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日蓮聖人の本尊観

154ワラシナ:2003/01/04(土) 22:06
現象仏と内面仏の二重内面(3)「自己同一性の二種」8(最終)

5−3、上行菩薩が釈尊に対等なのがおかしいと思う道理も分かるが、だが、上で荒っぽく展開された釈尊上行内面一体論は、決して釈尊の権威を傷つけたものとは思われないのである。
言うところは、本佛釈尊の本佛の座席が一人掛けでなく二人がけの椅子でできている、という主張に過ぎない。従来は、一人がけの本佛椅子に一人お座りになっておられた本佛釈尊のところへ日蓮宗祖が押しかけて釈尊を蹴飛ばしてご自分がお座りになってしまった、釈尊蹴飛ばし論が宗祖本佛義のように理解される事が多かったのである。

5−4、「二人がけの本佛椅子」にどちらか一方が絶えず座っている関係のようなものと理解するものである。そしてこの二人の出現現象だけを証拠事実的に掲げて釈尊論を展開しているのが「観心本尊抄」と思う。


5−5、このように「二人がけ椅子」に喩えられるように釈尊内面(報身)を二重に複数化した事で真の釈尊の普遍化解釈が可能になった利点の価値を強調しているのである。本仏釈尊ひとりで何が不足かといえば、複数化する事で対十界衆生全てに対しての釈尊普遍性の獲得が可能になるからである。

5−5、地球上全人類が白色人種であったすれば、人種を包含する上位概念としての人類は意義を失う。現実には、皮膚の色様々な人種が複数いるから、人類なる「類的普遍性」の価値が出たのである。そこで釈尊内面が二重化している事は「釈尊自身にとっての‘わたし’」が釈尊以外の上行内面にも共有されている事に等しいから「釈尊のわたし」に「類的普遍性」がある事になる。そして、それは、下位概念たる釈尊種族と上行菩薩種族という「二つの釈尊種族」に分類され、両者は共に釈尊類として其の「類的普遍性」が共有される関係になってくるからである。また共有されるからこそ末法の衆生も在世の釈尊や十界衆生と間接的な関係で結ばれる事ができるのである。(この間接的と言うところが大事)「本佛釈尊の顕本によってその慈悲が十界全てに及ぶ」と言われる時、上のように拡大解釈してわたしは解している。

6−1、最後に若干の反省点
上の考えだけでは信仰論の裏付けとしては不十分と思う。取りあえず「自己同一性」問題と釈尊論の関係交渉に気づいた事の嬉しさからその点だけを取り上げたのである。余計なことも一杯書いたが勝手に省略した部分も多い。これは自分の為の謎解きだからそうなってしまう。
また、諸般の事情からあわただしくせかれたような文体になってしまった事はお詫びするものである。
(h15/1/4)


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