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聖典引用 板

1トキ:2011/11/23(水) 13:32:46 ID:YRze2u3c
 このスレッドは、生長の家の「今の教え」と「本流復活」の問題に関連して、雅春先生や
御高弟、他の真理の言葉のみを掲載していくという板です。


 上記に関連するテーマなら、広く受け付けます。また、教団、本流復活派、中立派など
どの立場の人の投稿も歓迎しますが、たとえ違う立場の意見でも、お互いに尊重する寛大さ
をお願いします。

 この掲示板は、基本的に生長の家の教義と谷口雅春先生の説かれた教え
を支持、共鳴する人のためにサイトです。生長の家と谷口雅春先生へのご批判をされる内容
の投稿はご遠慮下さい。

 投稿の削除はしない方針ですが、アダルトサイトや出合い系サイトの勧誘を含む内容など
明らかに目的外の投稿は、削除の対象となります。
 目的外の投稿の判断は、最終的には、管理人である「トキ」の判断になります。
ご理解下さい。

 スレッドのルールと方針は、生長の家の「今の教え」と「本流復活」を考えると、と同じに
考えております。

2トキ:2011/11/23(水) 13:36:52 ID:YRze2u3c
 この掲示版は、著作権との兼ね合いがあるので、いくつか制限があります。ご理解下さい。

*出典は詳細に明記する事。(書名、ページなど)
*著者の文意を損ねるような一部引用はさけること。
*著作権者への感謝を表現する事。
*現在、出版されている著作物は、購入をすすめることが望ましいです。

 その他、御不明の点は管理人までお尋ね下さい。

3「訊け」管理人:2011/11/23(水) 14:56:51 ID:D0Kb5yw.

吉田國太郎『常楽への道』110項より。

一見ムズカシですが、深遠な話だと思います。大好きな文章のひとつですので、記念すべき第一号投稿文としてご紹介させてください。


 實相の完全と現象の不完全と、両者の間の溝に落ちて良心の痛みに追われ、
幾ら辛くとも此処は晦まさず、正直にうけて其処に自分らしい道を発見しな
ければならない。其の時こそ信仰がよりはっきりと確立し、両者を隔てる溝
も消えることになるのだ。今日から其途を踏み出そう、これは悲しむべき事
ではなく道を求むる者にとっての光栄ある苦悩であるなどと決心した或る日、
恩師の御講義が余りにも烈しい痛さで私の心を叩いたのである。それは恰も
八つ裂きにあったような感じであり、踏んで踏んで踏み抜かれ、叩いて叩い
て叩き抜かれ、粉々にされて吹いて飛ばされてしまった様な感じであった。
 自分でよしと許していたものを一つ残らず全部奪ってかなぐり捨てられ、
そしてすーっと向こうへ行かれてしまったような感じであった。呆然とした
中で淋しい心が湧いて来た。こんな心の三日目、私は『生長の家』誌の八月
号を披いて目をうつしていた。八月六日娑婆即寂光土と悟る日の一節『けれ
ども生長の家は世界に何ら非道なことは存在しないと云うのである。それは
存在するものは「道」ばかりであるから、それが少なくとも存在する限りは
それは「善」であり、それが「善」でない限りに於いて、それは如何に存在
するように見えようとも、それは「非道」即ち「道の欠乏」「道の無」をあ
らわしているに過ぎないとするのである』

 此処を読んだ時、私は何かしらハッとした。今自分が捉えているところの
もの、今自分の立っている世界、今自分の辿ろうとしている道、それ等全て
をひっくるめて『無』と一喝激しく叩かれたような感じであった。完全のみ
がある。そして不完全はない。何かしらハッと心でうけとめ得た感じであっ
た。それはこちらで握って居なくとも決して落ちることのないような感じで
ある。うけたと云うよりは内から開いた様な感じであった。

『常楽への道』110項

4「訊け」管理人:2011/11/23(水) 17:10:29 ID:D0Kb5yw.
――――――――――――――――――――――――――――
『光明法語』32項より。

「誰と和解するのか?」がたびたび問題になります。その答えは?
・・・念のため申しますがこれ、信仰歴五年の(下半身に問題
のある)某ブログ管理人が申しているわけではありません。申
されておられるのは誰なのか?その点留意されながらご拝読く
ださい・・・
――――――――――――――――――――――――――――


<神と和解せよ>

まず神と和解することが必要なのである。

神の救けを得ようと思ったら天地一切のものと和解した関係に入らねばならぬ。

神より悪なるものが来ると考えることは神と和解しているのではない。

神よりは善のみしか来たらないと信ずることが神に対する和解の第一歩である。

その神を対立的に観ることも神に対する和解ではない。

神と和解するには神と一体にならねばならぬ。

即ち神はわが内にやどりたまい、吾が目をもって見給い、わが耳をもって聴きたまい、わが呼吸器をもって呼吸したまい、わが声をもって語りたまうと信ぜよ。

吾らは決して神の護りからのがれることは出来ない。
神の無限の智慧からのがれることは出来ない。
また神の無限の愛からのがれることは出来ないのである。

神は吾々神の子に対して与えとうて与えとうて仕方がないのである。

吾々は神の無限の供給からのがれることは出来ないのである。

神はわが親であり、わが供給であり給う。

神は決して人間の貧しきことを欲したまわないのである。

5「訊け」管理人:2011/11/24(木) 06:38:42 ID:D0Kb5yw.
――――――――――――――――――――――――――――
『健全の真理』250項

 短くも感化力の高い、そんな言葉です。雅春先生は文章
を通じ、我々を礼拝くださっておられるのでしょう。
――――――――――――――――――――――――――――


 神がこの世界を生命の振動(念)によって展開せしめたのなら、神の生命を宿している人間が、神と同じように「念」によって物事を展開せしめ得ないと言うことはあり得ない。



 神は自らを「吾あり」と自覚して、吾自身をながめるのである。視る自分と視られる自分と、主観と客観と、眺める者と眺められる者と、働く者と働かれる者との対立がそこに分化する。



 正しき信仰とは、すべての存在は皆善であるとの信念である。吾々はこの信念を弱める所の如何なる想念をも許してはならないのである。



 吾が語るは全能の神が語りたまうのであるから、如何なる反対もあり得ないと信ずるのが正しき信仰である。


 (思念で病気を癒す行為は)相手を癒すのではないのである。こちらが相手を完全と見る修行である。病気であるのを癒すのではない。自分が彼を病気だと見る心を癒すために思念するのである。

6「訊け」管理人:2011/11/24(木) 10:30:16 ID:W9ebvJaY
―――――――――――――――――――――――
『あなたは必ず救われる』238項 藤原敏之著
業務中のわたしですが、今「はあ」と救われた文章を掲載します。
引用元はイケメンブログです。同書は「買い」です、買い。
 しかし藤原敏之先生ですが、いったい何者なのでしょうか。
榎本惠吾先生といい、吉田國太郎先生や服部仁郎先生・・・
生長の家はすごい人材ばかりですね。
―――――――――――――――――――――――


病気も事故も失敗も親子の不調和も、あると信じている心の影として形の世
界(現象)に現れるのであります。このありもしない悪や不幸をあると信じ、
心に把むから自由を失い、動きのとれないことになり、ますます不幸になる
のであります。このようなのを地獄というのであります。現象が影だと判り、
すべて自分の心にあると知ったならば、何が起っても一切心配することはな
いのであります。極楽とは完全な自由な世界であり、何があっても何が起っ
ても困らない人間ほど自由なものはないでしょう。そんな人には極楽の必要
がなくなり、極楽の必要がなくなった者には地獄もなくなります。極楽と地
獄の二つある人、善と悪と二つある相対世界に生きている人には本当の幸福
はありません。
 私達の住む世界は常に一つであります。現実は一つしかなく、二つ同時に
あるということはありません。二つあるのは現実を離れ空想している時であ
ります。それを迷いというのであります。幽霊には足がないというのは、現
実を生きないで考えてばかりいる人のことを指しているのであります。
 現実は常に一つであるということは、右と左と同時に進むことは出来ない、
右でなければ左であり、左でなければ右であります。その一つだけの現実を
絶対というのであります。その一つを最も善であると観る生活が極楽なので
あります。このすべてを最善と観る秘訣は〝都合〟のない人間となることで
あります。都合のない人間とは一切が神のものであると判り、一切を神に返
し切る生活であります。私もなければ、私のものもないと知らされる時、感
謝以外なくなるのであります。丸貰いの丸儲けの人生となります。よくよく
考えてみると、自分の力でしたことも出来たことも一つもないことが判り、
全部貰いもの、全部預かりものとなり、預かりものであったと判る時、執着
がなくなり、一切の執着から離れたのを仏というのであります。仏とは解
(ほど)けたものという意味であります。仏教でも「解脱をもって仏となす」
とあります。
 現象がすべて影だと判れば現象は問題でなくなりますが、影だと判らず本
ものだと思い違いするから現象に振り廻されて動きがとれなくなります。そ
れを迷いといいます。
 今現れているのは影であり、これまでの間違った思いが現れて消えたので
あると判れば、何も心配することもない、反対に喜べるのであります。借金
が無くなって苦にする人はないでしょう。悪いことが現れたのを見て、悪く
なったと見ないで善くなるためだと判ったら安心するのであります。
 雨が降るのは、お天気になるために水蒸気が雲になっているのが雨になっ
て、雲がなくなり晴天になるためでありましょう。日が暮れて夜がふけるの
は、朝が来るためであります。電車がトンネルに入るのは、トンネルを通っ
て出てくるためであります。このように悪くなったように見えるのは、すべ
て善くなるためだと観るのが生長の家であります。悪いことを悪いとだけ見
たのでは普通の考え方であって、暗黒思想でありましょう。生長の家は徹底
した光明思想であって、善くなることだけを想い、善くなることに感謝して
生活しようとお教え頂くのであります。


『あなたは必ず救われる』238項
藤原敏之著

7「訊け」管理人:2011/11/24(木) 17:56:32 ID:UodBcqiE


 オグ・マンディーノという方を紹介致します。以前ブログに
もアップしましたが、再度こちらにも掲載致します。

――――――――――――――――――――――――――――
●オグ・マンディーノ
 1923年アメリカボストン生まれ。高校卒業後アメリカ空軍中尉とし
て活躍後、保険の営業を経て出版社を経営。 1976年から著作活
動と講演活動に従事し、『地上最強の商人』の大ヒットによって一躍、
人気作家に。アメリカで最も精神的影響力を与える作家の一人とし
て挙げられると同時に、その講演内容にも定評があり、全米各地で
人気を博す。著書15冊、世界で2500万部を越える。1996年9月
急逝。
――――――――――――――――――――――――――――



 誰であれ人に会ったら「夜中12時にはこの世を去る」そんなつもりになって、いままでとは違った態度で接する。それは極めて簡単である上に、それと引き換えに人生が永久に変わるのです。ぜひ試してください。


 明日という日があるのは愚か者の暦だけ。昨日の敗北は忘れ、明日の問題は無視します。今日こそ、最後の審判の日。あなたの持っているすべて。それを一年で最高の日にするのです。もう一度人生をやり直せたらという言葉ほどわびしいものはありません。今日はあなたの日です。


 一日一日が神からの特別な贈り物です。人生は常に公平というわけにはいかないかもしれません。しかし、醜い自己憐憫のマントをまとっていては絶対に勝てないし、泣きごとの不快な響きは成功のチャンスを必ず追い払います。そんなことはもうやめましょう。もっと良い生き方があるのです。


 欠点が邪魔をして前進できないのではないかと取り越し苦労をするのはやめること。人間は神の創造物であり、志を高く持てばどんな夢でもかなうのだと折にふれて思い出すようにしよう。自分は飛べると思ったら本当に飛べるのです。失敗するのではないかなどと2度と考えないこと。


 1974年、ハンク・アーロンがベーブ・ルースのホームラン記録に近づいたある朝、私はアトランタブレーブスの広報課に電話しました。「ハンクのホームランが710本で、あと5本でベーブルースの記録を破ることは知っています。ところで、ハンクの三振はいままで何回ですか?」電話に出た青年は言った「1262回です」不世出のホームラン王でさえホームランを一本飛ばすために、倍近く三振を出さねばならないのです。


 失敗は人生が人に教訓を与える手立てなのです。ときどきへまをやらかす能力は、目標に到達する能力と切っても切り離せない関係になります。連勝連敗の勇士などどこにもいないのです。失敗してもそれは成長の一部でしかありません。たとえばへまといっさい縁を切ったとします。ときたま失敗することなしにどうして自分の限界がわかるでしょう。失敗しても投げ出さないこと。そうすればいまにあなたの番がきます。


 ひとたび明日から給料以上の働きをすると心に決めたら、人生に奇跡が起こり始めます。現在何で生計を立てているか、仕事のいかんにかかわらず、毎日給料以上の働きをすれば、生活はすぐさま向上しはじめます。費用は全くかからないのに効果は抜群で、このルールに従えば人生は永久に変わります。


 何ごとも期待される以上の仕事をするという秘訣を習得すれば、成功の勝利は半ば手に入れたも同然です。職場に欠かせない人材になるように、役に立つ人間になるのです。もう1マイル行く権利を行使して、それによってもたらされるさまざまな報酬を手に入れるのです。あなたはそうした報いを受ける価値があります。

8トキ:2011/11/24(木) 20:34:15 ID:vLaTawrU
「訊け」管理人様

 素晴らしい聖典のご引用、ありがとうございます。オグ・マンディーノさんの話も興味深い
ものでした。ご多忙の中、投稿をして下さり、深く感謝申し上げます。

合掌 ありがとうございます

9「訊け」管理人:2011/11/25(金) 03:44:42 ID:UodBcqiE
昭和25年3月 『生長の家』誌巻頭言



ただ真理のみを語れ。
多言なるべからず。
多言なれば
調子にのりて虚偽を語ることあるべし。

ただ優しき言葉のみを語れ。
烈しき語調の言葉は深切より出づる場合にも、
憎悪をもって語らるる言葉なりと
誤解せらることあり。
心の中にても、言葉に現しても、行いにあらわしても、
人を傷つけてはならない。

誠実であれ。
虚偽であってはならない。
素直に、直截に、かまえることなく、
そのままの心で生活し、行い、言わねばならぬ。
        
値いなしに受けようとしてはならぬ。
肉体の汗か、心の汗か、金銭か、物質的な贈物か、
いづれにせよ
何らかの値いを払って受けよ。
値いなしに受けたものは、
何時かは奪い返されることがある。

自己の生活が
気尚(けだか)き基礎に立つかどうか顧みよ。
汝の生活を、愛と赦しと忍耐との上に築きて、
怒りと憎みとを常に支配せよ。
怒りと憎みとは
神と汝を隔てる
最も大なる敵である。
常に朗らかであれ。
不快なこと、争いのこと、憎むべきこと、人の悪しきことを
忘れ去れ。
忘れ上手が光明生活の第一歩である。
恩を忘れてはならない。
恩を忘れる者は
根を培わない樹木の枝の如く、
一時は生花の如く美しくとも
やがて枯れてしまうであろう。
人に深切をつくすのが
最善の宗教である。
ただ教えの説教師になっては
ならないのである。

一日一回以上、
出来るだけ自分の利益にもならない事で、
純粋に人のために尽せ。
純粋で無我でつくすことは、
其の事自体が
神に通ずる祈りである。
無我の愛でささげたる奉仕は
神に献げたことになるのである。

10「訊け」管理人:2011/11/25(金) 08:15:04 ID:D0Kb5yw.

People Are Often Unreasonabe
- Mother Teresa

People are often unreasonable, illogical, and self-centered;
Forgive them anyway.
If you are kind, people may accuse you of selfish, ulterior motives;
Be kind anyway.
If you are successful, you will win some false friends and some true enemies;
Succeed anyway.
If you are honest and frank, people may cheat you;
Be honest and frank anyway.
What you spend years building, someone could destroy overnight;
Build anyway.
If you find serenity and happiness, they may be jealous;
Be happy anyway.
The good you do today, people will often forget tomorrow;
Do good anyway.
Give the world the best you have and it may just never be enough;
Give the world the best you have anyway.
You see, in the final analysis,
it's all between you and God;
It was never between you and them anyway.

<訳>

時に人は、非合理で、非論理で、利己的なものです。それでもとにかく、彼らを赦しなさい。

貴方が深切をしても、「利己的な、あるいは隠された動機からそれをした」と非難されるでしょう。
それでもとにかく、深切をなさい。

あなたが大成果を収めると、偽者の友人や本物の敵が貴方のもとに寄ってくることでしょう。
それでもとにかく、大成果を収めなさい。

あなたが正直で率直な人だとすると、あなたを騙す人も現れるでしょう。それでもとにかく、正直で率直な人でありなさい。

あなたが何年もかけて築いたものを、人は一夜で壊してみせるでしょう。それでもとにかく、築きなさい。

あなたが朗らかさや幸福感を見出すと、幾人かは嫉妬を催すかもしれません。それでもとにかく、幸せ一杯でありなさい。

あなたが行なった善きことも、人は明日には忘れます。それでもとにかく、善きことをなさい。

全力を尽くして世に献身しようとも、世の中はなかなか変化しないでしょう。それでもとにかく、全力を尽くして世の中に貢献しなさい。

いいですか、結局これらは、あなたと神の問題なのですよ。あなたと彼らの問題では、ないのですからね。

11「訊け」管理人:2011/11/25(金) 17:32:08 ID:l8v59LII
●弊ブログ「藤原敏之名言集」より
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65581693.html#more


〝徹底する〟とは
〝自分の力はいらないのだ〟ということに
〝徹底する〟ということである。



 神一元というのは、神もあるがわしもあるではだめなんです。神もおるか
も知れんがわしもおるでは、神とわしと二元になる。私があるかぎり二元な
んです。そうすると實相一元じゃない、現象になってしまう。


 實相もあるかも知らんが現象もある、これは二元です。この二元論から人
間は迷うて苦しんだんです。人間のあらゆる病気も不幸も失敗も、あらゆる
苦しみが二元論から出てくるのです。


 生長の家では、唯神實相哲学と言って、唯神というというのは實相一元、
神一元、神だけということ、これが生長の家の教えの基本です。唯というの
は他にないということ、ただ神しかいない、ただ實相だけなんだ、これしか
ないのです。何十ぺん聞いても、何千べん聞いてもこれしかない、ないもの
はない。


とにかく夢などというものはつまらんのです。皆さん、
少なくとも、神様のおつくりにならないものを、
私達がつくっているということは、これはまさしく
夢なのです。
そういうことが判ったとき、私は阿呆らしくて、阿呆らしくて
病気をすぐやめました。
それっきりやめました。
馬鹿らしい。


神によってはじまり、
神によって生かされているんだから、
心配する権利はない。

12「訊け」管理人:2011/11/26(土) 07:51:48 ID:snP.vX5s
『愛は刑よりも強し』39項より
 「ヤバイこと」が起こっているときほど喜べ!これが生長の家の教えなの
ですが、最初聞いたときはビックリ仰天しましたね。いつ読んでもよい文章
です。


「善のみのほか何も恒久性のものはない。何物も善の反対のもののほか滅尽するものはない。善のみ実在である。悪は唯反影である。『善徳』より悪の影を取り去ればただ善のみが残る、悪は影を消すのである。又『悪徳』より善の支柱を取り去ればそこに尚善が残る、かくして悪徳は影を消すのである。」


この最後の一句は実に深い真理を蔵している。「悪徳」それ自身で存在し、自立しているのではないのである。いやしくも存在する限り、その存在の力は善によって支えられているのである。病気の如きもいやしくも存在する限り、病気それ自身が存在を保ち得ているのではなく、生命があるから病気の姿が存続し得るのである。
 生命が肉体から脱け出してしまったら、病気の症状も存在し得ない。即ち症状は生命のはたらきである。症状は善なる生命があらわれんがための経路としての状態であるというのに一致している。だから善のみ存在するのであって、悪と見えるものでさえも、善によって存在の姿があらわれ得るのである。

(中略)

「反対の力が強いほど、自己に内在されている力を呼び出す量も強いのである。」

13「訊け」管理人:2011/11/26(土) 14:30:10 ID:UodBcqiE
谷口雅春先生御講話の“落穂拾い”

「憎いのは相手であるけれども、そう思うのは自分の心である。その自分の心が自分の体を支配しているのである」
「ボヤキは口の中の事でも祈りである」
「裁くから腹が立つのである」
「我(が)のある御魂(みたま)が我(が)がなくなって初めて、神様のお役に立つのである。初めから我(が)のない御魂(みたま)は弱くて役に立たない」
「死んだら自分が死んでいない事が分かる」
「胎児が母親の中にいて母の顔を見る事ができないように、人間は神を見る事ができない」
「学者でも作る事が出来ぬ血を赤ん坊ですら作る」
「寝ている間の心臓は誰が動かすのか」
「悟るとは相対世界の<差>を<とる>こと」
「五官の眼では地球が丸いという事は分からないのである。太陽の周りを地球が廻っていることは五官の眼では分からない。それと同じく人間は如何なるものであるかということも、五官で見るだけでは分からないのである。」
「自分は教組ではない。實相世界に生長の家本部がある」
「自動車のエンジンが飛行機のエンジンと似ているからといって、自動車が進化して飛行機になったのではありません。元の設計図が違うからです。自動車は」自動車の設計図、飛行機は飛行機の設計図があるからです。猿が人間に似ているからといって、猿が進化して人間になったものではありません。神の理念、神の造られた設計図が人間を作り給うたのです」
「クシャミが出たら風邪を引いたと思うのではなく、風邪が出たと思いなさい」
「失くし物を探すとき、『無い、無い』と言って探すのではなく、『あった、あった』と言って探しなさい」
「平等というのは嫉妬心(しっとしん)の合理化です」
「人間はみな霊位が違う」
「人間はみな因縁が異(ちが)うから悟りの程度も違う」
「汝、我を選びしにあらず。我、汝を選びしになり」
「挨拶はするもので、されるものではない」
「金持ちをつぶしても貧乏人は金持ちになれません」
「過去と他人を変えることは出来ぬが、変えることが出来るのは未来と自分だけ」
「老いてますます盛んなりと申さず、老いずしてますます盛んなりと訂正なさい」
「生まれ変わりとは、人間が霊であると知ったとき」
「喜べば、喜び事が、喜んで、喜び集めて、喜びに来る」
「天に口なし。人をして言わしむ」
「貪(ドン・むさぼり)、瞋(ジン・いかり)、癡(チ・おろか)は三大煩悩」

14「訊け」管理人:2011/11/26(土) 14:30:47 ID:UodBcqiE
谷口雅春先生御講話の“落穂拾い”その2


「下痢は恐怖心の強い人」
「ママよという気持ちは、赤子の如くその<まま>の心、病気の治りたい気持ちは駄目」
「気近(きみじか)、怒り、イライラは肺癌のもと」
「顔面神経痛は先祖供養」
「子供をよくするのは主人に感謝すること」
「神経痛は言葉の下に、“何々してやったのに”の“のに”がつく感情」
「不眠症は便所の掃除をして感謝すること」
「痔病は、イライラしない。<自我>が<ない>のはハイの心、素直な心、人を言葉で切らぬこと、<自我>ない、<痔が>ない」
「脚気。不平と悲しみ」
「肝臓。憎み、うらみ、怒りの集積」
「肛門。出し渋り、薄情、欲張り」
「尿。祖先、夫婦仲良く」
「黄疸。目上の人への反感、親との金の争い」
「胃。生活に喜びがない」
「胃と痔はイジが悪いから親戚同士」
「十二指腸。親との和解、親への感謝で治る」
「喘息。財産問題」

「自分の名前に○○さん○○君と付けて呼べば神様から呼ばれているように感じ、強く響きますよ」
「山田君、三界唯心所現と云う法則は絶対だよ」
「自分のことを山田如来(にゅらい)、太郎菩薩(ぼさつ)と呼びなさい」

「霊とは純粋にして混ざり気のないところの心のエッセンス」
「心とは霊が動き出して知性的、感情的、意志的波動と成って現れたもの」
「魂とは人間の全体性のバランスを維持する働きの精神的エネルギー」
「過去の事で怒り悩む持越し苦労、分からぬ明日の事で取り越し苦労せず、今の今に感謝し喜べば、今が過去に成り、喜びの過去に成る」
「心に過去を摑(つか)めば摑んでいる間、過去が現在に成って居る」
「念とは今の心」
「業とは念の集積」

15「訊け」管理人:2011/11/27(日) 22:13:41 ID:snP.vX5s
『白鳩』21年2月号より。
 初心者さまとの対話からも感じたことですが、雅春先生の愛国への思い・・・
「かなり曲解されていないか?」と。そんな疑問をもとに弊ブログから転記
致します。


 最後に吾々は何故此の敗戦によって悪い窮地に追い込まれたのであるかと云うことを反省して見たいと思うのであります。それを神の試練と呼ぶ人もありますが、『生長の家』ではそうは言わない。神は絶対の愛でありますから、試練と云うものを遣わし給う筈はない。自分が増上慢の道を歩くようになり、俺が偉いんだ、だから俺がやることは皆正しいと云う気持になって突進して行って、自分と自分で壁にぶつかったのであります。神が壁をもって来て吾々に打ち当てたのではないから、神が試練を与えたのではない。間違った道を歩いたら自然に壁にぶつかって進めなくなる。その時こそ吾々は方向転換しなければならないのです。それと同じ事が今、日本民族全体に来ていると思うのであります。



 日本は日清戦争に勝ち、日露戦争に勝ち、朝鮮を併合し、欧州戦争に参加して南洋の島々を委任統治としてわが傘下に収め、満州国を緩衝国家として創立した。そして自分の思うことは必ず成就する、 『俺が』偉い、『俺が』『俺が』と思っていて反省がなかった。


 軍の力なら何でも出来ると思って、一羽の雀も神の許しなくしては地には落ちない、すべて神のめぐみだと云うことを忘れて反省がなかった。真に神の御心を実現するのだったら、日本民族はもっと愛を行じなければならなかったのです。

16「訊け」管理人:2011/11/27(日) 22:14:24 ID:snP.vX5s
(つづき)

 神は愛であり慈悲であり給う。それを行じないで、却って軍の飽くなき侵略慾のために殺戮を恣まにして進んで行ったのであります。近衛公の自殺後二日目に発表された『日本産業新聞』所載の近衛公の聞き書きには、軍が天皇の御意志も、総理大臣の心も無視して勝手に支那奥地へ戦争を拡大して行ったことが明瞭にかかれております。その間違った軍の利己的な欲望を満足させる為に『愛』の心を殺し、従って神の心を殺して我慾で突進して往った。斯くの如くして敗戦となったのであります。
 之は即ち自分の我で突き進んで行き詰りを生じたのであります。
 今日本は方向転換をしなければならない。如何に方向転換すべきか、それには神の御心を現すようにすることが必要なのは、国家に対しても個人に対しても当箝る道理であります。『何よりも先ず神の御心を、今、此処に実現せしめ給え』と、吾々は祈らなければならないのでありますが、利己的な人には、そんなに云って祈るのは、何だか危いような気がするでありましょう。利己主義の人にとっては、神様の御心にまかせて置いたら、『死ね』と云われたり、『貧乏になれ』と云われたら大変だと思い、『どうぞ健康にならしめ給え、無限の供給を与えたまえ』などと祈る方が確かだと思う ― これはまだ利己主義が無くなっていない証拠であります。


 
 吾々は神意ならば絞首台上へでも素直に上らなければならない。イエスキリストはそう云う心境になって居られたのです。キリストはゲツセマネの園に於いて『神よ希くば御心ならばこの苦き杯を吾より取去り給え』と祈ったのであります。
 併し『わが意を為さんとするには非ず、神の御心を成就せん為なり』と言ったのであります。此所に肉体の要求と魂の要求との微妙な戦いがある。『御心ならばこの苦き杯を吾より取去り給え』と言った時にはまだ旧き我が残って居り、自分の我を主張して居ります。併し乍ら『御心ならば』と前提して居るのであって、決して強く我を主張している訳ではないのであります。兎に角神様の『御心のみ』を此所に成就することが必要なんです。



 斯くの如く皆さんが祈って居りますとだんだん我慾と云うものがなくなって、神様が自分の恋人であり、自分の内にあって微笑していられるような気がして来るのであります。恋人と言えば形容が奇矯だけれども、神は常に私を護り、導いて下さるのだと云う本当にぴったりした気持になって参ります。
 皆さんも皆こうならなければならないのであって、その為にはどうしても『自分の内に神が流れ入りたまいて、神の智慧によって常に導かれているのである。我が意をなさんとするに非ず、神意が我に於いて実現するのである』と云う感じを常に失わないようにしなければならないのであります。
 一番好い方法は『神様』と呼びかけて、神の子が親様に呼びかけるような気持になるのであります。そして『神よあなたの生命を私に流れ入らしめ給え』と念ずる。それは招神歌の第一首目の歌に当るのであります。あの歌を一生懸命に黙然して『神よあなたの大きな生命を幸へ給え、我に神の生命を流れ入らしめ給え』と云う気持になり、本当に神の生命が吾に流れ居ると云う気持になった時に『我が生くるは我が力ならず天地を貫きて生くる祖神の生命』の二番目の歌を念ずるのであります。


 自分がやっているのだ。自分の力で何事も出来るのだ。この心がスッカリ無くなってしまって、神の『生命』が今ここに生きていると云う自覚を得るのであります。これが何よりも大切であります。無我が神であり、我のある間は神との絶縁体が介在しているから、祈りは成就しないのであります。つかんでいたものを放したときに与えられる実例は度々あります。






『白鳩』21年2月号

17うのはな:2011/11/28(月) 00:20:12 ID:iM0b0bt6

今迄宗教家が人間と神様との間の仲介になって、まるで紹介業みたいに「私が貴方の救いの仲立ちを
しましょう」と云うわけで、「私はあなたに無限に死なない永遠の生命を紹介して差上げましょう」と云うわけで、
「私が仲介になって、不滅の命をさずけて下さる佛様や神様に紹介して差上げますから、紹介料は幾ら出しますか」
と云うような宗教が多かったのでありますが、人間が救われるのは自分自身の「實相」が本来「佛」であると云う真理に
よるのであって、そういう「救われの仲介をしてやるから、お賽銭を出せ」と云うような宗教は多分に邪教の匂が濃いですね。
だから今迄にそう云うことを説く宗教業者が多かったから、私はそういう宗教業者にはなりたくないと思って、唯、本を読むだけで
救われる、しかもその本も普通の書籍と同じような市価で求められるようなものでなければならないと言うので、現在の出版会社組織の
日本教文社(当時は光明思想普及会と称した)が出来たのであります。

 もっとも大量に人を救うと云う為には一寸講演会場を借りるにしても費用が要るのであり、
講演の通知や宣伝をするにも費用が要るのですから、そうした公の費用を集めるのはいいけれども
布教師自身が生活の資を得る為にその金を集めるということになると、それは宗教業者と云う事になって
純粋宗教人ではなくなります。此の点は余程注意して純粋宗教人としての生活を送りたいものであります。


 『精神科学』昭和33年7月  谷口雅春 先生著

18うのはな:2011/11/28(月) 03:20:33 ID:iM0b0bt6
 瘤の精神分析

 肉体の内部に出来る塊は、肉腫でも癌種でも、瘤でも、肉身は肉親に通ずるので、
みな肉親の者同士の間の精神葛藤の「心の塊」の具現化であることを、私は或る年の『生長の家』誌の
法語の中に書いたことがある。
 ところが、当時夫婦別居して東京に住んでいた野中夫人はそれを読んで夫君の野中賢一郎氏の臀部にある
林檎大の瘤のことを思い出したのである。あれも「肉身の中の塊」であるからきっと「肉親の中の心の塊」の
具現化であろうと思い、自分たちは肉親の者の中で誰と不和であろうか、誰か私達を恨んでいる人はないであろうか
と考えた。すると思い出したのは、自分が賢一郎氏の後妻であり、先妻の霊に対して一度も挨拶していないことを思い出した
のである。或いはその先妻の霊が、まだ浮かんでいないので、良人に執着し、その執念の念が良人の臀部に象徴化してあの瘤として
形をあらわしているのかもしれないと考えたのである。それで良人に手紙を出して先妻の名と、その亡年月日を知り、生長の家で教えられた
方法により、その先妻の亡霊が悟りをひらくように毎日その亡霊に対して聖経『甘露の法雨』を読誦することにしたのである。
すると、今まで野球の硬球のように固くなっていたその瘤が次第次第に柔かくなって、いくらかその瘤の表面に皺がより、一部分、熟した無花果のように
赤味を帯びて来ていたのである。
 夫君の兵庫県宝塚のさくら館の三階広間にて催された、生長の家講師会に集った諸講師方の入浴のために欣然として風呂を清掃し、その風呂に清浄な湯を
わかして諸講師を入浴せしめ、最後にこれら世の先導者となる善知識の浴されたその同じ風呂に入り得る光栄を感謝して、合掌落涙する思いで、その最後の風呂に入り、
湯からあがって、今し自分の身体をふいて湯殿から出ようするとき、いつも手拭にふれる臀部の林檎大の瘤が消滅していたことを発見したのである。
それから大騒ぎとなり、おりから続行中の三階の講師会席に出て、その体験報告が行われたのであった。
 たしかに先妻の亡霊が『甘露の法雨』の功徳によって悟りをひらいて、良人に送っていた執着の念(心の塊)を放棄したとき瘤は柔かくなり凋みつつあった。
更に野中君自身が「徹底感謝」の心境に達したときその大いなる瘤が奇蹟的に消滅したのである。

 『美と健康の創造』P152〜 谷口雅春 先生著

19うのはな:2011/11/28(月) 05:26:50 ID:iM0b0bt6
 神は到る処に充ち満ちていられます 

神は常に、あなたを護っていられるのです。
日光はふりそそぎ、空気はありあまるほどあります。自分でしようと思わないでも心臓は鼓動し、
肺臓は呼吸します。みんなこれは神さまのお力です。もしあなたが心の眼をひらいて御覧になるならば、
到る処、神の恵みならざるはありません。神の恵みは一分間も止むことはないのです。
その事は肺臓の呼吸や、心臓の鼓動が一分間でも止んだことがないので判ります。
眼をひらいて御覧なさい。貴方の食物、飲料水、衣料、みんな、もとは神から来たのです。
もとは神で、調理をしたり、紡績したり、裁縫したりしたのは、そのもとに少しく「人間の力」を加えたにすぎません。
しかし、その加えた「人間の力」はどこから来たのですか。自分で生れようと思って出て来た生命の力ではありません。
神が生命を与えてこの世に生み出したのです。「人間の力」そのものが神の力です。
もとは神です。そのもとに「人間の力」を加えても、神の恵みを加えたに過ぎません。
 すべては神の恵みです。神の恵みに眼をさましましょう。自分の力で何でも出来ると思っていた間は、「有りがたい」という心は
起らないのです。「有りがたい」という心、感謝の心が起ったとき、人間は、はじめて幸福になれるのです。
「有りがたくない」とブツブツ不平をいっている間は人間は幸福ではないのです。
幸福な感じというものは、「有りがたい」という感じです。「あの人が私に深切にしてくれて有りがたい」と思ったときにその人は幸福です。
 ところがもっと大きな幸福が、もっと大きな「有りがたさ」があるのを見のがしてはなりません。
神の愛の深切さ、その行き届いた深切さは、どんな人の深切さよりも、もっともっと深切です。
あなたの腹わたの中のどんなきたない中にも入って、あなたに必要な養分と、きたない糞便になる部分とをより分けて、あなたを生々とした美しい肉体に
つくっていて下さっているのが神様の愛であります。
太陽の輝きは、星々の煌きは、花の美しさは、神様のあなたに対するやさしい微笑です。
 あなたは神様がいつも休まず働いていて下さるその深切に、その微笑に、お礼をいったことがありますか。
夜やすむときと、朝おきたときと、そして美しいものを見たとき、御飯をたべるとき、うれしい事がある毎に
神様に感謝いたしましょう。そこから本当の幸福は生れるのです。


 『美と健康の創造』P171−173 谷口雅春 先生著

20「訊け」管理人:2011/11/29(火) 11:00:37 ID:W9ebvJaY


『世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教え』
エックハルト・トール著より。
 雅春先生の光明思想と、類似していると思います。実はこの本、『生命の實相』に出遭う二週間前にたまたま入手したものでした。この本による覚醒が、『生命の實相』の呼び水になった気がしています。
――――――――――――――――――――――――――――――――


<声に出して宣言してみてください>

わたしは、わたしの思考ではありません。
感情でも、感覚でも、経験でもありません。
わたしは、人生で起こる出来事でもありません。
わたしは生命です。
わたしはすべてを生むスペースです。
わたしは常識です。
わたしは『いま』です。



「真の自由」が欲しいですか?
「苦しみ」にピリオドを打ちたいですか?
 それなら、あらゆる瞬間に、自分が感じているもの、あるいは経験しているものすべてを、あたかも事前に選択したかのように生きることです。心の中で、「いまと一つになること」によって、「苦しみの終息」が訪れるのです。




「真の自由」が欲しいですか?
「苦しみ」にピリオドを打ちたいですか?
 それなら、あらゆる瞬間に、自分が感じているもの、あるいは経験しているものすべてを、あたかも事前に選択したかのように生きることです。
 心の中で、「いまと一つになること」によって、「苦しみの終息」が訪れるのです。
「『いま、この瞬間』を、そのまま放っておく」
ただそれだけで十分なのです。
「手放し」とは「いま、この瞬間」に対して行なうものです。
「いま、この瞬間」を自分なりに解釈して、でっちあげる話に対して降伏することではありません。
たとえば、身体に障害をかかえていて、歩行ができないと仮定しましょう。
この身体的状況は「ありのまま」です。この状況に対して、思考はこんなふうな「物語」を、つくりあげてはいないでしょうか?
「これがわたしの人生か?車いすの世話になるなんて。人生はなんと不公平で残酷なんだ。このわたしがいったい何をしたというのだ?」
「現状」をありのままに受け入れて、「現状」と、「思考がそれについてつくり上げる物語」とを混同しないこと。これを実践できますか?
「どうしてわたしがこんな目にあうの?」もはやこの問い掛けをしなくなったとき、
「手放し」が起こります。



 ゴールを定めたかったら、定めてもいいのです。ただ、それを達成するかどうかは、さほど重要ではないということに気づいてください。純粋な意識をもとづいて行動していないかぎり、「いま、この瞬間」を、「目的のための手段」にしてしまっているのです。
純粋な意識にもとづいて行動しているかぎり、行動すること自体が、すべての瞬間に充実したものになります。
 あなたはもう「いま、この瞬間」を「目的のための手段」にしていません。
「いま、この瞬間」を「目的のための手段」にするのは、典型的なエゴ意識です。
「自己がなければ、問題もなし」
仏教の奥義を問われたマスターは、こう答えたそうです。



どんな状況にも、
どんな人々にも、
「悪」あるいは「悲惨だ」以外に
言葉が見つからないときでさえ、
その奥には「まったき善」が、隠れているのです。
これを奇跡と呼ばずして、
なんと呼ぶでしょう?

21「訊け」管理人:2011/11/29(火) 14:20:28 ID:D0Kb5yw.
●祈りのための言葉
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65609931.html

 今、我が陥れる状態は、
 真に我が求むる本当に善きものの来る前提として、
 神から与えられている過程である。

 遠からず、自分はこの状態を通過して、我が真に求むる
 善き状態に入るのである。
 神は全能の力をもってかくなさしめ給うたのであるから、
 疑うことも心配することも要らないのである。

『生命の實相』第八巻 172項


 自もなく他もなく天地ただ一つの祖神(みおや)のなかにある。
 われが求めているのは小さな我の力で求めているのではない。
 天地全体の力で求めているのである。
 
 だからわれが求めると同時に
 天地間のどこかに必ずその求めを満たすものが顕現しつつあり、
 われそれを求むれば、
 その求められるものもわれを求めて
 互いに相近づきつつある。
 その相近づくのは神の力、広大無辺なる力であるから、
 その広大無辺なる力に導かれて、わが求むるものはかなうのである。

 『生命の實相』第八巻 169項

22うのはな:2011/11/30(水) 01:22:07 ID:iM0b0bt6

 鍵のことば

 悲しみよ わが家に入ることなかれ
 憂ひよ わが庭に入ることなかれ

 この家は 喜びの家 わが庭は 悦びの園
 くるしみの来るときにも われは喜び
 悩みの来るときにも  われは喜び
 悩みの来るときにも  われは神を讃ふ

 われは現象にはとらはれず
 ただ神のつくりたまへる 實相の世界のみを見る
 現象を見るときは 現象の虜となる

 虜は縛られて自由を得ず

 現象を見ず 常に實相を観ずるとき 一切の禍は消ゆ 

『 幸福をひらく鍵 』 谷口雅春 先生著

23トキ:2011/11/30(水) 20:43:28 ID:xeAUliPY
>>22

うのはな様

 すばらしい引用ですね。センスがとても素晴らしいです。
こういう文章を拝読すると、心が洗われます。
 心から、感謝申し上げます。

合掌 ありがとうございます

24うのはな:2011/12/01(木) 01:52:44 ID:iM0b0bt6

  十二月一日  同志愛に徹底する日
   自分の全力を出し切れば其処に無限の力が生ずる。(『生命の實相』第四巻)
 
 自分の親しい人が人類光明化の陣営から去ったとて、その去った人に義理立てして吾らの同志から
脱落しないでほしい。吾々は世界を覆っている暗黒思想と戦っている光明思想の戦士達である。
吾等は幾多の戦友、百万人の戦友の屍を踏み超え、踏み超えして進まねばならないのである。
斃れた戦友に義理立てする道は、戦友と同じく落伍することではない。
尚一層の元気を奮い起して人類暗黒化の敵陣に跳り込み人類の敵を撲殺することに在る。

吾々は全世界を蔽う暗黒と戦わねばならぬのである。「暗黒」が吾々の共同の敵である。
イエスは自分の人類光明化の軍勢から脱落して往った同志を“迷える一匹の羊”に譬えて、
その一匹の羊が再び同志の陣営に還って来るように、どんなに探求するかを、迷わざる九十九匹の羊を放置しておいて、
その一匹の迷える羊を探しに出かけるではないかとも言い、まだ脱落した同志を家出していた放蕩息子に譬えて、その放蕩息子が
父の御許に還って来た時には、父は家出しないで父の御許に忠実に仕えていた他の兄弟たちのことは放っておいて、還って来た息子のために
祝宴を催し、その指に宝石の指輪をはめてやって歓迎するではないかといっている。
我らが脱落した同志の復帰を歓迎するのも斯くの如しであるのである。

『光明道中記』 谷口雅春 先生著

25うのはな:2011/12/01(木) 05:34:28 ID:iM0b0bt6

 「毎日絶えずの力」 伸びよ生命の子  谷口雅春 先生

 皆さんは、生きているから日に日に新しくならねばなりません。
新しくならなければ人は古くなるのです。古くなることは死ぬことです。
じっとしているものは乾物かミイラです。「生長の家」が今栄えているのも、
いっぺんに大きく広告したから栄えたのではありません。私が日に日に新しくなった
からです。私はこれまで一日でも、「今日は昨日よりこれだけ進歩した、今日は昨日の上に
これだけの勉強をした」と、その一日を振返って見てハッキリと心の中で言えなければ、安心して
寝られなかったものです。一日無駄に費やした日があったら、その日一日死んだような気がして悲しくて
悲しくてしかたがなかったものです。

 この心掛けがなかったら、今日の「生長の家」はないのです。
もののできるのは一日でできるのではありません。今日、土から這い上がって来た蝉でも、土の中で何年間も苦労してきたのです。
蝉が今日這い上がって来たからとて、その時に蝉ができたのだと思ったら間違いです。
例えば、この生長の家でもです。それは私の心の中に日に日に新しく生長したのです。
私は電車の中でも、汽車の中でも、道を歩いている時にも、休憩時間にも本を読みました。
本を読まぬ時には何か良いことを考えました。何か今より良くなる道を考えました。
そしてそれを実行しました。物を見てもポカンと見ていたことはありません。
その美しさを見るのでも、どこがどんなに美しいかをシミジミと見つめました。
機械を見ても、どこがどうなっているかをシミジミと見つめました。
なんでもシミジミ見つめて味わうようにすれば、面白味のないものはありません。
何からでも、無限の味わいが汲み出されてくるものなのです。

 むかしから「点滴ついに石を穿つ」と言いまして、どんなに大雨でも、一晩に石に孔をあけること
はできませんが、ポトリポトリと苔の先から滴る、ほんとに小さい豆粒のような水の滴でも、
毎日毎時間それが落ちていたら、ついに固い固い大岩でも孔をあけることができるのです。
 小さい豆粒のような水の滴でも、常に絶えず少しずつ進撃したら、固い固い岩に孔をあけることができるのです。
「常に絶えず少しずつ」の力は、「一気にやって、後はのらくら」よりも大きな進歩をするものです。
常に少しずつ進歩するということほど、尊いことはないのです。
赤ん坊はいっぺんに大人にはなりません。毎日少しずつ生長し、毎日少しずつ新しきものを付け加えて大人になるのです。
皆さんは兎と亀とが競争した喩話を知っているでしょう。一気に走って、あとは眠っている者よりも、
少しずつでもこやみなく進んで行く者が、ついに勝利を得るのです。

26うのはな:2011/12/01(木) 05:42:29 ID:iM0b0bt6

 人を幸せにする贈りものとして真理の書ほど素敵なものはありません。
 日本中の家庭に“伸びる母と子シリーズ”をおくります
 家族そろって楽しい勉強会をしてください。

 全国の子供会・家庭勉強会・母親教室の“輪読のためのテキスト”として最適です
 近隣の人や知人へ贈っても喜ばれるでしょう
 伝道や愛行用のパンフレットにも活用できます

 このシリーズは、谷口雅春著『人生読本』から編集したものです
 次号は『みんな一つの生命』です <編者>

 『伸びよ生命の子 伸びる母と子シリーズ2』

27商人:2011/12/01(木) 06:33:30 ID:TCt66b8E
うのさん おはようございます!

「毎日絶えずの力」 伸びよ生命の子と言うご本すばらしいですね。

この本も初めて読みました。
ありがとうございました。

次回を楽しみにしています!

でも、これだけの文章を打ち込むのも大変ですよね、感謝しています。

商人

28うのはな:2011/12/01(木) 06:42:02 ID:iM0b0bt6

 商人さん、ありがとうございます!

 早朝から、一日から商人さんに声をかけてもらうと金運が上昇しそうです!

 食用金粉を料理にふりかければ、ゲンがあると聞きましたが、
 今日のごはんついでに、商人さんにもプレゼント・フォー・ユーです。
 またよろしくお願いします。 拝。

29商人:2011/12/01(木) 06:52:02 ID:TCt66b8E
うのさん!

光栄です。

今日は1日ですね、すばらしい月の始まりになりますよ!

これからも教えてくださいね!!

商人

30「訊け」管理人:2011/12/02(金) 12:15:15 ID:W9ebvJaY
――――――――――――――――
『小さな人生論』藤尾秀昭著より
ブログ機能・・・なぜか本日不調です。更新ができません。
ですのでこちらに投稿などを。
――――――――――――――――

< 「大悪起これば大善来る」>

 「苦難は幸福の門」―― というのは、倫理研究所を創始した丸山敏雄氏の言葉である。苦難は生活の不自然さ、心のゆがみの映った危険信号であり、ここに幸福に入る門がある。従って、苦難を忌み嫌うのではなく、喜んで取り組み、苦難の原因になっている生活のあやまり、心の不自然さを取り去ると、かつ然として幸福の天地が開けてくる、と述べられている。

 「大悪起これば大善来る」―― と仏法では言われている。小さなよいことは、日常の中でもしょっちゅう起こる。しかし、大善 ―― 本当に大きなことは、こんな苦しみはもういやだと言いたくなるような、大悪が起こった後にやって来るというのである。
 耐え切れないような大きな苦しみや困難や障害がおそってきた時に、もう駄目だと投げ出すのではなく、
ここを越えれば、必ず大善 ―― 本当に大きなよきことがやってくる、これはその前兆だと信じて、その波を越えて行けと、仏法は説いてにるのだ。

 いま国も企業も大きな困難の渦中にある。個人的に煩悩を抱えている方もおられよう。しかし、苦難は私たち自身をさらに成長させ、新しい世界を開いてくれようとする天の意であることを、先知先賢の言葉は教えてくれている。

『小さな人生論』

31「訊け」管理人:2011/12/02(金) 12:19:05 ID:W9ebvJaY

 「大悪起これば大善来る」関連する雅春先生のお言葉を掲載致します。


<苦痛にも感謝せよ>

 苦痛は肉体の何処かに故障があるのを警告するために霊が送って来るところの信号である。苦痛はまたその痛むところへ全生命力を集中して早く治癒に導くための信号である。
 苦痛のあるところに生命力は集中し、その復旧に必要なる細胞と養分とが送られるのである。だから肉体の何処かに苦痛が現れた場合には、その苦痛を憎んではならないのである。むしろ其の苦痛の起こる毎に「これで私の病気は癒されつつあるのだ」と念ずるがよいのである。むしろその苦痛に感謝せよ。苦痛にも調和するとき、その苦痛は消滅してしまうのである。「天地一切のものに和解せよ」と云う教えは「苦痛にも感謝せよ」と云うことを含んでいるのである。
『眞理』實相篇96項

<何でも受ける>

 何でも起って来るものに敵意をもって立ち騒ぐことは、発熱や、発汗や、下痢や、喀血や・・・・その他のどんなものでも増悪せしむるばかりであって、不幸はその「起って来るもの」に対する不調和の念によって増悪されるばかりでございます。
 「何でも受ける」と云う覚悟が出来た時に病気の治った人は沢山ございます。若しあなたが病気であって治り難いのでございましたならば、此の「何でも受ける」と云う心境が無いのではございますまいか。「あれも嫌や、これも可かぬ」と言って素直に受ける心境におなり遊ばされねば、心の調子(リズム)が騒がしいので神の療能(なおすちから)が働きかねるのでございましょう。「何でも受ける」という心境におなりなさいましたならば、第一恐怖がなくなります。恐怖と云うものは、遁れる道がまだあると思い、何とかして逃れたいと思うからでございます。もう宣告を受けた囚人には恐怖がございませぬ。逃走中の犯人の心は恐怖で充満しておりまする。「逃れるような卑怯はすまい、すべてを受けよう」斯う決心した時に恐怖心は消えるものでございます。
 恐怖は神経の過労を惹起こし、血液の循環を不平等にし、血液その他内分泌中に毒素を造り、自然療能を妨げるのであります。今日から私達は恐れないと決心致そうではありませんか。
『靜思集』76項

32志恩:2011/12/03(土) 00:56:05 ID:psrFh/ZU
                    「ブッダの言葉」より
  【知識から自由になる】

内面をみつめる力や、集中力や、おちつき、といった能力を高めるトレーニングをするかわりに知識を増やそうとするのは、
愚か者の証。

哲学・政治学・経済学・心理学・文学・さまざまな言語なんかの知識をむやみに増やすことによって、記憶のメインメモリーは、不必要な
情報のノイズで埋め尽くされ、頭が混乱するだけ。

「せっかく学んだのだから他人にひけらかしたい」「せっかく学んだのだからこの知識を使ってみたい」などと、それらの知識への執着が
生じるがゆえに、知らず知らずのうちに、知識に支配される。

その知識のフィルターを通してしか、物事を感じることができなくなり、いつのまにか、不幸になってしまう。

頭を混濁させる、それらの知識のフィルターを離れて、ものごとを、ありのままに感じるように。(法句経72)

33志恩:2011/12/03(土) 01:17:25 ID:psrFh/ZU
                     「ブッダの言葉」より
   【相手に合わせて柔軟に話す】

マニアックな 単語なんかに、こだわらないで話す。


「実存の絶え間ない揺らぎ性が、超越論的に構成された同一性により回収される必当然性が、、、、、、、、、、、、、、」

こんな哲学方言を言われても、哲学オタク以外は、「はぁっ?」となる。



「このビジネスモデルにおけるソリューションは、あなたのモチベーションを、システマティックかつエレガントに、キャッチアップします」

こんなビジネス方言で、まくしたてられたら、ビジネスオタク以外は、「はぁっ?」となる。



「カーヤーにエッカー ガタを向け、サンマ サンカッパで、サティしなさい」

こんな仏教方言を、言われても、仏教オタク以外は、「はぁっ?」となる。



ローカル方言なんかに、こだわらず、人に合わせて、柔軟に話すのが、麗しい。(中部教典)

34志恩:2011/12/03(土) 01:33:30 ID:psrFh/ZU
                        「ブッダの言葉」より

   【眠っているとき以外は、つねに慈悲の念を】

 立ち止まっているときも、
 歩いているときも、
 坐っているときも、
 横になっていても、眠っていないかぎりは、
 慈悲の念を保っていられるように。

 これは、ブラフマー神と同じ境地。

         ( ※ ブラフマー神とは、ヒンズー教の三大神のひとつ。四面の顔と四面の腕をもつ、創造の神。)

35志恩:2011/12/03(土) 01:46:01 ID:psrFh/ZU
             「ブッダの言葉」より
 【自分に与えられているものに幸せを見る】

 君の手に与えられたものが、たとえどんなにわずかでも、君がそこに幸せを見つけるなら「足るを知る」充足感で、
 君の心は、きれいに澄んでいく。

 そのきれいな心の波は、目にみえない高次の世界のものたちを、喜ばせて、惹きつけるだろう。
                                             (法句経366)

36うのはな(笑う):2011/12/03(土) 04:41:06 ID:iM0b0bt6

   鍵のことば

 幸福なるかな 心の貧しき者 天國はその人のものなり
 幸福なるかな  悲しむ者   その人は慰められん
 幸福なるかな 柔和なるもの その人は地を嗣がん

 幸福なるかな 義に飢ゑ渇く者 その人は飽くことを得ん
 幸福なるかな 憐憫ある者   その人は憐憫を得ん
 幸福なるかな 心の清き者   その人は神を見ん

 幸福なるかな 平和ならしむる者 その人は神の子と稱へられん
 幸福なるかな 義のために責められたる者 天國はその人のものなり


 『幸福をひらく鍵』 谷口雅春 先生著

37ももんが:2011/12/04(日) 00:12:57 ID:XXCuaQns
>>34
志恩様へ

志恩様の『ブッダの言葉』読ませてもらいました。合掌、拝。


志恩様の使われた、本の訳者は、どの方が訳された、『ブッダの言葉』『経本』で、ございましょうか?


よろしけば、教えください。
合掌、拝。

38志恩:2011/12/04(日) 04:15:02 ID:asbOtsEA
ももんがさま

著書「ブッダの言葉」は、小池 龍之介訳で,株式会社ディスカヴァー・トゥエンティワン出版、1785円。超訳。厚い本です。

発行日は、2011,2,20 第一刷
2011,9,5 第10刷


                                   以上です。

39ももんが:2011/12/04(日) 06:57:52 ID:XXCuaQns
>>38志恩様へ

志恩様、おはようございます。合掌、拝。

『ブッダの言葉』の本こと、教えて、いただきまして、ありがとうございます。合掌。

私や、一般に、知られてる、『法句経』などと、言葉が大分違うので、お聞きしました。

私が、良く読むのは、中村元先生訳・岩波文庫版『ブッダのことば』や『法句経』です。名訳です。


あと、良く、ホテルに置いてある、『仏教聖典』は、ひじょうに、良い内容で、わかりやすです。


こんど、私の良く読む本もご紹介しますね。


教えて、くださり、ありがとうございます。合掌、拝。

40志恩:2011/12/04(日) 07:34:37 ID:psrFh/ZU
ももんがさま

私は、別の名訳の方は,読んでおりませんので、こんど教えて下さいね.
この超訳のほうの「ブッダの言葉」は、
きっと一般人にも、ブッダの言葉をわかり易くと考えられて書かれた訳書なのでしょう。

”君よ、君自身から自由になるために。今も新しいブッダの2500年前の教え。
それは認知科学であり心理学であり、きわめて実践的な心のトレーニングメソッドである。”と
帯に書かれてあります。

巻末に、ブッダの生涯「超」ダイジェストも、載っております。

41ももんが:2011/12/04(日) 22:38:12 ID:XXCuaQns
仏教聖典・第1章史上の仏

第1節 偉大な生涯

1、ヒマラヤ山の南のふもとを流れるローヒ二ー河のほとりに、釈迦族の都カピラウ゛ァスツがあった。その王シュドーダナ(浄飯王)は、そこに城を築き、善政をしき民衆は喜び従っていた。王の姓はゴータマであった。


妃、マーヤー(摩耶)夫人は同じ釈迦族の一族でコーリヤ族とよばれるデーウ゛ァダハ城の姫で、王の従妹にあたっていた。
結婚後、ながく子に恵まれず、二十幾年の歳月の後、ある夜、白象が右わきから胎内に入る夢を見て懐妊した。王の一族をはじめ国民ひとしく指折り数えて王子の出生を待ちわびたが、臨月近く、妃は国の習慣に従って生家に帰ろとし、その途中ルンビニー園に休息した。
折りから春の陽はうららかにアショーカの花はうるわしく咲きにおっていた。妃は右手をあげてその枝を手折ろうとし、そのせつなに王子を生んだ。天地は喜びの声をあげて母と子を祝福した。ときに四月八日であった。
シュドーダナ王の喜びはたとえようがなく、一切の願いが成就したという意味のシッダールタ(悉達多)という名を王子に与えた。

『仏教聖典』2ページ〜3ページ5行〜


☆四月八日は、花祭りの日であります。日本でも、お寺では、甘茶をかけて、お釈迦様の誕生日と、春のお祝いを両方します。昔は、普通にみれた、風景でした。


☆『仏教聖典』は、京都や奈良などのホテルや旅館にはけっこう、置いてある、宗派問わないで読める、仏教の聖典です。外国語の物もあるので、仏教を知るのには、良い本です。

42うのはな:2011/12/04(日) 23:22:12 ID:iM0b0bt6
 愛を表現しているか?

 同じ相愛会の集まりで、こんどは次のことを聞いた。
「今日、奥さんに“愛しているよ”と言って愛を表現した人は手をあげて下さい」
するとたくさんの人が手をあげた。日本ではこんなに手があがらない。ブラジルの人は
日本人とくらべて愛の表現が積極的である。奥さんに愛語・讃嘆をよく表現する。
そういう意味ではブラジルの女性は幸せである。

 日本人は“男は黙ってサッポロビール”ではないが、愛の表現には消極的である。
ブラジルで講話をした日本の生長の家の講師の先生方が皆言うが、ブラジルでは話をしやすいそうである。
それは聴衆がたいへん真剣に聴いてくれるからだ。そして感動すると大拍手である。拍手の最中には話してもきこえない。
拍手の鳴り止むのを待って話す。
 つまり聴衆の参加の意識が高い、というのか、よろこびを全身で表現してくれる。
これはブラジル人の大変な長所だと思う。生長の家の教えを伝道するとき、この長所はぞんぶんに発揮される。

 イビウーナの練成会で、女子一般錬成会が行なわれたとき、決意発表の時間になった。
一人の美しい中年の女性がこんなことを言っていた。
「私は生長の家によって真理を教えられ、救われました。だからこの女子練成会に多くの人を
連れてくることを決意したのです。その結果、今回は四十名の新人をお連れしました。
私のところは、ここまでバスで五日かかります。お金もかかります。でもみ教えのすばらしさはお金以上です。
だから私は、ぜひ練成会にいらっしゃい、仕事が忙しくても、休んでいらっしゃい、と言います。
だってごらんなさい。仕事が忙しい時でも病院に入っている人もいるでしょう。
これはその人の業なのです。

 人間神の子を自覚し、よいことを行なえば、悪い業は消えて行きます。
どうかあなたの幸せのために、あなたの御先祖の幸せのためにも練成会に参加しましょう。
こういって私は話しました。そうしたら丁度四十名の方々が参加してくれました。
私はほんとうにうれしいのです。なぜなら参加して下さった皆様が幸せになって下さったからです」

 その積極的な愛の表現と実行力に私は心を打たれた。
“ここに本当の信仰がある”と感じた。ブラジルと、日本と、いろいろ違うところがある。
しかし同じところ、変わらないところがひとつある。
 それは、この生長の家のみ教えは、必ず人々を幸せにする、ということである。

『光の国から』 渋谷晴雄 先生著 日本教文社 刊

43うのはな:2011/12/05(月) 00:11:15 ID:iM0b0bt6
  孝といふ字は老と子との合成である

 子が老を負んぶしてゐる象(かたち)である。これは親をいたはる象でもあるが、
子は親の生命を背負って出現したといふ象でもある。子の生命の淵源が親であり、
親子一体、祖孫一体の愛を表現する文字である。子が親につかへ、親が子をいつくしむ親子の
愛情は、その生命の淵源する一体の實相から来るのである。

 親の愛は、子供が“何をするから愛する”のではない。子供との一体感において、純粋無条件に
愛するのである。母親の無条件の愛が徹底したとき、子供も無条件に母親を愛するのである。
愛は互ひに反映するのである。

 親が子を愛する場合には、自分の産んだすべての子を愛するのである。一人だけを愛して他を顧みないと
いふことはないのである。無論、その子供の性質や精神状態の如何によつては、その愛情が稀薄になることは
あるにしても、根本に於てすべての子供を愛するといふことには変りはないのである。

 ただ親から愛されてゐる受動的の愛では、進歩がなく創造がないのである。
愛は受動的段階から創造的段階にまで進まなければならない。
ただ愛を受けるだけではなく、愛を興へるやうにしなければならない。
受ける愛より興へる愛に進むのである。消極的愛より積極的愛へと向上するのである。

『幸福をひらく鍵』 谷口雅春 先生著

44うのはな:2011/12/05(月) 02:12:09 ID:iM0b0bt6
  此の人を見よ!

 一人の男があった。彼は隻脚を失って身体が不自由であり、胃が悪くて、始終胃痛にくるしめられ、
職業は無いし、肉体的にも経済的にも行き詰まって、町角に坐って、道行く人に「物乞い」しなければならないよう
になったのである。
 ところが或る日、彼の前に一人の光明思想の先生があらわれて、次のようなことを教えてくれた。
「此の世界には“法則”がある。そして神とは“法則”であり、“法則”によって与えたものが与え返されるのである。
君の坐っているこの町角は、君の持ち物ではなく、この町の一部分である。而もこの町に住んでいる人々の多くは貧しいのである。
その貧しい町の一角に君は無料で住まわせて頂いているのであるから、ただその恩恵を受けるだけではいけない。
受けた恩恵は返さなければならない。

 受けた恩恵を受けただけで返さないと云うことは、それだけ“借り越し”になっているのである。
君が貧しいのは、“借り越し”があるからである。“借り越し”になっているものは、法則によって償わされるから
常に貧しくなるのである。人間は宜しく“貸し越し”の生活をしなければならない。
“貸し越し”の生活になっている者は、法則によって、常に豊かに彼に支払われるから、その人は常に豊かに恵まれることに
なるのである。先ず君は、この町に対して、町の人々に対して何かを与えることにして、自分の生活を“貸し越し”にしなければならない」
とその人は言うのであった。

「私はこの町の人に対して与える何物をも持っていません」と彼は答えた。
「私は人に“物乞い”して辛うじて生きているのであり、脚はこんな不自由であり、胃は悪くて身体は衰弱しているので、労働奉仕をすることも
 できません」

 光明思想の先生はこう言った。「あなたの肉体は弱くて労働が出来ないでも、またあなたが経済的に貧しくて何物も人に恵むことが出来ないでも、
あなたは、心でこの町の通りを歩む人たちに祝福の祈りをしてあげることはできます。
貧しそうな町の人があなたの前を通ったら、“神の豊かなる供給が今あなたに注がれています”と
その人の實相の裕かさを心で念じてあげなさい。若し病人があなたの前を通ったら、“神の完全なる健康が今既にあなたに実現している”と
實相の完全さを念じてあげなさい。すべてあなたの触れる機会のある人の幸福と健康と豊かさとを“既にある”として祈ってあげるのです。
すると、既に實相に於いてその人にある幸福と健康と豊かさとが呼び出されて来るのです。
そして、あなたのお陰でそれらの人たちは幸福・健康・豊かさ等を得られたと云うことになります。すなわちあなたは良き種を蒔いたのです。
良き種を蒔いたら、またあなたに良き収穫があるのです」

 こう教えられた彼は、その教えられた通りを實践することにして、町角を行く人々にいちいち“祝福の祈り”をささげることにしたのである。
それを一週間つづけて、八日目の朝になった。彼は眼を覚まして見ると、常に慢性の胃痛にくるしめられていた自分の胃から一切の不快感が消えさっていて、
神気爽快な気持ちがするし、頭は明朗な晴々した気持になっているので彼は驚いた。
彼は隻脚であったけれども、深切な人が出て来て、彼に適する仕事を与えてくれた。
また或る深切な人からは義足を贈られるし、両脚揃っている人のように快活にゆたかに働けるようになったと云うのである。

『無限供給の扉を開く』 谷口雅春 先生著   一部現代漢字変更投稿者記

45ももんが:2011/12/05(月) 22:06:08 ID:XXCuaQns
仏教聖典・第一章 史上の仏
第一節 偉大な生涯(2)


☆しかし、喜びの裏に悲しみもあった。マーヤー夫人は間もなくこの世を去り、太子は以後、夫人の妹マハープラジャーパティーによって養育された。
そのころ、アシタという仙人が山で修行していたが、していたが、城のあたりに漂う吉相を見て、城に来たり、太子を見て『このお子が長じて家にいられたら世界を統一する偉大な王となり、もしまた、出家して道を修めれば世を救う仏になられるであろう。』と予言した。
はじめ王はこの予言を聞いて喜んだが、次第に、もしや出家されてはという憂いを持つようになった。
太子は七歳の時から文武の道を学んだ。春祭に、父王に従って田園に出、農夫の耕すさまを見ているうち、すきの先に堀りだされた小虫を小鳥がついばみ去るのを見て『あわれ、生きものは互いに殺しあう。』とつぶやき、ひとり木陰に坐って静思した。
生まれて間もなく母に別れ、今また生きもののかみあう有り様を見て、太子の心には早くも人生の苦悩が刻まれた。それはちょうど、若木につけられた傷のように、日とともに成長し、太子をますます暗い思いに沈ませた。
父王はこの有様を見て大いに憂い、かねての仙人の予言を思いあわせ、太子の心を引き立てようといろいろ企てた。ついに太子十九歳の時、太子の母の兄ディウ゛ァダハ城主スプラブッダの娘ヤショーダラーを迎えて妃と定めた。


〜仏教聖典・3〜4ページ8行目〜

46ももんが:2011/12/05(月) 22:45:10 ID:XXCuaQns
仏教聖典・第一章 史上の仏
第一節 偉大な生涯(3)


☆この後十年の間、太子は、春季、秋季・雨季それぞれの宮殿にあって歌舞管弦の生活を楽しんだが、その間もしきりに沈思冥想して人生をみきわめようと苦心した。
『宮廷の栄華も、すこやかなこの肉体も、人から喜ばれる若さも、結局このわたさにとって何であるのか。人は病む。いつか老いる。死を免れることはできない。若さも、健康も、生きていることも、どんな意味があるというのか。人間が生きていることは、結局何かを求めていることにほかならない。しかし、この求めることについては、誤ったものを求めることと、正しいものを求めることの二つがある。誤ったものを求めると言うのは、自分が老いと病と死とを免れることを得ない者でいりながら、老いず病まず死なないことを求めることである。
正しいものを求めることというのは、この誤りをさとって、老いと病と死とを超えた、人間の苦悩のすべてを離れた境地を求めることである。今のわたしは、この誤ったものを求めている者にすぎない。』


〜仏教聖典・4〜5ページ9行目〜


※この文章では、仏教の根本の教えを表した文章がこれです。『人間が生きていることは、結局何かを求めていることにほかならない。しかし、この求めることについては、誤ったものを求めることと、正しいものを求めることの二つがある。誤ったものを求めると言うのは、自分が老いと病と死とを免れることを得ない者でいりながら、老いず病まず死なないことを求めることである。
正しいものを求めることというのは、この誤りをさとって、老いと病と死とを超えた、人間の苦悩のすべてを離れた境地を求めることである。今のわたしは、この誤ったものを求めている者にすぎない。』
この文章は、人間が、誰しも無意識で持つ心の状態です。普段、私達は誰しも、この意識から逃れること容易ではありません。
仏教では、この意識を捨て去る知慧を身につける教えを求めます。

47a hope:2011/12/06(火) 10:11:05 ID:kcv2QXTk
 
新版 女性の幸福365章 谷口雅春

p45〜

「愛は最高の贈物」

 真理を与えるのも尊い愛行であるが、愛そのものを与えるのは、それに劣らぬ愛行である。
多くの金持の父親や良人が、その子供や妻にただ欲しいものを買って与えてやるだけで、
愛を与えたと思い上がって、子供にも妻にも無関心にしている場合が応々ある。
そんな場合に、家庭の悲劇が起こるのである。母親が子供に対する場合も同じである。

 クリスマス・プレゼントに立派な腕時計を父親から貰ったお嬢さんが言った。
「こんな立派な腕時計を頂いたことは嬉しいけれども、もっと嬉しかったのは、
お父さんがやさしい顔をして、“Kちゃん”と言って抱いて下さったことだったわ。」
 愛はどんな立派な贈物より価値ある贈り物である。
 最大の贈物は「愛念」であって物質の大小ではない。
しかし、僅かな物質さえも愛情のしるしに出しおしみをしているようなことで
「愛念」をもっているということはできない。
どんな小さな贈物も愛念の象徴として立つとき、それは華麗な光彩を放つのである。

48「訊け」管理人:2011/12/06(火) 12:35:48 ID:W9ebvJaY
 「神を疑っているときこそもっとも、神が輝いているときです」
えー!てなもんですが榎本先生のご文章は、ホントおもしろいですね。

(引用)

 練成を受けている人が練成部に来られて「個人指導を……」といわれるので、先ずお話をうかがいましたが、「私は疑い深いもんですから……」と言われるのであります。こちらは「あなたが疑おうが疑うまいが、それとあなたが救われるか否かということ、また、神に生かされているかいないかということは関係のないことであります。あなたの“疑い”という心が邪魔になって神さまはあなたを救おうと思っても力がとどかないというのであれば、それはもともと神ではないのです。解らなければ、悟らなければ神はあなたをよう救わない、生長の家を熱心にやってくれなければ、神はあなたを救えないというのでは、神は全能ではないということになるのですよ。」と申し上げたのであります。

 「でも、先生、疑っていたら、せっかくある神のいのちが生きて来ないんじゃありませんか」といわれるのであります。
「そんなことはありません。知らない方がよく働くということがありますよ。たとえば、いつも申し上げますように、心臓などは、あるのが解らない、あるのが実感されないときがいちばんよく働いているんですよ。“ここにたしかに胃があるな”と実感出来るときは、胃の調子がおかしい時ですよ。あるかないか解らず、疑っているときの方が却ってよく働いているときなのです。その意味では、人間は神の子かどうかを疑っていられるときが、一番よく神の子の生命が輝いているときなんですから、安心して下さい」と申し上げたのです。

(終了)

※ なお全文は、榎本恵吾記念館・文書館(3)二十を。
http://homepage2.nifty.com/hanabira/

49ももんが:2011/12/07(水) 00:13:04 ID:XXCuaQns
仏教聖典・第一章史上の仏
第一節偉大な生涯(4)


☆、このように心を悩ます日々が続いて、月日は流れ、太子二十九歳の年、一子ラーフラ(羅喉羅)が生まれたときに、太子はついに出家の決心をした。太子は御者のチャンダカを伴い、白馬カンタカにまたがって、住みなれた宮殿を出て行った。そして、この俗世界とのつながるを断ちきって出家の身となった。
このとき、悪魔は早くも太子につきまとた。『宮殿に帰るがいい。時を待つがいい。この世界はすべておまえのものになるのだ。』 太子は叱咤した。『悪魔よ、去れ。すべて地上のものは、私たちの求めるところではないのだ。』太子は悪魔を追い払い、髪をそり、食を乞いつつ南方に下った。
太子ははじめバガウ゛ァ仙人を訪れてその苦行の実際を見た、次にアーラーダ・カーラーマとウドラ・ラーマプトラを訪ねてその修行を見、また自らそれを実行した。しかし、それらは結局さとりの道でないと知った太子は、マガタ国に行き、ガヤーの町のかたわらを流れるナランジャナー河(尼連禅河)のほとり、ウルウ゛ィルウ゛ァーの林の中において、激しい苦行をしたのである。


『仏教聖典』5〜6ページ9行目〜


※、今日のお話は、お釈迦が、お城を抜け出し、苦行に入るまでの話しです。一子ラーフラは、後に、密行第1の羅喉羅尊者の事で、釈迦十大弟子の独りとなります。

50ももんが:2011/12/08(木) 11:13:24 ID:XXCuaQns
仏教聖典・第一章史上の仏
第一節 偉大な生涯(5)


☆それは、まことに激しい苦行であった。釈尊自ら『過去のどのような修行者も、現在のどのような苦行者も、また未来のどのような出家者も、これ以上の苦行をした者はなく、また、これからもないであろう。』と後に言われほど、世にもまれな苦行であった。
しかし、この苦行も太子の求めるものを与えなかった。そこで太子は、六年の長き渡ったこの苦行を未練なく投げすてた。
ナイランジャー河に沐浴して身の汚れを洗い流し、スジャーターと言う娘の手から乳粥を受けて健康を回復した。
このとき、それまで太子と一緒に同じ林の中で苦行していた五人の出家者たちは、太子が堕落したと考え、太子を見捨てて他の地へ去って行った。
いまや天地の間に太子はただひとりとなった。太子は静かに木の下に坐って命をかけて最後の冥想に入った。『血も涸れよ、肉も爛れよ、骨も腐れよ。さとりを得るまでは、わたしはこの座を立たないであろう。』これがそのときの太子の決心であった。
その日の太子の心はまことにたとえるものがないほどの悪戦苦闘であった。乱れ散る心、騒ぎ立つ思い、黒い心の影、醜い想いの姿、すべてそれは悪魔の襲来といべきものであった。太子は心のすみずみまでそれらを追及して散々に裂き破った。
まことに、血は流れ、肉は飛び、骨は砕けるほどの苦闘であった。
しかし、その戦いも終わり、夜明けを迎えて明けの明星を仰いだとき、太子の心は光輝き、悟りは、開け、仏と成った。
それは、太子三十五歳の年の12月8日の朝の事であった。

〜仏教聖典・6〜7ページ〜



※12月8日は、『成道会』と行って。昔から、仏教国どこでもでも、御釈迦様のお悟りを、御祝いする、仏教行事の1つです。

日本でも、聖徳太子以来、皇族方始め、各、仏教宗派で、国民が、御祝いしてきました。
禅宗の寺院では、この時期『臘八接心』12/1〜8朝まで、御釈迦様のこのお話あわせて、坐禅三昧となります。

こういた、風習が、消えいったのは、明治維新により『仏教弾圧』が背景にあります。

現在、12月8日はハワイ海戦ばかり、持て囃しますが。
宗教をやるからには、聖徳太子以来の失われつつある、日本の心を、根本から、復興できるよう、こい願うしだいです。


願わくば、この功徳を持って、我等と衆生と、皆ともに、仏道を成ぜんことを。
(今日は、仏教式で、言いました)

皆さま、ありがとうございます。合掌、拝。

51「訊け」管理人:2011/12/09(金) 12:27:58 ID:W9ebvJaY

何かやりたくない事があったら、
毎日必ずそれをやることだ。
これが苦痛無しに義務を果たす習慣を
身につけるための黄金律なのだ。
―マーク・トウェイン

毎日、自己の嫌いなことを二つずつ行うのは、
魂のためによいことだ。
― サマセット・モーム

他人と比較して、他人が自分より優れていたとしても、
それは恥ではない。
しかし、去年の自分より今年の自分が優れていないのは
立派な恥だ。
―ラポック

52うのはな:2011/12/12(月) 17:16:48 ID:El6gIMAw

 『十三日の出発』 より   谷口輝子 先生著

・・・・十三日という日はどういう因縁なのか、何かしら私たち夫婦が行動を開始する日である。
行動といっても、さほど種類が多いのではなく、一口に言ったら「出発する日」なのである。・・
・昭和五十年一月十三日もまた新らしき生活への出発の日となった。

 同じ十三日でも、大正十二年と昭和五十年とは雲泥の差である。あの時の私たちは、浴衣姿で汗とほこりに
汚れた罹災民で二人きりで汽車に押しこまれての出発であったが、今度の私は夫につれられて絹の着物を着て、
多くの信徒たちから聖旗を振られ、「万歳、万歳」と歓呼されつつ、送られたのであった。
思えば無感量なるものがある。・・・今、五十一年後の十三日の出発は、意気揚々として旗を振って見送られ、
旗を振って出迎えられた。

 総裁は総裁室に迎えられた。誰の居候でもない。姉の家の縁側から望んだ雨晴(地名)の海、
総裁室から見下した大村の海、二つの海は、同じ地球の上にあるが、過去と現在と、見るものの心々によって
感じが異る。

 八十代の青年もこれからの人生である。大いなる理想を抱いて、いよいよ前進しよう。
あとには二十代三十代の青年がつづいて来る。

『光を見つめて』 谷口輝子先生九十年の足跡

53a hope:2011/12/15(木) 13:05:44 ID:kcv2QXTk

わたしは、本流宣言掲示板の、伝統さまの記事が大好きで毎日楽しみにしています。
そして、今までどれだけお勉強させていただいたか分かりません。
伝統さまとは、本流宣言掲示板で数回、お話させていただいたことがありますが、
とても温かくて、素敵な方です。

復興Gさま同様、わたしの中では、「真の生長の家の教え」を体得されている、大・大先輩なのではないかと思い、
心より尊敬させていただいております。そしていつも感謝の気持でいっぱいです。




>本流宣言掲示板の伝統さまの記事、「實相のひびきを直観すること」(3674)より


実相のひびきを直観すること。

周囲の色々の意見に惑わされてはならないのである。

わたしたちは謙虚に人々の意見を聴かなければならない。
しかし盲従したり、色々の意見に振り廻されたてはならないのである。

色々の意見はそれぞれの立場からみて相応の美点がある。
それらは全面的に排除してはならないが、また全面的に盲従してはならないのである。
採るべきものは採り、不適当なものは捨離し、神想観によって實相のひびきを直観し、
そのひびきに従って、みづからの判断を最も正鵠なるものにたらしめなければならないのである。

神想観なるかな、神想観なるかな。


「人生の秘訣365章〜天国を地上に実現するには(p214)」より。

54ももんが:2011/12/15(木) 19:14:33 ID:XXCuaQns
〜至上者の自覚ね神示・21〜22ページより〜

☆『生命の実相』を読むだけで色々な病気が消えたり、自動車事故などに逢いながらも不思議に微傷だも負はなかったというような実例が度々あります。そのような奇跡的ともいうべき体験を得ながら“生長の家”の誌友でなくなったり、聖使命会員から脱落していく人が随分あります。『往々あります』と言いたいところですが『随分あります』と言はなければならないことを私は遺憾に思うのであります。この神示は昭和七年四月号の『生長の家』誌の扉裏に発表されている神示でありますから、既に生長の家発祥の三年目にその傾向があらわれていたのを、神さまが気遣つていられとこのような警告的なお示しをしておられるのですだと考えられます。『生長の家』誌友を辞める人に二種類あると思います。『私は真理をさとつたから、このような奇跡的な治癒的を得た』というような増上慢の気持ちで、『もう私は人間・神の子の真理を悟り終わったから、神誌も聖典も読む必要はない。誌友を止めた方が誌代も会費も納入せずにすむから、それだけでも利益である』と思つて誌友を止める人が第一種類の人であり、第二種類の人は、最初から『病気治して貰いたい』(お金儲けや、自分の希望を叶えたい人も同じ)と思って来て、自分の心の持ち方の誤りを指摘されて、その指摘された方面だけの心を持ち帰ることによって病気が治ると、最初『病気を治す』という目的を達成したものだから、病院を退院するのと同じよに、『生長の家』の誌友であることを止めて去って行く人たちであります。このような第二種類の人は随分多いのでありまして、これは指導する講師が単に『心の法則』を説くことだけで病気を消滅せしめるために起こる弊害でありまして、人を病苦から救うことも大切でありますけれども、もつと必要なのは生命の永遠性を知らしめ、人間・神の子の真理を自覚病苦のみならず、人生一切の苦悩を脱却して地上に天国浄土をつくる運動に挺身する菩薩の境涯に至り得るまで充分の真理を知らしめる事でありまして、この程度まで充分真理を覚らしめないで、ただ病気治しだけで突き放してしまうのでは、宗教の講師としては慈悲のないことだと言はなければならないのであります。別に講師が『病気を治しただけで突きはす』のではなく、先方が『病気が治って去って行く』のでありますけれども、このような指導をしているのでは、結果に於て『病気を治して突き放した』と同じことになるで、講師たる者は、病気が消えるように心の持ち方を指導すると同時に末永く『真理の文章』に親しみ、常に一層『真理』を深く悟る機会を失わないよに、年極めの『生長の家』誌友になるように導いてあげることが、『法施』即ち『真理を布施する』重大な布施行となるのであります。
〜以下、省略〜


雅春先生の言葉から、神示の講話を読むに、どんな、講話の素晴らしい講師や信徒でも、教団を離れてしまうのは、慈悲の無い行為とも読みとることができます(^_^)


生長の家教団は、住吉大神自然に、今のように、されたのだから、消滅するなら、自然に消滅するのです。栄えるなら、なお一層栄えるのです。従って、教団を辞めたと言うこと、住吉大神様から、自然に拒絶された、人々であるともいえる(^_^)


総裁が、雅春先生だろと、雅宣先生だろと、他のだれだろと、それは、あまり関係ない、只今、現時点において、雅宣先生であるのだから、仕方ない事である。
全ては、住吉大神様の御心を受け入れられるか?られない自分の心が有るかだけである。

55a hope:2011/12/16(金) 08:57:26 ID:kcv2QXTk

わたしは、教団を退会してしまったので、直接、神想観の指導を受けることができません。
ですから、雅春先生のCDを聴いたり、「詳説 神想観」を読んだりしながら一人で実習しています。

「本流宣言の掲示板」に掲載されている「神想観」についての記事は、とても勉強になるので、大変ありがたいです。
プリントアウトして、書き写しながら、毎日、勉強させていただいています。
以下は、童子さまが 2010年11月21日におそらく、「本流復活掲示板」に書き込まれたものを、伝統さまが、あらためて投稿されたものです。
とてもお勉強になったので、ここにまた、書き写させていただきます。

合掌。


本流宣言掲示板の記事「『神想観』してますか?」(210)より


生長の家の勤行の一つ『神想観』でありますが、
『生命の實相』にはどう書かれ説明されているのか・・・
(宇治の吉田武利先生が抜き出されていました)

◎神想観は生長の家の神から私が直接授かったものであります。
◎神想観は「無想観」にあらず、「疑念」にあらず。
◎神想観は神の力、仏の力なり。
◎神想観はその使命を以ってあらわれた守護の神に護られて行う何よりも完全な行法である。
◎心と視力を集めて実相を静観するのが神想観である。
◎神想観は「ハイハイ有難うございます」の修行で少しも難しい事はないのです。
◎神想観の祈りは絶対他力への帰命信頼の表白である。
◎与えられた勘定書きを正確に承認するのが神想観である。
◎神想観は『実相観』なり。
◎実相上に坐して修するのが神想観である。
◎神想観は全身が真理と成る為なり。
◎神想観こそ最高の祈りである。
◎神想観は「祈り」と「観法」の調和し合体したものである。
◎神想観は神と二人切りの対座なり。
◎神想観は永く別れていた親子の対面なり。
◎神想観の中にのみ永遠なる依り処を吾々は見出す。
◎神想観にまさる喜び、幸福は他にない。
◎神想観は諸佛現前三昧なり。
◎神想観は祇管結観実相なり。
◎神想観は他力、自力を絶した「絶対力」である。
◎神想観は実相が実相を念ずるコトバの大行なり。
◎神想観は往相精進の行なり。
◎神想観は求める場でなく与える場である。
◎神想観は「證上の修」なり。
◎忙しくて「睡眠時間の足りないような時ほど却って神想観」をなすべし。
◎人類光明化運動の基礎となるもの―それは神想観である。
◎・・・(以下略)


(そのあと、童子さま?が、以下のコメントがされてます。)

生命の實相の拝読、聖経甘露の法雨読誦、神想観

この三つは師谷口雅春先生と私たちとの約束事だと思うのですが、
ここ数日間の書き込みをみて、とても痛感しました。

もっと本を読んでください。 答えは書いてあります。
もっと神想観をしてください。神が導いてくれます。

頓首再拝



わたし a hope は、これを読んだ時、本当にそうだと思いました。

「生命の實相」の拝読、「聖経甘露の法雨」読誦、「神想観」 この、3つがなくなったら、「生長の家」ではないですよね。
反対に、この3つさえあれば、どこにいても「生長の家」なのではないかと信じて毎日ひとりでがんばっています(笑)。

56うのはな:2011/12/16(金) 18:33:08 ID:El6gIMAw
まだ、「真理の光」は『生命の實相』が千二百万部、真理の諸雑誌が合計毎月百二十万部ぐらゐで世界の人口三十三億に
対しては、九牛の一毛にも達しないのである。
ところで最近『豪華携帯版・生命の實相』四十巻が出揃うたので、今度は、
書架愛蔵版『生命の実相』紺布装金箔押し渦巻模様の荘厳な表装で第一巻から配本せられることになつた。
携帯版や頭注版は、携行に便利なために、最初の原本一冊を二巻に分冊して軽量にしてあつたので
全四十巻であつたが、この書架愛蔵版は、最初の原本に戻して一冊を部厚くして書架に飾つて、書斎又は客室を、
此の實相の真理の光で満たして頂くとありがたいと思ふ。


『明窓浄机』生長の家 昭和四十五年 十二月号 谷口雅春 先生著

※ 現代かな漢字に投稿者変換 記

57うのはな:2011/12/17(土) 04:34:57 ID:El6gIMAw

 西田天香先生の示された伝道の範例
 
 わたしは伝道のきびしさを憶うとき、いつでも一燈園の創始者西田天香先生の聖なるきびしさを思い出すのである。
天香先生の嫡子保太郎氏が重症で、いつ臨終となるやも測り知ることが出来ないで近親者がその机辺に集っているとき、
天香先生は「人類が私の救いを求めて私を呼んでいるのだ。私はその方に赴かねばならぬ。
それがまた保太郎の菩提のためでもあるのだ。さようなら」といって危篤の子供を残して人類救済のために旅立って行かれるのであった。

 それは最近親者たる母に向かって「われ汝と何の関係あらんや」と淡々と言い切って、
「わが時はいまだ来らず、また時が来たら会おうよ」と十字架上で母と再会する約束をせられたイエスの心境とよく似ているのである。

 義は重く、真理伝道の使命は重く、肉親の愛情はそれに比べれば軽いのである。


 『生長の家』誌 昭和四十八年三月号 九〜十一頁 谷口雅春 先生

58うのはな:2011/12/17(土) 04:50:01 ID:El6gIMAw

  組織づくりの名人となるには

『あなたが大なる事業を為そうと思うならば組織づくりの才能を身につけなければならないのである。
人体が四百兆以上もある細胞が一つの完全な生理作用をいとなむ組織体として活動出来るようになっているのは
“神”という上手な「組織づくりの名人」がそれを設計してつくったからなのである。

“神”はまことに上手な「組織づくりの名人」なのである。
事業や社会上の組織は、人間の才能の適当な配分によってつくられるのであるから、人間の才能や性格を見る眼が
開かれなければならない。そしてこの“才能”をどこに配置し、この“性格”をどこに配置するかを決定しなければならない。

 しかしそれらの組織づくりの知恵というものはどうしたら得られるのであろうか。
それは生まれつきの天分というものもあるけれども、人間は「組織作りの名人」であるところの
“神”さまの子であるから、常に神想観して神と融合し、神と一体感を得ることによって、
組織づくりの名人的知恵もおのずから授かることになるのである。』


『理想世界』誌 昭和四十七年十一月号から抜粋 谷口雅春 先生 著

59ももんが:2011/12/17(土) 05:49:27 ID:XXCuaQns
皆様、おはようございます。本日も、うれしく、楽しい、朝が、やってまりました!(^_^)さあ、元気、楽しい、御愛行、感謝行に、励みましょう!ありがとうございます。合掌、拝。(^_^)


どんなに、『生命の実相』たくさん読まれても、毎日一日も欠かさず『神想観』してもいつしか、靈は、やがて、汚れてしまうものである(^_^)

『禊祓い』し靈を綺麗して、神様とのより良い、関係を作ることで、いっそう、良くなると言う事がわかりました(^_^)


〜『神 真理を告げ給う』より(神様の言葉です)〜

『わたし』は実相である。『わたし』はあなたの実相である。『わたし』は永遠に存在する実在である。『あなた』の実相は『わたし』であるから永遠に存在するものであって金剛不壊の存在なのである。本当のあなたは不滅の存在なのである。


〜以上、神様からの、御言葉です。(^_^)

文中の『わたし』は雅春先生でなく、神様です(^_^)


では、神様の存在を無視せずに、常に、ご先祖と父母に感謝をとうして、私の存在のありがたさに

『ありがとう、ございます』と、祈りましょう(^_^)

では、皆様の、身元に、神様の御加護が、ありますように、ありがとうございます。合掌、拝。

60うのはな:2011/12/17(土) 06:14:22 ID:El6gIMAw


 『理想世界』(昭和五十六年二月号)に祖母・谷口輝子先生は次のような文章を載せている。

 毎朝五時十五分前に起き出ると、私は夫の身のまわりのことと、自分のこととを調え終ると、縁側のガラスの戸を
サッと開ける。大空が小屋根にさえぎられて見えにくいので、私はそこに座りこんで、首を低くして大空を仰いで見る。
(略)大小さまざまの星たちが無数にまばたいている。星の並び方が日ごとに変化していく。

 まるで生きもののように、星たちの位置が毎朝移り変っている。星たちは、毎朝我が庭を訪れて、大空高く遊歩しているようである。
地球と同じ銀河系宇宙に住む星たちだもの、私たちの仲間なのである。
 私たちが、はるばると出かけて行かなくとも、彼ら星たちは、何億という大多数で、毎日私たちの庭へやって来てくれる。
楽しいことではないか。

 私は月の世界に足をかけようとは欲しない。生きている間に、「月の世界にお連れしましょう」と誘われる時代が来るかも知れないが、
私は行きたいとは思わない。索漠たる砂漠のような月世界を踏むよりも、地球世界から、神々しく輝く月を仰いでいる方が楽しいと思う。
富士山だってそうである。紙屑と空缶のゴロゴロしているという山上を歩くよりも、白雪をかむった崇高な姿を、はるかに遠く下界から仰ぐ方が、
心が清まるような心地がする。

 昭和五十一年七十九歳のとき長崎の総本山の公邸にお住まいを移されるまで、祖母は東京のご自宅で、早朝神想観を終えられると割烹着をつけ、
髪を手拭で整え、毎朝決められた場所のお掃除をされていた。風の日も、雪の日も、こんな湿っぽい・・・と思われる雨の日も、ご文章にあるようにサッと
戸を開け放ち、調子のよい音をたててハタキをかけ、掃きだし、廊下や柱を力をこめて拭いていられた姿を思い出す。
定期的に畳の拭き掃除もあって、私もお手伝いに上がって拭いていると、「そんなんじゃなく、もっと力を入れて!」と、
拭き方やネル地の雑巾の使い方を教えられた。

 
 『谷口雅春師に捧げる誓いと信仰』P152 宮澤 潔・宮澤壽美 共著 ジュピター出版

61うのはな:2011/12/17(土) 16:58:14 ID:El6gIMAw

  大東亜戦争に際して

 大東亜戦争のときに於いて、連合軍が欧州戦線を速かに収拾せんがために出動したけれども、
適当な上陸地点がない。イタリーの南端シチリー島を上陸地点として選んだが、其処には堅固無類の
トーチカ陣があり、白人の軍隊も黒人の軍隊も皆全滅した後に、最後に選ばれたのが、ハワイの日本民族第二世の
軍隊で、時の生長の家ハワイ白鳩会長たる宮川和子さんが祈りをこめた生長の家の聖経『甘露の法雨』をポケットに入れ、
「我れ『甘露の法雨』と共にあるから敵弾では傷つかない」との信念をもって上陸に成功し、
『甘露の方雨』に機関銃弾が当りながら傷つかなかった兵隊が沢山あったと云うのである。

 その為に連合軍が速やかにヒットラー軍を爽撃して欧州戦線を収拾することができたのでありました。
このためアメリカでは「こんな速かにヨーロッパ戦線が片付いたのは日本民族のお陰だ」とて
日本民族に対する尊敬と好意の念がさかんに起ったので、戦後、内地の日本人が食糧に困窮し産業資金に窮乏している時に、
ガリオア資金の名の下にて食糧を供給してくれたり、エロア資金の名の下に日本の産業復興資金を供給してくれたりして、
現在のように天之岩戸景気から更に行き過ぎてレジャーブームを湧き立たせる程になったのも、日本の重大時期に際して
聖経『甘露の法雨』を吾々に授けられた住吉大神が如何に日本民族に恵福を与えるために活動せられたかが分るのであります。


『白鳩』誌 昭和37年4月号74頁  谷口雅春 先生

62うのはな:2011/12/17(土) 17:01:04 ID:El6gIMAw
 >61 訂正箇所

 方雨 × 法雨 ○

63ハマナス:2011/12/18(日) 07:33:15 ID:u5mC.eb2
素晴らしい神の子の皆さま、おはようございます。

今日も朝から素晴らしいお天気です。今日も張り切って、人類光明化の為に、
精進してまいりたいと思います

「心を尽くして自己の霊なる本体を求めよ。
 神の子人間の上には、神の法則のみ支配す。
 迷いを去り汝の生命が神の生命なる実相を諦観せよ。」

愛念の持続が人格の匂いを放つ==人格の匂いとは、その人の人格から不断に立ちのぼって
いる雰囲気によるのです。人に深切をしてあげる愛念、よき行ないをつむ精進(しょうじん)よき想念を重ねる正思惟(しょうしゆい)、すべて心に描かれた姿は永遠に潜在意識に蓄積されていて、それが一団となって特有の雰囲気となり光を放つのです
(谷口雅春著『新版 真理』第6巻より)

Cherish loving thoughts within your heart. Then your personality will radiate
an exquisite aroma.

64雌雄会:2011/12/18(日) 15:58:06 ID:nBoNxzMc
ここの板は素晴らしい。
ありがとうございます。

65うのはな:2011/12/18(日) 18:13:51 ID:El6gIMAw

 神武天皇の建国に際して

● 神武天皇様が日向の高千穂の国にいまして、これより何処に都を作れば
八紘一宇の世界を建設するに都合がよいかと考えていらせられた時に、白髪の塩土翁
と云うところの老翁の神が現れて、『東の方に美し(うまし)国あり、かしこへ行きて
都を造りたまうたならば必ず世界を統一することが出来まする』
こう申上げ奉って道案内申上げた。此の東道の神様が塩椎神であります。

『生長の家三十年史』20頁

● 神武天皇様が日本民族を統一国家となさるにあたって導びかれたのが塩椎翁即ち塩椎大神
 (住吉大神)である。

 『實相研鑽Ⅱ』 193頁

66うのはな:2011/12/18(日) 19:27:58 ID:El6gIMAw

  組織における愛の問題

 たしかに現象人間には、色々の欠点もあるものだ。弱点をもっている人も多いし、失敗もあるであろう。
それをお互いに助け合い、補い合って行くのが組織活動の本質である。
間違った因果関係を念頭において、成功したためしはないのである。ことに人事問題に関してはそうである。
先入見をすてよう。小さな個人的利害にひっかかって、全体的「聖使命」を忘却してはならないのである。

 吾々は個我をのさばらせて、自我の見解に執していてはならない。
自分と他人とが意見の対立を生じたとき、自分が「正しい」と思うのは誰しもである。
その反対であれば、最初から議論にならないからである。しかし、いくら自分が「正しい」と思っていても亦
「正しい」と思っていることを考えるならば、お互いに相手を「わからずや」だと考えるだけでは、不十分である。

「相手がわからずやである」という一つの「因」から「対立意見」が出る場合もあるのであろう。
しかし「対立意見」は「相手がわからずやである」というたった一つの「因」からのみ生ずるのではないのである。
もう一つの「因」は「自分がわからずやである」という場合である。

 さらにもう一つの因は「両方ともわからずやであった」という場合である。
さらにもう一つの「因」として、双方とも言っていることは正しくても、対立見解を生ずる場合もありうる場合を
知らなければならないのである。

『聖使命』新聞四十四年六月十一日号より一部抜粋

67うのはな:2011/12/18(日) 20:26:48 ID:El6gIMAw

 真理を伝えられた恩を忘れてはならない

 生長の家の神様は罰を与えないけれども、自分自身で自己処罰して罰を当てるのです。
人間は「肉体」ではないのですから、霊であったら、普遍的の存在であり、自他一体でありますから、
他を生かすようにしていれば自分が生きて来るようになるのです。他を生かすことを止めて利己的になり、
互いの恩愛を遮断するようになると、大生命の流れがそのままに現象化しないで病気があらわれます。

「人間、神の子、自他一体」の真理を自覚していない証拠です。
「報恩行に就いての神示」にありますように、吾々は、神様の真理を知らしてもらう機縁を与えて下さった
橋架けになった人 真理と縁を結んでもらった人に対して、その恩というものを忘れてはならないのです。

 生長の家の誌友は生長の家という縁を通して、神様を知らしていただいたのでありますから、
「もう真理を知ったから、私は神様と直通だ。もう生長の家など通さないでよい」などと恩を遮断すると、
其の生命を断ち切る心の反映として、現象的に病気その他の不幸があらわれて来るのです。

『神 人に語り給う』 谷口雅春 先生著

68うのはな:2011/12/20(火) 15:03:28 ID:El6gIMAw
[ 指導者となるための指標 ]『生長の家』昭和二十五年六月号・巻頭言

一、 汝のもてるすべてのものを以って強力に前進すべし。今の瞬間に汝の凡ゆる未来がかかってあるかの如く今
  手近にある所の仕事に集中せよ

ニ、 進歩発達は責任の加はる毎に増加するのである。自から求めて責任を負うべし。これを避けるべからず、人生を
   一大冒険と考えよ。

三、 明日希望する所の仕事のために、今日を用意せよ。そのために常に受けるよりも一層多くを与うべし。
   これが成功に到る大道である。

四、 常に静かなる自信をもちて行動し、常に次のことをモットーとせよ。
  「常識を逸脱せず周囲と調和し而も勇敢に行動せよ」大いなる成功は常に「敢えてなす勇気」を要するのである。

五、「行き届く」という良習慣を発達せしめよ。すべての細部にわたりて行きとどく習慣こそ成功の生きた要素である。

六、 凡ゆる材料をあつめて沈思熟考したる後、断乎と決意せよ。

七、 誰が世間の名声を獲得するかについては思ひ煩うこと勿れ。

八、 何事もどんな忠言にもよき聴き手たるべし

九、 命令を与えたり対決を表明する前に他の人の意見を悉くきけ。それ迄は自からを表す勿れ。

十、 これはほめる値打ちがあると気がついたならば速かに賞賛せよ。非難すべきことが必要ならば
   ひそかにその人のみに語れ。

十一、 人の犠牲に於いて自からも利せざる様注意せよ。一時の個人的な利益よりも友人同僚の協力こそ
    永遠に尊き価値があるのである。汝の好まざる人をよく深切に導け。
    而して彼らの美点をほめることを試みよ。

十二、 決して不平の心をおこすべからず。心の曇りを毎日きれいに拭い去るべし。
    寛容雄大の精神を教養せよ。

十三、 自分を悲しみの心を以て汚すな。必勝の態度を常に保て。クロムウェルのモットー
    「思いを深くして感謝せよ」に従うべし。

十四、 今日一日の生命と思いて生きるべし。取越苦労はいらぬのである。

十五、仕事の合間、ほっとした時にニ、三回深呼吸を行いて精気を新たならしむべし。

 (米国の光明思想実践運動D・I・Aの標語より)

69うのはな:2011/12/20(火) 15:21:38 ID:El6gIMAw

  神さまの教えをひろめるには
 
 神さまの教えをひろめるには“純粋な献身”が要求されるのでありまして、ただの
「売れたら好い雑誌」の出版とは異るのであります。それがただ「栄える企業」としてはじめるのだったら、
 無論、その企業収入の中から自分の生活費も、休養費も娯楽費も出してよいのでありますけれども
“純粋な献身”が要求されるところの宗教の伝道に於いては、少しでも利欲的又は利己的動機が含まれておりますと、
 宗教というものは、その伝道者が神様からの放送を受信するアンテナになり、それを発声するラジオ・セットのスピーカーに
 ならねばならぬのでありますから、伝道者の精神態度が一寸でも不純になると、完全に神さまからの教えの放送を受信できない
 おそれがあります。そして神様からの純粋の放送が受信できないで、他の低い霊魂などからの放送を混信することになるならば、
 その宗教は生命なきものとなり崩れ去るのであります。

『到彼岸の神示』149頁  谷口雅春 先生 著作

70うのはな:2011/12/20(火) 16:27:31 ID:El6gIMAw

 生きて歩む宗教

 仏教も、旧約も新約も、人の内にやどる聖書又は如来が存することに於て一致するのであるが、
それが単に学説として、一種の宗教哲学として、単に人間の知的理解の対象となっているだけでは人間を
具体的に救済することは出来ないのである。

 生長の家が一宗一派を唱えず、あらゆる宗教に共通する真理を説きながら、
「一切衆生悉く仏性有り」の“仏性”を実生活に活用するように教えるところに独特の発展があるのである。
 つまり生長の家の特色を通俗語をもって表現するならば、それは、実生活に生きて歩む宗教であり、実用的仏教であり、
 生活応用キリスト教であるということである。

 『人生を支配する先祖供養』6頁  谷口雅春 先生著

71うのはな:2011/12/20(火) 17:40:45 ID:El6gIMAw

  天使の霊の宿っている人々

 そこへ集って来る霊の多くは、肉体の脳髄にも真理を悟らせて人を救いたいという
熱願ある「高級霊」の方が多いのであります。こういう人を救いたい熱願をもっていられる
「高級霊」の宿っている人を「天使の霊の宿っている人」と申されているのであります。
既に真理を悟っている高級霊(菩薩に当たる)でも、その宿っている肉体の頭脳が真理を知らないと
大変都合が悪い。人生に於ける行為は霊と肉体との協同動作によって行なわれるのですから、その人の
霊魂だけが高級霊で、肉体の脳髄は「真理」を知らないのでは可けないので、霊魂は、其処に生長の家の
道場が出来たとか、講習講演会が催されるとかいうことが肉体の眼にとまると、内部から「何となくその
講習会講演会に行きたい」という念を起こさせる。

 この場合、肉体の脳髄が「講習に参加しよう」と思ったようだけれども、実は内部霊魂の導きによる催しである場合が
多いのであります。斯ういう人たちが道場に集って講話をきいていると、神の力を至現するための模範的奇蹟的治癒のような
ことが起こるのであります。治癒と言っても、単に病気だけのことではありません。
悟りによって悪い運命が好転に一転するのも治癒であります。

 不調和な家庭生活が調和に一転するのも治癒であります。そのような奇蹟が「手本」となって他の人々が神の存在をみとめて悟りに
入る媒介となるのであります。このようにして無数の奇蹟的治癒の行われる道場へ来ても、何ら神徳を受けることのできない人もないことは
ありません。「愛の心で来るものは神徳を受けて帰るが、審判く心や素見し(ひやかし)心で来るものは、神の心と波長が合わぬから其の心が
直らぬうちは神徳は受けられぬ」とあるのであります。

 即ち心の波長が神の波長に同調すれば、神の御徳が現象界にカゲを映して来るのであります。
それで「神徳」と書いてオカゲと振仮名することもあります。

 実相に於いては人間は万徳円満でありますが、現象界に於いてオカゲが得られるか得られないかは、
その人の心次第ということになるのであります。

 『到彼岸の神示』174〜182頁より部分的に抜粋 谷口雅春 先生著

72うのはな:2011/12/20(火) 19:32:07 ID:El6gIMAw

  戦後日本を支えて来られたのは谷口雅春先生  菊池藤吉(元生長の家本部理事・青年局長)
 
 まさに世界の中心である日本、その日本の中心のお伊勢さまを救われる大偉業、これが谷口雅春先生の
お声がかりによってできたのだということであります。
 一体、どれほどの日本人が谷口雅春先生のお力で救われたことでしょう。
そして、戦後の日本国家は滅びても仕方のないほどの痛手を受けながらも生き延びてきました。
日本が曲がりなりにも天皇陛下をいただいてここまで復興してきたことに、一体、谷口雅春先生のお力と生長の家の
皆さんのご努力がどれほどの救いとなったでしょうか。そうでなければ、あの日本共産党が発行している赤旗新聞の発行部数の
巨大さを考えてみますと、日本をあのままにしていたら、そして、もし谷口雅春先生おわさなければ、日本はどうなっていたか、
考えただけでも鳥肌が立つ思いが致します。

 共産党は皇居まで乗り込んでいって「米よこせ運動」までやりました。
「天皇は白飯を食っている。我々は麦飯を食っている」と騒いだのです。しかし本当は
昭和天皇様は我々と同じような粗末なご飯を食べておられていたことが、今では周知のこととなっております。
余談になりますが、この運動を指導したのが徳田球一さんでした。徳田球一さんという人は日本共産党党員の中でも
純情な人でした。宮本顕ニは非常に陰険な人で、それこそあの北朝鮮のように平気で同志を殺しております。
けれども、宮本顕ニと違って、あの徳田球一さんは顔を真っ赤にしてすぐ腹を立てる人でした。
しかし、正義感というか私情で人を脅したりしない人でした。とにかく、あれだけ腹を立てるものですから、前に紹介しましたように
マイナス感情で水でさえも腐ってしまうのですから、本人の体の水はどんなに腐っていたか、晩年は中国へ行って中国で死にました。
徳田さんは全身ガンで亡くなりました。なるほど、水は変わるのだということはこのことからでも分かります。

 徳田球一さんは日本共産党の中でも愛すべき人で、沖縄の出身でした。だから徳田球一さんの奥さんが、沖縄の日本復帰後に二度ほど沖縄にある
お墓にお参りになりまして、私が沖縄にいることを知って連絡をいただき、一緒にお墓参りをしたことがございました。

 それはともかく、私がはじめて生長の家に導かれた頃は、前にも少し申し上げたことですけれども、大調和の神示の中に「皇恩に感謝せよ」という
言葉があるが、折角のこの素晴らしい生長の家の教えも、この「皇恩に感謝せよ」があることによって、若い人たちが受け付けないのではないかと思いまして、
若気の至りと言いましょうか、谷口雅春先生におこがましくも「ここだけは削除した方が・・」と申し上げたことがありました。
谷口雅春先生は「いやそれが大事なんです」と言われまして、それから私は真剣に谷口雅春先生の愛国書を拝読するようになりました。
今は谷口雅春先生のご著書の中でも、『限りなく日本を愛す』というご本は本当に紙がヨレヨレになるくらいに拝読致しております。

 日本の実相というものは、いかに素晴らしいものであるか。「久遠天上理想国実現の神示」には、
「今の世界で実相世界の常住性を形に顕し出しているのはただ日本の国ばかりである。生滅常なき現実世界が変じて久遠実相世界の
 常住性を顕現するには、常住性ある国がひろがりて常住性なき国を包みて、十六方位の世界を一つの常住性ある永遠滅びぬ世界としなければ
 ならぬのである」とあります。そして、「声字即実相の神示」には、
「『生命の實相』を展開(ひら)けば形の理想世界が成就するのである。今は過渡時代であるから、仮相の自壊作用として色々の出来事が突発する」
とあります。今のこの時代は、神示が示された時代同様、過渡期でございます。
そういう時代だからこそ、やはり私たち、直接谷口雅春先生の御教えを受けた者が中心となって、今こそ声を上げなければならないのではないかと
つくづく感じている次第でございます。

『谷口雅春先生を学ぶ』平成15年12月号 P20−22

73うのはな:2011/12/21(水) 06:46:49 ID:El6gIMAw

 谷口雅春先生

 みなさんのお話をきいておりまして、非常に打たれたのであります。こうして、ここに千人余の人が
集っておられて、その一人一人がみんな神様のみ心をその個性に従ってうけて、そして、個性を発揮することに
よって、神様の目的を聖使命として生きたいという、信仰深い念願をもってここに集っておられる。
その生命の拍動とでもいうものを感じまして非常に打たれたのであります。

 一つには、皆さんの話をきいていると、イエス・キリストが言った“我みずからにては、何事も為しえず”、天の父が
我にいまして御業をなさしめ給うのである”こういったですね、みなさんは、このイエスの言葉そのままを生活に体験して
おられるように感ずるのであります。“我みずからにては何事をも為しえず”、その根本はどこにあるかというと、
「物質はない、肉体はない」、というところの生長の家の教えの根本から出てくるのであります。

“我みずから”という場合の“我”というのは、肉体の“我”であります。
肉体の“我”はですね、これは五尺何寸、十何貫の、その小さい物質の塊の、その一部分である脳髄の力で、何をやろうと
思っても、本当は何もやる事はできないですね。

 そこで観の転換、自分を如何にみるかという、この観の転換が、そこに出てこなければならないのですね。
それで、この現在の物質的、肉体の自分というものを、否定する。
“我みずからにては何事をも為しえず”と。その裏には、物質はない、肉体はないというね、この世界観、人生観、
存在観とでもいうものがですね本当にわからなければ、ならないわけなんであります。
それをわからすよう出てこられたのがこれがスミノエノオオカミ、スミヨシノオオカミであります。

つづく

74うのはな:2011/12/21(水) 07:14:32 ID:El6gIMAw

 ヨハネ伝の第三章には、ユダヤの長老のニコデモというのがイエス・キリストがいろいろの
奇蹟を行うのをきいて、どうぞ教えをたれ給えと申しあげたら“人、新たに生まれずは、神の国を
得ることをあたわず”とこう言っているんですね。生まれ変わるといっても、もうこの年齢になったら再び、
お母さんのお腹に入って生まれかわることはできませんと言ったら、新たに生まれるというのは、
そんな事じゃないんだと。人は水と霊とによらなかったならば、生まれかわる事はできないのである、
水っていうのはね、洗礼のことで、当時はヨルダン河に全身を突っ込んで、肉体はないという象徴行事をして
再び浮かび上がってきた時に、その時に、生まれかわる。もう肉体はなくなって、肉体の有様を見せているけれども、
そう見えているだけであって、本質は霊的存在であると、イエスは教えたのであります。

 また、創世記の第一章には、「はじめに神、天地を創り給えり、地は形なくして、闇わだのおもてにあり、神の霊、
水の面をおおいたりき」と、こうかいてありますね。ここに神の霊と水との対決がある。
この水というのは、まだ天地創造の前でありますから、地球に沸いているような水じゃないんです。
水という言葉によって象徴されているところの、姿形なく、どんな色もなく匂いもなく、どんな形にでも変貌して、方円の器に
従ってどんな形にでもなるところの、“無”ですね。“無”この“無”にならんとね、この神の霊がそのアイディアを、思うままに実現すると
いう事はできないわけなんです。

 我々が神様からアイディアをうけ、それを実現するのには自分が“無”になる事です。
自分にはまだ何かがある、我がある、あるいは自分はこういう肉体という物質であるという、物質的観念というような
邪魔者があったりすると、ほんとに“無”にならんのですね。“無”にならんと、神様からの放送を完全にうけとることができない、
という事になるわけでありますね。


 昭和53年2月28日 全国代表者会議 谷口雅春先生結語

75うのはな:2011/12/21(水) 13:26:14 ID:El6gIMAw

『生命の實相』を必ず読む日

 生長の家では外界をただ「自心の展開」として自由自在に駆使し得るようになるのであります。
(『生命の実相』第七巻)

 四祖の道信は好んで「大般若経」を読誦した。今でも禅宗では「大般若経」の繙読は非常な功徳があるとせられている。
「大般若経」の理趣分には『生命の實相』に説く真理と同じことが書いてあると云うことを私は『生命の實相』で指摘して置いた。
四祖は或るとき馬賊のような群盗に自分の寺を囲まれたが、「大般若経」を一心不乱に誦していると、その寺を無数の軍隊が取巻いているような
幻像が群盗の眼に映じたので、群盗は一物も掠め得ないで逃げ出したと云うことが伝記にある。

 こんなことは『生命の實相』を私自身が書いて私自身がその色々の奇瑞を見るまでは、作り話だと思っていたが、今なら、
それが作り話ではない、本当の話だと云う気がする。
 道信は或る日黄梅山で一人の異相ある少年に出逢った。道信から声を掛けて姓名を訊いた。
「姓名なんか訊いて何にするのです。姓名は本来空です。本性は変るものではありません」
「本性は、何と申すか」「本性は仏性です」
少年の此の答に道信は感心して、其の場で彼を弟子にした。少年は後の五祖弘忍である。

 『光明道中記』P216 谷口雅春 先生著

76うのはな:2011/12/21(水) 18:32:30 ID:El6gIMAw

“輝子”という名前は、父又一氏が尊敬していた閨秀歌人の片山輝子からとられた。
それは片山輝子の文学的詩才にあやかり、輝かしい生涯を送ってほしいという父の娘に対する
切なる願いからであった。その願いを受けてか、輝子先生は作文が得意となり、女学校時代を通して
文学に非常に親しまれた。

 そしてこんな文学好きの輝子先生であったから、女子大の国文科へ行くことを希望されたが、家庭の事情で
断念された。

・・・ 私の父がもっと長生きしてくれたり、私の親がもっと金をもっていたりして私が女子大の国文科を出ていましたら
今頃は小説家になっているか、女学校の国語の先生になっているかしておりまいたかも知れません。
そしたならば、私は谷口先生に出会うことはなかったのだと思います。

『女性の理想』より  谷口輝子先生九十年の足跡『光を見つめて』P10

77雌雄会:2011/12/21(水) 20:25:16 ID:tWP7OEjY
霊供養入門 運命は改善できる 谷口雅春
303頁より
霊前で聖経を読む前に、次のように呼びかける人がいる。
「祖先の霊魂よ、お前は迷っていて、迷いの霊波を送ってくるので困っている。この聖経を読んであげるから、それをよく聴いて悟りを開いて、もう二度と迷いの霊波をわれわれに送って悩ませないようにしてくれ」しかし、以上のことを言ったり、思ったりして聖経を読誦しても、真理を吟誦しても、効果がないことがあるのである。なぜかというと、現実界の人間に対してでも「お前は迷っているから、そんな拙い生活を送るんだ。この「生命の実相」の本を読んで、もっと立派な人間になれ」などと、相手の悪をみとめて、軽蔑的語調で言ったり・・・ 続く。

78ハマナス:2011/12/22(木) 00:01:59 ID:u5mC.eb2
みなさま、こんばんは。

先輩の皆様の活発な意見を拝見しております。ありがとうございます。
真剣に生長の家の事を考えられ、人類光明化と言う大きな目標に向かって
いらっしゃるからこそ、色々な意見が出るのだと思います。
本当は、お互いに尊敬されているのですね。


「ともかく、この自分一人の力で生きているのではない。五尺の身体の化学作用で
生きているのではないということがわかってみますと、人間は今までこせこせした
貧民窟の裏小路から、大生命の大通りへ出た感じがするのであります。
人を恨んだり憎んだり腹が立ったり悲しんだりするのも、元を探れば恐怖心から
でありまして、自分だけの力で生きている有限な力で生きているのだから、あんな
ことをされてはこちらの力が減ると思うから起こるのであります。

どんなに人が自分に損をかけても、自分は無限大の大実在につながっているという
大自覚がありますれば、人間は損を損と感じない、無限大からいくら差し引いても
やはり無限大が残るからであります。また一時は損を感じても、やがてそれだけ
低くなったところには無限大の生命の泉の貯水池からまだ流れ込んできて、前と
同じようにぷかぷかと生命でも富でもできてくるのだということがわれわれの「覚めて
心」だけではない、隠れている「傾向の心」全体にも確認できるようになってきますと、
それこそ無限の落ちつきー心の底たましいの底からの平和と安住とが湧いてくる
のであります。」


『生命の実相』第8巻P.8から

79志恩:2011/12/22(木) 10:03:01 ID:.QY5jUA6
ハマナスさま

いつもながらの、すばらしい前向きのコメント、ありがとうございます。
今は、いろいろな意見がでるから、いいのですよね。
目標は,生長の家の人類光明化ですものね。佳くなるしか、しかたありませんものね。

80ハマナス:2011/12/22(木) 11:56:59 ID:u5mC.eb2
志恩様

素晴らしいコメントをありがとうございます。
必ず良くなると信じて、今日も白鳩会活動を頑張ります!!

感謝合掌

81ももんが:2011/12/22(木) 14:33:45 ID:XXCuaQns
>>78ハマナス様へ


ハマナス様、いつも、素晴らしい、投稿、ありがとうございます。合掌(^_^)

『傾向の心』

こないだ、練成会の輪読でも、教わりました(^_^)


ハマナス様の言われる、とうりですね(^_^)

ハマナス様の、言われるとうりに、この、トキ様の掲示板の素晴らしい特長は、たくさんの、色々な、カラフルな意見が、生き生きと、ぶつかり、見た目は、喧嘩、してるみたいだけど、生命の息吹きを、感じる点ですね(^_^)


素晴らしいでしょ(^_^)


これが、生きた、生命の実相ですね(^_^)


生命が生命を磨きあってる(^_^)


方や本流を見てください(^_^)

雅春先生の本の教え説いていますが、型を破る事が出来ない。まるで、氷の教えです(^_^)


批判したわけでは無く、生命とは、文章ではなく、生き物であり、生長する存在と、言う事ですよね(^_^)

ハマナス様に対し、生意気言って、すいません。(^_^)


また、色々、しますが、温かい心で、見ていて下さい(^_^)
ありがとうございます。合掌。

82雌雄会:2011/12/22(木) 15:40:41 ID:tWP7OEjY
霊供養入門 運命は改善できる 谷口雅春
304頁より
相手の悪をみとめて、軽蔑的語調で言ったり、「よく勉強せよ」とか「よく修養せよ」などといって『生命の実相』を与えても、それでは反抗心が起こって、『生命の実相』の本を突き返して来るかも知れないのである。これと同じことが祖先の霊たちにも起こるのであって、「お前は迷っているから、この真理のお経をききなさい」では、いくら聖経を読んであげても霊魂たちは聴きに来ないかも知れないのである。

それだから祖霊に対して聖経を読むときには、ただ尊敬と感謝の念をもって「今までもいろいろと子孫が受けて来た密れたる御恩、陽なる御恩に対して、ただ感謝のためにこの真理のお経を霊界に対して放送しますから、どうぞお受け取り下さいませ」と誦えて、゛ただ感謝 の念をもって読誦するのがよいのである。

83ハマナス:2011/12/22(木) 23:18:57 ID:u5mC.eb2
ももんが様

ご丁寧なレスをありがとうございます。

ももんが様も練成会の輪読で『傾向の心』を読まれたのですか。(^_^)

<ハマナス様の、言われるとうりに、この、トキ様の掲示板の素晴らしい特長は、たくさんの、
 色々な、カラフルな意見が、生き生きと、ぶつかり、見た目は、喧嘩、してるみたいだけど、
 生命の息吹きを、感じる点ですね(^_^)

 素晴らしいでしょ(^_^)これが、生きた、生命の実相ですね(^_^)
 生命が生命を磨きあってる(^_^)

ええ、素晴らしいですね。さすがに、大先輩のももんが様、素敵なことばをありがとうございます。

明日は天皇誕生日です。
一般参賀は、天皇誕生日と新年1月2日の年に2回だけです。
皆様の中にも毎年皇居に行かれている方もいらっしゃると思いますが、
是非、一度は一般参賀に行かれることをお奨めいたします。両陛下を初め、ご皇族様に
お目に書かれる絶好のチャンスです。
ただ、感動で、身が引き締まり、日本に生まれて良かったと思います。



宮内庁のホームページからの情報です。


午前の一般参賀

午後の一般参賀(記帳)

期日: 平成23年12月23日
参入門: 皇居正門(二重橋)
(午前9時30分〜午前11時20分)

退出門 :坂下門,桔梗門(ききょうもん),大手門,平川門,北桔橋門(きたはねばしもん)

お出まし(予定)

○天皇皇后両陛下,皇太子同妃両殿下,秋篠宮同妃両殿下,眞子内親王殿下

 第1回 午前10時20分頃 
  第2回 午前11時頃
 第3回 午前11時40分頃

【午後の一般参賀(記帳)】
場所 :皇居内 宮内庁庁舎前特設記帳所

参入門
坂下門(午後0時30分〜午後3時30分)
退出門
桔梗門(ききょうもん),大手門,平川門,北桔橋門(きたはねばしもん)(閉門:午後4時)

天皇誕生日と新年の一般参賀でしか、
両陛下、ご皇族様方にお目にかかれません。

84ハマナス:2011/12/22(木) 23:22:09 ID:u5mC.eb2

すみません。誤字がありました。

×お目に書かれる絶好のチャンスです。
○お目にかかれる絶好のチャンスです。

感謝合掌

85ハマナス:2011/12/23(金) 08:06:36 ID:u5mC.eb2

皆さま、おはようございます。ありがとうございます。
今日は天皇誕生日にふさわしい素晴らしいお天気です。
皆さまにとって、心穏やかな日でありますように。


十二月二十三日    明朗歓喜の日   (『光明道中記』p.393より)

  朗らかに笑って生きよ。陽気の充ちた家は必ず生長する。(『生命の實相』第四巻)

「人間の貧しき原因は、彼の心の不調和より来るのである。彼の心の弱さより来るのである。心不調和なれば、事業に於いても仕事に於いても精確なる判断をすることが出来ない。

また適用に物事を推し進めることが出来ない。すること為すこと不適用となるのである。心弱ければ最後の踏ん張りがきかないで肝心のところで崩折れて了うのである。

また心弱ければ思い切るべき時、思い切ることが出来ず、果断である時に果断である

ことが出来ない。失敗すべきことに何時までも恋々としていて新生面を開くことが出来ない。成功の要素として欠くべからざるものは、調和の心と、強さの心とである。

  では調和の心は如何にして養い得るか。すべての隣人と調和することである。

先ず自分の家族、親類等と仲よくなることである。これらの人々と調和することによってのみ、吾々は神と調和することが出来るのである。神と調和することによって、

神からの叡智が流れ入る。神からの叡智が流れいることによって、押し進むべき時には

勇敢に押し進み得、退くべきときには調和して退き、思い切るべきときには果断に断念し得るのである。」

86ももんが:2011/12/23(金) 10:20:18 ID:XXCuaQns
〜花園法皇御宸翰〜


☆往年先師大燈国師の所に在りて、この一段の事に於て休歇を得たり。特に衣鉢を伝持する後、報恩謝徳の思い、興隆仏法の志、寤寐にわするることなさ。しかれども心事依違し、今に未だ其の願を遂げず。頃年病痾纏牽、旦夕期し難し。空しく溝壑にうずもば永劫の恨み、何事かこれに如かん。よって一流再興并に妙心寺造営以下の事、仙洞に申し置くの子細これ在り。縦い一瞬を過ごすとも、必ず平生の志を満たしむべし。門徒の中其の任、佗に在らず。遠慮を廻らし、興隆の願を果さるべし。故に鳥跡を遺して蓄壊を述ぶる者なり。

貞和三年七月二十二日

関山上人禅室


※上記は、臨済宗妙心寺派の聖典の妙心寺・開基 花園法皇様の御言葉です。

1、妙心寺は、花園法皇(花園天皇)様の、御所を、寄進により、仏法興隆の天皇様の志から建て御寺です。

2、関山上人室とは、妙心寺開山である、無相大師の室内、禅室の事で、老師の部屋です。

3、大燈国師とは、関山無相大師の師であり、花園法皇の師でもある。臨済宗大徳寺派の御開山です。大徳寺は、一休さんや、千利休で、有名です。

※、本日は、天皇誕生です。天皇誕生を各地の、御寺や、神社でも、お祝いしてます。御皇室は、昔から、仏法興隆を言われ来ております。皇室と仏法の興隆が薄くなってたのは、やはり、近年です。

87「訊け」管理人:2011/12/23(金) 13:56:16 ID:W9ebvJaY
弊ブログより
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65616219.html#more
本日のBGM:サラ・ブライトマン

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「総裁を追い出す方策」あります。下記は聖典に掲載されている「追放策」
となりましょうか。さて、総裁追放に向けてやるべきこととは何なのか?
「悪あり」「それを除去すべし」の考え方は果たして、機能するのか?
(註:やや方便的に表現されておりますため、愚生意見とやや趣きが異
なります)
――――――――――――――――――――――――――――――――

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                                             .  :  . . .
<「迷い」はどうしたら消えるのか>

 心の「迷い」を無くするには、「迷い」を捉えて破壊しようと力む事は要
らないのである。それは却って自分の心が「迷い」を掴むことになって益々
大いに「迷う」ばかりである。「迷い」を無くする唯一の道は、心を「迷い」
から一転せしめて、「人間」の本来完全なる相を見詰めるようにすれば好い
のである。自分の病気を癒すには、自分の病気を見詰めないで、自分の実相
の完全さを見詰めれば好いのであるし、他の病気を治すには、彼の病気を治
そうとか、病気をどうしようとか思わないで、ただ彼の完全さを見詰めれば
好いのである。全世界の人々が、ただ、他の善のみを見詰めるようにすれば
忽ち平和は来るのである。

 〝自分が〟祈る力や、自分の思念力によって不幸や病気を退散せしめよう
などと思ってはならないのである。われわれが善き言葉で祈り、善き想いを
想念したならば、あとは神が成就したまうのであると知らなければならない
のである。それは種を蒔くのと同じことである。善き言葉又は善き想念を述
べることは、大宇宙の創化力の沃地に、善き種子を蒔くことになるのである。
その種子を育て生長せしめたまい実を結ばしめ給う力は神にあるのである。
吾々は自分の力で、蒔いた種子から茎や葉を引張り出そうなどと考えてはな
らないのである。「吾れはただ善き想念の種子を蒔く、これを育てたまうの
は神の力である」と念じて、静かに神に全托せよ。

『幸福を招く365章』186項

88ももんが:2011/12/23(金) 14:54:11 ID:XXCuaQns
もうすぐ、クリスマス。カトリックの祈りの言葉をたくさんの紹介します

『聖母マリアへの祈り』

恵みあふれる聖マリア、

主はあなたとともにおれます。

主はあなたを選び、祝福し、あなたの子イエスも祝福されました。

神の母聖マリア、

罪深いわたしたちのために、
今も、死を迎える時も祈ってください。

アーメン。


『元后あわれみの母 』

元后、あわれみの母、

われらの命、喜び、希望。

旅路からあなたにさけぶエバの子

嘆きながら、泣きながらも、
涙の谷にあなたを慕う。

われらのために執り成す方、
あわれみの目をわれらに注ぎ
、尊いあなたの子イエスを、
旅路の果てに示してください。

おお、いつくしみ、恵みあふれる、喜びのおとめマリア。

89ももんが:2011/12/23(金) 15:04:15 ID:XXCuaQns
『キリストの魂』(アニマ・クリスティ)

☆キリストの魂、わたしを聖化し、

キリストの御体、わたしを救い、

キリストの御血、わたしを酔わせ、

キリストの脇腹から出た流れ出た水、わたしを清め、

キリストの受難、わたしを強めてください。

いつくしみ深いイエスよ、

わたしの祈りを聴き入れてください。

あなたの傷のうちにわたしをつつみ、あなたから離れることのないようにしてください。

悪魔のわなからわたしを守り、

臨終の時にわたしを招き、

みもとに引き寄せてくだい。
すべての聖人とともに、いつまであなたをほめたたえることができますように。

(ロヲラの聖イグナチオ)

90ももんが:2011/12/23(金) 15:12:52 ID:XXCuaQns
『家族の祈り』

☆わたしたちの父である神よ、
わたしたちの家族にくださった、

すべての恵みに感謝します。
わたしたちが互いに耳を傾け、
支え合うことができますよに。

怒り、争い、不安におちることなく、愛と、喜びと、平安のうちに、

ゆるし合えますように。

悩んでいるほかの家族のさまざまな思いに

心を留めることができるように、

わたしたちの心に愛を注いでください。

何よりも、わたしたちの家族が、

あなたの愛と一致のしるしとなりますように。

私たちの主イエス・キリストによって。

アーメン。

91ももんが:2011/12/23(金) 15:29:02 ID:XXCuaQns
『平和を願う祈り』

☆神よ、わたしをあなたの平和の道具にしてください。

憎しみのあるところに、愛を
いさかいのあるところに、ゆるしを

分裂のあるところに、一致を
迷いのあるところに信仰を

誤りのあるところに真理を

絶望のあるところに、希望を
悲しみのあるところに、喜びを

闇のあるところに、光をもたらすことができますように。
神よ、わたしに、慰めらるよも慰めることを

理解されるよりも、理解することを

愛されるよよりも、愛することを望ませてください。

自分を捨てて初めて自分を見いだし、

ゆるしてこそゆるされ、

死ぬことによってのみ、

永遠の命によみがえることを
深く悟らせてください。


※カトリックの祈りの中でも、私、ももんが、最も、心から、大切にしてる、祈りの言葉です。

本当に、宗教の真髄を表してた言葉で、この言葉を実践できるなら、聖者といえると思いす。

本来、宗教とは、こう言うものです。

93ももんが:2011/12/23(金) 15:56:52 ID:XXCuaQns
トキさん(;_;)

92>のレス消して下され(ToT)
まちがい投稿です(;_;)


早めに尾根ゲーします(;_;)

94ももんが:2011/12/23(金) 17:38:44 ID:XXCuaQns
『最も重要な掟』

一人の律法学者が進み出、イエスに尋ねた。

『あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。』

イエスはお答えになった。

『第一の掟はこれである。

『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心尽くし、あなたを尽くし、思いをつくし、力をつくして、あなたの神である主を愛しなさい。』

第二の掟は、これである。

『隣人を自分のように愛しなさい。』
この二つにまさる掟は他にない。』
(マルコ 12 28 38 )


※、この掟は、生長の家の全て信徒も、聴くべき、神様のメッセージであります。

イスラエルとは、決して、イスラエル民族の事ではなく、人類全体と捉えて、よい、言葉です。

95雌雄会:2011/12/24(土) 13:01:06 ID:nBoNxzMc
秘められたる神示 P57 最後の審判 に就いての神示 谷口雅春

 キリスト再び臨りて審判くとは今のことである。
キリストとは肉体にあらず『真理』である。キリストとは
肉体にあらず、『光』である。
肉体のわれの臨るを待ち望むな。吾れは既に此処に臨れるに
非ずや、吾れは道である、真理である、光である。
『真理』来ってまよいを審判き、『光』来って暗黒を審判き、
すべてのまよいと暗黒とを地獄の火に投げ入れてこれを焼き滅ぼす。
今こそ最後の審判であると知れ。されど恐るる勿れ、吾が宗教は
恐怖の宗教にあらず。
まよいを焼かるる者は却って生き
まよいを焼かるる者は却って光をあらわさん。
病ひは癒やされ、悩みは消えん。焼かるる者は『汝』にあらずして
、『にせものの汝』であるからである。
『にせものの汝』は神より出づるにあらず、神より出でざる汝は
実在にあらず、実在に非る汝はその真相を暴露して消滅せん。
わが臨れるは『真』と『偽』と、『実在』と『虚妄』とを選り
別けて、『偽』と『虚妄』とを永久に非実在=ぢごくの中に葬り
て封印を施さんがためである。(昭和六年九月二十八日朝神示)

96「訊け」管理人:2011/12/24(土) 16:08:52 ID:UodBcqiE
自己の内に神を観た者は恐怖を超える。(『生命の實相』11巻)

 世の中には悪人さえ極楽往生を遂げるのに、いわんや善人が極楽行きは当然だと云う人があるが、これは如何にも表面そのように思えるけれども、実際は反対である。何故かというと普通善人と云うのは自力作善の人ーすなわち自分の力で今日は斯う云う善行を励みましたと云うように、「“わたし”が善をしましたから救われる資格がある」と云うような人である。ところが、その「“わたし”」なるものは本来無いのであって、一切の善はただ大本体たる弥陀の御徳のあらわれである。
 「“わたし”がした」などと云うものは世の中に一つもない。それだのに「“わたし”がした」と云うのは大の偽善者であるから、かえって救われないのである。「悪人成仏」の悪人は、「わたしはこんな悪をしたから救われる」と云うような「罪悪誇り」の人間ではないのである。だから「他力をたのみたてまつる悪人」と親鸞聖人は注釈し給うたのである。「他力をたのみ奉る」とは、「自分には何の力もないのだ。すべての『善』は神力、仏力によるのである」と自己を謙る人を言うのである。自分に何らかの善が行じられるならば、仏力が廻向(えこう)して自分にやらせて頂くのであると知るが故に「自力修善」を誇ることがないのである。



『光明道中記』256項

                         -─- 、
                          /      i
                         /   ,.ッ;:"  ト、
                      `ト  ラ'"   -、} ヽ
                      l= / =-  レ /   }、
                       { /      ノ  /  }、
                           トt _-、   /!   /  / }\
                      ノi ヽ     /      / /i  ヽ
                   ,. '´  ! `r'"´ノ     i  / |   i
                    /  |    }  ヽ/     / / /|    l
                     /   l.   i   /    / / ./ .l |/   l
                  /     l   ヽ /   / .//  !ノ    l
                  / i    !___ /ミ)'´  //    | __,ノ  l
                  /   `>'´ (/,ノ ′ //   , '´       l
                     //     | r   r─ 、 __/<´ ̄`ヽ.    l
                  / ./    | |  {    }}  ヽ ヽ、   \   |
                    / ./     l l   `ー ´「 |   l    !       |
             //     / /      l. |     !   ヽ      |
親鸞上人

97「訊け」管理人:2011/12/24(土) 16:10:39 ID:UodBcqiE
 宇宙の本体の中に在する救わずにおかない大慈悲そのものが「弥陀の誓願」
であって、それは人間の思慮を超えたるものである。すなわち「誓願不思議」
である。

 その「誓願」が吾々の“いのち”の内部に廻向(えこう)し来って「念仏
申さん」という思い立ちが起るのである。

 だから吾等が「念仏申そう」という心が起ったとき、その心の中に「救わ
ずにおかない弥陀の誓願」が既に宿っているのであるから、既に「摂取不捨」
(すくわずにおかぬ)なのである。

『光明道中記』249項



                         -─- 、
                          /      i
                         /   ,.ッ;:"  ト、
                      `ト  ラ'"   -、} ヽ
                      l= / =-  レ /   }、
                       { /      ノ  /  }、
                           トt _-、   /!   /  / }\
                      ノi ヽ     /      / /i  ヽ
                   ,. '´  ! `r'"´ノ     i  / |   i
                    /  |    }  ヽ/     / / /|    l
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 もう上人ってば、ホント天才。

98「訊け」管理人:2011/12/24(土) 16:14:48 ID:UodBcqiE

 念仏は人間自身のはからいによって称えるのではなく、絶対他力ー時空を
超越せる絶対神大実在の、救わずにおかない大慈悲力が廻向(えこう)し来
って、念仏となえる行となってあらわれるのであるから、念仏の進むところ
天の霊、地の霊もこれを敬いたまいて平伏し、魔界外道、仏界以外のものも、
何ら念仏の前には障りとなる訳のものではない。

『光明道中記』262項



 ・・・クリスマスイヴに親鸞を読んでいる、「訊け」管理人です。キリスト
も親鸞も天才でしょうけども、あらためて思うのが雅春先生の天才性です。
ホントに雅春先生って、何者なのでありましょうか。

 すごい人だよなあ、ホント。

99ひか:2011/12/31(土) 20:25:36 ID:0szYu2bo
  ひかりの言葉

  WORDS OF LIGHT

上段より1987年〜1998年
  までの31日付け日訓


 要らぬものを掴むな
要るものが入って来ない

Do not grasp the unnecessary.
The essentials
will not come to you.


 八方塞がりの時も
神様の方向が開いている

Even when every path is blocked
the way to God is open.


仕事を通して神の愛を伝えよ

Convey God's Love through
your work.


その人の光明面のみを
観るのが「愛」である

To see only the bright side
of a person is love.


正しく信じる者は癒される

Those who believe with proper
faith will be healed.


他(た)の人の幸福を見て喜ぶ心が
       本心である

Our real mind sees and rejoices
in the happiness of others.


最後まで堪えしのぶ者は勝つ

Those who endure
to the end will succeed.


人は「赦し」の大きさによって
    計られる

A person is judged by the
greatness of his forgiveness.


「今」の時間を生きるのが
 人生最大の悦びである

To live the present moment is the
greatest joy of human life.


素直に信じ、行ずる者が、
最後の勝利者となる

Those who are honest and
obedient in their faith and
practice will succeed in the end.


我れは神の子、神の無限の
  富の後継者なり

I am a child of God―the heir
to God's infinite wealth.


 愛の前には敵がない、
すべてのものが味方となる

In the face of love there is
no adversary.
Everyone becomes a friend.

100みそ:2011/12/31(土) 20:34:42 ID:0szYu2bo
      禊祓祝詞講義

どの宗教でも本来その教の来る本源たるものに達したならば、同じであって、一神一切神、一佛一切佛となるのであります。さて、序文はこれくらいにいたしまして「禊祓之祝詞」の本文に入ります。短いものですから全文一寸読んでみます。

「高天原に神留坐す。神魯伎神魯美の詔を以ちて、皇御祖神伊邪那岐命筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に身禊祓ひ給ふ時に生坐る祓戸の大神等、諸々の枉事罪穢を祓給へ清給へと申す事の由を、天津神国津神八百萬の神等共に天斑駒の耳振立てて聞召と畏み畏みを白す。」
「たかあまはらにかみつまります。かむろぎかむろみのみことをもちて、すめみおやかむいざなぎのみことつくしのひむかのたちはなのをどのあはきはらにみそぎはらひたまふときになりませるはらひどのおほかみたち、もろもろのまがことつみけがれをはらひたまへきよめたまへとまをすことのよしを、あまつかみくにつかみやほよろづのかみたちともにあめのふちこまのみみふりたててきこしめせとかしこみかしこみをもうす。」
  〜    〜   〜
それで「天津神国津神八百萬の神等共に天斑駒の耳振立てて聞召せ」と、私たちは、時間の経過をとおして、どうぞ徐々に、あまり激しい自壊作用なしに、此の世界を光明化して、浄化して下さいませ、と斯う云う風に祈り申し上げる言葉が禊祓の祝詞なのであります。これで禊祓の祝詞は終わっているのであります。
     禊祓祝詞講義 主に祝詞本文と最終文 『實相と現象』                              


     世界平和の根本となるもの

世界の平和は権勢欲や、自分の属する団体の勢力拡大欲によっては、得られるものではないのである。世界のどこかで争いが起こり、戦争が起こっているところを注意して見よ。そこには権勢欲と勢力拡大欲によってその目的を達するためには相手を傷つけることを何とも思わぬ残忍刻薄の人間によって指導されていることを見るのである。そのような自己拡大欲によっては決して平和は来たらないのである。平和は、真理によって魂が輝かされ、そのような争いの愚かさを知り、すべての人間を、唯一の神より出でたる兄弟姉妹であると知り、一人の人でも傷つくことを、自己みずからが傷つくごとく悲しく思う人々の殖(ふ)えることによってのみ起こるのである。どの山からも、どの国からも、どの寺院からも、どの協会からも、どの人種からも、どの民族からも、"唯一つの神"のみを拝し"唯一つの神"のほかに、別々の神なきことを知ることによってのみ得られるのである。

釈尊は「山川草木国土悉皆成仏・有情非常同時成道」と悟られたが、山も川も草も木も国土も、情(こころ)在るものも情(こころ)なきものも、その奥に同時に(今此処に)宇宙本源の神やどると悟られたのが釈尊である。山や川や草木にすら、同時に神やどるのであるのに、すべての宗教の講堂に、教会に、寺院に、唯一の普遍的親様なる神が宿らないでいる筈はないではないか。
     人生の秘訣365章 <完>


     新年を迎える心の準備

あなたの心のうちに新年を迎える準備が出来ていますか。今年もよく三百六十五日を無事に過ごすことが出来ましたのは神様、あなたのお陰でございます。神に感謝致しましょう。御先祖様に感謝致しましょう。父母(ふぼ)に感謝致しましょう、夫又は妻に感謝致しましょう。家庭の、又は勤め先の、協力者すべてに感謝致しましょう。みんなを心の中に思い浮かべて、しみじみと心の中で御礼を申しましょう。今年一年の間に過って何か不快な思いをさせたことがあったかも知れませんが、どうぞそれをお赦し下さいと念じましょう。この感謝と懺悔とによって、今年一年じゅうにあったすべての思いと行いとが清められるのです。そして来年になすべき善き事のプログラムを定めましょう。では皆さん、ご機嫌よう。
     幸福を招く365章 <完>


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