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【判例】法律問題を議論するスレ【学説】

1名無しさん@中島ゼミ:2008/08/05(火) 21:31:23
ここでは、学問的な議論をしましょう。

ニュースは、こちら:http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/8410/1206023103/
雑談は、こちら:http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/8410/1173838639/
独り言は、こちら:http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/8410/1173969026/

7よしはら ◆7lqX359TUk:2008/08/05(火) 22:04:44
7. 24条1項と2項を別個に規定する意義―近代的正義の具体化としての1項、解釈に開かれた2項

 とはいうものの、24条2項は現代主義のみならず近代立憲主義をも包含する。個人の尊厳原理は、近代立憲主義と現代主義との双方を内在させていると考えるべきだからである。そうであるとすれば、立法者はわざわざ24条1項など設けず、2項に一本化することもできたのではないか。これについては、ベアテ・シロタ・ゴードンにより本条の草案が作成され、その後運営委員会によりベアテ草案の条項が大幅に削除されたという、複雑な経緯を踏まえる必要がある(ベアテ・シロタ・ゴードン(平岡磨紀子 構成・文)『1945年のクリスマス――日本国憲法に「男女平等」を書いた女性の自伝』(柏書房、1995年)参照)。それによれば24条は、戦後日本の家族法を制定するに当たって、指針の総論を示したもののようである。
 これもあわせ考えると、次のように整理することができよう。すなわち、24条はまず1項において、その時点で近代立憲主義の到達点として考えられた、形式的自由・平等が達成されなければならないことを具体的に示した。これにより、戦後日本の家族法が、とりもなおさず従わなければならない原則が明らかにされた。しかし社会状況の変化などにより、新たに個人の尊厳・両性の本質的平等の内容として認識されるに至る理念・規範も、あるはずである。家族法も、社会状況の変化などにより、自由・平等を十分実現できていないと認識されるようになる可能性がある。したがって、日本国憲法制定の時点で明らかになっていない、新時代の自由・平等については、2項で個人の尊厳と両性の本質的平等という原理を抽象的に定めることによって、後世の人々の解釈に委ねた。こう考えられるのである。戦後の家族法改正時に家族法の中に実定化することができなかった、新時代の自由・平等としては、具体的には、婚外子差別の撤廃・夫婦別姓の実現などが挙げられよう(なお、ゴードン自身は、日本国憲法起草時に、婚外子差別の撤廃を企図していた。ゴードン・同上参照)。

8よしはら ◆7lqX359TUk:2008/08/05(火) 22:05:20
8. 24条2項を13条・14条とは別個に設ける意義―家庭内の構造的不平等・暴力

 しかし以上のように考えてくると、24条1項は戦後家族法制定の指針を定めるために必要であるとしても、なぜ2項が必要なのか疑問視されるようになる。というのも、2項は家族における実質的自由・平等を規定したものであるが、これは当然に13条と14条によってカヴァーされるところだからである。なぜ家族関係に限って、24条2項で特に確認的に規定する必要があったのか。それとも24条2項には、13条と14条という別個の条項で自由と平等を規定する以上に、同一の条項で自由と平等をあわせ規定すべき、特別の意味があるのか。実は、そう考えることができるのである。

 13条により保障される人格的自律権あるいはプライヴァシー権により、親密な人的結合が保護されることとなる。親密な「空間」を保護するのか、「関係」を保護するのかという難問はあるが、ここでは立ち入らない。少なくとも、成人男女が婚姻関係に入ると、その家庭内には公権力は原則として介入できない、つまり「法は家庭に入らず」というのが、古典的な法格言である。13条は、婚姻関係を公権力から不可視のものとする。
 そして家族関係においては、自然的な結合関係ゆえに、あるいは自由な意思による対等な結合関係のために、不平等関係・暴力は介在しないものと考えられてきた。精確には、不平等関係・暴力についても、13条に基づき、婚姻関係の一環として不可視のものとされた。
 ところが周知のように、第二波フェミニズムにより、家族内のドメスティック・ヴァイオレンス(DV)の存在が告発される。つまり、家族内にも構造的不平等、端的には暴力が介在することが認識されるに至るのである。

 これで、24条2項の独自の意義が明らかとなった。すなわち、13条(=24条2項)の個人の尊厳・自律的選択によって保護される空間のうち、家族関係は、特に公権力により不可視のものとされてきたために、構造的不平等が隠蔽されやすい。そのような私的な関係ないし空間にも、平等の理念が貫徹されなければならない。そのため24条2項において、家族内についてことさらに、個人の尊厳・自律的選択の保護のみならず、平等もあわせて定める必要があったのである。ここでいう家族内の平等とは、構造的不平等の打破であり、したがって基本的には、形式的平等ではなく実質的自由・平等に属する理念であろう。少なくとも現在にあっては、このように24条2項に特別の意義を認めることができる。

9よしはら ◆7lqX359TUk:2008/08/05(火) 22:05:54
9. 私見の判例との整合性

 24条1項2項区分論は、判例の立場にも整合的である。もっとも、最高裁が24条について言及することは、きわめて少ない。最高裁が24条の性格について、ある程度まとまった説示を行っているのは、最大判昭和36年9月6日民集15巻8号2047頁がほぼ唯一のものといってよい。以下、この判決から主要部分を抜粋する。

「上告人の上告理由について。
 所論は、民法七六二条一項は、憲法二四条に違反するものであると主張し、これを理由として、原審において、右民法の条項が憲法二四条に違反するものとは認められず、ひいて右民法の規定を前提として、所得ある者に所得税を課することとした所得税法もまた違憲ではないとした原判決の判示を非難するのである。
 そこで、先ず憲法二四条の法意を考えてみるに、同条は、「婚姻は……夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。」、「配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。」と規定しているが、それは、民主主義の基本原理である個人の尊厳と両性の本質的平等の原則を婚姻および家族の関係について定めたものであり、男女両性は本質的に平等であるから、夫と妻との間に、夫たり妻たるの故をもつて権利の享有に不平等な扱いをすることを禁じたものであつて、結局、継続的な夫婦関係を全体として観察した上で、婚姻関係における夫と妻とが実質上同等の権利を享有することを期待した趣旨の規定と解すべく、個々具体の法律関係において、常に必らず同一の権利を有すべきものであるというまでの要請を包含するものではないと解するを相当とする。
 次に、民法七六二条一項の規定をみると、夫婦の一方が婚姻中自己の名で得た財産はその特有財産とすると定められ、この規定は夫と妻の双方に平等に適用されるものであるばかりでなく、所論のいうように夫婦は一心同体であり一の協力体であつて、配偶者の一方の財産取得に対しては他方が常に協力、寄与するものであるとしても、民法には、別に財産分与請求権、相続権ないし扶養請求権等の権利が規定されており、右夫婦相互の協力、寄与に対しては、これらの権利を行使することにより、結局において夫婦間に実質上の不平等が生じないよう立法上の配慮がなされているということができる。しからば、民法七六二条一項の規定は、前記のような憲法二四条の法意に照らし、憲法の右条項に違反するものということができない。
 それ故、本件に適用された所得税法が、生計を一にする夫婦の所得の計算について、民法七六二条一項によるいわゆる別産主義に依拠しているものであるとしても、同条項が憲法二四条に違反するものといえないことは、前記のとおりであるから、所得税法もまた違憲ということはできない」。

 本判決は、24条のうち1項と2項を区分してはいない。しかし一読して分かるように、本判決は、24条の本質の一つとして実質的平等の要請を挙げている。そこでは24条は、「結局、継続的な夫婦関係を全体として観察した上で、婚姻関係における夫と妻とが実質上同等の権利を享有することを期待した趣旨の規定と解すべく、個々具体の法律関係において、常に必らず同一の権利を有すべきものであるというまでの要請を包含するものではない」。「民法には、別に財産分与請求権、相続権ないし扶養請求権等の権利が規定されており、右夫婦相互の協力、寄与に対しては、これらの権利を行使することにより、結局において夫婦間に実質上の不平等が生じないよう立法上の配慮がなされているということができる。しからば、民法七六二条一項の規定は、前記のような憲法二四条の法意に照らし、憲法の右条項に違反するものということができない」とされる。

 先述のように、家族内の実質的平等の達成として、アンペイド・ワークの処理が問題となりうる。本判決は、アンペイド・ワークに関する現行法制が、24条の保障する夫婦間の(実質的)平等に反しないと判示している。その論理はどのようなものかといえば、24条は夫婦間の権利の形式的平等を定めているが、同時にこの形式的平等は、実質的平等が達成される限りにおいて制約されうる、ということである。判例の論理は、24条内部に、形式的平等と実質的平等の並存、したがってその矛盾・衝突の契機を認める私見と、軌を一にするものといえるのである。

10よしはら ◆7lqX359TUk:2008/08/05(火) 22:06:35
10. おわりに

 以上、24条1項が近代的正義の理念を体現し、他方2項が、それを超越する現代的正義の理念を内在させていることを見てきた。

 では、24条1項2項区分論からの具体的事案の処理について、一例を提示しておこう。
 同性婚については、近代的自由・平等の理念を定めた24条1項によっては保護されないといわざるをえない。それは、「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立」するという文言からも明らかである。しかし同性婚は、2項によって保護される、と考えるべきである。
 たしかに1項の、両性の合意「のみ」という文言をとらえて、日本国憲法上同性婚は許されないと考えることも、不可能ではない。だが、仮に1項によって同性婚は許容されないとしても、2項によって、社会状況の変化などに応じて、1項の近代的理念の制約、場合によっては排除が可能である。よって、同性婚は2項によって、1項による禁止があるとしてもそれを排除して、保護されることとなる。
 もっとも、24条1項制定の眼目が「家」制度の解体にあったことを思えば、同項が同性婚を積極的に排除する趣旨とは考えがたく、いずれにしろ同性婚は2項による保護を受けることとなろう。

11よしはら ◆7lqX359TUk:2008/08/05(火) 22:09:48
私が考えていたことは以上です。
文章は書き込み番号3から始まっています。
スレッド下部の「ALL」のリンクをクリックし、スレッドの全文を表示すると、続けて読むことができ、便利です。

12名無しさん@中島ゼミ:2008/08/09(土) 10:13:49
ここで言う「形式的平等」ってどういう意味ですか?

13よしはら ◆7lqX359TUk:2008/08/09(土) 16:27:36
>>12

個人の差異を捨象し、すべて個人を均等に扱う、という意味で使っています。
一般に憲法学説でいわれるところの、「形式的平等」と同じ意味です。
3. で辻村先生の『ジェンダーと法』から引用していますが、そこで言及されている「形式的平等」と同じ意味のつもりです。

14名無しさん@中島ゼミ:2008/08/09(土) 20:54:05
ありがとうございます。
形式的平等と実質的平等の関係をどう整理されているのかな、
ということが気になったもので。
たとえば、例に出されているアンペイドワークをめぐって、
どのような場面で「形式的平等」が問題となるのか、ということです。

それと関連しますが、
憲法第14条はその文言に、どこにも「実質的」などの言葉が
用いられていないにもかかわらず、そこにいう「平等」は
実質的平等のことである、と解するのが通説的見解だろうと思います。

にもかかわらず、第24条1項が保障するのはあくまで「形式的平等」
のみである、解されています。
そこで、第1項が保障するのは「形式的平等」のみである、
と解さなければならない理由は何なのでしょうか。第14条とは
異なる解釈が要請されているのでしょうか。

第14条第1項
すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分
又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
(All of the people are equal under the law and there shall be
no discrimination in political, economic or social relations
because of race, creed, sex, social status or family origin.)


第24条第1項
婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有する
ことを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
(Marriage shall be based only on the mutual consent of both
sexes and it shall be maintained through mutual cooperation
with the equal rights of husband and wife as a basis.)

15よしはら ◆7lqX359TUk:2008/08/09(土) 22:31:27
>>14

まず、アンペイドワークについてです。

アンペイドワークについて形式的平等を貫くひとつのやり方が、明白に金銭の授受の形で得られる賃金・所得のみが、彼または彼女の所得であるとする方法です。
そうすると、夫または妻が企業などで稼いだ賃金は、そのまま彼または彼女の所得となります。
しかし実際の日本社会では、夫婦のうち夫が企業などで労働し、妻が家事労働する場合が、かなり多いです。
したがって、夫は多くの所得を得、妻はほとんどまったく所得を得られないこととなります。
このため、民法762条1項に従う限り、夫が自己の名で得た財産、つまり企業などから得られる賃金は、夫の特有財産となります。

他方、妻が企業などで労働し、夫が家事労働を負担する場合もあります。
この場合を考えれば、民法762条1項は男女について反転可能な、形式的な平等は保障しています。
夫も妻も企業で労働すれば、二人とも十分な所得を得られることも、形式的な平等には反しないことの論拠となるでしょう。

しかし、実際の日本社会においては、夫と妻の一方が企業などで労働する場合、もう片方は家事労働を負担せざるを得ないことが多いです。
後者については、仮に企業で労働したとしても、家事労働の負担分、賃金は減少することになります。
そして現在の日本社会においては、企業労働するのは夫、家事労働するのは妻であることがかなり多いです。

ですが、夫の企業労働は、妻の家事労働に支えられて初めて成立することが多いです。
にもかかわらず、夫と妻の収入について形式的に判断し、夫の収入が妻の収入よりもかなり多いことになれば、妻の努力が不当に捨象され、所得額について実質的な平等が害されることとなります。
ここで、私が実質的平等が害されると述べるとき、形式的な平等において不当にも捨象されているのは、
①現在の日本において、夫婦の一方が企業労働をする場合、他方が家事労働を負担しなければならないことが多いこと
②①の企業労働を担うのは夫、家事労働を担うのは妻であることが多いこと
です。
そのうえで、①②という現実の差異の顧慮が、実質的平等から要請される、ということです。

民法762条1項のもとでは、①②の事情が不当にも捨象され、夫と妻の所得が形式的に、金銭授受の形でなされるもののみを基準に、判断されてしまう可能性があります。
①②の事情は、所得に関するジェンダー構造と言ってもよく、そのような社会状況を適切に調整していくのが、判例の言う「財産分与請求権、相続権ないし扶養請求権等の権利」です。

ただし、形式的平等を貫こうとすると常に、アンペイド・ワークの等閑視を招く、というわけではありません。
アンペイド・ワークの等閑視の基礎に、形式的平等の理念がある、というだけです。
したがって、アンペイド・ワークの金銭的評価は、形式的平等の枠組みの中でも、不可能ではないでしょう。
しかしアンペイド・ワークの等閑視がなされる場合、その背景にあるのは、上記①②という現実の差異の捨象、つまり形式的平等であると言えるでしょう。

16よしはら ◆7lqX359TUk:2008/08/09(土) 22:48:49
>>14

4. で述べたように、24条1項の「同等の権利」という文言の中に、実質的平等を読み込むことも、不可能ではありません。
しかしそのような解釈には、抽象的な定め方がなされているために実質的平等を読み込むのに壁がない14条1項とは異なり、文言上の壁があります。

14条1項および24条2項の規定については、抽象的なものであるために、そこに実質的平等の趣旨を読み込むのに、さほど支障はありません。
一方24条1項については、「夫婦が同等の権利を有する」という定め方がされています。
私の立論に対し、「同等」と「平等」は、表現にさほど違いはないではないか、24条1項も夫婦の「同等」性≒「平等」を定めたものといえるではないか、という批判がありうるでしょう。
しかし24条1項は文言上、夫婦の「同等」性を定めたものではなく、「同等の権利」の享有を規定しています。
二者が「同等」のものをもつ、と言われる場合、そこでは二者がそれぞれに、同種・同量・同価値のものをもつことが想定されている、と言えるでしょう。
二者のうち一方から、一部をとりあげて、他方の手に乗っける、という所作は、「同等」のものをもつ、という文言からは、かなり不自然です。
このような、「同等」という語の用法に照らすと、24条1項では、夫婦が形式的・数量的に同種・同量・同価値の権利をもつことが規定されている、と考えるのが自然です。

17よしはら ◆7lqX359TUk:2009/03/19(木) 02:29:15
何年も前のことになりますが、イラク人質事件などを契機として、自己決定=自己責任論、とりわけ自己責任を強調する論調が、興隆しました。
人権(論)は、自己決定=自己責任論(以下、単に「自己責任論」といいます)の桎梏から自由でなければ、人権(論)たりえない。
漠然と、そのように感じてはきました。
けれども、自己責任論への感情的反発以上には、頭のなかが整理できていませんでした。
しかしここに、「不利益を伴う人権の行使は、人権の行使とはいえない」という、一般に承認されている発想を、媒介項として挟み込むと、スムーズに説明できることに、思い当たりました。
非常に稚拙で、レヴェルが低いのですが、以下のように考えると、頭のなかが整理しやすいと思いますので、ご紹介します。


たとえば、表現の自由の侵害について、考えてみます
(なお、以下に挙げる表現の自由の侵害は、必ずしも、表現の自由に対する不当な侵害であり違憲である、というわけではありません。
少なくとも、表現の自由の制約には該当する、という趣旨です)。

国政を批判する集会を開いたところ、警察官がそれを察知し、講演者の身体を拘束し、講演者の口を物理的に塞げば、それは当然、表現の自由の侵害です。
しかし、表現の自由の侵害態様は、そのような直接的・物理的なものに限られるわけではありません。
ある人が、国政を批判する集会で講演を行い、講演を終えたあとに、待ち構えていた警察官に、講演を理由に逮捕されれば、それも表現の自由の侵害です。
公務員が、国政を批判する集会で講演を行ったことを理由として、懲戒処分を受けることも、表現の自由の侵害といえます。

上述の例でも、講演者の口は塞がれていない。
したがって、物理的に表現活動は可能である。
よって、講演者の表現の自由は侵害されていない。
そのような論法は、成り立ちません。

表現活動を行ったことを理由として不利益を課されたのでは、真に自由に表現活動を行ったとはいえません。
いい換えれば、表現の自由の行使に不利益が伴ったのでは、真に、表現の自由が保障されているとはいえません。

これは、他の人権についても同様のことがいえます。
すなわち、人権の行使に不利益が伴ってしまっては、人権が保障されたとはいえないのです。


自己責任論は、自己決定すなわち人権の行使には、常に自己責任がつきまとう(つきまとわねばならない)という主張です。
自己責任は、不利益の引受け、といい換えることができます。

つまり自己責任論は、人権の行使に不利益を付随させよう、不利益付与という制約を課そう、という主張であるといえます。
しかし、人権の行使に不利益が付随したのでは、真の人権保障がなされたとはいえない、ということは、上で見たとおりです。
ゆえに、人権(論)と自己責任論とは、相容れないものなのです。
したがって、人権(論)と自己責任論を無反省に接合する論調は、不当といわなければなりません。

18名無しさん@中島ゼミ:2009/03/19(木) 03:31:06
つまり、株を買って値下がりしたら、
政府が損失を補填してあげなきゃいけないってことですか?
さもないと、経済的自由が保障されていない、と?
株の取引は自己責任だと思うんですがね。

19名無しさん@中島ゼミ:2009/03/19(木) 10:39:46
株の損失はともかく、<人権論と自己責任論の無反省な接合はよろしくない>という場合に、これまでの憲法学が人権論と自己責任論を必ずしも無反省に接合してきたというわけではないように思われるのですが。

挙げられた例は、勿論<表現の自由の制約>であると思われますが、ではそれでは、例えば<表現の自由と人格権>の見出しで要約される問題群については、どう考えるのでしょうか。

20よしはら ◆7lqX359TUk:2009/03/19(木) 12:10:56
>>18

株を買って値下がりする、という場合、不利益は公権力によって与えられているわけではありません。
株の値下がりという不利益は、私人によって与えられています。
人権は対国家的なもの、というのが大前提です。

私が上で挙げた例では、個人に不利益を与える主体は、警察官など、すべて公権力です。
人権が対国家的なものである以上、個人の人権の行使によって不利益を与えることが許されない主体は、まずもって公権力です。

人権の私人間効力論において、直接効力説をとるのは自由ですが、それだと、私の議論とはそもそもの前提が異なります。


>>19

>>「これまでの憲法学が人権論と自己責任論を必ずしも無反省に接合してきたというわけではないように思われるのですが」

そのとおりです。
イラク人質事件の際、憲法学は、自己責任論を主張しましたか?
そうではなかったでしょう。
私が批判するのは、イラク人質事件において、自己責任論を主唱した一部メディアの言説に対してです。

>>「例えば<表現の自由と人格権>の見出しで要約される問題群」

<表現の自由と人格権>の議論が、自己責任論とどのような関係に立つのか、私には理解できません。
人権と人権の衝突を、なぜここでもち出すのですか?
人権と人権が衝突した場合、少なくとも一方の人権が制約を受けるのは、公共の福祉の一元的内在制約説によって、すでに認められているところです。
このことは、私の人権(論)と自己責任論の峻別論と、まったく矛盾しません。
仮に表現の自由が、他者の人格権によって制約を受けるとしても、その「不利益」は、表現の自由の行使「を理由として」「公権力によって」与えられるものではありません。
そもそも従来の憲法学は、公共の福祉による人権の制約を、人権の行使を理由とした「不利益」などとはいってきていません。

21名無しさん@中島ゼミ:2009/03/19(木) 12:57:57
ならば、とりたてて新しいことを主張なされたというのではないのですね。

22よしはら ◆7lqX359TUk:2009/03/19(木) 15:11:50
>>21

「これまでの憲法学が人権論と自己責任論を必ずしも無反省に接合してきたというわけではない」(書き込み番号19と、私が主張する内容)
ということから、
「人権論と自己責任論に関するかぎり、これまでの憲法学の主張内容と私の主張内容は、大して変わらない」(あなたの、書き込み番号21の主張)
すなわち
「これまでの憲法学は、(私の書き込み番号17の書き込みとほぼ同様に)人権論と自己責任論を厳格に分離すべきである、と自覚的に主張してきた」
ことを導けますか?
導けないはずです。

管見のかぎりでは、これまでの憲法学において、人権論と自己責任論の厳格な分離を自覚的に説く見解は、あまり見られません。
憲法学以外に目を転じれば、瀧川裕英先生が、イラク人質事件に際して、自己決定と自己責任の分離論を展開されていますが。

23名無しさん@中島ゼミ:2009/03/19(木) 16:06:01
「人格的自律」やら「強い個人」はどう考えるのですか??

24名無しさん@中島ゼミ:2009/03/19(木) 17:05:10
>>20
イラク人質事件も、別に、日本政府が人質に取ったわけではなかったはずですが…。
株の場合と同じで、日本政府は放っておいただけでは?

25よしはら ◆7lqX359TUk:2009/03/20(金) 00:30:17
>>23

ご質問の趣旨を明らかにしていただかないと、答えようがありません。
私がとるかどうかはともかく、「人格的自律」や「強い個人」と、人権(論)と自己責任論の峻別論は、矛盾しないはずです。
私が上で述べた論理は、一定の人間像を背景とするものではありません。
私の論理のなかに、一定の人間像の措定があるとお考えならば、私の主張のうちどの部分が、どのような人間像を前提としているのか、指摘してください。

26よしはら ◆7lqX359TUk:2009/03/20(金) 00:41:33
>>24

株の取引をここでもち出すことが不当であることについては、書き込み番号20で述べました。

>>「日本政府は放っておいただけ」

たしかに、人権のなかでも消極的自由権をまずもって重視する見解からは、「日本政府がほうっておいた」行為は、人権に適いこそすれ、人権行使を理由とする不利益付与とは、見えないかもしれません。
ここで、日本政府の人質放置行為を問題とするためには、人権に関する一定の視座転換が必要となります。
このため私の見解は、イラク人質事件に関するかぎり、完全に伝統的な枠組み(樋口陽一先生の「近代立憲主義」など)に沿うわけではなく、そこから一歩脱却し、学界の比較的新しい潮流に乗ったものでした。

イラク人質事件で問題となったのは、国家からの自由=消極的自由権ではありませんでした。
人質にとって必要なのは、日本政府による保護、すなわち日本政府の作為でした。

日本国民が、他の日本国民から、生命を侵害されようとしているときに、日本政府は、前者を放っておいてよいでしょうか。
人権が、まずもって国家からの自由であるとすれば、国家はこのような事態に介入せず、放置することが、まさしく人権の理念に適う、ということになってしまいそうです。
けれども、生命権という人権を侵害されそうになっている日本国民がいれば、日本政府は、彼または彼女の生命権を保護するために、積極的に作為・介入しなければならない。
このような要請を導くのが、「基本権保護義務論」です。
その骨子は、国家は国民の人権を守るために、積極的な作為をしなければならない、という点にあります。

これによると、イラク人質事件では、人質の生命権を保護するために、日本政府は積極的に事件に介入すべきであったことになります。
にもかかわらず、日本政府は基本権保護義務を果たさず、人質を放置した。
この意識的な義務懈怠こそが、日本政府が人質に与えた不利益です。

人質は、憲法によって保障される、移動の自由を享有しています。
したがって本来、人質がどこに移動しようとも、つまりどのような移動の自由を行使しようとも、日本政府は彼らに対して不利益を与えてはなりません。
にもかかわらず、日本政府は、人質が一定の移動の自由行使、すなわち「危険地域」への進入を行ったことを理由として、基本権保護義務の意識的懈怠という不利益を、彼らに課しました。

このように、イラク人質事件では、日本政府は人質に対し、たしかに不利益を意識的に与えているのです。


もとより、このような人権観に立脚するかどうかは、意見の分かれうるところです。
あくまでも人権は消極的なものが第一次的なものだ、と考えるか、基本権保護義務を正面から認めずとも、国家に一定の作為義務を認めるか、それとも基本権保護義務を正面から認めるか。

イラク人質事件に際して、日本政府による人質放置に、異を唱えた憲法研究者がいました。
仮に彼らが、人権論の視座からそのような主張を行ったとすれば、おそらく彼らは、基本権保護義務か、それに類するような、国家の作為義務を認めていたと考えられます。

27よしはら ◆7lqX359TUk:2009/03/20(金) 02:23:46
これまで、議論がすれ違っている印象が否めないので、確認のために申し上げます。

「自己責任論」といっても、「自分の行為の結果は自分で引き受けるべきである」といった命題は、あいまいに過ぎ、憲法学上の吟味に堪えません。

私が人権(論)と自己責任論との峻別を主張する場合に、意図している「自己責任論」とは、あくまでも人権(論)の文脈における自己責任論、人権(論)と関連するかぎりでの自己責任論です。

私が「自己責任」(の結果)としての不利益として、基本的に、「個人の人権の行使を理由として」「国家によって」付加されるもののみを想定しているのも、私があくまでも人権(論)との関連で、自己責任論について検討しているからです。
一般に言われる自己責任論において、「自己が引き受けるべき結果」とされるものとしては、さまざまなものが考えられます。
けれども私は、ここでもやはり、憲法学上の議論として吟味しうるように、「自己が引き受けるべき結果」として、特に、個人が受ける「不利益」を想定しています。

28名無しさん@中島ゼミ:2009/03/20(金) 04:03:03
それって、結論の先取りというか循環論法じゃないですかね。
国家に人質を救う義務があったのにしなかった(基本権擁護義務)、
というのが当然の前提になってるんですよね?

だとすれば、それ以上>>17のような迂遠なことを論ずる必要はなく、
単に基本権擁護義務違反を主張すれば足るのではないですか?
>>17の議論は何のためにあるんですか?

29名無しさん@中島ゼミ:2009/03/20(金) 04:21:04
危険なところに行った結果、命が危険にさらされる。
ハイリスクな株を買った結果、資金が危険にさらされる。

何が違うんですかね?
テロリストによる脅威か、株式市場による脅威か、という差はあっても、
どちらも直接の侵害は「私人」によって行われているという点は
同じでしょう?

やっぱり、重要なのは損なわれようとしている価値の性質に応じて、
個別具体的に検証することなのであって、御説のように十把一絡げに
問題を論じようとするのはやや乱暴な気がします。

30名無しさん@中島ゼミ:2009/03/20(金) 10:50:19
不利益の付随する国家行為は許されない。内在的制約は許される。
人権の制約は自己責任という用語では正当化出来ない。

たしかに、観念的抽象的にはその通りでしょうが、「だからどうなの」以上でも以下でもない気がします。最終的には、物事を決するのは、個別具体的な状況に、結局は依存する気がします。その意味では、おそらく憲法学にとっては、このことはもはや「当然の前提」なのであって、それぞれの状況において、自己責任論なるものが、不利益(不利益でも制約でもなんでもよくて、これも用語の問題に過ぎないでしょう)を正統化可能か否かの判断を、しているだけなのではないでしょうか。

31よしはら ◆7lqX359TUk:2009/03/20(金) 23:50:21
>>28

>>「単に基本権擁護義務違反を主張すれば足る」

基本権保護義務違反を主張すれば、「何に」足りる、すなわちどのような目的が達せられるのでしょうか。
イラク人質事件において基本権保護義務違反を主張すれば、私の主張の骨子である、人権(論)と自己責任論との分離について、一般的に十分論証したことになりますか?
イラク人質事件において基本権保護義務違反を主張しただけでは、同義務違反に至った理由が捨象されてしまいますし、他の場面について、十分検討したことになりません。
個人の人権行使を理由とする国家による不利益付与は、基本権保護義務懈怠だけではありません。
したがって、人権(論)と自己責任論の分離について論証したことになりません。

基本権保護義務の懈怠が、何の前提状況もなしに行われたものであるとすれば、同義務の懈怠を主張すれば、事件の解決にはなるでしょう。
しかし、私が書き込み番号17で問題としたのは、イラク人質事件で日本政府が人質を放置したこと、それ自体ではありません。

一部メディアが展開した自己責任論は、人質は、日本政府が「危険地域」だと指定した地域に「わざわざ」入っていったのだから、日本政府は彼らを助ける必要はない、ということでした。
ここでの自己責任論は、人質の、移動の自由行使という人権行使を理由として、基本権保護義務懈怠という、国家による個人への不利益付与が許される、という論法です。

私が問題としているのは、人権(論)と自己責任論との分離です。
イラク人質事件において人質の主張を認めるために、どのような法律構成を認めるべきか、ということではありません。

32よしはら ◆7lqX359TUk:2009/03/20(金) 23:51:11
>>28

>>「単に基本権擁護義務違反を主張すれば足る」

基本権保護義務違反を主張すれば、「何に」足りる、すなわちどのような目的が達せられるのでしょうか。
イラク人質事件において基本権保護義務違反を主張すれば、私の主張の骨子である、人権(論)と自己責任論との分離について、一般的に十分論証したことになりますか?
イラク人質事件において基本権保護義務違反を主張しただけでは、同義務違反に至った理由が捨象されてしまいますし、他の場面について、十分検討したことになりません。
個人の人権行使を理由とする国家による不利益付与は、基本権保護義務懈怠だけではありません。
したがって、人権(論)と自己責任論の分離について論証したことになりません。

基本権保護義務の懈怠が、何の前提状況もなしに行われたものであるとすれば、同義務の懈怠を主張すれば、事件の解決にはなるでしょう。
しかし、私が書き込み番号17で問題としたのは、イラク人質事件で日本政府が人質を放置したこと、それ自体ではありません。

一部メディアが展開した自己責任論は、人質は、日本政府が「危険地域」だと指定した地域に「わざわざ」入っていったのだから、日本政府は彼らを助ける必要はない、ということでした。
ここでの自己責任論は、人質の、移動の自由行使という人権行使を理由として、基本権保護義務懈怠という、国家による個人への不利益付与が許される、という論法です。

私が問題としているのは、人権(論)と自己責任論との分離です。
イラク人質事件において人質の主張を認めるために、どのような法律構成を認めるべきか、ということではありません。

33よしはら ◆7lqX359TUk:2009/03/21(土) 00:11:07
>>29

>>「重要なのは損なわれようとしている価値の性質に応じて、
個別具体的に検証することなのであって、御説のように十把一絡げに
問題を論じようとするのはやや乱暴な気がします」

私の見解からは、人権行使を理由とした不利益付与は、それ自体、人権の侵害となります。
人権の侵害がどの程度許されるかは、いわゆる二重の基準論などによって判断されます。
したがって、人権行使を理由とした不利益付与、すなわち人権侵害そのものも、公共の福祉によって制約を受けることがありえます。
問題となる人権の価値・性質にしたがって、二重の基準論などに依拠しつつ、その人権行使を理由とする不利益付与、すなわち人権侵害そのものが、どの程度許されるかが、個別に判断されることになります。

私の見解は、このような可能性を当然に考慮に入れています。
私の主張の要点は、人権行使を理由とした不利益付与が許されてしまっては、真に人権が保障されたとはいえない、ということでした。
いい換えれば、人権保障は、当該人権行使を理由とする不利益付与の禁止を内包する、ということです。

イラク人質事件などの文脈を離れて、一般的状況のもとで、ある公共の福祉に基づく人権の制約が憲法上許容されるのであれば、当然その限度においては、人権行使を理由とする不利益付与も許されます。
当該状況のもとではそもそも、一定の限度で、人権は保障されないのですから。

34よしはら ◆7lqX359TUk:2009/03/21(土) 00:42:05
>>30

>>「最終的には、物事を決するのは、個別具体的な状況に、結局は依存する気がします」

かなり極端な利益衡量論で、憲法学の通説とは、著しく乖離しているといわざるをえません。
もちろん、いわゆる利益法学を徹底すれば、このような論に至ることとなるでしょうが、星野英一先生でさえ、そこまで極端な論法は容認しないでしょう。

「物事を決するのは、個別具体的な状況に、結局は依存する」として、すべてを「個別具体的な状況」に帰着させるのは、理論の放棄といわざるをえません。
侵害される人権が生命権であれ、表現の自由であれ、財産権であれ、また侵害の方法が刑罰によるのであれ、行政指導によるのであれ、すべてを「個別具体的な状況」によって判断するというのは、裁判所万能の発想であり、人権保障を有名無実とする危険性があります。

>>「それぞれの状況において、自己責任論なるものが、不利益(不利益でも制約でもなんでもよくて、これも用語の問題に過ぎないでしょう)を正統化可能か否かの判断を、しているだけなのではないでしょうか」

書き込み番号31でも述べましたが、私の主張の眼目は、人権(論)と自己責任論との分離です。
個別の事案において、国家による個人に対する特定の不利益付与が、憲法上許容されるか、について判断基準を示そうとするものではありません。
もちろんその判断基準については、あなたのように「個別具体的な状況」における、裁判官の完全に自由な判断に委ねるのではなく、二重の基準論などによって、許否を判断すべきであると考えています。
この点については、書き込み番号33で、述べました。

自己責任論を、人権(論)にもちこむ結果となる、イラク人質事件において一部メディアを席巻した論調を批判するために、一般的・抽象的に、人権(論)と自己責任論との分離を主張することは、次のような意味があります。
すなわち、憲法学の無理解に基づく論調に対する、憲法学にしっかりと立脚した、法律論としての対抗的言論・政治的言論としての意味です。

35よしはら ◆7lqX359TUk:2009/03/21(土) 00:45:55
書き込み番号33の訂正です。

×「したがって、人権行使を理由とした不利益付与、すなわち人権侵害そのものも、公共の福祉によって制約を受けることがありえます。」
○「したがって、人権行使を理由とした不利益付与、すなわち人権侵害そのものも、公共の福祉によって正当化されることがありえます。」

36よしはら ◆7lqX359TUk:2009/03/21(土) 00:54:28
ちょっと気になったのですが、今中島ゼミでは、「個別具体的」な判断、というのが、広く受け入れられている思考枠組みなのですかね。

書き込み番号29と30で、マジックワードのように使用されているので、これらを書き込んだ方が別人だとすれば、ゼミ内で頻出するワードなのでしょうか。

37名無しさん@中島ゼミ:2009/03/21(土) 10:35:32
「個別具体的」に判断すると言うことは、「個別具体的利益考量」であるということでは、必ずしも無いように思われますが。ある程度個別具体的な事情を考慮しないのならば、ロー制度が否定したはずの、「マニュアル解答」が量産されるだけの話です。よしはらさんの、「自己責任論と人権論の分離」も、観念的抽象的に論じているだけでは、所詮マニュアル解答と違いはない、ということです。

とくに、「したがって、人権行使を理由とした不利益付与、すなわち人権侵害そのものも、公共の福祉によって正当化されることがありえます」と仰るときに、今までの憲法学は、具体的事案において、本当にこれを考えてこなかったのでしょうかね。

38名無しさん@中島ゼミ:2009/03/21(土) 11:15:57
たとえば、先日話題になった、フィリピン人家族の問題、あれはどう考えますか?

39よしはら ◆7lqX359TUk:2009/03/21(土) 22:43:48
>>37

あなたは、書き込み番号30の方と同一人物ですか?
私は、
「最終的には、物事を決するのは、個別具体的な状況に、結局は依存する気がします」
という書き込みを見て、これを法律論として、かつ字義どおり捉えれば、徹底した利益衡量論をとっている、と判断したのですが。
書き込み番号30の方の、真意を知りたいです。


あなたは、私の主張のどの箇所を見て、「個別具体的な事情を考慮しない」ものだ、と考えておられるのでしょうか。
私も、「ある程度個別具体的な事情を考慮」する必要性は、否定しません。
かつ、「個別具体的な事情を考慮」する場合の判断基準についても、書き込み番号33で指摘しています。

あなたの主張されたいことが、正直いって、よく分かりません。
あなたは、人権(論)と自己責任論の分離が、個別具体的な事情によっては妥当しない、ということを指摘されたいのでしょうか。
私は、この分離論が、一般的に妥当すべきであると考えています。
その根拠についても、書き込み番号17で、例を挙げながらではありますが、すべての人権について一般的に妥当しうるような論理構成で、説明しました。
仮に、この分離論を妥当させるべきではない状況を思いついておられ、そのゆえに私を批判されているならば、その事案を具体的に挙げてください。

私は、イラク人質事件や、国政に反対する集会を例に挙げて、分離論がどのように妥当するかを説明しました。
あるいはあなたは、精神的自由・経済的自由・身体の自由など、各種人権ごとに、分離論がどのように妥当するのか、体系だてて説明せよ、とおっしゃっているのでしょうか。


さらに分からないのは、なぜあなたが「マニュアル答案」をここでもち出されるのか、です。
私は書き込み番号34で、法律論としての政治的言論として、分離論を主張している、と明言しました。
私は、書き込み番号31などで繰り返し、イラク人質事件などにおいて、どのような法律構成を認めるべきか、を直接の論題にしているわけではない、と強調してきました。
イラク人質事件における原告であれば、裁判所においてどのような主張をすべきであるか、を論じてきたわけではありません。
いわんや、各種試験でどのような答案構成をすべきであるか、について論じてきたわけではありません。
あなたが私の主張を、「マニュアル答案」と批判される理由が、よく分かりません。

40よしはら ◆7lqX359TUk:2009/03/21(土) 22:56:39
>>37

>>「「したがって、人権行使を理由とした不利益付与、すなわち人権侵害そのものも、公共の福祉によって正当化されることがありえます」と仰るときに、今までの憲法学は、具体的事案において、本当にこれを考えてこなかったのでしょうかね」

これまでの憲法学も、具体的事案において、これを考慮してきたと思います。
けれども、公務員の政治的活動の場面などで個別に判断されてきたものを、抽象化し、一般的に人権(論)と自己責任論の分離として主張することは、少なくとも、自己責任論の名のもとに人権保障を無に帰そうとする一部メディアの論調に対し、政治的価値をもつでしょう。

私も、個別の訴訟において、分離論を具体的に適用するに際しては、人権の種類・性質などによって、手法が異なりうることは、否定しません。
また、公務員の政治的活動に関する訴訟などで、表現の自由などの真の保障のためになされている理論構成を、否定するものでもありません。

さらに、個別の事案において分離論がどのように適用されるかについても、私の論ずるところではない、と切り捨てず、イラク人質事件を例に挙げ、基本権保護義務論などを用いて、具体的な法的構成を述べました。

分離論がうまく妥当しない場面を思いついておられるならば、それを挙げてください。

41よしはら ◆7lqX359TUk:2009/03/21(土) 23:05:12
>>38

フィリピン人家族の問題については、一応ニュースで見てはいたのですが、事情を詳しく知りません。
そのため、申し訳ありませんが、その事案への分離論の適用を、具体的に申し上げることができません。

事案によっては、分離論の適用が不当な結果を生ずる、と考えておられるのならば、フィリピン人家族以外の例(著名な憲法訴訟であれば、私もお答えしやすいです)を挙げていただくよう、お願いします。

4237:2009/03/21(土) 23:50:38
マニュアル答案とかは私の真意が伝わっていませんが、どうでもよい話なので、無視してください。

「少なくとも、自己責任論の名のもとに人権保障を無に帰そうとする一部メディアの論調に対し、政治的価値をもつ」程度なら、そういう言説として、扱えばいいだけの話なんじゃないですかね。抽象的なレベルでは自己決定・自己責任論は正しいのですから、自己決定のための条件整備の面に不備があったとか、そういう具体的な事情に左右される気がするのですが。憲法学レベルでは、メディアのような自己責任論は相手にされていないのに、それを憲法学に持ち込むと、混乱しか生まないのではないですかね。

なお参照してみてください。中島徹「憲法の想定する自己決定・自己責任の構造」自由人権協会編『憲法の現在』(信山社、2005年)。

43よしはら ◆7lqX359TUk:2009/03/22(日) 02:21:42
>>42

>>「憲法学レベルでは、メディアのような自己責任論は相手にされていないのに、それを憲法学に持ち込むと、混乱しか生まないのではないですかね」

私は、一部メディアの論調を、感覚論に出たものと理解し、それを法律論の見地から批判する必要性を感じていました。
しかし憲法学の側の対応として、メディアの自己責任論をとり合わない、というのも、一つの選択肢として理解しました。


「自己決定のための条件整備の面に不備があった」ことを理由として自己責任を問わない、とするのは、当然ありうる論理だと思います。
けれども、そこでの「自己責任」は、私がここまで述べてきた自己責任、すなわち人権の行使を理由として国家によって課される不利益とは、大きく相違しています。

ですがあなたの主張は、「自己責任」に、私のような定義を当てはめるべきではない。
わざわざ、人権の行使を理由とする国家による不利益付与を「自己責任」と呼ばなくても、従来の憲法学の道具立てで、そのような不利益付与を排除できる、ということですね。

4437:2009/03/22(日) 15:27:21
そういうことですね。

45よしはら ◆7lqX359TUk:2009/03/22(日) 22:09:22
いただいたご批判・疑問などには、これで一通りお答えすることができたでしょうか。
皆さん、貴重なご意見をお聞かせいただき、どうもありがとうございます。
この問題について、考えを深めることができました。


一点だけ、書き込み番号23でなされたご質問、すなわち「人格的自律」や「強い個人」についてどう考えるのか、というご質問に関してです。
このご質問の趣旨がよく分からなかったので、趣旨を明らかにしていただくようお願いしたのですが、その後ご返答はありませんでした。
そのためこのご質問には、具体的な内容をお答えしていませんでした。

質問されたかったのはこういうことではないか、というのを、想像しつつ、ご返答します。
ただし、ご質問の趣旨は、変わらずよく分からないままなので、とんちんかんなご返答である可能性があります。
ご了承ください。


おそらく書き込み番号23の方は、自己責任(論)に対し、「自分の行った行為については、その結果は自分で責任を負うべき」といった定義を与えていらっしゃるのではないでしょうか。
これに対し私は、自己責任(論)を、「個人による人権の行使を理由として、国家がその個人に不利益を与えること(が許されること)」と定義していました。

個人による人権の行使を理由とする、国家による不利益付与が、人権保障を無に帰する、人権侵害そのものであるという発想は――私も述べましたし、何人かの方からご指摘をいただいたように――従来の憲法学によっても、前提とされていたところです。
この論理は、「人格的自律」を主唱する学説(佐藤幸治先生など)・「強い個人」を強調する学説(樋口陽一先生)と、「弱い個人」を標榜する学説とを問わず、受け入れられています。
人権の行使を理由とする不利益付与につき、人権行使そのものは、行使時点では禁じられていないではないか、といって、同不利益を受忍することまで、「強い個人」は求められるわけではありません。
私が書き込み番号25で述べた、「私が上で述べた論理〔※そこでの「自己責任(論)」とは、人権行使を理由とする不利益付与のことです〕は、一定の人間像を背景とするものではありません」というのも、以上の趣旨です。

なお、「弱い個人」を標榜する学説の代表的論者を挙げなかったのは、これに該当しそうな論者は、そもそも、強い個人/弱い個人の二項対立に批判的であることが多いためです。
仮に、あえて代表的論者を挙げよ、といわれれば、石埼学先生や戸波江二先生を挙げることになるでしょうか。

46よしはら ◆7lqX359TUk:2009/03/22(日) 22:16:35
書き込み番号45の続きです。


これに対し、自己責任(論)に「自分の行った行為については、その結果は自分で責任を負うべき」という定義を与えると、「強い個人」「弱い個人」の区別が、意味をもってき得ます。
樋口先生は、その意味での自己責任を引き受けるのが、「強い個人」である、と考えているはずです。
これに対し「弱い個人」であると、その意味での自己責任を引き受けなくてよいかどうかは、はっきりしません。
「弱い個人」に関しては、両論ありうるでしょう。
けれども少なくとも、「強い個人」を標榜する学説は、自己責任を積極的に引き受けようとするはずです。

このように、自己責任(論)に「自分の行った行為については、その結果は自分で責任を負うべき」という定義を与えると、そこにおいて、強い個人/弱い個人の対立が前景化しえます。


ところで、自己責任(論)の定義としては、通常は、この定義が与えられるでしょう。
私があえて、これと異なる定義を採用したのは、上で述べてきたように、自己責任論を人権(論)との関連で検討したかったからです。
その戦略が不適切である、というご批判も、いただきました。


しかし仮に、自己責任(論)を、「自分の行った行為については、その結果は自分で責任を負うべき」というものであると考えた場合、それに対する態度が、個別の事案に対する解決に、直接に影響を与えるものである、とは考えにくいです。
「自分の行った行為」にしろ、「その結果」にしろ、限定を付さなければ、無限に拡大してしまいます。
「自分で責任を負う」というのも、具体的にどのような負担を負うのか(何らかの義務を負うのか? しかし、誰に対して?)が、明らかではありません。
そのように、この定義での自己責任(論)は、著しく抽象度が高いです。
この意味での「自己責任(論)」を、個別の事案で援用しても、たとえば「公平の見地から」という理由づけと同じくらい、内容が薄く、無意義なものとなるでしょう。

これに対し私は、イラク人質事件で「自己責任(論)」という概念を援用しても、明確な論理構造・結論を示すことができ、あるいは人権論として成立するように、「自己責任(論)」の定義を、厳格なものとしました。

したがって、仮に「自分の行った行為については、その結果は自分で責任を負うべき」という、著しく抽象的な定義を自己責任(論)に与えた上で、それを「強い個人」と結合し、あるいは「弱い個人」と分離したからといって、ただちに個別の事案・論点における結論に、影響を与えるわけではありません。
とはいえ、この意味での自己責任(論)に対する態度は、論者の憲法解釈を、基礎理論のレヴェルで方向づけ、間接的に個別の事案・論点の解釈に影響を与えるでしょう。

なお、ここまで「強い個人」についてはご説明してきましたが、「人格的自律」については、ほとんどご説明してきていません。
人格的自律権の主唱者である佐藤幸治先生によれば、基幹的な人格的自律権は、自己決定権のみならず、生存権など各種社会権をも基礎づけます。
その社会権は、自己決定の際の条件の不備を補い、結果的に個人を完全な自己責任から解放する機能を果たします。
その意味で社会権は、自己責任論を(一部)排除しえます。
この社会権をも、基幹的な人格的自律権が基礎づけるのだとすれば、人格的自律の理念は、厳格な自己責任論とは矛盾しえます。

また人格的自律権は、人格的自律に必要な条件整備を求める、との論理も、成立しえます。
その観点からも、人格的自律の理念は、厳格な自己責任論を排除しえます。

ゆえに、「強い個人」と「人格的自律」とを、ひとまとめにして、自己責任論を積極的に承認するもの、ということはできないのです。
「強い個人」と「人格的自律権」とは、ともに、一種のフィクションを採用するものといわざるをえず、また一まとめにして論じられることも多いのですが、理論的出自が異なることはもちろん、そのフィクションの表れ方が相当異なるので、注意が必要です。

47よしはら ◆7lqX359TUk:2009/03/22(日) 23:57:45
実際、佐藤幸治先生が人権の基礎づけに際して依拠する、アラン・ゲワースは、目的志向的行為主体(≒佐藤幸治先生における自律的主体)が類的権利として有するのは、「自由と福祉への権利」としているようです。
ここでの「福祉」には、自己決定するに際して必要な諸条件(身体的条件など)が含まれるようです。

ゲワースについては私も非常に不勉強なので、詳説できないことをお許しください。

48名無しさん@中島ゼミ:2010/04/06(火) 00:49:06
ちょっと問題を考えてみたので、考えてみてください。
出題の意図に関するヒントは、2つ次の書込みに書きます。
それ以外に、ヒントとか解答とかは書きません。

設問1
Xは、インターネット上の掲示板において、政治家Vに対し名誉毀損(刑法230条)を行ったとして、逮捕・起訴された。
Xの弁護人は訴訟において、次のような憲法上の主張を行った。
判例・通説に照らし、Xの弁護人の主張が有する問題点を論ぜよ。
なお、解答に当たっては、弁護人の主張と判例・通説との相違点を挙げるだけでなく、なぜ弁護人の主張が、憲法論として不適切かを論ずること。

弁護人の主張:
Xには、憲法21条により、表現の自由が保障される。
Xが名誉毀損により処罰されると、Xの表現の自由は侵害される。
名誉毀損罪は、表現内容に着目した表現規制である。
表現内容規制は、国家にとって不都合な表現を規制しようとするものであることが多い。
また、表現内容規制がなされると、思想の自由市場は歪曲化され、機能不全に陥ってしまう。
そのため、表現内容規制の合憲性は、特に厳格な審査基準によって審査されなければならない。
そこで、表現内容規制は、ぜひとも必要な目的があり、その目的を達成するために必要最小限度の手段でなければ、違憲というべきである(厳格審査基準)。
この違憲審査基準に照らし、刑法230条の合憲性を検討すると、……
……このため、刑法230条の2によって、表現者には一定の免責が認められる。
しかし、それでもなお、……刑法230条には、ぜひとも必要な目的はなく、仮に目的がぜひとも必要なものであるとしても、手段は必要最小限度のものではない。
以上から、刑法230条は、憲法21条に違反して無効である。
よって、Xは不可罰である。

49名無しさん@中島ゼミ:2010/04/06(火) 00:50:40
設問2
Xが、過失によって、Aの胎児Vに傷害を加えた結果、出生後のVに障害が残った。
Xは、過失傷害罪(刑法209条)で逮捕・起訴された。
Xの弁護人は、Xによる実行行為時に、Vは「人」として存在していなかったから、Xを過失傷害罪で処罰することは、罪刑法定主義(憲法31条)に反すると主張した。
これに対し、検察官は次のような憲法上の主張を行った。
判例・通説に照らし、検察官の憲法上の主張の問題点を論ぜよ。
なお、解答に当たっては、検察官の主張と判例・通説との相違点を挙げるだけでなく、なぜ検察官の主張が、憲法論として不適切かを論ずること。

検察官の主張:
仮に、Xの弁護人が主張するように、Xを過失傷害罪自体によって処罰することはできないとしても、過失による胎児傷害について、過失傷害罪の規定を類推適用することは、罪刑法定主義を不当に侵害せず、憲法上許される。
たしかに、弁護人主張のように、憲法31条は、罪刑法定主義の保障を含んでいる。
憲法31条は、罪刑法定主義を含め、人身の自由を保障している。
人身の自由が侵害されれば、精神活動・経済活動はおよそ不可能となるから、その制約の合憲性は、特に厳格な違憲審査基準にしたがって判断しなければならない。
そのため、人身の自由に対する規制の合憲性は、ぜひとも必要な目的があり、その目的を達成するために必要最小限度の手段といえるか、という違憲審査基準によって判断すべきである(厳格審査基準)。
この違憲審査基準に基づいて検討すると、たとえば企業の活動によって大規模な公害が発生し、その結果、胎児が重度の障害を負った場合、企業の当罰性は非常に高い。
にもかかわらず、たまたまそれを罰する規定がないからといって、企業を不可罰とすれば、胎児を、大規模公害など過失による傷害から、刑事法上保護することができなくなる。
とすれば、過失による胎児傷害の場合に、過失傷害罪を類推適用することには、ぜひとも必要な目的が認められる。
また、過失による傷害から胎児を保護するためには、刑事罰をもちいることが、最低限必要である。
というのは、被害者が加害者に対して、不法行為に基づく損害賠償請求をしようとしても、損害額の立証は著しく困難であり、被害者は泣き寝入りするしかないことが多い。
このため、過失傷害から胎児を保護するためには、民事法上の救済では著しく不十分であり、刑事罰を用いる必要がある。
以上から、胎児傷害の場合に過失傷害罪を類推適用することには、ぜひとも必要な目的が認められ、またその目的を達成するために必要最小限度の手段であるといえる。
したがって、Xを、過失傷害罪を類推適用して処罰しても、憲法31条には違反しない。

50名無しさん@中島ゼミ:2010/04/06(火) 00:51:41
設問1・2のヒント:

設問1においては、本件において登場する主体が、他の一般の表現規制の場合と、どのように異なるかに留意せよ。
設問2においては、憲法31条によって保障される人権と、他の人権とで、制約の許容性について同様に考えてよいかに留意せよ。

51名無しさん@中島ゼミ:2010/05/18(火) 20:18:09
http://www.moj.go.jp/content/000046904.pdf
新司法試験の今年の問題。ゼミでも考えたことがあるかもしれません。
最近の判例の傾向にも留意しつつ考える必要がもちろんありますが、なかなか考えさせられますね。

52名無しさん@中島ゼミ:2010/06/07(月) 21:21:57
「選挙人名簿の登録」と「選挙権」(憲15、公選法9条1項)の関係って?

53よしはら ◆7lqX359TUk:2010/10/23(土) 23:46:20
いわゆる人権の私人間効力について、無効力説(新無効力説を含む)・間接効力説・直接効力説が主張されています。
このうち、間接効力説と直接効力説との相違については、大きな意義を認めないのが、最近の傾向です。
たとえば浦部法穂教授は、間接効力説か直接効力説かは、「それほど本質的な問題ではなく、法的な理論構成としてどちらが美しいかという程度の問題でしかない」(浦部法穂『憲法学教室(全訂第2版)』(日本評論社、2006年)70-71頁)とされます。
また戸波江二教授も、両説の相違は「単に結論が「違憲」となるか、「違法」となるかの相違にとどまり、大きな意味をもたないのではないか」(戸波江二『憲法』(地方公務員の法律全集1、ぎょうせい、1994年)146-147頁)とされます。
本論は、このような有力説に反対し、間接効力説をとるか直接効力説をとるかは、規制の合理性の立証責任について、大きな相違をもたらすので、両説のいずれをとるかという議論には、なお大きな意義がある、と論ずるものです。

まず、架空の設例を一つ設けます。
株式会社Yに雇用される労働者Xが、会社での休み時間中に、Yの代表取締役Aの経営方針を批判するビラを、他の労働者に配布した。
このためXは、Yから減給の懲戒処分を受けた、という事例です。

Xは、Yによって、自己の表現の自由(憲法21条1項)を不当に侵害された、と主張したいとします。
一方、Yの懲戒処分を正当化する憲法上の人権として、Yの営業の自由(22条1項)が挙げられます。

ここで間接効力説によると、Xは次のように主張することになります。
すなわち、Xの表現の自由の価値を、公序良俗規定(民法90条)などの一般条項に充填する。
Yの営業の自由による、Xの表現の自由に対する侵害は、社会的許容性の限度を超えている。
そのためYの懲戒処分は、民法90条に違反し、無効である、と。

このとき、X側が何を立証しなければならないかが、重要です。
公序良俗によって法律行為を無効とするためには、公序良俗違反を主張しようとする側が、公序良俗違反に該当する具体的事実を、立証しなければなりません(佐久間毅『民法の基礎1 総則(第3版)』(有斐閣、2008年)201-202頁)。
つまり、X側から公序良俗違反、すなわちXの表現の自由に対する不当な侵害があったと主張するためには、Xは、Xのどのような表現行為・Yのどのような懲戒処分が問題となっているかはもちろん、本件事例において、Xの表現の自由を尊重すべき合理性と、Yの営業の自由が尊重に値しない事情を、すべて立証しなければなりません。

これに対して、直接効力説に立つと、事情は大きく異なります。
対国家関係において、私人の表現の自由が制約された場合、その合憲性は、内容規制であれば、やむにやまれぬ政府利益のテスト、内容中立規制であれば、より制限的でない他の選びうる手段(LRA)の基準を用いる、というのが、芦部信喜教授以来の一般的な学説です。
LRAの基準を用いる場合、より制限的でない他の選びうる手段が存在しないことの立証責任が、国側に課されます(芦部信喜(高橋和之補訂)『憲法(第4版)』(岩波書店、2007年)196頁)。
やむにやまれぬ政府利益のテストにおいても、目的・手段の必要不可欠性の立証責任は、国側に課されます。
もっとも、このような対国家関係と異なり、本件のように、表現の自由の私人間効力が問題となる場合に、立証責任の分配がどのようになるかは、必ずしも明らかではありません。
労働者に対して強大な支配力を有する会社Yを、国家類似のものと見て、表現の自由を制約する合理的根拠の立証責任は、すべて会社側にある、とするのが、一つの一貫した立場です。
少なくとも、表現の自由に対する制約の不当性の立証責任が、すべてXにあると考えるのは、直接効力説からは、導き出しにくいです。

このように、間接効力説をとると、表現の自由に対する制約の不合理性を、すべてX側が立証しなければならないことになるのに対して、直接効力説をとると、Xのそのような立証の負担を、相当程度軽減することができます。

54よしはら ◆7lqX359TUk:2010/10/23(土) 23:47:02
立証責任の分担というと、技術的な問題のように思えるかもしれません。
しかし通常、会社など社会的権力の側は、十分な資料のほか、調査のための人材・能力・資力を有しています。
これに対して、労働者など社会的弱者の側は、十分な資料・調査能力を有していません。
労働者の側は、文書提出命令の申立て(民事訴訟法221条1項)などを通じて、地道に証拠収集しなければなりません。
このように、証拠の分量・収集能力において大きく劣る労働者が、人権制約の不合理性の立証責任をすべて負うことになると、労働者は大きな負担を背負うことになります。
この点で、間接効力説と直接効力説は、大きく異なるのです。

もっとも、労働者の立証の負担を軽減するために、直接効力説をとるべきかといえば、ことはそう簡単ではありません。
間接効力説では、労働者が、人権制約の不当性の立証責任を、すべて負うことになり、大きな負担を課せられます。
しかしこれは、私的自治を尊重するという観点から、正当化することができます。
すなわち、私人間の法律関係は、原則として私的自治によって規律されるが、例外的に公序良俗規定など一般条項を援用して、私的自治に制約を課そうとするならば、それに見合うだけの、重い立証責任を負っても、不当とはいえない、ということができます。
直接効力説では、私的自治尊重の要請は、背後に退きますから、私的自治をできるだけ尊重するため、労働者に重い立証責任を課する必要はありません。

最後に、三菱樹脂事件最高裁判決(最大判昭和48(1973)年12月12日民集27巻11号1536頁)の判示を、確認しておきます。
この判決は、次のように述べています。
「私的支配関係においては、個人の基本的な自由や平等に対する具体的な侵害またはそのおそれがあり、その態様、程度が社会的に許容しうる限度を超えるときは、これに対する立法措置によつてその是正を図ることが可能であるし、また、場合によつては、私的自治に対する一般的制限規定である民法一条、九〇条や不法行為に関する諸規定等の適切な運用によつて、一面で私的自治の原則を尊重しながら、他面で社会的許容性の限度を超える侵害に対し基本的な自由や平等の利益を保護し、その間の適切な調整を図る方途も存するのである」。
民法1条に規定されるのは、信義誠実の原則(信義則)・権利濫用の法理です。
労働者Xが、会社Yの信義則違反・権利濫用を主張するためには、Xの側で、信義則違反または権利濫用を基礎づける具体的事実を、立証しなければなりません。
不法行為に関する諸規定というと、典型は民法709条です。
憲法上の人権価値を、同条のいずれの要件に充填するかは、一つの問題です。
もっとも素直なのは、Xの人権が、同条の「他人の権利」に該当する、と考えることです。
同条の権利侵害の立証責任は、損害賠償を請求する側にあります(潮見佳男『基本講義 債権各論II 不法行為法(第2版)』(ライブラリ法学基本講義6-II、新世社、2009年)11頁)。
そうするとXは、少なくとも、自己の表現の自由が、本件事案において十分尊重に値することを、立証しなければなりません。
以上からすれば、いずれの規定を用いる場合であっても、Xが人権制約の不合理性の立証責任を負うことになります。
この点で上記判例は、間接効力説と結論を同じくするということができます。

ただし、民法709条に基づく損害賠償請求において、Xの表現の自由と対立するYの営業の自由を、違法性阻却事由に位置づけるとすれば、違法性阻却事由の立証責任は、損害賠償請求の相手方にあるとされているので、Y側が、本件事案において自己の営業の自由が尊重されるべきことを、立証しなければならないことになります。
もっとも日本では、私人間で対立する人権を、民法90条はともかく、709条にどのように価値充填するかについての議論は、熟していません。
そのため、間接効力説において同条を用いた場合、立証責任がどのようになるかは、よく分からないところがあります。

55よしはら ◆7lqX359TUk:2010/10/23(土) 23:51:14
ずっと書込みがなかったので、>>53・54で一つ問題提起をしてみました。
人権の私人間効力の問題は、中島ゼミでレポートの素材として扱ってから、ずっと気にかかる問題です。

一応、>>53・54のような文章でも、著作権は放棄していませんので、無断転載はご遠慮ください。

56名無しさん@中島ゼミ:2011/02/15(火) 13:37:20
八百長なんてどうでもいいが(あえていえば「部分社会」内の問題)、警察から文科省へのメール内容の提供は、通信の秘密への侵害のはず。メディアはオザワ苛めばっかりやらずにたまにはまともなことも報道してくれ。


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