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生長の家政治連合と「今の教え」を考える

432ぼるぼ:2011/08/28(日) 20:13:43 ID:53N5DOFY
再生すべき生政連の展望として、聞け管理人さんが榎本恵吾の唯神実相論をベースにする試論を書いている。

初期生政連時代、玉置や村上たちは、教団を草刈場として捉えていた。その反映が青年会における理誌100万部という虚しい数字追求運動にまで影響していたであろう。

そこで、生政連やかつての青年会における数の論理が自壊した今、唯神実相論という基本に帰り再出発しようと。

さはさりながら、歳をとると、歴史を振り返り、愚かな選択をしなければならなかった時代も懐かしいのである。反省をし、温故知新する余裕も必要だろう。


再度鈴木邦男ブログから。

 僕らが学生の頃、森田征史さんが生学連の委員長、僕が書記長だった。全国をオルグして回った。全国の大学で生長の家学生会をつくり、サークルをつくり、そして自治会に進出しろ!と説いて回った。長崎大学では安東巌、樺島有三、犬塚博英といった人々が中心になり、左翼と闘い、自治会をとった。「長崎大学に続け!」というわけだ。(その後、安東氏は生長の家本部に入り、樺島氏は「日本会議」の事務局長。彼の後輩たちが「新しい歴史教科書をつくる会」の事務局に入っている。犬塚氏は右翼・民族派の大物になった)
 長崎大に続き、広島、大分などでも自治会をとり、「よし!民族派全学連をつくろう!」と気運も盛り上がっていた。その時の民族派全学連委員長には犬塚氏が内定していた。しかし、これは日学同との内ゲバでつぶれてしまった。
 ちょっと話が先走った。全国を回り、「自治会に出ろ!」とハッパをかけていた時だ。「はい、やります」といって果敢に挑戦し、別府大学の自治会委員長になったのが井脇ノブ子さんだ。僕が政治への目覚めを引き出したのかもしれない。
 その後、昭和44年5月、生学連が中心になって、幅広く民族派学生を結集する「全国学協」が出来る。この時、僕が委員長、井脇さんが副委員長だった。しかし、直後に内ゲバが起きて、あわれ、無能な委員長は解任されてしまう。指導者として能力がないし、やる気がないと断罪されたのだ。それから僕の苦難の時代が始まる。そして一水会をつくることになる。その辺の詳しいことは『増補版・新右翼』(彩流社)に書いている。

 一方、井脇さんは、政治家を目指して、選挙に出続けるが、何度やってもダメ。「もう無理だから、やめなよ」と皆に言われていた。しかし、今回、7回目にしてやっと初当選。これは嬉しかったでしょう。
 井脇さんを励ます会には学生時代の仲間も来ていた。元生学連の松下昭氏、田村司氏も来ていた。田村氏は元「楯の会」でもある。今月11月24日の野分祭では記念講演をお願いしている。田村氏は、全国を回り、楯の会会員たちの軌跡をまとめた『火群(ほむら)のゆくへ』(鈴木亜絵美著・柏艪舎発行)の監修をしている。これは実にいい本だ。
 昔の仲間たちと、昔話に花が咲いた。「学生の時から、井脇さんは男に間違われてたよなー」と。そうなんだ。「男のくせに何で髪を伸ばしてるんだ!」とか、「男のくせに女便所に入るな!」とか言われちょったよなー。
 街頭でチラシ配りをしたり、デモをしたり、ビラ貼りもした。ある時、夜中、ビラを貼ってたら、お巡りに見つかり、僕らは逃げた。運悪く、井脇さんが捕まった。お巡りが後ろからタックルして、とりおさえたのだ。後ろから抱きついたら、ムニッとして柔らかい手触りがする。「ありゃ、おめえ、オナゴか!」とビックリしたそうな。

・・・・・・・・・・・・・・・

今の日本、菅は怨嗟の中職を追われたが、後釜に前原なろうと海江田がなろうと救いはない。

若い元気な政治家もいるが、年功序列制度の厚い壁をぶち破るほどの力がまだ足りない。

むかしを懐かしがっていても仕方がないのであるが、ここはたかが掲示板である。

心の動くままに書くだけ。その、自由を謳歌するのみ。


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