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FKとの対話

1FK:2008/09/08(月) 22:25:40
 このスレッドはもろに、私、FKとのお話し、
   いえ、 おしゃべりコーナーです。
                 ご自由に、どうぞ。

2ヽ(^鼻^)ノ:2008/09/09(火) 01:12:20
FKさん(?)は秋期休暇はないんですか?
もしかして毎日出勤でしたり?

3FK:2008/09/09(火) 07:32:13
「FK」と呼び捨て? でいいですよ。
 ないんですよね、秋のお休みとしては。
 夏の方は「夏季休暇」として5日あるのですが、これは6-9月の間で取れ
ることになってます。(すでに取りました)
 みんなの秋休み中は、いろいろデスクワークがあって今のところ連日、学
校ですね。遊びに来てください、いえ、勉強しに来てください。(笑)

4FK:2008/09/12(金) 09:58:53
今、生徒のあなたへ

 学校は勉強する所だからといって、それだけで終わるものではありませ。
生きた感情を持つ私たちですから、人間的なふれあいが欲しいのです。考えようによっては授業などの勉強よりも、人間的に成長することのほうに、より大きな意味があるでしょう。

 ふれあいというと、教師とのふれあい、友達とのふれあいがあります。いろんな人がいますから、その中には自分と波長のあう人ばかりとはいえません。むしろ、あう人は少ないのが現実でしょう。とくに教師とは年令差もあって、なかなかあわないかもしれません。

 しかし学校生活を気持ちよく楽しく送りたければ、たった一人でもいいですから、自分という人間、その考え方や感じ方などをそっくり受けとめてくれるような人を見つけることです。あなたのまわりにいる友達や教師の中から、そんな人を捜してみてください。
 学校や人間にたいするあなたの考え方が変わると思います。
     
     −−1987年6月10日付毎日新聞「みんなの広場」掲載−−

5FK:2008/09/16(火) 20:06:24

中退は「負け犬」か

 高校だけは行っておかないと一人前ではない、という考え方が支配的です。それでも中退者が少なくないのはなぜでしょう。彼らは「自分勝手な理由」でやめていったのでしょうか。

 高校には友達がおり、楽しいことばかりではないにせよ青春をいろどる高校生活がそこにはあるわけです。それらを捨て去って、ほとんど展望もないままにやめていく−−それが中退です。
 やめたくて、やめたのではないでしょう。もうそれ以上、高校にとどまっていられないせっば詰まった理由があり、その苦しい選択の結果が中退だったと思うのです。はた目には、安易な選択、逃避のようにも見えるかもしれませんが、「負け犬」というレッテルを貼られる屈辱や、将来に対する大きな不安を感じながらやめていくのです。

 中退した人たちは、どうか自分の勇気ある選択に自信をもって、高校の「三年間を耐えられないような人は、どこに出ても中途半端な人生を送る」という世間の常識(?)に負けないよう頑張ってください。

 また在学中のみんなには、耐えなければならないような高校というものを考え直してもらいたいと思います。
 
        (1987年7月11日付朝日新聞「声」掲載)

6エココア:2008/09/17(水) 13:58:08
先程部屋の掃除をしていたら蒼井優特集のananを見つけました。
処分するのもアレだし、良かったら貰っていただけませんか?

7FK:2008/09/17(水) 14:09:14
 気をつかってもらって、ありがとう。喜んでいただきたいと思います。
 受け渡しの方法についてはまた連絡してください。よろしくお願いします。

8FK:2008/09/20(土) 09:31:10

 学歴社会

 学歴社会の良い所はその人に傑出した能力がなくても、そこそこのもので通用していくというところです。
 誤解されているのは、だれでもが学歴を獲得しないとやってけないと思い込んでいるところ。じつはそうではなく、本当に実力のある人であれば学歴は不必要です。

 ところが、だれでもがそんな傑出した能力に恵まれているわけではありません。そもそも人間一人ひとりの能力には個人差があり、それはまたきわめて不公平かつ理不尽なものです。そこに多くの人たちにとっての学歴の意味があるのです。

 つまり学歴社会は私たちに学歴さえあれば公平に機会を与えてくれる社会だということです。もちろんどんな社会であれ、仕組みであれ不公平はあります。しかしそれは理不尽なものであってはなりません。
 だれにでも公平に機会が開かれていなければ学歴社会は窒息していきます。(1990年9月)

9FK:2008/09/22(月) 18:22:43

 個性とエゴと協調性

 今の学校で生徒たちの人権、あるいは個性が「尊重されている」とはとても言いがたい側面のあることはご存じだと思います。
 服装や髪形などに対する数多くの規則を見るかぎり個性尊重には程遠く、それはエゴともいえないようなささやかな生徒たちの願いすら入り込む余地がないものです。
 これではまともな人間扱いをされていないと、生徒たちが感じたとしても仕方がないでしょう。
 そのような生徒たちのおかれた現状を象徴しているのが「運動会などで指揮に従って行動する子供たち」の姿であり、「同じ服を着て演説を聞く高校生」の姿だとある高校生は指摘しています。
 これらをおかしいとも何とも思わないところにすでに私たちの目にくもりがあるというわけです。

 よく使われる言葉に「協調性」があります。
 これが必要だといわれるのは学校にかぎりません。社会生活を送るうえで、その秩序を守り協調性を持つことは必要なことでしょう。
 ただそれが強調され、たとえば「あなたは協調性がない」という言葉は十分、脅し文句たりうるのです(社会秩序からはみだした人間だ、との断罪です)。つまり「協調性」の強調は、個人と個人とが力を合わせていくという本来の意味ではなく、他方への服従の強制になっているからでしょう。

 もちろん「協調性」という言葉は、即その社会や集団に服従することを意味しません。「協調性」によって自分の権利や個性が否定されてはなりません。(たとえ孤立し、エゴイズムと言われても、自分らしさを失った協調性では意味がないでしょう)。
 これをしっかり意識しておかないと、いまの学校では太刀打ちできません。単なるわがままではないかを自問しつつも、自分を個性的に生きていきたいものです。

      (1987年7月17日付毎日新聞「みんなの広場」掲載、一部改稿)

10FK:2008/09/23(火) 11:18:02

 教育とは

 普段なにげなく使っているこの言葉だが、それは大人の側からの一方的な価値観を反映するものだ。そこで一度、視点を子供のほうに移して考えてみたらどうだろうか。

 「教育される」子どもの側からみればこの「教育」という言葉の本質がよくわかる。つまり大人がその利害から意図するところのものを注入しようというのが「教育」だ。もともと子どもたちが欲してないもの(子どもたちが嫌がること)が、そこに要求されてくる。それは学校の制度や教育課程などに顕著に表れている(制服や細々した規則など)。

 このような学校に対して、少なからぬ子どもたちが造反を起こすのも無理のないことだ。しかし大半の子どもたちは、おとなしい。デリケートな子どもたちにとっては、学校という場所はそこの空気を吸うことすら耐えられない。不登校は必然とも言えよう。



 やはり「教育」を子どもの側から考え直してみる必要がある。今、一般的に流布している教育観は、はたして子どもたちの願望を満たすものなのかどうか。

 子どもたちの姿は今の「教育観」とそれに基づく学校教育に否定的であるとは言えまいか。言葉では批判できなくても、態度や行動で分かるのではないか。



 本来、人間はみずから「学び育つ」ことを欲するものだ。大人たちはその手助けをするだけで十分であったはずだ。

 ところが現実はおせっかいともいえるほどに、子どもたちを学校に縛り付け、長時間にわたり多くの勉強を押し付け、子どもたちの自由な時間を奪い続けている。

 その結果として子どもたちのものの考え方は、大人や社会にとって都合のいいものにされていき、子どもたちの価値観の中心に学校がどっかりと居すわることになる。



 子どもの自殺は痛ましい。そしてその原因をたどれば多くの場合、「学校」が、かかわっているのだ。本当にものごとをよく考え真剣に生きている子どもたちが、学校を批判しながらも、その学校から精神的に離れることができずに自殺していく。これほど悲劇的なことはない。

 大人たちの都合によって作られた、ある意味で子どもたちの幸せを願って作られたはずの学校によって、子どもたちがあるいは自殺し、あるいは精神的にスポイルされていく。

 子どもを奪われた親たちには予期できなかったことかもしれない。多くの親たちは学校に対して絶大な信頼を寄せているからである。学校にさえ行っておけばとか、学校だけはどんなことがあっても行っておきなさい、という言葉にそれは、はしなくも表れている。「学校信仰」である。

 ところが親たちの善意の期待に反して、学校は子どもを自死にいたらしめ、あるいは心をずたずたにして家庭に帰してくるのだ。



 大切なことは、そもそも国家のほどこす教育が「誰」のため「何」のために存在するのか、と考えてみることだろう。なぜ子どもたちに教育を受けさせる義務が、親たちに課されているのかを考えてみることだ。

 ともあれ子どもたちには、学校だけが人生のすべてなのではない、ということや(脱教育)、あるいは脱学校の考え方もあるんだということを親もふくめて認識しておくことだろう。

 フリースクールもあり、高校へ行かなくても大学へ行くという手もあるのだ。学校も人生も様々な選択ができるということをこそ「教え」ておく必要があるだろう。
 (1986年 2月11日)

11FK:2008/09/24(水) 21:56:49

 家庭の役割

 大人も子供も一日が終わるころには心身ともに疲れ、明日のためにもその疲れをとり、自己を回復することが必要です。
 家庭は子供たちの心が安らぎ、自己を回復できる場所です。親やきょうだいの中で、自分の存在価値を確認し、外の世界で疲れ傷ついた心をいやすわけです。
 このような居心地のいい家庭が私たちには必要なわけです。
 しかし今、親たちは仕事に忙しすぎて、子供たちにかまっていられず、その結果、子供たちの心の安定が失われがちなのです。大人たちに必要なことは、子供たちとゆっくり触れ合える時間的、経済的なゆとりだと思います。

12FK:2008/09/25(木) 22:40:04

 標準

 毎日の生活の中で私たちは様々な多くの商品と付き合っている。価格一つとっても千差万別。頻繁に買い足していくものから、一生に一回使うだけのものもあるかもしれない。
 しかしどのような商品であれ、それを提供する企業はその社会的責任としてきちんとした製品を提供する責務を負っているわけだ。世界中のどこに出しても恥ずかしくないだけの品質を維持し、長期にわたって安定的に提供し続けるという姿勢が必要だ。

 そこで標準(スタンダード)ということだが、それはそれ以上品質のレベルが下がれば使用に耐えない、あるいはメーカーとして誇りを持って販売できないという基準だろう。
 この標準というものに対するシビアな考え方。スタンダードというのはかくあるべし、という哲学ともいえるものが日本の企業にあるかどうか。コストダウンのためには見えないところを手抜きしたりしていないか、と私は不安を感じてしまう。
 基準が厳しく競争が激しい国に対してはきちんと対応しているのに(もちろん対応していなければ販売できない)、競争がなく基準の甘い国に対してはその装備を省くといったことをしてはいないか。
 JIS(日本工業規格)のSはまさしくスタンダードである。各種の部品や工業製品はその規格のもと優秀な製品なのだろう。しかしそこから出てきた商品はどうだろう。世界に誇れるスタンダードたりえているだろうか。

13H・K:2008/09/26(金) 00:34:08
みんな同じでみんな幸せとも言うが、
みんな違ってみんな良いとも言う。
出る杭は打たれると言うが、
十人十色とも言う。

ダブルスタンダードが文字通りスタンダードになったこの世界で
一体どう生きればいいのだろう。
行き着く答えだけは、オンリーワンであってほしいものである。

14H・K:2008/09/26(金) 00:43:52
人は生まれつき平等ではないという事はもう既に言われている事ですが
人間皆平等になれば皆幸せになれるのでしょうか。
そもそも今の世界で全員が平等になる事は可能なのでしょうか。
倫理的な謎はつきません。

無意味なぼやきでした。

15渦森六郎:2008/09/26(金) 01:04:21
「百万円と苦虫女」の蒼井優の最後の台詞は、「くるわけないか」だったような気がしますよ。
映画欄に書こうか迷いましたが、とりあえずこっちに書きました。

16FK:2008/09/26(金) 14:36:56

「百万円と苦虫女」の蒼井優の最後の台詞は? 

「来るわけないか」か「そんなわけないか」?
 気になりますが、言われてみたら、「来るわけないか」かなと思ったりします。
 いずれにせよ、DVD待ちです。ただ一つ、原作の小説を読めば分かるかも。本屋へ直行しますか!

17FK:2008/09/26(金) 14:58:08

 幸福論
 
 「みんなと同じ」、だから幸せ!
 「みんなと違う」、だから幸せ!
 
 両方あるでしょうね、それぞれ。
 でも大事だと思うのは、他の人との比較からではなく、自分を基準にして「だから幸せ!」と言えることでしょう。

 自分に自信があり、余裕があり、満足していればいいんじゃないでしょうか。もちろん、そのとき人に迷惑をかけたりすることは、できるかぎり、ないようにしたいのですが。
 でも無理でしょう。生きてる限り私たちは人に迷惑をかけずに生きていくことは無理。

 そこで人の気持ちを害さないためにも「ダブルスタンダード」なのです!
 
 
 平等論
 
 人はみな平等であるべきだ、というのは理想論のようです。平等というのはそんなにも価値のあるもの・素晴らしいものなのですね。
 でも一体、何が平等であればいいのでしょう。これを機にいちど考え始めてみてはどうでしょう。

18FK:2008/09/27(土) 17:24:43

 大人とは

 −−大人というのはその年令で決まるのでしょうか。
 −−自分の行動に責任を持つのが大人ということでしょうか。
 −−経済的な自立(お金儲けができること)が条件なのでしょうか。
 −−清濁あわせ飲むことができるのが大人だという考え方もあります。

 私はその答えの一つとして、「人のために何かができること」と考えますが、いかがでしょう。

19FK:2008/09/29(月) 11:09:44

 日本の道路はクルマを敵視している?!

 運転していてつくづく思うことの一つにこんなことがある。「日本の道路はクルマを敵視している」。
 たとえばそれは駐停車が絶対出来ないように道路を狭めたりしていることである。もちろん道路自身がそんなことをするのではなく、それを作る人間の側の考え方なのである。

 もともと狭い日本の道路にあって車を通行させ、さらに商業活動のためにも駐車余地を残さねばならないとしたらそれは大変なことだ。しかしそれができないと私たちの日常生活はたちまち困ることになる。
 まして今日のようないわゆる宅配が一般化していると、道路は常に何らかの車両が駐車もしくは停車することを前提に作られねばならない。
 ところが現実は不法駐車一掃の名目のもとに日常生活にとって欠かせないクルマの駐停車まで阻害してしまっているのである。鉄の杭やコンクリートなどで一旦停止さえしにくくしていること。こんなことなどがある。
 もしそこにとめたらみんなが迷惑するようになり、だから駐車できないようにとの魂胆だろう。しかしとめる人間や仕事の人はそんなことにはかまっていられない。そんなことしてたら日本の道路では仕事にならないのだ。
 したがって仕事のクルマはどんなところにでも強引にとめるし、またそうしなければ仕事にならないわけだ。これが現実だろう。ところがこれがひいては私たちの生活を危険に陥れ、社会の円滑な活動を阻害しているのだ。

 私たちは駐車車両によって狭められた道路を疾駆するクルマから身を守りつつ通行しなければならないのだ。このような事態にいつになったら気づくのだろうか。クルマを敵視しているかぎり、そのような状況は変わらない。そして私たちの危険は無くならないだろう。(1994年)

20FK:2008/10/08(水) 21:24:03

 私・FKの居場所

 私を見つけるためには次の場所を探してください。(苦労させますが、よろしく)
1.3階 準備室(エレベータ下りてすぐ右の部屋)か308教室
2.2階 職員室かエレベータ下りてすぐ両横のベンチ付近、まれに図書室
3.1階 食堂内かその横のフロア
4.それでも居ないときは、3階 準備室前のベンチ(エレベータ下りてすぐ右)で待っててください。
5.確実なのはアポイントメントをメールで入れて、です。

21FK:2008/10/11(土) 10:36:10

 単位を取る秘訣

1.スタートダッシュ → 最初の授業から出席して、履修条件クリアまでの授業時数をまず休まない。そうしたらあとは余裕をもって授業にのぞめるのです。

2.成績の付け方 → どのようにして成績が付けられ、単位修得できるのかを教科担任の説明から把握しておく。そんな話が最初になければ聞きに行く。

3.好きになる → どんなに嫌な科目でも、どんなに嫌な教師でも、どうしても今回、単位を取らねばならない場合。対策は一つ。好きになること、自分をだましてでも? 無理矢理好きになってなんとか勉強することです。いやいやながら教室にいるのは最悪ですから、もし来年回しにできるのなら、今回はパスしてもオーケーかも。

4.ノート → ノートを上手く取っていそうな人と仲良くなって見せてもらう。全面的に依存したらあとで困るので、参考として。そうするとより効率的に勉強ができ、余った時間を自分のために使えるのです。ノートには板書通り書くのが楽ですが、一工夫して左右見開きで使うとか、先生の言った冗談もきちんとメモるとかしてみてください。あと、復習したときに追加で書き込めるように十分な余白もほしいですね。ま、けちらないことです。一冊100円くらいの投資ですから。

5.提出物 → これは提出することに意味があるのですから、100%のできでなくても、ともかく期限を守って提出すること。拙速、でもいいのです。期限厳守が第一。また提出物はできるだけ授業時間内にすませてしまうことです。一番、あたまも働いているときですから。

6.出席 → 一時間ごとに出席したかどうか、その時間の授業内容を簡単にノートにメモしておくことです。万が一、間違えられて欠席になっていても授業ノートにその時間のことが書かれていたら証拠になるからです。

7.より勉強したい人に → もっともっと勉強したい人は、大学受験もそうですが、教室での授業に参考書や問題集も持ち込んで机の上に広げて(狭い机ですが)、授業を受けながら同時に目を通していくことです。

8.考える練習 → 授業でいちばん大切だと思うのは「考える」ことです。いろんな授業がありますが、トータルしてみたらすべてそれらは「考える練習」のためにあるのです。眠っている脳を活性化させ、能力を発揮させるためには、これが必要なのです。

9.運 → では最後のキーワード。それは「運」! なにごとも最後は「相性」とか運とかがかかわってきます。決して「運まかせ」というのではありませんが、最後の最後は運、です。だから場合によっては潔く諦めを。では、ご健闘を祈ります!

22FK:2008/10/12(日) 20:32:43

 『イギリス「教育改革」の教訓 教育の市場化は子どものためにはならない』(安部菜穂子 岩波ブックレット 2007年 \480)


 副題の通りサッチャーとその後の現ブレア政権による市場原理主義は、やはりだめだということ。イギリス国内でも批判が高まり、改善の方向へ、とのこと。

 学力テストをやり、学校評価という差別化により市場原理を導入するという無茶苦茶なことに対する批判の書である。現に失敗しているのだが、日本もその後追いをしているのだ。悲しいことだが、この状況はまだまだ日本では続きそうだ。何でも後追いする習性の悲しさをひしと感じる。

 成功例としてはフィンランドがあげられている。カリオマキ教育相によると「フィンランドの教育は“子ども中心”である。競争原理はスポーツの世界には適しているが、教育にはそぐわない」と一刀両断である(P.61)。もちろん極めて当たり前のことなのだが、彼の国の人に言ってもらわないと有り難みがないわけだ。

 フィンランドの教育関係者の言葉をさらに拾い出すと当たり前のことが当たり前として発言されていることにあらためて驚かされる。

 「習った知識や情報をもとに批判的にものを考え、独自の意見を持てるように子どもたちを導くことが、授業の目的です。」(P.63)

 「テスト結果を公表して学校や地域をランクづけすれば、問題を生むだけです。」(同)

 教科書を勉強することが「授業の目的」だと勘違いしている生徒は少なくない。「批判的に」ものを考える者は異端視され、「独自の意見」を吐く者には冷笑が浴びせられる。これが日本社会の現実。――そんな中での教育活動はなかなかに大変である。

23FK:2008/10/14(火) 22:52:19

 心にゆとり、手には本

 先日映画を観にいった。
 さてその電車のなかでのこと。例によって、私は本も見ず、電車の中の人々の顔や車窓を眺めていた。通勤をはじめとしてあまり電車に乗ることもないからだが、しかしバッグの中にはいつもどおり、本。
 まず読むことはないのだが、入れておくと安心なのだ。もし時間待ちや退屈したとき、いつでも読めるから。

 実はそんなときくらい本を読まなくても、ぼんやりしていてもいいようなものなのだが、そんなときでも本を持っているといないとでは大いに違うのだ。安心感とでもいおうか。心豊かというとオーバーだが、常に本を携帯しているというのは何かしら心豊かな余裕を持つことができるのだ。
 −−心にゆとり、手には本!

24FK:2008/10/15(水) 21:01:55

 忌引き

 私たち教師もそうだが、生徒たちにも忌引きというものがある。親等によって決められており、今回の私のクラスの生徒の場合(2007年 6月の話です)、2親等なので3日ということになる。
 これまでこの日数に関心を持つことなく教師生活を送ってきていた。ところが、今度、あらためて「喪に服す」ということを考えさせられことになった。
 その悲しい連絡が本人からあり、いざ忌引届の話となったとき、私は愕然としたわけだ。そのあまりの短さに。......
 死者を弔い、服喪する期間として学校が認めた日数のあまりの少なさに。そう、たった3日なのである。彼女はせめて一週間は家で喪に服したいと言った。

 この日本社会にすむ私たちは、死者を悼むための時間までも、こんなにもケチられていたのだと気づいた次第。本当ならもっともっと長い時間を静かに死者を悼む時間として過ごすべきなのだ。
 ところがあまりに忙しい日本社会はそれを許さない。そんな悲しい現実に、はしなくも気づかされたのであった。

 死者を大事にしないというのは、ひいては生者も大事にしてないということでしょう。

25FK:2008/10/19(日) 19:22:03

 『きのうの世界』(恩田 陸 講談社 2008年 \1700) 2008年10月19日 (日曜)

 恩田陸の不思議な世界。読解力の乏しい私には無理な小説、か。
 いくつか楽しませもらった言葉を抜き書き。


 知っている、ということはなんとありがたいことだろう。臆病な旅人は、知らない孤独よりも知っている孤独を選ぶ。だからこそ、チェーン店というものが世に栄えるのだ。(P.149)

【なるほどと思わせられる分析だ。「知らない孤独」はやはり怖いものだから。】



 図書館に来る人間は、皆似た匂いを持っている。
 他人と接触する気のない、閉じた気配を身に纏っているのだ。それぞれが自分の殻にこもり、他人の殻と触れ合わないようにして一人分の空間を埋めている。(P.198)

【もし図書館の雰囲気が嫌いだという人がいたら、おそらくこれを敏感にも感じとっているからだろう。私もそそくさと足早に立ち去るのみだ、本を借りだして。】



 人間が一人では生きていくのは不可能である。何らかの形で他者と関わらなければ暮らせない。それらの関係を全て断ち切って、どこかでまた新しく人生を始めるというのはどういうことなのか。(P.298)

【失踪したりホームレスになっていく人たち。彼らの精神は、と考えてしまう。つくづく生きていくのは難しいと思う。】


 忘れるというのは、罪深いことだ。しかし、忘れなければやっていけないこともある。(P.320)

【いっぱいある。これまでも、今も。そしてこれからもいっぱいあることだろう。それが人が生きるということ、なんて居直ってはいけないか。】



 ほんの少し。ほんの少しのところで、人びとは精神と生活の均衡を保っている。
 だから、ほんのちょっと、そこを一押しすれば、たぶんあの娘は――(P.425)

【本当に弱いものなのだ、人は。その微妙なバランスの中で、苦労しているのだ、みんな。】



 ここを気に入ったのは、周囲に文字がないことも大きかった。都会というのは、文字に囲まれた場所だったのだ、と改めて気付く。オフィス街ならまだしも、商店街や盛り場には存在を主張する派手な文字が溢れていて、それらに長年精神を消耗させられていたことを実感する。(P.434)

【余程でないと、もはや感じられないくらい鈍ってしまっている。実はそうなのだ。もちろん、自然にそれらをカットしながら生きているわけだが。】



 この世はありとあらゆる時代の蓄積の上にあり、それが現在と繋がっていて、場所によっては過去が剥き出しになっていたり、未来すら地下に潜り込んでいることが実感できた。(P.446)

【これを読んで荻原浩の『千年樹』(集英社 2007年 \1600)を思い出した。一本の木の立つ場所での話。しかし普段、私たちはそんなことに気付かずに知らずに平気で生きているわけだ。】



 そう、人間を人間たらしめるのは、遠い過去からの記憶の蓄積であり、その蓄積を認識できる精神のみである。気の遠くなるような無数の過去によって、世界は成り立っているのだ。(P.471)

【もちろん自分一人だけの記憶ではない。自分は自分一人で勝手に生きていると思っているが、実は多くの記憶の蓄積の中で生きているということ。ただそれに気付くか、気付かないか。いろんな人がいるわけだ。そう「無数の過去」に気付けるかどうかが分かれ目だ。】

26FK:2008/10/22(水) 22:13:25

 『一日一日が旅だから』(メイ・サートン みすず書房 2001年 \1800)

 サートン(1912-1995)の詩集(SELECTED POEMS)。日本人の日本語による詩集でもなかなか難しいのだが、これは翻訳であり、また基本的に文化風土が違うものなのでさらに難しい面がある。

新しい地形(The New Landscape) (P.52)

老年とは
未知の世界の探訪
そう考えれば
なんとか受け入れられる
挫折感は道づれ
くよくよしてはいられない
笑うことは命綱
………………
そうして体を横たえれば
ひたひたとよせる追憶が
わたしの時間をみたしてゆく。
八十年の生涯を
どんなにたっぷり生きてきたか
思えばめまいをおぼえるほど
追憶はあまさず心に生きている
           ………………



ときどきわたしは死にたくなる(Sometimes I Want to Die) (P.65)

ときどき わたしは
死にたくなります。
もうよい
みなおしまいにしたい
ベッドづくりもこれが最後
手紙に返事を書くのも
植木に水をやるのも忘れよう
もうよい
一日一日を生き永らえるための
こんなおつとめは。

そんことをいいながら
ほんとうは
死にたくはないのです。
木の葉が色を変えはじめたいま
もういちど
あの赤と金とを見たいのです
一枚のもみじ葉が
きらめく陽光のなかを
くるくると舞い落ちてゆくのを
せめて もういちどだけは。



至福(Bliss) (P.67)

夜のなかば
寝室は月の光に洗われ
外には
引き潮の
ひそやかなつぶやき
 …………
夜もなかば
生きていることの至福よ!

27FK:2008/10/23(木) 20:59:06

 『サキャ格言集』(サキャ 岩波文庫 2002年 \560)

 いくつか抜き書きしたが、それはこの本を読む時々に違ったものが選ばれる
ことだろう。ただ、それにしても大枠は私自身に根付いたものの考え方によるものだ。とすればこれから再読しても、やはり同じ言葉・考察に目を向けることになるのだろうか。



135 あらゆる状況を考慮せず
  敵に襲いかかるのは愚者のしるしである。
  灯火の炎に立ち向かう
  蛾ははたして英雄だろうか。

172 人を観察せずに
  信用したり任せてはならない。
  不用心から問題が生じ
  忠告は敵を作る。

228 言葉が多いのは禍いのもとで
  無口は禍いを絶つ。
  オウムは話すので籠に入れられ
  カラスは黙っているので楽しくいられる。

230 弱者が怒って何になろう。
  強者はどうして怒る必要があろうか。
  だから事をなすのに
  怒ることは無意味に自分を焼くことだ。

269 財産がありながら
  使いもせずにあげもしないなら
  病気か
  餓鬼そのものだ。

272 使いもせずあげもしない財産で
  金持ちと思うなら
  一山を金と思って
  金持ちになるのはたやすいことだ。

364 正直な賢者は敬って師事せよ。
  ずるい賢者は注意せよ。
  正直な愚者は慈しめ。
  ずるい愚者はすぐに捨てよ。

372 自分でよく分かっていても
  ことはすべて相談してする。
  相談を好まないのは
  後悔を高く買うことになる。

28FK:2008/10/28(火) 20:22:51

 学校は

学校は楽しいところ、なんて考えるのはアマイ。
学校にそんなことを期待してるようではだめ。
それは精神的な隷属につながるから。



自分の青春時代を光り輝かせたかったら、主体性が必要。精一杯、自分らしく生きたかったら、学校から精神的に自由でなければならない。
誰からもとやかく言われず、自分の考えでやっていくこと。同じ考えの友達と一緒でもいい(でも徒党は組まずに)。

そのときに「場所」として学校を使うのはとても都合がいいだろう。大いに利用しよう。授業料払った分の元を取るのはむずかしいけれど、それくらい利用したい。
しかしそれでも学校ばかりにいてはだめで、どんどん外へ出ること、世の中へ出ることだ。

29FK:2008/10/29(水) 22:05:06

 家賃は一生ついてくる。

 これは新聞折り込みのチラシの惹句。さらに続けて言う。
 「死ぬまで家賃を払う気ですか? 今払っている家賃よりもっと安くしてみませんか?」
 そして末尾にとどめを刺すように「気付いて下さい!! 一度払ってしまった家賃はもう他人のものです。来月の家賃の為にまた明日から1ヶ月がんばって働くのですか?」
 考えてみたら「死ぬまで家賃を払う」のは当たり前。何にでもコストは掛かるものだ。住宅にだってそうなのだが。次の「今払っている家賃よりもっと安くしてみませんか」というのは結果的に完全に嘘と気付くのだが、当座の事だけを考えると、そう思わせられてしまうようだ。
 「払ってしまった家賃はもう他人のもの」とは、これも当たり前のことなのだが、何かしら損をしているような気にさせるところが巧妙。
 厄介なことに、生きていくためには経費が必要。食衣住のすべてにお金がいる。便益をお金で購入するわけだから、家賃どころかすべて「一生ついてくる」のだ。

30FK:2008/10/30(木) 22:15:26

 歴史の学習

 たとえ詳細にわたらなくても、学校の授業では近現代史までなされるべきだ。少ない授業時数であっても、例えば絵画の遠近法のように古い時代は簡略にし、新しい方に時間をかけるというやり方で可能なのである。
 ただ歴史の学習は事実を知るだけで終わるものではない。習得した知識をもとに分析し、考えるという作業がなければ不十分である。しかもそれは口で言うほどには簡単でなく、練習を積まなくてはならない。
 練習は単純な易しいものからスタートし、複雑で難解なものに進んでいくのがよい。
 日本史の場合、原始・古代からの歴史が比較的単純で分かりよい。素材としてもってこいなのである。それにひきかえ近現代史は社会が複雑化し、多くの人の利害が錯綜しているため、そう簡単には真実の姿を私たちの前に現してくれない。またその学習は必ずしも現状肯定とはならず、政治の影響も受けやすいということにもなる。
 近現代史を間違いなく理解していくためには、それ以前の歴史の学習による「考える練習」がやはり必要なのだ。

31FK:2008/11/08(土) 21:30:13

 2008年11月 8日 (土曜) 文化祭 雨もよい

 ホールに敷き詰められた紅葉した葉っぱのうえを歩く。――そんな良いアイデアもあったけれど、全体としては何か物足りなさを感じてしまう。一体、何が足らないのか? 無いものねだりなのか?
 「来年」のある人はそんなことも、考えてみてはどうでしょうか。もっともっと楽しいこと、居心地のいいものが出来るのではないか。今からアイデアを出しあっていってはどうでしょうか。

32FK:2008/11/09(日) 20:43:42

 『山本周五郎のことば』(清原康正 新潮社 2003年 \680)

 この新書はその山本周五郎の小説の中から、いくつか「名フレーズ」を抜き出したもの。



 人間のゆくすえは神ほとけにもわかるまい、実際に生きてみるほかはないのだ、かなしいけれど人間とはそういうものなのだ。(P.25 『枡落し』)

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 能のある一人の人間が、その能を生かすためには、能のない幾十人という人間が、眼に見えない力をかしているんだよ(P.35 『さぶ』)

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 「権力は貪婪なものだ」と甲斐は答えた、「必要があればもとより、たとえ必要がなくとも、手に入れることができると思えば容赦なく手に入れる、権力はどんなに肥え太っても、決して飽きるということはない」(P.53 『樅の木は残った』)

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 政治と一般庶民とのつながりは、征服者と被征服者との関係から、離れることはできない。政治は必ず庶民を使役し、庶民から奪い、庶民に服従を強要する。いかなる時代、いかなる国、いかなる人物によっても、政治はつねにそういったものである。(P.61 『山彦乙女』)

【これまた歴史の事実に目を注げば自明の理。そのくせ今の今、自分が生きている社会の政治と歴史だけはそうではないと、錯覚なのか錯誤なのかしているのだ、私たちは。】

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 ――現在ある状態のなかで、自分の望ましい生きかたをし、そのなかに意義をみいだしてゆく、というほかに生きかたはない。(P.63 『山彦乙女』)

【けっして居直りではなく、人生を肯定的に生きていこうとするなら、このような生き方しか選択肢はない。】

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 人を狂気にさせるほどの恋も、いつかは冷めるときが来る、恋を冷えないままにしておくような薪はない(P.65 『橋の下』)

【歳をとれば分かることなのだ。が、少なくとも二十台の頃には理解不能のこと、としておきたい。若い頃には「薪」は必要なく、恋はその瞬間において永遠だったのだから。】

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 あやまちのない人生というやつは味気ないものです、心になんの傷ももたない人間がつまらないように、生きている以上、つまずいたり転んだり、失敗をくり返したりするのがしぜんです、そうして人間らしく成長するのでしょうが、しなくても済むあやまち、取り返しのつかないあやまちは避けるほうがいい(P.65 『橋の下』)

【どちらに重きをおいた言葉なのだろうか。よく分かっているけれど、やはりミスをしてしまうのだ。】

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 歴史というものは、概括して、その時の政治のかたち、権力の在り方によって、修正され、改ざん、ねつ造もしくはまっ殺されたりしているものであります。(P.156 『歴史的事実と文学的真実』)

【これまた自明の理なのだが、一般にはそこまで理解がいっていないようだ。だから何度も庶民は騙される。騙されている振りをしているのだ、という面もあるかもしれないが。】

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 勤倹というような言葉、これは最大多数の衆智からでた言葉ではなくって、支配階級からふり下ろされた言葉だと私は解釈しています。
 普通の最大多数の人間の生活では、金は従属的なものであって、主体性はないものである。
 金さえあれば何かができる、と思ったら大きな間違いで、金があったって何もできない、というのが私の考えです。(P.177 『金銭について』)

33FK:2008/11/15(土) 21:43:40
「お薦め −本」48:FK (投稿日: 2008/11/13 22:08 )で紹介した『その日のまえに』(重松清 文藝春秋 2008年 \610)から。その1。

 短篇7編の題名は、ひこうき雲、朝日のあたる家、潮騒、ヒア・カムズ・ザ・サン、その日のまえに、その日、その日のあとで。



 命はこんなにもあっけなく消えてしまう。ひとの人生はこんなにもたやすく断ち切られてしまう。ドラマの最終回のような盛り上がりもなく、ただ、終わる。(P.98 朝日のあたる家)

【劇的であってほしいのかどうか、難しいところだが実際のところ、ひとの死はあっけないものなのだろう。また、それでいいのだろう。】



 でも、母ちゃんは「いる」――それだけで、いい。うまく言えないけど、母ちゃんの役目は「いる」ことなんだと思う。(P.176 ヒア・カムズ・ザ・サン)

【ここでは母ひとり、子ひとりなのだが、人間というのはただそこに存在してくれてるだけでいいのだ、実は。悲しいかな失うまではそんな簡単なことにする気がつかない。】



 素直に。静かに。感情の高ぶらない悲しさって、ある。初めて知った。涙が、頬ではなく、胸の内側を伝い落ちる。(P.204 ヒア・カムズ・ザ・サン)

【深い悲しみは涙さえ流させないもの。そうなんだと思う。】



「あのね、昔と同じものに再会したいわけじゃないんだな、って。逆に再会できないほうがいいっていうか、もう会えないんだっていうことを確かめたいっていうか......みんな幸せにやってるよね、って言いたいんだよね、要するに」(P.229 その日のまえに)

【痛切な感懐だ。まさにこの世を去っていかねばならない人の感懐。痛切かつ哀切だ。】



「明日」を断ち切られてしまって、初めて、その問いのかけがえのなさに気づいた。(P.231 その日のまえに)

【あえてその問いが何であるかを、書き抜かなかった。人によってそれぞれだろう。明日を断ち切られること! それによって初めて気づくことはおそらく少なくないだろう。】



 僕だって生まれ変わる。生まれ変わりたい、と思う。いつか――ずっとさきのいつか、生まれ変わって、また和美と巡り合いたい。和美はその日まで、僕を待っていてくれるだろうか......。(P.235 その日のまえに)

【四十そこそこでの別れ。このように思うのも無理はない。まだ、これからのふたりの人生だったのだから。】



 悲しみと不安とでは、不安のほうがずっと重い。病名という形を与えられる前の、輪郭を持たない不安は、どんなにしても封じ込めることができない。どこにいても、なにをしていても、不安は目に見えない霧になって僕にまとわりついていた。(P.265 その日)

【悲しみは悲しめるが、不安は不安として味わう(?)ことはできない。不安は苦しみ以外のなにものでもないだろう。】



 僕たちの胸には、不安の代わりに絶望が居座った。絶望は毎晩のように和美に涙を流させ(中略)
 だが、絶望というのは、決して長くはつづかないのだ。これも初めて知った。ひとの心は絶望を背負ったまま日々を過ごすほど強くはないのだと思う。だから、ひとは、絶望して死を選ぶ。そうでなければ、絶望をつかのま忘れようとする。
 和美の余命は、絶望とともに死を迎えるには長すぎた。(P.266 その日)

【長きにわたる絶望は人を狂わせてしまうのではないか。そうでなければひとの心は耐えられないものだと思う。なお、ここで和美の余命というのは一年であった。】

34FK:2008/11/15(土) 21:45:03

「お薦め −本」48:FK (投稿日: 2008/11/13 22:08 )で紹介した『その日のまえに』(重松清 文藝春秋 2008年 \610)から。その2。

 先生はもう余命の話をしなくなった。
 僕の胸に宿るものは、絶望から悲しみに変わった。
 悲しみは深い。けれど、不安とは違って、そこにはちゃんと輪郭がある。ありかがわかれば、それに触れないようにすることだって、できる。和美の入院する大学病院に通うのが日常になったとき、僕は悲しみとの付き合い方を覚えたのかもしれない。(P.268 その日)

【望みがあるから、まだ断たれていないからこそ、絶望もあるのだ。すべてがなくなったとき、そこに残るのは悲しみしかないのだろう。そしてひとはその悲しみに慣れていくのだ。こなしていく、ということ。】



 悔しくないか?
 悲しくないか?
 なぜ、おまえだったんだ?(中略)
 世の中にこんなにたくさんひとがいて、こんなにたくさん家族があるのに、どうして、和美だったんだ? どうして、わが家だったんだ?
 悔しい。
 悲しい。(P.304 その日)

【運命・宿命? 何を呪えば、誰に文句を言えばいいのだろうか。みんなみんな形は違うけれどそんな思いを思いながら生きていき、死んでいくのだろう。】



 神さまよりも人間のほうが、ずっと優しい。
 神さまは涙を流すのだろうか。
 涙を流してしまう人間の気持ちを、神さまはほんとうにわかってくれているのだろうか。(P.306 その日)

【そう、人間がいちばん優しいのだ。人間がいちばん優しくなれるのだ。】



 ペーパーナイフを持つ手も、封筒を押さえる手も、小刻みに震えた。
 便箋は一枚きり。
 三つ折りにした便箋を開く前に、目をつぶり、ゆっくりと深呼吸した。
 胸の底の重石が、いまははっきりと、ここに、どうしようもなく、ここに、ある。
 目を開けた。
 僕は和美と再会する。

 <忘れてもいいよ>

 一言だけ、だった。(P.329 その日のあとで)

【妻・和美の死後三ヶ月目に託された夫への手紙である。死の直前に書かれたもの。いくつもの下書きがあったようだが、最後にこの手紙となった。
 痛切だ。忘れるとはどういうこと何だろう。<忘れてもいいよ>と言われて、忘れられるものなのか......】



 夕陽が射し込んでオレンジ色に染まったリビングには、僕と和美だけが残される。
 忘れてもいいよ――。
 和美ののこした言葉が、便箋に綴った文字ではなく、声でよみがえる。(P.335 その日のあとで)

【おそらく生涯、その通り、文字ではなく、声でいつも聞こえてくるだろう。よみがえってくることだろう。】



 割り算の余りのような「その日」の半端なかけらを、僕はずっと持ち歩いて、捨てられないまま、いつか、死ぬ。
 それでいいじゃないか、ほんとうに。(P.337 その日のあとで)

【結論として、生者は死者とともにその残りの生涯を生きていくのだ。
 だから少しくらい忘れることはあっても、少しくらい忘れていても許してくれるだろう。そして、そっと空から見守ってくれてることだろう。】

35FK:2008/11/17(月) 20:38:17

高校の大衆化

 今さら高校の大衆化もなにもあったものではない。しかし今さらながら、これで良かったのかと疑問に思う。猫も杓子もではないが、勉強したくない人も、すぐに手に職をつけたかった人も、みんな高校に行かざるを得なくなってしまったのだ。行きたくなかった人たちからすれば、それだけ労力と資金と時間を浪費することとなったわけである。

 高校生になりたくなかった高校生が、いまや世間にはあふれている。
 彼らに魅力ある他の選択肢を用意してやらずに、高校に行くしかないという状態を私たちの社会は作ってきた。いわば逃げ道をふさいでおいて、ひたすら高校に行くしかないようにし向けてきたのだ。そのつけが今、噴出している。
 それを大人たちが非難するとしたら、逆に「それはないでしょう」と彼ら高校生たちから言われることだろう。高校に行かないと資格も取れない、仕事もできない現実。たとえば美容師である。なぜ高卒でなければ資格が取れないのか。ナンセンスとしか言いようがない。
 そんなことの原因も邪推すれば少子化による客(生徒)の減少のため、つまり学校経営のためか。

 今、高校のカリキュラムはこのような生徒たちの気に入るようなメニューを提供しようと躍起である。もちろん学校側の生き残りのための特色化でもあるのだろうが。
 しかし、おおもとのところで選択肢がないという致命的な欠陥を持つ今のシステムでは、何をしても彼ら高校生の要望を満たすことはできないだろう。

 その時その時の財界や政治家の要求、官僚の保身や名誉欲から発する御用学者の教育学説に影響された教育というものの限界である。まさに教育は国家百年の大計であった。

36FK:2008/11/19(水) 20:26:35

『教育立国フィンランド流教師の育て方』(増田ユリヤ 岩波書店 2008年 \1600)

 フィンランドの教育は「すべての子どもに平等な教育を」「現場への信頼」「質の高い教員の養成」この三つのキーワードで語ることができる。(P.4)

 高校卒業資格検定試験は年二回(春と秋)に実施され、必須科目一つ、選択科目から三つ、合計四科目に合格することが資格取得の条件である。必須科目は母語で、選択科目は外国語、数学、一般教養(理科や歴史、宗教学など普通科高校のコア科目が中心)などだ。一回の試験で四科目全てに合格できなくても、連続三回の試験の機会のうちに合格できれば資格を取得できる。(P.15)

【なるほどと思う。こんな程度でいいのだ、高卒資格は。日本ではあれこれとたくさん課しすぎているのだ。】

「幼児教育の場で、先生が一番大切だと思っていることは何ですか?」
「それは、子どもと同じレベルで生活をすることです。上から何かを教えるということではなく、横に座っているというか、いつでも大人は子どもの隣にいる、という感覚が私は大切だと思っています」(P.31)

【これは幼児教育にかぎったことではないだろう。】

「まずやってみる。ダメだったら修正する」という「トライ&エラー」がフィンランドの教育を根底で支えているひとつの精神なのである。(P.48)

【これもあまりにも真っ当なことであり、それをできない日本の現実は悲しい。】

(いろいろなハンディを持つ子どもに対して)「とにかく学校の環境に慣れて勉強していくという基盤を、ゆっくりつくってあげることを心掛けています」(P.56)

【ハンディを持つ持たないとは別に、新入生には必要なことだろう。あるいは各授業においても、最初はそうだろう。】

 他者と比較する競争は不健康だ、と考えています。(P.135)

【競争は「不健康」なことなのだ!】

「教師に必要なのは、創造力と指導力です。指導力といっても、一方的なものではなく、常に子どもの支援者であること。支援者であるということは、単に教え込むよりももっと教師の力量が必要です。どんなときにも子どもたちの状況に応じて柔軟に対応できる実力といったらいいのかな。なんて偉そうなこと言ってますね(笑)」(P.173)

「もし、政治に無関心でいられるとしたら、それだけ日本にきまだ余裕があるんですよ、きっと。教育に関してもそうなのではないですか」(P.176)

【その通りで、本当に大変だったら、無関心でいられるはずがない。】

37FK:2008/12/09(火) 21:34:51

笑いについて―― 『別役実のコント教室』(別役実 白水社 2003年 \1700)より

 笑いというのには段階があって、まず忍び笑いですね、それから普通の笑い、次に爆笑、最後にうねるという具合にアップしていくんです。

 忍び笑いというのはくすくす笑いですね。芝居でも落語でも、最初くすくす笑いっていうのをつくって、なんとなく観客のそれぞれがくすくすくすっと個別的に笑う。これを、最初にくすぐりを入れるっていうんです。この笑いは個別的ですね。観客のひとりひとりが別々に笑っている。このくすぐりで、笑いの生理をちょっと解きほぐすという手です。

 それから普通の笑いですね。何かもう少しはっきりした笑える状況というのをつくって、わっと笑わす。この段階もまだ個別的なんですけども、普通の笑いを繰り返していくことによって、おかしさというものが劇場全体に共有されていき、わーっと笑う爆笑というのにつながっていく。(P.21)

【人を笑わせるというのは、なかなか難しいことだ。だから笑わせることができれば、自分自身もまたうれしくなる。そのためには必死で考え準備しなければならないということ。】
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[笑いの種類] まず言葉遊びがありますね。駄じゃれとか、同じ言葉を繰り返していってみせる笑い。一番初歩的なものです(中略)大きな笑いの中にまぶすような形で、味つけのようにして使われる。言葉遊びによる笑いというのはばかにできない。

 それから、即物的な笑いというのがあります。舞台上で、すてんって転ぶとかぶつとかです。(中略)これも原初的な笑いなんですけども、いざという時にかなり使える。これが即物的な笑いです。

 それから三番目に、形象。キャラクターによる笑い。変人とか得体の知れない人間が出てきて笑わせるというものです。(中略)【例として、志村けん・チャップリン】

 四番目あたりから、ちょっと高級になってくる。関係の笑い。(中略)われわれがつくり出す笑いの基本は、この関係の笑いというものをどうつくるかということだと考えてください。作家というのは、関係の笑いをどうつくるかということに苦労するんです。キャラクターの笑いというのは、演技者個人の才能によるところが非常に多いわけですね。それから、即物的な笑いについても、これはたとえばその場その場での演技の中で使われる場合が多い。(P.22)


【言葉遊びは、まずまずできるのだが、あまり凝ると分かってもらえない。
 即物的な笑いは、私の場合、授業していてうっかり教壇から足を踏み外したときに、期せずして笑いをとってしまうこと。こんなものぐらい。とてもとても「形象」では無理。

 関係の笑いはまれに実現できる。ただ十分考えてのことではなく、かなり偶然的。これではだめなようで、やはり考えなくては。
 いずれにせよ、笑いは潤滑油であり、是非とも笑わせるすべをマスターしたいものだ。】

38FK:2008/12/14(日) 18:55:19

ディスカッション方式の授業

  私の所属していた学部には、大きな教室での講義というのはほとんどなく、少人数でのディスカッション方式をとる授業が多かった。(『フィンランド 豊かさのメソッド』(堀内都喜子 集英社 2008年 \700 P.89)

【フィンランドに留学した女性の見聞記といった本。やはりそうだろう。究極の授業? はディスカッション方式というか、みんなでの論議・討議だろう。】

39FK:2008/12/17(水) 20:18:35

2008年12月17日 (水曜) 天声人語に血液型

 珍しく今日の朝日新聞朝刊のコラム「天声人語」に血液型の話が書かれていた。
 とかくその非科学性をもって、その人格と血液型にはなんら相関性はないとの結論が十年一日のごとくに述べられている。
 もちろん私もそうは思わない。つまり先天的なものは何もないと思う。しかしこれほどまでに血液型が喧伝される背景にはやはり何かがあるのであり、それはそれできちんと考察しておく必要があるだろう。頭ごなしに否定するだけでは、その逆の状態が生じたときに対応できなくなるのだ。

 授業ではこの「血液型」の話が私たちの持ちやすい偏見の例として出てくる。ほとんど偏見の領域だが、それでもなお私はある種の通有性――同じような人格や感覚の表出などはあるように思えてならない。ただその理由は私にも分からないのだが。これもまた、みんなで考えたいもの。

40FK:2008/12/20(土) 10:31:23

退屈と欠落感

 高村薫の『新リア王』のなかで(新聞連載第383回分)は、田舎の若者の生態について描写しているところがある。この「退屈と欠落感」は、田舎も都市もないのだが。ただ田舎の場合はもっと悲惨さが加わるというわけだ。次のように。

 一に、退屈、二に欠落感。都会と同じ音楽を聴き、都会と同じ雑誌やゲームを手にすればするほど、眼の前の田んぼや雪への憎悪や絶望が募るのだろう。


 小説の「今」は1987年頃。時代は少々違っていても、中身はそうは変わらないだろう。
 この「退屈と欠落感」は、決して若者だけのものではない。しかし、何かがあるはずと、強く希望を持つ若者たちこそ、そのギャップによって、よりひどい精神状況に落とされてしまうのだ。大人はそれが幻想であることを知った上での、「退屈と欠落感」を感じているのであり、それなりに上手く(?)付き合ってきているわけだ。若者はそれをまだ知らない。そこに悲劇がある。かつての私も、そうであった。


 私が都市住まいをやめられない理由の一つは、そのあたりにあるのかもしれない。「退屈と欠落感」を感じさせないものが、都市にはあるのだ。もちろん、それは人それぞれで、私など、どこといって都心に出かけるわけでもなく、その近辺に居る、というだけで安心しているのだが。まさしく安住。
 ただ実は忘れていることが、一つ。人間関係だ。どれだけ疎ましくても、これなくしてはやはり生きていけない。もっとも、これは今は別の問題。

 手元にありますので、お貸しできます。

41FK:2008/12/28(日) 18:27:27

『教え力』(斎藤 孝 宝島社 2004年 \1200)


第一章 教えるということ
第三章 評価力
第四章 テキスト力(素材力)
第五章 ライブ能力
第六章 育てる力


 相手がきちんと上達するような上手な教え方ができるのならば、「教える」ことは決して悪いことではない(P.19)

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 教えることの中心は、練習メニューをやらせること(中略)生徒は、教えられるという時間に慣れてしまって、一人で練習するという時間に慣れていない。
(P.20)

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 苦しい、楽しいという問題は、教えるということにとっては、二次的な要素なのです。それよりも学ぶ側に充実感が生まれるかどうかが大事なのです。
(P.22)

【「楽しい授業」をと言われると、うーんとうなってしまう私には、そうだったのだと合点がいくのだが。】

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 教え込むという期間を過ぎたら、相手が自分で自分を伸ばせるようにし向けていく。それが「育てる力」です。(P.41)

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 大事なことは、教える側も現在進行形で学び続けている、それも常に学ぶ側の何倍もの速度で学び続けている、ということ(P.62)

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 教科書のように、完全に教材として作られているものというのは、かえって使いにくい面もあるといえます。大事な問題が全部書かれてしまっていて、授業で使ったとしても発見がないからです。(P.124)

【教科書の問題点だ。しかし、それを使うことは義務(省令により)づけられている。】

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 教えるという実際の作業が始まる前に、そのためのテキストを探してくるという作業にもっと真剣になるべきなのです。(P.124)

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 学ぶ側のほうは時間管理ができませんから、時間配分というのは教える側の仕事です。(P.143)

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 相手の現在の実力や集中の度合いを見ながら、メニューを臨機応変に組み替える必要がある(P.159)

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 空間のマネージメント、時間のマネージメントもしなければなりません。(P.170)

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 学ぶ側は、自分が冷えた態度を取っているということに、あまり罪悪感を持たないものです。どんな態度でいようが、授業の進行に関係ないと思っています。(P.175)

【これは私も授業中、感じることだ。ひいては自分自身もそうなのかも、とも。】

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 発問というのは、考えさせるためのテーマを与えるというイメージです。
 すぐに答えられるかどうかわからないけれども、問いを与えられることで相手が深く考えられるようになる。(P.177)

【あらかじめ十分考えておかなければできないのが、この発問だ。】

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 家で漢字を覚えてこい、英単語を覚えてこい、というのは私は卑怯なやり方だと思っています。授業中に覚えさせるというのが教師の技量だと思っています。(P.197)

【その通りだと思う。授業の中で知らず知らずのうちに理解し、覚えていけるというのが理想だろう。】

42FK:2009/01/17(土) 15:37:07
2009年 1月17日 (土曜) 『<ちょいメタ>のほうが長生き?』(高田明和×生島ヒロシ 春秋社 2008年 \1300)

 気になる題名なので図書館の新刊の棚から借り出し。概して、トータルでのバランスが大事ということ。従来の医学知識(?)と同じところもあれば違うところも。
肉や卵がダメというのは、必ずしもそうではないとのこと。ストレスが病気をつくる、とも。くよくよするとガンになりやすい、つまり笑う門には福来たる、というのはやはり当たっているのではないか、とか。


 自分があまり得意でないことを一生懸命やったってトレーニングにはならないんです。(中略)自分と関係のないものについては全然覚えられない(P.126 高田)

【やはり人には得手不得手があるということだ。そのジャンルと度合いがみんな違っているだけで、誰が偉いとかといった話ではないのだ。】

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高田 生島さんの人間関係のコツって何ですか?
生島 好きな人とつき合うって言ったら変ですけども、合わない人とは無理につき合わなくてもいいんじゃないかと僕は思っています。もちろん、なかなかそうは行かない場面も出てきますが、そういうときでも、その人のよいところを見て悪いところは見ない(P.139)

【ストレスをためないためにも、こんな生き方でいいのではないか。無理は何事によらず禁物ということ。】

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 年をとったら(中略)だんだん体が衰えてくるんだってことを考えながら老後の設計を立てることをしないと。(P.143 高田)

【老後にはあれもこれもやろうと計画してしまうもの。いやそれは夢想なのだが、現実はやはり体がついていかないということに落ち着きそうだ。悲しい現実だろう。】

43FK:2009/01/23(金) 19:56:51

2009年 1月23日 (金曜) 「天才」はアンラッキー?

『天才はなぜ生まれるか』(正高信男 筑摩書房 2004年 \680)

 「天才」はいいな、うらやましいなと簡単に考えていたが、実はそうでもないようだ。彼らは彼らなりにそのある種、身の不幸を恨んでいたかもしれない、と。
 例としてあげられている天才は6人。

目次

まえがき
六人の障害者/ハンディキャップという一面的理解/障害の持つ「強さ」

第1章 うわの空のエジソン
第2章 癇癪持ちのアインシュタイン
第3章 外国語のできないレオナルド
第4章 古典嫌いのアンデルセン
第5章 付き合いべたなベル
第6章 落ち着きのないディズニー
第7章 知的障害はなぜ進化したか
あとがき

 いずれにせよ学校というシステムでは、どうしようもない「天才」たちであったようだ。なおエジソンの母親が小学校の教師であったというのは間違いとのこと。

44FK:2009/02/02(月) 20:25:15

『齋藤孝のざっくり!日本史』(齋藤孝 祥伝社 2007年 \1500)

 自分の勉強が、単に知識をつめこんできただけで、歴史の「流れ」をまったく理解していなかったということに気づかされました。(P.3)

 学校の授業で使う教科書というのは、そうした「すごい」と思える学問を、冷凍パックにしたようなものです。冷凍されているので、そのまま食べてもおいしくありません。本来は、それを解凍し、もう一度おいしい(すごいと思える)状態にして生徒の教えるのが先生の仕事なのですが、先生によっては、それがやりきれていないのが現実です。(P.21)

 こうした一連の流れを、歴史教科書では「経済の民主化」と書いていますが、アメリカが持っていた本当の目的は「民主化」ではなく「非軍事化」だったのです。
 「経済の非軍事化」(P.280)

【ざっくり、というところが面白い。いろいろ参考になる。岡目八目というやつで。ただなかにはやはり要注意かな、と思えるところもある。】

45FK:2009/02/08(日) 20:24:46

「遅刻3回で1時間欠席」

 このやり方が日本全国で「市民権」を得ているかどうかは知らない。
 ただ文科省がそのような指示を出しているわけではない。あくまでも各学校ごとの「内規」によるものだ。

 「ベル着」という言葉があるようだが(私は知らない)、授業開始のチャイムとともに教室で授業開始、というような意味なのだろうか。(昔、中学のリーダーの教科書でそんな教師をあつかった文章を読んだ記憶がある。あるいは高校でだったかもしれない)。

 さてそうなるとチャイムの鳴り出した時点で教室に入ってない生徒は「遅刻」ということになる。極端な場合、遅刻時間は数秒のこともあるだろう。しかし、それでも3回重なると1時間欠課となる。

 遅刻が許容される(つまり遅刻だが、授業を受けたことになる)最大時間は、授業開始10分までである。もしこれで3回遅刻すると計30分。したがって授業1時間分である45分には満たないが「1時間欠席」ということになる。

 根本的な発想としては、「遅刻は悪」というものだと私は思う。遅刻をしないというのは企業社会では必須のことだ。だから学校生活のうちから、それをしっかりたたき込んでおこうということなのかもしれない。

 この遅刻が重なって欠課が増え、単位を落とすことになる。そんな生徒が何人か出てくる。そんな時、はたしてこのシステムに正当性があるのか、と疑問を覚えるのだ。

 今年もまた、何人かが遅刻による欠時オーバーで単位を修得できないことだろう。

46FK:2009/02/10(火) 18:33:45

なぜドイツ車!

 もう一つ、日本車で指摘しておきたいのが、同一メーカーのなかでも、車種によって、あるいは同じモデルでもグレードによって、乗り味などクルマの基本性能がまったく違うことです。日本のユーザーは、価格が違うので当然だと思い人が多いようですが、欧州車はそうではありません。(P.169 『「いいクルマ」の条件』(三本和彦 NHK出版 2004年 \660)

【これが実にそうなのだ。そうとは知らずに失敗した経験があるので。そのクルマはD社のSという車。「スタンダード」を購入して、その走らないこと、坂を上らないことに驚かされた。それが日本流なのかもしれないが、だまされたと思ったものだ。このこともあって、ドイツ車に移行とあいなった次第。】

47FK:2009/02/23(月) 21:47:46

「教師は完璧な人間しかなれないわけじゃないって、先生に教わりましたから」
   −−−『気をつけ、礼』(重松清 新潮社 2008年 \1400)P.162−−−

【むしろ、完璧からはほど遠い人間の方が教師にはふさわしいと思う。それは私のことだろう、といわれそうだが。いや、その通りだ。私ほどらしくない人間はいないのだ。と、居直れるところが私の取り柄かも知れない。それがなくては、何もできない。生きていくことすらできない。死ぬこともできない。ないない尽くしなのだ(笑)】

48FK:2009/02/25(水) 20:52:55

2009年 2月25日 (水曜) ジンガロ

 私は馬の選択に関しては特に批評観を持っていません。...基本的には直感です。...馬を調教するうえで大切なことは「聞くこと」だと思います。馬が何かを与えてくれる時にそれをよく聞くこと。、何かを求めた時に馬が何をしようとしているのかをよく考えることです。調教とは私たちが知っている方法によって予想される結果ではありませんから...。技術が関係性より先走るようではいけないのです。私は敬愛(Respect)を持ってある古典的な方法で馬と仕事をしています。(『乗馬ライフ』2002年10月号 ジンガロの主宰者バルタバスのインタビューより)

【みんなのことを馬に喩えるわけではありませんが、私の立場からすればまさにバルタバス氏の言うとおり、同感です。難しいことでもありますが。】

49FK:2009/02/26(木) 21:53:49

2009年 2月26日 (木曜) インフルエンザ

 そろそろシーズンオフですが今年もインフルエンザが流行りました。そのおかげで首がつながった人もいたことでしょう(笑) でもお医者さんは次のようにいっていますし、私も丸々三日間寝て、治しましたよ。

 インフルエンザの95%以上の患者さんは自然に治ります。つまり、インフルエンザは、ほとんど何もしなくても、数日間寝込んでいれば治ってしまう病気なのです。(岡部信彦 『対談ここまできた最新医学 あきらめるのはまだ早い(渡辺淳一 講談社 2008年 \1500)P.233)

50FK:2009/03/08(日) 19:41:58

リベラルな教師の不在
  (2004年12月28日 火曜)

 最近思う残念なことの一つは、ますますリベラルな教師が減っているということ。
 これでは生徒もたまったものではないだろう、と同情する。

 でもどうしてこんなにもリベラルな人が激減してしまったのだろう。
 ソフトなファシズム・ナショナリズムのせいか。生活のためには、致し方ないと言うことか。みんなとあまりぎくしゃくせずに職場での毎日を快適に過ごしたいからか。教師(教育公務員)であるというモラリティや自覚が無くなったからか。あるいは無くさせられたからか。

 やはり個人レベルの原因だけではないだろう。黒幕が存在するということ。
 戦後教育の批判で「教育基本法」がああだこうだと言われるが、その精神を実質的に骨抜きでやってきたわけだ。その努力の成果がいまや見事に開花しているという分析が当たっているのではないか。

51FK:2009/03/09(月) 19:45:08

2009年 3月 9日 (月曜) 茶髪にピアス!?

 茶髪にピアス。今日、みんなと話していて私に「質問」されたこと。
 私は基本的に「茶髪にピアスにお化粧」の女の子は苦手です。予断と偏見があるのか知れません(!) 過去の悲しい思い出のせいでしょうか(笑)
 冗談はともかく、茶髪に関しては、昔だれかから聞いた話ですが、一度染めちゃうと完全に元の黒色には戻らない、と。科学的に正しいかどうかは分かりませんが、そんなふうに思うと茶髪にはしないほうがいいかな、と。ただ素敵に似合っている人もいますので、最後はその人その人で決めてもらうしかないですね。ま、個人的には素敵な持って生まれた髪の毛を大事にするのがいいかな、と。

 ピアスですが、これはノー、ですね。なぜか。跡が見苦しいからです。私の美学には反しますね。つまり一旦穴をあけたら、ずっとピアスをし続けてないと見苦しい跡を人に見せることになる。そんなことに最近、気がついたので反対です。ピアスでなくてもイヤリングがあるでしょう。
 こんなこと言ってたら、「茶髪にピアスにお化粧」の女性は誰も近寄ってこないでしょうね(笑)

52FK:2009/03/17(火) 23:00:09

愛ってなんですかぁ´`??? →大事にしたい・大切にしたいと思うこと
恋ってなんですかぁ´`??? →いつも一緒に居たいって思うこと
トラウマってどーしたら消えるんですかぁ´`??? →消えないものとしてあきらめる!

53FK:2009/03/25(水) 21:29:55

集団登山?!

『どうする山のトイレ・ゴミ オーバーユースと登山者の課題』(日本勤労者山岳同盟 大月書店 2002年 \1800)から

 ヨーロッパの山小屋に比較するべくもない惨憺たる日本の山小屋! その思いを新たにするのがこのトイレの問題。
 ゴミは持ち帰るが、排泄物はなかなか難しい。携帯電話ならぬ携帯トイレがあるのだが......。

 あと同感だったのは「山岳自然に負荷をあたえる大規模な集団登山はやめる」(P.10)ということ。これははっきり言って、「学校登山」のことだ。これは私も大いに賛成。どれだけこれまで迷惑を被ってきたことか。(彼らが通過するまで延々と待たされたことがある。それも当然のような態度で!)
 中学生たちを見ていてもかわいそうになってくる。いやいやながらの強制登山でもあるから。あの服装や装備も問題。山嫌いを増やすだけではないかと思っていたが、そのようなアンケート結果が紹介されてあった(P.167)。

54FK:2009/04/01(水) 22:00:25

2009年 4月 1日 (水曜) 履修と修得

 みんなが苦労する用語にこの「履修と修得」がある。最近、目にした本から紹介しておこう。



 高校の学習指導要領で定められた「必修科目」は、履修を義務づけられたものであって、必ずしも単位の修得までを求められたものではない。(P.110 なお履修と修得に点が付けられている。『教育再生の迷走』苅谷剛彦 筑摩書房 2008年 \1600)


「『履修』とは、教科・科目の目標に到達すべく授業に参加し、授業を受けることをいう。これに対し、『修得』とは、教科・科目を履修することにより教科・科目の目標からみて満足できる成果を上げることである。したがって、『履修』と『修得』は明確に区別されなければならない。」(P.171 『高等学校学習指導要領解説総則編』文部省、1989年、東山書房)

【おかしいと言えば、おかしい。勉強するけど、身に付いていなくても、とりあえず授業を受けていればオーケーということなのだから。だから悪くすると「授業に参加」するという部分を単に、その授業教室に居るだけ、との拡大解釈(?)にまで至ってしまうのだ。

 さらに「満足できる成果」というのも曖昧。ただたしかにこれは極めて巧妙な言い回しで、曖昧なままにしておかないと、誰一人として「修得」できなくなってしまう虞がある。それはオーバーとしてもかなりの高校生は卒業できなくなってしまうだろう。
 日本の教育は、履修だけでオーケーということにせざるを得ないのだ。高校進学率ほぼ100%のなせる弊害である。】

55FK:2009/04/09(木) 21:12:34

日本の子どもの学力低下

 やや古いアンケートから。
「日本の子どもの学力を回復させるには、どうすればよいと思いますか?」。
 複数回答だが、その第一位は六割近い人の賛同を得て、「学校の先生の評価を厳しくする」!
 第二位は「観察や実験、体験学習の時間を増やす」、第三位「学校の先生を増やし、少人数学級にする」。以下「土曜日も授業を・全国的な学力試験を・塾の先生に授業を・入試を厳しくする」等々。

 どういう定義付けがなされているかにもよるのだが、その第一位にはあきれてしまう。一体、これは何なのだろう。「教師不信」をまざまざと見せつけられる思いである。

 良い授業をしようとすれば、教師に余裕・ゆとりが必要だ。現実はその逆で「ゆとり教育」は生徒からだけではなく、教師からもそのゆとりを奪っていった。
 もちろん、「ゆとり教育」の本質は「エリート教育」にあるのだから、実にその通りの実態になっているのであるが。低学力者は切り捨てられるということは必然なのだ、この思想のもとでは。(そして低所得層と低学力層との間にかなりの相関関係があるのではないかと思われる。)

 真っ当な考え方としては、第三位に入っている「学校の先生を増やし、少人数学級にする」である。しかし、教育にカネをかけない政府のもとでは、この先も期待できないことなのだ。
 教育が「国家百年の大計」だと言われたのは、もはや過去のことなのだ。目の前のことで汲々としている政府のもとでは如何ともしがたい。

56FK:2009/04/16(木) 11:43:59

失敗からの復活 2009年 4月16日 (木曜)

1.「逃げる」 自分が非力であることをさっさと認めて、その場から一時避難する →責任を放棄することではない
2.「他人のせいにする」 失敗直後は思考が否定的になりがち →建設的な考えが生まれてこない →とりあえず否定的な思考の連鎖を止めるため
3.「おいしいものを食べる」 失敗で疲労 →体・心・脳に栄養補給
4.「お酒を飲む」 悲観的な思考からの脱却のため
5.「眠る」 失敗の辛さから離れて心身をリフレッシュさせるために
6.「気晴らしをする」 ふだん控えていることや集中してできることを(失敗のことを思い出さないような)
7.「愚痴を言う」 人の力を借りて元気になる
    ――『回復力 失敗からの復活』(畑村洋太郎 講談社現代新書 2009年 \720)より趣旨抜粋

57FK:2009/04/19(日) 19:55:26

準備室の風景(2009年 4月)

 高校時代の友人でいま高校の校長をしてるやつに聞くと、「準備室」というのはその教科の教室が存在して、そのうえではじめて成り立つ部屋なそうな。
だから国語教室がないから国語科の準備室はないという理屈らしい。(私は確かめてないのだが。)

 私は社会。いや今は無くされて公民科と地理歴史科だが、その社会教室というのがあって社会準備室が存在したというわけだ。なるほど、これまで勤務してきた全日制の高校の場合、職業校であれ普通科であれ、すべてこの社会教室とそれに付随して社会準備室が存在した。

 そして問題は定時制高校である。現勤務校も入れてこれまで三校経験してきたが、いずれの定時制高校にも社会教室とそれに付随する社会準備室は存在しなかった。どうやら定時制高校では必要不可欠のものとはなっていないようなのだ。嗚呼!

 というわけで、現任校にもない。ただ倉庫代わりに使っていた部屋を英国数社の4教科(5教科?)の共同準備室として三年前から設置されている。総勢40人あまりの教師数に対して教室1個分くらいのスペースなのである。何をか況や、である。これ一つとっても定時制高校の教育環境の悪さがうかがわれよう。こんなところにも日本社会の格差は歴然だというわけである。と興奮してしまう次第。



 そんな準備室だが、私には懐かしい思い出がある。もちろん、私の高校時代のことである。そんなに頻繁にいけたはずはないのだが、社会科教室だったか社会教室だったかの準備室で教師たちと話をしたことを、である。
 そんな思い出を胸に、今度は私がみんなを待ち迎える番になったのだ。職員室での仕事はできるだけさっさとやって準備室に戻ってくる。そしていつでも生徒たちがやってきてもいいように待機している。そんな今日この頃である。

 準備室にはダビング用のモニターや音楽が聴けるステレオ、お湯を沸かしてお茶が飲めるように、そしてわずかながらもお菓子を用意している。ソファはボロボロで暖房も冷房もないのだが、居心地の良い場所として生徒たちには好評である。他の教師はやっかみなのか否定的な人もいるようだ。彼らはその高校時代にそのような経験がないのかなと思う。教師をしていて何が楽しいと言って生徒たちとのおしゃべりにまさるものはないのだ。そんな高尚な話をするわけではないにしても、だ。
 私にとっては「準備室、万歳」といったところである。

58FK:2009/04/26(日) 21:53:43

2009年 4月26日 (日曜) 毒のある批判から身を守るために

 毒のある(toxic)、批判やあら探し(criticism)をブレークするといった意味の原題の翻訳書『傷つかない技術』(エリック・メイゼル 創元社 2009年 \1500)より。


 大切なことは、笑みをたやさないこと、動転しないこと、自分の意見をすぐに口に出さないこと(P.34)

【すべてはこの一語に尽きるだろう。名言であり、至言だ。】



1.職場での人間関係は戦略的で、友情とは関係ないこと
2.批判は「一人の人格」ではなく「組織の一員」に対するものであること
3.職場とはさまざまな思惑が交錯する場所であること
4.自分が受けた批判の意味を同僚に確認することが難しいこと(P.180)

(職場で批判されたとき)最善の策は「時間をかけて考えよう」と自分の心に言うこと、これだけなのです。(P.188)

【職場ではまわりはすべて敵、とまでは言わないまでも、それくらいの覚悟がないとダメだろう。仲良しクラブではないのだ。実に実に「友情」とは関係はない。いや、むしろその対極にある世界だろう。
 私という人格に対する批判と錯覚してはいけない。組織の一員として気に入らない・気にくわないということに過ぎないのだ。自分の人格を否定されたわけではないのた。勿論否定されるような批判があったとしても意に介することはない。そう「時間をかけて考えよう」というのが正解だと思う。】



1.心の警報が鳴ったときは発言を控えること
2.うわさ話に安易に加わらないこと
3.何かを主張する前に自分がなぜそれを主張するのかを明確にすること
4.思慮分別のある批判に努めること(P.192)

【これらも良いアドバイスだ。1.のように人間もその直感・勘を信じるべきだ。3.のように自問してから話すようにすれば、ずいぶんムダなことをしなくてすむ。】

59FK:2009/04/27(月) 20:33:30
FK:2008/09/18(木) 再録

 夢の学校

 学校を中心とした生活を送る、小学生から高校生までの毎日は忙しい。もともと好奇心いっぱいで、やりたいことだらけの時代なのに、かんじんの自由に使える時間が少ない。
 そこでずばり、夢の学校とは、週休二日制はもちろん、毎日の授業は午前の半日であって、午後はフリータイム、というもの。
 午後は学校に残って勉強したり、先生や友人とおしゃべりしたり、またクラブ活動や遊びもいい。あるいはすぐに学校を飛び出して、家に帰ってもいいし、塾にいってもいいし、アルバイトにいってもいい。ともかく自分の気にいった所で、遊びたいものは遊び、勉強したいものは勉強する。
 
 このように人生の時間を、自分の自由に使えるようにしたい。
     (1986年2月27日付毎日新聞コラムに掲載)

 日付で分かるように古い話。これが今、このユニーク学園高校では実現されているのだ!
 実際は人さまざまだろうが、かつて私はこんな学校がいいなと思っていたわけである。

60FK:2009/04/28(火) 22:16:01

「カウンセリング」とは?

 ある生徒と話していて、「先生、カウンセラーみたいですね」と言われたのをきっかけに久しぶりに「カウンセリング」とは何か? と考えてみた。
(もちろん私はカウンセラーなどと思って対応したわけではないし、カウンセリングをしてるつもりもなかった。よくある生徒と先生との会話にすぎないのである。)

 私もかつて講習を受け、研修会にも何度か参加したことがあり、偉そうではあるがその体験上、一家言を持つのではあるが。

 専門の・職業カウンセラーからしたら叱られるかもしれないが、いわゆるカウンセリングには、なにかと疑問を感じてしまうのだ。とくに「心のケア」などといわれると、どうなんだろうな、と。心をそう簡単にケアできるわけないだろう、と。

61FK:2009/05/25(月) 18:21:53
『「心の専門家」はいらない』(小沢牧子 洋泉社 2002年 \700)1/2

 ショッキングな内容であった。
 たしかにそんな風なことも感じてはいたが、漠然としていた。指摘されてなるほどそうだったのか、と。

 身体が病気の場合は、まず本人がそれをなおしたいと思う。ところが精神病の場合は、「主として社会がなおしたいのです」(吉田おさみ P.89)ということ。そこから必然的にカウンセリングは「常識的生き方に患者を導くとすれば、それはやはり現状肯定的といわれても仕方ありません」(同)ということになるようだ。
 これまでこのような観点からカウンセリングを見てこなかったで、新鮮な気持ちでこの本を読むことができた。



 わたしが問題にするのは、対等関係を装い、自己決定をみちびき、おだやかに自己責任を負わせていく、カウンセリング技法と思想の欺瞞性である。(P.22)

【カウンセリングに対して、私の中に何かしら腑に落ちないものがあったとしたら、その正体はこれだったのかもしれない。】

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 カウンセラーはいかにやさしい態度で接しようとも、権威の位置にある。(中略)クライエントは「いい子」としての答えを出す方向に自発的に傾いていく(中略)。
 カウンセラーは自分の言葉を語らずとも、体制価値としての身体を体現している。個人としての生き方を見せず自分の考え・価値観をほとんど語らないが、無言の権威は体制的価値を代弁し、結果として社会適応を促す作用を持つ。(中略)カウンセリングはこうして、ソフトな社会管理役割を担っている。(P.23)

【ああそうだったのだと。教師は罪深き職業である面がある。そしてこの「カウンセリング」も。】

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 意欲・関心・態度を重視する学校教育も、「みずから決めよ、ただし望まれるように」という新たな管理の流れのなかにある。(P.36)

【意欲や関心があることを教師に見せつけなければならないということ。自然にそれができるならいいが、それが苦手な子も少なくないだろう。その子たちにとって、このような評価方法は酷なことである。】

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 「心の専門家」は基本的に没社会的・個人還元的で、問題を社会の問題としてではなく、個人の資質や家族のいたらなさ、つまり個人の問題へ閉じ込めていく役割を担っている。(P.38)

【社会から目をそらせる、という犯罪をおかしているようなものだ。「自己責任」というヤツだ。】

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 「ほんとうの自分さがし」の流行には、人間が相互の関係のなかで生きているという観点が欠落している。カウンセリングが「ほんとうの自分」を発見させてくれるという幻想的な自分観は根強い。(P.41)

【曖昧模糊とした言葉である、この「ほんとうの自分」。しかしコロッとだまされてしまうのだ。どこかに今の自分とは違う、まさに「ほんとうの自分」があるのだと。だから今の自分は免罪され、軽視し、現に目の前の人生をおろそかにしてしまうのだ。】

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 心理治療・カウンセリングという営為は、基本的に「問題」をその状況から切り離して個人に還元する思想と技法で成り立っている(P.137)

【為政者・管理者にとってまことに都合のいい「思想」であることよ。】

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 誰かに決めてほしい、頼みたい、導いてほしい。その願望に応じて、あらたな宗教のように「心の専門家」が登場している。(P.140)

【やはり罪深き仕事である!】

62FK:2009/05/25(月) 18:23:44
『「心の専門家」はいらない』(小沢牧子 洋泉社 2002年 \700)2/2

 たまたままわりで縁を持った人びととつながりを広め深めて手間ひまをかけながら、「問題もあって当然」の毎日のなかで考え模索し、知恵を積み重ねる道を見失いたくないものだ。(P.141)

【毎日、いろんな問題が噴出して当たり前なのだ。ところが管理社会はそれを嫌う。後手主義を嫌い、先手必勝とばかりに何事も押さえ込んでしまうのだ。


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 PTSDは、極度に衝撃的な場面に遭遇することによって発症すると理解されている。しかしじつは衝撃的体験をしたあとの「人間の関係」に問題があって、それが症状を強める場合が多いのではないか(P.174)

【こういうふうに考える方が、いいのではないかと思う。】

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 年寄りと身近に暮らすのは、特別なことではないが、あえて言うなら家事が増えることだ。(中略)それは小さな子どもと暮らすときも、同じである。障害を持つ人と暮らすときも同様だろう。「介護」、まして「ケア」という特別な言葉が邪魔なのだ。ときには「子育て」すらも。正しい家族や正しい親のあり方がそこに忍び込んで、関係を縛る。(中略)
 家事や気遣いはどんな暮らしにもつきもので、しかも関係は一方的なものではない。(P.182)

 「介護」も「育児」も家事のうち。その単純な原則に足場をしっかり据えたい。そうすれば男も女も子どもも年寄りも、それぞれにできることを分け持ち、協力しあう関係への道が開ける。(中略)「してあげる−してもらう」の固定された関係を少しでもゆるめることが必要なのだ。(P.185)

【「正しい家族」や「正しい親」! 何と嫌な言葉だろう。世の中にはこの言葉の呪縛で苦労する人たちであふれている。
 その場所にお互いが存在しているだけで、影響し合っており、持ちつ持たれつなのだが。】

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 きれいごとを言うつもりはないが、老いを特別なものに仕立てすぎるのではないかと思う。それは正常な青年期・壮年期が人の完成型であるという、近代発達観の産物だ。人はみなそれぞれに、これまで生きてきたように老いていくだけで、それ以上でも以下でもない。(P.183)

【これを読んで少し安心した。私もこれまでの延長上で、年老いていくのだ。】

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 人を日常的に支えている力は何であろうか。ふだんあまり自覚しないまでもそれは、自分の身になじんでいるものや人や場所であると、わたしは体験的に考えている。(P.204)

【それが「生きがい」なのだろう。なじんだ場所やもの、もちろん人も。】

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 人が不運に見舞われたときこそ、これまでの時空間のなかでなじんできた人びとの出番なのだ。言葉でなぐさめることばかりではなく、むしろちょっとした行為と好意が人を助ける。(P.206)

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 「深くはなくても親しい関係」をそれぞれが周囲に広げていくことが大切(P.218)

63FK:2009/06/13(土) 20:53:17

2009年 6月13日 (土曜) 人の命ほど大切なものはない

 はっきり言って私は、人間の命が大切だなどと思ったことは一度もない。こういうことを公言すると、この国では恐らくそれだけで人非人だ。ではあなたに聞くが、他人の財産を大切だと思ったことはあるか。私を含め多くの人は他人の財産が増加しようが減少しようが別にどうでもよいと思っているに違いない。しかし、そのことは、他人の財産を勝手に奪ってよいという話とは全く違う。同様に我々はいかなる人の命といえども勝手に奪ってはいけないが、それは人間の命が大切だからではなく、そうしなければ、自由と平等が守られないからだ。(『やがて消えゆく我が身なら』池田清彦 角川書店 2005年 P.235)

【何か人命が損なわれるような事件があったとき、校長の話はみな同じこと。つまり人の命ほど大切なものはない、大事にしましょう、というわけである。聞かされる側はまたか、と。正面切って反論は出来なくても、聞かされる方は何かどこかおかしいと感じているのだ。はたして普段の学校生活の中で、生徒たちの人権が尊重され大事にされてきているだろうか。口で命の大切さを説きながら、実際は軽視されているのでは。それを日々実感している生徒たちからしたら、校長のその手の話ほどシレッとなるものはないだろう。そろそろ違うことを言う校長が出てきてもよさそうなものだが、無いものねだりだろう。】

64FK:2009/06/15(月) 19:57:18

2009年 6月15日 (月曜) ミスマッチ

 不思議なことですが、生徒さんには妙な思いこみがあるようなのです。私が社会担当なので、作文・小論文の添削はできるはずかない、とか。英語がわかるはずかない、とかです。いちおう私も高校は卒業していて、ひととおりはできるのですが....
 あるいは私の授業を受けて、そのやり方があまりに大学受験に役立たないように見えるため(その通り! の声が聞こえてきそう(笑))、私に(社会の科目すら)アドバイスを求めてくることがありません。こちらも最低限のアドバイスはできるのですが....(笑)
 ともかく本校は「安かろう悪かろう」と判断されてるようです。本校のどの先生もみんな受験を経験してきていて、それぞれ何らかのアドバイスはできるのですが。ところが、彼らはその期待に応えてくれるのは塾や予備校しかないと思っているようです。ミスマッチといいますか、それなら、はなからこんな学校には来ずに、高認験と予備校で進学すれば、と憎まれ口もたたきたくなります。敬意を持てない相手(教師)からは何も学ぶことはできないでしょう。教師の側からしても、実力がないの偉そうにいう生徒たちに敬意を持つことはできないでしょう。
 そう考えてくると、生徒の皆さんも教師も結構、世間と同じ傲慢な考え方に洗脳されてしまっている、ということになりますか。こんな生徒と教師の学校は不幸です。

65FK:2009/07/04(土) 21:10:21

2009年 7月 4日 (土曜) 参考書売り場へ

 久しぶりに本屋の参考書売り場で時間を過ごす。ただ日本史の棚の前ではなく、世界史と英語と古文の棚であるのが従来と違うところ(苦笑)
 世界史は私の学習のためだが、英語と古文はいずれも『関関同立の〜』というその4大学の各科目の入試傾向を分析したもの。日本史のそれはすでにあるので、これで英国社、準備は整ったというわけだ。もちろん、私のためではなく、みなさんのためですので。

66FK:2009/07/25(土) 16:22:03

痛ましいありさま(2006年 5月13日 土曜)

 未成年者がタバコを吸っている。見ていて痛ましい在りようだ。亡国的な状況だと言うと大げさだろうか。

 以前、東南アジアのルポのようなものをテレビで見ていたとき、もし学校に行っているとしたらまだ小学生くらいの男の子が、得意げにタバコをふかしているシーンがあった。なぜ得意げなのかというと、彼は一人前の大人同様に労働しているからなのだ。彼の働きが一家を支えているからなのだ。
 でもそれがどうしてタバコを吸うことに結びつくのか?

 これは明らかに大人たちによる教育の成果だろう。つまり一人前の男(大人)は、みんなの前で堂々とタバコを吸うものだ、という。



 我が祖国・日本ではどうか。
 町のあちこちで一目で未成年者と分かる若者たちが、やはり得意げにタバコを吸っている。私の職場である高校でもそうだ。
 休憩時間、学校の正門を出たところで生徒たちがタバコの火をつける。慣れたものである。でも何故この場所なのか。
 昨年4月校内・敷地内は全面禁煙となった。そこでその趣旨は尊重しようと言うことなのかも知れない。教師のうるさい注意のせいもあるだろう。
 ある日、私も教師として、大人として喫煙に対する注意をした。するとその時の彼は苦笑しながら「これがないと生きていけない」。

 タバコ嫌いの私が紫煙の場所へ行き、注意をしなければならないというのは辛い。私自身の健康にも良くないのだ。できるなら免除してもらいたい。
 タバコは吸わない私にとってもこのように大きな悩みである。



 為政者からすれば、国家の収入源としてのたばこ税は貴重であろう。しかし税さえ入れば、それがたとえ未成年者からのものであってもかまわない、というのは極めて非倫理的である。実質的にたばこの消費の6割は未成年者によるものとも読んだような気がする(そもそもそんな統計をJTが出すはずがないし)。

 公務員である私も国家のために、税収増には協力しなければならないし、その気もある。しかし、実態が不明だとして未成年者の喫煙の在りように目をつむり、彼らから徴税するというのは感心できない。

 倫理の崩壊はとめどがなくなっているようだ。まずは国家の方に。

67FK:2009/08/14(金) 19:49:45

2009年 8月14日 (金曜) 海軍反省会

 NHKで三夜連続の戦争特集番組があった。「日本海軍400時間の証言」といったもの。
 ここでいう戦争とは、いわゆる太平洋戦争である。今はそのあたまに「アジア」をつけているようだが、番組ではそうはしてなかった。アジアにも目を向けよ、と言う意味では「アジア」を頭に冠することが効果的なのだろうが、反面、それを冠することによって薄められ・消されていくものもあるかもしれない。今は、それはさておいて。
 私は日本史専門だと称しているのだが、実はもっとも時間をかけて勉強したのはこの「太平洋戦争」に関してなのだ。研究の名に値するような勉強ではなく、せいぜい授業で少しその成果を活用することができた程度である。
 そんなわけで「太平洋戦争」に関しては、結構知ってる方だと自負していたのだが、この「海軍反省会」なるものが延々と続けられていたことには驚かされた。海軍軍令部のエリートたちを中心にした反省会(?)であった。知らなかった。これまで陽の目を見なかったからなのではあるが。
 内容的には、その証言の一部を第一回は開戦、第二回は特攻、第三回は戦犯裁判と主にして紹介してあった。
 開戦についてはこれまで読んできていることと、特に違うような新知見はなかった。特攻では、有名な神風特攻隊以前にすでに桜花や回天などが研究開発(?)されていたとのこと。(思うにミッドウェイ海戦で大敗し、連合艦隊が体をなさなくなっていったという経緯からだろう。)
 東京裁判では海軍の嶋田海相たちを救う(?)つまり死刑判決を出させないために偽証したとのことが新知見であった。責任は全部、下が負うという構図である。どこまでいっても陸軍にくらべ海軍は二流というか、二番手というか、なさけないものだと思わせられる。その偽証工作のおかげで陸軍は東条首相以下死刑なのに、そして文民の広田弘毅もそうであるのに、海軍は死刑ゼロ。
 自分の所属する組織を守り、予算を獲得するためにはたとえ国が滅びても、人々が塗炭の苦しみに遭おうと意に介さないという日本人らしい官僚臭ふんぷんたるエリートたちであった。そして残念なことにそのような日本人のありようはいまもまったく変わってないのだ。また同じ事が繰り返されていく。いや、今の今も現に繰り返されていっているのだ。

 こういった番組を授業に取り込んでいくのは、なかなか難しい。しかし、ほんの少しでも彼らの生の声を生徒たちには聞かせてやりたいものだ。

68FK:2009/08/15(土) 21:24:41

2009年 8月15日 (土曜) 1945年のこの日

 空は晴れ渡り、暑さがひとしお身にしむ一日である。蝉の声も拍車をかけている。毎年そうであるように(実際はそうでなくても、そのようなイメージがあるのだ)今年の今日もそうであった。
 今日は「終戦記念日」として各地での催しなどが報道されている。その最たるものが東京の武道館でのセレモニーだ。天皇や首相も参加する。正午にはあの甲子園球場も黙祷をする。そんなシーンがテレビニュースで流れる。――これが毎年繰り返される今日「8月15日」の風景である。
 いまさら、「敗戦記念日」だと言い直す気もしない。私はそんなに好戦的ではない。もし日本がこの戦争に勝っていたなら、などという想像はしたくない。最近観た映画「K−20怪人二十面相伝」のような世界(軍国主義・非民主主義国家)が展開することになるのだから、御免蒙りたい。
 歴史上今次の戦争も、実質的な終戦・敗戦はもっと早い時期になるし、形式的・事務的には9月2日なのだから。そしてその後もシベリアやインドネシア等々、あちこちで戦争を続けることになった日本人は少なくないのだ。
 まだまだ、いろいろ出てくるが、こんなところで。

69FK:2009/08/16(日) 20:50:05

2009年 8月16日 (日曜) ゴミ収集とストライキ

 夕食後、明日は燃えるゴミを出す日ということで、こんなことを考えた。
 都市機能を麻痺させるためには、たった一つこのゴミの収集をストップするだけでオーケーである?! あらためてこの仕事に携わる人たちに感謝、である。
 ところが世の中の人みんなが、そのように感謝の念を持っているかというとそうではないのだ。もう数年前、もっと前かもしれないが、彼らの勤務のありようを批判というか、いちゃもんをつける人たちがいたのである。
 一つ、勤務時間内に風呂に入っている。二つ、職場にトレーニング用の器材を持ち込んで勤務時間内にやっている。三つ、八時間の勤務時間を守っていない、等々。
 一つめについては、ゴミ出しすらしたことのない人の言い分であろう。あのどうしようもない・とてつもない臭い。ほんの数分、ゴミ出しのためにその作業をしただけで、その手にはいつまでも生ゴミなどの臭いが残っている。
 その専門家たちである、いかほどの強烈な臭いにそのからだがさらされていることか。想像に絶するではないか。そのための風呂であり、それは勤務の一環として勤務時間内にあって当然なわけである。これに文句をつける輩がいるのだ!
 二つめは肉体労働そのものの作業のために、日々、身体を鍛えることはその職責を果たすためのきわめて真摯な努力の表れではないか。それを遊びと決めつけ弾劾するわけだ。陰湿ないじめでもある。
 そして三つめは、仕事というのはどんな職種であれ八時間働かねば・働かさねばならないと思いこんでいる不見識な人が少なくないということだ。仕事が終われば、さっさと引き上げるというのが、江戸時代の職人さんの心意気だったという。つまり下手で仕事の遅い人間はいつまでも延々と長時間せざるをえない。その道の上手は、さっさと手際よく、しかもその出来映えも良く仕上げて、早くに仕事を終え、あとは人生を楽しむというわけである。近代社会はそういった価値観を罪悪とし、ひたすら長時間拘束して質の悪い仕事をつづけさせようとするわけだ、しかも低賃金で。
 こうなったらもうストライキしかないだろう。マッカーサー、占領軍による公務員のストライキ権の剥奪は、その後の日本社会のまともな発展を大いに阻害したと言えよう。いまいちどやり直すしかない。
 ゴミ収集にかかわる働き手たちが、一度ストライキをやれば、彼らの職場環境・収入などが改善されることは間違いない。社会的地位も上がることだろう。

70FK:2009/08/17(月) 22:30:45

2009年 8月17日 (月曜) 夏らしい暑さ

 「夏らしい暑さ」、――清々しさを感じる人もいれば、湿気をいっぱい含んだ熱風のイメージの人もあるだろう。今夏は比較的涼しかったということか、今日の暑さは身体にこたえた。珍しくエアコンのお世話にもなった。
 この夏は、また災害の記憶がいくつも残る夏となってしまった。近くでは佐用町の台風被害があり、静岡と沖縄では地震。地球の上に住まわせてもらっている限り、このような自然現象とは上手く付き合っていくしかないのだが、これらによって人が亡くなっていくのはつらいことだ。自然には悪意はないのに、人が亡くなってしまう。とするなら、それは人災であり、私たちの不作為によるものだと言えよう。
 ひるがえって考えてみたら、なんとこの「不作為」がこの日本社会では多いのだろう。いや、もちろん世界的にもさまざまな「不作為」があるのだが、とりあえず今は、私たちのまわりでの「不作為」である。私たちはもう少し想像力をたくましくし、考えなければならないのだと思う。

71FK:2009/08/22(土) 19:42:52

2009年 8月22日 (土曜) 私の夏休み

 今週は私の夏休み、最後のイベントとして火曜から4日間、妙高高原まで行ってました。妙高山・火打山という二つの2400メートル台の山に登ってきたのです。
 今夏は、けっこう天候不順であったにもかかわらず、旅行中・登山中は天候に恵まれ(唯一の例外が秋田駒ヶ岳)、初めての月山・岩手山をはじめとし、二度目になる鳥海山・妙高山・火打山と歩いて来れました。頂上からの展望は、全山が晴れ渡っていないと見えないのですが、さすがにこればかりは、すべて、とはいきませんでした。苦労したあとの頂上からの360度の展望は、本当に僥倖であり、至福のひとときです。そんなことのために命がけで山道を延々と歩いていくなど、ある意味、いかれてる、のかもしれませんが。
 命がけといえば、最後の帰り道・下山道は「燕新道」というのですが、これは滑落の危険と隣り合わせの、本当に恐怖を感じるような道でした。ただ、そんな中にもオアシスともいえる湧き水の出てるところがあり、名付けて「黄金清水(こがねしみず)」といわれているのですが、その美味しさは形容しがたいものがありました。さらに無事、登山口まで下りて振り返ってみますと、その「黄金清水」のあった場所までがあまりに遠く険しい道のりであったことに気付かされ、まさに「黄金」の名に値するのだと知った次第です。
 その夜の赤倉温泉の熱い湯がからだの疲れをとってくれたようで、今日は図書館に出かけ、明日のテニスも予定通り行けそうです(笑) そして明後日からは、私の学校は始まります。

72FK:2009/08/23(日) 21:45:00

2009年 8月23日 (日曜) 群れると....

 群れると、ろくな事はない。
 そのテニスコートは4面あり、私たちはDコートで、午後のABCコート3面は軟式テニスの団体が借り切って私たちの横でやってた次第。その数80人! 主に小学校の教師たちの集団であったようだ。
 いつもは静かな山間のテニスコートが一挙に過密状態。私たちがゲームをしているのにもお構いなく、コートのベースライン後方を横切っていく輩が.....。軟式テニスの人たちのマナーは私には理解できないものがある。西欧を是とし、この極東の野蛮国を非とするものではないが....日本オリジナルの軟式テニスは日本の文化を象徴するもののようだ。要するに群れるとマナーが極端に悪くなるのが日本人!
 夜のニュースではこれまた80人ばかりの団体がハイキング中、一人の70代男性がはぐれてしまい(原因不明)登山道から30メートル転落して死亡したとのこと。なぜ、その一人だけがはぐれてしまったのか。団体の責任者はガイドは、どうしていたのか。その男性には気の毒だが、その団体の誰にも気付かれずに転落していったのかも知れない。
 以上、群れるとろくな事はない、というお話し。

73FK:2009/11/06(金) 22:38:28

2009年11月 6日 (金曜) 『「お通し」はなぜ必ず出るのか』(子安大輔 新潮社 2009年 \700)

 かねがね、どうしてなのかと思っていたことが書かれてあった。以下に抜粋。
 私たちにしても職業選択のヒントになるかも。



 失敗の五つのパターン(その一番の原因は、「安易な出店」...飲食業界は極めて参入障壁が低いのが特徴)

 1.「飲食店に行くのが好きな人」が「飲食店を経営するのが好きな人」とは限らない
 2.「料理の腕がある」から客が来るとは限らない。
 3.「飲食店を出すこと」が目的化していて、ビジネスの視点が欠落している。
 4.飲食店を「金儲けの道具」という視点でしか見ていない。
 5.別事業の片手間では飲食店は経営できない。(第6章 「オーナーの夢だった店」は潰れる)

74FK:2009/12/07(月) 21:48:11

2009年12月 7日 (月曜) 高い学費

 大学の学費の高さにあらためて驚かされた。
 新聞のニュース写真で「ヨーロッパは学費タダ」とのプラカードを見もしたが、授業で中世ヨーロッパの大学の始まりが聖職者養成のためのそれであることを知ると、確かに「タダ」でないとおかしい、ということに気付かされた(早合点かもしれないが)。そう、大学の発祥の趣旨からすれば、基本的に学費をとることはおかしいことなのだろう。そういう文化的伝統がいまだにヨーロッパでは続いているということか。
 何にせよ、商品にして売買するという行為は、さまざまな危険性をはらみ、問題を生じさせる。つまり、学費を払ったからその対価として卒業証書と学歴をよこせ、と言うようなものだ。中身はなくても在籍し、あるいは出席することによって卒業要件を満たしたとして、金で学歴を買うわけだ。
 まさかそんなことが、と思われるような実態になっているのが、現在の進学率99%の高校ではないか。その延長上にある大学も同断かと類推する。
 あと大学の高い学費の内訳をみると、以前に比べ「入学金」の額が上昇しているように思えた。これは邪推であるが、裁判で入学手続きとして一旦、学生から納入されたものでも、その辞退の後は入学金以外のお金は返済しなければならない、という判決が出たせいかと思う。つまり辞退されても返さなくてもいい額を、高くしたのではないか、と。
 お金がない家庭は、大学進学はもう無理な時代になってしまったようだ。でなくてもこれを機に、大学というものを考えなおしてみる機会でもあるといえる。

75FK:2010/01/09(土) 14:51:18

 「聞き上手」が「話し上手」

「あの人は喋り上手だね」という言葉がございますね。あれ、わたしは絶対ウソだと思う。「聞き上手」というのが本当だと思うんですよ。人の話を聞くのがうまい人は、喋らせると上手いんですよ。(P.230 桂 歌丸 『問う力 始まりのコミュニケーション』長田 弘 みすず書房 2009年 \2800)
【対談集の中から。話が上手な人は実は聞き上手だったとは。やや以外の感。しかし、考えてみたらそういうことだろう。まず聞き上手になろう!】

76FK:2010/01/31(日) 21:07:31

コラム「悩みのるつぼ」   (2010年 1月30日 土曜)

 朝日新聞土曜日の別刷りにあるコラム「悩みのるつぼ」がいい。担当者は4名ほどだが、私が愛読しているのは上野千鶴子氏と車谷長吉氏のお二人。彼らが回答者の時だけ読むというわけである。
 どうしてこのようなコラムを読むのか。理由は、他人の悩みについての下世話な感心からでは、もちろんなく、職業的な興味からである。勉強というか、研修(?)になるわけだ。なんとなれば、日々の私の仕事は授業やクラブ・係(教務)を別にすれば、メインは生徒たちの話を聞き、相談に乗り、あるいは語らう(おしゃべり)といったことである。
 そんなときの私のスタンスは、このコラムの回答者、なかでもいまあげたお二人のそれに近似しているようで、親近感を持てるのだ。
 大事なことは、論理的な理屈の面と、ある意味非論理的かも知れないが情の面との兼ね合いである。その両面から共感的に応対していくことがポイントだろう。人間はやっかいなもので、論理的に正しくてもそれで納得し得心し帰って行くわけではない。実はそんなことは、ことさらに言われなくても百も承知なのだ。ではどうすればいいか。その情的な面に寄り添っていくことだ。その気持ちに共感することの大切さである。「共感的理解」などという薄っぺらな言い方は感心しない。
 教師の仕事も、悩みの回答者も、基本には幅広い意味での人間に対する愛情がなければダメだろう。そのうえで初めて、ややきつい言葉・耳に快く響かない言葉も相手に受け容れられていくものだ。またそれは、けっして猫かわいがり的に、なんでもオーケーということでもないし、非指示的カウンセリングのようにひたすら聞いて頷くだけでもない。
 そういえば教師の場合、この非指示的カウンセリングに徹するのは難かしい。
また私はそうすべきではないと思っている。もちろんいずれ生徒たち本人が自覚、つまり自ら覚り、理解できるときが来るのだろうが、限られた時間と空間での生徒とのやりとりにあっては、そんな悠長なことはしていられない。専門家によるカウンセリングのように毎週一回、延々と何年も、というわけにはいかないのだ。だから最低限の指示、つまり指示的カウンセリングも使われるべきだろう。

 カウンセリングは難しいように思われているが、そんな用語のない大昔から先達は若者に対して・悩める者に対してカウンセリングをしてきているのだ。
カウンセリングは科学であり、学問であり、などと祭り上げる必要はない。私たちの人生や生活にとって必要不可欠なものだから、自然に存在してきたものなのだ。それをカウンセリングと称して、専門家の独占するものにしてしまってはいけない。
 生徒たちには、カウンセラーあるいは心理学の勉強が人気があるが、人の心をいじる・いらう仕事というのは危険なことなのだという認識を持っておいてもらいたいものだ。人間が人間を指導したり・治療したりなどという、傲岸不遜な本来してはいけないことをしているのかもしれない、という虞を持っていないといけないと思うのだ。

 これからもこのコラム「悩みのるつぼ」を読んでいきたい。そしていずれ本にまとめられたらいいなと思っている。

77FK:2010/02/15(月) 21:56:27

『予習という病』(高木幹夫+日能研 講談社現代新書 2009年 \720) (2010年 2月 6日 土曜)

 教育関連の本に目が行くのは当然なのだが、この書名も目に飛び込んできた。
 予習をして授業に臨まれると授業をする側もやりにくい。もちろん教科書を読んだくらいで分かるような・答えられるような発問は極力避けるのだが。

 ということで予習をしてくると、授業がつまらなくなるだろう。そんなことを漠然と考えてはいたのだが、この本を読んでやはりそうかと思った次第。
 歴史の勉強は、予習より復習。振り返って考えていくのがいいということだろう。

 予習とは決まった枠のなかでの“予定調和の授業のための作業”。枠そのものを問うことは許されてもいないし、授業のなかで“出る杭”になることはけっして求められていないのです。/もっと悪くいうと、ここでいう「予習」を是とする態度とは、教師サイドから“出来レースの授業”を生徒に強いることです。それは子どもにとってけっしていいことではない(P.15)
【まさに「出来レース」なのだ。たいていの授業はそのように仕組まれ、そのように予定調和的に進み・終了することが期待されているのかも知れない。受ける生徒たちも、それで安心するのだ。「授業らしい授業」を受けた、という安心感。ほんとうの意味で学習になっているのか、実は疑わしいのだが。】

 「できる」には二つの意味があります。/1.決められたことを、スピーディに、かつまちがいなく処理する/2.不測の事態に、いままで学んだことを(最適でなくても)ともかく組み合わせて対応する/予習が有効なのは1.の場合です。(中略)/しかし、2.のときにあっては、予習はかえって有害ですらあるのです。(P.16)
【人間は学習能力を持つがゆえに、すでに学習したことについてはその延長上でしか考えにくくなってしまう。そこから創造的なものは生まれてきにくいだろう。】

 「予習病」を定義/1.すでに定められたカリキュラム、学んできたことに固執し、未知の事柄を「まだ教わっていない」「やったことがない」がゆえに無視、否定する精神の傾向。2.現状に疑問をもたず、あたりまえと思うことだけを信じ、自己中心的世界のなかで満足する精神の傾向。さまざまな合併症に注意が必要。(P.18)
【その通りだろう。一度、すでに知ったものに対して新鮮さはない。もうそれだけで授業への気乗りがしなくなるのが当然だろう。予習してしまうと、授業にのぞむときのワクワク感もなくなるし、授業もつまらなくなる。また、毎日忙しい子どもたちに予習などしてる時間も、そもそもない。なら、授業というのは予習なしで受けるのが正解だということになるか。】

 日本の初等中等教育の性格/完結教育/受験準備教育/進学準備教育(P.48)

 私なりに日本の学校の問題点を四点にまとめてみます。/1.学校の授業にはまったく脈絡がない/2.いったんチャイムが鳴ると、子ども達に、それまでやっていたことをすべて中止させ、ただちに次の授業の準備をさせる。チャイムは過去も未来も打ち壊し、どの時間も均一なものにしてしまう/3.これ(通知表)に翻弄される子ども達は気の毒としか言いようがない/そもそもテストは、なんのために実施するのか。学校の教育活動では選抜機能をもったテストは無用です。/4.良い子とは教師が示した考えにほとんど抵抗せず、適度の熱意をもって、それを受け入れる子ども達のことである(P.92)
【たしかにオートメーションの工場ではないが、子どもたちはあたかもコンベアの流れに乗せられて、ただ流されていくだけの存在にされているのかもしれない。面白くないのも当然だ。学校嫌いが生じても無理はない。】

 ノートに写すための「板書」から、子どもが能動的に学ぶ「板書」スタイル、すなわち子どもが自分で知識を関連づけてテキストに書き込めるような「板書」に/マップ型の板書とマッピング型の板書(P.199)
【まだまだ板書については、工夫をしなければいけないなと痛感。】

 「勉強」に見返りを求めない。思ったとおりの見返りがなくても、それはムダとは思わないようにすればいい。実際、学ぶ上ではムダなんてない。(P.220)
【勉強に限らず、この世に生きているかぎりムダなものはない。無用の用、もある。しかし、なかなかそうは思えないのが人間である。】

 【未知への準備】予測できないものに出会っても、しっかりと向き合い、必要な対応ができること。また、新しい未来をつくるために、自分ができること、今はできないことをいつも確認しておくこと。(P.222)
【これが著者の最後のメッセージ。たしかに、「予習という病」にみんな罹っているのかもしれない。】

78FK:2010/02/26(金) 20:54:05

2010年 2月26日 (金曜) 卒業

 卒業シーズンである。ほとんどの人たち・生徒たちにすれば、卒業というのは人生のうちにそう何回もあるものではない。だからその一回一回に、思い入れがあり、思い出となっていくのであろう。

 それにひきかえ、私のような職業のものは損である(?!)
 自分のそれは5回ほどしかないが、教師となってからは毎年毎年、しかも今の勤務校では年二回卒業式があるといった具合で、いやというほど経験してきているわけだ。

 卒業文集にも毎年、寄稿を求められるが、そういつもいつも新鮮に新しい文章が書けるわけではない。この数年は現勤務校でのそれだが、ほぼ同じような趣旨で書いている。一年経ったくらいで、そうころころと考え方が変わるわけでもないので、これでよしとしている。(ということで、時間がなかったせいもあるが、今回は二年連続同じものにしてしまった。)

 私たちの職業というのはある意味しあわせなものだ。成長途上の青少年たちと日々、授業であるいは放課後の雑談で、この時にしかできない時間を無駄に(?)過ごし、笑い興じることができるのだ。そんないい時を過ごしたならば、いや、ならばこそ卒業を起点に一度これまでのことをリセットして、新たな時間・空間を求めて出発していくべきだろう。これまでの良い思い出は、これからの人生への自信と糧になっていくことだろうから。さあ、いざ出発!

 いつかまた、ふと人生で立ち止まるときがあったら、こんな時間と空間、そしてそこに一緒に話した人たちがいたことを思い出してもらうといい。
 ふっとメールをしてもいい。時間があれば出会って食事をしたり、飲んだりしてもいい。折角の出会いがあったのなら、そうやすやすと捨て去ることはないだろう。――そんな機会がある人生にしてもらいたいなと。

79FK:2010/03/17(水) 19:45:53
 
「定時制高志願、不況で急増」(2010年 3月15日 月曜)

 「定時制高志願、不況で急増」、――今日の朝日新聞・朝刊、社会面での見出し。
 これは昨春の高校入試の際にも大阪の定時制高校のことで話題にはなっていた。今回の記事は、「機会拡充、文科省通知」とあるように全都道府県教委にこの10日付で次のような通知を出していたとの記事である。
 通知では、各学校の定員に空きがあるのに入試の機会が奪われることのないよう対応策を求める、ものとのこと(同、記事による)。

 このような通知だとしたら、私はなかなか微妙な表現だなとの感想を持つ。文字面通りに解釈すれば、定員にまだ余裕があるのに学校のシステムとして(おそらく再度、もしくは再々度の)入試の機会を設けないのは如何なものか、ということ。つまり定員を満たすまで、あるいは希望者がいるかぎりとことん入試の機会を設けて、定時制高校志願者を受け入れていくべきだ、ということか。

 私の勤務する県でも定時制高校の場合、三月中に一次入試、四月初旬に二次入試が例年行われている。ただそれでも定員を満たさない場合、四月中に再々度の入試を行うことも可能としている。実際はまずやらないのだが。
 つまり文科省の通知内容を文字通り解釈すれば、私の県の場合はそのように実施済みともいえる。推測だが、他の多くの県でも同様だと思う。

 では、何が問題であり、何を問題としようとしているのかだ。さらに同記事をを読み進めると、昨春の定時制高校志願者で不合格となった約1200名のうち、三分の二の志願者が「定員内不合格」であったという(朝日新聞社の調査)。

 つまり志願者の三分の一は定員外のための不合格であり、これは致し方ないこととして現時点では許容の範囲内であろう。ところが残り三分の二は定員内にもかかわらず不合格であったという。つまり入試の成績により選別され、学力的に高校入学基準に達していないとされ、不合格になったということだろう。

 この後者の「定員内不合格」も実は合法的(?)であり、このことについては文科省も表だってどうのこうのとは言えないわけだ。そこで先ほどのような通知ができることの最大値だったということではないか。

 この「定員内不合格」については、これまで高校全入の流れのなかでややもすれば軽視されてきた問題が伏在している。中学までと違い高校は、そこでの学習に堪える者でないと入学できないという一定の基準があるわけだ。

 現在もそれを堅持するところは結果として「定員内不合格」とするだろう。逆にもはやそういう時代は終わったとして、学力の如何に関わらず「定員内」ならすべて合格とし、入学させるところも少なくないと思う。私の感じるところ本県の場合、理念的には前者であるが、現実的にはまず「定員内不合格」を出していないように思う。なんといってもまだまだ、特に夜間定時制高校は定員割れの現状であるからだ。

 ことは定時制高校だけの問題ではなく、全日制も含め、あらためて高校入学資格・基準というもの、あるいは中学卒業後の進路がほぼ高校へ行くしかないという現状を再考しなければならないだろう。

80YO:2010/04/19(月) 17:13:31
最高の学校に入れました。
担任の先生とのトラブルから中学校二年間(中一の終わり〜卒業)不登校を
してて人が怖くなり、落ち込んで生きてるのが嫌になっていたあの頃の自分に
耐えてくれてありがとうと言ってやりたい。

81FK:2010/04/19(月) 21:06:43

2010年 4月19日 (月曜) 最高の学校!

 最高の学校 −−それは良かったですね。そんな風に思えるとは、とても幸せなことだと思います。
 人は人によって傷つきもし、また立ち直りもします。人によって不幸せにもなり、再び人によって幸せを感じることもできるものでしょう。
 人の善意・好意を信じて、あるいはそのような人との出会いを求めてこれからも積極的に行動していってください。手始めにまずは私とでもおしゃべりを。
 放課後は職員室よりも準備室に居るようにしていますので、また立ち寄ってください。

82YO:2010/04/28(水) 20:55:18
こんばんは。 毎日が楽しくてしょうがない「YO」です。
明後日は待ちに待った校外学習(遠足)ですね。もー楽しみなんですよー!
それが終わればゴールデンウィーク。でも今は学校が楽しいので五日も
休むのはちょっと寂しいかな、です。 小・中は休みダーって喜んでたのに(笑)

83FK:2010/04/28(水) 21:55:17
 何かしら初々しい感じで、いいですね! あの中学時代があって今があるということでしょうか。あとまわりの人たちもいいのでしょうね。友達や先生方も(私も?)
 遠足の話をまた聞かせてください。もしよければ準備室にもおしゃべりに来てください。

84YO:2010/05/05(水) 16:43:17
こんにちは 明日から学校なのでたのしみです。
ちなみに明日(現代社会)があります。

85FK:2010/05/05(水) 18:03:28

2010年 5月 5日 (水曜) 連休明け

 今テニスから帰ってきました。1-4日は近所を歩く程度でしたが、今日は疲れました。明日の授業はどうでしよう。そもそも、みんな来るかな? 来れるかな? 連休明けがまず第一関門ですからね。
 では明日の授業では、みんなの連休の過ごし方を紹介してもらいましょうか。

86FK:2010/05/11(火) 21:20:13

2010年 5月11日 (火曜) 『教育幻想』(菅野仁 ちくまプリマー新書 2010年 \780)

 「産業的身体」の核としては、「時間」と「規律」(P.36)【考えてみればすぐ分かることだ。時間とはまず遅刻をしないこと。そして時間いっぱい働くことは最低限のこと。サービス残業も当然含まれてこよう。規律は消極的には人の和を乱さないことであり、より積極的には付き合いを良くしみんなと慣れ親しむこと。つまり労務管理をしやすくするための相互監視でもあるか。】

 学校でわれわれが当たり前だと思っている「時間厳守」「忘れ物をしない」「私語は禁止」「気分が乗らないからといって休むな」ということは、みんな近代の産業社会の担い手として、われわれ国民に要求された身体性だったのです。そしてそうした身体の基礎を作り上げるのが、学校という訓育の場だったということです。(P.39)
【だから真面目にこれらの指導をすることが、すなわちお国のためであり、会社のためなのである。私たち教師の責務はこういった従順な生徒を育成し産業社会に投入することなのだ。人間性の涵養などは不要なのだ。】

 学校は「すばらしい人間を育てる場」ではない/結局、学校というところは、その時々の「社会に適応できる人」「社会に有用な人」を育成することが第一の目的である(P.41)
【同上。公教育は生徒のためのものではなく、国家・社会・会社のためなのだと認識しておくことが大切だ。そのあとに個人の自己実現とか幸福な家庭の創造のためとかといったものが出てくるのだ。】

87FK:2010/07/20(火) 20:28:01

2010年 7月20日 (火曜) カント

 今日、図書選定委員会があって、今回はすべて生徒たちのリクエストということでリストが配られた。その中にカントの『純粋理性批判』が入っていた。
 哲学書は概して難解だが(翻訳のせいもあるが)、なかでもカントはなかなか手を付けにくいものの一つだ。それをリクエストしてきていたということで、感心した次第。
 若いうちは分かろうと分かるまいと、ともかくがむしゃらにどんな本でも、どんなに難解と言われていようと気にすることなく挑戦することが大切だ。読んでみて、やはり分からないな、と分かればそれはそれでいいのだから。
 そして何年か、何十年か後に再会できれば、またそれは想像するだけでも楽しいことではないか。見栄はってでも、いいかっこしてでもいいから、いろんな本を読んでみたらいいと思う。まずは図書室に足を運ぶことだろう。そこは絶好の場所なのだから。

88FK:2010/08/09(月) 21:36:26

2010年 8月 9日 (月曜)
 若いときには歳をとるというのがどんなことだか実感できない。(日経新聞 2010年 8月 1日付 読書欄 山田正紀)

 何気ない言葉だが、今の私はそれを実感できる、あらゆる物事について。
 さて氏は続いて「たとえば歳をとってからの読書がどんなものであるのか想像がつかないのだ」と。つまり老後の楽しみとしての読書のための本を(若いときには読まずに)とっておく、と宣言したとのこと。そして今それが大間違いであったことに気付かされたという次第である。読み始めるとすぐに眠くなるというのだ。「60歳になったらしっかり読みはじめるのだ、と――。が、それがどんなに甘い想像にすぎなかったか、60歳を迎えたいま、いやというほど思い知らされることになった。」
 私も同様な考え方をしていたので、ショックを受けている。そう、思いの外、読めないのだ。折角(?)、老後の楽しみに読まずにおいた本がいっぱいあるというのに。若いときにもっと読んでおけばという悔恨の情、切々といったところである。しかし、仕方がない。いまからあらためて読んでいくしか。この歳にしてようやく味わうことのできるものなのだから、とやせ我慢して。

89FK:2010/10/14(木) 22:55:28

2010年10月13日 (水曜) ハーバード大学・サンデル教授の講義

 今年の春先からブームになっている。NHKで放映されたことをきっかけにし、ついに今夏、来日して日本でも講義がなされ、これまた先日、放映された。
 まずアメリカの大学ではどのような講義がなされているのか、という興味から私も観てみた。1000人もの学生を前にしてのマイクでの講義は、日本のマスプロ大学を知っているものからしたら、さほど奇異なものではない。
 しかし、どうなのだろう。アメリカでは、というか、このハーバード大学でもこんな大人数に講義はないようなのだ。まずその超人気ぶりに驚かされるといったところか。
 さらに日本の新聞記事を見ていると、その講義の仕方に驚く人が少なくないようだ。要するに学生に質問し、答えを発言させて、さらに賛成意見・反対意見を求め、ディスカッションしていくわけだ。私からすれば、えらそうだが、普段の私の授業は生徒たちとのやりとりで進行しているので、そんなに奇異の感を持つことはなかった。むしろ、やはりこのような対話式という、ソクラテスの産婆術のようなやり方は不易不変のまっとうなやり方なのだと思う。
 日本の学校の主な授業・講義のやり方は、まず教師・教授による(一方的な)説明に終始するものだろう。大学ではさすがに整然とした板書はしてくれないかもしれないが、高校以下ではたいがい板書されるものだ。生徒・学生はひたすら聞き、ひたすら書き写すことで勉強したつもりになっているわけだ。
 それが悪いとはいわないが、これしかやり方がないというのは悲しい。折角、いろんな生徒・学生が集まってきているのだから、意見交換をし、お互いに影響し合うということがあっていいはずだ。いやむしろ、そちらの方が、より学習効果があるのではないだろうか。サンデル教授の講義は、そんなことをあらためて認識させるものであるといえよう。
 さて講義内容だが、サンデル教授の講義は「政治哲学」ということなので、知を愛するという純粋な哲学ではない。功利主義といった言葉があたまに浮かんでくる。まともに全部を熱心に聞いたわけではないので即断できないが、論の進め方に、つまり前提に、私などからしたら、そもそもそんな前提はないだろうと思わせられるようなテーマが出てきている。実に実利的なものの考え方をするものだと思う。

 私はそんな議論も必要だとは思うが、あんまり楽しいとも思わないし、進んでやりたいとも思わない。たとえ空理空論といわれようと、学生時代には純粋に哲学する・物事を考えていくほうがいいのだと思う。

 とまれ、大きな影響を日本の教育界に与えることになったサンデル教授の講義は、この秋もまだ続いて放映されるようである。

90FK:2010/10/19(火) 21:15:31

2010年10月19日 (火曜) 「一番いい材料」

 五郎次は常に勘一に一番いい材料を与えた。悪い材料で覚えても腕はよくならないというのが五郎次の考えだった。(『影法師』百田尚樹 講談社 2010年 \1600 P.26)
 これは竹籤(たけひご)の職人がその技術を教えようとしているシーンである。まさに教育というのはそういうことだろう。「一番いい材料」を、だ。だからお金も掛かるのだ。それを掛けようとしない今の日本の教育はやはり衰退していくしかないだろう。もしくはいびつな発達をしていくか。ひるがえって私もその授業で、できるだけ良い材料を探し出して提供していくことが大事だということだ。

91FK:2010/11/15(月) 16:52:43

2010年11月15日 (月曜) [Dr.コトー診療所]

 十月末以来ほぼ毎日というか、毎夜このDVDを観てきた。全20枚。今日、最後となった2006年のシリーズのメイキングを観て終了。
 第二シリーズは2003年の第一シリーズに比べやや重い内容であった。そして、ある意味未完のままで終わっている。というか、原作の漫画は今もゆっくりのようだが連載が続いているようだ。コミックではいま第25巻までが発売されている。

 あらためてドラマ作りの大変さをそのメイキングフィルムから知ることができる。映画ならまだ、二時間くらいで終わってしまうのだが、連続ドラマは毎回47分ぐらいとはいえ、これが少なくとも11回続くわけで、その制作はなかなかに大変なもののようだ。ワンクール撮るのに通常でも三ヶ月はかかるとのこと。この[Dr.コトー診療所]はさらにかかっていると。

 医者という仕事がこの日本社会ではもてはやされているわけだが、それはなぜなのか? 医者になるためにはまず高額の授業料が必要だということ、そしてそれが用意できない場合、いくら能力がある人でもその進路・職業をあきらめざるをえないということ。そんなところにあらためて疑問と問題を感じる。

 この作品や[パッチアダムス]「ブラックジャック]などの影響で医者を志した人も少なくないだろう。しかしそのまえに立ちはだかる壁は、ある意味特殊な受験学力を必要とする医科大学への入学、そして一般には決して安価とはいえない授業料である。

 たしかに医者の養成のためには多額の金を必要とするようだ。しかし、受益者負担でやろうとすれば無理が生じる。受益者負担であるがため、その後の職業生活では十二分な報酬があるものにしないと、とても元はとれないということになるのだ。そう考えてくるといまの日本の制度は決してほめられたものではないと私は思う。

 本来、医者も職人であり、それ以上でもそれ以下でもないのだ。感謝されることはあっても、それは他の通常の職業と同じレベルのものであるべきなのだ。
それを何か特別視してしまうところに、医者を偶像化し、神聖視する悪弊が生まれてしまう素地があるのだ。

 さらにもう一面、忘れてならないのは、そしてある種の寛容性が要請されるのはミスの問題である。どんな仕事にもミスはつきものであるが、あまりに医者を持ち上げてしまうとその誤謬を許さないものとなる。非寛容的な攻撃の前に、医者たちが誤診や治療ミスを隠したり、日常的に無謬性の幻想をばらまいたとしてもそれは一概に非難されるものではないかもしれない。週刊誌などで特集される「名医」の紹介記事などは、複雑な私たちの心理の隙間に忍び入ってくる。

 TVドラマというのは、それを観たいと思う視聴者の気持ちをくみとって作られるものだろう。それはスポンサーを獲得するためでもある。そして、あらためてTVドラマでの主人公をあげてみると、職業としては警察官・医者・教師が頻出しているような気がする。それだけ人々の関心が高い職務内容を持つということであり、秘密めいた隠された何かがあるような世界なのだろう。
 また、理想的な彼らの姿を描くことにより、現状の悲しむべき状況を批判し自らを慰謝するためでもあるかもしれない。これらドラマの隆盛に、私は何とも複雑な気持ちになる。

93FK:2010/12/07(火) 23:00:25

2010年12月 7日 (火曜) 「ここはブラジルだ。ポルトガル語で話せ」

[ハルとナツ]第二話を観る。去るも地獄残るも地獄というが、まさにそのような過酷な現実だ。北海道とブラジル。
 そんな中でこんな印象的な、しかし悲劇的なシーンがあった。ハルが駅留めになっているはずの手紙を遠路はるばる取りに行ったシーンでブラジル人駅員が言う。「ここはブラジルだ。ポルトガル語で話せ」。
 かつて私もフランスへ行ったとき、地下鉄で切符を買う際も同様の反応を駅員に見せつけられた。「ここはフランスだ。フランス語で話せ」、と。
 日本人くらいかもしれない、外国語で話しかけられても「ここは日本だ。日本語で話せ」、と言わないのは。お人好しというべきか、優しいというべきか。しかしなんと言われようと、国際的ではないと言われようと、日本のやり方のほうがいいと思う。

94FK:2011/03/14(月) 21:37:10

2011年 3月14日 (月曜) 東日本大震災

 3階の教科準備室にいた。教材用のビデオをチェックしていたとき、腰掛けている椅子が少し横揺れするのでおかしいなと思う。時刻は2時50分前後(11日)。横揺れがやたら長く感じられたが、それでも地震とは思わずテレビ画面を見つづけていたら、同僚教師がやってきて地震だと教えてくれた。さらに別の教師が本館と教室棟との境目にひび割れが入っていると教えてくれた。(東京から西に500キロほど離れた地であるにもかかわらず。)
 こんなふうにしてこの超巨大地震が東日本を襲ってきたのだった。その後、すぐにテレビ画面は地震関連のニュースに切り替わり、以後延々とその現実を私たちに伝え続けることになった。
 胸が詰まり、目頭が熱くなり、うっかりすると嗚咽になってしまう。――そんな時間が以後、今に到るまで続いている。テレビのスイッチを切るしか、それから逃れるすべがない。目をそらしてはいけない、と分かってはいても、あまりの辛さ悲しさに、なすすべがない。
 しかし、今はこの過酷な現実を見つづけるしかない。逃げることなくしっかりと見つづける。そして不幸にして亡くなられた方々を悼むこと。深く深く悼むこと、これしかないだろう。遠く離れた私にできること、それは見守ること、悼むこと。いまはこれしかないだろう。
 春、四月。新しい生徒を迎えて授業が始まったとき、今のこの思いを、心の痛みを共にしたい。そして、そこから学ぶべきこと・考えなければならないことを授業のなかで明らかにしていきたい。この日本という歴史的現実の中で、ともによりよく生きていくために。

95FK:2011/10/22(土) 22:27:56

2011年10月11日 (火曜) 武田邦彦氏のブログから
 【深く考える】教育問題(試験と合格)
 しばらく読んでいなかったので、武田邦彦氏のブログ(http://takedanet.com/)をまとめて読み、聞いた。そのなかで「【深く考える】教育問題(試験と合格)」(2011年10月6日付)は同じ教師として私も共感するところであった。
 つまり授業(講義)はその中味をそれぞれの生徒(学生)が勉強することが大事なのであって、そのことから必然的に試験や成績付けということが出てくるわけではないということ。
 私たちは自らの小学校時代以来ずっと常に試験というものが行われ受けさせられてきたために、基本的な疑問を持つ機会がなかった。つまり本来、勉強ということに試験というのは必須のものではないということだ。
 武田氏は試験はしないとのこと、あるいは成績も付けないようなことを述べており、その理由を説明している。
 試験をしなくてもその生徒がどの程度勉強し、理解できたかは見ていればわかるものだ。授業中のこちらを見る視線や行動を見ていれば分かる。だからそこで終わっていい。試験をすることはないのだ。ではなぜ私は試験をするのか。
(中間・期末と二回スケジュール的には設定されているが、私は中間考査だけ実施している。)
 簡単に理由を言えば、今の私は制度としての成績付けが仕事として要求されているので、ということだ。大学や専門学校進学用あるいは就職用に「調査書」が必要とされ、そこでは修得単位数とその成績(5段階)が記載される。今のシステムではどうしても付ける必要があるのだ。
 試験をすること・成績を付けることというのは、本来、勉強や学問の本質からはほど遠い作業なのだ。社会システムの便宜性のためにしているということだ。そしてそれが本当の勉強の楽しさ面白さからかけ離れた作業を生徒たちに強い、彼らをスポイルさせていく結果になるのだ。
 あともう一つ出席を取るということ、一定数の出席を義務づけるというのも弊害が大きい。出席さえすれば、中味の勉強をしなくてもオーケーという、ところてん方式がまかり通ってしまうのだ。
 日本の教育を実質あるものにするためにも、これら出席・試験・成績などなくしてしまうのが結構、良い方法かもしれないと思う。

96渦森六郎:2011/10/23(日) 01:24:32
テストでひいひい言わされている(笑)身としてはおおむね賛成ですが、語学なんかはある程度テストをしてもらったほうが、僕は身につきました。基本的な単語や文法は、「覚えるしかない」ということもありますので。
ようは、テストの「使い時」が大事なのでは。テスト偏重ではもちろんいけませんが(点取りが目的化してしまいますので)、ではテストは全て無くしてしまえば万事解決というほど教育は単純なものでもない気がします。

97FK:2011/10/25(火) 09:03:55

2011年10月25日 (火曜) テスト

 語学を例にテストの効用があるとのこと。たしかにそれは否定できませんが、どちらかというとそれは「テスト」ではなく、「プラクティス」つまり練習ではないでしょうか。
 私が言いたいのは、テストの目的は評価することが主となり(評価自体を否定はしませんが、今は本人の習得の度合いをチェックするというのではなく、序列を付けるためです)、本来的なエデュケートとしての教育にはなじまないもの、場合によっては阻害するものだということです。
 社会の風潮としてテストは市民権を得ているようですが、もう一度考えてみる必要があるでしょう。


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