したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

日蓮聖人の本尊観

33一字三礼:2002/07/30(火) 22:20

川蝉さん

諸説を引いての丁寧な御教示、ありがとうございます。

>諸仏が師とする法とは、境妙としての真如実相のことであると云っています。
>仏は実相を悟り、教法を説くのですから「仏は能覚、法は所覚」とも「仏は能説、法は所説」という関係もあります。

ということは仏の説いた教法とは、そのまま境妙としての真如実相のことであると考えてよろしいのでしょうか。

下世話な表現を借りれば、“鶏が先か、卵が先か”のようですね。「法仏不二」あまり聞きなれない用語でした。

しかし、法華経寿量品の教主釈尊とは、その以前、我本行菩薩道の時に先仏は想定されないのではないでしょうか。私は、言わば本初仏的な特質を寿命無量と著わされているのだと考えます。
先仏がいないのであれば、釈迦菩薩修行時の師は、やはり諸法実相・法となるのではないでしょうか。

ゆえに、御文の通り、
「其の故は法華経は釈尊の父母、諸仏の眼目なり。釈迦・大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給へり。故に全く能生を以て本尊とするなり。」というのは解かり易いのです。拘ってはいないのですが、すごく富士派っぽいですね。

また、本尊抄の「その本尊の為体・・八年の間但八品に限る。」までは大曼荼羅の相貌解説。
「正像二千年の間は・・此の仏像出現せしむべきか」は仏像史的視点を借りての寿量仏像の末法出現の必然。
前半、大曼荼羅の説明と、後半の寿量の仏像とは、直接繋げて考えるべきではないのでは。

>「本尊問答抄」は、真言教学になずんで居た人達に対して、大日如来でなく釈尊を本尊とすべしと説明し納得させるには、大日如来と久遠本仏釈尊との違いなどを論拠を挙げて長々と説明しなければならない。それよりも、法勝を面に出して「法華経の題目を以て本尊とすべし」と断定したほうが、理解させやすい。そこで法勝の義を面にして論述されている、と先学(優陀那院日輝・本尊略弁)が、説明しています。

非常に理解し易く、納得できます。

色々書いてしまいましたが、本尊となると必要以上に複雑で、頭がストライキを起こしそうになります。
私は所詮「仏法とは生き方」と理解しておりますので、仏道修行上で“仏を観る”と言う事は即ち“道を知る”と言う事と同じである、と考えております。
「法仏不二」、そうなのかもしれませんね。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板