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web誌友会 板

1トキ:2012/05/12(土) 19:32:32 ID:.qT77rPQ
「今の教え」と「本流復活」を考える・「web誌友会」 板 です。

*web誌友会についての話題は、このスレッドでお願いします。

 このスレッドは、生長の家信徒の人達のweb誌友会のために作成したスレッドです。

 上記に関連する話題なら、狭く解釈しないで、広く受け付けます。また
どの立場の人の投稿も歓迎しますが、基本的に生長の家の教義と谷口雅春先生の説かれた教え
を支持、共鳴する人のためにサイトです。生長の家の信仰と谷口雅春先生へのご批判をされる内容
の投稿はご遠慮下さい。
 投稿の削除はしない方針ですが、アダルトサイトや出合い系サイトの勧誘を含む内容など
明らかに目的外の投稿は、削除の対象となります。明らかな他団体や特定の霊能力者の宣伝となる投稿も削除の対象になります。
 目的外の投稿の判断は、最終的には、管理人である「トキ」の判断になります。
ご理解下さい。


投稿に当たっての注意点

*このサイトは、「生長の家“本流宣言”掲示板」等と違い、自分の発言を自分で削除できません。
 削除御希望の場合は、管理人までご一報下さい。(削除要請は、削除希望の記事を投稿したのと同じ端末から投稿をして下さい。)
*必ず、スレッドのトップにある「掲示板の使い方」をご覧下さい。
*インターネットのサイトという性質上、不特定多数の人が閲覧します。プライバシーに触れる問題
 や名誉毀損の可能性のある表現などは、控えて下さい。
*サイトの運営方針としては、削除は原則としてしない方針です。他者の投稿が問題のある投稿だと感じた場合は、
「削除要請」ではなく、ご自分の意見を投稿するという方向での解決をお願いします。
*生長の家の共鳴者を対象にしたスレッドです。下品な表現や特定の人物を侮辱する言葉はご遠慮下さい。
 たとえ、自分と違う意見の人でも、敬称はつけましょう。相手に対する敬意と礼儀を忘れない様に
 お願い申し上げます。
*谷口雅春先生への批判は、目的外ですので、投稿をしないで下さい。
*「したらば」は長文の書き込みをした場合、一部が表現されない場合があります。その場合は、「下部左
 部分」にある「全部読む」を押して下さい。

このサイトについて

*宗教法人「生長の家」、「谷口雅春先生を学ぶ会」「ときみつる会」「生長の家社会事業団」「新教育者連盟」
 などの諸団体とは関係はありません。
*「ポスティング ジョイ」や「生長の家“本流宣言”掲示板」などのサイトとは一切関係がありません。

管理人からのお願い

*投稿者の身元の詮索は止めましょう。ただし、最初に簡単な自己紹介をして下さると、後のトラブル防止になります。
*「工作員」も歓迎します。同時に、特定の人を「工作員」などと議論をする事はしないで下さい。
*教団援護派、本流復活派、中間派、分裂肯定派など、どなたも歓迎します。また、相手の存在そのものを否定するような内容
 の反論はしないで下さい。
*議論が感情的になった場合は、管理人がストップをかけます。その時は、協力をお願いします。
*その他、ご不明の点は、管理人である「トキ」まだお尋ね下さい。

 原則として、身元がわかるような内容の自己紹介は避けたほうが無難です。

身元をかくすため、多少の作為(年齢を少しごまかす、住まいを変える)は、悪意がない限り、問題とはしません。

どの立場でも、(教団援護派、学ぶ会など)歓迎しますから、それは明らかにしても大丈夫です。

削除について

 投稿した文章を削除して欲しい場合は、削除希望の文章の番号を書いて、同じスレッドに、同じ端末
から「削除要請」と書いて、投稿して下さい。削除要請の文章も削除して欲しい場合は、其の旨も書いて
下さい。削除は、原則として、投稿者本人からの要請があるものに限ります。管理人が気がついたら、削除
しますが、深夜早朝や用事のある時は、気がつくのが遅れる場合があります。ご理解下さい。

 出会い系サイト等のリンク、明らかに目的外の投稿、他団体の宣伝、犯罪を予告する書き込み等以外は、削除はしません。
それ以外で、問題となりうる投稿は、原則として、相談の上で、削除します。

 その他、御不明の点は、お気軽にお尋ね下さい。

管理人「トキ」 敬白

1952a hope:2013/01/21(月) 09:09:36 ID:TqpbsVIM

みなさま おはようございます!

昨晩は、こちらに戻る予定でしたが、わたしも復興Gさま同様、昨日一日子どもの行事に付き合い、
大変疲れていて、さらに、とても嬉しいことなのですが、こちらの板にたくさんの書き込みがあって、
読み切れなかったので、参加を見合わせました。


昨日は、さらに解説者さまとgoroさまのご参加があったのですね。
ありがとうございます。

お二人の掲示板へのご投稿は、いつも拝見しています。
素晴らしい投稿内容にいつも感動したり、そしてお勉強させていただいたりしています。
これからも、どうぞよろしくお願いいたします。


>>1939 SAKURAさま

わたしの投稿への御感想をいただきありがとうございます。

>>【目・耳・舌・鼻・皮膚を通して生じる五つの感覚!】人間の感覚の総称での捉え方……
そうしますと…そこには【感情…】が入ってきますので、その時点での【念=想念】が生まれ、
例えばですが???相手が“嫌だ〜〜〜!”という感情は、【以心伝心…】と申しますか?
実に!!その通りになりますから〜〜〜この頃は、振り返りますと、変に【納得…】かと。<<

このSAKURAさまのお言葉には、正直「ドキリ」としてしまいました。
仕事などをしていましても、こちらら「いやだな〜」という感情をもってしまうと、
自然にその感情が相手につたわって、コミュニケーションがしっくりいかない時があるからです。
そんな時は、相手もきっとわたしのことを「いやな奴だな…」と思っているのではないかと感じています。


>>現在の複雑化します【人間関係…】に於きましては、お互いに
“嫌な〜〜〜ァ感情?”を抱くの場合、その時こそが
【神 想 観 で 相 手 の 実 相 を 見 て 行 く】このように訓練する事なのですネ!
確かに…これは【修行…】かと。【普賢菩薩=人間】なのです〜〜〜ョネ!
■■【普 賢 菩 薩 は 金 剛 心 と し て 人 間 の 心 の 修 行 す る 事…】
この様に今の私は、解釈しています。<<

素晴らしいご指導をありがとうございます!
今回、このweb誌友会に参加して『神想観』の素晴らしさを再認識しています。

感謝 合掌

1953a hope:2013/01/21(月) 09:11:25 ID:TqpbsVIM

復興Gさま

わたしは、>>1884の復興Gさまのお孫さまにあてたメッセージを拝見してちょっとした気づきがありました。

>>悪い天気なんていうものはない。雨も、雪も、嵐も、みんな素晴らしいよい天気なのだ。
毎日晴ればかりだったら、植物は育たない。干ばつで土地はひからび農作物も穫れなくなって、飢饉になる。雨も必要、雪も必要、嵐も必要なんだ。そう思い直した。
人生も、晴れのような、楽なことばかりではない。それがいいのだ。苦労もあった方が、人生の味わいも深くなり、喜びも大きくなる。人間が大きくなるのだ。だから、困難も、挫折もよいことなのだ。だから、雪の日の成人祝い、おめでとう!
ドイツの文豪ゲーテは、「若くして求むれば、老いて豊かなり」と言った。
この場合の「求める」というのは、他に求めるのではない。
志を高く持って、どんなことに出会っても貪欲にそこから魂の栄養を吸収するということ。
「豊か」というのは金持ちになることではない。精神的財産をいっぱい持っていること。<<

自分にとって、「嫌なこと」、「不都合なこと」「不幸なこと」等は、すべて「悪」であると考えがちですが、
でも、「生長の家の教え」では「悪なし」なのですよね。

わたしは、この「悪なし」の教えを、今まで"Nothing"の〝無し〝だと思っていました。
だから、『「悪い」と思うことは本来、存在自体が〝無い〝いことなのだから、気にしないようにすればいいのだ!』
と解釈していたのです。
ですが、この復興Gさまの、メッセージを拝見して、

「悪なし」の教えはそういうことではなかった!

と気づきました。

「悪」と思われる現象も、自分の考え方、とらえ方一つですべて「善」にすることが出来るのだ!!!

と。

そして、「悪」と「虚説」の関係も、自分なりになんとなく解ってきたような気がします。


トキさま

web誌友会の開催期間を一日延長してくださりありがとうございます。
ですが、わたしは今日もこれから仕事ですので、一日ではみなさまの学びには追いつかないと思いますが、
後夜祭でも、引き続きお勉強させていただくつもりでいます。
どうぞよろしくお願いいたしす。

素晴らしい学びの場を提供してくださっている、トキさまにはいつも心から感謝しています。

合掌。

1954トキ:2013/01/21(月) 09:54:29 ID:JCzlgAQE
 本当に多数のご参加、ありがとうございます。

 腰を据えて、真理の勉強をする。そういう姿勢が日常生活の中では、なかなか続かない場合があります。
面白いのは、普段、自宅で拝読する聖典と、こういう場で拝読する聖典が、何か違った感じで読める事です。
 いろいろと顔を会わさない同志が、こういう場で真理の話し合いをし、研鑽をするのは、自分自身、新鮮に
思えます。

 ご多忙のん化ア、ご指導下さる、復興G様、ありがとうございます。

1955トキ:2013/01/21(月) 10:59:33 ID:JCzlgAQE
 ごめんなさい。誤植です。

ご多忙のん化ア、ご指導下さる、復興G様、ありがとうございます。
         ↓
ご多忙の中、ご指導下さる、復興G様、ありがとうございます。

1956さくら:2013/01/21(月) 12:06:41 ID:7nETw8OI
復興G様
みなさま

>「久遠の今」
>「実相の今」
>「天之御中主神」の「御中(みなか)」

端的なお言葉ですが、すべての宗教の教えの中心が、生長の家では、とても分かりやすくとかれていて…新鮮な感に打たれました、ありがとうございます。

完全な神の子が、わざわざ不完全な 現象世界にきて、それぞれの表現の場で、このことにたどり着くために、学ばせて頂いていることは、
難儀だけれど、楽しく、奥深いですね、笑。


わたしは、だれが「真の生長の家」だとか、それ以外は虚説だといったものはないと思っています。

…たとえば、「家ダニ」にとったら、人間の方が「虚説だ」というかもしれません、笑。
例えば、ナチスのユダヤ人大虐殺は、劣勢遺伝を抹殺することが人類にとって有益だというような「正義」に基づいて行われたことともいえます。
…立場が変われば、どちらともなるのが、現象世界の「善悪の価値基準」なのではないかな…と。



ぼるぼ様が別板で書いてらっしゃいましたが、ほんとうに日本の「常識」が外国で必ずしも通用するものではありませんね、
日本は単一民族で、多少のズレがあるにせよ…だいたいが同じような「常識レベル」の範囲で安心して生きてこれたので、「人は、自分と同じように考えてくれるはずだ。そうじゃなきゃおかしい!」と甘えの中でこられたのじゃないかな…と思うこともあります。
外国に一歩でれば、向かい合う相手は、常識も違えば、宗教も違い、信じてるものが違えば、もしかしたら無条件に殺されることもあり得る激しい歴史がありました。

その中で、人間がどう和解するかという智慧や対話が、必要だということですね。

どちらの正義を主張することより、「御中」に立つ、宗教の智慧が大切だとおもいます。

「法燈継承」といいますが…雅春先生は、全人類に真理を皆伝されたもので、
ご縁があって「生長の家」にふれたものが、お預かりしているというか、…そういう感じがしました。

いまの生長の家の組織の問題も大切ですが、
…ここでも、せっかく生長の家をご縁を頂いた同じ同士として(すごいご縁ですね)
生長の家を広くお伝えするためにどのようなことができるかも話せるようになると良いな、と個人的には思います。

そんなことを考えると、ワクワクします、笑。

ありがとうございました。



1957復興G:2013/01/21(月) 13:41:58 ID:AB6RqYXc

>>1946 :志恩さま。
>>結局 雅宣総裁が、なにをされようと、かにをされようと、現実は無いのである。虚説mないのである。実相は完全であるのだから、どのようなあこぎなことを雅宣総裁が、されようが、悪をみるのは、悪があなたのこころにあるからだ。ただ、実相をみて、よろんでおりなさい。そうしたら、完全なる実相が現れる。雅宣総裁に中心帰一しなさい。と、和解派の皆様は、くちを揃えておっしゃりたいのでしょう。洗脳とは、おそろしいものです。 <<

ありがとうございます。

私も、かつては「総裁に中心帰一しましょう」と言っていたことがあります。
しかし、最近は、そうは言っていないことは、貴女もご承知のことだと思います。

「和解」とは、>>1951で書きましたように、谷口雅春先生は
≪生長の家の教えは「天地一切のものと和解せよ」という教えでありますが、その「和解」というのは、「未発の中」に立って、発して節に中(あた)る、時と人と場所とに応じてピシリ、ピシリと節に中るということである。間違った奴をのさばらしておいて自分は天地一切と和解しているんだなんて思ったら、大間違いであります。≫

とお教えくださっています。「中(みなか)」「神意」に帰一するのが真の中心帰一である、と思っております。
なんでも総裁のおっしゃることに中心帰一、というのは、間違っている。それは谷口雅春先生のお教えではなく、真の生長の家ではないと思っております。

昨日、午前中はリアルの世界で『生命の實相』第24巻をテキストとした勉強会をしました。

24巻の後半は「質疑篇」で、誌友の質問、疑問に谷口雅春先生が懇切にご教示をされた記録が収録されています。その186ページ以下に、つぎのような質疑・ご回答が載っていました。
<つづく>

1958復興G:2013/01/21(月) 13:42:34 ID:AB6RqYXc

<『生命の實相』第24巻 質疑篇より(1)p.186〜 >

    ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

   十九、方便法と真実法

 (問) 最近「光明思想普及会」が成立いたしまして、その豊富な広告力とめざましき活動によりまして、全世界が生長の家の光明思想に浸潤して行きます様子は、大変結構なことだと存じていますが、その広告宣伝の方法について私は一つの疑義をもっています。というのはその広告に引例されたる事実談が、すべて奇跡的な異常な(われわれは体験があるのであたりまえのことだと思いますが)事実ばかりであることです。

 かくのごとくでは、宗教というものは異常の世界であるという誤解を一般人にもたせ、また、一方識者からは宗教はそんな表面の世界の奇跡のことではない、生長の家がそんなところに止まっているのでは、生長の家は実につまらない何某教同様の宗教だとの誤解を受ける惧(おそ)れがあると思います。私は古くからの信徒として生長の家を愛するからこそ言うのですが、生長の家のありがたいところは、平凡な生活のうちに神が生きていることを自覚させていただける点であり、何がなくとも喜べる生活が生長の家だということにあると思います。

 その御平生の主張に近ごろの広告文は反対であって、行文の重心が奇跡にあったり、病気にあったりしているのはすこぶる遺憾であると思います。むろん私は、『生命の實相』を読むことによって病気の治った一人でありますので、奇跡も疑うわけでもなく、病気の治る事実も疑うわけではありませんが、その宣伝が奇跡や病気治しに傾いているのは生長の家の神髄を誤解させるおそれがあると思って大変残念に思うのであります。どうか宣伝部の方々に、も少し質実な落ちついた宣伝ぶりをしていただいて、生長の家が健全な発達をするように祈って止みませぬ。(東京、大正大学学生、T生)

 (答) いろいろ御注意下されありがとうございますが、あなたのような仏教を専門に研究していられる方には、釈迦に説法でございますが、『法華経』の譬喩品にある次の話を思いだして下さい。紙面をとらないように、信徒小塚晴弘氏の要約によります。

 ある所に長者があって、まことにたくさんの財宝や大きな家を持っていました。その家の一つは古び腐れていましたが、それが物凄い火事になりました。しかし、その家の中には何十人の子供たちが「火事の恐ろしさ」を少しも知らずに、かえって火事をおもしろがって無心に遊びたわむれています。長者はなんとかして、この子供たちを無事に、この「今にも焼け落ちようとしている火宅」の中から、広い安全地帯へ救い出したいものだと考えて、「おい子供たちよ、急いで門の外へ出ておいで、とても珍しい、とてもおもしろい立派な鹿車(ろくしゃ)や、羊車(ようしゃ)のおもちゃをあげるよ」と言いました。すると、子供たちは喜んで、急いでその焼けている家の中から飛び出して、広い通りへ無事出て来ました。そこで長者は、一同に「おまえたちはみんな自分の子だから、これをあげよう」と言って、みんなに同じように、おもちゃの鹿車や羊車でなしに、ほんものの大きな七宝ずくめの立派な立派な生きた白牛がこれを曳き、多くの従僕らが護衛しているような車を与えました。

 「この火宅の中で無心に遊びたわむれている子供らこそは汝ら衆生であり、おもちゃの車をあげようといって、彼らを救い、ほんものの立派な車を彼らに与えるものは仏である。」

 あなたはこの譬話(たとえばなし)を読まれた瞬間に、「そうであったか。なるほど、なるほど」とお解りになるでありましょう。
 生長の家で病気治しや奇跡を宣伝するのは、病気治しそのもののために、奇跡そのもののために宣伝するのではありません。
<つづく>

1959復興G:2013/01/21(月) 13:43:20 ID:AB6RqYXc

<『生命の實相』第24巻 質疑篇のご教示(2)p.188〜 >

 それは、「今にも焼け落ちようとしている火宅」から一切衆生を安穏の地帯に救い出さんがために、「ここまでお出で、おもちゃをあげよう」と言って誘い出すための玩具(おもちゃ)なのです。
 おもちゃだと言っても、ただ嘘の方便ではない。君も体験しているとおり、本当に病気が治るのでありますが、肉体を治したところが、それは、百年長くて二百年すれば消えてしまうところの、「本来無い肉体」なのです。われわれはそういう「有限の宝」を与えるために大衆を呼んでいるのではない。

 しかし、大衆は、君のように宗教的法悦ばかりを今は望んでいるのではない。猫に小判という言葉がありますが、赤ん坊に百円札をやってもありがたがらないでしょう。「有限の肉体の癒し」や、ちょっと不思議な現象界の奇跡のごときは、「永遠の生命を掴む」という真実の無限の富の前には、極めて小さなることであります。しかし、無限の富を見せても、「赤ん坊に百円札」のような結果になるのではその赤ん坊を救うことができませんから、まず赤ん坊の欲している玩具を示してまた実際に玩具を与えて玩具を模型として研究さすことが必要なのであります。

 「赤ん坊とは」実際に病気や家庭苦に悩んでいる人の喩えでありましてこういう人たちには、「その病気や家庭苦の治る道があるからここへ来い」と言って引っぱり寄せ、その病気や家庭苦を実際に治してみせて、この模型により「三界唯心所現」の理を知らせるということにすると、その人が救われるのであります。

 病気や家庭苦の顕われまたは消えるのは、これ「三界唯心所現」の一大理法「模型」すなわち「玩具」であります。そして健康を回復し、家庭が治まるのは、これ人間本来仏子(または「神子」)の、一大実相の「模型」すなわち「玩具」であります。この模型によって研究し、児童の遊戯心を利用しつつ次第に工学の蘊奥(うんおう)を極めしめれば、幼児の玩具についての経験から発達してついには多数の旅客をのせて一時間に百マイルの速力で走るような飛行船も造ることができるようになるのであります。

 『法華経』を説くときにもお釈迦さんは、「止みなん、止みなん、この真実を説いたら、お前たちは誤解して地獄へ堕(お)ちるであろう」と言っていられる。
 「人見て法説け」でありまして、大衆に対する新聞広告のごときものは、まだあれでも高尚すぎるくらいであります。薬で病気が治るということはわかっても心で病気が治る、さらに三界は唯心の所現であるなどということは解らない人が多いので、これをわからすためには、新聞広告をまだまだ大々的にする必要があると思います。

 君は、生長の家は「平凡な生活がありがたい」ということを知らせる真実の教えだと言われますが、平凡でなければありがたくないのでは捉われた見解です。
 病気が治る事実を発表したらありがたくなく、平凡で感謝している人を発表したらありがたいのでは、偏った考えではありませんか。
 むろん平凡な生活もありがたいし、異常な奇跡もありがたいのです。自分が平凡でありがたいから、他人が奇跡をありがたがってはいけないということはないはずです。

 本当の真理を言えば「奇跡」がありがたいのでもなく、「平凡」がありがたいのでもないのです。「奇跡」の奥に「平凡」の奥にあるわが生命の実相が本来神であり仏であることがありがたいのです。周囲が明るいからありがたいのではなく、自分が光体であることがありがたいのです。
 自分が光体であるがゆえに周囲へ振り向けば、そこに時には「奇跡」という光線となって現われ、時には「平凡」という光線ともなってあらわれるのですが、どちらの奥にも自分の光体たる実相が輝いているのでありがたいのであります。

   <以上、『生命の實相』第24巻 質疑篇より>

    ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

――これを読んだときに、ある人がこう言いました。

「生長の家が今、“森の中へ行く”というのも、この譬話のおもちゃのようなものでしょうかね」と。
<つづく>

1960復興G:2013/01/21(月) 13:43:52 ID:AB6RqYXc

<つづき>

 それで、私は思いました。
 
 ――なるほど。病気を治しても、百年もすれば消えてしまう「本来無い肉体」であるように、一時的に地球を救ったって、地球にも寿命があってやがては消えてしまうものである。だから、“森の中へ行く”というのも、“おもちゃ”の段階なのだ。

≪今までも天地とともに生きとおして来た、これからも天地とともに生きとおして、朽ちず、老いず、苦しまず、病まず、悩まざる円相的妙楽の存在、金剛身、不可壊身、無量無辺身、自由自在身、久遠の如来、アブラハムの生まれぬ前より在るところの「久遠のキリスト」≫(テキスト『生命の實相』第2巻p.109)

≪あなたも、私も、いまだかつて肉体として生まれたることもなく、したがってこれからも死することなき久遠永劫の存在≫(『生命の實相』第24巻P.185)

という自覚を与えることが、おもちゃでない本物の宝を与え、究極の救い、「真理は汝を自由ならしめん」とイエスが言った真理を与えることになる。それが生長の家出現の目的である――と思ったのでした。

 ところで、「今の教え」は、この「究極の救い」をもたらしているのでしょうか。

 ――そこにはまだ、ほど遠いのではないか、というのが私の思いです。

 谷口雅春先生のお書きくださった『生命の實相』などの聖典を読むと、魂が歓喜し、やすらぎを覚えます。しかし、雅宣総裁の書かれたものを読んでも、残念ながらそうはならない。(失礼なことを申して、すみません。しかし、それが実感です。)

 しかし、私たち生長の家の御教えに触れた者は、みんな「神の子だ」と教えられているのです。

 イエスは『なんじ心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして主なる汝の神を愛すべし』これは大にして第一の誡命(いましめ)なり」といっている。ここに「主なる神」とあるから、人間の方は僕(しもべ)で、主人であるところの神様を愛するのであるかというと、そういう意味ではない。「汝、イエスの神を愛すべし」とはいっておられない、「主なる“汝の神”を愛すべし」と言っておられるのであって、すべての人間には、その自己の内に神が宿っているということをイエスは認めてこのように言っておられるのです。

 生長の家信徒は、総裁の僕(しもべ)、奴隷ではない。各々みな、自己の内に神が宿っている、宇宙の中心者である。

 「生長の家総裁がかわらなければ、信徒は救われない」のだったら、信徒は総裁の僕、奴隷ということになりませんか?

 ちがうでしょう。
 「自分が変われば、世界が変わる」というのが、谷口雅春先生の御教えではなかったのですか?

1961志恩:2013/01/21(月) 14:16:47 ID:.QY5jUA6
復興G様

ご丁寧なる貴いご講話をありがとうございました。
お説き下さいました事を、後ほど、静かな時間になりましたら、ゆっくりと
考えさせて頂きます。 合掌 礼拝

1962志恩:2013/01/21(月) 14:35:33 ID:.QY5jUA6
復興G様

ひとこと申し上げますが、自分だけで信仰している場合は、
総裁が、どんな人であろうと、
雅宣総裁が、どのような運動方針を出そうと、例え「生命の実相」をテキストに使うなと
命令されようと、

自分だけのことを考えていれば、神を対象に生きていればいいのですから、
なんの問題もないと思います。

しかし、今後の生長の家そのものを考えた場合、

生長の家全体の組織の司令官であるのは、総裁であるのですから、
どういう考え方の人が,総裁であるかは、大問題だと思います。

生長の家でない、生長の家の教えを、そのまま継承していない人が継承した場合、

どなたが、総裁であっても、いいということには、ならないのでは、ないでしょうか?

やはり、うそをついたり、
間違った事をされた場合は、心ある信徒は、黙っていずに、発言しなければ、

どんどん、間違った方向へ行ってしまいますから、
どんどん、本来の生長の家は、消えていってしまいますから、

そういう場合は、
黙認して祈ってばかり居る事は,神の道に反していると,私は思います。

1963復興G:2013/01/21(月) 14:51:52 ID:AB6RqYXc

 もし、三代目総裁が、谷口雅春先生のお説きくださった最高の真理のお悟りをそのまま受け継がれ、徳高く愛深くご指導くださっていたら、信徒はいつまでもただ総裁に寄り頼ってばかりで、総裁を神と崇めまつり、「自分が神の子である、釈尊やイエス・キリストと同じ尊い永遠の存在である、宇宙の中心者である」という自覚に到ることはなかなか難しいでしょう。

 だから、信徒皆がその自覚を持つように、神はちゃんと信徒のレベルにふさわしい総裁を配剤してくださっているのである。

 「私たちは神の子である。私たちの家は“神の子”たちの住む“神の国”なのである。神はその全智にして全能なる力をもって私たちを愛し給い導き給うのである。神の愛は近視眼的愛ではなくて遙かに前途を見越して、有終の美を飾る如き結果をわれらに与えたまうのであるから、現在の状態がたとい如何なる状態であっても私たちは神に対する信頼を失うということは絶対にないのである。」

と、『真理の吟唱』<人生の苦難を克服する祈り>にある通りです。

>>1953で a hope様が書いてくださったことにも通じますね。

また、>>1843 に引用させて頂いた榎本恵吾先生の「誌友会への所感」で、「誌友会」というところを「講習会」と置き換えれば、次のようになります(一部抜粋です)。

≪生長の家の集りは光りの集りである。そこには“光り”が集まって来るのである。先づ光りなるものがあるのである。集まってから光りとなるのではないのである。それははじめて来た人についても同じことである。
 “講習会に行こう”と思うことが、内なる如来が、天照大御神がその人の内からお顔を出されて、輝き出して、そう思うのである。したがって、“講習会に行きたいなー”と思ったとき、すでにその人は如来の輝きであり、光明そのものであり、天照らして光なる人がそこに立っているのである。
 その如来なる、光明なるいのちが家を出発する。そして周囲のすべてを輝かせながら講習会場にやって来るのである。ある人は徒歩で、ある人は車で、あるいは電車に乗って。道路を歩けば道路を燦然たる光りでかがやかせながら。そして電車に乗れば、その人から出る光りによって電車は光りと化し、木々の間を通れば木々を輝かせながら講習会へ、講習会へと光りが集まるのである。
 再び言う。講習会に来てから光りとなるのではないのである。“光り”が集まって来るのである。その光りがさらに光りする行事が講習会である。
 その光りなる如来に坐ってもらって、会場の椅子はどんなに喜んでいることであろうか。光りに集まっていただいて、その会場全体がどんなに喜びに輝いていることであろうか。≫

 ――講習会受講者のたとえ一割でも、このような気持を持って輝く姿で集まり、よろこびの光を発すれば、必ず総裁のお姿、ご講話の内容も素晴らしいものに変わってくること必定だと私は思います。

 信徒一人一人が中心者である。奴隷ではないのである。神の子なのである!

 なんという素晴らしいことでしょう!

 そんなことを考えると、本当にワクワクしますね、さくら様。

1964復興G:2013/01/21(月) 15:05:27 ID:AB6RqYXc

志恩さま。

上記>>1963は、志恩様の>>1961>>1962を見ないで書き込みました。

しかし、>>1963でだいたいお答えになっているのではないかと思います。
つまり、現在の総裁は、現在の信徒のために、最もふさわしい方が現れてくださっていて、それが神の配剤なのではないかと思われるのです。

このような思いを引き出してくださった志恩様は、まさに尊い観世音菩薩さまでいらっしゃると、礼拝し、感謝申し上げます。
ありがとうございます。

1965志恩:2013/01/21(月) 15:22:41 ID:.QY5jUA6
復興G様

お答えを,ありがとうございます


復興G様のコメント

>>もし、三代目総裁が、谷口雅春先生のお説きくださった最高の真理のお悟りをそのまま受け継がれ、徳高く愛深くご指導くださっていたら、
信徒はいつまでもただ総裁に寄り頼ってばかりで、総裁を神と崇めまつり、「自分が神の子である、釈尊やイエス・キリストと同じ尊い永遠の存在である、
宇宙の中心者である」という自覚に到ることはなかなか難しいでしょう。

 だから、信徒皆がその自覚を持つように、神はちゃんと信徒のレベルにふさわしい総裁を配剤してくださっているのである。<<


何事も偶然の出来事は、発生しないという法則を思い起こせば、

雅宣総裁のように、生長の家の教えを、継承してない人なのに、左翼的な思想の人なのに、そういう人が、
この世界的使命を持つ 

たいせつな たいせつな
生長の家の教団の、総裁の座に居座ってしまっているということは、

復興G様が、おっしゃっるように、人智では計り知れない 深い意味が、あるのかもしれませんね。

ご深切にご教示下さって、ありがとうございました。

1966復興G:2013/01/21(月) 15:27:40 ID:AB6RqYXc

志恩様

ご丁重なレス、誠にありがとうございます。

礼拝

1967トキ:2013/01/21(月) 18:20:58 ID:JCzlgAQE
 少し話がずれますが、今、総裁を批判する人もいれば、援護する人もいます。私自身は和解を唱えている人間ですが、批判派も援護派も
それぞれしっかりとした根拠があり、その反対にそれぞれに弱点があるとも思います。しかし、両者に共通しているのは、「総裁」の立場
をかなり特別視している部分が強いと思います。

 もちろん、総裁は教団にとって最高指導者であり、その意味では特別であるのは間違いがないのですが、総裁の発言一つで、今まで西に
向いて走っていたのを、いきなり東に向かって走るようなあり方が本来の活動あるいは信仰の姿勢ではないと思います。これは、全く復興G
様が言われる通りで、私個人は復興G様のお考えを支持します。

 今、少し思案をしている点があるのですが、それもまとめて投稿をしたいと思います。

合掌 ありがとうございます

1968SAKURA:2013/01/21(月) 19:17:46 ID:dGeUHjWM
a hope様 ヘ  

こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1888>>1889>>1934>>1935>>1936>>1939>>1940>>1944>> 1945の【SAKURA投稿】
の続きです…。 

>「a hope」様の【>>1952の投稿】を頂きまして……

■早々の“お返事”感謝申し上げます…。大変遅くなりました事…申し訳ございませんでした。
今日は、私事で、日中【 バタバタ!ドタバタ!の〜〜〜一日…】でした。…が?
ヤ〜〜〜ット!今!!皆様の“投稿”を閲覧させて頂いております…。 【進行形…】

私も、この【 WEB誌友会 】にて、「a hope様 」と、この様に“真理の勉強”をさせて頂きます
機会を…当に!この様に【ネット上での対話】ができます事に、深く感謝申し上げます。

今後とも、何卒宜しくお願い致します。
                                再合掌

1969トキ:2013/01/21(月) 19:23:34 ID:JCzlgAQE
 この掲示板が登場した頃は、まだ聖典の裁判も地裁レベルでの判決が出た頃でしたから、法律に詳しい人に尋ねると、十分に
法律上の和解も可能な時期でした。弁護士によっては、具体的な方法をあげて「私なら、和解できる」という人もいました。
 しかし、高裁の判決も出てしまい、もうすぐ最高裁判所の判決も出ます。

 もう一つ言えるのが、これが始まった頃は、まだ「分派」の勢力や評価が信徒の間では、重要視されていなかったのです。が、
高裁判決、さらには「大自然讃歌」「観世音菩薩讃歌」が出てしまい、一気に信徒の間に動揺が走るようになりました。それに
比例して、「分派」の勢いは急激に増大し、それに反して教団からの脱退者が増加しました。言い方は悪いですが、以前なら
教団が「分派」を呑んでかかっていたのですが、今は、「分派」が教団を呑んでかかっている状態なのです。

 すると、今、法律上の和解をしようとしても、「分派」側は、簡単には応じないでしょう。今、教団側は、例の「新経本」で
「聖経」の不在を乗り越えようとしていますが、信徒の多くは、そこまでお目出度くないです。

 そういう状態を見ると、それでも「和解」を唱える意義があるのなか、という疑問は確かにあります。しかし、生長の家の
和解とは、「天地一切のものと和解せよ」と言う事です。難しいから「和解」をしないとか、相手が誰だから和解しないとか、
という意味ではないので、こんな状況でも「和解」を唱える意味はあるかと思います。

 そもそも、考えると、この一連の争いは、「下層」の信徒や職員、幹部には関係のないところで始まった事です。教団や「分派」
の元偉い人達は、それなりの理念や信念で、それぞれの運動方針を決めていますが、我々、「下層」の人間とは関係のないところ
で始まった争いに、右往左往するのは、おかしいと思います。

 思うに、今回の紛争があって、多くの人ははじめて戦前や戦後の谷口雅春先生の御著書、あるいは吉田國太郎先生や榎本恵吾先生
の御著書を読んだと思います。このような争いがあった事は本当に残念な事ですし、個人的には恥ずかしい事だとも感じています。
が、この紛争がなければ、信徒は安逸な信仰を継続していたかもしれません。

 余談ですが、今回の「森のオフィス」の建設のために、長さ4m以上の木材が4万本も使われます。最初、それを見たときには
「もったいない事をするなあ」と思ったのです。が、その後に、若い木を植えたら、それは次世代への生命の伝承となると思います。

 今、この紛争に当たって、私達、一人一人が、自分の本当の信仰を確立し、生活に生かす姿勢を保つ事が大事だと思います。

と、偉そうな事を言っても、まだまだ修行中ですので、ご教示のほど、お願いいたします。

1970トキ:2013/01/21(月) 19:46:29 ID:JCzlgAQE
 復興G様の御指導を拝読して痛感したのは、やはり求めて、真理を勉強しなければならない、という事ですね。
まだまだ、谷口雅春先生のご本も入手可能ですから、自分から動かないといけませんね。

1971SAKURA:2013/01/21(月) 19:48:03 ID:dGeUHjWM
「復興G」 様 ヘ 「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1888>>1889>>1934>>1935>>1936>>1939>>1940>>1944>> 1945>>1968の【SAKURA投稿】
の続きです…。 

>「復興G 様」から頂きました【>>1949…】に関しまして・・・・・

お返事ありがとうございます。昨日は、大変の疲れとの事で…それでも
早々の時間に、お返事を頂きました事に、深く感謝申し上げます。
只今…引き続き、「生命の実相…2巻」の続き投稿として、今!ヤ〜〜〜ットのことですが
【パソコン…】の“key!…”を打ち始めております。

本日の“テキスト”…(頂きました“お返事…”の中からです。…が?)

■>時間空間の中に生命が生れて来るのではなくして、生命が時間空間をつくるのである。
時間空間は吾が心の中にある。
時間空間は生命の掌中にあるのである。<  (一部抜粋)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

■【 時間・空間 】は、【 心 の 中!】と云う言葉に、確かにそうですかと、改めて思います。
【 心 の 力 】と表現させて頂きますが…
例えば…「朽ちず、老いず、苦しまず、病まず、悩まざる、円相的妙楽の存在」全てが…
改めて【 こころ 】と、頂きました言葉から、改めて認識しました。

但し、その切実なる【自己の真の願い…】が、不動のものであり…
神に対して切実に願うとしますと、それは【心の法則…】によりまして、成就すると…

「復興G 様」様の“抜粋文章”を閲覧させて頂きながら【人間の心が創る】と確信しました。

引き続き【生命の実相…2巻】このテキストからの投稿をさせて頂きます。
但し【こころ…】この捉え方の相違が…個人個人と思いますので、最終的には【類の法則】かと。
尚!スロ―テンポにてでの、投稿となりますので…閲覧者の皆様方も御了承頂きますと、
幸いに思います。

                                  再合掌

1972SAKURA:2013/01/21(月) 20:15:21 ID:dGeUHjWM
「復興G様」 へ  「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1888>>1889>>1934>>1935>>1936>>1939>>1940>>1944>>1945>>1968>>1971
【SAKURA投稿】の続きです…。 

===【生命の実相…2巻よりの抜粋】===========================
■【五感的存在の否定】   その③

>>名画はそれ自身「美」を備えていても、見る人の心に名画と同じ「美」が開発されていな
いと「なるほどそこに美があるな」とはわからない。すべてそこに「何か」がある事がわか
るのは、自分の内にあるものと同じものがそこにでているからであります。「善」でも同じ
ことであります。ある人の善行を見てわれわれが感激して「そこに善があるな」と語るのは、
われわれの内に道徳性――すなわち「善」が相手にあらわれている「善」と、互いに照らし合わ
された結果、「なるほどそこに善があるな」とわかるのであります。だから道徳性(善)の無い人、
または開発されていない人には、他の善行を見てもそれを感心することができない、自分に無い
ものは相手にいくらあったからとてそれがわからない、聖者はひとの悪を見ないといいますが、
それは聖者が悪を見ないのではない、聖者は自分の内に悪がないから、他人の悪が見えないので
あります。ひとを常に批評的に観て、「あの人はあんな行ないをしたから、それは必ずこういう
悪い動機からしたのであろう」と、常に想像をたくましゅうしているような人は、その人自身の
心に「悪」があるから、相手に悪があるとわかるのであります。そうすると、他人の心情「悪」
が目につく人は必ず自身の心情に「悪」がある証拠であるから、決して他人の「悪」を批評し
たりする資格がないのであります。だから「他人が悪いな」と気がついた時は、「それがわかる
のは自分の心のうちに悪があるからだな」と反省すべきであります。  (一部抜粋)
==============================================

■【人間関係 の問題】では、まず!必ず起きる問題です〜〜〜ネ!!
【相手が悪い!!という前に、こちらが、相手をさす“こころ…”がある分けですから、
「雅春先生」の言葉からも、【相手への念】が、必ずや伝わるのモノでしょうかと。??そして、
私の場合を、例えますと、【関わりたくな〜〜〜い】と強く“心で想念…”してしまいます事は、
反対に【念の具象化…】で、これが、かたちとして、現われてくるのです〜〜〜ネ!!

同じように見たものでも、例えば【絵の鑑賞…】をしますと、その【絵…】が「素敵〜〜〜ネ!」
と聞きますと、私は「どこが〜〜〜ぁ?」と答えます。それに対し、相手が「ここがいいの〜〜ョ」
と云いますと「フ〜〜〜ン?」理解できます。…が? “環境の違う人”は、これが分からない
のと、逆に息まいて、こちらがまるで“バカ扱い…”されますかと。これは【類の法則…】

これは、こちらの【念からの具象化なのか?】〜〜〜少なからずもと、悩んでしまいます。…が?
どう考えても、その人の“環境…”から来る事に〜〜〜おなじ絵を見てわからないけれど、
そこには『 何処か?同じ共通点が?あるという事を探すこと』が〜“始まり”かと思いながら…

今回!相手に対し、まずは“相手の気持ち”になっての【理解する事…】が歩み寄りでしょうかと。
こう考えますと【 類の法則 】でも、相手を讃歌しながら“良い美点…”を見ていく訓練も
大事です〜〜〜ョネ!
此処で【相手への讃嘆言葉…】いざ!25〜30項目を挙げてくださいと言われますと…意外と時間が?
やはり、これは日頃の訓練であり、瞬時にして【讃嘆…言葉】が出ないと言います事は、
私もそうですが…“相手をさす心…”が、潜在意識の中に定着していますかと???

■まず身近にできる事は、すぐ近くの【 隣の〜隣人から〜始まり 】それは、やはり、
【 類 の 仲 間 】になる事でしょうかと??そこから【人間関係の訓練】ですネ?
 
                        つづく
PS;今回の【生長の家…お家騒動】は〜〜〜???

1973SAKURA:2013/01/21(月) 21:02:01 ID:dGeUHjWM
「復興G様」 へ  「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……    ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1888>>1889>>1934>>1935>>1936>>1939>>1940>>1944>>1945>>1968>>1971>>1972の 
SAKURA投稿の続きです… 

===【生命の実相…2巻の抜粋】=============================
■【五感的存在の否定】   その④

>>時々、ひとが善く見えたり、またすぐに悪が見えて来て相手に失望したりするような人は、
時々自身の心に「善」が宿って来ても「悪」がすぐ宿って来て交替になる人であるから、
われわれは自分の心に「善」ばかり養って、他の「悪」を見ようにも見えないように修養を
つみたいのであります。                    (一部抜粋)
============================================

■そうです〜〜〜ョネ?果たしてどうなのでしょうか?【こころは毎日かわるとの事です。…が?】
この事を、ふんだんにおっしゃつている方がいた事を、思い出しました。それは、ある面では
情緒不安定な感情〜〜〜がありまして、ある面では【感情のコントロール】も関与しての
常日頃の【 “こころ”は、毎日変わる… 】でしょうかと。此処で、改めて問題が…
そうなのです…。【感 情 論…】そして【環 境】も多大と思います。

■前回も申しました。…が? 私の現実の「体 験 談」からなのですが〜〜〜
今の私も、やはり“捉え方・考え方”が全くといってそぐわない【人種…そう!吸血鬼・ゾンビ】です。
何度も〜何度も〜関わりたくないと、毎日!事あるごとに!言っています。それくらいの【想念…】
そして【感情…】でしょうかと??
今回、昨年の年度末から病気して近くの「内科病院…」に診察して頂き、そこは、意外と
「威厳のある先生」であり、更に「看護婦さん…」との会話が、楽しい雰囲気でもあります。実は、
最初診察に伺いました時、当初の「看護婦さん」の応対に“ビックリ…”でした。…が?(やはり、
東京と応対が違う事に、正直戸惑い感かと。><)と云いますのは?そこに伺う従来の“患者…”の
方と、異なっていたのでしょうか?“嫌〜〜〜な視線??”を頂きましたのです。(微笑)
しかしながら、こちらも負けずに、その応対をかわしまして行きますと、気がつきますと、向こうの
方が、私どもから受け取ります感じが〜〜〜いい方へと良くなりまして、お互いに“好感度…”と
なりました次第です。本当に、最初の診察時の印象は?当時は“ビックリ”でしたかしら〜〜〜ン!
…が、今日では「先生」も「看護婦」さんも親切にての応対です。【以心伝心…】かと。

そこは、ある程度の患者さんが〜〜〜落ちついた!マナーのある患者!が多くて、安心しておりまし
たが、今回の病気で、最初はいつもと変わらない患者の方々なのに、気がつきますと、
周りの患者は、変!変!〜〜〜変な感じが、通院するたびに増えていって、看護婦さんも〜〜〜
“アタフタ感…”になっているようです。診察を受けるに「コートも着ないで?どうみましても??
部屋着(ネマキなの??)このような感じなのです。??ふと!【吸血鬼・ゾンビ…??】かと。
こうなりますと“心…”が、だんだんと“すさんだ心”になります。…が?

■【相手の美点…】を見ても、直ぐさま納得して“変わる心”という事は?こうして考えていきま
すと、やはりこれは【 類 の 法 則 】でしょうか??
…と!そこからの【訓練・修行】に、なるのではと思いました次第です。…が?そうしますと〜〜〜
今の私どもの“環境…”は、ある面では、これが【一番の修行の場】になるのですかと。

つづく

1974復興G:2013/01/21(月) 21:23:34 ID:AB6RqYXc

 皆さま、ありがとうございます。
 会期の一日延長をさせていただきましたが、それももう間もなく終了時間となります。
 もちろん、後夜祭もありますから、じっくりと落ち着いて勉強させていただきたいと思いますが――一応補遺・まとめをした方がよいと考えます。それで――

 今回のテキスト『生命の實相』第2巻第3章の冒頭に、〈参考〉として、経典・聖書などから四つの引用文が掲載されています。次の四つです。

 ① 是(こ)の身は幻の如く顛倒(まよい)より起こる。是の身は夢の如く虚妄(こもう)の見(けん)たり。是の身は影の如く業縁(ごうえん)より現ず。是の身は響(ひびき)の如く諸々の因縁に属す。是の身は浮雲の如く須叟(しゅゆ)にして変滅す。是の身は稲妻の如く念々に住(とどま)らず……<『維摩経』方便品(ほうべんぼん)>

 ② 迦葉(かしょう)、仏に白(もう)して言(もう)さく「二十五有(う)に、我(が)有りや否や」 仏のたまわく「善男子(ぜんなんし)、我とは即ち是れ如来蔵(にょらいぞう)の義、一切衆生悉く仏性あり、即ち是れ我(が)の義なり。……如来今日、普く衆生の諸々の覚宝蔵を示す、所謂(いわゆ)る仏性なり。一切衆生この事を見已(おわ)らば、心に歓喜を生じて如来を帰仰(きごう)す。」<『大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)』如来性品(にょらいしょうほん)>

 ③ たとい無量百千億の魔も如来の身血を侵し出すこと能わず。故は如何ん。如来の身は血肉、筋脈、骨髄にあらず。如来は真実にして実に悩壊(のうえ)なし。<『大般涅槃経』月喩品(げつゆほん)>

 ④ イエス答え給う、「我もし已(すで)に栄光を帰せば我が栄光は空(むな)し。我に栄光を帰する者は父なり。即ち汝らが己(おのれ)の神と称(とな)うる者なり。然(しか)るに汝らは彼を知らず我は彼を知る、もし彼を知らずと言わば汝らの如く偽り者たるべし。然(さ)れど我は彼を知り、且つその御言(みことば)を守る。汝らの父アブラハムは、我が日を見んとて楽しみ且(かつ)これを見て喜べり。」ユダヤ人(びと)いう、「なんじ未だ五十歳にもならぬにアブラハムを見しか。」イエス言い給う「まことに誠に汝らに告ぐ、アブラハムの生れいでぬ前(さき)より我は在るなり。」(『ヨハネ伝』第八章五四−五八節)


 以上の四つの原典引用文は、とっつきにくくて難しいと思われるかも知れませんが、>>1949〜1951に書きました「久遠の今」(時間・空間を生み出した元のところ)に吾々の生命の本体が時空を超えて実在していること、そして現象・肉体は、その生命が創り出した3次元スクリーン(あるいは時間という次元を含めて4次元時空間のスクリーン)に映し出された映像、影だ、本来無いものだとわかりますと、理解しやすくなると思います。

 さらに、谷口雅春先生著『維摩経解釋』『大般涅槃経解釋』『ヨハネ傳講義』などを拝読しますと、いっそう分かりやすくなります。

 それで、上記三聖典から、関連部分を抜粋謹写させていただきましょう。
<つづく>

1975復興G:2013/01/21(月) 21:24:15 ID:AB6RqYXc

 ① 是(こ)の身は幻の如く顛倒(まよい)より起こる。是の身は夢の如く虚妄(こもう)の見(けん)たり。是の身は影の如く業縁(ごうえん)より現ず。是の身は響(ひびき)の如く諸々の因縁に属す。是の身は浮雲の如く須叟(しゅゆ)にして変滅す。是の身は稲妻の如く念々に住(とどま)らず……<『維摩経』方便品(ほうべんぼん)>

について、『維摩経解釋』より――

    ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 是の肉体は幻のようなものである。幻というものは、「無い」ものを「ある」かの如く幻想するのであって、「無い」ものを「ある」と見、「ある」ものを「無い」と見る顛倒(さかさま)の想いの産物であるのである。

 是の肉体を物質として見るのは夢みているようなものであって、虚(むな)しきものをあると錯覚して妄想をたくましうしているにすぎないのである。

 是の身は影のようなものである。一種の影像であって、業(ごう)の波動が「縁」に触れて形をあらわしたのは、恰(あたか)も、影の波動(業)がスクリーンという「縁」にふれて形をあらわした「銀幕上の人間」みたいなものである。

 この肉体は響きのようなものであって、山峡(やまかい)に立って谷へ向って「オーイ」と呼ぶと、谷間から「反響(こだま)」が「オーイ」と返事をして、恰も実体のある人間が返事をしてくれたように見えるけれども、それは実在するのではなく、こちらから出した声の波動が因(原因)となって、谷間の岩壁等が反響を起す「縁」となって生じたもので、それは因縁の産物にすぎないのであり、「因」が滅するか、「縁」が滅するか、或いはその両者ともに滅すると、結局消えて行くもので、不滅の実体なんて存在しないものである。

 此の肉体というものは、空に浮ぶあの雲のようなものである。その浮雲を眺めていると、あの雲は人間の形をしていると思ってみている間に、須叟(しばらく)の間に、その形が変ってなくなってしまうのである。

 此の肉体は稲妻(いなづま)のようなものである。念々持続ということがない。一瞬にして消え去ってしまうものである。
<つづく>

1976復興G:2013/01/21(月) 21:25:04 ID:AB6RqYXc

 ② 迦葉(かしょう)、仏に白(もう)して言(もう)さく「二十五有(う)に、我(が)有りや否や」 仏のたまわく「善男子(ぜんなんし)、我とは即ち是れ如来蔵(にょらいぞう)の義、一切衆生悉く仏性あり、即ち是れ我(が)の義なり。……如来今日、普く衆生の諸々の覚宝蔵を示す、所謂(いわゆ)る仏性なり。一切衆生この事を見已(おわ)らば、心に歓喜を生じて如来を帰仰(きごう)す。」<『大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)』如来性品(にょらいしょうほん)>

について、『大般涅槃経解釋』より――

    ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 釈尊が実相は無常・苦・無我・不浄ではなく、常・楽・我・浄が実相じゃとお説きになつたものですから、迦葉菩薩は「二十五有に転々と生れ更る存在にも『我』というべき本質的な実体があるのでございますか」と訊いたのであります。

 二十五有というのは、我々の霊魂が生れかわって行くと考えられている世界に、欲界・色界・無色界の三種の「界」があり、その「界」を分って二十五種類の「有」の世界があるのであります。「有」というのは「仮有」すなはち「仮存在」の世界なのであります。(中略)

 「実相」は真如法性(しんにょほっしょう)であり、そのうちに一切のものを蔵しており、ここから如来が生れて来るのでありますから、これを如来蔵ともいうのであります。

 そこからすべてのものが放送されて現象界にあらわれて来るという点から喩(たと)えてみますと、実相は如来を蔵する放送室のようなものであります。それが色々の波長を放送いたしますから現象界という色々のテレビ受信機に受像されて、そこに「転現」します。この「転現する」ことを「生れ更る」というのであります。

 受像は転現しますから「生れ更る」ように見えますが、すなはち「無常」であり、「無我」であり、「変易」するように見えますが、放送室には儼然(げんぜん)として「如来蔵」が存在するのであります。この如来蔵こそ不滅の「我」の本体であります。

 すなわち我々は、不滅でありながら滅をあらわし、「生れ更らない」でいながら、いろいろの「界」に転現して生れ更るごとく見せているのであります。

 こうして衆生として生れ更って来るように見えるのは、ともかくも、その放送室「実相」に「仏性」(という我)が存在するからであります。これを「一切衆生ことごとく仏性有り、すなわちこれ我の義なり」と釈尊は仰せられているのであります。

 現象としてみて見れば三界というテレビにあらわれた衆生でありますけれども、その奥を見れば「実相」に仏性があるのであります。仏性があるのに、仏性の方を見ないで、転現する現象だけを見て、その転変に心を奪われ執著して煩悩をおこしているから、仏性の方はおろそかになって、衆生は仏性を見ることが出来ないのだと仰せられたのであります。
<つづく>

1977復興G:2013/01/21(月) 21:25:45 ID:AB6RqYXc

 ④ イエス答え給う、「我もし已(すで)に栄光を帰せば我が栄光は空(むな)し。我に栄光を帰する者は父なり。即ち汝らが己(おのれ)の神と称(とな)うる者なり。然(しか)るに汝らは彼を知らず我は彼を知る、もし彼を知らずと言わば汝らの如く偽り者たるべし。然(さ)れど我は彼を知り、且つその御言(みことば)を守る。汝らの父アブラハムは、我が日を見んとて楽しみ且(かつ)これを見て喜べり。」ユダヤ人(びと)いう、「なんじ未だ五十歳にもならぬにアブラハムを見しか。」イエス言い給う「まことに誠に汝らに告ぐ、アブラハムの生れいでぬ前(さき)より我は在るなり。」(『ヨハネ伝』第八章五四−五八節)

について、『ヨハネ傳講義』より――

    ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 (「汝はわれらの父なる、ユダヤ人の大祖先として最も尊敬しているアブラハムよりも大なる者であるか、彼は死んで、それから後に出て来た多くの預言者たちも死んでいるではないか。それにお前の言を守らば永遠に死なないと言う、貴様は一体何であるか?」 とユダヤ人たちがいきり立って言ったとき)

 その時イエスはこう言われたのであります。

 「『我もし己(おのれ)に栄光を帰せば、我が栄光は空(むな)し』 自分を自分が尊い者であると言ったらその栄光は空しいけれども、私に栄光を帰する者は我が父である。我が父は、お前達の崇めておるところの本当の神様である。本当の神様が我が父であって、その神様がわたしの実相を讃嘆して、『汝は神の子であるぞ』とわたしに栄光をあたえているのである。神が、お前達の崇めている本当の神が私をここに遣わし給うて、実相の子としての実相の響きを出させておられるのである。

 『然るに汝らは彼を知らず、我は彼を知る』 私は本当に神を知っている。お前達は『神』を説いても本当には神を知らないのである。ところが、私は、本当の父なる『実相の神』を知っているのに、今更、神を知らんなどと言えば嘘吐(うそつき)になってしまうから、断じてそう云うことはできない。自分は肉の子であるとはどうしても言わないのだ。自分は実相(かみ)の子であるから、実相(かみ)の子であるというより仕方がないのだ。

 『汝らの父アブラハムは、我が日を見んとて楽しみ且(かつ)これを見て喜べり』――汝らの父アブラハムは、このイエスが出て来てそうして人間の実相を伝える――この日の出て来るのを予感していられて非常に喜んでいたのである。」 こうイエスが言われたら、
 「なんじ未だ五十歳にもならぬにアブラハムに会ったことがあるか。そんな出鱈目(でたらめ)、出放題(でほうだい)を言ったとて誰も信ずる者はないぞ」とユダヤ人はそれを反駁したのであります。

 数千年前に生れたユダヤ人の遠祖であるアブラハムであります。そのアブラハムがお前を知る筈はない。お前はまだ五十歳にもならぬじゃないか。どうしてアブラハムを知る筈はない――これが一般常識であります。

 それに答えられたイエスの言葉が有名な 「まことに誠に汝らに告ぐ、アブラハムの生れいでぬ前(さき)より我は在るなり」 と云う一句であります。この肉体の自分は三十三歳位に見えているけれども、こんな肉体は、本当の自分ではない。自分は、久遠生き通しの実相がここに顕現しているのである。だからアブラハムの生れぬその前の前の前より、自分は久遠の実在として存在しているのだ――こう言われたのであります。

    ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

――以上、ありがとうございます。

1978復興G:2013/01/21(月) 22:24:59 ID:AB6RqYXc

SAKURA様。

テキストに添って、精力的に書き込みをしてくださいまして、ありがとうございます。

それを無視したわけではありませんが、割り込んで投稿したようで、申し訳ありません。

お詫びします。感謝します。

一応終了時刻になっても、まだ後夜祭がありますから、どうぞお続けください。

1979トキ:2013/01/21(月) 22:26:03 ID:JCzlgAQE
 復興G様、ご指導、ありがとうございました。

 私個人の感想ですが、大事なのは、聖典を拝読し、その上で各自が感じた事が「正解」なのかと思った次第です。
もちろん、慢心に陥ってはいけなのですが・・・・。過去は、信徒にとっては、教団や総裁の示す解釈が唯一で無二の
正解であった、という事だったと思うのです。これからは自分が神の子である、という事から発想を初め、聖典を
拝読して、各自がベストだと思う事を行動に移すべきかとも感じるのですが、そのためには、先ずは、行をしっかり
することが大事かもしれません。
(だからと言って、好き勝手な事をしても良いとはおもいませんが。)

 しかし、この解釈は私の我流ですから自信はありません。これをご覧の多くの信徒の方々のため、ご指導を
お願い申し上げます。

1980a hope:2013/01/21(月) 22:50:18 ID:TqpbsVIM
みなさま こんばんは

ちょっと前にやっとパソコンの前に座ることができ、今日一日のみなさまの投稿をさっと拝見させていただきました。
とても深い内容に魂が震えています。
これからプリントアウトした今回の誌友会のすべての内容をじっくりお勉強させていただく予定です。

ですが、わたしは明日も早いので、閉会前ですが今夜はもうお休みさせていただきます。

聖経 真理の吟唱から、「有限そのままに無限を悟る祈り」を謹写させていただきます。

感謝 合掌

1981SAKURA:2013/01/21(月) 22:52:06 ID:dGeUHjWM
「復興G様」 へ  「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……    ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
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>>1973>>のSAKURA投稿の続きです。

===【生命の実相…2巻の抜粋】=============================
■【存在(もの)の実相(ほんとのすがた)は何によって知るか】   その①

>>で、「美」をみるには自分の心に宿っている審美性すなわち「美」で照らし出して見なければ
わからない。「善」を見るには自分の心に宿っている道徳性すなわち「善」で照らし出して見なけ
ればわからない。こういうふうに何事でも、みんな自分の心の内にないものは見えないということ
が会得されるのであります。では、存在(もの)の実相(ほんとのすがた)を観るにはどうしたら
よいかといいますと、「自分の実相」によって存在の実相を照らし出して見るほかないのであります。
「存在の実相」と「自分の実相」とが互いに照らし合わされ触れ合ってカチカチと如実に鳴る、
そこに存在の不思議な円満な実相がありありとわかる。 (一部抜粋)
============================================

■■「神想観…」で奥深く見つめる〜〜〜【実 相】
但しこの時の“心の持ち方”になりますでしょうか?【善…なる心のみ】かと。
そして、それは【祈り…】そのものになります〜〜〜ョネ???そうしますと、
本当に【 エデンの園…世界観が変わる 】事になりますのでしょうかと。

===【生命の実相…2巻の抜粋】=============================
■【存在(もの)の実相(ほんとのすがた)は何によって知るか】   その②

>>このような第六感で見える世界はやはり鏡のように澄みきった実相の世界ではなく、「実相」
という息を吹きかけてできた曇りの模様のようなものを見別るにすぎないのであります。
で、われわれが確実に存在そのものの実相を知るには、五官を超越し、第六感さえも超越して
この「実相覚」によるほかはないのであります、だからわたしはこの「実相覚」にのみ遠慮
なく頼って存在の実相を観ることにするのであります。 (一部抜粋)
==========================================

■■本当の“奥の〜奥の〜心”に入っていくには、【甘露の法雨】にもありますが、
〜♫〜五感を超越〜〜さらに第六感も超越して貫く心の〜〜深層に入っていく〜♫〜
これはもう【神との一体】になるほかは無いと、改めて思いましたかと。
そう【 実相を見つめる訓練 】それは、本当に【祈ること…神想観】になりますモノ!!
「心の奥底の心〜〜〜」に入っていくようです。【祈り…】も深くなりますと
〜♫〜宇宙に貫く〜〜心〜♫〜 ……に“本当の心”に戻るのです〜〜〜ョネ〜〜〜
そうしますとこの【五官…目・耳・舌・鼻・皮膚を通して生じる五つの感覚】は物質でできていますから、
当に【仮の姿…】となりますでしょう!!それを“超越すには???”
【物質は無い!から始まる分けで、悪も無い!という事から始まる】訳です〜〜〜ョネ!
■【 心 の 眼 】どの様なものでしょうか???

                  つづく

1982a hope:2013/01/21(月) 22:53:08 ID:TqpbsVIM

聖経『真理の吟唱』より

有限そのままに無限を悟る祈り

み光は降(くだ)りたまえり、み光は降りたまえり。
大神の伝え給える御言葉は、まことにぞ光にましますのである。
我らすべてを照らし給い、迷いの暗黒より我らを救い出(いだ)さしめたまうのである。
聖なる神の御言葉(みことば)は、その真理の御光をもてわれらの実相を照らし出(いだ)したまい、
我らに人みな〝神の子〝たることを知らしめたまうのである。

人が〝神の子〝であるということは、〝人の形〝として顕われたる〝神〝であるということである。

神は無限であるが、人の形は有限である。
有限なる形のうちに、無限を表現することが、人間が地上に生まれ出(い)でたる使命であるのである。
画家は方尺(ほうじゃく)の画布(がふ)の上に無限をあらわす。
無限そのままに無限になるときには、何ものも表現されないのである。
無限がみずからを局限して有限ならしめることによって表現は行われる。
完全なる自由を享受して何らの抵抗もなき空中には絵を描くこともできないのである。
画家が、自己の絵筆の自由なる運行に摩擦して抵抗し、絵筆の無限の自由を制限するところに、
美しき絵が描かれるのである。
普賢菩薩は虚空(こくう)に満ちて普遍なるその智体(ちたい)をみずから縮小して
六牙(りくげ)の象に乗りたまえる普賢菩薩の現象身をあらわすのである。
現象の中に実相あり、これを覚らなければならないのである。
実相の顕現としての現象となるとき、そこに浄土現前し、地上に天国が建設せられるのである。
人身(じんしん)このまま有限にして内に無限を蔵(ぞう)す。
蔵するに非ず、有限そのままに無限であるのである。
肉体の中(うち)に、実相〝神の子〝が宿っていると仮にいうといえども、
肉体の中に小さく宿っているのではないのである。
無限の実相の中に於いて肉体が表現されているのである。
それゆえに、この身は実相の表現として、有限そのままに無限であるのである。
この身は実相の表現として有限そのままに無限であるから、
人間の寿命は無限にして永遠に死することはないのである。
時に、〝死する〝如く見えることがあっても、それは表現身が、
ただ表現の場を換えただけの事であり、人間そのものは死するのではないのである。
人間は不死であり、無限であり、虚空に満つる霊身である。
それゆえに我れの本体は阿弥陀仏であり、大日如来であり、普賢菩薩であり、観世音菩薩であり、
一切所(いっさいしょ)に転じ現われて大自在であるのである。
われは、〝内在のキリスト〝であり、物質としての肉体は本来無いのである。
肉体無し、本来霊身なりと知ることが、肉体を十字架にかけるということである。
何人も肉体を十字架にかけるとき、本来のキリストがあらわれる。
これが新生であり、復活である。
「もはやわれ生くるに非ず、キリストわれにあって生くるなり」と言いしパウロの言葉は真理である。

1983復興G:2013/01/21(月) 22:55:23 ID:AB6RqYXc

a hope様、ありがとうございました。

1984復興G:2013/01/21(月) 22:58:28 ID:AB6RqYXc

 ありがとうございました。

≪現象刻々流転。されど流転せざる者あり。「今・即久遠」なり。
「今」を把握すれば人の病い癒え、国の病い癒ゆ。≫

≪汝は真理を知らざるべからず。真理は汝を自由ならしめん。≫

――この「久遠の今」なる「実相の大地」に立って、光なる永遠生命を輝かして、愛と喜びの生活に邁進いたしましょう。

この第10回web誌友会は、皆さまのご協力により、まことに意義ある誌友会となりましたことを、心より感謝いたします。
ありがとうございます。ありがとうございます。

これにて一応第10回web誌友会を閉じさせていただきたく損じます。

では、最後に世界平和の祈りをさせていただきます。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

◇◇◇世界平和の祈り◇◇◇
神の無限の愛、吾に流れ入り給いて、愛の霊光燦然と輝き給う。
その光いよいよ輝きを増して全地上を覆い給い
すべての人々の心に、愛と平和と秩序と中心帰一の真理を満たし給う。

◇◇◇光明思念の歌◇◇◇
天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり
天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 ありがとうございました。

1985SAKURA:2013/01/21(月) 23:04:42 ID:dGeUHjWM
「復興G様」 へ  「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……    ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
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>>1978 『復興G様』からのお言葉…ありがとうございます…。
【 心 遣 い の 言 葉 】に改めて…【感謝!!】です。ありがとうございます・・・。
続けて… 更に、私なりの【解釈論…】を
此処で引き続き投稿させて頂きます事に、『復興G様』…への感謝の念を……申し上げます。
                               
再合掌

1986SAKURA:2013/01/21(月) 23:06:57 ID:dGeUHjWM
「復興G様」 へ  「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……    ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
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>>1981>>1985のSAKURA投稿の続きです。

===【生命の実相…2巻の抜粋】=============================
■【存在(もの)の実相(ほんとのすがた)は何によって知るか】   その③

>>「物質」と「霊質」とは性質においても、本質においても正反対であります。
どちらか一方が「真」であれば、どちらか他方が「偽」でなければなりません。どちらかが
一方が「実在」ならば、どちらかの他方が「悲実在」でなければなりません。二元論は
自己憧着に陥ります。   (一部抜粋)

===========================================

■■こうして考えていきますと。私のもの見方も、どれが正しいのかといった感じは
時折でありますが“疑問”になる事も、今の【生長の家の騒動】は何かが“おかしい感じ?”
に見えてしまいます。
どちらが正しいのかは、これは【今後十年後に、結果が出てくる】のではと思います。

よく、早急な言葉に思えます【失敗…との否定論】をおっしゃいますが?私にしてみますと…
これだけの【現総裁先生…中傷・人格否定論・結果否定論…etc】を考えますと……
果たして、【この方々が…現役=本部職としての勤務】時点で、果たして上司の指示を
何処まで行動としてなされていらっしゃいましたかと?ある面では【疑問…】を抱きます。

私は、今回の【現総裁雅宣先生のお経】を読誦していますが、意外と“奇蹟”に近い事も
あるのでは?まだ「お経…」は、昨年の夏から(4月頃?)から始まったモノかと…。
世間一般でも【石の上にも3年・・・】この様な言葉もありますかと。この期間が、余り
にも早急に見えます。…が?私自身は、新しいこの「お経…」を読誦しながら、言葉を理解
していきますと“さわやかな気分”に入っていき「お経…」も楽しくなり、毎日!毎日!
【甘露の法雨…】と、両兼用にての読誦をしております。
これが、すごく“グ−”なのです〜〜〜ョネ!!

■そういう【きめつけ心】でいきますと、
やはり【物質】と【霊質】との正論は、本当に、雅春先生の言葉の
【自 己 憧 着 に に 陥 り ま す】は、本当に、そうなのですかと。!!
今!今!を活かしながらの生活に密着する事が【自己の信仰の形…】ではと思うのです。

やはり、各々の皆様の捉え方が異なりますのは致し方の無い事になるのでしょうかと思いつつ、
私は【類 の 法 則】にて、「現総裁雅宣先生…擁護」とさせていただきまして、
今の総裁先生に…私なりの【真理の探究…が深くなりつつある事に…感謝】でしょうかと。

                 つづく

1987志恩:2013/01/21(月) 23:41:09 ID:.QY5jUA6
復興G様、トキ様
一日延長してまで、ご指導くださいまして、ありがとうございました。
ahopeさん、最初と最後のお世話を、いつもすみません。
SAKURAさんも、私とは,考え方はちがう人ですけれど、たくさんのご発言、拝見していました。
復興G様が謹写してくださった真理の言葉、改めて拝読させていただいているところです。
ほんとうに、ありがとうございました。合掌 礼拝

1988復興G:2013/01/22(火) 10:02:33 ID:AB6RqYXc

志恩様、ありがとうございました。

トキ様、皆々さま、ありがとうございました。

合掌 礼拝

1989さくら:2013/01/22(火) 10:28:49 ID:gMZh2DOU
復興G様

心より感謝申し上げます。

ワクワクする誌友会を、ありがとうございます!

\(^^)/←…バンザイマークで失礼します。

合掌拝。

1990トキ:2013/01/22(火) 11:52:46 ID:uNu2SSuM
 復興G様、すばらしいご指導を賜り、ありがとうございました。
ご多忙の中、後進の我々に貴重な時間を使って下さり、とても嬉しく思います。

 今後とも、ご指導のほど、お願い申し上げます。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

1991a hope:2013/01/24(木) 09:35:48 ID:TqpbsVIM

みなさま おはようございます。

第10回web誌友会もたくさんの真理が詰まった素晴らしい内容だと感じています。

復興Gさま、トキさま、そして参加くださったみなさま、閲覧してくださったみなさま、
ありがとうございます。

わたしは聖典引用板に「新版 生活読本」を謹写させていただいているのですが、
ちょうど今謹写中の内容が、本を読むコツについて書かれているのです。

谷口雅春先生も、たくさんの本を執筆されています。

わたしは、その中には、雅春先生に直接「生長の家の大神さま」から天下ったお言葉もあれば、
その時の時代背景に応じて、雅春先生御自身が「生長の家の真理」にそって、
その時代の現象世界を光明化するために書かれたお言葉もあるような気がします。


それは、谷口雅春先生ご自身が、

>>読む分量ばかり多くて、読んだことについて深く自分で考えてみない者は、
本に読まれたのであって、本を読んだのではないのであります。
「ことごとく書を信ずれば書なきにしかず」という諺(ことわざ)もあります。
書に読まれてしまっては、自分の力はつきません。
自分で本の善いところを吸いとるだけの力がなくてはなりません。<<

と「生活読本」でおっしゃっていることからも、谷口雅春先生は、
「たとえ自分の書いた本であっも表面だけ読んで盲信せず、しっかり心読して『真の教え』ををつかみなさい」
とおっしゃっているような気がしてなりません。

このweb誌友会は、生長の家の真の聖典『生命の實相』をテキストにして、
生長の家の根本真理「久遠生命の真理、生命の実相」を学んでいるのですよね!

わたしは、今回の内容に合わせてテキストの範囲や倫理篇などをじっくり心読しています。
本当に素晴らしい「生長の家の教え」に魂が震えています。

みなさま、『生命の實相』は本当に素晴らしい真の聖典ですね!

ここで皆さんと一緒にお勉強できて、a hopeは、とても幸せです。

感謝 合掌

1992SAKURA:2013/01/24(木) 13:12:22 ID:hX/B0oxc
こんにちは……    ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

■■>a hope様 へ
>>1891 a hope 様よりウエブ誌友会ありがとうございました。
>>1939>>1940>>【SAKURAの返事】です…。

今回の【WEB誌友会…】の、参加を躊躇していましたが?もしくは参加しないといった方が、
当初の私の正直な気持ちでした。…が?
【ノ―ミ―ト運動…】の“写真をトリック…”といった感じでの以前の“別板ので投稿”で、結局
この“写真…”が、「現総裁雅宣先生のお嬢様」だと分かり、更に「フエスブック…」にて確かに、
写真を閲覧できましたが……今回!私の判断での投稿に誤りがありまして、心の中に“皆様にお騒せ”
してしまい、【WEB誌友会】の前夜ですので…参加の方に影響がと心配になりまして、更に、考えの
相違はありますが【総裁先生…擁護派】としての【真理への討論】に、もう一度、参加させて、
頂こうとオもぅた次第です…。…が?
何故ならば、テキストの中に【五感の否定…】といいます、人間の通常の心情に“ピッタリ”と、
今回の私自身の“お騒がせ”も含め、皆様の真理の捉え方を…この様なる思い出参加となりました
のです。

■余談ですが…此処の「管理人様…トキ様」は【ノケモノ…総裁先生擁護派…異分子】扱いですが…
今回は、特にヒシヒシと感じましたでしょうかと。[裏メ−ル]が、かなり名指しできているのでしょ
うと思いましたが…此処で末端信者(献金斜陽族)としては【生長の家…お家騒動】の行く末もです。
…が?此処昨今の世間でも暗い事項ばかりが目に付き、日常生活に於けます【真理…追究】をいたし、心に一筋の安らぎ…これを求めているのでしょうかと。
これを…■【誌友会…WEB誌友会】に求めての…参加に…

今回は、失礼ながら、第一印象の通りの「a hope様」でいらっしゃいました事に…改めて感謝です。
❤〜実は【故人…義春様】との【ト−キング・ボ−ド】にての【投稿対話…】を閲覧させて頂いて
おりました。それを閲覧しながらいつの間にか「a hope様」の考えが?変わっていかれたのでしょうか?
これが昨年からの正直な話で…これも私の【五感の否定…】から生じるのでしょうかと…その様に、
心に抱きながらの今回の「a hope様…お返事」を頂き…【真理の勉強…】を前向きにされる…最初の
“イメ−ジ!”の方と、思った次第です。この様に、多々なる意味で、勉強になりました。

■やはり【真 理 の 追 究】は、「人生の問題」をかかげました時に、前向きなる姿勢を頂きます…。
そして「生命の実相」をテキストにての勉強会は、改めて自己を振り返り見ることの機会と…
本当に【魂の向上へ…】繋がるモノとの判断です。…が

改めて…「a hope様…」に感謝申し上げます…。      再合掌

1993SAKURA:2013/01/24(木) 13:23:58 ID:hX/B0oxc

こんにちは……    ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

>>1992の投稿に関しまして… 
■【 訂 正 事 項 】下記の様になりますので…申し訳ございません…。

≪ 旧 ≫   頂こうとオもぅた次第です…。…が?      ×
  ↓       ↓        ↓
≪ 新 ≫   頂こうと思った次第です。…が?        ○
                               再合掌

1994SAKURA:2013/01/24(木) 14:27:13 ID:hX/B0oxc
こんにちは……    ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

■>「復興G 様」 へ

■■ 【WEB 誌友会…第10回…】から〜〜〜

「復興G 様」から頂きました「アインシュタイン…のお返事」で“捉え方”が、いろいろ
あって面白いです。…その様に思いました次第です。そこからです。…が?私も“リズム”が
出来まして、楽しくなった次第なのです。「復興G 様」のやはり【経験からの真理…】も、
何時か?閲覧出来ます機会がありましたらと思いますが、お忙しい中での【WEB誌友会…指導】に
深く感謝申し上げます…。

更に!いつも、貴重なる資料を此処に転写して頂き、スロ−テンポの【SAKURA】は、後日に
読む事になってしまうのですが、その時は“理解…”が、今一つの私は、後からついていく
【真理…勉強】にと、どうしてもなっていきます時に、此の多々なる資料が、きっと私なりに
活かされて来るモノと、改めて思いまして、更には、その事が、今後の私の体験に繋がっていき、
活かされる事になりますかと、この様に感じた次第です。…が?

ただ、私の未熟な脳内解釈ですから、やはり「生命の実相」の頂きましたテキストの範囲でしか、
【真理の勉強】に於きまして、余裕がない私なのです。今…【今回のWEB誌友会】にて、転写
して頂いた抱きました資料を、拝読していってる次第です。…が?〜〜〜また時間を調正しながら、
理解出来ない事が?分からない事が?…出てきましたら、質問投稿させて頂きたく思います。
私も、まだまだ「雅春先生の書籍」の数々は、拝読していませんので…「復興G 様」には、
叶わないです。色々なる本からの抜粋に…多々なる先生の解釈論があります事に“ビックリ”なのです。

そして「復興G 様」に甘えまして、事前に指摘頂きました『生命の実相』のテキスト範囲内容から
の私なりに、解釈した事を、投稿しました事を、お詫び申し上げます。
それと共に、また、引き続き“投稿形式”を、させて頂きますので……
何卒、今後ともご指導の程、宜しくお願い申し上げます…。         再合掌

1995SAKURA:2013/01/24(木) 15:45:54 ID:hX/B0oxc
「復興G様」 へ  「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんにちは……    ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1888>>1889>>1934>>1935>>1936>>1939>>1940>>1944>>1945>>1968>>1971>>1972>>1973
>> 1981>>1986>>の【SAKURA投稿】の続きです…。 

===【生命の実相…抜粋】===============================

■【実相の世界における神人としてのわれの存在】   その①
>>この普賢菩薩というのはなんであるかというと「衆生のうちにおいて最勝最上である」
とあるから、明らかに一個の人間であります。その人間が、一切菩薩もその知恵の境界を
察する能わずというのですからよほどの大知恵を成就しているのであります。この大知恵
を成就した普賢菩薩がどこに座しているかというと、金剛蔵道場である。金剛蔵道場とは
金剛不壊の実相世界であります。省略〜〜衆生の一人でありながら、彼は実相世界(金剛
蔵道場)に座すときは、身量無辺、色蔵無辺であるので、われわれは神想観によって実相
世界に帰一し実相人に接触することができるのであります。 (一部抜粋)
========================================

■■普賢菩薩は【人間…】なのです〜〜〜ョネ!!私たちは【人間の神の子…】ですから、
思いますに?【半分は霊的人間…】なのです〜〜〜ョネ??ですが【半分は現象人間…】で
もあるという事になりますでしょうか?【 肉体は仮りモノ 】ですから、いつかは ><
“滅ぶモノ?朽ちるモノ”?…でしょうかと!しかしながら【 心=魂 】は永遠に残るモノ
次の世界へも連なるモノかと…この時、私達は、【心の深層〜〜〜】へと深く入っていく訓練を
していませんと【死後の世界…】と云いますか?次なる世界=霊界で、いつまでも〜いつまでも
【肉体…】に拘ることにもなりかねませんモノ!此の現実社会に於きましても【半分霊的人間】
ですから“精神統一”しますと【神と一体】になれるのです〜〜〜ョネ! 要するに、
【神と一体とは、普賢菩薩の座する金剛蔵道場にて…それは“神想観による祈り】この事なの
ですかしら〜〜〜ンと、思うに至りました…。精神統一に入りますと【神の叡智を司る〜〜】
それは【神の知恵…】を受けるの事なのです!改めて思いました。

人間智では?解決できませんですモノ!

私達は【普賢菩薩になれる〜〜〜何もかも“モ〜〜〜ウ!”既に頂いている事に確信…して、
「大知恵」をすでにいただいている〜〜と思います】この、確信した【祈り…】が、
ダンダン〜ダンダン〜深く深層に入っていく過程で【実相世界…】に突入なのでしょうか??
そう【タイム・トンネル】みたいですネ〜〜〜〜 ??次元世界へかと
                               
つづく

1996復興G:2013/01/24(木) 16:57:24 ID:AB6RqYXc

>>1991 :a hopeさま。

>>……それは、谷口雅春先生ご自身が、
>>読む分量ばかり多くて、読んだことについて深く自分で考えてみない者は、本に読まれたのであって、本を読んだのではないのであります。「ことごとく書を信ずれば書なきにしかず」という諺(ことわざ)もあります。書に読まれてしまっては、自分の力はつきません。自分で本の善いところを吸いとるだけの力がなくてはなりません。<<
と「生活読本」でおっしゃっていることからも、谷口雅春先生は、「たとえ自分の書いた本であっも表面だけ読んで盲信せず、しっかり心読して『真の教え』ををつかみなさい」とおっしゃっているような気がしてなりません。<<

 そうですよね。

 私は、昔学生時代に、『生命の實相』拝読に没頭するきっかけとなる影響を受けた本のことを思い出しました。

 それは、前にご紹介したアンドレ・ジイドの『プレテクスト』から「文学に於ける影響について」という講演記録、それからトルストイの『人生読本』、亀井勝一郎の『読書に関する七つの意見』などです。

 トルストイの『人生読本』には――

 ○ 最も野蛮な迷信の一つは、人間は信仰無しに生き得るものだという独断に対する、現代の所謂学者の大多数の迷信である。

 ○ 真の宗教とは、吾人を囲繞する無限無窮の人生に対する吾人によって打ちたてられた一種の関係の謂いである。即ち、吾人の生活をこの無限無窮と結びつけ、吾人の行為を導く所の関係である。
 あらゆる宗教の本体は、何の為めに私は生きるか、自分を取り巻く無限無窮の世界に対する私の関係は如何なるものであるか、という疑問に対する解答の中にのみ存する。

 ○ 知識は記憶力によってではなく、自己の思想上の努力によって獲得された時にのみ、知識であり得る。

 ○ 学問に於て是非とも究め知る必要のある唯一の知識は、吾人が如何に生くべきであるかという事実に対する知識である。そして此の知識は、何人にも凡て獲得されるのだ。

 ○ いろんな知識をかき集めている学者共は不憫なものだ。ひとりよがりの哲学者達、飽くことを知らぬ研究家等は不憫なものだ。是等のよくない富者等は、ラザロの徒が絶えず飢えに悩んでいるにも拘わらず、毎日毎日自分たちの知識上の饗宴で無為徒食しているのだ。是等の人々は皆無に等しい代物でお腹が一杯になっているのだ。何となれば、そうした空しい知識は、道徳的完成にも社会的完成にも力を致すところがないからである。

 ○ 無益な学問をうんとこさと学び知るよりは、人生の法則を少し知る方がましである。

 ○ 自己の無識を恐れず、虚偽の知識を恐れよ。真実でないものを真実と思惟するよりは、むしろ何にも知らない方がましである。

 ――などとありました。
<つづく>

1997復興G:2013/01/24(木) 16:58:03 ID:AB6RqYXc

<つづき>
 そして、亀井勝一郎著『読書に関する七つの意見』 には

 ○ 読書の目的は、自分の理想とする人間像を心の中に確立することである。或は自分の座右の書を持つということだと云ってもいい。それは世代や年齢や気質によってそれぞれ異なるのは当然だ。しかし私の経験では十年から二十年の歳月が必要である。多くの迷いを経なければならないのは当然だが、様々に訓練されて、ある程度の読書を積み重ねて行くうちに、大体これだけあればいいという自分の座右の書というものが次第にきまってくるものである。つまり自分の原典である。
 
 ○ 自分を統一するためには結局は一冊あればいい。という意味は信仰があればいいということなのである。

 ○ 青年諸君にすすめたく思うのは、……原典の中の原典に帰れ。ヨーロッパで云うならば、プラトンの対話篇、バイブル、あるいはギリシャ神話を読むこと。日本の場合には万葉集とか古事記とか、書紀を読む。あるいは広く東洋の場合は論語とか老子の教えに接する。これは強調していいことと思うが、私の接した偉大な思想家や文学者は、例外なく思想の源泉に還ることを忘れなかった人ばかりである。トルストイは原始キリスト教に還り、ゲーテは古典ギリシャに還り、親鸞は釈尊に還り、本居宣長は古事記に還った。還るという意味は、思想の源泉に浴して身心を新にし、よみがえるということである。私は原典中の原典をあげたが、むろん自分の発見した原典であってもいい。それが自分の邂逅し信愛するものであるならば、いっそ自然へ帰ったって差支えないわけだ。精神の背骨はここでのみ養われるであろう。このことは、年齢の如何にかかわらず生涯にわたってくりかえすべきことだと思う。

 ○ ……一流の哲学や文学を読むのはいい。しかし読んだとたんにわけのわからぬことを口走るのは困るではないか。自分の肉親や友人に向って語るように、あたりまえの言葉で表現すればいいのである。読書によって所謂「大きな言葉」だけを覚えるのは、読書の害というものではあるまいか。

 次に何か問題に直面すると、誰はどう考えているか、誰某の説はどうかと、やたらに本から引用する人がある。学者や評論家などに多い例で、東西古今にわたって権威ありそうな説を引き出さなければ気がすまないらしい。ひまで読書ばかりしている人の中にもそういう例がある。読まない人よりましかもしれないが、他人の意見の中に自分を埋没していいものだろうか。この場合の読書とは一種の自殺ではあるまいか。

 我々は自分の意見、他人の意見と言うが、「自分の意見」なるものを詳細に分析してみると、それは殆んど他人の意見の複合体であるような場合がある。むろん人間は自分ひとりだけの努力で成長することは出来ない。必ずそこには読書、あるいは師や先輩の指導があり、つまり私の謂う「邂逅」によって成長するものである。しかしそうして受けいれた思想が全然消化されず、ただ学説や理論として頭脳の中にぎっしり詰っている人間ほど厄介なものはない。つまり臆病になるのだ。自分の自発的発言に対し危険を感ずるのだ。

 古代ギリシャにターレスという哲学者がいた。彼はいつも天を仰いで星の秘密を探ろうとしていたが、あまり熱心に空ばかり見ていたので、足下の穴に気づかず、或るときその穴に落ちこんでしまった。これを見ていた一人のトラキアの娘が大いに嘲笑したという伝説がある。
 ターレスは或る意味では愚かな人かもしれない。しかし東洋に「大愚」という言葉があるように、「大愚」でなければ大きな仕事は出来ないということも考えねばならない。
 つまり私はこういう学者のタイプが」好きなのだ。ターレスの愚さに親しみを覚えるのである。

   ************************

 上記のような読書論などに深く影響を受けて、私は『生命の實相』拝読に没頭したのでした。
 なつかしく、思い出しました。

 合掌 拝

1998復興G:2013/01/24(木) 17:14:01 ID:AB6RqYXc

SAKURA様。

熱心な学びのお姿、投稿に感謝します。

私たちは、今、そのまま神に生かされているしかないのですね。うれしい! ありがたい! と、よろこびましょう。

合掌

1999SAKURA:2013/01/24(木) 18:10:06 ID:x24JjvTk
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こんばんは……    ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
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>> 1981>>1986>>1995 の【SAKURA投稿】の続きです…。 

===【生命の実相…抜粋】===============================

■【実相の世界における神人としてのわれの存在】   その②
>>善財童子が金剛蔵道場の普賢菩薩を見たときの心はどうであったかと申しますと
『華厳経』入法界品第三十四ノ十七によりますと、「正念して……虚空界に等しき心、
一切無着の心、一切刹を清めて障礙なき心、一切法の境涯において障礙なき心、一切十方
に充満する」等々の心を起こしたとあります。この正念して虚空界に等しき等々の心を
起こすことが神想観であります。

>>音声無辺であるというのは、われわれの実相は天地に満つるコトバであるからであります。
これが金剛蔵道場すなわち実相世界における「われ」の実相の世界に入る自分の座っている
のはこれ実相の世界であって、神の無限の知恵、無限の愛、無限の生命、無限の供給に満た
されている大調和の世界である。この大調和の実相の世界にいてわれ神の子として神より無限
の生かす力の供給を受けつつあるのである」と念じて精神統一にいるのは、自己が衆生の一人
であると同時に普賢菩薩と同じように身量無辺、音声無辺、色蔵無辺である自己の実相を悟ら
んがための行法でありまして、これこそ真正の観普賢菩薩行法なのであります。(一部抜粋)
============================================

■■私達は、「普賢菩薩様…」のように【日々の祈り】の自覚が、そして、日々のこの行事で
あります【神想観=瞑想】で〜〜〜【神との一体】になれる素晴らしさは、計り知れないモノ
でありまして、それは【心の青空…あの澄み切った世界観】がみえてきますのでしょうかと。

時折ですが?仕事の関係上【先祖供養…】だけですませる事がありましたが、最近は、
【神想観…】を中心に致しますと、やはり【発想の転換…】ができまして、良い事と云いますか?
物事が、スムーズになる事が、生じます。…が?そして、如何しても【現象で物事捉える】この
ような傾向がちですが、今の私は「活かされている〜〜〜実感」がフツフツ湧きあがり、この
素晴らしい【精神統一…神想観】に感謝です。もっと、深く【祈り…】に徹していき〜〜〜
私も【普賢菩薩の仲間入り】になれるようです〜〜〜ネ!!

■毎日「金剛蔵道場すなわち実相世界における「われ」の実相の世界に入る自分の座っている」
私は、“実に〜幸せかな〜〜♫〜〜”と、あらためて「雅春先生」に感謝です。そして、
現在の「総裁先生」に感謝です。では、今から、そうですとも!
【人間…神の子ですもの!!】と認識しながら“金剛蔵道場”の中へ入っていきましょう!!

                                  つづく

2000SAKURA:2013/01/24(木) 18:25:57 ID:x24JjvTk
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>> 1981>>1986>>1995>>1999  の【SAKURA投稿】の続きです…。

「復興G様」 へ…
ご丁寧に頂きました“お返事”感謝申し上げます…。特に>>1997 の中の投稿からなのですが、
■>自分を統一するためには結局は一冊あればいい。という意味は信仰があればいいということなの
である。< (一部抜粋)

此の言葉が…私には心に“ズシ〜〜〜ン!”と入り込み…益々と【テキスト…コピー】にて、
【真理の追究…】を邁進したく思います。新たなる“資料…”感謝申し上げます。

では最後に〜〜〜❤〜〜〜〜
===【生命の実相…抜粋】===============================

■【実相の世界における神人としてのわれの存在】   その③
>>この自己を掴むためにする修業が、毎日一定の時間を期してみなさんに実修して、
いただいている「神想観」の修行であります。
>>だから「生長の家」の「知恵の言葉」には「道を歩く時には今神が歩いていると思え」
とあるのであります。同じようにわれわれは机に*よっている時も「今神が机に*よっている」
と思うべきであります。こういうようにして常にわれは神人であるという自覚を失わないよう
にすると、われわれは常に朗らかな光線ゆたかな気分を維持することができ、自分の実相の
円満さが「影であるところの肉体」または「境遇」に映写されてきて、肉体は健康に境遇
は幸福になってくるのであります。
======================================

■【神想観の重み…】を、深く理解しました。私も、今から【神想観の素晴らしさ】にて、
遥かかなたの「宇宙に〜〜宇宙に〜〜☆」に、入っていきそうです。
毎日が〜毎日が〜“楽しい修行”になりそうな気配なので〜〜〜す。
当に【祈り…】も、生かす事ですネ!            つづく


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