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【廃道・隧道】山さ行がねが応援スレ【冒険・探索】

659とはずがたり:2021/05/02(日) 23:15:58
>>526

大和索道
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C%E7%B4%A2%E9%81%93

大和索道株式会社(やまとさくどう)は、かつて存在した物資専用索道会社。奈良県五條市と吉野郡大塔村阪本(今の五條市大塔町阪本)および野迫川村紫園とを結んだ。索道は単線式であった。

吉野郡方面の物資の集散拠点であった五條の町が、より多くの貨物を集めることを狙い、地元の有力者たちが物流手段として構想した。通常の鉄道を建設することは峻険な地形の点から見て到底困難であったことから、当時日本では前例のほとんどなかった架空索道(ロープウェイ)を選ぶことになった。これにはジェームスモリソン商会の大阪支配人である石田美喜蔵の売り込みによるものであったという。石田は取扱い商品の中でロー式単線自動循環式索道に注目しこれを山間地輸送用に普及させようとしていた。このためイギリスへの発注、計画、設計、出願から開業に至るまで石田が取り仕切ったという。まもなく石田は独立し安全索道を設立する[1]。1907年(明治40年)にこの計画を奈良県に出願したが、県にも知識がなかったため許可は遅れ、1910年(明治43年)にようやく許可が得られ、翌年大和索道が発足した[2]。

1911年(明治44年)に第1期区間が着工され、1912年(明治45年)5月26日に、今の五條市二見の国鉄川端駅から富貴村(今の和歌山県伊都郡高野町西富貴・東富貴)まで8.8キロメートルが開通した。1917年(大正6年)6月27日には7.2キロメートル延長して富貴村から天辻を越えて大塔村阪本まで達し、合計して16キロメートルの索道となった。五條市二見からは生活物資(食料の他、燃料、大豆、苦塩水、肥料、雑貨など)が運び込まれ、富貴村や大塔村などからは木材や特産品の凍り豆腐が運び出された。この索道が盛んに使われていた大正9年10月1日から翌年3月31日までの半年間の輸送量は阪本方面へは553,162貫(=約2,074トン、1日あたり約11トン)、二見方面へは749,807貫(=約2,811トン。1日あたり約15トン)にも及んだ。

1922年(大正11年)に途中の峠にトンネル(天辻隧道・とは註:今も残る旧道の方)が開通し自動車の通れる道路が改修されたことから、大塔村までトラックやバスの運行が開始されて大和索道は大きな影響を受けることになった。第二次世界大戦中、野迫川村の立里鉱山の鉱石運搬の必要から、1944年(昭和19年)に阪本から野迫川村紫園まで3.76キロメートル延長された。以降はほぼ鉱山輸送専用の索道であった。1957年(昭和32年)により優れた自動車道路が開通(とは註:現天辻隧道だろう)したことからトラック輸送へと切り替わり、1960年(S35)頃に索道は廃止となった。また鉱山も同じころに閉山となった。(川端駅そのものは1982年(S57)10月1日に廃止)

川端駅
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E7%AB%AF%E9%A7%85_(%E5%A5%88%E8%89%AF%E7%9C%8C)

駅が開設された目的であった吉野材の輸送に関しては、従来紀ノ川をいかだに組んで流して河口の和歌山から船で送られていた。しかし吉野の産地と大阪の需要者が直接取引を行うために輸送路が求められるようになり、川端駅が設置されたことでここが水陸輸送の連絡点となった。貨車の配車がすぐに行われるとは限らなかったため、1905年(明治38年)1月には貯木場が建設されて、以降急激に出荷量が増加していくことになった。後に吉野鉄道(近鉄吉野線)が開通すると、そちらを経由した直接輸送も行われるようになった。

この頃、五條はもともと紀ノ川流域の集散地として栄えたこともあり、五條の南側にある吉野郡各村からの物資集散をさらに増やせないかという考えが有力者の中で生じていた。そのためには、川端駅からさらに南側へ鉄道を延長して、大塔村阪本(現在の五條市大塔町阪本)あたりまで伸ばせればよいのであるが、峻険な地形のために実際にはこれはほとんど実現不可能であった。そこで、架空索道(ロープウェイ)を建設して貨物輸送のみでも結び付けられないか、という構想が生じることになった[15]。1907年(明治40年)にこの計画を奈良県に出願した
当時日本では索道利用の前例がほとんどなく(とは註:川根電気索道http://www15.plala.or.jp/yai/setogawa/sakudou.htmlは1926年(T15),この辺の先進性が判るなあ・・)県にも知識がなかったため許可は遅れ、1910年(明治43年)にようやく許可が得られた[16]。これにより大和索道が設立され、1911年(明治44年)に着工され第1期の二見川端 - 富貴間8.8 kmが1912年(明治45年)5月26日に開通した[17]。さらに1917年(大正6年)6月27日には富貴 - 阪本7.2 kmが開通して全線16 kmで運転が開始され、従来数日はかかっていた貨物輸送をわずか2時間40分に短縮し、費用は3分の1から5分の1になり、沿線の住民にも大きな利益をもたらした[18]。


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