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もりたの在る。追究スレ

325200:2015/11/09(月) 23:04:54 ID:QPZ/rhhA0
続き。

次に、在る。
在るにおいては、自我の意図は必要ない。
自我の影響を少なくしていく方向性になる。

もりた式理論では、自我を経験・情報・感情に分けてそれぞれを意識の力で手放していくというプロセスが紹介されている。
意識の力で、つまり集中して離れるという手順で、自我の核心部に迫っていく、というものだね。

自我の影響が減っていくと、元々俺達に流れている「大きな意図」が姿を表す。前述したように大きな意図とは俺達の臓器を動かしたり、生命活動を維持させる意図。この意図のお陰で、俺達がどんなにしにたいって考えていてもしなずに心臓を鼓動させ血液を循環させることができる。

この大きな意図にコミットすることが「在る」だと、俺は考えている。
この在る(大きな意図)は拡張と収縮という性質を持っている、と説明してたね。輪になっていると。
これには充分納得がいった。
そしてその本質は喜びである、と。
しかし、在る、神、宇宙、別の領域、大きな意図等々、
というようなものを概念的に自我的にとらえようとするのは、本来の無限の可能性を閉じてしまうような気もする。ただ、無限の創造性という意味においては喜びという表現でもいいのかな。
俺も大きな意図なんて簡単に書いてるけど、あくまで便宜的にそう書いてるだけだからね。名前なんて付けられるようなものでもないのかな、と思ってる。
本当は大きな意図などでもなく、ひとつの意識にすぎないのかもしれないし、その意識こそが本当の自分なのかもしれないし、まぁその辺はかなりフワフワした話だから置いておこう。

だから、俺なりに端的に表現するならば、
今を生きろ。自然であれ。“それ”とつながれ。
ということでいいかな?

「そしたら、自我なんて邪魔なだけじゃん」と思えてもくるが、そうではない。自我がなければ、ここが宇宙であることすら分からないんだから。宇宙だって知りたいんだよ、自分のことを。

自我というのは自分の内と外の境界の所にいるのかもしれない。だから、苦しくて仕方がない時というのは、その境界がくっきりとしてくる。内と外の間の壁が分厚くなって、自分が世界から切り離されているような孤独感を感じてしまう。そして必死になったり、焦ったり、慌てたりしてしまうんだろ。それはそれで愛おしくもなってくる。自我は自我で一生懸命やってるんだから。

誰の言葉か忘れたけど、俺には忘れられない言葉がある。
「僕にできるのは、僕が生きること」
何かに詰まったときは、この言葉をいつも思い出す。
そこがスタートであり、ゴールだとも思うから。

と、まあ屁理屈並べてみた。
このスレの流れに明らかに逆行しているように見えるけど、そうでもない。
車の教習所でも実地と学科があるだろ?
ここのみんなは実地講習してて、俺は学科講習してるようなもんで、車に乗って好きなところへドライブという目的は同じだ。
車の運転そのものは実地だけやってればできる。
でも、学科が不充分なまま公道走るのも結構危なかったりするからね。標識が分からなかったり。

俺も実地は実地でやってるよ。実地面でも疑問があるけどね。それはまた今度にしとくわ。

では、長文連投失礼。


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