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聖典引用 板
710
:
金木犀
:2012/05/23(水) 06:40:51 ID:L0Ei6.zw
『秘められたる神示』 谷口雅春先生
君民同治の神示講義(6)
この神示に於いて注目すべき点は「無にして絕對であり、一切の主であるところの天皇」とあることであります。天皇は単に「一切の主」であるだけではなく、「無にして絕對」なのであります。他の国の色々な人間団体にも中心者や主宰者はあります。しかし「無にして絶對」なる中心者は殆ど全く存在しないのであります。だから常に権力争いが付き物であり、権力候補が選任争いをするか、実力闘争によって中心者の座を占めようとするのであります。ところが日本天皇に限り、権力争いというようなことがない。自己を主張しようとはせられないし、対立がないのであります。だから「無」なのであります。天皇は自分自身の幸福や利益を求められない。だから「無」なのであります。ただ全体の福祉と祥運を願われるばかりであります。それは脳髄及び脳神経系統が脳髄自身の幸福や利益を願うことなく、全身の、そして全細胞の健康のために奉仕しているのと同じであります。
この天皇が「無にして絶対者」であられるということは大東亜戦争の開始に際しても、その重職にある者の多数決に対して抗争することなく「無」の立場であられたことにも現れていますし、終戦直前の御前会議において阿南陸相と梅津参謀総長と豊田軍令部総長とが戦争継続を主張したのに対し東郷外相、米内海相、平沼枢相が戦争終結を述べたほかは、重臣ことごとく自己の意見を述べることが出来ないから、多数決で国事を決することができなくなり、ついに天皇の御聖断を請うしか道はないということになったのであります。
「無にして絕對なる神」は、人間が迷っていても、御自分の意見を出して、それを止め給うことはない。しかし謙虚なる心になって「無」なる神に相対すれば其処に實相無限の智慧と愛とが呼び出され、その智慧と愛との導きに従うとき、一切の不幸が消滅し實相大調和の状態が実現することになるのであります。
それと同じく「無にして絕對なる天皇」は吾々が天皇に対して振り向くことなく、天皇をただ看板にして、「虎の威をかる狐」のように天皇をただ利用して軍閥が自分の権力の増大をはかっている限りは、天皇は神と同じく別に罰を与えられることもないが、その迷いを制せられることなく、その迷いの行くがままにそのまま委せていられるのでありますが、その迷いが行き詰まって、謙虚でいるしか仕方がなくなって天皇の方へ振り向くとき、其処に天皇の御心があらわれるのであります。日本の歴史は、常に時の権力階級が我の力が行き詰まっては、天皇の方に振り向き、そこから神智が実現して正しき道に帰るということが繰り返されているのであります。それですから、大東亜戦争の末期に於ける御前会議に於いて、誰も意見をのべる者がなくなった時、ついに天皇は「ほかに誰も意見を述べる者がないならば、私の意見を述べよう。私の身体はどうなってもよいから、この上国民を戦争の惨禍の中に苦しめるのは見るに忍びないからポツダム宣言を受諾して戦争をやめる」と仰せられ、その後、天皇はマッカーサー元帥を訪問せられて、
「戦争の責任は皆私にある。国民には責任はない。私は絞首刑をも覚悟している。皇室財産は司令部の処置にまかせる。私の一身はどうなってもよいから、国民をどうぞこれ以上苦しめないで頂きたい」と仰せられたのである。「無にして絕對であり、一切の主である」ということは、「無」でありながらも、責任を回避するということではない。「一切の主である」とは「一切の責任は自分にある」との自覚である。「無」であるがゆえに神聖であり、一切の責任を自己に背負って自己が一切の者に代って苦しもうとする愛の深さゆえに天皇は神聖であるのである。
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