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原始仏教の智慧と大乗の信仰

1coco </b><font color=#FF0000>(ZJ72Luss)</font><b>:2004/09/04(土) 01:47
私は仏教についても他の宗教についても,知識と呼ぶには程遠いほんの僅かのことしか知りませんので,以下は私が仏教や信仰と言うものに抱いている,今の時点での“イメージ”です.

人の心を深く深く洞察したうえで,冷静に(一般的な意味での)宗教・信仰を否定した思想.その一つが原始仏教であるのでしょう.原始仏典では,冷徹で合理的な智慧によって人の心の仕組みを深く理解したうえで,苦しみからの救済の方法を説いているのだと思います.

「人々は恐怖にかられて,山々,林,園,樹木,霊樹など多くのものにたよろうとする.しかしこれは安らかなよりどころではない.これは最上のよりどころではない.それらのよりどころによってはあらゆる苦悩から免れることはできない.さとれる者(=仏)と真理のことわり(=法)と聖者の集い(=僧)とに帰依する人は,正しい智慧をもって,四つの尊い真理を見る.──すなわち苦しみと,苦しみの成り立ちと,苦しみの超克と,苦しみの終滅におもむく八つの尊い道(八聖道)とを.」  (「真理のことば」中村元 岩波書店)

人が心に抱くイメージ(たとえば神の存在やあの世の世界)に依存することを戒め,ただ人の心の成り立ちと世界の成り立ちをありのままに偏見なく見つめる智慧だけが,人を苦しみから救うのだ・・・.人が心の中に様々な「今生きている自分を取り巻く世界」についてのイメージを作り上げ,心を千々に乱れさせ苦しんでいる.その,人が心に抱くイメージへの依存から自由になることだけが,苦しみからの脱却につながる・・・そのように思える原始仏典の認識は,私には非常に合理的で聡明なものだと感じられます.

97わめ:2005/09/29(木) 23:31:06
むむっ、cocoしゃんに見切られているかも・・・wヽ(・∀・;)ノ アヒャッ!

> 最後の文章は半分冗談ですが,人というのは客観的世界,物理学的世界を生きているだけではなく,同時に情緒的世界を生きており,客観的・物理学的世界にすらも様々な思いを投影しつつ,日々の生活を営んでいるのではないでしょうか.

そうですね。わめの超我がままも情緒的世界のことですね。^^

> きっと,わめしゃんの「縁起」(暫定真理)の解釈を共有する方も大勢いらっしゃるでしょう.そして,それによって生きてゆく力を得たり,心豊かな人生を送ることができたら,それはきっと素晴らしい捉え方なのだと思います.

Poh師匠から華厳的な重々無尽的縁起説も教えていただいて、なるほどって思いましたし、わめ流解釈縁起とかいうより、縁起が指す”現象”そのものとか、他の暫定真理にしても言説・解釈ではなく、その”現象”自体を捉えたいと思っているのですが、そんなことができるのかどうかわめにはまだ分かりませんw

現象側からみて”ある解釈”は、間違っていないか正しいか、或いは含まれるかが重要だと思うのです。
じゃないと暫定真理が解釈の仕方によって、暫定真理でなくなってしまうことにもなりかねませんからw汗

ですからわめの縁起の”一部分の解釈”である「すべてが関係性の上に成り立つ」が、縁起という暫定真理に含まれるか否かが重要だと思うし、含まれないならわめはこの解釈を捨てるわけです。

また、他の解釈の仕方も同じように考えて、それは暫定真理に含まれるか否かで、自分に取り入れる取り入れないを決めていきたいと思っています。

例えれば、池に投げた石ころと波紋みたいに、石ころ(波紋の始まり)=暫定真理、波紋=心情(情緒的)の広がり、みたいなことを考えたりしているのですが・・・

98わめ:2005/09/29(木) 23:42:56
> 例えれば、池に投げた石ころと波紋みたいに、石ころ(波紋の始まり)=暫定真理、波紋=心情(情緒的)の広がり、みたいなことを考えたりしているのですが・・・

あらw お話が飛んでる・・・w汗 ここは見なかったことに。m(_ _"m)ペコリ

99coco ◆O8ZJ72Luss:2005/09/30(金) 02:05:16
わめしゃん 見切るって意味,よく分からなかったから広辞苑で調べちゃったヨ.
見切るどころか,視界に入り切らないで周りをつついている状態よ.相手してくれてありがとね.

>現象側からみて”ある解釈”は、間違っていないか正しいか、或いは含まれるかが重要だと思うのです。
じゃないと暫定真理が解釈の仕方によって、暫定真理でなくなってしまうことにもなりかねませんからw汗

間違っていないか正しいかの判断基準はなんでしょう.

>ですからわめの縁起の”一部分の解釈”である「すべてが関係性の上に成り立つ」が、縁起という暫定真理に含まれるか否かが重要だと思うし、含まれないならわめはこの解釈を捨てるわけです。

私はわめしゃんの仰る ――縁起の”一部分の解釈”である「すべてが関係性の上に成り立つ」――という考え方は,初期仏典についての仏教学の権威の方々の解釈も含め,もうすでに多くの人たちの共通認識となり得ている思想だと考えます.ここまではある程度,論理的・客観的解釈といってもいいのではないでしょうか.私も縁起の思想を「すべては関係性の上に成り立つ」といった感じで捉えています.もちろん証明不可能ですから,それは違うゼ という考え方もあっていいわけですが.

問題はその先なのです.たとえ縁起が真理であったとしても,その真理そのものだけでは何の価値もない・・・ということを言いたのです.

多くの人たちの共通認識となっている考え方「すべてが関係性の上に成り立つ」という暫定真理が >>95の「わめの”超我がまま”を抑制してくれる暫定真理」となったのはどうしてでしょう.この暫定真理に,わめしゃんのさらなる個人的解釈,つまりわめしゃんの思いが投影された極めて情緒的な価値判断‥‥がそこで為された ということではないでしょうか.他の人々も同様です.それぞれに情緒を伴う価値判断が為され,はじめて「すべてが関係性の上に成り立つ」という暫定真理が生きてくるということです.

>また、他の解釈の仕方も同じように考えて、それは暫定真理に含まれるか否かで、自分に取り入れる取り入れないを決めていきたいと思っています。

取り入れたものをどのようにかも,やはり最終的にわめしゃん自身だと思いまするよ.

>例えれば、池に投げた石ころと波紋みたいに、石ころ(波紋の始まり)=暫定真理、波紋=心情(情緒的)の広がり、みたいなことを考えたりしているのですが・・・

(^_^)3 フンフン  やっ それはよく理解できかも〜

100わめ:2005/09/30(金) 04:02:23
話が飛んだ部分まで分かってしまうのだから、やっぱりcocoしゃんには見切られてますw(キッパリ

> >例えれば、池に投げた石ころと波紋みたいに、石ころ(波紋の始まり)=暫定真理、波紋=心情(情緒的)の広がり、みたいなことを考えたりしているのですが・・・
>
> (^_^)3 フンフン  やっ それはよく理解できかも〜

んで、結局『最終的にわめしゃん自身』と言うのも上記部分なんです。(^^;;
この話は少し置いといてぉぃw

> 間違っていないか正しいかの判断基準はなんでしょう.

これは色々なモノ・コトを当てはめて、その現象(見解)が反証できないもの=暫定真理とは言えないでしょうか?
で、縁起がそこまで検証されたかと言えばされていないでしょうけれど、反証の見解はわめなりに探しても見つかっていません。また、反証できるなら縁起は暫定真理とはいえないでしょう。
もっと乱雑に言えば『「解らない」が正しい答え。単に経験的に知っているだけ。』なのかもしれません。汗
http://www.gem.hi-ho.ne.jp/katsu-san/audio/entropy.html

また話は戻って『最終的にわめしゃん自身』部分なのですが、もしかしてわめが知らないだけで、既にちゃんとした定理や思想があるのかもしれませんが・・・

でも酔いと眠気でまた変なこと書いてしまいそうなので、今夜はここまでにします。<(_ _)>

101わめ:2005/09/30(金) 12:49:08
 えっと、「間違っていないか正しいかの判断基準」は批判的合理主義で、より真理に近づこうとする姿勢、反証が底を尽いてとりあえず認められているモノ=暫定真理(暫定的に正しい)でいいのかなと思いますが。

> 問題はその先なのです.たとえ縁起が真理であったとしても,その真理そのものだけでは何の価値もない・・・ということを言いたのです.

 あ、ここがcocoしゃんのお約束のスタートですよね。(⌒▽⌒)

 ただわめは、この話に行く前に、やっぱり暫定真理を土台とする、それ以外は土台としないという前提で考え(ている)たいと思います。より多くの暫定真理を知ることで、沢山見えてくるものがあるのじゃないかと言うことです。その見え方・捉え方は人個々・段階で違ってくるとは思いますが、世の中には素材は同じでも、唯一つとして同じものがないことを考えても、それは問題が無いと思います。

 暫定真理とエントロピーの増大と言っていいのか、始まりと広がりと言っていいのかは分かりませんが、この世界ってこのように成り立っているのではないかと思うのです。
 暫定真理は理性で知るもの、エントロピーの増大・広がりは、その暫定真理の結果であり、結果は継続しゆくもので、これは個々の個性であったり心情であったりではないかと考えます。

 ここでお話が飛んでると言った、「例えれば、池に投げた石ころと波紋みたいに、石ころ(波紋の始まり)=暫定真理、波紋=心情(情緒的)の広がり、みたいなことを考えたりしているのですが・・・」がこなけりゃいけなかった。笑
 わめは、この宇宙も始まり(暫定真理)があって、宇宙の膨張(エントロピーの増大)が時間を生んでると言えると思うし、それが無常であるとも言えるのじゃないかと考えます。

 まだ『その真理そのものだけでは何の価値もない』に対して、お返事にはなってないかもw汗

102arowana:2005/09/30(金) 12:57:57
この記事、すごくないですか?

http://www9.kir.jp/sgm/

103わめ:2005/09/30(金) 13:10:10
暫定真理をより知り、暫定真理を受け入れ土台とし、暫定真理を批判し(より真理に近づくため)、暫定真理に基づいて生きていく。

まだ答えになってないか・・・

って言うかこれだけじゃ味気ないね。汗 
「暫定真理に基づいて生きていく」=基点(真理)を探り続け、基点(暫定真理)から広がり続ける個々の心情ならどうでしょう。^^

104わめ:2005/09/30(金) 14:52:13
わめの言ってることって・・・もっ、もしかして「自灯明・法灯明」なのかな?w汗

なら、↑で悩みながら書いてたことは意味ないじゃん・・・。・゚゚・(>_<)・゚゚・。

105coco ◆O8ZJ72Luss:2005/10/13(木) 23:28:28
わめしゃん 申し訳ありませぬ.

時間とれぬ故,しばし待ってたもーれアモーレ.

106わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/10/14(金) 04:35:42
しばしも淀屋橋も待ちまする。☆^∇゜) ニパッ!!

待てば海路の日和あり。( ̄ヘ ̄;)ウーン意味不明w

107coco ◆O8ZJ72Luss:2005/10/20(木) 01:14:16
お待たせしました..  キョロ(--;)(;--)キョロ さみしい秋じゃ...

>「暫定真理に基づいて生きていく」=基点(真理)を探り続け、基点(暫定真理)から広がり続ける個々の心情ならどうでしょう。^^
>わめの言ってることって・・・もっ、もしかして「自灯明・法灯明」なのかな?w汗

そうネ! それぞれが無限大に,独自の道を見つけることができるのが,仏教のすばらしいところかもしれませぬ(^^)
と,こういう言い方をいたしますと引っ掛かる方もいらっしゃいましょうが,まま,今は聞き流して‥(笑

>なら、↑で悩みながら書いてたことは意味ないじゃん・・・。・゚゚・(>_<)・゚゚・。

ということで,わめしゃんは一周回って みごとに自己完結された模様であります.
いとめでたし ヽ(´▽`)/〜♪

108coco ◆O8ZJ72Luss:2005/10/20(木) 01:22:49
では,これからは思いつくままを再開.

「初期仏教はあくまでも人間の理性を信頼して『この身水甕のごとく脆し』人の心を直視した.そして,それを前にたじろぐことなく,人の理性と智慧のみを武器として人の苦に立ち向かった.」
原始仏典の諸解説からは以上のようなことが読み取れるわけですが,これまでも書いてきたとおり,その智慧は透徹した「観察と分析」に拠るものである‥ということだそうであります.

「分析」というのはアリストテレスによると「与えられた混沌たる全体を,限定し規定してゆく道をたどること」だそうで,大雑把にいえば単純化抽象化によって本質的なもの(法則)をあぶり出す作業ってことでしょうか.
仏教用語の「観」にも“分かち見る”という意味があり,そこにはすでに「分析」が含まれているそうです.同様に「分別・沙汰」も沙石から黄金を沙(よ)り分けることを喩えたものといいます.

ブッダは心の仕組みについて,分析という手法を用いて思索し「五薀」や「六処」といった認識を経て,最後に仏教の根幹となる「縁起の法則」に辿り着いた.ここらへんが初期仏教が当時において,哲学や心理学の役割も果していたといわれる所以ですね.人としての志は別として,ブッダは知力において要するに大学者でもあったわけです.          

原始仏典の秀逸な解説があまた溢れる今でこそ,教育によってある程度の論理的思考力を有していれば,たとえば「縁起」についても観念的に理解することは可能でしょう.(そんな簡単に解るものじゃない!というご意見もございましょうが)

しかし当時の額に汗して働いていた一般の人々が,ブッダ・ゴータマの分析的思惟の集大成「縁起の理法(法則)」をどこまで理解できたかといえば,非常に疑問ですね.「スバラスィ方の教えだからきっとスバラシィにちがいないけど,よくわがんねゃ・・・」といったところではなかったでしょうか.

NHKで数年前,梅原猛氏が中学生に仏教の話をするという番組がありました.詳細は忘れましたが梅原氏が授業の中で,主に初期仏教の思想,「仏教とは人間が生きてゆくための智慧である」「自己の拠り所は自己のみ」といったようなことを仏教用語を交えて熱く語るのです.が,中学生の反応はというと,ほとんど「( ゚Д゚)ポカーン?・・・」.氏がいったい何を言いたいのか理解できないか,理解できた子にしても「それがなにか?・・・」という感じではなかったかと思います.それがすごく面白かった.

何が面白かったかというと,私を含め「初期仏教の思想」に出会って感動しちゃう人間というのは,ひょっとして,これまでの日本仏教(信仰を軸とする大乗仏教)に関わりの深い人間‥‥が圧倒的に多いのでははないか,と思ったから.つまり,これまでの既成の(日本)仏教自体を知らないの中学生にとっちゃ,仏教思想というのは他の哲学論同様,突然聞いても「( ゚Д゚)ポカーン?・・・」でしかないのね..ブッダの時代の一般庶民や下層階級の人々も,初期仏教との出合いに於いては,現代の中学生の反応とたいした違いは無かったのではないか‥‥とそのとき勝手に直感してしまった.

109coco ◆O8ZJ72Luss:2005/10/20(木) 01:33:54
そのへんのことを以前から乏しい時間でいろいろ調べていたのですが,古代インドの身分や職業の違いといった視点から初期仏教を語ったものはあまり見当たらなかった.ところが先日手に入った増谷文雄氏の著書「増谷文雄著作集第4巻『根本仏教の研究』」で,そのことに触れている箇所がありました.

この著書の中で増谷氏はヨーロッパの宗教学者オルデンベルグ著の『ブッダ』を引用して,
「彼(オルデンベルク)は,ブッダ・ゴータマが,理論の上ではっきりと,階級の差別(カースト)を否定して,万人が平等に彼の教団に加入する権利をもつものである,としたことを承認する.また,彼の教団は,現実においても,その理論に反して,道を求めてくる者を階級上の理由によって拒んだというようなことはなかったことを承認する.それにもかかわらず,彼の教団は,なお必ずしもその理論の通りにはゆかなかったことを,この著者は指摘するのである」「オルデンベルクは,そのようなブッダ・ゴータマの教団の構成を指摘したのち,ふるくから伝えられている一句をあげていう.『この教えは智者に属するものであって,愚者に属せず』(仏典の言葉)」

さらに氏は,今日においても智慧の道をまっとうすることがいかに難しいかを述べた後,
「その時代(ブッダの時代)において,よくこの教えの理解と実践とに耐えたものは,限られた少数であったとしてもすこしも不思議ではあるまい.したがって,その教団を形成したものは,おのずからにして,主として上層階級出身の知性優秀な青年達であったのも,また当然のことであったとしなければなるまい.オルデンベルクが指摘しているのは,その事実の証にほかならない.とするならば,他方,苦役に身を労し,額に汗して,やっとおのれの生をいとなむのが精いっぱいであった人々は,結局するところ,この智慧の宗教にとっては縁なき衆生であったにちがいない.」と.

初期仏教の果した役割は,当時にあってもはかり知れない程大きかったでしょう.また数千年を経た今においても,それは続いているわけです.しかし一方で,上記のような指摘を否定できない要素を内包せざるを得なかったのがブッダの教えではなかったか,と.
智慧で成り立つが故に,その智慧が自ずと限界をつくってしまった.

つまり,智慧と理性によって成り立つ本来の仏教は,「万人に平等であること」の建て前と「少数者しか獲得できない言語資源」の必要性‥‥という矛盾を含んでいるわけです.

110わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/10/21(金) 00:38:15
cocoしゃん復活じゃ〜♪

> ということで,わめしゃんは一周回って みごとに自己完結された模様であります.
> いとめでたし ヽ(´▽`)/〜♪

ミ(ノ_ _)ノ=3 ドテッ!!

>>108 >>109

cocoしゃん、(;´Д`)スバラスィ ...ハァハァ これでレスが終わっちゃまずそうw汗

> つまり,智慧と理性によって成り立つ本来の仏教は,「万人に平等であること」の建て前と「少数者しか獲得できない言語資源」の必要性‥‥という矛盾を含んでいるわけです.

「智慧と理性によって成り立つ本来の仏教」ですか、確かにその通りかもしれません。

ただ、少数者しか獲得できないことの原因は、既存の宗教への盲信状態や固定観念が邪魔をしていることが大きいのではないでしょうか?

ブッダの時代の人々より、現代人は理性・智慧の働きが大きくなっているように思いますが、それでも本来の仏教が広く流布してきているとは言えないように思うのです。

わめの目から見ると、信仰を持たない、本来の仏教も宗教も知らない・関心のない方のほうが、本来の仏教に近い思考を持っているように感じます。(着目)

そのように考えると、「既存の宗教への盲信状態や固定観念」が、目を曇らせてしまっているように思いますし、「智慧・理性」の働きを阻害しているように思います。

だから本来の仏教に必要なレベルの「智慧・理性」は、万人に備わるように思います。

ただ、教団に入り、教えの理解と実践をすると言ったことになると、オルデンベルクが指摘していることは大半的を射てると思いますが・・・

この点からもわめが着目しているのは、本来の仏教も知らない、教えの理解も実践もない人達が、本来の仏教に近い思考だと言うことです。

結局「智慧・理性」があれば、仏教の教えの理解も実践も必要ないのではないかと。

111coco ◆O8ZJ72Luss:2005/10/21(金) 00:53:29
>>110
わめしゃん レスありがとう〜 ヾ(´ー` )ノ

お返事,じっくり考えてするから 少しまってね.
なにしろ最近,時間がないうえ すぐ眠くなってしまうのダ〜

>>108 >>109 
まだまだ これからが本題よ(笑

112わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/10/21(金) 01:05:51
> わめしゃん レスありがとう〜 ヾ(´ー` )ノ

☆^∇゜) ニパッ!!

> お返事,じっくり考えてするから 少しまってね.
> なにしろ最近,時間がないうえ すぐ眠くなってしまうのダ〜

待〜つ〜わ いつまでも待〜つ〜わ♪

> >>108 >>109 
> まだまだ これからが本題よ(笑

ヽ(・∀・;)ノ アヒャッ!

118coco ◆O8ZJ72Luss:2005/11/07(月) 13:48:21
まず,わめしゃんへのレスです.たいへん遅くなりました.m(_ _)m
それも勝手に話が飛びまくりでごめんなさい.^^; 

>>110
>> つまり,智慧と理性によって成り立つ本来の仏教は,「万人に平等であること」の建て前と「少数者しか獲得できない言語資源」の必要性‥‥という矛盾を含んでいるわけです.

>「智慧と理性によって成り立つ本来の仏教」ですか、確かにその通りかもしれません。
ただ、少数者しか獲得できないことの原因は、既存の宗教への盲信状態や固定観念が邪魔をしていることが大きいのではないでしょうか?

「智慧と理性によって成り立つ本来の仏教」が少数者しか獲得できないことの原因が「既存の宗教への盲信状態や固定観念が邪魔をしている」ことへ求めるわめしゃんの気持ちはなんだかとても理解できます.

しかし「既存の宗教への盲信状態や固定観念が邪魔をしている」場合もときにはあるでしょうが,それよりも根源的なこと,人の世は“抽象的”“哲学的”思索をするに充分な諸条件を満たしている恵まれた少数の人々と そうではない圧倒的多数の人々とで成り立っている,ということに大きな要因があるのではないでしょうか.

『もし世界が100人の村だったら』(作:K.Leipold 訳:なかのひろみ) を一部引用します.統計比率がどのていど正確かは知りませんが,本になったところをみるとそれ程懸け離れてはいないでしょう.世界をざっくり捉えるには分かりやすいと思います.
http://homepage1.nifty.com/hiroshi127/100people-3.htm

“誰かが私に興味深いお話を伝えてくれました
 もし現在の人類統計比率をきちんと盛り込んで
 全世界を100人の村に縮小するとどうなるでしょう
 (略) 
 6人が全世界の富の59%を所有し 
 その6人ともがアメリカ国籍
 80人は標準以下の居住環境に住み 70人は文字が読めません
 50人は栄養失調に苦しみ 1人が瀕死の状態 にあり
 1人は今生まれようとしています
 1人は(そうたった1人)は大学の教育を受け
 そして1人だけがコンピューターを所有しています (略) ”

今このとき,この瞬間を生きることに必死な人々,どん底で喘ぐ人々等に,無我・無常について語り,執着心を捨て,人の心の仕組みを説明し,ありのままの世界を受け入れることを説いてみた場合,どれだけの人々が救われるのか?という疑問が まずあります..

119coco ◆O8ZJ72Luss:2005/11/07(月) 13:50:53
>>110
>ブッダの時代の人々より、現代人は理性・智慧の働きが大きくなっているように思いますが、それでも本来の仏教が広く流布してきているとは言えないように思うのです。

文明の発達した近代人が,理性・智慧といった概念を認識できるようになったことは事実です.ですが,だからといって理性・智慧の働きが大きくなったかといえば,何を基準にそう判断してよいのか迷います.また理性・智慧の働きが大きくなったとして,ブッダの時代より,現在がより良い世界になっているか?というと それも判断に迷います.

たとえば,古代インドから数千年を経て,現在から最も近い20世紀は“戦争の世紀”と称されています.そして現在もなお,より強力な殺戮兵器を開発し続けているのは,理性・智慧の働きがけっして小さいとは言えないであろう先進国の人々です.また,「もし,いっさい戦争というものがなかったら,おそらく人類は,文明はおろか鉄を持つにも至っていない」という見解もあります.

個人レベルでは,私の身近においても,自他ともに理知的であると認める人が,とてつもなく感情的に取り乱すところをいくらでも見てきていますし,科学者の発明の原動力が,豊かな情緒の働きに拠るところが少なくないことも事実です.まあ古代も現代も代わらず,芸術を生むのは煩悩だったりするわけですし.

何よりかにより,人生半ばを過ぎた私自身を省みてもあーた‥‥表面上は理性で自制できたとして内心はもうね‥時々刻々手に負えない感情の奴隷ですってば(爆

20世紀当初,近代合理主義の文脈で「次世紀には人類は宗教を必要としなくなる」ということを予測した学者がいましたっけ.そして科学の発達によって平和な理想社会が到来すると信じていた人たちもいました.しかしいまだ実現されていません.

人は物理的世界を生きているだけでなく同時に心理的世界を生きている.そして物理的世界においてすら,人はそこへ様々な思いを投影して情緒的生活を営んでいるわけです.私はむしろ,智慧や理性では制御しきれない心のはたらきによって,文明は発達してきたと考えています.

>わめの目から見ると、信仰を持たない、本来の仏教も宗教も知らない・関心のない方のほうが、本来の仏教に近い思考を持っているように感じます。(着目)

うーむ.わめしゃんが何をもってそのような判断をされているのかわかりません.ただ,仏教の合理的・分析的なところは当然,近代合理主義の現代人にとっては理解しやすくなっているでしょうね.ただ,本来の仏教に近い思考ということならば,逆に現代においては,特別素晴らしくも目新しくもない思考,という一面もあるのでは.

>そのように考えると、「既存の宗教への盲信状態や固定観念」が、目を曇らせてしまっているように思いますし、「智慧・理性」の働きを阻害しているように思います。

「智慧・理性」の働きを疎外するのは,「既存の宗教への盲信状態や固定観念」の場合もある‥‥ということですね.

120coco ◆O8ZJ72Luss:2005/11/07(月) 13:51:56
>>110
>だから本来の仏教に必要なレベルの「智慧・理性」は、万人に備わるように思います。

”仏教に必要なレベルの「智慧・理性」”というと,具体的にはどの程度のものでしょう.たとえば「縁起の思想」を理解できる程度とか・・・うーん 少なくとも日本人のほとんどの人に備わっているレベルということでしょうか..

しかしそれが備わったとして,人の心の問題がすべてクリアできるかというと疑問です.もちろん,智慧や理性といった合理的思考によって解決できたり道が開ける問題もありましょう.しかし,“智慧・理性”でいくら苦の原因を知覚し得たとしても,それだけではどうにもならない心を抱え込んでいるのが人間では?
もちろんブッダはそれも,自ら到達した悟りによって充分に認識してはいたのでしょうが.

>ただ、教団に入り、教えの理解と実践をするといったことになると、オルデンベルクが指摘していることは大半的を射てると思いますが・・・

教えの“理解”だけで心の問題は解決しないとわかっていた.そう簡単に人は自己の心をコントロールすることはできない.だからこそブッダは教団に戒律をつくり実践を説いたのでは?

たとえば初期仏教の智慧はこう結論を出しています.「愛する者を失うことはつらく悲しい,だから愛するな.」‥‥まさしく根本的解決方法です.

『805 人々は「わがものである」と執著した物のために悲しむ.(自己の)所有しているものは常住ではないからである.この世のものはただ変滅するものである,と見て,在家にとどまってはならない。』
『811 聖者はなにものにもとどこおることなく,愛することもなく,憎むこともない.悲しみも慳(モノオシ)みもかれを汚すことがない.譬えば(蓮の)葉の上の水が汚されないようなものである』(「ブッダのことば スッタニパータ」  中村 元訳)

しかし,どれだけの人がこの智慧を全うすることができるのかナ?

>結局「智慧・理性」があれば、仏教の教えの理解も実践も必要ないのではないかと。

うーーん.「智慧・理性」だけで?
そこが,わめしゃんと私の認識の大きな違いのようでありますね. 
私は,「智慧・理性」を人類救済の最要諦とする程,人間を信頼してはいないのさ〜 という捻くれ者じゃ^^

人のもつ“智慧や理性”と“信仰心や情緒”は別々に在るものではなく,互いに表裏一体のような関係において生じるもの と思ったりしています.

121coco ◆O8ZJ72Luss:2005/11/07(月) 13:55:54
ナンバーが飛んでいるのは,アホな私が書き直したからです.自爆●~*
もう書きたいことはたくさんあるのですが,文章力の欠如で内容が取っ散らかってしまう上に,
最近は時間的にも厳しく,遅々として進まず...(ノ_<。)う・・・申し訳ありません.

122わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/11/07(月) 21:14:20
cocoしゃん、きたわ〜♪

> しかし「既存の宗教への盲信状態や固定観念が邪魔をしている」場合もときにはあるでしょうが,それよりも根源的なこと,人の世は“抽象的”“哲学的”思索をするに充分な諸条件を満たしている恵まれた少数の人々と そうではない圧倒的多数の人々とで成り立っている,ということに大きな要因があるのではないでしょうか.

うーん、わめ達が住む日本の環境と捉えた場合、そうはそんなに感じないけど、『もし世界が100人の村だったら』のように世界を見た場合、生きることに必死な人々、どん底で喘ぐ人々が如何に多いか、考えさせられますねぇ・・・

また日本というよい環境に生きているとはいっても、人生の中では余裕のかけらもない時ってのもあるでしょう。わめもそんな時代がありました。

cocoしゃんの言いたいことよく分かりますし、もっともだと思います。

> 今このとき,この瞬間を生きることに必死な人々,どん底で喘ぐ人々等に,無我・無常について語り,執着心を捨て,人の心の仕組みを説明し,ありのままの世界を受け入れることを説いてみた場合,どれだけの人々が救われるのか?という疑問が まずあります..

このような人達に縁起・無常・無我を語ったところで、どれだけの人が理解し救われるのかはわめも疑問です。

でも、反論ではないのですが、『もし世界が100人の村だったら』の上位30人の多くが、縁起・無常・無我を知り、この貧富の偏った世界を何とかして行こうと努力していくことは大切だと思います。

その努力が、生きることに必死な人々、どん底で喘ぐ人々を減らしていくことになり、より多くの人が救われていくのではないかと思うのです。

でもこの救われるって意味は、一般的な用語としての救われるという意味で、仏教的な悟りとか解脱を指しているわけではありませんが・・・

あ、

> 人のもつ“智慧や理性”と“信仰心や情緒”は別々に在るものではなく,互いに表裏一体のような関係において生じるもの と思ったりしています.

これは、わめがブログで書いたことと何か関係するかな・・・
http://wame.seesaa.net/article/9038447.html

とりあえずここまでw もっとじっくり考えてお返事しますね。^^

123わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/11/11(金) 22:48:30
cocoしゃんこんばんは〜^^

> >結局「智慧・理性」があれば、仏教の教えの理解も実践も必要ないのではないかと。
>
> うーーん.「智慧・理性」だけで?
> そこが,わめしゃんと私の認識の大きな違いのようでありますね. 
> 私は,「智慧・理性」を人類救済の最要諦とする程,人間を信頼してはいないのさ〜 という捻くれ者じゃ^^

 「智慧・理性」だけでとは思わないのは>>122のリンク先わめのブログで書いた記事を読んでいただけば分かることと思いますし、「智慧・理性」だけでは縁起の彩り(個々の心情・cocoしゃんの言われる情緒みたいなもの)が失われるように思います。

 「智慧・理性」があれば、仏教の教えの理解も実践も必要ないのではないかと思うということです。cocoしゃんも言われているように、仏教の教えの実践は限られた人にだけしか無理だと思うし、限られた人にだけしかできないことを無理にやろうとするより、「智慧・理性」で悟っていくことができるのではないかということです。

 ただこのわめがここでいう悟りとは、ありのままを見ることができるということで、それが人々の直接の救いになるとは思えないのですが。

 ですので「智慧・理性」で悟って・・・のあとに続く何かが必要だと思っていますし、わめは手探りで模索しています。(^^;;

 cocoしゃんのお返事に、わめのまだ分からない”あとに続く何かが”があればうれしく思います。

124coco ◆O8ZJ72Luss:2005/11/12(土) 00:53:25
わめしゃん,こんばんは.ヽ(^^)ノ
お返事ありがとうございます.

わめしゃんのブログを拝見しました.
「智慧・理性」派のわめしゃんと思っていたのですが,どんどん進化されているのか,
私のほうの認識不足か,わめしゃんについてゆけておらずご免なさい.( ̄▽ ̄;)ゞぽりぽり

>でも、反論ではないのですが、『もし世界が100人の村だったら』の上位30人の多くが、縁起・無常・無我を知り、この貧富の偏った世界を何とかして行こうと努力していくことは大切だと思います。
>その努力が、生きることに必死な人々、どん底で喘ぐ人々を減らしていくことになり、より多くの人が救われていくのではないかと思うのです。

はい,私も同感です.
上のわめしゃんのお言葉に,このスレッドのテーマでもありますが,ブッダの滅後仏教教団の一部の人々に必然として生まれた,大乗への系譜のはじまりと同じものを感じます.

>でもこの救われるって意味は、一般的な用語としての救われるという意味で、仏教的な悟りとか解脱を指しているわけではありませんが・・・

はい,現実的な意味でですね.この「救われる」ということも,いろいろ考えてしまいます.

125coco ◆O8ZJ72Luss:2005/11/12(土) 00:57:01
わめしゃんへ 続き
> 人のもつ“智慧や理性”と“信仰心や情緒”は別々に在るものではなく,互いに表裏一体のような関係において生じるもの と思ったりしています. これは、わめがブログで書いたことと何か関係するかな・・・
http://wame.seesaa.net/article/9038447.html

拝見しました.
たいへんわかりやすい例なので,ここに一部引用させていただきます.
――――――――――――――
さて、わめの強引なこじつけになるかもしれませんが、
このペット話を、一人の人間の心的要素の重要度順として

飼い主=理性・合理性・客観的事実等
ペット=心情(情動)
しつけを含むペットとの接し方=信仰・信条・信念・主義・思想等
 
このように置き換えることはできないでしょうか。
―――――――――――――
心的要素の重要度順として,理性・合理性・客観的事実等が先にくる ということですね.
そして理性を軸として心情(情動)と上手につき合い,必要に応じて暴走などをコントロールする.という感じでしょうか.

たぶんわめしゃんのなかに,妄信への危険回避ということもテーマとしてあるのでは,と思ったりしました.
確かに理性や合理性・客観的事実認識というのは,生きていく上で非常に大切なことだと思います.

しかし私が考えているのは「理性や合理性,客観的事実認識を駆使してもどうにもならないこと」が人の世には在る‥ということ.それを受け入れて,先に何が見えるか‥‥ということなんです.これは,わめしゃんのおっしゃる『「智慧・理性」で悟って・・・のあとに続く何か』と,もしかしたらリンクするかも知れません.

>cocoしゃんのお返事に、わめのまだ分からない”あとに続く何かが”があればうれしく思います。

ひゃ〜 わたしにもよくわかりません.
これはぜひとも,わめしゃんがご自分で見つけるのがベストだと思います.きっと見つけられるっ!^^

126わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/11/12(土) 04:50:32
cocoしゃんお返事が早いわ♪ さては仕事も一段落なのかな?o(*^▽^*)o~♪

> 「智慧・理性」派のわめしゃんと思っていたのですが,どんどん進化されているのか,
> 私のほうの認識不足か,わめしゃんについてゆけておらずご免なさい.( ̄▽ ̄;)ゞぽりぽり

うーん、情けないかなそんあ進歩は見られず、>>81でも書いたように理性を主・心情は従との主義?は変わりません。涙

> 上のわめしゃんのお言葉に,このスレッドのテーマでもありますが,ブッダの滅後仏教教団の一部の人々に必然として生まれた,大乗への系譜のはじまりと同じものを感じます.

わめは無意識のうちに抵抗感のある大乗の思想に向かっているのでしょうか・・・w

> たぶんわめしゃんのなかに,妄信への危険回避ということもテーマとしてあるのでは,と思ったりしました.
> 確かに理性や合理性・客観的事実認識というのは,生きていく上で非常に大切なことだと思います.

妄信への危険回避というより、信号はよく見て渡れというか、考え事をしていて信号無視は怖いかなって感覚かもw

> しかし私が考えているのは「理性や合理性,客観的事実認識を駆使してもどうにもならないこと」が人の世には在る‥ということ.それを受け入れて,先に何が見えるか‥‥ということなんです.これは,わめしゃんのおっしゃる『「智慧・理性」で悟って・・・のあとに続く何か』と,もしかしたらリンクするかも知れません.

リンクすると思います。^^ が、”「理性や合理性,客観的事実認識を駆使してもどうにもならないこと」が人の世には在る”ことについてはそれを認めた上で、そのようなことも身に起こるかもという覚悟持っていれば、まぁそれでもかなり苦しいでしょうが受け入れていけるようにも思います。

ただ、覚悟を持って受け入れるという手段以外に、他の更に良き”あとに続く何かが”あるかもしれないとの希望を持っているように思います。やりたい放題やってきたわめは今更別としても、受け入れる覚悟を誰しもが持てるかどうかには楽観視できなく思いますし、覚悟を持てない方の痛みを結構強く感じてしまう体質なのか他人事ではないですので・・・

> >cocoしゃんのお返事に、わめのまだ分からない”あとに続く何かが”があればうれしく思います。
> ひゃ〜 わたしにもよくわかりません.

(´・ω・`)ショボーン

とりあえず誰もが覚悟できるための思索を、平行してあるかないか分からない何かも模索していきたいと思います。

cocoしゃんには秘策がなにやらありそうですが頑張ってね!(! ──__──) ジトーッ!

127coco ◆O8ZJ72Luss:2005/11/12(土) 15:12:35
やほーい.わめしゃんこんにちは.

>cocoしゃんお返事が早いわ♪ さては仕事も一段落なのかな?o(*^▽^*)o~♪

そうなの♪ やっとすこし時間の余裕ができました.

>うーん、情けないかなそんあ進歩は見られず、>>81でも書いたように理性を主・心情は従との主義?は変わりません。涙

にゃ〜る.進化しつつも,やっぱり主従の関係は変わらないのネン.わかりやすく例えると,わめしゃんがご主人様でワタシがけらいってことですな. 
って,わかりやすいのかーーーっ!?  けらいが凶暴過ぎ〜 がるる・・

>> 上のわめしゃんのお言葉に,このスレッドのテーマでもありますが,ブッダの滅後仏教教団の一部の人々に必然として生まれた,大乗への系譜のはじまりと同じものを感じます.

>わめは無意識のうちに抵抗感のある大乗の思想に向かっているのでしょうか・・・w

щ(▼ー▼щ) カモ-ン

>リンクすると思います。^^ が、”「理性や合理性,客観的事実認識を駆使してもどうにもならないこと」が人の世には在る”ことについてはそれを認めた上で、そのようなことも身に起こるかもという覚悟持っていれば、まぁそれでもかなり苦しいでしょうが受け入れていけるようにも思います。

(¨)(..)(¨)(..)ウンウン..わめしゃんの仰ることが,たしかどこかで読んだ原始仏典の訳書の中にもありました.
「私の教えを聞いたものは,たとえば第一の矢によって射られても,さらに第2の矢によって射られることはない」(本が見つからないので要旨)
たとえ同じ苦しみを受けたとしても,人の心の仕組みを知っていれば,知らないままに受けた場合のように感情の虜になることなく,すみやかにその苦しみから離れることができるであろう.というようなことだったと思います.つまりブッダも,理性による感情の受け入れ方というか,処理のしかたを示唆していたのではないでしょうか.

>とりあえず誰もが覚悟できるための思索を、平行してあるかないか分からない何かも模索していきたいと思います。

そこがわめしゃんの素敵なところデス.フレーヾ(゚ー゚ゞ)( 尸ー゚)尸_フレー 

>cocoしゃんには秘策がなにやらありそうですが頑張ってね!(! ──__──) ジトーッ!

(・・;) 秘策なんてないですって.ただ,すでに在るものを取り出してこねこねしたいだけでございます.^^

128coco ◆O8ZJ72Luss:2005/11/12(土) 15:17:39
ということで,少しづつですが さらに続けてゆきたいと思います.
個ヘ向うベクトルと大衆へ向うベクトルというのは,よく言われるように,ほんとうにテーゼ対アンチテーゼの関係なのか‥‥
というあたりから始めたいのですが,その前に初期仏教の「智慧]はひとまず置いて,大乗の「信仰」について考えていきたいと思います. つづく

129わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/11/16(水) 01:52:41
cocoしゃんこんばんは〜^^

> そうなの♪ やっとすこし時間の余裕ができました.

(*゜-゜)ニコッ(*゜ー゜)ニヤッ(*゜ー+゜)キラッ

> って,わかりやすいのかーーーっ!?  けらいが凶暴過ぎ〜 がるる・・

(^¬^) よだれ〜

第一の矢、第2の矢のお話は、わめもどっかで読んだような・・・

> 個ヘ向うベクトルと大衆へ向うベクトルというのは,よく言われるように,ほんとうにテーゼ対アンチテーゼの関係なのか‥‥
> というあたりから始めたいのですが,その前に初期仏教の「智慧]はひとまず置いて,大乗の「信仰」について考えていきたいと思います. つづく

( ̄▽ ̄)ゞラジャ

 わめ的には個ヘ向うベクトル=真理を探ろうとする心(理性)、大衆へ向うベクトル=広がりゆく心情(情緒・情動)のように感じてしまいましたw

 あっと、その前にちょっとつまんないことを書かせてね。^^
 つい最近自分って思っている対象は何だろうってふっと考えたのですが、あ、自分っていうのは単なる意識とは思っているのですが、その中でもどうも心情(情緒・情動)臭いぞって感じたのです。じゃ理性は?っていったら、cocoしゃんが理性と情緒は表裏一体って言われたように、理性と言うか悟性と言ったらいいのか、まぁそのような感覚がこの心情(情緒・情動)にも備わっているのかなぁなんて思ったりもしているのです。だから理性と心情とを別々に考えるのはやっぱ変かなって思って、分けるときには必要に応じてと言うか、思考を整理する上で必要なだけかなって考えるようにもなりました。・・・それなのに更にまたわけわかめなよからぬ思考にいっちゃって、今夜はまだ酔ってないのに変なことを書いてしまいますが・・・w

 理性と情緒は表裏一体か、別々とか、分からないと言うことが分かったのです。♪ d(⌒o⌒)b♪

 ・・・変だな、意味不明だなw汗 言葉が見つからないんだもん。涙 でも分からないと言うことが分かったってのは、現段階のわめにとってすごくセンセーショナルなことで、でも他のところにこんなことを書けばわめの異常さがばれてしまうし、でも書かないと忘却の彼方にこの思いが忘れ去られるのも、昔の貴重な思い出の写真を無くすようで嫌なので、ここなら!っと思って書かせてもらいます。<(_ _)>

 って、ここってが変な掲示板だと言ってるわけじゃないのですよw汗

 つっ、つまらないことを書いてしまいました。(^^;; この投稿はスルーして進めていってくださいませw

130coco ◆O8ZJ72Luss:2005/11/30(水) 00:01:36
>>129 わめしゃん!

遅レスの返事で(*_ _)人ゴメンナサイ だれど、ものすごく嬉しいレスをありがとう!!
ってことだけ、とりあえずお伝えしておきます。
時間に追い捲くられ状態から脱出できましたら、またじっくりゆっくり
続けてゆきたいと思っています。
お返事もしたいので、2週間に一度くらい覗きにきてね (;^_^A

131coco ◆O8ZJ72Luss:2005/11/30(水) 00:49:50
訂正↑  1ヶ月に一度でいいデス(爆)

133coco ◆O8ZJ72Luss:2006/06/02(金) 02:46:00
というわけで,
初期仏教の「智慧]はひとまず置いて,大乗の「信仰」について思い付くままに.

なにかと話題の『ダ・ヴィンチ・コード』.
キリスト教圏の欧米では信者達にかなりの激震を与えているようです.

小説としては伎倆がイマイチでしたが,キリスト教の歴史解釈が非常に面白く,これは
「原始仏教VS大乗仏教」に勝るとも劣らない「原始キリスト教VSローマ・カトリック教会」
といったスリリングな問題を扱っているということで(笑

先日テレビでも『ダ・ヴィンチ・コード』の鍵となる「最後の晩餐」を巡る謎の解明に
ついて特集していましたが,1999年にやっと終わった修復によって初めて真の姿を
表したその絵は,キリスト教に対するある種の告発という解釈も成り立つようです.

そんなこんなで,先日バチカンのあるイタリアで公開された映画「ダ・ヴィンチ・コード」
がそれまでの興行収入記録を塗り替えたそうです.おそらく週間新潮を買ってしまう創価
学会員のような心境で映画に臨んだ観客も多いのではないか,と勝手に憶測.

しかしローマ法王庁は下手に反発するとやぶ蛇になる恐れありとみたか、公には
フィクションとしてスルーするようですね.信者のためにも賢い対応だと思います.

134 ◆fESm14xCnE:2006/06/10(土) 15:59:59
>>133

原始仏教と大乗仏教ってそんなに決定的に違うん?

って、どっかの話題だ。
最近あちこちのブログなど増えて、新幹線の中からケータイで同じコメント
のあたりまで読んで、上のまぶたと下のまぶたが〜〜〜。
毎晩、同じページの同じ行を3行ほど読んで、ちーとも進まん状態なりぃ。

135わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/06/14(水) 15:43:35
ぉ cocoしゃん、復活の兆しが。♪((O(〃⌒▼⌒〃)O))♪わくわく

136さかなこ:2006/06/18(日) 14:31:32
すっかりネットから遠ざかってましたヽ(´ー`)ノ
おひさしゆう。

この間もんもんとしててカトリックの教会に行ったのですよ。
司祭さまがお声をかけてくださって色々とお話しました。
「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」というか
ああやって見ず知らずの人の相談事に親身に乗ってくれるのは
世界に広まってきただけに流石に優秀だなあと思いました。

しかし何故キリスト教原理主義者たちは偏狭なんでしょうかね?
ってどこの世界も原理主義者は偏狭なのかヽ(´ー`)ノ

ダヴィンチコードは小説読みました。目の付け所がとってもよかったと
思う作品でした。神の子イエスより人間イエスに興味がありますだ。
最後の犯人とかオチとかはテンプレートみたいな感じがしましたけどw
原始仏教VS大乗仏教というか板曼荼羅偽作説みたいな感じがしましたw
日本版ダヴィンチコードとして創価VS正宗、板曼荼羅は偽者だった
みたいなミステリーとか面白いかと...w
「日蓮が残した暗号とは?日蓮曼荼羅に隠さされた秘密とは?」みたいなw

138coco ◆O8ZJ72Luss:2006/07/24(月) 01:44:17
>>134
歩さんはね そんなね 面倒なことね 考えなくてもね いーのヨ♪
さて,修飾部はどこでせう

ブログ,世界中で爆発的増殖を続けているようです...
歩さんのところ,また遊びにゆきマス

エリザベス女王と金正日総書記のブログがあったら一寸読んでみたい〜

139coco ◆O8ZJ72Luss:2006/07/24(月) 01:47:32
>>135
わめしゃ〜ん ヾ(´ー` )ノ
お久しぶりです.
ぼちぼち再会しますので,お気が向いたら
またぜひ 合いの手つっこみお願いネ

わめしゃん,どんどん先に行ってしまって追いつけないカモ (; ̄ー ̄A

140coco ◆O8ZJ72Luss:2006/07/24(月) 01:50:21
>>136
さかなこさん おひさしゅう〜るり〜

やはり宗教でも人でも,懐の深さに惹かれます.
原理主義者は偏狭で,偏狭だから原理主義者なのね〜(意不
キリスト教の内部分裂異端審問時代なら,ウンベルト・エーコの
「薔薇の名前」が最強に面白かったです.

スケールはあまりにも違うけれど,創価学会とローマ・カトリック協会って
ある部分似ていて当然だなぁと.

「日蓮が残した暗号とは?日蓮曼荼羅に隠された秘密とは?」
最高! さかなこさん,ぜひとも書いてください.
私の愛する日蓮は醜男ではなく美形でお願いd(‐‐)ネ!

141 ◆fESm14xCnE:2006/07/24(月) 19:30:20
>>138 cocoさん、お久さ〜。
修飾部は「ヨ♪」で御座る。。。噫。

また遊びに来てね〜。
最近、年取ったせいか功徳ちゃうくどくなってるって自分で感じてる。
余韻というか色気もなにもあったもんじゃない。って以前からか。がはは。

142coco ◆O8ZJ72Luss:2006/08/21(月) 01:27:24
>>141 歩さん お元気そうでなによりです〜

(^^)(--)(^^)(--)ウンウン
くどい しつこい まだるっこい
年寄りの散弾活用ですにゃ.大いに乱射しませう.ヾ(- -;)

143さかなこ:2006/08/25(金) 23:10:23
>cocoさん

>「薔薇の名前」が最強に面白かったです.

エーコは難しくて読めないんですよねorz
何度も挫折してそのままです。世界史やってないので
時代背景からして分からずそのまま挫折...。
オチだけ知ってしまったのでそのまま放置してしまってます(゚Д゚;)

144イタル:2006/09/01(金) 23:29:44
さかなこさん、お元気ですか?^^

ブログ無くなって寂しいです・・・って、何処かでやってるんですかぁ?

横レスでしたぁm(_ _)m

145代理:2007/02/25(日) 15:55:00
age

146名無しさん:2011/04/05(火) 09:21:50
.


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