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破邪顕正スレッド(長文向き)
1
:
若鷹の掲示板 管理人
:2009/01/09(金) 18:32:18
日顕宗や顕正会、さらに他宗、そして幅広く『一切の邪義』の破折が目的のスレッドです。
『史実・教義の考察』用スレッド に書くまでもないものの、連続した長文であったりする場合などにお使い下さい。
2
:
公爵(旧ハンネ)
:2009/01/11(日) 12:00:35
【創宗相対】
昨年末に「若鷹の掲示板」にて、「沖浦問題を考察する」を公開させていただいた。その中の「その3 議論に勝つには?」について、もう少し述べさせていただきたい。
まず「その3 議論に勝つには?」について、私は「議論はハヤクヤレ」と唱え、アメリカの大富豪・デール・カーネギーは「議論に勝つには議論を避けた方が勝つ」と唱えたが、両者の考え方はほぼ同じである。デールは、「議論や論破では人を変えることはできない。人を変えることができるのは思いやり・同情・愛だけ」と言った。つまり、「議論はハヤクヤレ」も「議論に勝つには議論を避けた方が勝つ」も結論は、
■ 「議論で論破だけでは人を変えることはできない。人を変えることができるのは慈悲だけ」だということだ。
御聖訓に、「されば日蓮が法華経の智解は天台伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども難を忍び慈悲のすぐれたる事はをそれをもいだきぬべし(開目抄・202P)」とあるように、法華経を理論の上において、正義の言論でもって他宗を破折する「法華折伏・破権門理」の実践は、天台大師・伝教大師が第一人者であり、大聖人ご自身は「千万が一分も及ばない」と謙遜されている。
しかし「難を忍び慈悲のすぐれたる事はをそれをもいだきぬべし」と仰せになるのは、天台・伝教が実践した「正義の理論」を、そのまま末法で実践するものではないという意味が含まれ、だからこそ、末法の衆生は慈悲の振る舞いでしか救済できないと仰せなのである。
また御聖訓には「一念三千の観法に二つあり一には理二には事なり天台伝教等の御時には理なり今は事なり(治病大小権実違目・998P)」と、理(理論)による他宗破折ではなく、「事」つまり「慈悲」であり、その違いを明確にされている。簡潔にいえば「慈悲の信心と行動」でしか、人を変えることができない、救えないということだ。
不思議なことだが、議論好きの人はなかなか「慈悲」という肝心なところに到達しない弱点があるのは面白い。私も随分時間がかかった。
私が樋田氏と二度目に対談した時、私は随分と樋田氏の話をじっくり聞いてあげたのに、最後まで「慈悲」の話が出なかったので、私が先に出してしまった。「ありとあらゆる問題・宿業を持つ人々を慈悲でもって包容する」というものだ。やはり「人を変えることができるのは慈悲だけ」なのだ。
確かに樋田氏は「議論の達人」かも知れない。が、慈悲の対象ではない。その樋田氏や法華講を「議論で論破する」などと考えるのは、愚の骨頂と言うべきである。私がはっきりさせたいのは、「論破」をもって勝敗を決めるのではなく、「慈悲」という仏法根本の到達地に先に着くのはいずこか?ということなのだ。境涯の違いさえはっきりさせればそれで十分と考えたのである。
その「慈悲」という問題を、どう自分の言葉で簡潔にまとめてゆくかが大事なのだが、これがなかなか難しい。法華講は「慈悲」の話すら満足にできたためしがないし、一度も聞いたことがない。それは、創価学会員にしかできない信心だからである。
後にデール・カーネギーの本に出会って、自分の考えが正しかったことに確信できた。本当に福運としか言いようがない。
学会員を議論で論破することを快感とする法華講は修羅界、一方、議論ではなく「慈悲の境涯」で行動する創価学会員との比較相対をもって、「創宗相対」とする。
最後に何度も言うが、人を変えることができるのは「慈悲の信心と行動」相手に対する「心遣い」そして、相手の苦しみを我が苦しみとする「同苦の信心」だけが成しえることなのである。
3
:
公爵(旧ハンネ)
:2009/01/11(日) 12:29:05
昨年12月31日に「若鷹の掲示板」で公開した内容を再掲します。
【沖浦問題を考察する】 その3 議論に勝つには?
阿部日氏に言い忘れていたが、彼は私が自分の名誉欲と自分を偉く見せるために、樋田氏を私の地元に呼んだと「とんだ誤解」しているようだが、まったくの見当違いも甚だしい。プレ大会の6月まで、月一度に私の地元に来ていたのは彼ら「妙相寺一派」である。樋田氏の誘いを受けたのは私だからだ。昨年12月から二度の誘いを受けたが、こちらの仕事上のシフトの関係で調整できず、3度目で誘いに応じたのである。これが事実なので誤解せぬように。
■ 私が樋田氏に最初会った時と、二度目に会った時の私の違いは、「1+1=2は当然ではないか(本果妙)と言う凡人と、1+1はなぜ2になるのか(本因妙)?と疑問をもつ発明王・エジソンの幼少の頃」のようなものだ。
1+1は確かに「2」が正解だ。しかしそれを「そんなの当然じゃないか」と考える人は「頭が固い」のだ。折伏での仏法対話で、凡夫が一番引っかかりやすい盲点ともいえる。ここを改めると、折伏が面白く進む。
一方、発明王エジソンは、この簡単な計算を当然ではなく、「なぜそうなるのだろう?」という疑問から入ったから、彼は発明王になれた。実は、折伏もまったく同じなのである。
対話する相手によって、事情は千差万別であるから、それらの問題に対して「なぜ?」という疑問から「信心」に入っていくのが折伏である。私が樋田氏に二度目にあった時の最後の段階で「慈悲とは何ぞや?」の話を持ち出した。
私はこれ以降から「議論はハヤクヤレ」ということを学んだ。
しかも、私のこの考えが正しかったと確信持てたのが、デール・カーネギーの著作本からで、デールは「議論に勝つには議論を避けた方が勝つ」と明言した。「議論で例えいくら相手を論破しても、それは負けである。相手のプライドをキズつけ、論破だけでは相手の意見を変えることはできないからだ」と、結論として、デールは「人を変えることができるのは愛だけ」と言った。これが「慈悲」に置き換えたらその通りである。
おかげで友人との仏法対話でも「議論はハヤクヤレ」で大いに役立っている。6月のプレ大会までに何人かの法華講と議論したが、学会員への論破を快感とする「勝他の念が強い修羅界」の法華講に対し、「慈悲」の話をすると早く議論を終わらせることが可能で、少なくても彼らの思う壺にははまらない。しかもこちらは彼らとは違って「論破」が目的ではないのだ。
ここで最大の難関は、その慈悲ということを自分の言葉でどう表現・具現化すべきということだが、「苦しむ人々と同苦し、必ず救ってまいりますという信心が、御本尊と自分との約束である」ことがわかっていないとならないが、こればかりは法華講にはどう頑張ってもたどり着けない境涯である。私自身も、彼らからまったく聞いたことがない。これは学会員でなければできない信心だからだ。これをいかに解決すべきかが一番重要なのである。
ただし、沖浦教祖・阿部日氏のようにネット上で、チャラチャラ法華講との議論で時間を膨大に費やすような人間は「要注意」である。そういう類の学会員は一度、地元組織で信心指導を受ける必要性がある。理由は「時間に暗い」からだ。「議論はハヤクヤレ」の意味がわからない人も、信心指導を受けるべきである。
■ 戸田先生の巻頭言に「われらが折伏を行ずるは、慈悲の行である。慈悲の行は、仏の仕事であり、真に尊いことである。なんとなれば、自己が永遠の幸福をつかむと同時に、他に貧窮(びんぐ)の衆生にも、その幸福を分け与えようとするのであるから、これ以上尊い仕事はない」
法華講相手に注意しなくてはならないのは、学会員側は決して「相手を論破する」とは絶対考えないこと。論破する根性では、相手の思う壺にはまる危険が高い。
4
:
鈴木清
:2009/01/11(日) 17:07:23
公爵様
デール・カーネギーの著作については私も仕事に対人関係に役立っております。
考えてみればご指摘の通りで仏法対話においてもその方法は同じですね。
とある先輩より、折伏は仏法の難しい話をしてもだめだと教わったことがあります。
どれだけ相手の信頼を得るか。また、公爵様がおっしゃるように慈悲に対し相手も心を開くのだと感じました。
5
:
たか
:2009/01/11(日) 19:52:51
青山樹人の深層日記より転載
安斎名誉教授の「反論」
繰り返し述べてきたように、創価学会やその指導者に対する中傷報道が信用するに値するかどうか、見分けることなど簡単だ。
「擁護し称賛する者」と「中傷している者」とを、見比べてみればよい。
一目瞭然、あたかもノーベル賞学者たちがこぞって称賛する対象に、酔っぱらいが赤チョウチンで悪態をついているようなものだ。
誰が中傷し、誰が称賛しているのか。
どちらを信ずべきかは、言わずもがなである。
1997年9月、「産経新聞」の匿名コラム「斜断機」に、池田SGI会長を中傷する一文が載った。
匿名をよいことに、この筆者は何の根拠も示さず取材もせず、会長に対する世界からの顕彰を「寄付金の宝冠」等と揶揄したのである。
この悪質な記事に対し、即座に反論を書き送って同じコラム枠に掲載させたのは、上智大学名誉教授であった安斎伸氏であった。
安斎氏はアジアでただ一人のバチカン評議員であり、日本のカトリック世界を代表する碩学であった。
同時に、安斎氏は自ら沖縄各地の宗教事情をつぶさに踏査研究し、創価学会がなぜ発展したかを調べ、世界的な宗教学者らを伴って池田SGI会長とも会談してきた。
斜断機へ
最近、産経新聞の夕刊が「宗教/こころ」の特集を大きく組み、連日これを掲載し始めたことは、宗教無関心時代に快挙とも英断とも思われ、筆者も貴紙を購読するようになった。特に現代の宗教指導者たちがテーマごとに「語る」欄は、筆者の愛読するところであり、この頁を評価してきた。
ところがさる9月8日付けの「斜断機」に、現代日本の大教団である創価学会の池田名誉会長に対する憶測からする誹謗記事が掲載されているのを読み、驚いた。「斜断機」は匿名コラムとはいえ、一個人の勝手な放言欄ではなく、いやしくも世界にグローバルな平和運動を展開し、現代人の心の再生と拡充を目指している大教団の指導者に対して頭から侮蔑の論説を浴びせてよいはずがなく、当事者及び関係者に対しても礼を失するばかりでなく、同紙の中立的、協力的な宗教特集にも大きく矛盾する。
この欄の当日の筆者は、「創価学会ニュース」を引用しながら、これまで池田名誉会長がアジアの哲人として各国から顕彰され、多くの大学からの名誉博士号や名誉教授号を贈られたことを、あたかも金で買い取ったかのうように述べているが、邪推とか言いようがなく、ご本人のみならず、顕彰を行った各国、各大学に対しても非礼であろう。まして、「学歴不足、学問不足の劣等感」があり、「名誉欲の旺盛な俗物性を宣伝する」などと書くにいたっては、憶測の域を出ないものであり、論説者の公に口にすべきことでもはない。
劣等感と名誉欲と俗物性で大教団の指導、統率ができるなどと、この筆者は本当に考えているのでああろうか。長年にわたり、宗教を研究してきた一人として「宗教蔑視」ともいえる誹謗を看過できず、一文をしたためた次第である。
上智大学名誉教授(宗教社会学) 安斎 伸
(産経新聞 1997年9月22日付)
6
:
たか
:2009/01/14(水) 22:16:17
民主・輿石氏、日教組にエール? 「教育の政治的中立ありえぬ」
民主党の輿石東参院議員会長は14日、おひざ元の日本教職員組合(日教組)が都内で開いた新春の会合であいさつし、「教育の政治的中立はありえない」と述べ、「反日偏向教育」の根源ともいわれる日教組へのエールと受け取れる発言をした。教育や教員の政治的中立は教育基本法や教育公務員特例法で定められており、日教組に肩入れする同党の“危うさ”がまたぞろ浮き彫りになった。
輿石氏は日教組傘下の山梨県教組(山教組)の元委員長。現在は日教組の政治団体、日本民主教育政治連盟(日政連)の会長でもあり、会合では「私も日教組とともに戦っていく。永遠に日教組の組合員であるという自負を持っている」と宣言し、政権交代に向け協力を求める場面もあった。
平成16年の参院選の前には、山教組などで構成する事実上の輿石氏の政治団体が教員から選挙資金を集め、山教組幹部らが政治資金規正法違反(虚偽記載)の罪で罰金命令を受けるなどした。自民党の有志議員による日教組問題究明議員連盟(会長・森山真弓元文相)は、次期衆院選に向け日教組の偏向性を調査する構えで、議連から「輿石氏は標的になる」との声も出ている。
http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090114/stt0901142151011-n1.htm
12
:
若鷹の掲示板 管理人(わかたか)
:2009/07/04(土) 02:10:08
上記、
>>8
〜
>>11
は、御書及び学会指導の引用箇所以外(つまりタイトルや結論箇所)は邪義ですので、
ROMされている方はご注意下さい。
13
:
河内平野
:2009/07/04(土) 22:34:51
>>12
管理人様
>上記、
>>8
〜
>>11
は、御書及び学会指導の引用箇所以外(つまりタイトルや結論箇所)は邪義です
同意いたします。・・・・であるなら、即刻・削除してはいかがでしょう。。
残す理由もないと思うのですが・・・
14
:
天城五兵衛
:2009/07/04(土) 23:27:23
佐藤義徳@人本仏迹論者へ
回答出来るまで、質問を続ける。
今までの質問をまとめたので、早く以下の質問に対して回答すること。
他人の投稿であれ、キミが活字として投稿した以上、きっちりと回答する事!
質問1(2009年7月1日分)
「本門と迹門に優劣がない」と、日蓮大聖人の指南並びに創価学会指導で、具体的にどの様に指南されているのだ?
質問2(2009年7月1日分)
私をはじめ、一体誰が「仏本人迹」論を打ち立てたのだ?
やまいぬ。様、マグマグ様をはじめ沖浦板で忠告をし、アクセス禁止処分になった方で、誰が「仏本人迹論」を提唱した?
私が、いつ、どちらの掲示板で、「仏本人迹論」を主張したんだ?
他人様に難癖を付ける以上、具体的な投稿を引用して批判してみなさい。それが出来なければ、キミは乙骨某に類する「デマ男」でしかない。
質問3(2009年7月3日分)
> ほらね〜!本尊は何処にも書かれていませんね〜!
生死一大事血脈抄を引用して来たので、池田先生の「生死一大事血脈抄講義・90頁」から引用し、デマ男の浅学を叩きのめしてあげよう。
*******(ここから引用)
「久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無し」とは、真実の仏の本質も、真実の仏法の本質も、そして、私たち衆生の生命の本質も「仏界の生死」にほかならない、ということです。
自分自身が、「久遠実成の釈尊」と「皆成仏道の法華経」と全く差別がないと理解し確信して、南無妙法蓮華経と唱えてこそ、私たちもまた、三世永遠に「仏界の生死」に連なることができるのです。(中略)
一人一人が妙法の当体として、日蓮大聖人即御本尊の生命が赫々と涌現し、妙法と一体の生命活動を繰り広げているのです。(以下略)
(ここまで引用)*******
「日蓮大聖人」=「皆成仏道の法華経」=「御本尊」との先生の講義である。
キミの主張と違う理由を説明しなさい。
とりあえず、ここまで。
15
:
やまいぬ。
:2009/07/04(土) 23:35:22
佐藤義徳くん。
もういいだろう、悪足掻きは。
問われて何一つ返答出来ず、自作自演は見事に見通されて、赤恥に次ぐ赤恥の連続だ。
生きていて楽しいかね? 大恥晒して生きて、それが幸せかね?
きみも、佐藤克己もおんなじだ。
佐藤克己には何度も教えたが、こいつは馬鹿だから何度教えても「腹に入れる」ことが
出来ないままだが。
ネットを離れなさい。自作自演までバレて、くだらぬ自意識と自尊心の意地一つで
連日書き続ける意味など何処にあるよ?
現実の闘いがすべてなんだよ。
沖浦が何一つ出来ない、「現実の」「師弟不二の広宣流布の闘い」こそが
すべてなんだよ。
16
:
天城五兵衛
:2009/07/04(土) 23:49:31
佐藤義徳くんの無責任の証明
若鷹で7/3にあった回答のログ
*******(ここから引用)
32272.(untitled)
名前:佐藤義徳 日付:7月3日(金) 23時42分
(前略)
質問1(2009年7月1日分)
「本門と迹門に優劣がない」と、日蓮大聖人の指南並びに創価学会指導で、具体的にどの様に指南されているのだ?
質問2(2009年7月1日分)
私をはじめ、一体誰が「仏本人迹」論を打ち立てたのだ?
やまいぬ。様、マグマグ様をはじめ沖浦板で忠告をし、アクセス禁止処分になった方で、誰が「仏本人迹論」を提唱した?
○あくまでも日々氏の弁ですね。
私が、いつ、どちらの掲示板で、「仏本人迹論」を主張したんだ?
他人様に難癖を付ける以上、具体的な投稿を引用して批判してみなさい。それが出来なければ、キミは乙骨某に類する「デマ男」でしかない。
○日々氏が仰っていましたね。
質問3(2009年7月3日分)
> ほらね〜!本尊は何処にも書かれていませんね〜!
生死一大事血脈抄を引用して来たので、池田先生の「生死一大事血脈抄講義・90頁」から引用し、デマ男の浅学を叩きのめしてあげよう。
*******(ここから引用)
「久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無し」とは、真実の仏の本質も、真実の仏法の本質も、そして、私たち衆生の生命の本質も「仏界の生死」にほかならない、ということです。
自分自身が、「久遠実成の釈尊」と「皆成仏道の法華経」と全く差別がないと理解し確信して、南無妙法蓮華経と唱えてこそ、私たちもまた、三世永遠に「仏界の生死」に連なることができるのです。(中略)
一人一人が妙法の当体として、日蓮大聖人即御本尊の生命が赫々と涌現し、妙法と一体の生命活動を繰り広げているのです。(以下略)
(ここまで引用)*******
「日蓮大聖人」=「皆成仏道の法華経」=「御本尊」との先生の講義である。
キミの主張と違う理由を説明しなさい。
○そろそろ寝ましょうか。
(ここまで引用)*******
さすがに、無責任だなあ(^^)
まともな回答も出来ずに、他人様に振っておる。
職場での問題も一目瞭然だ(^m^)
沖浦某の害に毒されている哀れな奴よ。
17
:
天城五兵衛
:2009/07/04(土) 23:54:58
>>16
責任転嫁しか出来ない佐藤坊や、
甘ったれのボクちゃんから早く成長するには、師弟不二の戦いしかないぞ。
18
:
天城五兵衛
:2009/07/04(土) 23:56:55
全く、「仏本人迹論」を提唱した奴を知らないなんて、恥ずかしくないかね?
甘ったれのボクちゃん(^m^)
19
:
天城五兵衛
:2009/07/04(土) 23:58:25
日々氏が「仏本人迹論」を提唱した奴だったのか?、と独り言。
20
:
天城五兵衛
:2009/07/04(土) 23:59:18
んで、日々氏がどこで「仏本人迹論」を提唱したんだろうな?、と、独り言。
21
:
天城五兵衛
:2009/07/05(日) 00:00:29
記憶にないのう(笑い)
第一、日々氏は「仏本人迹論」者ではないしなあ...と独り言。
22
:
佐藤義徳
◆4cVqan2W..
:2009/07/05(日) 19:51:09
言う資格はないでしょうに?
創価学会員に成りすますことこそ!
最大の謗法ですね。
数々の悪行を認め、全創価学会員に謝罪しなさい!
【創価学会員成り済ましの者の共通性】
①沖浦氏に対して悪口、中傷誹謗、
②「沖浦シンパ」と、勝手な名称をつくり、差別を生み出す輩、
③仏法の真髄に無知な創価学会員の坂を乗っ取り、創価学会員を中傷誹謗させるよう、ヨイショし、煽りたることで創価学会の内部分裂を諮り、広宣流布を妨害することを目的した三類の強敵である輩、
以上が創価系掲示板に巣くう(日蓮正宗からの刺客)の実態である。
どのような現証がこのような輩にあらわれるかは、善良な創価学会員ならば分っていることだろう。
23
:
天城五兵衛
:2009/07/05(日) 20:00:08
佐藤義徳クン、責任転嫁せずに質問に答えて下さい。
回答も出来ないで、悪口を投稿するのは、持論に自信が無いからでしょう。
キミの説は、既に破折されているんだよ。
池田先生の講義を否定している人物を、学会員とは認められないね。
さあ、答えなさい!
>>14
名前:天城五兵衛 投稿日: 2009/07/04(土) 23:27:23
佐藤義徳@人本仏迹論者へ
回答出来るまで、質問を続ける。
今までの質問をまとめたので、早く以下の質問に対して回答すること。
他人の投稿であれ、キミが活字として投稿した以上、きっちりと回答する事!
質問1(2009年7月1日分)
「本門と迹門に優劣がない」と、日蓮大聖人の指南並びに創価学会指導で、具体的にどの様に指南されているのだ?
質問2(2009年7月1日分)
私をはじめ、一体誰が「仏本人迹」論を打ち立てたのだ?
やまいぬ。様、マグマグ様をはじめ沖浦板で忠告をし、アクセス禁止処分になった方で、誰が「仏本人迹論」を提唱した?
私が、いつ、どちらの掲示板で、「仏本人迹論」を主張したんだ?
他人様に難癖を付ける以上、具体的な投稿を引用して批判してみなさい。それが出来なければ、キミは乙骨某に類する「デマ男」でしかない。
質問3(2009年7月3日分)
> ほらね〜!本尊は何処にも書かれていませんね〜!
生死一大事血脈抄を引用して来たので、池田先生の「生死一大事血脈抄講義・90頁」から引用し、デマ男の浅学を叩きのめしてあげよう。
*******(ここから引用)
「久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無し」とは、真実の仏の本質も、真実の仏法の本質も、そして、私たち衆生の生命の本質も「仏界の生死」にほかならない、ということです。
自分自身が、「久遠実成の釈尊」と「皆成仏道の法華経」と全く差別がないと理解し確信して、南無妙法蓮華経と唱えてこそ、私たちもまた、三世永遠に「仏界の生死」に連なることができるのです。(中略)
一人一人が妙法の当体として、日蓮大聖人即御本尊の生命が赫々と涌現し、妙法と一体の生命活動を繰り広げているのです。(以下略)
(ここまで引用)*******
「日蓮大聖人」=「皆成仏道の法華経」=「御本尊」との先生の講義である。
キミの主張と違う理由を説明しなさい。
24
:
やまいぬ。
:2009/07/05(日) 20:01:48
えーっと。ネットで佐藤名使う奴って馬鹿しかいないのか?(^o^)
>>22
>言う資格はないでしょうに?
泣かなくていい、坊や。
>【創価学会員成り済ましの者の共通性】
>①沖浦氏に対して悪口、中傷誹謗、②「沖浦シンパ」と、勝手な名称をつくり、差別を生み出す輩、
>③仏法の真髄に無知な創価学会員の坂を乗っ取り、創価学会員を中傷誹謗させるよう、ヨイショし、煽りたることで
>創価学会の内部分裂を諮り、広宣流布を妨害することを目的した三類の強敵である輩、
>以上が創価系掲示板に巣くう(日蓮正宗からの刺客)の実態である。
断言したなら文証はあるんだな? 今まで何を問われても、一切根拠なり文証なり挙げたことのない
佐藤義徳くん? さ、今晩中にupしてもらおうか。頑張りなさい。(^o^)
26
:
佐藤義徳
◆4cVqan2W..
:2009/07/05(日) 22:13:06
2008年11月23日付 聖教新聞
11,18記念代表協議会での名誉会長のスピーチ
人と会え! 共と語れ! 心を結べ!
さあ対話の時代だ
われらは「平和の柱」「文化の大船」「教育の眼目」
一、「創立記念日」おめでとう!(大拍手)
この日を慶祝し、世界の各国、各都市からも、真心あふれる数多くの祝福をいただいている。
人間革命の哲学を、多くの識者が真剣に探究し始めた。
国境を超えた民衆の連帯に、大いなる期待と賞讃が寄せられている。
このことを、どうか誇りとしていただきたい(大拍手)。
堂々と
勝利と和楽の
創価かな
192カ国・地域の友とご一緒に、創立78周年を晴れ晴れと飾ることができた。
学会本部にも、多くの来客の方々、そして同志の皆様方が、連日、祝賀にお越しくださっている。
一年また一年、わが創価学会は「平和の柱」として、「文化の大船」として、「教育の眼目」として輝きを増している。信頼を広げている。
今、本部周辺の整備も進んでいる。日本中、世界中で、広布の城を立派に総仕上げしていく。すべて大切な同志の皆様のためである。
見違えるような、壮大なる発展の未来を楽しみにしながら、私とともに、皆、元気で、生きて生きて生き抜いていただきたい。きょうから、いよいよ「創立80周年」へ、全同志が、さらに功徳の陽光を浴びながら、人類の希望のスクラムを、一段と強め広げ、朗らかに、また朗らかに前進してまいりたい(大拍手)。
創立日
諸天につつまる
創価城
戸田先生
地域の個人会場こそ 広宣流布の発信地! 人材練磨の偉大な城!
「幸福博士」を育てる学校!
一、はじめに、全国、そして全世界の個人会館、個人会場を提供してくださっているご家庭に、改めて心より感謝申し上げたい(大拍手)。
日蓮大聖人は仰せであられる。
「心ざしあらん人人は寄合て」(御書961ページ)
「互につねに・いゐあわせて」(同965ページ)
独りよがりで、わがままな仏道修行など、あり得ない。
いつも集い合い、語り合い、励まし合って、広宣流布へ進みゆくことが、正しい一生成仏のリズムである。
そのために、一番大事な場所が、地域の法城である。
ここから「勇猛精進」の力が生まれる。
ここでこそ「異体同心」の団結が深まる。
御書には、「法妙なるが故に人貴し・人貴きが故に所等し」(1578ページ)との法理が示されている。
妙法の友が喜び集う婦人会館がどれほど尊貴な場所であるか。
牧口先生も、座談会の会場となるご家庭を、それはそれは大切にされ、心を砕かれていた。
戸田先生は、地域の拠点である個人会場こそ「大切な広宣流布の発信地」であり「人材錬磨の偉大なる『城』」であると讃えられた。
勇んで、わが家を広宣流布の法城とされ、同志を護り、人材を育てゆかれる、その崇高な献身に「冥の照覧」は絶対である。
御書には、伝教大師の言葉「家に讃教(さんきょう)の勤めあれば七難必ず退散せん」(1374ページ)が引かれている。
いわんや、地域の破邪顕正の城であられるご家庭の福徳は、無量無辺であり、一家一族が厳然と護られていくことは、絶対に間違いない。
法華経には、明快なる因果律が説かれている。仏法が語られる場で、人に座を勧める真心は、未来に、帝釈天・梵天・転輪聖王(てんりんじょうおう)という大指導者の座を得る功徳になるのだ。
個人会場は、三世永遠にわたって、「幸福の博士」を、「福運の博士」を、「使命達成の博士」を、「勝利の博士」を育て広げていく学校でもある。
27
:
佐藤義徳
◆4cVqan2W..
:2009/07/05(日) 22:14:33
戦時中も座談会
一、私の妻の実家である白木宅も、草創期から個人会場であった。
牧口先生をお迎えした、戦時中の座談会は、特高刑事から何度も「中止!」と制止されるなか、一歩も退かずに行われた。
そのなかで、牧口先生は「法華経は日輪(=太陽)のごとし」(御書1114ページ)等と叫び切っていかれた。
この「死身弘法」「不惜身命」の師子王の姿を、一家は深く強く生命に焼きつけたのである。
今なお多くの同志が、白木宅では、どんな時でも、「よく来たね。よく来たね」と笑顔で迎えてくれたと、感謝を込めて振り返っておられる。
宗教社会学の第一人者であられたオックスフォード大学のウィルソン博士は、SGI(創価学会インタナショナル)の運動の魅力として──いわゆる寺院制度から解放された在家団体であること、そして、座談会等を通し、地域の会員が相互に励まし合っていることなどを挙げておられた。
地域の共同体の再生という点からも、個人会場の存在は、実に大きいと言えよう。
礼儀を尽くして
一、御書には明言されている。
「昼夜に法華経をよみ朝暮に摩訶止観を談ずれば霊山浄土にも相似たり・天台山にも異ならず」(1394ページ)
法華経の行者であられる大聖人が妙法を唱え、仏法を語るところは、どんな場所であっても、尊極なる仏土なのである。
御本仏に直結して、妙法をともに唱え、大仏法を学び舎い、広宣流布を推進する会場は、この本義の上から、すべて霊山浄土に通ずる。本有常住の寂光土となる。常楽我浄の宮殿となる。個人会場は、それほど意義深い。
だからこそ、個人会場を使わせていただく際には、幹部をはじめ、皆が最大に礼儀を尽くしていかねばならない。誠心誠意、感謝を表していくことである。
トイレなども、心して、きれいに使わせていただくことだ。受験生や病気のご家族への心づかいなども、忘れてはならない。さらに、自転車の駐輪にも気をつけ、出入りの際の私語を慎むなど、近隣に迷惑をかけないマナーが大切である。
仏法は「人の振舞」が根本であるからだ。
ペルーに幸の光
一、先日、南米ペルーSGIのシマ理事長から、うれしい報告があった。
ペルーでも、首都リマを中心に、同志が福運を積み、個人会場を提供してくださるご家庭が、どんどん増えている。地域の灯台として、明るい信頼と友情の光が、いや増しているというのである。
法華経には、「仏子の 諸の塔廟を造ること 無数恒沙にして国界を厳飾し」とも説かれている。
御本尊のもと、妙法の同志が集う個人会場、また会館のあるところ、地域にも、国土にも、希望と安穏と繁栄が広がる。ここに「立正安国」の具体的な実像がある。
創立80周年へ、あの地にも、この地にも、後世の人が仰ぎ見る、堂々たる創価の人材城を、ともどもに築き、荘厳してまいりたい(大拍手)。
命をかけてこそ
一、ともあれ、世界192カ国・地域に広がった学会を、牧口先生、戸田先生が、どれほど喜んでおられるであろうか。
未来に永遠に残るものは、手抜きや要領では決して築くことはできない。
人間が命をかけたものだけが不滅の輝きを放つのだ。
私の好きなお隣の韓国の格言に「精魂こめた塔が崩れるものか」とある。
わが創価の平和と文化の高き塔は、牧口先生、戸田先生、そして私の三代の師弟が、命がけで築いた、人類の「希望の宝塔」なのである。
大事なのは創価学会である。この仏意仏勅の組織を、未来永遠に護り抜いていかねばならない。それが、最高幹部の責任であり、使命であることを忘れてはいけない。
青春の苦闘
一、私は、わが青春のすべてを捧げて戸田先生をお護りした。
戸田先生の会社で働き始めたのは21歳のとき。間もなく、経営は悪化し、事業は苦境に陥った。
連日、押し寄せる借金取り。次々と去っていく社員たち。
私も体が弱く、肺病を患っていた。無理がたたり、喀血を繰り返した。
当時、学会を財政面で支えておられたのは戸田先生であった。
先生の事業を護ることが、広布を護り、学会を護り、同志を護ることになる。そう心に決めて、私は、事業の再建に奔走した。
どん底の中で
一、あれほど剛毅な先生も、さすがに疲れておられた。
幾晩も、先生のご自宅に呼ばれた。先生の様子が心配で、家の前に一晩中、立ち続けたこともあった。
何もかも、先生のため。何があっても先生に、指一本、触れさせてなるものか。先生には大手を振って歩いていただくのだ。
そう心で祈り、叫びながら、ただただ先生のために、死にものぐるいで活路を開いてきたのである。
これほどに師匠を護った弟子は世界にいないであろう。それが私の青春の栄光である。
仏法の真髄は師弟なのである。
28
:
佐藤義徳
◆4cVqan2W..
:2009/07/05(日) 22:15:39
一、戸田先生と二人して、借金を返済しに行った帰り道──。
車もなく、夕暮れの町を歩いた。
私は、将来、必ずや先生をお乗せする車を買い、立派なビルも建てることを約束した。
先生は「そうか、そうか」と、うれしそうにうなずいておられた。
師匠と弟子の二人きり。誰も助けてくれない。私しかいない。
そのどん底の中で私は誓ったのである。
「必ず、先生を世界の先生にします!」「先生に喜んでいただける学会をつくります!」「先生を苦しめた人間とは絶対に戦い抜きます!」と。
私は真剣だった。言ったことは必ず実行した。最初から容易にできたことなど、何一つなかった。
現在の学会の驚くべき世界的な大発展も、すべては、偉大なる「師匠の薫陶」と、それに応えんとする「弟子の誓願」の中から築かれてきたのである。
永遠に光る創価の師弟の満足の姿が、ここにあった。
これが信心である。
これが学会である。
これが仏法である。
この厳粛な師弟を軽く見て、大変なことは人にやらせ、できあがったものの上にあぐらをかくような幹部には絶対になってはならない。そうしたずるい人間を、断じて許してはならない。
将来のために強く申し上げておきたい。
戸田大学の誇り
一、一から百まで、師弟でつくってきた学会である。師匠と決めた以上、お護りし抜くのが弟子の道である。
行きたかった夜学も断念して、先生の側でお仕えした。
その代わり、先生は、死ぬまで私に、万般の学問を個人教授してくださった。
私は朝一番に出勤した。「朝の勝利」から出発した。
戸田先生は「大作、早いな」と一言。
そして会社の始業前の時間を使って、「戸田大学」の授業が始まる。日曜日も毎回、ご自宅で教わった。
この薫陶のおかげで今の私がある。一言一句が遺言のような講義であった。あらゆる分野の一級の人物と対等に語り合える力をつけていただいた。ありがたい先生であられた。
堂々と勝利と和楽の創価かな
「師弟の誓い」に生きよ
要領や手抜きは衰亡の原因「魂を込めた塔は崩れない」
不二の祈りに力と慈愛が!
一、御堂訓に仰せである。
「弟子と師匠が心を同じくしない祈りは、水の上で火を焚くようなものであり、叶うわけがない」(御書1151ページ、通解)
弟子が師匠に心を合わせてこそ、祈りは叶うのだ。
第2代会長になられた戸田先生は、生涯の願業として「75万世帯」の達成を掲げられた。
私は立ち上がり、蒲田支部、また文京支部の皆さんと共に、拡大の突破口を開いた。
勝てるはずがないと言われた「大阪の戦い」も、敬愛する関西の同志と私が、一致団結して勝ち取った栄光の歴史である。
この勝利の根本の力は何であったか。
それは「師弟不二の祈り」であった。
師弟の心が一致した祈りには、限りなく大きな「力」がある。そこに、汲めども尽きぬ勇気と慈愛が湧くのである。
「弟子を救え!」
一、昭和32年(1957年)7月、私は、大阪の地で無実の罪で牢獄につながれた。
検事による取り調べの最中に、手錠をかけられたまま、屋外を見せしめのように歩かされたことがあった。
権力とは、そこまで卑劣なのか。関西の同志は、怒りに震えた。
さらに、この話が戸田先生のもとに報告されると、先生は、激怒して言われた。
「俺の一番大事な弟子だ」「すぐに大作を釈放させろ」
そして幹部や弁護士と断固たる対応を協議された。わが分身の弟子のために、わが身を犠牲にすることも覚悟しておられた。これが師弟の真実の歴史である。
一、戸田先生との思い出は、本当に尽きることがない。
先生が最後に駿河台の日大病院に入院された際も、私が一切の手配をし、お供をさせていただいた。
最後の最後まで先生とご一緒に戦わせていただいた。先生と同じ時間を過ごすことができた。弟子として最高の誉れである。
対談集に反響
29
:
佐藤義徳
◆4cVqan2W..
:2009/07/05(日) 22:16:45
一、このほど、文化人類学の世界的な学者であるヌール・ヤーマン博士(ハーバード大学教授)と、私の対談集『今日の世界 明日の文明──新たな平和のシルクロード』(河出書房新社)の英語版が、英国の名高い出版社I・B・トーリス社から発刊された。
ヤーマン博士はトルコの出身であられる。
本年10月、ドイツで毎年恒例の世界最大の書籍見本市「フランクフルト・ブックフェア」が行われた。
今回のゲスト国はトルコであり、同国のアブドゥッラー・ギュル大統領や、対談でも話題となったノーベル文学賞作家のオルハン・パムク氏らも出席された。
そうした中、ヤーマン博士と私の対談集は、大きな反響を広げたとうかがった。大変に光栄なことである。
英語版の発刊を、ヤーマン博士も大変に喜んでおられる。
ハーバード大学の関係者をはじめとする知性の方々とも、この本を教材として、新たな対話を広げていきたいと述べておられる。
〈ヤーマン博士は語っている。
「この対談は、池田SGI会長の質の高い質問によって、より洞察にあふれたものとなりました。池田会長は、トルコ、イスラム、そして文化人類学に対する詳細な知識を持っておられます。そして、それに対し、常に本質を突いた発言をされております。
また対談は、多くのテーマについて、会長が人間の視点に立ち、詩的な要素を含められることによって、実に魅力のあるものとなっております。特に、すべての生命を尊重する会長の思想は素晴らしいものです。それはまた、文化人類学の思想でもあります」
「池田会長が日常から決して離れることなく、仏教を実践されている姿に、深く注目しました。また、創価学会が宗門から離別したことに、私は大きな価値があると考えております。さらに、教条主義から離れ、人間主義を志向された会長の卓見にも、深い共感を覚えます」〉
第一級の識者との「対談」も戸田先生のご遺命であった。先生は私に言われた。
「これからは対話の時代になる。君もこれから、一流の人間とどんどん会っていくことだ。"人と語る"ということは、"人格をかけて戦う"ということであり、それがあってこそ、真の信頼を結び合えるんだよ」
欧州統合の父クーデンホーフ・カレルギー伯爵、そして20世紀を代表する歴史学者トインビー博士との「対談」を起点として、連載中、また準備中のものも含めると、世界を結ぶ対談集は約70点に及ぶ。すべて人類の未来に贈りゆく宝である。
通訳・翻訳に感謝
「言語の違いを超えた対話は、名通訳、名翻訳家の方々との交響曲である。
大翻訳家のリチャード・ゲージ先生には、トインビー博士との対談以来、本当にお世話になっている。
ゲージ先生をはじめ、ご尽力いただいている、すべての方々に、この席をお借りして、心から御礼申し上げたい(大拍手)。
ゲージ先生には常々、温かいご理解をいただき、感謝にたえない。
〈ゲージ氏は、次のように語っている。
「今まで池田会長の対談集の翻訳に30年以上、携わらせていただき、私自身、一西洋人として多くのことを学ばせていただきました。一番感動することは、池田会長が、教育、哲学、科学、文学、芸術、政治と、実に幅広く、さまざまな分野の学者、文化人、政治家の方々と対談されていることです。
これは、あらゆる人々を受け入れ、また、あらゆる人々に受け入れられる人格と、幅広い知識を備えた池田会長であるから、できることだと思います。
西洋では、プラトンの対話形式の著作がいくつかありますが、それらは同じ立場の人による対談であり、全く立場の異なる、異文化に属する人同士のものではありません。その意味では、会長の対談は、他に例を見ないユニークなものです。
会長は、東洋の普遍的な英知を、現代にいかに活用できるかを、さまざまな角度から展開されております。
ますます専門化の傾向が強くなり、全休観に立って物事を判断できる人が少なくなっている現代社会において、常に全体観に立った視点を与えてくれる池田会長の対談は、極めて重要であります。
読者は、そこから人類が直面する多くの難題に対する、解決のためのヒントを見いだしていけると思います」〉
中国の歴史学者
創価学会の皆様がいれば 未来はもっと明るい!
30
:
佐藤義徳
◆4cVqan2W..
:2009/07/05(日) 22:17:53
学会は人類の宝
一、この一年、月刊誌「第三文明」で連載を続けてきた、中国の歴史学者である章開?先生との対談「人間勝利の世紀をめざして」は、12月号をもって終了した。
「歴史」「文化」「教育」、そして中国と日本の新しい友好の道について、さまざまに有意義な語らいを重ねることができた。
とくに最終回では、これからの21世紀、さらに22世紀を見つめながら意見を交換した。
章先生は、この激動の時代においても、未来への希望を堅持しておられる。
その根拠は、いったい何か。その一つとして、章先生は語ってくださった。
「創価学会の皆様は、人類への広い慈悲の心をもって、平和と友好のために献身的な行動を貫いておられます。まさに創価学会は、人類と世界にとって、何ものにも代え難い無上の宝の存在です。
今後とも、創価学会は、ますます発展していかれることでありましょう。ゆえに私は、22世紀の世界は、きっと現在よりも素晴らしいものになると確信しています」
中国の史学大師と仰がれる碩学が、これほどまでに絶大なる期待を寄せてくださっている。私たちは誠実にお応えしてまいりたい。
一、御聖訓には仰せである。
「日蓮によ(依)りて日本国の有無はあるべし、譬へば宅に柱なければ・たもたず 人に魂なければ死人なり、日蓮は日本の人の魂なり」(御書914ページ)
戸田先生は、この御文を引かれて、こう師子吼された。
「妙法を流布している創価学会なくして、日本の真の繁栄はない。創価学会こそ日本の柱であり、魂である」
この誇りと責任と使命をもって、私たちは、地域のため、社会のため、世界のため、人類のため、平和と正義の対話を闊達に広げてまいりたい(大拍手)。
異体同心で幸福の大道を
戦いはこれからだ!
不惜身命の闘士たれ
近代日本の医療福祉の祖「忍耐と勇気が成否を決める」
一、戸田先生は"励ましの指導者"であった。
経済苦、病気、不和......現実のありとあらゆる苦悩に挑む友を、生命を揺さぶるように激励していかれた。
先生は言われた。
「人生、行き詰まった時が勝負だぞ!
その時、もう駄目だと絶望し、投げやりになってしまうのか。まだまだ、これからだと、不撓不屈で立ち上がるのか。 この一念の分かれ目が勝負だ!」
「君の想像を超えた、実に見事な解決ができるだろう。それには題目をあげきることだ。いかなることでも、変毒為薬できないわけがないのです」
そして、師の厳愛に立ち上がった弟子は、勝利の実証を示していったのである。
わが人生を、嘘偽りなく歩む人。御本尊に照らして、わが信ずる「本当の道」を歩み抜く人。その人が勝利者である。「心こそ大切」(御書1192ページ)なのだ。
立場や役職に左右され、"自分だけが偉い"などと思い込んでしまえば、大きな間違いを犯すことになる。
仏法上、「皆が偉い」のである。「皆が大切」であり、皆が「かけがえのない役割」を持っている。
皆、同じ学会員であり、「異体同心」で進んでいくのだ。
この点をはっきりしなかったら、学会の清浄な世界は汚れ、大変なことになってしまう。
「生老病死」の解決を目指して
一、さらに、戸田先生は力説なされた。
「政治の次元だけでも、経済の次元だけでも、科学の次元だけでも、本当の幸福は築けない。
誰もが避けることのできない、生老病死という根本の問題を直視して、解決している真の宗教を、根底にせねばならぬ」
「生老病死」の打開──。人類は、そのための哲理を、真剣に求めている。
世界各国、各地で、創価の人間主義に深く共鳴する、新しい指導者も躍り出ている。
日蓮大聖人は、「今日蓮が時に感じて此の法門広宣流布するなり」(御書1023ページ)と仰せになられた。
私たちが声も高らかに「常楽我浄」の法理を語りゆくことを、時代は渇仰しているといって過言ではない。
31
:
佐藤義徳
◆4cVqan2W..
:2009/07/05(日) 22:18:52
偉大なる
師弟誓願
創立日
言論の勇者たれ
一、本日は、"創価の薬王菩薩"たる、ドクター部と白樺の代表も出席されている。いつ
も、本当にご苦労さまです(大拍手)。
私たちの実践の魂である「不惜身命」。それは、法華経に登場する薬王菩薩が発した言葉である。
不惜身命──これこそ、大聖人正統の誉れの学会精神である。
また、きょうは創価の言論戦を担う代表も参加してくれている。
法華経に説かれる菩薩の中に、「大楽説(だいぎょうせつ)菩薩」がいる。薬王菩薩とともに「不惜身命」を誓っている。
「大楽説」とは、"偉大なる弁説の力をそなえた"との意味であり、言論の勇者といってよい存在である。
重要な場面で、皆の疑問を察して、師に向かって聞いを発する役割も担っている。
どうか一人一人が「不惜身命の闘士」として、今こそ勇敢に立ち上がっていただきたい。
「菩薩行には魔が起こる」
一、日蓮大聖人は、文永8年(1271年)の11月、法華経に説かれる通りの流罪の法難を受け、佐渡の地にあられた。
この月、大聖人は、「命限り有り惜む可からず遂に願う可きは仏国也」(御書955ページ)と仰せである。
そして、このまさに600年後、佐渡を擁する新潟で生誕されたのが、初代会長の牧口先生である。
1942年(昭和17年)11月、創価教育学会の総会で、牧口先生は言われた。
「信ずるだけでも御願いをすれば御利益はあるに相違ないが、ただそれだけでは菩薩行にはならない。
自分ばかり御利益を得て、他人に施さぬような個人主義(利己主義)の仏はないはずである。菩薩行をせねば仏にはなられぬのである」
「自分の一個のために信仰している小善生活の人には決して魔は起らない。之に反して菩薩行という大善生活をやれば必ず魔が起る。起ることを以って行者と知るべきである」
日蓮仏法の真髄をそのまま、寸分違わず実践されたのが、牧口先生であった。
牧口先生、戸田先生のお二人は投獄され、牧口先生は獄死された。私もまた不当逮捕された。
師のために戦った、創価の歴史である。
学会から、この崇高なる「師弟」がなくなったら、もはや学会ではない。あまりにも明らかな道理だ。
「本物」の信心に立てば、わかることである。
「本物」の人間かどうかは、心で決まる。頭のよしあしなどではない。
うわべをつくろい、策を弄する人間、増上慢の人間が、「師弟」を破壊する。広布の団結を破壊する。それこそ、大聖人が厳しく戒められた「城者として城を破る」(御書1337ページ)者にほかならない。
"悪鬼"をも広布の味方に
一、1944年11月18日、朝6時過ぎ。創価の父は「不惜身命」の大精神を貫き、巣鴨の東京拘置所で崇高な生涯を閉じられた。
直弟子の戸田先生は、身を焼いて供養した薬王菩薩になぞらえて、「(牧口)先生の死こそ、薬王菩薩の供養でなくて、なんの供養でありましょう」と叫ばれている。
「日本は、この正義の大偉人を殺した!
私は必ず仇を討つ!一歩も退かず、大折伏をして、牧口先生の仇を討っていくのだ」
──これが戸田先生の誓願であられた。そしてまた、不二の弟子たる私の誓願である。
戸田先生を守って、私の右に出る者はいなかった。先生のそばには、信用できない者もいた。私に対して「信じられるのは、お前だけだ」と言われる時もあった。
私は、師である戸田先生をだれよりも尊敬し、社会から尊敬される存在へと宣揚していった。約束したことは絶対に成し遂げるのが、私の信条である。
法華経には「魔及び魔民有りと雖も、皆仏法を護らん」とある。たとえ悪鬼、魔民であろうとも、広宣流布の味方にして、生かしきっていくのが創価の指導者だ。私はこの決心で半世紀以上、闘ってきた。皆さんは、心を魔に食い破られてはならない。
32
:
佐藤義徳
◆4cVqan2W..
:2009/07/05(日) 22:20:20
師の後を継いで
一、私は、戸田先生の後を継いだ者である。この人生のすべてを、創価学会に尽くしてきた。
広宣流布という、世界一尊い仕事の長として、この人生を歩んできた。かけがえのない同志とともに、汗水流して働いてきた。
いわば"師弟の真髄"を生きてきた人間であると自負している。
とともに、数えきれないほどの世界の指導者たちと、真剣に対話を重ねてもきた。人間と社会の実相を知っているつもりである。
インチキな人間なのか、格好だけなのか。慈愛の心か、軽蔑の心か。一つの言葉、一つの振る舞いから、その人のことがわかる。透徹した信心の眼は、骨の髄まで、腹の底の底まで見抜くことができるものだ。
また、そうでなければ、これだけの堂々たる学会をつくることはできなかっただろう。
真実の師弟が築いた学会である。この事実を、責任ある広布のリーダーは軽んじてはならない。これは決して自讃して言っているのではない。将来の学会を護る人々のために、真実を、正直に言っておきたいのである。
人間の世界は恐ろしいものだ。戸田先生が苦境に陥り、学会の理事長を辞めた時にも、信じられる人間は、あまりにも少なかった。一人だけでもいい。私は、"本当の弟子"といえる人間を育てておきたいのである。
「真実の学会」は「わが心の中」に
一、私は、ほかのだれよりも強く、広布の同志を守ろうとした。
それゆえに、御聖訓の通り、だれよりも多く迫害を受けてきた、。
いわれなき非難中傷を浴びせられ続ける苦しみは、実際に体験した者でなければ、わからないものかもしれない。
なかには、大幹部でありながら、そうした状況に慣れてしまい、私が矢面に立つことが当然だと思い始める者も出た。
同志への慈愛も、魅力もなく、ただ威張るだけで自分のことしか考えない卑劣な輩もいた。そうした忘恩の人間が皆、惨めな人生をたどっていることは、皆様がよくご存じの通りである。
しかし、今から思えば、すべて意味のあることであった。そうした動きが生じることによって、広宣流布の進むべき道が、いよいよはっきりと見えるようになったからだ。
ともあれ「真実の創価学会」は、師弟に生き抜いた「わが心の中」にある。
師弟の「本流」を、諸君には知っていただきたい。そして、ますます勢いよく、さらに素晴らしき学会を、ともどもにつくっていきたい。
薬王菩薩が、自身の生命を燃焼させた光明は、1200年にわたって輝き続け、世界を照らしたと説かれている。
学会は、創立78周年を勝利で迎えた。
創価の師弟の、不惜身命の魂が継承されていく限り、学会は永遠に光り輝いていくことができると申し上げておきたい(大拍手)。
病に打ち勝つ「究極の力」
一、寒さが厳しさを増してきた。皆、風邪などひかないように、健康第一の一日一日であっていただきたい。
もちろん、どんなに気をつけていても、病気になることはある。仏法が「生老病死」の四苦を説いているように、一面では、人生は病との闘いといえるかもしれない。
「信心」は、その闘いに打ち勝っていく究極の力なのである。
日蓮大聖人は、病気の報告をした門下の太田乗明に対する御手紙の冒頭で、こう記されている。
「御痛みの事一たびは欺き二たびは悦びぬ」(御書1009ページ)
あなたが病気になったことを一度は嘆きましたが、それによって、さらに仏法を深く学び、実践していけるのだから、私はむしろ喜んでいます──そうした深い御心からの御言葉と拝される。
大聖人が、愛弟子の病気を深く案じられ、平癒を祈念してくださったことは、いうまでもないだろう。
その上で、信心根本に闘うなら、必ず病気に打ち勝っていけると励まされたのである。
妙法は、何があっても変毒為薬できる、不可思議の法である。
大聖人は「この病は仏の御はからいであろうか。そのわけは、浄名経、涅槃経には病がある人は仏になると説かれている。病によって仏道を求める心は起こるものである」(同一四八〇ページ、通解)と仰せである。
病気をしたからこそ、求道心を奮い起こしていける。大きく境涯を開くことができる。
また、病気の人を力強く励ませるようになる。
信心の眼で見るならば、すべてに深い意味がある。そして、強き信心に生き抜くならば、必ず宿命転換を成し遂げ、勝利の人生を開いていくことができるのである
33
:
佐藤義徳
◆4cVqan2W..
:2009/07/05(日) 22:21:21
更賜寿命の功力
ー、牧口先生は、弟子たちをこう励ましておられた。
「"この病気を、必ず変毒為薬してみせるぞ、健康という大福運、大功徳を開くのだ"と確信し、決意して信心を続けていくことが大事だ。そのとき、病気が治るだけではなく、全快したときには、以前よりも健康になるのが、変毒為薬の妙法である」
私も、若き日から病気との聞いを続けてきた自身の体験に照らして、その通りであると確信する。
医師から「30歳までもたない」といわれた病弱な私が、このように自在に世界広宣流布の指揮を執れるのは、妙法の「更賜寿命」の功力の証明と思っている。
ともあれ、これまでも折々に語ってきたが、健康の維持・促進の基本として──
1 張りのある勤行
2 無理とムダのない生活
3 献身の行動
4 教義のある食生活
──等々の日常生活における心がけが重要である。
健康は深き「祈り」が根本である。「智慧」が大切である。
大聖人は、「法華経と申す御経は身心の諸病の良薬なり」(同1015ページ)と宣言なされた。
一騎当千のドクター部、慈愛輝く白樺の皆様方とともに、全同志の健康長寿を真剣に祈り抜きながら、自他ともに頑健に、創立80周年へ勇躍の前進を決意し合いたい(大拍手)。
新時代を築いた適塾の創設者・緒方洪庵
「安逸や名利を求めるな 庶民のために生き抜け」
「卑しい人間にはなるな」
一、激動の幕末期に活躍した医学者・緒方洪庵(1810〜1863年)。彼は、門下生への手紙で綴っている。
「師弟の関係は生涯にとりのぞいてはならぬ大切なこととおもいます」(緒方富雄・梅溪昇・適塾記念会編『緒方洪庵のてがみその五』莱根出版)
緒方洪庵は、大阪に「適塾」を創設して、日本全国から集った逸材を薫陶した。
賢明な八重夫人も、青年たちの母代わりとなって親身に世話をした。
門下の一人・福沢諭吉は、この八重夫人を"私がお母さんのように敬愛している大恩人"と何度も語っていた(梅溪昇著『緒方洪庵と適塾』大阪大学出版会)。
この緒方夫妻のもとから、千人を超える愛弟子たちが巣立ち、自らの使命とする場所で、師の精神を体現して、近代日本の医学・学術の発展を大きく開いていったことは、あまりにも有名である。
私も関西の同志とともに、大阪・北浜の適塾の史跡を訪れた思い出がある(昭和61年=1986年)。
そこには、塾生の名前、出身地、入塾年日が20年にわたって連綿と記された「姓名録」が厳粛に留められていた。
師・洪庵は、弟子たちが塾を出た後も、多くの手紙を送り、心を込めて激励を続けた。
弟子たちもまた、近況や医療に関する質問、御礼の報告等を、師のもとへ送り届けた。
たとえ、物理的な距離は離れていても、師弟の心は、揺るぎなく結ばれていたのである。
洪庵は、塾を巣立ちゆく門下生に、「事に臨んで賤丈夫(心のいやしい卑劣なおとこ)となるなかれ」(同)などの指針を贈っている。
さらに門下生への手紙には、「どうぞあなたは力をつくして道のため、世のためご勉強してくださるよう祈ります」(前掲『緒方洪庵のてがみその五』)等と書き送っている。
「世のため」「(医学の)道のため」「人のため」──ここに、適塾の師弟を貫く精神がある。
どこまでも庶民のために
一、こうした「医学をもって人を救う」という緒方洪庵の思想が表れているのが、12カ条にわたる、有名な「扶氏医戒之略」である。
その一部を紹介すると──。
「医の世に生活するは人の為のみ、おのれがためにあらずということを其業の本旨とす。
安逸を思わず、名利を顧みず、唯おのれをすてて人を救わんことを希うべし」
「病者に対しては唯病者を視るべし。貴職貧富を顧ることなかれ」
「学術を研精するの外、尚言行に意を用いて病者に信任せられんことを求むべし」
「世間に対しては衆人の好意を得んことを要すべし。学術卓絶すとも、言行厳格なりとも斉民の信を得ざれば、其徳を施すによしなし」(前掲『緒方洪庵と適塾』、現代表記に改めた)
自分のためではない。患者のためである。
地位や財産ではない。人間のためである。
どこまでも「人間としての振る舞い」を重要視し、患者からの「信頼」、人民からの「信用」を何より大切にした信念が伝わってくる。
一人一人がかけがえのない存在「皆、仏子」「皆が使命の人」
生老病死の苦悩を常楽我浄の歓喜に
妙法は最高の大良薬!
戸田先生 何があっても必ず変毒為薬できる
34
:
武
:2009/07/05(日) 22:22:02
他人のBLOGから丸写しコピペして何のつもりだ?
35
:
佐藤義徳
◆4cVqan2W..
:2009/07/05(日) 22:22:23
自分が礎に
一、緒方洪庵の著名な門下生の一人に、近代日本の「医療福祉の祖」「衛生事業の創立者」と讃えられる、長与専斎(1838〜1902年)がいる。
健康の保全や、疾病の予防・治療などに取り組むことを「衛生」として世に普及させた人物でもある。
長与専斎は、神奈川の鎌倉でも、保養所の建設、海水浴場の開設など、人々の健康のために先駆的な事業を展開した。
じつは、鎌倉のSGI(創価学会インタナショナル)教学会館の敷地には、長与家の別荘があった。
ここは、専斎の子息で作家だった長与善郎をはじめ、近代日本で人道主義を掲げた「白樺派」の文学者、文化人が集い、対話を重ねた地でもあった。
ところで、長与専斎は生来、病弱であった。そのため、自分は衛生事業の先駆となって道を開ければよい。あとは、後継の人々が大成してくれるにちがいないとの思いで戦った。
彼は綴っている。
「おもうに余は幼年の頃より多病羸弱にして気力も薄かりければ、衛生の事を思い立ちし初めより自らその成功に居らんなどのことは思いもよらず、ただその端緒をだに啓きたらんには、後継おのずからその人ありて大成の功を完うする時もあるべしとて、さては志を起こしたる」(小川鼎三・酒井シヅ校注『松本順自伝・長与専斎自伝』平凡社)
人の労苦の上に、安住するのではない。
むしろ自分が労苦を一身に引き受けて、道を開く。大成する栄誉は後輩に重ねていく。
ここに、人間としての崇高な生き方がある。
33年前、SGIの発足の際、集った各国の尊き先駆者たちに、私は申し上げた。
「皆さん方は、どうか、自分自身が花を咲かせようという気持ちでなくして、全世界に妙法という平和の種を蒔いて、その尊い一生を終わってください。私もそうします」
この一念で、私と世界の同志が戦い抜いてきたゆえに、今日のSGIの大発展がある。
今、長与家ゆかりの鎌倉のSGI教学会館には、海外から多くの識者や同志が来訪され、千客万来の賑わいである。
大聖人の御在世を偲びながら、地元の方々と有意義な交流を広げておられる。
訪れた方々は、皆、心から喜んでくださっている。常に最高の真心で歓迎してくださる、鎌倉の同志に、この席をお借りして、御礼を申し上げたい(大拍手)。
不可能を可能に
一、長与専斎は衛生の目的を、端的に「達者で長生きをする」(伊集院弥彦記『中央衛生会長長与専斎君演説筆記』、現代表記に改めた)ことだと語っている。
しかし、そのための伝染病の予防や、上下水道の整備といった事業は、人々の理解も、資金の確保も簡単には進まなかった。
長与専斎は、こう述べている。
「およそ達識遠見ある人の論説行為は、普通凡庸の思想以上に超過するが故に世俗の容るるあたわざるところとなり、意外のところに障害を蒙ること人間の常態にして、文明の世といえどもまた免るべからず」(前掲『松本順自伝・長与専斎自伝』)
偉大な思想や行動は、俗世に受けいれられるどころか、苦難を蒙る。それが、人間社会の常であるという達観である。
いわんや、法華経に「一切世間に怨多くして信じ難し(一切世間多怨難信)」等と説かれる通り、広宣流布の戦いは困難の連続である。
長与専斎は綴った。
「畢竟 事の成敗は忍耐勇往の如何に存するものと謂うべし」(同)
「忍耐」と「勇気」──ここにこそ、必勝の鉄則がある。
破れない壁はない。我らもまた、「不可能を可能とする」不屈の精神で、断じて新たな歴史を勝ち開いてまいりたい(大拍手)。
36
:
佐藤義徳
◆4cVqan2W..
:2009/07/05(日) 22:25:59
断じて負けるな!苦労こそ宝!
人間として光れ!
近代日本文学を開いた尾崎紅葉「玉磨かざれば光りなし」
一、私が、恩師・戸田城聖先生にお会いしたのは、19歳の時である。
近代日本文学にも、数え19歳で、生涯の師匠との出会いを果たした文豪がいる。
有名な泉鏡花である。師匠は、明治文壇の雄として名高い、尾崎紅葉であった。
「人として尽すべき道がある」
一、師弟はともに、学会本部のある信濃町にほど近い、東京・新宿の神楽坂界隈に住んでいたことでも知られる。
紅葉は、代表作『金色夜叉』に記した。
「およそ人と謂う者には、人として必ず尽すべき道がある」
「人の道という者があるのだ」(『金色夜叉(下)』岩波文庫)
「人の道」──その真髄こそ「師弟の道」であろう。
「紅葉と鏡花。この二人は文学史上、希有の師弟と謳われた。
近代日本文学の新しい道を開いた尾崎紅葉。
戸田先生の故郷・北陸の石川で生まれた泉鏡花は、青春時代、紅葉の作品を読み、深い憧れを抱く。
「我日本の東には尾崎紅葉先生とて、文豪のおわするぞ。と崇敬日に夜に止む能わず」(『鏡花全集第28巻』岩波書店。一部、現代表記に改め、漢字をひらがなにした=以下同じ)
「先生のお顔が見られたら、まあ、どんなに嬉しかろう」(「紅葉先生」、『明治文学全集18 尾崎紅葉』所収、筑摩書房)
求道の思いやみがたく、ついに上京して、尾崎紅葉の門を叩いたのである。
1891年(明治24年)の錦秋の10月19日のことであった。
そして鏡花は、四六時中、師匠の傍らで薫陶を受けることになる。
師匠・紅葉は「玉磨かざれば光無し」(『紅葉全集弟10巻』岩波書店)と綴った。
訓練は験しかった。朝晩の掃除。多くの来客の対応。師の外出のお供......。
行き届かないところは、厳しく叱責された。他の弟子がやった失敗に対してまで、「なぜ、互に注意をして未然に過失を防いでやらないか、お前は同門に冷淡だ」(前掲「紅葉先生」)と指摘された。
真の弟子に対する鍛錬とは、そういうものだ。
ふりがなを多く読者には謙虚に
一、文章の薫陶も厳格であった。
鏡花は、師・紅葉の原稿の口述筆記や清書もした。
また紅葉は、弟子の文には、自ら直しを入れてくれた。
弟子が自分の文章を、恐る恐る師のもとにお持ちする。すると「何だこれは」「もうちょっと書けそうなものだ」と一喝されることもあった。
さらに師匠は、字を丁寧に書くように、ルビ(ふりがな)を多く、適切にふるように等の細かい点も、重ね重ね注意した。
「小事に似たれど小事ならず 人たる者は万事にイケゾンザイ(=いいかげん)を慎むべき也」(『紅葉全集第12卷』岩波書店)と。
印刷場で活字を組んでくれる人たちへの謙虚さ。
読んでくれる読者への謙虚さ。
それを叩き込んだのである。
こうして、弟子は、人間としての振る舞い、文学者としての基本を学んでいった。
一方、師匠をうまく利用して、わが身の栄達を得ようという心根の人間は、この薫陶に耐えられず、離れていった。
泉鏡花は回想している。
「自分の出世をする為の方便としたり或はその時限りの都合上で来たり、乃至自分の書いたものを早く活版にしたかったり、直ぐに原稿料を望んだようなものは、その(=先生の)お小言やその眼玉やに堪えなかったのです」(前掲『鏡花全集第28巻』)
37
:
やまいぬ。
:2009/07/05(日) 22:26:57
佐藤義徳くん。泣かなくていい、坊や。
>【創価学会員成り済ましの者の共通性】
>①沖浦氏に対して悪口、中傷誹謗
繰り返す。蓮祖の御聖訓にも3代の指導にもない邪義捏造し、ただ1行の文証も挙げられぬまま
己を指弾する者を「日蓮正宗」と泣くのは沖浦だ。云いたいことあらば奴に云え。(^o^)
そして、沖浦を指弾する者が学会員成り済ましである文証挙げよ。
先生は邪義捏造者を責めるなとは何処にも仰せではない。
>②「沖浦シンパ」と、勝手な名称をつくり、差別を生み出す輩
前述した。
己が抜かした「自分が本、蓮祖も3代も全部迹」なる発狂邪義を責める人間を、沖浦克治は
「仏本人迹論者」と抜かし、お前もそれに同調した。いつだれが何処でそのような主張を書き込んだのか?
挙げろ。いつまでかかるんだ、愚図。
>③仏法の真髄に無知な創価学会員の坂を乗っ取り、創価学会員を中傷誹謗させるよう、ヨイショし、煽りたることで
>創価学会の内部分裂を諮り、広宣流布を妨害することを目的した三類の強敵である輩
意味不明。(^o^) ああ、丸ごと沖浦克治のことか?(^o^) なるほどねぇ?(>_<)(^o^)(^o^)(^o^)
沖浦自身もそうだが、お前も佐藤克己もphotochikaも、みな教学ゼロ、文証一つ挙げられぬな。
「仏法の真髄に無知な籍だけ創価学会員」とはきみらのことだ。御苦労さん!(^o^)
さ、上記断言したなら文証はあるんだな? 今まで何を問われても、一切根拠なり文証なり挙げたことのない
佐藤義徳くん? 今晩中にupしてもらおうか。頑張りなさい。(^o^)
38
:
佐藤義徳
◆4cVqan2W..
:2009/07/05(日) 22:28:14
文は気合で習う
一、愛弟子・鏡花にとっては、師の薫陶がすべてであった。
師を心底から崇敬し、師のためなら水汲みでも何でもして働かせていただくという決心であった。見栄や体裁など、かなぐり捨てて仕えた。
鏡花は、その心意気を、文章は「朱筆より気合で習う」(同)と表現していた。
師弟といっても、弟子の一念で決まる。
何より鏡花は、師・紅葉の厳愛の意味が、よくわかっていた。
「(紅葉先生は)一旦その弟子達の世話を引き受けるとなったら、もう中途半端な事なんかして置かず徹底的にその者の一人前になるようにと仕込むのです」
「厳格ではあったが、先生はよく可愛がって下すった」「何から何まで教えられた」(同)と。
私には、戸田先生の薫陶と二重写しで、胸に迫る。
朝から夜中まで、私の青春は「戸田先生をお護りする」──これが、すべてであった。
先生の訓練は厳しかった。先生に呼ばれれば、いつでも、どこへでも飛んでいった。
先生に託されたことは、どんな困難があろうと必ず実現した。
先生も私を、亡くなられる間際まで、命がけで薫育してくださった。世界の知性と縦横無尽に対話できるだけの、最高の人間学を授けてくださった。
これが創価の師弟なのである。
師からの手紙
一、さて、父を亡くし、いったん金沢に帰郷した鏡花が大変な貧窮に苦しんでいた時のことである。
生きる希望さえ失いかけていた弟子・鏡花を、師・紅葉が敵ました手紙が残っている。
「大詩人たるものはその脳 金剛石(=ダイヤモンド)の如く、火に焼けず、水に溺れず刃も入る能わず、槌も撃つべからざるなり、何ぞ況や一飯の飢をや」
「汝の脳は金剛石なり。金剛石は天下の至宝なり。汝は天下の至宝を蔵むるものなり。
天下の至宝を蔵むるもの是豈天下の大富人ならずや」
「倦ず撓まず勉強して早く一人前になるよう心懸くべし」(前掲『紅葉全集第12巻』)
君の金剛石の才能が、いまだ光を放つ時が来ていないがゆえに、天が君に苦難を与えて、自分を磨かせようとしているのだ。何を嘆くことがあろうか。
断じて負けるな!
天下の至宝を持てる誇りも高く、鍛錬せよ!
──厳しくも温かい叱咤激励であった。
弟子を思う師匠の厳愛ほど、ありがたいものはない。
鏡花は、後に感謝を込めて語っている。
「その時先生が送られた手紙の文句はなお記憶にある」
「馬鹿め、しつかり修行しろ、というのであった。これもまた信じている先生の言葉であったから、心機立ちどころに一転することができた」(前掲『鏡花全集第28巻』)
師紅葉は苦境の弟子を激励
君の頭脳はダイヤモンドだ 君は天下の大富人なのだ 倦まず弛まず勉強せよ!
弟子・泉鏡花は終生、師を慕った
今も先生が目の前にいる いつも忘れないのは先生のことだ
39
:
佐藤義徳
◆4cVqan2W..
:2009/07/05(日) 22:29:12
どんどん書け
一、師匠は、弟子に、"立派に成長して名を成し、家を興し、父祖を輝かせていくことが、最大の供養になる"とも励ました。
「どんどん読みどんどん書くべし」(前掲『紅葉全集第12巻』)と。
そして、師は、生活苦にあえぐ弟子の文学の錬磨に、いや増して心血を注いだ。
弟子の作品にさまざまな直しを入れ、自ら全部、筆写するまでの労をとったのである。
鏡花は、その直しの原稿を大切に保管し、後世に宝として、ありのままに遺している。
一、3年4カ月にわたって薫陶を受けた鏡花が、いよいよ師・紅葉の家を出る時のことである。紅葉は、弟子の前途を祝い、わざわざ会食を行ってくれた。
鏡花は、深謝して綴っている。
「紅葉先生、弟子の行を壮ならしむるため、西洋料理を馳走さる」「ホークと、ナイフの持ち方を教えられしも此の時なり」(笠原伸夫著『評伝 泉鏡花』白地社)
師は、社会への雄飛を開始した弟子を思い、西洋料理の食べ方まで教えたのである。
私も、学園1期生の代表を、卒業の折、帝国ホテルに招待して、マナーを教えながら、食事したことが懐かしい。今では世界の大舞台で、立派に活躍してくれている。
一、その後、鏡花は、師の期待に存分に応えていった。
『夜行巡査』『外科室』などの作品を次々と世に出す。苦境を脱し、気鋭の作家として、地歩を囲めていった。
成功を収めつつあった鏡花の家を、突然、紅葉が訪ねてきて、上機嫌で歓談することもあったという。
また紅葉は、質問に答えて、当時の最も良い若手の作家の一人に、弟子の鏡花の名を挙げている。
愛弟子が成長し、堂々と社会に雄飛していく姿──師匠にとって、これ以上の喜びはないのである。
創立日 君たちありて 大前進
栄光!わが歴史を創れ
「精神の力」で勝つのが「21世紀のナポレオン」
ナポレオン 私の仕事に限界はない 人間は行動で判断せよ
永遠の師弟城を
一、師・紅葉は、病床にあってもなお、弟子・鏡花の原稿を添削し続けてくれた。
この師の添削を受けた、最後の作品が『薬草取(やくそうとり)』である。
主人公の若き医学生が、医者では治しがたい重病に伏せた恩人を救うため、医王山(いおうざん)と呼ばれる場所へ、命がけで「薬草」を取りに行く物語である。
この作品には、法華経の薬草喩品(やくそうゆほん)や薬王菩薩本事品(やくおうぼさつほんじほほん)が記されている。主人公も、この法華経を抱き、読誦している。
「思うお方の御病気はきっとそれで治ります」(川村二郎編『鏡花短篇集』岩波文庫)
ついに薬草を手に入れた、この最終部の言葉は、師を思う弟子・鏡花の願いと、そのまま重なる。
鏡花は、後々まで、自らの書斎に、師の写真と全集とを飾った。師が生命を注いだ文章に接することが、師に接することになるからである。
そして終生、深い真心を込めて、敬慕の念を捧げ続けたことは、知る人ぞ知る逸話である。
その師弟の情は、人々の心を打たずにはおかなかった。
弟子・鏡花は、師の遺徳を傷つける人間は断じて許さなかった。師を冒涜する言動に対しては、まさしく飛びかかっていって抗議をしたと言われる。
鏡花は、師について書き記している。
「(先生の)目は徹夜不眠の血に鋭く輝いて、而して口許には優しく莞爾と微笑まれた。......私は襟を正して言う。今も(先生が)まのあたりに在(いま)す気がする」
「片時、と雖も忘れざりしは、先生にておわします」(ともに前掲『鏡花全集第28巻』)
師弟の道に徹し抜いた人生は、それ自体が荘厳な文学であり、不滅の芸術となる。
私自身、一点の悔いもなく、師匠にお仕えし、お護りし抜いた。
それは、幾多の歴史上の師弟にも負けないという自負がある。
だからこそ、戸田先生の構想をすべて実現して、今日の大創価学会ができあがったのである。
連載を再開した小説『新・人間革命』も、師弟の叙事詩にほかならない。
そしてまた、正義の「言論革命」を成し遂げゆく聖教城も、「永遠の師弟城」であると宣言しておきたい(大拍手)。
40
:
佐藤義徳
◆4cVqan2W..
:2009/07/05(日) 22:30:28
「歴史は前にしか進まない!」
一、月刊誌「第三文明」では、明年の新年号より、現在のナポレオン家の当主である、プランス・シャルル・ナポレオン公と、私の本格的な"ナポレオン対談"が始まる(大拍手)。〈対談のタイトルは、「21世紀のナポレオン──歴史創造のエスプリ(精神)を語る」〉
大いなる人間、大いなる歴史を仰ぎ、学んでいくことは、大いなる自分自身を築くことである。
その意味でも、"人類史の巨人"ナポレオンをめぐって、とくに「文化人」「建設者」としての側面に光を当てて、大いに語り合っていく予定である。
ナポレオンの魅力の一つに、新しき歴史を創造せんとして、前進また前進を貫いた、不撓不屈の生命力、比類なき行動力が挙げられる。
思えば、戸田先生が逝去された直後、私は意気消沈する同志を励まそうと、「若き革命家・ナポレオン」と題する一文を、聖教新聞に寄せた。
その中で、私は綴った。
「『前進!』──これが、全ヨーロッパを震撼せしめた、若き、悍馬にまたがった、ナポレオンの一生を貫く姿であった」
この点、ナポレオン公も、こう呼応してくださった。
「『前進!』──これは、わがナポレオン家の歴史と精神を表す言葉でもあります。
人類は、弛みなく前進を続けていかなければなりません。歴史は前に向かってしか進まないのです」
"歴史は前に向かってしか進まない"──善の勝利への「前進」こそ、我らの使命である。
ナポレオンは叫んだ。
「人間はその行動に基づいてのみこれを判断しなければならない」(オクターヴ・オブリ編、大塚幸男訳『ナポレオン言行録』岩波文庫)
価値創造の「行動」こそ、人生の誉れである。
〈ナポレオン公は、こうも語っている。
「私は池田会長に、ナポレオンに通ずる『卓越した行動力』『偉大な人間力』を見出すのです。
池田会長は『前進の人』であり、『精神の人』であり、『平和の人』です」
「私は、池田会長の全身に漲っている『生命の力』『知性の力』『精神の力』に圧倒されました。池田会長に『21世紀のナポレオン』を見る思いがいたしました」〉
ナポレオン
不幸を乗り越えるのが高貴で勇気あることだ
「不屈の闘志」こそ実地稚の魂!
一、ナポレオンの人生は、決して栄光や勝利ばかりではなかった。失敗もあった。挫折もあった。
皇帝の座を追いやられて、二度も島に流罪されるという悲劇も味わった。
しかし、ナポレオンは、いかなる境遇にも断じて負けなかった。エルバ島に流された時、彼は、断固たる志をもって立ち上がり、もう一回、復活した。
この不屈の闘志に、英雄の英雄たる魂の発光があると、私は思ってきた。
最大の苦難や逆境の時にこそ、その人物の真価がわかる。
ナポレオンは、最後に流刑された絶海の孤島セント・ヘレナにおいても、こう叫んでいる。
「不幸を乗り越えるのが高貴で勇気あることなのだ! この世では、誰もが、その運命を全うする義務があるのだ!」(ラス・カーズ編、小宮正弘訳『セント・ヘレナ日記抄』潮出版社)
わが人生を開いていくのは、この雄々しき気概である。決然たる勇気である。
重ねて、ナポレオンの獅子吼を贈りたい。
「仕事こそ私の本領とするところだ。私は仕事をするように生まれついているのだ。
私は自分の足の限界は知っていた。眼の限界も知っていた。しかし仕事となるとその限界はまるで知らなかった」
「数よりも精神力が勝利を決定する」(ともにアンドレ・マルロー編、小宮正弘訳『ナポレオン自伝』朝日新聞社)
一、結びに、私と同じ心で戦い進む、わが愛弟子たちに一句を贈りたい。
創立日
君たちありて
大前進
長時間ありがとう!
すべてに立派な総仕上げをしていこう!
(大拍手) (2008・11・19)
11,18記念代表協議会での名誉会長のスピーチ 〔完〕
41
:
武
:2009/07/05(日) 22:33:18
こういうのは別スレでやれよ。本当に迷惑な奴だ。
42
:
説教オヤジ
:2009/07/05(日) 22:43:30
サトちゃんよ。
何を勝手に書き込んでおる?
ワシからの問いに対する返答はまだか?
ただ黙って逃げ回り、「時が経てば」ってか?
「時を待つべきのみ」か?
どうしたよ。
お主が言うた事じゃ。
しっかり答えよ。
それとも、思ったとおりの時間が経過したから
「何の事か覚えがありません」ってか?
そうはいかんよ。
キッチリ答えんか、 サーーーートちゃん?
43
:
やまいぬ。
:2009/07/05(日) 22:46:57
多重にて自作自演という気も狂わんばかりの醜態がばれて、本当にアタマのコードが2、3本
切れたかもしれませんよ?(^o^) なぁ、坊や?(^o^)
誰かが労力と時間を費やして一生懸命打ちこんでくださったものを、意味もなく脈絡もなく
出鱈目にコピー・ペースト。狂人の沙汰だ。(>_<)(^o^)
44
:
天城五兵衛
:2009/07/05(日) 23:20:12
回答しないなら、荒らしと判定するぞ。
23 :天城五兵衛:2009/07/05(日) 20:00:08
佐藤義徳クン、責任転嫁せずに質問に答えて下さい。
回答も出来ないで、悪口を投稿するのは、持論に自信が無いからでしょう。
キミの説は、既に破折されているんだよ。
池田先生の講義を否定している人物を、学会員とは認められないね。
さあ、答えなさい!
>>14
名前:天城五兵衛 投稿日: 2009/07/04(土) 23:27:23
佐藤義徳@人本仏迹論者へ
回答出来るまで、質問を続ける。
今までの質問をまとめたので、早く以下の質問に対して回答すること。
他人の投稿であれ、キミが活字として投稿した以上、きっちりと回答する事!
質問1(2009年7月1日分)
「本門と迹門に優劣がない」と、日蓮大聖人の指南並びに創価学会指導で、具体的にどの様に指南されているのだ?
質問2(2009年7月1日分)
私をはじめ、一体誰が「仏本人迹」論を打ち立てたのだ?
やまいぬ。様、マグマグ様をはじめ沖浦板で忠告をし、アクセス禁止処分になった方で、誰が「仏本人迹論」を提唱した?
私が、いつ、どちらの掲示板で、「仏本人迹論」を主張したんだ?
他人様に難癖を付ける以上、具体的な投稿を引用して批判してみなさい。それが出来なければ、キミは乙骨某に類する「デマ男」でしかない。
質問3(2009年7月3日分)
> ほらね〜!本尊は何処にも書かれていませんね〜!
生死一大事血脈抄を引用して来たので、池田先生の「生死一大事血脈抄講義・90頁」から引用し、デマ男の浅学を叩きのめしてあげよう。
*******(ここから引用)
「久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無し」とは、真実の仏の本質も、真実の仏法の本質も、そして、私たち衆生の生命の本質も「仏界の生死」にほかならない、ということです。
自分自身が、「久遠実成の釈尊」と「皆成仏道の法華経」と全く差別がないと理解し確信して、南無妙法蓮華経と唱えてこそ、私たちもまた、三世永遠に「仏界の生死」に連なることができるのです。(中略)
一人一人が妙法の当体として、日蓮大聖人即御本尊の生命が赫々と涌現し、妙法と一体の生命活動を繰り広げているのです。(以下略)
(ここまで引用)*******
「日蓮大聖人」=「皆成仏道の法華経」=「御本尊」との先生の講義である。
キミの主張と違う理由を説明しなさい。
45
:
天城五兵衛
:2009/07/05(日) 23:21:23
著作権法に抵触するぞ、佐藤クン。
46
:
天城五兵衛
:2009/07/05(日) 23:22:12
まるで嫌がらせだな(^^)
47
:
天城五兵衛
:2009/07/05(日) 23:23:51
佐藤クン、
「天晴れぬれば地明かなり法華を識る者は世法を得可きか」という御文分からないよね。
48
:
佐藤義徳
◆4cVqan2W..
:2009/07/05(日) 23:23:51
【沖坂・庶民坂より引用転載】
名前:沖浦克治 投稿日: 2009/07/05(日) 21:46:54 ID:AJ3hr85o0
槃特さん
若鷹が大謗法に堕ちた瞬間の記録があります。
>南無妙法蓮華経の下に「沖浦克治」と書いた曼荼羅でも拝んでろ!
公爵さんがこう言う大謗法の書き込みして、武さんが大喜びで賛成しています。
誰も注意いたしません。
〜引用終わり〜
御本尊様をこう言う事で引用すれば、既に創価の板ではありません。
お曼荼羅は迹ですよ。
ですが、信仰の根本対象です。
御本尊様を粗末に扱うと言うことは、自分の己心の妙法を信じないと言うことなんです。
反対に、御本尊様を大切にする事は、自身のみならず、一切衆生の己心の妙法を敬うと言うことです。
大白蓮華の七月号に、先生の当体義抄の講義に触れた記事が載っています。
そこに詳しく出ていますから、お読みくださいね。
公爵さんが、御本尊様を粗末にする書き込みをした。
武さんが喜んではやしたて、管理人も含めて誰も注意すら出来ない。
これね、大聖人様の魂のお曼荼羅に泥を塗る大謗法です。
私はね、御本尊様を粗末にする人は許せません。
樋田さんが曼荼羅をコピーしてひらつかせたとき、間髪をいれずしかりつけました。
映像に残っていますのでご確認下さいませ。
公爵さんがあのような大謗法を犯し、武さんが与同し、管理人が注意すら出来なかった瞬間、アノ板は現証により消滅が決まったんですよ。
○白ネコさん、わかりましたか?
49
:
若鷹の掲示板 管理人
:2009/07/05(日) 23:25:11
さて皆様
『「若鷹の掲示板」の停止を画策又は実行、又は関与』した誰かさんは、
「若鷹の掲示板」の停止を喜々としてさぞかし大喜びしていることでしょう(笑)。
次なるはこちらの「若鷹の大掲示板」の停止をきっともくろむことでしょうが、
そうはいきません(笑)
誰かさんが「ウッソー」「マジで?」という企画を用意致しました。
一晩だけの企画となるか?しばらく続くか?
本家をそのまま継承するか?はわかりませんが、「これは?!」と思われる方は
下記URLの上部箇所と投稿№2をよくお読みになりご参加下さいませ。
http://www2.ezbbs.net/09/wakataka/
50
:
説教オヤジ
:2009/07/05(日) 23:26:26
>>46
断末魔じゃよ。
何か書きたいが、何を書いたらいいか解らない。
しかし、何かを書かなきゃ気が済まない。
「書かなきゃ、書かなきゃ」の自己脅迫の念が書かせた一種の自己喪失状態。
まさしく断末魔じゃな。
51
:
天城五兵衛
:2009/07/05(日) 23:27:56
沖「坂」ってなんだ?
北海道の方言か?
52
:
天城五兵衛
:2009/07/05(日) 23:34:09
庶民「坂」だって(^m^)
北海道でもこういう表現はしないと思うが....。
53
:
天城五兵衛
:2009/07/05(日) 23:37:13
坂から転げ落ちるよな、今時Windows98を使っているくらいだから(^m^)
54
:
天城五兵衛
:2009/07/05(日) 23:39:29
>>49
管理人さんの投稿が出た途端に、佐藤クンの投稿が止まっているね(^^)。
怪しいなあ....(笑い)
55
:
天城五兵衛
:2009/07/05(日) 23:40:08
>>54
北海道で停電でもあったかな?
56
:
天城五兵衛
:2009/07/05(日) 23:40:59
>>55
Windows98だけに、フリーズしたんじゃないのかな?
57
:
天城五兵衛
:2009/07/05(日) 23:41:30
佐藤クン、
「天晴れぬれば地明かなり法華を識る者は世法を得可きか」という御文分からないよね。
58
:
天城五兵衛
:2009/07/05(日) 23:43:49
佐藤クン、回答しないなら、荒らしと判定するぞ。
23 :天城五兵衛:2009/07/05(日) 20:00:08
佐藤義徳クン、責任転嫁せずに質問に答えて下さい。
回答も出来ないで、悪口を投稿するのは、持論に自信が無いからでしょう。
キミの説は、既に破折されているんだよ。
池田先生の講義を否定している人物を、学会員とは認められないね。
さあ、答えなさい!
>>14
名前:天城五兵衛 投稿日: 2009/07/04(土) 23:27:23
佐藤義徳@人本仏迹論者へ
回答出来るまで、質問を続ける。
今までの質問をまとめたので、早く以下の質問に対して回答すること。
他人の投稿であれ、キミが活字として投稿した以上、きっちりと回答する事!
質問1(2009年7月1日分)
「本門と迹門に優劣がない」と、日蓮大聖人の指南並びに創価学会指導で、具体的にどの様に指南されているのだ?
質問2(2009年7月1日分)
私をはじめ、一体誰が「仏本人迹」論を打ち立てたのだ?
やまいぬ。様、マグマグ様をはじめ沖浦板で忠告をし、アクセス禁止処分になった方で、誰が「仏本人迹論」を提唱した?
私が、いつ、どちらの掲示板で、「仏本人迹論」を主張したんだ?
他人様に難癖を付ける以上、具体的な投稿を引用して批判してみなさい。それが出来なければ、キミは乙骨某に類する「デマ男」でしかない。
質問3(2009年7月3日分)
> ほらね〜!本尊は何処にも書かれていませんね〜!
生死一大事血脈抄を引用して来たので、池田先生の「生死一大事血脈抄講義・90頁」から引用し、デマ男の浅学を叩きのめしてあげよう。
*******(ここから引用)
「久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無し」とは、真実の仏の本質も、真実の仏法の本質も、そして、私たち衆生の生命の本質も「仏界の生死」にほかならない、ということです。
自分自身が、「久遠実成の釈尊」と「皆成仏道の法華経」と全く差別がないと理解し確信して、南無妙法蓮華経と唱えてこそ、私たちもまた、三世永遠に「仏界の生死」に連なることができるのです。(中略)
一人一人が妙法の当体として、日蓮大聖人即御本尊の生命が赫々と涌現し、妙法と一体の生命活動を繰り広げているのです。(以下略)
(ここまで引用)*******
「日蓮大聖人」=「皆成仏道の法華経」=「御本尊」との先生の講義である。
キミの主張と違う理由を説明しなさい。
59
:
武
:2009/07/05(日) 23:43:54
多重ハンドラー佐藤氏は、北海道に住んでいるというのもウソのようです。(笑)
60
:
説教オヤジ
:2009/07/05(日) 23:45:01
>>52
>北海道でもこういう表現はしないと思うが....。
なにゆってんの?
北海道はさ、標準語だってばさ。
嘘だと思うんなら、誰かに聞いてみればいっしょ。
沖坂ってかい?庶民坂ってかい?
そんな坂何処にも無いべさや。
誰か聞いた事あんだべか?
天城さん。
これでも北海道に方言があるってかい?
62
:
佐藤義徳
◆4cVqan2W..
:2009/07/05(日) 23:46:52
SGI憲章
前文
我ら創価学会インタナショナルのすべての構成団体および構成員は、仏法を基調とする、平和・文化・教育への貢献をめざしてゆく。
20世紀を生きた人類は、「戦争と平和」「差別と平等」そして「貧困と豊かさ」という対極にある状態を、過去のどの世紀の人類よりも激しい振幅の中で経験した。
核兵器をはじめとする軍事技術の革新は人類絶滅の危機的状況をもたらしており、民族や宗教による激しい差別の現実は今なお紛争を絶やさない。そして、人類のエゴと放漫は、南北問題や地球環境の深刻な悪化などの「地球的問題群」を引き起こし、人類の存亡の危機をもたらしている。
日蓮大聖人の仏法は、人間生命の限りなき尊厳性を説き、すべての人を包含する慈悲といかなる困難をも克服する智慧をもたらす法である。そして、この智慧は人間精神の創造性を拓き、人類社会の直面するいかなる危機をも克服し、平和で豊かな共生の人類社会を実現できることを説く「人間主義」の法である。
我らSGIは、この「人間主義」に基づく「世界市民の理念」「寛容の精神」「人権の尊重」を高く掲げ、非暴力と対話により、こうした人類的課題に挑み、人類社会に貢献することを深く決意して、ここに以下の目的および原則を確認し、このSGI憲章を制定する。
目的と原則
63
:
佐藤義徳
◆4cVqan2W..
:2009/07/05(日) 23:49:15
地涌の菩薩
地涌の菩薩とは、法華経涌出品第十五で、釈尊が滅後弘通のために大地から呼び出した無数の菩薩をいいます。大地の底から涌き出たので地涌の菩薩といいます。大地の底とは、真理の世界に住していたことを意味します。
この地涌の菩薩の数は六万恒河沙です。「恒河」とはインドのガンジス河のことで、その砂の数を一恒河沙といいます。その一恒河沙の6万倍の菩薩が出現し、しかも、それぞれが無数の眷属(=従者、仲間)を率いているのです。
経典には、釈尊を25歳の青年とすれば、この地涌の菩薩は100歳の翁に譬えられるほど、仏以上の立派な姿をしていたことが説かれます。
この地涌の菩薩は、久遠実成の釈尊に教化され、“成仏のための根源の法”をすでに所持しており、釈尊と同じ仏としての生命境涯を持ちながら、菩薩の姿で悪世末法に妙法を広宣流布していく使命を帯びているのです。
この地涌の菩薩は、上行菩薩、無辺行菩薩、浄行菩薩、安立行菩薩という4人の導師(=衆生を導くリーダー)に率いられています。
そして、上行菩薩らは、法華経神力品第二十一において、仏の滅後に真実の大法を弘めることを誓います。これに対して釈尊から滅後の弘教を付嘱されます。付嘱とは、未来に法を弘通することを託すことです。
大聖人は、虚空会の説法の内容全体から、地涌の菩薩が出現する時は、滅後の中でも悪世末法であり、弘める大法とは南無妙法蓮華経にほかならないことを明かされています。
この付嘱通りに末法の初めに、先駆けて南無妙法蓮華経を弘通された日蓮大聖人が上行菩薩にあたります。
また「諸法実相抄」に「いかにも今度・信心をいたして法華経の行者にてとをり、日蓮が一門となりとをし給うべし、日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか、地涌の菩薩にさだまりなば釈尊久遠の弟子たる事あに疑はんや」(御書1360ページ)と仰せのように、日蓮大聖人の教えを信受して、大聖人の御精神の通り広布の実践に励む私たち一人ひとりも、すべて地涌の菩薩であり、末法の御本仏・日蓮大聖人の本眷属なのです。
64
:
天城五兵衛
:2009/07/05(日) 23:49:33
>>59-60
北海道の悪口を書いているのではありませんので、御了解願います。
北海道にご縁のある方に不快感を抱かせる様でしたら、本意ではございませんので、謝罪致します。
北海道在住で無いなら、グローバルIPアドレスなんでしょうね。
伽●とかいう蛸坊主がそうであったように。
65
:
佐藤義徳
◆4cVqan2W..
:2009/07/05(日) 23:53:55
>>62
の続きです。
目的と原則
SGIは生命尊厳の仏法を基調に、全人類の平和・文化・教育に貢献する。
SGIは「世界市民」の理念に基づき、いかなる人間も差別することなく基本的人権を守る。
SGIは「信教の自由」を尊重し、これを守り抜く。
SGIは人間の交流を基調として、日蓮大聖人の仏法の理解を広げ、各人の幸福の達成に寄与していく。
SGIは各加盟団体のメンバーが、それぞれの国・社会のよき市民として、社会の繁栄に貢献することをめざす。
SGIはそれぞれの国の実情をふまえて、各加盟団体の自立性と主体性を尊重する。
SGIは仏法の寛容の精神を根本に、他の宗教を尊重して、人類の基本的問題について対話し、その解決のために協力していく。
SGIはそれぞれの文化の多様性を尊重し、文化交流を推進し、相互理解と協調の国際社会の構築をめざす。
SGIは仏法の「共生」の思想に立ち、自然保護・環境保護を推進する。
SGIは真理の探求と学問の発展のため、またあらゆる人々が人格を陶冶し、豊かで幸福な人生を享受するための教育の興隆に貢献する。
【人間主義】に基づく『寛容の精神』ですよっ!某坂方々〜!
66
:
天城五兵衛
:2009/07/05(日) 23:57:19
佐藤クン、大丈夫か?
ブレーキが壊れた車の様に、ダッチロールしているようだが....。
長年IT業界にいると、自己制御不能に陥る人物を見かけるので、少し心配ですな。
まあ、それも自己責任ですから、仕方ありませんね。
職場であれば、ぶん殴ってでも止めますが、ここでは制御出来ません。
大聖人曰く「大高声を放ちて申すあらをもしろや平左衛門尉が・ものにくるうを見よ」
67
:
佐藤義徳
◆4cVqan2W..
:2009/07/05(日) 23:57:53
池田名誉会長の指針
池田名誉会長の指針から
真剣に勤行・唱題を続けたら、どれほど素晴らしいか。全部、自分のためです。義務ではなく、自分の権利です。
御本尊は決して、拝んでほしいなどと言われていない。こちらから、拝ませてくださいというのが信心です。やった分だけ、自分が得をする。
ともかく窮屈に考える必要はない。仏法は人間を自由にするものであって、人間を縛るものではないのです。
少しずつでも、毎日することが大事です。毎日、ご飯を食べてエネルギーとなる。勉強も毎日、積み重ねることによって力となる。
「毎日の生活が即人生」となる。だから「毎日の生活即向上」でなければならない。その推進力が勤行です。
勤行という行に励むことは、毎日の「心のトレーニング」です。自分自身の生命を清浄にし、エンジンをかけ、軌道に乗せていくことです。心身ともに回転を促し、リズムを整えていくのです。(『青春対話』から抜粋)
勤行をするのは“自分のため”である。
また自分の姿を見て、後輩もついてくる。子どもも見習う。(中略)
題目を百遍、二百遍でもよい。何かやることである。ともかく、まず御本尊の前に座ることだ。
大事なことは、朝晩、御本尊を拝そう、題目をあげようという「心」である。その「心」があれば福運は消えない。その心で「実践」すれば、福運はいや増していく。
だれが見ていなくとも、御本尊が全部、見ておられる。(1996・2・24、本部幹部会のスピーチ)
勤行・唱題は、小宇宙である自分自身を、大宇宙の根本のリズムに合致させゆく崇高な儀式である。
御本尊へ合掌し、勤行・唱題する。その声は、すべての仏・菩薩、諸天善神のもとに届いている。そして、目には見えないが、全宇宙の仏・菩薩、諸天善神が、その人を守り囲んでいく。その”真ん中”に自分がいることになる。(中略)
題目をあげるということが、どれほど、すごいことか。すべての仏・菩薩、諸天が味方になるのである。
だから人類を救う力がある。救う使命がある。(1999・7・3、7・3記念本部幹部会のスピーチ)
「親が子どもを捨てないように、子どもが母から離れないように」、そのように自分の心を御本尊の中に入れて、「実現させてください」と真心から祈ればいいのです。その祈りが、必ず、力を与えてくれる。
「祈り」という特別なものがあるのではない。「心から、お願いする」ということにほかならない。
「心」が大事です。心から御本尊を慕い、信じ、御本尊を大好きになって祈っていくことです。すべて自分のための信心です。唱題も「自分が満足する」ということが大事です。
決して、何時間やらなければいけないとか、形式ではない。目標を立てることは意味があるが、疲れている時とか眠い時とか、心もうつろに、惰性で口を動かしているだけ(笑い)――それよりも早く休んで、はつらつとした心身で行うほうが、価値的な場合がある。
居眠りしながら祈るのではなく、真剣さが大事です。
「ああ、すっきりした」と自分が満足するのが第一義です。その一日一日の積み重ねが、自然のうちに、一番いい方向へと人生を開いていくのです。(『青春対話Ⅱ』から抜粋)
68
:
佐藤義徳
◆4cVqan2W..
:2009/07/06(月) 00:06:46
>>66
忝い!ご心配には及ばぬ。
形骸化した“葬式仏教”
日本における仏教は、江戸時代の檀家制度によって寺院が民衆を統治・支配する権力機構に組み込まれたことにより、布教を忘れ、民衆救済という仏教本来の精神が薄れ、時代を経るにしたがい、形骸化し、権威化してしまいました。葬式など儀礼中心の、いわゆる葬式仏教となってしまったのです。
日顕宗はその典型で、形骸化・権威化の旧悪の体質そのままです。葬儀など、遺族の悲しみにつけいって多額の供養をせびるなど、供養金目当ての“商売”に狂奔する堕落し切った姿は、まさに“食法餓鬼”です。
ところで檀家制度とは、人々を強制的に、いずれかの寺院の檀家として所属させた制度です。これにより当時の幕府は、人々の統治を容易にした訳です。寺院は檀家制度によって、檀家の葬儀や年忌法要などの儀礼で得られる供養を寺院経営の基盤とさせていったのです。
そうしたなかで、「塔婆」や「位牌」「戒名」などが、その意義や形を変えて寺院経営の手段として取り入れられていったのです。
また檀家制度のもとでは、僧侶が行うのは葬儀・法要などの儀礼が中心で、檀家の信仰心を深めようとする努力は、ほとんどなされなかったのです。
このような歴史のなかで形成されたのが、僧侶の権威を強調し、僧俗を差別する在り方です。
愚かにも日顕宗では“坊主が上で、在家は下”などという珍妙な僧俗差別論にしがみつき、まさに封建時代の遺物と化しています。
大聖人は「僧侶も、尼も、在家の男性・女性の信仰者も、法華経の一句でも人に語っていく人は仏の使いである」(御書1448ページ、趣意)と仰せになり、僧侶も、在家の信仰者も皆平等であることを強調されています。
“坊主”の権威を振りかざす日顕宗は、大聖人の仏法とはまったくかけ離れた邪義を説いているのです。
「大聖人直結」「御書根本」の創価学会こそ、日蓮大聖人、日興上人の教えと信仰を正しく受け継ぐ唯一の教団であり、大聖人の仏法を現代の言葉で語り、現代に生き生きと脈動させているのです。
69
:
佐藤義徳
◆4cVqan2W..
:2009/07/06(月) 00:11:32
池田名誉会長の指針
釈尊も、大聖人も、葬儀について具体的には、何も説かれていない。その人が成仏できるかどうかは、あくまでも、その人自身の「信心」による。僧侶が行う「葬儀」によって決まるわけではない。
そうでなければ、日々、信心の修行に励む必要などなくなってしまう。一生、遊び続け、死ぬ前日にでも僧侶を呼び、金を渡して葬儀を頼めばよい、ということになろう。成仏が、そんな簡単なものであるはずがない。“葬儀には僧侶を呼ぶのが「伝統の化儀(けぎ)」である。さもなければ成仏できない”――こんな日顕宗の言い分が、どれほど大きな偽(いつわ)りか。大聖人の仏法に背(そむ)く、まったくの「邪義」なのである。その邪義を振りかざして信徒をだまし、金銭をしぼり取る――日蓮大聖人へのこれほどの反逆はない。民衆への、これほどの侮辱はない。この極悪を、断じて、許してはならない。
(1993年8月8日、本部幹部会でのスピーチ)
「日蓮がたましひ(魂)をすみ(墨)にそめながして・かきて候ぞ」(御書1124ページ)
「一念三千(いちねんさんぜん)の法門をふ(振)りすす(濯)ぎたてたるは大曼荼羅(まんだら)なり」(同1339ページ)
このように仰せの御本尊であられ、御本仏・日蓮大聖人の御生命の当体であられる。無限の「仏力」「法力」を具(そな)えておられる。
ゆえに、残る大切なことは、形式ではなく、拝する者の「信力」「行力」である。強く、正しき「信」と「行」の力によって、御本尊の仏力・法力が発揮されるのである。
「信力」も「行力」もない、謗法の僧侶が、どんなに荘厳めかした儀式をしたとしても、何の意味もない。そうした儀式は、全く必要ないのである。
(1992年12月23日、婦人部との語らい)
70
:
佐藤義徳
◆4cVqan2W..
:2009/07/06(月) 00:15:37
「実践の教学」の意義
なぜ教学が必要か
私たちの信仰の根本指針の一つに「実践の教学」が挙げられます。
「実践の教学」とは、日蓮大聖人が教え遺された「御書」の拝読を根本に、正しい仏法の法理を信仰実践のなかで学び、心に刻んで、御本尊への「信」を深めていくことです。ですから、「実践」を離れたところに私たちの教学は存在しません。どこまでも信心を深め、実践を豊かにするための研さんが大事なのです。
池田名誉会長は、教学の大切さについて、つづっています。
「教学は、人生、生き方の軌道をつくる。教学の研さんがなくなると、なんのための信心か、わからなくなり、感情や利害に左右され、策略で動くようになってしまうものです」(小説『新・人間革命』第四巻、青葉の章)
教学を深めていくならば、私たちの信心の実践を妨げようとする「魔」の本質も分かります。心にある疑問も晴らしていけます。なぜ「難」にあうのか、なぜ「迫害」されるかが、道理として理解することができ、ますます信心への確信が強くなります。
71
:
佐藤義徳
◆4cVqan2W..
:2009/07/06(月) 00:19:49
池田名誉会長の指針から(1)
妙法を唱え、弘める人は仏の使い
―大福徳を積み、永遠の幸福への直道を
折伏とは「真実を語る」ことです。法華経は真実を説いているので「折伏の経典」と呼ばれる。末法においては、法華経の真髄である「南無妙法蓮華経」の素晴らしさを語り、広げていく行動は、全部「折伏」です。(中略)
大切なことは「真心が通じますように」との祈りです。祈りから智慧も生まれる。確信も、歓喜も生まれる。大変だけれども、その人が必ず幸せになり、自分も幸せになっていくことを思えば、これほど「楽しい」こともない。(『法華経の智慧』第二巻から抜粋)
多くの人が、「自分だけの幸せ」しか考えないような世の中である。
その中で、自分自身が、さまざまな苦労を担いながらも、悩める友の声に耳を傾け、励ましておられる。
懸命に、広宣流布のために行動し、折伏をしておられる。それが、どれほどすごいことか。(中略)
「私は幸福だ。最高の妙法を持っているから」
この大確信で、仏法を語ればよいのである。
現在の境遇がどうあれ、妙法を唱え、弘めゆく人は、すべて仏の使いである。はかりしれないほどの大福徳を積み、永遠の幸福への直道を歩んでいることを誇りにしていただきたい。(2002・2・1、本部幹部会のスピーチ)
池田名誉会長の指針から(2)
72
:
若鷹の掲示板 管理人
:2009/07/06(月) 00:27:12
佐藤義徳氏へ
>>44
上記№44の
天城五兵衛氏の質問に真摯に回答なき場合、前回「若鷹の掲示板」での裁定に続き
誠意なしとし、これまでの投稿全文削除
(管理人が特に有用と思われる箇所のみ抜粋し後日「御書・学会指導スレッド」へ管理人名で再投稿し)
の上、最終警告処分(但し、落ち着くまで一旦アクセス禁止)とします。
73
:
佐藤義徳
◆4cVqan2W..
:2009/07/06(月) 00:27:42
随方毘尼
仏法は、時代・地域・人種・性別・年齢を問わず、万人に共通の根本法則です。そのうえで、仏法は、さまざまな文化の多様性を認め、その在り方を最大限に尊重します。そうした仏法の考え方から出てきた法理の一つに随方毘尼があります。
これは、随方随時毘尼ともいい、仏法の根本の法理に違わないかぎり、各国・各地域の風俗や習慣、時代の風習を尊重し、それに随うべきであるとした教えです。
「随方」とは、地域の風習に随うこと、「毘尼」とは、戒律の意味です。
日蓮大聖人は「此の戒の心はいたう事かけざる事をば少少仏教にたがふとも其の国の風俗に違うべからざるよし仏一つの戒を説き給へり」(御書1202ページ)と仰せです。
要するに、正法という根本基準を立てたうえで、成仏・不成仏という仏法の根本原理に関する事柄でなければ、一般の風俗、世間の普通の約束事を尊重し、用いていくことを説いているのが日蓮大聖人の仏法です。
74
:
佐藤義徳
◆4cVqan2W..
:2009/07/06(月) 00:37:47
>>14
名前:天城五兵衛 投稿日: 2009/07/04(土) 23:27:23
佐藤義徳@人本仏論者へ
回答出来るまで、質問を続ける。
今までの質問をまとめたので、早く以下の質問に対して回答すること。
他人の投稿であれ、キミが活字として投稿した以上、きっちりと回答する事!
質問1(2009年7月1日分)
「本門と迹門に優劣がない」と、日蓮大聖人の指南並びに創価学会指導で、具体的にどの様に指南されているのだ?
○本門と迹門優劣ありますよ〜♪
質問2(2009年7月1日分)
私をはじめ、一体誰が「仏本人迹」論を打ち立てたのだ?
やまいぬ。様、マグマグ様をはじめ沖浦板で忠告をし、アクセス禁止処分になった方で、誰が「仏本人迹論」を提唱した?
私が、いつ、どちらの掲示板で、「仏本人迹論」を主張したんだ?
他人様に難癖を付ける以上、具体的な投稿を引用して批判してみなさい。それが出来なければ、キミは乙骨某に類する「デマ男」でしかない。
○日々さんが仰っていましたね。
質問3(2009年7月3日分)
> ほらね〜!本尊は何処にも書かれていませんね〜!
生死一大事血脈抄を引用して来たので、池田先生の「生死一大事血脈抄講義・90頁」から引用し、デマ男の浅学を叩きのめしてあげよう。
*******(ここから引用)
「久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無し」とは、真実の仏の本質も、真実の仏法の本質も、そして、私たち衆生の生命の本質も「仏界の生死」にほかならない、ということです。
自分自身が、「久遠実成の釈尊」と「皆成仏道の法華経」と全く差別がないと理解し確信して、南無妙法蓮華経と唱えてこそ、私たちもまた、三世永遠に「仏界の生死」に連なることができるのです。(中略)
一人一人が妙法の当体として、日蓮大聖人即御本尊の生命が赫々と涌現し、妙法と一体の生命活動を繰り広げているのです。(以下略)
(ここまで引用)*******
「日蓮大聖人」=「皆成仏道の法華経」=「御本尊」との先生の講義である。
キミの主張と違う理由を説明しなさい。
○すばらしいですね。日蓮大聖人は御本仏で正解ですよ。
75
:
佐藤義徳
◆4cVqan2W..
:2009/07/06(月) 00:48:37
之れを以つて之れを思ふに忘れても法華経を持つ者をば互に毀るべからざるか、其故は法華経を持つ者は必ず皆仏なり仏を毀りては罪を得るなり。
(松野殿御返事 1382ページ )
76
:
佐藤義徳
◆4cVqan2W..
:2009/07/06(月) 00:54:49
善知識と悪知識
「知識」とは元来、仏教用語では友人・知人を意味する言葉です。知識のなかでも正しく仏道に導いてくれる人や、仏道修行を励ましてくれる同志を「善知識」といい、その逆に、仏道修行を妨げ、人を迷わして悪道に導く者を「悪知識」といいます。
凡夫の心は揺れ動きやすいものであり、仏道修行の途上においても、ともすれば自身の弱さに負けて修行を怠ったり、正しい仏の教えを見失ったりしがちです。そこで、常に正しい仏道に導き、信心を触発してくれる善知識が必要なのです。
それ故に日蓮大聖人は「されば仏になるみちは善知識にはすぎず、わが智慧なににかせん、ただあつきつめたきばかりの智慧だにも候ならば善知識たいせちなり」(御書1468ページ)と、教えられています。
逆に仏道修行を妨げる悪知識については、涅槃経にこのように説かれています。
「たとえ凶暴な悪象に殺されたとしても、それは何ら恐れることではない。なぜならば、たとえ自身の肉体が破壊されることがあっても、自身の心は破壊されていないのだから、地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕ちることは決してない。しかし、悪知識によって心が破壊されたら、必ず三悪道に堕ちる因を作ったことになる」
したがって、善知識に親近するとともに、悪知識を遠ざけることが大事になります。
また大聖人は、もう一歩進んで、仏道修行を妨げようとする悪知識をも成仏への機縁としていく強盛な信心に立つべきことを示されています。その時は悪知識も善知識ととらえられるのです。
すなわち「種々御振舞御書」に「釈迦如来の御ためには提婆達多こそ第一の善知識なれ、今の世間を見るに人をよくなすものはかたうどよりも強敵が人をば・よくなしけるなり」(同917ページ)と説かれ、「富木殿御返事」には「諸の悪人は又善知識なり」(同962ページ)と述べられています。
77
:
佐藤義徳
◆4cVqan2W..
:2009/07/06(月) 00:57:55
立正安国論
日蓮大聖人の仏法は、各人の生命境涯を変革し、今世のうちに絶対的幸福境涯を開くことを可能にする教えです。それとともに、各人の生命境涯の変革を通して社会全体の平和を達成することを目指しています。大聖人は、平和実現のための原理を立正安国論のなかで示されました。
「立正安国」とは「正を立て国を安んずる」と読みます。
「立正」とは人々が人生のよりどころとして正法を信受することであり、また、仏法の生命尊厳の理念が、社会を動かす基本の原理として確立されることです。「安国」とは社会の平和・繁栄と人々の生活の安穏を実現することです。
立正安国論における「国」とは、権力を中心にした統治機構という面とともに、より一歩深く、民衆の生活の基盤としてとらえられています。その意味で、人間が形成している社会体制だけでなく自然環境の国土も含まれます。
大聖人が民衆を中心に国をとらえられていたことは立正安国論の御真筆において、国を意味する漢字を書かれる多くの場合に「国構えに民」の字を用いられていることにもうかがうことができます。
立正安国論は、直接的には当時の日本の安国の実現のために著された書ですが、その根底となっている精神は、民衆の安穏の実現にあり、したがって、未来永遠にわたる全世界の平和と人々の幸せを実現することにあります。
また、大聖人が当時の人々の苦悩を解決するため、立正安国論を著し、権力者を諫められたこと自体、仏法を行ずる者はただ自身の成仏を祈って信仰していればよいのではなく、仏法の理念・精神を根本にして、積極的に社会の課題に関わっていくべきことを身をもって示されたものと拝察できます。
創価学会が、今日、仏法の理念を根本に、平和・文化・教育・人権などの分野で、地球的課題の解決に取り組んでいるのも「立正安国」の法理と精神に基づく実践にほかなりません。
79
:
若鷹の掲示板 管理人
:2009/07/06(月) 01:41:02
佐藤義徳氏へ
>>72
での、管理人の投稿
*********************************************************************
>>44
上記№44の
天城五兵衛氏の質問に真摯に回答なき場合、前回「若鷹の掲示板」での裁定に続き
誠意なしとし、これまでの投稿全文削除
(管理人が特に有用と思われる箇所のみ抜粋し後日「御書・学会指導スレッド」へ管理人名で再投稿し)
の上、最終警告処分(但し、落ち着くまで一旦アクセス禁止)とします。
**********************************************************************
への真摯な回答が無いため、
最終警告処分(但し、落ち着くまで一旦アクセス禁止)とします。
80
:
佐藤義徳
◆4cVqan2W..
:2009/07/06(月) 01:50:05
>>79
管理人さん♪誠意なしとは心外なんですけども〜♪
私にとってはこれが精一杯のお答えです。
手に障害があるためにキーボードを打つのに通常の3倍の時間を有します。
何卒、善きにはからいくださいますよう、ご検討くださいませ。
81
:
若鷹の掲示板 管理人
:2009/07/06(月) 02:13:10
佐藤義徳氏へ
上記は「若鷹の掲示板」に貴殿が過去投稿されたものの焼き直しであり、
管理人としては十分な論理と思えません。
また貴殿は「日々さんが仰っていましたね」と他人の責任にすり替え、
貴殿自身の論を戦わせておらず、それゆえ先日「厳重注意」を受けています。
それについて全く反省もありません。
もっと勉強と教学の研鑽が必要だと思います。
管理人として上記考えますが、天城五兵衛氏が満足ならば、管理人がとやかく言う
ことでもないため、とりあえず天城五兵衛氏が満足か否か、返答をお待ち下さい。
82
:
天城五兵衛
:2009/07/06(月) 22:03:15
>>81
管理人様、回答が遅くなりました事、お詫び申し上げます。
佐藤氏の回答には、全く以って満足しておりません。
以下、閉鎖される直前の「若鷹の掲示板」の過去ログです。
31995.天城氏へ、
名前:佐藤義徳 日付:7月1日(水) 1時4分
>>31991
(前略)
排し方は千差万別ですからね。 大聖人はね。優劣ないと御教示されていますがね。。
(以下略)
斯様に述べる一方で、今回、「○本門と迹門優劣ありますよ〜♪」等と述べています。
加えて、池田先生の「生死一大事血脈抄の講義」を否定する沖浦某の説を支持しながら、その誤りを問い質しても、まともな回答が出来ません。
まともに議論する意志など、当初から無いのは明白です。
また、著作権を無視した投稿や意図不明のコピペは、当掲示板への荒らし行為と思います。
更に、実名と思われるハンドル名で、多くの参加者に不快感を与える行為は、当掲示板を閉鎖に追いやる意図的な行為と思われます。
従いまして、佐藤氏の全投稿の削除並びに同氏のアクセス禁止動議を、改めて提出させて頂きます。
天城五兵衛 拝
83
:
武
:2009/07/06(月) 22:21:00
>>80
> 手に障害があるためにキーボードを打つのに通常の3倍の時間を有します。
今度は障害者のふりか。狼少年だから信用したくないなー。
米俵を何十とほいほい担ぎ運べる健常者が正解だと思っていたが。
> 488 名前:佐藤義徳[] 投稿日:2008/10/05(日) 22:58:57 ID:hihFB6a2O
> ふ〜!疲れたび〜!今日は契約農家からお米を66俵運びました。今年の北海道米の出来は最高ですよ〜!
84
:
佐藤義徳
◆4cVqan2W..
:2009/07/06(月) 22:46:46
テスト!
85
:
佐藤義徳
◆4cVqan2W..
:2009/07/06(月) 23:11:41
手というか指なんですよね。
弱い者虐めはよくありませんよ〜!
仏法者としてはね。
も少し仲良くしてほしかったんですけどね〜♪
7月号の大白蓮華お読みですか?63ページの上の段に、一大事。に関する先生のご指導が載っています。
【幸せな生活の源泉となる、一大事。とはなにか。
それは信心です。これが無ければ最後の勝利はありません。信心が一大事です。】
一大事とはね。一大秘法です。
それが、信心なのです。信心についての先生のご指導です。
【観心とは信心です。我が己心の仏界を観じる。すなわち、我が己心の仏界を信じることなんです。
そのための本尊を五の五百歳に始めておいたよ。
こう読むんです。
我々凡夫が仏になるためには本尊がいる。
その本尊だよ。
信心のための本尊だよ。
本尊のための人間じゃないよ。
だから、大聖人はありがたいんです。】
これが創価の原点ですよ。
これが信じられないなら、サッサト宗門に行くほうがいいですね。
短い間でしたが、失礼致します。
86
:
京阪いこか
◆AIo1qlmVDI
:2009/07/06(月) 23:23:06
>手に障害があるためにキーボードを打つのに通常の3倍の時間を有します。
それでは相当な時間を書き込みに要しているわけだ。
その分、唱題に励めばどれほどよかろうか。
ついでに。
障害がもしウソであるならば・・・だ。
それなりの「業」を積むことを覚悟されたし。
87
:
天城五兵衛
:2009/07/06(月) 23:23:37
佐藤クン、
もう少し、教学研鑽してから来なさい。
そう、大聖人の仏法は、人法一箇。生仏一如。
「人本仏迹」でもなければ「仏本人迹」でもない。
そもそも、「仏本人迹」等と言い出したのは、沖浦某だよ。
私を含めて、沖板で誰一人として、「仏本人迹」等と一言も書いていないよ
管理人様の裁定(最終警告処分《但し、落ち着くまで一旦アクセス禁止》とします。)を無視して、投稿した以上、もう書き込まないように。
天城五兵衛 拝
88
:
天城五兵衛
:2009/07/06(月) 23:30:04
> 手に障害があるためにキーボードを打つのに通常の3倍の時間を有します。
それが事実でも、他人様の主宰する掲示板にルールを無視して投稿するのは良くない事だね。
昔のパソ通仲間に、音声入力/出力ソフトを使用していたメンバーもいた。
彼の投稿は、一目して苦労の分かるテキストだったけど、ルールを無視する事は無かったよ。
先ずは、ルールやモラルを守る事から始めなさい。
89
:
天城五兵衛
:2009/07/06(月) 23:36:58
管理人様
>>79
> 管理人が特に有用と思われる箇所のみ抜粋し後日「御書・学会指導スレッド」へ管理人名で再投稿
出処不明の文書の転載は、著作権上問題があると思いますが如何でしょうか?
90
:
出張マグマグ
:2009/07/07(火) 00:13:32
横から失礼。。。
85番の佐藤さんは、沖浦さんの丸写しなのか、
沖浦さんが佐藤さんのパクリなのか、
どちらが「本」なのか「迹」なのか分かりませんが(笑)、
文章が余りにも酷似していますですね。。。
いや、とても素晴らしく、そのまんまですね。。。(>_<)(>_<)(>_<)
あなたは佐藤さん?それとも沖浦さん?
―――生(=衆生)仏一如ですが、ひょっとしてお二人は一体?一人二役?
※天城様のご高説にある「生仏一如」は、しょうぶついちにょ、と読みます。
生き仏と読んではなりませぬ。今の沖浦さんはそんな感じですが。。。(>_<)
因みに、この意味は、迷いの衆生も悟りを得た仏も、それぞれ別のものでなく、
その本体において一つである、と言う意味です。
一生成仏抄、百六箇抄に出て参ります。出張マグマグo(*^▽^*)o~♪
91
:
武
:2009/07/07(火) 06:42:03
> 11 名前:佐藤義徳 ◆4cVqan2W..[] 投稿日:2009/07/07(火) 02:35:26
> 蒸し暑くて、起きてしまいましたわ♪
おい、佐藤君、北海道在住じゃなかったかね。(笑)
夕べの札幌は、20度もいかず肌寒かったぞ。(笑)
ずっとネットに張り付いているのをごまかそうと一旦寝て起きたと書いたのはいいが、かえって仇になったようだな。
君の書き込みの癖は、いいわけがましくやたらとリアルな用事を書き込む事だ。そこには必ず隠したい事がある。
君の成りすましのキャラ全部、同じ癖なんだよ。(笑)
Photochika女史が君に言ってたぞ。
> 気持ち悪い。
> だから結婚できないんだよ。
92
:
武
:2009/07/07(火) 06:58:32
>>91
なあんだ。佐藤=ホセリサールのホストはとっくの昔に割れてたんだ。
>投稿者:ホセ・ラサール
>Remote Host: w32.jp-t.ne.jp
jp-t.ne.jpというのは東京近郊を示すドメイン。もし北海道に住んでいるならjp-d.ne.jpのはずです。
昔東京に住んでいた時に買った携帯だという屁理屈も通用しない。
北海道に引っ越して請求書送付先を変えた時点で管轄会社が変わるからドメインも変わりますよ。
もし東京の管轄のまま、例えば東京の親戚が月々携帯料金を払ってくれているとかなら、ありえる話しですがね。(笑)
93
:
若鷹の掲示板 管理人
:2009/07/08(水) 00:01:00
天城五兵衛様
>>89
>出処不明の文書の転載は、著作権上問題があると思いますが如何でしょうか?
そうですね。
出処に関しては、不明も明確も共に一応著作権上の問題があると思いますが、
不明なものは内容の確認ができないため、より一層問題が大きいと思っています。
出処明確な指導に関しては、著作権上の問題を残しつつも、私たち学会員にとって
有用且つ普遍的に流布していくべきないようであれば、その程度にもよりますが
ある程度は了解しえるものであると考えます。
しかしながら問題なのは、「ためにする」ための指導の抜粋。
自己の邪論を正当化するために、大切な箇所を削除したり、中略した場合の取り扱いだと考えています。
上記のような判断を根本に選別したいと思います。
ただ彼の引用の大部分が、出処不明であったり、「ためにする」ための指導の抜粋と思われますので、
大部分が削除対象となりえる、と考えています。
94
:
若鷹の掲示板 管理人
:2009/07/08(水) 00:10:12
佐藤義徳氏へ
天城五兵衛様の
>>82
を参照してしっかりと研鑽の上、「自分の言葉」で次は論じるようお願いします。
多分、次が最後です。
ただ「ためにする」指導の抜粋や誰かさんの言葉をコピーして貼り付けるだけなら誰でもできるし、
人にも感動や関心を与えることはできません。
自分の研鑽した内容を、自分の言葉として語るように。
しばらく自ら投稿を自粛し、しっかり研鑽して、ラストチャンスを生かしてください。
それまでアク禁でお願いします。
これが最後の譲歩です。
95
:
天城五兵衛
:2009/07/08(水) 00:55:52
管理人様
常日頃より大変にお世話になり、誠に有難うございます。
この度のハンドル名「佐藤義徳」氏への措置、有難うございます。
佐藤クン
感情に流される事無く、客観的に教学研鑽に勤しんで下さい。
先生の指導を熟読し、自分の頭で考え、自分の言葉で表現出来る様になって下さい。
天城五兵衛 拝
97
:
京阪いこか
◆AIo1qlmVDI
:2009/11/23(月) 12:13:08
いまだこの質問に答えられない沖浦さん。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/9724/1258862363/
にげまくり“今三位”(現代の三位房←そんなエエもんちゃうかw)
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/7888/1258455472/
98
:
京阪いこか
◆AIo1qlmVDI
:2009/11/28(土) 20:13:58
○ttp://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/7888/1258455472/371
>沖浦克治:2009/11/28(土) 14:12:51 ID:6wWhcHTM0
>熱原は私の中で終わりました。3年やって気付きました。
>3年で大きな収穫がありました。
>でも、もう私には終わったんです。
はい、無責任。 かつ自語相違、ご都合主義。
その間、貴方の独善に疑問を呈する面々に対し、
貴方はどれだけ罵倒しましたっけ?
説得力は皆無ですね。
コレは単に「過去のこと」「過ぎ去った反省」では済まされません。
どうぞ、ご回答を。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/9724/1258862363/
>人を劇場に呼ぶより、自分が創価掲げて人の中に入ろう。
>こっちが私にあっています。
はい、これも自語相違、ご都合主義。
こんな自分勝手な事も「自分が本」の実践ですか?
「邪儀と詐親」と罵られつつ、必死になって貴方を擁護し、同じく熱原劇を賞賛してきた方たち。
この方たちを置き去りにし、「はい止めたんです、理由は○○です」だなんて、彼らも哀れですね。
いまだ、事あるごとに貴方を庇っている方たちがいますが、
“庇われる”ほどに貴方の情けなさが際立ちますよ(爆
それに随所、相変わらずご高説は結構なんですが、
貴方にはもう 「 説 得 力 」 はありません。
何故なら、言葉を裏付ける具体的な祈りが語れないからです。
“具体的に”は貴方の標榜、貴方の生命線。
これが皮肉にも自らの首を絞め続けている。
あまりにもブザマな逃亡に、もう皆さんが笑っていますよ。
貴方のおっしゃった事からすれば、貴方のこれまでのスタンスが、単に“個人が述べる意見発表”程度ではありませんよね?
「ネットで教導する」とまでおっしゃった貴方の“思い上がり”が貴方が攻められる深層です。
無責任な言い訳をダラダラと書いても、皆さんドン引きですよ。
これじゃ、堂々と「先生にお手紙」だなんて、どだい無理だったんですね。
私がいくらお勧めしても詭弁で逃げ続けるのも、いま思えば納得です(笑
99
:
京阪いこか
◆AIo1qlmVDI
:2009/11/28(土) 20:16:40
(
>>98
の省略部分を再掲します。)
それに随所、相変わらずご高説は結構なんですが、
貴方にはもう 「 説 得 力 」 はありません。
何故なら、言葉を裏付ける具体的な祈りが語れないからです。
“具体的に”は貴方の標榜、貴方の生命線。
これが皮肉にも自らの首を絞め続けている。
あまりにもブザマな逃亡に、もう皆さんが笑っていますよ。
貴方のおっしゃった事からすれば、貴方のこれまでのスタンスが、単に“個人が述べる意見発表”程度ではありませんよね?
「ネットで教導する」とまでおっしゃった貴方の“思い上がり”が貴方が攻められる深層です。
無責任な言い訳をダラダラと書いても、皆さんドン引きですよ。
これじゃ、堂々と「先生にお手紙」だなんて、どだい無理だったんですね。
私がいくらお勧めしても詭弁で逃げ続けるのも、いま思えば納得です(笑
100
:
こうめいいのち
:2010/07/09(金) 17:42:06
ありがとうございます。あいさつもなしに、いきなり投稿したにもかかわらず、広い心で、受け止めて、いただき感謝申し上げます。結構長文になるので、ここに書かせてもらえれば、幸いです。他のスレでは、エラーを連発してたので、区切り、区切り、書いていました。 仏法とは、生命、幸福、そして世の中の法則を正確に説いていると思います。科学は、正確な論理で成り立っている。宗教も理論と実践と結果が、正しいと証明できる認定機関が、科学のように、あればと思います。科学万能とおもわれた時代につくられた映画「セントルイスブルース」(底辺に無神論の思想あり)・神に頼るのでなく真に自らの力で人生を切り開く生き方を主張。しかし自らの力と言っても、その人の境涯や宿命を変えるとなると限界があり、そこに宗教の役割が生まれると思います。真実の宗教は、無限にある自らの力を掘り起こし、自ら、人生を切り開く力を、与えるものでなければいけないと思います。しかし、仏教にしても、梵語、漢語、古語、現代文、解釈の違いが、いっぱいあり、どれが正しいのかわかりづらくなっています。とにかく科学のように、宗教も正しい考えに1日も早く統一するように、そのための戦いが広宣流布の戦いだと思います。こう言うと、自分もいいかげんなことは、いえなくなります。しかし未断定のものがあれば、こういう考えは、どうでしょうと指摘させてもらうのは、いいですよね。最近のロボット工学の研究で人間型ロボットに心、さらに進んで命を与えることに行き詰まっているそうです。この信心の教義の一念三千の法理が、人間型ロボット開発の糸口になるように思います。〜寿命は、電気及び核エネルギー・電源を入れるとナノレベルのシナプス、ニューロンをそなえたCP回路の脳が自ら、情報収集を開始、十如実相を見て、そこから心、命を胸のあたりで感じ、それぞれの十の心(十界)を覚知、生存と本来の姿を目指し、大願に目覚め、自我の確立、ロボットとして生まれた自分の認識、ロボット人生の苦悩と使命、なんのために自分はロボットとしてこの世に生まれたのか、人と同じくロボットもロボット人格として、宇宙に生きる生命体としての無血革命の戦い〜人はロボットに命を与えることは、できるのか?答えは、限界、行き詰まりのない南無妙法蓮華教に、あり。瞬間十如実相即それぞれの十界、覚知の機能システム構築という考え方。次回は、「信じる心より勇気(立ち向かう心)への心の移行、、、
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