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日本史総合スレ

1ぬりかべーべ:2018/03/10(土) 02:52:32
とりあえず立てました。
過去問の読解や日本史の教育法とか色々妄想を書いてきます。
スレッドの運用法まだボンヤリなので>>10>>50あたりのタイミングで整理&提示します。

なのでスレッドの読み方は以下参照ということで。
>>10
>>50

2べーべ:2018/03/10(土) 06:35:19
〇使う本など
・青本東大日本史25か年
・赤本東大日本史27か年

・考える日本史論述(河合本)
・時代の特徴と展開(安藤本)

・超速日本史の流れ
・東大合格への日本史
・詳説日本史研究



〇何のために行うか
1…説明資源の備蓄
-なんで勉強をするのか?に答えられる説明資源の発掘
-(勉強する意味ってなに?と疑問に思う現役の学生さんの質問に疑似テレパシーできるように)
-(勉強をする意味ってなんだったのか?と疑問に思う、かつて学生だった皆様に疑似テレパシーできるように)

2…備蓄した説明資源の発展活用(説明資源が備蓄されればいずれメルマガや地域の家庭教師・学習塾など展開しうる)

○具体的に何をやってくか
・東大日本史をちまちま読み進めて、関連する情報構造を抽出していく

3べーべ:2018/03/10(土) 06:36:54
・なぜ日本史を学ぶのか?
・日本史を学ぶとは具体的に何をどうすることか?
・なにがどうなれば(何を覚えれば、理解すれば)日本史を学んだことになるのか?
・日本史を学ぶときにありがちなこと(ありがちな失敗)
・日本史を教えるときにありがちなこと(ありがちな困難・限界)
・日本史の最小単位とは?日本史を一言でいうと?一言でいう事は可能か?

4べーべ:2018/03/10(土) 06:40:19
あとは時代ごとのざっくりとした説明を編んでく。
抽象度を色々上げ下げしたり、切り口をテーマ史ごとに変えたり。

・平安時代を20字で書くなら
・平安時代を50字で書くなら
・平安時代を300字で書くなら
・平安時代を1ページで書くなら

など、それぞれの抽象度で書いてみる(多角的に考えるコツが身につくように)
あるいは…

・平安時代の政治機構を(以下①と同文)
・平安時代の土地制度史を…
・平安時代の経済を…
・平安時代の社会を…
・平安時代の文化を…

5べーべ:2018/03/10(土) 06:42:19
溜めた説明資源はオープンソース化(説明資源のオープンソース化という考えは今後の発展に極めて重要…!!)
して
主に以下の方たちに有用なものとなるように。

・家庭教師やってる学生さん
・教員を目指している人
・現役の教員(良い説明方法を探究している人)
・独学で日本史を勉強している人(独学だと分かりにくい暗黙知の部分が欲しい人)

6べーべ:2018/03/10(土) 07:06:49
説明資源を擬似テレパシーできるようにする(活字を彫り込む作業と似てる)と、情報を乗算的に転写できるので、
文字を持つ/持たぬ文化、活版印刷を知ってる/知らぬ文明程度には差が出る(情報爆発が起こる)

7べーべ:2018/03/10(土) 07:24:30
谷中研究所はいずれご地域融合型の未来型学習塾(研究機関)になるのである…なるといいなぁ。
知の巨人を模した共同演算機構を構築して、説明資源の開発&散布の場になるといいですね。
研究・教育・創作の場。
ヒント、切っ掛け、分からなかったことの共有、見え方の共有などなど。
年齢、国籍、宗教、性別を超えたコラボレーションの場にしたい所。

8べーべ:2018/03/10(土) 07:42:34
知識のありかた・理解の存在条件から逆算してカリキュラムを組むという事が可能なので、
ここ重点的にやってきたいですね。せっかくなら日本の教育に革命を起こしましょう!!


なんて威勢の良いことを言ってみる。

9名無しさん:2018/03/10(土) 11:23:53
・大学受験入門 100人の人物でわかる日本史(旺文社)
・フロー型 最低限の日本史 1万年の「流れ」と「なぜ?」が30分で頭に入る!(アーバン)


この2冊入門講座の副読本にしてもいいかもな

10べーべ:2018/03/11(日) 13:44:47
>>10まできちゃったな安価短かすぎた。
とりあえず先延ばしします。
>>30にスレの運用方針書きますね。

一応ですが、
・国立型と私立型の日本史勉強法の違いとそこからくる見え方の違い・言説の違いを考察したりします。
(「日本史の勉強は役に立つか?」という命題に国立型か私立型かで回答が変わるでしょう。
歴史観を養うのに非常に役立った!と答えるか
無駄な暗記ばかりでまったく意味がなかった…と答えるか。
人によって違うと思うのですが、やってて楽しいのは国立型って感じもするし。
この辺を事例を引きながら考察してこうかなと。
(東大の問題が楽しい問題も多いし普通にトリビア面白いのもあるのでサンプルとして)
センター試験からも事例引けたら楽しいなとは思います。

11べーべ:2018/03/11(日) 14:05:59
まだ世界史スレ立ててないのでここで書きますが、
説明資源の特性を活かして“ビッグヒストリー企画“もやります。
(谷中としてやるのか、大学院としてやるのかはまだ謎)
地理地学、人類学や人間の認知構造に関する話なども引用しつつ、
歴史の流れを概観していく…みたいな。
東大世界史の第一問目なんかも参考になりそうです。

12壁男→ぬりかべーべ→べーべ:2018/03/15(木) 01:17:07


東大日本史問題演習 (東進ブックス 究極の東大対策シリーズ)
ちゅう本を買った。
一問目が『弥生時代のある集落の歴史(1982年度一問)』って内容で、
推理小説みたいで素材がかなり面白いな。地理履修してたら有利な内容かも。



※問題と解説は以下参照(いずれも『つかはらの日本史工房』より)
年度 1982年 設問番号 第1問
http://tsuka-atelier.sakura.ne.jp/ronjutu/toudai/kakomon/toudai821.html
1982年第1問 解法のヒントと解説
http://tsuka-atelier.sakura.ne.jp/ronjutu/toudai/kakomon/kaisetu/kaisetu821.html

13べーべ:2018/03/20(火) 22:12:26
嵯峨天皇周辺とか後三条天皇あたりが気になる

14イーブイちゃん(しょぼ黒・ぼんD):2024/09/04(水) 06:13:51
詳説山川日本史探求より武士の誕生に関係する記述。
(8割教科書本文、2割は自分の補足といった割合)

【武士の誕生】
9世紀末から10世紀にかけ地方政治が大きく変化していく中で、
土着した国司の子孫や地方豪族が勢力を維持・拡大するために武装しはじめた。
各地で紛争が多発する時代になり、その鎮圧のため政府から押領使や追捕使に任じられた
中・下級の武士の中にはそのまま現地に残り有力な武士となるものが現れた。
やがてこれらの武士たちは一族郎党・連合体をつくるようになり、
任期終了後もそのまま任地に残った国司の子孫などを中心に大きな武士団が成長しはじめた。
なかでも東国(関東地方)は良馬を生産したため、機動力のある武士団の成長が著しかった。


東国に早くから根を下ろした桓武平氏のうち、
平将門は939年に自らを新皇と称して反乱を起こした(平将門の乱)
これは常陸・下野・上野の国府を攻め落とし、東国の大半を占領したが、
将門のいとこで後の伊勢平氏(清盛一族)になる平貞盛や藤原の秀郷によって討たれた。
ちょうど同じ頃、伊予の国司であった藤原純友も
瀬戸内海に跋扈する海賊退治の恩賞が不満足であったことから逆に海賊を率いて反乱を起こした(藤原純友の乱)
伊予の国府や大宰府を攻め落としたが、やがて(清和源氏の祖になる)源経基らに討たれた。
この二つの乱を合わせて承平・天慶の乱と呼ぶ。


この乱の平定をきっかけに清和源氏や伊勢平氏のように代々武芸を継承する軍事貴族が成立した。
武士の実力を知った貴族たちは彼らを侍として奉仕させ身辺警護や都の警備にあたらせた。
なかでも摂津に土着した清和源氏の源満仲とその子の頼光・頼信兄弟は藤原兼家・道長らに奉仕し摂関家を支えた。

1028年(長元元年)に源頼信は上総の平忠常の乱を鎮圧し、源氏の東国進出のきっかけをつくった。
頼信の子頼義、その子義家(八幡太郎義家)は東北で起こった豪族争いを続けて鎮圧し、
(前九年・後三年合戦)源氏の武士は奥州に兵力を広げた。

こうした力に目を付けた白河天皇は摂関家との対抗から成長著しい武士を登用し、
父の後三条天皇に倣って親政をおこない、天皇を後見しながら政治の実権を握る院政の道を開いた。
「治天の君」となった白河天皇(上皇)は権勢を振るい、
院政は白河上皇・鳥羽上皇・後白河上皇と100年余り続くことになる。

絶対的な権勢を誇る白河院であるが、
天下三不如意(自由にできない三つのことがら)として
「鴨川の水(治水) 双六の賽(サイコロの目) 山法師(延暦寺の僧兵)」を挙げている。
特に僧兵は多くの私領(荘園)を所有し国司(国の役人)と争い、神輿や神木を抱えて朝廷に強訴するなどを繰り返した。


神仏の威を恐れた朝廷は大寺院の圧力に怯え、当時穢れ仕事を担った武士に事態の鎮圧や警護を任せ、
結果、武士の中央政界への進出を招くことになった。
武家の棟梁として源氏が東国に勢力を広げると、東国武士団の中に源義家に土地を寄進して
保護を求めるものが増え朝廷は土地の寄進を慌てて禁止した。

後三年の合戦で絶大な名声を得た義家の勢力を抑え込みたい白河院の意向もあり、
河内源氏の一族には騒動・内紛が起こり(:源義親の乱や常陸合戦等)勢力が凋落。
その中で院と結び発展したのが平正盛ら伊勢平氏である。
目立たない存在であった伊勢平氏は源氏への対抗措置であるかのように昇進した。

伊勢平氏は正盛-忠盛-清盛の三代で栄達を極める。
正盛は出雲で反乱を起こした義家の子義親を討ち、
忠盛は瀬戸内海の海賊平定などで鳥羽上皇の信認を得、
殿上人となって貴族の仲間入りをし武士としても院の近臣としても重く用いられるようになった。
その勢力を更に飛躍的に伸ばしたのが清盛である。

鳥羽法皇の死去まもなく保元・平治の乱(1156・1159)が起こった。
この二つの乱に動員された武士はわずかであったが、
貴族社会内部の争いも武士の実力で解決されることが明らかとなり、
武家の棟梁としての清盛の地位と権力は急速に高まった。


平治の乱後、清盛は太政大臣となった(1167)その子平重盛ら一族もみな高位高官となり、勢威は並ぶものがなくなった。
1159年平治の乱において源義朝が殺され、その子供の源頼朝は伊豆へ流罪。池禅尼により助命嘆願。
そこで20年を過ごすことになるが、この時期に伊豆の在庁官人北条時政の娘、北条政子と結婚している。
このとき頼朝を殺さなかったことが平家の運命を大きく変えることになる。

15イーブイちゃん(しょぼ黒・ぼんD):2024/09/09(月) 10:55:45
荘園公領制についてここはわかりやすい

https://manareki.com/syoen_koryo

16イーブイちゃん(しょぼ黒・ぼんD):2024/09/10(火) 10:03:09
日本の中世は主に院政時代-織豊政権期頃を指し(:11世紀後半から16世紀後半)
公家と武家という二つの王権が同時に存在し(公武二元支配)
次第に武家の力が強くなっていくという紆余曲折の時代でした。
二つの政権は西と東にそれぞれ位置し、時に協調し時に対立しながら、
中世の社会をそれぞれ支配していました。
公家は日本という国が成立して以来続いてきた天皇を頂点とした朝廷とその周辺勢力(摂関家など)であり、
武家は平安中期から次第に台頭してきた新興勢力の軍事貴族です。
武士は元々くらいが低く、朝廷(天皇や摂関家)に使われる存在でした。
(侍という名称にその名残があります)
平安後期から鎌倉の中世初期にかけて、摂関政治-院政-武家政権へと政体が変わり、
武士たちは段々と力をつけていくことになります。

17イーブイちゃん(しょぼ黒・ぼんD):2024/09/10(火) 10:07:35
英訳
The Middle Ages in Japan mainly refer to the Imperial Period - the syokuhou Regime period (: late 11th century to late 16th century)
There are two royal powers, the noble family and the samurai family, at the same time (dual rule of the public and martial arts)
It was a time of twists and turns, as the power of the samurai gradually became stronger.
The two regimes are located in the west and east, sometimes in harmony and sometimes in conflict.
Each dominated medieval society.
The princely family is the imperial court headed by the emperor and its surrounding forces (such as the Sekkanke family) that have continued since the establishment of the country of Japan.
The samurai family is an emerging military aristocracy that has gradually risen from the mid-Heian period.
Samurai were originally low-ranking and were used by the imperial court (the emperor and the regency family).
(There is a remnant of this in the term "Samurai".)
From the late Heian period to the early Middle Ages in Kamakura period, the political system changed to regency politics - Insei house government - samurai government.
The samurai will gradually gain strength.

18イーブイちゃん(しょぼ黒・ぼんD):2024/09/10(火) 10:27:53
〇鎌倉時代について
・時期は1185-1333
・清和源氏の棟梁源頼朝と東国平氏が協力し西国の伊勢平氏を倒して成立した政権
・初代頼朝の後は13人の合議制が敷かれた後、御家人同士の潰し合いの末北条氏が台頭
・源氏将軍は頼朝-頼家-実朝の三代で絶え、その後摂家将軍、皇族将軍をお飾りとして迎え入れることに
・摂家や皇族将軍は名義上だけの将軍で実際の政治は執権である北条氏が行っていった
・北条氏は「伊豆の小さな在庁官人出身の卑しい身分」と目され将軍に成り代わることはなかった
・摂家将軍、皇族将軍たちは成人すると京都に送り返された。これは北条氏の邪魔になる前に首をすげ替えられたことを意味する
・鎌倉時代は「源氏と北条氏」のイメージが圧倒的に強いが、北条氏が執権や得宗をやっている間も将軍はずっと存在した
・影の薄い後期将軍たちがどんな人物だったかは『将軍の日本史』(榎本秋)などに詳しい
・アニメ『逃げ上手の若君』に出てくる中先代の乱は1335年の事件である
・室町幕府を開いた足利尊氏は北条とも縁の深い源氏の名門一族だった
・両統迭立という仕組みに不満を抱いていた後醍醐天皇の倒幕計画に呼応して鎌倉幕府を裏切り京都の六波羅探題を攻めた
・それに呼応する新田義貞らが鎌倉幕府を滅ぼした。
・中先代の乱を起こした北条時行を鎮圧するため鎌倉に向かった尊氏は悪評も高かった後醍醐天皇の新政権へ反旗を翻した
・後醍醐天皇による天皇親政は短い期間に終わり、再び武家政権が誕生し以後明治時代まで武士の世が続く。

〇押さえたいテーマ
・頼朝はなぜ鎌倉に幕府を開いたのか、尊氏はなぜ京都に幕府を開いたのか
・国司、守護地頭はこの時代にどのように力をつけ、あるいは衰退したか
・「公武二元支配」とは何か、これはどこを画期にパワーバランスが変化したか


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