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佛教の經典・祖録・禪語等の保管庫
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:
安堂
:2024/09/01(日) 09:30:34 ID:kYPiI31g0
禅の修行で広く伝えられている誤りに、「坐禅によって今の自分の様子を修正していくことである」あるいは、「坐禅をして自我を忘じ、無我となることである」あるいはまた、「禅を学んで無や空を思想として勉強し、自由なものの見方や新しい考え方を習得することが禅である」という例が多くあります。
しかし、間違えてならないのは、「修正していくのが修行ではなく、修正しようとしている自分を捨てるのが修行である」ということです。
無我になろう、あるいは仏となろうとしている自分を忘じた様子が、真の無我であり、仏というべきです。いい換えれば、ものの見方や考え方を学ぼうとしている自分を捨てたところに、無とか空というものの見方や考え方を離れたものがある。そういうことを実証していくのが、禅の修行です。
禅の修行においては、修行を始める前に、修行の方向、即ち自己に参ずるということの道理をよくよく学ぶべきです。無我になろう、仏になろう、あるいは只管になろうとする、その自己を忘れるのが修行ですから、自分の思いどおり坐禅をしても、なんにもなりません。
「自己に参ずる」という修行の道理が明確にわからずに坐禅をし、公案功夫をいたしましても、先ほど示したように解決の場所を誤るために、修行が真の修行にならないということです。
修行の道理を学ばなければならないもうひとつの理由があります。「法」という認識以前の事実を求める修行は、一般的な分別や判断を離れた世界へ向かうことになりますので、日常の常識は到底及びがつきません。これは難易の問題ではなく、「無一物」の世界へ向かう道理を普通の尺度で測っては誤りやすいということです。
(原田雪渓、『自我の本質』pp.135-137)
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