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放送大学テレビでアラビア語講義
112
:
さーひぶ。
:2011/06/12(日) 18:20:52
(
>>111
の続き)
オスマン朝君主の称号は、当初はトルコ(チュルク)系の首長を指すベイ(君侯)でしたが、
第3代ムラト1世はカイロにいたアッバース朝カリフの末裔からスルターンを名乗ることを
認められたとされ、世界帝国の君主として公式にはイラン風のパーディシャー(帝王)、
さらにはシャー、ハーン、カイセル(ローマ皇帝)などさまざまな称号を用いました。
第9代君主セリム1世「冷酷者」は、「征服者」メフメト2世と最盛期のスレイマン1世の間に
あって扱いがそれほど大きくはありませんが、オスマン朝を大帝国に引き上げた功労者です。
アナトリアにシーア派を広めようとしていたサファヴィー朝に対し、スンナ派君主として抗します。
西暦1514年8月23日、ヴァン湖東方のチャルディラーンの野で両軍は激突しました。
当初はサファヴィー朝のキジルバシュ騎兵が優勢でしたが、オスマン軍の火砲が勝敗を決しました。
常備軍の中心であった近衛歩兵イェニチェリの鉄砲隊はマスケット銃(火縄銃)を持ち、
砲兵隊はカノン砲200門・臼砲100門などの野戦砲を装備していたようです。
これらの大砲・鉄砲による砲火が浴びせられて、サファヴィー軍の騎兵は壊滅的打撃を受け、
サファヴィー朝を興して常勝を誇っていた英傑イスマーイール1世も命からがら敗走しました。
この地が峻険な荒地にあり、焦土戦術もあったり補給が困難であったため、追撃は中断されました。
命拾いしたサファヴィー朝は、大砲・鉄砲の導入に努め、オスマンとイランの長い抗争が始まります。
セリムは続いて、1516年のマルジュ・ダービクの戦いでマムルーク騎兵を破ってマムルーク朝を滅ぼし、
エジプトからシリア、マッカ(メッカ)とマディーナ(メディナ)を含むヒジャーズ地方をも
制圧してイスラーム世界の盟主を自認し、アラブ地域の大半がオスマンの軍門に降っていきます。
セリムは、火砲が騎兵に優越する戦果を示し、それまでの遊牧騎馬部族の天下を終わらせました。
戦争における火力の支配が始まり(長篠の戦いより61年前)、それは現代でも変わっていません。
第10代君主「大帝」スレイマン1世の時代にオスマン帝国は極盛期を迎えます。
スレイマンは、ハプスブルク朝の首都ウィーンを攻囲してヨーロッパ諸国を震撼させます。
オスマン帝国の軍事力を脅威と受け止めたヨーロッパ諸国は、兵器や戦術の開発に努め、
17世紀後半の第二次ウィーン攻囲の失敗により、オスマン帝国の軍事的優位は終わります。
すでに大航海時代に乗り出していたヨーロッパ諸国は、軍事技術の進歩とともに科学革命を
経験し、市民革命や産業革命を経て、「近代化」の大波を引っ下げてオスマンやイスラーム世界
の前にも立ちはだかって来ます。
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