邪魔なだけじゃん」と思えてもくるが、そうではない。自我がなければ、ここが宇宙であることすら分からないんだから。宇宙だって知りたいんだよ、自分のことを。

自我というのは自分の内と外の境界の所にいるのかもしれない。だから、苦しくて仕方がない時というのは、その境界がくっきりとしてくる。内と外の間の壁が分厚くなって、自分が世界から切り離されているような孤独感を感じてしまう。そして必死になったり、焦ったり、慌てたりしてしまうんだろ。それはそれで愛おしくもなってくる。自我は自我で一生懸命やってるんだから。

誰の言葉か忘れたけど、俺には忘れられない言葉がある。
「僕にできるのは、僕が生きること」
何かに詰まったときは、この言葉をいつも思い出す。
そこがスタートであり、ゴールだとも思うから。

と、まあ屁理屈並べてみた。
このスレの流れに明らかに逆行しているように見えるけど、そうでもない。
車の教習所でも実地と学科があるだろ?
ここのみんなは実地講習してて、俺は学科講習してるようなもんで、車に乗って好きなところへドライブという目的は同じだ。
車の運転そのものは実地だけやってればできる。
でも、学科が不充分なまま公道走るのも結構危なかったりするからね。標識が分からなかったり。

俺も実地は実地でやってるよ。実地面でも疑問があるけどね。それはまた今度にしとくわ。

では、長文連投失礼。


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