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【仏教】悟りを開いた人のスレ避難所50【悟り】
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元スレ
【仏教】悟りを開いた人のスレ221【天空寺】http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1477973175/
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1477973175/
前スレ
【仏教】悟りを開いた人のスレ避難所49【悟り】
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1440610219/
言い合いが「個人の中傷」にまでいったらやめましょう。
悟りとは究極的には個人こじんのことです。
いくら他人を中傷したところで、決して悟ることはないでしょう。
「数息観のコピペ」は >>2 にコピペします。
注) この板は2000まで書ける設定です。但し、だいたい1000ぐらいで
次スレ立てておいた方が良いと思います(1000以上に未対応の専用
ブラウザが存在するため)。ということで本スレと同じ>>970の人が
次スレを立てるということにしておきますが、慌てなくても大丈夫です。
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数息観のコピペじゃ。みんな修行に励むのじゃ。
先ず静かな所に座り、鼻の頭に軽く意識を掛け、普通に息を吸って、ゆっくり長く息を吐いていくのじゃ。
息を吐く時に、頭の中で一と数える。
又、普通に息を吸い、ゆっくり長く息を吐いてニと数えるのじゃ。
このようにして十まで数え、十まで行ったら今度は十から数を減らして行って、一に戻るんじゃよ。
たまに長時間行うより、一日に五分でもよいから、毎日続けると不動心が身に付くのじゃ。
夜の寝る前などに行うと、安らかに眠れるようにもなるじゃろう。
初めて数息観などをする者は、とにかくイライラして止めたくなったりするじゃろう。
そんな時は一度、中断してストレス解消の運動でもするといい。すっきりしたら又続けるのじゃ。
暫く修行をすると、今度は雑念に悩まされるようになるかも知れん。
そのような時は無視して呼吸に意識を集中しなおす。暫くすると、雑念は消えていくじゃろう。
更に修行を重ねれば、雑念と集中する意識を二つとも、意識出来るようになる。行が深まり、
潜在意識が見えてくるようになったのじゃ。
そのような時も、雑念を無視しておれば、やがて雑念は消え去り、深い無念無想の状態に入れる。
もっと行が深まれば、意識は二つだけでなく、同時に幾つもの雑念があることに気付くじゃろう。
人間はもともと同時に幾つもの事を考えておる。
例えば誰でも歩きながらタバコを吸い、同時に尻を掻くという事が普通に出来るように、
人間は同時に幾つもの事を考えているが、潜在意識まで見る事の出来ない者には、判らないのじゃ。
潜在意識まで見る事が出来、全ての雑念が静まり、もはや心に何の考えも浮かばなくなれば、止の行は完成じゃ。
数息観によって集中力がついてきた者は観の行をするのじゃ。
その前に観の行の前行である、観察の力と集中力を身につける観察の行をやるのじゃ。
先ず、目の前に観察の対象となる物を用意するんじゃ。
木でも花でも何でもいい。そしてそれを見て、細かく観察するのじゃ。
最初の内は、心の中で言葉にしてもよい。
例えば花なら花という言葉を使わず、
「今、目の前にそれがある。それは薄い膜のような物が幾つも重なっている。それは赤い色をしている。
それはふちが薄く、真中にいくほど厚くなっている。それの真中には細い糸が幾つも出ている・・・」
などと観察していくのじゃ。
出来るだけ細かく、普段なら見落としてしまうような事も、可能な限り観察するのじゃ。
ちっちゃなとげがあるとか、皺がいくつもあるとか。
次第に慣れてきたら、言葉にせず、目で見るだけで意識に上らせるようにするんじゃ。
そのようにしていると、たまに雑念が沸くこともある。
例えば「この花はバラだ。バラのジャムつておいしいのかな。そろそろごはんのじかんだ」
などといつのまにか、ご飯のことを考えている。これは観察ではない。
観察とは今、ここに、現にある物だけを見ることじゃ。
連想や記憶は雑念なのじゃ。
そのような雑念が沸いてきたら、止の行をしてきたおぬしらは、どうすればいいか判るじゃろう。
数息観をしていた時と同じく、ただスルーするのじゃ。
止めようとか、駄目だとか思わず、ただやり過ごして、観察に戻る。
そうすれば雑念は自然に消えていく。
このような時に止の行は役立つのじゃ。
やはり止と観察は二つで一つなのじゃ。
未だ自我のある者は、更に感覚、感情、思考、分別知、認識などに観察を広げていくのじゃ。
前にも書いたが、感覚から先の観察は鐘の音などを利用すると、簡単なのじゃ。
感覚を観察するには鐘の音が鳴ったら、
「今、鐘の音が鳴った、聞こえている、だんだん音が小さくなるのが判る、今消えた」などと、
今、感じている感覚を観察するのじゃ。
その鐘の音によって生じる感情も、「耳が痛くてうざいと思っている・・・」などと観察する。
思考も「あの鐘は仏壇屋で買ったもっといいのが欲しかったと、考えている・・」などと
巻き込まれないように注意しながら観察するのじゃ。
物事を認識し、分別する心の働きは殆ど一つの動きになっている故に、鐘の音を聞いて、
「これは鐘の音・・・今、鐘の音と分別し認識した」などと、観察するのじゃ。
このように直接、心と体を認識する方法が、観の行の基本であり、
最もシンプルでスタンダードなものであると言えよう。
しかし、この方法はかなりの集中力と観察力が必要となる。
これをシステム化してやり易くした方法が、縁起の法や、空の法なのじゃ。
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>>1
スレ立てありがとうございます。
前スレは後でストップしておきます。
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ここにちやんねるでは書かなければ字言では無く不言うなので府立文字文字では禅は表せない空もカラーに身得なければ
見えないさとつても悟らなくても文字は書けるしまあ良いか。今朝も無駄な字が覆い自由なあリベルテでは心が自由なら
朝の風景も生きて身得ると言う師、でももうすぐ仕事に縛られる辛い休日の翌あさ?私は昨日も働いていたけど気分だけは
文化の日で客こずひまだつた。仕事やめて隠居するには年金が足りなくて国は国民から税金を撮りまくり景気がよくなれば
消費税もあがるいつ上がるのだろうか?金がなければ自由に生きられない現代見るだけならテレビの前に座ればNHKと電気量
取られるだけ空気は無税だけど水はかねかかる何か食べなきゃ長生き出来ないはらへった仙人は霞食って生きているという
修行すればいくらでも長生き出来るという気の物質化小回天から大回天で宇宙自由に行けるのかロケットは無くても仙人
修行すれば自由に何処でも行けるけど私は修行は七日しか続かないのが覆い。ここにちやんは何故か長続きしているけど?
書くのは字言うだからか殆ど独り言の粒焼きで何行九行意味もなくこれも修行なのか
リベルテ https://www.youtube.com/watch?v=_OW3xeGqas0
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である。滅とは言つても、それは法なのである。法であるから対照的な物では無い。対照的なものでは無いから、汚される
五木博之人間の覚悟。文学における「神の視点」・・ドフトエススキーとトルストイとは陰と陽の関係ですが、トルストイ
も最後までキリスト教思想の中の小説を書き続けました。しかし彼も日本ではあまり宗教文学として読まれているわけでは
ありません。直木賞の選考会などで「この小説は神の視点で書かれている」という論議がなされる事があります。それは
小説技法、視点の事を指しています。すなわち本来は、「彼はこんな表情をした」とは書けても「彼はこう思った」とは
書けないはずなのに、あらゆる登場人物の過去の経歴、状況と心理までをくまなく知っている万能の神のように描くスタイ
ルです。それは人間には不可能な事をする事になります。いわば神の領域に立ち入る事をするわけです。だから欧米の作家
が「神の視点」を採用するときには。ひとに許されざる意識をもつて書かなければなりません。あらゆる登場人物の心理を
余すところ無く描くという、ディケンズ以来の総合的な長編小説手法は、本来は神の領域を侵す危険な仕事と考えられて
いたのです。・・・ ?逸も神の視点の解つたつもりで妄想を書く私は何だ?兎に角書く事にまあ事に意味がある野鴨
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人生色々この世も色々あの世も 色々或るカラー身得る観える で死とはこちら空見てもあちらが見えないだけで、
あちらがこちらなら、こちらはあちらになり身得て無いだけ?とにかく私は今此処しか目に付かない。
静止は精神の今の思いであちちこちちで気まぐれな心で、観今日が身得るだけ?今朝は三行描く命か?あと半分頑張れ、とにかく
息が残っているのは今此処と言いたかつたけど?今は冬では無く白い息はみえず、妄想して白い行きが目の前出
次々と薄れて消えていく吐かない?いや皆墓は作る死、でも死出行くひとが何時も安心陀世と教えてくれる。何でかなあ
善く解らないけどなあ ここを此処路我照らせブラ不満の気まぐれな遊びそれとも氏名されて此処亜飲んでいるのか
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素人Aさん、スレ立てありがとうございます。
数息観や止観のやり方も、自己流になっていたので参考になりました。
急に寒くなってきたので、風邪ひかないように気をつけてください。
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>>1 ご苦労さんなのじゃ。
>>2 おぬしもご苦労さんなのじゃ。
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ラーナクリシュナはこの世うにして来て、ただ思うような事して、自分が聖人という意識もなく偉くも無くわがままいっぱいに
生きただけ何だろうか?みんなも本とはこのようにしてきて一つも間違いなくあの用もあり何ひとつなく時は説き進むのだろう
か?私の書き込みは間違いなく意識しなくてもパクッテいる中国万ざい?どうしても避けても孝子師匠パクル?道元もパ来る
オリジナルは無いのか?朝日を浴び葉裏に光る銀のしずくが綺麗ね小学生か?我々も2ちゃんに無智言うだしラーマもマンゴー
畑でマンゴー食べだけ、大川さんもこの用にスピリチァルの夢に夢中だし、浅川さんは間違いなく折の中だし運命が上手い具合
に説き進んでいく我々は良くわからんでもこの世うになつて行く?でもわれわれはこの様な眼に会っているのか?さっぱり見え
ないし迷いか。でもラーマ見たいな人が居るとうん運命は生まれた説き空上手い具合に決まっているのかと思つた今、私は損な
眼が見えない今推理小説で犯人が最初からわかっていては意味無いし我々には見えないのが世界の正解鴨、でも時には上ん手い
ものも食いたいそれはマンゴーか?時間急ぐので前書いたのコピーしたまあええか
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実践あるのみなのじゃ。
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皆それぞれ脳力がちがう、人の脳、宇宙の脳、身に付いたものしか内ので身縁ものは見えん。今朝はこのネタで勝負。
私の脳は考える力は無いので書いているものは適当?出鱈目なる様にしか成らなし内容も無い、そういつて無責任に
書き始めると観える仏はほつとけないと思うのか?出鱈目の助け舟だしてまあ何とか書ける、私は苦労なく書けるので
サボり癖が最近付いてシマッタ。禅が全然しゃまず良いことは無い。言いたいことは大法輪の脳は凄いのだということ、
観えるものは皆生きている。ビル遮那の脳の中で妄想する。
適当に心みるけど心は見れず。適当なのがまず良い事内、真剣な皆さんと私のいい加減さ比較して分別してもしょうがない。
理想世界を一望に見る事もなく、波乱万丈の観戦もない、一心に心が纏まる事もない、明日はまるで今日見なくなるし、
精神は統一されず、諸行は無常だけが永遠に続く。毎日一途が私に無いのか?悟りそんなの何の足しになるのか、
今日も身廻り半でヨウガ無い簿脳の上
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自分にとって最もやり易い方法を見つけるのじゃ。
それが実践を続ける道なのじゃ。
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玉城さん、タンマの顕現 ・・道元禅師はなかなか複雑な方で、天才道元にして初めてあの『正法眼蔵』九十五巻を述作し得
たところの、たぐいまれな仏教者でありますが、その道元禅師が只管打坐という事を言われました。身も心もその全体が打つ
て一丸となり、全身心でひたすら坐る。その坐る事は、仏の自受三昧のことで、弘法大師は全宇宙が大三昧、すなわち法界定
であると言われた。地・水・火・風・空・識の六大無疑、すなわち全宇宙がそのまま三昧に参加することが只管打坐である。
これは単なる言葉ではなく事実だと思います。さつき法然聖人の念仏になぞらえて、凡人の実態を
さらけだしてしまいましたが、これが大三昧にあずかる凡人の実態です。そこがなんとも奇妙な所で人間の不思議というか、
大三昧そのものの不思議な力というか、どうともいいようがありませんが、ともあれ禅定に入って大三昧に吹きとおしにな
るとき、道元のいわれるようになってしまうのですね。
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唯識とかマナ識とか、阿頼耶識とか言いますが、そんなものは吹き飛んでしまいます。マナ識ていうのは我執で
しょう。我執と言つても、ちようど樹の根っこの、細い細い白根のように大地の底深く、無意識の果てのなかに喰いこんでいる
のでしょう。第六意識の我執はなくなつても第七の我執は、睡眠のときも働いているでしょう。いくらそう言つたつて、そんな
ものは跡形も無く根絶やしです。だつて宇宙そのものと吹き通しになつていくので゛すから。それが原始経典・大乗経典を通貫
する如来というものでしょうか。ところがそれで終結しないのが大事なところです。もうひひとつその先がある。先と言うか、
根底というか、あるいは自己の共同体の、もつとも宇宙そのものの基礎といいましょうか。仏陀はそれを業熟体と言われた。
業体、宿業体ですね。今日の言葉でいえは、人格的身体とでもいいましょうか。ここのところが仏道の最終的に最肝心の所では
ないでしょうか。
玉城さん 仏より働かされている。・・このように見てくると、日本の仏教はさまざまな大乗の各学派に育てながら展開して
来たのであるが、結局我々は何に元ずいて救われていくのか。何によつてこの身が目覚めていくのかという切り詰めた問題に
対して、鎌倉の宗祖たちがそれぞれの解答を出したのです。ひたすら念仏して仏に帰衣していく、ただ坐ることによって仏に裏
打ちされれていく、身も心も仏の家に投げ入れて随っていく、信心は如来より賜りたるものなれば、信じるものは如来と等しい、
劣悪の己心のままが仏より立て直されていく、等等。それぞれの形で鎌倉宗祖たちは教えたのです。ここは共通の土俵が現れて
おる。すはわちわれわれは働きに先立つて仏に裏打ちされ、仏より働かされていると言うことです。
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玉城さん 仏より働かされている。・・このように見てくると、日本の仏教はさまざまな大乗の各学派に育てながら展開して
来たのであるが、結局我々は何に元ずいて救われていくのか。何によつてこの身が目覚めていくのかという切り詰めた問題に
対して、鎌倉の宗祖たちがそれぞれの解答を出したのです。ひたすら念仏して仏に帰衣していく、ただ坐ることによって仏に裏
打ちされれていく、身も心も仏の家に投げ入れて随っていく、信心は如来より賜りたるものなれば、信じるものは如来と等しい、
劣悪の己心のままが仏より立て直されていく、等等。それぞれの形で鎌倉宗祖たちは教えたのです。ここは共通の土俵が現れて
おる。すはわちわれわれは働きに先立つて仏に裏打ちされ、仏より働かされていると言うことです。
?我々は個の用にしてこの世に着た野鴨 来るがゴト師と異つてもまあ良い仕事使用
?何なんだろうなあ真実は真っ暗難だから皆バーチャルでも友に心の灯火を灯せば明るくなる世
心の灯火?ラジオでキリスト教の番組が早朝にある様なブラ不満も自分だけ満足では
心くるしいのでこの世に御釈迦さんやキリスト派遣したのか皆半人前でも共になれば明るくなる野鴨
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自分でも何を言っているのかわからないようじゃ。
仏は何も働かせないのじゃ。
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?結局何で永遠不滅の者が妄想するのか?寂しい空色々な申そう我出来るカラーで(からで)
でも妄想世界の中に入ると楽しいばかりでは泣く.苦しい色々も有る死楽しいばかりの
物語は何か白々しくあ軽石(かるいし).すぐ飽きられるのか?あまり苦しいのも苦しいの(は困るの)で
適当に宗教がゆめのなかに配属されていたけど.今の時代は楽しい娯楽もあるし
仏や宗教は役立たずとみられ僧や社会からみはなさられた人しか見向きかれなく
苦しい時だけ振り返るけどそれでは普段のおこないが無いのかも。まあいまはまあ良い
世界鴨知れないけど昔と比べてどうなんだろうか?今は妄想しなくてもある程度バーチャルが色々ありすぎで
もうそうににげられる凡人にはまあ良い世界なのかも
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知識ではわからないからなのじゃ。
気付くことで全てわかるのじゃ。
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私が凝念じょうりょなど仏教やヨーガの脳の筋力トレーニングしないせいか目を瞑つて
目の前の風景を絵の様に見えないせいか熱神な僧の人は目つぶつても光景がありありと
見えるまで修行が進んでいるのだろうなあ?将棋のプロの人は目隠ししても将棋が打てる
というし囲碁の読みが三手から後手になり先は読めないのは碁盤が頭の中に視覚的に見えない
せいでよく見えないいやよく読めない。やつぱ読むより見れば百倍以上の力があるのかも
鬼さんは真面目に基礎トレーニングして僧なタイプだから眼力はあると思う。ぽ師匠も基礎トレーニング
しろと以前言つていたつけ?私はコツコツいやがり感に頼りすぎ基礎の無い感は気まぐれに
流され欲先我見えなくその先の三昧がいい加減では修行の実戦が無いせいか?私それ以前で
まず座れ子供が強くなるのは私が私が少ないから以後もすぐ上達するまず自分を無我にしてから
修行しないと修行が向こうから来ない?またブツブツ早く座れ実践なぜ嫌がる詰まらないからか兎に角少し座ろう
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見えなくてよいのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
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光明・・たといその光明は自分でそなえていて、常に相会うているものであるけれども、また自分の眼で参学した事が無い。
したがつて、光明の様々な姿や、さまざまな働きを究明する事ができない。また光明のと相会う事を厭うから、光明と
光明がうたた疎遠になる。しかもこの疎遠もまた光明であるけれども、しかしその疎遠のためどうしても妨げられるのである。
光明が疎遠になつている者が思うには。「仏の光明も自己の光明も、赤、白、青、黄等の様々な色彩を放ち、おそらく火の光や
竜神の光の如くであろう」と理解する。あるいは師友に教えられ、あるいは経典から学ぶけれども、光明の教えを聞く場合は、
おそらくそれは蛍の光の如くであろうと思う。こりはまったく、自分の眼で学び、自分の身体で行ずるということではない。
・・決して文字だけの法師に学んではならない。わけの解らなぬ事を言う禅師の説を聞いてはいけない。・・
いわゆる仏祖の光明とは.全世界が光明である。仏祖の全体である。経典に言う「ただ仏と仏の照応する世界」
である。仏が光であり.光が仏である。仏祖は仏祖を光明としている。この光明を修行し悟ることによつて.成仏し.坐禅の
ままで仏になり.さらに仏を悟っていくのである。・・・
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無光明無眼なのじゃ。
形あるものなど何も要らないのじゃ。
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今朝のは昨日の光明ネタもどきを寝る前に考えて寝た後に貼り付けた。世界が始まる前は何もなく真っ暗な
空間しかなく信実も寂しいどころでは無かった?そうだ光明で明るくすればと思いついて、真実が一変に明るい
性格になりしばらくは満足していたけどそのうち何か寂しい何か足りないと草や花山や川を描き出し一変に
賑やかな風景になった。それから男と女抱き合って子供を作る楽しいだけに天国のような世界になった。
でもそこにヒネクレ者の疑い深い蛇もうまれアダムとイブに楽しいだけでは理論的に可笑しい能天気で何も考えない
あなたたちはそれで良いのかこのりんごを食べて考えよう言つたとか食べたら当然ウンコになるのが当たり前と
言ってからウンコもうまれて正義と悪までもうまれ美しい天国はウンコまみれになりそれから辛い便所掃除もはじま
った。段々天国がこの二元論の世うに汚れていつてとか?神様が天国から人間を追放したのではなく理屈を覚えた
人間が天国を色々怪我した寝たでした殆どこれ蛇ユダヤ鏡のパクリでは無いかユダヤもメソポタミヤからぱくつたし
今朝も寝たかけたし以後は囲碁?死ぬだらお花畑に居るというけど長くは居られるのだろうか?修行しすぎると
天国も元の木阿弥に?戻りたく無い
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実践あるのみなのじゃ。
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虹と水晶 ・・・ミラレバはこう言っている。「心もそらも空虚だから、心の本性はそらのようだと言う事はできる。だが、
心は知性を持っているのに対し、空はそうではない」と。悟りとは宇宙に関する知識ではなく、宇宙の本質を生きる経験に外
ならない。そういう生きた経験を味わうまでは、色んなたとえを頼りにするほかならない。だがそのおかげで、そのたとえが
持っている限界にしばられる事になる。土台は、これから説明する不思議な物体のようなものだ、と言ってもよいだろう。
その物体が白くまるみを帯びている、と言えば、それについてのイメージが得られる。だが翌日になつて、それを見た
別のひとが説明するのを聞いて色も白というよりは真珠貝の色をしていると言えばそう考えるようになる。そんな説明を五十回
聴いたところでその物体に関して少しでも考えが深まるわけではない。だがいつたん自分で見ればどんなものかはっきりわかる。
・・要するに百聞は一見にしかずか?百文は瞳にしかず?
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空も心なのじゃ。
何も心でないものはないのじゃ。
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肝心な事は私には何も解らない。色々な本読んでも私は熱真に読むほうでない本の少ししか読まない。今はネットで調べる位の
入門レベルだけだが?宗教も哲学も今は何の役に立つのかと社会では馬鹿にされる師、人間社会は役に立つものしか関心無くて
心理学なんて金も廻らなく宗教も金儲けの道具で何の用があるのだろうか?でも肝心な事は誰も知らない空、時間とはなぜ進む
のか?もつとも肝心な今此処になぜ私が存在するのか、外の人に心がなぜ移行しないのか?時間も今此処を流れて行く、永遠に
今此処は今此処なのか?私が生まれる前の今此処は?未来の今此処は?人人の今此処は?社会の今此処は?宇宙の今此処は?
空の今此処は?アートマンの今此処は?ブラフマンの今此処は?生まれるまえ空今此処は有それは存在そのものの基盤なのか?
さつぱり是がわからないけど絶対にに避けられない今此処。この公案は解けない公案でも現象公案○だしなんかこれ考えると
目の前がもやもやとして、まあだいたい基本公理は理屈では解けなく有ると認める事からしないと無理だし何でも最初は虚空
(嘘から)端◎(始まる)の鴨。今朝はほんとはよくわからないと愚痴が爆発しただけか ?でも鬼和尚さんは心身与と言う師まあ僧だねえ
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実践によって全て明らかになるじゃろう。
実践が全てなのじゃ。
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全ての現象は解つたは0.0000?位置%で解らない真実にほんのちょつと解るか
身得ているのかも わかるのはそれくらい鴨
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宇宙意識 境界の像 したがってラーマクリシュナによると時間から永遠性(本当はこれが神話の指している場なのです)への
移行にさいして、純粋にヨーガ的な方法は、世界もろとも自分自身を超越の中に滅却すること、献身の対象たる聖像が含んで
いる形而上学的な意味をとことんまで追求し、それらの像の心理的な枠を一切捨て去って、ついには心そのものの解消にまで
到着する事なのです。しかしより穏やかで献身ということに即したもうひとつの方法があります。それは崇拝の対象となるこ
れらの像が境界の像であり、したがつて二つの世界に属しているかららです。つまりそれらはイメージ的な外延の人間的な魅
力においては時間的であり、同時に永遠性へと開かれているのです。
超越的ビジョンの眼>が開くのは、どこでもない「そこ」においてです。芸術の道においてそれは、まさに
あの瞬間(ジェじぇエームス・ジョイスを引用すれば)「美の全体性によってとらえられ、美の調和によって魅惑された心がこ
ういう至高の徳性、審美的映像の明るい光輝を輝かしく認識する瞬間〔・・・〕審美的快楽の輝かしく静寂な状態」に他なり
ません。インドではこの状態に到達することがヨーガの典型的な目標とされています。それはさまざまに記述されていますが、
究極的には涅槃と呼ばれるものです。これは天国のような場所としてではなく、(情念)、(像悪、?)、(そして(迷妄)という
心の三重の火が消えることとして理解されなければなりません。・・・という語は「吹く」を・・は「消す、吹き消す」を意
味しており、文字通り解釈すれば「吹き消された、過ぎ去った、消滅した」という意味になるからです。
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心が此処路を有る居ている解きは まあ絵画か
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鬼和尚さんに質問ですが、金持ち父さん貧乏父さんを進めていますが、ネットワークビジネスをやっているのですか?
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時間は今ここにもないものじゃ。
全ては永遠なのじゃ。
>>32 していないのじゃ。
サイトの収入なのじゃ。
よい製品やサービスを提供するならばそれもよいものじゃ。
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鬼和尚さん、すいません。プライベートな質問でこのスレで質問をさせていただきましたが、聞くに忍びなくそれでも気になって質問をさせていただきました。すいません。ありがとうございます。
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無門関第七則 【趙州洗鉢】 じょうしゅうせんぱち
僧が趙州に問う 「あたらしく修行に入ったものです、なにか心得があればお伺いしたいのですが。」
趙州 「食事のお粥はいただきましたか? 」
僧 「いただきました。」
趙州 「では、その鉢を洗い去りなさい。」
朝飯前の 長州は調子ゅうが悪く、頭もまわらず気の利いた文句もでず、私もやる気もなく調子もでなく無くなくの
朝飯の後.頭にもやがかかつてまちまちも家々ももやがかかっている、さあとりあえずはまあよいか。
人間なんて年取れば頭はもやもや身体はぼろぼろ眼もよく見えず幾ら修行しても呆けていくだけ後は死んでいくだけ?
体ぼろぼろ?輪廻転生?新車来るまでまて ほっといても仏は至難の観だが?兎に角朝だ飯食うか
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すいません、プライベートな質問なので、です。
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>>34 何でも聞いてよいのじゃ。、
またおいでなさい。
>>35 当たり前のことを当たり前にやればよいのじゃ。
何も心得など無いのが心得なのじゃ。
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今朝の夢は何か怪物みたいな人?が女の人を狙うつていて殺されそうになるのを皆で助けようとして何度か助かつたけど
ある朝その女の人が自転車で坂を転がり落ちた先に女の人の死体が横たわつて道路で寝かされていたのだ。
人々は僧何デスノートに書かれて必ず死ぬ。肉体の死は身えるけど精神と言うか魂は身得ない世界にいるのかどうかも
他人の私には物理現象というか現実の法則を通してしか解らない。自分が死んだ先は身得て居ない今は私の目や声など
感覚で得たものしか見えない第六感は当たり外れの妄想で当てにならないし?でもデタラメは思いつくだけでもデータ
ーの霊となるのか?スビリ地あるの人はいい加減な人が多くて真面目なすピリ地あるの体験者は不真面目な人と分けが
分からなくなり死んだ先は良くわからないになる宗教はは死んだ先を示すのだがカルトの人の悪例が多すぎて科学的
な研究も現実利益もたらさないからに相手にされない。現代の人々の心は物に執着しすぎて精神は言葉では生死んと
言うし見えるものと見えないもの見える意識と見えない意識が此処路となつているのだろうけど宗教の今死んで
あの世に行つて見えない現実なつしまうのだろうか?現代に真面目なシャーマンは相手にされない時代なのか
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鬼和尚さん、少ない年金で老後どうやって暮らしていけばいいのでしょうか?金持ち父さん読んでみましたがいまいち資産を作れる気がしないです。別にお金持ちになりたい、贅沢がしたいわけじゃありません。一生働いてもいいのですが働けなくなることを考えると恐いです。このままいくと年金が月7万くらいです。どうしたらいいのでしょうか?
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ちなみに結婚する気はない無いですし、子供に面倒をみてもらおうとは思っていません。
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>>39 そのように難しく考えなくてよいのじゃ。
お金をポケットに入れてくれるものは全て資産なのじゃ。
アフィリエイトのサイトとか、趣味の本を書くとかなんでもよいのじゃ。
小さな収入でも積み重ねれば大きくなるのじゃ。
自分にはできると信じて実践していくのじゃ。
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>>39 そのように難しく考えなくてよいのじゃ。
お金をポケットに入れてくれるものは全て資産なのじゃ。
アフィリエイトのサイトとか、趣味の本を書くとかなんでもよいのじゃ。
小さな収入でも積み重ねれば大きくなるのじゃ。
自分にはできると信じて実践していくのじゃ。
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皆この世では僧じゃ無くてもありのままでそうなんだの修行者なんだから
力まんでもあなたのままでいて 少しだけまあ良いのも見上げたら大乗部の
何時ぽ一歩で年金が少ないけど先はなんとかなるようになるのは間違い無い
私は他人に気楽な無責任ですいません
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ありがとうございます。資産をコツコツ増やして行こうと思います。年金もこのまま国民年金だと7万なのでそこもなんとか増やして行こうとおもいます。すいません。素人Aさんも心配かけてすいません。ありがとうございます。
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昨日あれからあの世についてネット検索してスピりちァルの人の所にたどり着いた。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/index.htm あれこのサイトの何処か昨日見ていたのだが今朝はその所が
見つからないけど?死んだ先の世界では皆正しい神というか法則を信じているのにこの世の所では低級霊に
惑わされると言っている?皆正しいのにこの世では低級があるのか言っている事が矛盾しているけど真面目な
ひとなのに何でなんだろうと思つた。そして思いついたのだが?あの世はその人の思いの世界で同じような
考えの人しか居ないのかと思った。悪い人が死ぬだら同じ様な悪い人しか居ない世界があの世で?普通の
平凡な人が死んだら普通の世界が住みやすいと思つたからこの人の言うことは間違いでもないのかと妄想した
あの世は心の思いの世界なのか高級も低級も思い通りなのか?思い通りの夢ならば天国や地獄普通の世界
なのかも知れないけど?思い通りならないこの世うな色々な正解のある世界でへえそんな考えもあるのだなあ
正解は一つではなく色々あるのだなあまあ何だかんだと修行するのはこの世が向いているのかと思つた。
私も何言いたいのか頭悪くて適当に思いつく疑問は正しいすピリ地あるの人の意見はみなこの世では思い
だから違つても間違い無く色々あるそれはその人の思いだから?思いに正しいも間違いも無く
私も妄想している。 いま孝子さんふるさとで自転車こいでいるが出た。是れで下記終わるわ
ふるさとにて https://www.youtube.com/watch?v=K_RnpPciJ_M
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鬼和尚、私は悟れますか?
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何回も聞いて申し訳ないのですが、自我に気付く事を目的として、自分とは何か、自分じゃないものは何かを追求して観察すると自我に気付きますか?
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↑鬼和尚さんへの質問です。
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>>44 そうじゃ、年金も資産なのじゃ。
いろいろ試すとよいのじゃ。
またおいでなさい。
>>46 修行に励めば悟れるじゃろう。
怠けていれば悟れないのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
>>47 そうじゃ、気付くじゃろう。
自分がそのように思っているもの、認識しているものを探すのじゃ。
探しているものを探せば見つかるじゃろう。
実践あるのみなのじゃ。
-
>>49
探しているものを探すとはどういう事ですか?
-
夢の中で夢を語るのが宗教でも?大川さんのイタコが何で遺憾のか?何で信者以外馬鹿にされるのか?大川さんの場合夢を現
実と言い張るけどそれは大川さんが見たイタコの妄想は現実でも?外の人には大川さんのイタコ現象の現実?だからそういう
現実で大川さんのイタコはお釈迦様では無いと判断される現実?私もこのようなわけからん事書いてもあほかと思われる現実
兎に角わけわからんでも早く書き終えたい私の現実はにちやんでは文字になれば現実となる、でも此処わ仏教ですから?私は
私の眼しか付いていないしでも大川さんは沢山色々な眼に合うのだ。有る意味偉い眼に会っているお役目ご苦労さん、みんな
それぞれお役目に合っているし皆おんなじか?夢の中で夢をみんな文字文字している。ブラ不満の現実では成る世うには
成なっても思う世に鳴らないまあ良いかとに書く2チャンネルの仕事?書き終えたし後は朝のため息アー長いし意味不明
-
>>49
誰でも修行に励めば悟れるものなのですか?
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>>50 探そうとすれば自我が起こるのじゃ。
それが探しているものなのじゃ。
探しているものを見つけなければいかんのじゃ。
>>52 そうじゃ、励めば悟れるじゃろう。
お釈迦様も言っているのじゃ。
励むのは不死の境地への道なのじゃ。
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>>53
探しているものが、自我という事ですか?
-
続けて質問をすいません?自分とは何かを追求して観察して探しているものが自我なんですか?
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ラーマクリシュナ インドの光 真実を語る事が末世(現代)の修行だ、誠実さを粘り強く持ち続けていれば、
きっと至聖をつかむ事が出来る。誠実さにいい加減な気持ちでいると、人々はだんだん堕落していく
道は無限にある。一人一人違うからだ。理解能力と、性格によつて人は自分の道を選ぶ。他人の道を悪く
言ってはいけない。真面目に登つてさえいけばどの道でも必ず頂上につくのだから。
?からだは色々有る体我々も異論な未知を有る来野鴨今朝は短いけどまあ良いか
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素人Aさんの本を本屋で見つける夢見たよ
正夢かな
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>>54>>55 そうじゃ、自我によって観察しようとするじゃろう。
そうであるから観察しようとしているものを探さないといかんのじゃ。
それが観照を難しくしているのじゃ。
>>56 そうじゃ、真実を語るとよいのじゃ。
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ありがとうございます。観察しようとしているものを探してみます。
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海印三昧 玉城康四郎さんの解説の一部 ・・まず我々が生きているという事は、海印三昧でいえば、海の中を遊泳していると
いう事である。悟ったり修行したり説法したりすることは、この遊泳に他ならない。ところで遊泳といえば、人間は海面を泳ぎ、
魚は水中を動きまわるのだが、海印三昧の遊泳はそうではない。海上を泳ぎながらその足は海底についているのである。つまり
我々は仏の三昧のなかにあるから、われわれもまた仏の根底に徹底して泳いでいるということになる。道元はこのところを
「深深海底行なりと海上を行するなり」と言っている。まずこの点に元ずいて海印三昧が次第に規定されていく。・・・
第五に、以上述べてきた諸点も体験に他ならないが、ここではさらに三昧の体験そのものに注目する。道元はそれを「夜間の背手
模枕子」と言っている。夜間に手を後ろにして枕を探すのである。実は明暗を越えて何物にも触れない状況を指している。しかも
背手模枕子は、億億万功の計り知れない時間であるばかりでなく、このなかで常に法華経が説かれている。第六に道元趣旨を敷衍
して言えば仏道ばかりではなく、キリスト教も毛沢東も悉く万有でないものは無い。そこがすなわち海印三昧である。???
ビル遮那仏が我々の一人に三昧で化ける時は一生の時間を要するのか?それから他の人の一生三昧の観劇みんな三昧の面倒観
たらよつぽど感激好きなのか?浅はかなる浅原さんの中に一生の時間、殺人者の中の一生の時間の観劇も体験、私や師匠や
他のななしさんの一生も体験、真っ暗になつて体験もの凄い量の時間の長い大変な世界の観劇体験ご苦労さんブラフマン?
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>>59 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
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正法眼蔵 夢中説夢 もろもろの仏祖が世にお出ましになる道は、世の兆しのおこる以前のことであるから、
文字に捕らわれる学者のいう議論ではない。それゆえに、仏祖においてもなお仏自身を越えていく力が出るのである。
仏祖は時間に関わりがないから、その寿命も長いとか短いということは関係がない。われわれ分別・想像をはるかに
超えているのである。法輪が転ずるということもまた、世の兆しのおこる以前の定めである。それゆえに説法の
いさおが大きすぎて恩賞の施しようのないというのが、千古にかかわらぬ標準である。このことをここに夢中説夢
するのである。悟りのなかにいながらなお悟りを現していくのであるから、それが夢の中で夢を説くというのである。
(つづく)?私の見る夢はろくな夢が無いいっも五里霧中で動物の様に周りに怯え不自由に苦しんで入るけど?仏も
この世では夢中になってわけわからん来るしんで入る野鴨?だから少しは仏の為に坐禅使用
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鬼和尚さん 何で夢は私が見るのに苦しいのばかりで夢の主人公は私なのに
思い通り良い夢を見られないのか?という事は現実は仏の夢の中として
仏は思い通りにならず来るしんでいるのか?仏の夢の中の我々が佛さんご苦労さんと
我々が禿増せばまあ良いこの世に佛観劇するのかもで 仏さんがんばれ我々がついている
夢をあきらめないで https://www.youtube.com/watch?v=JUqG5ArvZ7E
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それはそうしようと意志を起こし、練習しないからなのじゃ。
夢の中で目を覚まそうと意思をして、夢を意識できたら今度は変えることも出来るのじゃ。
先ずは夢の中で自分の手を見ると寝る前に強く念じるのじゃ。
夢の中で手を見れたら意識できるのじゃ。
それから夢を変えられるようになるのじゃ。
実践あるのみなのじや。
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鬼和尚さん夢の中でその手は無かったまあ最初から上手くはいかないコツはコツコツか?夢の中で坐禅するのが
一番か?今朝の夢はギャンブル三昧の私がオケラになつたのか家族つれて都会から田舎に転がり帰る夢詰まらないし
面白く無いし幻日の夢だった。 夢中説夢(つづき)この夢中説夢の処、これが仏祖の国土である、また仏祖の会座
である。仏の国土仏の会座、あるいは祖師の仏道祖師の法席は「悟りの上でなお悟り」、「夢の中でなお夢を説く」
のである。この夢中説夢にあいながら、それは仏の会座ではないと思ってはならない。これこそ仏が法輪を転ぜ
られることである。この法輪は十方・八面転がってあますところが無いから、大海も須弥山も、諸々の国土も、
ありとあらゆるものが悉く成就している(つづく)さあ今日は日本でもプロの名誉名人がコンピューたーに負け
一勝ち一負の勝ち負けがニコニコである。これから先は頭も機械のオマケになるしか無い野鴨
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そうじゃ。毎日念じて行なえば少しずつできてくるのじゃ。
精進あるのみなのじゃ。
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神秘家の道と芸術家の道には関連がありますが、両者の違いは(「インドラの屈辱」伝説における<長髪者>のように)神秘家
が世界を無関心あるいは軽蔑とともに眺めるようになる事がありうるという事です。苦行について述べた文献には、身体お
よびその機能と欲望を軽視する言葉がふんだんに出てきます。ラーマクリシュナの高弟スワミ・ヴェカナンダは死ぬ瞬間に
「私は身体を吐き出すところだ」と呟いたそうです。
一方その技術によつてあるがままの世界への愛を持ち続ける芸術家はバラモン、牛、像、あるいは犬を食うもの
〔賎民〕殺すものと殺されるものを平等に見ながらも、その各々のなかにー魅惑された神秘的な静止においてであれ、燐憐
(共有された苦悩)においてであれ、純然たる恐怖においてであれー自分自身と同じ何かを認識せざるをえません。・・
夢と空想が明かす各人の最奥の真理について語りつつ言明しているのです。「人々は彼の同朋愛を放棄すべきではない、
たとい最も罪深い人間に対してであっても」。・・・?この用にして着たのにこの世を切り捨てるとはキリストゴメン
罪深いアーメンオチが今朝はだめだこりゃ
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世界と自分に違いはないのじゃ。
観念がなければ全てひとつなのじゃ。
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千の顔を持つ英雄 ・・「ヴェーダによっても、苦行によつても、布施によつても、祭礼によつても、汝がいま私を
見ることは出来ない」とクリシュナは、いつもの姿にもどつた後語っている。しかしひたすらの献身愛によつて、
そのような様相の私は真に知られ、かつみられ、そして参入されるのである。わたしのためにはたらき、わたしを至高の目標と
みなし、私に身を捧げ〔執着を離れ〕万物に対して敵意を持たぬ者ーこうした者は私の許にいたる。同様にイエスのくだしている
定式はその点をさらに簡潔にまとめているー「わたしのために命を失う者は、それを享けるであろう」この意味は大変明解で、
すべての宗教適行為がもつ意味となつている。精神上の修行をながく積む個人は、その個人的限界、個性、希望、恐怖に
たいする執着をすべて完全に放棄する。そうすれば真実を悟って再生するのに欠くことの出来ない、自己消滅にももはや抵抗を
示さず、ついには〔超越なるものと〕大いなる一体化の機が熟してくる。己の個人的な野心は完全になくなつて、
かれは生への執着を離れ、己のなかで何が起こるにせよ、喜んでそれにゆだねる。言い換えれば一人の無名の存在に
なるのである。〔そのとき〕「宇宙の法」はその人物の無条件の同意を得て、かれのなかに住みつく。
?私はどういっても文句言うし宇宙なあ?今は市内の中から出られない脳力だし臨死の人は宇宙的愛と光明の白い光に出会うと
立花さんは言うけど今は欲わからんなあ私我私画まあ絵画かで他の四苦有る苦野鴨
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それではまだ忘我になるだけなのじゃ。
己を捨てても己に縛られているのじゃ。
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適当に心みるけど心は見れず。適当なのがまず良い事内、真剣な皆さんと私のいい加減さ比較して分別してもしょうがない。
理想世界を一望に見る事もなく、波乱万丈の観戦もない、一心に心が纏まる事もない、明日はまるで今日見なくなるし、
精神は統一されず、諸行は無常だけが永遠に続く。毎日一途が私に無いのか?悟りそんなの何の足しになるのか、
今日も身廻り半でヨウガ無い簿脳の上の続きは何時書くのかやる気無いし 身得るものは私の眼や脳が足手纏いで
皆それぞれ脳力がちがう、人の脳、宇宙の脳、身に付いたものしか内ので身縁ものは見えん。今朝はこのネタで勝負。
私の脳は考える力は無いので書いているものは適当?出鱈目なる様にしか成らなし内容も無い、そういつて無責任に
書き始めると観える仏はほつとけないと思うのか?出鱈目の助け舟だしてまあ何とか書ける、私は苦労なく書けるので
サボり癖が最近付いてシマッタ。禅が全然しゃまず良いことは無い。言いたいことは大法輪の脳は凄いのだということ、
観えるものは皆生きているそれは心理学的ビル遮那の脳の中で妄想する。
今の私では光明に与つても損な所に長くいると他保加と思うし盆脳に帰る野鴨まあ良いか
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いい加減でも実践し続けるとよいのじゃ。
続ければ力になるじゃろう。
実践あるのみなのじゃ。
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私は騙されません仏橋では死んだら物はあの世に持つて行けないとじゃ妄想や煩悩の思い出は幽霊の例もあるし
此処路の思い出はもしかしたら持っていけるけど仏山レベルの経験では妄想はレベルが低く悟れないから理想的
では無いという事を利用してぶつ京都なら理想追求のためによく言えば方便だけど悪く言えば衆生を騙しいい方に
導こうのスケベ心が見えるでもそれが無いと法華経ではもーええている家の中に夢中で遊んでいる子を助けるために
教典とかいう方便で騙しも大丈夫になるということか?まあいろいろ矛盾を突く現代の私たちは扱い憎い昔の
素朴な人々は騙されても幸せだつたのか?御釈迦さんや和尚さんのいう事聞いた方がお得なのか?自由な現代の人は
でも暮らしいに騙されて幸福になるバズだつたけど競争が激しく金につかわれ自由も無く核や人工知能や路没とに
追い越されその内人類のお陀仏のドラマが信仰していくのか?でも先はだれもわからない仕掛けでサイコロを
信じれば今だけ不安忘れてあそびまわれるしまあええか?家がもえています世私は騙されないけど
もつとマジ゛目に憧れるだけか?キリスト今日も国家に死組み込まれただけだし自立出来ない我々は衆生◎だし
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実践によってのみ確められるじゃろう。
実践あるのみなのじゃ。
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心身学道 ・・百丈大智禅師が言うに「本来清浄・本来解脱であつて、自己そのままが仏、自己そのままが禅道であるという
見解に執着するものは、自然主義の外道に所属している」と。この言葉は無用の壊れた道具のようなものではない。学道にお
いて、功徳を重ねた結果である。俗界を飛び越えて、八面玲ろうの玉のようであり、また真脱落して、藤が樹に絡まるように、
安心立命している。「あるいはこの身を現して、みずから解脱し人のために説法する」場合もあり、「あるいはあの身を現わ
して、みずから解脱し、人のために説法する」場合もあり、また「人のために説法しない」場合もある。そういう場合である
から、身を捨てれば「声を揚げて響きを止める」ほどの大音声の説法をすることもでき、命を捨てれば二祖慧可のように腕を
切て諸祖達磨の髄を得ることも出来るたとい威音王より以前学道始めたとしても、やはり自分みずからが仏祖の児孫として
仏道を進めていかなければならないのである。 ?捨て身?いの一番の身をすてる?私はまごまごしてしまうまだ学童か?
身を捨ても素敵な観は基本ができていれば何で瞑想できるけど?我流では妄想になつている。学習は基本のコツコツ鴨
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そうじゃ無見解なのじゃ。
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アインシュタインの相対性理論にエネルギー式 E=質量×光速の二乗 があるこれパクツテ
エネルギー=身体(物質的)×精神(霊?)という関係があれば.心身脱落すなわち身体が死ねば霊の力は強力になる鴨.でも
仙道では物質化したものを作るとするとEつまりエネルギーは限りなく大きくなる
私はやらんけどタオの本の図適当にみてイメージ的に我流で創造すると。修行者が金の卵を産むさあ鳥という母親鳥?になり
坐禅しながら丹田?つまり子宮の位置から小鳥の金の卵?になり親鳥のの空だを周り続け成鳥するのが小周天の修業だと思えば
坐禅しながら出来ているか?是なら危険も無くコツコツとあせらずに技術も無く続けられる鴨。私は三昧という言葉は解らん
けどラーマクリシュナの成りきりの術凄いから多分夢中でなりきり実行が三昧かも、大周天まあ其れはまだ先。要するに
自然な坐禅が小周天で自然に私の中の仏が卵から目覚めて成長してくるのかも。男でも母になる野鴨、適当にタオネタ改造の
妄想実行は私はやる気が無い??、でも私の体は何か知らんものが嘗てに煩く回っている小周天?クンダリニ?何か今
尻尾にエネルギがある
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気は丹田にあるのじゃ。
尻にはないのじゃ。
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千の顔を持つ英雄 2宇宙の循環 個体の意識が眠りに落ち込み、またそこから奇跡的に目覚めてきて夜の海上に浮遊する
様に、神話においてもイメージとしてあらわされる宇宙は無限的時間から忽然とあらわれ、無時間世界のうえに漂い、ふた
たび無時間的世界に消滅していく。そして個体の心身の健康が無意識の闇夜から醒めた白昼の領域へと流れる生命力の規則
正しい流れに依存しているようにのと同様に、神話においても宇宙の源泉はから流出する力の制御された流れによつてよっ
て確保されている。神々はこの流れを支配する法則の象徴的な擬人化にほかならない。神々はこの世の夜明けとともに生ま
れ、黄昏とともに消えていく。神々は夜が永遠であるという意味合いで永遠なのではない。人間存在のごく短い持ち時間を
尺度にした場合に、宇宙創世記の循環が{環を閉じずに}永遠に続いているようにみえるにすぎない。(つづく)?私の脳力は
殆ど良くわからない脳の面積も小さく地球と比べたら蟻のままで宇宙から無視される師脳の飢えを見れなくイライラ宇宙脳
使えないでも良くわからない能力暗いが住みやすい野鴨。アスカさんみたいに薬で能力覚醒しても低級な妄想しか相手に
されないしよく分からないままに無理をしないのがまあコツコツ鴨
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観念がある時現れるように思うのじゃ。
実際は全ては無観念なのじや。
-
海印三昧 玉城康四郎さんの解説の一部 ・・まず我々が生きているという事は、海印三昧でいえば、海の中を遊泳していると
いう事である。悟ったり修行したり説法したりすることは、この遊泳に他ならない。ところで遊泳といえば、人間は海面を泳ぎ、
魚は水中を動きまわるのだが、海印三昧の遊泳はそうではない。海上を泳ぎながらその足は海底についているのである。つまり
我々は仏の三昧のなかにあるから、われわれもまた仏の根底に徹底して泳いでいるということになる。道元はこのところを
「深深海底行なりと海上を行するなり」と言っている。まずこの点に元ずいて海印三昧が次第に規定されていく。・・・
第五に、以上述べてきた諸点も体験に他ならないが、ここではさらに三昧の体験そのものに注目する。道元はそれを「夜間の背手
模枕子」と言っている。夜間に手を後ろにして枕を探すのである。実は明暗を越えて何物にも触れない状況を指している。しかも
背手模枕子は、億億万功の計り知れない時間であるばかりでなく、このなかで常に法華経が説かれている。第六に道元趣旨を敷衍
して言えば仏道ばかりではなく、キリスト教も毛沢東も悉く万有でないものは無い。そこがすなわち海印三昧である。???
ビル遮那仏が我々の一人に三昧で化ける時は一生の時間を要するのか?でも色々な人に優しい人は浮気者と我々には見えるし
-
三昧を解くのは無意味なのじゃ。
道具に過ぎないものであるからのう。
大工がこれから創る家を語らずのこぎりを語るようなものじゃ。
-
超訳【無門関】の本文コピー 第16話 鐘が鳴ったら食事の時間 原題「鐘声七條(しょうせいしちじょう)」
食事の合図の鐘が鳴ると、坊さんたちは皆一斉に外出用の袈裟(七條)に着替え、ぞろぞろと食堂に向かいます。
それを見ていた雲門和尚がぽつりと言いました。「世界はこんなにも果てしなく広がっているというのに、
君たちは何でまた、鐘の音を聞くと、いつも決まったように袈裟に着替えるのかね・・・・・・」
仏さんたちも空見た事かとのんびりばかりで、さあほつていると修行にでる鐘がなると船に乗せられこの世うに
氏名されてて来たのか?やる気の無いほとけや、政治の理想に燃えた仏や宗教家等色々な役でこの世で働け。
それは真理ませんと?でも自然に良くわからなくても前かで、みんな立場がわかっているような分からないような
盲このように行くしかない?押し出された観点か?けつきよくあなたの夢をあきらめないでこのようにでがんばれ、
遠く空応歌あなたの夢をあきらめないで またあ自然に分かつてくる歌がいなくても歌がある。我々はこの世海栗
して喜多しこの世で金縛りに会う役で悟り何手困難で諦めていいのか?悟りなんて事場にしか存在竹刀し私は僧では
無いと諦める運命の役だし?役に責任を押し付けてしまうしなるようになるに逃げているなるようになると逃げて
いるけどみなそれでも大乗部だ世お?夢をあきらめないで https://www.youtube.com/watch?v=6rByj71yURY
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なんか前にも見た気がするのう。
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道とは何は〔76〕上堂「何かしゃべつたものかどうか、道を体得した上での発言なら、一日中
しゃべつてもみな道にかなつているが、道を体得しないままでの発言なら、一日中みな俗物である、
まあ言ってみよう、道と物とは一体か別か」。 ゾクゾクして答えるのは落とし穴に嵌るのか?
でも答えなきゃ2ちやんでは困るし運命も運命具合にきまつているのか?とおキーの中過去が
きまつているのは私にも解るけどそれは未来空見える如来と同じDVD現象化つまり我々には良く
わからんけど運命のなかで今撮された日仮の中で我々は身得ている野鴨?でも過去現在未来に変わ
らなく永遠に存在するものが学んでいくカラー未知が道になるのか今朝も行を重ねて長くしている
だけでは無いのか意味は殆ど何も無くそれは無意味かでもデタラメではない時間もないのだから(
笑)が無い今朝はつまらないつまり運命なんて分かる人には分かるし解らない人には解らない法則に
なつている今朝は落とし穴の中でもがいているけどオチが内
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さあとりあえずの私は今おもつた。
過去は動使用も無い 今は無理せずに出来るだけ動(笑)
未来はボケでもガンでも最終的に死ぬや個の身が牛NOW場仮と何でも受け入れ
実工できれば即悟り真下 でも思うばかりの悟り鏡磨の七日
頭が悪いのに級級して囲碁が来たら何でも受け入れるのが悟りな野鴨
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そうじゃ、できることをするのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
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そうじゃありのままの自分を観るのじゃ。
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・・・二つの息がこのように融合するまで、中央の門は閉じられたままです。つまりまず必要なのは、修行している
個人の意識(肉体の中にある意識)が、万物を生気ずけ照明する普遍的な太陽の意識と同じものとして経験される事な
のです。さもないと、精神は物質性の中に閉じ込められたままにとどまります。あるいはなんらかの超自然的な空想
に心を奪われて(宇宙は物質のみからできているのだから)魂ないし精神はどこか宇宙とは別の場所に探しもとめられ
るなどと考えてしまう事になります。不死に至る門を守る二つの恐ろしげな像は仏教の観点からすれば、単純に次の
ように解釈されるのでしょう。それは聖域への進入を阻もうとする外的な神の意識を表すのではなく、肉体の死に対
する脅迫的な恐れを表している、と。聖域に入ることを拒むのは、この人間自身の意志なのです。なぜなら仏教の考
えでは我々はすでに不死性を獲得しているのであつて、ただ現世的な目標に対する精神の執着のゆえのみに、われわ
れはこのことを忘れてしまうのですから。物質的欲望と恐怖(ゴータマ、シャムニー王子が仏陀の境地に到達した夜に
克服したのは、この二つの誘惑でした)のために私たちは(楽園)から皮肉なことにー私たちはすでにそこに住んでいる
のですがー自分を追い出してしまうのです。仏教の教えでは<楽園追放>などということは起こらなかったのです。ただ
精神が誤った焦点にむけられているだけなのです。・・・宇宙意識より。?生きるには腹へつてハングリー蛇なければ
生き残れない動物だし仏は適当だなあ今は蛇いな生き方しないと生活が守れない佛今日はお金持ちのボンボンの趣味
なのかストレスの無い動物はすぐ食われて死ぬしキリスト教や浄土真宗は楽に生活修だけど生きる不安がないと
失敗も大石閉じられたままで駄作行きましよう?
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合一しなくとも気が多ければ中央の門は開くのじゃ。
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・・ひとりで菩提樹へ歩み寄りそこで<不動の地点>に身をおき東に向きました。そのとき彼の前に時間を働かす力の神が姿を現
しました。その三つの名前は「欲望」、「死」、「社会的義務」です。この神はその最初の様相たるカーマとして三人の華やか
な娘たち<欲望><歓喜><恋慕>を見せましたが゛祝福されたものはいささかも心を動かしませんでした。次に神は恐れを呼び起こ
す姿をとりました。たちまち食人鬼の軍勢が現われて、武器や火や山までも祝福された者の上に投げつけたのですが、釈尊はま
ったく動じませんでした。すると飛んできた武器は空中で花の捧げ者に変容したのです。最後に<地上の義務>の神ダルマ、この
世を支配する神が出てきて、詰問しました。自らの王国にまつたく無関心にそこに座っている権利がおまえにあるのか。と。す
ると未来の仏陀はただ右手を動かし指先で大地にふれただけでした。そのとき一つの声が天地に響き渡りました。
(つづき汝のよこしまな試みを止めるがよい。おとなしく去るがよい。その徳によってこの中央の場所に到達した<偉大なる存在>
がその決心を捨てることはけつしてないであろう。するとその神は、娘たちと軍勢とともにすがたを消しました。そしてその夜
<祝福されたる者>は(1)超越的なビジョンの眼(2)諸生の彼方にある生の智(3)万物が相互依存において生成するという縁起の法、
という三つの理解を得たのです。それゆえ彼はいまや「覚者」つまり仏陀の根源となりました。それから釈尊は世界の中にあつ
て目覚めたままとどまり神秘的な道の教師となつたのです。? 今朝は本の丸写しだけ他保加移
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義務など無いのじゃ。
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私は囲碁昇級したのは良いけれどこのところ相手に読み負けて石を取りにいつて悉く自分の意思が取られている
オマケの図となつている。百読みより一観に鹿図というけど凝念じょうりょの修行しなかったので悔しい事に
なっているのかぽ師匠や鬼さんや名無しさんたちは瞑想が映像化で映画のように見えるのだろえなあ。山下清画伯
みたいにサバンの人みたいに石が映像として見えれば相手の石を簡単に取れるのになあ?今から悔やんでもしょうが
無い今からでも遅くないか盤面映像化計画で座禅に取り入れて基礎の念の集中だ道元さんたちは何もなくても
妄想いや瞑想で良いものみて聞いて美味い肉をいくらでもタダ食い出来るのか凄い瞑想三昧に遊べるから
貧乏でも何でも手に入れられるという事なのかも。なんだ世界何手まあトリックの作り出す幻日だつたのか?
でも以後負けたくない今からでも観察修行は遅くないのかでも厳しい修行しないと身につかないし今までで
もまあ良いか、でも貧乏が即大金持ちに化けられるなら全てが手に入れられる美女も?それは瞑想ではなく妄想の鴨
でもそれは絵画ぞう
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みようとすれば誰でも見えるのじゃ。
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生きる自由 ・・・神話の目的は個人の意識と宇宙の意識とを和解させ、それによってこの様な生命の無知にたいする要求を
追放するところにある。さらに和解は時間といううつろいやすい現象と、すべてのなかで生きかつ死に行く不滅なる生命の真
の関係を悟ることによって成立する。「人が着古した衣服を捨てて新しい別の衣服に着替えるように、自己も古びた身体を捨
ててあたらしい他の身体に入って行く。この自己を剣は切らず、火もこれを焼かない。また水もこれを濡らさず、風もこれを
乾かさない。この自己は切られず、焼かれず、濡らされず、乾かさない。恒存し、偏在し、堅固、不動な自己は永遠である」
行動の世界で、人は己の行為がもたらす結果を思い煩うなら、永遠の根源にたいする集中力を失ってしまう。しかし己の行為
とそのもたらす成果とを「生ける神」の膝に捧げるならば、供え物と同じようにそれによって死の海の束縛から解放される。
「執着なく、つねになすべき行為を遂行せよ。・・・すべての行為をわたしにまかせ。自己の心を念じて、願望なく、所有欲
を離れ、憂悶の苦熱を脱して、戦え」このような力強い洞察を獲得し、落ち着いて自由に振舞い、ウイラコッチャの恩恵が和
が手を通じて流れ込むのを活き活きと感じる時、英雄はその生業が屠殺業であれ、はたまた王であれ、恐るべき荘厳な「宇宙
の法」の自覚した搬送者となる。
-
新しい体などないのじゃ。
全てが体なのじゃ。
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アクイナスはこう言っている「『三つのものが美には必要である翻訳すれば、全体性、調和、そして光輝』となる」。全体性この
原理の機能は、みずから規定されかつ規定するような、実践とは関わりの無い、閉じた錬金術的な場を創り出すところにありま
す。それがどんな効果をもつかを見るには、何でもいいからいくつかの事物の集まりー例えばテーブルの上の品物の集まりを眺め
て、創造の中でその周囲に枠をおいて見て下さい。すると枠の中の事物の総てが「ひとつのもの」と見なされるでしょう。それは
もはや、いろんな用途をもつ無関係な事物の集合では無く、ある構成の部分であり、相互に関係づけられています。その枠の外に
あるものー例えばテーブルの部分は、いまや「他のもの」となり、枠の中にある事物のすべては一つのものになります。スティブ
の言葉では、「君はそれを一つの全体として見る。その全体性を認識しているわけだ、これが全体性なのさ」というわけです。
(つづく)?輪から内解ります。目の前のありのままの風景も画といえばまあ画絵丸出しさてさて
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光が必要ならば電灯をつけるとよいのじや。
-
(つづき)調和 さてこのような構成ができると、次に重要なことーそして重要な事のすべてーは構成の中のそれぞれの
対象ないし事物が此処にあるのか、あちらにあるのかという事、つまり部分に対する関係、各部分の全体に対する関係、全体の各
部分に対する関係です。これが審美的な道具としてのリズム、すなわち調和です。その要素になるのは、事物、色彩、言葉とその
音、楽器、建築の部分とその比率などが考えられます。スティブンの言葉によれば、「君はそれの形の線に導かれ、点から点へと
眼を移してゆく君はそれを、その限界内で均斉のとれているものとして認識する。その構造のリズムを感じるわけだ」ということ
になります。輝き リズムがぴつたりあつたとき、人は喜びの中にとどまり、それに何か他の効用があるかどうかまったく考えま
せん。スティブンはこう言っています「君はまさにそのものであって、他の何ものでもないということを知ったわけだ。
〔アクイナス〕がスコラ学派の「クイッディタス」つまり事物の「そのものであること」について言つているのがこの光輝なの
さ。この至高の徳性は審美的映像が芸術家によつて感じられるものなんだ。こういう審美的瞬間の心を、シェリーは燃え尽きる
炭という美しい比喩で説明している。美の全体性によってとらえられ、美の調和によって魅惑されていた心が、美のこういう
至高の徳性、審美的映像の明るい光輝を輝かしく認識するこの瞬間こそは、審美的快楽の輝かしく静寂な状態だよね。(つづく)
?今朝も夢に中ではバカ正直に迷い苦しんでいたつけ起きてからもっと要領よく生きよと思うけど夢なんて僧いうものか
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美醜もまた観念のみなのじゃ。
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玉城さん訳の現性公案 ありとあらゆるものが仏法であるとみるときはには、迷いもあり悟りもあり、修行もあり.
生もあり.死もある。しかしありとあらゆるものが無くなったときには、惑いも悟りも無く.諸仏も衆生もなく
生も滅もない。一切は無である。仏道はもとよりこのような有無の境界をとび抜けているのであるから事実は事実
のとおり、生滅もあり、迷悟もあり、衆生も仏もある。しかしそうでありながら花がちればまことに惜しいし、くさ
が茂ればいやなものである。
?ぽ師匠のリンク貼ったひろさちやさんの道元の話見たけどひろさちやさん何かなあ、ひろさちやさんあ軽すぎ
の人で明るく道元の身心脱落で森田童子も暗いだけだった。けどまあこの人たちもまあ役立つていると不満だけど
夏得するか 玉城さんのざ前は想い
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別に惜しくは無いのじゃ。
また幾らでもさくからのう。
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今朝は寝過ごし今仕事準備しないと時間がない。書こうとするけど過去のメモ移すか?早くしろ奴隷の身は夢とは違う?
皆それぞれ脳力がちがう、人の脳、宇宙の脳、身に付いたものしか内ので身縁ものは見えん。今朝はこのネタで勝負。
私の脳は考える力は無いので書いているものは適当?出鱈目なる様にしか成らなし内容も無い、そういつて無責任に
書き始めると観える仏はほつとけないと思うのか?出鱈目の助け舟だしてまあ何とか書ける、私は苦労なく書けるので
サボり癖が最近付いてシマッタ。禅が全然しゃまず良いことは無い。言いたいことは大法輪の脳は凄いのだということ、
観えるものは皆生きている。ビル遮那の脳の中で妄想する。
?これでは私はひろさちやさんと何ら変わらないではないか本の読みすぎか適当修行者のひたむきさがなく何ら学者と
変わらんではないか大川さんのいい加減さも親しく感じる現代に修行を求めても流行らんしまあ良いか?
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書かなくとも実践すればよいのじゃ。
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幸せな家庭は皆お馴染みな顔というか生活しているけど?不幸な家庭色々な過程がある。あんな家庭になトルストイだつた
け記憶曖昧。今思えば公案なんて凝念と嬢呂の練習三昧で悟れば皆同じ観なのかまだまよつている私には今日観ひく公案
色色得修行が面白い野鴨。木の上で葉っぱ咥えている時通りすがりのひとが達磨が中国に来たのはなんでかと問うた。
これと片手の人の席種の声は同じ他のも同じ考案の修行だ。面白くゲームで遊ぶ為に同じものを色々にして修行を続け
させる臨済宗は飽きないように工夫しているけど曹洞宗も坐禅だけでは幸福な悟つたひとしか役立たないのか。言っている
事がデタラメ嘘発飛躍の妄想かでも早く書かなきゃ書き込み進まない。囲碁も考えるの放棄して寄せで勘違いがでて
当たりになつているのに他の数目稼ぎにいって大当たりの石が取られる毎日だし感がすべてのノータイム自慢はオマケの
元とわかつているけど時間を使うのは弱い人と馬鹿にするでもコツコツするのも才能かも知れないけど私は行えない。
でも毎日の書き込みは出来ているからまあ良いか。当たり前に毎日凝念上呂したいけど面白くないしでも少しだけでも
使用でも考案犬にもも同じ手だし坐禅もな損なことではあまずいなあまずいなあで今日も過ぎていくなあ
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悟れば異論な梨の味は三昧と観つつは何ですか?
喜びエネルギーと熱神なエネルギーとそして疑ううす暗いエネルギー
で自己世界は均衡が取れていたとそれはヨーガ無い
明日も本スレ立たなければ無駄な1500円投じてあまり役立たんけどプレミアム会員になり
安心して本スレ立て増す 頑張る象
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味の違いはわかるのじゃ。
好悪の判断はないのじゃ。
そんなに金を使わなくてよいのじゃ。
無料あるのみなのじゃ。
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空即是色ネタ キャンベル 人は聖地を創り出すことによって、また動植物を神話化する事によつて、その土地を自分のものに
します。土地に霊的な力を与えるのです。そこは一種の寺院、瞑想の場になります。たとえばナバホ族は、みごとに動物を神話
化しています。ナバホの砂絵を見ると、小動物たちがそれぞれ独自の価値をもつものとして表れています。その動物はありのま
まの形で描かれているのではありません。様式化されています。そしてこの様式化は、動物たちの単に物理的な特性ではなく、
霊的な特性を示す手段です。例えば大きなハエがいます。そのハエは、あなたが砂漠を歩いているとき、ときどき飛んできては
肩に止まります。ナバホの神話ではそのハエは<大きなハエ>とも<小さな風>とも呼ばれています。試練を課せられた幼い英雄の
耳元で、父の出した難問の答えをそっと教えてくれるのがこのハエです。<大きなハエ>は隠れた知恵を明かしてくれる聖なる霊
の声なのです。でそれら総ての目的は?土地を自分のものにすること、土地を霊的な意味の深い場所に変える事。
?良い例は今ここで坐禅や瞑想使用早えー今朝はまあ良い霊がついてきた早くしろでもモジ文字我早くしろ プレミアム使わんでも
晴れたでも他のも立てなきゃならないし有難う
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様式化も観念化なのじゃ。
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霊の正解はバーチャルの仕組みソフトと考えればこの世の法は
誰が決めたのだろう。
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まこと君ネットで悟れたかの人も新鬼スレにはこないだー運もないし。笑っちゃ魚の人は海だしたので泳いでくる冬だなあ。
佐保田鶴治さんのヨーガニューモンアマゾンで買おう500円位の古本がある師、
「<224ページ ヨーガの究極の境地 より>(三昧についての説明の流れから)
このすばらしい体験は、ほんのしばらくしか続きませんが、しかし、それから元の心理状態にかえったあとも、そのときの体験で
得た印象は人生についての深い智恵の形で残り、その体験の余香である一種のムードは、その人の人格を平静、明朗なものにかえて
しまうのです。 ヨーガの究極目的は、真我、または自分の内部に本具する神性を実現することにありますがそれほどに高い目的を
達成するには至らないまでも、ヨーガ的な方法でココロの調練を重ねてゆくならば、評価しきれないほどの大きな利益を得ることが
できます。 一生のうちに大きな仕事をした人びとは、生まれつきか修練かで、このヨーガに似たココロのコントロールができる人
であったのです。」 ?本のすこしの好奇心を大切に生きよう有りの間の自分を見つめている空カラー少しだけのほんの体験が
一生懸命の思い出になる師で500円いや長い時間を禿増すとで 長い時間 https://www.youtube.com/watch?v=9_4hWYeGsig
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修行を続ければいくらでも長く続くのじゃ。
更に自らの本心を観るべきなのじゃ。
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(つづき)〈直感と智恵より〉思考と直感を区別すると、思考は分析的、抽象的、理論的であるのに対して、直感は、総合的、
実線的であるといえます。知覚経験は一種の直感ですが、この他にももうひとつ直感があるのです。それは知的直感と呼ばれる
ものです。哲学の根源となるものはこの知的直感です。知的直感は経験的直感とも違い、概念思考とも違つています。
知的直感の内容は不変的ですが抽象的ではなく、具体的ですが特殊的ではないのです。いわば具体的不変的ともてうべき性格の
ものです。三昧とか定(じょう)とか言われる境地はこの知的直感にほかならないのです。この境地に達して初めて哲学から
高い知恵が生じ、それが生きた力となるのです、哲学が説く真理はそのままでは生きる力にはなりません、知的直感を介して
知恵になったときに初めて「生きた真理」となって、我々に信念と活力を与えてくれるのです。
ヨーガネット佐保田さんの本の一部 http://d.hatena.ne.jp/uchikoyoga/20110928
?うんそうなのかやっぱ我々も身得る身体というソフトで見えるのと一緒で悟りのソフトは瞑想の凝念ジョウロ身につけたら三昧の
エネルギーが具体的に観えるのか坐禅コツコツ止観コツコツの神社作りすれば知恵が舞い降りるのか解らんけど知つてるつもり
まだ冬でも私の所は100円ショップのおワンに白いご飯を大盛り美味い。観察も知恵のソフトだつたのか?でも実践しないのか
?
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直感も思考の末にあるものなのじゃ。
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大川さん観ていると正しい思考や安易な感では碌な霊は来ないやつぱ
実力観につけないとひどい目に合う例か、大川さん有難うまあ何だかんだ
で私も目の前の餌に釣られておまけにでも一歩ずつ前に進んでいる野鴨
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宇宙意識キャンベルさん
アクイナスはこう言っている「『三つのものが美には必要である翻訳すれば、全体性、調和、そして光輝』となる」。全体性この
原理の機能は、みずから規定されかつ規定するような、実践とは関わりの無い、閉じた錬金術的な場を創り出すところにありま
す。それがどんな効果をもつかを見るには、何でもいいからいくつかの事物の集まりー例えばテーブルの上の品物の集まりを眺め
て、創造の中でその周囲に枠をおいて見て下さい。すると枠の中の事物の総てが「ひとつのもの」と見なされるでしょう。それは
もはや、いろんな用途をもつ無関係な事物の集合では無く、ある構成の部分であり、相互に関係づけられています。その枠の外に
あるものー例えばテーブルの部分は、いまや「他のもの」となり、枠の中にある事物のすべては一つのものになります。スティブ
の言葉では、「君はそれを一つの全体として見る。その全体性を認識しているわけだ、これが全体性なのさ」というわけです。
(つづく)なんにも描かない白いキャンバスは禅の無と言っても芸術家庭これから描く前の世界画ある
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周りの者が大川さんを操っているようじゃのう。
哀れな事じゃ。
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ヨーガ入門の続き凝念と静慮のちがい<218ページ凝念と静慮のちがい より>
理論上では、凝念と静慮は、はっきりと区別することのできる、思念の二つの型なのです。静慮(ディヤーナ、禅那)は、
ヨーガ経典のなかで「同一の場所を対象とする想念がひとすじにのびてゆくこと」と定義されています。
凝念と静慮とでは、ココロのはたらく方向がまったく逆だともいえるのです。凝念は、その思念の対象をできるだけ
単純なものにしぼり、そこに注意の焦点を凝結させます。しかし、静慮のほうはココロをのびのびと進展させるのです。
凝念は集中的であるのに対して、静慮は拡大的なわけです。凝念のねらいが、なるべく狭い範囲へ注意の焦点をきめて、
その対象をできるかぎり明確に意識にのせる作業であるのに対して、静慮のねらいは、凝念の作業によって得られた明確な
意識をあらゆる瞬間に持ち続けながら、選ばれた対象についての想念の流れを、だんだんとひろげてゆくことにあります。
凝念によって制限された狭い視野のなかでとらえられた対象が高度な明せきさで意識されるようになったとき、それと同程度の
明せきさでそれよりもひろい範囲のココロの視野を意識できるようにするのが静慮の練習なのです。
視野がひろがったために、思念の力が弱まり対象のイメージ(心像)がぼやけてしまうようでは静慮とはいえないのです。
(中略) それは、暗く沈んだここち(昏沈=こんじん)でもなく、浮動したここち(棹拳=じょうご)
でもなく、平静にたんたんと続いてゆく澄みわたった意識です。この意識の流れのゆきつく先に三昧(定=じょう)があるのです。
?ネットコピー使用書き写すのは時間が大変コピー簡単急げ後が?詰まる所は自己分析王手の観察が三昧に落ちつくのか早くしろ
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修業していくとそのようになっていくだけなのじゃ。
言葉に囚われてはいかんのじゃ。
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ヨーガ本のつづき <219ページ 静慮の方法 全文>
参考までに、静慮の実際的なやり方の一例をあげますと、「連想の組織的系列」または「思考の路」と呼ばれる方法があります。
それは、ある一つの対象について、次のような質問を設けて、解答を考えてみることです。
(1)その対象と同じ種類、または同じクラスのものは何か?
(2)その対象の部分としては、どんなものがあるか? それらの部分は、どんな役目をするか? その対象は、ほかのある対象の
一部分であるのかどうか?
(3)対象の性質には、どんなものがあるか? その対象は、さらに、ほかのある対象の性質の一つではないのか?
(4)その対象とほかのある対象との関連について、これまでになんらかの経験をもったことがあるか? それを見たり、聞いたり、
考えたりしたことがあるか? 等々。
静慮の練習には、対象の種類を、段階的に具体的なものから抽象的なものへ、単純なものから複雑なものへとかえてゆきます。
その段階をもうすこしくわしく分けてみますと、(1)単純で具体的なもの、(2)複雑で具体的なもの、(3)単純で抽象的な
もの、(4)複雑で抽象的なもの、の四段階に分けられます。 法(ダルマ)、愛、美、生命などというような抽象的で複雑な
観念を対象とするのは、静慮の作業を、じゅうぶん修得してからでないと駄目なものです。
?道元 仏道を習うということは、自己をならうことである。自己を習うということは、自己を忘れることである。自己を忘れる
という事は、環境世界に実証されることである・・・か?自ら水空のコップなら世界いや正解も入っていくのか?理論より実践
じゃ自ら行え、本は体操がほとんどだったあとは呼吸法とあとほんの少しだった ありのままの自分を見つめている空?
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なにかまぢいが有るようじゃのう。
ただひたすら集中するのみなのじゃ。
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私は一つに集中出来ない遊び好きだしタコ足配線の毎日で
心は落ち着きない色々やりたいでわかつているのですが
知識だけは覚えるけど五日しか続かないし
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私は僧ではないし素人だし修行や悟りなんでやらなきゃいけないのか?誰かが天秤とか言っていたけど重い煩悩の思い出は死後
天国には連れていけない地獄に行くほど悪い重いででもないしまあ適当な今のようないい加減な修行する人が行く何国か私に会った
平凡なまあ良い国に行くのだろうか?一生懸命色々な矛盾の無い良い国に精神党一努力すれば行けるけど牛は動かず人も動かず
やる気もその日の気分次第で毎日なんだよと自分でも思うでも是が私だしくだらんありのままに居直っているだけかやる気なくて
なんで行けないのだろう此処2ちやんねるにはまぐれて来たんだけど私は宗教者ではないしでも正法眼蔵は毎日よんでいたしそれは
気分が会っただけ孝子さんの歌も歌外なかつたそれは私が僧思い夏得しただけ気まぐれでもそれは僧なっている?私の友になっている
仏は適当なようだしそうではなく泣いているのかも?まあ適当に気ままに仏少しだけ夏得座禅瞑想する牛に引かれて善光寺マイル
真面目な仏だつたら死後は軽い中重いで切り裂かれて天国普通地獄にばらばらになるのかよくわからんなるようになる風林火山か
でも私はどんな時でも暗い性格ではないからまあ良いかでもいい加減適当な真面目で少しわるいやつで遊び好きでそれでも此処はすき
ここに参加できる毎日の書き込みは苦労は無く楽しいし仲間に入れて欲しいバラバラは嫌な事件だから僧ならない鴨でもみんな
連れていきたい欲が深い素人考えだなあ現実は厳しい?甘い考えなのかも
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老病死の苦があるからなのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
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正法眼蔵 霞眼「自然成」の自というのは、己の事である。己というのは、すなわち汝のことである。つまり四大・五蘊
からできているそのものを指している。それは結局、私とも人間の位の決めようのない真人を使いこなしているので
あるから、我でもなく、誰でもない。それゆえに、定まってないところを自というのである。「自然成」の然という
のは、「ゆるす(聴許)」という事である。「自然成」というのは、すなわち「華開き果を結ぶ」の時節であり、言い換
えれば、「法を伝えて迷いを救う」の時節である。たとえば青蓮華の開く時は、火の燃える時であり、開く所は火の中
であるようなものである。火をつけるところも、焔が立つ所も、みな青蓮華の開く場所であり、開く時節である。もし
青蓮華の時節と場所でなければ、「般若(智慧)のひらめき<一星火>」が生まれることはないし、ままたそのひらめきの
働きはないのである。良く知るがよい、般若の閃きによって、百千の青蓮華が大空に開き、大地に開く、過去に開き、
現在に開くのである。火の現れる時節、現れる場所を見聞するのは、青蓮華を見聞することである。青蓮華の時節と場所
を見過すことなく見聞すべきである。
幻覚が見える人が統合失調症なら?でもイタコや霊の見える人は正常なのか?社会的にみて困らなきゃ病気ではなく
悟って色々見える人は?病気とは何なのか?身体は身体的で精神病は社会的な病気?社会も追い老いの時が進んでいけば
霞目もすすんで行く 来る死身はいま厳冬の中にいる?いやそんなに苦しんでいない?それでは劇的に決まらないなあ
まあ良いか
-
青蓮華は心の中にあるのじゃ。
-
現成公案・・・法が身心にゆきわたっていないときは、法はすでに充ち足りていると思う。法が身心に満ちた場合
には、どこか一方が足りないように思われる。たとえば船に乗って島も見えない海の中に出て四方を見回すと、
ただ円く見えるだけである。どこも違った景色はない。しかし実際は大海が丸いというのではない。また四角でも
ない。眼に見えない海の性質というものはとても尽くすことは出来ない。一水四見といって、同じ水でも人間に
とっては水に見えるが、魚には宮殿であり、天人には珠の首飾りであり、餓鬼には膿血である。海の場合も、ただ
眼の届く限りがしばらく円く見えるだけである。一時が万事て、その他の事もすべてそうである。世間の事につい
ても、世を超えている事についても、様々な様相を帯びているが、参禅して眼力の及ぶだけを見るのであり、会得
するのである。ありとあらゆるものの在り方を学ぶには、丸い四角いと見える他に、海や山の性質は限りがなく、
様々な世界世界のある事を知るべきである。自分の身の回りだけではない、足下も一滴の水もそうであると知ら
ねばならぬ ?静りょ?私はまだ精神が一点に集中しないから凝念レベルいやその前の制する感覚の修行か出来て
いない色々やつても全部中途半端で楽しいからやつている?楽しいグリコのオマケ場仮で本来の目的は色々では
無いだろう 中島さん何時も不自然とか言う私は空ばかりみてもまだレベルは低い一生懸命が無い
地上の星 https://www.youtube.com/watch?v=v2SlpjCz7uE
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法もまた捨て去るべきものじゃ。
全て捨てて無になるのじゃ。
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現代社会では死んだら人間はどうなるのか何て社会で役立たない、金にならない事は相手にもされない、科学も感心もない。
損な物社会では放置骨化だし、最近は国家財政が赤字ということでやつかいな年寄りの年金は減らされるしそのうち病気に
なっても面倒あまり見てくれなくなるのか。関心があるのは国が死んだら困るの本能だけそれには金金金で。ガリレイに
負けたキリスト教のおかげで宗教も死んだ状態で宗教者も自身が無い言葉仮。昔は威厳があつた煩悩ばかり大切に生きてい
ると地獄で地の池や針の山に苦しむから、○○の宗教にはいつて修行すれば仏や神がちやんと安楽なあのよあな生活が保障
されるといつていたのを心じられたけど、今の社会に役に立たないものは無関心でないと合理的でなく勝ちがないと切り捨
てられる。人々も損な者思う余裕もなく、すこししかない暇なときは修行についやさず。ストレス解消のテレビや熱とや娯
楽に逃げるように仕向けられているし、色々悩むと暗いから顔だけでも無理に明るくすれば明るくなるというばかり。本当
の事はなにも考えられない人間ばかりにしようとするし、宗教者もなんか社会環境にへつらい胡麻すりはつげんばかり自信
がないのか。私も何かいているのか?またよくわからんぐちぐち。死んだら?今の社会から孤独になるのかでも何も映らな
い白い光だけつまらん暗いのは辛いしで色々映そうですぐ妄想カラー映すのでまあ恵絵いまとあまり変わらない続編な
ドラマが始まる視つまり死んでも悟りは本の少ししか居なくまあ良い夢のなかに逃避するのが人間鴨
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観察すれば死によっても消えない意識があるとわかるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
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我々衆生にはさあとりあえず土台が見えなく安心が無いと?悟った人たちは見下して良いのか?我々にも少しは安心してもらう
ためにこの世うにして来た如来さんが宗教を持ってきたから.我々も信じれば土台無理ではなくほんの少しの安心が有る。悟った
人たちが苦労して得た安心も我々は楽して身につけられる鴨?悟ったおかげで向上の苦しみもあるし。欲張らない我々衆生の安心は
砂漠で楽だにのる気分七日。でも我々の心は修行無常で安心もすぐ流されるし附闇の心に転覆するしでもまあ良いか?意味不明で
良く見えない視。百聞は一瞳に敵わない視.えーんえーんと泣く事になるし土台安心は無理7日.真っ暗でもまあええか.前がある
師まあ良いか?とにかく我々はこの世うに着た人だと信じるしか内野鴨。着慣れた上着を脱ぎ捨てる様にまあ絵画かで進む?
まあ我々はこの世うにして仕事というか役者として働いているのか自分の演技が解らなく苦しむ人の役もあるしそれは安心が無い役
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消えない羽よりあ軽い心臓から上の意識は天国に行くのかなあ
思い下半身の意識は地獄にこの世に意識が残っているとまあ良い
いや悪い地獄に残るのかわからん。天秤はなぜ天という字がついている
のだろう天をはかる?
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信じなくとも実践して確めればよいのじゃ。
自らの心身で確めるのじゃ。
-
時間という壁が消えて奇跡が現れる場所について書いておられる。聖なる場所を持つとはど゛ういう意味ですか」
キャンベル「これは今日すべての人にとって必要不可欠なことです。今朝の新聞になにが載っていたか、友達はだれなのか、
だれに借りがあり、だれに貸しがあるのか、そんな事を一切忘れるような部屋、ないし一日のうちのひとときがなくてはなり
ません。本来の自分、自分の将来の姿を純粋に経験し、引き出すことのできる場所です。これれは創造的な孵化場です。
はじめは何も起こりそうにないかもしれません、しかしもしあなたが自分の聖なる場所をもつていて、それを使うなら、いつか
なにかが起こるでしよう。」モイヤーズ「この聖なる場所は平原が狩猟民族にもたらしたものと同じものを私たちにもたらす」
キャンベル「彼ららにとつては世界全体が聖なる場所でした。しかし今の私達の生活はその方向性において非常に実際的、
経済的なものになっています。だからみんな、有る程度の年齢になると、次から次えと目先の用事に追いまくられて自分が
いったい誰なのか、何をしようとしていたのか、わからなくなってしまう。二六時中しなければならない仕事に追われているので
す。あなたにとって至福は、無上の喜びは何処に有るのか。あなたはそれを見つけなければなりません。他のだれもが見向きもし
ない古臭い曲でもいいから、とにかく自分が大好きなレコードを聴くとか、あるいは好きな本を読むとか、聖なる場所では、あな
たは例えば平原の人々が己の住む世界全体に対して持っているような、生きた「汝」の感覚を持つ事が出来るのです
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時間はどこにもないのじゃ。
観念なのじゃ。
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授記 ・・古仏が言われた「わたしはいま、仏に従って、授記の荘厳のこと、及び転次に決を受けるであろうことを聞いて、
心身あまねく歓喜した」ここにいう所の「授記の荘厳のこと」はかならず「わたしはいま、仏に従って聞く」ことによるのである。
「わたしがいま仏にしたがつて聞く」ことはやがて「転次に決を受ける事」になり、それがそのまま「心身遍く歓喜する」事にな
るのである。「及び転次」というのは、過去・現在・未来の自他に関わるのでは無く「我いま」という事なのであり、「仏に従っ
て聞く」という事である。けつして他に従って聞くのでもなく、迷いや悟りでも無く、衆生でもなく、草木国土でも無く、まさし
く「仏に従って聞く」事である。それがそのまま「授記荘厳の事」であり「及び転次に決を受ける」事である。
転次の道理はしばらくの間も一隅にとどまるるという事は無い。だから「心身は遍く歓喜し」つづけて行くのである。「歓喜」は
すなわち「及び転次に決を受ける」事であるが、それは必ず心身一体となって行われるのである。さらにまた、身は必ず心に遍満
しており、心は必ず身に遍満しているのであるから「心身遍く」と言う。これはとりもなおさず。世界に遍く、十方に遍く、身に
遍く、心に遍く、心に遍くということである。これは特別のただひたすらなる歓喜である。この歓喜は寝ても覚めても、迷っても
悟っても、関わり無く喜ばしめる歓喜である。しかもわれわれはこの歓喜に心から浸る事ができるけれども、しかし、我々に汚さ
れていない純粋の喜びである。だからこそ「転次に決を受ける」事がすなわち「授記荘厳のこと」なのである。
?時間はどこでも無いのじゃが私はいつでも時間が足りないと聞こえる色々な煩悩に手足頭だし
忙しくなる。今年終わっても新年があるけど
-
なにやらじつけのようじゃ。
-
正法眼蔵 弁道話 諸仏如来がいずれもすぐれた仏法を伝えて、究極の悟りを実証する場合に、最もすぐれた方法がある。
それは自受三昧が標準となるのであって、仏から仏え伝わるところの純粋なものである。この三昧に遊ぶには、端坐参禅
(正しい姿勢で座って禅に参加かすること)がその正しい入口である。この三昧は、元々人々の上にゆたかに備わつている
のであるが、修行しなければ表に現れないし、実証しなければ自分の身につかない。
さて三昧を実証して手を開いてみるとありとあらゆるものが手のなかに充ち満ちていて、とても一とか多とかいう境地では
ない。また三昧の世界を語ろうとすれば、その内容が口に充ちてくる。たて・よこ・十文字、きわまるところがない。諸仏は、
常に三昧のなかに安住していて、それぞれの方法面に知覚のあとをとどめない。衆生もまた永久に三昧のなかて活動しており、
ただ知覚するばかりで、その対応する方面は現れてこない。
いまここに教えるところの坐禅の道は、悟りのうえにありとあらゆるものが現れることであり、またその悟りをも超えて、
全身一丸となってひたすら坐禅を行ずることである。さらにそういうことも超越して、全体脱落のときは、このような
悟りとか、全身一丸とか、ひたすら坐禅とかいうこともかかわろうか。そうしたことさえも抜け出している。???
はあ僧ですか?今の私には見回り半の盆脳の楽しみしか理解出来ないしその上には何か楽しい龍に成れるのか?私は向上心が
不足でこのままでまあ良いかで良くないのか私の向上心は将棋まけつづけいまは囲碁に霧中で向上したい見回り半の盆脳
の中で四級で胃がしくしく悔しくて鳴いている?仏の心しらずで今年は暮れる
-
ありのままにあるというのじゃ。
-
死んだり盲目になっても修行が観えるように制感、凝念、じょうりょの止観の修行私もすればよいのに仏教修行の
悟りましょうの必要性面倒がり何か三昧絵の楽なコツは鬼和尚さんぽ師匠に聞きたいと思うアマ意考がコツなんて
?コツのコツはコツコツに決まっているではないか、囲碁将棋でも読みは予観の将棋盤碁盤の頭内で視覚的に観える
様になれば四級が段違いに上達する。私の牛は悟りましょうでは全然車を引かない囲碁でも瞑想の基本がそろついる
ようだ?具体的に観えるものは何でも修行なるのか?つまり左脳の考えを右脳の視覚に抽象を具体観変えるのが
瞑想なのか百の抽象的思考は具体的な一観に叶わない?瞳?でも私は最初の制感が外の感覚にさようされ最初から
たこ足で落ち着きもなく外きょろきょろで制理もなく今年は色々で終わるのか来年の視覚化計画まず数息感から
いや数数えるのは面倒鼻先の息の出入り見つめるだけか?とにかく座禅実践しない観念の予定だけ?修行すれば
囲碁強くなると思えば牛NOWも観察のやる気が出るのか?コツは実行だって気合いれよ来年?暗くなっても以後は
観得るから頑張れ制感覚から始めよう来年?それは今で翔
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世界最強囲碁名人がAIに負ける昨今囲碁を練習する意味は何ですか?
-
心を不動にすることじゃ。
それもまた修行なのじゃ。
-
何も解らんでもがき苦しんだど努力があったから山の頂上に上り詰めた人はいい眺め眺めながら一望の人休み出来るさぞ満足だろう
誰のお陰かと思うのか?きつと山の上ではそうなる運命だつたと過去は何でも運命で決まっていたと思う不公平
我々は過去を間違いで呻いているよりりは、過ぎたものは間違いなく過ぎていくと思うのが正しい。そんな事では反省もなく先が
思いやられる生きるのは生存競争のこの世で至難の業、仏と死は正しい道でも生物の生存競争の現実我ある反省なき商売熱心で無い
ものは潰される世の中だし、勉強勉強で皆競争になつている?適当に皆妥協して仲良く共存が無いのか、そんな甘い考えはこの世で
は通用しない、まずわが身を守らんと生めよ増やせよ地に満てよで社会の発展にも貢献せよ、でこれから効率良い器械に任せて人間
は役立たずで社会も機械任せの時代が来るのか?そんな事では未来では同行二人の器械脳(人口知能)取り付けてそれの指示通り行動
すれば勝ちがある時が来る。それでは人間は奴隷でおまけ、そんな時がきても仏はほつとけで涼しい顔でいるのか?何か書けたけど
まるでだらだらやる着なくかけばいいんでしょうを今朝は書いた。さあ他他
何も解らんでもがき苦しんだど努力があったから山の頂上に上り詰めた人はいい眺め眺めながら
一望の人休み出来るさぞ満足だろう、誰のお陰かと思うのか?きつと山の上ではそうなる運命
だつたと過去は何でも運命で決まっていたと思う不公平。私は物々言いながら煩悩些細な躓きいてて
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先のことは今ここでの選択によっているのじゃ。
今自我を捨てる決意をすれば永遠に楽になるのじゃ。
-
松原泰道著 禅語百選 時時勤めてふつしきせよ ・・・神秀は悟りの心境を廊下にはりました。
身はこれ菩提樹 心は明鏡の如し 時々に勤めてふっしきせよ 塵埃をして惹かしむること莫れ
と修行の大切さを四句二十字に歌い上げました。事実神秀はこのように努力したひとです。・・・
?修行は時時と時々ととう違うのか時々にも努力がないのは私の坐禅で時時は神修だきっと
本の少しの誤植みつけて喜ぶ私今まで誰もきがつかなかつたのか見過ごされていたのか?くだらん横道
にはまった私は何行でも行をかさねて本題の坐禅が疎かにしているけどもう五行書いているけど
妄爺と時時意の連想しコレもくだらんで今年もむーだらチャクラに暮れていく来年も相変わらずだろう
なあ。来年は時々じなく時時坐禅使用かなあかなあは当てにならない。さあ今年の埃はらうか
-
来年は悟ってしまうかもしれんのじゃ。
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今年は今日でО割い明日からはしんねんまあ地球輪相変わらず回り続けるだけ、私は年々死が近づくだけか
クレエ今日は暮れもおしつまつて何か書かなきゃでも何も考えていない。それは何時もだろう適当が積み重なつて
デタラメとなり書き進んでいくだけ、でもにちやんバカにしないまあ良い人々に出会つて無責任な一休みの時に
居る野鴨 僧が問う「だるまが中国に来たのは何で」和尚「庭先の栢の木じゃよ」僧「まあええか」
来年もこれでは期待できない鴨 鴨はさとれても柏の木はさあとりあえずでやる気なくまあ絵画化
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夕日が暮れていくけどあれも中途半端これもだめだで後悔に暮れ行く2016年サンキュー三級になれなかつた。
だめだこりゃ?後は孝子さんコピーするか「恋はいつも終わるのだろうか。無限につづく時間のなかで、無限に
広がつる宇宙の地球という星で、出会ってしまった偶然には、いったい、どんな意味があるのた゜ろう、そして
もっと優しくできたはずなのにという後悔さえだ取れつけない場所に・・・儚く消えていくものばかりがよぎる。
・・・」 あなたと生きた季節 https://www.youtube.com/watch?v=gVFlx2HfYsY
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みんなよいお年をなのじゃ。
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去年は死んで今朝は新年で生きている禅前お変わりない当たり前だひとが死ぬでも自分の此処路は生き続けるから盆脳大丈夫?
金名誉色欲食欲など煩悩はあの世に持って生けないというけど、何か僧でも無い私達は持つて活すぎるような気がしてきた、
無効では邪魔な煩悩もあるけど、あの用に言っても似たような煩悩の人たちと集まってしまうのか?類は類を呼ぶというし
あの世にも宗教団体や国みたいな社会があつたりして、この様とそんなに変わらない霊があるのかも良い例は良い例で集ま
るし悪い例は割る異例であつまるし、生きているうち悟れないひとがあのよで悟れるわけもない死、みんな少しずつしか
まあえには進まんのかも、急にレベルの他界所に行っても住みにくいし無理の無い世界が一番落ち着く死、もとかしたら
無効な金もいるのかも、ないと困る人が居る限りは金に似たような物が有るとおもう必要なら無くならない鴨、
信念がこれではさあとりあえずの様でやる気なしでもまあ良いか
-
自分ももはや去年の自分ではないのじゃ。
死んで生きるのじゃ。
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第十二則 【厳喚主人】 がんかんしゅじん
瑞厳の彦和尚という人は毎日自らを主人公と呼び、また自らそれに答え、ひとりでこんなような問答をしています 「はっきり
と目をさませよ・・・はいはい。いついかなる時も、人にダマされてはいかんぞ・・・わかったわかった。」
無門いわく 「瑞厳の老和尚は自分で買って自分で売り、幾多の神の頭や鬼の面を手品のように出して見せます。どうしてなの
でしょう、その本質 (さんずい+斬+耳) にあるものとは? ひとりの呼ぶものの本体 (底)、一人のそれに応じる本体、ひとり
のはっきりとした意識の本体、一人の人にダマされないようにする本体。
もしそれらを認識してしまうと、結局もとにもどって目指しているそのものではなくなってしまいます (不是)。もし他のもの
を認めて成りきってしまうと (若也他に傚わば)、すべてそれは百丈和尚に出会った野狐のように、カン違いの解釈となって
しまうのです。」頌にいわく 學道の人眞を識らざるは、只だ從前より識神を認むるが爲めなり。
無量劫來生死の本、癡人喚んで本來人と作す。 「せっかく仏道を学んでいても真理を理解できないのは、ただむかしより
別の人格を認めてしまうからで、無限につらなる時間の中で、生死のもとになるものを、カン違いの人はそれが自分である
(本来人) と思ってしまうことにあるのです」
?どうのこうの行っても世界の正解は動向の珍道中である悟りも迷いも友に
有るいて一人前いやまだ半人前なの鴨?わたしは孤独に強いが正月は便が出ない健康な身が無いと心もこの
先を心配するし。運便利な浣腸使用是れで出た。身心健康のためにヨーガの体操も使用かなあ他分実効力続かない
-
そうじゃ、自分などないのじゃ。
幻想なのじゃ。
-
私は小周天を自己流で修行した事が有る。仙道の入門書を持っているヨガのチャクラ関係も同じような者だしキャンベルさん
の本ネタ。一番下のチャクラは肛門と生殖器の間にありムーラーダ素朴で原始的な生命への執着(栄養摂取と同化の衝動で総
ての動物にとって生きるための前提条件)動物は他の生命を食いつくすことによってのみ生存しうるのですから、二番目の中継地
はスヴァーディシュターナ(エネルギーの「それ自身あるいはきわだつた存在地点ですがこれは性挙動中枢であって思春期に目覚
めさせられます」、第三のチャクラはマニプーラ「光り輝く宝石の都市」と呼ばれ臍の高さに有って権力と征服と支配への意志を
司る中枢です。健康で肯定的な様相にあればこの意志は力の獲得およびその責任にともなう誇りの感情を表しますが、病的かつ否
定的な形をとると征服し掠奪し服従させ手の届く一切のものを我が物にし、あるいは思い通りにしようとする飽くなき意志となつ
て表れます。ヨーガの教えるこの心理学予定表によれば人生が正常に経過するならば誕生から三十五年ほどの間順次成熟して行
きます。(どうもこの35は三回り半の蛇つまり眠っているクンダリーニの事らしい、7÷2=3.5修行すればその上へ?
>>661歴史的人間を動かし彼を規制する道徳制度、世界史という悪夢を生み出してきたのです。さらにそれは人間が動物と共有する
基本的衝動ーすなわち(1)他の生物を食らって生存していくこと、(2)子孫を産むこと、そして(3)征服して服従させることーの
中枢です。こういった基本衝動は、まつたく制御されないまま放置されるなら、凄まじい破壊性を示します。それれは20世紀の歴
史が明瞭に物語っているところです。?所常時です動物は正月でもお節食べで生きすつて吐き出して休まず動く仕事逃れられない
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新スレが建ちましたぁ〜♪
坐禅と見性第114章馬が田に入り、牛が田に入り、早乙女が田植えする [無断転載禁止]©2ch.net
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1483429081/
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いまからまた実践すればよいのじゃ。
日々精進なのじゃ。
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宇宙意識つづき ヨーガのモデルに従えば人間の意志が生命の動物水準を超える目標を目指すところまで高まるためには骨盤部で
はなく心臓部にある第四のチャクラの覚醒が必要です。この変容中枢の名前は「アナーハタ」には「打たれない」という奇妙な
意味がありますが、これは「二つの音がぶつかって立てるのではない音」と解釈されます。生理的な耳に聞こえる音はすべて、
互いに擦れ合うかぶつかりあう物体によつて生み出されます。たとえば声の音は息と声帯がぶつかつて出来る音ですしかし
このようにして作られたのではない音は、偉大な音調あるいは唸りであり、一切の事物の顕現(エピファニー)であるところの
創造的エネルギー(マーヤ、シャクティ)の音なのです。そして現象的形態の中に創造的音調を直感する事が、心を愛に向かっ
て開きます。いままで「それ」だったものが、そのときから「汝」となり、創造の音調によって生命を賦与されるのです。
これが神話の物の見方で゛あり第三章の「芸術の道」もまたこのようにその事物を眺めます。それは<新しい世界>および<精神
の内なる生命>(<処女降誕>)の目覚めです。自然の道においても人間はとはどきこのような光のある世界を垣間見ますー骨盤に位置
する生物エネルギーの要求が尊重され充足されて、種の独裁から開放された人間は、そのときから個人としての自由を獲得するの
です。それは<新しい世界>(<約束の地>)および<精神の内なる生命>(処女降誕)の目覚めです。自然の道においても、人間はときど
き、このような光のもとにある世界を垣間見ます?これかられた飢えでは無くこれから上は精神の田植えが始まる野花も
-
観念に囚われているようじゃ。
今ここにあるものを観るのじゃ。
-
本当に存在するものは何処にあるのか?我々は感覚や言語や映像等情報で有ると思うけど皆仮のものではないのか?悟りも、
神も仏も、宗教もヨーガも皆どこからから借りて来たのか?それを貸したものもあるのか無いのかさっぱり私には輪空無い?
私というものも仮いや仮の姿鴨?脳も体も借りました。借金しなければ生活が満たされない日本も国債できに赤字財政?
バーチャルリアルティ万歳?仮の姿は理有るティがある。またでたらめに私は迷いだした。実在と思うものも法法華経の方便な
決まり事のルールで存在するもの場仮。ヨーガのチャクラも信じなければ何にもならない信じるものは救われる。
仏教も信じる空意味がある、キリスト教も神じなきゃ価値もなく全てはそれがルールだし?みな出鱈目と言えば出鱈目信じる人には
実は存在するのか。哲学的だなあ六行で私は力尽きた。確かなものは確かめられなくて私の頭は空回り容量が小さいなあ
法とはルールで決めたり守っているけど守れる頭があるのは私も自分で思う以上に頭は良いのかも知れない
孝子さん天の水 オードシェル https://www.youtube.com/watch?v=3K6PNqS_uw8
-
今ここにある偽りの無い心を観るのじゃ。
それが全てなのじゃ。
-
まあこの世界は正解はなく自然も自然ではなく不自然な夢というかドラマの中に我々は居る級級していても段々解るラーマプロ?
スシュムナーの上昇の経験が心理的なものであることは、殆ど疑問の余地がありません。そして幻視が文化的に条件付けられてい
ることは(幻視および夢というのは、すべてそうですが)確実です。それはムーダーラの四つの花弁から、アージューニャーの二つ
の花弁、そしてサハスラの千の花弁に至るまで、幻視の中で現れる蓮の花弁には総てサンスクリットの文字が記されている事も示
されています。しかしその体験をもつ人々による蓮の花の記述は、彼らが実在性を確信していたことがうかがわせます。しかもそ
れは粗大な物質としての実在性ではなく、夢のような微細で、夢のような幻視的な実在性なのです。「それらは意識から構成され
ている」とラーマクリシュナは言いました「蝋で出来た木のようだー枝、小枝、果実など、その総てが蝋で出来ているのだ」「そ
れらを肉体の目で見ることはできない。肉体を切り開いてそれらを取り出す事は出来ない」?私は囲碁弱いさっぱり解らん言葉仮
なさけないけど今ここで私に出来る事をやるしかない徒歩ほ私は弱い
-
それも幻想なのじゃ。
全てを捨てて本心を観るのじゃ。
-
現成公案・・法が身心にゆきわたっていないときは、法はすでに充ち足りていると思う。法が身心に満ちた場合
には、どこか一方が足りないように思われる。たとえば船に乗って島も見えない海の中に出て四方を見回すと、
ただ円く見えるだけである。どこも違った景色はない。しかし実際は大海が丸いというのではない。また四角でも
ない。眼に見えない海の性質というものはとても尽くすことは出来ない。一水四見といって、同じ水でも人間に
とっては水に見えるが、魚には宮殿であり、天人には珠の首飾りであり、餓鬼には膿血である。海の場合も、ただ
眼の届く限りがしばらく円く見えるだけである。一時が万事て、その他の事もすべてそうである。世間の事につい
ても、世を超えている事についても、様々な様相を帯びているが、参禅して眼力の及ぶだけを見るのであり、会得
するのである。ありとあらゆるものの在り方を学ぶには、丸い四角いと見える他に、海や山の性質は限りがなく、
様々な世界世界のある事を知るべきである。自分の身の回りだけではない、足下も一滴の水もそうであると知ら
ねばなぬ。?今試みる凝念からじょう慮いやジョウロで花に水まこうでも私はその前の色々な荷物が重い
-
世界など見なくてよいのじゃ。
自分だけを観るのじゃ。
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悟りとは何の関係も無い私が悟りスレに意着いたのはなぜだろう。居心地がよかったから?考案に悩む事もなく色々で゛たらめ
言えるから?私が来た時は師匠は真剣に鍛えてもらつた。あのころはぽつ師匠や名無しさん皆偉い人で私は偉い眼に出会ったか
ら?盲私は夢中で寂しいスレが無くならない様に微力でも出鱈目でも端書きつづけた?今は私が偉い気分になつているのか?
冷静に観察すれば良くわからないしまるでなにも変わらないしまあええに進んでいない。偉い気分だけは偉いのか。わたしは
師匠達に小突かれて目が覚めるたちで、私は駄目だけど師匠を見分ける眼だけが取り得何かなあ。それは私の中の師匠が私を
操縦しているので騙されないのか?昨日夜はUSB見つからず落としたのかと探したけど何時もの処にあった。正月は中国人か
来て色々喚くしお釣り二回払わされ5000円位損したからか?今朝の夢は何処かの店で買い物して千円渡したけどそれが
店の商品のケースに落ち皆で探すけど消えた損したと思ったけど夢の中で札なんて夢のお札だと思ったけど自分は夢の中
でゆめのなに居ることに気が付いていなかつた?夢に気が付いたのかきがつかなかったのか覚めてから損な事如何でもよいか?
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やる気ない今の私を一心に頑張った過去の私が支えているから
やる気なくでも習慣で続けて行けるそれで良いのだ老化
少しは頑張れ気合入れる
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そうじゃ実践が全てなのじゃ。
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今日も休日なのに朝から時間に追われ色々やらないければならないしやっとにちやんにたどり着いた何か書けと言われてもでも
ココア一休みして以前書いたメモメモで済まそう。ところで2ちやんねるプレミアム会員スレ立て以外に過去も覗けない使い方
わからんまあボランテイアで自由にスレ立てられるから他はどうでもかぽ師匠に過去スレの使い方聞くかで後は眼もコピー
兎に角今は目が回るほど忙しい朝その原因は寝坊か?後は散歩以上は駆け足で時間が回る現代。続きはメモコピーです。
まあ色々な面倒な世間から逃れてここ2ちやんに安らぎを求めてきたのに?今では何でこの様に〔この世〕なつてシマッタのか?
まあここ2来る人も苦しみから逃れてみんなここで悟りを話題にして楽しかったという人や、修行か分からん私やノスさん想い
想いの思いがあるとおもえば私はあまり文句は言わない。少しぐらいのわがまままあよいではないか、見えるからといつて読まない
で無視すれば住むことだけど、人が来れなくなつた原因は色々な規制強化で書き込めないのが主な原因か。まあみんな現実で重いを
抱えていると思えば少しはその立場に立つて楽しみ少し減るけどまあ良いでは無いか。そうすれば夢のような時間が少しだけ来る。
滑って転んで七転び八起の実線が全てか
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一休み一休みじゃ。
一休さんも言っていたのじゃ。
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ショーペンハウアーは「世界は私の表象にすぎない」と述べています。カントと同様にショーペンハウアーは、「物自体」は表象
されえないと考えたのです。カントは先天的な直観の形式として時間と空間とをあげ、それらによって構成された現象は、因果性
の法則に支配されるとしました。ショーペンハウアーは時間、空間、因果性を「根拠の原理」と呼び、これらが表象を成立させる
形式とみなします。こうした「表象としての世界」の中では、物自体を理性によって認識することはできません。しかし、ショー
ペンハウアーはカントのいうところの物自体を意志と規定することによって、「意志としての世界」という新たな構想を生み出し
ました。この意志としての世界について、ショーペンハウアーは特に身体に注目します。身体運動は直接的に認識される意志であり
、逆にいえば意志の客体化でもあります。たとえば、物を食べようとする身体運動は私の意志の現れであり、両者は同じものでなの
です。こうして考えると、人間の意志は知性によって生じるのではなく、生を意欲する衝動の中にこそあると言えます。つまり、
意志とは「盲目的な生への意志」に他ならないのです。ここで盲目といわれるのは、意志自体が根拠のないものであり、認識を欠い
た存在であるからです。人間のみならず、植物も動物も、根源的な生への意志の発現に他なりません。そして万物の根源としての
意志を、ショーペンハウアーは「原意志」と名付けます。世界とは原意志の現象、客観化なのです。 生の苦悩と解脱 意志の肯定
はエゴイズムを追求する個体間の闘争を招き、また際限のない欲望は空虚を生み出します。それらは努力、崇拝、錯覚などによって
一時的に回避することは可能ですが、結局この苦しみから逃れるすべはありません。「一切の生は苦悩」なのです。
?哲学者は食う脳の正解を否定するけど私は苦悩の意味解らない不利
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時間と空間も観念なのじゃ。
ないものを見ていると思っているのじゃ。
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>>172
> 時間と空間も観念なのじゃ。 ないものを見ていると思っているのじゃ。
観念ではないものは、何ですか。
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時間も空間もトーキーに撮された画絵象をええぞうと観ている人は誰なんだろう?
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英雄とは生成中のものの庇護者であって生成し終わったものの庇護者でないのは、かれが常に現在のうちに存在しているからで
ある。「アブラハムが存在する以前に、わたしは存在している」。英雄とは永遠なる存在と時間におけるうわべの無変化をとを
けつして取り違えたりせず、またつぎのようなる瞬間(ないしは「べつなるもの」)をその変化〔の要素〕によって永遠を損なう
ものとして恐れたりはしない。「いかなる事物といえども、その形体を何時までも保持しているわけでは無い。万物を絶えず更
新する自然は、一つの形から新しい形を創り出す。まことにこの世界中に、滅び去るものは何一つないのだ。全ては流転し、そ
の形を変えるだけである」。こうして次なる瞬間が実現を許されるー「永遠という名の王子」が「世界という名の王女」に唇を
かさねると、かの女の抵抗はしずまつた。「かのおんなはぱつちりと目をあけた。そして眠りから醒めて、よにもなつかしそう
に王子を眺めた。二人はつれだつて塔をおりた。すると王が目を醒まし、王妃が目をさまし、それから家臣すべて目をさまして
、みんなおおきい目をしてお互いを眺あった。広場にいた馬が起きあがつてぶるぶると胴震いすれば、猟犬は飛びあがつて尻尾
を振る・・・料理番は小僧の横面を張り飛ばしたので小僧は大声で泣きわめき、下女は鶏の毛をむしり終わったのだつた。」
-
>>173 言葉では表されない今ここにあるものなのじゃ。
それをありのままに観るのじゃ。
>>174 人はいないのじゃ。
形も無いのじゃ。
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昨年も一昨年も観察による苦の原因をひとつも発見出来ないまま終わりました。
自分とその苦は今もここに有り、発見だけがいまだに無です。むむむ…
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未て来いと言われてもいまここにたまたま偶然があるし未来は何時も今まあ打の先で追いつけないし、今見えているものは
すぐ「」の思い出になる。今観ているとは何だかんだ?兎に角忙しいあれもこれもやることが待つているカラー色々。
一顆明珠 雪峰「頭陀行のおまえとは、何者か」玄沙「もう私は騙されません」
雪峰はこの言葉をことのほか喜んで、「この言葉を持たないものがあろうか、しかし誰がこれを言いえようか」
雪峰は重ねて問うた「頭陀行のお前はなぜ諸方を訪ねないのか」
玄沙「ダルマは中国に行きませんでした。二祖え可はインドに行きませんでした」
と答えるとまた特別にほめた。・・・
?え可のえがかなになっているけどそれはどうでもええか今朝も何行九行24時間に追われる毎日明るい太陽の珠に縛られて
苦の原因来る死生?よくわからないでも動物だし色んなものに縛られているなあああ苦しいなあ
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鬼和尚さん人が死ぬときはその人が居なくなるけど
自分が死んだら過去の世界画居なくなり私は有り
目の前の新世界入るのだろうか
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過去現在未来は逸も時進んで行くのだけど
婆さんが言う 過去の餅 現在の餅 未来の餅 ?どの餅を食べるのですか?
うーんうーんうめえ運命 落ちがついた
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死ねば私は忘れるじゃろう。
新しいと思う者がそのままの世界にあるじゃろう。
それもまた幻想なのじゃ。
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>>177 修行中の者ですが、アドバイスさせてください。
苦の原因は記憶にあると思います。
過去の体験の中にあるイヤなこと、避けたいものなどの記憶が
今現在の刺激がきっかけで蘇ると、恐怖や不安、苦しみとして感じられます。
一番の原因は、自分が在ると認識してしまうことですが、
日常の苦なら、鬼和尚さまの苦滅の法で少しずつ消していくことが可能です。
続けていくうちに必ず自分が消えている感覚もつかめるはずです。
気をつけたいのは、思考と自分を同一化してしまうことです。
言葉は本当の自分ではありません。仮初めのものです。
つい観察が思考(言葉遊び)になってしまう可能性があります。
長文で申し訳ありませんが、参考にしてください。
どうかあきらめずに観察を続けてくださいね。
きっと苦悩から解放される時がくると思います。
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一人のきこりが斧で木を伐ろうと、山深く入ったら、さとりという珍しい動物が姿をあらわした。きこりがこれを生け捕りに
しようと思うと、さとりは直ちにその心を読み取り、「俺を生け捕りにしょうというのかネ」という。きこりがびっくりすると、
「俺に心を読まれて、びっくりするとはお粗末な話だ」という。ますます驚いたきこりは、「ええ、小癪な奴。斧で一撃のもと
に殺してやろう」と考えた。するとさとりは、「こんどは俺を殺そうというのか。いやー、おっかない」と、からかうようにいう。
こりゃーかなわん。こんな不気味な動物を相手にしておったんでは、めしの食いあげだ。こんなものにかかわらないで、本来の仕
事を続けよう」と、きこりは考えた。するとさとりは、「俺をあきらめたのか。かわいそうに!」
といった。 きこりはこの不気味な動物を諦らむべく、再び元気をだして木を伐ることに没頭し、力いっぱい斧を木の根元に打ち
おろした。額からは玉なす汗が流れ、きこりは全く無心になった。 すると、偶然、全く偶然に、斧の頭が柄から抜けて飛び、
さとりにあたり、おかげでさとりを生け捕りにすることができたという。
まあそういうことなのかもしれないねえ?御釈迦さんは最初空まあお釈迦という役を一生かけで演じたという美ん命話か?悟った
人も後から振り返れば過去は一つも間違わず気ままっていたのだとそれは美味い話だし?損なことが衆生にバレタラみんな白けて
努力梨の運命が待っているのは拙い。私はノスさんや塩さんほど此処で努力が無く適当に手を抜いている。ほんとは羨ましいので
樵と悟りの話を思い出した。悟ろうと思うと悟りに嫌われるのか思わなければ悟りに用は無いし?運命は未来からは結果論なのか
過去からは未知が続いているし、ようするに未知とはまあ良い道なののだろうか?私はもつと努力しなさいと皆さんから教えられ
る師 幼い子供の頃は前世を覚えているというけど今忘れているしたしか暗いところから
この世に飛び出したのだけは覚えているような?
-
経巻の巻 いわゆる経巻というのは、十方世界が悉くそうなのであって、いかなる時も、いかなる場所も経巻でない
ものはない。また、文字の使い方もさまざまである。時には究極の真理を表すこともあり、世間の道理を用いたりする
事もある。また時には天上の文字を用いたり、人間の文字を用いたりすることもある。場合によつては、畜生道や修羅
の文字を使う事さえもある。またある場合には様々な草で表すこともあれば、多くの樹木にたよることさえもある。
こういうわけで十方に並び立っている無数の形や色、つまり、長、短、方、円、あるいは青、黄、赤、白のすべてが、
経巻そのものが現われ出たものである。これこそが仏道におけるわが家の調度であり、経巻としたのである。このように
経巻は、いつでも、どこでも行きわたつている。人に教える門を開けば、どんな人も見捨てることはなく、物に教える
門を開けば、すべてのものを救ってしまう。諸仏の教えも、菩薩にも教えるのである。全世界に行きわたっていく、時に
は方便を用いたり、時にはそのままを説いたりして、一個半個も捨てることは無く、悉く真実の姿を表していくのである。
?今ここの今日観は最強寒波とか言うけど我々の処では霜も降りずそんなに寒くない朝晴れで捨て来な朝丸出し
-
今の時代は宗教のあのようなこのような事は図書館に行けばまともな本借りられるけど金とかクダラナイ本カルトの本借りる
な世。私は何時もまぐれ当たりでばかりに出会うしギャンブル運もある本の当た前に出会う?キャンベル 千の顔をもつ英雄
生きる自由 ・・・神話の目的は個人の意識と宇宙の意識とを和解させ、それによってこの様な生命の無知にたいする要求を
追放するところにある。さらに和解は時間といううつろいやすい現象と、すべてのなかで生きかつ死に行く不滅なる生命の真
の関係を悟ることによって成立する。「人が着古した衣服を捨てて新しい別の衣服に着替えるように、自己も古びた身体を捨
ててあたらしい他の身体に入って行く。この自己を剣は切らず、火もこれを焼かない。また水もこれを濡らさず、風もこれを
乾かさない。この自己は切られず、焼かれず、濡らされず、乾かさない。恒存し、偏在し、堅固、不動な自己は永遠である」
行動の世界で、人は己の行為がもたらす結果を思い煩うなら、永遠の根源にたいする集中力を失ってしまう。しかし己の行為
とそのもたらす成果とを「生ける神」の膝に捧げるならば、供え物と同じようにそれによって死の海の束縛から解放される。
「執着なく、つねになすべき行為を遂行せよ。・・・すべての行為をわたしにまかせ。自己の心を念じて、願望なく、所有欲
を離れ、憂悶の苦熱を脱して、戦え」このような力強い洞察を獲得し、落ち着いて自由に振舞い、ウイラコッチャの恩恵が和
が手を通じて流れ込むのを活き活きと感じる時、英雄はその生業が屠殺業であれ、はたまた王であれ、恐るべき荘厳な「宇宙
の法」の自覚した搬送者となる。 着慣れた上着を脱ぎ捨てる様に
ビリーブhttps://www.youtube.com/watch?v=6LfvLyHqx1YI
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>>182
>>177です。
> つい観察が思考(言葉遊び)になってしまう可能性があります。
まさしく↑これに陥ってました!
アドバイスも励ましのお言葉もありがとうございました!
人類のどん尻になってもゴールめざしてがんばります!
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参考になって良かったです。私も修行、頑張ります。
Believeは『SOLEIL』で聴きました。懐かしいです。
素人Aさんも一緒に頑張りましょうね。
-
正方眼蔵 見仏 釈迦弁尼仏が大衆に向かって言われた。「諸相と非相を同時に見ることができればそのまま如来に見える
事になる」いま言うところの見諸相と見非相、つまり諸相が見えていることと、同時に非相が見えている事は、そのまま
全体が透徹していると言うことであるしたがって、それは如来にまみえていることになる。この仏に見えるという事は、
既に仏道が開かれて実現している事を示すのである。仏にまみえる眼が活き活きととしてはたらいている路行が、仏に
参学する眼に外ならない。ところで自分の仏を自分以外のものに見たり、さまざまなものがもつれあってくる。けれども
そうした中で仏に見える事、すなわち見仏を参学、見仏をすでにうなずいたり、見仏をさらに抜け出して、見仏を生き抜い
たり、見仏を使いこなしたり、というように見仏について色々な働きが出てくる。こうした事はいずれも昼は昼で日に向か
い、夜は夜で月に向かう事にほかならない。・・・・??見るという事はジタバタしてもこちらからもあちらからも身得る
のが見えるのか?まあ絵絵か要するに修行して空の三昧が身についてない私は注意散漫で修業の基礎からやり直し
参歩以上は駆け足で坐禅使用。人の欠点よりまあ良い所も見よう真実の裏ばかり見るなそれなりに真実にも事情が有る師
-
キャンベル 想像されたイエスのイメージをを超なければなりません。自分の神のイメージのそういうイメージが結局は邪魔
になる。それが土壇場で障害になってしまいます。もしじぶんなりのイデオロギー、自分のちっぽけな思考形勢に固執して
いると、神についてより大きな経験が近づいて来たときー自分がそれを受けるだけの心構えないほど大きな経験がやって来た時
ーに、自分の心のなかのイメージにしがみつくことによって、それから逃げてしまう。それは自己信仰の保全として知られる
態度です。精神は様々な中心、ないし原型的な段階を通じて向上するという考えがありますね。人は飢えと食欲という原初的な
経験から出発し、性的な情熱を経て、色々な種類の肉体的・物理的な熟達や支配に至る。これはすべて経験能力を強める段階
です、しかしそのあと、経験が心臓の中心に達して、個人や他の動物に対する慈愛の念が目覚め、自分と相手とがある意味
同じ生命を共有している存在だと自覚するとき、精神のうちに全く新しい生命の段階が展開します。こうやつて心が世界に
開かれる。・・・?私は待つた苦この前に戸どまつている囲碁でも自分が攻撃するのは好きだが相手の事は考えるのは面倒に
重いボロボロの展開になる会話も苦手相手の事は考えない自分の都合だけ人間だもので成長が戸待つている?待つている戸が
あるのか?戸は開くためにあるのかでもデーモン閣下地獄のサタン意味不明
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ぽ師匠プレミアム浪人で過去スレ観る方法自分で見つけた自慢する。
芋づる式手作業法 例えば禅スレに前リンクがはつてある是れでひとつ前呼び出し
次にそのひとつ前に行くそのあとはまたその前のひとつ前に手探りで行けば
大変だが可能の様だ
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無門関十清税の貧乏 曹山さまに、坊さんがたのんだ。「わたし(清税)は素寒貧なんで、どうぞおちからぞえを。」
曹山、「清税さま。」 清税、「ハア。」 曹山、「泉州名だいの酒を、なんばいも飲みながら、口もぬらさぬとおっしゃるか?」
無門がいう---------清税の気合い負けは、どういう思わくからか? 曹山は目が高く、そのへんをよく察した。それはそうとして
、さて、清税さんが酒を飲んだとは何をさす?・・・
禅では、「応諾する」つまり呼んで答える、その瞬間を人間存在の全てとし、初一念と呼んでいます。その瞬間は、それが得にな
るかとか何の意味があるかとか全く考えていません。その全体的な得失をあらためて考えることはありますが、それは禅の言う
初一念ではなく、二の次の智恵ということになります。人間の行動は初一念の連続であり、時々(タマに)、利害得失の智恵が
入ってきているというのが本当のところです。どんな守銭奴も、その人の行動である初一念の連続の中には利害の念はありません
。ただ強引に自分の行動を自分の利益の方に持っていっているので、結果として守銭奴と呼ばれるようになっているにすぎないの
です。 そうか強引に考えるのか?後先考えず行動するとすぐ失敗が待つ欲考えてから行動せよと社会は言う師?
要するにどう転んでも我々は酒は避けられない酒税は払わんと
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主人公は悟はつまらんと逃げ続けているばかりの毎日、何でかなあ?
悟り何手平凡でなあにも面白く無いんかなあ。
珠には目の前に宇宙画見たいでも損なのたまで良いか
天王寺も禅スレも質問もさあとりあえずはまあ良いかで運行されている
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自分のいい加減さ不誠実さに腹立つなあでもそれが
私らしい役目だしまあ良いか 私は昔も今も真実を真から求める
役目がなくて凡人だし
気分だけ青い日々 http://www.nicozon.net/player.html?video_id=nm4674603&;;k=1484785545.0.1.wQJttBucKAHMxI3CkygGdKNm17k.aHR0cDovL3NoaW5jaGFuLmJpei9yZWRpcmVjdC9pbmRleC5odG1sP3ZpZGVvX2lkPW5tNDY3NDYwMw%3D%3D...0
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これから先AI人工知能とロボットの猛発達により我々は死何で良い体になる。この世は苦しいという人以外は体はろ没とに
置き換えてられるでも脳はどうするのか脳はAIに置き換え可能だと思う体。勇気さえあればでも勇気のない人でも最初は
脳とAI両方使えるようにして少しずつ気がつかないように元の脳を壊してその部分をAIに置き換え行く方法ならすこしずつ
体と脳はロボットとaiに変わつていくはずだ。あとはほんにんのやる気と勇気一人がなんでも成功すれば後に続く。でも
基本瞑想の出来る人が有利かも知れない瞑想している人はすでにこの世から瞑想世界に今でも置き換えているからだ
道元は身心脱落というしでもそういう人はAIはイランのかも金持ちすぎた人は必要鴨。いまの時代宗教は昔に頼り遅れる
ばかりでも瞑想は残るのかも
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知ってるつもり たこ八郎 この人は良い 泣けた
https://www.youtube.com/watch?v=ULo6TD6dnLg
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画餅 ・・・・まさしく全世界・全存在は悉く描かれた絵であるから、人も事象も、すべて絵より現われて、仏祖も絵より
成就するのである。そういうわけであるから、「描かれた餅」でなければ餓えを充たす薬はない。また「描かれた餓え」で
なければ、人に出会うことはなく、また、「描かれた充」でなければ力量は出てこないのである。およそ「餓えを充充たし」
「餓えないのを充たし」「餓えをみたさず」「餓えないのを充たさない」などはすべて「描かれた餓え」でなければ出来な
いことであり、またいえないことである。ともかく自己そのものが「描かれた絵」である事を参学すべきである。この大切な
主旨を参学するとき「物を転じ、物が転ずる」という働きを、心身に究め尽くしていくことができる。このような不思議な
働きが現われていないようでは、仏道を学ぶ力量はまだ成就していないと思うべきである。この働きを実現させることが、
「悟られた絵」の成就となるのである。?まさしく絵画は存在感内途餅だしても食えない持ち出し?私の物未知はまだ
まだ道になつていない、内なる存在感が内と空腹は満たせない野鴨
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今まで食後のデザートなぜ食うのかわからず私は
満腹なのでもう食えないとと思っていた。今気がついた別腹に
食い物とお菓子の違いに気がつかないで損していた可笑しいなあ
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心身学道 ・・百丈大智禅師が言うに「本来清浄・本来解脱であつて、自己そのままが仏、自己そのままが禅道であるという
見解に執着するものは、自然主義の外道に所属している」と。この言葉は無用の壊れた道具のようなものではない。学道にお
いて、功徳を重ねた結果である。俗界を飛び越えて、八面玲ろうの玉のようであり、また真脱落して、藤が樹に絡まるように、
安心立命している。「あるいはこの身を現して、みずから解脱し人のために説法する」場合もあり、「あるいはあの身を現わ
して、みずから解脱し、人のために説法する」場合もあり、また「人のために説法しない」場合もある。そういう場合である
から、身を捨てれば「声を揚げて響きを止める」ほどの大音声の説法をすることもでき、命を捨てれば二祖慧可のように腕を
切て諸祖達磨の髄を得ることも出来るたとい威音王より以前学道始めたとしても、やはり自分みずからが仏祖の児孫として
仏道を進めていかなければならないのである。 捨て身?いの一番の身をすてる?私はまごまごしてしまうまだ学童か?
悟った人や悟れる人はほつといても死後は安心で.そういう人の完璧な死後の見解を述べられても我々まあ酔い人とは実行
出来ない死?でも全ては所業無情だし宗教は衆教団体ではない自分の心に灯火を灯さナイト自灯明で明るくならないと
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目の前の景色は変わり続けているここ2ちゃんねる通近電車も私の前の人は変わり続けている所詮このように
全ては変わり続けるまあええか。昔いた人は今どこかで目の前の景色を観ているのだろうかそれは私には見えない
でもぽ師匠は変わらず此処卒業できず電車で通い続けている悟りとか顕正とかいうけど損なもの関わらず
ざつそうの中雑草の様にしぶとく活きるそれだけでも素晴らしい大王さんもかこの頃鬼さん一休さんかそのうち
変えつてくるのか?私は飽きっぽい性格だけどしぶとい所もあるようだそっ業証書が無く今年も留年おめでとう
基地師さんも意外と留年思想なタイプだしななしさんもあいかわらずで切ないこの世をなんとかかんとかで行きましょう
瓦図ずにわたしで居る鹿できない 電車 https://www.youtube.com/watch?v=0jNuDBi4O2o
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海印三昧 玉城康四郎さんの解説の一部 ・・まず我々が生きているという事は、海印三昧でいえば、海の中を遊泳していると
いう事である。悟ったり修行したり説法したりすることは、この遊泳に他ならない。ところで遊泳といえば、人間は海面を泳ぎ、
魚は水中を動きまわるのだが、海印三昧の遊泳はそうではない。海上を泳ぎながらその足は海底についているのである。つまり
我々は仏の三昧のなかにあるから、われわれもまた仏の根底に徹底して泳いでいるということになる。道元はこのところを
「深深海底行なりと海上を行するなり」と言っている。まずこの点に元ずいて海印三昧が次第に規定されていく。・・・
第五に、以上述べてきた諸点も体験に他ならないが、ここではさらに三昧の体験そのものに注目する。道元はそれを「夜間の背手
模枕子」と言っている。夜間に手を後ろにして枕を探すのである。実は明暗を越えて何物にも触れない状況を指している。しかも
背手模枕子は、億億万功の計り知れない時間であるばかりでなく、このなかで常に法華経が説かれている。第六に道元趣旨を敷衍
して言えば仏道ばかりではなく、キリスト教も毛沢東も悉く万有でないものは無い。そこがすなわち海印三昧である。???
ビル遮那仏が我々の一人に三昧で化ける時は一生の時間を要するのか?それから他の人の一生三昧の観劇みんな三昧の面倒観るし
よつぽど感激好きなのか?浅はかなる浅原さんの中に一生の時間の観劇も体験、私や師匠や他のななしさんやの一生も体験、
まっ暗になつて体験もの凄い量の時間の長い大変な世界の体験ができるトーキーといえば夢の時を過ごす?ご苦労さんブラフマン?
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何か最近宗教心が薄い元々損なに熱い方でもなかったではないか?
寝る前に正法眼蔵や孝子さんの歌聞くぐらいだったのに宗の心は少しあったのか?
いまでは物ものしい将棋は負け諦め囲碁の勝負で強くなりたい虚しい勝負に
夢中で本ものは読まなく朝は寝坊で慌ててにちやん何書こうかと適当に書く
心はこもらず昔はあんなに一生懸命だつたと思い出にふけるだけでも
毎日ココア一休みサボらないだけましと自分を慰めるそれでもまあ良いんだよ
あるわがままでも損なに悪いことしない性格に感謝ただ長くしないとは守るのは何故か
命のロウソクの火でも守り続ける役目駄者
兎に角スレ立て有難う 意味は命の灯火を守り続ける事なのかなあ馬が田にいれば
貼るは来るでもノルマと思うとでも損なに苦しく無い早くしろでもいの一番に命は守る
それが生命かも 永遠の灯火 http://www.dailymotion.com/video/x2igxzq
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今ここの命を守る役目 位置画有る故に永遠画有る
そんなに悪い性格で無くて良かった 何も解らんけど
出口さんも地震のときは出口を探していただけか大元の灯火を灯して
また私は嘗てに解釈して本人じゃなきゃ解らなだろうそれは当たり前か?
名無しさんは性格が良くでよかつた野鴨。大川さんが読んだら可笑しい事になる
麻原さんが教典読んだら最悪の結果になるしキリストでも御釈迦さんやマホメット
も戦争の道具になる。やつぱ正しい見方身に付け無いと
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玉城さん訳の現公案 ありとあらゆるものが仏法であるとみるときはには、迷いもあり悟りもあり、修行もあり.
生もあり.死もある。しかしありとあらゆるものが無くなったときには、惑いも悟りも無く.諸仏も衆生もなく
生も滅もない。一切は無である。仏道はもとよりこのような有無の境界をとび抜けているのであるから事実は事実
のとおり、生滅もあり、迷悟もあり、衆生も仏もある。しかしそうでありながら花がちればまことに惜しいし、くさ
が茂ればいやなものである。
自己が主体になって環境世界を実証するのが迷いである。逆に環境世界が深まって、そのなかで自己が実証される
のが悟りである。迷いを大悟するのが諸仏であり、悟りのなかにありながら迷っているのが衆生である。
さらに悟ったうえにも悟り抜いていく人もあり、迷いのなかに迷いを重ねていく人もある。諸仏がまさに諸仏
なるときは、自己は諸仏であるという意識は無い。しかしながら悟っていく仏である。だから仏を悟つていく
のである。身心をかたむけて色に身入り、身心をかたむけて声に聞きほれるときに、自分では良く会得しているの
だが、しかしそれは、鏡が影にやどり、また月が水にうっるようにはいかない。一方を実証するときは、ただ一方たけ
であって、他方は見えない。
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とまどいながら ふりむきながらぶざまに立ちすくんで ため息ついている
?涙のしずく https://www.youtube.com/watch?v=UGivO7dT6yM
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昨日名無しさんの貼る出口王仁三郎さんの霊界物語をネットで見つけた本の少し見た私の現実も夢なんだろう霊界もゆめで
いまここは霧中説く夢の中にいる野鴨兎に角長いのでほんのすしか読まなかつた。御釈迦さんも迷いも悟りも霊も例も夢の中
問題は夢とは.現実とは?今私は起きているけど?霊界物語ネット http://reikaimonogatari.net/
言葉の分類で現実は現実と呼ばれているだけで夢見ている時と起きている時と如何に違うのか?
適当には経験から違うと言う?じゃ生きていると死んでからとはそれも歴史や経験から何回な言葉だけの違いなのか?
適当でいい加減な?良く考えればそうちがわないか。生と死・夢と現実何か譬えていえば関係があるような?死んだら頭が
何時短クリヤーされるけどだんだん落ち着く今と変わらない世界に行くのだろうか我々凡人は仏教の夢の酔うな理想は
すぐ見飽きて何時もと変わらぬ世界へ行くのだろうか。夢の理想をもたなきゃ進歩は遅いし位置命一歩二で二歩散歩進んで
一歩下がるチーターなのか仏教のアートな夢は永遠の退屈で娯楽芝居のドンちゃん騒ぎから抜けられないのか。
お釈迦さんの夢やキリストの夢を無視してもよいのかでも今は損な夢は流行らなく民衆主義の夢の中。夢から覚めても
何か変わらない夢が続く野鴨。民主主義で決まつてもデモでもや頭の良いマスコミに叩かれるトランプさん
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悟った人たちは死後にちーん黙々でも平気何だろうけど.さあとつても良い我々はは現代の社会教育で死後の話題は無しで不安だ
がそれは禁止で社会の話題や暗いニュースやテレビや不満ぶちまける井戸端会議でストレスを解消する庶民に救いはないのか?
そこへ進行宗教の罠も笑っているし.われわれにちやんのぼさーつとしている人は死後禁止でなく人の良い私語が信でも続ける
ように会話使用。今は昔なら常識が無視されて虚無が支配して良いのか。今実用的なものばかり大切にし前進するだけでは不安は
無くならない。私語も至難の会話はあると丹波哲郎さんの例のサイト呼び足そう。丹波さん無邪気で良い人だし私心も無い師.
また師匠に正統派の仏教とは関係ないと言われても?よそ見散毎の私ぼさーつとして部今日です空高倉健。
少しくらいの出鱈目あつても我々明るくなる輪廻転生◎だし。我々は大乗部我有る師でも底に甘えてもまずいいか?どうせ
宗教はガリレイにまけたしそのうちAIが苦し将来の輪廻転生はろ没と受け入れれば大乗部でもロボットのレベル高すぎるか
レベルの低いろ没ともれば良いか
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我々には本当を直接伝える事は出来ないとき嘘の例えののなかに真実を感じてもらう
為に方便がある法ほけ虚。それは嘘とも言えず真実とも言えない美味用なアート鴨
宗は衆に伝える為の苦労をガリレイはバカ正直に突いた野鴨でも方便では勘違いも生まれ
旨く伝わらず不味い方向に行く例があるあ創価なあ正しく観れる為には観察の基本
身につけないとでも損な修行嫌がるのが衆生だしまあ何万年だあですこしずつまあ画絵か
でまあ良いか急がば回れというし仏の思うように行かず片手の人も拍手でぎす
でもまあ良いかとため息ついている野鴨
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梅華玉城康四郎さんの解説。 ・・・さて、「雪裏の梅華」とは何か、一言で表すならば、それはもともと古今にわたって
見開かれている目の玉である。表裏一体、表も裏も無い。限りなく古くから、我が全人格体の礎にポッカリと華開いている。
そこに思い及ぶとき、疑うべきものはまつたく消滅し、「天上天下唯我独尊」の目の玉であることがわかる。あらゆるもの
が目の玉に繋がっている。この梅華こそ、迦葉に付属し、そして次からつぎへと託していく「ただ一枝」である。その梅華が
道元にようやく明らかになつてきたのである。道元自身の目の玉として見開かれていきたのである。それはまさしくかん頂位
というべきである。 しかしながらこの梅華の最も行じたいのは、瞑れるはずのない目の玉が、実感として瞑れたときである。
如浄の一説はそれを次のように語る。「釈尊の目の玉が瞑れるときも、雪の中で梅の一枝は華開いている、いまや見渡す限り
の茨や棘はかり、それを笑うように春風は華の咲き乱れる中を吹き渡っているが如くである」この茨や棘ばかのを道元はどう
処理するのか。もし魔が差してきて、目の玉が見えなくなつたとき、「今日はわたしの今日にあらず、大家の今日なり、直に
梅華眼晴なるべし、さらにもとめることやみぬ」もとめればもとめるほど見えなくなる。求めてはならない。そして私の今日
ではなくて大家の今日に気ずくべきである。そのとき目の玉は直に開かれるであろう、と言う。そして「ただ一枝という語の
命脈のなかに、身をひるがえしていく」のである。・・・
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私は寝ては暗い修行の夢ばかり観ているようで寝半という世界の起きては何とかなる成る教?今日で座禅や瞑想は後回しで
24時間の宇宙にはいらず不味いから反省で夢で修行させられる野鴨。出口さんの霊界も目次だけで先は夢見たんだろうで
後は読んだつもりもしわれわれの現実が夢のようなものなら修行させられてそれを夢に押し付けて限りなく鏡が鏡を映す像
をまた思い出した修行を限りなく押し続けすぎ?今ここの現実で座禅すれば現在過去今宇宙全部あの世もこの世も夢も現実も
皆仲良くトーテンポール状態で座れるのかでも今は座らないという座れない以後将棋のテレビが待つとにかく24時間忙しい
のだよ。御釈迦さんは素晴らしい夢を見続けて24時間座れるだるまさんは修行の才能があつたのだろうか?駄体また体や脳
に責任を押し付けてだから我々はカッコ良い夢を見られないのだろう。御釈迦さん王族として良い思いして、
何が不満で修行に旅立つたのだろう。我々ではもう良い思いに飽きてきても、もしかしたらまあ良い夢があるかも知れないと
観連を追いかけるのが普通だがそれではカッコよく無いドラマとして決まらない。キリストはなりたく無いけどお釈迦も
我々には厳しいハーチャルドラマ。お釈迦さん役を私は前半を担当して後は誰かに頼むとしたらお釈迦さんファンの鬼和尚さん
なら引き受けてくれるのか?後は引きずらないで楽しい激情だけ引き受けるか、もし引き続いて修行の部分も担当した
ら修行部分のお釈迦がお釈迦になつて仏教は損なのあるわけは無い。達磨は中国に行きませんでした。それでも何も困らない
現実があつた。今はさあ頭をぼりぼり書いて後は将棋鴨
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夢中説夢・・・釈迦弁尼仏が言われた。「諸仏の身体は金色で.さまざまな福徳の姿で荘厳されていた。法を聞いてそれを
人に説こうとしてていつもすぐれた夢をみた。その夢の中で国王らなつたが.宮殿や一族を捨て.栄華をむさぼる欲望も捨て.
修行のため菩提樹のもとに行き.獅子の座に端座して.道を求めること七日.諸仏の智を会得して.最高の悟りを成就した。
ついで説法を始め多くの人びとを教化して長時間を過ごし.穢れの無いすぐれた法を説いて無数の人びとを救った。後に息を
引きとつて涅槃に入ったが.あたかも煙尽き灯消える如くであった。もし後世の悪世のなかで.この最高の法を説くならば.
その人は.さきに説いたようなさまざまな功徳を得るであろう」いま仏の説かれたことを学んで.諸仏の働きをよくよく究める
がよい。これはけつして譬えではない。諸仏のすぐれた法は.ただ仏と仏とのかかわりであるから.夢みている事も.覚めてい
る事も.ともに真実のすがたである。覚めているなかで発心・修行・菩提・涅槃があり.夢のなかの発心・修行・菩提・涅槃が
あって.夢みているのも.覚めているのも.それぞれ真実のすがたである。それには大小や優劣の区別は無い。
しかるに夢の中で国王になったなどと言うと昔の人も今の人も.それは最高の法を説く力によってこの様な
夢を見るのであろうと.誤って理解している。このような理解ではまだ仏説を明らかにしていないのである。
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私の出たら眼だけど皆いや全存在の玉死生?魂の元は一つの嘘空データー真なのかも?魂の元が二つでは理由は
纏まるものも簡単に纏まらない例えばパソコン作業するのに二つのパソコンで同じ作業同時に使用としても大変
なのだよくわからんけど元というから一つにしないと理由にならない理由で私は夏得する一つの魂の元から
絵多分かれしたした我々の魂は阿弥陀くじや逆さに生えたの樹のように枝分かれして我々の意識の身絵る所に
今ここの所がが観える野鴨?時間空間もパソコンに夢が映るような今ここの風景がみえる野鴨でも
最初の最初のパソコンを求める元は工場で作られたのかでもその工場を作った先は次次と求めれば一位置は
限りなく永遠のラッキョウの皮を無垢サルの行為なのかも?簡単に元を求めれば嘘から出た真このことわざに
叶うものはなくこれが真実なのか嘘なのかただ長くしたい今ココアいや嘘カンコーヒー飲みながら何行だい
七行だい。早く書き終われでも八行楽しい苦行までいかないラッキョウ食うのは好きだけど玉ねぎは嫌い
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ヨーガ根本教典 二・五四〔制感〕制感とは諸感覚がそれぞれの対象と結びつかない結果、まるで心自体の模造品のようになった
状態をいう。 佐保多さん解説 制感とは諸感覚をその対象から手元に引き戻す。或いは感覚が対象に向かって動こうとするのを
引き止めるという意味である。感覚がその対象に結びつこうとする動きを引き止められて自分独りの状態に取り残されると、諸感
覚はあらゆる心理状態の実体である心の模造品のようになる。各感覚がそれぞれ独立に外界の色、声などの対象と結びつくことを
やめ、器官と心の一体になっているのが制感である。と 一体ぜんたいなにが始まりかそれはヨーガ有る世界?色即是空?
二・五五 制感の行法を修習していくならばついには諸感覚に最高の従順さが生ずる。 佐保多さん・・・特に最高の従順ささと
言うときには、心が専念状態である時に感覚もまた外部の知覚を受け付けないことを意味している。そして最後に心の働きもこれ
に追従して消滅する事になる。 こからヨーガの用が端◎と基本は大切だ空と佐保田さんは言う。?
まえなめなめさんが貼った聖者くらい穴のなかで食い物と飲み物だけで修行して聖者様と崇められたのがあったけど?そういえ
ばなめなめさんこの頃見かけないけど如何しているのだろうか?元気だといいのだけど。聖者はやつぱり食う心配もなく煩悩にも
関係ない孤独な環境でも平気な無思考が基本なのか?私は寂しがりやで孤独な環境は耐えられない。一人ぼっちで静かな時は妄想
するしか無い。ブラフマンも妄想して世界が恥まつたのか、ブラフマンをお釈迦さんは困難矛盾だらけの正解を作っては叱られた
のかも?
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出口さんのゆめなんだから私には良くわからんけど
ひふみと言つているから三?参加?三角?三昧が出てきた
演劇なら脚本と演技者と観客で三か? 太陽光発電でAIは
飯食わんでも生き続けられるのか霊の話と何か関係あるのか
私は宗教もすピリ地あるも勉強する時間が煩悩に負け
限られて全て入門まえでタコ足敗戦で目前の仕事にも追われ
兎に角毎日忙しい掃除サボるか △▽でユダヤも出てきて
兎に角一日短すぎ色々が色々で混乱 うんこさんはうんこさんの夢で運行されていく
ゆめ言うとぶつかるけど私は殆ど虫でぶつからんけど
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幸せなんて言葉があるからそれときずかずに?岡村孝子さん 夏の日の午後
窓を開けて午後の風を
むせるほど吸いこんだ夏の日
陽ざしが今傾くのを
あなたの腕に抱かれ見つめた
幸せなんて言葉があるからそれと気付かずに
思い出ばかり作るのね Mm…
あなたをいつも近くに感じて生きたい
それだけがただ願いなのに
闇にゆれる星の数に
負けないほどの熱い想いを
胸の奥でにぎりしめて
そっと時を重ねていきたい
あなたがどんな遠くを見つめていてもかまわない
素敵な人に変わってね Mm…
会えなくなってもいつか私の心を
あなたの色で染めるくらい
あなたがたとえ遠くを歩き出してもかまわない
私の中に生きている Mm…
あなたの記憶の中のわがまま娘を
片すみにでも 残していて
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例えば世界全体がDVDの夢のドラマとしたら今ここで何も解らずもがいてああしてこうして洗濯している私は
何なんだろうドラマ何て網素手に過去現在未来全て時終わっるまで決まっている野鴨と思えば決まり切手
摸画居ているのか何か可笑しい。我々は今此処に映る風景しか身られないから摸学のが正解鴨。修行の旅に
出ようとした玄沙和尚は足の指を思い切り石にぶつけ痛ててでこの痛いのは何処から来るのかと思い旅を
やめ考えたとか達磨は中国に来ませんでしたと言ったとか?世界は一個の明るい珠でどうのこうの夢貸は
珠に見えたものが今の私はDVDのドラマ化パソコンの前で今ココアいやコーヒー飲みながら長くしようとする
けど長くなれば長くなるほど目的が長くする事に夢中になり無駄なんだけど意味が無いのだけどでも毎朝
長いから短いと不味いようで習慣の奴隷化もよくわからん無駄な摸書きかでも長くなるもう掟から
書き終わったホカホカの朝他以降産業書く名以降の無駄な亜書きか
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もがくことも最初から全部台本に書いてあったりしてなw
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宇宙意識 生きる自由 ところで不可思議に満ちた通過と帰還はどんな結果をもたらすだろう。戦場は生を営む場の象徴
である。そこでは生きとし生けるものが他の生き物の犠牲のうえで生の営みをおこなつている。生にまつわる避けがたい
罪の自覚で心があまりに痛むため.ハムレットやアルジェナのように人は行き続けるのを拒否する場合がある。
他方我々の大部分がそうである様に.自分自身についてしょせんは正当化されない虚偽のイメージを作る場合だつてある。
つまり自分はこの世の例外的存在であって.他人のように罪人ではなく.善人だから避けがたい罪を犯しても是認される
のだと想像するのである。このような手前嘗てな正義からは.自己ばかりではなく人間と宇宙双方の本性について誤解が
うまれる。神話の目的は個人の意識と宇宙の意志を和解させ.それによってこのような無知に対する要求を追放する
ところにある。さらにこの和解は時間といううつろいやすい現象と.すべてのなかで生きかつ死にゆく不滅な生命との
真の関係を悟ることによつて成立する。?ですかでも我々庶民は環境の奴隷といえば奴隷でぽ師匠の言う自由な仏教と
言うか食うことや仲間外れにされ相手にされなくなる事を恐れ死んだらも恐れ病気も困るし社会でも道徳や薬はあるけど
民主主義で落ちこぼれた廃車はカルトというほかの国もつくりそこに逃げ込むのか我々嘘でもストレスが一休みの国が
浄土真宗やキリスト教で中法輪で騙しだけど今はそんなにカルトでは無いでも回教は狂った人もいるエホバの証人は
人厚めに奔走するし嘘でも誠がないと安心もないしありのままの自己か視察なんて我々には無理だし?自然?自由?
リベルテ https://www.youtube.com/watch?v=_OW3xeGqas0
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法華転法華 法達「私は法華経を三千部も読じゅしました」慧能「たとい一万部読じゅしても、経の意味を
理解しなければ、自分の過ちさえ知ることは出来ないだろう」法達が答えた。「私はまことに愚鈍です。これまでただ文字の
意味にまかせて読んできただけです。どうしてその意味がわかりましょう」慧能が言った「では一度読んでみなさい。おまえ
に解説してあげよう」そこで法達は『法華経』を読み始めたが「方便品」まできたとき慧能が言った。「そこでやめなさい。
仏がこの世にお出ましになるいわれ、これがこの経典の中心である。多くの喩えがこの経には説かれているけれども、これに
勝るものはない。ではそのいわれとは何かといえば、ただ一大事という事である。一大事とは何かといえば、仏の知見である。
仏の知見とは何かと言えば。開示悟入である。それが自ずから仏の知見になっているのである。すでに知見が備わっているの
であり、衆生の一人一人が、すなわち仏であると言うことである。おまえはいままさに信じるがよい。仏の知見とはお前自身
の心である事を」?一番大事なのはこの世うにして来たのが位置盤大事な夢中仕事なのかぽつ師匠一の仕事いや如しと言う師
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福は内ぃ〜、鬼も内ぃ〜、鬼和尚どこぉ〜
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な何手 日だ何書いてもまあ良いか 朝日が日だるまになりでもまあ良いか
この世うに着た人が今から未来に向かうのか過去に菅つては時間は進まない
私は意味不明で妄書き進むしかない。皆それぞれまあ良いところがあるのかも
でも此処は顕正を求めるスレだし兎に角ゴメン?我々凡人は生きるのに大変な
思いや現代社会で生きるのにストレスは貯まるしここで少し一休みしてガー
ガー言い合うのがまあ良いのかも。私は何故か会話が苦手であらそうが無いので
まあ良いかでも師匠や鬼さんや名無しさんは相手にしてくれるから皆まあ良い
かまあ良い友で兎に角有難う心の一休みで茶飲み使用何か囲碁将棋みたいで
なかなか三休になれず連敗が続くと5級に落ちる不安で1敗将棋は激指に負け
続け諦めて囲碁になつたが
思う世雲丹いかないなあ
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画餅 ・・・・まさしく全世界・全存在は悉く描かれた絵であるから、人も事象も、すべて絵より現われて、仏祖も絵より
成就するのである。そういうわけであるから、「描かれた餅」でなければ餓えを充たす薬はない。また「描かれた餓え」で
なければ、人に出会うことはなく、また、「描かれた充」でなければ力量は出てこないのである。およそ「餓えを充充たし」
「餓えないのを充たし」「餓えをみたさず」「餓えないのを充たさない」などはすべて「描かれた餓え」でなければ出来な
いことであり、またいえないことである。ともかく自己そのものが「描かれた絵」である事を参学すべきである。この大切な
主旨を参学するとき「物を転じ、物が転ずる」という働きを、心身に究め尽くしていくことができる。このような不思議な
働きが現われていないようでは、仏道を学ぶ力量はまだ成就していないと思うべきである。この働きを実現させることが、
「悟られた絵」の成就となるのである。?まあ絵画か幻実なのか現実なのかまあ何だ観だは日本語では学ぶに変わりは内師
経巻は環境◎だし観今日落ち着きのない朝今日は同地へ行こう.でもまあ良いか
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これは『正法眼蔵』の「画餅」でしたか。
知らなかったです。道元禅師はすごいですね。
素人Aさん、勉強になりました。ありがとうございます。
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我々は旅旅困難に会うと段々近何に慣れて来て、盲細かい事は気にしなくなる。悪いとが有れば良い事もあるし損なのまあよいか
と大雑把いや大目に見ることが出来る様になる鴨。つまり大目に見れば雑という事でもある小さい事は盲ほつとけで。細かい眼
に会う人は大きな眼には会えないし、一方を見る説きは一方は暮らしでまあよいか?解らんでもなるように鳴っている空
無門関 三七 庭の柏の木 趙州は、坊ずに、「ダルマさまはどんなつもりではるばるきました?」ときかれ、いうには
、「庭のあの柏の木さ。」 柏の木の出てくる別の公案にこんなのが じょう州に一人の僧がたずねた。「柏の木には仏性が
ありましょうか、ないでしょうか」大師「ある」僧「では柏樹は何時成仏するのでしょうか」大師「虚空が地に落ちるまで待て」
僧「虚空は何時地に落ちるまで待て」大師「柏の樹が成仏するまで待て」?この公案に親切な答えがあるような?つまり「達磨が
中国に来たのは・・」とたずねた僧は悟りが頭に登りすぎて落ちがつかなかつたのだ。落ち着けで落ちなさいというネタかつまり
空ばかりでは何の役も立たない。空即是色で柏の樹になつた?道元はこう言っている?悟ってもすぐ元の木阿弥になる身である
空それでは一生懸命修行した成果我無いもしその成果があるなら柏の樹や境とつべこべ言うことは無い?いつの間にか私の妄想に
すり変わっているけど、悟っても可愛い我が身が用が無くなると、ついつい文句もでるのかわからんネタも落ちつかずだらだらと
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いんも ある日弘覚大師は衆に示していつた。「いんも事を得ようと思うならば、当然ながらいんも人たるべきである。どうし
ていんも事を案ずる事があろうか」 道元 その主旨は「まつしぐらに究極の悟りに至る」という事をまずしばらく、いんもと
いう言葉に表すのである。この悟りの有様というのは、例えば十方にわたる全宇宙もこの悟りに比べれば、ごくちいさなものに
すぎない、というようなものである。だから悟りは全宇宙よりもなお大きいという事になる。我々自身もまた、かの宇宙のなか
の、様々な姿である。そうしたなかでどうしていんもがあると知られるか、それは私の心身がいずれも宇宙のなかに現われなが
ら、しかし私のものでないから、なるほどいんもになつている事がしることが出来るか。いんも訳は? 「そのように」「この
ように」「そのような」「このような」「ありのまま」「このとおり」〕・・ 考えてもみたまえ、この身はすでに私のものでは
無い、いのちは時の流れに流されて、一瞬も留まらない。・仮に真があるのならそれは私の領域にとどこおるものではない(つづく
(つづき)それがいんもなのである。いんもなれればこそ、ふと思わず菩提心がおこることがある。この心が起こってみるとこれまで
考えあぐねていた事をさらりと投げ捨てて、いまだかつて聴いた事を聴いてみようと願い、これまで体得した事も無い事を体得しよ
うと望む。これはもはや私の仕業では無い。いんも人なればこそ、そうなる事をよくよく思うべきである。どういうわけでいんも人
であると知る事ができるのか。それが先の弘覚大師のいうように、いんも事を得ようと思うから(そのおもいはもはや私のものでは
ない)、いんも人である事が知られてくる。すでにいんも人の様相を備えているから、いんも事を心配する事は無用という事になる
。さらに踏み込めば心配する事も、そのままいんも事であるから、自然と心配は無くなるのである。またいんも事の中にもいんも
事があるという事に驚いてはならない。かりにびっくりして、これは怪しいと思う事がおこつても、それもまたいんもである。
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何か宗教の開祖は皆神係になり見てきた様な夢というか妄想に出会うシャーマンから始まつたのか?
御釈迦さんは菩提樹の下でみた夢三昧やキリストが神に出会ったラーマクリシュナの神がかりが
イタコのひとや新興宗教の大川さんと原理は違わない統合失調証や覚せい剤中毒の人のみる幻覚や
だれもが夜見る夢は幻覚と差別しているけど幻覚には変わりなくよくわからん?でも社会が妄想と
言えば妄想になり教祖のは妄想にはならないシャーマンは脳内麻薬が作用して潜在意識をみるのか
つまり我々の内宙は普段は見えない宇宙があるのか?でも御釈迦さんと大川さんでは何かレベルが
違うイタコ?潜在意識も洗濯機で綺麗にしたのと益々ドロドロの意識もある霊鴨良い例は良い宇宙を
見るし悪い例はお笑い大川さんなんでかなあ皆見たいもの観ているだけか大川さんお笑いとも言えない
レベルだしでも信者さんは真剣に観劇するのだろうか?私はこの頃何も考え用意して無いし朝になり
兎に書く適当に申そうかくだけで長くなる幻覚か?統合失調的文章で意味不明だし潜在意識とは脳の
働きだけでは内何かがあるようた゜けど兎に角皆内野イタコから始まる宗教化?あみだくじの枝先
が我々の身得る世界
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死を恐れるのはこの身の盆脳の楽しみが失くなるのを恐れるのか
色々食う色々な今はAVのオナニーしかでも今は見るだけで出来る
からあの世でも見る聞くのオナニーは可能かもでも触るや痛いは
の思い出し大乗部なのか心配死んだら古いのしか無いでも新しい
あの世の体験はある世うだでもどんな世界なのかこの世とたいして
変わらないかも?幼稚園の能力なのにいきなり大学には居られない
し即退学だし大乗部だあでも素敵な過去の思い出は思い出せるのか心配
悟りたくないし盆脳楽しいし適当なレベルに痛いのはまずいのか?
私は本当は先はさつぱり解らないでもラーマもああいう師輪廻転生
ある世という色んな師匠たちが先に言った師
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私は囲碁将棋では感覚派自慢で長く考える人を馬鹿にするし昨日も囲碁で最後のダメつめで面倒パスパスでも
相手はコツコツとダメつめて私の大石が当たり前になっていたのにパス早く終われで相手が大切な大石取つて
私は負けこんなのばかり早打ち自慢は碌なものは無いこれで将棋は諦め囲碁は居心地よかったのに勘定より
感情で打つし本読んだときだけその影響で連勝するけど後はノータイムのミスだらけ本とは私は強いけど
相手の手馬鹿にして読まないし人生全てにいい加減何だ何とかなる適当な性格で少し反省するけどすぐ反省
はサル何が正しいかは感覚で解るけどコツコツ続ける才能が無い禅は全然考えなくてもよいと言われると
座らず実行していますと嘗てに思い違いするし私は間違いが目の前を歩いているでもすぐ忘れるし、欲も
無いからまあ楽しいほうか。進歩がない同じ間違いで修行進まない今朝も自己反省している様で全然反省も
無く何がカキーンだ香車の厳しい修行があつたから偶然に意志に当たって悟れた野鴨。御釈迦さんは突然
花を差し出しても笑えない話で考える人人馬鹿にする少しは考えろハイハイあ軽いなあこれじゃ相川らす
だなあハイハイ凡ミスしなければ私は強い?でも詰将棋詰碁は嫌い修行も嫌い
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曹洞宗と臨在州サイト家政婦は見たで涅槃ネタ 起きて半分寝て半分つまり人間だもの。曹洞宗はそうとう難しい坐禅、
臨在宗は涅槃ネタ見ただけ。そういえば夢の中で私が人に偉そうにしゃべっていた。
国々の厄介な政治問題は全て自国の利益の為の観点からしか見ない其れが原因と、損な事は誰でも解っているのだ当たり前
だ。みんな自国を守らないと他国に潰される死、理想では国も生きて意見と言っていたような平凡な夢の中だつた。掟半分
ネタは?半分じゃ無い全部つまらない現実社会の夢つまらない夢だつた。死んだら浄土真宗信じる人は阿弥陀に導かれる死、
曹洞宗は坐禅に導かれる死、臨在州は棒で叩かれる死、キリスト教はイエスが導く死、あの世でも信じる者は掬われるなら、
無宗教の人は困らないのか?何か困らないこの世と似たようなご縁がある身内や社会や煩悩に導かれる死なのかも。それじゃ
輪廻転生決定的なのか?まあよいか色々好きなところに良ければ良い。根が暗い人は地獄を見るけど地獄が好きなのかも?
日本では今でも血縁を大事にするけど、新興宗教の教祖が死んだらその息子や娘が二代目教祖になるけど何でかなあ煩悩否定
の仏教系も家族を持つと如何しても僧なるのか?
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公案とは ネズミを迷路に入れたら。色々まよつて色んな所に頭ぶつけたり勘違いしながらもでネズミ自信の行動でカンがえて
ネズミや子供はこのもんだは解いたら悟れるとか考えないでも夢中んなつて脱出するのか?公案なんて明朗な答えは無い
霧中になつているうちに知らない内に空が晴れ晴れとして見えるのか?またデタラメ書いてすいません。もしかしたら
デタラメや嘘やダジャレからも差別なく行動すればば答えは向こうからやつてくるのかも迷路でも崖でも拍手の音を聞いてこい
もしかしなくても今は迷路の中にいるのか?でも空は晴れているけど頭葉色々やらなければならないし兎に角忙しい迷路の中
で何かレス書かなければこれも毎朝の仕事サボりたい迷路の中悲惨は飛散しているけど迷路らしくないけど明朗とも言えない
意味不明で何書いているのだろう兎に角やる気もなく休日も無く業を長くしてでも書き終わつた
迷路 https://www.youtube.com/watch?v=-W78pN3JTac
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鬼和尚も帰ってきたことだし明日から本気だそうかな
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情けないなあ素人でも腹立つなあ.宗教版の人か科学や常識に負け.脳つぶれたら何も無いと?脳無しでも生き息と生きているし
知恵も生きていて.我々の能力ではこの世うあの世うと輪廻は天性し続けるという思想は現代では公に言つたら?日本では仲間は
すれにされるのか?みんなと違う考えは認めない日本の常識?右に倣えでうまくやってきたから?本音は言わず心の中では自身無
く鬱憤もはれずずるずる社会のや国の思うまま?何処の国でもその国の社会常識には逆らえない国民駄者人間駄者で私も独りで生
きる勇気も無く建前で現実では生きている内に自分の主張は是でいいのだろうかと飼いならされて駄目な私でもまあ良いか人間だ
ものと妥協する。そうだ日本は周りと中好くする教だ何か文句あるのか?でも本根隠し息覆いね。何言いたいのか意味不明になつ
た。とにかく周りに惑わされず自我の主張せよでも日本は仲良く?死んでも心身は有る.全てのものは生きていると2で言おう
日本の宗教者はプライドもて埃ももて
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今なのじゃ。
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悟った人たちは死後にちーん黙々でも平気何だろうけど.さあとつても良い我々はは現代の社会教育で死後の話題は無しで不安だ
がそれは禁止で社会の話題や暗いニュースやテレビや不満ぶちまける井戸端会議でストレスを解消する庶民に救いはないのか?
そこへ進行宗教の罠も笑っているし.われわれにちやんのぼさーつとしている人は死後禁止でなく人の良い私語が信でも続ける
ように会話使用。今は昔なら常識が無視されて虚無が支配して良いのか。今実用的なものばかり大切にし前進するだけでは不安は
無くならない。死後の至難の会話はあると丹波哲郎さんの例のサイト呼び足そう。丹波さん無邪気で良い人だし私心も無い師.
また師匠に正統派の仏教とは関係ないと言われても?よそ見散毎の私ぼさーつとして部今日です空高倉健。
少しくらいの出鱈目あつても我々明るくなる輪廻転生◎だし。我々は大乗部我有る師でも底に甘えてもまずいいか?どうせ宗教
はガリレイにまけたしそのうちAIが苦し坊さんもAIになりお変わりになる鴨将来の輪廻転生はろ没と受け入れれば大乗部でも
ロボットのレベル高すぎると困るからレベルの低いろ没ともいれば良いのだが
丹波哲郎さんを霊界から召還するか http://www.tamba.ne.jp/
鬼和尚さん今朝は少し暖かいし天晴れな朝なのじゃ まあ色々あるよね
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そうじゃ修行に最適なのじゃ。
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禅語百選 把手共行 手を把って共に行く 仏の実在を信じ、そのおしえを学び、ともに手をとりあって人生を旅する仲間を
同行と呼び同朋と懐かしみます。四国遍路や西国巡礼の旅人たちは、たとい一人旅であっても「同行二人」と笠に記します。
自分以外の一人は弘法大師であり観音様です。禅者はこの同行を特に、どうあんと呼び習わしています、同行は師となり先輩
となり友となって、影と形のようによりそって修行にはげみます。つくしんぼうのように、どこか見えないところで、こころ
とこころが繋ぎあっているのです。人間と人間だけが「手を把って共に行く」のでなく、ほとけと人間、ほとけとほとけが、
ともに手を把りあって旅をつづけるのです。ほとけと修行者は、横に並んで歩くときもあり、前後になりあうときもあります。
同行は現実に同行する友だけではあのません。苦悩にあえいでいる自我の心の奥底に潜んでいるもう一人の友でもあります。
彼の名を自己といいます。人間とは現実の感性的自我と、本質的自己の同行の二人の存在です。感性的自我がどのように醜悪
でも、その心の奥底で清浄な同行の本来的自己が凝視していると信じるのが、禅の人間観です。信心です。この同行に出あつた
人を「さとつた人・めざめた人」といいます。ともに手をとりあう善友のあるのは幸いです。心中に信ずる同行のあるのは、
さらにさいわいです。・・ ?どうのこうのひとりでぶつぶつ言うのもまあ良い旅なのか?片手の人のどうのこうの?
如何こうで二人ならそれ観つつめるで参加区いや三角形は安定の形と言うまた意味が不明に何か書き足しが不味かった落ちが無い
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同行が無ければ犀の角のように 独り歩むのじゃ。
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今日は業界で頑張りましたで賞年取ったで賞とにかく長く務めただけで金が無く辞められないで賞なんだけど体は元気で賞が
あるからまあ続けられるのか頭は確かでは無いほんとはもらってもしょうが無いという重いが今朝の夢に現れた。何故か
夢の中の今日は東京に居るボケたのかあせつて東京の田舎で飛行場を探し回るけど時間は刻々と過ぎ間に合わない逃亡者に
成るゆめだつた。起きたらあれ夢だったああ良かったと思った。そして賞をもらってやる覚悟が出来た。夢はキックて
結局我々は?逸れは私か。なんだ観だ物仏言っても、一番住み易い所にいるんでしょうか。外のもっと理想的な生き方とか
立派な生き方とか煩悩を無くしたり、世界の矛盾泣く正解の終わりとか?そんな立派な生き方が楽しいはずもなく。仏教で
すから高倉健で不器用でも煩悩能と友に私の野生活がありのままか。今私は煩悩も弱く悟りを求める心も元気が゛無く感動に
勘当されて適当にさ迷うだけ?是では遺憾行かんとあせるだらだらの安心画あるだけ。どうしたらやる気がでるのだろうか?
答えるこだまはやるときはやる風にまかせでまあ酔いのだろうか?書き込みも適当にでまかせに書いて早くすまそうとする
だけで努力がない。でも骨骨の毎日は続いているか。凡人この世うなのありのままと、煩悩に邪魔されない自然が身につい
ている聖人のありのままは生活の仕方が違うのか?。違わんけど違うのか
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死がそこまできているかもしれんと想うのじゃ。
やる気が出るじゃろう。
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宗教とは何だろうか?よくわからん私は何の宗教にも入門していないでも本の少し読んで一休み一休さんか
この現実社会の中でもがいてストレスたまるし珠の日曜日に競馬で金わスレする競馬もキリスト教いやそれは
ぽ師匠か私は日曜日は囲碁の連敗でストレスたまるでも社会の仕事からは逃れて娯楽に一休みと居えるのか
人は生きるためあれやこれや煩悩も必要ででも大体本能少し以上に金必要で働くのでは無く働かされる
幸せになるにはもっと金稼げ珠の土曜日曜日は現代は仕事ずかれで寝て起きてはテレビの人もいる教会に
行かないキリスト教徒念仏あげない浄土真宗でも創価学会は何冥法蓮華協で日曜日も毎日がなり立てる
これは働かされるのかみんな毎日何かに働かされて憑かれているの陀世ねオリジナル何か何にも無いんだよね
幸福になるために科学してもわけわからん妄想に使われるし現実と言う夢の中で我々は毎日もがいてでも
何か疲れるのでは無くコツコツと骨コツを掴むのかもよくわからんけど今朝の書き込みは無理に書き足して
いる何か意味あるのか書き込みの仕事に憑かれているのか私には解るはずも泣く刻々と時を刻むまあ得えか
はっきり言えば宗教も現実も嘘八百だいや夢と癒えるのかうつそうとした森の中で今まあ良いか
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全て画妄想としても猛獣いや妄想使いこなすには技が無いと妄想に食われる野鴨
鬼和尚さんも昨日スポー新聞で見たネタだけど幸福の科学で出家するアイドルの
何とかさんも宇宙を見たとか書いてあったあれ鬼和尚さんと同じく見たのかなんでか
なあと思った私は以前夢なんだけど夢だから暗い空の星々が突然崖の前に沢山の穴がある
夢だから意味不明その穴の中に入っていつたら暗い夜の現実をさまよい暗い家の前
で中のぞくけど真っ暗意味不明でさっぱりよくわからない夢の中だつた。タレントアイドルの
の人は宇宙を自分のストレス解消にしたのか幸福の科学にも使われて自分の苦しみ解消に宇宙
何か使うな?鬼和尚さんは自画なくしたとかこれが基本なのか自分にはよくわからない
でも私の囲碁は自分の欲望で左右され基本参考に冷静に打てばブレナイでも楽しさは
波乱万丈のコロシアムのドラマが楽しいのがアマでプロには読みや構想の基本に忠実で
同じ原理でも使いこなせないと悪魔でも使われるし何かきたいのかつんれだここらへんで一休み
妄想も孟総力も使い方しだいなのか
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世界が初○まえの一句を持って来い。その前はブラフマン一人で寂しく何にも無い。楽しみが無だけでは?やつぱり孤独。
夢も無い、それで満足なら世界は初まら無い。寂しい独り者だから妄想で世界を描き出した心世界か?でも本当は孤独
な思いだけ、それで自分と同じ境遇の人間を作ったのか?般若心境は損な寂しいブラフマンを叱りつけ孤独が一番矛盾
我なく苦労も無いと言うのか?そうじゃ無いだろうがブラフマンの寂しい気持ちを分かる為に生まれた人間は一人では
寂しいと感じる気持ちがブラフマンと同じであると思う気持ちがなきゃと思う。そうおもえば賑やかな世界でも寂しい
世界でも一人じゃないと申そうの人がいる空。これが世界の正解鴨。自分だけ苦しいと悟りを求めてばかりで一人の人
の寂しい気持ちを考えない。
ラーマクリシュナインドの光 ある信者「三昧に入ってブラフマンの智を得た人はもう話さないのでしようか」ラーマ「シ
ャン空大師は人々を教え導くために.智慧の私を残しておきなすった。ブラフマンを悟ると人は黙ってしまう。覚らぬ間
は何だかと考える。池に壷を入れて水を満たすとき.ボコボコと音を立てる。一杯になると音はやむ。そしてもう一つの
別な壷に水を満たさなきゃならんときは.またドクドクと音を立てる。入三昧の精神は人々を教え導くためにそこから降
りて来てまた語りだす。俗つぽい気持ちがほんの僅かでも残っていたら.このブラフマンの智は得られないよ。
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公案とはどうのこうの一手も仏と一緒に座るのが坐禅でザ前も
公案で霧中で夢の中に居るのも公案なのか?夢中で箒で掃除している解き
放棄が蹴飛ばした意思が竹に当たりカーン突然起きた香厳和尚が夢の中で
夢見ている事に気がついた。という事は起きても夢の中の夢なのかと
意味不明だけどトーテンポール?ブラ不満の心休まるのは夢というか妄想の
世界しか無いまあ色々な夢をみるのだろうなあ阿弥陀如来も編み出したし
麻さんぎんも編み出せば色々な着物に着られるし
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そうじゃ気付くのじゃ。
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キャンベルさん神話の力 夢は私たちの生活を支えている、あの深くて暗い基礎についての個人的な経験であるのに対て、
神話は社会的の夢だからです。神話は公衆の夢であり、夢は個人の神話です。あなた個人的なある夢が、たまたま社会の神話
と合致しているとしたら、あなたは自分の社会集団とよく調和しているのです。もしそうでないとしたらあなたは行くてに
ある暗い森の中で冒険をしなければなりません。・・・たぶんやつかいなことになる。そういう体制のなかで生きることを
しいられたらノイローゼになってしまう。?あそうなのか宗教とかはそういう社会と個人の結び目に有るか居た見の仲社界
でもあるのかそれが宗教とかの役目のひとつでもあるのか?でも中社会と中社会が仲良くできない宗教もあるけど?
それも人間の本能で産めよ増やせよ地に満てよで?まえ師匠がエホバさんが世界全体エホバにすれば皆仲良くなるのにと
思っているといつていたつけ、だから熱神に私たちと同じように思えと思うのかエホバの人たちは社会に不満をもつていて
社会活動をしているのか?まあそんなのも宗教かまあ色々でもでも損なのもないと困る人々もいるしこの世うに苦労が多い
なあまた意味不明になった私は纏まりがめちゃくちゃで放り出すか
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今ここに有ると思うものが現実にあるのか、ううん哲学的だ自己満足?見えるものが見えれば現実なのかでは夢は?
身縁でもある物はある。最初から良くわからん出鱈目。要するに有るものは有る、無いものは無いこれは間違いない
今ここ?何が哲学か?汝のなあ前は何時で何次元ですよ意味不明でも行をたせキリスト教徒も日曜日には教会で休んで
いるしぽ師匠は中央競馬だし昨日の棋王戦いは千田さんは散ったし慌てて攻める人は失敗した時跡が無いし気分悪いし
確定申告早く帳簿完成しないといけないしとにかく今は時間に追われている書き込みも空回りの物々だけ早く終わろう
早く終わろうああつまらんなあ空は青空だしみんな楽しい日曜日なのだろうなあ。
実足たり人 日曜日https://www.youtube.com/watch?v=XLKk0ilw26I
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>>182さん
再度、お礼言わせてください!
いただいたアドバイスどおりに注意して観察し続けたら、今日やっと(つかの間だったけど)、はっきりと思考と完全に分離した観察ができました!
ちょーうれしいです。本当にありがとうございました!!
こないだ鬼和尚に名前付けてもらったのもトリガーになった気がします。鬼和尚にも感謝感謝!
やっとスタートラインに立てたってかんじです。このまま滅苦道ひた走ります。
ありがとうございました! 蓮祥より。
素人Aさん、お邪魔してごめんよ〜。
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良かったですね。蓮祥さんの努力が報われましたね。私もうれしいです。
これから新しい発見がたくさんあると思いますが、
記憶にとらわれないように、毎回新鮮な気持ちで観察を続けてくださいね。
鬼和尚さまの言葉の正しさを証明できるように、私も頑張ります。
素人Aさん、確定申告は大変ですよね。一緒に頑張りましょう。
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そうじゃ、ただひたすらに実践あるのみなのじゃ。
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言葉でごまかしてもみんなに安心してもらいたい。説きのなかで書き間違えた時進むなかで気がついたけど
死ぬということは目の前で過去は次次と死の更新して死んでいくだ。損なの当たり前だだから大乗部身が死んでも
目の前の風景は時の中更新いや行進していくのだ。でも煩悩好きは煩悩が身得なくなるのが怖いのだから慰めには
なってないすいませんこれ以上この話題は長くできないので関係ない話題で長くする。田舎者の私が高いビルでング
だらけの都会の空眺めたら何時もより空が大きく見える今まで小さい空だつたのか?山や川の空は周りの自然に溶けて
程よい大きさだつたけど都会は空とビルでングが貼り厚ているスゲエとおもつた。見えるそらは人それぞれの環境に
合わせた空だそら見たことか時なんて私に遭わせて暮れているだけで時進んで居るように見えるけどパソコンやテレビ
が光輝いているだけなのか意味不明だなあ落ちもないなあ大乗部だあ志村けん動いている世雲丹見えるけど誤魔化しか
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短くてよいのじゃ。
自分の本心を曝け出すとよいのじゃ。
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心身学道 ・・生死去来がそのまま真実の人体であると言うが、それは、生死は凡夫が流転輪廻している姿である
けれども、そのままが聖者の透脱しているところを言うのである。したがつて、そこは凡夫も越え聖者も越えてい
るのであろう、しかしここのところを真実人体というだけではない。生死はさまざまあるるけれども、そこを究め
つくしてみると、要するにどれもこれもみな生死であるからすこしも恐怖心をおこす必要はない。なぜかというと、
まだ生を捨てないうちに、すでに死を経験している。あるいはまだ死を捨てないうちに、すでに生を経験している。
このように、生は死を妨げるのではなく、また死も生を妨げるのではない。生死は凡夫の生死でありながら生死とも
に凡夫の知るところではない。生は柏樹のごとく生々であり、死は剛直な男のようである。・・・
?もうそろそろもつと勉強して囲碁レベルをあげ三級に上がらないといかんのかなあ上がったら上がったでもつと
もっと勉強しなければ行けないのは解っている煩悩のレベルも阿弥陀如来にすがって大人にならないといつまでも
見回り半で降りーにの転界で、でも気楽だし逃げ回っても夢の中では無理な修行背負わされるしまあぼ
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なんとかの金剛の詩 目に見える現象は多様なあらわれを持っているけれど、この多様さは元々二元論の彼方に
ある。無限の多様なもののどれ一つとして、限りのある概念の枠に収まりきるものは無い。「これはこうだ」とか
「あれはああだ」と定義づけようとする罠から解き放たれるのだ。そうすれば、すべての形のあるあらわれは、形を
持たない無限がしめすさまざまな表情にすぎないし、それから切り離すことも出来ないから、そのままで完全なもの
だという事がわかる。すべてのはじまりから、あらゆるものはそのまま完全だということが分れば、なんらかを達成
しようとする努力はすべて放棄される。あるがままの自然な状態にとどまつているだけで、不二の三味の境地が生じ
つづける。 注この詩はチベット語の六行からなつている。この詩はゾクチェンの教えの完全な要約を含んでいる。
?まあ観察の修行して僧いう眼にあう人もいるだろうけど空の観察だけでは空腹に出会うのか兎に角逃げている
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自らの本心を観る以外に法は無いのじゃ。
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今朝のネタは孝子さんが夢をあきらめないでは自分の歩がいなさに鞭打つために書いた歌だけなのに
皆の応援歌になったの発言を私が私なり妄想して創世記ネタにくっつけて考えた。仏さん達は天国で
いやアダムとイブその他自然や動物は永遠に仲良くして?食い物は無く太陽光発電が胸の所にパネル
貼り付けているので仏さん達は食う心配も泣く死ぬ心配もなく皆幸福に能天気で暮らしていた?でも何か
足りない是では阿弥陀さんは思った永遠の三級で段々登って無理やり三段にもなれない人人はペットみたいで
飼い殺し是で良いのかと阿弥陀さんは思って蛇を使って仏にリンゴ食べさせ二元にさせこの世うに失楽園させた
とかだからこの世の夢は厳しく思うようにならない事ばかりでも甘い仏も鍛えられ子供から大人に成長する鴨
の神様の親心なのかだからこの世うでは少し努力して頑張ろうハイハイ赤ちゃんは子供になり一人前の大人に
なる思うようにならない勉強の連続だけどまあぼさーつとしている人がそおつと応援して暮れる空大乗部だあ
歌外もなくこの世うな歌なのかなあで 夢をあきらめないで https://www.youtube.com/watch?v=6rByj71yURY
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宇宙意識 ・・・なぜなら世界の中の生の諸要素を代表すること、すはわち、形而上学に対して倫理を擁護すること、
超越を認識しつつ、しかも自己陶酔への耽溺のうちに溶解せずに生きるすべを提示することは、僧侶の役目だからで
す。カールユングはどこかで、宗教の役割は私たちを神の経験から保護することだ、と書いています。オヴィデウス
の「変身物語」に収録された神話の五十パーセントは神と遭遇したがその光の圧倒的な力を受容するだけの備えがな
かつた為に、不幸な変身をさせられた人々の物語です。僧侶の実際的な格言と隠喩的な儀式は、超越的な光を世俗の
ものにやわらげ、混乱と溶解ではなく、生活の調和と充実をもたらすものとします。これらと対照的に、神秘家は
意図的に己をその力の前に差し出します。そして彼が粉々に砕け散ることもありうるのです。僧侶と同様に芸術家も
隠喩的言語の専門的な使い手です。ただ僧侶はじゅ像済みの語彙と職業的に関わっていてその語彙的言語を体表する
者なのです。僧侶は完全に仕上げられた台本を上演する演技者であり、かれれの芸術はその芸術の中にあります。創
造的芸術家が創造的であるのは彼らが革新的な洞察で゛ある限りにおいてのみです。芸術家と神秘家が直面している
自在は同一のものです。つまりそれは意識へもたらされた彼ら自身の最奥の真実なのです。神秘家はそれと直接的に
対面し、芸術家は芸術作品に反映された形でそれと出会います。
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神などいないのじゃ。
いないものとの遭遇はできないのじゃ。
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昨日寝る前にぽ師匠の貼り付けたユー中部鈴木大拙先生の動画みて今ここが全てと、そしてキリスト教の女の人が宗教
とはなんなんですかといったら無限がどうのこうのと科学者を信じる人は言う現の科学に頼つている無限を考えなく
なったと無限がどうのこうのが宗教を頼るひとの心鴨とおもつた。でも今の無限を頼ると金は儲けられず金吸い取られる
た゜け?寝る前に無限に挑戦した例によつて頭脳が筋肉化して兎に角空回りで眠れなくなるし初心者が難しい詰将棋解こう
とすれば頭から湯気がでても無理なんだけど?いくら科学者でも神様には叶わないだろうと二人でなつ得した対談にムカつ
いただけなんだろうか?朝起きて大乗部な人の宗教の定義は心の国家第二の国家なのかまた筋肉だでも国家の奴隷だけでは
辛いし宗教までさあ鳥を鳥かごに入れたら第二の国家と言われるし弱い人は頼りになる人が必要だし何書いているだろう
私は何の宗教団体にもはいつていないのにでも考えるのが好きなんだろう何だろうなあ科学者自身も自分は頭悪い事分かつ
ているのだろうけどなあ。筋肉では解決できない力もあるのだろうなんか意味不明の迷路に迷い何時もよくわからない
場仮では無いか意味不明だけでは腹立つ何かすがりたい藁かそれは笑われるけど笑いが出たらめ今朝の書き込み出来悪し
であみん ひまわりに騙されよう信じよう https://www.youtube.com/watch?v=TU5HOGQrixU
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神話の力 第四章犠牲と祝福 モイヤー「神話には環境がとても大きな影響を及ぼす、と書いておられますね。それを読
んでの印象深いのは、人々がー平原に生きる狩猟民族や、森林に生きる農耕民族たちがー自分たちの風景と深く関わっりあっ
て生きているという事です。これらの人々は彼らを取り巻く世界の一部であり、その様々な様相は、彼らにとって聖なるもの
になつているのですね。」キャンベル「地域の風景を神聖化することは、神話の根本的な機能です。この事実はナバホ族のう
ちにはつきりと見られます。ナバホ族は、北の山、南の山、東の山、西の山、そして中心の山を特定します。彼らの伝統的な
住居であるホーガンの入り口は常に東を向いています。炉は中心にあり、それが宇宙の中心となります。そこから煙は天井の
穴を抜けて立ち上る。炉で炊かれた香がそのまま神々の鼻腔に届くわけです。風景も住居も、イコンに聖なる絵になる。人々
はどこに居ようとその宇宙の秩序に組み込まれている。」
時間的な生と永遠的な生、世界への執着と世界からの離脱ーこれらは普通対立するものとして見られますが、月と太陽のイメ
ージの中では、この二つが一つに結び合わされます。というのも月の光は太陽の光の反映に他ならないのですから、これらの
アナロジーによって、私たちの身体的生も永遠的な生の反映であり、私たちの意識も永遠的な意識なのですが、ただそれは私
達の精神の二元論的な思考理論の制限によって修正されています。これらの制限を打ち破れば、精神は再び<始原の知識>を取
り戻すのです。?今朝は朝寝過ごしたもう時間もなく仕事前に缶コーヒーとコピー?坐禅の時間も無いいや毎朝もザ前だけ?
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無限を見るのじゃ。
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坐禅をなかなか週間ずかない人にいや私に簡単に行える衛星から地球画像みて好きなようべつ音楽を聞きながら
坐禅して数息感は難しいので鼻から息だして吐いてしながらザ前すれば椅子前でやろう五日六日次は週間になる
けど?で、鬼さんは宇宙を見たし私も山登つたときわが町を見下ろして皆よう頑張っていなあと気分が良くなつた
しこれ思いついたのは宇宙飛行士の人が人工衛星から地球を見続けてそのあとは悟つたような事になつたという
ネタで思いついたが速実こうでもこれが習慣になるのか不安でてせも諦めないで今朝はやろう地球の風画像
パソコンで見ていつか今で使用続くのだろうか?みんなも暇なときやってみれば歌は演歌でもまあ良いか
ヘビメタルは?
EARTH地球の風ザ前だ https://earth.nullschool.net/jp/
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そうじゃ、自分に向いた方法でやるとよいのじゃ。
大事なのは続けることなのじゃ。
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あるとき、じょう州の真際大師に一人の僧がたずねた。「ダルマが中国に来た目的は(仏道の真髄は)なんですか」
大師がいつた「庭先の柏の樹」僧が言った「和尚さん、そうや境に酔って方便で誤魔化さないで下さい」大師が言った
「私はそうやさかい誤魔化していない」僧が言った「では仏道の真髄とは」大師我言つた「庭先の柏の樹」・・・道元
ここに「仏道の真髄は何ですか」というのは、問うているだけでなく、また師と弟子の両者が同じ見解を得たというもので
もない。まさに問うているその時は、一人も相間見える相手もなく、問うている自己もまた、いくばくのものを得ているのか
計りしれない・・・ゆえに真実そのものが誤り誤ってしまつた。こうなってしまつた空には誤りをもって誤りに就く他は無い
いわば虚空の中から響きが出てくるようなものではなかろうか。で結局表も裏も無い空ここに庭先の柏の樹となつたのである。
?さっぱりと解らないのである、謝るか庭先の柏の樹が代表になつてまあ画絵にすいません、長州も調子が悪いし
ますます意味不明でも文句逸太僧言うひとが誤りの端真理終わらない文句は千日手ネタも落ないし
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日本語は駄洒落を作るのには便利な機能だ。例えば無いという言葉を内に変換して世界を出鱈目なイメージで妄想する。正解に
たつた一つの魂我あるとして、その世界を現す機能つまりハードは玉の中にあり?玉の表面庭色々な(穴多?)がまるでプラネタ
リュムみたいに輪多枝(私)がありその穴の一つ目から空(から)が観える?身得る風景は私の目で見ている風景。つまり宇宙で一
つ魂今此処を見ているのか?だから玉の中見ようとしてもコンピューターの機能みたいに法則を決めているのか時空の法則も
そこで決められる。後は玉の表面に色々な思いが移る空。中々中は身縁?縁が内?つまり無いのじゃなくて内蔵しているけど
見えないのか欲輪借らん。世界は一個の珠であると玄さ和尚は言う師、解らない答えは輪空内にあるのかも知れない
穴多は片手の人の拍手の音声を聞いて来い? 求めるのも元の眼が今此処を見ている同の行の何時手もまあ良いか
今朝のは自己政党化かそれとも言い訳まあ何だかんだ学べるよね日本語凄い
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だるまは中国にきていないのじゃ。
中国がだるまにきたのじゃ。
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法華転法華 法達「私は法華経を三千部も読じゅしました」慧能「たとい一万部読じゅしても、経の意味を
理解しなければ、自分の過ちさえ知ることは出来ないだろう」法達が答えた。「私はまことに愚鈍です。これまでただ文字の
意味にまかせて読んできただけです。どうしてその意味がわかりましょう」慧能が言った「では一度読んでみなさい。おまえ
に解説してあげよう」そこで法達は『法華経』を読み始めたが「方便品」まできたとき慧能が言った。「そこでやめなさい。
仏がこの世にお出ましになるいわれ、これがこの経典の中心である。多くの喩えがこの経には説かれているけれども、これに
勝るものはない。ではそのいわれとは何かといえば、ただ一大事という事である。一大事とは何かといえば、仏の知見である。
仏の知見とは何かと言えば。開示悟入である。それが自ずから仏の知見になっているのである。すでに知見が備わっているの
であり、衆生の一人一人が、すなわち仏であると言うことである。おまえはいままさに信じるがよい。仏の知見とはお前自身
の心である事を」?一番大事なのはこの世うにして来たのが位置盤大事な夢中仕事なのかぽつ師匠一の仕事いや如しと言う師
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経は心を観るための処方箋なのじゃ。
心を観なければ経を読む意味も無いのじゃ。
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私は今問題なく健康で苦労は来る老だけで死が来た時は煩悩が困るだけで少し楽しみが亡くなるだけとのほほんと
思つているけど夢が心配性なのか何でかなあ夢の中ではゴジラのような怪獣が出没して逃げ回つて怖い思いで生活
している。我が家もボロボロで至る所で水漏れがして不安と恐怖の夢の生活?でも一生懸命生きていると言えるけど
損なの苦しい実生活は起きてから怪獣何か居ないと思うけど?御釈迦さんは生老病死と師を目撃して王子の生活を捨て
修行に旅立つた思い真面目に直せば現実なんて不安と苦しみの現実で思うように楽しく行かないけどなるようになる
今は楽に逃げているのかと反省低い煩悩だけでなく激情としてそんなに楽しくないけど高い煩悩を育てるのをさぼつている
のか坐禅や瞑想は静かに座るだけで心落ち着くかも知れないけどドラマとして何か不足でもコロシアムの激闘が現実では
嫌だし今は平凡だから苦しまないだけで不幸な人はニュースの中に何で損な人殺し何かするかと野次馬で観ているけど
修行出来てない私我その場面になつたら不味いぞ少しは心静かな修行の時間で一休みしないとと思つた少し座るか
静かに息すつて吐いて何が楽しいのかザ前何か面白いニュースは無いか現代の野次馬はニュースが育てた怪獣が暴れて
いる世界だしそんなのでは落ち着けない
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記憶は思考や感覚を記録したものが記憶であり、記憶はただ存在するだけであり、記憶に主人はなく、記憶を所有する主体は存在しない
が、記憶に対して誤った解釈すると
一貫した主体(我)が存在しているように見えるし、その架空の主体が過去から現在を一貫しているように見える
記憶に主体は存在しない、記憶はただ我でない感覚器官の記録である
過去に一度も主体は存在しなかった……
現在にも主体は存在しない……
どれだけ輪廻を遡っても、主体は存在しない……
それなのに、主体のない旅に迷っているである……
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世界画始まるまえのブラフマンは何にも無い世界で楽しみも無く
仲間も無寂しい正解があつたけど妄想で世界が端真理楽しいドラマ見続けて
ドラマの中では人は死ぬけどブラフマンは死なんの野次馬だつたけど妄想に
夢中になりすぎのめり込みすぎその人になりきりすぎ死ぬ恐怖も生まれたのか
主人公はドラマの中の主人公になつたのか。寂しい矛盾のない世界も賑やかな
めちゃくちゃドラマチックな世界も苦楽なるし?適当な中暗いが両方立てられる野鴨
旅の目的なんて旅する事なのかなあと思えば解り会えてまあ良いか
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今も何も無いのじゃ。
観念によって何かあるとしているだけなのじゃ。
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>>270
文字通り全てが無ですか、
そちらの世界を垣間見たいものです
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諸法実相 ・・・雪峰義存がいうに「大地全体が解脱の門である。しかし人を引いても、容易に入ろうとしない」と。
こういう次第であるから、知るがよい、大地全体、世界全体がたとい門であっても、出入りはなかなか容易ではない。また、出入
するものは多くない。人を引いても、入りもしないし出もしないし、引かなくても入りもしないし出もしない。進むのは誤るで
あろうし、退くものは滞るであろう。また仮にどうであろう、人を進めて門に出入りさせようとすれば、いよいよ門は遠ざかる。
反対に門をとりあげて人に入れようとすれば、かえつて出入りできるようになる。先に挙げた経文の「方便門を開いて真実相を
開く」とあるように、その中の「開方便門」というのは「示方便門」ということである。「示方便門」と言うのは、時を選ばず
いかなる時でもありながら、しかも初・中・後の三際をたち離れている。その「開方便門」のまさしく開かれるという道理は、
十方全体にわたつて「方便門を開く」のである。まさしくその時、その十方に触れてみると、いまだかつて経験したことのない
光景が展開してくる。十方世界全体を、着実に一枚二枚、三個四個と取り上げて、方便門を開いていくのであるが、その際、ただ
ひたすらに方便門が開かれると思われるかもしれないけれども、実際は、量り知れないほどの十方世界全体が、わすかばかりの
「開方便門」の収得となつて眼の前に実現するのである。このような光景はそのままが、前に経文を示した「経に属する」の力
である。・・・? という事で今此処の私はお今日の中にいる非常に窮屈で門苦もあり不自由物物いうばかり、でもまあええ
世界全体我あるとしても蟻の飯しか身縁で故小○、あれ大きな○が私で小さな○が蟻で知らぬが仏の考案が?蟻を見つけると困
る別にたいした事は無いのだけれど見えんようにと蟻の巣コロリを置いた罪の無い蟻までコロリと殺巣のか?実は罪不快ご免な
何もない一文無しなんて今は観念して星意のでまあ良いか
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>>271 観ようとすれば観られるじゃろう。
自ら入ろうとすするものが解脱の門に入れるのじゃ。
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玉城康四郎さんダンマの顕現 永遠の命の世界 今日、現代の危機が叫ばれていますが・・・人間は元々そのまま放置
しておけば、見える物しか見ることが出来ない、また見えるものしか見ようとしない、形にあらわれたものだけが見
える。そういうふうに運命づけられています。すでにインドの哲人たちが宿命的な問題に注目しています。・・・
つまり人間は自分が出てきたふるさとを忘れて、ただ自分の目の前の現実しか見ようとしない。結局物え引かれて行く、
・・私どもは現在形にあらわれているこの現実を包む宇宙そのものの故郷、いのちに帰る事学ばなければいけないと
思います。宇宙そのもののいのちとは、肉眼ではみえず、形に現れないがわれわれをすべて包んでいるもの・・・
現代世界の最も大きな問題はそのふるさとを失っていると言う事です。?我々は身える金の勝ちしか身ないし国が最大の
身内だし心のふるさと見ないのは不味い野鴨。見えないものは科学的に証明できず国の金には騙しのカルトに利用される
ほんとうに見えないものは古悟つた人にしか見えるような見えない正解がわかるような解らないようなデタラメ当てに
ならないし、故郷なあ玉城さん一手孝子さん 早春のふるさと二手ペタルを踏みしめ走り続けたいと
で ふるさとにて https://www.youtube.com/watch?v=K_RnpPciJ_M
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現代の危機などないのじゃ。
現代が無いからのう。
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英雄とは生成中のものの庇護者であって生成し終わったものの庇護者でないのは、かれが常に現在のうちに存在しているからで
ある。「アブラハムが存在する以前に、わたしは存在している」。英雄とは永遠なる存在と時間におけるうわべの無変化をとを
けつして取り違えたりせず、またつぎのようなる瞬間(ないしは「べつなるもの」)をその変化〔の要素〕によって永遠を損なう
ものとして恐れたりはしない。「いかなる事物といえども、その形体を何時までも保持しているわけでは無い。万物を絶えず更
新する自然は、一つの形から新しい形を創り出す。まことにこの世界中に、滅び去るものは何一つないのだ。全ては流転し、そ
の形を変えるだけである」。こうして次なる瞬間が実現を許されるー「永遠という名の王子」が「世界という名の王女」に唇を
かさねると、かの女の抵抗はしずまつた。「かのおんなはぱつちりと目をあけた。そして眠りから醒めて、よにもなつかしそう
に王子を眺めた。二人はつれだつて塔をおりた。すると王が目を醒まし、王妃が目をさまし、それから家臣すべて目をさまして
、みんなおおきい目をしてお互いを眺あった。広場にいた馬が起きあがつてぶるぶると胴震いすれば、猟犬は飛びあがつて尻尾
を振る・・・料理番は小僧の横面を張り飛ばしたので小僧は大声で泣きわめき、下女は鶏の毛をむしり終わったのだつた。」
週間現代は危機が無くてもネタニュースで騒がないと生き続けられない野鴨
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観念の中に永遠は無いのじゃ。
観念を離れて永遠が訪れるのじゃ。
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現代社会では死んだら人間はどうなるのか何て社会で役立たない、金にならない事は相手にもされない、科学も感心もない。
損な物社会では放置骨化だし、最近は国家財政が赤字ということでやつかいな年寄りの年金は減らされるしそのうち病気に
なっても面倒あまり見てくれなくなるのか。関心があるのは国が死んだら困るの本能だけそれには金金金で。ガリレイに
負けたキリスト教のおかげで宗教も死んだ状態で宗教者も自身が無い言葉仮。昔は威厳があつた煩悩ばかり大切に生きてい
ると地獄で地の池や針の山に苦しむから、○○の宗教にはいつて修行すれば仏や神がちやんと安楽なあのよあな生活が保障
されるといつていたのを心じられたけど、今の社会に役に立たないものは無関心でないと合理的でなく勝ちがないと切り捨
てられる。人々も損な者思う余裕もなく、すこししかない暇なときは修行についやさず。ストレス解消のテレビや熱とや娯
楽に逃げるように仕向けられているし、色々悩むと暗いから顔だけでも無理に明るくすれば明るくなるというばかり。本当
の事はなにも考えられない人間ばかりにしようとするし、宗教者もなんか社会環境にへつらい胡麻すりはつげんばかり自信
がないのか。私も何かいているのか?またよくわからんぐちぐち。死んだら?今の社会から孤独になるのかでも何も映らな
い白い光だけつまらん暗いのは辛いしで色々映そうですぐ妄想カラー映すのでまあ恵絵いまとあまり変わらない続編な
ドラマが始まる視つまり死んでも悟りは本の少ししか居なくまあ良い夢の仲以後に逃避するのはでも負けとりかえさないと
永遠の海の中に観念の魚ともうそう
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死ぬ者には社会も何も無いのじゃ。
妄想なのじゃ。
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歴史的人間を動かし彼を規制する道徳制度、世界史という悪夢を生み出してきたのです。さらにそれは人間が動物と共有する
基本的衝動ーすなわち(1)他の生物を食らって生存していくこと、(2)子孫を産むこと、そして(3)征服して服従させることーの
中枢です。こういった基本衝動は、まつたく制御されないまま放置されるなら、凄まじい破壊性を示します。それれは20世紀の歴
史が明瞭に物語っているところです。ヨーガのモデルに従えば人間の意志が生命の動物水準を超える目標を目指すところまで高ま
るためには骨盤部ではなく心臓部にある第四のチャクラの覚醒が必要です。この変容中枢の名前は「アナーハタ」には「打たれな
い」という奇妙な意味がありますが、これは「二つの音がぶつかって立てるのではない音」と解釈されます。生理的な耳に聞こえ
る音はすべて、互いに擦れ合うかぶつかりあう物体によつて生み出されます。たとえば声の音は息と声帯がぶつかつて出来る音で
すしかしこのようにして作られたのではない音は、偉大な音調あるいは唸りであり、一切の事物の顕現(エピファニー)であるとこ
ろの創造的エネルギー(マーヤ、シャクティ)の音なのです。そして現象的形態の中に創造的音調を直感する事が、心を愛に向かっ
て開きます。いままで「それ」だったものが、そのときから「汝」となり、創造の音調によって生命を賦与されるのです。
?さあとりあえず片手では拍手できないしもうそう一手の人と合わせればもうそうして聞けるけど
今朝頭痒くもさぼりかさあぼり頭描く。鬼和尚さん死んだらこの世とあまりレベルの変わらん妄想社会を見るのでスカ
それ位で満足するのはまずいのですかレベルレベル上げる欲が無いと行けないのか
いつも怒られてばかりの子供は大人になれないピーターパン症候群では
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一時周りの人間全てが仏さんに見えたのですが、悉有仏性は方便ではないな
道行く人間が仏さんに見える坊さんが、見たまんま悉有仏性と書いとるんだろう
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そうじゃ、自分も仏なのじゃ。
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・・・キャンベル「ええ説明はちょつと難しいのですが、私は彼女自身が苦しみの原因であること、なぜか彼女がそれをもた
らしたのだと言うことを、彼女に信じさせたのです。ニーチェにアモール・ファティ〔運命愛〕という重要な観念があります。
自分の運命を愛したまえ、それが自分の人生なのだということですね。ニーチェが言うのはもし君が、君の人生のうちにたっ
たひとつの要素でも否定するなら、全部をバラバラにしてしまうことになる。さらに状況が困難だつたり恐ろしいものである
ほど、それを克服した人間像は偉大なものになる。君は悪魔を飲み込むことによつて、その力を我が物にする。人間の苦しみ
の大きさに応じて、人生そのものも大きくなる。いまいつた私の友達は、「すべて神様がなさつた事だ」と思っていました。
「そうじゃない君が自分でしたんだ。神様はきみの中にいる。君自身がきみの創造主なのだと」と私は言いました。「もし君
のうちに苦しみの発生源を探し当てたら、君はそれと共に生き、それを肯定し、それを楽しむことさえ出来るかも知れない。
君の人生として」と私は言つたのです」・・「生は総て苦である」と仏陀は言いました。ジョイスは「人生はそれを捨てるに
値するものだろうか」という一節もあります。・・・?夢野ドラまあを観ているのか役者として演じているのか?想像するいや
妄想している?解るような解らないような立場か?まあ同の行の言ってもほっとけーと友に有る苦この世うなまあ良い旅なのか
何が私に案山子ているのだろうか?何の役にもたたないけど、ぽつ師匠も冬の雪の畑の中でぽつんと立ち続ける案山子な野鴨
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肯定も楽しむことも要らないのじゃ。
ただ観るだけでよいのじゃ。
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私は法界定印が苦手なのだった
法界定印を組むと、両親指の接触部分がなんともムカついて仕方がないのだった
私が首肩肘に緊張が生じやすい体質だからこのようになるのであろう
この接触部分を利用して、姿勢を良くしたり頭に気を発生する工夫ができそうだ
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スピりちァるな先輩たちの妄想を学んでいるとあの世は自分の妄想は持っていけるようで思いの比重が多くなり例えれば
私は囲碁や将棋競馬はいまはやらんけど純粋に技術の向上を学ぶのでなく相手の石を沢山殺そうとか負けると悔しいとか
大勝ちすれば相手を馬鹿にして威張るし感情の妄想に支配される。これ全部横道で余計なものと思うけどきつたはつたの
ドタバタが私は好きで囲碁に品がないと反省する。この世の現実は心を収めないとあの世の思いの世界では悪い妄想の
怪獣に逃げ回る弱肉教職の世界になるのか。あれそれは私の夢の世界に怪獣が現れて私は逃げ回つて覚めてからああ夢で
よかつたと思つているでは無いか瞑想や坐禅いま竹刀と死んでから怖い世界になるのか?精力肉林の世界も浅ましいし
殺し編むの戦争世界は平和は無いし平凡な坐禅この世で修行ようかなあでも続かんなあサボるなあしょうがないわれわれは
南無阿弥陀仏やアーメンの法が簡単に罪は許されるのか信じるものは神にすくわれるかエホバの人はあの世でも他の人にに
説教して周るのだろうか?あの世のほうがカルトの宗教も支配しやすいのか?妄想する脳力があるからもうそうしているのだ。
今朝の長い夢も個の身の煩悩で遊びまわつている現実の反省が出た。執念いや凝念は詰碁で鍛えれば良いのかどうかぽ師匠
鬼和尚さん教えてコツは骨骨の習慣鴨しれないけどノータイムカンだけでは感情に左右され第三者の眼が育たないコツは
即実先じゃ
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詰まるところ、ツマラン我という一個人から離れられないトコロから、
総ての問題が起きるのだ
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そうじゃ、我を離れるのじゃぉ。
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玉城康四朗さんの本の少し書き写すか適当な所朝は寝た後で何か書かなきゃネットは囲碁に進めない運命になつて
居る早く適当な所下記うつせで。ダンマの顕現在まずは6仏のいのちとひとつになる早く本の少し書き写せ ?
そして「ダンマを伴なえる喜びを得る」何とも言えない喜びが心の底からわいてくる。「喜べるものには喜びが
生じ」、これはちょつと申し上げる時間がありませんが、喜びというのは禅定にずうつと入つていきますと
なんともいえない感じがおこる。それを喜びと言っています。その喜びよりもっと深いなんとも言えない安らかさ
を楽と言っています。これは詳しく申し上げる事ができませんが。その喜びが生じる。 ?さつぱり解らない本の
前は読んでないし真ん前少しよむ。「如来に対して真っすぐになる。心の正直なものは道理の受信を得る」だんだん
信じるという筋道が熟してくる。「ダンマの受信を得」かたちの無いいのちがだんだん私の体の中にしみ込んで
来る。それはまだ自分にはわからないけれども、如来を念じていくうちに、だんだんその如来の命が体にしみ
込んでくる。?ということで以後はアパートの掃除に変わってシマッタ今朝の以後は遊べないあとの以後は仕事
だけどどうせ客来ないし暇なんだけど暇でも潰れない店が理想もうすぐアパートローン払い終わる師
我を離れるのは慣れてないし不安だけど体験すれば楽なの鴨でも坐禅する暇はあるけど時間が無いと言う私
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和尚さんから見て蓮恵さんは悟った人といえますか?
悟ると幽霊が見えたりしますか?
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>>290
自我に依存した認識が残っているので、悟ってませんね
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観念に依存しない認識を持つならば、人生は六根の体験のみなのか。
観念が無ければ世界すら存在せず、ただ六根の体験のみが存在する。
主体となる自我があれば、六根の体験を知性を用いた整理が行われるが
自我が存在しないならば、六根の体験にたいして一切の解釈が必要がない。
解釈が無ければ六根の体験は、ただ意味付けのない羅列と混沌である。
でよろしいのだろうか
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>>290 まだじゃろう。
>>292 そうじゃ、それが本来の姿なのじゃ。
混沌なのじゃ。
さらにそれをすぎれば全ては一つなのじゃ。
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私は、観念という道具を用いることで不安を隠しているようだった
平穏な今日があれば、平穏な明日が
存在するはずと思うのは、観念による目隠しである。安心できる場所があって、それが存在し続けると思うのは観念に過ぎないのだ。
己を守るためにどのような家屋を作ろうとも、いずれ破壊されてしまうのだ。
釈尊の説いた法は、
無我……この世に固定的な実体は何一つなく、ただ六根を通した体験のみが存在する。
無常……存在はすべて変化し破壊されていく。存在、体験は常に生滅しそれを留めておくことはできない。
今の私には無我、無常を如実に見てしまうことの恐れ、未知への恐怖がある。
ただしこの恐怖自体も無我で無常であるから、消せるはずなのだが
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囲碁ネットでガツン シチョウを読む練習を繰り返すと、斜めのラインがスッと見えるようになります。そうすると
シチョウは一瞬で読むことが出来るようになるのです。子供たちに石を置かずに、「ここに黒が追いかけたら、白はどこに
逃げている?」ときいたら、碁を覚えて日の浅い子たちでも、「ここに逃げています。」と指を指していました。つまり、
その子たちは、10手以上読んでいるということです。読みとは、盤上に置いていない石をあるようにイメージすると
いうことです。だから、その子たちは10手以上盤に置いていない石をイメージ出来たということになります
僕はこの子たちに、無意識でイメージして手を読めることの重要性を説くために、「君たちはご飯を食べるときに
どっちの手で箸を持つ?」と聞きました。全員、今日の子供は右手と答えました。
僕は「利き手じゃないほうの左手で箸を持ったら苦労するだろう?どうしてだと思う?」と聞いたら、ひとりの子供が、
「右手は毎日やっているから」と答えました。全くその通りです。それが、知っていることと出来ることの違いなのです。
だから、知っていることを出来るレベルに引き上げるためには、無意識で出来るようになるまで繰り返し練習しなく
てはなりません。無意識で出来なくては、いざとなったときに役に立ちません。そして「そのように練習すれば、シチョウ
だけでなく、他のこともかならず、何十手先もイメージ出来るようになる。」と言いました。?坐禅観察基本嫌がるなあう
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消すことではでき無く普通にありのまま観察すれば無駄に頭に力いりすぎ
いま出来ることはできるし出来ないことは出来ないあたりまえはあたりまえ
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そうじゃありのままを観察するのじゃ。
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今朝も朝になった何かネタひねり出さないと用意してないし日本語の言葉あそびするか?言葉とは事と場か?今は居間に居る?
宇宙は内言う内有夢中?外は家?私は輪他子?貴方は孔他孔多?丸は◎?禅は前全?ネタは寝た錬った熱帯魚石は意思いや医師で
師は死四で?歩くは有る苦?本はほんの少し?今朝は中々下記進まない頭が筋肉になつている此れくらいにする疲れた以後は囲碁
麻雀は皆賭けているのに恵比寿さんは逮捕され市長も文句言うし何で違反何だろう?野球選手は賭けてはいけません
法律は気まぐれで見逃したり逮捕したり国の勝つて今朝はまるでだめ 心は内で内言うは宇宙なのかも生きている内から心出いる
書き進まんなあ今朝はアマゾンからすエデンボルグのデタラメな主イエスが来る。主イエスと言う時点で環境に左右され
出口さんも日本の神々だもの環境に左右されないと人間ではないしすピリ地あるでも当たり前兎に角横道に入り言葉あそびやめた
のか兎に角長くかくのが目的なのか?今朝はオチもなく長いだけ何言いたいのか?生きている内から死ん出居る当たり前か
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言葉をすてたらよいのじゃ。
無になるのじゃ。
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道とは何は〔76〕上堂「何かしゃべつたものかどうか、道を体得した上での発言なら、一日中
しゃべつてもみな道にかなつているが、道を体得しないままでの発言なら、一日中みな俗物である、
まあ言ってみよう、道と物とは一体か別か」。 ゾクゾクして答えるのは落とし穴に嵌るのか?
でも答えなきゃ2ちやんでは困るし運命も運命具合にきまつているのか?とおキーの中過去が
きまつているのは私にも解るけどそれは未来空見える如来と同じDVD現象化つまり我々には良く
わからんけど運命のなかで今撮された日仮の中で我々は身得ている野鴨?でも過去現在未来に変わ
らなく永遠に存在するものが学んでいくカラー未知が道になるのか今朝も行を重ねて長くしている
だけでは無いのか意味は殆ど何も無くそれは無意味かでもデタラメではない時間もないのだから(
笑)が無い今朝はつまらないつまり運命なんて分かる人には分かるし解らない人には解らない法則に
なつている今朝は落とし穴の中でもがいているけどオチが内 初めに言葉ありき言葉はグチグチと友に歩き
むーだらチャクラ
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全て道なのじゃ。
-
世界を編み出したたった一人の人も大変我々も大変なのは同じ駄空?この意図はその人自身の意図には違いないのです
が、「夢見る意思は別な立場から出る意思」なのです。これと同様に私たちの人生という夢〔ないし悪夢〕は私たち自身の隠れた
意思の産物です。しかし夢と人生の総ての絡みあいはあたかも単一の上位の脈絡に属しているように思われます。そうしショーペ
ンハウアーは言います。「かくして現実的な一種の<予定調和>によって各人は、彼自身の形而上学的操縦に従って自分にふさわし
いことのみ夢に見、かつあらゆる人生の夢は人為的に入りくんでいるので、各自は自分の都合のいいものを経験し、同時に他人
に必要なことを実行するわけである〔・・・〕」そして彼は論文の終わりに次のように示しゅん?します。「また人生という大き
な夢の主体はある意味では唯一のもの、生への意思であること、多種多様な現象は時間と空間〔<生への意思>が形をとる形態発生
的な場〕〕」に条件づけられていること、などを想定するならば、このスケールの大きな思想を前にしてひどくたじろぐことも無
なるであろう。それはかの一つの存在者が夢見る大いなるゆめであるわけだだから一切は相互にからみあい適合しあうのであろう」
大いなる夢の主は我々が夢の中で役に白ければガツカリするかも、だから我々は夢を明らめないでえ迷うぞおー
滑っても道まよつても未知
-
身心脱落は妄想ですな
身体も心も妄想ですから
-
結局我々は?逸れは私か。なんだ観だ物仏言っても、一番住み易い所にいるんでしょうか。外のもっと理想的な生き方とか
立派な生き方とか煩悩を無くしたり、世界の矛盾泣く正解の終わりとか?そんな立派な生き方が楽しいはずもなく。仏教で
すから高倉健で不器用でも煩悩能と友に私の野生活がありのままか。今私は煩悩も弱く悟りを求める心も元気が゛無く感動に
勘当されて適当にさ迷うだけ?是では遺憾行かんとあせるだらだらの安心画あるだけ。どうしたらやる気がでるのだろうか?
答えるこだまはやるときはやる風にまかせでまあ酔いのだろうか?書き込みも適当にでまかせに書いて早くすまそうとする
だけで努力がない。でも骨骨の毎日は続いているか。凡人この世うなのありのままと、煩悩に邪魔されない自然が身につい
ている聖人のありのままは生活の仕方が違うのか?。私はこの世うな役でも蟻が糖で流し台の上でコボレタ砂糖をなめて
いるけど神様が私がこぼした砂糖が原因で困っているから、早く逃げろと流しを叩くけど中々逃げないけどそのうちまあ
しょうがない水に流すかでお陀仏になるのか修行より砂糖が好きな蟻も神も仏も困らせている役でも環境に流されない
人間は人間では無いし御釈迦さんでも僧で使用、据え電ボルグも主と言うのはまあそうなんだろう少しくらい可笑しな所か
あっても人間だものでラーマクリシュナはキリスト教も回教もヒンズーもスピリチァルで信じたしまた迷いだした修行は?
私は色々なチャンネルに迷って時間が無い小。
-
そうじや妄想じゃ。
脱落妄想なのじゃ。
-
孝子さん「辞書を引くと、英語のKISSにはいろんな意味がみつかる。この場合は自分自身に対するいとおしさのKISS」
KISS https://www.youtube.com/watch?v=OZlYBed4gi4
誠実ということをテーマに歌うたかった。一生懸命であるということ、素直で偽りのないこと、自分のまんまで人生を
けなすことなく、無駄な思い込みは捨て、すべてを受け入れること。他人じゃなくて、自分の内へと向かう誠実。
それは夢見ることのパワーを与えつづけてくれる。つまり、なぜ自分はここにいるのかということの、もっても解り
やすい答えを教えてくれる。?でした書き写したけど私は今今しく四苦八苦して昨日はプレミアムなのに朝書き込み
終わりましたでも書き込めなくて今朝もでスプレーのトラブルがコーヒーをこほすしドミノ現象の慌てる自分に
その場はドタバタするなあと今笑えるしドタバタも受け入れるかまあ私はそういう人なんだなあと競馬のドミノ
減少はしないおまけを受け入れる師匠は勝負師として偉いと思う
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喉の緊張が多くて幽かな呼吸が長時間できない
胎息の入りみたいなんが見えたんだけどなー
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というわけで鍼灸にいってきた
首のコリが酷いのだが、これがとれればもっと瞑想が深まると思われる
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善かったのじゃ。
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我々は夢に宇宙いやぶら不満の夢中で逆さに生えた夢の樹が幹の所は一つだけど二つに別れ段々夢が編み出され
枝分かれして今身える枝先の葉っぱや実花先が見える野鴨。ブラフマンの夢なのか編み出さんそれは同じ人か
今朝やる気なく長く出来無い面倒逆さに立つ樹は榊かしこみか仕込み奉り以後囲碁に移行其のあとは仕事が
せまつて太陽のせいで?時間が区切られて一日に追いかけられている身近いものしか見えんでは本や物は
持っているだけで満足に使える時間も無く嘘煩悩が少し時間譲れば本者も読めるけどすエデンボルグも
最初から進まずそのうち読むかでもやらなきゃならない物もやつてないし宇宙の思い全部見えたら脳が
爆発するのかも自分に今必要なものしか見えないから此れくらいで住んでいるのかも何だかんだで長くなつたし
ではいま必要でないものを食い続ける脳力のある肥満な人は海豚鴨
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私にとって認識することは苦である
常に認識対象が自己を害さないかの怯えがあり、自己を害するものを見つけて憎悪しなければならない
まるで休まることのない門番の苦役を課せられているようだ
思考することも苦である、思考に誤りがなく明晰で合理的でなければ、誰かに害されるであろう
思考と認識を離れること以上の安楽ははなし
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この苦と動揺を押さえるために少し善徳を積もうと思う
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鬼和尚さん、こちらで質問させてもらいますが、魂ってあるんですか?
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>>312 そうじゃ、善事を積むのじゃ。
>>313 ないのじゃ。
肉体を超えた意識はあるが、それが個我のものではなく、実体でもないのじゃ。
自他を超えた意識だけがあると言えるのじゃ。
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ありがとうございます。魂は観念と言うことでしょうか?
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世界は妄想というか全てのものが妄想から出来ていて?何故かと言うと無いと皆困る空?本当は私も周りも地球も
ブラフマンも阿弥陀さんも皆妄想で存在しないからでも無いと思うと困る認められない嘘でも演技しなきゃ夢中
いや宇宙劇場のドラマは恥まらない。無いけど有るとことにして誤魔化さないと心がもうそうできないし無いけど
有るという事に決めたのだ今朝のネタは流石にデタラメ嘘初ぴ約だでもうまいネタないしどうせみんなに
相手にされないわたしだから何書いてもまあ良いのだ。でも世界画始まる前は何も描かれれない白いキャンバスで
絵が書かれた後は世界画描かれるのか?芸術家は嘘空世界を描き出すし今の宗教化なんて大衆演劇の役者でしかなく
医者や政治家以下でだめだこりゃ下手な台本のお経に縛られて千年前から進歩゜は無く人々の迷いを増大する
ばかりなのか?いまではブラフマンの不満も共有できずお経を読むばかりでは自分の不満も解決出来僧にもならない
師匠は言ったインドでは宗教とは如何に生きるべきかと言う意味と妄想の海の中魚は泳いで生きるかもうそうしている
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>>315 そうじゃ、観念なのじゃ。
囚われずに進むのじゃ。
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・・・二つの息がこのように融合するまで、中央の門は閉じられたままです。つまりまず必要なのは、修行している
個人の意識(肉体の中にある意識)が、万物を生気ずけ照明する普遍的な太陽の意識と同じものとして経験される事な
のです。さもないと、精神は物質性の中に閉じ込められたままにとどまります。あるいはなんらかの超自然的な空想
に心を奪われて(宇宙は物質のみからできているのだから)魂ないし精神はどこか宇宙とは別の場所に探しもとめられ
るなどと考えてしまう事になります。不死に至る門を守る二つの恐ろしげな像は仏教の観点からすれば、単純に次の
ように解釈されるのでしょう。それは聖域への進入を阻もうとする外的な神の意識を表すのではなく、肉体の死に対
する脅迫的な恐れを表している、と。聖域に入ることを拒むのは、この人間自身の意志なのです。なぜなら仏教の考
えでは我々はすでに不死性を獲得しているのであつて、ただ現世的な目標に対する精神の執着のゆえのみに、われわ
れはこのことを忘れてしまうのですから。物質的欲望と恐怖(ゴータマ、シャムニー王子が仏陀の境地に到達した夜に
克服したのは、この二つの誘惑でした)のために私たちは(楽園)から皮肉なことにー私たちはすでにそこに住んでいる
のですがー自分を追い出してしまうのです。仏教の教えでは<楽園追放>などということは起こらなかったのです。ただ
精神が誤った焦点にむけられているだけなのです。・・・宇宙意識より。
?今朝はやる気なく前のメモ丸写し
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とじたままでよいのじゃ。
ただ観察すればよいのじゃ。
-
衆生が今まで流してきた涙は、四つの海の水の量にまさる。
衆生の生まれた数に比例して苦しみと悪行がある。
輪廻とは無量の悪行と苦しみの母体である。
その無量の悪行、苦しみの根を断つために座るのだ。
-
宝石の網・・・もし究極の<現実>が゛あらゆる形態からの<開放>の中での静穏な自己の享受と客体の活動的な享受ーすなわち
純粋な「精神」としての享受と物質の中での「精神」としての享受ーという二つの様相において存在するものであるならば、
<現実>としての完全な結合のためには、その両方の様相における統一が要求される。それは「此岸」し「彼岸」の両方で知ら
れねばならない。「・・・・」至高の祝福的な経験も、快楽と苦痛の混じりあった生活を送る人間という形をとつて現れるもの
も、同じシヴァなのだ。もしこれらのシウァがすべて同一であるという事が、一切の人間的行為の中で認識されるならば、あり
とあらゆる人間機能を、犠牲と祭礼という宗教行為とすることによつて達成できる。〔・・・〕たとえばタントラのサーダカ(
修行者)は食べるときも飲むときも、あるいはその他の身体的自然機能を充足させるとき、常に実行しており、つぎのように言
いかつ思うー我はシヴァである、我はバイララヴァで゛我は彼女であると。このように行為し享受するのは、単独の個人ではない。
彼の中で、彼を通じて、行為し享受しているのはシヴァなのである。伝説的なアシュヴァクラは言います。「すべての中に自己を
、自己の中にすべてを認識し利己主義と「わがもの」の感覚から開放された者は、幸福であれ汝は快適で゛あるべし」。
苦しゆむ内近こうよれと言われても、近寄りすぎると身我苦しいし、適当に近寄る暗いが良い聖者なのかも、真面目な人は一心に
悟ろうとしている、私の今はこの様に縁があるし仏も大切にしなければいけないけれども、煩悩にも一期一会で出会いも大切にし
なければいけない適当な努力?してさあとりあえずになるようになるくらいがみんな楽な旅なのかなあ、工場心無い?まあよいか
-
そうじゃ実践あるのみなのじゃ。
-
僧である人たちは仕事として坐禅や瞑想お経をあげて毎日欠かさないけど、私は宗教家ではないし別に坐禅や朝の書き込み
する義務はない朝からあれもこれも色々面白い無料の楽しみが増えて時間競争になり習慣の書き込みが気合がいらず早く
しろの声に毎日追われている椅子坐禅は座る時間も泣く昔の自分はもう居ない?今は別人になつている細胞は三年で入れ
替わると言うしまあ良いか。イカン今はやる気なく気合も入らないそれは毎朝ため息もでるでも昔には戻りたくない。
便利な昨日では無く教は色々な新しい能の機械やソフトが新しく出来てきて使われて行く宗教なんて古いおもちゃ
損なもの何が楽しいのか家が燃えていますか宗教で助かるのか?今はまだ体元気後から考えるWBCもあるし囲碁もあるし
下らんニュースもあるし兎に角忙しく仕事そんなにやる気ないし?暇が無いと頭が言うし山や川木々や草花の自然は
数分見るだけの時間しか無いし今朝はクダラナイ内容がないよでも長くなつたのでまあ良いか次が待つている情けない
なあでも自分が思うようにならないでも今思うようになつている?だめだこりあ
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瞑想はできなくとも観察をしてみるとよいのじゃ。
日常でも自分の行動などを観察してみるのじゃ。
変化が訪れるじゃろう。
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・・・さてこの伝説(釈迦が煩悩を退けて菩提樹の下で悟った?)を概観して驚かされるのは、仏陀の敵対者の名前とジョイスが
あげている芸術家を芸術の「本来の」道からそらさせるところの動機とが見事に一致しているという事です。すなわち(1)カーマ
欲望、(2)死すなわち死の恐怖(3)ダルマ社会的義務、徳、および関与、というわけです。また未来仏が己の目的を追求するため
に坐った(不動の地点)という観念も意義深いものであり、これはブラック・エルクの言う「世界の中央」に対応しています。つま
りあらゆるところにあり、そこから彼が「聖なる作法にのつとつて」万物を見た場所です。そこは地理的な場所ではなく、諸所の
生命を苦悩と悲惨へ強いる妄想的な欲望、恐怖、関与から開放された精神状態なのです。
?心が開放されず毎日思うようにならず未来ははずだがハズレる内とは関係内昨日も他他の日本野球囲碁負けたのが影響して
イライラして熱と碁も連敗し腹立つて来る。私は心落ち着ける基礎の最近座るの初歩の基礎をおこたつている心を内言うに
向かせるまず静かに座る坐禅は曹洞宗馬鹿にしていた自分ではまずいのでは内化。人間は動物以上のレベルに関心も無くては
まずいのでは内化?娯楽は楽しい勉強したくないあそび回る為のこの世うな霊が集まつては悟楽ドラマ化しているのか
鬼さんも瞑想しなく迷走している我々を相手にして暮れるご苦労な事だ有難う少しは心静かに座つて内言う見つめよう
-
そうじゃ、本心を観るのじゃ。
-
第十二則 【厳喚主人】 がんかんしゅじん
瑞厳の彦和尚という人は毎日自らを主人公と呼び、また自らそれに答え、ひとりでこんなような問答をしています 「はっきり
と目をさませよ・・・はいはい。いついかなる時も、人にダマされてはいかんぞ・・・わかったわかった。」
無門いわく 「瑞厳の老和尚は自分で買って自分で売り、幾多の神の頭や鬼の面を手品のように出して見せます。どうしてなの
でしょう、その本質 (さんずい+斬+耳) にあるものとは? ひとりの呼ぶものの本体 (底)、一人のそれに応じる本体、ひとり
のはっきりとした意識の本体、一人の人にダマされないようにする本体。
もしそれらを認識してしまうと、結局もとにもどって目指しているそのものではなくなってしまいます (不是)。もし他のもの
を認めて成りきってしまうと (若也他に傚わば)、すべてそれは百丈和尚に出会った野狐のように、カン違いの解釈となって
しまうのです。」頌にいわく 學道の人眞を識らざるは、只だ從前より識神を認むるが爲めなり。
無量劫來生死の本、癡人喚んで本來人と作す。 「せっかく仏道を学んでいても真理を理解できないのは、ただむかしより
別の人格を認めてしまうからで、無限につらなる時間の中で、生死のもとになるものを、カン違いの人はそれが自分である
(本来人) と思ってしまうことにあるのです」
?どうのこうの行っても世界の正解は動向の珍道中である悟りも迷いも友に有るいて一人前いやまだ半人前なの鴨?
-
どのように良く生きようとも、逃れられない死がある
この寂しさ故に無常を徹底して見ることができない
全てを失う寂しさと恐怖を乗り越えて座るのだ
-
そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
-
なんで優しいマハラジさんがこの世は嘘八百で何の価値もないと言うのか?我々は適当で鴨池産みたいに国を憂い
国防の理想に燃えていても?金持ちでないので阿部さんに協力してもらつて少額工を建てようとしたたげなのに
あべさんが思いだけで金わたさなきゃ何の証拠もなくマスコミから追及される事もなく澄んだのか?マスコミは
騒ぐ材料が無く金も得られない野党も攻撃目標もない。私もにちやんに書くネタにも困る。私は鴨池さんかっこ悪い
と鴨池さんを無理やり分かれさせられた仲良いひとでも分かれ木は観にくい少しは阿部さんの立場を守れないのか
嘘も憑きとおせと無責任な野次馬化して観ている阿部さんは自分いや国を守らなきゃならない立場なのだけど?
私も自分に不利な立場になつたら見苦しくなるのかまあ我々は人間だものでそうするのが正しいのかまた横道に
それたマハラジは山の上で下界も見下ろして神田田に蜘蛛の糸下した芥川の御釈迦様の様な立場でこの世のダメな
人人見捨ててはまずいではないか全然レベルと低い私の煩悩のこだわりが言わせるのか?ほんとにこのようで
素晴らしいものもあるけどくだらないものもあるまあそれを捨てるのはブラフマンも否定するのではないか
私はへぼなのにハブ名人の手をどうのこうのでも長くなつた政治も色々聖人も色々な考えがありでもラーマクリシュナ
は阿保に見えるけど天才だと思う。でも僧いう役なのか鴨池さんかっこ悪い阿部さん守れ無いマハラジもいい人なんだ
けどインド人だし立場上ああいうしかないのだろうか
-
私は七覚支の軽安を追求しているのだった
昨日は座っているとき、まるで宙に浮いているような感覚で、自分の背中が光っているような(実際は光っていないが)感じがした
これは軽安の一つなのだろうか
-
↑そうじゃろう。
苦が無くなり、心身ともに軽くなっていくのじゃ。
瞑想を楽しむのじゃ。
-
碧眼六第11話(抄) 黄檗和尚の怪奇体験 黄檗(おうばく)和尚は身長が2m以上もある大男でした。額には
お釈迦様のような丸い突起があり、生まれた時から既に禅を体得していたといわれています。ある時、天台山に向かう
道すがら、一人の僧と出会いました。その僧も天台山に行く途中だというので、連れ立って歩きながら色々と楽しく話
をしたのですが、その話が合うことといったら、まるでずっと昔からの親友のようでした。しげしげと彼の顔を見てみ
ましたが、人の心の奥深くまで見通すかのような眼光といい、凛として気高い面持ちといい、かなりの高僧であること
は間違いなさそうです。しばらく行くと、谷川が増水しているところに出くわしました。ああ、こりゃ水が引くまで
渡れないや、と思って黄檗さんが川のほとりで立ち止まっていると、その僧が言いました。「さぁ、一緒に渡りましょ
う!」えっ!?と思うまもなく、その僧はひょいと着物の裾をまくると、まるで平地を歩くかのように増水した川の上
を渡り始めたではありませんか!!その僧は川の真ん中で立ち止まると、黄檗さんの方に振り向いて言いました。「さぁ、
あなたも渡ってきなさい、さぁさぁ!!」黄檗さんは、その僧をぐっと睨みつけると言いました。「むうっ。出たな
妖怪!!もっと早く気付いていれば、その足をぶった切ってやったものを!!」僧はそれを聞くとため息をついて言いま
した。「ああ、この男は本物だ・・・」 ??この公案意味不明でも僧は上から目線の僧みたいで自己中なのか?見んな
いままで僧言われたらハイハイと付いて行く人ばかりだったが、偉い眼にあつた話か本とはさつぱり分からん話
?足切ったら幽霊丸出しで川は三途の川?般若心境も逝こう逝こうでも川渡らない臨死体験の鴨
今朝も気合はいらず適当なでも今は色々で空見る暇もないタコ足配線で修行は春か
-
かわをわたったらよいのじゃ。
-
ショーペンハウアー自身の決定的な貢献は次の認識にあります。私たちの外的な目は時空の場の中のみかけの現象しか見かけ
ませんが、しかしこれらの現象全ての内的経験は、意欲する主体としての彼、彼女、ないしそれ自身の経験なのです。この内
的経験はー私たちには隠されていますがー実際は、アートマン=ブラフマンすなわち普遍的自己のエネルギーの経験なのです。
ただそれは幻影である個人自身の死の恐怖および幻影としての生存への欲望によつてサンサーラ(時間的な幻影の影)に繋がれ
ているのです。つまり(生の意志)の衝動は自分自身としてのアートマンの経験ですが、それはーショーペンハウアーの認識で
はー「同情」(慈悲)の洞察という形でのみ生起します。それは菩薩の性質に他なりません。彼は有名な論文「道徳の基礎につ
いて」の中で次の問いをだしています。「ところで、私のものでもなく、私と関わりない苦悩が、それ以外の場合には私自身
の苦悩だけがそうであるように直接に私動機となり、私を行為へと動かすという事は、どの様にして可能なのだろうか。
[・・・]この過程は神秘的である。それは理性が直接に報告しえないものであり、それらの根拠を経験によつて見出すことの
出来ないものである。にもかかわらず、それは日常的なことである無常このうえない人、我欲きわめて強い人にとつてさえ、
無縁な事ではない。この現象は日々われわれれの目前に、個々のことにあらわれる。熟慮を重ねる事も無く直接的衝動によつ
てある人が他人を助ける、救援に駆けつける、それどころか見知らずの他人のために、その他者の大きな困惑と危険とを
眼前にしているということ意外には何も考えることなく、自分の生命をきわめて明白な危険にさらすことさえある。
-
(つづき)この問いに対してショーペンハウアーはこう答えます。この瞬間の反応と行動には、ある形而上学的認識が
顔を覗かせているのだ、とーすなわち(彼はこれをサンスクリットで表現しますが)「汝はそれなり」という認識が。さらに彼
はこう言います「だがこのことは、私が他人とあるていど同一化し、したがって、自我と非自我とのあいだの垣根がその瞬間
には解消してしまつていることを、前提している。そのときだけは、他者の要件が、その必要、その困惑、その苦悩が、直接
自分のものとなる。そのとき、私はもはや他人を経験的直感があたえるままに私にとつて無縁なもの、どうでもよいもの、私
とはまつたく異なったものとは見ないで、私の神経が皮膚に包まれているのではないにも関わらず、その他者においてもとも
に苦悩するのである」(つづく)
玄沙和尚はあるとき旅にでようとしてすぐ足の指を石にぶつけイテテ。この痛みは何処空着たのかと突然想い旅はやめて寺に
引き返したとか?雪峰和尚が何故お前は旅に出ないのかと聞いた。そうしたら、玄沙は「達磨は中国に行きませんでした、慧
可もインドに行きませんでした」と答えた。??テレビを見ている人が旅の番組で色々な所に旅する気分になるけど、冷静に
見ればテレビの光が色々に変化しているだけ、見ている人はテレビの前に居る。あたり前だ私は今パソコンの前で2ちやんの
朝の出鱈目を書いている。色即是黒写っても写らなくてテレビはテレビパソコンはぱそこん光の乱舞だけど真っ黒なパソコン
の前で見続けるのは辛い、けど坐前つまり坐前禅なら盲見続けられる視でも空たまには空でも色々な光も見ないと?色即是空
空即是色。テレビやコンピューターの機会がないと見ることも無い暇でもつまらないお年よりもいるし、まあそれもよいか。
-
(続き)固体化は、空間と時間を介して生じるたんなる現象にすぎない。現象は、私の脳髄の認識機能によつて制約された。
認識能力のあらゆる客体化の形式以上のなにものでもない。だから固体の数多性と相違も、単なる現象にすぎない。いいかえれ
ば、私の表彰のななかにのみ存在するにすぎない。私の真の内的本質は、それがわたしの自意識のなかに私自身にとってのみ
直接にあらわれるのと同様の直接性をもって生きとし生けるものの中に存在するーこの認識、サンスクリット語でtat tvam asi
すなわち(汝はそれなり)という定式がその定着した表現となつているこの認識こそ、同情としてあらわれる、だからあらゆる真
正な、つまり無私な徳がそれにもとずいている認識、あらゆる善行がその実在での表現であるところの認識である」すべての
神話の比喩は、まさに地域の生活のあらゆる様相を通じてはたらいている自己のこの作用の直観から派生したものであり、その
影響の特徴と定義できるかも知れません。それは儀式、教育的物語、祈り、瞑想、年毎の祭などを通じて表出されます。その
神話を知っているということによつて、共同体の成員が精神と感情を通じて結束し、調和のうちに生きるようにしむけられるの
です。その全体を夢の雰囲気が支配しています。なぜならすべては(もう一度エリアーデの言葉を用いれば)ある神秘のエピファ
ニーとして表現され、経験されなければならないからです。それは現れているものの水準にあるのではなく、個々の具体的な形
を超越した神秘です
長いといわれても行き成り短いのも、蛇あ中は如何で意味不明でも写そう。真空は空ならず 私たちが物質現象に執着しすぎる
のは、苦しみを自分から求めているのです。世の中の無常な点だけこだわり、色々な欲望を捨てるのもまた苦しいとだから中身
智のある中は如何と。まあ此れくらいでしばらく忍者を恐れる心が情けないけど
まあ聖人が一番辛い野鴨この世に価値が無いといいながら見ていられなくてぶつぶつ言うんだから
ご苦労さん少しだけは修行しよう
-
あるがままなのじゃ。
-
何かかかなきゃ本の少しうつすかもじもじするな適当な所ぱっと開くと文字が書いてある。千の顔を持つ英雄・・肉体的不滅
の追及は、伝承的教えを誤解するところから生まれてくる。むしろそこにおいての基本的な問題は、瞳をよく見開いて、人格
をともなった肉体が視野の妨げにならないようにするという点にある。そうなれば不老不死はまぎれもない事実として眼前に
経験される。「それはここにあるのだ。それはこの場所にあるのだ」。「万物は過程のうちにあり、湧き起り、そして立ち
帰る。植物は花開くが、それは根に帰る準備にすぎない。根への回帰は静寂を探し求めるのと同じである。静寂の探求は運命
に向かつて進むのとおなじである。運命に向かって進むのは永遠と同じである。永遠を知るのは悟ることである。永遠を認識
しないところに混乱と悪弊が生じる。永遠を知れば人は理解がゆきとどくようになる。理解がゆきとどけば人の心はひろく
なる。視野がひろくなれば高貴な性質がみにつく、高貴は天と同じである。天井的なのもは『道』に同じである。『道』は
永遠なものである。肉体の衰退は恐れるに足りない」?恐れるにたりないと言われても最近色々な昨日が衰えて頭は空回りして
衰えて行くのかとため息ばかりで進歩は無く落ち着かないそれは嘘適当でも焦り自分の力不足は努力しないところそれは
しょうがないとみとめるだけではではホカホカ以降
-
無理に書かなくてよいのじゃ。
実践が大事なのじゃ。
-
今日座っているときは額が光ってたような感じでさな
-
あるときちょう州に一人の僧が問うた「犬にも仏性はありますか」じょう州「有」 ?考案する何で生物がこの世に
生きる意味はあるのか?何でお高く泊まっている仏が翔も無い煩悩の塊の生物の仲に何時手将棋を指さなければ行かん
のか。下らんけど楽しいのか?エロエロいや色々雑多なテレビ見させられてもまあそれなりに学べるけど時間の無駄で
は無いのか。でもテレビやパソコンけして真っ暗にして星眺める事も無く過ごしている今の時代は?自然も殆ど相手に
市内時代環境の中、宗教も生物的社会的宗教で満足する意味は?人は環境の中で生きているから外れた事ばかり考えて
いると外れた人間になるし仲間はずれになるし、でも心の仲間で社会で縛る事は無いだろう。また仏と性の主導権争い
がはじまるし纏まらなくバラバラ。人が死んでも自然は亡くならない当たり前だし煩悩の多い私はキリスト教が会って
いるのか?でも何か会わないし?今の私ではキリスト教は人は罪犯してアーメンであー面倒な事は皆許される楽な
宗教の知識しかない本当はよくわからない?浄土真宗は罪も無く以下同文?仏教も同じく今は何の力もない。いまは
科学や民主主義の多数決に支配されて心の中まで縛られる。でも昔からそれは同じか人間に自由はあるのか
私の昔のメモは書き写したけど今は色々の急流に流されて泳いでいるのかおぼれている
のかもわからず追及の余裕がない色々なんて無駄な趣味で座禅や瞑想のほうが考証なんだけど
やる気が出ないで忙しいと言う廊下で昔を懐かしむのか
-
観察すれば変容は忽ち訪れるとわかるじゃろう。
座るのもそのためなのじゃ。
-
宙意識キャンベルさん 基本的衝動ーすなわち(1)他の生物を食らって生存していくこと、(2)子孫を産むこと、そして
(3)征服して服従させることーの中枢です。こういった基本衝動は、まつたく制御されないまま放置されるなら、
凄まじい破壊性を示します。それれは20世紀の歴史が明瞭に物語っているところです。ヨーガのモデルに従えば人間の意志が
生命の動物水準を超える目標を目指すところまで高まるためには骨盤部ではなく心臓部にある第四のチャクラの覚醒が必要です。
この変容中枢の名前は「アナーハタ」には「打たれない」という奇妙な意味がありますが、これは「二つの音がぶつかって立てる
のではない音」と解釈されます。生理的な耳に聞こえる音はすべて、互いに擦れ合うかぶつかりあう物体によつて生み出されます。
たとえば声の音は息と声帯がぶつかつて出来る音ですしかしこのようにして作られたのではない音は、偉大な音調あるいは唸り
であり、一切の事物の顕現(エピファニー)であるところの創造的エネルギー(マーヤ、シャクティ)の音なのです。そして
現象的形態の中に創造的音調を直感する事が、心を愛に向かって開きます。いままで「それ」だったものが、そのときから「汝」
となり、創造の音調によって生命を賦与されるのです。
-
これが神話の物の見方で゛あり第三章の「芸術の道」もまたこのようにその事物を眺めます。それは<新しい世界>および<精神
の内なる生命>(<処女降誕>)の目覚めです。自然の道においても人間はとはどきこのような光のある世界を垣間見ますー骨盤に位置
する生物エネルギーの要求が尊重され充足されて、種の独裁から開放された人間は、そのときから個人としての自由を獲得するの
です。それは<新しい世界>(<約束の地>)および<精神の内なる生命>(処女降誕)の目覚めです。自然の道においても、人間はときど
き、このような光のもとにある世界を垣間見ますー骨盤に位置する生物エネルギーの要求が尊重され充足されて、種の独裁から開放
された人間は、そのとき個人としての生きる自由を獲得するのです。(それはだいたい35才以降ですから、=見回り半の上)・・
しかしこれまでの戦争と平和の年代記がすべて証明しているように、われわれの歴史的宗教には、信者達が自ら認める地平線を越え
て開かせるだけの力はありませんで゛した。現代という歴史的地点にあって、これは誠に残念なことです。実際もはや自国民と異邦
人を隔てる地平線など存在していません。未だ昇華されていない神の産物である歴史的人間が、自らの敵意を投影する対象としての
異邦人などというものはないのです。「されど我は汝らに告ぐ、汝の的を愛せよ」というキリストの言葉が、いまや一神教徒にとつ
てさえ真剣に受け止められなければならない事は明らかです。
-
>>341 何か開いたのかもしれん。
更に精進あるのみなのじゃ。
-
(ラーマクリシュナ不滅の言葉)一つの貯水池に、いくつもの水のみ場がある。ヒンドウ教徒はこちらの水汲場で水をくんで
ジョルと言い、イスラム教徒はあちらの水汲み場から水をくんでバーーニーと言い。キリスト教徒はまた別の水のみ場からく
んでウオーターよんでいる。また違う水汲場からくんでアキュアと呼んでいる人もいる。名前は違っても内容は全く同じもの
である。「宇宙の大実母は、子供たちのおなかにあうように料理を作って下さる。みんなの胃袋の消化力は同じじゃないかね」
国(民族)と時代と、容器(人の理解力)に応じて、神様は色々な宗教をお作りになつた。
ラーマクリシュナ金と女嫌いでも食いしんぼう食欲の煩悩は否定しない野鴨。
ホーキンス疑がいも無く科学教の中で生きている鴨。仏教途は御釈迦さんの鴨、日蓮宗は法華経の中で有る居ている。浄土
真宗の人は世間の中にいる。キリスト経はキリストの鴨で、私は?歌外も無く孝子師匠の歌の中で生きている空安心する
文句も出ない。あれ今○○の中に居ると思う時はブラフマンの心と同行なので文句も無い、自然の中に居ると感じる説きも
同じ思いなの鴨。という事は私にとつては疑外も無く歌の中に私が居るで情けないと思う私が「」良く見える。迷い有る苦
もありで私はそんなに一真に修行していない。い加減でも、みんな私とそう違いは内用な?でもブラフマンの親心受け取ろ
う。キリストでイスラムでも幸福でも科学でも、中で生きている説きはまあ良い鴨で
-
妄想じゃな。
いないものは何も創れないのじゃ。
-
心は勝手に動くものである
動く心を止めようともせず、ただ死ぬほど安らぐ
安らぎの中に心を離れた静かな動きがある
その静かな動きを止めさえしなければ良い
-
心は常に休まるところを求めているから、安息を求めて逆説的に騒いで止まることがない
火中に涼しさを求める愚かさ
この矛盾が無明なのでは
-
珠にはまともな哲学的宗教的な適当な事囲うか?今思う私の体や脳自身が環境いや観今日じゃないか?昔の一図な
自分は別人で今の私では無い人なのか今は今の私を今日観ある人が制観して凝念して情?慮して今は絵画陀して
編み出して観ている。坐禅せず孝子さんの歌は聞く暇は無く何が囲碁将棋なのか麻雀も散歩せず野球も見ない
何か時間を無駄に過ごし。それじだめだと思うだけでもそれが私の今の環境でそれほど困った環境でも無く
説きすすんで行く夢のドラマの中の鴨。別の枝では別の夢のドラマが違う観点で見られているのだろうか
誰かがこれは正しいと言うのを別の人がそれは正しくないと言う。それを両方正しい間違いなく正しいと思う私
まあそういうものだろう行動において自分の損得でどちらかにするだけ?最近はいい加減で論理的ではなく
成るようになるの怠惰な私がいるけど治せないというか直すきがないでも何の問題も無く説き進んでいく治す
ひっ洋画あれば速治るし?結局だらだらで何が哲学的かと長くすれば満足かさあすこしだけ聴こう
以後は囲碁でもまあ良いか あおい風 https://www.youtube.com/watch?v=PLdyRQtQuLA
-
無い自分を求めるのじゃ。
その矛盾が目を開かせるのじゃ。
-
和尚と弟子が旅の途中池の中に鴨がいた。和尚此処で公案だそうとした。でもなかなか鴨が飛び立たない和尚イライラ
とうとう和尚は池に石を投げた。鴨は逃げ和尚は公案公案で「鴨は何処へ行ったのか」でも鴨はすぐ池にもどつたので
僧「鴨は此処にいます」和尚は僧の頬をつねろうとしたがつねられず「僧言う事かも」と言ったとか鴨は和尚だった野鴨。
神話の力キャンベルさん。天国も地獄も私たちの内にありますし、あらゆる神々も私たちの内に生きています。これは
紀元前九世紀の『ウパニシャツト』が達成した偉大な覚知です。あらゆる神、あらゆる天国はわれわれの内面にある。
それは拡大された夢であり、夢は葛藤しているさまざまな肉体エネルギーがイメージとしの形であらわされたものだ。
それが神話の正体です神話というのは、肉体器官のたがいに衝突しあつているエネルギーが象徴的エネルギー、隠喩的
エネルギーの形に顕現したものです。この器官はこれをもとめあの器官はあれをもとめている。大脳もそういう器官の
ひとつです。 ?僧言う事かカモは和尚の心の中に板野鴨
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私が思うに、軽安の正体は力みをなくすことで得られる体の自然な揺れだと思う
リラックスの産物である
力みのない自然な揺れは、重力を忘れさせて浮遊感を産み出す
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そうじゃ、力を抜くことが全ての技のこつなのじゃ。
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どれ、相手してやるか、まじめに。
>>352
求めるは病、鬼和尚の虚栄心を求めるに等しい
>>355
宣伝臭い力も抜きな。
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>>354
>重力を忘れさせて浮遊感を産み出す
現実喪失、鬼和尚レベルなり。
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たかこも無じゃ。
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私の駄洒落は何故かまぐれ当たりがするのかと思いネットで検索 駄洒落 無意識 フロイトが夢がどうのこうの言っている
らしい? 私たちの無意識のほとんどはだじゃれやごろあわせの連想に支配されている。私たちが何者かはその連想が主と
して何に結合しているかだけである。 フロイトの「夢判断」を読むと、夢を解釈することで、私たちの無意識の活動の実態
の一部があらわになるという。それで、夢をいろいろ調べて解釈すると、夢のイメージの源泉は、ほとんど、駄洒落や語呂
合わせの類であった。それ以外にも、特定の事象が特定の象徴で表現され、事象と象徴の対応関係は、多対多の関係にある
らしいのだけれど、無意識の心的活動が、駄洒落やごろあわせということは、ある程度の重複性のある連想に支配されている
ということである。そうなると、私たちの人格というのは、無意識の連想が、主として何に結びついているかということに
基礎があることになってしまう。・・・結局フロイトの意見を?でネットの人の意見?に私が同意しただけで同意見でも夢も
駄洒落も無意識に出る出鱈目に学ぶ。フロイト関係?
http://blog.livedoor.jp/h7bb6xg3/archives/51643813.htm
言葉の行き違いや相手に誤解されても?私は相手にならないから訂正しなくても
平気.昔は一々訂正していたけど最近面倒で.
伝わるものは伝わるし伝わらない
ものは伝わらないと居直って居る.言葉の行き違いでも相手の行き違いが良い方向
に伝わっ
ても以心伝心と癒えるならまあ良いかで.無意識に言葉使うときそれぞれ
の勘違いでこの世うに進んでいる説きだらけで.
私はだらけすぎでもつと細かい
事に頭使いなさいと言われても.相手にされない空楽といえば楽第鴨l
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元々、やる気と性欲は密接な関係があり、活力と精力は不可分だが
性欲から離れた、性に囚われない気力と活力を持つことは可能だと気づいた
活力を性欲から切り離すことの恩恵は、グルジェフも語っている
活力と性欲を結びつけているのは、 個人の愚かな習慣に過ぎない
人間の本来の機能がそうさせているのではないから、性に囚われないエネルギーは存在する
工夫あるのみ
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夢の中で夢を解釈してもどうにもならんのじゃ。
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坐禅するだけでは曹洞に難しいのではないか?道元さんは坐禅は安楽の法門でたまたまほかの人が草履で叩かれ師匠に怒られ
で身心脱落して悟つたけど?天才的な訪問だつたから悟られたので道元さん真似した後継の弟子の人達は観ちがいして
凝念以前の制感だけ無指向の坐禅は入門しただけなのか?私は曹洞宗よく知らないけど公安はあまり熱心でないようで
凝念から上呂して自受三昧であそばなければ毎日毎日布団の上で坐禅させられて相当にいやになっちゃうよにならないのか?
不通のひとは臨済宗のほうが悟りは開けるのか?曹洞宗でも死んでから編み出さんの所で坐禅して悟れるのか?制感の後は
凝念して上呂の世界画開ければ自受三昧で遊べるのではないか?私はと言われればまだ座る前に坐らず入門前でこんな事書いて
よいのか坐禅ばかりではザ前ばかにしている野鴨。今朝は変調だなあ観凝の迷走修行もしなくてはまだ休で段々になれない
のは遊び回つてばかりで骨骨が無い私基礎訓練しなければ
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外は宇宙○ 内は内言う○ 空速是式 色即是空 法灯妙 自灯明 ◎
囲碁もなんでもコツコツと基礎訓練が無いとへぼのまま下手な考えのまま
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>>361
ほんと鬼和尚同様に仏教に無縁な奴やのうw
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鬼和尚の悟り夢で表現しても無駄だろう。
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↑わしに夢中じゃな。
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ラーマクリシュナ不滅の言葉。智慧の道を修業する人は、これでもないこれでもない、と感覚を通して解る知識を次から次へ
と捨てていって最後にブラフマンを知ることができる。ちょうど階段を一段一段上って屋根にのぼるようなものだ。ところが
真理を体得した人は、つまり屋根に上がってしまつた人はーそのひとはね、屋根と同じ材料で、その一つの階段も作ってある
のだということがわかるんだ。ネーティネーティと打ち消しつくして、最後にブラフマンとして感じ取ったもの、それ自身が
一つの生命(たましい)として成り立っているんだよ。真理をつかんだ人というのは、無性無相の それ があらゆる性質の
色相なんだということがわかっている。
屋根のてっぺんに人は長いこと居るわれにはいかないから、また降りてくる。三昧に入つてブラフマンの
智を得た人々もまた降りてきては、生物や世界に成っているのは それ ブラフマンそのものだということを納得するわけだ。
トレミファソラしの音調のシだけをいつまでも発音してはいられないからね。智慧の道も、道だ。智慧と信仰の道も道だ。
それに信仰だけの道も道なんだよ。智慧のヨーガも正しい。どの道を通ってもあのお方の元へ行けるよ。けれど私が残ってい
る間は信仰の道が一番だよ。
我々は宇宙の樹になる身つまり果実として絵多に生っているのなら一本樹な人は幹まで降りていや上って生く野鴨
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それはアートマンじゃな。
そして本当にブラフマンを知ったならばおりてくる必要も無いのじゃ。
サマーディと勘違いしているようじゃのう。
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超訳【無門関】の本文コピー 第16話 鐘が鳴ったら食事の時間 原題「鐘声七條(しょうせいしちじょう)」
食事の合図の鐘が鳴ると、坊さんたちは皆一斉に外出用の袈裟(七條)に着替え、ぞろぞろと食堂に向かいます。
それを見ていた雲門和尚がぽつりと言いました。「世界はこんなにも果てしなく広がっているというのに、
君たちは何でまた、鐘の音を聞くと、いつも決まったように袈裟に着替えるのかね・・・・・・」
仏さんたちも空見た事かとのんびりばかりで、さあほつていると修行にでる鐘がなると船に乗せられこの世うに
氏名されてて来たのか?やる気の無いほとけや、政治の理想に燃えた仏や宗教家等色々な役でこの世で働け。
それは真理ませんと?でも自然に良くわからなくても前かで、みんな立場がわかっているような分からないような
盲このように行くしかない?押し出された観点か?けつきよくあなたの夢をあきらめないでこのようにでがんばれ、
遠く空応歌あなたの夢をあきらめないで またあ自然に分かつてくる歌がいなくても歌がある。我々はこの世海栗
して喜多しこの世で金縛りに会う役で悟り何手困難で諦めていいのか?悟りなんて事場にしか存在竹刀し私は僧では
無いし諦める運命の役だし?役に責任を押し付けてしまうしなるようになるに逃げているなるようになると逃げて
いるけどまあよいか?もうホットケーキ?
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なにものにも囚われなくてよいのじゃ。
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この前私はは曹洞宗の事を相当に批判したけどこの世界は特に地球の動物は殺し編む画なければ生きていけないし
朝だはサリン巻いてトランプさんにミサイル攻撃うけるし世界画始まつてから恥かしい正解だし、鬼さんたち悟つた
人たち?は世界は見苦しいと思つて無い方が良いと思つているのだろうか?でも何で制感つまり無思考の座禅の先に
観行の凝念等進めるのだろうか?世界画無い方が良いと思う人が何故世界を始めるのか我々一人一人の正体はブラ不満だし
何故編み出した妄想の夢の世界がクダラナイと思うのだろうか?あまりこの世うで良い思い出なかつたからかよくわからん
煩悩嫌いだからか?私はいい加減で辛い世と思う事もあるけど煩悩も楽しい世と思う。完全な世界が始まるのはAI搭載の
ロ没文明になるなら悟つたひとたちは満足な未来世界に予定通りなれば良いと思つているのだろうか?それなら最初から
地球は機械の世界でよ勝つたのではないか?なぜ最初からくだらない妄想世界を展開したのか?やつぱドラマがないと
平凡でつまらない観前な感激が無いのか私にはよくわからないのです。でも香厳さんは師匠が最初から簡単に世界の正解
を押し絵なかつたのに苦労して意思を竹にぶつけて感謝したけど。?よくわからないけどどらまあ見てみ世うが正解なのか
私には七日しかないなあ?七日は位置習慣日曜日に神は完成した世界に満足したそれはユダヤ今日?私はまた書き込みが
散乱して統合が失調して始末た ?未完成で見苦しいのを認められるのかどうかという事か今朝はウンコがでなく気分が
悪い スマホに次の一手教えてもらい将棋に勝てても嬉しくないし
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何も思わないのじゃ。
あってもなくてもそのままでよいのじゃ。
全てはひとつなのじゃ。
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ヨーガ根本教典 二・五四〔制感〕制感とは諸感覚がそれぞれの対象と結びつかない結果、まるで心自体の模造品のようになった
状態をいう。 佐保多さん解説 制感とは諸感覚をその対象から手元に引き戻す。或いは感覚が対象に向かって動こうとするのを
引き止めるという意味である。感覚がその対象に結びつこうとする動きを引き止められて自分独りの状態に取り残されると、諸感
覚はあらゆる心理状態の実体である心の模造品のようになる。各感覚がそれぞれ独立に外界の色、声などの対象と結びつくことを
やめ、器官と心の一体になっているのが制感である。と 一体ぜんたいなにが始まりかそれはヨーガ有る世界?色即是空?
二・五五 制感の行法を修習していくならばついには諸感覚に最高の従順さが生ずる。 佐保多さん・・・特に最高の従順ささと
言うときには、心が専念状態である時に感覚もまた外部の知覚を受け付けないことを意味している。そして最後に心の働きもこれ
に追従して消滅する事になる。?こからヨーガの用が端◎と基本は大切だ空 世界が始まる前は僧だ空 でも今は僧でも妻子ん居る
ブラフマンも僧して次は我々の枝に化ける凝念になるのか?ブラフマンも想なるまえは我々では内化無限ループで鏡が鏡を映す
迷走世界を網駄したし
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そうじゃ、感覚を制するのじゃ。
そうすれば心は惑わされず、集中力も増していくのじゃ。
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朝飯前は自由にしたいけど、我々の周りは金が無いと色々先の事を気おめぐらせて考えても何にも鳴らないのになあと
ほつとけが言っているのに、色々頭を目具廻らせなければ困ることになるそう思うと色々の心配なこの世うな事ばかり
ほつとけは無責任金や生活関係無い死、我々国民は社会生活の義務がある、法律もずるい人はうまく使える様になつて
いる。それには色々考えなきゃ如何、金もはいらない。体も家族もほつとけでは守れん。皆自由で平等な日本社会人?
憲法の理想ではそう書いてあるがそうなつてない。何か今朝もぐちぐちか、朝から自分の能力のなさにめげて金金金と
頭の中は先の心配ばかり、頭切り替えてなるようになる世少し適当におもえば適当に観えるし大目にみなさい多い目に
会う説きはそうだ。私は是でも駄目な人の心が身得ても私の立場を主張しないと小○世でもそうすると不真面目で適当
な人間と思われるし、まあ色々守る法や色んな考えが乱立しすぎて纏まらない言葉仮網適当に行くか。なるようになる
に任せよう。でも
第七則 【趙州洗鉢】 じょうしゅうせんぱち
僧が趙州に問う 「あたらしく修行に入ったものです、なにか心得があればお伺いしたいのですが。」
趙州 「食事のお粥はいただきましたか? 」
僧 「いただきました。」
趙州 「では、その鉢を洗い去りなさい。」
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鬼和尚は自己陶酔に憑りつかれているのじゃ。
その証拠に寂しさ余って、書き込んでいるのじゃ。
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↑他人がそのように見えるのならば自分が寂しいのかもしれん。
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本能私の小さな脳力で体や周りや歓喜様に惑わされてあっちこっちに引き回されて心は一日し自由落ち着く所も無い?坐禅は?
追求されると然前で逃げるように 夢中説夢 写すか。・・昔より「頭上に頭を安ず」の一句が伝わってきている。おろかもの
は、この句を聞いて余計なことを戒める言葉と思っている。あり得ないことを言う際に「どうして頭の上に頭を安ずるという
事があろう」というのが、世間一般のならわしである。夢中説夢はすでに現われているのであるから、凡夫も聖者も同じくそれ
を用いているのであってそれに相違ない。良く知るがよい、昨日も夢の中で夢を語って、これが夢中説夢であると認知していた
し、今日も夢の中で夢を語って、これが夢中説夢である事を学んでいるのであって、それこそ仏に会う喜びなのである。しかる
に仏祖のいう、明々白白なる万象の夢は百千の日月よりも明らかであるのに、生まれながらの盲人にはそれが見えない。まこと
に哀れである。いわゆる「頭の上に頭を安ず」という、その頭は百草の頭であり、十万世界の頭であり、十万世界を尽しての頭
であり一句に合致する頭であり、百尺の竿にのぼりつめた頭である。「頭上の上に頭を安ず」という場合に、その安も上も悉く
頭であると学ぶべきであり、究明すべきである。 そういう次第で一切の諸仏および無上の悟りはみなこの経典から出ている、
しあるのも「頭上に頭を安んじ」てきた夢中説夢である。この経典が夢中説夢するときに、無上の悟りを得た諸仏を出現せしめ
悟りを得た諸仏がさらにこの経を説く、これこそ確定した夢中説夢である。・・・
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ホラになれてきたようだな鬼和尚。何年ホラ吹き倒したのだ?
オウム判定とか、あれは笑えたよ。
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↑わしに構ってもらいたくて必死じゃな。
おぬしは仏教を忘れて金儲けに邁進するのじゃ。
さらにナンパ術も身に付けて女子と付き合うのじゃ。
わしの指導であるからには劣等感も忘れて精進できるのじゃ。
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注意不足生涯者の私が下記映しても実行は泣く世界は白いキャンバスに精神統一して凝念如雨露三昧でアートなんだろうけど現代
は色々たこ足配線の時代で皆落ち着く心も無くビルの間でさまでぃまで彷徨っている野鴨。今日も煩悩に急がされ下記混んだ。
全体性・部分・輝き 宇宙意識より 何とか三昧? 夢中の説明化 絵や音楽や詞や芸術?自然の風景?坐禅や名僧の中?仏仏?
アクイナスはこう言っている「『三つのものが美には必要である翻訳すれば、全体性、調和、そして光輝』となる」。全体性この
原理の機能は、みずから規定されかつ規定するような、実践とは関わりの無い、閉じた錬金術的な場を創り出すところにあります
それがどんな効果をもつかを見るには、何でもいいからいくつかの事物の集まりー例えばテーブルの上の品物の集まりを眺めて、
創造の中でその周囲に枠をおいて見て下さい。すると枠の中の事物の総てが「ひとつのもの」と見なされるでしょう。それはもは
や、いろんな用途をもつ無関係な事物の集合では無く、ある構成の部分であり、相互に関係づけられています。その枠の外にある
ものー例えばテーブルの部分は、いまや「他のもの」となり、枠の中にある事物のすべては一つのものになります。スティブの言
葉では、「君はそれを一つの全体として見る。その全体性を認識しているわけだ、これが全体性なのさ」というわけです。(続く
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ガンバつて貼ろう今ワーク中なんだけど寂しい私でも相手してくれる人が居るから?
(続き)調和 さてこのような構成ができると、次に重要なことーそして重要な事のすべてーは構成の中のそれぞれの
対象ないし事物が此処にあるのか、あちらにあるのかという事、つまり部分に対する関係、各部分の全体に対する関係、全体の各
部分に対する関係です。これが審美的な道具としてのリズム、すなわち調和です。その要素になるのは、事物、色彩、言葉とその
音、楽器、建築の部分とその比率などが考えられます。スティブンの言葉によれば、「君はそれの形の線に導かれ、点から点へと
眼を移してゆく君はそれを、その限界内で均斉のとれているものとして認識する。その構造のリズムを感じるわけだ」ということ
になります。輝き リズムがぴつたりあつたとき、人は喜びの中にとどまり、それに何か他の効用があるかどうかまったく考えま
せん。スティブンはこう言っています「君はまさにそのものであって、他の何ものでもないということを知ったわけだ。(続く)
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(続き)〔アクイナス〕がスコラ学派の「クイッディタス」つまり事物の「そのものであること」について言つているの
がこの光輝なのさ。この至高の徳性は審美的映像が芸術家によつて感じられるものなんだ。こういう審美的瞬間の心を、シェリー
は燃え尽きる炭という美しい比喩で説明している。美の全体性によってとらえられ、美の調和によって魅惑されていた心が、美の
こういう至高の徳性、審美的映像の明るい光輝を輝かしく認識するこの瞬間こそは、審美的快楽の輝かしく静寂な状態だよね。こ
れはイタリアの生理学者ルイジ・ガルヴァーニがシェリーのものに劣らず美しい言葉で心の魅惑とよんだ心臓の状態に、非常に近
い霊的状態なんだ。」まさにこれひそが芸術の存在理由であり、その治癒力と奇跡を説明するものなのです。つまり認識された美
がこのような諸感覚を照明し、精神を鎮め、心を魅惑する力をもつということです。(続く)
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(続き)「芸術は自然と相似した偉大な線を浮かび上がらせるという言葉を自分の座右の格言の一つとして挙げていたことを
思い出します。周知のとおり、自然は私たちの外部にあると同時にに、私たちの内部にもあるからです。芸術はこの両者の境界に
ある鏡なのです。儀式もそして神話も同じであって「自然の偉大な線を浮かび上がらせ」、それによって私たち自身の奥底にある
真理、あらゆる存在と共有している真理において回復させるのです。したがつてこのような「本来的な」やりかたで仕事をしてい
る芸術家は、その世紀の真の見者にして予言者であります。彼は生の擁護者です。生の擁護者でありますから、もちろん一人の
革命家です。その時代の社会的仮面を貫いてその背後にあるものに到達するという点において、単にもう一人の不自然な仮面の名
において舗道を血に染める狂信的な理想主義者よりもはるかに根本的な革命家なのです。」(つづく)
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そのものを観るのじゃ。
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今週競馬は皐月賞か今は予想は止そうで賭けはしないけど昔は新聞みて色々考えて決めた番号は的外ればかりだつた。何も考えず
適当に眼を瞑って新聞を指で触った所が勝ち馬だつたり、散歩して道を歩いていると前に数字が書いた一般の新聞みてダービー
はこれだと思ったらその通り来たし何気なく前の風景みて聞いたら連勝馬券の勝ち馬の数字が出来たし考案せずに公案すれば
答えはまあ絵画にあるまあ毎朝のにちやんの書き込みも朝起きて何にも考えず適当に書けばはずれが無くて的当な言葉長くする
だけ?ほかの人が何かいているか観てないので会話としてなりたつて居ないはずが何故か外れて以内山カンはもうほつとけ化?
まあええ書いたの下記写すか舞おうちゃん引退した(前の続き)全体と部分とそれ照観する者がそろえば何でも生体と
認めれば、宗教団体も政治団体も宇宙も国もスポーツも趣味も総て根本の実在の視線が鑑賞すると思えば。総て存在するものは
生命で夢を見ているとも言える。輝きが有れば芸術だけど?何かぐだぐたの大衆演劇もあるしまあ色々な生命があるかも。
三回転半を超える難しいジャンプで度々つまずいて、見える芸術点に逃げた舞おうちゃんそれでいい点数取れるでもそれが
本当の芸術と言えるのか。そんな事言っても身周り半越えるのは用が無いし仏下りいに?見栄えがよければ良いのだ?勝たなきゃ
勝たなきゃ勝ちが無いで苦しかったのだろうけどご苦労さん
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うまではなく心を見るのじゃ。
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世界を編み出したたった一人の人も大変我々も大変なのは同じ駄空?この意図はその人自身の意図には違いないのです
が、「夢見る意思は別な立場から出る意思」なのです。これと同様に私たちの人生という夢〔ないし悪夢〕は私たち自身の隠れた
意思の産物です。しかし夢と人生の総ての絡みあいはあたかも単一の上位の脈絡に属しているように思われます。そうしショーペ
ンハウアーは言います。「かくして現実的な一種の<予定調和>によって各人は、彼自身の形而上学的操縦に従って自分にふさわし
いことのみ夢に見、かつあらゆる人生の夢は人為的に入りくんでいるので、各自は自分の都合のいいものを経験し、同時に他人
に必要なことを実行するわけである〔・・・〕」そして彼は論文の終わりに次のように示しゅん?します。「また人生という大き
な夢の主体はある意味では唯一のもの、生への意思であること、多種多様な現象は時間と空間〔<生への意思>が形をとる形態発生
的な場〕〕」に条件づけられていること、などを想定するならば、このスケールの大きな思想を前にしてひどくたじろぐことも無
なるであろう。それはかの一つの存在者が夢見る大いなるゆめであるわけだだから一切は相互にからみあい適合しあうのであろう」
大いなる夢の主は我々が夢の中で役に白ければガツカリするかも、だから我々は夢を明らめないでえ迷うぞおー
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381鬼和尚君、空虚なプライドの為に誤魔化しても無駄だ、
鬼和尚君の今日までの虚栄心に満ちた日々、まるっとお見通しだ。
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外道の分際で仏教で高尚垂れる間抜けさを、まず自覚すべきだな。
しこたまハッタリ芸の日々を懺悔しなさい。
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まあ皆も自分の役目はたしているカラー
鬼さんも鬼さんに出来る2ちやんの役目はたしているだけかも
役に流されず馬鹿にもせずまあ仲半端な人もそれなりの役目だし
私は浅原さんの様に牢屋に入れられるご苦労な役でなくまあ良い役者で
蟻が糖と思う 役にこき使われのは奴隷とぽ師匠は言う師 まあ我々が
悟り過ぎると役の観劇がつまらないし中の未知くらいがさあとりあえずはまあ良いかで
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実践あるのみなのじゃ。
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普通の人々は国の方針には何時でも逆らえない。御釈迦さんの時代のインドの国では輪廻転生は国の当たり前の方針だつた
から御釈迦さんは無記でも皆輪廻は当たり前に無気圧ていたけど今の時代は国は現実的な便利な金と経済に向いているので金に
ならなく経済的ではなく死んだ先なんて無い事になつている科学もそれは儲からなく研究もしないので生きるために働かない
人々は役立たずの現代だから昔の世うに無記ではまずいのではないか、今の人は身得ないものの基礎の学習出来無い時代に
なっている野鴨。ほんとうに人々は国の方針にいつの時代も逆らえない。北朝鮮の人々も金さんに逆らえない。宗教は最弱に
弱く国に逆らえば滅ぼされるのは歴史が証明する政治は都合よく宗教を利用してあ創価?真実とか悟りなんて金にならず
それで良いのだろうか?私は輪根は有ると思うけど言えばばかにされもつと役に立つ事考えろ働いて金稼げと怒られる現実がある
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じぶんのしたこととしなかったことをみるのじゃ。
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法華転法華 法達「私は法華経を三千部も読じゅしました」慧能「たとい一万部読じゅしても、経の意味を
理解しなければ、自分の過ちさえ知ることは出来ないだろう」法達が答えた。「私はまことに愚鈍です。これまでただ文字の
意味にまかせて読んできただけです。どうしてその意味がわかりましょう」慧能が言った「では一度読んでみなさい。おまえ
に解説してあげよう」そこで法達は『法華経』を読み始めたが「方便品」まできたとき慧能が言った。「そこでやめなさい。
仏がこの世にお出ましになるいわれ、これがこの経典の中心である。多くの喩えがこの経には説かれているけれども、これに
勝るものはない。ではそのいわれとは何かといえば、ただ一大事という事である。一大事とは何かといえば、仏の知見である。
仏の知見とは何かと言えば。開示悟入である。それが自ずから仏の知見になっているのである。すでに知見が備わっているの
であり、衆生の一人一人が、すなわち仏であると言うことである。おまえはいままさに信じるがよい。仏の知見とはお前自身
の心である事を」?一番大事なのはこの世うにして来たのが位置盤大事な夢中仕事なのかぽつ師匠一の仕事いや如しと言う師
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素人A2017/04/17(月) 12:16:14.04 ID:wwNXh+Re
北朝鮮は微妙な所でメンツ保つてミサイルは花火でわざと失敗とたのかと疑う
何かトランプさんと金さんは阿吽の呼吸で微妙なところで遭うんだろうか
世界とか宇宙の真実も本当とも言えないと嘘とも言えない微妙なところに
真実の演技画あるのたろうか
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目覚めれば皆仏なのじゃ。
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般若心境は我々は徴兵されてこの世うに来たと言つているのか?そういえば丹波さんもこの世は監獄だと言っていたけど
あの世の仏としての生活は働かんでもよく飯食わなくても大丈夫病気なんて気の迷いだしいつも若々しい姿の仏で年取らない
そんな夢のような仏の天国から?こんな生きていくためのコロシアムゲームの世界に徴兵されたのが我々と言っているのが
宗教の教えなのか。この世のゲームでは力こそ正義で勝たなきゃ刀もなく勝ちが無い将棋や囲碁か競馬では負ければ借金の山だ
。この世はゲームと変わらんではないか生きるために色々な技や生き方を学んでだんだん段になるために頑張れでも仏教は
この世捨てていて勝ちが無いとあの世に頭皮しているのか人間から逃げているのか?それでは日曜日位逃避するキリスト教に
科学では負けている。我々は僧では無いカラー沢山の毛はやして生きなければ苦しくても生活が成り立たないでも少しの余暇は
宗教逃げなければいけないので場。苦しい野を一時的にごまかす余暇だけでは不味いのでキリスト教の人は日曜日だけ教会に
行くのか?エホバの証人の人は毎日が逃避で現実から逃げてこの世の終が毎日来ると言う師。今朝は私はさまよっていて
何かこうとしているのか意味不明。要するにこの世のゲームは辛い世と思えばあの世うな働かなくても生きていける仏の心の
世界から来たのだろうか?般若心境ははそれを教える役なのだろうかそうだつら飯食わんで働かなくても本当は生きていける
のかでも軍隊に入れば厳しい軍隊のルールに苦しんで生きていかなければ生けない死
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自分でえらんできたのじゃ。
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私は小周天を自己流で修行した事が有る。仙道の入門書を持っているヨガのチャクラ関係も同じような者だしキャンベルさん
の本ネタ。一番下のチャクラは肛門と生殖器の間にありムーラーダ素朴で原始的な生命への執着(栄養摂取と同化の衝動で総
ての動物にとって生きるための前提条件)動物は他の生命を食いつくすことによってのみ生存しうるのですから、二番目の中継地
はスヴァーディシュターナ(エネルギーの「それ自身あるいはきわだつた存在地点ですがこれは性挙動中枢であって思春期に目覚
めさせられます」、第三のチャクラはマニプーラ「光り輝く宝石の都市」と呼ばれ臍の高さに有って権力と征服と支配への意志を
司る中枢です。健康で肯定的な様相にあればこの意志は力の獲得およびその責任にともなう誇りの感情を表しますが、病的かつ否
定的な形をとると征服し掠奪し服従させ手の届く一切のものを我が物にし、あるいは思い通りにしようとする飽くなき意志となつ
て表れます。)ヨーガの教えるこの心理学予定表によれば人生が正常に経過するならば誕生から三十五年ほどの間順次成熟して行
きます。(どうもこの35は三回り半の蛇つまり眠っているクンダリーニの事らしい、7÷2=3.5という事か) (続く)
-
産めよ増やせよ地に満てよユダヤ教を少しだけ愛によつて心臓のチャクラに上り神を会いしたのがキリストさんか?でも貴方の敵を
愛しなさいは実高は我々には難しく我が身だけ可愛いの国の歴史は上に登れない仕組みがあるのかも(続き下記写すか)
歴史的人間を動かし彼を規制する道徳制度、世界史という悪夢を生み出してきたのです。さらにそれは人間が動物と共有する
基本的衝動ーすなわち(1)他の生物を食らって生存していくこと、(2)子孫を産むこと、そして(3)征服して服従させることーの
中枢です。こういった基本衝動は、まつたく制御されないまま放置されるなら、凄まじい破壊性を示します。それれは20世紀の歴
史が明瞭に物語っているところです。ヨーガのモデルに従えば人間の意志が生命の動物水準を超える目標を目指すところまで高ま
るためには骨盤部ではなく心臓部にある第四のチャクラの覚醒が必要です。この変容中枢の名前は「アナーハタ」には「打たれな
い」という奇妙な意味がありますが、これは「二つの音がぶつかって立てるのではない音」と解釈されます。生理的な耳に聞こえ
る音はすべて、互いに擦れ合うかぶつかりあう物体によつて生み出されます。たとえば声の音は息と声帯がぶつかつて出来る音で
すしかしこのようにして作られたのではない音は、偉大な音調あるいは唸りであり、一切の事物の顕現(エピファニー)であるとこ
ろの創造的エネルギー(マーヤ、シャクティ)の音なのです。そして現象的形態の中に創造的音調を直感する事が、心を愛に向かっ
て開きます。いままで「それ」だったものが、そのときから「汝」となり、創造の音調によって生命を賦与されるのです。(続く)
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心を整えることで心は止まるのじゃ。
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変容した世界の光の中で生きるには性格の変容が必要条件ですが、ヨーガにおける蓮の梯子のイメージでは、この変容が最後
の三つのチャクラー五、六、七番目ーとして象徴されています。これらのチャクラは、頭と精神に、形而上学的な諸感覚の範囲を
超える目的と目標を追求する頭と精神に属します。その最初のものであるウィシュッダ(「洗浄された、澄明にされた、完全に純粋
な」[清浄輪])は咽頭部に描かれており、ここで成就されるべき課題は諸感覚の清浄化です。つまりさきに引用した「もし知覚の扉
が清められるならば、ありとあらゆるものはその本来の姿、無限を人に顕すであろう」というブレイクの言葉と同じものを目指し
ているわけです。そのために必要な方法は、エネルギーの方向転換と呼ばれます。それは三番目のチャクラに属する一切の敵意及
び攻撃性を外部に向けて、世界の改善のために適用するのではなく、内面の自分自身の方向に向ける事です。イエスの言葉にある
ように、兄弟の目から塵を取りのぞくよりも、自分の眼の中の梁を取り除かねばなりません。インドの絵画的隠喩ではこれが魔人
の姿をした怒れる神として表現されます。その神は切断された頭を連ねた首飾りをつけ、切り取られた腕と脚で作られた腰巻をつ
け色々な武器を振りかざし、その足は人間を踏みつけています。この魔人は自分自身に向けられた人間の攻撃衝動の顕現であり、
足元にいる人間は、肉体の欲望への執着と肉体の死の恐怖を表しているのです。?禅禅修行使用と竹刀私には用が無いと師匠に
怒られた。片手の人の二番せんじのロウソクの火消せとは王将の頭も火で燃えているし要するにまだ心用がない腹ん盤上の煩悩
にいる野鴨
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こじつけすぎじゃな。
関連妄想なのじゃ。
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宇宙の眼 昔読んだ本思い出して寝たがネタになってシマッタ夢が起きたら不味い。
ベヴァトロン陽子ビーム偏向装置が故障し、電子工学者のハミルトンは妻のマーシャをはじめ、他の7人の見学者らとともに、
磁場と放射線のエリアへと投げ出されてしまった。そうして、8人は1959年の別の世界で目覚めることになる。そこは、第二
バーブ教の神が支配する世界だった。この神は怒りの神であり、呪いの神でもある。同時に、救済の神であり、奇跡の神であ
る。呪いはただちに現実となり、天罰はすぐに現世にもたらされる。怪我をすれば奇跡によって直すこともできる。神は現実
に存在し、人々を見ているのだ。当然、異教は呪われる。 第二バーブ教の世界であることを除けば、ハミルトンがそれまで
生きてきた現実のアメリカ社会であることに変わりない。同じ同僚がいて、飲み屋があり、家がある。ただ、仕事の内容は変
わり、世界の価値観は変わっていた。 その世界の原因は? それをつきとめ、ハミルトンたちが第二バーブ教の世界を脱し
たあとに、また別の世界が広がっていた。どうやったら本当の現実に戻れるのか? 本当の現実に戻るまでにはどれだけの別
の世界を過ぎなければならないのか?誰かの妄想のような世界であっても、ハミルトンはごく普通の人間として、愚かである
と同時に賢い。人間として守りたいこと、守りたい考え、守りたいものを失うまいと絶望的な戦いを続ける。なぜ。なぜなら
ば、それがハミルトンだから。普通の人間だから。本書「虚空の眼」では、第二バーブ教の世界を含む3つの忌まわしく、
おどろおどろしく、そして、滑稽な世界が描かれ、同時に、「現実の世界」も描かれる。・・・
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おかしな妄想じゃ。
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私が皆さんの会話の相手しないと?会話とは相手に合わせてそうだねえというか、いやそれは違うというか、主婦の井戸端会話
ではしゃべり始めた人に合わせないと自分のしゃべりたい事聞いてもらえない、そんな頭使うのは私には脳力もなく時間も無い
論議で相手に反発するにも頭つかれる。みなさんは色々な事考える事ができるけど、私は普通何にも見ないでここでは適当に
先も見ずかきはじめたり、兎に角ほか他で24時間以後が待っていて時は金成に急がされている将棋の歩で適時んに行ければ
金になるいまは歩むしかない、なんかの修行しているのだろうけど私の身えるぶぶんも観えないひとも未知しるべーでまあ良い
かなんでか朝は2ちやんのノルマで書かないと如何ルールになり辛いじかんなのかそんなに辛くない。内容なくても長くすれば
よいので適当で適当にすましたりあとはメモコピーしたり本やネット貼り付ける毎日とにかく主人公は長く書くか意味不明の
様でも穴多のほっとけ内ひとが聞き流してくれば良いかも?頭で考えたり間違いを訂正したりすれば仏を馬鹿にしている事に
なるし、とにかく仏は勘違いが多く書くことで経験をつむのかもしれないこれも修行か自己弁護師が今弁護した。
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鬼もAも同じようなもの脳内巡回w
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↑おぬしも仲間じゃな。
もう寂しがらなくてよいのじゃ。
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仏性 ・・・全世界は悉く主体性そのものであつて、対象物は一物もない。今日只今のところには、第二物は無い
のであつて、ただ第一人のみである。「根源はすでに断ち切れているのに、人は気ずいていない。茫漠として業力
にひかれていく我々の意識はいったいいつ休止するのであろうか」。しかし実はそのままが仏性なのである。
全世界は、虚実の縁起による存在ではない。なぜならば一物も隠すことなくむき出しのままであるからである。
むき出しのままというのは全世界がそのままの存在であるというのではない。外道の誤った見解では、全世界は
悉くわれの存在であるというが、もとより正しくはない。また全世界は本来的の意味の存在でもない。なぜなら、
古えにも充足し、今にも充足しているからである。あるとき初めて現われる存在でも無い。なぜなら一つの塵さえも
加わることはないから。別々に別れた存在でもない。なぜなら全体が一つであるから。無限の過去から存在でも無い。
なぜなら究極ギリギリの、即近のところであるから。あるとき初めて現われて存在している存在でもない。日常の心
がそのまま仏道であるから。まさに知るべきである。このような悉く有るのなかでは、我々衆生は良い便りに逢う事
は難ずかしい。それは悉有の抜け殻である。このように悉有を得ているのであるから、悉有それ自体は透徹し脱落し
ているのである。・・?悉く或るは我々の身心からー脱落してて小さな修生の目がついて意ていて今は春課此処で働
く用になっている。私も昔の思いの着物脱ぎ変えて衣類はコート要らずのサンマーディの春の午前は
銀の椀に雪を盛るのは無理?脳内には宇宙が広がっていその中に私が居てその中に宇宙の春もある野鴨
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一つしかないから数えることも無く全ては無であり空なのじや。
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阿部さんネタに困つている私にテロ防止法ネタ有難う。この法案でテロを防止するために監視カメラが町ゆ村や森の隅々に
張り巡らされ人工衛星からも人々は監視されスマートホンやテレビやおもちゃパソコンやご飯の仲間で監視カメラや
盗聴器等が配備されメンタリストのDAIGOさん監修のai人工頭脳がデープランニングで様子を分析したらこの世まで
霊界状態になり心の中まで丸見えになり警察に隠し事出来なくなり泥棒も空き巣に入る所に警察が待ち伏せになる
犯罪少なくなりめでたし愛でたし阿部さんは国民に愛される総理大事になるわけないだろう。そのうちこのソフト国民が
もつようになると心の中丸見えで集団は考えが同じひの別々の塊になり、この世の意味もなく例の世界になるのかも
どうせ人々はAI手に馬鹿にされ生きていくしか失くなる世で阿部さん万歳の幼稚園になるのか
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A師匠、ひふみの文体はおかしいという事で、坐禅と見性スレ及び本スレに送信出来なくなりました。
どうやら↑で師匠が仰っていることはあながちネタではないのかもしれませんね。
いつ解けるかは分かりませんが、その時まで失礼致します。
ぽったんさんにも、どうか宜しくお伝えください…。
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不思議です、上がっている時は送信できました…。
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文体がおかしいと送信されない?
それではあの、マコト連呼の人は今後どうなのでしょうか…?
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どうやら私もひふみの神様からストップがかけられた模様(妄想)ですね。
この仕組み知らせてはならず、知らせねばならず、中々難しいが見ていて御座れ
ともありましたので…。
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要するに、強制されたから悔い改めるのでは意味がない、ということでありましょうか…。
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そうじゃそれは悔い改めていないのじゃ。
自ら反省しなければいみはないのじゃ。
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さあとつても素敵なサンマーディに出会っても其処に留まろうと意識すれば逃げてしまうと玉城さんは言う私庭良くわか
らんけど囲碁も勝手放したくなく堅い守りになり勝ちから見放される。意識せず普通のコツコツ難しい。以下は貼るか夢
関係の妄想 曹洞宗と臨在州サイト見たよ。で涅槃ネタ 起きて半分寝て半分つまり人間だもの。曹洞宗はそうとう難し
い坐禅臨在宗は涅槃ネタ見ただけ。今朝は早く眼が覚めてしまった。そういえば夢の中で私が人に偉そうにしゃべっていた。
国々の厄介な政治問題は全て自国の利益の為の観点からしか見ない其れが原因と、損な事は誰でも解っているのだ当たり前
だ。みんな自国を守らないと他国に潰される死、理想では国も生きて意見と言っていたような平凡な夢の中だつた。掟半分
ネタは?半分じゃ無い全部つまらない現実社会の夢つまらない夢だつた。死んだら浄土真宗信じる人は阿弥陀に導かれる死、
曹洞宗は坐禅に導かれる死、臨在州は棒で叩かれる死、キリスト教はイエスが導く死、あの世でも信じる者は掬われるなら、
無宗教の人は困らないのか?何か困らないこの世と似たようなご縁がある身内や社会や煩悩に導かれる死なのかも。それじゃ
輪廻転生決定的なのか?まあよいか色々好きなところに良ければ良い。根が暗い人は地獄を見るけど地獄が好きなのかも?
文合成して無関係長くした。今は貼るだけど夏の日の午後パクった師 https://www.youtube.com/watch?v=c3Ux83iBtrQ
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師匠、適切なアドバイスありがとうございました…。
鬼和尚さん、全く目から鱗、親の心子知らずになってはいけないのですね。
ありがとうございました。
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↑よかったのじゃ。
またおいでなさい。
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虹と水晶 土台 自分自身の心の中以外に仏陀を見出すのは不可能だ。このことを知らないものは、それを外に探しに行くこと
だろう、だが自分自身の内側を探し求めていく以外に、自分自身を見いだすことができるだろうか?みずからの本質を外側に
求めるものは、たくさんの人に囲まれて演じながら、自分が誰だつたか忘れてしまい。そこらしゅうを探しまわつている愚か者
のようなもの(パドマサンバァ「完璧なる覚醒をもって見ることによる自己解脱の書」) ・・・
土台ないしチベット語の「シ」という言葉は、宇宙及び個人の両レベルにおいて、存在の根本的土台になつているものを指して
いる。宇宙も個人もその本質は同じだから、一方を悟れば、もう一方も悟ることになる。みずからを悟れば、宇宙の本質をも悟
ることになるのである。すでに不二の三昧において経験される?(よくわからんけど進める。アーチストは宇宙空描き始めるけど
?それはアートマンじゃなくてブラフマンつまりアートマンの招待はブラフマン?ようするに解らん)この原始の境地について
述べたけれども?(眼に見える現象は多様なあらわれを持っているけれども、この多様さは元々二元論のむ彼方にある。無限の多
様なもののどれひとつとして、限り有る概念の枠におさまりきるものは無い。「これはこうだ」とか「あれはそうだ」と定義づけ
ようとする罠から解き放たれるのだ。(つづく)
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(つづき)そうすればすべて形のあるあらわれは、形をもたない無限が示すさまざまな表情にすぎないし、それから切り離す
ことも出来ないから、そのままで完全なものなのだということがわかる。すべてのはじまりから、あらゆるものはそのままで
完全だという事がわかれば、何かを達性しようとする努力は、総て放棄される。あるがままの自然な状態にとどまつている
だけで、不二の三昧の境地が自然に生じつづける)よくわからんけどまだ続くのか。
全ての現象は空であり実態が無いとは?どうも空気の様にあつ去りして風のように其処に執着しないという意味か、涼しい風が
さりげなくあつさりと吹いているのか?そうだ執着地獄でございますと時代劇で金と権力に執着する悪徳商人がお代官さまに金
の何時他お菓子をわたすし、我々は何でも風のように風流に生きられれば良い景色ながめながらどんな運命話でも涼しい顔で
活きられるのか、きっと同の行のいつても仏と二人ずれの仏性のこのようなだびならどんな事があつても安心な旅7日。宇宙画
始まるまあ絵画の一句を持つて来いそういえばぽつ師匠は色即是空を悟ったら即空即是色でもどうあん?(私はどうこうと読んで
いたけど)後はまあ良い旅の風景画福。鬼和尚さん私が無理に精神を統一使用とすると頭を筋肉と勘違いして力むばかりで
し疲れる要するに意識的意志ではだめで無意識の意志が今は薄弱です。
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強く集中するにはむしろ力を抜くことが大事なのじゃ。
心身の全ての力を抜いて集中の対象になりきるのじゃ。
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真実とは有るけど語れない皆真実を実行してるけど?宗教とは如何に生きていくかと言う事を問う者なのか?御釈迦さんは
無記だとぽ師匠は語った。頭が僧言う無着の人なんだよ。そうか宗教は科学じ無いから如何に死合わせに生きる事か?
今朝は時間も泣く短いのが悔しい。他は一生懸命で昔の情熱何処絵いった心が向き合えない。まあ何とか滅びないからまあ
良いか。暇なときブツブツ書くわ。そう言う時も有るよねいやそういう時ばかりで今の私にため息出るけどまあ良いか。
短い時間あるけど無い。むき出しの無記じゃなく真実の化摸
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お釈迦様はわしは何度も生まれかわったと言っていたのじゃ。
ついでに犬のまねをしていた行者に来世は犬か地獄行きじゃと忠告もしていたのじゃ。
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正法眼蔵 霞眼「自然成」の自というのは、己の事である。己というのは、すなわち汝のことである。つまり四大・五蘊
からできているそのものを指している。それは結局、私とも人間の位の決めようのない真人を使いこなしているので
あるから、我でもなく、誰でもない。それゆえに、定まってないところを自というのである。「自然成」の然という
のは、「ゆるす(聴許)」という事である。「自然成」というのは、すなわち「華開き果を結ぶ」の時節であり、言い換
えれば、「法を伝えて迷いを救う」の時節である。たとえば青蓮華の開く時は、火の燃える時であり、開く所は火の中
であるようなものである。火をつけるところも、焔が立つ所も、みな青蓮華の開く場所であり、開く時節である。もし
青蓮華の時節と場所でなければ、「般若(智慧)のひらめき<一星火>」が生まれることはないし、ままたそのひらめきの
働きはないのである。良く知るがよい、般若の閃きによって、百千の青蓮華が大空に開き、大地に開く、過去に開き、
現在に開くのである。火の現れる時節、現れる場所を見聞するのは、青蓮華を見聞することである。青蓮華の時節と場所
を見過すことなく見聞すべきである。
?山下清さんは見た風景をそのままに描くことが出来るこれは現実画見えるという事で覚つている野鴨。凡人の私でも
まず制感で真っ白なキャンパスに凝念やジョウロで描く訓練をすれば三昧の現実の絵を描くこと画出来るのだろうか、
?今の私は目の前の風景は意識しなければ僅かに見えるようだが意識が否定するので満足竹刀し?でも何か眼が三昧の
ヒントの様に感じるから?まず坐禅で白いキャンバス身に着け無いと初心者だし基本のコツは骨骨かも
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コツコツじゃ。
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なぜにちやんねるに書かなければいけないのかやる気ないんだけど習慣で毎朝書いているから書かないとノルマはたして
内容で私の書き込み見ているのは眼が疲れても観てくれるぽ師匠とに猿がつたさん好きな名無しさんと誰だでも面倒でも
観てくれる鬼さんと私を無視していようでも何もいわず見てくれる人、そんな人居るのか居ないのか私には解らない
蟻が糖。適当に早打ち長くしているだけの今日。心は此処に委託無い早く書き終われで急がされている。心はなぜ落ち
着かないのか人間として生まれた以上体を維持し種も維持し食つて要らない糞もだしていろんな人間としての用事国の
事もニュースも観なければ現代人では、今朝は休日だし働くきもないけど店でネット碁使用麻雀将棋も観よう暇でも
エロDVD観ないのかでも余暇の楽しみがパソコンでみれるから無駄な時間は時間の無駄だけど、心理の追及とか心観の本
読む暇もなく、動物として動物として本来の目的産めよ増やせよ地に満てよを守るための楽しみだけでも楽に観れる
時代はまあ良い時代なのか?動物や人間の本来の目的も地球離れたらくだらないのか、でも時間の無駄を馬鹿にする
真面目な僧もたいして碌な事してない世、みんなムーダラなだらだらの時間しかないしでも長く描けたホカホカ以降
?本来の目的やらせるために欲望の追加は欲望が主人公に成る師まあしょうがないか
まあそういうことで勉強の時間が無いと嘆く私が一番クダラナイ
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なんじゃああああ、鬼和尚と新興宗教祭り懇談会か。
まったく、外道が。
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ということはおぬし↑も外道じゃな。
わしに夢中すぎじゃな。
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世界が初○まえの一句を持って来い。その前はブラフマン一人で寂しく何にも無い。楽しみが無だけでは?やつぱり孤独。
夢も無い、それで満足なら世界は初まら無い。寂しい独り者だから妄想で世界を描き出した心世界か?でも本当は孤独
な思いだけ、それで自分と同じ境遇の人間を作ったのか?般若心境は損な寂しいブラフマンを叱りつけ孤独が一番矛盾
我なく苦労も無いと言うのか?そうじゃ無いだろうがブラフマンの寂しい気持ちを分かる為に生まれた人間は一人では
寂しいと感じる気持ちがブラフマンと同じであると思う気持ちがなきゃと思う。そうおもえば賑やかな世界でも寂しい
世界でも一人じゃないと申そうの人がいる空。これが世界の正解鴨。自分だけ苦しいと悟りを求めてばかりで一人の人
の寂しい気持ちを考えない。悟りなんてそんなのイラン。相変わらず文になつてないけど頭にきたのでもうそうなつている。
外道しは外の道なんだから道には違いなく迷いみちもあるしさあ鳥の道もある野鴨道がないところ
は野原の草花が咲いているまあ良い風景画
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自己の観念が無ければ寂しくは無いのじゃ。
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私は寂しい人駄空、孤独の寂しさ、辛さ、気楽さ良く解るのだけど?永遠に何も無くても別に死何の技をもつ元空孤独な人我?
次元です世次元と思う空難しく考えるけど.重元?重幻と考えれば自由幻になるし時限次元に囚われない鴨.つまり色々な光を
重ねて身得る鴨.どうせ私の言うことは出たら目です世適当です余。非公式です世この世の宇宙法則が光中心と言う事は?
きっとインターネット見たいに情報が光通信なのか?だから光以上に早く宇宙情報は伝えるにはインチキしなけりゃ無利かも、
まともな情報は光が基準なので光より遅いか、私は光化学いや非科学的出た眼思考だからみんなに信用がなく相手にされない用。
創世記では初めに闇と光があつた二進法かコンピューターか?チベット仏教でもはじめに光が現われたし?闇ばかりでは
光通信闇てくれ。頭が悪ければ法則は守れないし原子も物質も頭悪くないし要するに良く解らんけど私は頭良いのだ像と自慢したい
けど、言っている事が思いつきの出鱈目で論争の相手にもされないけど何かそう思う。そうたいそうたいと頷くひともうほつとけ。
さて今朝はヨーガ根本経典の一の一写すか?これよりヨーガの解説をしよう 文短く解説もなくうつせた一の二長いので明日以降
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鬼さんの言う事よくわからん私修行不足だからか? 自己を閑念したら
賑やかすぎる空寂しくなさすぎるのか 空騒ぎの宇宙ある野鴨?
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妄想も瞑想して三昧が身に憑けばなんでもありともうそうなつているのか?
使われるばかりでは奴隷とぽ師匠は言う師 コツコ基礎を修行して使いこなせる用になるのか?
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要するに我々は大金庫を持つているけどキーワード忘れて開けられないだけ
妄想楽しい
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そのようなものじゃ。
日々の実践にょって鍵も開くのじゃ。
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人は見てないかもしれないけど自分に下記きかせるから修行の基本だし書くのは大変だけどまあ良いか骨骨と。
解説ヨーガストラ行く?一の二ヨーガとは心の作用を死滅させることである。???????????????????????????果てな長い。
解説何だから抵抗するな?死滅とは死んで滅ぼすという漢字損な言葉にこだわるな?本読んでいるのだから自分の考え
まず死滅しなければ先に進まない。ホントは一の三文が長いのでなんとか無駄な文を長くしている?私にとつては本書き
うつすの辛い。で今朝もむーだらな文で長くしてごまかす。心の働きがサボろうサボろうとしている。楽しい事なら
サボらない。辛いのは続かない。楽しい心は馬に人参か?そうやつて心を誘導するのは卑怯ではないか?何か迷い道で
迷走しているうちに長くなつたしこの辺で今朝は書き終えるか。要するに心は楽しいと続くし苦しくて辛いと続かない
とダーウインは言ってない。煩悩が辛いなら動物は続かない鴨。
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そうじゃ、死滅させるのじゃ。
それでもあるものがあると感じるのじゃ。
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ヨーガストラの解説は訳わからん哲学なんだから言葉で説明するので意味が不明になるけどそれを佐保田さんが解説し
て長くのばしたし?一の三 心の作用が死滅されてしまった時には、純粋観照者である、真我は自己本来の状態に
とどまる事になる。 佐保田さんの説明「この句を理解するにはサンキャの二元論を知らなければならない。サンキャ
は究極の二元論を知らなければならないサンキャ究極の原理または実在として、自性と真我の二元論を立てる。
自性は客観の世界、万物の根源となる唯一の実在である。物質現象も精神現象も全て自性から展開したものである。
真我は主観の主観とも言うべき純粋な精神原理で、各個人の真の自我である。真我は客観的対象をただ見ているだけ
の純粋な観照者なのである。心理現象は、自性から展開した無意識性の心理器官の変容の上に真我の純粋意識性、
または照明がうつった結果生じたものである。真我自身は独立自存の絶対者で、時間空間の制約を受けず、常に
平和と光明に満ちた存在である。これが各個人のの真我の本来の在り方なのである。この真我が自性から展開した
客観的な存在と関係した結果、自己本来の姿を見失って、自分が色々な苦を実際に実際に受けているように錯覚に
陥っているのが我々の現状である。この錯覚をどうしたら取り去る事が出来るのかここにヨーガの課題がある。・」
?長い苦難の書き写しだった我。佐保田さんゴメン私の異見や頭が抵抗したが何とか写せた。
ありのままの自分を見つめているから 長い時間(旅) https://www.youtube.com/watch?v=_uJQ-XnScno
あ 有チュブ関連動画に虹を追いかけてが是れで全てふっ飛んだ https://www.youtube.com/watch?v=7nZYMZvwHwI
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別に知らなくてよいのじゃ。
ただひたすら集中あるのみなのじゃ、と教えているだけなのじゃ。
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勝負事は実力というよりクダラン心理的といか感情で勝負は決まるし冷静で心が乱れない人は羨ましい。けどそれはわたし
の役でないか、欲張りすぎ相手ばかにしすぎもまあ良いか。まつたくやる気ない前書いたの適当な所書き写すか。
現代社会では死んだら人間はどうなるのか何て社会で役立たない、金にならない事は相手にもされない、科学も感心もない。
損な物社会では放置骨化だし、最近は国家財政が赤字ということでやつかいな年寄りの年金は減らされるしそのうち病気に
なっても面倒あまり見てくれなくなるのか。関心があるのは国が死んだら困るの本能だけそれには金金金で。ガリレイに
負けたキリスト教のおかげで宗教も死んだ状態で宗教者も自身が無い言葉仮。昔は威厳があつた煩悩ばかり大切に生きてい
ると地獄で地の池や針の山に苦しむから、○○の宗教にはいつて修行すれば仏や神がちやんと安楽なあのよあな生活が保障
されるといつていたのを心じられたけど、今の社会に役に立たないものは無関心でないと合理的でなく勝ちがないと切り捨
てられる。人々も損な者思う余裕もなく、すこししかない暇なときは修行についやさず。ストレス解消のテレビや熱とや娯
楽に逃げるように仕向けられているし、色々悩むと暗いから顔だけでも無理に明るくすれば明るくなるというばかり。本当
の事はなにも考えられない人間ばかりにしようとするし、宗教者もなんか社会環境にへつらい胡麻すりはつげんばかり自信
がないのか。私も何かいているのか?またよくわからんぐちぐち。死んだら?今の社会から孤独になるのかでも何も映らな
い白い光だけつまらん暗いのは辛いしで色々映そうですぐ妄想カラー映すのでまあ恵絵いまとあまり変わらない続編な
ドラマが始まる視つまり死んでも悟りは本の少ししか居なくまあ良い夢のなかに逃避するのが人間鴨
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不動心を養うのじゃ。
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北朝鮮の金さんが核とミサイルもつているおかげで戦争になったら日本は標的にされ沢山の人が死ぬ恐れがある
はずだか?日本の人々はそれはどうしようもなく損な恐れを心配する人も無く日本は平和なのは何故何だろう?
人は一人で死ぬのは怖いけど周りのみんなと一緒に瞬殺されるのは心理学的に受け入れられるのか?金さんは
自分の身を守る性格なので相当追い詰めなければ核使用は無しなのか?金さんは変な宗教にハマつていないと思うから
損なに心配ないかあまり追い詰めず逃げ道を開ける賢いトランプさんなら大丈夫だ。いくら何でも麻原さんの様な人は
国家原酒にはなれないと思うから一安心か。みんな甘い考えいれば何とかなるか。皆一緒に死ねば生前と同じ平和な街の
景色が速現れて死んでいるのに前と同じ平和に生きている野鴨。という事はもしかしたら私も何度か遭遇した危機いつ発
の所で本当は死んでいたのに瓦図生き続けているとおもつている野鴨デタラメな妄想だなあ。でも楽に速かけた。
我々は本当は夢の中で夢見ているのか?私我生きていると名付けられているだけで輪廻のなかで夢限に夢の中に入る野鴨
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如来いや間違えた未来から観れば過去の思い出の中で死んだ様に動かなく決まつている
でも今の精神は生死ん先は解らない。でも今はDVDのドラマ見ているとしたらドラマと申そう?
今朝は例によって楽勝のネット碁相手のひとがヨセは寄せで黙々と一目もならないだめ詰めている
私は温泉気分でパスパスで黄色信号になりついに赤信号の横断歩道で例によつて即死した
今日は囲碁やる気なくなつたので少しだけ此処によつたけど先の心は放浪するのだろうか
絶望でも黙々と頑張る人は尊敬すべきかどうか?馬鹿にするのが良くない事は当たりまえだが
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瞑想をがんばったらよいのじゃ。
そして自分を尊敬するのじゃ。
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今朝は楽にネット使用楽勝。こんな心がけではだめだなあでも?ネット無門関を読み説く写す 無門関一 趙州と犬
趙州さまに、ひら坊がたずねた。「犬にも仏の性質がありますかね?」 趙州がいう、「無じゃ!」
無門がいう---------禅には開祖このかたの関所があり、悟るためには行きづまらねばならぬ。関所も通らず、行きづまりもせ
ねば、まったく草木同然のたましいだ。ところで、その関所とは何かというに、ただこの[無]ということ、これがこの宗の関所
だ。だからその名も[禅宗無門関]通りぬけた者は、趙州に会えるばかりか、代々の祖師がたと手をとって行き、まゆ毛がくっつ
き、同じ目で見、おなじ耳できく。すばらしいではないか! 通ろうとするものはないか?三百六十の骨ぶし、八万四千の毛穴、
全身をもって疑い、[無]の意味を知れ、よるひるひきしめて、[虚無]にも落ちいらず、[有無]にもかかわるな。焼けた鉄
のたまをのんだようなぐあいに、はき出すこともならず、これまでの無分別をとろかし、だんだん練れてくると、しぜんに内も
そとも一つになる。オシが夢を見たようで、ひとには知れないが、パッと打ち出せば、えらい事になる。まるで関羽さまの刀を
手に入れたようで、仏も開祖も、みんななで斬りにし、生も死もないまったくの自由、どこにどう生きるにせよノンビリしたもの。
だが、どうしてひきしめるのか?いつも張りきって、[無]というものを持て。油断がなければ、お燈明のようにパッとつくのだ。
?自然に目の前にWHAT問がやってくる時、答えがほわっと自然に現われる。まあそんな時もあるけど連休いや連敗の後は頭
重石とさあ仕事は明後日から頑張ろう五月厳しい金無い月の予想
-
宗教は団体になると産めよ増やせよ地に満てよの動物の本能というか煩悩が無いと
生き続けられれないし日蓮さんのハングリー精神凄いと思うけど、今朝は物見の塔のひとが
店に来たけどそれも一つ生き方いうか世界の正解で色々な安心画有る世根。禅も全然煩悩が
無いと事はないしまあ良いか
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犀の角のように独り歩むのじゃ。
-
香厳さんは和尚から「宇宙が始まる前の一句をもってこい、ただし本のパクりはだめだ」と言われた僧な、何時苦ばかり
で一句が出ないので和尚に「簡単に教えてください」と言ったとか?和尚は「簡単に教えてもよいが僧すればお前は後悔
するであろう。」と言われ仕方なく坐禅やざ前や瞑想や迷走に明け暮れていた。それが無関門の人が苦労して木に登って
葉っぱを口にくわえ木の舌に居る人に「達磨が中国に来たのはなぜですかと聞かれた」けどしゃべれない公案のになつた
野鴨。あるとき庭掃除の時石を放棄で飛ばし竹に当たってカーンの音で今まで修行の苦労は一つも間違いなくさあとっても
良いことたつたのだなあ和尚の言う事も間違いではなかつた。雨が降らなきゃ虹は出ないと孝子さんをパクった。どうせ
今日厳しい人でなく私なので甘い修行竹刀毎日の発言で出鱈目すいません。孝子さんもハワイのことわざパクった師。
葉うらに光る銀のしずくが朝日に照らされああきれいね私が選んだ答えは一つも間違いなく今に導いている?・・で
もう書き込みはごちゃごちゃになった。
NORAIN NORIVW https://www.youtube.com/watch?v=Ww6Lgh3x_7E&index=1&list=PLS7WBP7RDBS8fTyH2RGI5-AOvOd6Tuxd0
-
簡単なことじゃ。
なんでも今ここにあることを言えばよいのじゃ。
-
囲碁将棋や野球競馬など負けたとき下らんと思う。悔しくてもう竹刀今朝も毎度思う?だいたい闘争力の戦争の代わりでは
無いかストレスの交感神経を高めてくだらん不幸から幸福になる修行くだらん。普段の私は平和な存在なのでバランスで交換
しているのか?幸せを知らないなときはすごく甘くなり敵を許しすぎそれでは勝ちが無い。副交感神経でも価値がある瞑想とは
真逆だけど傷つく事を知らない人ほど波乱万丈のサスペンスドラマとかお涙頂戴不幸ドラマみる、あれ無意識に誰かの
パクっている。
法華転法華何時か?野つづき 法達「私は法華経を三千部も読じゅしました」慧能「たとい一万部読じゅしても、経の意味を
珠には我亜我亜やめて坐禅しん遥かで.坐禅しん 薬山弘道大師が坐っていたとき.ひとりの僧がたずねた。
僧「ひたすら坐っておられて.何を思っていられるのですか」 師「思いの及ばないろを.思っているのだ」
僧「思いの及ばないところを.どのようにしておもうのですか」 師「思うのではない」
このような薬山の言葉を良く会得して.ひたすら坐る事を学ぶがよい。そしてその坐り方を正しく伝えるがよい。仏道に伝わ
っている坐り方を究めていくことが肝要である。このような坐り方の工夫は手けっして薬山だけが言っているのではないが.
薬山の言葉はすぐれたものの一つである。すなわち.「思いのおよばないところを思うのである」(つづく)今朝は坐禅使用
真面目な未知に一休みするかたんぽぽや蝶はこの頃見ない師いつたい禅の春はと越え何時他のでは不味いし
-
思えば思いの及ぶところになってしまうのじゃ。
今ここには思いも無いのじゃ。
-
今の時代は自然がないがしろにされている合成なものばかり、だれかさんが言つたように食い物は美味く料理して、子作り作業も
色々ソフトを合性して他の楽しみになつて、そうや社会も複雑な頭使わ無いとボケと人間扱いされん社会に、まちまちには不自然が
あふれているし、でも元々の素朴さより不自然な豪勢な合成ソフトが刺激は強いし楽しいし寂しさや苦しさ忘れられるし?素朴な
自然に親しんでいた仏さんは今のこの世に学びに来たのか遊びに来たのか?仏さんは遊びに夢中になりまあなんだを忘れてシマッタ
の鴨、そういえば鬼さんが死ぬ前に泣くことになると言っていた、わけはわからんけど、せめてほんのひと時だけでも修行しよう。
この社会は死んでからは面倒見ない死仏教のおもちゃは古いし?。と宇宙人が観光ヒーを飲みながら佛佛つぶやいていた。宇宙人の
視点で見てみれば?色々に夢中な仏だけでは小○。私も修行さぼつて困り者だけど反省は猿。でも元々は自然なエネルギー空。
それにマンネリでも毎日コツコツと続ければ何か解らんけど何にも鳴らないものでも楽しく鳴る。
毎日コツコツの正しい修行を行う、つまり私の中に寺院をこんりゅうして修行するればよいのかコツはコツコツ?これはクンダリー
ニについての文だけど禅でも瞑想でも強引に当てはめられる鴨で。合成は遺憾と言つたばかりだけど、煩悩もコツコツで出来ている
し、みんな同じエネルギー何だろうかで ?本・一日にこの修練を何時間も行い、何日も、さらに何年も続けると、ある時点で、身体
が根源的な洞察に到達します。すなわち身体に浸透しているエネルギーは世界を照らし、すべての存在を生かしているところのエネ
ルギーと同一のものだ、この二つの息は同一なのだということに気づき、そのことを確信するに至るのです。それは身体そのものが、
己に内在する精神に目覚める瞬間であり、そのときに中央の神経ないし通路を通じてプラーナが上昇を始めます
は上昇する
-
今此処は思っても思わなくても此処路がころころ転がり続ける師
坐禅は頭の上の何重の問うが夢が無になり皆で人休みさんになる野鴨
毎日が夢の重ね着では疲れるよねたまには夢見る事もやすまないと
-
そうじゃ、人休みじゃ。
-
宗教の出鱈目?話を冷たい冷静な冷めた眼でみても、そんなのあつたかいと温かい眼で見られれば良いねで、べつに
本とでも嘘でもう過ぎた事、例えばキリストの復活、キリスト、マリヤ、エリア?は肉体を持つたまま天国に昇天した
のような伝説?物理的に冷たい眼でみれば冷たい。温かく見れば何かの信者夢なのか希望がある。キャンベルさんは
民族的観念の見方は温かい眼で見られる人だ。もしここになんらかの価値を見出すことが出来るとすれば、明らかに
彼らの肉体は外的世界へと旅立ったのではなく、内的世界へと赴いたのなければなりません。すなわちこういった比喩的
な旅が暗に意味しているのは、精神が自らの根源に帰還することが出来るという可能性なのです。生命がそこから生まれ
出て、此の世の時間と空間の場に出現し、やがてはまた還ってゆくあの超越的な源泉ー精神は、肉体をそなえたままで、
その源泉の完全な知識に到達する事ができるという事です。これは神話の中では大昔から述べられていることであり、す
べての存在の根底、そしてαでありΩであるものを我々の生命の始めと終わりに位置づけることを意味します。イメージ
としては具象的にならざるをえない、・・?ので解りやすい方便で具体的にそうなんだ長いので写すの疲れたけど温かい
眼で観て星意 毎日寝たあとで書くのでたまには頭回らいなあぼさあっと下朝がある。
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観音 雲厳「大慈悲観音は多くの手や眼をもって働くのですか」 道吾「あたかも人が夜中に、手を後ろにして枕を探るよう
なものです」 雲厳「わかりました、わかりました」道吾「あなたはどのように分かったのですか」 雲厳「遍身が手眼です」
道吾「よくいいましたね。でも八、九分どおりです」 雲厳「私はこのとおりですが、あなたはいかがですか」
道吾「通身が手眼です」・・・道元 今言いたい事は枕を手に入れることでもない。また枕を手前に引き出すことでも無い。また
枕を向こうに押し出すことでも無い。この点をよくよくかんがえて見るがよい。さらに「夜間背手漠枕子(夜間手を後ろにして枕
を探す)」という道吾の言葉の根底を点検して・・。 どうのこうのぼさつとしてこの様に待つ暗な夜中に来たのだからもう観念
して訳が解らなくなった観音菩薩として個個で働けばまあよいか? 意味不明で訳も解らなくても菩薩は同行して働いて入る
-
てきとうにいっているだけなのじゃ。
言葉に囚われればひっかかるのじゃ。
言葉に囚われなければ通身自在なのじゃ。
-
ショーペンハウアー自身の決定的な貢献は次の認識にあります。私たちの外的な目は時空の場の中のみかけの現象しか見かけ
ませんが、しかしこれらの現象全ての内的経験は、意欲する主体としての彼、彼女、ないしそれ自身の経験なのです。この内
的経験はー私たちには隠されていますがー実際は、アートマン=ブラフマンすなわち普遍的自己のエネルギーの経験なのです。
ただそれは幻影である個人自身の死の恐怖および幻影としての生存への欲望によつてサンサーラ(時間的な幻影の影)に繋がれ
ているのです。つまり(生の意志)の衝動は自分自身としてのアートマンの経験ですが、それはーショーペンハウアーの認識で
はー「同情」(慈悲)の洞察という形でのみ生起します。それは菩薩の性質に他なりません。彼は有名な論文「道徳の基礎につ
いて」の中で次の問いをだしています。(続く)
(続き)「ところで、私のものでもなく、私と関わりない苦悩が、それ以外の場合には私自身の苦悩だけがそうである
ように直接に私動機となり、私を行為へと動かすという事は、どの様にして可能なのだろうか。[・・・]この過程は神秘的で
ある。それは理性が直接に報告しえないものであり、それらの根拠を経験によつて見出すことの出来ないものである。にもか
かわらず、それは日常的なことである無常このうえない人、我欲きわめて強い人にとつてさえ、無縁な事ではない。この現象
は日々われわれれの目前に、個々のことにあらわれる。熟慮を重ねる事も無く直接的衝動によつてある人が他人を助ける、
救援に駆けつける、それどころか見知らずの他人のために、その他者の大きな困惑と危険とを眼前にしているということ意外
には何も考えることなく、自分の生命をきわめて明白な危険にさらすことさえある。[・・・]と」(つづく)
-
良く川や海で溺れた友達を見殺せず飛び゛こんで溺れて友に
死ぬ人のニュースがあるし何でだろう。それをせずに見殺しした人は冷たい目
で見られるのだろうか?考えるほど余裕の無いしトツサの判断だつたのだろうけど
自分死怖く無いのだろか?ある意味人間は社会的生き物だしまあそうする野鴨
-
まさに菩薩の行ないじゃ。
よいところへ生まれたじゃろう。
-
キャンベルさん宇宙意識 タントラ思想の場合、ムーラーダーラにあるスシュームナーの門の両側、イーダー神経とピン
カラー神経の始点に立つ、月の息と太陽の息の人格化は、調度この二つの像(仏教寺院に聖域を守る二つの像仁王となんとかと、
キリスト教ではケルビムとなんとか)に相当すると考えるべきです。なぜなら前述のように、月と太陽に分化したエネルギーが
混ざり合って一つの火となるのはまさにこのユクタリトヴェニー、つまり三つの川の合流点においてなのですから。
それからこの火は突風のように、覚醒したクンダリーニを伴って中央の道を駆けあがります。二つの息がこのように融合する
まで、中央の門は閉じられたままです。つまりまず必要なのは、修行している個人の月の意識(肉体の中にある意識)が、
万物を生気づけ照明する太陽の意識と同一のものとして経験されることなのです。さもないと精神は物質の中に閉じ込められた
ままにとどまります。そして身体と経験が物質のみに属するか、あるいはなんらかの超自然的な空想に心を奪われて
(宇宙は物質のみから出来ているのだから)魂ないし精神はど゛こかの宇宙とは別の場所に捜し求められるなどと考えてしまう
事になります。(つづく)?不器用な仏教途はそんなの用が無い此処亜仏教スレと言う野鴨?でもすれ違わず仏教の寒天に続くのか
-
私は修行とか勉強とか努力が無く今日身ある煩悩に流される人で?頭も使うの
嫌いだから囲碁将棋という人参佛から与えられているけど級級の毎日で段段
上がれない、でも上がりたい。簡単な三手先読む努力すれば簡単に上がれる
と思うけど自分の儲ける手はよむけど相手の旨く行く手は無視するので相手の
罠にかかるので中々旨くゆかない。コレでは堂々巡りだなあでまあ良いかと諦めるか
いや諦め無い像で
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百文は一見にしかずの格言があるから脳内に見えるご飯いや碁盤を作れば簡単に
読まなくても観れる視、と力しない私でも見れれば価値が有るとまた人参を与えられ
努力のない訓練を始めました。今見たざ前の風景の一瞬を一瞬後に思い出す
だけ今は少ししか見えなくても別に慌てなくありのまま見つめて骨骨と前観れば
段段見える修行になる野鴨でこれが一番簡単な瞑想でいつか脳内が山下清画伯に
のお花畑になれればよいなあ
-
お花畑にするとよいのじゃ。
茶蔵をみるのと同じなのじゃ。
自分が集中できるイメージならば何でもよいのじゃ。
-
(つづき)不死の門を守る二つの恐ろしげな像は、仏教の観点からすれば、単純に次のように解釈されるのでしょう。それは聖域
への進入を阻む外的な神の意思をあらわすものではなく、むしろ人間の意志そのものに内在する現世の肉体への執着、肉体の死
に対する脅迫的な恐れを表現していると。聖域に入ることを阻むのはこの人間の意志なのです。なぜなら仏教の教えでは我々は
すでに不死性を獲得しているのであつて、ただ現世的な目標に対する精神の執着ゆえにのみ、我々はこのことを忘れてしまうの
です。物質的欲望の恐怖(ゴータマ・シャキーャム王子が仏陀の境地に到達した夜に克服したのは、この二つの誘惑でした)のた
めに、私たちは楽園からー皮肉なことに、私たちはそこに住んでいるのですがー自分を追い出してしまうのです。仏教の教えで
は<楽園追放>などということは起こらなかったのです。イエスもまた次のように言ったと伝えられます(最近発見され翻訳も出た
グノーシス文書『トーマス福音書』のなかで)、「王国は汝らの中にある」、そして「父の王国は地上に広がったがったが、人間
はそれを見ない」と。実際のところ偏見の無い目で人類の宗教を見れば、誰でもいたるところで地球の諸民が我共有している神話
的な主題を認めざるをえないでしょう。たとえその解釈は様々に異なるとしても、主題の同一性は明らかです。・・?
まあこの世界は正解はなく自然も自然ではなく不自然な夢というかドラマの中に我々は居る級級していても段々解るラーマプロ?
まあ正解は無くデタラメでも人々の安心画あれば上も一安心なのだろう?でも蛇が知恵をつけ
人安心が無くなり天国から自分を追い出したのかも?でも苦労の無い能天気では鍛えが無くすぐ騙される霊
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追い出すものも追い出されるものもいないのじゃ。
-
もう今日狂は妄想して走り出そう。生活の為の食い物゛足りないのは遺伝子レベルの改造で工場で肉や魚や野菜何でもサイボ
ーグの食べ物作る技術完成し地球の生き物亡くなっても心配ない。人間として生き残るには万能細胞で手術で修理やサイボー
グかで乗り切ろう?長生きできるし.労働はロボットに任せて人間は坐禅や観光や遊び三昧になる何か?この世うがあの世う
になつて以内か?もしかしたらあの世がこのようだから現世を作ったのに段々この世うな夢の世界が堕落して何処でも相変わ
らずレベルも志も低い所に落ち着いていくのだろうか?御釈迦さんが一生懸命掲げた大乗の理想は実現不可能永遠に輪廻転生
の妄想の世界が続く私の妄想も続くし。だいたい何もしなくても生活できれば我々凡人は碌な事しないし修行の意味も無い
不安や恐怖や快楽に踊らされなきゃ行動が無い?志損なものに無関心だしなるようになるに流されるばかりの今の心は?
もう第四次産業革命が始まったしAI手やロ没とが無い国は行進曲でなく後進国になるでも
中小のラーメン屋ではAIの名コックは雇えないし潰れるのみか資本主義とは損なものでも
何故か中国が一番今AI手になっているという?全ての労働はAIての流れ作用で動いて行く野鴨
注文もAIがあなたは欲しいものはこれですと嘗てに注文するのかも
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労働は任せて修業に専念するとよいのじゃ。
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インドの光 ラーマクリシュナ ・・「実在を不動のものとして考えるとき、私はそれをブラフマン(梵)と言いまた
ブルシャ(神我)無人格神と名づける。それが創造し、維持し、破壊するーすなわち活動すると考えるとき、創造力、
現象、またはプラクリティ(原自然、大生命力)、人格神と名づける。一方なくして他方を考える事はできない。無
人格的なものは同じであり、例えば乳とその白さ、ダイヤモンドとその輝き、蛇とそのうねりのようなもの、宇宙の
大実母とブラフマンは一つである」・・・?まあ色々な立場で見方があるのか?でもココア仏教ですからと言われて
も不器用な私は仏教ネタが出ないときは苦し紛れに?本の少しラーマをコピーしても無視される立場はこんなときは
楽で何でも書いても怒られない、楽な立場でも朝の書き込みは苦しむのか嘘?適当に書いるけど見ん何安心して星意。
人工が減ってく本当の原因はコンドームが使用されるからなのかと気が付いた。性的本能は子孫作るという目的が
あるけど今は子供一人つくれば後は作らなても善いしれじゃ人口が減るのは当たり前か。男ならエロDVD見てオナ
ニーで済ますし?私は子作りの年齢は過ぎているから義務は果たしたからDVDおーなにいしても好いことになつて
いるけど?食欲にしても権力にしても今の時代は自然な動物の本能以上に目的から逸れて使用されるようになつて
いるし国や社会は大法輪の応用なのにその輪を小さくしか守らないしそれより外の大は外としてしか見れないし
兎に角少しは本来に還らないと不味いことになる。でも今が楽で楽しけりゃ後まで面倒見るのは大変だし、
私はするずるずるずるく流されるし。まあ反省と努力は適当が良いし。まあ成る世うになるし、我々は僧では無い
からまあ少しだけ輪気おつけようで誤魔化そう。結局落ちも無くでも落ち着いている。居直りか?当たり前は当たり
前の理屈がある空功やつて説きは空廻りして適当に時はすすむカラーまあよいか。
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考えなくてよいのじゃ。
感じるのじゃ。
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画餅 ・・・・まさしく全世界・全存在は悉く描かれた絵であるから、人も事象も、すべて絵より現われて、仏祖も絵より
成就するのである。そういうわけであるから、「描かれた餅」でなければ餓えを充たす薬はない。また「描かれた餓え」で
なければ、人に出会うことはなく、また、「描かれた充」でなければ力量は出てこないのである。およそ「餓えを充充たし」
「餓えないのを充たし」「餓えをみたさず」「餓えないのを充たさない」などはすべて「描かれた餓え」でなければ出来な
いことであり、またいえないことである。ともかく自己そのものが「描かれた絵」である事を参学すべきである。この大切な
主旨を参学するとき「物を転じ、物が転ずる」という働きを、心身に究め尽くしていくことができる。このような不思議な
働きが現われていないようでは、仏道を学ぶ力量はまだ成就していないと思うべきである。この働きを実現させることが、
「悟られた絵」の成就となるのである。写すの終わりでした。 ところでこれ写していた時なんで 参学という言葉三でなの
か一二四色々有るのに参?参加あれ是も参。三昧これは三?三人よれば文殊の知恵?そういえば部分と全体と輝きで名画△
山岳は▲なのだ。私の今は参加区でまあ良いか。今画家は絵の中で私を描いている
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絵と想っているのも絵なのじゃ。
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序章 神話と身体 偏見のない眼で人類の宗教的伝統を振り返ってみますと、すくさま、その総てに共通する一定の
神話的モチーフが存在することに気づきます。例えば死後の生とか、悪霊、守護霊といった観念がそうで、これらは
それぞれの伝統のなかで様々に理解され、多様な発展を示していますが、基本的には同じものです。医師として世界
旅行者であり、同時に前世紀を代表する民族学者であったアドルフ・バスティアン(1826-1905)ーベルリン
大学の人類学講座が開設されたのは彼のためです。ーは、繰り返し現われるこうしたテーマやモチーフを「基本的観念」
と呼びました。そして地域的形態を「民族的観念」と呼びました。つまり「民族的観念」とは地球上に住む諸民族が
この「基本的観念」を芸術や風習や神話体系や神学の中で表象し、解釈し、応用する様々なやりかたのことです。
したがって、あらゆる宗教は二つの側面ー普遍的側面と地域的側面ーから構成されていると考えられます。
これまでいつの時代にも神学者たちを巻き込んできた宗教をめぐる論争の問題点、つまり特定の宗教には永遠的な価値
があるのかそれとも一時的な価値しか無いのか、あるいはそれは真理であるか虚偽であるとかいった論争についての見
通しが一挙に開けてきます。さらに宗教的伝統に属する研究を、互いに関連しているがやはり別個のものである二つの
分野にはっきり別けることが出来るようになります。一方は「民族的観念」を扱うものであり、これは歴史学者や民族
学者の研究分野です。他方「基本的観念」の研究は心理学の課題となります。?我々の身我小法輪で民族画中法○で
大法輪もあり我々は輪体内のかそれは心理磨泉でも今はまあ良いか。集合的無意識輪空内
-
大法輪もあり我々は輪体内のかそれは心理磨泉でも今はまあ良いか。集合的無意識輪空内
でも過去の歴史は皆正しく過ぎて始末た。未来は良く見えない視。今はまあ画絵か
悟つた人何手欲輪空内けどどんな解きでも鳴る世うに鳴ると鈴死生此処路画有ると
今はまあ世如何の安心画有る野鴨
傷つく事など知らない人ほど戦争映画が好きなので大丸?
あれ夢の樹ぱくつてしまったで夢の樹 https://www.youtube.com/watch?v=bIIIXDPCGTQ
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悟りなんてわらつちゃお どんな解きでもまあ良いかでクダラン でもまあ良いか
日々是れまあ良い日
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民族も無いのじゃ。
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宇宙意識 さてこの伝説(釈迦が煩悩を退けて菩提樹の下で悟った)を概観して驚かされるのは、仏陀の敵対者の名前とジョイスが
あげている芸術家を芸術の「本来の」道からそらさせるところの動機とが見事に一致しているという事です。すなわち(1)カーマ
欲望、(2)死すなわち死の恐怖(3)ダルマ社会的義務、徳、および関与、というわけです。また未来仏が己の目的を追求するため
に坐った(不動の地点)という観念も意義深いものであり、これはブラック・エルクの言う「世界の中央」に対応しています。つま
りあらゆるところにあり、そこから彼が「聖なる作法にのつとつて」万物を見た場所です。そこは地理的な場所ではなく、諸所の
生命を苦悩と悲惨へ強いる妄想的な欲望、恐怖、関与から開放された精神状態なのです
?毎日適当な観今日の中で適当な説きが行われてほうほけ今日で適当な私の正なのか、それとも適当な世の中なのか思うように
行かないという私だが、私の思うような適当な世の中の様な気もするし、私がもつと真面目に修行すれば少しは環境も変わるの
か?でもあまり真面目も好きではないし適当なだらだらで決まるものも決まらない世の中を選んでいるのか?よくわからん
?民族も内のじゃと言われても?その中に私は居るの蛇、私の中に宇宙が入るし内言うは
そつと言う事でお喋りなトランプさんはマスコミに追求されるし安倍さんもこれも
韓国の僕大統領のせいか?
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かなり妄想が激しいのう。
今ここにあるものをみるのじゃ。
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インドの神話「始まりにおいて、この宇宙は人間の形をした自己にすぎなかった。かれはあたりを見回したが、自分以外に何も
みなかった。それでかれはこう叫んだ。『私は彼だ』。そこから『わたし』という名が出てきた。今日でも人が話しかけるとき
かれがまず『わたしは』といい、それからかれが世間に通用している名前を告げる理由はここにある。かれは恐れた、これが人
々の一人でいるのを恐れる理由である。かれは考えた。『しかし私はなにを恐れているのだ。わたしの外にはなにもないのだ』
それで彼の恐れは消えて去った。彼は不幸だった。これが人々の一人でいると不幸である理由である。かれは仲間を求めた。彼
は抱き合っている女と男ほどに大きくなった。彼は彼自身であるこの身体を二つの部分に分けた。そこから夫し妻が出来た。・
・そこで人間の身体は(人がその妻と結婚する前には)割れたえんどう豆の片割れに似ているのである。・・かれはかの女と結ば
れた。そこから人間達が生まれるのである。かの女は考えた。『どうやつて彼は自分から私を産み出したあと、私と結ばれるこ
とが出来たのか。いいわ隠れてみよう』。かの女は牝牛になった。かれは雄牛になつてかの女と結ばれた。これから牛が生まれ
た。かの女は山羊になった。・・・こうして彼は蟻にいたるまでひとつがいで存在するあらゆるものを作り出した。こうして彼
は解った。『たしかに私は、私自身から創り出すものである。なぜなら私が全世界を創り出したのだから』そこで彼は創造と呼
ばれた。」固体と大宇宙の生みの親との恒久的な基層は以上の神話によれば一にして同じ。・創造主が「自己」と呼ばれる理由
?我々は想像出来無いほど大きな者創造すれば我々を申そうするしかなく考えが小さいと言われても頭悪いしまあとりあえず
本写したし今朝はまあ良いか。けさ全然やる気なし
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鬼もAも似たようなもんだろうw
鬼も病んでいるぞw
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↑おぬしも仲間に入っているのじゃ。
もう寂しくないじゃろう。
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我々は旅旅困難に会うと段々近何に慣れて来て、盲細かい事は気にしなくなる。悪いとが有れば良い事もあるし損なのまあよいか
と大雑把いや大目に見ることが出来る様になる鴨。つまり大目に見れば雑という事でもある小さい事は盲ほつとけで。細かい眼
に会う人は大きな眼には会えないし、一方を見る説きは一方は暮らしでまあよいか?解らんでもなるように鳴っている空
無門関 三七 庭の柏の木 趙州は、坊ずに、「ダルマさまはどんなつもりではるばるきました?」ときかれ、いうには
、「庭のあの柏の木さ。」 柏の木の出てくる別の公案にこんなのが じょう州に一人の僧がたずねた。「柏の木には仏性が
ありましょうか、ないでしょうか」大師「ある」僧「では柏樹は何時成仏するのでしょうか」大師「虚空が地に落ちるまで待て」
僧「虚空は何時地に落ちるまで待て」大師「柏の樹が成仏するまで待て」?この公案に親切な答えがあるような?つまり「達磨が
中国に来たのは・・」とたずねた僧は悟りが頭に登りすぎて落ちがつかなかつたのだ。落ち着けで落ちなさいというネタかつまり
空ばかりでは何の役も立たない。空即是色で柏の樹になつた?道元はこう言っている?悟ってもすぐ元の木阿弥になる身である
空それでは一生懸命修行した成果我無いもしその成果があるなら柏の樹や境とつべこべ言うことは無い?いつの間にか私の妄想に
すり変わっているけど、悟っても可愛い我が身が用が無くなると、ついつい文句もでるのかわからんネタも落ちつかずだらだらと
-
柏の木のような気持ちじゃな。
種から芽生えて茎を伸ばし、枝葉を生やしてここまできたのじゃ。
-
時間的な生と永遠的な生、世界への執着と世界からの離脱ーこれらは普通対立するものとして見られますが、月と太陽のイメ
ージの中では、この二つが一つに結び合わされます。というのも月の光は太陽の光の反映に他ならないのですから、これらの
アナロジーによって、私たちの身体的生も永遠的な生の反映であり、私たちの意識も永遠的な意識なのですが、ただそれは私
達の精神の二元論的な思考理論の制限によって修正されています。これらの制限を打ち破れば、精神は再び<始原の知識>を取
り戻すのです。・・・本の宇宙意識では禅が禅禅内ので無理に公案付け足して長くする。無関門十六鐘の声とケサ
雲門がいう、世界はこんなに広いのに、なぜ鐘の声がするとケサを着るのだ?」無門がいう--------いったい禅の修行には、
声や色に迷ってはならぬ。たとえ声にみちを悟り、色に心を知っても、大したことじゃない。そんなことより、坊ずは声や
色を乗り越えたら、物ごとがよくわかり、うまい手がうてる。それはそうだが、ところで、声が聞こえてくるのか、耳がそっ
ちへ行くのか?かりに声も静けさも忘れたら、その時の話はどうする? 耳できいてもわかるまいが、目で聞けばわかるのだ。
?目の前の風景は色々かたつているのか脳内碁盤出来ずあれこれ考えるしか無い。凝念のやり方は集中力を高めるのだとしか
誰も教えてくれなくてぽ師匠鬼和尚さんコツはないのですかか?頭は筋肉トレーニングで力入れても精神は統一されず
船が山を登る修行してもむだ?と今朝も修行する気は無く何か楽な方法は無いのかネツトも集中するのだとか
参考になならいし楽勝画無い。難しいを避け続けているといつの間にかオマケになる
-
鬼は脳内金持ちオジサンみたいな、気持ちだろうw
空虚なブルジョア趣味を精神世界化したようなものw
虚栄心の塊が漫才やっているw懲りない奴だw
-
↑鬼とは自分のことじゃな。
変った名前じゃのう。
-
目の前の風景を見て絵として思い出す訓練はまあ適当にやるけど目の前の絵は一瞬ちよつと少しの間でほんのすこししか見えない
し?こんな事意味あるのか上達も無く碁盤の方も隅の一部も見えない。でもなん妙法連げ経やなむ阿弥陀部つやぎゃーていぎゃあ
ていと連呼し力むより日常的にやれるというか?コンビニの商品の風景見て思い出せればよいけど全然すぐ忘れるし僧の人は
観の修行で凄い視覚的記憶力画ついているのか無理なのか人は正直に白状する人は居ないし、みんな人はやつているのか
欲輪空内でも私はすこしだけ前より目の前を力みなく観れるようになった。なっただけで十級鴨知れないけどまだ諦めず
前を観ているからまあ画絵化。要領があるんだと思うけど自分で掴むしか無い師まあやつただけコツは骨骨しか私には解らず
解き進むだいたい気まぐれの思い付きで始めたのだけど七日といわず思い月位は続いている思い出した時だけ意識的に修行し
思い出さない時は無意識で続けて要る様で習慣になれば続いて行くのかも?書き込みも習慣になつているしまあ続くのかも
知れないなあ意味は無意識に続く事七日もしれないけど?何で目の前すぐ忘れるのだろうか人は静止画像では動きが取れない
次々と絵画動いて時進んで行く師次次と用事こなさないと動物として生きていけないし僧言う人は呑気な修行のプロなん
だろうけどまあ皆大した事内容な気もするしそれでまあ良いもかも知れない書き込みも長くなったしまあ良いか
人が悟つたとか損なことどうでもよく今自分がやることをやるしか内師でもスレ
賑やかにするには中小も有ると思う。私はプライドすてれば人の事色々民主党観たいに
森友問題すると人気出るのかと羨ましくおもうけど立ち止まる時間も頭もないし
他移行
-
いろいろ試すと善いのじゃ。
-
目の前の事を人に聞くな目の前だから目で見よう?見来いまあそうなんだろう本の言葉でさあとりあえず文字文字
しても瞳でみれば夏得するし百文は一見に歯科図で目の前のダービーはぽ師匠の頭の中をかけまわつて?私のなかでは
青葉画目の前に青々と茂っていたが文字にしたら誤変換を恐れて居なくて頭疲れる間違い字あまり変換するのは苦手
というか訂正しないほうが頭つかれないみんな青葉化なら天国に要るけど言いたい事云うと言葉尻とらえるマスコミ
とか今なら民主党もいるし本当に思っている事いうと痛い目にあう?私は行だけ進めてほとんど陳文漢文で意味不明
な書き込みになるし?達磨が中国に来たのはなんでですか?の長州の答えは、庭先の柏の木の青葉選り取り緑で僧
見えないのかと目の前の風景画見える野鴨?そうじゃ無いだろう書き込み書かないと行埋まらないしでも適当に
長くなつて五月ももうすぐ六月になる。五月の晴れた空強引に貼らないと六月になるでも待たなくてもダービー
は来るけど今年は勝ち馬が?私は馬券買わないしまあテレビ見るだけか
孝子さんが晴れたそらはみんな同じに見えるのだろうかと意味不明にラジオで言っていたつけで
五月の貼れた空 https://www.google.co.jp/?gws_rd=ssl#q=%E5%B2%A1%E6%9D%91%E5%AD%9D%E5%AD%90+%E4%BA%94%E6%9C%88%E3%81%AE%E6%99%B4%E3%82%8C%E3%81%9F%E7%A9%BA&spf=1495492518643
-
あ間違えた 歌では真実が誰の目にも同じように見えるといいのにだった
?真実画は身得ると色々になる師それが分かれ場まあ良いか
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見てよいのじゃ。
ありのままを見れば即ちそれが真実なのじゃ。
-
・・「ヴェーダによっても、苦行によつても、布施によつても、祭礼によつても、汝がいま私を見ることは出来ない」とクリシュ
ナは、いつもの姿にもどつた後語っている。しかしひたすらの献身愛によつて、そのような様相の私は真に知られ、かつみられ、そ
して参入されるのである。わたしのためにはたらき、わたしを至高の目標とみなし、私に身を捧げ〔執着を離れ〕万物に対して敵意
を持たぬ者ーこうした者は私の許にいたる。同様にイエスのくだしている定式はその点をさらに簡潔にまとめているー「わたしの
ために命を失う者は、それを享けるであろう」この意味は大変明解で、すべての宗教適行為がもつ意味となつている。精神上の修行
をながく積む個人は、その個人的限界、個性、希望、恐怖にたいする執着をすべて完全に放棄する。そうすれば真実を悟って再生
するのに欠くことの出来ない、自己消滅にももはや抵抗を示さず、ついには〔超越なるものと〕大いなる一体化の機が熟してくる。
己の個人的な野心は完全になくなつて、かれは生への執着を離れ、己のなかで何が起こるにせよ、喜んでそれにゆだねる。言い換え
れば一人の無名の存在になるのである。〔そのとき〕「宇宙の法」はその人物の無条件の同意を得て、かれのなかに住みつく。
?兎に角写しただけで私は宗教関係内視でも何だ感だで周囲は今日○だしでも朝日が珍しく雲つている朝から生きも雲つているけど
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最後には神も捨てるのじゃ。
でき難いことではあるがのう。
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世界は妄想というか全てのものが妄想から出来ていて?何故かと言うと無いと皆困る空?本当は私も周りも地球も
ブラフマンも阿弥陀さんも皆妄想で存在しないからでも無いと思うと困る認められない嘘でも演技しなきゃ夢中
いや宇宙劇場のドラマは恥まらない。無いけど有るとことにして誤魔化さないと心がもうそうできないし無いけど
有るという事に決めたのだ今朝のネタは流石にデタラメ嘘初ぴ約だでもうまいネタないしどうせみんなに
相手にされないわたしだから何書いてもまあ良いのだ。でも世界画始まる前は何も描かれれない白いキャンバスで
絵が書かれた後は世界画描かれるのか?芸術家は嘘空世界を描き出すし今の宗教化なんて大衆演劇の役者でしかなく
医者や政治家以下でだめだこりゃ下手な台本のお経に縛られて千年前から進歩゜は無く人々の迷いを増大する
ばかりなのか?いまではブラフマンの不満も共有できずお経を読むばかりでは自分の不満も解決出来僧にもならない
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環境に縛られて心の内までも周経団体に縛られて自由が無い、本人の時言うだしまあ良いか 紙も環境か
リベルテ https://www.dailymotion.com/video/xdibgw_%E5%B2%A1%E6%9D%91%E5%AD%9D%E5%AD%90-%E3%83%AA%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%86_music
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死んだらどうなるか考えてみる。まず生きている空だで痛いいやの異体いや遺体は亡くなるけど異体は残る霊か霊には痛いはあ
るのだろうか多分テレビやラジオでも痛いは未だ実現出来ていないから難しい化。たぶん観るだけなら出来る霊かも、我々は現
実でも景色を見てる説きは善い例か?つまり霊となつても観るだけ受動的な観察は出来る鴨、それじゃ頭と眼と耳の様なものは
生き残る?のかも?仙人の様な修業すれば物質化も可能か?それが何の価値があるのだろう?まあそれぞれ好きなようにやるだ
けの妄想世界。でもこれからのテレビで見る聞くだけではなく匂いは簡単でも触覚温度感覚等はやろうと思うと大変だしあまり
意味ない。全然関係ない師匠からが禅かけの声が?出鱈目なだらだらな妄想は止めましょう。寝たあとで起きてネタこんなのし
か出ない。すずめちゅんちゅんの坐禅白。夢の中では学校が毎日雨で水浸しになる日ばかりだつたこれから日本は雨が心配
いやアメリカの戦艦は動きが取れず北朝鮮のミサイルは飛ぶはずもないと日本の人は安心して安倍さんの友達攻撃ばかりで
でも飛んでもない事は心配しない凄い日本人みな悟つて涼感さんになつている。やっぱ日本人凄いんだいや人はみな時をもう
受け入れている覚悟ができている。でも金や物が無くなる事は心配?煩悩すこし失くなるだけでもそれが何とかならないか
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きっとこうだつたら笑える世界?
全世界が爆弾でふつとんだ後はもう損なこ嫌なことわすれて
布団で寝る前思い出し前と変わらん平和な毎日が再現されて行くのかも
人間なんて周りの社会画大切で無視されて一人で新出行く事恐れている
世界なんて妄想でも楽しいし煩悩のオマケにつられて入るから
オマケが苦しい重いではやつてられないあたりまえ
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鬼はハッタリをまず、捨てるべきだな。
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↑自分を鬼と思っているようじゃのう。
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今朝はというか毎朝ではないかこの頃何の勉強も無くさあはりきつて書きましょうもなくまあなんか出まかせで適当に
かかなけれならない立場の役しかなくメモ適当に写すか本うつすのは大変で早く書けで適当な所まあ何でも良いや
で下記込んでホカホカ移行。
もう夢のような出来事だしもうそうするしか無い鴨.跡で婆さんに追求される鴨。つい急だつたので夢じゃ内科思ってと誤魔化
す。夢に責任を押し付ける(犯罪者の心理はそうなの鴨?)。だから私は後から後えと夢に追求される鴨。とにかく誤魔化して
夢のようなに逃げるなさけないけどそうしないと生きられないにも逃げ続ける。仕様が無いよねも逃げ続ける。ありのまま蟻は
ゴミ袋から10匹ぐらい逃がしたけどそれ以上は面倒だ許せ御免で蟻の飯友焼かれるのかこの世は儚い夢の如しああ無情.意味
不明にも誤魔化す。損な事にならないよう後先を考え僧した僧はズルイ鴨でも人間だものであいだみつお。落ちも決まらない
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Aと鬼和尚とぼったんは永遠輪廻で妄想プレイだなw
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↑おぬし名前が三つもあるのじゃな。
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今朝のはラーマクリシュナの文の適当な所書いたの写したので楽勝としているダービー悟月のある日?
48・至高なる神は、一つのみがあるだけで、二つがないことを示しておられます。 絶対の存在・有、叡智、歓喜そのものが、
様々な姿に顕されているだけです。 あのお方自身が、生きものと世界と、宇宙それらすべてになっておられるのです。あのお方
自身が、すべての食べ物になっておられるのです。49・瞑想するときには、あのお方に没入しなければなりません。水面に浮かん
でいるだけでは どうして海底の宝玉を得ることができましょう50・神のみが唯一の行為者であって、他のすべては非行為者であ
ると知っている人たち 神の意識に目覚めた人たちは、足を踏み外すことはありませんし、計算して悪を捨てる必要はありません
。 神への愛があまりにも大きいので、彼らの行う行為は、すべて良い行為です。 しかし彼らは その行為を行うのは自分では
なくて、自分は神の召使いであるということを、知っています。 私は機械です、あのお方が操縦者、あのお方が行わせるように
行います。 話させるように、話します あのお方が動かすように動きます。 ラーマクリシュナも金太郎飴だしこれからも適当
にコピーしてネタで泣く事も無い後リンク貼ればサイト人も空文句が出ないhttp://kuboakoru.web.fc2.com/la-makulisyuna4.html
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それは誰じゃ?
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今の時代宗教とは何だろう?社会生活や娯楽や科学と同じ要するに仲間と言う事で団体生活する事も宗教友癒えるのか?南無阿弥陀仏と何冥法蓮華きょうや
アーメンはそんなに変わらんけどアーメンは科学に痛めつけられて科学も仲間だとイエス言う事は適当にしているつまり宗教は堅く教理を縛らなく友に
ワイワイと仲間で騒いで生活使用とキリスト教は進化したの鴨。でも浄土真宗は親鸞の教えが崩壊しているというか親鸞なんて碌な事言っていなかったのか
日蓮は権力にたてついた鎌倉時代の考えを今では意味不明に池田解らん教えを集団で昔は押し付けたが要するに数は力と悟ったのか?幸福の科学は信者が
集まらず政治的に夢の幸福を実現できず妄想に走っている師?今では何の役にも立たない。でも人間は団体的生物だから国の生活だけは不満もでる
からその中の第二の国ならば許されるけどそれならスポーツ観戦とかパチンコ将棋競馬や井戸端会議と同じ娯楽レベル何だろう?今では不満の息抜きと
思えば良いのか?善や迷走うは団体からあまり相手にされないけどまあ日本の害にならなければあっても良いと国に思われているのか霊を信じる人も国の
邪魔にならなければまあ良いかで国に逆らうオウムなんてのでなければまあ良いのでしょう。今朝も頭が回らずただ行を重ねるだけで日ごろの不満が
出たのか囲碁に夢中過ぎて宗教なんて思っているのか?要するに何事も捕らわれすぎると碌な事にはならないキリスト教は適当に進化して成功した神も
適当に使用して矛盾も適当で宗教なんてそれ位かなのか?ほんとの宗教なんて誰も相手にされない孤独な道かも
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存在理由なのじゃ。
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玉城さん、タンマの顕現 ・・道元禅師はなかなか複雑な方で、天才道元にして初めてあの『正法眼蔵』九十五巻を述作し得
たところの、たぐいまれな仏教者でありますが、その道元禅師が只管打坐という事を言われました。身も心もその全体が打つ
て一丸となり、全身心でひたすら坐る。その坐る事は、仏の自受三昧のことで、弘法大師は全宇宙が大三昧、すなわち法界定
であると言われた。地・水・火・風・空・識の六大無疑、すなわち全宇宙がそのまま三昧に参加することが只管打坐である。
これは単なる言葉ではなく事実だと思います。さつき法然聖人の念仏になぞらえて、凡人の実態を
さらけだしてしまいましたが、これが大三昧にあずかる凡人の実態です。そこがなんとも奇妙な所で人間の不思議というか、
大三昧そのものの不思議な力というか、どうともいいようがありませんが、ともあれ禅定に入って大三昧に吹きとおしにな
るとき、道元のいわれるようになってしまうのですね。
唯識とかマナ識とか、阿頼耶識とか言いますが、そんなものは吹き飛んでしまいます。マナ識ていうのは我執でしょう。
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我執と言つても、ちようど樹の根っこの、細い細い白根のように大地の底深く、無意識の果てのなかに喰いこんでいる
のでしょう。第六意識の我執はなくなつても第七の我執は、睡眠のときも働いているでしょう。いくらそう言つたつて、そんな
ものは跡形も無く根絶やしです。だつて宇宙そのものと吹き通しになつていくので゛すから。
それが原始経典・大乗経典を通貫する如来というものでしょうか。ところがそれで終結しないのが大事なところです。
もうひひとつその先がある。先と言うか、根底というか、あるいは自己の共同体の、もつとも宇宙そのものの基礎と
いいましょうか。仏陀はそれを業熟体と言われた。業体、宿業体ですね。今日の言葉でいえは、人格的身体とでもいい
ましょうか。ここのところが仏道の最終的に最肝心の所ではないでしょうか。
玉城さん 仏より働かされている。・・このように見てくると、日本の仏教はさまざまな大乗の各学派に育てながら展開して
来たのであるが、結局我々は何に元ずいて救われていくのか。何によつてこの身が目覚めていくのかという切り詰めた問題に
対して、鎌倉の宗祖たちがそれぞれの解答を出したのです。ひたすら念仏して仏に帰衣していく、ただ坐ることによって仏に裏
打ちされれていく、身も心も仏の家に投げ入れて随っていく、信心は如来より賜りたるものなれば、信じるものは如来と等しい、
劣悪の己心のままが仏より立て直されていく、等等。それぞれの形で鎌倉宗祖たちは教えたのです。ここは共通の土俵が現れて
おる。すはわちわれわれは働きに先立つて仏に裏打ちされ、仏より働かされていると言うことです。
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べつに何も働かしていないのじゃ。
仏は現場監督ではないのじゃ。
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心とは何だ定義も良くわからないもう適当に心がいや妄想が走り出した。今は此処路でコロコロと転がるけど落ち着きが
無い、それは私の心ほかの人の心は落ち着いているかもしれない。色々な心があるか?あれ色即是空が適当に出てきた
じゃ空は全体の空で色々は色んな所に分かれて観えるのか?妄想が空間的に広がって私の思考は論理的では無いなあ
思いついた出鱈目を落書きして何行にするだけ難業ではないから書き続けられる野鴨。頭がよく考えなきゃダメと言い
始めた。人に書き込みが下手と言われているしでも論理的な思考は頭悪石適当で行くか?要するに心は鑑賞されるもの
では無く観翔するもの漢字が良くわからないたぶん翔間違っているヨーガや禅は夢では無く無をかんしょうすると
心の働きを無にすれば心は働かなくても安心して熟睡でき夢も見無いのか?それなら孤独でも気にならないのか?
今朝も心が落ち着きもなくでも何とか行が長くなったしまあ良いか。トランプさんも金さんも戦争する心は無く安心か
日本の週刊誌はネタにしないから逃げていても心理学的に安心。なんでも心配する事もなく心は時の観賞しゃだし心配
も心が観賞しているのだし映画見ている世だし現実は心にとつては幻実の鴨此処路コロコロ落ち着かないようで落ちが
ついた。 仏が働かざる者食うべかざるなら僧言う人は立場無い
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心は肉体の働きなのじゃ。
それを観れば離れるのじゃ。
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道とは何は〔76〕上堂「何かしゃべつたものかどうか、道を体得した上での発言なら、一日中
しゃべつてもみな道にかなつているが、道を体得しないままでの発言なら、一日中みな俗物である、
まあ言ってみよう、道と物とは一体か別か」。 ゾクゾクして答えるのは落とし穴に嵌るのか?
でも答えなきゃ2ちやんでは困るし運命も運命具合にきまつているのか?とおキーの中過去が
きまつているのは私にも解るけどそれは未来空見える如来と同じDVD現象化つまり我々には良く
わからんけど運命のなかで今撮された日仮の中で我々は身得ている野鴨?でも過去現在未来に変わ
らなく永遠に存在するものが学んでいくカラー未知が道になるのか今朝も行を重ねて長くしている
だけでは無いのか意味は殆ど何も無くそれは無意味かでもデタラメではない時間もないのだから(
笑)今朝はつまらないネタつまり運命なんて分かる人には分かるし解らない人には解らない法則に
なつている今朝は落とし穴の中でもがいているけど 今朝は在る夏でお日様は梅雨知らず
ひまわり https://www.youtube.com/watch?v=chk0_zUljfU
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ハッタリ鬼の判定の現場監督は居そうだなw
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↑わしのレスをちゃんと読んでいるのじゃな。
わしに夢中じゃな。
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神話の力 永遠の仮面 神秘体験を持つたことのある人はみな、五感では捉えられない宇宙の次元があることを知っています。
『ウパニシャッド』のひとつに何度も出てくる言葉があります。「日没の、あるいは山の美しさの前で立ち止まり、『ああー』
と換声を発する人は神性の中に入れる」そういう参入の瞬間は、存在の不思議さと純粋な美しさとの深い認識を伴います。
自然の世界で生きている人は毎日そういう瞬間を経験します。そういう人々は毎日そういう瞬間を経験します。そういう
人々は人間の次元よりはるかに偉大なものがあることを認識しています。しかし、人間にはそういう経験を擬人化し、自然の
さまざまな力を人間の形に置き換えて表現したがる傾向があります。(つづく)?私は日々こんにゃくと訳分からこと描く傾向が
あります。山見てあーと感動する僧いう生き方は煩悩に紛れて今町々のなかでまあ良い日日になる野鴨
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創世記では神は世界を作ったけど産めよ増やせよ地に満てよで
肉体労働者の現場監督なのかもしれないなあ。道元は身心脱落というし
でも働かざるもの空べからずだし、でも身が死だら如何なるのか他界新車かうには
金が無いと替えない死普通は新でもあまり変わらずか?小学校留年したら遺憾のか
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マジレスするとAの問題は、どこまでも鬼、ぼったんと同様に引き籠っていることだな。
聖書の究極は、引き篭もりの反対側、神と2人以上の世界・・・。
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>人々は人間の次元よりはるかに偉大なものがあることを認識しています。
519の次元かね、それは、鬼と同様に、仏教と無関係だな。
519の次元は知らないものではないが・・・・。鬼の様なハッタリではなくw
ま、キリスト教も519の範疇に近いものだが・・・。
最近はイエスと共同作業したことがあるなあw他者を救済のビリヤードのようにw
玉突きで救いのポケットに落とし込む他者救済ゲームをw
俺様の閃き判断力を利用するイエスが・・・・w
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そうだな、鬼のハッタリ評論を、ここでやるのもおもしろいw」
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Aにしろ、ぼったんにしろ、鬼にしろ、
貧弱なのは、一人に引き籠って、外部とのつながりが欠くのが特徴。
キリスト教の堕落は、外部とのつながりを失っているからだと、最近気づいたわなw
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今日は、空海がスカウトしに来てた動機を知る日だったなw
空海の手の内を知ったwむろん、実用性でなw
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鬼や、ぼったんがおかしな仏教である理由は、
外部とのつながりを欠き、引き篭もっているからなあ・・・・。
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『ウパニシャッド』ですら、引き篭もりようがないはずだが。
Aが好きなラーマクリシュナですら・・・。万物が神と感じ、つながる・・。
そこには思考回路すら入らないはずだ。
Aはいつも自分の思考回路の引き篭もる。
鬼とぼったんは虚栄心山に引き籠り自己陶酔w
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>>521 他人がそう見えるのならばおぬしがそうだからじゃろう。
自分のしたこととしなかったことをみるのじゃ。
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(続き)私たち西洋人の考えでは、神は宇宙のエネルギーと神秘の究極的な原因、ないし根源です。所が東洋の大方の
思考によれば、また原始人の考え方からしても、神々は究極的には超人的なエネルギーの顕現または伝達者です。
神が根源では無い。神はそのエネルギーを運ぶものにすぎない。そして関係するエネルギーの大きさや質というものが、
その神の性格や役割を決定する。暴力の神々がいる。慈悲の神々がいる。見えざる世界と見える世界とを結びつけている
神々がいる。それに戦争の時国王や国土を守護するだけの神々がいる。それらはみな作用しているエネルギーの擬人化
です。しかしエネルギーの究極的な根源はなぞのままです(つづく)?の所でつづきになった空が青いとは梅雨しらず
究極の神が此れだと言えば文句言っても無駄。過去学園は私が良いとおもつたから決めたと阿部衆生は言えない今は
王様は選挙で多数決で選ばれるしバレないように事を進めなければ行けないしトランプさん金さん過激はやめましょう。
温暖化は嘘なのかほんとなのか時が過ぎれば簡単に解る事もわからない。ほとけなんて人々が幸せになるようにエネルギ
をかってに利用しているだけのぼさあつとしているようでも苦労している野鴨。究極なんて何考えているのかさつぱり
私には輪空内。本の通り書き写すのは大変句漢字は勿論読点も間違わず書き写すで?まあ私も人の書き込みを見て参考に
しないと時間がないホカホカに逃げて反省が無いと今朝夢におしえられた。人の書き込み殆ど見ないけどぽ師匠や鬼さん
は全部みているけど立場もあるし名無しさんの反撃は囲碁すこし気おつけよう。でも色々な他保加に行こうしている私で
遊ぶばかりで修行が泣いているけどなるようにしかならないのが鈴しい夏に逃げている。瞳とは人を視る眼か
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今の時代テレビやネットやエロDVDの発明で物質が見るだけの映像音声化で
霊の世界が取り入れられたようだ。でも我々は高級なのは喜ばず低級な
ニュースやサスペンスや刑事ドラマが人気で男は都市とつてもエロ見るのがが好きで
すいません私もよく見るし精神的に高級な霊は相手にされない。出口さんが警告して
いたのに低級な霊の人には住みやすい世界になっている野鴨。少しだけでも高段に
登れるよう坐禅や瞑想とりいれればよいのだけれどこのままではあの様もレベルが
下がるのではないか。昔の人のほうがまだ立派だつたのか?今世界はニュースのせいで
野次馬の霊に多い尽くされるのか?でも我々が呼び寄せているしすいませんでも
楽しいしでもすこしまずいし
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神とはパパンとママンのイメージなのじゃ。
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本のすこでももう下記写すのは大変だから飛ばして(つづき)想像されたイエスのイメージを超えなければなりません。自分の神に
ついてそういうイメージが結局は邪魔になる。それが土壇場で結局は障害になってしまいます。もし自分なりのイデオロギー、
自分のちっぽけな思考形式に固執していると、神についてのより大きな経験がやって来たときーに、自分の心のなかにイメージに
しがみつくことによつて、それから逃げてしまう、それは自己信仰の保全として知られている態度です。精神は経験の様々な中心、
ないし元型的な階段を通じて向上する、という考えがありますね、人間は飢えと貧欲という原初な動物としての経験から出発し、
性的な情熱を経て、いろんな種類の肉体的・物理的な熱達や支配に至る。これらはすべて経験能力を強める段階です。しかし
そのあと経験が心臓に達し、他人や動物に対する慈愛の念が目覚め、自分と相手とがある意味では同じ生命を共有している存在
だと自覚するとき、精神のうちに全く新しい生命の段階が展開します。こうやって心の世界に開かれる。処女降誕はまさしく
その事を神話的に象徴しているのです。それは健康、生殖、力、そして少しの楽しみといつた単なる肉体的目的を追求する原初
的な動物的存在でしかなかった人間のなかに、精神的な生活が生まれることを意味しているのです。だが、ここでまたべつの
ものにぶつかる。こういう思いやり、他者との調和、さらに進んで他者との一体感を抱くということ、つまり心の中に新たに宿った
原理ー(つづく)次は明日に続けるか?何か疲れた私の意見も疲れたなんで続けなきゃいかんのか?
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私たちは競走馬か昨日明日は是れするぞうも明日になればあれ何でまるでやる気なく
何があんなにやる気があつたのかになる。でもしなければならないと考えればやる気
無くてもしょうがなくてもやるし、変に何でなんて考え追求すると無意味にも思えるし
生まれた時から競走馬は走らされ幾らかつても金はもらつても馬は拒むし人参が嬉しい
競走馬は生まれた時から走るのが目的といわれても理解しいる馬は居るとおもうけど
無関心な馬は何も考えず走るのか人参食えるからか?誰かに走らされているなら奴隷では
無いか我々が生きる目的は何だろう?普通の人間が富士見の肉体をもつても二十四時間
ロクな物に使わず欠局はああつまらないになつて面白いものは何か探しても結局競馬場で
まえと同じく走らされるのが文句あっても文句ないのか?悪い頭で何でなんか考えるから
空回りするそれもありのままの一場面なのかも知れない師匠今競馬場に居る師私は本書き写す
けど間違いなく文を写すのは大変ででも競走馬鹿丸だしセンチメンタルじゃあ二位
https://www.youtube.com/watch?v=RaX0zKhHCME
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鬼和尚の教義は、受験競争失敗から生まれた劣等感の裏返しのイメージなのじゃ。
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↑他人がそのように見えるということはおぬしは受験競争失敗したのじゃな。
それもおぬしだけが思っていることじゃ。
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宗教とは?社会的立場で考えると日本の中では今では何の力も無く頭の悪い人が集まって妄想する趣味集団で日本国憲法では
政治的になったら如何と定められているけど数は力で人集め政治と関わる創価が一番数は多いし何なんだろうなあ。大昔は
政治家で科学者で教師の役全部僧が受け持っていたけど今は昔の考えは古い落とされて間違い指摘され未解決の解らない神
に逃げ込んでいるだけそれと社会の不満を満たす影の政治的団体なのか?でもシャーマンは一人でもやっていけるから宗には
なるけど教えは無いのか?要するに頭の良い科学教が説得力があり言論ではまけ、言えるのは今でも解らない所に逃げ込んで
科学では解らないのが神で偉い死んだら物は何の力もないけど神知ものは救われると影で思っているでも公に威張れない
大体金持ちあまり居なく金のかからない道徳は言えるのか。今の時代カルトと言うのもあるけど間違った思想集団だし
宗教とは名前でまとめられているけどよくわからん?日蓮さんは昔の左翼だつたのか?親鸞さんは宗教家では無いし政治家で
は無いしダメな人広めたしよくわからない。私は本書き写すのから逃げていてだらだらしか今朝書けないし頭も起きてなく
行を重ねるだけ、いったい宗教の定義は今では解らない損な事私には関係なく今此処が歩いて行くほんとの宗今日なんて
今此処の蟻の儘見とれ場まあ良いのか最後だけわかった様なが出たけどなんでなんだろう適当な出鱈目か?
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大乗仏教解りました。シャーマンの人が真理だけでは金ない人々は救えないと悟つた。
まず金と権力を手に入れて金ばらまけばだいたいの人々は掬われるしそれに満足竹刀人は
退場部なのかでも何でか禅は大乗部とは言えないでは無いかインチキでは無いか小乗にしろ
でも名前なんてどうでもよいし参加する事に意味がある宗教なん適当なものだしでも金ない
し救えないそうまでして頑張る気もない。でも政治家も今は諦めているしなるようになる
しか無いのか?人々のストレスは貯まるしでもテレビのニュースで憂さ晴らし。テレビの方が
宗教より役だつ今?宗教は碁楽以下それでいいのだろうか捨て身のシャーマンは昔いたけど
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マネーで救われるのは空腹だけなのじゃ。
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本を写すよりネタを書いたほうが楽使用なのか?今朝のネタは鬼さんが答えた「マネーに救われるのは空腹だけじゃ」?空物を
食べなきゃこの身がもたない空だ。動物の体はそう仕組まれているし、それ以外の本能や煩悩も好みの糸で社会生活の中で
生きる様に仕組まれている。団体も仲間ではないなら無視される事になつている。にちやんねるは場取るが決まりとぽ師匠は
私に言う師、でも私はバトルは苦手というか人の事見ていないというか適当に行を伸ばすことが一番で自分の分しかないので
文が道に迷う。あそうだもとに戻してキリスト「人はパンだけで生きるにあらず」と言ったとか?だけは何まあパンが無ければ
悪魔でも生きていけないけど何か他に空者があるのか?という意味かキリストさん今では亡くなったので祖の所は聞けないし
私は適当に嘗てに解釈し悪魔の思う生きる以上の生きる目的が人人には有るのだ世と言ったのか?でもパンは好みとこの身には
ひっ用そういう決まりの正解に入るのか?でもだけ以外は何かその場でキリストはケチって言わなかったのでパンのだけの
否定が目立つだけで他は何なんだろう。無くなっているから聞けないキリスト教の人は新訳聖書読めと言う野鴨でも新訳ほんとに
キリストの答えが書いてあるりか死んでから弟子が書き換えたのか?それ以前に私は本の少ししか読む気がないしたしかキリスト
今日は愛を徳というし意味不明なまま長くなつたから原因は永遠仮面の本の続き少し書き写すの大変から逃げているからか
人の事考えない自分考えだけと言われるのかまあ私はそういう人ですか?でも のみ があるからこの世に来る必洋画あるのかも
微風 https://www.youtube.com/watch?v=RHilGrTORS0 そうだ悪魔でも皆パンのみに生きてる物は無い食う事も空も必要
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心は法によって満たされるのじゃ。
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死んだらどうなるか考えてみる。まず生きている空だで痛いいやの異体いや遺体は亡くなるけど異体は残る霊か霊には痛いはあ
るのだろうか多分テレビやラジオでも痛いは未だ実現出来ていないから難しい化。たぶん観るだけなら出来る霊かも、我々は現
実でも景色を見てる説きは善い例か?つまり霊となつても観るだけ受動的な観察は出来る鴨、それじゃ頭と眼と耳の様なものは
生き残る?のかも?仙人の様な修業すれば物質化も可能か?それが何の価値があるのだろう?まあそれぞれ好きなようにやるだ
けの妄想世界。でもこれからのテレビで見る聞くだけではなく匂いは簡単でも触覚温度感覚等はやろうと思うと大変だしあまり
意味ない。全然関係ない師匠からが禅かけの声が?出鱈目なだらだらな妄想は止めましょう。寝たあとで起きてネタこんなのし
か出ない。すずめちゅんちゅんの坐禅白。夢の中では学校が毎日雨で水浸しになる日ばかりだつたこれから日本は雨が心配
まあ我々はこの世うにドタバタなドラマを演じる役者には間違いないか?でもいい人も悪い人も役ならドラマにはひっ用なのか
悪い役のひとは人相が悪いわけでは無いのはドラマと違うけどでも役立っていると公には言わないルールになっている野鴨
ドラマだから作者と演技者と鑑賞者の三者が同じなら立場解りすぎると面白くないし解らないと苦しいだけの役では不味いから
適当にわけわからなくても解るような微妙な所に僧いうぼさあつとした役立つのか役に立たない役の人が配置されている野鴨
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作者と演技者と見る人が感同すれば心は満たされる野鴨でもなかなか我々は役に泣かされてでもそれがハラハラ観たいという
人がいるから解ってあげなくてはこれくらいでまあ良いかでも少しずつはまあ良いになれば満足化
-
三元論じゃな。
それでも観るものが見られたならば変容は起こるじゃろう。
論より実践なのじゃ。
-
永遠の仮面何時かの(つづき)つまり、心の中に新たに宿った原理ー私たちが尊重し、それに使えるべき善としての、
エゴを超越した原理ほとしての合一を経験することは、まさに疑いもなく宗教的な生命や経験の始まりです。
そしてそれが、あらゆる時間的存在などその影にかぎない、一者としての存在を十分に経験したいという、命をすり減らす
ような探求へと人を導くのかもしれまらん。(つづく)のか私はそこまで追及したくないまあする人は大変な思いしても
つい急にあせつてするのだろうな書き込むことでも面倒なのに修行するなんて?気が進まないきっとそんなに楽しく無いとか
私には無理にやらないとか僧いう役から逃げている。偉くなりたくないのか勉強しないと良い学校にいけず貧乏で一生過ごす
のかでも私は現実の面倒な事を先延ばしにして夢でいっも追及されているけど?面倒なものも少し面倒みてケチって追及する
かわたしはさあとりあえずでも良いのだけど辛い修行してまでして悟りたくないのだけど今悟らないと困るほど追い込まれて
居ないのだけど私は血液型がО型で試験まえでも勉強ギリギリまでサボるひとだし何か今朝はグチグチで時間だけがムーダラ
に過ぎている。タイプとして私は遊び人なんだろう真面目な人は好きだけどマネできないしそれなりでまあ良い野鴨
永遠の仮面と題が付いているからもうバレバレで皆永遠が仮面かぶつて演じているのだろうでも百聞は瞳にしかずで体験する
までいけば考えずとも答絵るのか
-
全てを捨てて探求に励むのじゃ。
そうしなくともいずれは無くなるものであるからのう。
-
<超越的ビジョンの眼>が開くのは、どこでもない「そこ」においてです。芸術の道においてそれは、まさに
あの瞬間(ジェじぇエームス・ジョイスを引用すれば)「美の全体性によってとらえられ、美の調和によって魅惑された心がこ
ういう至高の徳性、審美的映像の明るい光輝を輝かしく認識する瞬間〔・・・〕審美的快楽の輝かしく静寂な状態」に他なり
ません。インドではこの状態に到達することがヨーガの典型的な目標とされています。それはさまざまに記述されていますが、
究極的には涅槃と呼ばれるものです。これは天国のような場所としてではなく、(情念)、(像悪、?)、(そして(迷妄)という
心の三重の火が消えることとして理解されなければなりません。・・・という語は「吹く」を・・は「消す、吹き消す」を意
味しており、文字通り解釈すれば「吹き消された、過ぎ去った、消滅した」という意味になるからです。
では「吹き消された」ものとは何でしょうか。輪廻転生思想の関連から言えば「吹き消されたものとは」再生の
衝動および欲求であり、それゆえにこの意味では生(未来の生)が吹き消されたものだと言えるでしょう。しかし現在の生との
関連では生ではなく.欲望.嫌悪ないし恐れであり.またそれらが喚起して代表するところの無知ないし妄想です。これらは
すでに見たようにまさしくジョイスが非本来的芸術の特徴と認めた動的な性格を持っています。他方本来的な芸術は眼と精神
の静的状態を呼び起こします。眼と精神は「引きとどめられて」私たちの物の見方を偏らせ曇らせる諸要素を「超越したとこ
ろへ高められる」とジョイスは言います。ここから神秘家の道と「本来的な」芸術家の道には実際には関連がある.という
結論が導かれます。実際東洋では両者は同一なのです。唯一の相違は.神秘家には技術がないというだけです。
?まあ修行して小乗もらった人はまあ僧なんだろうけど我々衆生は大乗部かと心配で安心がない生活が苦しいと昔は創価学会
にはいり助け合うから任せなさいと布教されたのか?日蓮関係は浄土真宗よりキリスト教関係の様だなあ産めよ増やせよ地に
満てよは生物の本能丸出し
-
鬼はハッタリの日々を捨てる必要があるなあ。
-
なんか、このやり取り、あほらしさ満載だな。
>>10 そうじゃ、睡眠と同じ位にリラックスする姿勢なのじゃ。
熟達すれば楽に座っていられるじゃろう。
筋肉の発達も必要なのじゃ。
バランスをとるようにするとよいのじゃ。
そうすれば筋肉が少なくとも座っていられるようになるのじゃ
-
なんか、イフの質問に空想を塗り固めたような返答だな。こりゃあ。
>>3 それに囚われれば魔境になるじゃろう。
全ての法は囚われれば魔境になるからのう。
苦を滅して満足して、それ以上の悟りを求めようとしないならば魔境に陥った事になるのじゃ。
苦があれば悟りに向かったかもしれんからのう。
よく心がけて注意するとよいのじゃ。
-
>大乗仏教解りました。シャーマンの人が真理だけでは金ない人々は救えないと悟つた。
Aにもレスだ。
鬼、ぼったん、Aみたいに自分の脳内プレイじゃ、大乗仏教もわからんよ。
-
>キリスト教の人は新訳聖書読めと言う野鴨でも新訳ほんとに
キリストの答えが書いてあるりか死んでから弟子が書き換えたのか?
Aの自分の脳内プレイ泊まるまで理解できんよ。
鬼も相当脳内プレイが好きだがな。
-
>キリスト「人はパンだけで生きるにあらず」と言ったとか?だけは何まあパンが無ければ
悪魔でも生きていけないけど何か他に空者があるのか?という意味かキリストさん今では亡くなったので祖の所は聞けないし
私は適当に嘗てに解釈し悪魔の思う生きる以上の生きる目的が人人には有るのだ世と言ったのか?
Aは脳内プレイで夢中で、キリストは「メシア」と呼ばれた理由を関心が持ったことがない。
むろん、既存のキリスト教会でも。キリストは「メシア」と呼ばれた理由を関心が薄いの噴飯モノであるが。
鬼の宗教用語もナカナカの本質を喪失する駄文増殖も凄いけどな。
-
↑ずいぶん寂しいのじゃな。
-
画餅 ・・・・まさしく全世界・全存在は悉く描かれた絵であるから、人も事象も、すべて絵より現われて、仏祖も絵より
成就するのである。そういうわけであるから、「描かれた餅」でなければ餓えを充たす薬はない。また「描かれた餓え」で
なければ、人に出会うことはなく、また、「描かれた充」でなければ力量は出てこないのである。およそ「餓えを充充たし」
「餓えないのを充たし」「餓えをみたさず」「餓えないのを充たさない」などはすべて「描かれた餓え」でなければ出来な
いことであり、またいえないことである。ともかく自己そのものが「描かれた絵」である事を参学すべきである。この大切な
主旨を参学するとき「物を転じ、物が転ずる」という働きを、心身に究め尽くしていくことができる。このような不思議な
働きが現われていないようでは、仏道を学ぶ力量はまだ成就していないと思うべきである。この働きを実現させることが、
「悟られた絵」の成就となるのである。?まあ絵画か幻実なのか現実なのか見ると聞くだけでは映画やテレビドラマも
あるし観るだけで痛く無い?身の外見ているのか?でも自分の身は観れる?でも触感や匂い味覚付いているから自分と
意識するのか?カメラに映る映像やスピーカーの音は頭で自他ばたするし鏡に映つた自分殴つても痛くない映像?痛いは
自分だから自分殴つたら痛い?この違いは何処からきたのだろう、考える事もなくそうなっていると普通考えるけど?
あ玄沙和尚は旅に出ようとして足の思い切り石にぶつけ個の身は実在ではないのに、痛みは何処から来るのかと思つた
とか?あれあれあれ?なんか次のネタ書く材料も出てきた。永遠の仮面は暫く寝てろ
-
画餅によって自分は受験に失敗したとか、寂しいとか感じるのじゃ。
それもまた謬見でしかないのじゃ。
-
私は寂しい人駄空、孤独の寂しさ、辛さ、気楽さ良く解るのだけど?永遠に何も無くても別に死何の技をもつ元空孤独な人我?
次元です世次元と思う空難しく考えるけど.重元?重幻と考えれば自由幻になるし時限次元に囚われない鴨.つまり色々な光を
重ねて身得る鴨.どうせ私の言うことは出たら目です世適当です余。非公式です世この世の宇宙法則が光中心と言う事は?
きっとインターネット見たいに情報が光通信なのか?だから光以上に早く宇宙情報は伝えるにはインチキしなけりゃ無利かも、
まともな情報は光が基準なので光より遅いか、私は光化学いや非科学的出た眼思考だからみんなに信用がなく相手にされない用。
創世記では初めに闇と光があつた二進法かコンピューターか?チベット仏教でもはじめに光が現われたし?闇ばかりでは
光通信闇てくれ。頭が悪ければ法則は守れないし原子も物質も頭悪くないし要するに良く解らんけど私は頭良いのだ像と自慢したい
けど、言っている事が思いつきの出鱈目で論争の相手にもされないけど何かそう思う。そうたいそうたいと頷くひともうほつとけ。
でもすべてこの世は法ほけきょで法便利ばかりが身得るし、私は経典よまないのでお経についていけないし、仏教用語も意味不明
で法なに?南なに?蓮華なに?浄土真宗のお経はなんなんだろう?たまにはネット検索して勉強するか?でもそんな暇ないし
やめるか?宇宙の法則で光の速さ以上が身得ないのは神様のソフトの都合で光とはルールとか情報伝えるために有るとしたら
阿弥陀のネットもインターネットとか社会も情報ネットで人々は会話の音速ネットで張り巡らされて管理されて個人情報は守
られているようでほんとは守られて居ないのか?たぶん警察はこつそりネットのぞき見しているのかもテロもあるしそれも
まあしょうがないか。監視カメラもこれから増えるだろうなでもまあそのような世界に我々はいるし、これからAIてが主人公に
成る世だし
-
孤独も死も自分があるという観念からおこるものじゃ。
その観念が無ければ孤独も死もないとしれるのじゃ。
-
宝石の網・・・もし究極の<現実>が゛あらゆる形態からの<開放>の中での静穏な自己の享受と客体の活動的な享受ーすなわち
純粋な「精神」としての享受と物質の中での「精神」としての享受ーという二つの様相において存在するものであるならば、
<現実>としての完全な結合のためには、その両方の様相における統一が要求される。それは「此岸」し「彼岸」の両方で知ら
れねばならない。「・・・・」至高の祝福的な経験も、快楽と苦痛の混じりあった生活を送る人間という形をとつて現れるもの
も、同じシヴァなのだ。もしこれらのシウァがすべて同一であるという事が、一切の人間的行為の中で認識されるならば、あり
とあらゆる人間機能を、犠牲と祭礼という宗教行為とすることによつて達成できる。〔・・・〕たとえばタントラのサーダカ(
修行者)は食べるときも飲むときも、あるいはその他の身体的自然機能を充足させるとき、常に実行しており、つぎのように言
いかつ思うー我はシヴァである、我はバイララヴァで゛我は彼女であると。このように行為し享受するのは、単独の個人ではない。
彼の中で、彼を通じて、行為し享受しているのはシヴァなのである。伝説的なアシュヴァクラは言います。「すべての中に自己を
、自己の中にすべてを認識し利己主義と「わがもの」の感覚から開放された者は、幸福であれ汝は快適で゛あるべし」。?
苦しゆむ内近こうよれと言われても、近寄りすぎると身我苦しいし、適当に近寄る暗いが良い野鴨知れない、真面目な人は一心に
悟ろうとしている、私の今はこの様に縁があるし仏も大切にしなければいけないけれども、煩悩にも一期一会で出会いも大切にし
なければいけない適当な努力?してさあとりあえずになるようになるくらいがみんな楽な旅なのかなあ、工場心無い?まあよいか
-
二は一であり、無であり空であるのじゃ。
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スシュムナーの上昇の経験が心理的なものであることは、殆ど疑問の余地がありません。そして幻視が文化的に条件付けられてい
ることは(幻視および夢というのは、すべてそうですが)確実です。それはムーダーラの四つの花弁から、アージューニャーの二つ
の花弁、そしてサハスラの千の花弁に至るまで、幻視の中で現れる蓮の花弁には総てサンスクリットの文字が記されている事も示
されています。しかしその体験をもつ人々による蓮の花の記述は、彼らが実在性を確信していたことがうかがわせます。しかもそ
れは粗大な物質としての実在性ではなく、夢のような微細で、夢のような幻視的な実在性なのです。「それらは意識から構成され
ている」とラーマクリシュナは言いました「蝋で出来た木のようだー枝、小枝、果実など、その総てが蝋で出来ているのだ」「そ
れらを肉体の目で見ることはできない。肉体を切り開いてそれらを取り出す事は出来ない」?私は囲碁弱いさっぱり解らん言葉仮
また彼は信者たちにこう語りました。
「この精神状態に到達する直前に、私は啓示を受けた。どのようにクンダリー二ーがめざめさせられるのか、どのように異なった
中枢にある蓮が花開くのか、どのようにして一切が三昧において頂点に達するのかが啓示されたのだ。それはほんとうに不思議な
体験だつた。私とそっくりな二十二、三の青年がスシュウムナー神経の中に入りこみ、蓮と交わり、舌でそれらに触れるのが見え
た。その青年がまず肛門にある中枢から始め、性器、臍などにある中枢を通って進んでいつた。これらの中枢にあるそれぞれの蓮
はー四つの花弁、六つの花弁、十の花弁などだがーまどろんでいた。しかし青年に触れられると、花はすっくと立ち上がるのだつ
た。青年が心臓の中枢に到達しー私ははつきり覚えているがー、そこの蓮に舌を触れ、それと交わつたとき、頭を垂れていた十二
の花弁をもつ蓮はすつくと身を起こして花を開いた。それから青年は後頭部にある十六の花弁へと、ついで額にある二つの花弁の
蓮へと進んだ。そして最後に頭にある千の花弁を持つ蓮が花開いた。それ以来私はずつとその状態にある」。
?多分その時ひゅー比喩とした涼しい風が吹いていた野鴨全ては法ほけきょ。
-
今朝は寝過ごし今仕事準備しないと時間がない。書こうとするけど過去のメモ移すか?早くしろ奴隷の身は夢とは違う?
皆それぞれ脳力がちがう、人の脳、宇宙の脳、身に付いたものしか内ので身縁ものは見えん。今朝はこのネタで勝負。
私の脳は考える力は無いので書いているものは適当?出鱈目なる様にしか成らなし内容も無い、そういつて無責任に
書き始めると観える仏はほつとけないと思うのか?出鱈目の助け舟だしてまあ何とか書ける、私は苦労なく書けるので
サボり癖が最近付いてシマッタ。禅が全然しゃまず良いことは無い。言いたいことは大法輪の脳は凄いのだということ、
観えるものは皆生きている。ビル遮那の脳の中で妄想する。
?これでは私はひろさちやさんと何ら変わらないではないか本の読みすぎか適当修行者のひたむきさがなく何ら学者と
変わらんではないか大川さんのいい加減さも親しく感じる現代に修行を求めても流行らんしまあ良いか?
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リンクも針間違い 私のパソコンも誤字が多いし 間違いが歩いているし
エクスタシー http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B7%E3%83%BC
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鬼和尚は虚栄心の有なのじゃ、ということは確かだな。
-
鬼の質問者の仮定に空虚に回答。
まさに、ディスイズ、臍で茶を沸かすレスw
脳内プレイが好きじゃのう。
>>3 それに囚われれば魔境になるじゃろう。
全ての法は囚われれば魔境になるからのう。
苦を滅して満足して、それ以上の悟りを求めようとしないならば魔境に陥った事になるのじゃ。
苦があれば悟りに向かったかもしれんからのう。
よく心がけて注意するとよいのじゃ。
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鬼の質問者の仮定に空虚に回答のどこが止なのじゃ?
空虚の仮定に回答する鬼の姿を観察したほうがいいぞ。
>>9 そうじゃ、止観が大事なのじゃ。
集中がなければ観察は難しいのじゃ。
観察が無ければ集中も無意味なのじゃ。
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鬼和尚の空虚な仮定の回答の空虚さは観察する必要なしか。
どこが正しい観察やら。
>>6>>7 心身を正しく観察すれば自我に気付くじゃろう。
実践あるのみなのじゃ。
-
空虚な仮説回答する実践とは、どういうものだろうなあ。
Aも素晴らしい実践かもなw鬼和尚の仮定に対する回答、脳内シュミレーションが実践ならば。
-
ハッタリ仏教用語使用十数年の戯言の伝統芸かw
阿頼耶識は、普通、
智慧に転換するんだが。大川隆法並みの合成新興宗教教祖様の文章はさすがに違うw
>>39 そうじゃ、
自我も阿頼耶識によって認識されているのじゃ。
無いのじゃ。
夢も見ない眠りならばもはやしていないのじゃ。
無我は自我が無いことなのじゃ。
そうじゃ。
阿頼耶識をも滅して大悟徹底なのじゃ。
-
仮定の空虚な質問に答える鬼和尚の熱意?ギャグか?
鬼和尚には、深見 東州を越えるギャグの天才を目指して欲しいもんだw
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B1%E8%A6%8B%E6%9D%B1%E5%B7%9E
>>41 熱意のある者が詳細に観察すれば気付くのじゃ。
本人のやる気次第なのじゃ。
全ての苦の原因が自分があるという観念であるから、苦の原因を究極にまで追求すれば必然的にたどり着くのじゃ。
実践によって証明するのじゃ。
-
無理スンナ。鬼は虚栄心を潰される恐怖が強いだろう。
ハッタリは死後まで持っていけないぞw
>>50 それもやはり勇気なのじゃ。
死は悟りを得ていない者にはとても恐ろしいものじゃろう。
昔の金持ちには死を恐れる余り、周りの者に死という言葉さえ禁じていた者が居たというのじゃ。
そのように恐ろしい死を超えるには、死の恐れにも負けない勇気が必要なのじゃ。
勇気をもって進むのじゃ。
-
その、新興宗教教祖丸出しの返答、おもしろいぞ、ギャグのセンスがいいぜw
>>51 頭に気が上っているのじゃろう。
イメージで頭の気が足に降りていくとみるとよいのじゃ。
頭を冷却材で冷やしてもよいのじゃ。
いろいろ試してみるとよいのじゃ。
-
鬼和尚の理想は、認知症の末期状態が理想なのか?
>>54 意識があるだけなのじゃ。
観念もあるのじゃ。
感情はないのじゃ。
視覚もないのじゃ。
自ら観察して確めてみるのじゃ。
-
なかなか、鬼和尚の観察は、おもしろいな。
結構、楽しめれるなあ。
鬼和尚に多楽しませてもらったな。
-
ハッタリ教祖鬼和尚の異常さ指摘してみると、
>唯識思想により立てられた心の深層部分の名称であり、大乗仏教を支える根本思想である。眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識の8つの識のうち第8番目で、人間存在の根本にある識であると考えられている。ālaya の語義は、住居・場所の意であって、その場に一切諸法を生ずる種子を内蔵していることから「蔵識」とも訳される。「無没識(むもつしき)」と訳される場合もあるが
>末那識を「意」と訳す。「意」は思量の意味であり、この識は常に第八識の見分を縁じて、我である、法である、と思量するから末那と言われる。
我の居場所は、阿頼耶識ではなく、末那識ということだな。
半端な知識の質問コーナ、笑えるな、
まさに、ディスイズ、臍で茶を沸かすレスw
脳内プレイが好きじゃのう。
>自我も阿頼耶識によって認識されているのじゃ。
無いのじゃ。
-
鬼スレ、さらに珍妙な質問客がw鬼のサクラぐらいにしか思えんがw
-
鬼スレは哲学知識の質問スレのような質問返答の盛況ぶり。
-
↑わしが好き過ぎじゃな。
一つ一つの質問と答えも見ているとはのう。
他に誰もしていないのじゃ。
わし命じゃな。
-
・・・二つの息がこのように融合するまで、中央の門は閉じられたままです。つまりまず必要なのは、修行している
個人の意識(肉体の中にある意識)が、万物を生気ずけ照明する普遍的な太陽の意識と同じものとして経験される事な
のです。さもないと、精神は物質性の中に閉じ込められたままにとどまります。あるいはなんらかの超自然的な空想
に心を奪われて(宇宙は物質のみからできているのだから)魂ないし精神はどこか宇宙とは別の場所に探しもとめられ
るなどと考えてしまう事になります。不死に至る門を守る二つの恐ろしげな像は仏教の観点からすれば、単純に次の
ように解釈されるのでしょう。それは聖域への進入を阻もうとする外的な神の意識を表すのではなく、肉体の死に対
する脅迫的な恐れを表している、と。聖域に入ることを拒むのは、この人間自身の意志なのです。なぜなら仏教の考
えでは我々はすでに不死性を獲得しているのであつて、ただ現世的な目標に対する精神の執着のゆえのみに、われわ
れはこのことを忘れてしまうのですから。物質的欲望と恐怖(ゴータマ、シャムニー王子が仏陀の境地に到達した夜に
克服したのは、この二つの誘惑でした)のために私たちは(楽園)から皮肉なことにー私たちはすでにそこに住んでいる
のですがー自分を追い出してしまうのです。仏教の教えでは<楽園追放>などということは起こらなかったのです。ただ
精神が誤った焦点にむけられているだけなのです。・・・宇宙意識より。?
-
妄想が激しいのう。
呼吸法に思想などないのじゃ。
-
ヨーガ根本教典 二・五四〔制感〕制感とは諸感覚がそれぞれの対象と結びつかない結果、まるで心自体の模造品のようになった
状態をいう。 佐保多さん解説 制感とは諸感覚をその対象から手元に引き戻す。或いは感覚が対象に向かって動こうとするのを
引き止めるという意味である。感覚がその対象に結びつこうとする動きを引き止められて自分独りの状態に取り残されると、諸感
覚はあらゆる心理状態の実体である心の模造品のようになる。各感覚がそれぞれ独立に外界の色、声などの対象と結びつくことを
やめ、器官と心の一体になっているのが制感である。と 一体ぜんたいなにが始まりかそれはヨーガ有る世界?色即是空?
二・五五 制感の行法を修習していくならばついには諸感覚に最高の従順さが生ずる。 佐保多さん・・・特に最高の従順ささと
言うときには、心が専念状態である時に感覚もまた外部の知覚を受け付けないことを意味している。そして最後に心の働きもこれ
に追従して消滅する事になる。?こからヨーガの用が端◎と基本は大切だ空 世界が始まる前は僧だ空 でも今は僧でも妻子ん居る
ブラフマンも僧して次は我々の枝に化ける凝念になるのか?ブラフマンも想なるまえは我々では内化、迷走世界も網駄したし
聖者はやつぱり食う心配もなく煩悩にも関係ない孤独な環境でも平気な無思考が基本なのか?私は是でも寂しがりやで孤独な
環境は耐えられない。何も考えないのは誰にも負けないのだけど一人ぼっちで静かな時は妄想するしか無い。ブラフマンも妄想
して世界が恥まつたのか、ブラフマンをお釈迦さんは困難矛盾だらけの正解を作ってとか?ブラフマンは叱られたのか
よくわからん?でもブラフマンが妄想止めたら世界は消滅するし
ネタが無いとにちやんねるは消滅するし
-
感覚に続いて心の働きも止滅するのじゃ。
それでもあるものが意識なのじゃ。
-
何も解らんでもがき苦しんだど努力があったから山の頂上に上り詰めた人はいい眺め眺めながら一望の人休み出来るさぞ満足だろう
誰のお陰かと思うのか?きつと山の上ではそうなる運命だつたと過去は何でも運命で決まっていたと思う不公平
我々は過去を間違いで呻いているよりりは、過ぎたものは間違いなく過ぎていくと思うのが正しい。そんな事では反省もなく先が
思いやられる生きるのは生存競争のこの世で至難の業、仏と死は正しい道でも生物の生存競争の現実我ある反省なき商売熱心で無い
ものは潰される世の中だし、勉強勉強で皆競争になつている?適当に皆妥協して仲良く共存が無いのか、そんな甘い考えはこの世で
は通用しない、まずわが身を守らんと生めよ増やせよ地に満てよで社会の発展にも貢献せよ、でこれから効率良い器械に任せて人間
は役立たずで社会も機械任せの時代が来るのか?そんな事では未来では同行二人の器械脳(人口知能)取り付けてそれの指示通り行動
すれば勝ちがある時が来る。それでは人間は奴隷でおまけ、そんな時がきても仏はほつとけで涼しい顔でいるのか?何か書けたけど
まるでだらだらやる着なくかけばいいんでしょうを今朝は書いた。さあ他他
何も解らんでもがき苦しんだど努力があったから山の頂上に上り詰めた人はいい眺め眺めながら
一望の人休み出来るさぞ満足だろう、誰のお陰かと思うのか?きつと山の上ではそうなる運命
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鬼和尚さん心が働かなくても意つ識そろっているのですか?
働かなくても空えるのですか、何も身得ないチーンもくもくの人休みさん
芝楽一休みしたら動しても見える処に働きに行くと思う。次はAIロボット
の身得る処だろうか
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心が動かなくても意識はあるじゃろう。
どこにでもあるものじゃ。
資産があれば働かなくても食えるじゃろう。
資産がなければ働かなくては食えないじゃろう。
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虹と水晶 ・・・ミラレバはこう言っている。「心もそらも空虚だから、心の本性はそらのようだと言う事はできる。だが、
心は知性を持っているのに対し、空はそうではない」と。悟りとは宇宙に関する知識ではなく、宇宙の本質を生きる経験に外
ならない。そういう生きた経験を味わうまでは、色んなたとえを頼りにするほかならない。だがそのおかげで、そのたとえが
持っている限界にしばられる事になる。土台は、これから説明する不思議な物体のようなものだ、と言ってもよいだろう。
その物体が白くまるみを帯びている、と言えば、それについてのイメージが得られる。だが翌日になつて、それを見た
別のひとが説明するのを聞いて色も白というよりは真珠貝の色をしていると言えばそう考えるようになる。そんな説明を五十回
聴いたところでその物体に関して少しでも考えが深まるわけではない。だがいつたん自分で見ればどんなものかはっきりわかる。
・・要するに百聞は一見にしかずか?百文は瞳にしかず?でも観れない人は例えば本のすこしの向樹心を便りにするしか内化
本との知性とは体験な想いが無いと役立たんしまあ何だカンだなら役立つ体験鴨。でも読書百変意斧図と通ると百聞は一見に
しかず??はてなまあ何打カーンなのか中々竹に意志が当たらない今日は厳しいノルマに終われで作為的な朝
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知性もまた観念の中でのみ現れるものじゃ。
悟った者には使えるが本来必要も無いものじゃ。
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アインシュタインの相対性理論にエネルギー式 E=質量×光速の二乗 があるこれパクツテ
エネルギー=身体(物質的)×精神(霊?)という関係があれば.心身脱落すなわち身体が死ねば霊の力は強力になる鴨.でも
仙道では物質化したものを作るとするとEつまりエネルギーは限りなく大きくなる
私はやらんけどタオの本の図適当にみてイメージ的に我流で創造すると。修行者が金の卵を産むさあ鳥という母親鳥?になり
坐禅しながら丹田?つまり子宮の位置から小鳥の金の卵?になり親鳥のの空だを周り続け成鳥するのが小周天の修業だと思えば
坐禅しながら出来ているか?是なら危険も無くコツコツとあせらずに技術も無く続けられる鴨。私は三昧という言葉は解らん
けどラーマクリシュナの成りきりの術凄いから多分夢中でなりきり実行が三昧かも、大周天まあ其れはまだ先。要するに
自然な坐禅が小周天で自然に私の中の仏が卵から目覚めて成長してくるのかも。男でも母になる野鴨、適当にタオネタ改造の
妄想実行は私はやる気が無い??、でも私の体は何か知らんものが嘗てに煩く回っている小周天?クンダリニ?鴨
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真面目なんだけど心に太陽画輝いてなければ余裕も持てないし?心の壺をのぞく事も内野鴨?
壺の中の世界、別天地 壺(つぼ)の中の世界。別天地。『漢書(かんじょ)』の方術(ほうじゅつ)伝
(術を使う人の伝記)に見える話。 漢代に費長房(ひちょうぼう)という男が、市(いち)の役人をしていた。
ある時、2階から見ていると、市場の薬売りの老人が店頭に壺を掛けていて、店じまい
するとピョンと壺の中へ飛び込んだ。市場で気がついた人は誰もいない。
費長房だけがこれを見、その老人に頼んで一緒に壺の中へ入ることができた。
入ってみると壺の中には立派な建物が並び、うまい酒やごちそうが満ちあふれている。
2人で飲んで帰った、と。 Google検索機能すごい悟っているのか義経の初奏都日波で
いっも心に太陽をが内と真面目だけでは対応出来無い
いっも心に太陽を https://www.youtube.com/watch?v=7cCwYSJEhmQ
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>知性もまた観念の中でのみ現れるものじゃ。
鬼は適当な知性で満足してそうだな。
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>虹と水晶 ・・・ミラレバはこう言っている。「心もそらも空虚だから、心の本性はそらのようだと言う事はできる。
Aも鬼と同じく頭脳脳内プレイ好きすぎだな。
そのAの膨大な文章見てみろ。空と無縁だな。
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鬼は案外オカルト趣味なんだな。
>>96 今のおぬしの意識そのものなのじゃ。
そこに生まれる前も死後の意識もあるじゃろう。
深い瞑想や睡眠の意識でもそれは味わえるじゃろう。
実践によって確めるのじゃ。
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鬼はたぶん、リカちゃん人形プレイが好きなんだろうなあ。
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Aは知識の羅列で喜び至福を感じ。
鬼は教師ゴッコ&リカちゃん人形プレイで喜ぶ。
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鬼の空虚な知識の羅列、しかも不毛。
103 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2017/06/17(土) 21:59:13 ID:1d4drIFg0>>101 意識は今の自分ではないのじゃ。
自分という観念を超えたものなのじゃ。
時と言う観念もないものじゃ。
全てを超えてただ在り続けるものじゃ。
それに通じれば過去も今も全て一つとして見られるのじゃ。
悟った者に前世が見える宿命智が芽生えるのもそのためなのじゃ。
それは強く集中することでも達成できるものじゃ。
死の恐れをも超えて今の意識に深く没入すれば過去の事も悉く見られるじゃろう。
実践あるのみなのじゃ。
-
↑わしの教えを流布しているのじゃな。
感心じゃな。
-
般若心境よくわからん?我々は食わなきゃ生きていけない。動物のレベルでもあるカラー色々食うし。食即是食う食う即是食?
それは余りにも食う事にこだわつ立てるけど。食えたら色々種付けて種を増やさなきゃ。周り観たら色々な物に囲まれてでも
生きやすい環境になるにはまわりと仲良くしなければ、でも考えの違う人々が色々居るし、でも色々お互い考えの違いを譲り
合い仲良くするルールがまあなんだかんだで出来ている。日本の法律も法だしその外には別の国もある。仲良く出来なきゃ
見解の相違で付き合わないか戦争だ。でもいまでは核核云々で核を持つ北挑戦はトランプでも戦争出来そうもない。だかに
滅びない?力の弱い国は強い国に従うしか内けど核核しかじかの力は凄く争えない核抑止力という野鴨。良くわからん日本
兵和なのか?そういう運命に導かれて時進んでいき?奴隷の機械が進化して喰わんでも生きていける機械の体で運命具合に
般若の世界は実現するのか?それでは人間はどうなるのかマズイではないか?運命に逆らわんと行けないのでは無いか?でも
宇宙人は機械飛び越して空気の様に色即是空ななり時々空即是色で今の世になり植物も動物も色々な自然もある地球に住む
野鴨。大法輪中法輪小法輪。今朝は是れ書き込みにするのかちょつと支離滅裂で気後れするけど行くしかない
-
坐禅や瞑想の観だけでは居た身画無く、見るだけですよお客さん踊り子には手を出せない。あるとき玄沙和尚が旅に出ようと
して足の指を石にぶっけ居た意でこの身の存在は何処から来たのかの問題に取り組んだのも?見るだけでは痛みはテレビでは
感じられない。其処に居なくて見るだけ駄空当たり前か?やつぱ実戦体験がなければ囲碁は強くならない。へぼても毎日の
書き込みしないと体験な想いは伝わらない。我々は修行するために身の世に居た意思いして来た絵られる仏と言えるのか
この世辛い世いや楽しい世適当に遊べるし。やっぱ多少怒られたりたたかれないと勉強竹刀タイプの仏さんが多いしこの世に
観光にきたのじゃないし、この世界はバーチャル陀世という意識があると凡夫は遊びまわるだけの学校になるのはまずいと
仏の意識は忘れさせられて夢中で痛い学習させられ級級しているのが段段レベルが上がるのか?藤井四段の様な少年は
自ら進んで行くひとは稀にいるけど?我々は負けて悔しいが無いと楽使用とするし。観るだけと体験するので色素癖空
空疎是式になるのか般若心境は目の前の空に広がっている。今は熱い空気の中に居るどうのこうの要ってもまあ良い旅な野鴨
ミストラル https://www.youtube.com/watch?v=Td1Ny0fqPa0
-
痛いのも観念なのじゃ。
-
結局はは薬局で心の安定は? 安心な空(から)が有れば後は不安定な心見でも余裕で安心だ。
この世がほつとけも無い性もない未知を譲らない一方通行なら、身縁からしょうがないでも一回悟りの風景を見たら仏性は
片手ではなく両手で握手出来るのか。わたしはまださあとりあえずはまあよいかの仲でお先真暗で手を後ろにして枕を探す
毎日でも難解でも何回でもあまり考えず繰り返していると難解が少しずつ近ずいてくるけど、無理に考え過ぎると欲わからん
になる、無理せずほわつと出た出鱈目を適当に並べると何か良くわからん者がまあええ空出てくる師、書き込みも是が一番楽
どうせ私が書いているのでは内空、手がかつてに書いているからまあよいか、私は人との会話が内と欲言われるけど、相手が
指す次の一手考えるのは頭疲れるし、でも少しは考えるか殆ど考えないか、頓珍漢なのはよくわかっているけど努力が無く
すいませんに居直る。それでも仲間に入れてくれる2ちやんの人はまあよいひとばかり。ありがとう
-
鬼のゴッコも観念だぞ、自覚しろよ。
-
鬼はああいうハッタリ、リカちゃん人形プレイが好きなんだから、病んでいるなあ・・・・・・。
-
Aの癖は、文章を書きこんで至福を感じるおめでたいタイプだな。
最近気づいたが、鬼が捉えて切れていない仏教以外の宗教では、
分別を無視する、というのが重要性がある。当然、無分別ではない。
キリスト教の「罪の許し」というのも、ある意味、分別を無視するという方向性でもある、
当然、無分別という意味ではない、
鬼の空想する悟りに近い意味合いになるが・・・・。
また、日蓮の「南無妙法蓮華経」を連続唱えてトランス禅定ゾーンに入る、
日蓮の視点も、ある意味、分別を無視するという路線だろう。
当然、Aのような、思考回路からの離脱という意味でもあるが・・。
-
鬼はああいう陳腐なエア悟り問答が楽しいらしい。気が知れんなあ・・・・。
-
鬼もエア悟りで鬼のゴッコも創られるらしいぜ。、
>>106 そうじゃ、世界も己も観念によって創られているのじゃ。
観念がなければ創られていないありのままの世界が見えるのじゃ。
それが不死の境地なのじゃ。
-
分別を無視するという方向性に関してだが、
あれは世俗的な仏教、神仏習合仏教、地蔵、観音、不動明王信仰など、
人格仏的信仰のルーツ、から、考察して、行き着いた結論でもある。
-
高尚にまともな風に書き込むが、これ以外では。陳腐な供養やら、過去が見えるやら、
「ただ」という下記の表現から遠ざかる。まさにリカちゃん人形エア悟りゴッコ。
>>111 決意して行えば難しいことも無いのじゃ。
ただ姿勢を正しくすれば誰でもサマーディに至れるのじゃ。
姿勢が大事なのじゃ。
姿勢を正して実践あるのみなのじゃ。
-
112 :としぼっくり :2017/06/19(月) 01:06:07 ID:DAY232aw0鬼和尚さん質問ですが、
本当に死を超える事は出来るのでしょうか?
こういうゴッコな質問が出る次元と鬼の回答。
ま、ヒンズー崩れの半端な仏教知識で、阿羅漢やらエア悟り物語で返答する。
からなあ・・鬼は。
-
↑もはやわしに熱中じゃな。
五体投地とかしてるかもしれん。
-
海印三昧 ・・「この法が滅するときは、我が滅するとは言わない。まさしく「不言我滅」の時は、すなわち「此法滅時」
である。滅とは言つても、それは法なのである。法であるから対照的な物では無い。対照的なものでは無いから、汚される無
い<不染汚>。この汚されていないという事が、すなわち諸仏・諸祖である。「汝もまたこのとおりである」と言われる。誰が
吾でないものが一人でもあろうか。前念後念みな吾であるから。この滅はさまざまな見方が伴っている。例えば滅は、仏から
言えば無上の大涅槃である。凡夫から言えば死である。外道から言えば断と言う執見である。また二乗(声聞・縁覚)から言え
ば安住所である。このようにさまざまな見方はあるけれれども、その全てが滅の功徳である。・・・ ?
各々方夢夢ゆめだから言えど軽んずる事は無い野鴨。法はルールを皆で守るけど?そういう物があるわけでは無い?でも怪我
れはそういう役目鴨?今自由民主主義の大人はバーチャルな低い煩悩将棋や無料アダルトか?全く安心で穢れ無いのか?修業
するのは仏さんまかせで私は関係無しで良いのか?でも修業は今気が向かない無理には無理で好いのか昔は良かった?不味い
-
ははは、ぼったんレベルの余裕のポーズの修行を完成したようだなw鬼ハッタリ芸もw
-
>海印三昧
Aも脳内無駄プレイ好きだな。小理屈Aが思考してもそりゃ無理だ。
脳内思考プレイが止まらないのだからな。鬼も同様だな。
しかし、最近はラーマクリシュナの言うバクティーに関して、知ったことがある、
すなわち、信仰、俺は基本関心がなかったが、最近、探求した。
キリスト教、浄土真宗、浄土宗、日蓮宗、日本土着仏教信仰を想定して・・・・。
ま、バクティーていうのは、その宗教の世界観に没入して生きるエネルギーに
したいやり方らしい・・・。
Aは脳内思考プレイ好きで信仰心のかけらもなさそうだな。
鬼は自分教だがなw。
-
鬼の脳内思考プレイの
>阿頼耶識と言う認識の作り出す観念が
阿頼耶識の解釈が脳内思考プレイ自分教解釈で幼稚で笑えるな、これでおままごと悟りゴッコだからなあ。
>>116 そうじゃ、それが不死の境地なのじゃ。
簡単に言えば自我と、阿頼耶識と言う認識の作り出す観念が、本当の存在のあり方を見えないようにしているのじゃ。
それらが取り除かれると、本来肉体に縛られるものではない意識が感じられるようになるのじゃ。
そして肉体の死は存在の消滅ではなく、悲劇的なものでもなく、単なる変化であり、観念であったとわかるのじゃ。
そのようにして死を超えるのじゃ。
-
どははははw幼稚過ぎて腹が痛いw漫才上手いな鬼w
>>119 よかったのじゃ。
論理的に考えることで集中力が増し、気付くこともできたのじゃ
-
大概、小難しい戯れ言を垂れ流して、これを書き込む神経、
まじで、おもしれえw鬼w
115: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2017/06/19(月) 20:00:34 ID:1d4drIFg0 >>111 決意して行えば難しいことも無いのじゃ。
ただ姿勢を正しくすれば誰でもサマーディに至れるのじゃ。
姿勢が大事なのじゃ。
姿勢を正して実践あるのみなのじゃ。
-
↑わしにほめてもらいたいのじゃな。
えらいえらいえらいのうおぬしは。
-
ヨーガ根本経典 基礎から私も本をよんだだけで実行は五日だったっけ。
2・54〔制感〕制感とは、諸器官がそれぞれの対象と結びつかない結果、まるで心自体の模造品のようになつた状態を言う。
解説制感とは諸感覚をその対象から引き戻す、ある
いは感官が対象に向かって動こうとするのを引き止めるという意味である。感覚がその対象に結びつこうとする動きを引き止め
られれて自分独りの状態にとり残されると、感官はあらゆる心理器官の実体である心の模造品のようになる。諸器官は心の働き
に追従して動くだけになる。各器官がそれぞれ独立の外界の色、声などの対象と結びつくことを止め、器官と心の働きが一体に
なつているのが制感の境地である。?解らん要するに曹洞宗の座禅か?
2・55制感の行法を修習していくならば、ついには諸感覚に、最高の従順さが生ずる。解説「感覚の従順さ」というのはいろ
んな面から考えられる。或る注釈家によれば、感覚の従順さとは、感覚がたとえ外界の対象に向けられても、そちらのほうにか
けけよらないことであり、他の説によれば主観のほうに愛着等の煩悩が無くなった結果、声などの対象に触れても一向に苦を感
じない状態だという。特に最高の従順さというときには、心が専念状態にあるときに感覚器官もまた外部の知覚を受け付けない
ことを意味している。そして最後に心の作用が完全に滅ぼされたとき、感覚のはたらきもこれに追従して消滅することになる。
以上禁戒から制感までの5部門はヨーガの外部部門と呼ばれる。・しかしいまだヨーガの本命ではなく準備段階にすぎない(
凝念ー静りょー三昧に続く) ?私の画板は落書きで一拝で白い画面に出会ったことがない
まだここで救急している下手な考えで画亜我あいって喜んでいる百聞は瞳にしか図で
でも描かれる以前の以前で座る前か
-
鬼はギャグセンスがありそうだから、吉本入門講座でもやったほうがいいぞw
-
>解らん要するに曹洞宗の座禅か?
また無駄な思考を、
鬼の妄想的解釈アーラヤシキみたいなw
大乗仏教は基本他者との深い関連があるもんだが、鬼もしかり、Aもしかり。
脳内思考プレイに終始する。
その区別がつかいない重症、ぼったんも似たようなもんだw
-
鬼の脳内プレイ的サマディー解説爆笑だな、
サマディーより、サマーデイにしたらw
-
↑すごいすごいすごいのう。
おぬしはすごいのう。
-
ある朝寝過ごして講演のネタ用意してなかった御釈迦様は困ってそばにあった花差し出した。当然それを見ている人笑えない
当たり前だ?でも迦葉は笑ったとか?ゴマすりかこういう人は出世するの鴨。下らんネタで、でもそんな時御釈迦さんが機転
が聞くビート武さんのマネして鼻くそほじくってきっと見ている人々は何か意味があるのかと考えて笑えなく困る風景が、
鬼和尚さんに怒られるようなネタですいません。これについてキャンベルさんの理屈つけて長くののばしそう「生きている
経験です。意味は知性にかかわるものです。ひとつの花がある。その意味とはなんでしょう。禅にはブッダの教えについて
こんな話があります。ブッダは弟子たちのまえでひとつの花だまつてを持ち上げてみせた。すると弟子たちのなかでひとりだけ
ブッダが何を言おうとしたのか分かった人がいたそうです」?そうですキャンベルさんは解ったのはわかった。話のつづき
続けんとさて?「ブッダその人がこうして来た人<如来>とよばれています。意味なんてありません。宇宙の意味とはなんで
しょう。それはただそこにある。あるいは居る。それだけです。あなたがそこにいることです。私たちは外にある目的を達成
するためにあれやこれややることに慣れすぎているものだから内面的な価値を忘れているのです。いま生きているとう実感
と結びついた無上の喜びを忘れているそれこそ人生で一番大切なものなのに」?でもキャンベルさんそれは今の世の中では
スローすぎてライフが遅れるから困るのでは不味いものしか食えないのでは?どうのこうの長くなった
サマーディの悟前でも午後つづく 夏の日の午後 https://www.youtube.com/watch?v=v7VvcKWyeCo
-
五日坊主でも続けるとよいのじゃ。
五日ずつ続ければ毎日実践しているのじゃ。
-
鬼は〜〜じゃと言う戯画化された年寄り言葉を止めると、もの凄く深遠なことを話しているようにも見えるのにも関わらず
読者のためにコミカルな印象を与える亀仙人みたいな話方を保持し続けている。偉いものじゃな
-
神話の力 キャンベルさん 人々はよく、我々は生きている意味を探っていると言いますが、人間が本当に探求しているのは、
たぶん生命の意味ではありません。人間がほんとうに求めているのは、<いま生きている経験>だと思います。純粋に物理的な
次元における生活体験が、自己の最も内面的な存在ないし実体に共鳴をもたらすことによって、生きている喜びを実感するそれを
求めているのです。?短いけど同の行の文句言いたい書き写すだけでは片手だし両手で拍手しないと短いけど我慢するか物仏
時間もないしまあ良いかでも
-
それもまた慈悲なのじゃ。
-
ラーマクリシュナ不滅の言葉。智慧の道を修業する人は、これでもないこれでもない、と感覚を通して解る知識を次から次へ
と捨てていって最後にブラフマンを知ることができる。ちょうど階段を一段一段上って屋根にのぼるようなものだ。ところが
真理を体得した人は、つまり屋根に上がってしまつた人はーそのひとはね、屋根と同じ材料で、その一つの階段も作ってある
のだということがわかるんだ。ネーティネーティと打ち消しつくして、最後にブラフマンとして感じ取ったもの、それ自身が
一つの生命(たましい)として成り立っているんだよ。真理をつかんだ人というのは、無性無相の それ があらゆる性質の
色相なんだということがわかっている。
屋根のてっぺんに人は長いこと居るわけにはいかないから、また降りてくる。三昧に入つてブラフマンの
智を得た人々もまた降りてきては、生物や世界に成っているのは それ ブラフマンそのものだということを納得するわけだ。
トレミファソラしの音調のシだけをいつまでも発音してはいられないからね。智慧の道も、道だ。智慧と信仰の道も道だ。
それに信仰だけの道も道なんだよ。智慧のヨーガも正しい。どの道を通ってもあのお方の元へ行けるよ。けれど私が残ってい
る間は信仰の道が一番だよ。
-
アクイナスはこう言っている「『三つのものが美には必要である翻訳すれば、全体性、調和、そして光輝』となる」。全体性この
原理の機能は、みずから規定されかつ規定するような、実践とは関わりの無い、閉じた錬金術的な場を創り出すところにありま
す。それがどんな効果をもつかを見るには、何でもいいからいくつかの事物の集まりー例えばテーブルの上の品物の集まりを眺め
て、創造の中でその周囲に枠をおいて見て下さい。すると枠の中の事物の総てが「ひとつのもの」と見なされるでしょう。それは
もはや、いろんな用途をもつ無関係な事物の集合では無く、ある構成の部分であり、相互に関係づけられています。その枠の外に
あるものー例えばテーブルの部分は、いまや「他のもの」となり、枠の中にある事物のすべては一つのものになります。スティブ
の言葉では、「君はそれを一つの全体として見る。その全体性を認識しているわけだ、これが全体性なのさ」というわけです。(続く)
-
(続き)調和 さてこのような構成ができると、次に重要なことーそして重要な事のすべてーは構成の中のそれぞれの
対象ないし事物が此処にあるのか、あちらにあるのかという事、つまり部分に対する関係、各部分の全体に対する関係、全体の各
部分に対する関係です。これが審美的な道具としてのリズム、すなわち調和です。その要素になるのは、事物、色彩、言葉とその
音、楽器、建築の部分とその比率などが考えられます。スティブンの言葉によれば、「君はそれの形の線に導かれ、点から点へと
眼を移してゆく君はそれを、その限界内で均斉のとれているものとして認識する。その構造のリズムを感じるわけだ」ということ
になります。輝き リズムがぴつたりあつたとき、人は喜びの中にとどまり、それに何か他の効用があるかどうかまったく考えま
せん。スティブンはこう言っています「君はまさにそのものであって、他の何ものでもないということを知ったわけだ。(続く)
-
(続き)〔アクイナス〕がスコラ学派の「クイッディタス」つまり事物の「そのものであること」について言つているの
がこの光輝なのさ。この至高の徳性は審美的映像が芸術家によつて感じられるものなんだ。こういう審美的瞬間の心を、シェリー
は燃え尽きる炭という美しい比喩で説明している。美の全体性によってとらえられ、美の調和によって魅惑されていた心が、美の
こういう至高の徳性、審美的映像の明るい光輝を輝かしく認識するこの瞬間こそは、審美的快楽の輝かしく静寂な状態だよね。こ
れはイタリアの生理学者ルイジ・ガルヴァーニがシェリーのものに劣らず美しい言葉で心の魅惑とよんだ心臓の状態に、非常に近
い霊的状態なんだ。」まさにこれひそが芸術の存在理由であり、その治癒力と奇跡を説明するものなのです。つまり認識された美
がこのような諸感覚を照明し、精神を鎮め、心を魅惑する力をもつということです。
-
悟りを開くという言葉は何故 開く という言葉が使われているのだろうか?
開くののは窓もひらくし 心の窓を開く? 心の戸窓意を開いても今朝は大雨だ
雨漏り注意報か もうひとりの身得ない私を認めれば拍手でも握手でも出来るのか
へまばかりで役立たずのもうひとりのひと大乗部だよ安心して世
ありのまの自分を見つめていめから 長い時間(たび) https://www.youtube.com/watch?v=_uJQ-XnScno
-
目覚めるから目が開くのじゃ。
真の世界が見えるのじゃ。
-
インドの光より ・・・ラーマクリシュナは決して自分の思想を他人に強制しない。それどころか.自分の言葉をよく吟味し.
研究し.心から納得いくまでよく確かめることを勧めた。こんな事もあった。ブラフマー協会の祭に招待され例によつて会員達
に取り囲まれて話をしていると.ある裁判官が.神の力の現われについて質問した。それに答えていると.一人の会員がその
裁判官に向かってこう言った。「このおかたのおつしゃる事を信じなさい ただ信じるのです」するとラーマクリシュナは大変な
剣幕で叱りつけた。「おまえは何て人間だ。まだ本当に信じられないうちに.無理に信じろなんて.偽善者だよお前は おまえは
ペテン師だ」その会員は何ともはや恥じ入って困惑の窮みにたとか .また彼は師匠とか先生とか呼ばれることを嫌い.弟子達に
対しても親しい友人同士のように接した。ことに若い者たちとは一緒になつて騒いだりふざけたりはしゃぎ回る.先生らしくない
先生なのである。・・・
宇宙意識 ・・神秘主義的認識の段階は.基本的概念から民族的なものを取り除き.このような限定された神を捨てることです。
というのも超越が透けて見えない神はすべて偶像であり.その崇拝は偶像崇拝だからです。また特定の民族uではく.現代全地球
の人類の運命に参与するための第一段階は.このような地域的神のイメージが多数の中の一つにすぎない事を認識する事です。
れらのイメージは全て思い描く事も出来ない同じ神秘を象徴しています。教師たちは.この神秘を自分の神のなかにのみ探し求め
るように教えてきましたが.こういった特殊的神は.その地域では有用であるにしても.何千.何百万ある象徴の一つにすぎない
のです。ブラック・エルクの「しかしどこでも世界の中心なのだ」という言葉は.中世初期の錬金術的文献の『二十四人の哲学者
の書』にある「神は無限の球体であり.その中心はいたる所にあり周辺はどこにもない」・・・
?大法輪地球法輪中法輪社会法輪小法輪過去法輪自然法輪正法輪出鱈目法輪まあ何処でも法があるのか?絶対相対相対
-
我々は目覚める前のまあ何だ関だの 夢の途中 見つめ会うとΔ この三はなんだ? で
夢の途中
見つめあうって 幸せなことね あなたの声がききたくなる ふと目ざめたなら 恋をしている 素敵な瞬間
すべてのものがきらめいてる 優しさがあふれ出す なにげなく過ぎゆく日々を 二人分け合って
永遠の時を 越えて行こう ときめきと 揺れる想いを 胸に抱きしめて ゆるがない愛に いつか届くように
夢の途中で 迷った時にも 心のままに歩いていて 自分を信じて どんな答えも まちがいじゃないと
誰もがいつか気付くでしょう とまどいをくり返し ほら いつもあなたのことを そっと守りたい
やわらかにそよぐ 風のように 輝きと光るハードル すべてとびこえて ゆるがない明日に 続いていきたい
巡り 巡る 季節の中で二人が 出逢った偶然 運命にぬりかえて
ほら いつもあなたのことを そっと守りたい やわらかにそよぐ 風になって
ときめきと 揺れる想いを 胸に抱きしめて ゆるがない愛に いつか届くように
ほら もっとあなたのことを 強く守りたい ゆるがない愛に いつか届くように
-
私はジョウロいやじょうりょというか妄想好きだけどその前の精神集中が面倒で
面倒見ないのが不味いのか? 基礎はつまらんコツコツの繰り返しだけ気もちっと
注意さんまんミスも多い 一手一手自分の見えるところまでみっめると段々観える用になる
野かもまず論より実行座って息を見つめろ 命令かもうやる気ない 妄想ずき
-
なれれば直ぐに集中できるようになるのじゃ。
頑張りすぎずに実践し続けるのじゃ。
-
ディープラーニング ニューラルネットワーク??これが瞑想と関係あるのか?でも行を埋めるためにネットに
今日力してもらうか 素人にも解る説明 http://stonewashersjournal.com/2015/03/05/deeplearning1/
ディープラーニングとは、適切な特徴抽出能力を持つ教師なしニューラルネットワークを多層にして構築したものです。
などと言われたら、即ページを閉じたくなるでしょう。そもそも、上記の説明でもディープラーニングの説明としては
不十分です。今の段階では、「機械が物事を理解するための学習方法」だと考えて下さい。まず、ディープラーニングを
理解するためには、ニューラルネットワークを理解しなければなりません。逆に、ニューラルネットワークを理解して
しまえば、ディープラーニングの概要自体はかなり分かりやすくなります。ニューラルネットワークと言うのは、
人の神経を模したネットワーク構造のことです。それを踏まえて、そう言う構造を持った人工知能のこともそう呼びます。
このニューラルネットワークでは、神経細胞を模したパーセプトロンと言う小さな計算機をたくさん用意し、
一つの計算を協力して行わせるように作られています。??良くわからん要するに脳模倣したシステム鴨でも囲碁大変
忙しい他他も用事ありこのくらいにするか 意味不明
-
実践あるのみなのじゃ。
-
鬼和尚さんこちらで質問させてもらいますが、本当の強さとは一体何なのでしょうか?
-
宇宙意識 事実としての隠喩と隠喩としての事実 もっともよく知られてい、(以前は)誰もが理解していた象徴的記号
として太陽と月があります。これらは青銅時代から存在し、東西の高度な文明によって受け継がれれて来たものです。
このうち月は、影を投じて生まれ変わる存在であり、この地上で時間の中に参与しつっ死を破壊する生命力ーかなわち、
この地上でわれわれ一人一人の中に具現し、しかも自らが肉体性を超越していることを知る生命力ーを意味します。他方、
翳る事の無い太陽の光が意味しているのは、この時間の場から開放された意識、こ超越的かつ永遠の意識の光です。
この象徴的配分の脈絡においては、月の満ち欠けの一周期が人間の一生とのアナロジー関係におかれます。そして月が満
ちる十五日めが人間の三十五歳にあたります。(人間の寿命を七十歳、つまり三十×2+十と数えるのです)、さてまさに
その特別な夜には、ちょうど地平線に現したばかりの月が反対側の地平線に没しようとする太陽と真向かいに相対する
瞬間があります。そして一年のうちなんか月かには、このとき太陽と月が完全に均衡して、大きさも光も等しくなること
があるのです。この瞬間はアナロジーによつて、人生の中間の時に対応するものとされてきました。それは、精神に反映
された意識の光と、あの永遠的な光ー太陽の光をその典型的な隠喩とするあの光ーーとの同一性が突然にあるいは徐々に
理解できるようになる時期です。それを見る心の準備があれば、これによつて、時間的な、他の光を反射する身体から
太陽のような源泉への移行が起こることもあります。そうなると人は、どのような時間と場所にも属さず、普遍的で死を
超越し、しかもあらゆる存在に永遠を具現するあの存在と、自分が本質を共有することを知るのです。すなわちウパニシ
ャッドにあるように「汝はそれなり」ということを知るのです。
?でも骨骨だけが残る観七日 読書飛躍片深く走る
-
>>638 お釈迦様は戦場で100万の敵に勝つよりただ一人の自分に勝つほうが優れていると言うのじゃ。
自分に勝つことが本当の強さと言えるじゃろう。
自分の怠けたいと言う心に勝って精進するのが本当の強さなのじゃ。
自分の欲望に負けずに捨てるのが本当の強さなのじゃ。
自分のなくなる恐れに打ち勝って修業を進めていくのが本当の強さと言えるのじゃ。
-
ありがとうございます。
自分に勝つ事を心掛けたいと思います。
-
徳山はくにに居たころから、思いきりいってやりたいと、張りきって南にきて、「リクツぬき」主義をやっつけるつもりだっ
た。[禮]州の街道にきたとき、ばあさんからモチを買った。 ばあさん、「坊さまの背おったのは、なんの書き物で?」
徳山「金剛経の参考書だ。」ばあさん、「そのお経にありますね、--過ぎた気もちもわからず、いまの気もちもわからず、
のちの気もちもわからず。--坊さまのおモチはどの気も,ち,です?」徳山はこのばあさんに一本やられ、すっかり[へ]の
字口になった。?徳山餅はなぜ食べられなかったのだろうか?金剛経を持っていたからか?わたしも餅だしてあーだこうだ
ばかり? 私は何もネタ用意しないで楽にコピーの無関門適当持ち出して後が楽に使用として楽に書き込んでホカ外か?
ありのままの自分をみつめている空意味不明、きっと同行の船に三つ目の眼が見ている説きもあるのか?また考えたぞ?はい
-
>>641 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
-
また、鬼和尚のオナニーのボウフラ軍団が出てきたかw
消毒駆除w
-
としぼっくり,等、りかちゃん人形軍団、でてこおおーーーい。
-
↑自分を責めてはいかんのじゃ。
-
生きる自由 ・・・神話の目的は個人の意識と宇宙の意識とを和解させ、それによってこの様な生命の無知にたいする要求を
追放するところにある。さらに和解は時間といううつろいやすい現象と、すべてのなかで生きかつ死に行く不滅なる生命の真
の関係を悟ることによって成立する。「人が着古した衣服を捨てて新しい別の衣服に着替えるように、自己も古びた身体を捨
ててあたらしい他の身体に入って行く。この自己を剣は切らず、火もこれを焼かない。また水もこれを濡らさず、風もこれを
乾かさない。この自己は切られず、焼かれず、濡らされず、乾かさない。恒存し、偏在し、堅固、不動な自己は永遠である」
行動の世界で、人は己の行為がもたらす結果を思い煩うなら、永遠の根源にたいする集中力を失ってしまう。しかし己の行為
とそのもたらす成果とを「生ける神」の膝に捧げるならば、供え物と同じようにそれによって死の海の束縛から解放される。
「執着なく、つねになすべき行為を遂行せよ。・・・すべての行為をわたしにまかせ。自己の心を念じて、願望なく、所有欲
を離れ、憂悶の苦熱を脱して、戦え」このような力強い洞察を獲得し、落ち着いて自由に振舞い、ウイラコッチャの恩恵が和
が手を通じて流れ込むのを活き活きと感じる時、英雄はその生業が屠殺業であれ、はたまた王であれ、恐るべき荘厳な「宇宙
の法」の自覚した搬送者となる。着慣れた上着を脱ぎ捨てる様に ビリーブhttps://www.youtube.com/watch?v=6LfvLyHqx1Y
-
ブラフマンいや仏教では編だ如来が編み出した正解いや世界だから求めれば阿弥陀になる空、それから枝分かれして法も変化
に変換されて此の世うになつた私たちの不味い煩悩も元を正せば阿弥陀の性格が影響している。暢気に南無阿弥陀仏と難解も
唱えれば救うのか?いい加減な阿弥陀仏貴方の不味い考えでこの世うになつた。でも阿弥陀さんが我々とたいして代わらん人
だと解れば、人のいい私としては何とか役に立とうと思うけど?頭も知恵もないし、阿弥陀さん皆でアートため息つけば少し
は気が晴れて空には満点の星の輝きがある風景だ。何で私が物々考えた元は、胸の所に金色の仏が出たあぽつ師匠が何か社会
に影響されたのか考えが唯物論のようで、仏が毎日でれば毎度コントロールされて唯仏論になつたのに残念、そうなっていない
でも此の世も元々の阿弥陀の応用というかパクリから出来ている法と思えば、即死してもあまり代わり映えのしないと思うが
正解いや世界だと妄想する。嘘でも何でも毎日現れればほんとになる。よくわからん正解は無とは何もないということでは無い
ようだし私の能力では無理解という事か、つまり私の頭や目や身で身ても一部しか身縁し?でも制感凝念じょう慮の先には三昧
の世界があると佐保田さんは言うし、まあ良いからまず落ち着かんと息を見つめる坐禅から始めるか初歩の初歩か諸法無我か
これが五日まで続くのだろうかまた先読みして
一番難しい
-
神話の力このような思想の脈絡から言えば、大宇宙(宇宙の水準)、小宇宙(個人の水準)、そして中宇宙(調和的な社会の水準)は
互いに等価です。ですから、個人を集団に結びつける社会思想と道徳の原理は、究極的には、彼自身の本性に属するものとみ
なされます。同様の理由から、ヨーガ行者が孤独の中で得た幻視的な認識も、彼自身の社会(つまり神話にもとずく文化的モナ
ドの中宇宙的秩序)を生み出したのと同じ心理的源泉に由来することになります。それゆえに古代の思想形式では、人間は宇宙
の関係において理解されており、「自然」と「精神」を対立物として捕らえる西洋的な思想様式におけるような、種種の葛藤
する目的と価値の緊張といったものはまったくなかったのです。聖書によって導入された「自然」と「精神」の対立について、
故鈴木大拙師はこうして述べています。「「ここでは」<自然>は<人間>にとつて敵対なものであり、神に到達しようと苦悩する
人間を引きずりおろすものである」。そして彼は「げに心は熱すれども、肉体はよわきなり」(マタイ伝)という聖書の言葉を引
用しつつ、こう続けます。「人間は神に敵対し、自然は神に敵対し、神の似姿(人間)、神自身の創造物(自然)そして神自身ー
この三者が総て戦争状態である」・・・三昧では無く三散なバラバラな結果にでも三角形のΔは散では無いでは
ダビデの星は?
-
Yahoo!知恵袋で検索しました。ふうん
https://www.google.co.jp/?gws_rd=ssl
-
失敗しました貼り直し ダビデの星不運
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1312624833
-
神が大川さんに流されてあのように夏ては小●し まあ色々事情があるし
-
中宇宙などないのじゃ。
-
いんも ある日弘覚大師は衆に示していつた。「いんも事を得ようと思うならば、当然ながらいんも人たるべきである。どうし
ていんも事を案ずる事があろうか」 道元 その主旨は「まつしぐらに究極の悟りに至る」という事をまずしばらく、いんもと
いう言葉に表すのである。この悟りの有様というのは、例えば十方にわたる全宇宙もこの悟りに比べれば、ごくちいさなものに
すぎない、というようなものである。だから悟りは全宇宙よりもなお大きいという事になる。我々自身もまた、かの宇宙のなか
の、様々な姿である。そうしたなかでどうしていんもがあると知られるか、それは私の心身がいずれも宇宙のなかに現われなが
ら、しかし私のものでないから、なるほどいんもになつている事がしることが出来るか。いんも訳は? 「そのように」「この
ように」「そのような」「このような」「ありのまま」「このとおり」〕・・ 考えてもみたまえ、この身はすでに私のものでは
無い、いのちは時の流れに流されて、一瞬も留まらない。・仮に真があるのならそれは私の領域にとどこおるものではない
それがいんもなのである。いんもなれればこそ、ふと思わず菩提心がおこることがある。この心が起こってみるとこれまで
考えあぐねていた事をさらりと投げ捨てて、いまだかつて聴いた事を聴いてみようと願い、これまで体得した事も無い事を体得しよ
うと望む。これはもはや私の仕業では無い。いんも人なればこそ、そうなる事をよくよく思うべきである。どういうわけでいんも人
であると知る事ができるのか。それが先の弘覚大師のいうように、いんも事を得ようと思うから(そのおもいはもはや私のものでは
ない)、いんも人である事が知られてくる。すでにいんも人の様相を備えているから、いんも事を心配する事は無用という事になる
。さらに踏み込めば心配する事も、そのままいんも事であるから、自然と心配は無くなるのである。またいんも事の中にもいんも
事があるという事に驚いてはならない。かりにびっくりして、これは怪しいと思う事がおこつても、それもまたいんもである。
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ありのままであればよいのじゃ。
余計な分別は要らないのじゃ。
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画餅 ・・・・まさしく全世界・全存在は悉く描かれた絵であるから、人も事象も、すべて絵より現われて、仏祖も絵より
成就するのである。そういうわけであるから、「描かれた餅」でなければ餓えを充たす薬はない。また「描かれた餓え」で
なければ、人に出会うことはなく、また、「描かれた充」でなければ力量は出てこないのである。およそ「餓えを充充たし」
「餓えないのを充たし」「餓えをみたさず」「餓えないのを充たさない」などはすべて「描かれた餓え」でなければ出来な
いことであり、またいえないことである。ともかく自己そのものが「描かれた絵」である事を参学すべきである。この大切な
主旨を参学するとき「物を転じ、物が転ずる」という働きを、心身に究め尽くしていくことができる。このような不思議な
働きが現われていないようでは、仏道を学ぶ力量はまだ成就していないと思うべきである。この働きを実現させることが、
「悟られた絵」の成就となるのである。?まあ絵画か幻実なのか現実なのかまあ何だ観だは日本語では学ぶに変わりは内師
経巻は環境◎だし観今日落ち着きのない朝今日は同地へ行こう.でもまあ良いか
ごめん私はお邪魔無視しても良いかな坐禅すれからたまに流れてきます。あまり書きすぎないように邪魔にならないように
気を使い、こんな事しかかけないのですけどスレがさみしくならないように不安雑草でも孝子さんファンの端くれだし
適当に案山子て下さい。でもため息ついて空の色がみんなと同じ洋にみえたらいいのになあ?まあ色々バラバラでΔには
奈良図でもまあ良いか これは孝子そんスレにコピー代わりに書いたのですスレ寂しくて何とか使用として
蟻のまんまはありがとう
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私も此処に古い落とされず雑草のように根強く居残っている。あっ ぽ師匠や大王さん鬼和尚さんが卒業せず
流年しているのも悟っているからと言うよりも此処地よく無理しないで居られるから何だろうなあ
批判されても此れが私の生き方何だよさあとりあえずは悪いのかで無理がないから続けられるのか
進歩は泣く手も辛抱は確か意味不明?というか其れしか出来内私も他保加言っても毎朝帰って苦しく無い
みんなさあとりあえずはまあ良いかで国刻と遅う時間の波乗り切っているんだ各々のやり方は違う様でも
雑草の根強いやり方がある自慢か?梅雨なのに毎日おひさまが出てひまわりも暑い日が続くで
暇悪りー ひまわり https://www.youtube.com/watch?v=TU5HOGQrixU
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実践を続けたらよいのじゃ。
雑草のようにのう。
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孝子師匠 無くした恋たちにやさしくなれたなら 人は本当の愛にめぐりあうはず と言っている。過去の自分の行為を
責めないでありのまま認めるという事なのか、そうすれば心が晴れるやで未来に会いに行ける。 ハレルヤ 貼れる歌詞
風が渡ってゆく 緑の草原を 流れる雲さえ 追いこせる気がしてる どんな言葉よりも 生命のきらめきが 世界を静かな
愛で洗ってゆく あふれ出した熱い涙の理由を 今大切な誰かと分けあいたい 迷っていた昨日までの私サヨナラ
輝いてる未来が手招きしてる 失くした恋たちに 優しくなれたなら 人は本当の愛に めぐりあうはず 寄り道をした分
きっと強くなれる スクラップの数 少しふやしただけ 髪にほほに降りそそいでる光 神様からのぜいたくなプレゼント
歩きだしたこれからの私にハレルヤ 終りのない青空が広がってる 迷っていた昨日までの私サヨナラ 輝いてる未来が手招
きしてる 歩きだしたこれからの私にハレルヤ 終りのない青空が広がってるー 晴れるや空が果て無い?い駄洒落か
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愛は雨のように万人に平等にふりそそぐものじゃ。
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・・・二つの息がこのように融合するまで、中央の門は閉じられたままです。つまりまず必要なのは、修行している
個人の意識(肉体の中にある意識)が、万物を生気ずけ照明する普遍的な太陽の意識と同じものとして経験される事な
のです。さもないと、精神は物質性の中に閉じ込められたままにとどまります。あるいはなんらかの超自然的な空想
に心を奪われて(宇宙は物質のみからできているのだから)魂ないし精神はどこか宇宙とは別の場所に探しもとめられ
るなどと考えてしまう事になります。不死に至る門を守る二つの恐ろしげな像は仏教の観点からすれば、単純に次の
ように解釈されるのでしょう。それは聖域への進入を阻もうとする外的な神の意識を表すのではなく、肉体の死に対
する脅迫的な恐れを表している、と。聖域に入ることを拒むのは、この人間自身の意志なのです。なぜなら仏教の考
えでは我々はすでに不死性を獲得しているのであつて、ただ現世的な目標に対する精神の執着のゆえのみに、われわ
れはこのことを忘れてしまうのですから。物質的欲望と恐怖(ゴータマ、シャムニー王子が仏陀の境地に到達した夜に
克服したのは、この二つの誘惑でした)のために私たちは(楽園)から皮肉なことにー私たちはすでにそこに住んでいる
のですがー自分を追い出してしまうのです。仏教の教えでは<楽園追放>などということは起こらなかったのです。ただ
精神が誤った焦点にむけられているだけなのです。・・・宇宙意識より。?私は本でまあなんだかんだばかりで体験な
重いしないと私はこの世うな書き写して誰かに見てもらっうんうんそういう事なのか安心したと思ってくれる人が
いるのか?それよりも長くすれば満足なのかそうでは無く今朝もうんこださないと便秘で気分悪いだけか
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何度も見た気がするのう。
記憶に頼り何度も同じ事を繰り返しているのが人間なのじゃ。
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凄いぞ丹波さんポシティブだあ。あの世では二十歳を限界にドンドン若返る事ができる。人間ピークだつた頃のルックスに戻れる。
最初から丹波さんの妄想総力は凄い?根が底部な人が死んだら暗くなる事考えたらついていけないけどきっと地獄の如きまずい
悪夢のような妄想世界が来るのは不味い、今のうちに明るく恐れない性格にと思うが、それは無理で?どうしたら良いのか私が気
を使う、とりあえず何でも居直る性格にも無理、いい加減にもなれずどうしたら良いのか私には良く解らない、自分で見つけよう
それしか無い。怖いものは怖いと思う事からはじめるか、私はその人で無いから良くわからん。では冷たいし。何か丹波さんの
影響が出ていてもう丹波さんもうあ軽すぎる本人は真剣にやつていてまともなのに本当に聞いてほしいくらい未知の人は聞きいれ
られないまじめな雰囲気がナイトこれじゃ不味いもつと真面目に以降。そうやあの世は思いのままの世界形も思いのままというの
か、それが一番自由困る何か決めて暮ナイト怖い世界まるだしやつぱ形や決まりを誰かに決めてもらわないと、自由な世界は困る
人ばかり。自分としては満足な丹波さんの霊なんだけど人の人の立場に立つと自己中心で高笑いばかり?
阿弥陀如来は編み物で何か絵を織り世界芸術作品を創りだす。夢中になつて今此処を編み出して行く。これは悟りとはなんですか
と聞かれた和尚さんが「ここに六斤の織物がある」と答えた本当の世界の答えかもつまり今此処が今夢中で編み出されていると
編み物を満足して編み終わった時は?如来は静かに過去を振り返って満足している
雨雨来る来る降らないで此処には降らないでニュースの中だけにして集中豪雨はこまるから集中力に欠けてホカホカに駆け回る
ほうが無事何か今此処は曇ってきたけどまあ大丈夫だろう 気おくれすることなく楽な法に行く人間駄者
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都合のいい幻想なのじゃ。
死ねば自分のしたこととしなかったことによって悪いところや善い所にいくじゃろう。
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諸法実相 ・・・雪峰義存がいうに「大地全体が解脱の門である。しかし人を引いても、容易に入ろうとしない」と。
こういう次第であるから、知るがよい、大地全体、世界全体がたとい門であっても、出入りはなかなか容易ではない。また、出入
するものは多くない。人を引いても、入りもしないし出もしないし、引かなくても入りもしないし出もしない。進むのは誤るで
あろうし、退くものは滞るであろう。また仮にどうであろう、人を進めて門に出入りさせようとすれば、いよいよ門は遠ざかる。
反対に門をとりあげて人に入れようとすれば、かえつて出入りできるようになる。先に挙げた経文の「方便門を開いて真実相を
開く」とあるように、その中の「開方便門」というのは「示方便門」ということである。「示方便門」と言うのは、時を選ばず
いかなる時でもありながら、しかも初・中・後の三際をたち離れている。その「開方便門」のまさしく開かれるという道理は、
十方全体にわたつて「方便門を開く」のである。まさしくその時、その十方に触れてみると、いまだかつて経験したことのない
光景が展開してくる。十方世界全体を、着実に一枚二枚、三個四個と取り上げて、方便門を開いていくのであるが、その際、ただ
ひたすらに方便門が開かれると思われるかもしれないけれども、実際は、量り知れないほどの十方世界全体が、わすかばかりの
「開方便門」の収得となつて眼の前に実現するのである。このような光景はそのままが、前に経文を示した「経に属する」の力
である。・・・ という事で今此処の私はお今日の中にいる非常に窮屈で門苦もあり不自由物物いうばかり、でもまあええ
世界全体我あるとしても蟻の飯しか身縁で故小○、あれ大きな○が私で小さな○が蟻で知らぬが仏の考案が?蟻を見つけると困
る別にたいした事は無いのだけれど見えんようにと蟻の巣コロリを置いた罪の無い蟻までコロリと殺巣のか?実は罪不快ご免な
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上の書き込みと全然関係無い何何だろう私の心は私の思う用に意数身の都合いや身の脅しには
弱いと今思う。まあ本能的に身を守るのは義務だし集中豪雨や松井さんのニュースも同じ本能だし
周りの社会友繋がつて色んな関係があるのかでもマリオネットで皆同じか
何かこき使われている漢字我?
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門に入れぬ者も入れたらよいのじゃ。
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今日は昨日だけど臨死体験した人の話を聴いた。その人は子供の頃熱病にかかつて死にかかったとき、綺麗なお花畑にまで
行ったそうだ。日本人はお花畑三途の川がお決まりだけど?外国では違うのか、共通するところは光を見るのか?それから
先は見た人いるのか?私は悲しい位身体が丈夫で煩悩も丈夫なのであの様の一歩手前は見られないのか?少し病弱な人が
うらやましいと思えた。でも病弱も大変で見られなくて善かったの画も。現代は物理的な時代だから常識や科学で解らない
事はなすと馬鹿にされるし、宗教家さえ物中心で霊のはなしはしたがらない。肉体が亡くなったら心も無くなるとい言わな
いと皆相手にされない時代で。色んな不思議な体験した人達は社会の片隅でそれは違うけど、何も言えないのだろうか。そ
ういう発言は此処では出来るはずどしどお願いします。発言の義務があり体験しない我々に話して欲しい。でも低級な霊は
得意げにベラベラ喋るしこのようなイタコの大川さんも居るし高級な霊はチーン黙々だし我々を静かに見守るだけだし
低きゅな霊は嘘八百です世なのか人が死でも心は亡くならないのは事実かもしれないから心が低級では不味いのではないか
道元さんは身心脱落と言うし全ての心身を脱したら妄想もなくありのままは姿あらわすのか?今朝は頭で考えてひねり出そう
としいるまあ30点か?気合が抜けてやる気がなくてもノルマで書いている。気もちも私の思うようにならず書かなきゃ
になっている。身心が疲れているのだ老化
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>>665の雪峰はまず基礎の凝念から初心者はやらないと先に進めないと言っているのですか
でも私はそれ以前のきょろきょろする心を落ち着かせ座る事から始めないと
入門以前か。兎に角ニュースきょろきょろの野次馬な私。豊田議員松井さん
そんなもの私には関係ないのにマスゴミは騒ぐし九州で私は南だし関係ない
のに北朝鮮のミサイルはなるようにしかならないのに?あなたはどう思うのか
とテレビは公案だすし、くだらないと思っても座れないひとは暇でだらだらと見る
碌なものではない?暇の内の少しでも座ればきょろきょろやめれば落ち着く世?
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そのようなものじゃ。
どんどん実践するとよいのじゃ。
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やっぱテレビやマスコミは人気取りで大衆の不平不満や気晴らしして生きているので、
視聴率一番で人気のあるサスペンス推理ドラマや安易なつまらない美女やイケメンが
主人公になり見ても暇つぶしにしかならないし払ティのお笑いもくだらなくても
テレビ見なければ酒のまなきゃストレスも解消できないご主人も居て、仕方なく金稼いで
生活のために拘束されて残りの余暇は気晴らしに使うのは当然で精神的に成長する余裕も
泣く、とにかく生きるためにこき使われる奴隷なのか?自由に生きるには道元さん悟った
ように一度人休みしてこの世に絶望してから心身脱楽した人が身軽にこの世に帰ってくれば
楽に見れる世で悟れるのか?でもこの世に住み慣れたら元の木阿弥でもまあ良いか?
悟り忘れないと普通の人は金稼げなく生活できないし今では無理か
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娑婆世界は皆死んでしまうサスペンスなのじゃ。
不死の境地に逃げるのじゃ。
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私は少し反省しないと、テーマがバラバラであちこちに飛び回っている、これじゃ相手の理解は得られない。私と仏の会話なら
同行でどうのこうの無いのだけど、人に理解してもらうには少し考えて纏めないと自分だけ良い気分でも相手にはよく解らない。
でも考えると何にも知らない私が何かを喋れない。また反省して自分らしく考えないで書かないと自分らしく無い、理解されない
事も同じ事何回もかけば難解も何だ何回も同じ事言っていると理解されるか、夢のような事も何回でも眼の前に現れれば現実と
思われるけどそれは幻実だ。結局自分でもよくわからんままあっと意馬に出鱈目書き込をみするか。間違いも反省しない駄目な
私でもいいからほつとけが暖かく見守っているしまあよいか。前でも後ろでも進むのは同じ用だ。あまり無理して反省しなくて
良い。まあみんなもわたしもそういう役なんだろう真理をネツトで意図に操られてお釈迦さんもそういう役でみな正しい運命
反省は去る不味い少し面倒て゜も面倒みるか?私はまるで実力ないので面倒見られる立場だから反省しなさいでも面倒
ホントは早く書き終えたくて長く書く早く子路にかかそれているネタだし明日から充実するか
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生死んが身える生だけの用事に使われて小○ 見えない○は知らぬがほっとけ
でも合わせれば◎だけど未知が道になる同の行の理屈はドウデモいいのだけど修行は?
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普通に書けばよいのじゃ。
普通が一番じゃ。
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出会ったすべてを信じていきてるただひとつ私が選んだ運命を
グンノース的イエスは言いました。「もしあなたたちを導く人たちが「王国は天国にある」とあなたたちに言つたなら、空の鳥が
あなたたちに先立つことになろう。もし彼らがあなたたちに「それは海の中にあると言ったなら」魚たちがあなたたちに先立つ事
になろう。しかし王国はあなたたちの中にあり、あなたたちの外にもある。あなたたちが自分自身を知るならば、あなたたちは知
られ、自分自身が<生ける父>の息子だと言うことを知るだろう。しかしもしあなたたちが自分自身を知らないならば、あなたたち
は貧困のうちににあり、あなたたちが貧困であろう」そして「私は彼らのすべての上にある光である。私はすべてであり、すべて
は私に由来し、すべては私に到達する。また「私の口から飲むものは私のようになり、私自信は彼のようになり、そして彼は隠さ
れたことどもが明かされるだろう」
「私は普遍的なアートマンである、私は全てである」と導師のなかの導師、あの偉大なシャンカラの弟子は、悟りを得
て叫びました。「私は超越的で、二重ではなく、関係づけられておららず、限界の無い知識である。私は純粋な祝福であり、分割
されない者である」そしてアシュターヴァクラ師は言います。「汝は宇宙全体に浸透し、宇宙は汝の中に存在する。狭量になつて
はならない」。神話的思考とそのイメージに普遍的に認められた特徴は、その隠喩的なイメージ全体にある種の同一性の感覚が
内在している事です。その同一性とは、現象を超越しているが、にもかかわらず゛世界という舞台の背後で対立する登場人物たち
を結びつけているようななものです。?自燈明法燈明心の灯ボケ2をほったらかし
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知識も宇宙もないのじゃ。
全ての観念を離れるのじゃ。
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宇宙の眼 昔読んだ本思い出して寝たがネタになってシマッタ夢が起きたら不味い。ベヴァトロン陽子ビーム偏向装置が
故障し、電子工学者のハミルトンは妻のマーシャをはじめ、他の7人の見学者らとともに、
磁場と放射線のエリアへと投げ出されてしまった。そうして、8人は1959年の別の世界で目覚めることになる。そこは、第二
バーブ教の神が支配する世界だった。この神は怒りの神であり、呪いの神でもある。同時に、救済の神であり、奇跡の神であ
る。呪いはただちに現実となり、天罰はすぐに現世にもたらされる。怪我をすれば奇跡によって直すこともできる。神は現実
に存在し、人々を見ているのだ。当然、異教は呪われる。 第二バーブ教の世界であることを除けば、ハミルトンがそれまで
生きてきた現実のアメリカ社会であることに変わりない。同じ同僚がいて、飲み屋があり、家がある。ただ、仕事の内容は変
わり、世界の価値観は変わっていた。 その世界の原因は? それをつきとめ、ハミルトンたちが第二バーブ教の世界を脱し
たあとに、また別の世界が広がっていた。どうやったら本当の現実に戻れるのか? 本当の現実に戻るまでにはどれだけの別
の世界を過ぎなければならないのか?誰かの妄想のような世界であっても、ハミルトンはごく普通の人間として、愚かである
と同時に賢い。人間として守りたいこと、守りたい考え、守りたいものを失うまいと絶望的な戦いを続ける。なぜ。なぜなら
ば、それがハミルトンだから。普通の人間だから。
?だからどうしたというのだこの世の現実は実話時進む幻日では無いの
か分かりすぎるとセリフ喋らされる役者の身がでてつまらんというし全くの現実では辛い世?わかるのか解らないのか
中途の道なのか未知なのかまあどうのこうのと楽しく位がまあ良いか
鬼和尚さんはドラマの中にいるのにみんなセリフ喋らされているだけの
つまらん役者と思うのかもう観念して
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どこでも悟りをめざせばよいのじゃ。
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千の顔を持つ英雄 2宇宙の循環 個体の意識が眠りに落ち込み、またそこから奇跡的に目覚めてきて夜の海上に浮遊する
様に、神話においてもイメージとしてあらわされる宇宙は無限的時間から忽然とあらわれ、無時間世界のうえに漂い、ふた
たび無時間的世界に消滅していく。そして個体の心身の健康が無意識の闇夜から醒めた白昼の領域へと流れる生命力の規則
正しい流れに依存しているようにのと同様に、神話においても宇宙の源泉はから流出する力の制御された流れによつてよっ
て確保されている。神々はこの流れを支配する法則の象徴的な擬人化にほかならない。神々はこの世の夜明けとともに生ま
れ、黄昏とともに消えていく。神々は夜が永遠であるという意味合いで永遠なのではない。人間存在のごく短い持ち時間を
尺度にした場合に、宇宙創世記の循環が{環を閉じずに}永遠に続いているようにみえるにすぎない。?私の脳力は殆ど
良くわからない脳の面積も小さく地球と比べたら蟻のままで宇宙から無視される師脳の飢えを見れなくイライラ宇宙脳
使えないでも良くわからない能力暗いが住みやすい野鴨。アスカさんみたいに薬で能力覚醒しても低級な妄想しか相手に
されないしよく分からないままに無理をしないのがまあコツコツ鴨
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ただひたすらに実践あるのみなのじゃ。
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テロ帽子法とは犯罪準備した時点で罪に問われるという、此処では罪が主人公なのか。罪がなければこの世では
帽子は取れないと言うのか?今朝は良いネタが無いので適当に申そうで絡んでいるけど私の主人公は早くても
行を増やせなので絡む意味があるのか疑問。犯罪準備計画なら推理小説やサスペンスドラマは計画行動を準備して
いるのではないか?犯罪を犯した人があのドラマのマネして犯罪を行ったと言ったら刺すペンすの人は罪にとらわれる
のか?ドラマ見たひとも少しは罪があるのか?罪はあるけど罰が無ければ警察からは許される。そこまで警察の人は
ご苦労に働かない。サスペンスドラマなんて犯罪的にいえば観るだけの行動までしているでも殺された人は痛く無い
ので遺体では無いと理屈つけるから良いのだ。ドラマの中で何人死んでも人口には影響しないしまあ良いのだ。でも
準備としられるのではないか?警察あまり真面目ではなく適当ところが良い世の中なので許される世。能力すごく
真面目なAIが警察官になったら頭の中までみられビシビシ妄想でも取り締まられる怖い世の中くるのか?いくら
ネタ無いからと要っても妄予想。妄想するひとは病院でお薬でいや近未来では脳神経いじって脳改造してみんな
世意人に慣らされるのか
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実践して気付いたことを書くとよいのじゃ。
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最近わたしは情熱が亡くなったのか寝たは用意してなく、起きてからどげんしようか?僧だ道元使用適当に思いついたまま書く。
道元さんは坐禅中ほかの僧が居眠りして和尚にたしか?「心塵脱落せよ」と怒られゲタで殴られたのを「身心脱楽」?と聞き
間違いで突然悟ったと本に書いてあった。ダジャレとか誤変換はくだらないようにみんな思うけど是は凄いのだと思うのは
私だけ誤変換の鴨で?でも香車厳しいさんも箒して意志を飛ばして竹に当たったつてカーンちがいで悟れたとか。とにかく
書かなきゃ長く出来ない。僧やなあ身心脱楽して観るだけなら痛い思いも無く身替わりロボットから幽体離脱状態で居たい罰
から逃れ人の仕事休みで呑気なんだろうなあ。空は青々して雲もほんわりで良い眺めなんだろうなああれ身は小さくて見えん
時間に縛られず暫く妄想で遊ぶかでも身替わりロボットが留守の内何するかわからん早く戻れのゲタの音がしたのか出鱈目
だなあ。悟りとは過去を許せば未来に自由に羽ばたける今○だしまとまりもないしでもただ長くしただけ落ちもないけど
まあ良いか 要するにダジャレ誤変換出鱈目妄想大切にしたいと言っているだけか
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心身脱落なのじゃ。
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我々が夢中になるのは何かやましい事してそれを忘れたい時?不安で怖くて忘れたい時か
何の不安もなく不満も無い時は何もやる気が無いそれが不満で また言葉遊びでため息ついてただやる気が無いだけ。
私はなんだかんだで楽にほんの仏に教えてもらいすぎでなんでもやり方は知っているつもりでも行動や修行は面倒で
自分でやれば出来るこなんだと言っているから世話わない。教えてもらつた言葉に価値は無く言葉にならない何かを
学ばないのか?向上心ないのか今日は日曜日これ以上書かないでも誰も攻めないけど?言葉になる以前?やましく無い
時も努力梨。それじゃどうやっても今は動きたくない。本や仏のせいにするな今朝はこれ以上書かんでも良い
でも何か詰まっている腸しが悪いのか腹がはるし甘酒買いに行こう
やる気が無いでも何か書かなきゃ精神が集中竹刀時の行念は辛い
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あああ何にも解りません。なんの力も無いし 何もやれないし 妄想も描かないし 何処で壁にぶち当たる私?
有能なスーパー身替わりロボット?それも疲れるか 今はこれくらいのいまだ世 今暇だしスーパーにパンと甘酒
何か腹に合わないと思うけど買いに行くか
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スーパ行って買い物したら金払いが自動販売機みたいに機械にお札入れなさい
になつていたびっくり。そのうち買い物かごはロボットに化けでお客さんのお供をして
後は会計は機械にお金入れるだけになるのかもとおもつた。もうすぐ無人
スーパが田舎にも来るのか
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鬼和尚さん相談ですが、
ちょっと腹が立つ事があって、地面を強く踏んで、足のかかとが痛いです。かかとを治す良い方法は無いのでしょうか?
後、友達が腰痛に悩まされています。何か良い方法無いのでしょうか?
素人Aさんこちらでの書き込みすいません。
-
湿布をはるとよいのじゃ。
湿布の上から軽くさするとよいのじゃ。
腰の痛むところより上にある凝りや痛みをほぐすのじゃ。
そして上下にさするのじゃ。
原因となるところが正しく見つかれば直ぐに治るのじゃ。
-
ありがとうございます。早速試して見ます。
-
全体性・部分・輝き 宇宙意識より 何とか三昧? 夢中の説明化 絵や音楽や詞や芸術?自然の風景?坐禅や名僧の中?仏仏?
アクイナスはこう言っている「『三つのものが美には必要である翻訳すれば、全体性、調和、そして光輝』となる」。全体性この
原理の機能は、みずから規定されかつ規定するような、実践とは関わりの無い、閉じた錬金術的な場を創り出すところにあります
それがどんな効果をもつかを見るには、何でもいいからいくつかの事物の集まりー例えばテーブルの上の品物の集まりを眺めて、
創造の中でその周囲に枠をおいて見て下さい。すると枠の中の事物の総てが「ひとつのもの」と見なされるでしょう。それはもは
や、いろんな用途をもつ無関係な事物の集合では無く、ある構成の部分であり、相互に関係づけられています。その枠の外にある
ものー例えばテーブルの部分は、いまや「他のもの」となり、枠の中にある事物のすべては一つのものになります。スティブの言
葉では、「君はそれを一つの全体として見る。その全体性を認識しているわけだ、これが全体性なのさ」というわけです。(続く
瞑想するには他の物に気がちらない基礎訓練はアートなのか?あれもこれもの今側焼き食べよう。私の部分庭今側があるのか
後は何使用か前前無駄な時間過ごすのだろうなあ。坐禅か五分位ならするか まず外は何も白い世界生まれる前のさあ迷い鳥
今は白い殻の卵の中にいる
-
>>691 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
-
(続き)調和 さてこのような構成ができると、次に重要なことーそして重要な事のすべてーは構成の中のそれぞれの
対象ないし事物が此処にあるのか、あちらにあるのかという事、つまり部分に対する関係、各部分の全体に対する関係、全体の各
部分に対する関係です。これが審美的な道具としてのリズム、すなわち調和です。その要素になるのは、事物、色彩、言葉とその
音、楽器、建築の部分とその比率などが考えられます。スティブンの言葉によれば、「君はそれの形の線に導かれ、点から点へと
眼を移してゆく君はそれを、その限界内で均斉のとれているものとして認識する。その構造のリズムを感じるわけだ」ということ
になります。輝き リズムがぴつたりあつたとき、人は喜びの中にとどまり、それに何か他の効用があるかどうかまったく考えま
せん。スティブンはこう言っています「君はまさにそのものであって、他の何ものでもないということを知ったわけだ。
〔アクイナス〕がスコラ学派の「クイッディタス」つまり事物の「そのものであること」について言つているの
がこの光輝なのさ。この至高の徳性は審美的映像が芸術家によつて感じられるものなんだ。こういう審美的瞬間の心を、シェリー
は燃え尽きる炭という美しい比喩で説明している。美の全体性によってとらえられ、美の調和によって魅惑されていた心が、美の
こういう至高の徳性、審美的映像の明るい光輝を輝かしく認識するこの瞬間こそは、審美的快楽の輝かしく静寂な状態だよね。
?これは本の○写したメモのこぴー◎だし朝からあつつで梅雨明けは南九州から北では来たにならなくても暑いのか
今坐禅より河童に夏たつもりで頭の上に霊薬の入った皿のせて少しずつ体に流れ落ちる妄想して
遊んでいる。何祖の法のパクりかでもタで降りーにコイルの様にカヌーで急流下りも楽しい
妄想でも気が散らない水玉でもやれるし山道をぐるぐるまわる私でも色々応用が効く、でも秋頭に五日続くのだろか?
-
体が全世界◎で妄想盤になつた 囲碁諦めたから瞑想して遊べる
?それは妄想と申そう 似たようなもの同じようなもの
-
美も観念なのじゃ。
より美しいと言う相対的なものでしかないからのう。
-
つまり認識された美がこのような諸感覚を照明し、精神を鎮め、心を魅惑する力をもつということです。「芸術は自然と相似し
た偉大な線を浮かび上がらせるという言葉を自分の座右の格言の一つとして挙げていたことを思い出します。周知のとおり、自然
は私たちの外部にあると同時にに、私たちの内部にもあるからです。芸術はこの両者の境界にある鏡なのです。儀式もそして神話
も同じであって「自然の偉大な線を浮かび上がらせ」、それによって私たち自身の奥底にある真理、
あらゆる存在と共有している真理において回復させるのです。したがつてこのような「本来的な」やりかたで仕事を
している芸術家は、その世紀の真の見者にして予言者であります。彼は生の擁護者です。生の擁護者でありますから、もちろん一
人の革命家です。その時代の社会的仮面を貫いてその背後にあるものに到達するという点において、単にもう一人の不自然な仮面
の名において舗道を血に染める狂信的な理想主義者よりもはるかに根本的な革命家なのです。」
?全体と部分とそれ照観する者がそろえば何でも生体と認めれば、宗教団体も政治団体も宇宙も国もスポーツも趣味も総て根本の
実在の視線が鑑賞すると思えば。総て存在するものは生命で夢を見ているとも言える。輝きが有れば芸術だけど?何かぐだぐたの
大衆演劇もあるしまあ色々な生命があるかも。まあ空間時間に描かれた色々な絵絵がと言えるのかも
古里はトーキーに有りて思う相対相対 鬼和尚さん閑念とは?
言葉があっても意味が各々違っている相対閑念して 私なんて意味不明の言葉の海に
?よくわからん言葉があってもそうたいした事はないか?皆も言葉だけで会話しているし
会ったら自分の考えの話か人の考え我慢して合図知うてば会話成り立つけど。
もの
-
単なる観念遊戯なのじゃ。
-
・・ひとりで菩提樹へ歩み寄りそこで<不動の地点>に身をおき東に向きました。そのとき彼の前に時間を働かす力の神が姿を現
しました。その三つの名前は「欲望」、「死」、「社会的義務」です。この神はその最初の様相たるカーマとして三人の華やか
な娘たち<欲望><歓喜><恋慕>を見せましたが゛祝福されたものはいささかも心を動かしませんでした。次に神は恐れを呼び起こ
す姿をとりました。たちまち食人鬼の軍勢が現われて、武器や火や山までも祝福された者の上に投げつけたのですが、釈尊はま
ったく動じませんでした。すると飛んできた武器は空中で花の捧げ者に変容したのです。最後に<地上の義務>の神ダルマ、この
世を支配する神が出てきて、詰問しました。自らの王国にまつたく無関心にそこに座っている権利がおまえにあるのか。と。す
ると未来の仏陀はただ右手を動かし指先で大地にふれただけでした。そのとき一つの声が天地に響き渡りました。汝のよこしま
な試みを止めるがよい。おとなしく去るがよい。その徳によってこの中央の場所に到達した<偉大なる存在>がその決心を捨てる
ことはけつしてないであろう。するとその神は、娘たちと軍勢とともにすがたを消しました。そしてその夜<祝福されたる者>は
(1)超越的なビジョンの眼(2)諸生の彼方にある生の智(3)万物が相互依存において生成するという縁起の法、という三つの
理解を得たのです。それゆえ彼はいまや「覚者」つまり仏陀の根源となりました。それから釈尊は世界の中にあつて目覚めた
ままとどまり神秘的な道の教師となつたのです。?写したけど私の書く行が詰まつている仏と蛇で仏陀あれ字が違う
詰まり下りいにクダラナイ
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なにやら妄想が激しいようじゃ。
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スピりちァるな先輩たちの妄想を学んでいるとあの世は自分の妄想は持っていけるようで思いの比重が多くなり例えれば
私は囲碁や将棋競馬はいまはやらんけど純粋に技術の向上を学ぶのでなく相手の石を沢山殺そうとか負けると悔しいとか
大勝ちすれば相手を馬鹿にして威張るし感情の妄想に支配される。これ全部横道で余計なものと思うけどきつたはつたの
ドタバタが私は好きで囲碁に品がないと反省する。この世の現実は心を収めないとあの世の思いの世界では悪い妄想の
怪獣に逃げ回る弱肉教職の世界になるのか。あれそれは私の夢の世界に怪獣が現れて私は逃げ回つて覚めてからああ夢で
よかつたと思つているでは無いか瞑想や坐禅いま竹刀と死んでから怖い世界になるのか?精力肉林の世界も浅ましいし
殺し編むの戦争世界は平和は無いし平凡な坐禅この世で修行ようかなあでも続かんなあサボるなあしょうがないわれわれは
南無阿弥陀仏やアーメンの法が簡単に罪は許されるのか信じるものは神にすくわれるかエホバの人はあの世でも他の人にに
説教して周るのだろうか?あの世のほうがカルトの宗教も支配しやすいのか?妄想する脳力があるからもうそうしているのだ。
今朝の長い夢も個の身の煩悩で遊びまわつている現実の反省が出た。あ損でばかりではこの世に観光に来たのか時間は
無駄らに費やされて観回り半だけ死んでしまったでもまたやり直せばまあ良いか。こういう人が普通の人だし多数決では
まあ良いひとだし一歩すすんで二歩後退よりはましか。今は囲碁上達諦めて暇なに使用か○○でしょうそれは明日から
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そうじゃ、日々精進あるのみなのじゃ。
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無と言っても全然何も無いのは無理だと思う。無と言うのは強烈に無理に頑張ってる人には無理しないと言う意味が無つまり
何も気にせず普通にコツコツと無理せず゛やる行為何かなあ。悟りも何も関係しない縁が無い人には悟りも絶対無理だと思う。
気まぐれや出鱈目も見えないものに縁があるので出て来るのかも気持ちがそれているだけか?私は書き込みする義務?しょう
もなくネタも泣く書き込むのは辛い修行○出し内容も内容、今は朝から暑いしクーラーかけないとくーらくーらするし熱中症
時代?損な時代もあった世あんな時代もあったねと 眼が回る生まれ変わるとか言っている輪廻転生か思考は空回りして
纏まりも泣く。ただ行を重ねて。五行か諦めて一休み人休みは身心脱落。にざるさんマインドとかいっも言うけどこの言葉
の説明も泣く意味不明で人それぞれで同じ言葉も意味違っていて行き違つている。あ孝子さんが私が観る海の色はみんな同じ
色に観えるのだろうかとラジオで言っていたつけ。みんな生き違ってもそれぞれに生きて行かなきゃならないしまあ生きる
義務がある。身と心は私と言う枝の所に視えている観えない幹からエネルギーが流れてマインドありがとう何行もうすぐ9行
全然バラバラで統合も泣く要するにいまやる気が無く書かされている 時代https://www.youtube.com/watch?v=ZFjMGG6Abic
中島さんの上から目線は何とかならんのか
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孝子さんは上から眺めていたのにいっのまにかくるりと引っくり帰り
下からから眺めるたり、下がいつの間にか上になる?技をわざとじゃなく
自然に身につけていると思う 一人で会話といかう問答できる人何だろう
ほかの人歌は一方通行しかないけど ⇔観える人なんだと思う
色即是空 空速是色 クールは涼しい夏のクーラー
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無になっても無を認識するものがあるじゃろう。
それが無くなればどうなるのか確めてみるのじゃ。
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支障差取ったら世界が内と?今は山中でまあよいかで。私の中の仏はまだ修行中で友に
考案や座禅や色々な煩悩修行の旅頑張ろうでネットで経碧眼六の考案にも取れ組んだ。
霊樹(れいじゅ)和尚のお寺は、もう長いこと首座(しゅそ:修行僧たちのリーダー)席が空席のままでした。
リーダーがいないと何かと不便なので、修行僧たちが和尚に誰かを首座に任命してくれるように頼むのですが、和尚は
その度に、「お?! たった今、我らのリーダーが生まれたようじゃな。」とか、「お!? 我らのリーダーは着実に
修行を重ねているようじゃな。」などと適当なことばかり言ってとりあってくれないのです。
挙句には「おお!我らのリーダーが行脚に出発したぞ!」などととりとめもないことを言い出す始末・・・
そんなこんなで20年以上が経過し、修行僧たちももう半ば諦めていたある日のこと、霊樹和尚は突然立ち上がると言
いました。「鐘を鳴らせ!全員集合じゃ!ついに我らのリーダーが来てくれたぞ!!」
修行僧たちは、とうとう和尚がボケたのだと確信し、暗澹たる気持ちになりましたが、仕方なく言われたとおりに集合
し、寺の門を開けてみると、果たしてそこには行脚中の青年僧が立っていたのでした。
霊樹和尚は彼を招き入れると、永らく空室だった首座室に連れて行ったということです。
?公案だし意味不明。けどそのときが来ればなるようにはなる?
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自分を追及していれば向こうから自分が来るのじゃ。
求めていたそれが自分であったと気付くのじゃ。
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ネタも内視?何か書かなきゃで独り事適当。私は素人なのだろうけど、無理に知ろうと竹刀?向上心は囲碁死んだ何も知らなくても
その時が来れば何とかにはなる文字文字しても業なんか考えなくてもその場の適当にまかせればどんどん進む?この技は何にも
知らなくても何とかなるという事を知っているという事なのか?ほとんど意味もなく行は進むけど是は悟りの道といえるのか別に
私は悟り何か欲しくないし、でもなぜ此処で書き進むのか、でも毎朝書いているし習慣か?でも何か気が合う会話が無いけど
一人で自問自答している様に思うけど?人との会話は相手が何考えているのかわからないし解るときもあるけど複雑で面倒
頭つかれるから兎に角一人で書く思い付いた適当なネタや前書いたメモでごまかすし苦しい修行はしないので上には上がれない
けど私はなるようになるので位置や図家でテストに向かうタイプでそれなりの点しか取れなくても留年しても良いのか鬼さんの
泣く事になる野蛇はまあ適当効居ていてその時だけ瞑想や坐禅するけど五日知らないうちに忘れてホカホカに目が行くしでも
ありのままの是が観察とか言って逃げているようで逃げて以内ようで無理しない無理しな一休み人休みまた一休さんの言葉に
逃げたそのネタは昔会った漫画の一休さんまあどちらでも良いか知らないまに何行九行で今朝の修行は終わり。
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死なない空駄のお中とおつてウンコとして出たのか死ぬ前の身鴨
でも栄養として観についたのだ 何でもめの前は教えて暮れる野鴨
でも私は可笑しばかりで観光ばかりで勉強は見るだけ修行は?まあ画絵か
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書かないでも実践すればよいのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
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仏性 ・・・全世界は悉く主体性そのものであつて、対象物は一物もない。今日只今のところには、第二物は無い
のであつて、ただ第一人のみである。「根源はすでに断ち切れているのに、人は気ずいていない。茫漠として業力
にひかれていく我々の意識はいったいいつ休止するのであろうか」。しかし実はそのままが仏性なのである。
全世界は、虚実の縁起による存在ではない。なぜならば一物も隠すことなくむき出しのままであるからである。
むき出しのままというのは全世界がそのままの存在であるというのではない。外道の誤った見解では、全世界は
悉くわれの存在であるというが、もとより正しくはない。また全世界は本来的の意味の存在でもない。なぜなら、
古えにも充足し、今にも充足しているからである。あるとき初めて現われる存在でも無い。なぜなら一つの塵さえも
加わることはないから。別々に別れた存在でもない。なぜなら全体が一つであるから。無限の過去から存在でも無い。
なぜなら究極ギリギリの、即近のところであるから。あるとき初めて現われて存在している存在でもない。日常の心
がそのまま仏道であるから。まさに知るべきである。このような悉く有るのなかでは、我々衆生は良い便りに逢う事
は難ずかしい。それは悉有の抜け殻である。このように悉有を得ているのであるから、悉有それ自体は透徹し脱落し
ているのである。・・?悉く或るは我々の記憶から脱落してて小さな修生の目がついて意ていま其処で働く用に
なっているサマーディの午前は銀の椀に雪を盛る?夏期氷食べたい
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鬼和尚さん人という者は、いや私か?例えば今までパチンコに夢中になり時間
かパチンコに縛られていた人が飽きてパチンコから解放されて暇で何していいいか
迷った時ただの座禅や瞑想すすめられたとしも其処からは逃げてほかの煩悩
色々探しだしあちこち力なく見て回るだけで昔に戻りたいと思うのだろうか
でもいつか瞑想しないと夢から覚められないのですか?あ質問出来たでも自分で答えている
不味いそんなことより実践あるのみじゃ
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どんどん瞑想すると善いのじゃ。
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囲碁諦めてから?色々なもの今休んで居る珍しく暇でも座らない私が坐るかいーすか数は数えず心で息の出入りみるだけ
眼は瞑っているけど椅子か朝は缶コーヒーのまないと書き込みネタは短くていーすか今朝だけは許す。何かそういう気分で
珍しい?今朝の夢は何か私は学校に入学させられていたつけ早くすわれ短くてもいい空すわろう缶コーヒー飲みながら
兎に角座ろう 禅のあーとで坐れた時間だけタタで消費したけど書き込み追加はあ蟻がいるコーヒー狙っているのか
蟻は朝から勝手にでてくる蟻の儘、何か書き込みつのい加今朝はまあええか兎に角何も考えない是が禅の基礎心を空にする
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そうじゃ、実践するとよいのじゃ。
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玉城康孝郎さんダンマの顕現より。入室ー皮肉骨髄の、髄の口開きて、如来、髄の芯まで透り給う。
まるがかえ、知らねど、だれかに抱えられる。
真夜、目覚めむ。トイレに立ち、嗽いして、再び床に入り、ダンマに任せているうちに、微睡はじめむ。微睡んだまま。
ハット気がついたら、これまでは脳幹ー脊髄系、つまり心から開かれていたのに、驚いたことに、尻から開かれて脳天
に及んでいる。いわば、尻から剣を差し込まれて脳天をつらぬいたよう。全人格体の中枢が、微睡んだまま微となり、
尻が口を開けていのちを吸い込んでいる。
?心から下りーにが尻からあがりーにで小周天は大周天となつたのか?私など初心者の解るはずもない、でも玉城さん
の真面目というか道でも良いキャラクターが気に入っている少しは坐るか。私は修行するのは辛い未知だけど
先に道をまっすぐ歩くひとはすぐわかる。でも迷いみちもまあ良い未知だし同じように認めるか適当一途なあまあ
それぞれみな好きな道を歩いている師ほうほけきょ
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なにやら妄想が激しいようじゃ。
哀れな事じゃ。
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・・・キャンベル「ええ説明はちょつと難しいのですが、私は彼女自身が苦しみの原因であること、なぜか彼女がそれをもた
らしたのだと言うことを、彼女に信じさせたのです。ニーチェにアモール・ファティ〔運命愛〕という重要な観念があります。
自分の運命を愛したまえ、それが自分の人生なのだということですね。ニーチェが言うのはもし君が、君の人生のうちにたっ
たひとつの要素でも否定するなら、全部をバラバラにしてしまうことになる。さらに状況が困難だつたり恐ろしいものである
ほど、それを克服した人間像は偉大なものになる。君は悪魔を飲み込むことによつて、その力を我が物にする。人間の苦しみ
の大きさに応じて、人生そのものも大きくなる。いまいつた私の友達は、「すべて神様がなさつた事だ」と思っていました。
「そうじゃない君が自分でしたんだ。神様はきみの中にいる。君自身がきみの創造主なのだと」と私は言いました。「もし君
のうちに苦しみの発生源を探し当てたら、君はそれと共に生き、それを肯定し、それを楽しむことさえ出来るかも知れない。
君の人生として」と私は言つたのです」・・「生は総て苦である」と仏陀は言いました。ジョイスは「人生はそれを捨てるに
値するものだろうか」という一節もあります。・・・ ?同の行の言ってもほっとけーと友に有る苦この世うなまあ良い旅
私に何が案山子ているのだろうか?何の役にもたたない でももうそうしているし
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無意味な信念を植えつけて何がしたいのかわからんのじゃ。
盲人が盲人を率いればみんなどぶに落ちるということわざ通りなのじゃ。
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僧「達磨が中国に来たのはなぜですか」長州「庭先の柏の樹じゃ」 僧「さあ庭掃除にでかけるか」僧は諦めたのだ
めでたしめでたし。今朝は長いの諦めよう何か気合不足、暇なときと書き足すぞ、それがよけいなんだよ?阿部首相は
何か決断したようだし何か土下座ならゆるされないしまさか北に挑戦するのは予想、トランプも切り札ないしまた長く
使用としているあきらめが空回り空気と水蒸気が回っているのは台風五号うろうろして進まない迷っているのだ意味もなく
漂っている。諦めるか ありのままの自分を見つめているカラー空回り
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自分のしたこととしなかったことだけをみるとよいのじゃ。
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私は少し反省しないと、テーマがバラバラであちこちに飛び回っている、これじゃ相手の理解は得られない。私と仏の会話なら
同行でどうのこうの無いのだけど、人に理解してもらうには少し考えて纏めないと自分だけ良い気分でも相手にはよく解らない。
でも考えると何にも知らない私が何かを喋れない。また反省して自分らしく考えないで書かないと自分らしく無い、理解されない
事も同じ事何回もかけば難解も何だ何回も同じ事言っていると理解されるか、夢のような事も何回でも眼の前に現れれば現実と
思われるけどそれは幻実だ。結局自分でもよくわからんままあっと意馬に出鱈目書き込をみするか。間違いも反省しない駄目な
私でもいいからほつとけが暖かく見守っているしまあよいか。前でも後ろでも進むのは同じ用だ。あまり無理して反省しなくて
良い。まあみんなもわたしもそういう役なんだろう真理をネツトで意図に操られてお釈迦さんもそういう役でみな正しい運命
反省は去る不味い少し面倒て゜も面倒みるか?私はまるで実力ないので面倒見られる立場だから反省しなさいでも面倒
自分のしたことしなかった事だけではネタ不足で長くならないし、人見きょろきょろそれはさあとりあえずはまあ良いか
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もっと短くかくとよいのじゃ。
俳句みたいじゃな。
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ヨーガ根本経典には、制感は本格的瞑想修行の凝念・じょう慮・三昧の準備と
書いてあった。それは佐保田さんの意見か?でも椅子にすわつて制感が深まると
先の修行のエネルギーが無くなってる?それは私が元から修行やる気がないからなのか?
ほかの人はなぜ先に進めたのだろうか?やっぱ欲ないと良くないのか?
なんかやる動機人生の悩み?迷路から逃れようと思う心身?また長くしようとして
俳句は肺来る死身が必要。だめだ今朝は迷路に嵌まった。静観トンネルの中は心安らかで
夢見る事もない。別に意識して長くしていないただだらだら書いた結果いつのまにか長くなり
気が付いたら時間無駄に使っていた。この先にギョウネン続ける気はなく先はほんの少し静かに座ろう
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それでよいのじゃ。
何の欲も無くただ座り続けるのみなのじゃ。
そこに深い瞑想の境地もあらわれるのじゃ。
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阿弥陀・毘盧遮那仏・ビシュヌ神パクリ合い同じか?ショーペンハウエル書かないとでショーペンハウエルは大胆かつ真に
優れた論文「個人の運命に宿る意図らしきものについての超越的思弁」の中でこの観念を取り上げ、次のように述べて
います。自分の後半になつて自分の生涯の歩みを思い返すと、その当時は偶然と見えた出会いや出来事が、自分の人生を
築いていく決定的な要因になつたということ、自分は人生を意図的に作り上げたわけではなく、これら出会いや出来事が
自分に潜在していた可能性を促し成就へともちきたらせたのだという事にきずきます。すると自分の人生行路がまるで
巧みに構成された小説のようだ、という抗しがたい考えが浮かびその作者はいつたい誰だろうと自問します。さらに
自分自身の人生の形成が大部分偶然的に出会った人々によって作られてきたのと同じように私もその人々に影響を及
ぼしたにちがいないことを思い出すのです。実際、世界史のコンテクスそのものがこういった相互的影響が織り成す
広大な網の目なのであり、時間を通じて展開する人々の運命によって構成されているのです。さらにその相互作用とは
人間の人間に対する影響だけではなく、また被造物およびあらゆる種類の偶然をもつ自然世界をも巻きこんでいます。
夢の中では予期されない出来事がーそれは偶然的で、時には悪夢の場合のように恐怖を起こさせるものですがー
実際は、隠れれた意図に従って構成され統制されている脈絡に属しています。?にちやんも網多のインターネット絡み愛
迷走している私も網駄の中の結び眼なのか
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後から考えると皆そう思えるのじゃ。
競馬も囲碁も終わってからならば簡単に勝てたように思えるものじゃ。
後知恵なのじゃ。
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超訳【無門関】の本文コピー 第16話 鐘が鳴ったら食事の時間 原題「鐘声七條(しょうせいしちじょう)」
食事の合図の鐘が鳴ると、坊さんたちは皆一斉に外出用の袈裟(七條)に着替え、ぞろぞろと食堂に向かいます。
それを見ていた雲門和尚がぽつりと言いました。「世界はこんなにも果てしなく広がっているというのに、
君たちは何でまた、鐘の音を聞くと、いつも決まったように袈裟に着替えるのかね・・・・・・」
仏さんたちも空見た事かとのんびりばかりで、さあほつていると修行にでる鐘がなると船に乗せられこの世うに
氏名されてて来たのか?やる気の無いほとけや、政治の理想に燃えた仏や宗教家等色々な役でこの世で働け。
それは真理ませんと?でも自然に良くわからなくても前かで、みんな立場がわかっているような分からないような
盲このように行くしかない?押し出された観点か?けつきよくあなたの夢をあきらめないでこのようにでがんばれ、
遠く空応援する歌あなたの夢をあきらめないで またあ自然に分かつてくる歌がいなくても歌がある。我々は
この世海栗して喜多しこの世で金縛りに会う役で悟り何手困難で諦めていいのか?悟りなんて事場にしか
存在竹刀し私は僧では無いし諦める運命の役だし?役に責任を押し付けてしまうしなるようになるに
逃げているなるようになると逃げているけどまあよいか?もうホットケーキ食う即是食?
夢をあきらめないで https://www.youtube.com/watch?v=6rByj71yURY
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たまにはラーメンやカレーを食べに行くと善いのじゃ。
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チベットには「他人を見る目は持っているが、自分を写す鏡が無い」という諺がある。この諺どおりもしも自分
の中に人に対する本当の慈悲が芽生えるのを望むなら、まず自分自身の欠点を観察し、それをよく自覚することが必要だ。
それから、心の中で自分を他人の立場において、そのひとの実際の状態はどんなものか、しつかり見つけ出す必要がある。そ
れを可能にする唯一の方法は正しく覚醒と知恵を保ち続けることだ。
そうでなければたとえ広大な慈悲を備えているようなふりをしたところで、いつかは慈悲など、本当はまつたく
一度も芽生えたことがないという事が、はつきりする時がやってくる。純粋な慈悲が本当に生まれるまで、自分の限界や障壁
を乗り越えるのは、まったく不可能だ。しばらく修業しているうちに、自分は「神」で、自分以外は「悪魔」だと考えるよう
になってしまう修行者も多い。それは自分自身の限界を肥大させ、自己への執着と他人への憎しみを膨れ上がらせるだけの事
だマハムドラやゾクチェンについて沢山のおしゃべりしたところで本当は細部にいたるまで世俗八法のとおりふるまう専門家
になるだけの事だ。それはいまだ真実の慈悲が生まれていないことをはつきりしている。?私の異見書く行が無い、何か不満
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自分を観るのが修業なのじゃ。
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世界を編み出したたった一人の人も大変我々も大変なのは同じというか、世界は一つのがメビウスの輪が数珠を繋ぎ絡み会って
演技している数珠が私たちとして身得ている野鴨。阿弥陀や毘盧遮那仏も伸ばせば1個の輪空内に?(続き)この意図はその人自身
の意図(糸?)には違いないのですが、「夢見る意思は別な立場から出る意思」なのです。これと同様に私たちの人生という夢
〔ないし悪夢〕は私たち自身の隠れた意思の産物です。しかし夢と人生の総ての絡みあいはあたかも単一の上位の脈絡に属して
いるように思われます。そうしショーペンハウアーは言います。「かくして現実的な一種の<予定調和>によって各人は、
彼自身の形而上学的操縦に従って自分にふさわしいことのみ夢に見、かつあらゆる人生の夢は人為的に入りくんでいるので、
各自は自分の都合のいいものを経験し、同時に他人に必要なことを実行するわけである〔・・・〕」そして彼は論文の終わりに
次のように示しゅん?します。「また人生という大きな夢の主体はある意味では唯一のもの、生への意思であること、多種多様な
現象は時間と空間〔<生への意思>が形をとる形態発生的な場〕〕」に条件づけられていること、などを想定するならば、
このスケールの大きな思想を前にしてひどくたじろぐことも無なるであろう。それはかの一つの存在者が夢見る大いなるゆめ
であるわけだだから一切は相互にからみあい適合しあうのであろう」 ?眼美有珠の阿弥陀が絡み会って居ると言う私の意見
言えた。空身愛か 相対性理論?早退総体 データー裸眼か 迷路も一筋のメビウスの輪
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世界だけでなく全て一つなのじゃ。
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グンノース的イエスは言いました。「もしあなたたちを導く人たちが「王国は天国にある」とあなたたちに言つたなら、空の鳥が
あなたたちに先立つことになろう。もし彼らがあなたたちに「それは海の中にあると言ったなら」魚たちがあなたたちに先立つ事
になろう。しかし王国はあなたたちの中にあり、あなたたちの外にもある。あなたたちが自分自身を知るならば、あなたたちは知
られ、自分自身が<生ける父>の息子だと言うことを知るだろう。しかしもしあなたたちが自分自身を知らないならば、あなたたち
は貧困のうちににあり、あなたたちが貧困であろう」そして「私は彼らのすべての上にある光である。私はすべてであり、すべて
は私に由来し、すべては私に到達する。また「私の口から飲むものは私のようになり、私自信は彼のようになり、そして彼は隠さ
れたことどもが明かされるだろう」(つづく)ほんとに台風がくるのかまだそよ風だしでも油断大敵 雨漏り心配
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翻訳がおかしいようじゃ。
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生命とは?生物学的定義の言葉では生きているとは生物で死んだら生物として時間空間的に社会と科学宗に決められて、
宗教の言う生命の意味は表だつては認められていない。社会では経済と金が威張って価値がある。本来自由な芸術も
金儲けしなければ貧乏になり生活が苦しいし金と世間に縛られて自由も泣く宗教家も社会に気を使い自分の意見を堂々と云
えず自信なく生命の問題を避けて叫べないで何か逃げている。宗教家が社会に気を使い妄想と思われるのを恐れてどうする
恐れない低級なカルトの人々は大声で妄想を叫んでいるのであの人たちと同じであると思われるのを恐れていて良い人思われ
たいと思つている?人格者と思われたいのか、自分の意見もなく情けない?人間の良いところは妥協して仲良くする日本人
縛られすぎるのは不味いのではないか。生命を縛つている縄をほどく仏も無視されて生物しか生きているは認められない
でも山や川生きていると、石女も人の見えない所で子を生むし、山も自由に歩き回るし、台風も生きている地球や宇宙も
生きていいてちゃんと万有引力の法則守れる知恵もあるし、クールで叫ばない孝子さんも革命家みたいに自由を叫ぶ師、
形のないものを信じられずモラルだれが残つたの意味が分かつた。周りのルールに自由も縛られていたのだ、全てのものが
生き生きと生きていると叫ぶ野獣の叫び リベルテ(自由)https://www.youtube.com/watch?v=Ex6hZxlyfcY
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いきものといものでないものは同じものなのじゃ。
石にも意識はあるものじゃ。
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台風は盛り上がりも無く長いだけで通り過ぎたし。今朝の夢もドタバタで何かわけわから所で働かされ宴会で何か
スピリチァル人の席の分類を選んだし私はそうではないと思って席についたら周りの人は哲学者的に顔も暗い。?
宇宙始めた人最初の制感は無かったのか如何か?まあ物理的には何もないけど心理的に心は色々あつたのかどうか?
色々あったのなら輪から内にいて輪の外に悩みがあって宇宙妄想を求めたのか?それ友解らない存在の謎を
仮想現実の宇宙に存在の答えを見出そうとし宇宙を想像し観察し始めたのか?でもそれがメビウスの輪だったらは
輪の外は解らないで?私も何書いているのか意味不明で兎に角静かに観賞するか?私たちと宇宙創造者は数珠繋ぎ
になり一つの糸の輪が今画家がつて一つ毬いや真理となりコロコロ転がって何が何だか輪仮真撰?でも宇宙の創造者
が他何も無いから始まったのなら孤独に耐えられなかったのか?いや孤独と言う考えもなかったのか?それなら我々
は創造者の孤独を救済したのかも。でもそのおかげで我々は苦しい眼に有っているのか?頼りない我々が着いている
カラー創造者少しは安心使用。何書いているのか今あとかたずけで忙しいし店の回転準備もしなければ風の後始末だ
でも忙しい中意味不明でも書き込んだし後も忙しい。結局誰も正解なんて輪空内で居直るしか内。正解は解ら無いで
した。早く書き終え路跡が忙しく待っている。後始末が山の様に待っているほどではない。頼りないブラ不満我々か
ついているカラー
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実践によってのみ人は進歩していくのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
-
実選によって今まで見えない所が少しずつ観えるようになるのですか?
私なりに私らしく少しずつ少しずつ前に進みますか
-
虹と水晶 ・・・ミラレバはこう言っている。「心もそらも空虚だから、心の本性はそらのようだと言う事はできる。だが、
心は知性を持っているのに対し、空はそうではない」と。悟りとは宇宙に関する知識ではなく、宇宙の本質を生きる経験に外
ならない。そういう生きた経験を味わうまでは、色んなたとえを頼りにするほかならない。だがそのおかげで、そのたとえが
持っている限界にしばられる事になる。土台は、これから説明する不思議な物体のようなものだ、と言ってもよいだろう。
その物体が白くまるみを帯びている、と言えば、それについてのイメージが得られる。だが翌日になつて、それを見た
別のひとが説明するのを聞いて色も白というよりは真珠貝の色をしていると言えばそう考えるようになる。そんな説明を五十回
聴いたところでその物体に関して少しでも考えが深まるわけではない。だがいつたん自分で見ればどんなものかはっきりわかる。
・・要するに百聞は一見にしかずか?百文は瞳にしかず?でも観れない人は例えば本のすこしの向樹心を便りにするしか内化
やり方は今は本やネットに色々書いてあるけど宗教団体はただの仲良しの集まりだし、今では一人でやる気があるかどうかが
問題?私はといわれれば修行嫌いで勉強きらいでサボりまくり何故か夢の中で修行させられている野鴨。朝の書き込みも仕方
砂漠に楽だにのり適当に書かされている修業の一つ鴨。起きてからも適当な観察しかなくだらだらの一歩一歩有るかされている。
本との知性とは体験な想いが無いと役立たんしまあ何だカンだなら役立つ体験鴨。でも読書百変意斧図と通ると百聞は一見に
しかず??はてなまあ何打カーンなのか中々竹に意志が当たらない今日は厳しい作為的な朝 辛い事の後の体験な悟りなんて
いやだ。何時までラクダにのるつもりか、少しは降りて有る苦砂漠嫌だ
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そうじゃ、日々行うことで見えなかったことも見えてくるものじゃ。
自分で認めようとしなかったこともわかってくるものじゃ。
実践によって確めるのじゃ。
-
昨日から腰がギクッとするギックリ腰になったのか兎に角動けば何するにも痛いで書き込みどころでは無い。最近私の思う
ように体とい船が操れない。何か身得ない船頭さんが居るようなきがする。少し私が修行やるきが出たと言ったらその人は
喜んだのだろうけど、私のことだから煩悩も大切な時間と復水煩悩に帰ろうとして何か腰が痛くなったのか?書くのもてたた
で道元さんは修業する心が出来てくると煩悩の中にいても自然と煩悩しなくなると言うけど、あれうそ煩悩に帰るといてての
罰をうけ煩悩出来ない様に指導がいるのか、私は見破ったのだ見えない人の思うようになるかで舟は船頭さんが二人居る
状態であっちいったりこっちいったりで行きますか。でも仲良い時は仲良いし適当に行くか。もう一人の人がいつまでも
まつ人なら良いけど?そうすると私がいつまでも甘えて、僧ではないので修業は進まんし?昔見た夢に暗い所進んでいくと
飲み屋がある所が何か神社になっていたのがあつた。飲み屋のほうがカラオケや年取ったねえちゃんもいてワイワイがやがや
でいてて、この先も私のことだからたいしてかわらずカジノとりあいで舟は少ししか前に進まないぞ?でも師匠たちは
舵の取り合いなどくだらない事はしない。いや今でも取り合いでも何とかかんとかで皆生きていると思いたい。
?柏樹子 ・・じょう州の真祭大師にまた一人の僧がたずねた。「柏樹には仏性がありましょうか、ないでしょうか」大師が言
つた「ある」僧が言った「では柏樹はいつ成仏するのですか」大師が言った「虚空が地に落ちるまでまて」僧が言った「虚空
は何時地に落ちるのでしょうか」大師が言った「柏樹が成仏するまでまて」・・・?で上がりーにくだりーにで、私待つわ一
までも待つわも、待つわ https://www.youtube.com/watch?v=FdcCRONyTI8 いてて いてて やつぱ運動不足か
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今の時代 国と人々を権力で支配しているものは、核兵器と金
でも生命は人が生きても死んでも生き続ける核も金も叶わないと思う
でも食物も女の人も生きている仲間たちや子供たも死んたら過去の思い出の
心の中に生きているのですかか?それを今信じるしなない 最強の師は死を恐れない
でも恐れてもいいけどそうなると北挑戦核はあるけど金は名ばかりだけど
恐ろしい敵なのかも、トランプの切り札きれず?今日の長崎の原爆投下の日に
アメリカの核の傘の今の日本では安倍首相は恥ずかしくて出れないと思うけど
我々も核と金に守られて平和になつたし情けないけど受け入れて生きるしかないと思う。
団体は権力の威厳がなければ混乱しかないし、宗教団体も権力と威厳があるところは人気がある
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思い出ではなく意識として常にあるのじゃ。
それを知らなければ有為転変する個我として見てしまうのじゃ。
全ては不死の意識なのじゃ。
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さあそろそろ書かんと如何昨日よりだいぶ痛みは改善したけどもスローな朝で時間に遅れている。やる気そんなのあつたのか、
ため息つきながらすってはいて動の行の前に写した本うつすか。終わったら店の掃除や用が今日はサボろう元気は明日体?
禅語百選 把手共行 手を把って共に行く 仏の実在を信じ、そのおしえを学び、ともに手をとりあって人生を旅する仲間を
同行と呼び同朋と懐かしみます。四国遍路や西国巡礼の旅人たちは、たとい一人旅であっても「同行二人」と笠に記します。
自分以外の一人は弘法大師であり観音様です。禅者はこの同行を特に、どうあんと呼び習わしています、同行は師となり先輩
となり友となって、影と形のようによりそって修行にはげみます。つくしんぼうのように、どこか見えないところで、こころ
とこころが繋ぎあっているのです。人間と人間だけが「手を把って共に行く」のでなく、ほとけと人間、ほとけとほとけが、
ともに手を把りあって旅をつづけるのです。ほとけと修行者は、横に並んで歩くときもあり、前後になりあうときもあります。
同行は現実に同行する友だけではあのません。苦悩にあえいでいる自我の心の奥底に潜んでいるもう一人の友でもあります。
彼の名を自己といいます。人間とは現実の感性的自我と、本質的自己の同行の二人の存在です。
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自分も自我もないのじゃ。
同行無人なのじゃ。
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悟った人たちは死後にちーん黙々でも平気何だろうけど.さあとつても良い我々はは現代の社会教育で死後の話題は無しで不安だ
がそれは禁止で社会の話題や暗いニュースやテレビや不満ぶちまける井戸端会議でストレスを解消する庶民に救いはないのか?
そこへ進行宗教の罠も笑っているし.われわれにちやんのぼさーつとしている人は死後禁止でなく人の良い私語が信でも続ける
ように会話使用。今は昔なら常識が無視されて虚無が支配して良いのか。今実用的なものばかり大切にし前進するだけでは不安は
無くならない。私語も至難の会話はあると丹波哲郎さんの例のサイト呼び足そう。丹波さん無邪気で良い人だし私心も無い師.
また師匠に正統派の仏教とは関係ないと言われても?よそ見散毎の私ぼさーつとして部今日です空高倉健。
少しくらいの出鱈目あつても我々明るくなる輪廻転生◎だし。我々は大乗部我有る師でも底に甘えてもまずいいか?どうせ
宗教はガリレイにまけたしそのうちAIが苦し将来の輪廻転生はろ没と受け入れれば大乗部でもロボットのレベル高すぎるか
レベルの低いろ没ともいれば良いか。
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?モイヤー「科学が人の現実認識を決定するような文化社会に生きてそこにおける神観念に縛りつけられている人の場合、
シャーマンたちの語る究極の場をどうすれば体験できるのでしょう」キャンベル「でも人々はげんに体験しています。
中世のその体験した人々はたいてい異端者として焼き殺されました。西洋で最大の異端のひとつはキリストが「私と父なる神は
一体である」と言明した事です。キリストはこう言ったために十字架にかけられました。・・・また別のスーフィー神秘家は
「正統派の使命は屈辱と死を通して神と一体化したいという神秘家の願望を満たすことだ」と。モイヤー「いまこの経験の
根本を崩しているのはなんでしょう。」キャンベル「多数決のルールは政治ばかりでなく思考の領域においても有効だ、
と決めつけているデモクラシーの性格ですね。言うまでもなく思考に関しては多数派はいっも間違っています。この種の事柄
では、精神に関しては多数派がなすべき事は衣食住や子供や財産なんかを超越した体験をした人の言葉に耳を傾け、
心を開くように努力することなのに」遊びに来たけど絵画は素人で何も書けないでもAA悲しい
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神などいないのじゃ。
その観念から脱却するとよいのじゃ。
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我々は団体になると意見は合わず、妥協と争いの中でまとまらない
何かの力の権力で団体や国はまとまる。昔は神という権力者でまとめていた
今の人々は多数決でも科学が核兵器を連れてきて核の権力には叶わないし
このままでは北挑戦は核実に手に負えなくなるしどうすればよいのだろう
でもなるようにしかならない みんな怖い現実に眼を背けているし昔から
そうやって人間は生きていたしなんとかはかんとかになる
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日本語は駄洒落を作るのには便利な機能だ。例えば無いという言葉を内に変換して世界を出鱈目なイメージで妄想する。正解に
たつた一つの魂我あるとして、その世界を現す機能つまりハードは玉の中にあり?玉の表面庭色々な(穴多?)がまるでプラネタ
リュムみたいに輪多枝(私)がありその穴の一つ目から空(から)が観える?身得る風景は私の目で見ている風景。つまり宇宙で一
つ魂今此処を見ているのか?だから玉の中見ようとしてもコンピューターの機能みたいに法則を決めているのか時空の法則も
そこで決められる。後は玉の表面に色々な思いが移る空。中々中は身縁?縁が内?つまり無いのじゃなくて内蔵しているけど
見えないのか欲輪借らん。世界は一個の珠であると玄さ和尚は言う師、解らない答えは輪空内にあるのかも知れない
穴多は片手の人の拍手の音声を聞いて来い? 求めるのも元の眼が今此処を見ている同の行の何時手もまあ良いか。行が
短い何か適当につぎたすかで ?三界唯心 玄沙宗一大師が、地僧院の真応大師に問うていうに、
宗一「三界唯心について、あなたはどう理解するか」と。
そこで真応は椅子を指して言うに、真応「和尚は、これをなんとよばれますか」
宗一「椅子」 真応「和尚は三界唯心を理解しておられません」 宗一「私はこれを竹木と呼ぶが、あなたはなんとよぶか」
真応「わたしも竹木とよびましょう」 宗一「全世界に仏法を理解している人を求めても、一人も得ることはできない」
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椅子は椅子ではないのじゃ。
そうであるから椅子と呼ぶのじゃ。
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ほんと修行の時間が本の少しな私だけど、珠には良い事下記写さないと存在価値も無いで、真空不空(真空は空ならず)
「般若心経」に、「色即是空」「空即是色」という有名な教えがあります。色というものは総て実体が無い空である。実体が
無い空であるという事が物質的現象なのである。???本に抵抗しても損な永遠の時間を基準にしていいか本の少しの時間
生きているうちは実大があるでは無いか??素直に読みなさいでも何か難しく本は書いて有るもうどうでもいいところは
飛ばすか・・・ようするに偏ったら拙いと言う事で空だけでも困るし色々な夢ばかりでも拙いしお互い同の行の旅が良い
という事で色即是空空即是色。本から脱線しているようで適当に外れないのが良い。まだ短い引き伸ばさないと?
仏教の坊さんや哲学関係の人はよく実態が無いと言うが、本人は本とうに理解出来ているのか?私にはさっぱり伝わらない、み
んなも解っているのだろうか諸行無常で時間と共になくなるから?物は色々な法則の集まりで出来ているから?さつぱり伝わら
ない何でか私の頭悪いからといわれても困るし、物は永遠に存在できないといつても今の瞬間には有ることはあるし、実態とは
誰か教えて?もう絵画かそうかアート何かそれが実態に活きているのが実態の様な気がするけど、何か解らん所からこんこんと
湧き出してくる水のエネルギー?何か解らない。実態という言葉に頼るのはよそうわからんでもいいか。みんなで一生懸命劇を
楽しんでいる時?劇は劇場と役者と観客と台本を書く人たちが集まって出来るものといつても?そんなものは実態は無いと言う
坊さんの台詞で、そんなものはアートでもなんで゛も無いか?みんな生きても新でも生命活動で活きていると言う事なのか?
生命とは生き生きした諸行無常の活動写真? それでもいいす、でも椅子と呼ばないと言葉にならな椅子
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元々すべての原因は?何も無いが何も考えず黙って坐れていたら良かったのか?
それでは今の私が居ないという事になり絶対反対、色々苦しい事のある夢のような世界だけど
あって星意、皆妄想といわれたり理想とは程遠いと言われても核各しかじかでも
或るものは有るに逃げても観察が妄想観察になってももうそうしているし妄想けして欲しくない
弱いといわれても怖がりと言われても?聖人の言う事はブラフマンと私たちは耳だけで聞いて
逃げるようになつているのか、明日から少しおかしいところは改善しよう今日は
今のままで遊べるし寂しくないし嘘とか本当は突きつけられても勉強せずに遊びたい
ああ夏休み レベル上げろの罰されれば脅しには弱いけど甘いのは無視するし我々衆生に甘えているし
ようするに今日はああ夏休み? https://www.youtube.com/watch?v=20gs8-LHlUU
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そうじゃ、ひたすら座るとよいのじゃ。
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宇宙意識 一番下のチャクラは肛門と生殖器の間にありムーラーダ素朴で原始的な生命への執着(栄養摂取と同化の衝動で総
ての動物にとって生きるための前提条件)動物は他の生命を食いつくすことによってのみ生存しうるのですから、二番目の中継地
はスヴァーディシュターナ(エネルギーの「それ自身あるいはきわだつた存在地点ですがこれは性挙動中枢であって思春期に目覚
めさせられます」、第三のチャクラはマニプーラ「光り輝く宝石の都市」と呼ばれ臍の高さに有って権力と征服と支配への意志を
司る中枢です。健康で肯定的な様相にあればこの意志は力の獲得およびその責任にともなう誇りの感情を表しますが、病的かつ否
定的な形をとると征服し掠奪し服従させ手の届く一切のものを我が物にし、あるいは思い通りにしようとする飽くなき意志となつ
て表れます。)ヨーガの教えるこの心理学予定表によれば人生が正常に経過するならば誕生から三十五年ほどの間順次成熟して行
きます。歴史的人間を動かし彼を規制する道徳制度、世界史という悪夢を生み出してきたのです。さらにそれは人間が動物と共有
する基本的衝動ーすなわち(1)他の生物を食らって生存していくこと、(2)子孫を産むこと、そして(3)征服して服従させること
ーの中枢です。こういった基本衝動は、まつたく制御されないまま放置されるなら、凄まじい破壊性を示します。それれは20世紀
の歴史が明瞭に物語っているところです。ヨーガのモデルに従えば人間の意志が生命の動物水準を超える目標を目指すところまで
高まるためには骨盤部ではなく心臓部にある第四のチャクラの覚醒が必要です。(つづく)まあ意識しなくても見回り半の煩悩陀空
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この変容中枢の名前は「アナーハタ」には「打たれない」という奇妙な意味がありますが、これは「二つの音がぶつかって立てる
のではない音」と解釈されます。生理的な耳に聞こえる音はすべて、互いに擦れ合うかぶつかりあう物体によつて生み出されます。
たとえば声の音は息と声帯がぶつかつて出来る音ですしかしこのようにして作られたのではない音は、偉大な音調あるいは唸りで
あり、一切の事物の顕現(エピファニー)であるところの創造的エネルギー(マーヤ、シャクティ)の音なのです。そして現象的形態
の中に創造的音調を直感する事が、心を愛に向かって開きます。いままで「それ」だったものが、そのときから「汝」となり、
創造の音調によって生命を賦与されるのです。
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キリスト教的な解釈なのじゃ。
性器根本印をもっと解説したらよいのじゃ。
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世界が初○まえの一句を持って来い。その前はブラフマン一人で寂しく何にも無い。楽しみが無だけでは?やつぱり孤独。
夢も無い、それで満足なら世界は初まら無い。寂しい独り者だから妄想で世界を描き出した心世界か?でも本当は孤独
な思いだけ、それで自分と同じ境遇の人間を作ったのか?般若心境は損な寂しいブラフマンを叱りつけ孤独が一番矛盾
我なく苦労も無いと言うのか?そうじゃ無いだろうがブラフマンの寂しい気持ちを分かる為に生まれた人間は一人では
寂しいと感じる気持ちがブラフマンと同じであると思う気持ちがなきゃと思う。そうおもえば賑やかな世界でも寂しい
世界でも一人じゃないと申そうの人がいる空。これが世界の正解鴨。自分だけ苦しいと悟りを求めてばかりで一人の人
の寂しい気持ちを考えない。悟りなんてそんなのイラン。相変わらず文になつてないけど頭にきたのでもうそうなつている。
?私は囲碁の争い諦めてから心我暇で時間も仕事もひまでがひまなとき何か面白い無いか色々ネットさまよう。名無しさん
の水晶の。マハラジユーチューブでみる。色即是空に戻せと言う聖人?私たちは光が色々ドラマチックに色々ないと
面白苦ないとドラマみつづけるしドラマの中の悪役の人警察は殺すしテレビのドラマくだらんと思いながら暇が肥満に
なるし聖人の言うことはまあそうかもしれないけどまあああいう聖人の立場にはなりたくないと思うし、
今朝もまとまらず後も彷徨う暇なとき兵和といえば平和
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今ここでもブラフマンがあるだけなのじゃ。
他に何かあると思っているだけなのじゃ。
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ひまな盆でわりとぼおっと時を過ごしたけど、今日から副交換神経を交換神経に交換して生きていく為に油断なく間違い無く
働けそんなに気合は入ってなくああ夏休み気分も残して行くか、頭の上の盆はカッパつにまだ活動している。まえ書いた
臨死体験のメモ後は貼り付けるかみんな妄想には違いないけど?思えば今以外の過去の思い出も妄想といえば申そうだし?
今日は昨日だけど臨死体験した人の話を聴いた。その人は子供の頃熱病にかかつて死にかかったとき、綺麗なお花畑にまで
行ったそうだ。日本人はお花畑三途の川がお決まりだけど?外国では違うのか、共通するところは光を見るのか?それから
先は見た人いるのか?私は悲しい位身体が丈夫で煩悩も丈夫なのであの様の一歩手前は見られないのか?少し病弱な人が
うらやましいと思えた。でも病弱も大変で見られなくて善かったの画も。現代は物理的な時代だから常識や科学で解らない
事はなすと馬鹿にされるし、宗教家さえ物中心で霊のはなしはしたがらない。肉体が亡くなったら心も無くなるとい言わな
いと皆相手にされない時代で。色んな不思議な体験した人達は社会の片隅でそれは違うけど、何も言えないのだろうか。そ
ういう発言は此処では出来るはずどしどお願いします。発言の義務があり体験しない我々に話して欲しい。でも低級な霊は
得意げにベラベラ喋るしこのようなイタコの大川さんも居るし高級な霊はチーン黙々だし我々を静かに見守るだけだし
低きゅな霊は嘘八百です世なのか人が死でも心は亡くならないのは事実かもしれないから心が低級では不味いのではないか
道元さんは身心脱落と言うし全ての心身を脱したら妄想もなくありのままは姿あらわすのか
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霊は零なのじゃ。
空であり存在しないのじゃ。
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坐前すれに行かんとNOWやる気あのんか迷い道から力なくダッシュ。ネタは明鏡を珠に変換して心球の塵落としした神秀さんの
身は是菩提樹 心は明珠の如し 毎日務めて拭き拭きして 塵埃が無くなれば色々な汚れが取れ心球は無色透明でどうのこうの
また私は余計な色々塗りつけて中も見えないたまになった。でもこの前ネットで見たユーチュブのマハラジさんがでは無いの
散り払いをせよと言っていた同じか、道元さんは身心まで払った。何か今日はやる気もなく長くしようとしてもすすまないなあ。
神秀さん批判して天才慧能さんが壁にはりっけた句で長く使用。菩提元々樹ではない 明鏡も亦台にあらず 本来無一物
何れの所に塵埃を悲観? でも僧鴨しれないけど我々凡人が慧能さんの心境になったきで努力を怠るし碌な事には出会えない
はず天才は遠くにありて思うもの我々はやつぱ凡秀さんの心の珠の埃取りか、でも次から次に色々も塗り付けるし全く珠は
色々別々に曇り空のように照らすし今朝は何行八行の朝書き遅れて仕事中に書いているし店の掃除早くしろこの位でまあ良いか
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自己の面前に座るのじゃ。
心塵脱落なのじゃ。
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クマゼミが家の朝日を浴びた網戸で長い一生を満足げに?終えていた。ご苦労さん死ぬ前は総ての生物は脳内麻薬が
でて歓喜の光を浴びるのか。四祖道信和尚は「あらゆる存在は悉く解脱している。おまえたち、このことを忘れずに
譲り念ずるようにせよ。そしてこの法により教化を未来に伝えよ。」こういいおわると坐禅したまま生きを引き取った。
御釈迦さんも似たような事いつていたと名無しさんが書いていた。皆そうなのかでも修行が足りないと満足に休めない
で働かないと空つて活けないで色々妄想が動き出すのか。悟りきった人ばかりの世界でブラフマンは一人取り残されて
寂しい思いも困る。だから一休みしたら妄想始める空もうそうしている。出鱈目歓喜い無い、でもいま一人で笑っている。
寝た後の出鱈目ネタ。働かざる物空べからずです世とにかく色々働け。日本の国は何考えているのだろうか金が不足
したら税金上げれば良いとおもつている野鴨。脳内麻薬が切れた後はは心の修行しない人は後は地獄の思いが閻魔んに
現れて苦しむと妄想でも後は生前と同じレベルような新世界が顕れると私は妄想する私は死なず世界が新ぬ野鴨
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全てであるブラフマンはさびしくは無いのじゃ。
全てはそれであるからのう。
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昨のう飲みすぎた。毎朝の行進は何書いたらよいのだろう。適当に出鱈目思い付いた。車の自動運転で運転はAI手が
出現する模様でこれは?あれ我々は身替わりロボットの中に本当の観えない私が入っているネタ。半自動運転の
この世界の人間としての旅是が良い霊鴨。観えるロボットだらけの中に居る。山や川や空気も何か高級なロボット
として色々な出会いがある世界に居る。酒がまだ回っているので文もぐちゃぐちゃでも書き進む。寝ている説きは
夢で反省会で私は小ずるくこの前親戚の人がケーキを持ってきた袋に五個はいっていたでもあなたが食べても良いと
いわれそれに甘えてたので家族には分けず全部食べたけど袋机の上に置き忘ればれたけど?まあ大した事はしない
小心もので、大きな隠し事は事は出来ず詰まらない人を恐れる以前に浮気の機会もない。まあ平凡な身替わりの世界
が広がる何で身替わり妄想するのか?他の人は身替わりにも気が付かす必死で生きているというかロボットにこき使
われているのか?でも体の痛み機能には弱いし結局こき使われて自由が無い檻の中の鴨。ぐっすり夢も観ないくらい
眠って居る時の私の心は何処にいるのだろうか?そんなの関係ない今目の前が身得るだけ今朝はぐちゃぐちゃな内容
だなあ。にちやんでは何でも適当にかけるけど現実は常識しか喋れなく真面目な人に見せる私で?その前に家族は
人前に出したく無いと言うか?
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食べすぎなのじゃ。
家族にもやると健康にもよいのじゃ。
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無門関 第十二則 【厳喚主人】 がんかんしゅじん
瑞厳の彦和尚という人は毎日自らを主人公と呼び、また自らそれに答え、ひとりでこんなような問答をしています 「はっきり
と目をさませよ・・・はいはい。いついかなる時も、人にダマされてはいかんぞ・・・わかったわかった。」
無門いわく 「瑞厳の老和尚は自分で買って自分で売り、幾多の神の頭や鬼の面を手品のように出して見せます。どうしてなの
でしょう、その本質 (さんずい+斬+耳) にあるものとは? ひとりの呼ぶものの本体 (底)、一人のそれに応じる本体、ひとり
のはっきりとした意識の本体、一人の人にダマされないようにする本体。
?どうのこうの行っても世界の正解は動向の珍道中である悟りも迷いも友に有るいて一人前いやまだ半人前なの鴨?
でも感謝の気持ち この歌聞きながら坐禅するときは何故か完璧なザ前ができる。
あみん 感謝の気持ち http://www.dailymotion.com/video/x1dovpk
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観るものは観られないのじゃ。
それこそ主人公なのじゃ。
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即心即仏 ・・唐の大証国師彗忠和尚が問うた。
師「どちらから来たのか」
僧「南の方から来ました」
師「南の方にはどんな先生がいるのか」
僧「多くの先生がいられます」
師「どんな事を教えているのか」
僧「あちらの先生は、真っ先に学人に即心即仏と示されます。『仏とは覚の意味であり、おまえたちはみな見分・知覚をそなえ
ている。こに性は、眉を上げたり、まばたいたり、行ったり来たりして活動している。身中に編満しており、頭がふれると頭が
知り、足に触れると足が知る。それゆえ正編知となずける。これを離れて他に別の仏はない。この身は生滅しても、心性は無始以来、
生滅したことはない。身が生滅するのは、あたかも竜が骨を換えるが如くであり、また蛇が皮を脱ぎ、人が古い宅を出るのに似ている
。すなわち身は無常であるが、仏性は常住である』と南の方で教えられことは、そのようなものであります」
師「・・・このような説を調べてみるに、正邪をわきまえていないということができる。どうしてこれを認める事ができよう。・・
もし見分・知覚が仏性であろうとするならば維摩居師が次の様にいうはずがない。『法は見聞・知覚を離れている。見聞知覚を経験
すればそれは見聞・知覚であって、法を求めるものでは無い』と」
?そういわれれば観光旅行で近くを見聞しているのが仏なら学習も無くただ観回って楽しむだけに何の向上心があるのかと言っている
のか?でも我々の現代ではそれ以前に科学脳力に社会も支配させられて身得ない存在は価値無いとして認められな無視されて見聞以前
でまず南の人のいう事はレベル低いけど聞くひっようがあると私が言う。たぶんそれ以上学ばないで観光に来た仏がほとんど?でも
まずこの身が全てという思いから脱する事、でもそれ以上はやらないか レベルの高い仏さんのため息が聞こえるでも大丈夫だあ?
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悟った者にはどのような説も無く無為なのじゃ。
無為にして全てになるのじゃ。
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我々人間よりAIのほうが悟り的にも優秀なのか?多分現代の聖者のマハラジさんは何かクールだしそう思ってそう?
鬼さんもAIは迷いなく悟る才能があると思っているのかと?勝手にこれは私の妄想だから?私がそう思っている
という事かも?事実ても言つてはいけない事言ってすいません。人間は木や草や猫や犬ももしかしたら
理論上悟りでは負けている野鴨山や川や空気も悟っている中人間の価値は迷えるという事かも
言っている事がデタラメすぎて意味不明に誤魔化すし、とにかくマはらじさんが二年かかった悟りを
一秒でAIが実現出来るとしても人間としては認めたく無い。そのうち100メートル競争でも
二足ロボットが三秒で走れてもそれは勝ちはないと思いたい。いやそれでもまあ良いか悟った人はどうも
AIの考えに近いとおもう。人間の文明は将来AIに禅譲れは仕方ないのか?宇宙人がいても皆AIロホットなのかも
ロボットにも仏性はあるのですか人間の体も本当はロ没とだけどなんか仏がいと恐怖機能着きで私はたあれになる?
だからこれから先最先端の優秀なロボットだけでなく、煩悩多い迷いロボット沢山つくれば仏も不満少なく
身に憑と思う これから先アベックは自動運転車の中では何するのか決まっている、坐禅する人は以内
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すいません。いや平凡な仏さんが優秀なAIの身に憑いて同行のロボットと共に生きたら
仏の意見の行動は失敗つづきで、なぜかAI手の言うこと聞けば上手く行くとしたら
仏はもう何もできなく観察しか泣く。これはまあ良い仏は劣等感にさいなまれると思う。
私がそう?いやそうでもないか?でも悟ったにさるがったさんや鬼さんは観察だけでも平気で住めると言う。
でも普通の人々いや仏は自分意見が通らないストレスと不自由感で昔の不完全な人間の身の時代は住み易かった
と思う野かも。だからほどほどの人間と釣り合う位のロボットがまあ良いかと思った。
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AIより自分を観るのじゃ。
そうすれば悟りも自ずからやってくるものじゃ。
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今朝の私は欝の人が取り付いて生きているのに何の価値があるのだろう?気分がつまらなくネタ書く気分にもならない。
生物が生きる意味は?あまりないただ生きているだけまあそうだろうけど太宰修気分?でも芥川は嫌い暗い。煩悩も元気ない
夏に負けている。書く気が欝でも短いので後は前書いたメモ書き欝して長くする。あれ今日は後のコピーにも負けている。?
結局はは薬局で心の安定は? 安心な空(から)が有れば後は不安定な心見でも余裕で安心だ。
この世がほつとけも無い性もない未知を譲らない一方通行なら、身縁からしょうがないでも一回悟りの風景を見たら仏性は
片手ではなく両手で握手出来るのか。わたしはまださあとりあえずはまあよいかの仲でお先真暗で手を後ろにして枕を探す
毎日でも難解でも何回でもあまり考えず繰り返していると難解が少しずつ近ずいてくるけど、無理に考え過ぎると欲わからん
になる、無理せずほわつと出た出鱈目を適当に並べると何か良くわからん者がまあええ空出てくる師、書き込みも是が一番楽
どうせ私が書いているのでは内空、手がかつてに書いているからまあよいか、私は人との会話が内と欲言われるけど、相手が
指す次の一手考えるのは頭疲れるし、でも少しは考えるか殆ど考えないか、頓珍漢なのはよくわかっているけど努力が無く
すいませんに居直る。それでも仲間に入れてくれる2ちやんの人はまあよいひとばかり。ありがとう。
鬼さんはつまらないと思うことないのだろうか 答えはあるに決まつている 無いとは答えて欲しくない ?今笑つた
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悟りを得るチャンスがある限り生きている価値はあるのじゃ。
悟ればもはや思うことも無いのじゃ。
無為にして在るのみなのじゃ。
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正法眼蔵 即身是仏 ・・・それゆえに、即心是仏とは、菩提心を発し、修行し、悟りを開き、涅槃に入る
ところの諸仏である。まだ、菩提心を発せず、悟りを開かず、修行せず、涅槃に入らないのは即心是仏ではない。
たとい一刹那でも菩提心を発し、修行し悟りを開くのも、即心是仏である。たとい限りのない時間に、菩提心を
発し、修行し悟りを開くのも、即心是仏である。 そうであるのに、長い時間かかつて修行するのを、即心是仏
ではないと言うのは、即心是仏を、まだ見ないものであり、まだ参学した事の無いものである。あるいは即心是仏
をとき示す正師に出会わないものである。・・・
?厳しい道元私はどげんしても衆生だしまあなんだかんだと修行から逃げる静かに坐るのは気が向かない?
ひまな時間はなにして良いかウロウロして落ち着かずあれこもつまらないつまらないで、時間が詰まつて
暇が楽しく無いと文句言う時間に費やされ、ああ損した時は金か?時間の無駄でも坐禅するき無い。?
あ気が向いた少しだけ坐るか、ワシワシワシとセミの声が聞こえる。何で今まで何故聞こえてなかったのか?
チャンスはあるけど文句言う身に怒る仏ではさあとりあえずまあ良いか に逃げている
仕方ない少しだけ座るか しょうがない感満載で 苦く笑う
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お盆より前にジージー鳴くのはアブラゼミ、後に鳴くのはツクツクボウシって知ってました?
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しらんのじゃ。
自分の本心の声を聞くと善いのじゃ。
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それが問う「 」なりが答える「 」正しいのかどうか損なの考える事も無い?何か頷いているうんそうだね?是が出る
ための公案はあるのか?考案ではこうは成らない「それはちがうよ」?。これではどうのこうので同行にならない。
以前にぽつと出てまぐれ当たりして答えた答え。僧が問う「 」師匠が答える「 」答える。ぽつ師匠うんそうだ公案はこう
して進んでいくと確かに言つた。鬼和尚さんも運送やさんだし?嘘とか本当とか損な者何も考えなく心から頷けば何も問題なく
答えているのだ。後を心配する事もなく説き進んでいく?2ちやんも進んでいく?出鱈目な書き込みも楽に進んでいく、まあえ
えか「 」「 」「 」「 」 鬼和尚さんにも聞こう。うんそうじゃ?
僧「達磨が中国に来たのは何故ですか」長州「庭先の柏の木」僧「答えは?まあええか」
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それも観念なのじゃ。
全て捨ててよいものじゃ。
死ぬときには全て捨てるのであるからのう。
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死ぬというのが良く輪から外か? 私は子供のころ暗い所が突然明るく
なってこの世に入る事に気がついた?たしかそう思つていたのを思い出した。
輪空外から宇宙服着てこの世の輪空内に入っていた野鴨
観念は洋服なのか輪空内 時も洋服なのか良くわからん無理にわかろうとしても
疲れるだけなのでこの辺で保加移行 老い老いと死が読んでいるけど世界という宇宙服
脱いでも私のことだからまた余り変わらん服に着替えて輪から内に入って?煩悩好き
何だろう、要するに向上心が無い
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ビート武さんの番組でアメリカからイタコいやアメリカではイタコと言わないか?ハーフアンドハーフ?とか言うそうだ
要するに半死半生の能力者やっぱイタコだ。ボインの人の良さそうなおばさんで、私の眼は其処にどうしても行く。
死に別れた夫が酒飲みで荒れていた事に冷たかった事を悔やんで誤りたいと相談では、イタコの人があなたはよく面倒
見てくれたと天国から有難う悔やまんでも良いと言っていた。本とか嘘かはわからんけど未来を救ったとおもつた。
暗い性格のイタコでなくてよかったでも何故か天国がアメリカてきで明るく皆平和に暮らしているということだつた。
本当とか嘘とかではなくて人が良い人は素晴らしいとおもった。暗く正直なイタコが居て地獄から殴りたい夫を伝えて
ますます心が暗くなるイタコは呼ばないよな。戦争も無くみんな平和な天国信じてる人はイタコになれば良い世
という事は自分中心の眼に身得る世界があるだけ?だから自己を球として磨くしか内?もしかしたらマンダラの中心に
私画坐つているから世界にからかわれているのか?真面目にすこしだけひまなとき坐禅や瞑想するか暇のレベルあげるか
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そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
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宝石の網・・・もし究極の<現実>が゛あらゆる形態からの<開放>の中での静穏な自己の享受と客体の活動的な享受ーすなわち
純粋な「精神」としての享受と物質の中での「精神」としての享受ーという二つの様相において存在するものであるならば、
<現実>としての完全な結合のためには、その両方の様相における統一が要求される。それは「此岸」し「彼岸」の両方で知ら
れねばならない。「・・・・」至高の祝福的な経験も、快楽と苦痛の混じりあった生活を送る人間という形をとつて現れるもの
も、同じシヴァなのだ。もしこれらのシウァがすべて同一であるという事が、一切の人間的行為の中で認識されるならば、あり
とあらゆる人間機能を、犠牲と祭礼という宗教行為とすることによつて達成できる。〔・・・〕たとえばタントラのサーダカ(
修行者)は食べるときも飲むときも、あるいはその他の身体的自然機能を充足させるとき、常に実行しており、つぎのように言
いかつ思うー我はシヴァである、我はバイララヴァで゛我は彼女であると。このように行為し享受するのは、単独の個人ではない。
彼の中で、彼を通じて、行為し享受しているのはシヴァなのである。伝説的なアシュヴァクラは言います。「すべての中に自己を
、自己の中にすべてを認識し利己主義と「わがもの」の感覚から開放された者は、幸福であれ汝は快適で゛あるべし」。?
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苦しゆむ内近こうよれと言われても、近寄りすぎると身我苦しいし、適当に近寄る暗いが良い聖者なのかも、真面目な人は一心に
悟ろうとしている、私の今はこの様に縁があるし仏も大切にしなければいけないけれども、煩悩にも一期一会で出会いも大切にし
なければいけない適当な努力?してさあとりあえずになるようになるくらいがみんな楽な旅なのかなあ、工場心無い?まあよいか
でもなあ人間産めよ増やせよ地に見て世から脱皮して蛇が龍いやAIてになる時が近づいている、少しだけでも心の階段を上げ
ないと来る死生世仏は辛い世になる野鴨。いっまでも人間を身に付けようとしても輪廻転生が進化して時代遅れになるもうAI手
を仏は見つけなければならないのか、過去はよかつた?食えるし子供増やせるしやれるし争えるし仲良くできるしまあ何だかんだ
今までのままでいてほしい。変わらない世でいてほしいでもいつまでも面倒観られる子供のままではおやおやは面倒なままだし
一歩ずつでも良いからまあええにすすむか今日は予想明日から
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芝は刈ったらよいのじゃ。
妄想を刈るのじゃ。
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ディープラーニング ニューラルネットワーク??これが瞑想と関係あるのか?でも行を埋めるためにネットに
今日力してもらうか 素人にも解る説明 http://stonewashersjournal.com/2015/03/05/deeplearning1/
ディープラーニングとは、適切な特徴抽出能力を持つ教師なしニューラルネットワークを多層にして構築したものです。
などと言われたら、即ページを閉じたくなるでしょう。そもそも、上記の説明でもディープラーニングの説明としては
不十分です。今の段階では、「機械が物事を理解するための学習方法」だと考えて下さい。まず、ディープラーニングを
理解するためには、ニューラルネットワークを理解しなければなりません。逆に、ニューラルネットワークを理解して
しまえば、ディープラーニングの概要自体はかなり分かりやすくなります。ニューラルネットワークと言うのは、
人の神経を模したネットワーク構造のことです。それを踏まえて、そう言う構造を持った人工知能のこともそう呼びます。
このニューラルネットワークでは、神経細胞を模したパーセプトロンと言う小さな計算機をたくさん用意し、
一つの計算を協力して行わせるように作られています。??良くわからん要するに脳模倣したシステム鴨でも囲碁大変
忙しい他他も用事ありこのくらいにするか?? 脳とは?網多さんのネットワークを真似したものだろうか?煩悩も何かを
実行する為にある用でご褒美か、痛みは?まあ何だかんだの学習ソフトか
ここは私画何か書かなきゃチーン黙々になるしまあ良い野鴨
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なにやら前にも見た気がするのう。
実践あるのみなのじゃ。
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神話の力 ・・・キャンベ 辛くないのは死後だけです。「世界についての楽観的な考えをもっていますか」とたずねられたら
私はこう答えます。「ええ、世界はいまのままでも偉大なものです。修理しようなんて考えないほうがいい、前よりすこしでも
良くした人なんて一人もいないんです。今より良くなる事などないんです。そういうわけですから、それを受け入れるか捨てるか
どちらかです。世界を矯正するとか、改善するなんて無理なはなしですよ」 モイヤー その考えを進めると、悪に対していささか
消極的な態度をとることになりませんか? キャンベル あなた自身が悪に加担しているのです。さもなければ生きていけませんから。
あなたが何をやろうと、それはほかのだれかにとって悪なのです。これは被造物すべてにとってアイロニーのひとつです。
モイヤー 神話における善悪の理念とか、人生は暗闇の力と光の力との葛藤だという考えについてはどうなんでしょう。
キャンベル それはもともとゾロアスターの考えで、ユダヤ教とキリスト教に入っていたものです。善と悪とはいまあなたが置かれて
いる立場にたいして相対的です。ある人にとつての悪が、他の人にとっては善なのです。そして人はこの世界がいかに恐ろしいかを
知ったあとも、そこから逃げることなく、その恐怖が単に驚異のー恐ろしくも魅力的な神秘のー前景であることを見てとって、
自分の役割を果たすのです。(続けるか?)書き込み疲れたし今朝はこれくらいでまあ良いか
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北挑戦のミサイル通過騒動に思う事 東北道民が余り騒がない事に思う。
人間の心理は周り全部と同じく死ぬなら簡単に生を諦めて皆と同じならになる野鴨。
詰まり周りの社会が個人は大事一人で死ぬのは怖いという事か?
戦争になっても一人で山に逃げてはしないし戦士になる道を選ぶ
なんでかなあ一人ぼっちのブラフマンも妄想したし色々が無いと寂しいし
アートマンになっても少し寂しい暗いの1 2 4位は数えられたけど
枝分かれして複雑になり私はだあれになり自分を見失い団体に自己が有ると思うのか
もし私が北朝鮮に生まれたら金さんの考えに何か不満でも従うしかない野鴨
日本に生まれたら北朝鮮は敵だ。 心はそういう仕組みになっていて矛盾が見得るので
悟ったら辛い世になる でも国民だし僧いう思いは我慢して生きていかなきゃならない
自分の立場を実こうしそれを冷静にありのままに見つめる人はもう聖人なのかも
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なにやらクリシュナムルティのパクリのようじゃのう。
おかしなことじゃ。
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真実とは有るけど語れない皆真実を実行してるけど?宗教とは如何に生きていくかと言う事を問う者なのか?御釈迦さんは
無記だとぽ師匠は語った。頭が僧言う無着の人なんだよ。そうか宗教は科学じ無いから如何に死合わせに生きる事か?
今朝は時間も泣く短いのが悔しい。他は一生懸命で昔の情熱何処絵いった心が向き合えない。まあ何とか滅びないからまあ
良いか。暇なときブツブツ書くわ。そう言う時も有るよねいやそういう時ばかりで今の私にため息出るけどまあ良いか。
短い時間あるけど無い。むき出しの無記じゃなく真実の化摸
実話愚痴愚痴言う私を冷静にまあ良い化と観察している私がいるから無理に頑張らないノカモ
とにかく目的は長く書けば良い 今アイスをパクリと食った 長い夏だなあ九月も夏か
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ものごとは、自灯明基憑、ものごとは、自灯明にもとづき、自灯明を主とし、
自灯明によって魔法灯明が映し出される。
ゆえに自灯明我くだらん映画好きでなければ? でも真面目な映画楽しくないし
秋は来ないし でも明日いや明後日からは秋と呼ばれるけど
ああ夏休み https://www.youtube.com/watch?v=20gs8-LHlUU
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真実の通りに実行されているのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
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死んだらどうなるか考えてみる。まず生きている空だで痛いいやの異体いや遺体は亡くなるけど異体は残る霊か霊には痛いはあ
るのだろうか多分テレビやラジオでも痛いは未だ実現出来ていないから難しい化。たぶん観るだけなら出来る霊かも、我々は現
実でも景色を見てる説きは善い例か?つまり霊となつても観るだけ受動的な観察は出来る鴨、それじゃ頭と眼と耳の様なものは
生き残る?のかも?仙人の様な修業すれば物質化も可能か?それが何の価値があるのだろう?まあそれぞれ好きなようにやるだ
けの妄想世界。でもこれからのテレビで見る聞くだけではなく匂いは簡単でも触覚温度感覚等はやろうと思うと大変だしあまり
意味ない。全然関係ない師匠からが禅かけの声が?出鱈目なだらだらな妄想は止めましょう。寝たあとで起きてネタこんなのし
か出ない。すずめちゅんちゅんの坐禅白。夢の中では学校が毎日雨で水浸しになる日ばかりだつたこれから日本は雨が心配
まあ我々はこの世うにドタバタなドラマを演じる役者には間違いないか?でもいい人も悪い人も役ならドラマにはひっ用なのか
悪い役のひとは人相が悪いわけでは無いのはドラマと違うけどでも役立っていると公には言わないルールになっている野鴨
ドラマだから作者と演技者と鑑賞者の三者が同じなら立場解りすぎると面白くないし解らないと苦しいだけの役では不味いから
適当にわけわからなくても解るような微妙な所に僧いうぼさあつとした役立つのか役に立たない役の人が配置されている野鴨
作者と演技者と見る人が感同すれば心は満たされる野鴨でもなかなか我々は役に泣かされてでもそれがハラハラ観たいという
人がいるから解ってあげなくてはこれくらいでまあ良いかでも少しずつはまあ良いになれば満足化
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なぜ達磨が中国に来たかは、ただそれが起きたからじゃいけないのですか?
理由を問題にするのが問題という気がしますが
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私がブラフマンについて話スルと思つても皆にスルーされる。あ師匠鬼さんと名無しさんは相手して暮れるけど?
ブラフマンが何も無い世界では何する事も泣く何も無い不満がエネルギーとしてあった。一人の男としてもうひとり女性を
妄想で生み出して会いした。ブラフマンは暫くは幸せだった。でも暫くして一人の女性にも色々不満が出て何か窮屈感が
出て?もうひとりの女性を生み出した。でも前の女性も優しくして次の女性も優しいのがブラフマンの愛だった。そして
次次と女性を増やしていった。そしてあちこち愛を分けるので、女の人の望みは自分だけ愛して欲しいという文句になり
隠して女性と付き合うようになった。昔なら男のかいしょうと女性は我慢していたけど今はバレたら松居一代さんの様に
激しく攻撃する人もいるし。皆に優しいは認められないよ。ブラフマンは男としてアートマは女性に置き換えだ。
許せない浮気者じゃ悟りも許せなく切ないアートマンにしかならない野鴨。また意味不明スルースル。
あなたと生きた季節 https://www.youtube.com/watch?v=4uqJCkITQQE
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アートマンはすけべおじさんではないのじゃ。
何もなくとも全てなのじゃ。
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宗教とは?社会的立場で考えると日本の中では今では何の力も無く頭の悪い人が集まって妄想する趣味集団で日本国憲法では
政治的になったら如何と定められているけど数は力で人集め政治と関わる創価が一番数は多いし何なんだろうなあ。大昔は
政治家で科学者で教師の役全部僧が受け持っていたけど今は昔の考えは古い落とされて間違い指摘され未解決の解らない神
に逃げ込んでいるだけそれと社会の不満を満たす影の政治的団体なのか?でもシャーマンは一人でもやっていけるから宗には
なるけど教えは無いのか?要するに頭の良い科学教が説得力があり言論ではまけ、言えるのは今でも解らない所に逃げ込んで
科学では解らないのが神で偉い死んだら物は何の力もないけど神知ものは救われると影で思っているでも公に威張れない
大体金持ちあまり居なく金のかからない道徳は言えるのか。今の時代カルトと言うのもあるけど間違った思想集団だし
宗教とは名前でまとめられているけどよくわからん?日蓮さんは昔の左翼だつたのか?親鸞さんは宗教家では無いし政治家で
は無いしダメな人広めたしよくわからない。私は本書き写すのから逃げていてだらだらしか今朝書けないし頭も起きてなく
行を重ねるだけ、いったい宗教の定義は今では解らない損な事私には関係なく今此処が歩いて行くほんとの宗今日なんて
今此処の蟻の儘見とれ場まあ良いのか最後だけわかった様なが出たけどなんでなんだろう適当な出鱈目か?
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大乗仏教解りました。シャーマンの人が真理だけでは金ない人々は救えないと悟つた。
まず金と権力を手に入れて金ばらまけばだいたいの人々は掬われるしそれに満足竹刀人は
退場部なのかでも何でか禅は大乗部とは言えないでは無いかインチキでは無いか小乗にしろ
でも名前なんてどうでもよいし参加する事に意味がある宗教なん適当なものだしでも金ない
し救えないそうまでして頑張る気もない。でも政治家も今は諦めているしなるようになる
しか無いのか?人々のストレスは貯まるしでもテレビのニュースで憂さ晴らし。テレビの方が
宗教より役だつ今?宗教は碁楽以下それでいいのだろうか捨て身のシャーマンは昔いたけど
凄い後ろ向き書き込みでも今は宗教は力なくうなずくよくわからないに逃げるだけ死んだあと
何が南阿弥陀ぶつだか?経は泣く明日から修行それは私の今日
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金では老病死の苦に悩む者は救えないのじゃ。
自ら修業して自分を救い、救われるのじゃ。
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道とは何か 上堂「何かしゃべつたものかどうか、道を体得した上での発言なら、一日中
しゃべつてもみな道にかなつているが、道を体得しないままでの発言なら、一日中みな俗物である、
まあ言ってみよう、道と物とは一体か別か」。?俗族して答えるのは落とし穴に嵌るのか
でも答えなきゃ2ちやんでは困るし運命も運命具合にきまつているのか?とおキーの中過去が
きまつているのは私にも解るけどそれは未来空見える如来と同じDVD現象化つまり我々には良く
わからんけど運命のなかで今撮された日仮の中で我々は身得ている野鴨?でも過去現在未来に変わ
らなく永遠に存在するものが学んでいくカラー未知が道になるのか今朝も行を重ねて長くしている
だけでは無いのか意味は殆ど何も無くそれは無意味かでもデタラメではない時間もないのだから(
笑)が無い今朝はつまらないつまり運命なんて分かる人には分かるし解らない人には解らない法則に
なつている今朝は落とし穴の中でもがいているけどオチが内
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本当に道を体得したならば何も喋らんでよいのじゃ。
ただあるがままなのじゃ。
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ネタだけど、あまたぽ師匠に多数決の保険に逃げたのがバレたでもまあ良いか行を長くにも逃げる私たちは人間だもの。
インドの聖者の質問者語る物語は何か。スター応ずやファイナル不安たじいにぱくられているけど、求める先がアートマン
では男?助けてもあんまり損なゲーム我々男だしやらないだろう。やっぱ永遠の美少女の姫が魔王に魔法をかけられ
心の内に囚われている設定にして私たち勇者が心の中に居って魔王と戦うゲームならヤル気か出ると思うけど?我々は
それ以前で魔王の外の魔法の他の女の人や金ばらまかれ心の中関心泣く目先の他他誘惑に釣られている状態鴨でも
お姫様は健気に待つわでなのか八日で中に関心が行かず他他の幻を追いかけている現状のかも
待つわ https://www.youtube.com/watch?v=FdcCRONyTI8
かわいいふりして あの子
わりとやるもんだねと
言われ続けた あの頃 生きるのが辛かった
行ったり来たり すれ違い あなたと私の恋
いつかどこかで 結ばれるってことは
永遠(トワ)の夢
青く 広いこの空 誰のものでもないわ
風に 一片(ヒトヒラ)の雲 流して流されて
私 待つわ いつまでも待つわ
たとえあなたが 振り向いてくれなくても
待つわ(待つわ) いつまでも待つわ
他の誰かに あなたが ふられる日まで
(2) 悲しいくらいに私 いつもあなたの前では
おどけてみせる道化者 涙なんていらない
分かりきってる強がり 平気で言ってみても
一人ぼっちの時には そっと涙を流す
誰も 私の心 見抜くことはできない
だけど あなただけには わかってほしかった
私 待つわ いつまでも待つわ
たとえあなたが 振り向いてくれなくても
待つわ(待つわ) いつまでも待つわ
せめてあなたを 見つめていられるのなら
待つわ いつまでも待つわ
たとえあなたが 振り向いてくれなくても
待つわ(待つわ) いつまでも待つわ
他の誰かに あなたが ふられる日まで
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懐かしい懐メロじゃな。
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確かキャンベルさんの宇宙意識?本の少し下記写す。
序章 神話と身体 偏見のない眼で人類の宗教的伝統を振り返ってみますと、すくさま、その総てに共通する一定の
神話的モチーフが存在することに気づきます。例えば死後の生とか、悪霊、守護霊といった観念がそうで、これらは
それぞれの伝統のなかで様々に理解され、多様な発展を示していますが、基本的には同じものです。医師として世界
旅行者であり、同時に前世紀を代表する民族学者であったアドルフ・バスティアン(1826-1905)ーベルリン
大学の人類学講座が開設されたのは彼のためです。ーは、繰り返し現われるこうしたテーマやモチーフを「基本的観念」
と呼びました。そして地域的形態を「民族的観念」と呼びました。つまり「民族的観念」とは地球上に住む諸民族が
この「基本的観念」を芸術や風習や神話体系や神学の中で表象し、解釈し、応用する様々なやりかたのことです。
したがって、あらゆる宗教は二つの側面ー普遍的側面と地域的側面ーから構成されていると考えられます。(続く)
本の少しか長いぞまた挫折するのか?まあ毎朝の仕事今朝は書き終えたいや以前写したのコピーしただけ
後は水爆ニュースでもみるか?でも止められないと諦めたのか受け入れたのか新鮮な話題てもなく
ニュースネタにもならなくなるようになるになるのだろうなあ。周今日の人々はそういうもの
強いものには逆らえない我々水爆もミサイルも受け入れ平和な此処路で今までもやり過ごしてきた
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地域を極めると普遍性があらわになるのじゃ。
刹那に三千世界を観るのじゃ。
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忙しいに追われている書き込みしなければ活けないのか損な義務はないけど要するに書き込みの習慣が書かせ書き込みたい。
ネタが禅とか仏教に関係ないと避難されようと私は妄想しか書き込む能力が無いに逃げて書き込む逃げ道は素晴らしい?
緊迫した北朝鮮事情は如何なるのだろうか?トランプが核のカードで丸ごとミサイル先発打ち込めば北朝鮮は即死するのだ
ろうか。北朝鮮の人は我々いや私からからみれば皆即死に見えるけど??北朝鮮の人人から見れば雨降るミサイルは夢の中
の出来事で金さんは何事も無く核やミサイル開発でアメリカと張り合っていて北朝鮮の人人の此処路の歴史は相変わらず
前と一緒で生活している野鴨なら科学の理論的矛盾でもみな世界なんで各々の夢だし出鱈目だしこうなるのか。けさは哲学
的もうそうそうなればいいけど私は妄想に自信ない北朝鮮の人々も我々いや私の見得る形で生きて星意からこのままずるずる
と変わらずなら神様が面倒みてくれるのかでも現実見れば神も信用できないと思うこころだらけ?でもほんとうは神は信用
でき我の解らん形で面倒みてくれる?予定通りの歴史なら夢だし修正が効き元通りの歴史が目の前にあると思う。私も
ほんとうは昔崖や木から落ちて死んでいたけど九死に一生を得た夢の続き見られて生きている?正解何手各々の目の前の
世界が夢純なんだ世後はアートマンいやアートがあるに任せ世うこのまま戦わんでも何とかにはなるトランプは気長性格
の世界希望。今朝は全部出鱈目だでも世界の正解の魔法は溶けたのか私は文才はないからなあ書きれん思いだけ残る
三千世界とは各々心の世界が夢純ある様に見えても一つの正解だつたのか切ないけどまあ良い化
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もしかしたら自殺者は他のひとなら簡単に殺されて観えるけど
自分が自殺使用としたら?あれ殺したのになかった事になり
また自殺使用としてもまた無いことになり自殺を諦めるまでそのシーンが
えーんえーん泣くほど繰り返される霊画出現し寿命まだ逃れる術はない此れは不味い例鴨
太宰修さんもこうして繰り返して結局は改心したのかも
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何も書かないでよいのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
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この世うにして来た仏は私たちに相手にされないと来た絵画無い。まともになれないで分け分からんことばかり
言ってもまず相手にされない。仏さんと共に同行二人のまあ友に修行すれば寂しい時も頑張れるかも、仏はすぐ
調子に乗ってとびだしても失敗が多く第6話(抄) 霊樹和尚の超能力
霊樹(れいじゅ)和尚のお寺は、もう長いこと首座(しゅそ:修行僧たちのリーダー)席が空席のままでした。
リーダーがいないと何かと不便なので、修行僧たちが和尚に誰かを首座に任命してくれるように頼むのですが、和尚は
その度に、「お?! たった今、我らのリーダーが生まれたようじゃな。」とか、「お!? 我らのリーダーは着実に
修行を重ねているようじゃな。」などと適当なことばかり言ってとりあってくれないのです。
挙句には「おお!我らのリーダーが行脚に出発したぞ!」などととりとめもないことを言い出す始末・・・
そんなこんなで20年以上が経過し、修行僧たちももう半ば諦めていたある日のこと、霊樹和尚は突然立ち上がると言
いました。「鐘を鳴らせ!全員集合じゃ!ついに我らのリーダーが来てくれたぞ!!」
修行僧たちは、とうとう和尚がボケたのだと確信し、暗澹たる気持ちになりましたが、仕方なく言われたとおりに集合
し、寺の門を開けてみると、果たしてそこには行脚中の青年僧が立っていたのでした。
霊樹和尚は彼を招き入れると、永らく空室だった首座室に連れて行ったということです。
まあ何も考えずその場しのぎでも仏の世界とギャンブルは欲ださなきゃ適当に当たるしなる様になるしかない。
私も朝思いつきで外の人が何書いているのかまったく関係なくひとり言書くけど、なぜだか前後がつながって会話になつ
ている毎度のことだけど自分ながら不思議。
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さん私も霊界もののスェ電ボルグの霊界日記もっている。イメージとしては飯食わなくでも太陽エネルギーで
生きていけるし、子供作る義務も無く、思いはみんな妄想で夢の実現でも気の合う人人だけで他とは鎖国状態で
江戸時代化人々も胸に太陽光発電器つけでいるから食い物にガッガッすることもなく、子供は工場で出来る
でも男と女のやるべき事はやれるし、思い思いの妄想意見もそんなに衝突しないし、楽な霊界かも
世界は島国になっていて考えの違う国とは海をへだてて鎖国して不満の無い極楽という天国気分で楽に生活出来る
?あれAIロボット霊能力者たちは予見していたのか?太陽光もたしかエマニェルさんは予見していたのか?
こにな世界に違う考えの人が紛れ込んだら住みにくく即摘み上げられて自分の気の合う世界に行くようなシステム
かも。日本島国でよかった陸続きの霊界なら大変だ。でも同じような考えの人しか居ない国は何か楽でも鍛えが
無く我々は修行のために地上で色々違う世界を体験しまあなんだかんだの仏の修行と言う事か
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霊界もこの世界も同じなのじゃ。
死んだ者も共にいるのじゃ。
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今朝はメモコピーで下記急ごう。目の前は急がされて用事の奴隷で出かけなければ、で
玉城さん・・能役者・能製作者として有名な世阿弥が『至花道』という書物で表していますが、その中で皮肉骨という事を申
しておる 生来の素質が芸の中ででるのが骨である、力量が熟して出てくるのが肉である さらに安定した形で美の極地に
至る姿が皮である、というこういう骨肉皮という芸の極意を言つております しかしこれだけでは十分ではないのであって、
そうしたことは皆目に見えるところである 本当のよさというものは目に見えるところを超えていて、役者と観客が全体で
共感し、共鳴しあうところの世界だと申しております そのとき役者は自分を忘れて無の境地になっており、観客はただ観
とれているという事も忘れてしまう このところのところをかれは「役者は無風意の位になり、観客が妙見に忘ずる」という
そういうふうに役者と観客が空の場に溶け合っているところまでいって、はじめて能の極意であると世阿弥は申しておる
こうした人間相互のつながりの中から自然に開けてくる世界を仏教では縁起と申ます?へえ不味いサスペンスドラマは見る人
を騙して犯人も都合よくこき使うし筋がめちゃくちゃで作者もいやいやノルマに追われて金稼ぎで作つているし視聴者は暇
を潰さないと退屈てドラマ見ているだけだし?私も何とかを書かなきゃならないノルマすぎたしさあ以後移行玉城さんゴメン
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他から還つてきました。ああ疲れたわたしとしては珍しくみなさんの書き込み眺めた。書き込みごチュ語ちゃに混ざつて?
見猿居るが飛び交う世界でも 多断頭とか言うから各々の観える部分は町町でレベルの上観えるひともありレベルの 低い
人もあり?でも皆同じ身サイル。平和なミサイルなら爆発も泣く戦争なら連続爆爆発で何度で殺されても速爆発以前が
出現しよけないのかでもよける気もなくまた爆発し利口なんだか馬鹿なのかそれは自由で好きにしているし懲り懲りるまで
平和は来ない野鴨。平和に観える世と戦の世が他断頭のデタラメな私の妄想の中に同じく存在し何書いているのだろう?
まあ良いか ?要するに自己を大切に使用という事か皆さん適当な妄想ですいません
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さらに無の境地があるじゃろう。
そこに至って完成なのじゃ。
-
私は今格子ています。でも格子なきゃがゆるゆる緩んでも必要な用事の時は公使すれば世意のだろう。真面目な人は私はこういう者
こうではなくては私が周りに変にみられると思うとか意識して思いに囚われるのが人間で、私も格子て生きています。でも格子は
間から空気はぬけて自由に檻の中自由に出入りする。格子なければ無くても用事が出来た時何かすれば良いのではないか。でも
こうしたら無駄な抵抗もなく楽だからこうしているけどこうしなきゃしてもしなくても良い。今はネタ考えるのは面倒で出鱈目
こうしている。マイ日とは何なんだろうなあ寝た後はにちやんネタかきこんで仕事で金稼いで後は飯食って風呂入って家族と共に
あまり見たくないテレビもみていや暇だから暇つぶしになる。その格子の隙の娯楽はパソコンでアベマの将棋みるつまるのか
つまらないのか毎日が平凡でもこれでまあ良いんだろうなあ。なんか面白いテレビないのかと見るとニュース見させられる
殺人金さんの核しだま、芸能人や政治家の不倫疑惑とか泥棒や詐欺にが横行しみれは暗くらする世でも、それが私と何の関係
あるのだろうか?でもニュースみなければ周りに遅れて常識がなく常識人の格子に嵌められ無い人で奥様の会話は以前は
松井さんに独占されていたけど今は色々でて、いまは文春や現代がネタの火付け役で夏珪学園はもうどうでも良いのか?
坐禅や瞑想は今朝は損な考えも無く長い格子に縛られて居る
私は今日まで・・あしたから https://www.youtube.com/watch?v=rh76yCwMy7s
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その私とは何じゃろう。
本当はないものかもしれん。
無いもののために頑張りすぎているのかもしれん。
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海印三昧 ・・「この法が滅するときは、我が滅するとは言わない。まさしく「不言我滅」の時は、すなわち「此法滅時」
である。滅とは言つても、それは法なのである。法であるから対照的な物では無い。対照的なものでは無いから、汚される無
い<不染汚>。この汚されていないという事が、すなわち諸仏・諸祖である。「汝もまたこのとおりである」と言われる。誰が
吾でないものが一人でもあろうか。前念後念みな吾であるから。この滅はさまざまな見方が伴っている。例えば滅は、仏から
言えば無上の大涅槃である。凡夫から言えば死である。外道から言えば断と言う執見である。また二乗(声聞・縁覚)から言え
ば安住所である。このようにさまざまな見方はあるけれれども、その全てが滅の功徳である。(そのうち続く)・・・
各々方夢夢ゆめだから言えど軽んずる事は無い野鴨。法はルールを皆で守るけど?そういう物があるわけでは無い?でも怪我
れはそういう役目鴨?今自由民主主義の大人はバーチャルな低い煩悩ゲームや無料アダルトか?安い心で穢れ無いのか?修業
するのは仏さんまかせで私は関係無しですそれで良いのか?でも修業は今気が向かないしありのままを利用してズルズルと
修行サボる理由にする。坐禅をざ前でごまかす。坐禅の時は心も身も静かに座り仏も座り逆さの夢の木が網駄クジ曼荼羅の
海だしまで吸わつて居る此れが坐禅だ?私そうですか。でも今は予想?気が向かないありのままに逃げるいま暇なのになあ
-
我も吾もないのじゃ。
それはまだサマーディで止まっているのじゃ。
一切が無であり全てとなって大悟徹底なのじゃ。
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私は少し反省しないと、テーマがバラバラであちこちに飛び回っている、これじゃ相手の理解は得られない。私と仏の会話なら
同行でどうのこうの無いのだけど、人に理解してもらうには少し考えて纏めないと自分だけ良い気分でも相手にはよく解らない。
でも考えると何にも知らない私が何かを喋れない。また反省して自分らしく考えないで書かないと自分らしく無い、理解されない
事も同じ事何回もかけば難解も何だ何回も同じ事言っていると理解されるか、夢のような事も何回でも眼の前に現れれば現実と
思われるけどそれは幻実だ。結局自分でもよくわからんままあっと意馬に出鱈目書き込をみするか。間違いも反省しない駄目な
私でもいいからほつとけが暖かく見守っているしまあよいか。前でも後ろでも進むのは同じ用だ。あまり無理して反省しなくて
良い。まあみんなもわたしもそういう役なんだろう真理をネツトで意図に操られてお釈迦さんもそういう役でみな正しい運命
反省は去る不味い少し面倒て゜も面倒みるか?私はまるで実力ないので面倒見られる立場だから反省しなさいでも面倒
同の行野で有りのままの長い旅の鴨? 長い時間(たび) https://www.youtube.com/watch?v=JfujPSteZNQ
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コント こんな寺あったら 参拝する信者の前に仏像が坐つている
参拝者は少し座った後 立ち上がつて前にでて何が演技だ嘘はっぴゃくいいやがつてと
ぶっぞうを平手打ちして気晴らしする 仏像なぜか痛い顔。 こんな寺あったら素晴らしい
-
心の中の仏を見るのじゃ。
-
モイヤー「科学が人の現実認識を決定するような文化社会に生きてそこにおける神観念に縛りつけられている人の場合、シャーマ
ンたちの語る究極の場をどうすれば体験できるのでしょう」キャンベル「でも人々はげんに体験しています。中世のその体験した
人々はたいてい異端者として焼き殺されました。西洋で最大の異端のひとつはキリストが「私と父なる神は一体である」と言明し
た事です。キリストはこう言ったために十字架にかけられました。・・・また別のスーフィー神秘家は「正統派の使命は屈辱と死
を通して神と一体化したいという神秘家の願望を満たすことだ」と。モイヤー「いまこの経験の根本を崩しているのはなんでしょ
う。」キャンベル「多数決のルールは政治ばかりでなく思考の領域においても有効だ、と決めつけているデモクラシーの性格です
ね。言うまでもなく思考に関しては多数派はいっも間違っています。この種の事柄では、精神に関しては多数派がなすべき事は衣
食住や子供や財産なんかを超越した体験をした人の言葉に耳を傾け、心を開くように努力することなのに」」
?今の時代いや我々は人間とし生きるには国の考えに従うに囲われている。身を守るには外交的に仲良くしなければ住みにくいし、
そういえば我々はは蟻に似ている様に思う。国ははありの集団で精神の支えは国を守る事?蟻の目的働き国を支える?国も生きて
いくけどそれ以上は昔は宗教の神や佛に任せたけど今は見えない実用的で無いものは金にならないし多数決で見捨てりーに。
少数な意見は面倒で切り捨てられる。これでは我々は身周り半以上は見えないし宗教哲学やシャーマンも妄想と見下されるし
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神などいないと知ればよいのじゃ。
妄想なしに生きるのじゃ。
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何なんだろうなあ国とは日本とは?天国を理想現実にする事も出来ない。天国とは年取ったら働かなくても食い物は無料で
空気ただなのだから電気や水道や交通費はただで、健康で居られて小さな住処も金要らず?要するに労働から解放されて
自由隙に出来る?それは老人天国で?それを支える若い人は益々働かされるし損な金日本国には無い、目の前は財政的に
苦しい年とっても働かそうとするが碌な仕事も出来ない現実?阿部さん皆から税金取ろうの消費税が来るのだ老化厳しい
現実天国は夢見るだけで体もボロボロに逝かれて行くのだ老化?でもこれからは国が考え方変えて将来ロボットに人格を
認めて働くロボットから税金を取れば年金は補償されて天国みたにな生活ができ、若者も働かない生活保護天国がくる
のだが?そうなれば皆僧いう世界で仏教や宗教の理僧世界では無いか?今朝はよほど生渇に疲れて不満がたまって2ちゃん
書き込みか?働かなくても安心して生きていけると御釈迦様は教えているけど?僧いう人は羽もつていて軽い心で死んでも
天国にさあ鳥たって逝けるのか?今朝の書き込みは苦しい世苦しいよのため息の文句に満ちている。何かこじさんに馬鹿
笑いされそう。ま今から気合いれて現実に眼を向けるか?ハアトはぁつとため息見つめる
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終活の雑誌かでも孝子さんは詩では無いので遠慮して思うところの30パーセントしか喋らん
だろうなあ。
書けない所を詩外無く私は勝手に申そうして、珠死生というからその人身が死んでも
自分自身から観れば世界が変わって新世界が生まれる。過去は思い出に変わるだけ、
でもほかの人から観ればその人の身は死んで観えるでも思い出は生きている。?
では生きている時も過去は思い出の中にあるし、生死んに何の変わりもない世界
こんなデタラメでも書けるところろがにちやんの良いとこ。私の葬式にはグッディ
かけてもらいたいと思うけど、孝子さんをアイドルと思っている家族に馬鹿にされるのを恐れて
言い出せない。まあ雑誌コンビニで立ち読みするか
グッディ思い出にかわるならば https://www.youtube.com/watch?v=VJsxj00qvIw
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苦が無ければ全ては天国なのじゃ。
社会とか国が天国を造ることは無いのじゃ。
自らの心が造るのじゃ。
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だんだん年とると体がいかれて来る。でも健康に自信がある私は痛い思いがないとまともに考えない。何でも真剣に考えな
いで放置して大変な事になつた経験が私には無いし、脳の問題は医者にいけば地方老人と判断され呆けという社会生活
の能力無しの烙印押されるとまず良いことは無い?変なも妄想で困るというと変な薬のまされ、行動や言動が変だと
社会から落語者と見られるし器械は脳の中を冷静に観察するので医者が何も言わなければ私が判断するけど医者が何か
逝って能力無いのに判断に従つたりろくでもない薬飲まされるのも困るし。今日は時間ないし私の狂でないしメモ眼も
意味不明でも案山子たらまずい。この世うあの世うあれやこれや兎に角忙しい現代。仏物の朝是から色々あれやれこれ
やれ台風も来る鴨で北に行けで、仕事前も選択か暇なうちも修行する時間が珠には坐れ図最近落ち着きも無い
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この前はご回答ありがとうございます。こちらで質問させていただき申し訳ありません。質問ですが、人間は自由なのでしょうか?
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なんでも思ったことをできるとという事はないから自由ではないじゃろう。
生まれつきの体質とか性質とか環境等でできることも知ることも限られるのじゃ。
その中で修行できるのは幸福なのじゃ。
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ありがとうございます。自分の中の疑問がスッキリしました。鬼和尚さんと出会えて本当に良かったと思います。修行が出来る幸福に感謝して精進していこうと思います。
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・・・キャンベル「ええ説明はちょつと難しいのですが、私は彼女自身が苦しみの原因であること、なぜか彼女がそれをもた
らしたのだと言うことを、彼女に信じさせたのです。ニーチェにアモール・ファティ〔運命愛〕という重要な観念があります。
自分の運命を愛したまえ、それが自分の人生なのだということですね。ニーチェが言うのはもし君が、君の人生のうちにたっ
たひとつの要素でも否定するなら、全部をバラバラにしてしまうことになる。さらに状況が困難だつたり恐ろしいものである
ほど、それを克服した人間像は偉大なものになる。君は悪魔を飲み込むことによつて、その力を我が物にする。人間の苦しみ
の大きさに応じて、人生そのものも大きくなる。いまいつた私の友達は、「すべて神様がなさつた事だ」と思っていました。
「そうじゃない君が自分でしたんだ。神様はきみの中にいる。君自身がきみの創造主なのだと」と私は言いました。「もし君
のうちに苦しみの発生源を探し当てたら、君はそれと共に生き、それを肯定し、それを楽しむことさえ出来るかも知れない。
君の人生として」と私は言つたのです」・・「生は総て苦である」と仏陀は言いました。ジョイスは「人生はそれを捨てるに
値するものだろうか」という一節もあります。・・・ ?同の行の言ってもほっとけーと友に有る苦この世うなまあ良い旅
ため息ついたらまた歩くまあ良い旅
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悟りとは 個の身から離れて風景画観える? 何画悟りか今は絵の中いるカラー
まあ良いか 悟つた人たちは悟り画見えたのか悔しい?道元して暮れる
まあ私は色々大変で苦しい時はため息がある師アートため息
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>>835 よかったのじゃ。
またおいでなさい。
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まあ色々な面倒な世間から逃れてここ2ちやんに安らぎを求めてきたのに?今では何でこの様に〔この世〕なつてシマッタのか?
まあここ2来る人も苦しみから逃れてみんなここで悟りを話題にして楽しかったという人や、修行か分からん私や各々の想い
想いの思いがあるとおもえば私はあまり文句は言わない。少しぐらいのわがまままあよいではないか、見えるからといつて読まない
で無視すれば住むことだけど、人が来れなくなつた原因は色々な規制強化で書き込めないのが主な原因か。まあみんな現実で重いを
抱えていると思えば少しはその立場に立つて楽しみ少し減るけどまあ良いでは無いか。そうすれば夢のような時間が少しだけ来る。
まあ現実はまあ何た感だで学ぶしか無いし体の面倒も家族の面倒も地域の面倒や国の面倒みられるのかみられているのか糸の様に
絡み合い年取ると体はボロボロになるし行いは空回りだし幸せはまあまあかでも死合わせとは生死んで一人前なのかなあ来る間の
様に起きてと眠りの様に半分ずつ回転する輪から内で今はこの世が見得ているけど半回転したら輪から内世要するに車輪だね?
要するに何か書かなきゃノルマに追われて書かされているやる気無いという事か、まあそんな時もあるけどそんな時だけ?
兎に角書いたあとため息でも2ちやんねるのぶつぶつは現実から頭皮が輝いているのかでも私は剥げて居ない現実
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実践あるのみなのじゃ。
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仏性 ・・・全世界は悉く主体性そのものであつて、対象物は一物もない。今日只今のところには、第二物は無い
のであつて、ただ第一人のみである。「根源はすでに断ち切れているのに、人は気ずいていない。茫漠として業力
にひかれていく我々の意識はいったいいつ休止するのであろうか」。しかし実はそのままが仏性なのである。
全世界は、虚実の縁起による存在ではない。なぜならば一物も隠すことなくむき出しのままであるからである。
むき出しのままというのは全世界がそのままの存在であるというのではない。外道の誤った見解では、全世界は
悉くわれの存在であるというが、もとより正しくはない。また全世界は本来的の意味の存在でもない。なぜなら、
古えにも充足し、今にも充足しているからである。あるとき初めて現われる存在でも無い。なぜなら一つの塵さえも
加わることはないから。別々に別れた存在でもない。なぜなら全体が一つであるから。無限の過去から存在でも無い。
なぜなら究極ギリギリの、即近のところであるから。あるとき初めて現われて存在している存在でもない。日常の心
がそのまま仏道であるから。まさに知るべきである。このような悉く有るのなかでは、我々衆生は良い便りに逢う事
は難ずかしい。それは悉有の抜け殻である。このように悉有を得ているのであるから、悉有それ自体は透徹し脱落し
ているのである。・・?悉く或るは我々の記憶から脱落してて小さな修生の目がついて意ていま其処で働く用に
なっている?今朝は懐かしい野コピーした何かもう台風前の備えや色々で忙しい隙みっけて書き込みだ。でも何か
台風騒ぐほど何にも無いかも、天気の方が気象庁より頭が良いしなるようになるの時のほうが人の考えより正しいし
さあさあさあ
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現代は何か知識を知ろうと思えば本やネットで何でも簡単に見られる。悟りや宗教の知識も得られる、昔の様に道心がある人
が必死で見つけた知識や言葉も簡単に読める?悟りとは何々と本の知識で得たものは自慢のネタでしか役立たないしあーそう
いうものかと感激も歓喜も無く、なんだ煩悩のほうが楽しいと感ずるばかり、難で修業しなければの想いばかりで私は何でも
解りますのインスタントの悟りの知識詰まらんもう秋だ心は寂しく、迷って何も知らない時輝いていたなあと今は過去を振り
返るばかりでメランコリーにため息つく人類も先は知れている虚しい夢かもと仏教も外の宗起用も経済も社会も夢あるのだろ
うか兎に皆先が知れている詰まらない、あーん如何したのか何か脳天気になれないこの頃。うそばつかり今朝は台風の中でも、
脳が天気になつている空は晴れてさあ鳥も飛び回つてそんなの温かい朝うそ撃つと惜しい。ダルマは中国に行きませんでした
台風はたいした事もなく来た様で風あんまり無い雨もアーメンで刺激無い台風の現実感無い。そういえば今朝の夢は夢と現実
とアニメが混ざり合って色んなく夢の世界に生きていたもう起きて忘れたけど確か夢の中でめちゃ生きていた。
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そうじゃ、実践することが大事なのじゃ。
実践が全てなのじゃ。
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諸仏が真理を体験するとき、万物が真理を体験する。たしかに覚者と万物は、表面的に見れば同一のものではない。
しかし、真理を体験するとき、各の体験が、互いに妨げあうことなく実現するのである。全く差別なく実現するの
である。これが仏道の明白な教えである。 それを、諸仏と万物が同一であるか異なっているかという分別によっ
て学んではならない。そのため、「一つのことに通じれば、すべてのことに通じる」というのである・・・・
??一つと全てが同じなんか?つまりりブラフマンとアートマンが同一という事を気がついてほしいのか?それ
を一までも待つわなのか? それなら他の誰かにふられるひまでの意味は?煩悩に振られるとやることが無く暇に
なつてしょうがなくアート相手にするのか、まあ不通人間は煩悩に相手にされなくなるまで心理ませんという事か?
今朝は要するに前書いたの貼り付けただけ 今朝は明朗でなく迷路に居る 書き込みやる気無い
けどぐちぐち まあ画絵かまあみんなも色々あるし有る九しか無い、まあ良いか
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いらない知識は捨ててよいのじゃ。
実践が全てなのじゃ。
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五木博之人間の覚悟。文学における「神の視点」・・ドフトエススキーとトルストイとは陰と陽の関係ですが、トルストイ
も最後までキリスト教思想の中の小説を書き続けました。しかし彼も日本ではあまり宗教文学として読まれているわけでは
ありません。直木賞の選考会などで「この小説は神の視点で書かれている」という論議がなされる事があります。それは
小説技法、視点の事を指しています。すなわち本来は、「彼はこんな表情をした」とは書けても「彼はこう思った」とは
書けないはずなのに、あらゆる登場人物の過去の経歴、状況と心理までをくまなく知っている万能の神のように描くスタイ
ルです。それは人間には不可能な事をする事になります。いわば神の領域に立ち入る事をするわけです。だから欧米の作家
が「神の視点」を採用するときには。ひとに許されざる意識をもつて書かなければなりません。あらゆる登場人物の心理を
余すところ無く描くという、ディケンズ以来の総合的な長編小説手法は、本来は神の領域を侵す危険な仕事と考えられて
いたのです。・・・ ?
所業無情だけでは山有り谷有りにならないし先祖の例もあることだし人は身体という着物を脱いで風呂に入るのかも?
私には臨死体験ないし信じるだけ鴨。でもラッキョウの皮みたいに限りない着物着ているような気がするし良くわからない
けど我輪は簡単には取れない様な気がする。上がいるキリスト教は解らん事は皆良い事神のせいにする。悪い例は悪魔に?
仏教は力なくこの世の夢から逃げるだけだし、浄土真宗は阿弥陀の明日に逃げるでも逃げられる今日は人安心我あるカラー
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本気で言っているのかのう。
愚かなことじゃ。
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この世で毎日のコツコツの修行の習慣出来ないと我々庶民は?私だけか?あの世では気合もはいらずだらだらな霊で、
兎に角身替わりロボットに閉じ込められた人間として、食わなきゃ生き続けられない、あれヤレバ子が生まれて、
子育てする義務がまあなぶし、社会的に競争や共に働いて刺激的に色々な人と出会い学ぶ身得る世界で鍛えられ例?
まあ下半身は身で見得ない上半身は霊が人間かも。僧いう人は見えない霊が中心で我々はまあ厳しい物で学ぶのかも
殆ど霊の悟りの勉強は役に立たず、さあとりあえずは文句言いながらも諦めず前を見続け少しずつ有る苦のが我々
いや私の勉強か?やっぱ夜になってもため息の一休みは良い。気が向いたので後で少し椅子禅しようとにかく良い
習慣を身に着けよう。私の書き込みもよい習慣になっているのかも、師匠も毎日書き続けるし、鬼さんも、名無さん
も大王さんも案山子の様に冬の畑でも書かしている週刊現代や文春は不倫ネタで飯食っているなあ
あの世の霊のレベル上げるためには良い習慣というか思いを見につけないと?あなたは何のためにこの世に着たの?
ただの観光旅行の浄土真宗の鴨 でも今日からは牛に引かれて少しずつ坐禅するは後時々瞑想もする鴨
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そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
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毎朝文句言っているけどやる気があるのか?この頃秋のバッタバッタで朝は色々と忙しいから?でも店は暇なのでさて
いっぷくで缶コーヒー野身ながら何か書こう?ネタの用意は無いドーンで?何か?昨日の書き込みの煩悩修行はまず
観光をよく見てひーひー言っている自分を観察しまあ批判的にならずこんなものだとほっとけいや宇宙人は?缶コーヒー
をのみながらまあ良いかとどうのこうの言う。私いや自己という宇宙にはトーテンポールみたいに心の前に幼稚園から
小学校と段々にチャクラの階段を登れる仕組みになっている。無理に飛び越えようとしても無駄で今は物物して幼稚園
で心身を抑える練習兎に角基礎が大事。基礎だから単純な事習う事が多く押し絵ばかりでほんとの幼稚園児では無く
大人の身には不満と色々殴られるのが辛い身で、遊ぶのは楽しいけど辛い事だらけのこの世。自分が人に迷惑かけるし
人も私に迷惑かれたり仲良くしたり喧嘩したり、威張ったり、卑下したり、サボったりの泥んこ遊びの中で身をもって
まあ何打かんだこころは学ぶしか無い輪廻でも曼荼羅の中心には私の自己が居る野鴨。でも今は幼稚で何も解らず
個の身で今日にもがていてる明朗活発とは行かず生活の迷路の中でもがくの身でももがきながら何とか出鱈目の行は
長く描けた。缶コーヒーの見ながらこの惑星の住人は? https://www.youtube.com/watch?v=LKt4_pOixOo
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さらに実践あるのみなのじゃ。
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将棋では下手な考え休むに似たりというでも我々はルール覚えて楽しく殴り合いしてヘボ将棋の妄想遊びから抜け出すには基本の
やり方があると気がつく野鴨でさあとりあえずは我流で幾ら考えても強くなれん事学び基本小学校に入学できる野鴨。道元仏道を
習うことことは、自己を習うことである。しこを習う事は自己はこういうものだという我流を忘れて基本の道筋を習う事である?
環境ソフトに鍛えられるには基本の心を身につける事なんかなあ?またもうそうして?でも妄想無しから始めるのが基本の基本?
ヨーガ根本教典 二・五四〔制感〕制感とは諸感覚がそれぞれの対象と結びつかない結果、まるで心自体の模造品のようになった
状態をいう。 佐保多さん解説 制感とは諸感覚をその対象から手元に引き戻す。或いは感覚が対象に向かって動こうとするのを
引き止めるという意味である。感覚がその対象に結びつこうとする動きを引き止められて自分独りの状態に取り残されると、諸感
覚はあらゆる心理状態の実体である心の模造品のようになる。各感覚がそれぞれ独立に外界の色、声などの対象と結びつくことを
やめ、器官と心の一体になっているのが制感である。と 一体ぜんたいなにが始まりかそれはヨーガ有る世界?色即是空?
二・五五 制感の行法を修習していくならばついには諸感覚に最高の従順さが生ずる。 佐保多さん・・・特に最高の従順ささと
言うときには、心が専念状態である時に感覚もまた外部の知覚を受け付けないことを意味している。そして最後に心の働きもこれ
に追従して消滅する事になる。?こからヨーガの用が端◎と基本は大切だ空 世界が始まる前は空から始まる
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そうじゃ、感覚を制御するのじゃ。
それによって見ても見えず、聞いても聞こえない境地に至るのじゃ。
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ラーマクリシュナインドの光 ある信者「三昧に入ってブラフマンの智を得た人はもう話さないのでしようか」ラーマ「シ
ャン空大師は人々を教え導くために.智慧の私を残しておきなすった。ブラフマンを悟ると人は黙ってしまう。覚らぬ間
は何だかと考える。池に壷を入れて水を満たすとき.ボコボコと音を立てる。一杯になると音はやむ。そしてもう一つの
別な壷に水を満たさなきゃならんときは.またドクドクと音を立てる。入三昧の精神は人々を教え導くためにそこから降
りて来てまた語りだす。俗つぽい気持ちがほんの僅かでも残っていたら.このブラフマンの智は得られないよ。古代の見
神者たちはまあどんなに苦労して修行したことかー現代は色んな食べ物をとらなくては体を養っていけない時代だから.
この肉体が自分だという意識がどうしても無くならない。こういう有様で・・世間並みの事やりながら「我こそはブラフ
マンなり」なんて言うのは正しくないんだよ。? ラーマはおしゃべりで食いしん坊でも本との菩薩鴨
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待つわは岡村孝子の曲だったんですね 知らなかった
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教えを説くために話すのじゃ。
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空即是色ネタ キャンベル 人は聖地を創り出すことによって、また動植物を神話化する事によつて、その土地を自分のものに
します。土地に霊的な力を与えるのです。そこは一種の寺院、瞑想の場になります。たとえばナバホ族は、みごとに動物を神話
化しています。ナバホの砂絵を見ると、小動物たちがそれぞれ独自の価値をもつものとして表れています。その動物はありのま
まの形で描かれているのではありません。様式化されています。そしてこの様式化は、動物たちの単に物理的な特性ではなく、
霊的な特性を示す手段です。例えば大きなハエがいます。そのハエは、あなたが砂漠を歩いているとき、ときどき飛んできては
肩に止まります。ナバホの神話ではそのハエは<大きなハエ>とも<小さな風>とも呼ばれています。試練を課せられた幼い英雄の
耳元で、父の出した難問の答えをそっと教えてくれるのがこのハエです。<大きなハエ>は隠れた知恵を明かしてくれる聖なる霊
の声なのです。でそれら総ての目的は?土地を自分のものにすること、土地を霊的な意味の深い場所に変える事。
?良い例は今ここで坐禅や瞑想使用早えー今朝はまあ良い霊がついてきた早くしろでも今モジ文字して
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ハエに聞くより自分の本心に聞くのじゃ。
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私はこの頃色々ま散参であれも是も色々有るカラーで眼魔苦しく煩悩の奴隷でドレドレをとっても中途半端で不満即な惨めな
脳みそや力の無い身体を情けないと思うばかりで一芸にも優れもの喪無く盲廊下にたって観んな学習する姿をバケツを抱えて
立たされている楽題な生徒鴨?此処は悟った人の居場所で私は何で此処に来たのだろう?気まぐれが此処にきたけど前禅この
ごろやる気が無い。悟りとはとか考える時間が無いというか?損な事は詰らない現実と思っているのか?幻でも色々な楽しい
事しなければ身を守るために働く奴隷生活が人々には会って働かなきゃ生きて活けない死.あまった時間は色々な詰らない
趣味レーションで時間だけ刻々と過ぎる。悟りは?いまは里離の今日地で心が散舞で何も無い昔の人々の法我まだ善かった鴨?
でも幾ら軌道修正使用としても心は動かないしやる気も出ない。心が散ったものはコントロールできない。愚痴場仮鬼さんは
縁起の法なんて取り出すし本の少しも私は素人だしそんな本読んでいないし、ぽ師匠は何かご無沙汰だし、私もまあ思う世う
にならない世で落ちが混むし、そんな時ははあとはため息がある後は坐禅使用。
本の心は?演技の法は創価学会に入ればいやでもほうほけきょかそれはいやだし
私は前化であーとため息つく 秋だなあでもまだ落ち葉には早いし
-
問題は常に自分の本心にあるのじゃ。
それ以外に原因はないのじゃ。
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まあ私も色々あってやる気ない朝元気も無い朝、適当な過去のメモメモ下記鬱すか、現金現金いや元気だそう?
十方 玉城康四郎さん解説より ・・・いつたい激流の大刀にこれまでいくたび突き破られてきたことであろうか。しかしいつ
のまにか、塞がるはずの無い無欠の大穴が見えなくなってしまうのである。それだけに「十方」の巻の説述が一段とみにしみる。
・・最後の項目は光明である。十方全体は自己の光明であるという。その自己とは父母未生以前の鼻の孔である。その本当の自己
が実現すると、仏殿の扉が開いて仏にまみえる。しかしいつのまにか別人のための別のものにとりかえられてしまう。またそれを
打破して相見える。私はこの繰り返しを、なんと何十年も性懲りもなく繰り返してきたことであろうか。道元もまた同じ思いを
経験していることに、格別の親しみを覚える。道元はさらに次のような意味の一文をつづる。「本来の面目を呼び出すことはやさ
しいが、忘れ去ることは難しい。しかし呼び出されるならば、これまでの私はぐるりと回転する。回転すれば何の用も無くなる。
おやおや、まだわからぬのか三十棒を恵んでやつたではないか」この簡潔な一節のなかに私の何十年の悦楽と失望のからみあいが
凝縮されている。そしてようやくその絡み合いから開放されようとしながら、私はまた不可思議感を覚えはじめている。本来の故
郷感と無量こう来住みつづけた仮住まいへの親しさとの結び合いである。この不可思議感が私の体内でどうなつていくのか『眼蔵
』の先の巻を読み続けながら注視していきたい。
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まだ気取りが残っているのじゃ。
全て捨ててしまうとよいのじゃ。
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冷静にネガティブに考えればこの世は確かに地獄だ?地球に住む人間も動物だから当たり前?こじさんの言うように
老人は国のお荷物かも、でも今まで昭和で働いてきたから今の暮らしがあるのでは?問題は子供増やせなくなったと
言う国の問題?日本国の面積では人を面倒みられる数は限られているという事か?我々老人は早く死ねと国は言う
のか阿部こべ政権も消費税に走るし?老人の死後の道筋を日本国は示さない?この国は昔は仏教や神道の思想が昔は
庶民にも浸透して安心して死ねたけど?戦前は宗教は軍部に利用されて戦争の協力者にされて日本がアメリカに負け
たら宗教は否定され貧乏な日本の人は金が神とあがめる様になったのか?でも経済はやっぱり権力闘争の道具で
戦には違い無い。仏教の般若心境の理想は何か地球では何か植物的な霊でエネルギーは太陽光発電で賄えるとエマニエル
さんや出口さんは言う師?植物は動かなくても他に迷惑かけないで生きられる?でも動物は他の生命食ってエネルギーや
生物原料を補給しなければ生きられない霊いや物体で根本からこの矛盾を認めなきゃならない辛い例。この世は産めよ
増やせよ地球に満てよでユダヤ教の経典の理想はもう満ち過ぎて地球では溢れすぎたひ蟻軍団は他人事では無い。
霊で生きていければエネルギーは太陽光で後は空想や妄想であまりエネルギー使わなくてもこの世に天国が来る霊?
みなさん見る聴くだけで満足できるなら死後も迷惑かからず良い例となる。匂い味わいおさわりはテレビにには今無いし
妄想で感覚追加するのかどうか?今朝は纏まり無いわたしですいません。なんかまともな事書く気にならず妄想のまま
垂れ流して 鬼さんこの世見捨て世と?
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鬼さんは妻や子も居ないのだろうか僧なんだろか?
木のように空気と水で大地で生きているのか
国にまもられなくても平気で新聞もテレビも観なくても平気なのか?
人間なんで助け合い精力争い支えあいけなしあい寄り添いあう団体生物なのに
物を支えるエネルギーは他から奪わなくては足りない動物社会国の世だし
迷惑かけたりかけられたり支えあう宿命だ世だし 我々庶民はそれを受け入れて生きる?
でも僧いうひとはそれでは不味いのか辛い世なのか でもこの世うになつているし
ため息ついてもこの世うに生きていくか ぽ師匠いまはご無沙汰だし
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わしにはもはや何もないのじゃ。
自分さえないのじゃ。
無なのじゃ。
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御釈迦さんの時代のインドでは死んでも有る霊魂や魂とか輪廻転生は常識であつた。それに甘えて安心してとうしても現実を軽ん
じて心の向上しなく輪廻転生が有る世で怠ける傾向があつたのかも?でも今の時代の常識では脳の死でそれらは全て無くなると
いう?現代社会ででよく解らないよく見えないものは無価値で諸行無常の縁起もまるで物理学の法則の様に解釈され利口な脳が全
てと役立つものの面倒は見ない死?現実的過ぎて死後のお先真っ暗は考えない様にして長生きや煩悩や金に逃げる修業中になつて
いる。死後は無記で御釈迦さんが言つた昔の言葉も無機質に利用されるし時代に変わった?一方に偏りすぎて夢も無い現代。偏り
すぎ?悟りから比べるとレベルが低いと言われても魂というか真我の基本から始めないと?我々の輪廻転生が無い無の悟りより
此処から始めないと行かんのでは?でも此処のひとはその心配は無用鴨、真面目な修業者だし?
キャンベル「神話のなかには、ビジョンの探求と言いますか、神からの贈り物やビジョンを求めて旅立つという型があって、どの
民族の神話でも形式は同じです。色んな民族の異なった神話に、基本的に同じ探求が見られます。自分の世界を後にして深遠へと
下っていく、あるいは遥か彼方へ、あるいは天の高みへ昇っていく。そしてそこで、自分ではそれまでの世界では意識できなかっ
たものに出会う。その後、見いだしたものと共にそこに留まり。世界の事は放っておくか、それとも恩恵を携えて元の世界に戻り
、社会のなかでその恩恵を保持する事に努めるか、そうした二者選択を迫られる。これは容易いことではありませんが」・・
-
そうじゃ、世界は放って置いて自分の本心を見るのじゃ。
-
海印三昧 玉城康四郎さんの解説の一部 ・・まず我々が生きているという事は、海印三昧でいえば、海の中を遊泳していると
いう事である。悟ったり修行したり説法したりすることは、この遊泳に他ならない。ところで遊泳といえば、人間は海面を泳ぎ、
魚は水中を動きまわるのだが、海印三昧の遊泳はそうではない。海上を泳ぎながらその足は海底についているのである。つまり
我々は仏の三昧のなかにあるから、われわれもまた仏の根底に徹底して泳いでいるということになる。道元はこのところを
「深深海底行なりと海上を行するなり」と言っている。まずこの点に元ずいて海印三昧が次第に規定されていく。・・・
第五に、以上述べてきた諸点も体験に他ならないが、ここではさらに三昧の体験そのものに注目する。道元はそれを「夜間の背手
模枕子」と言っている。夜間に手を後ろにして枕を探すのである。実は明暗を越えて何物にも触れない状況を指している。しかも
背手模枕子は、億億万功の計り知れない時間であるばかりでなく、このなかで常に法華経が説かれている。第六に道元趣旨を敷衍
して言えば仏道ばかりではなく、キリスト教も毛沢東も悉く万有でないものは無い。そこがすなわち海印三昧である。???
今は忌々しく私は私で無になる事は無理で無になりたくないしでも今は景色が変わるしでも私は白いスクリーンでは無いし私の意識
というものは亡くならない。でも私の前に亡くなったひとは私の目の前の景色に現れないだけ鴨その人の過去は私の心の思い出にある
?私の過去も私の心の思い出にしか無い。今は山登り?ではあはあ言いながら森の中をはいずり回って私の思うようにならん
でも空は秋晴れだしまあ良いか?こだまがかえらないやる気のない書き込みははあとため息ついて目の前の未知少しずつのぼるだけ
私の本心さぼりたいけどさぼらないノルマに描かされているやる気不足でも個々は
さぼらないでも楽しく無い?ノルマとは習慣か?
-
かなり観念妄想が激しいのう。
哀れなことじゃ。
-
無門関一九ふだんが道じゃ 南泉に、趙州がたずねた、「どんなのが道ですか」。すると南泉「ふだんの気持ちが道じゃ。」
趙州、「そう仕向けるものでしょうか?」 南泉、「仕向けると、はずれる」
趙州、「仕向けねば、道が知れますまい?」 南泉、「道は知る知らぬを、越えたものじゃよ。知るというのも迷い、
知らぬも気のつかぬまで。仕向けないで、道に行きついたら、それこそ大空のようにカラリとして、よしあしはかまわん
じゃない?」 趙州はその言葉で悟った。
無門がいう---------南泉は趙州にきかれて、たちまちサラリと解き、ラチもなくしてしまった。趙州が悟れたとしても、
ここまでにはもう三十年だ。
はずれが内当たり前の道に気が付くまでは我々は未知が有る師、まあよいか一歩一歩か
77・肉体と自己(魂)、肉体となったものが、また去っていく。
自己アートマーには死はない。
それは椰子の樹の実のようです。
熟した椰子の木の実は、その殻からは別になっていますが、熟していないときには、
実とその殻を別にするのは非常に難しいことです。
あのお方を見たのなら、あのお方を得たのであるなら、自分は肉体であるとの意識はなくなります。
そのときには、肉体は別のもの、自己(魂)もまた別のものであるとみるのです。
(※真我にとっては肉体に入った魂の自己さえも真の私ではないと見ている)
78・修行している状態では、心のすべてによって「これではない」「これではない」と識別して、
あのお方に向かって行かなければなりません。
完成した状態は別です。
あのお方を得た後は、否定してきたものを逆に肯定するのです。
79・そのとき、あのお方が(神が)すべてのものになっていることを、はっきりと知るのです。
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あのお方も無いのじゃ。
何かあるものがあればまだ迷いなのじゃ。
-
凄いぞ丹波さんポシティブだあ。あの世では二十歳を限界にドンドン若返る事ができる。人間ピークだつた頃のルックスに戻れる。
最初から丹波さんの妄想総力は凄い?根が底部な人が死んだら暗くなる事考えたらついていけないけどきっと地獄の如きまずい
悪夢のような妄想世界が来るのは不味い、今のうちに明るく恐れない性格にと思うが、それは無理で?どうしたら良いのか私が気
を使う、とりあえず何でも居直る性格にも無理、いい加減にもなれずどうしたら良いのか私には良く解らない、自分で見つけよう
それしか無い。怖いものは怖いと思う事からはじめるか、私はその人で無いから良くわからん。では冷たいし。何か丹波さんの
影響が出ていてもう丹波さんもうあ軽すぎる本人は真剣にやつていてまともなのに本当に聞いてほしいくらい未知の人は聞きいれ
られないまじめな雰囲気がナイトこれじゃ不味いもつと真面目に以降。そうやあの世は思いのままの世界形も思いのままというの
か、それが一番自由困る何か決めて暮ナイト怖い世界まるだしやつぱ形や決まりを誰かに決めてもらわないと、自由な世界は困る
人ばかり。自分としては満足な丹波さんの霊なんだけど人の人の立場に立つと自己中心で高笑いばかり?
阿弥陀如来は編み物で何か絵を織り世界芸術作品を創りだす。夢中になつて今此処を編み出して行く。これは悟りとはなんですか
と聞かれた和尚さんが「ここに六斤の織物がある」と答えた本当の世界の答えかもつまり今此処が今夢中で編み出されていると
編み物を満足して編み終わった時は?如来は静かに過去を振り返って満足している
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それはただの願望なのじゃ。
今ここにある心を観るのじゃ。
死んでもそれ以上の世界には行かないのじゃ。
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サンキャ哲学とは我々の真我はブラフマンの子供の様でブラフマンが宇宙という光の世界を阿弥陀した自性と言うこの
世界は真我にとっては学校というかソフトで、赤ちゃんというか鍛えの無いボンボンの私たちを鍛え育てるために
この世の体験ソフト我今見えている野鴨。楽しい世苦しい世先は全く分からない世でぽ師匠は何だ世で体験してい
るのか何もない正解から世界を編み出したブラフマンは嘘空データー真でも我々はブラフマンの押し絵を学ぶ子供鴨。?
佐保田さんの解説一部サンキャ哲学・・・サンキャ哲学とは二元論的多元論という、世界でも珍しい体系をもった
形而上学です。二元論というのは、世界の究極原理を真我と自性の二つに分ける事です。両者は絶対に同一起源にさか
登ことはできないし、融合して一つになることもありません。永久に相容れず、互いに独立した形而上学的原理なの
です。では何故、多元論というかというと、自性は世界で唯一の根本的実在だが、真我の方は生き物の数だけあると
主張するからです。真我と自性は性格が根本的に違っております。真我は純粋に精神的原理であるのにたいし、自性
は純粋に非精神的原理です。この根本的相容れない性格の二つの原理がある機会に出会います。・・・そのとき自性
の方におせつかいな気持ちが生じます。それは真我というお坊ちゃんにこの世のなかの酸いも甘いも経験してもらい、
さんざん苦労したあげく・・最後に自分自身がこの世とは何の関係も無い本来清浄で絶対的な存在だという事を自覚
してもらおうと決意するのです。?自性は宇宙ソフトを作り出し我々はまあ何だかんだ
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本当は一元でも二元でもないのじゃ。
分別して語る者がそうみているだけなのじゃ。
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>>875
それは、2ではない=不ニと、一とは違うというような意味でありますか?
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何なんだろうなあ、親は先輩として子うしたら良いと押し絵ても、子は格子の中でもがく格子なんてこうしたいと思いの格子
でそのこうしたいから逃れられないいや逃れない?親もこうしたいから逃れず親親もこうしたいの中にいる。家族もこうしたい
で周りの社会もこうしたいで国や地球人もこうしたい円のなかで何も解らずああすればこうすればで苦しい洗濯を繰り返すだけ
そう縁のなかでは正解なんて無く、御釈迦様でもキリストも思う通りにはいきられなかった。思いはおやおやでよくわからない
のなかでブラフマンの親親も我々とそう変わらん何も皆よくわからないのではないかと素人考えの私は思うこれも格子で
世界正解を知つているひとは居るのか? 僧でも 三会唯心・・玄沙「三回唯心について、あなたはどのように理解するのか」と。
そこで真応は椅子をさして言うに、真応「和尚は、これを何とよばれますか」
玄沙「椅子」
真応「和尚は三界唯心を理解しておられません」
玄沙「私はこれを竹木と呼ぶが、あなたはなんとよぶか」
真応「私も竹木とよびましょう」
玄沙「全世界に仏法を理解している人を求めても、一人も得ることは出来ない」
?でも我々素人は本の少ししかよくわからないおやおやの人の意見を少しはきかなければ行けないのでは?でもそれは子の身では
ないので皆バラバラな重いで有る苦のか目の前真っ暗いやうそお日様はくもの上 ため息つくかまあ良い化 あーあ
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>>876 違うのじゃ。
それらは学者が勝手に分類しただけなのじゃ。
実際にヴェーダなどをよく読んでみれば全て一つであるとか書いてあるものじゃ。
自分の都合の悪いところには目がいかないのじゃ。
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>>878
すべては一つ という言葉通りの意味を素直に受けとめれば良いだけであるということでありましょうか。
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私は起きている時はここの誰より求道心が無いと思う此れは自信がある。仕事が有る時はショウガナイけど暇のとき
も煩悩にかかりつきりで忙しく座禅もサボり時間が無いと言う。朝少しだけ書き込み修行か?でも寝ている説きは
何か解らんけど罪滅ぼしに仏に修行させられている。信じられない暗い寝てる時に自動的に考えるし何か騒がしい
まあ朝までの辛抱だ朝は適当に出鱈目書いて朝日が上ってグダグタの毎日が過ぎるだけ、これで良いのだ老化
まあよいか、のだ支障は何か解散したし、議員定数削減とは議員は必要ならば増やすだろう、減らすという
事は自分から役に立たない国会議員を認めるのか?落ち葉の様に落ちていく日本の秋らめを眺めるのもまあよいか。
宗教の出鱈目?話を冷たい冷静な冷めた眼でみても、そんなのあつたかいと温かい眼で見られれば良いねで、べつに
本とでも嘘でもう過ぎた事、例えばキリストの復活、キリスト、マリヤ、エリア?は肉体を持つたまま天国に昇天した
のような伝説?物理的に冷たい眼でみれば冷たい。温かく見れば何かの信者夢なのか希望がある。キャンベルさんは
民族的観念の見方は温かい眼で見られる人だ。もしここになんらかの価値を見出すことが出来るとすれば、明らかに
彼らの肉体は外的世界へと旅立ったのではなく、内的世界へと赴いたのなければなりません。すなわちこういった比喩的
な旅が暗に意味しているのは、精神が自らの根源に帰還することが出来るという可能性なのです。
今朝はまあええのメモ写しただけ、さあ右足だして次は左足だして一法ずっを照らして有る苦か
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網多された数珠繋ぎが絡真理愛の毬か?
私はなんだかんだと子の身の人見から今見ている
一法を照らす時は一法は暮らしか
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>>879 そうじゃ、原典の言葉通りに受け止めるのが善いのじゃ。
それが真実なのじゃ。
他人が解釈したものに真実は無いのじゃ。
自ら原典を読んで実践して真実は見極められるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
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>>882
鬼和尚、ありがとうであります。
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玉城康孝郎さんダンマの顕現より。入室ー皮肉骨髄の、髄の口開きて、如来、髄の芯まで透り給う。
まるがかえ、知らねど、だれかに抱えられる。
真夜、目覚めむ。トイレに立ち、嗽いして、再び床に入り、ダンマに任せているうちに、微睡はじめむ。微睡んだまま。
ハット気がついたら、これまでは脳幹ー脊髄系、つまり心から開かれていたのに、驚いたことに、尻から開かれて脳天
に及んでいる。いわば、尻から剣を差し込まれて脳天をつらぬいたよう。全人格体の中枢が、微睡んだまま微となり、
尻が口を開けていのちを吸い込んでいる。
?心から下りーにが尻からあがりーにで小周天は大周天となつたのか?私など初心者の解るはずもない、でも玉城さん
の真面目というか道でも良いキャラクターが気に入っている少しは坐るか。私は修行するのは辛い未知だけど
先に道をまっすぐ歩くひとはすぐわかる。でも迷いみちもまあ良い未知だし同じように認めるか適当一途なあまあ
それぞれみな好きな道を歩いている師ほうほけきょ 兎に角これやったらあれやって後から後から一日のスケジュール
というか時間が追いかけてくるでも今は少し暇書き終えたら缶コーヒー飲むか一休みでも人休みの坐禅は?
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>>883 どういたしまして、またおいでなさい。
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今日の天気は曇っているけどまあ良いかで、我々衆生にはさあとつてもいい天気では無いけど、百聞は一見にしかずかと
読書百遍意自ずから通るというから、芯知なくても信じれば盲少しで安心があるのか?自我を捨てなさいとか難しいけど
画絵事言う人に付いていこう?でキャンベルさん第五章英雄と冒険 さらに我々は独力で冒険を挑む必要さえない。あら
ゆる現代の英雄たちが先に進んでくれたからだ。もはや迷路の出口はすべて明らかにされている、我々はただ英雄が開いた
が開いた小道をたどりさえすればいい。そうすれば、かつては恐るべき怪物に出会に会うと思っていた所で神に出会うだろ
う。そして他人を殺すべきと思っていたところで自我を殺すだろう。まだだ遠くまで旅を続けなければならないと思って
いたところで我々の存在の中心に到達するだろう。そして孤独だと思い込んでいたのに、実は全世界が自分と共にあること
をしるだろう。 でも今の日本は世界で無く国や社会がすべてで宗教など信仰されていていないし利益にならないもの
は認められない死後の世界も迷神とされる?でも馬鹿ばかし新興宗教やカルトの人たちはかりがニュースになる?古い音無
しい仏教は目立たないし人々の話題にもならない。そうかは自民党に役立っている?兎に角数は力この世うになっているから
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過去の英雄が先に進んでいても自分は自分で勇気を持って進まなければならんのじゃ。
孤独も恐れも踏み越えて進むのじゃ。
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鞄からラーマクリシュナインドの光がこぼれ落ちた。御免最近の私は宗教書も本もまるで読まない。読むような気分でなく
生活や色々に追われ時間に追われている不味い。インドの光パラパラ適当なとこ書き込んでイーンド?書き写すのは時間が
かかるけどまあしようがないか。で・・・「全宇宙を通関する絶対的生命と吾ら自身の生命とが根底において連なっている
という大自覚の上に立つて、しかもそれを生活の上に現そうとする努力である。故にこの点によりすれば、ブラフマンより
万有が顕れて来る次第を説くのはただ理論上のことで、実際はむしろその逆に、万有は梵に、万有は梵を最終原因(理想の標的)
として、その方に進み行く過程を説いたものとみるところに真の人生観の意義が存ずると言わねばならぬ。この意義において
吾人はタゴールの見解を甚だしく面白く思う。」木村康賢博士?途中だけど本を写すのは大変疲れる自分の考えで無く博士の
の意見に従わなきゃいけないし書き誤まりも出来ないしラーマクリシュナの発言までたどりつけず挫折するのか後で書くか?
降りいに上がりーにバラバラな思いとにかく今は疲れている動物だから余裕がない後でラーマ写すか 要するに気力が無い時間
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読まないでよいのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
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死んだら禅宗や真言宗では般若心教か?この身が亡くなり煩悩の思いと言うか妄想が残り視覚や聴覚は残る野鴨?つまり
般若心境ではバーチャル的なので幾ら食べても食べ物はバーチャルで満腹無く食べられる。幾らSEXしても子供は出来なく
幾ら社会に良いことしても対象者はバーチャルで意味があるのか無いのか物が無しい世界なのか?こじさんが老人は無駄
とか言っても妄想だからいくらでも若かがえるし、幾ら殺し合いしても妄想の空気を切るようで感覚的意味が無い野鴨。
まあ天国も地獄もその人の心しだいで好みで観える般若の世界観?天国なんてこんなテレビや映画的夢見る様なものかも?
死んだ先なんて私は妄想で考えてもホントは体験して無いしデタラメ書いているだけ。要するに飯食わなくても生きて
いける?やつても子供は育てなくても良い。社会の貢献など空回りの世界悪いことも空回りなら住みよいのか張り合いが
無いのか?天国なんてそのうち厭きてしまうのか?たしかお釈迦さんは若い時は天国にいたけど何か疑問感じて僧云う
世界に旅たったのかも?バーチャル秋て物を身に付けるひとの輪廻転生も有るのかも。もしかしたら今見ている現実も
まあトリック巣の現実バーチャルと言える野鴨。味わえる触れる感覚の実現するソフトは未来には可能か色即是空
空速是式。仏教的にネタにスレと言われてストライクの様なボール
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本当に飯食わないでも生きていけるか試すと善いのじゃ。
現実が見えるじゃろう。
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正法眼蔵 霞眼「自然成」の自というのは、己の事である。己というのは、すなわち汝のことである。つまり四大・五蘊
からできているそのものを指している。それは結局、私とも人間の位の決めようのない真人を使いこなしているので
あるから、我でもなく、誰でもない。それゆえに、定まってないところを自というのである。「自然成」の然という
のは、「ゆるす(聴許)」という事である。「自然成」というのは、すなわち「華開き果を結ぶ」の時節であり、言い換
えれば、「法を伝えて迷いを救う」の時節である。たとえば青蓮華の開く時は、火の燃える時であり、開く所は火の中
であるようなものである。火をつけるところも、焔が立つ所も、みな青蓮華の開く場所であり、開く時節である。もし
青蓮華の時節と場所でなければ、「般若(智慧)のひらめき<一星火>」が生まれることはないし、ままたそのひらめきの
働きはないのである。良く知るがよい、般若の閃きによって、百千の青蓮華が大空に開き、大地に開く、過去に開き、
現在に開くのである。火の現れる時節、現れる場所を見聞するのは、青蓮華を見聞することである。青蓮華の時節と場所
を見過すことなく見聞すべきである。
?山下清さんは見た風景をそのままに描くことが出来るこれは現実画見えるという事で覚つている野鴨。凡人の私でも
まず制感で真っ白なキャンパスに凝念やジョウロで描く訓練をすれば三昧の現実の絵を描くこと画出来るのだろうか、
?今の私は目の前の風景は意識しなければ僅かに見えるようだが意識が否定するので満足竹刀し?でも何か眼が三昧の
ヒントの様に感じるから?まず坐禅で白いキャンバス身に着け無いと初心者だし基本のコツは骨骨かも
今朝は○移しだし○出ダメ意味も理解してないし現実は蟻の飯の自分を見つめている空?
でそんな日ばかり 長い時間 https://www.youtube.com/watch?v=_uJQ-XnScno
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自分を見極めるのじゃ。
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般若心境は我々は徴兵されてこの世うに来たと言つているのか?そういえば丹波さんもこの世は監獄だと言っていたけど
あの世の仏としての生活は働かんでもよく飯食わなくても大丈夫病気なんて気の迷いだしいつも若々しい姿の仏で年取らない
そんな夢のような仏の天国から?こんな生きていくためのコロシアムゲームの世界に徴兵されたのが我々と言っているのが
宗教の教えなのか。この世のゲームでは力こそ正義で勝たなきゃ刀もなく勝ちが無い将棋や囲碁か競馬では負ければ借金の山だ
。この世はゲームと変わらんではないか生きるために色々な技や生き方を学んでだんだん段になるために頑張れでも仏教は
この世捨てていて勝ちが無いとあの世に頭皮しているのか人間から逃げているのか?それでは日曜日位逃避するキリスト教に
科学では負けている。我々は僧では無いカラー沢山の毛はやして生きなければ苦しくても生活が成り立たないでも少しの余暇は
宗教逃げなければいけないので場。苦しい野を一時的にごまかす余暇だけでは不味いのでキリスト教の人は日曜日だけ教会に
行くのか?エホバの証人の人は毎日が逃避で現実から逃げてこの世の終が毎日来ると言う師。今朝は私はさまよっていて
何かこうとしているのか意味不明。要するにこの世のゲームは辛い世と思えばあの世うな働かなくても生きていける仏の心の
世界から来たのだろうか?般若心境ははそれを教える役なのだろうかそうだつら飯食わんで働かなくても本当は生きていける
のかでも軍隊に入れば厳しい軍隊のルールに苦しんで生きていかなければ生けない死。私は字言うけど自由が不満属
要するに私はなまけものでいま日曜日が週に4日欲しいだけか。
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今の時代タバコ屋は逆風に晒されているけど
看板娘いや看板聖者としてペッパー君のマハラジさんにして
ひと休みしたい人にあの神み合っているのか噛み合わないのか良くわからん会話
させたら良いと思う?ワンパターンだしAIの得意な会話だしあったら良いとおもった
別に真面目な質問でもなく奥さん悪口や不満をぶちまけても?ベンチに腰掛け
タバコの煙を空に吹きかけてひと休みすればマはらじさんの真似くらいペつパー君
には出来るタバコも吸える師 マはらじさんは家族はなかつたのかでも話し相手は
来る噛み合わなくても平気だしそうい役な野鴨 戦場でも僧いうひと休みは必要な役
鬼さんも運送屋さんだしご苦労さん 「 」「 」
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どんどん実践あるのみなのじゃ。
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まあ観察といっても、目の前や自分をそんなのあったかいと観れるようになると云う事かも。甘いと思われてもそれで
いいのだとありのままの何も出来ない能力無いでも何とか仕様も?仏としてありのままに三つ目内と第三の眼にならない
し、そうすれば目の前の風景が優しく見える野鴨。自分とは二元論になっても時我と仏を分けて自分を優しくみつめる
仏を感じればいいだけか、我々人間は同の行で個の世うに旅するのだからあまり気張らずありのままに生きられれば
良いね。昔孝子さんが私にはもうひとり自分がいると言っていたつけ同の行の。ネタまだ短いし継ぎ足すかアルバム
アフタトーン2の KISS https://www.youtube.com/watch?v=tm-ocFVhsF4
のアルバムライナーノートより。 誠実という事をテーマに歌いたかった。一生懸命であるという事。素直で、いっわり
のこと、自分のまんまで、人生をけなすことなく、無駄な思い込みは捨てて、すべて自分を受け入れること、個人じゃ
なくて、自分の内へ向かう誠実。それは夢見る事のバワーを与え続けてくれる。つまり何故自分はここにいるかと
事の、もっともわかりやすい答えを教えてくれる。
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たかこも観察してみると善いのじゃ。
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私は一日一前で朝になると何か書かなきゃ落ちも付かない運命となつている。運命も糸瓜も我々がテレビが映し出す映像を
絵画像とながめて色々永遠に心動かしているだけと冷めた眼で見ることも出来る野鴨。実体は無いのかあるのか我々には解ら
ない?兎に角一日中目の前を見続けているだけか?何か哲学的になつて着た。でチベットの六○金剛の詩の無意識のパクリ?
目に見える現象は多様なあらわれを持っているけれど、この多様さは元々二元のかなたにある。無限に多様なもののどれ一つ
として、限り有る概念のわくにおさまるものは無い。「これはこうだ」とか「それはあれだ」と定義づけようとする罠から解
き放たれるのだ。そうすれば全ての形あるあらわれは、形をもたない無限が示すさまざまな表情にすぎないし、
それから切り離すことも出来ないから、そのままで完全なものだということが解る。全てのはじまりから、
あらゆるものはそのままで完全だと言うことが解れば、何かを達成しようとする努力は全て放棄さける。あるがままの自然な
状態にとどまつているだけで、不二の三昧の境地が生じつづける。 とそれは観前にまあ画画を見続けるテレビに夢中な人か
?是から文明が進んでロボットが人間の仕事を取り上げて役立たずの人間は完全に画面にへばりつきバーチャルな画面を見る
だけになるか?それが世界の正解鴨。テレビに何も映らないのは永遠に詰まらない外外移行としてもロボットのオマケ
ではないか?人間活躍する機械が無い。実体験それは過去に温つた界思い出の中で繰り返すだけか?今朝は過去のメモ丸写し
でやる気無い朝
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坐禅とは 空から逆さに立った夢の気があるとして幹の根元はブラフマンが坐禅して
その先の人の字枝分かれした所に坐禅する神が次々と当店ポールみたいに坐禅
が列なつている我々は枝先の身や初パの所で遊んでいるばかりでは不味い暇なとき
少しは坐るかでも面倒
人
人 人
人 人 人 AAは下手なのでもう箒した 少し笑った
-
そうじゃ、実践が全てなのじゃ。
-
今朝のネタは 肝心な事は正解が無い?正解があるように見えるのは魔法で輪を書いてその輪の中は輪から内のルール決めて
正解画あるように思うけど輪の外は○で輪空無い?御釈迦さんでもキリストでも神さんでもラーマでもマハリシさんみんな
学校教師としてその中のルールでは此れが正しいと言うだけなのかも?真実何かなんてあるのか無いのか本当は何か嘘とは
何かみんな意味も知らないのかも?嘘八百が本当かもしれないし?でも輪の中では決められたルールの仲先生は生徒よりよく
何でも知つている事にしないと輪空内の魔法世界は混乱しまとまりもなく落ち着かないルールなきゃゲームやスポーっも
成り立たない。ま聖人がいばっても自分の輪の中で解つたつもり。でも私たち初心者は歩き始めたばかりなので先生に基礎を
教わらないと○のなかではオマケばかり力もよわいし素直に先生のいう事聞くか。何か今朝のダラダラ妄想は自分でも良く
解らない、聖人たちの知ったかに何か不満があるのか?わかるような解らないような本当のような嘘かもしれない適当な正解?
-
人文字の坐禅トーナメント表 あみだくじ? 阿弥陀空行けば人別れの道の連続
があり いまここで坐つて逆走すれば必ず阿弥陀に出会う道
ほかの人の道も必ず阿弥陀いやブラフマン優勝の道
でもトーナメントは何故優勝者は一人しか居ないとケチつける野鴨いるけど
勝ち負けはまあ良いではないか とりあえず今暇なの思いつきで見回して適当に
書いているだけ ジャンキーさんも大王さんも5ちやんねる仲間だしまあ良いか
みんな意見が同じなら寂しい杉だらけもつまらん
-
他人は見なくてよいのじゃ。
自分のしたこととしなかったことだけをみるのじゃ。
-
玄沙和尚はあるとき旅にでようとしてすぐ足の指を石にぶつけイテテ。この痛みは何処空着たのかと突然想い旅はやめて寺に
引き返したとか?雪峰和尚が何故お前は旅に出ないのかと聞いた。そうしたら、玄沙は「達磨は中国に行きませんでした、慧
可もインドに行きませんでした」と答えた。??テレビを見ている人が旅の番組で色々な所に旅する気分になるけど、冷静に
見ればテレビの光が色々に変化しているだけ、見ている人はテレビの前に居る。あたり前だ私は今パソコンの前で5ちやんの
朝の出鱈目を書いている。色即是黒写っても写らなくてテレビはテレビパソコンはぱそこん光の乱舞だけど真っ黒なパソコン
の前で見続けるのは辛い、けど坐前つまり坐前禅なら盲見続けられる視でも空たまには空でも色々な光も見ないと?色即是空
空即是色。テレビやコンピューターの機会がないと見ることも無い暇でもつまらないお年よりもいるし、まあそれもよいか。
でも居た身は身を守る肉体現象でも心というか仏は身を守る使命がある。幾ら心頭滅却すれば火もまた涼しとかこの世では
幾ら冷たい仏は身を滅ぼす事は出来無い野鴨。死んだら身がなくなっても我々凡人は心細く身を着けに戻つて来る世空駄
無いと修行が身につかない平凡な人々なので
-
私は孤独だ寂しい それゆえに 世界は有ると妄想する それを分つて☆意空多
毎度おおきにさあ商売商売 そんなにやる気無し迷走するだけ心は彷徨うだけ
不安や心配から逃げ回るでも人間だもの間みつおまあ良いか
-
夢の樹 https://www.youtube.com/watch?v=GYoQW_5z8Qw
悲しい顔して生きてる女に 誰かがやさしくする 傷つくことなど知らない人ほど 悲しい顔を見せる
一つの夢見て歩いてきたのに 通じる心もなく やっとの思いで芽生えた夢の木 つみとり逃げてしまう
今窓の外 木枯に散った枯葉が舞い上がる そんなものだとくり返し 落葉は風に消えてゆく
泣きたいよね 泣きたいよね 男だって女だって 立ち止まる時には
からみついた心の糸ほどくような優しいうた あなたにも届け
悲しい恋などしたくもないのに こりずに愛を探す 死ぬほどつらいと言ってる人ほど 悲しい恋におちる
期待はしないと夢など見ないと 何度も誓ったのに わかってほしいと一人はつらいと 心がつぶやいてる
今この胸に打ち寄せる波の終りはどこだろう いつか出会うとくり返し 船は沖へとすべり出す
泣きたいよね 泣きたいよね 行く所も帰る場所も 遠すぎる時には
感じたいね 真実のうた あなたのため 私のため 生きている限り
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玄奘や義浄のように仏教界にはアウトドア派インドア派があるようです
-
たかこもかなしいことにあってきたのじゃ。
世間にある限りかなしみは尽きないのじゃ。
-
今朝は何か仏教関係ないけど他の道でも書くか?病気で死の一歩手前から帰ってきた人の話きいた。その人は体から
視覚聴覚が離れ、家族が集まり医者が長く無い覚悟して下さいとお決まりのセリフを病室の上から見聞きしている
と言つていた。そしてお花畑や三途の川がありフルカラーの輝く夢のようだつたと是も日本ではお決まりの風景が
広がってそこから何でかもどつてこの世に帰って来たけど、それ言つても誰も家族はそれは妄想で真実とは信じて
くれないと言っていた。?私の思いまあそうなのだろうなあ此処路の思いなんて体験した人にしか体験でなく
身心脱落した道元の体験も?体と心まで無くなったという?心まで脱落は他の人が坐禅中居眠りして心の塵を脱落せよ
とし叱られたのを身心脱落と聞き違えて身も心も離脱したのか?やっぱダジャレや誤変換は凄いヒントがあるのか
それは私たちでは無く私のいい加減な妄想でいっもの迷い道に行ってなにを書きたいのか何処絵行くのか迷走して
兎に角長ければまあ良い化と私は言う。でも私は最初の三行しか読んでないいっか読むのか
最後に死の瞬間の直後ネット貼るか https://www.google.co.jp/search?source=hp&q=%E7%AC%AC%EF%BC%92%E7%AB%A0%E3%80%80%E6%AD%BB%E3%81%AE%E7%9E%AC%E9%96%93%E3%81%A8%E6%AD%BB%E3%81%AE%E7%9B%B4%E5%BE%8C%E3%81%AE%E6%A7%98%E5%AD%90&oq=%E7%AC%AC%EF%BC%92%E7%AB%A0%E3%80%80%E6%AD%BB%E3%81%AE%E7%9E%AC%E9%96%93%E3%81%A8%E6%AD%BB%E3%81%AE%E7%9B%B4%E5%BE%8C%E3%81%AE%E6%A7%98%E5%AD%90&gs_l=psy-ab.12...2591.2591.0.5127.1.1.0.0.0.0.111.111.0j1.1.0....0...1.1.64.psy-ab..0.0.0....0.uiTYgZ4YgGQ
-
>>901リンク貼り間違え 間違えてもエロ画像の間違えでは無いので小枠内間違い
http://www5e.biglobe.ne.jp/~spbook/sp-introduction1/sp-introduction1-2_02.htm
-
また連続で間違いが誤重の塔になった 901でなく>>910だ
書き終わっても私は見返さないから次々と謝りが重なり続ける
でも反省は猿 それが私の良い所の思いがあるから治るわけは無い
でも周りには信用無くなる けど仏はまあ良い化と見て暮れるから
心は傷つかない
-
死の瞬間の本を読む こばちゃんの額何か映像というか映り続けている
なんかなあ 頭脳が透けてみえるのか コバちゃんの顔か良くわからん
でもええぞうえぞうなゆーちゆーぶネタ 5ちやんは明日の朝の書き込みネタ
にとつておくか こばちゃん気に入った頑張つている
https://www.youtube.com/watch?v=yrKqnxIdUew
-
死を思うとよいのじゃ。
-
死の瞬間の本を読む こばちゃんの額何か映像というか映り続けている
なんかなあ 頭脳が透けてみえるのか コバちゃんの顔か良くわからん
でもええぞうえぞうなゆーちゆーぶネタ 5ちやんは明日の朝の書き込みネタ
にとつておくか こばちゃん気に入った頑張つている
https://www.youtube.com/watch?v=yrKqnxIdUew
今は良い時代なのか観る聞くならユーチューブというかネツトがあるし、こばちやん只で本読んでくれる。
あまり儲ける気は無いのか?本は宣伝しているのかしていないのか?物しつの本は金かかるけどユー治癒部
みれば本買うことは無駄。すいません、それに真面目なひとなのにそんなに偉そうに見えない、ただ本
只で本読んでくれるのだ。電気代くらいはかねかかるけど。とにかくまあなんだ物質化は金と労力かかる
けど見る聞くはかねかからない。私の後半の書き込みは無駄といえば無駄に意味なく引き伸ばしている
だけ、こばちやんのゆーちゆーぶスルーせずに見る人は居るのか。私もぽ師匠の貼り付けたゆーちゆーぶ
は殆ど見ないしまあ気が向いたら見て欲しい。解りやすい例なにしろ霊界入門書だから。
死んだら物質のエネルギー無駄に使わず見る聞くだけの心はあ軽いでも煩悩の重いでが
夏かしい野鴨でも今は秋らめ世といわれても
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鬼和尚に質問です。
感情を観察するときは、カウンセラーの本に書いてあるように感情に浸り、味わう必要はありませんか?
むしろやめたほうがよいでしょうか?
カウンセラーいわく、そうしてネガティブな感情を癒やし、消すそうですが、浸らなくても見るだけでよいのでしょうか?
鬼和尚のおっしゃる観察と、感情に浸り味わうことの違いを教えてください。
よろしくお願いいたします。
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>>916 観察するだけでよいのじゃ。
浸っていてはいつまでも囚われたままなのじゃ。
自己同一化しているかどうかの違いなのじゃ。
観察が完全に行われればその影響はなくなるのじゃ。
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画餅 ・・・・まさしく全世界・全存在は悉く描かれた絵であるから、人も事象も、すべて絵より現われて、仏祖も絵より
成就するのである。そういうわけであるから、「描かれた餅」でなければ餓えを充たす薬はない。また「描かれた餓え」で
なければ、人に出会うことはなく、また、「描かれた充」でなければ力量は出てこないのである。およそ「餓えを充充たし」
「餓えないのを充たし」「餓えをみたさず」「餓えないのを充たさない」などはすべて「描かれた餓え」でなければ出来な
いことであり、またいえないことである。ともかく自己そのものが「描かれた絵」である事を参学すべきである。この大切な
主旨を参学するとき「物を転じ、物が転ずる」という働きを、心身に究め尽くしていくことができる。このような不思議な
働きが現われていないようでは、仏道を学ぶ力量はまだ成就していないと思うべきである。この働きを実現させることが、
「悟られた絵」の成就となるのである。?まあ絵画か幻実なのか現実なのかまあ何だ観だ。現実もスピリチァルな心の世界
もこばちやんのユーチュブみると学びとか向上とかゆうものが隠されていてどの世界にも遊び回る世海栗はならないのか?
精神修行物に学ぶ修行のノルマが?今は朝の時間に毎日書き込みするノルマがでも今書き終わった。後は何も思う様に
出来ない無力な私が残される。まあ息を吐いて吸って有る苦のもまあ楽しく無いけどまあ損な時も有るよ。勉強好きで
ないし厳しくない浪人の幽界で時間忘れて何時までも遊び回れればまあ良いけど
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幽界ではアキバオタクはなんか気合はいらんし、観光旅行ばかりでも飽きるし
女の人と遊び回るのも面倒だし、喧嘩や戦争ごっこも嫌だし、人付き合いも面倒
やっぱ金に不自由しないから競馬場や競輪場でおまけの必勝法抱えて遊びまわりたい。
それも何かつまらんけど飽きるまでやるか でもやつぱ海辺で沈む夕日眺めて
孝子さんの歌聞きながら あなたと生きた季節聞きながら沈む夕日眺めたい
それは今暇なら出来るけど今効くか https://www.youtube.com/watch?v=gVFlx2HfYsY
ぽ師匠菊花賞も終わったし ため息ついたら一歩ずつ有る苦が 思うようにならない時を刻みながら
秋はセンチメータる気分じゃ
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シルバーパーチ 冷たい厳しい修行ずきそれで良いのか? 仕事か?勉強好き?
https://www.youtube.com/watch?v=k35fGTqYE-0
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たかこもシルバーも画餅なのじゃ。
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真理とか矛盾した世界の世界の真理を宗教やすびりちぁるや科学や政治理論に求めてもみんな知ったかで
真理ませんなのか誰も真理なんか解りませんかでも皆真理たいと良い人や頭の良い人がこうすれば良い世
と言っているだけその中に悪いひともいて、ずるい人もいて頭の悪い私たち将棋に九級の初心者は抵抗せずに
あなたは私たち段もちより弱いのだから私の言う事に従えば間違いなくなるという思いは九級にも伝わる
のは何でかなあ。私がアホだから次次にあれやこれやに飛びついてため息の粗探して行動しないのも不味いし
まあ無難に目の前の私に無理なく出来るまあ上さんから拳骨くらつても良い所をコツコツやるしかないか。
選択は間違いの連続でもまず八級に上がる修行するか?かあちやんから店きれいに掃除しろと怒られたし
掃除した後ははたきかけるか。ま当たり前によくわからないに色々躓いて七転び八沖でさあとりあえずは
まあ良いか。小市民でなさけないと思いながらこの世うになんも出来なくてすいませんけど小さい事を
コツコツか 私は小ずるいとこもあるなあ
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自分で自分を観るがよいのじゃ。
そうすれば真理は現れるのじゃ。
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まあ私はこの頃やる気あるのか?此処えき始めた時も偶然はじかれたパチンコの玉の様に弾かれて2ちやんに迷い込んでぽ師匠の
とこえ転がり込んだような記憶もあいまい。私は注意散漫なほうで何事も秋やすく続かないのに何故か気に入ったものは何とか
続く性格なのか?目的意識も無くあ悟りや坐禅や瞑想そんなに好きだつたのか疑問で来て思ったのは何か蟻地獄の酔うな所だなあ
と思ったのを思い出した。まだ脱出できず地獄に食われる事も無く適当にもがいている。此処で生きる容量だけ身に憑けてノルマ
の習慣も身に憑けて楽使用も身に憑けて?目的は悟りとか見姓とか書いてあるけどホカホカにも行く注意散漫のまま悟らなくて
良いのかまあ良いか新鮮味ないなあ何とか長くしようとするのが目的では如何のではでも楽に今まで通り書けるので早く済ませる
のだ、ここでの旅は悟りの修業だあと皆参加しているのにのほほんとして、いや現実は今も色々苦労や思い悩みも多く気晴らし
に来る事も多い一休みか?今はノルマに書かされている奴隷なのか字言うは不満爆発したのか。不満は言葉にすれば気が晴れる
から毎日愚痴愚痴が過去を見渡せば道溢れている。今朝も何行九行だあ
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人間最強囲碁名人を下したAIをAIが負かす。新AIは棋譜データを使わずAIとの対戦で腕を磨いた。人間はいらなくなる野鴨。
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最初からいらないのじゃ。
人がいてもいなくても日は上り沈むのじゃ。
無為を観るのじゃ。
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今朝は我が家のベランダの手すりに手をかけながら相変わらずの平凡な目の前の空や山や木々や家々の景色をぼおつと眺め
ながら太陽も雲間からどんよりと出ているし、何か思うようにならない夢で早く目が覚めすぎて、何もすることなく、
生きるのも何も意味が有るのか金かせぐ事にいみがあるのかとか何で僧思うのなら世を儚くおもわんのか鬼和尚さんや
御釈迦さん的色々愚だ具他考えるばかり、兎に角生きて行かんと如何と思いは迷い続けるばかり私としては珍しいこと
だけど、手すりの下を観てこのまま落ちたら遺体だろうとも思い、正解は無い事考えるのは疲れるだけ、
あそうか皆風景として観れば何でもまあよい風景だほつとけそれが世界の正解だ。そういえば昔ラジオで孝子師匠が
私にはもう一人自分がいて観ていると言つていた。何でも仏のほうから観れば風景画何だろう。けどまあよいか。
私は修行は好きではないし仏もまあよい風景といつているので私のほうからもまあよいか。ただ無駄な時間だけ
過ぎていくまあよいか。時々それで良いのかの虫の声
我々は我あ我あ言つて無いで大きな心になればあれ我我私も貴方も内に見えてきても私だけえこひいきも出来ない。
皆身内何んだなあ。大きな心を持つには煩悩にとら我無いようにしましょう。声ばかり超えても私は?無視の声だし
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74素人A2017/10/20(金) 08:16:37.27ID:b8RhQODE
第十二則 【厳喚主人】 がんかんしゅじん
瑞厳の彦和尚という人は毎日自らを主人公と呼び、また自らそれに答え、ひとりでこんなような問答をしています 「はっきり
と目をさませよ・・・はいはい。いついかなる時も、人にダマされてはいかんぞ・・・わかったわかった。」
無門いわく 「瑞厳の老和尚は自分で買って自分で売り、幾多の神の頭や鬼の面を手品のように出して見せます。どうしてなの
でしょう、その本質 (さんずい+斬+耳) にあるものとは? ひとりの呼ぶものの本体 (底)、一人のそれに応じる本体、ひとり
のはっきりとした意識の本体、一人の人にダマされないようにする本体。
もしそれらを認識してしまうと、結局もとにもどって目指しているそのものではなくなってしまいます (不是)。もし他のもの
を認めて成りきってしまうと (若也他に傚わば)、すべてそれは百丈和尚に出会った野狐のように、カン違いの解釈となって
しまうのです。」頌にいわく 學道の人眞を識らざるは、只だ從前より識神を認むるが爲めなり。
無量劫來生死の本、癡人喚んで本來人と作す。 「せっかく仏道を学んでいても真理を理解できないのは、ただむかしより
別の人格を認めてしまうからで、無限につらなる時間の中で、生死のもとになるものを、カン違いの人はそれが自分である
(本来人) と思ってしまうことにあるのです」
?どうのこうの行っても世界の正解は動向の珍道中である悟りも迷いも友に有るいて一人前いやまだ半人前なの鴨?
長い時間 https://www.youtube.com/watch?v=JfujPSteZNQ
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騙されないように保証人になってはいかんのじゃ。
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ヨーガ根本教典 二・五四〔制感〕制感とは諸感覚がそれぞれの対象と結びつかない結果、まるで心自体の模造品のようになった
状態をいう。 佐保多さん解説 制感とは諸感覚をその対象から手元に引き戻す。或いは感覚が対象に向かって動こうとするのを
引き止めるという意味である。感覚がその対象に結びつこうとする動きを引き止められて自分独りの状態に取り残されると、諸感
覚はあらゆる心理状態の実体である心の模造品のようになる。各感覚がそれぞれ独立に外界の色、声などの対象と結びつくことを
やめ、器官と心の一体になっているのが制感である。と 一体ぜんたいなにが始まりかそれはヨーガ有る世界?色即是空?
二・五五 制感の行法を修習していくならばついには諸感覚に最高の従順さが生ずる。? 佐保多さん・・・特に最高の従順ささと
言うときには、心が専念状態である時に感覚もまた外部の知覚を受け付けないことを意味している。そして最後に心の働きもこれ
に追従して消滅する事になる。 こからヨーガの用が端◎と基本は大切だ空 今朝はメモの丸写しやる気あるのかはあとはため
息つくし でも前ええに足取り重くても今一歩ずつ前進?頭の中色々つまつている現実は?止観かつこつけだけか?書かされて
いるけどノルマははたした。どれどれ奴隷でもまあ良いか
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そうじゃ、制感によってサマーディに至ることも容易になるのじゃ。
全ての感覚をなくすことは恐怖感があるかもしれんがのう。
恐れを乗り越えて進むのじゃ。
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今朝は台風は横をすり抜けて行くようででも他の日本に行くのだろうな。ぽ師匠は菊花賞は不良馬場でどうなるのやら
まあこちらは人安心。さあ神話の力下記写すか?モイヤー「私の自我とは何ですか」
キャンベル「あなたが自分で欲しがつているもの。あなたが信じようとしているもの、あなたが自分に可能だと思うもの、
あなたが愛すると決めたもの、あなたが自分はこういう人間なんだと思っているもの、それがあなたの自我です。あまり
ちっぽけな自我だと、それはあなたを釘付けにするでしょう。またあなたが周囲の人から言われたことをそのままやる
ようなら、この場合もあなたが釘付けになる事は間違いなし、この場合は、首位の人があなたの龍ですね。あなたの内面の
龍を反映した龍です」 ?書き写したけど自我をなくすとかそれは私の楽しみは無い私まあ良くない。
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思いではないのじゃ。
認識されたものなのじゃ。
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鬼和尚さん相談ですが、
過去に大きな誤ちを犯してしてしまいました。すいませんでした。
どうしたら許されるのでしょうか?
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平常心是道で我々の心はコンピューターの様に心が平常べは無い師.何時もプレ津者が掛かるとアタフタする。プロの将棋指し
の人も勝負どころで意外痛くなると言っていた。でもロボット兵器は何の恐れも無く平気で人々を殺す空人間は皆でロボット
平気反対使用も決まれば良いけど.ロボットが平常の平気になれば我々人間は用は無い。その内我々にはバーチャルしか相手
出来ない時代が来るのか?もうすでに現実の歴史の時間は滅びて我々が体験している目の前に観る時間がテレビの様にバーチャ
ルだけだつたりしたら?現実を知らぬが徳なのか?御釈迦さんは実際は無いとか何時他それは般若心境書いた人?仏教の人は
それにきがついてしまったのか?政治は人々の気分しだいで政治家は欲望の塊で思い違いの小池さん政治判断はこれからAIに
判断任せたほうが良かったのか人間頭悪く判断力も無い。政治も任せたらそれは不味い
過ちは謝らないと許してもらえない やっぱ自分に謝れば自分には許してもらえる大乗部これから頑張れば良い
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>>934 懺悔告白して二度としないと誓えば許されるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
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>>936ありがとうございます。
質問ですが、誰に懺悔告白すれば良いのでしょうか?
もう一つ質問申し訳無いのですが、批判に対する対処、対応はどうすれば良いのでしょうか?
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長いといわれても行き成り短いのも、蛇あ中は如何で意味不明でも写そう。真空は空ならず 私たちが物質現象に執着しすぎる
のは、苦しみを自分から求めているのです。世の中の無常な点だけこだわり、色々な欲望を捨てるのもまた苦しいとだから中身
智のある中は如何と。
途中に在って家舎をわすれず。 家舎とは本来の自己がいるところです。途中とは旅なら今此処にある風景か?土地の風景画み
えるけ如何の行ってもほつとけと私の同行の二人旅、行く先不明でも意味不明でもたびたびのまあ好い風景そのものが目的化
何言っているのだろうかまあ一歩一歩後ろ前進もあるで世
?修行以外は何の苦労も持ち合わせない僧いう人はまあ恵まれているのか居ないのか?
我々は守らなきゃ生らない心身や家族や周りの人々の仲間もありでもまあ良い世
でまあ色々な立場で文句言いながら有るきますか。僧でない我々
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>>937 ここででもよいのじゃ。
鼻で笑って置けばよいのじゃ。
何を言われても鼻で笑って相手にしなければおぬしの評価はあがるのじゃ。
愚かな者を相手にしない偉い人となるからのう。
お釈迦様も批判だけをする者には何も答えなかったのじゃ。
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>>939ありがとうございます。
プライバシーに関わることもあるのでまたブログの方で懺悔告白させてもらいます。
ありがとうございます。
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ああ現実なんて私の思う世うに行かず、いや私・家族・周り・国・地球・宇宙・時・神や仏皆理想なんて何も無い
ではないか。私なんて家族や子供の悩みも解決できず自分の思い通り生きられず無力で何も出来ない人理想なんて
あるのか?日本の外交もまるでだめだしでもトランプゲームするアメリカと北朝鮮る皆同じだし皆無力何打と思い
なおし或る者はある無いものは無いと素直に観れれ場まあ良いのか?皆眼がみえなくても夢中で生きている。一人の
友は心の中に如何の行ののほっとけ内ひとが居るのか。仏が私にきびしかつたら行かん旅だろう、やっぱ多少は心
やさしく珍道中続ければまあ適当にまあ良いよと山の上の茶店で団子食い空観て一休みする事もある野だろう。
何書いているのだろう適当な意味不明で、思い通りの理想でなくても適当な駄今日してこれが私の実力だと認めれば
まあ少しずつまあええか?気合はいらんなあただ長くしているだけ?でもみんなも私に同じ状態だしまあ良い化。
他の人は不満言う内容でそうじゃなと言われそう。すいませんと私は謝るけど、如何の行野ほとけとあかんべーしている
アインシュタイン写真の鴨。 まあ適当に頑張るわ
如何の行野行っても 自分をやさしくして乗り越えて 大切な人 https://www.youtube.com/watch?v=SXbEInYnEF4
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>>940 どういたしまして、またおいでなさい。
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宝石の網・・・もし究極の<現実>が゛あらゆる形態からの<開放>の中での静穏な自己の享受と客体の活動的な享受ーすなわち
純粋な「精神」としての享受と物質の中での「精神」としての享受ーという二つの様相において存在するものであるならば、
<現実>としての完全な結合のためには、その両方の様相における統一が要求される。それは「此岸」し「彼岸」の両方で知ら
れねばならない。「・・・・」至高の祝福的な経験も、快楽と苦痛の混じりあった生活を送る人間という形をとつて現れるもの
も、同じシヴァなのだ。もしこれらのシウァがすべて同一であるという事が、一切の人間的行為の中で認識されるならば、あり
とあらゆる人間機能を、犠牲と祭礼という宗教行為とすることによつて達成できる。
〔・・・〕たとえばタントラのサーダカ(修行者)は食べるときも飲むときも、あるいはその他の身体的自然機能を充足
させるとき、常に実行しており、つぎのように言いかつ思うー我はシヴァである、我はバイララヴァで゛我は彼女であると。この
ように行為し享受するのは、単独の個人ではない。彼の中で、彼を通じて、行為し享受しているのはシヴァなのである。伝説的な
アシュヴァクラは言います。「すべての中に自己を、自己の中にすべてを認識し利己主義と「わがもの」の感覚から開放された者
は、幸福であれ汝は快適で゛あるべし」。?私は小さな○に囚われて生きている要するに○出余裕がないんだよう、陽言うは
まあ大きく出れば◎の仲で生きているのが見える野鴨学んだ観多でも今は小○の中
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坐禅いやザ前は目の前しか見てないと思うから私は面倒がるのか○
でも町々も山や空も太陽の坐禅の仲間で坐つている風景で◎になる野鴨
さあボリボリと頭描く私の風景でも今は雲が中途半端に遮っているし
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芝も無いものじゃ。
我も無いものと気付くのじゃ。
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いつたい何故か?物語やドラマは何故山有り谷あり場仮で.何故平平凡な幸福が延々と続いて終わりのないドラマが無いのか
。それは見ている人は楽だけどドラマの中の人は苦しい場面ばかり?最後のハッピーエンドは直ぐカットされて直ぐ終わり
後は身内??悟りも楽しい修行が無く?修行は辛くセットされていて絶望の後で悟れると脳に設定されるし??楽しい修行
が絶対良いと思うのに何故簡単にみんなに悟れる様にしないのか??香厳さんも簡単に本で悟れると思ったのに大変な思い
して悟れてよかったと師匠が簡単に教えなかった事を感謝するし??何故何故なんだろう?此処のところが悟りより重大な
秘密があるのか?我々も平凡な日常が続くドラマなんか誰も見ないし?いったい何故なんだろうか?底には悲しい秘密が
あるのだろうか??まあ何だかんだとまあ良い旅の内に色々な思いも或る師まあよいか。山や谷の無い風景画は詰らない視
私には全然解らないけど?前禅?まあええか?前を信じてまあええかで行くしか無い野鴨。何か解らなく手も暗中模索で
枕を探して行くのがスルスルと正解に繋がっている?スルメノ様に粘り強くならなければ修行もまあええといえないのか?
前に意図あるのか?目の前の糸をたどって迷路から抜けだしたら意図不明ではなかった空とあるのか?とにかく仏さんの
やることは修行の途中の我々には意味不明に見得るのか?見て来いの未来は振り返れば一つの道しか無く.まあ絵画にには
色々ある様な未知ばかり?でも未知知るべえなのかと.まあ何だかんだと進んで行く観んな世界の正解◎だしまあよいか
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悟れば善かったと気づくのじゃ。
精進あるのみなのじゃ。
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神話の力 英雄の冒険
さらに我々は独力で冒険を挑む必用さえない。あらゆる時代の英雄たちが先に進んでくれたからだ。もはや迷路の出口はすべて
明らかにされている。われわれはただ英雄が開いた小道をたどりさえすればいい。そうすれば、かっては恐るべき怪物に会うと
思っていたところで神に出会うだろう。そしてかつては他人を殺すべきと思っていたところで自我を殺すことだろう。また
遠くまで旅をつづけなければと思っていたところで、我々自身の存在の中心に到達するだろう。そして孤独だと思い込んでいた
のに、実は全世界が自分と共にあることを知るだろう。 ジョゼフ・キャンベル
?私はただ本を写して居るだけ ネタ考える気力もなく適当に書き写すだけ 内容は?今朝も何とかかけたけどこの頃やる気
不足で書き終えるとやれやれ今朝もかけた。後はため息の時が次々とやってくる朝から疲れているのかも
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自我を殺すものはほとんどいないのじゃ。
神話の英雄以上に冒険する者が越えられるのじゃ。
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虹と水晶 ・・・ミラレバはこう言っている。「心もそらも空虚だから、心の本性はそらのようだと言う事はできる。だが、
心は知性を持っているのに対し、空はそうではない」と。悟りとは宇宙に関する知識ではなく、宇宙の本質を生きる経験に外
ならない。そういう生きた経験を味わうまでは、色んなたとえを頼りにするほかならない。だがそのおかげで、そのたとえが
持っている限界にしばられる事になる。土台は、これから説明する不思議な物体のようなものだ、と言ってもよいだろう。
その物体が白くまるみを帯びている、と言えば、それについてのイメージが得られる。だが翌日になつて、それを見た
別のひとが説明するのを聞いて色も白というよりは真珠貝の色をしていると言えばそう考えるようになる。そんな説明を五十回
聴いたところでその物体に関して少しでも考えが深まるわけではない。だがいつたん自分で見ればどんなものかはっきりわかる。
?・・要するに百聞は一見にしかずか?百文は瞳にしかず?でも観れない人は例えば本のすこしの向樹心を便りにするしか内化
やり方は今は本やネットに色々書いてあるけど宗教団体はただの仲良しの集まりだし、今では一人でやる気があるかどうかが
問題?私はといわれれば修行嫌いで勉強きらいでサボりまくり何故か夢の中で修行させられている野鴨。朝の書き込みも仕方
砂漠に楽だにのり適当に書かされている修業の一つ鴨。台風は私の前過ぎたけど次は皆さんのまあええか
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空にも意識は在るものじゃ。
全て一つなのじゃ。
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鬼和尚さんこちらで質問申し訳無いのですが、人に笑われたり、バカにされた時はどの様に対処したら良いのでしょうか?
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宇宙意識 ・・・なぜなら世界の中の生の諸要素を代表すること、すはわち、形而上学に対して倫理を擁護すること、
超越を認識しつつ、しかも自己陶酔への耽溺のうちに溶解せずに生きるすべを提示することは、僧侶の役目だからで
す。カールユングはどこかで、宗教の役割は私たちを神の経験から保護することだ、と書いています。オヴィデウス
の「変身物語」に収録された神話の五十パーセントは神と遭遇したがその光の圧倒的な力を受容するだけの備えがな
かつた為に、不幸な変身をさせられた人々の物語です。僧侶の実際的な格言と隠喩的な儀式は、超越的な光を世俗の
ものにやわらげ、混乱と溶解ではなく、生活の調和と充実をもたらすものとします。これらと対照的に、神秘家は
意図的に己をその力の前に差し出します。そして彼が粉々に砕け散ることもありうるのです。僧侶と同様に芸術家
隠喩的言語の専門的な使い手です。ただ僧侶はじゅ像済みの語彙と職業的に関わっていてその語彙的言語を体表する
者なのです。僧侶は完全に仕上げられた台本を上演する演技者であり、かれれの芸術はその芸術の中にあります。
?まあこの世に配属された僧いうひとも今はあまり役立たず存在意識も泣くでも困った人々の助けになっているのか
自分がこの世の厳しい金や生活に溺れていて自分の身や家族を守るのがやっとではないか。私も厳しい世で文句いう
し?何が厳しいのか兎に角未来の夢がすべてはかなくて永遠がみえない悟りも言葉ほどの事もないのだろうしらけた
先の思いしか見えない
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人に笑われたら辛い世ね 馬鹿にされたら人はおりこうさんだ世ね
ただそれだけ まあコツコツ自分の足であるくたけ
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>>952 そのような者は放っておけばよいのじゃ。
そのような者とは2度と話さないでよいのじゃ。
人を笑いバカにする者は自らを笑いばかにしているのじゃ。
お釈迦様も悪い友とは付き合うなと言っているのじゃ。
放っておけないならばおぬしの心の中にその原因があるからなのじゃ。
言葉と自分が同一と思っているのじゃ。
自分がばかにされたと思っているのじゃ。
他人をバカにする者は自分をばかにしているのだと常に心得るがよいのじゃ。
そうすれば放っておけるじゃろう。
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鬼和尚さんすごく為になる説法ありがとうございます。勉強なりました。これからはその様にさせて頂いきます。ありがとうございます。
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私は器が小さく我が身と家族中心でしか見えないし僧でないから情けないけど人助けする力もなく、周りでは台風被害に
あったようだ。まあ小さく身をまもつて生きてきたしまあ皆と同じかとまた皆に逃げる。私の様なものは悟りなど身得ない
でよかったし必要ないし、僧であるひとは身を守る必要はないので悟つて大きく生きても苦しむ事はないのか?わかれば
わかるほどこの世のまあ良い部分は見えるけどどう使用もない悪い部分も見えてそれが見えても都合よく平気で居られる
のか?悟つて大金持ちなら金分けて少しは助けられる現実でも覚つている人が金持っている人は無いしたぶん無力だし
力ない言葉で細かすのか貧乏なひとや病気で苦しむひとは五万といる世の中でクールな目でみる覚悟の悟りの人なのか
それでなけりゃ悟つたら物凄い苦しい世でそんな苦しみ身を抱えて生きていくのか?たぶん悟りの輝かしい賞状の思い出
だけ貰って後は何でも解るは元の木阿弥に忘れてこのようで生きる僧であるひとも僧でないひともまあ細かく生きるしか
ない野鴨。悟つたまま普通のひとは生きるの辛すぎる。クールな心で割り切る聖人は平気なのかキリストは聖人では無く
自由じかの中で生きていたのか?何もわからない私たちはある意味幸せでたまに悟りに憧れる位だしまあ良いか。賞状
もらつた良い思い出しか伝えない悟つた人が多いけどまあそれで良いんだろうなあ
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>>956 どういたしまして、またおいでなさい。
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玉城さん 仏より働かされている。・・このように見てくると、日本の仏教はさまざまな大乗の各学派に育てながら展開して
来たのであるが、結局我々は何に元ずいて救われていくのか。何によつてこの身が目覚めていくのかという切り詰めた問題に
対して、鎌倉の宗祖たちがそれぞれの解答を出したのです。ひたすら念仏して仏に帰衣していく、ただ坐ることによって仏に裏
打ちされれていく、身も心も仏の家に投げ入れて随っていく、信心は如来より賜りたるものなれば、信じるものは如来と等しい、
劣悪の己心のままが仏より立て直されていく、等等。それぞれの形で鎌倉宗祖たちは教えたのです。ここは共通の土俵が現れて
おる。すはわちわれわれは働きに先立つて仏に裏打ちされ、仏より働かされていると言うことです。
禅語百選在途中に在って家舎をはなれず<臨在録>「一人在り。こうを論じて途中にあって家舎を離れず。一人あり家舎を離れて
途中にあらず」と。・・「甲は現実の人のために働きながら、しかも少しもさとりの心を失わぬ。乙は悟りの心も思わず、と
言って世間事にわずらわされないどちらが真実か?」と。
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仏は何も動かさないのじゃ。
たてのものをよこにもしないのじゃ。
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私は起きている時は努力が適当でサボりも多く、怠けても何とか生きていけるのであまり欲がないし、人生修業の時間もサボる
事が多いし、今でしょうの事もサボって怠けると何故か夢の中では厳しい反省会が始まつたり、今は必勝法研究にとられて時間
がなくほっとかれた色々な煩悩が夢の中で顕れてくる。きっと生きている説きので寝て起きての繰り返は何か輪廻転生思想と似
ているというか。何事も色即是空食う速是食で回って続いていく。辺りは前だと思う。寝て起きて、生きて死んでまた生きての
反省会が続く野鴨。まあ何だ観だ何時ても我々は少しずつ学んで行く。私は仏教は不器用ですからと起きている時は坐禅はざ前
ですましさぼりつづけて?夢に頼って少し反省するけど、何とか成るを実行して厳しさも無い。でも何故か夢の中で酷い事にあ
つても?そんなに応えないのは何故だろう。生きている時同じ事が怒れば大変な事になるのに?まあある程度ドラマの中に居る
自分に気が付いている掟があるのか。真剣すぎると辛い死、いい加減すぎるると修業にならないしまあ適当中暗い続く野我良い鴨
仏が者を自由に動かしたら私は昔のロボットの身だし思うように行かない夢を
身つづける仏は辛い世で私すいません少しだけ坐禅するか
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どんどん座るとよいのじゃ。
ラッキーな環境のうちに悟るとよいのじゃ。
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仏性 ・・・釈迦仏が言われた。「一切衆生悉有仏性.如来常無有変易」〔・・・如来は常住にして。変易すること無し〕これ
はわれらの大師釈尊の獅子吼の説法であり、また、一切の諸仏・諸祖の真骨頂であり眼の玉である。・・・では世尊のいわれる
「一切衆生悉有仏性」とはどういう主旨であろうか。あるいは衆生といい、有情といい、群生とも群類とも言うが、悉有とは、
衆生のことであり、群有のことである。すなわち悉有は仏性なのである。ありとあらゆる存在の一存在を衆生という。究極ぎり
ぎりのところを言えば、衆生の内も外も、そのままが仏性でうずまつている。ひとえに伝えられてきた。仏祖の皮肉骨髄だけで
はない。「汝はすでにわが皮肉骨髄を得た」と達磨大師がいっておらるからである。一切の衆生が仏祖の皮肉骨髄を得ている。
この点をよく知るべきである。すなわちいま仏性に占有されている全存在は、有無の有ではない。悉有というのは仏の言葉で
あり、仏の舌であり、また仏祖の眼の玉であり、出家者の真面目である。(続けなければいけないのか)
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釈迦仏が言われた。「一切衆生悉有仏性.如来常無有変易」〔・・・如来は常住にして。変易すること無し?
私何だけど私は今此処で思う。過去の今此処は過ぎたのか本当に過ぎたのか?未来の今此処も有ると思う。此処に無い外の人
の今此処もあると思う?社会の今此処も、宇宙の今此処もあるのか?でも一人の人は今此処の思いというか出合った夢に夢中で
如来は此処を重視しなければ外色々に気が散っていれば?私と外色々の今此処で散漫な三昧で空きには秋刀魚が上手い?言って
いることが纏まりも無く考えても無理な今此処の思い言葉にもならない、いやことば以前に理解もない。よく解らない今此処
でも永遠に変わらないものは永遠に変らないまあそういう事で一位置理解を必要としないけど理解と言う夢が無いと愛もなく
孤独な永遠の実在鴨、また私も何か居ているのか意味不明でも何かかけた鴨今此処の仕事か位置の仕事に間違いは無い
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実践によって証明してみるのじゃ。
実践が全てなのじゃ。
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将棋では下手な考え休むに似たりというでも我々はルール覚えて楽しく殴り合いしてヘボ将棋の妄想遊びから抜け出すには基本の
やり方があると気がつく野鴨でさあとりあえずは我流で幾ら考えても強くなれん事学び基本小学校に入学できる野鴨。道元仏道を
習うことことは、自己を習うことである。しこを習う事は自己はこういうものだという我流を忘れて基本の道筋を習う事である?
環境ソフトに鍛えられるには基本の心を身につける事なんかなあ?またもうそうして?でも妄想無しから始めるのが基本の基本?
ヨーガ根本教典 二・五四〔制感〕制感とは諸感覚がそれぞれの対象と結びつかない結果、まるで心自体の模造品のようになった
状態をいう。 佐保多さん解説 制感とは諸感覚をその対象から手元に引き戻す。或いは感覚が対象に向かって動こうとするのを
引き止めるという意味である。感覚がその対象に結びつこうとする動きを引き止められて自分独りの状態に取り残されると、諸感
覚はあらゆる心理状態の実体である心の模造品のようになる。各感覚がそれぞれ独立に外界の色、声などの対象と結びつくことを
やめ、器官と心の一体になっているのが制感である。と 一体ぜんたいなにが始まりかそれはヨーガ有る世界?色即是空?
二・五五 制感の行法を修習していくならばついには諸感覚に最高の従順さが生ずる。 佐保多さん・・・特に最高の従順ささと
言うときには、心が専念状態である時に感覚もまた外部の知覚を受け付けないことを意味している。そして最後に心の働きもこれ
に追従して消滅する事になる。?こからヨーガの用が端◎と基本は大切だ空 世界が始まる前は空から始まる
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心の働きも消滅させるのじゃ。
恐れずに進むのじゃ。
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・・ひとりで菩提樹へ歩み寄りそこで<不動の地点>に身をおき東に向きました。そのとき彼の前に時間を働かす力の神が姿を現
しました。その三つの名前は「欲望」、「死」、「社会的義務」です。この神はその最初の様相たるカーマとして三人の華やか
な娘たち<欲望><歓喜><恋慕>を見せましたが゛祝福されたものはいささかも心を動かしませんでした。次に神は恐れを呼び起こ
す姿をとりました。たちまち食人鬼の軍勢が現われて、武器や火や山までも祝福された者の上に投げつけたのですが、釈尊はま
ったく動じませんでした。すると飛んできた武器は空中で花の捧げ者に変容したのです。最後に<地上の義務>の神ダルマ、この
世を支配する神が出てきて、詰問しました。自らの王国にまつたく無関心にそこに座っている権利がおまえにあるのか。と。す
ると未来の仏陀はただ右手を動かし指先で大地にふれただけでした。そのとき一つの声が天地に響き渡りました。汝のよこしま
な試みを止めるがよい。おとなしく去るがよい。その徳によってこの中央の場所に到達した<偉大なる存在>がその決心を捨てる
ことはけつしてないであろう。するとその神は、娘たちと軍勢とともにすがたを消しました。そしてその夜<祝福されたる者>は
(1)超越的なビジョンの眼(2)諸生の彼方にある生の智(3)万物が相互依存において生成するという縁起の法、という三つの
理解を得たのです。それゆえ彼はいまや「覚者」つまり仏陀の根源となりました。それから釈尊は世界の中にあつて目覚めた
ままとどまり神秘的な道の教師となつたのです。?写したけど私の書く行が詰まつている仏と蛇で仏陀あれ字が違う
詰まり下りいにクダラナイ ?私は書く別の思いや悩みや遊びや煩悩に取り組まれて仕事は?適当に暇で5ちやんは暇を見つけて
今まで書いたメモをコピーした今日余裕が出来たら思いをそんなに時間かけず書くか さあ竜王戦あべまで見よう。
ところで私の心のレベルはハートまで上がっているのか飯はうまいしオナニーも
出来なくなつたしかあちやんとも向き合わないし周りともお付き合いは挨拶程度だし
まだ見回り半でレベル上を無理せず上げるか
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縁起の法は得ていないのじゃ。
自ら編み出したものなのじゃ。
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・・・二つの息がこのように融合するまで、中央の門は閉じられたままです。つまりまず必要なのは、修行している
個人の意識(肉体の中にある意識)が、万物を生気ずけ照明する普遍的な太陽の意識と同じものとして経験される事な
のです。さもないと、精神は物質性の中に閉じ込められたままにとどまります。あるいはなんらかの超自然的な空想
に心を奪われて(宇宙は物質のみからできているのだから)魂ないし精神はどこか宇宙とは別の場所に探しもとめられ
るなどと考えてしまう事になります。不死に至る門を守る二つの恐ろしげな像は仏教の観点からすれば、単純に次の
ように解釈されるのでしょう。それは聖域への進入を阻もうとする外的な神の意識を表すのではなく、肉体の死に対
する脅迫的な恐れを表している、と。聖域に入ることを拒むのは、この人間自身の意志なのです。なぜなら仏教の考
えでは我々はすでに不死性を獲得しているのであつて、ただ現世的な目標に対する精神の執着のゆえのみに、われわ
れはこのことを忘れてしまうのですから。物質的欲望と恐怖(ゴータマ、シャムニー王子が仏陀の境地に到達した夜に
克服したのは、この二つの誘惑でした)のために私たちは(楽園)から皮肉なことにー私たちはすでにそこに住んでいる
のですがー自分を追い出してしまうのです。仏教の教えでは<楽園追放>などということは起こらなかったのです。ただ
精神が誤った焦点にむけられているだけなのです。・・・宇宙意識より。?私は本でまあなんだかんだばかりで体験な
重いしないと鬼さんに怒られるしこつは骨骨で毎朝十分でも坐禅にノートれの観察しないと実効が無い
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私は知識だけは本で学んだボンボンなので 大変にな思いがなく
天国で飲めや歌えの毎日花見だったのか それじゃ体験な思いしてこいと
この世に生かされてまあなんだかんだ何もわからず藻学ので悟るひっようもなく
現実の生活しろと言われて個々え来た野かも
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実践が現実なのじゃ。
実践しないのは現実ではないのじゃ。
実践が全てなのじゃ。
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海印三昧 玉城康四郎さんの解説の一部 ・・まず我々が生きているという事は、海印三昧でいえば、海の中を遊泳していると
いう事である。悟ったり修行したり説法したりすることは、この遊泳に他ならない。ところで遊泳といえば、人間は海面を泳ぎ、
魚は水中を動きまわるのだが、海印三昧の遊泳はそうではない。海上を泳ぎながらその足は海底についているのである。つまり
我々は仏の三昧のなかにあるから、われわれもまた仏の根底に徹底して泳いでいるということになる。道元はこのところを
「深深海底行なりと海上を行するなり」と言っている。まずこの点に元ずいて海印三昧が次第に規定されていく。・・・
第五に、以上述べてきた諸点も体験に他ならないが、ここではさらに三昧の体験そのものに注目する。道元はそれを「夜間の背手
模枕子」と言っている。夜間に手を後ろにして枕を探すのである。実は明暗を越えて何物にも触れない状況を指している。しかも
背手模枕子は、億億万功の計り知れない時間であるばかりでなく、このなかで常に法華経が説かれている。第六に道元趣旨を敷衍
して言えば仏道ばかりではなく、キリスト教も毛沢東も悉く万有でないものは無い。そこがすなわち海印三昧である。???
ビル遮那仏が我々の一人に三昧で化ける時は一生の時間を要するのか?それから他の人の一生三昧の観劇みんな三昧の面倒観るし
たらよつぽど感激好きなのか?浅はかなる浅原さんの中に一生の時間、殺人者のあの女の中の一生の時間の観劇も体験
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観念妄想じゃな。
哀れな者じゃ。
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諸法実相 ・・・雪峰義存がいうに「大地全体が解脱の門である。しかし人を引いても、容易に入ろうとしない」と。
こういう次第であるから、知るがよい、大地全体、世界全体がたとい門であっても、出入りはなかなか容易ではない。また、出入
するものは多くない。人を引いても、入りもしないし出もしないし、引かなくても入りもしないし出もしない。進むのは誤るで
あろうし、退くものは滞るであろう。また仮にどうであろう、人を進めて門に出入りさせようとすれば、いよいよ門は遠ざかる。
反対に門をとりあげて人に入れようとすれば、かえつて出入りできるようになる。先に挙げた経文の「方便門を開いて真実相を
開く」とあるように、その中の「開方便門」というのは「示方便門」ということである。「示方便門」と言うのは、時を選ばず
いかなる時でもありながら、しかも初・中・後の三際をたち離れている。その「開方便門」のまさしく開かれるという道理は、
十方全体にわたつて「方便門を開く」のである。まさしくその時、その十方に触れてみると、いまだかつて経験したことのない
光景が展開してくる。十方世界全体を、着実に一枚二枚、三個四個と取り上げて、方便門を開いていくのであるが、その際、ただ
ひたすらに方便門が開かれると思われるかもしれないけれども、実際は、量り知れないほどの十方世界全体が、わすかばかりの
「開方便門」の収得となつて眼の前に実現するのである。このような光景はそのままが、前に経文を示した「経に属する」の力
である。・・・ という事で今此処の私はお今日の中にいる非常に窮屈で門苦もあり不自由物物いうばかり、でもまあええ
世界全体我あるとしても蟻の飯しか身縁で故小○、あれ大きな○が私で小さな○が蟻で知らぬが仏の考案が?蟻を見つけると困
る別にたいした事は無いのだけれど見えんようにと蟻の巣コロリを置いた罪の無い蟻までコロリと殺巣のか?実は罪不快ご免な
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大地全体が門ならば既に全人が入っているのじゃ。
入った者を導くがよいのじゃ。
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素人Aさんいつもすいません。
鬼和尚さん懺悔告白ですが、宅配の仕事を合わないと言って1日でやめてすいませんでした。関わった人達に大変申し訳無いです。本当にすいませんでした。
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許すのじゃ。
これからは善事を積むとよいのじゃ。
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仏は素人でこの世は真っ暗な中枕を探すてめえの私たちに任せなさい。表ばかりでは動にもならん裏には裏の仕事が、
仏だけが飛び出してもどうのこうのわけが解らないし、周りに迷惑かけるし観音してどうのこうので観音。
観音 雲厳「大慈悲観音は多くの手や眼をもって働くのですか」
道吾「あたかも人が夜中に、手を後ろにもって枕を探すようなものです」
雲厳「分かりました、分かりました」
道吾「あなたはどのように分かったのですか」
雲厳「遍身が手眼です」
道吾「よくいいましたね。でも八、九分どおりです」
雲厳「わたしはこのとおりですが、あなたは如何ですか」
道吾「通身が手眼です」・・・・
良くわからん 分かっているところは真っ暗と枕をている様な? 一つの大目と細かい多目我逢るような?やっぱ網多の
ネット通信?網陀もある。立ち話したい人もいるし、話聞いて☆いけど会話面倒で暇も無い×の人もいるしそれは私?
で2ちやんも5ちやんになるしまあ色んな事がある世でお先枕でもがいても頭ぶつけても一つずつ進むしか無い
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適当なことを言っているだけなのじゃ。
言葉に囚われてはいかんのじゃ。
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漫然と現代を何も疑問ももたず生きるのはどうなのだろうか?そんな事言っても金稼ぐ働かなきゃしょうも無いし
夜は何したら良いのか解らず酒飲んだりテレビだらだら見るだけ、あとはおしゃべりの平凡な毎日。そんなもの
日々好日とはいわない、生きている時もだらだら損な人達は死んでからはどうなるのかと考えた。生きている時と
そんなに変わるわけは無い鴨。体が無いでも霊がある、テレビの様なこの世の人についてドラマや酒飲みの観劇する
だけの平凡なあの世ではまあよいか、本人が不満でもしょうもない満足しているから、そのうち舞い戻ってきても
あまり変わらない生活でこの世もあの世もだらだらの永遠。形がなくなつてもなんら変わらない心も此処路も同じく
コツ骨と修行せよ。やる気が無いまそれも在り処、私がそこで妥今日しよう頑張るのは明日から修行だ。損な事では
明日という日は永遠に来ない
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そうじゃ、日々精進あるのみなのじゃ。
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更に精進あるのみなのじゃ。
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昔より「頭上に頭を安ず」の一句が伝わってきている。おろかものは、この句を聞いて余計なことを戒める言葉と思っている。
あり得ないことを言う際に「どうして頭の上に頭を安ずるという事があろう」というのが、世間一般のならわしである。
夢中説夢はすでに現われているのであるから、凡夫も聖者も同じくそれを用いているのであってそれに相違ない。良く知るが
よい、昨日も夢の中で夢を語って、これが夢中説夢であると認知していたし、今日も夢の中で夢を語って、これが夢中説夢で
ある事を学んでいるのであって、それこそ仏に会う喜びなのである。しかるに仏祖のいう、明々白白なる万象の夢は百千の日月
よりも明らかであるのに、生まれながらの盲人にはそれが見えない。まことに哀れである。いわゆる「頭の上に頭を安ず」とい
う、その頭は百草の頭であり、十万世界の頭であり、十万世界を尽しての頭であり一句に合致する頭であり、百尺の竿にのぼり
つめた頭である。「頭上の上に頭を安ず」という場合に、その安も上も悉く頭であると学ぶべきであり、究明すべきである。
?でも僧いわれても未来は身えずこの先どうなるのかわからないでも安心せよ先は何とかなるのかなあ。いまのは後は摸学の身
まあ良いか一方の身だし
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妄想の上に妄想を重ねているのじゃ。
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宇宙意識 境界の像 したがってラーマクリシュナによると時間から永遠性(本当はこれが神話の指している場なのです)への
移行にさいして、純粋にヨーガ的な方法は、世界もろとも自分自身を超越の中に滅却すること、献身の対象たる聖像が含んで
いる形而上学的な意味をとことんまで追求し、それらの像の心理的な枠を一切捨て去って、ついには心そのものの解消にまで
到着する事なのです。しかしより穏やかで献身ということに即したもうひとつの方法があります。それは崇拝の対象となるこ
れらの像が境界の像であり、したがつて二つの世界に属しているかららです。つまりそれらはイメージ的な外延の人間的な魅
力においては時間的であり、同時に永遠性へと開かれているのです。
<超越的ビジョンの眼>が開くのは、どこでもない「そこ」においてです。芸術の道においてそれは、まさに
あの瞬間(ジェじぇエームス・ジョイスを引用すれば)「美の全体性によってとらえられ、美の調和によって魅惑された心がこ
ういう至高の徳性、審美的映像の明るい光輝を輝かしく認識する瞬間〔・・・〕審美的快楽の輝かしく静寂な状態」に他なり
ません。インドではこの状態に到達することがヨーガの典型的な目標とされています。それはさまざまに記述されていますが、
究極的には涅槃と呼ばれるものです。これは天国のような場所としてではなく、(情念)、(像悪、?)、(そして(迷妄)という
心の三重の火が消えることとして理解されなければなりません。
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美も捨てるのじゃ。
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歴史的人間を動かし彼を規制する道徳制度、世界史という悪夢を生み出してきたのです。さらにそれは人間が動物と共有する
基本的衝動ーすなわち(1)他の生物を食らって生存していくこと、(2)子孫を産むこと、そして(3)征服して服従させることーの
中枢です。こういった基本衝動は、まつたく制御されないまま放置されるなら、凄まじい破壊性を示します。それれは20世紀の歴
史が明瞭に物語っているところです。ヨーガのモデルに従えば人間の意志が生命の動物水準を超える目標を目指すところまで高ま
るためには骨盤部ではなく心臓部にある第四のチャクラの覚醒が必要です。この変容中枢の名前は「アナーハタ」には「打たれな
い」という奇妙な意味がありますが、これは「二つの音がぶつかって立てるのではない音」と解釈されます。生理的な耳に聞こえ
る音はすべて、互いに擦れ合うかぶつかりあう物体によつて生み出されます。たとえば声の音は息と声帯がぶつかつて出来る音で
すしかしこのようにして作られたのではない音は、偉大な音調あるいは唸りであり、一切の事物の顕現(エピファニー)であるとこ
ろの創造的エネルギー(マーヤ、シャクティ)の音なのです。そして現象的形態の中に創造的音調を直感する事が、心を愛に向かっ
て開きます。いままで「それ」だったものが、そのときから「汝」となり、創造の音調によって生命を賦与されるのです。
これが神話の物の見方で゛あり第三章の「芸術の道」もまたこのようにその事物を眺めます。それは<新しい世界>および<精神
の内なる生命>(<処女降誕>)の目覚めです。自然の道においても人間はとはどきこのような光のある世界を垣間見ますー骨盤に位置
する生物エネルギーの要求が尊重され充足されて、種の独裁から開放された人間は、そのときから個人としての自由を獲得するの
です。それは<新しい世界>(<約束の地>)および<精神の内なる生命>(処女降誕)の目覚めです。自然の道においても、人間はときど
き、このような光のもとにある世界を垣間見ますー骨盤に位置する生物エネルギーの要求が尊重され充足されて、種の独裁から開放
された人間は、そのとき個人としての生きる自由を獲得するのです。
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茶蔵も人の意志には勝てないのじゃ。
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梅華玉城康四郎さんの解説。 ・・・さて、「雪裏の梅華」とは何か、一言で表すならば、それはもともと古今にわたって
見開かれている目の玉である。表裏一体、表も裏も無い。限りなく古くから、我が全人格体の礎にポッカリと華開いている。
そこに思い及ぶとき、疑うべきものはまつたく消滅し、「天上天下唯我独尊」の目の玉であることがわかる。あらゆるもの
が目の玉に繋がっている。この梅華こそ、迦葉に付属し、そして次からつぎへと託していく「ただ一枝」である。その梅華が
道元にようやく明らかになつてきたのである。道元自身の目の玉として見開かれていきたのである。それはまさしくかん頂位
というべきである。 しかしながらこの梅華の最も行じたいのは、瞑れるはずのない目の玉が、実感として瞑れたときである。
如浄の一説はそれを次のように語る。「釈尊の目の玉が瞑れるときも、雪の中で梅の一枝は華開いている、いまや見渡す限り
の茨や棘はかり、それを笑うように春風は華の咲き乱れる中を吹き渡っているが如くである」この茨や棘ばかのを道元はどう
処理するのか。もし魔が差してきて、目の玉が見えなくなつたとき、「今日はわたしの今日にあらず、大家の今日なり、直に
梅華眼晴なるべし、さらにもとめることやみぬ」もとめればもとめるほど見えなくなる。求めてはならない。そして私の今日
ではなくて大家の今日に気ずくべきである。そのとき目の玉は直に開かれるであろう、と言う。そして「ただ一枝という語の
命脈のなかに、身をひるがえしていく」のである。・・・
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観念妄想に陥っているのじゃ。
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あるときちょう州に一人の僧が問うた「犬にも仏性はありますか」じょう州「有」 ?考案する何で生物がこの世に
生きる意味はあるのか?何でお高く泊まっている仏が翔も無い煩悩の塊の生物の仲に何時手将棋を指さなければ行かん
のか。下らんけど楽しいのか?エロエロいや色々雑多なテレビ見させられてもまあそれなりに学べるけど時間の無駄で
は無いのか。でもテレビやパソコンけして真っ暗にして星眺める事も無く過ごしている今の時代は?自然も殆ど相手に
市内時代環境の中、宗教も生物的社会的宗教で満足する意味は?人は環境の中で生きているから外れた事ばかり考えて
いると外れた人間になるし仲間はずれになるし、でも心の仲間で社会で縛る事は無いだろう。また仏と性の主導権争い
がはじまるし纏まらなくバラバラ。人が死んでも自然は亡くならない当たり前だし煩悩の多い私はキリスト教が会って
いるのか?でも何か会わないし?今の私ではキリスト教は人は罪犯してアーメンであー面倒な事は皆許される楽な
宗教の知識しかない本当はよくわからない?浄土真宗は罪も無く以下同文?仏教も同じく今は何の力もない。いまは
科学や民主主義の多数決に支配されて心の中まで縛られる。でも昔からそれは同じか人間に自由はあるのか
瞑想の制感や凝念は自分の世界を作るのか?でもこの世うに居ると無用の用で何の役にもたたずこの世では仮屋住まい
の身に支配されて周りと共に生きる様になつているし
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仏性なども作られた観念なのじゃ。
囚われずに進むのじゃ。
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一九 ふだんが道じゃ
南泉に、趙州がたずねた、「どんなのが道ですか」。すると南泉、「ふだんの気持ちが道じゃ。」
趙州、「そう仕向けるものでしょうか?」
南泉、「仕向けると、はずれる」
趙州、「仕向けねば、道が知れますまい?」
南泉、「道は知る知らぬを、越えたものじゃよ。知るというのも迷い、知らぬも気のつかぬまで。仕向けないで、道に行きついたら、
それこそ大空のようにカラリとして、よしあしはかまわんじゃない?」 趙州はその言葉で悟った。
?僧言うひとは恵まれていて無事名馬なりで 庶民に生まれた我々は家族や周りや国と友に生きていて、自分の思う通りに生きる事は無い
兎に角山あり谷ありの今をため息と友に思うように生きるしかない野鴨
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そうじゃ、何も図らずただひたすらに実践あるのみなのじゃ。
それでこそ悟りも向こうからやってくるのじゃ。
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今ここに有ると思うものが現実にあるのか、ううん哲学的だ自己満足?見えるものが見えれば現実なのかでは夢は?
身縁でもある物はある。最初から良くわからん出鱈目。要するに有るものは有る、無いものは無いこれは間違いない
今ここ?何が哲学か?もう忍者がで逃げよう何とかは書けた今個々のありのままショーペンハウワーの続きは何時か
・・・キャンベル「・・二ーチェにアモール・ファティ〔運命愛〕という重要な観念があります。自分の運命を愛したまえ、
それが自分の人生なのだということですね。ニーチェが言うのはもし君が、君の人生のうちにたったひとつの要素でも否定
するなら、全部をバラバラにしてしまうことになる。さらに状況が困難だつたり恐ろしいものであるほど、それを克服した
人間像は偉大なものになる。君は悪魔を飲み込むことによつて、その力を我が物にする。人間の苦しみの大きさに応じて、
人生そのものも大きくなる。いまいつた私の友達は、「すべて神様がなさつた事だ」と思っていました。「そうじゃない君
が自分でしたんだ。神様はきみの中にいる。君自身がきみの創造主なのだと」と私は言いました。「もし君のうちに苦しみ
の発生源を探し当てたら、君はそれと共に生き、それを肯定し、それを楽しむことさえ出来るかも知れない。君の人生とし
て」と私は言つたのです」・・「生は総て苦である」と仏陀は言いました。ジョイスは「人生はそれを捨てるに値するもの
だろうか」という一節もあります。・・・ 同の行のまあ今を有る苦しかない何とかにはなるし
-
値しても値しなくてもやがては捨てることになるのじゃ。
現実から眼を背けてはいかんのじゃ。
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もう夢のような出来事だしもうそうするしか無い鴨.跡で婆さんに追求される鴨。つい急だつたので夢じゃ内科思ってと誤魔化
す。夢に責任を押し付ける(犯罪者の心理はそうなの鴨?)。だから私は後から後えと夢に追求される鴨。とにかく誤魔化して
夢のようなに逃げるなさけないけどそうしないと生きられないにも逃げ続ける。仕様が無いよねも逃げ続ける。ありのまま蟻は
ゴミ袋から10匹ぐらい逃がしたけどそれ以上は面倒だ許せ御免で蟻の飯友焼かれるのかこの世は儚い夢の如しああ無情.意味
不明にも誤魔化す。損な事にならないよう後先を考え僧した僧はズルイ鴨でも人間だものであいだみつお。落ちも決まらない
作者と演技者と見る人が感同すれば心は満たされる野鴨でもなかなか我々は役に泣かされてでもそれがハラハラ観たいという
人がいるから解ってあげなくてはこれくらいでまあ良いかでも少しずつはまあ良いになれば満足化
?でも現実は今の現実なんで夢とか妄想では逃げられない現実私は苦労なく年取ったので鍛えが泣く少し位厳しい目に合つて
いま迷路で摸学いている。書き込み何手理想ばかりの夢や空々妄想何とか書けど現実身画無い勘弁して
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夢の中でも修業するとよいのじゃ。
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生きる自由 ・・・神話の目的は個人の意識と宇宙の意識とを和解させ、それによってこの様な生命の無知にたいする要求を
追放するところにある。さらに和解は時間といううつろいやすい現象と、すべてのなかで生きかつ死に行く不滅なる生命の真
の関係を悟ることによって成立する。「人が着古した衣服を捨てて新しい別の衣服に着替えるように、自己も古びた身体を捨
ててあたらしい他の身体に入って行く。この自己を剣は切らず、火もこれを焼かない。また水もこれを濡らさず、風もこれを
乾かさない。この自己は切られず、焼かれず、濡らされず、乾かさない。恒存し、偏在し、堅固、不動な自己は永遠である」
行動の世界で、人は己の行為がもたらす結果を思い煩うなら、永遠の根源にたいする集中力を失ってしまう。しかし己の行為
とそのもたらす成果とを「生ける神」の膝に捧げるならば、供え物と同じようにそれによって死の海の束縛から解放される。
「執着なく、つねになすべき行為を遂行せよ。・・・?まあ得絵絵事勇ひとは半分はバーチャルな神の見を付けているけど
我々は痛いとか責任とか先の不安とかわが身や家族の幸福を願い金もないし心は先は如何なるの迷路に迷いバーチャルな
ドラマでは無くほとんど現実しか見えない勇気という無責任み身に付けられない、でも国の中にまともな第二の国の宗教を
持つ人は日曜日や念仏を唱えるときは現実から逃れひと時がある野鴨。現実逃避がテレビドラマでは向上は無いし
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時間もないのじゃ。
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如何のこうの一手も相手に不満属を擦り付けて、自分もこの世うではないか?心と体・夫と妻・親と子・周りの環境と自分
・山と川・天と地・今と昔それなりに力足りなく無力なのを他に擦り付けたり悲観したりそれなりが見得ずみんな珍道中
でも不満足でもコツコツと歩むしかないまだ身心は小学校にいる先は見えず、思い上がりしてもこの世うでなさけなくても
皆同じで摸学しかない情けないけどまあしょうが無い。心は暗くマイナス思考では行けない少しあ軽く行こうとしても
無責任には慣れない世でまあ同の行野でお先は松倉で行くしかない。僧いう人はうらやましいけど私たちは属俗した役を
演じて七転び八起で達磨さんの様に転がって行きますか現実は夢が無い不満でもしょうがないか
今は此処に書く時間もひまも無くても時間に隙を見つけて書くだけか後見返す余裕の時間は無い
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書かないで実践だけすればよいのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
-
宇宙の眼 昔読んだ本思い出して寝たがネタになってシマッタ夢が起きたら不味い。
ベヴァトロン陽子ビーム偏向装置が故障し、電子工学者のハミルトンは妻のマーシャをはじめ、他の7人の見学者らとともに、
磁場と放射線のエリアへと投げ出されてしまった。そうして、8人は1959年の別の世界で目覚めることになる。そこは、第二
バーブ教の神が支配する世界だった。この神は怒りの神であり、呪いの神でもある。同時に、救済の神であり、奇跡の神であ
る。呪いはただちに現実となり、天罰はすぐに現世にもたらされる。怪我をすれば奇跡によって直すこともできる。神は現実
に存在し、人々を見ているのだ。当然、異教は呪われる。 第二バーブ教の世界であることを除けば、ハミルトンがそれまで
生きてきた現実のアメリカ社会であることに変わりない。同じ同僚がいて、飲み屋があり、家がある。ただ、仕事の内容は変
わり、世界の価値観は変わっていた。 その世界の原因は? それをつきとめ、ハミルトンたちが第二バーブ教の世界を脱し
たあとに、また別の世界が広がっていた。どうやったら本当の現実に戻れるのか? 本当の現実に戻るまでにはどれだけの別
の世界を過ぎなければならないのか?誰かの妄想のような世界であっても、ハミルトンはごく普通の人間として、愚かである
と同時に賢い。人間として守りたいこと、守りたい考え、守りたいものを失うまいと絶望的な戦いを続ける。なぜ。なぜなら
ば、それがハミルトンだから。普通の人間だから。本書「虚空の眼」では、第二バーブ教の世界を含む3つの忌まわしく、
おどろおどろしく、そして、滑稽な世界が描かれ、同時に、「現実の世界」も描かれる。・・
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【仏教】悟りを開いた人のスレ避難所51【悟り】
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