したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

小沢一郎の政権構想

1やおよろず:2007/10/06(土) 19:00:43
自社対立的発想がまかりとおるメディア・言論界で誤解されがちな小沢の国家構想。
ここで、小沢構想をスレ横断的にまとめさせてもらいます。

小沢一郎ウェブサイト
http://ozawa-ichiro.jp/

政策とオピニオン
http://ozawa-ichiro.jp/policy/index.htm

2209とはずがたり:2018/01/02(火) 14:02:31
2017.12.1 01:00
【政界徒然草】
小池百合子氏にハシゴ外された小沢一郎氏激怒の日 それでも諦められぬ「壊し屋」の野望
http://www.sankei.com/premium/news/171201/prm1712010008-n1.html

 立憲民主党や希望の党、民進党などの野党はいまや存在感すらなく、政治家個人を見ても気迫はみじんも感じられない。この人物もその一人。旧民主党政権時代に権勢をふるった自由党の小沢一郎代表(75)だ。小沢氏は希望の党結成をめぐり、同党特別顧問の小池百合子東京都知事(65)の戦略に振り回されて激怒し、途中から手を引いた。それでも諦めきれない小沢氏の野望とは-。

 「連絡がない!」

 9月26日夜の都内のホテル。今や希望の党に移籍した前原誠司前民進党代表(55)と小池氏、連合の神津里季生会長(61)は、先の衆院選で民進党議員を希望の党の公認にするとの前原氏の提案に合意した。それまで小沢氏は前原氏と膝詰めで民進党と自由党の合流について話し合っていたため、当然、前原、小池両氏らが会談する際は自身も呼ばれると思っていた。だが、連絡はなく、小沢氏は烈火の如く激怒した。

 なぜ小沢氏はこの会談に呼ばれなかったのか。小沢氏に近い民進党関係者はこう解説する。

 「小沢氏がこの会合に出席したら、『小沢、前原両氏対小池氏』という2対1になり、小池氏は主導権を握れなくなる。そのことを警戒して小沢氏に声を掛けなかったんでしょう。この会談のあと、小池氏は小沢氏とさしで会談しようと思っていたと聞いています」

 だが、ハシゴを外された形となった小沢氏の怒りは収まることなく、その後、小池氏が小沢氏と会談することはなかったという。前原氏も一連の経緯を小沢氏に説明しなかったとされ、このことも小沢氏の怒りの火に油を注ぐ格好となった。

 とはいえ「昨日の敵は今日の友」というのは永田町ではよくある話。「壊し屋」と呼ばれ、過去に細川連立、民主党と政権交代を実現させた“実績”がある小沢氏の野党再編に対する執念は今も衰えてはいない。小沢氏が次に照準を定めているのは、平成31年夏の参院選だ。小沢氏は統一名簿方式をかねてから主張しており、参院選に向けてこれを実現しようとしている。

 統一名簿方式とは 複数の政党が一つの政治団体を結成し、各党の比例代表の候補者を一つの名簿に載せる方式のことだ。野党にとっては政権への批判票の受け皿を一つにする利点がある。この延長線上として、小沢氏は政治団体から新党への衣替えを考えている。

 小池氏は希望の党の特別顧問ではあるが、都政に専念する構えを見せ、国政から距離を置こうとしている。民進党出身の玉木雄一郎代表(48)は「まずは政策的立ち位置を明確にする。参院選の在り方は足腰を固めてから検討していく」と述べるにとどめているが、民進党との距離が近いことは間違いない。民進党の大塚耕平代表(58)は「いろいろ話をしながら考えていきたい」と前向きだ。

 だが、立憲民主党の枝野幸男代表(53)は「現状、全く考えていない」と否定的で、比例代表は立憲民主党で戦いたい考えだ。左派色を前面に押し出したほうが得策と判断しているようだ。立憲民主党が支持を拡大させることへの自信のあらわれといえる。

 その自信は立憲民主党の職員も同じで、約10人の民進党職員は辞表を提出し、立憲民主党に移籍した。一方、希望の党へは5人前後の民進党職員が働いているが、これは党運営が回らないとして希望の党の細野豪志元環境相(46)が民進党サイドに泣きついたためで、あくまでも「レンタル」だ。民進党内に積極的に希望の党に移りたいと考えている職員は皆無に近いという。

2210とはずがたり:2018/01/02(火) 14:02:48
>>2209-2210
 もっとも新党結成には、立憲民主党が統一名簿方式を拒否していること以外にも数々のハードルが存在している。民進党の中にも「国内には左派に共感する人が一定程度いるのだろうが、立憲民主党だけで政権交代ができるはずはない。支持はこれ以上広がらないだろう」と突き放す関係者がいるのも事実だ。

 民進党都道府県連の中に立憲民主党の地方組織をつくる動きがあるのも難点だ。31年春の統一地方選で野党の足並みが乱れれば、同年夏の参院選に影響を及ぼすのは確実だからだ。

 最大のハードルは共産党との向き合い方だ。希望の党には共産党と連携して選挙を戦うことに拒否反応を示す議員は、細野氏をはじめ少なくない。だが、小沢氏は共産党の票なくして政権交代は困難と考えている。そこには政策や理念を抜きにした「勝つためにはなんでもあり」という小沢氏らしさがうかがえる。

 共産党と選挙協力すれば希望の党との連携が困難になるとみている小沢氏側近が「共産党は選挙協力の中に入れるべきではないですよ。そうでないとまとまらない。いつまでも共産党の票におびえることになります」と進言した。しかし、小沢氏は「ダメ、ダメ。共産党と組まないなんて言っちゃダメだからな」と一蹴した。

 参院選までまだ時間があるとはいえ、年齢的にもこれが小沢氏の政権交代実現への最後の闘いとなる可能性がある。数々の障壁を越えられるかどうかは、小沢氏が「過去の政治家」になったのかどうかの試金石になりそうだ。 
(政治部 坂井広志)



 小沢一郎氏の政治遍歴 昭和44年の衆院選で自民党公認で初当選すると、田中角栄元首相に見いだされて頭角を現し、47歳の若さで幹事長に就いた。

 平成5年、政治改革などを訴えて離党すると新生党を結成し、非自民の細川護煕連立政権樹立の立役者となる。2大政党制を唱えて6年に新進党を立ち上げ、後に党首を務めた。新進党が約3年で解党すると、今度は自由党を立ち上げて党首に就任。11年に自民党と連立政権を組んで与党に復帰したが、半年近くで解消すると、自由党は分裂した。

 自由党は15年に民主党と合流し、18年に代表に就任。民主党は21年に政権交代を果たしたが、自身はその直前に公設秘書が逮捕され、代表を辞任した。政権交代後も与党幹事長を務めたが、22年の代表選で当時の菅直人首相に敗れた。24年に消費税増税方針に反発して党を離れ、以後は、国民の生活が第一→日本未来の党→生活の党→生活の党と山本太郎となかまたち→自由党と党や党名を変え現在に至る。無所属で出馬した今年10月の衆院選で連続17選を果たし、現職では最長の議員在職48年を迎えている。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板