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摂受折伏の主体は誰か?

1管理者:2005/06/26(日) 17:54:49

新しいスレツドの提案がありましたので、立ち上げます。提案文は以下の通りです。

スレッド:摂受と折伏について
投稿番号:531
投稿者名:顕正居士
Eメール:

---
投稿内容:
ひたちさん。

ここの掲示板ではスレッド乱立を防ぐために管理者問答迷人さんのみが新スレッドを立てられます。
とりあえず、

 「摂受折伏の主体は誰か?」

がよいとおもいます。この話題が非常に多かったですから。

ひたちさんが題に異議なければ、以上賛成の旨をお書きになれば、問答迷人さんが立ててくださるでしょう。
以後は「摂受折伏の主体」に関する話題はみなさんこちらへ投稿なさって下さい。この話題はたしかに重要
です。私見では、摂受も折伏も仏の側からされるものであるという視点を欠くと、遺文の表現がなにか曖昧に
見えてしまうのです。

2犀角独歩:2005/06/26(日) 18:25:27
顕正居士さん

いつもながら、先鋭なご指摘、敬服いたします。
“國土苦樂”という点、まったく思慮から落ちていました。
つまりは、以下の点ですね。

「若國土苦樂由於衆生。非佛所作。佛但應同而已。若作折伏攝受者。佛鑒機縁或作苦國。或作樂國。苦樂由佛不關衆生。」
(勝手な訓読ですが)
「若し國土の苦樂は衆生に由る。佛の所作に非ず。佛は但だ、同じく應のみ。若し作折伏攝受とは、佛、機縁を鑒み、或は苦國と作し、或は樂國と作す。苦樂は佛に由り、衆生に關わらず。」

3顕正居士:2005/07/01(金) 10:15:51
国土苦楽

大乗仏教の仏とはその身が宇宙に等しい報身仏(毘盧遮那仏)である。したがって宇宙のあらゆる事件に
仏が無関係とはいえない。有神教では、ならば全善の造化主にして、諸種の災害を正義、善良の人民にも
与えるのは何故かという問いがおこる。これを「弁神論」という。
http://plaza.umin.ac.jp/~kodama/ethics/wordbook/theodicy.html

有神教的汎神教である大乗仏教においても同様の問いが生じる。天台宗ではこれを「国土苦楽」の論題と
いう。『天台宗論議二百題』(隆文館)から抜粋します。法華玄義巻第6とその釈籤注をめぐって議論される。
−−第三門要・第38題・国土苦楽−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
問う。国土の苦楽は、衆生の業感なりや。はた諸仏の変作なりや。
答う。ともに、その意あるべきなり。

これについて、およそ国土苦楽の報は、かならず善悪の因による。いかでか諸仏の変現なるべきや。
ここをもって荊渓は「沙石七珍随生所感」と釈せり。知るべし、ただ衆生の業感なることを。

答う。諸仏の慈悲、苦楽の国土を変現して、衆生を折伏摂受すということ、玄文第六の釈相、委悉なり。
誰かこれを疑わんや。ただし、難にいたっては、衆生業感の一辺なり。
−−(ここからは要点を抜粋します)−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

もし、善悪の因をなして、苦楽の報を招くことを論ずれば、すなわち衆生によって、諸仏にかかわらず、
もし、苦楽のことを用いて、衆生を折摂するに約すれば、すなわち仏の変現にして、衆生によらず。

諸仏、苦相を現じて、衆生を悩まさんやというに至っては、諸仏の慈悲、ただ抜苦与楽のみにあらず、
苦域を変現して、衆生を折伏するもまたこれ出離得脱のためにすれば、慈悲にあらずということなし。
もし一向、この義なくんば、衆生の悪業、強盛にして、得脱の途、遠かるべきなり。

諸仏の変現、衆生の業力により、衆生の業力、全く諸仏による、二義、相いもちいて、依正成立す。
なんぞ一辺を執せんや。いわんや玄文に、すでに明らかに、両意ありといい、釈籤に両属という。
たれか疑いを残さんや。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

4顕正居士:2005/07/01(金) 11:50:50
天台智邈が摂受折伏をいう文脈には4種類ある

1 犀角独歩さん
が指摘された如く、三大部中では法華玄義の国土苦楽を述べた部分に最も多くあらわれる。
2 開目抄に引用される摩訶止観の文。涅槃経(大経)の「勢力折伏」についていう。
http://www.geocities.jp/xianzhengjp/shoshaku
3 法華折伏・涅槃摂受の文(玄義)。「法華折伏破權門理。如金沙大河無復迴曲。涅槃攝受更許權門。各為
因縁存廢有異」。法華円教の絶待妙についていう。
4 破法折伏立法摂受の文(維摩經略疏)。この疏にも摂受折伏の語が多い。要点は「因縁所生法我説即是
空破法折伏也。亦名為假名立法攝受也。亦是中道義教化衆生令法得久住。法久住者令見佛性住大涅槃」。

荊渓湛然の注釈は4種類中、2の涅槃経・「勢力折伏」についてが多い。

日蓮がいう折伏は、引用する文章からいえば、4種類の中の、2の涅槃経の「勢力折伏」の文脈である。
如説修行抄他一書に「法華折伏破權門理」を引用するが、法華円教の絶待妙の意味ではなく、勢力折伏の
意味に用いている。

本尊抄の「此四菩薩現折伏時成賢王誡責愚王」は4種類の中の1の文脈である。日蓮が折伏をいう際、引用
されるのは涅槃経の勢力折伏関連の文章である。しかも、安楽行品に相違する故に難に逢うとの問を設けて
いう。質問と答えが合っていない。堅樹日寛は「只これ摂折二門の修行には剛柔・水火の異同あることを知ら
しめんが為」と注する(開目抄愚記)。賢王とは元の世祖、誡責される愚王とは本朝のみかどと鎌倉殿とはいう
ことができない。他宗誹謗の段ではない。
「折伏を誰が行うかという主体と客体の相違については、日蓮遺文中には明確な回答は見出せないようです。
日蓮聖人が折伏の定義を明確にしていないことも、解釈を困難にしております」と今日もいわれる。
http://www.asahi-net.or.jp/~ia8d-tkmr/contents16.html

日蓮滅後には4の文脈から折伏を会通する説が生じる。この折伏は仏説を三諦偈に集約するから、法華円教
の絶待妙の文脈に帰結して行く。絶待妙の上に相待妙を建立した日蓮の弘経が否定される文脈であるから、
日蓮また、この文脈で折伏をいうことがない。

5犀角独歩:2005/07/01(金) 17:44:15

顕正居士さん、いつも適切なご教示を賜りますこと、深く御礼申し上げます。
本日は明日のオフ会の準備のためにレスができません。
改めて、明後日、記させていただく所存です。
有り難うございます。

6犀角独歩:2005/07/03(日) 20:00:26

顕正居士さん

整理、有り難うございます。

> 質問と答えが合っていない

わたしは、これは要するに、「不能降伏非法悪人」以下の文章が、摂折を超えたところから論じるものであるので、この部分を折伏と当てはめると、そのように齟齬を来していることになるのではないかと考えます。

>「折伏を誰が行うか…日蓮遺文中には明確な回答は見出せない
> 日蓮聖人が折伏の定義を明確にしていない…解釈を困難にしております

このような分析は極めて冷静で事実に添っていると感じます。

> 日蓮滅後…絶待妙の上に相待妙を建立した日蓮の弘経が否定される文脈であるから、
日蓮また、この文脈で折伏をいうことがない。

実に正確な分析であろうかと存じます。

7顕正居士:2005/07/04(月) 18:46:01
質問と答えが合っていない、は『開目抄愚記』の文では

「問う、今既に「楽って人及び教典の過を説かざれ」等の文を引いて、直ちに蓮祖の弘通を難ず。何ぞ在家の
護法を引いてこの経に会すべきや」

「悪口は闘諍の始まり」だから悪口即折伏と解しますと、宗祖の自業自得なわけで、なんらの解になりません。
だから、質問と答えが合っていないといいます。賢王誡責愚王と解して、はじめてその悪口もやむを得ざるに
出でる義が成り立ちます。

だから、佐渡後には摂受折伏がもういわれなくなることも解せるのであります。

8顕正居士:2005/07/04(月) 20:02:03
「やむを得ざるに出でる義」というのは専修念仏と頓悟禅を関東においても禁断しないと、必ず他国侵逼の難に
遭うと、日蓮は信じたからである。なぜ専修念仏と頓悟禅が不可ないかというと、捨閉閣抛や不立文字というは
法華真言に対する誹謗であり(念仏)、あるいは一代聖教の教相を無視し、釈尊に師敵対するからである(禅)
というのである。幕府の方からしますと、関東を京都のように宗教戦争の社会にする気はない、闘諍の元である
悪口さえ云わなければ新しい宗派も認める方針である。捨閉閣抛や不立文字というのみでは、悪口誹謗でない、
法華真言の僧の首を斬れなどといってはいない。日蓮が処罰されたのは当然である。故に優陀那日輝はいう。

「立正安国論は当時已に其用をなさず、況んや今に於ては其立論の全く無実なるを見る」 (康戎雑答)

「捨閉閣抛」とは自らがたのみまいらす意義であるが、宗義を解さない徒が聖道門を誹謗する副作用はあった。
法然、親鸞、蓮如らみなこの誤解を消除することに努力し、江戸時代にはそれも「全く無実」になったのである。
しかし維新の後、勝劣派の「法体堕獄」(誹謗せずとも爾前の法体そのものが堕獄)という不条理の教義が又
復活し、不受不施派も地下より蘇生し、「強義折伏」の一派繁茂し、終戦後にはそれが大石寺方面に集まって、
今日の大変なことに至ったのである、とわたしはおもう。

9顕正居士:2005/07/04(月) 22:20:54
>>4 に述べた天台智邈の折伏の四義の中の第3、第4の意はこの宗に存在しないのであるか?

この問題は仮に「教学」と「宗学」といま名付けるが、そういう区別を何か為さないと適切にいえないのである。

日蓮教学においては第3、第4の意は認められない。日蓮聖人は相待妙の上に宗旨を建立したからである。
しかし日蓮宗学においては第3、第4の意なきにあらず。日蓮教学とは宗祖より宗徒へ教える従果向因の学、
日蓮宗学とは宗徒より宗祖を仰信する従因向果の学であり、方向が正反対である。

堅樹日寛は『開目抄愚記』に「問う、若し爾らば、末法もまた摂受を行ずべきや」との問に、摂折二門古来意義
蘭菊なれども且く五義ありと、教法、機縁、時節、国土、教法流布の先後を挙げる。

教法流布の先後とは「竜樹、天親、天台、伝教等、前々流布の教法を破し、当機益物の教法を弘む」意義で
ある。何人も先代流布の諸説に簡別して自説を述べざるを得ない故に。経にいうのは「不説佗人。好惡長短」
で、法をいわない。むろん、法への批判であっても、適切に非ざれば誹謗である。宗祖の弘通にこの意味の
折伏(破邪)は当然存する。

「教法」折伏とはまさしく「法華折伏破權門理」の意義である。宗祖は相待妙の上に宗旨を建立したまえるも、
宗学とはそを仰信する上に成立す、仰信とは絶待の世界である、妙法華の外に一句の余偈も存在しえない。
第二の乗、第三の乗は存在しない。それらに対立する第一の乗も存在しない。
仰信、又、理の三千に非ずして、事の三千である。ゆえに、「立正安国論は当時已に其用をなさず」と宗祖の
おん身を以て現したもうと拝することができるのであります。


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